池波正太郎著『男の系譜〔全〕』
(立川書房)1984年7月10日 第6刷発行

改 訂 版 2021.12.26 改訂

織田信長
01父、信秀の位牌に、灰をつかんで投げつけた(P.10) 02始めから天下をとろう、と考えていたわけじゃない(P.11) 03信長の地ならしがなかったら、秀吉も家康もなかった(P.12) 04"啼かぬなら殺してしまえ"実際そいう人だったろう(P.13)
05どちらかといえば 色を好まなかった英雄だ(P.14) 06死のう一定つねにその覚悟が信長にはあった(P.15) 07天性、政治に対する感覚が鋭敏であったとはいえる(P.15) 08信長の、家康への信頼これは絶対的なものだった(P.17)
09信長偉いのは、決して自分の伜を甘やかさなかったこと(P.18) 10光秀自身すら「本能寺の変」だったから(P.19) 11信長四十八年間の生涯はそのまま壮大なロマンだ(P.20) 12******

渡辺勘兵衛

01槍の勘兵衛。もし、この豪傑がせめてもう十年早く生まれていたら(P.24) 02亡父ゆずりの大身の槍は備前祐定の作、身の長さはニ尺五寸弱、柄は五尺七寸余(P.26) 03本能寺の変。明智光秀の三日天下。そして始まる勘兵衛の流転。やがて秀吉の時代に。(P.27) 04何に一つゆるがせにできない戦国時代と、いま「われわれの時代」とはこうも違う(P.28)
05かつての主人と家来の関係には、きわめて人間的な要素があった。現在以上に(P.30) 06男は、成長とともに顔が変わる、という。男の顔を変える成長とは(P.32) 07「うち」のこともきちんとできないで、一体そとで何ができるか。男も……女も(P.33) 08男女共学、それが大体間違いのもとだ。せめて小学校だけは男と女を別にせよ(P.34)
09「戦前」は十把ひとからげで否定される。が、いまはもっと恐ろしい時代ではないか(P.35) 10プロセスを通じて自分を鍛えようとしない……だから己を賭ける道も見つからない(P.36) 11「努力」では実らなったら苦痛になる「楽しみ」として、仕事に身銭を切れ(P.37) 12******

豊臣秀吉

01秀吉の出生は、結局、謎であるとしかいいようがない(P.42) 02天性、秀吉は人をひつけずにはおかない人物であった(P.43) 03サルよ、禿ネズミよといわれながら(P.45) 04人間は五、六歳までにきまる。秀吉はおっかさんのおかげで(P.47)
05士民の子も大金持も、生活の内容は大差なかったから(P.48) 06始めから天下を望んだやつはみんな駄目になってしまう(P.49) 07男というものは挫折するたびに大きくなってゆくものだ(P.50) 08政治家としては秀吉より家康のほうが一枚上だが(P.52)
09もし、秀吉に跡継ぎがいたら歴史は一変していたろう(P.53) 10人間、やることは必然的にその師匠に似てくるものです(P.54) 11死にざまを見ればその人間がわかる(P.56) 12芸術文化の大パトロンとして秀吉の名は永遠不滅である(P.57)

加藤清正

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01清正というと、ひげの豪傑というイメージが強いが(P.76) 02大した立派な女性だったらしい。清正のおっ母さんという人は(P.77) 03天正九年、清正二十歳の初陣以後、秀吉に従って(P.78) 04清正、朝鮮に武勇を轟かす。しかし、秀吉の怒りを買って(P.80)
05地震加藤の一幕があって、徳川家康のとりなしがあって(P.81) 06秀吉没後の清正は、もはや単なる武将ではない(P.82) 07家康に口実をあたえてはならない。豊臣家を守る道はただ一つ、と(P.84) 08豪勇の武将から深慮の大政治家へ。その清正に比べて、ちかごろの(P.85)
09清正の豊臣家への忠誠心は、むしろ家康のほうが知っていた(P.86) 10史上随一の土木と建築の名人、それは、加藤清正(P.88) 11熊本城。実戦のためとしてこれ以上の城は他にない(P.89) 12慶長十六年三月二十八日。清正の望み、ついに叶うか(P.90)
13"二条城の会見”からわずか三月……六月二十四日、加藤清正死す(P.92) 14****** 15****** 16******

徳川家康

01はっきりしたことはわからないが、乞食坊主が家康の先祖だという説も(P.96) 02三歳で生みの母と別れ、六歳で人質。八歳にして父が家来に殺された(P.97) 03"他人の飯"を食って育った家康は、その代り忠誠無類の家臣団を得た(P.98) 04家康の最初の妻は十歳上の姉女房。今川義元に押しつけられて(P.99)
05温かい"家庭の味"を知ってたら、家康はもっと違った人間になったろう(P.100) 06人間、大事なのは五、六歳から十二歳。現代の母親を見ていると恐ろしくなる(P.101) 07家康は、自分が偉くなってからでも「家来たちに温かく」はない(P.102) 08大御所と呼ばれるようになっても、自分は質素に質素にしていた家康(P.103)
09上に立つ人間はいかにあるべきか松竹新喜劇の座長・藤山寛美の例(P.104) 10家康自身は早々隠居し二代秀忠へ、しかし実権は死ぬまで放さなかった(P.105) 11二代将軍秀忠、堅い一方のつまらぬ男。しかし、おとなしそうに見えて(P.106) 12あの時代は男が威張っていた、というけれども(P.108)
13徳川幕府が十五代も続いたというのは、やっぱりそれだけの金があったから(P.108) 14元和二年四月十四日駿府に死す。ときに徳川家康七十五歳(P.109) 15老獪な政治家・狸親爺のイメージだけがあまりにも強いが、大変な豪傑だった。(P.110) 16******

番外・戦国の女たち

01血で血を洗う戦国の乱世に(P.114) 02"信長の妹、お市の方(P.115) 03戦国の女は気が昂っていた(P.116) 04お市の方の三人の娘たち(P.118)
05"しあわせであったかも知れないす(P.120) 06淀君と寧々(P.121) 07夫・忠興を狂気に走らせた(P.122) 08戦国時代に微温湯(P.123)

荒木又右衛門

01家光が三代将軍になれたのは春日局のおかげと俗にいうけれども(P.128) 02寛永十二年、鎖国令いよいよ強化。幕府は宗教になを借りた侵略を恐れた(P.129) 03寛永十四年「島原の乱」起こる。民兵に手こずった幕府軍のだらしさな(P.131) 04映画〔八甲山〕に観るかつての軍人は頼もしいね。それが今では(P.132)
05参勤交代を法制化し、盛んに国替えをし、幕府は支配権の強化に万全を期した(P.134) 06「身内優遇」という感じがする現代。しかし、それでは指導者とはいえない(P.135) 07不満のやり場がなかった旗本連中。そのはけ口が大名へのいやがらせとなって( P.136) 08******

徳川綱吉

01江戸の「元禄」も「昭和元禄」も、つまりは戦後の繁栄ということだ(P.176) 02五代将軍・綱吉の生母・桂昌院。もとはお玉といって魚屋の娘(P.177) 03学問だけが趣味で学問に淫した綱吉。それというのも母親の育てかたが(P.179) 04綱吉が五代将軍になれたのは、ひとえに老中・堀田正俊のおかげで(P.180)
05貞享元年八月二十八日、江戸城中にて大老・堀田正俊・斬殺さる(P.182) 06齢を取ってから、やったことないことを始めると、これはどうにもならない(P.183) 07歴史に残る悪令「生類憐みの令」も、もとをただせば綱吉のエゴイズム(P.185) 08戦争があるとないとではこうも違う。江戸に蕎麦屋ができ、茶漬屋ができ(P.187)
09なんでも覚えるととどめがなくなる綱吉。その「女狂い」のすさまじさときたら……(P.189~) 10綱吉は六十五歳まで生きた。その血筋をたぐって行くと、なんと……(P.191) 11****** 12******

井伊直弼

01長野主膳に出合ったときから、不思議な宿命に行き当たる。(P.260) 02直弼は水戸藩を恐れた。何せ十四代将軍で争った仲だから(P.261) 03第二次大戦で本当に戦ったのは、天皇しかいない。(P.264) 04桜田門外の変もかなり疑問の事件だ。資料に表われない裏側の事情があったはず(P.265)
05昔の大名というのは、政治でも、座興にしても真剣にやった(P.267) 06****** 07****** 08******

徳川家茂

01和宮降嫁の条件としてあった攘夷は、始めから空手形だった。(P.270) 02公武合体も、孝明天皇と将軍家茂の死で四年しか続かなかった。(P.271) 03討幕の主流は薩・長・土・肥。みんな金のある藩だった (P.272) 04幕府に対する長州藩の恨みは関ケ原の怨念だった(P.273)
05孝明天皇はほぼ暗殺された。誰が犯人かははっきりしないが……(P.275) 06十四代将軍家茂の死で徳川幕府は滅びたといえる (P.277) 07****** 08******

松平容保

01徳川幕府の屋台骨がゆるんでも会津藩には藩祖以来の伝統が受け継がれてきた(P.280) 02松平容保が京都守護職の役についたのは欲得ずくでなく、義に生きるため……(P.281) 03「反対のための反対」という風潮は幕末維新から……(P.282) 04天皇が自分の着ているものを最初にあげたのが容保だった。(P.284)
05容保の配下にあって臨時警察になったのがすなわち新選組…… (P.286) 06新選組の母体は清河八郎の野心から出たもの(P.287) 07薩長連合ができると会津藩は「朝敵」の汚名を着せられた(P.289) 08明治元年九月二十三日。ついに松平容保は降伏(P.291)

西郷隆盛

01本来、詩人であり教育者である男が歴史の舞台に登場せざるを得なかった(P.294) 02派閥争いにくれた新政府に西郷は大きな不満を抱いた(P.295) 03成り上がりのような思想を西郷は持たなかった。それだけに絶望の度も(P.296) 04征韓論の対立で西郷は新政府と袂を分つ(P.297)
05政治家の感覚としては大久保利通の方が西郷より上(P.299) 06西郷を敬慕する私学校党の生徒達の蜂起に西郷は従わざるを得なかった(P.300) 07昔の政治家は教養があった。それにひかえ今の政治家は(P.302) 08******


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『男の系譜[全]』(立風書房)(1982年4月10日 初版発行)

目次

Ⅰ 戦国篇 織田信長 渡辺堪兵衛 豊臣秀吉 真田幸村 加藤清正 徳川家康 番外・戦国の女たち

Ⅱ 江戸篇 荒木叉右衛門 幡随院長兵衛 徳川綱吉 浅野内匠頭 大石内蔵助 徳川吉宗

Ⅲ 幕末維新篇 井伊直弼 徳川家茂 松平容保 西郷隆盛 編者あとがき

 以上の内容のものです。


織田信長


父、信秀の位牌に、
灰をつかんで投げつけた……
 P.10

 桶狭間の戦いに敦盛の舞いを舞いながら出て行ったという、あのとき、信長はまだ二十五、六ですね。もちろん今の二十五、六とは違うけれども。あれは何といったか……そう……。

   人間五十年

   化転のうちをくらぶれば

   夢まぼろしのごとくなり

   一度生を得て

   滅せぬもののあるべきか

 この人間五十年うんぬんに信長の信念というか、生き方というか、それが端的に出ているという、まあその通りといっていいでしょうね。信長のやることは、いつも、思いきっていて、人を驚かせる。信長の奇行なるものを数えていったらきりがないくらい……。P.10

 斎藤道三の娘をもらって、道三と信長が初めて親子の対面するときにも、それから、父の信秀が死んだときにも、信長のやることは奇行としかいいようのないものだった。信長が父を失ったのは十六のときで、このとき信長は、乞食みたいな恰好をして来て、突っ立ったまま灰をつかむと、父の位牌に投げつけた……。

 信長は、子どものころから、そういう男だったんです。これは理屈の上から簡単に解釈はできないことでね。育ちについては、信秀は小さいながら尾張の一城の主で、その息子のなんだから、信長が特別に不幸な、変った育ちかたをしたとは思えない。天性といえば天性というこいともあろうし……。

 いろんなエピソードは伝わっている。しかし時代が時代だからね。果して信長が信秀の正夫人の子であったかどうかもわからない……といえないこともない。はっきりと歴史に残っている資料がないから。

 秀吉にしたって尾張の百姓の伜と片付けてしまえないところがある。新説とか奇説とかいわれるけれども、秀吉はどうも高貴な血筋であったらしいと、その研究ををしている郷土史家がいるんですよ。それを頭ごなしに否定することはできないんだ……。

 茶筅(せん)まげという、およそ武将らしからぬ髪型で、派手な萌黄のひもで髪をしぼっていたとい逸話も、よくあちこちに出て来る。しかし、派手な色というのは当時の流行だから、今の若い男が男か女かわからないような着物を着ているようなものですね。変な恰好するのが流行していたんだ。信長だけが変っていたんじゃないかな。

 父親の信秀が死んだあとで、今川義元が京都にのぼって天下をとろうというので、そのときの今川義元と信長じゃ比べものにならない……まあ、どうにもならぬ状態で、自分のほうから降参して義元の下につくのはわけないことだが、そうなれば織田方の体面は保たれるんだけれども、それよりも「戦っておれが玉砕するか、あるいは義元の首をとるか」……これが二十五か六のときでしょう?そういう中で、人間が形成されるということは、これは理屈じゃ説明できない。

始めから天下をとろう
と考えていたわけじゃない……
 P.11

 戦国というのは、自分の国を守るためには周囲(まわり)をとってしまわなければ守れない、そういう時代ですよ。

 だから、自分の舅が死んだ後に美濃の国を攻めとったのは、女房の親父が同族争いに巻き込まれて自分の子どもたちに殺されたので、これ幸いと舅の仇討ちということで、その子どもたちをみんなやっつけてしまった。これが、まあ、戦国の定法なんだ。

 そのときに美濃をとって、岐阜に入って、稲葉山の城を岐阜城と命名したときから、これをなんとか天下をとれるんじゃないか……という気が起きた、と思うんです。美濃は一番京都に近いから。

 桶狭間の奇襲は、せっぱ詰まって、もうやってみなくてはわからない……その結果、たまたま運がよかったという感じだけで、これに勝ったら天下をとるぞなんて気はなかったろうけれども。

 それから二十年間、まっしぐらに天下一を目指す。実際、ほとんど天下を」とったわけだが、武運がいいということと、自分の本拠が地味で肥えていて大変収穫が多い……これが強みなんだ。濃尾平野という大収穫遅滞を領国に持ってしまったということから、軍資金がある。軍資金ががあるから、戦争しながら城を造ったり、政治をやったり、国を治めたり……戦争と建設と、いっぺんに両方やれた。

 周囲の状況が、非常に恵まれていたこと、それをまた存分に活用した、ということだね。信長の偉さは、この肥沃な大平野の利を土台にしてこそ成り立っていたんだな。

 信玄の場合は、一つの国を攻めてとると、そこをすっかり管理して、治世を行なって、行き届いてから次へ移る。だから手間どって信長に先を越された。しかし、その点で信玄も偉いと思う。病気で死なないで、あと五年も生きていたら……信長だって天下をとれたかどうかわからない。

 そういう意味からも、信長は運がよかった。信玄といい、謙信といい、あと何年か生きていたら……という大物が相次いで死んじゃつた。まあ、自分自身も最後にあとほんの少しというところで死ぬわかだが。

信長の地ならしがなかったら、
秀吉も家康もなかった……
 P.12

 信長は、最初から大きな家の息子じゃなしに、いわば最初は小さな十人か十五人の会社の社長みたいなものだった。そのときの独裁をそのまま持って行けたから、あそこまでやれたんで、これが足利義昭と違うんですよ。

 足利義昭なんていうのは、本来が大きな家に生まれて、天下をとろうと思ってあちこちやったけど、やっぱり足利資本という大枠にはめられてしまうから、なかなかそういうことができない。しかも実力のない資本。名義だけの社長だし、まあ、何か大きなことをやれる人じゃないけれどね。

 信長は、小さい資本で始めたから、かえっていろんなことができた。信長自身、その点をよく知っていてね……だから非常に緻密で細心で、民政に対しても気を使っている。

 信玄にしても、謙信にも、始めのうちは下手(したて)、下手に出て交友関係を結んで、相手をなだめすかして……もちろん信玄も謙信も、そんな馬鹿じゃないから、信長が自分たちを利用しようと努めていることは知っていた。

 万事承知の上で、利用されている振りして、いずれはと考えていたけれど、寿命が来て信長より先に死んでしまった……。

 信長が持っていた若さと、こっちの二人が病気を持っていたということで、大変な差ができてしまった。信長ならではの科学的、実証的な性格、プラグマティズム、そういったものの力もありますがね。

 ああいう時代では、信長のような人でなければ天下はとれなかったでしょうね。秀吉が次に天下をとって、それから家康がとる。それも信長が地ならしがあったからできたんです。信長があれだけのことをしておかなければ、秀吉にしろ家康にしろ、どうにもならなかったでしょうね……。

 信長が、いわゆる偉丈夫だったかというと、背は高いでしょうね。それはわかる。豪傑みたいな人じゃなかったんじゃないかな。色が白くて……透きとおるように白かった。それでいて筋骨たくましい。

 それは若いことから槍だの弓だの持って戦場をかけまわっていた人だから……。戦陣に出て、夏の陽に焼けてはいたろうけれども、ともかく色は白かったそうですよ。

"啼かぬなら殺してしまえ"
実際そういう人だったろう
 P.13

 これは江戸時代の何者かが信長、秀吉、家康を諷していったことですね。自分でいったわけじゃない。確かに信長は"啼かぬなら殺してしまえ、ほととぎす"で、、全部自分の思い通りに進めていった。これは岐阜に行ったころだだったと思うけれど、信長のちょっとした留守に、普段うるさい殿様がいないってんで、女中たちが酒を飲んで宴会みたいなことをやって遊んだ。帰って来て、信長、その女中たちみんな斬っちゃった。残酷無慈悲、今でもそういわれていますけれど、その当時の女というのは、今の女よりすごいんだ。御しがたくね。

 戦国時代の女たちで、武士の女も百姓の女も、年中戦争戦争で気が昂っているから、絶えず締めておかないと、手綱を弛めたりすると、とんでもない失敗をやらかす。それが信長は身にしみてわかっていたから、ああいうことをする。見せしめのために。

 男が出て行った後、女も城を守らなければならないのに、何故そんな気の弛んだことをするか、今は戦時じゃないか、ということで、みんなの前でやる。そういうふうにしていかないと、あの時代の大名の家というのは勝ち残ってゆくことができなかったんだな……。

 もう一つの話で有名なのは、自分の同盟者である家康の長男の三郎信康に腹を切らせるという、あれだ。信康の女房というのは、ご存じに通り信長の娘で、その娘がどうも姑が武田方と内通しているらしいということを知って、家康も知らない、信康も知らないが、その娘が知って、武田を引き入れようとする陰謀があることを信長に通法した。娘は姑が嫌いだから、実の親父に通法したんでしょう。ところが、信長は、娘の夫である信康に「腹を切れ」という。家康は泣く泣く信康に腹を切らせるということをしたわけだ。

 今でも学者がいうんだけれども、自分の倅の信忠が大きくなったときに、家康の倅の信康のすぐれた資質にやられてしまうんじゃないか、それを考えて好機逃さじと信康に腹を切らせたんじゃないか、というわけだ。とんでもない間違いだとぼくは思っている。そんな男じゃない。信長は、そんなケチな男じゃありませんよ。

 自分が天下をとってしまって、それを譲ることは譲るつもりでいたんでしょうが、その後の、自分が死んだ後のことなんか……そんな気の小さな人じゃない。

 ぼくが思うのに、家康にも信康にも責任がある。同じ浜松の城内にいて自分の母親が武田と内通していることを知らない城主というのは、たとえ若くたって、言語道断、大変」な責任をとらなければならない。それと同時に、夫婦仲がわるいからというので自分は岡崎へ逃げてしまって、別居して女房の顔も見ないでいる家康、これもまた言語道断、その責任をお前たちはとらなければいかんというので、それをしたわけです。

 筋が通っているんだ。家康も一番信頼している倅を無実の罪で斬るということは、本当に立派なかけがえのない息子を殺すことだから、これはたまらない気持ちだけれども、信長のそういう気持ちがわかっていたのではないか……。

 本当に信長が理不尽ならば、家康はここで叛いていますよ。まだ、このころの家康は"啼くまで待とう、ほととぎす"じゃなくて、血の気の多いほうですかね。その前の三方ヶ原へ出て行って、敗けるのを承知で武田信玄と戦うほどの男ですかね。本当に理不尽に長男を殺せといわれたのなら、信長と離れたと思う。だけれども、やはりなるほど、しょうがない。悲しいけれども自分の子の責任である、自分の責任である、だからしょがない。ぼくは、そう思いますね。

どちらかといえば
色を好まなかった英雄だ……
 P.14

 信長は短気だったでしょうね。だけど、短気と同時に精密に深く考えることもできた。短気というのは一時カッとして道を見誤る。信長はそういうことはなかったんじゃないかと思いますね。逆上して道筋を見失うのというのと違うんだ。信長の思う道筋と、一般の人の常識的に思う道筋とが違うということで……。

 自信のあるなしではなく、とにかく天下をとるまでは突き進む、だから必死ですよ。信長は、自分がそんな思いをして、必死の気持でいるのに、主人の留守の間に女が酒を飲むというのは、これを怒るというよりも、そのままにしては絶対にしめし(ゝゝゝ)がつかないということですよ。見せしめのためにやるわけで、それじゃ信長には女の人へのこまやかな気持ちがなかったかというと、そうでもないんで、秀吉の女房をなぐさめて有名な手紙がある……あれなんか見ればわかりますよね。

 英雄色を好むというけれど、信長の場合はむしろ"好まず"だったでしょうね。まあ、お妾もいただろうと思うけれども、あんまりお妾の話は聞かない。子どももだいぶいますよね。

 だけれど、色というよりも、大変な時代だったからね。秀吉だって色を好んだというけれど、あの程度が普通ですよ、昔は。今のような微温湯(ぬるまゆ)に入っているような若い人たちには、なかなか、その当時の心情はわからない……。

死のうは一定……
つねにその覚悟が信長にはあった
 P.15

 戦前のぼくらの時代でも、十七、八になれば信長のほどでないじゃけれど、死ぬ覚悟を一応していなければならなかった。必ず戦争に行かなければならなかったんだから、戦争へ行ったら死ぬか生きるかわからないことですからね。

 若い人は、信長のことを考えるなら、人間五十年、化転のうちをくらぶれば――あの信長の覚悟というものを考えなくては……。今は人間六十年、七十年まで行くようだけれど、必ず死ぬということを考えていかなければならないんだ。人間は、死ぬところに向って生まれた日から進んでいる、それしかわかっていない。あとのことは全部わからない。わかっているのは、そのことだけ。人間は生まれて来て毎日死へ向かって歩み続けているということだな。そのことを、よくよくのみ込まないといけない。若いうちから。

 それでないと自分の進む道が決まらないんだよ。毎日自分がどうしていいかわからないんだよ。それがちょっと解せないんだな、若い人には。死を覚悟しろ……戦争に行ったからいうんじゃないけれど、この簡単な一事を男も女もわきまえなければいけないと思うね。

 それは自分の体験したことじゃないからね。未知の世界のことだ、死ぬことは。それに向って進むわけだから、わからない……わからないけど、死ぬことは確実なんだからね。はっきりと本当のことはわからない。それでも、いや、それだからこそ十日にいっぺんくらいは、われわれ考えてみなければいけないのじゃないかな、そのことを。

 信長の"人間五十年"うんぬんは、ヤケじゃない。どっみち死ぬんだということじゃない。人間が一番はっきりわかっているのは死ぬことだ。それだけわかっている、あとは何もわかっていないということですよ。

 それ(ゝゝ)は齢をとってから考えればよいと思うかもしれないが、今の若い人が、今、若いときに考えなければ何にもならない。齢とってから考えたんじゃ、追いつかない。若いときに考えるから意味がある。しかし、、今の若い人はどうもわからないな……死ぬということよりも金のことばっかり考えているらしいよ。高校生ぐらいになると。

天性、政治に対する感覚が
鋭敏であったとはいえる……
 P.15

 そういう今の若い人について、いくら総理大臣がいろんなことをいってもね、こりゃ駄目ですよ。十七、八の少年がテレビで国会のチャンバラ劇や茶番劇を、あの猿芝居を見れば、信用しませんよ。

 政治というものは、汚いものの中から真実を見つけ出し、貫いて行くものでしょう。それを「政治は正しい者の、正義の味方だ」というようなことをいっても、ぼくは全然信用しない。そういうキレイごとがあり得るとは思わない。どんな人が政権とっても、こ古今未来、何千年何万年たっても、そういうことがあり得るはずがない。「正義の政治」だなんていう政治家は絶対信用しないね。汚いものの中から真実を通してゆく、それが政治家なんだ。

 そういう意味では、信長は確かに政治家だけれども、ずばぬけた政治的感覚を養うようなところにに育ってはいないんだよねえ……。信長を政治家たらしめるのに何らかの影響をもたらすような争いは、小さくてもいろいろあったですよ。そりゃね。

 事実、信長は、桶狭間に義元を破った後に自分の弟を謀殺しているし、叔父も殺している。しかし、それはそいうふうにしなければ自分の思うように治まってゆかないと思うからやったんですよね。

 ああいう小さな大名同士、豪族同士、いろいろ軋轢があったでしょう。しかし人間の生態というものは、それを大きくひろげてみれば同じだから、そういうことで鋭敏に身をつけた感覚が信長にはあるんじゃないかと思うな。今のところ具体的な資料がないから、まあ天性のものとしておいたほうがいいでしょう。天性のものとして、そういう政治的感覚が鋭かった……。

 その一つのしるしとして、信長は、人間を見通す目が鋭い。秀吉、木下藤吉郎がが信長ににとっては一番いいわけだ。それから前田利家、あまり有名じゃないが滝川一益なんか相当信用しています。だれの場合でも、自分の、それこそ思うがままに動かなければ退けちゃんだ。何もかも投げ捨てて、生命を賭けて尽くすということでないと認めない。また、そういう人だけが自分を助けてくれないと天下はとれないと思ったんでしょうね……。

 もっとも、信長の周辺の人間にしても、信長自身がそうしたように、信長を秤にかけたわけだ。家康だって、信玄と信長を秤にかけて徳川の安泰を考えぬいた末に、信長についた……。信玄のほうが有望だと信じれば当然信玄についたでしょう。

 信長自身も、家康も、それぞれ相手がどういう人物であるか非常によく見通していた。今のようにマスコミの発達していない時代だが、よくわかっているんですね。無論、相手を探る努力は絶えずしていたけれども……。

 信長と家康のかかりあいでいえば、一つには信長が自分の独裁的な力というものを明快に示した……家康の息子を切腹させたときのように……。けれども、なんといっても信長の本拠、勢力範囲というものが最も地理的に恵まれていること、これが家康をして信玄よりも信長を選ばせた最大の理由ですよね。京都を制圧するのに最短距離であると同時に、その国が豊かであることを考えるとね……。いくら信玄が偉くても、あの甲州の山奥からはるばる京都まで出て来るのは大変なのだ。

 戦国時代というのは、むずかしいんですよ。この人が本当にやれる、だれが見てもこの人が断然有力だということになってから、その人の味方についたんじゃ遅い。もっと前に、その人が下の下にいるころに先を見究めて、もうそのときから味方して、その人が大をなす日までついてゆかなくてはね……いざというときに、もらうものが少ない。絶対に駄目なんです、あとになってからでは。その点は、きびしい賭けなんですよ……どちらにとってもね。

信長の、家康への信頼
これは絶対的なものだった……
 P.17

 城攻めのとき、これはもういかんということになると、よく城内から手引きする者が出る。それはそれで利用しておいて、城を攻めると直ちに内通者を斬ってしまう……これは信長が最も多い。その次にきびしいのが家康で、秀吉が一番ゆるやか。「よく内通してくれた……」と自分の懐に入れてしまう。

 内通するような人間は、たとえ利用はしても、許しがたいから……という道義的なことじゃないんだな。もっと端的に、あぶないんだ。そういう奴は、実際、そういう奴が多いだから。

 そこへいくと家康は、

 なにしろ、自分の一番大切な子どもを切腹させられている家康ですからね。家康の心中には、そのことがつねにある……おそらくそうに違いないと信長自身知っている。その家康が、あれだけ心を尽して、よくこてまで頑張ってくれたというので、それまでだれにもやらなかった、こればっかりは決して手放そうとしなかった吉光(よしみつ)の脇差を与えているんですから。これは万人の見ているところで与えている。信長の気持というもものは、それでだれの目にも明らかにわかる……

 きびしく要求するところは、あくまできびしく、それで、それに応じてくれた人に対する感謝は非常に表わす、ここら辺りが信長らしい。

信長が偉いのは、
決して自分の伜を甘やかさなかったこと……
 P.18

 全く倅を甘やかないというのは、なかなかできることじゃない。その点、信長は本当に偉かったとぼくは思いますねえ……。

 ついに武田を亡ぼしたときに、大した戦争はない。勝頼のほうは、ずるずる負けていったわけで、戦争らしい戦争といえば、信州の高遠城だけでしょう。その高遠城攻めに当っての第一の戦功者は、これはだれが見たって信忠ですよ。自分の倅が第一の戦功者。それなのに、ね、滝川一益や、それから森蘭丸の親父、家康にも、それぞれ信州をやったり、いろいろ戦功賞としてやっているけれども、倅の信忠には何もやっていない。

 まあ、いずれは天下をやるわけだから、いちいち信忠にやらなくてもいいわけだけれども、それにしてもね。絶対に、倅をあまやかすようなことはしないんだ。むしろ、全軍の将たる者が、血気にはやって自ら先陣切って城内へ斬り込むなどもっての外で、「信忠めが……」と舌うちせんばかりだったというから。

 まあね、そういう信長(おやじ)のありかたは、息子である信忠のほうとしても非常によくわかっていたんですね。もともと信忠は秀吉に教育された……というか、作戦なんか秀吉と共同でいろいろやっているしね、それやこれで若いにしては大層よく世間のことがわかっている大将だった。

 それでいて、大変な武勇の人だし……

 信長が本能寺で死んだとき、信忠も二条城で死んでしまった。あのとき信長はが四十九、これは数えどしで九だから、今でいえば四十八。父の信長でさえ若いのに、信忠があの若さで死んでしまった……。

 あのとき、親父といっしょに死ななかったら、また世の中、相当変わっていたろうに。信忠、いくつだったか……まだ二十四、五ですね。いずれ、あれから天下統一で世の中納まることは治まったろうし、だれが治めてもそれなりに行ったでしょうが……信忠もいっしょに死んでしまったから。もしも信忠が生きていたら同じ天下統一でも、統一のしかたが違って来ていただろうにねえ……。

光秀自身すら予期せぬ
「本能寺の変」だったから
 P.19

 信長ほどの、そして信忠ほどの人が、ああもやすやすと死んでしまった。ということは、それだけ思いもかけない光秀の叛乱だったんですね。

 光秀の信長に対する反乱は、いろいろいわれるけれど、あの信長ほどの人間がまったく予想できなかったということですからね……まだまだ、いろんな解釈ができる……。本当に思いもかけなかけないだったんだなあ。

 肝腎の光秀自身が、事をおこすつい直前までそういう意識、つまり謀反とか叛乱とかを考えてもいなかった。だからこそ信長にわからなかった……ぼくはそう思いますね。

 人間の胸の、次第に内向して胸の中にたまったものが一度に出るときは、こわいからね……。いくら信長ほどの、鋭敏な感覚でも、こればかりは。もともと、とてもそういうことのできる人間じゃない。まるで別のタイプの人間だと、そういう目で信長は明智光秀を見ていたんじゃないですか。

 だれが見ても、内閣の内務か文部大臣ですよ。光秀という人はね。そういう感じで見ていたんじゃないかな。まあ、それはそれで、それなりの価値はあるし、そうと知った上で利用するつもりでいたんでしょう……。

 中国攻めのときに、光秀の領地を取りあげてほかの人にやっちゃって、光秀には、これから中国の山陰のほうを攻めとったらやる、そういうことになってしまったのが原因だとよくいいましがね、それも解釈のしかたでね。信長がどういうふうに考えていたか、わからないと思うんですよ。もともと光秀が嫌いで憎かったりしていたら、使いませんよ。憎悪しながそれを抑えて使ってゆく……あの人はそういう人じゃない、そうだったら使うはずがないんだ。、

 なにしろ、人間の胸の裡のことですからね。すっぱりと理屈で、単純に割り切れるものじゃない。信長と光秀の間に、そりゃいろんなことがあったでしょう……光秀という人が、これがまた鋭敏なほうで、信長ののそいう点に、いちいち、ぴんぴんと"感じ"を持っていたから……。それが知らず知らず心の奥底にたまって行って、ある日、不意に出る、こわいね……。

 まるで思いもかけぬことが、こうして起こる。そして信長は死ぬ……。信長の死後、いろんなものが出て来たと思うんです。遺したものは相当大きかった。大きなものが遺りましてけれども、もう少し生きていたらね。もっともっと違った形で遺ったんじゃないか。それを、信長はやりたかったでしょう……壮大な夢を見ていたんだしょうねえ、信長は。

2023.12.22 記す。

信長四十八年間の生涯は
そのまま壮大なロマンだ……
 P.20

 信長のことを考えるなら、それがいわゆる戦国時代で日本中が戦争していたということを頭に置いておかないとね。男も女も、気が昂って、血が燃えていて……そこが現代(いま)と全然」違うんだ。

 今は、みんな鈍っちゃって、それというのも自分の生命を賭けるようなものがないから……。

 男でも女でも手足を動かさなくなって感覚が鈍くなった。感覚が鈍ると、自分にピタリと合う男や女を、見つけることさえもできなくなる。昔はね、目と目が合った瞬間に、(これだ!)という感覚が走った。それが今は、肉体的に結びつくことだけにすぐゆくから、これは自分に合った女だ、合った男だ、ということがなくなっちゃった……。

 血がたぎっていないんだよね、現代(いま)は。だから"人間五十年"うんぬんもわからないんだ。死というものを、ひた(ゝゝ)とみつめることがないから。

 これは、ぼくの体験ですがね、戦争末期のころ、本当にきょう死ぬかあした死ぬか、毎日、死というものを実感として見つめている。そうするとね、基地であした飛行機に乗り込むというときに、それまでは気にもとめなかった小さな花なんかが目に入って来る……。やたらに、そういうものの美しさがわかるんだ。歩いているときでも、風景なんかの見かたが全然違いますね。

 信長は、四十八年間、つねにそういう緊迫の状態でいたわけですからね。戦争しないときでも、いろんなことを果てしなく次から次へと考えるからね。

こういう町を作ってやろう、こういうあれをして、外国の教会を建てて、学校を建てて、ああしてやろう、こうしてやろう、いろんなことを夢想しているから……。

 信長という人間は、そういう華麗な、真に大名らしい大名でいて、武人でいて、美的感覚はすごくて、壮大なロマンチストで。猛々しいばかりの武将ではないんだ。最高の文化人だったでしょう。

 だから、秀吉なんか、そういう美的感覚を受け継いでいますから、そばにいて見ているから、秀吉は字、うまいですね。いい字ですよ。あんな字を見ても、当時の武将がいかに教養が豊かであったか、わかりますね。信長の字も、なかなかいいですよ。

 お茶にしてもね、あれだけ力を入れたからこそ大変なものになったんですよ。茶道というものは、信長以前には、まだそれほどのものではなかった……。


※参考:茶道と織田信長との関わり。

その後、利休の茶の湯を認めた人物が織田信長でした。信長は「名物狩り」といって、茶道具を各地から蒐集していました。信長は賛否はあれど、古い伝統を次々と壊す革新的な人物として知られていますが、茶の湯に対しても新しく創造できる人物を求めており、利休は最適な人材でもあったのです。また信長は茶の湯を巧みに政治利用しており、千利休が認めた茶道具の価値を上げるブランディングをして、茶道具を一国と同じ価値があるものとしたのです。

こうして国土の狭い日本において、貢献した家臣には国ではなく、一国と同じ価値がある茶道具を与えたのです。

また信長は茶会も許可した家臣のみに開くことを認める許可制としたため、茶会を開くこと自体がステータスの象徴となったのです。そして信長が開く茶会の茶頭(さどう)が千利休であり、多くの武将が千利休に弟子入りしました。

ちなみに信長は本能寺で亡くなりますが、そこでは信長が購入した茶道具を披露する会が行われていました。しかし、その日の夜に家臣の明智光秀による謀叛が起こり、信長の死と共に多くの名物といわれる茶器が焼失しました。


 戦わなければ生きてゆけないということで戦い続けた……その一方で、あれだけいろんなことをやっている、そこがすごいんだね。信長は、信長の生は、まさにロマンそのものだったと思いますよ。

 その当時の人のことを考えてみると、これは現代ふうの考えかたからすれば、みんな馬鹿に見えるでしょうが……むしろ本当は逆なんだ。

 いまの人間のほうが、みんな感覚が鈍くなっちゃってているということで……いやだね……逃避して過疎の村へ住みつくというようなのはね、ロマンでもなんでもないんだよ。

 戦わなければ生きてゆけないから戦った、そして近隣の敵を倒して自分が実力者になったとき天下を治めようという理想ができたわけですけれど、信長は、それで日本の国民たちを全部しあわせにしてやろうなんて、いまの政治家みtに馬鹿なカッコイイことは決していいませんでしたよ。

 それと同時に、代々織田家を残していこうなんて、そういう考えもなかった……自分の代でやって、息子に譲り渡し、そのあとは、もう自分が死んじゃうんだから、知っちゃいない。そこが信長の信長らしさだな……。

2023.12.22 記す。


渡辺勘兵衛


渡辺勘兵衛――槍をとっては一騎当千。天正十年、織田信長の甲州攻略に、近江の小城主阿閉淡路守家来として加わって二十歳の初陣、抜群の武功をたてたが、その賞に大将織田信忠から拝領の名刀を自分にねだる。吝嗇(けち)くさい主人淡路守に、つくづく愛想がつき果てた……。戦国の世に「槍の勘兵衛」として知られながら、流転の生涯を送った一武将の夢と挫折――。
          (『戦国幻想曲』より)
槍の勘兵衛。もし、
この豪傑がせめてもう十年早く生まれていたら……
P.24

 天正十年、この年六月を機に、信長の死ぬ前と後では、戦国時代といっても違うわけだ。信長の死後は諸国の大名小名たちがちょっと先を見たり、うかつに猪突猛進して敵をやっつけるというふうにはなりませんね。情勢を見て、秀吉が天下をとるか、家康がどこまでのびてゆくか、やはり疑心暗鬼で……一番大事なときに実力を出さなければいけない、それを早まって、うかつに亡びてしまってはつまらない……信長が一度天下を統一したんだから、あとはだれがやるかわからないけれども、いずれは天下が治まるということはみんな、おぼろげながらいますからね。

 いまこそ大事なとき、今度しくじったらやりなおしはきかないんだ、一番肝腎な、天下をとる人をよくよく見きわめて、その人のためにやらなければ損をする……という気がある。だから天正十年を境にして、その前と後と、大名、侍、武士たちがだいぶ変わってくるわけだ。大将がそうだから、家来もそうなる。

渡辺勘兵衛なんていう人は

 その時代からはみこぼれる人というのは必ず出るわけですね。その中で、渡辺勘兵衛はしあわせなほうだったと思う

 睡庵(水庵ともいう)と号して書き遺した……それが勘兵衛という人間をいまの時代に伝える、歴史家たちが手にしうる唯一の資料といっていい。

 だから」、ぼくが『戦国幻想曲』という小説を書いて、

……鞍壺に立って身をのばした織田信忠は、
「信忠ぞ!!」
 城兵のだれかがわめいた。
 武者走りの下から、六名ほその城兵が信忠めがけて槍を突き出してきた。
 飛びこんだばかりの信忠は片ひざをついて、体勢をたて直す間がない。
「あのときは、もはや、いかぬとおもうた」、
 と、のちに信田が述懐している。
 その転瞬……。
 ほとんど、信忠と同時に、城内へおどりこんできた男が横合いから、猛然と敵の槍をはねあげた。
 渡辺勘兵衛である。
 彼の一本の槍が、数本の敵の槍をはね飛ばしたかと見る間に、
(えい)!!」
 尚も武者走りから犬走りへ駆けあがって来る敵兵を、
「やあ!!}
 電光のように突きまくった。
 たちまち四名の敵が勘兵衛の槍に突き倒され、絶叫を発してころげ落ちる。……
 一息ついた信忠が、勘兵衛に、
「いずこの手の者か?」
「はっ。阿閉淡路守が家来、渡辺勘兵衛にござります」
「うむ、ききおいたぞ」
「はっ」
 よろこび勇んだ勘兵衛の、それからの奮戦ぶりについて、のべるまでもあるまい。
 高遠城は、間もなく落ちた。
          (『戦国幻想曲』より)
亡父ゆずりの大身(おおみ)の槍は備前祐定(すけさだ)の作、
身の長さはニ尺五寸弱、柄は五尺七寸余

 槍というのは戦国時代に入ってから発達した。無論、支那から来たものです。鉾のようなものを日本人向きに洗練して使いやすいようにして育て上げたんだろうね。

 ぼくの場合、勘兵衛を大きな人間に書いたんだが、特別にお相撲さんのような大きな侍というものは、めったにいなかったと思う。いま残っている鎧なんか見てもね、が、相当の体力はあった。精神力でしょうね。筋肉はひきしまっていたろうけれども、非常な大男は、鎧なんから察してもいなかったろう。

 それに食べるものも粗食……大名の殿様にしても朝食はそれこそ麦飯のようなもにに焼き味噌、焼き塩、粟がゆ、稗をまぜた飯……そんなものを食べて槍ふりまわしていたんだから。やっぱり体力以上に気力だろうね。で、そう長生きできない。勘兵衛の場合は、まあ例外的に長生きで、七十八だか七十九歳まで生きた。これは実際に記録でわかっている。

 高遠城攻めの働きで「槍の勘兵衛」として名をあげたとき、ちょうど二十歳。昔の「はたち」と現代(いま)の「うあたち」は違う……と、信長のところでも話したが、いまの若い者より昔の若い者はしっかりしているとか、えらいとか、そういうことじゃない。昔にあっていまにないもの、いまにあって昔にないものというものがあるんだから。

 一長一短あるわけだけれども、ただ、違うところというのは、昔は、年中死ぬことを考えているわけですよ。若い人が。それは侍にもならず百姓、町人もそうですよ。戦争よりも病気のほうが一層人の生命(いのち)を奪ったからね。泥水を飲んでも。うっかり水の中に入ってバイキンが入っても……消毒するものが何もないんだから。破傷風になったら死んでしまう。盲腸炎になってもすぐ死んでしまう。勘兵衛の父親渡辺勘太夫は、小説では腸捻転にしているけれど、これなんかいまはすぐ切ればなおる。昔は絶対だめにこまっている。腸捻転になった父親が苦しがって息子に首斬ってくれといって、勘兵衛が父親の腹に馬乗りになり、

「首は打ちにくいゆえ、父上、刺します」

「よ、よし。ここじゃ……」

「父上、さらば」

「おお、さらばじゃ」

 父が指し示した心の臓のあたりへ、泣きながら脇差を突きこむ……そういう所があるでしょう。あれは、こしらえたもので、ぼくが作ったんだけれども、ああいう凄じさ、ね。このとき勘兵衛十六歳だ。

 皆さんよくご存じの真田幸村。あの人の初陣は十三歳。たった十三歳で馬に乗って槍を抱えて生きるか死ぬか……どうしても戦をしに行かなければならないのだから。そういうことを考えれば、いまと昔と、どちらがいいかといえば、いまのほうがいいにきまっているけれども、生命力の燃焼のしかたが違うわけだ。明日(あした)死ぬかと思うのと、明日死なないとおもう今日とは、今日が違う。

 恋愛なんかも、戦国時代の人は勇ましいですよ。自分の夫を殺した(かたき)を討ちに奥さんが出かけて行って、その仇が気に入ったというので一緒になって子どもを生んで、夫の親類がけしからんというので斬りに行ったら、反対に女がみんな斬り倒しちゃって、その夫の仇と子どもと仲よく暮らしていたという話もある。

 こういう時代で、

なにもかも燃えさかっる時代だから、ちょっと、いまとは違うんじゃないかと思う。戦争ばっかりしていた大名たちの勉強ということが、勉強のしぶりがいまとは違うし。勉強する機会もありませんがね、当時は。それでいて、字なんか見ると、これは違う。幕末の大名とか英雄、桂小五郎、勝海舟、あれと戦国時代の大名の字と比べたら格段の差ですよ。字の美的感覚からいっても力いっても、江戸時代末期から幕末にかけての人の字はガタ落ちですよ。雑駁ですねえ、明治維新の元勲の字なんか見ても。信長のところでも話してけれど、戦国時代の人の字は立派だね。戦争の間に、そういう美意識というものを自然に発揮しているんだから……。


本能寺の変。明智光秀の三日天下。
そして始まる勘兵衛の流転。やがて秀吉の時代に。
P.27

 信長が死んだ後は秀吉が魔術師みたいに中国地方から引き返して来て、たちまちのうちに主人の仇を討った。とにかく風のごとく引き返して光秀を討ってしまったから、秀吉には大義名分ができて断然立場が強くなった。それまでは、みんな五分五分ですよ。主人の仇を討ったということで秀吉はすっかり強くなって、まず賤ヶ岳から北ノ庄へかけての合戦でライバルの柴田勝家、織田の家臣団の中で一番嫌いで邪魔だった勝家をやっつけてしまう。

 家康は別格。信長と同等というか、まあ弟分みたいなもので、秀吉は家康には一目おかなければならなかった。けれども家康は、すぐに無理していかなくても、自分が実力さえ蓄えておけば、改めて秀吉と中央で堂々と争えるという気があったんじゃないかと思う。だから家康は、信長が亡ぼした武田家の甲斐の国の平定をまずやったわけですよ。武田家の家来をみんな自分で抱え入れて手厚く遇して、その人たちを先頭に立てて信玄の領地を平定して、すっかり自分のものとして手なずけてしまった。

 これで徳川の実力というものは、国の領土も広がったし、倍以上にふくれ上がったんじゃないか……。そうして実力を高めた家康と、秀吉が、小牧・長久手で戦うことになる。これは信長の倅の信雄というのが、秀吉が天下をとりそうだというので、家康に泣きついて来た。家康はこれを保護して立ち上がったわけだ。ところが、あっさりお互いに和睦してしまう。どちらもりこうだかれね。お互いの強さ、実力を知っていますから。家康も秀吉を徹底的にやっつけることはできないと思うし、秀吉にしても同じことで、あまり深傷(ふかで)を負うと大変なことになるからね、中国にはまだ毛利家が健在だし、そういうことがあるから、お互いの利害関係が合致した……そこで和睦。秀吉のほうが三顧の礼を尽して、家康としてはさんざん秀吉に恩を売ってね。まあ、ここらあたりの秀吉の外交政策は見事なものですよ。

 話はちょっと変るけれども、「男は台所に入ってものを作ったりするな、台所へ入るものじゃない」ということを聞くでしょう。いまでもそういう人は少なくない。男が自分で包丁をもったりするようじゃ、男じゃないと。ところが、これは江戸時代の道徳で、戦国時代の侍はみんな料理にかけてはうるさい。そのころのことだから、材料はないけれども。

 伊達政宗という人は、お客が来るときは主人が必ず台所へ入ってみずから食うものに目を通さなければ絶対だめだといっていますよ。加藤清正でも、織田信長でも、料理にはものすごくうるさい。自分でやっていますよ。料理を。戦国時代は、だから、そういう所が違うんです。神経が。江戸時代になって「男が台所に入ったら」の一言でかたづけるのと、気の配りかたがだいぶ違うんで。

 だいたい「台所に入るようなのは男じゃない」というようなことをいう奴に限って女々しい奴が多い。わざと男性的なことを強調したり、男性的なものを好む奴ほど実は女々しい奴が多い。

2024.01.26 記す。


何に一つゆるがせにできない戦国時代と
いま「われわれの時代」とはこうも違う……
P.28

 とにかく料理であれ、なんであれ、どんなことでも、ちょっとことでもゆるがせに、いい加減にしたら、すぐ大変なことになる。そういう時代ですからね。戦国時代は。そうしないとともかく家が治まらない。家が治まらないと家来が治まらない。家来が治まらないと国が治まらない。これが基本だからね。家というものが絶対中心なんだから。

 ところで現代(いま)は、家が中心でない、家そのものが国家と同様というんじゃないが、家族の生活そのものが基本で、その延長として国があり民族があるとい形は、現在は崩れてしまっている。だから、わかりにくいと思うけれどもね。

 かつての家中心から、いまはどう変わって来ているかというと、それがどの程度まで強い力を発揮するようになるか知りませんけれど、学生時代の学生のグールプというものは、家族よりもいまは強いですね。結婚式なんかでも、このごろの若い人は親が段取どりしないで友人たちがやる場合が多いでしょう。家族よりも、友人たちの連結のほうがつよいんですね。その強さがどの程度のものか……たとえば、見ていると半分遊びのような気がする。そういう連中のやる結婚式というものは学芸会のようで、実行委員というものがいて、新郎新婦の側からそれぞれ出て、みんな友だちですよ。三月もかかって、中には結婚して子どもの一人もいるような若い奴もいて、それがガリ版刷ってきめてやるわけです。会場から何から。式のありようから、アトラクションまで、自分たちが出て、半分は自分たちが楽しんでいる。

 さりとて、そこへ出席していやな思いをするかというと、そうでもない、キチンとやることはやるからね。そういうものの力というか、形というか、いつまでもいまのグループの形というものが強くなっていって、そういうものがいろいろなものを動かしてゆくようになりつつあるんじゃないか……と思いますけれども、それはまだ伝統としてどのくらい力強くのびてゆくことになるか、年数がたっていないからね。

 昔は、子どもが生まれたときから親同士で結婚の相手を決めたりした。それは、一つには男女交際の場所がなかったからね。日本では、自分たちで選ぶための場所が。戦国時代の見合いは、たいていうまくいっていますよ。無論、政略結婚だけれども、しかし、嫁いで夫婦になってみて、例外はあるにしても、みんな仲のいい夫婦のような気がしますね。

 自分の嫁いだ家と、実家とが戦争になってしまうと、夫とともに死ぬ人もいるし、まあ実家に帰る人もいるけれども、目移りはしないからね。これにはこれがいいと、周囲で、一応政略結婚にしても、健康状態とかいろいろなことを調べてしますからね。ぼくなんかも仲人として、知らない同士を見合いさせて、みんなうまくいってるね……。

 男と女にしてもそうだし、男と男のかかりあいにしても、やはりだいぶ違う、いまとは。だれにつくか、だれについて戦うか、それが生きてゆく上で一番大事なことだったけれど、それと同時に、亡びてしまってもいいから自分の好きな主人の所で働きたい、好きな主人のためには死んでもいいんだ、そいう勘兵衛みたいな生き方があったわけですね。また、好きな主人でないと生命(いのち)がけで働けないですからね。、

 こんな主人じゃいやだとだから勘兵衛は何度も主人を嫌って飛び出してくるけれども、そういう勘兵衛のような侍はずいぶんいたろうと思いますよ。その点では、いまよりずっとドライなんだ。これだけの働きをして、これだけのことをしてもらわなければ……という計算は必ずみんなしているから、いまよりももっとはっきり主張しますからね。、

 せっかく小田原での北條攻めで勘兵衛があれだけの働きをしたのに、それに対して主人の中村一氏が手前一人の功績にしてしまって、勘兵衛には陣羽織かなんか一枚くれるだけ……あれじゃおさまらないわけです。これは、自分が勝ったのは、渡辺勘兵衛の働きによるものであるということを、みんなの前でいってもらわなければこまる……。


かつての主人と家来の関係には、
きわめて人間的な要素があった。現代(いま)以上に……
P.30

 戦争が続いている時代には、力の強い奴はどこでも喜んで迎えてくれる。だから、いくら主人が自分を正当に認めないからと飛び出しても、強い人ならすぐ次の主人が見つかる。ところで、この主従関係が能力を互いに計算しあうビジネスライクなだけのものかというと、それだけじゃやはり成り立たない……。この人なら、この男ならという心情的に感じあうところがないとね。正当な実力の評価と人間対人間として感じあう部分と、両方ないとだめなわけです。その意味では、きわめて人間的な、ヒューマンな関係といっていい。

 いまの企業の経営者と雇われて働いている人との間には、もう、そういうヒューマンな関係はまったくないといえるかもしれない。戦前までは、まだ、いろいろあったと思いますがね。まdしも人間的なつながりが。組織が大きくなったり、複雑になったりすると、次第にそういうものが失われてきますね。

「おお、そちが勘兵衛か……」

 長盛は、こだわりもなく明るい声で、 

「わしは、増田右衛門尉だ。見知っておらなんだか?」

 気さく(ゝゝゝ)に、いう。 

 その長盛のさっぱ(ゝゝゝ)りした態度に、渡辺勘兵衛は好感をもった。

「小田原御陣の折、遠目ながら一度、お姿を見かけたてまつりました」

「さようか、わしは、はじめて、そちの顔を見る」

 増田長盛(ました ながもり)は体躯も堂々としてい、顔貌もたくましく、相当な美男子でも」ある。……

(よい大将だ、な……)

 と勘兵衛は感じた。

 その彼のおもい(ゝゝゝ)が、すぐさま長盛へもつとぁったと見え、いきなり、

「わしでよいか?」

 長盛が、ずばり(ゝゝゝ)といったものだ。

「は……」

 さすがの勘兵衛も、肝をのまれた。……」

「ははっ……」

 なんとなくうれしさと、()もいわれぬ感動が胸にこみあげてきて、

よしなに(ゝゝゝゝ)御願いつかまつる」

 と渡辺勘兵衛が両手をついてひれ伏(ゝゝゝ)した。

          (『戦国幻想曲』より)

 人間的つながりがあったということは、ひとつには、その当時は、上も下もほとんど生活の差がなかったからです。いかに昔の大名なんていうのが質素な暮らしをしていたか、徳川将軍でも三代の家光ころまでは足袋をはかないですよ。寒中でも。江戸城中で。家康の足なんかアカギレだらけですよ。

 加賀百万石の前田利常く(としつね)、利家のお孫さんですが、江戸城中で子どものころ、家康を見たというんですな。自分の前を通ったときに、

「大きくなられたな……」

 といって家康に声をかけられたときに、家康の足を見た、その足はアカギレだらけだったと書いていますよ。

 天下の将軍でも、生活全体は、そのくらい質素だった。もちろん客が来ればいろいろ買ってごちそう作りますよ。だけど、平常は、そう……。いまの経営者と労働者みたいな生活上の差はなかったわけだ。差を生み出すほどの食料品とか嗜好品とか衣類とかいうものがない、当時は。みんなおなじじゃないの。ちょっとそういうところは、いまの中国に似ているね。まだそういうものをたくさん生み出さないから……。

 秀吉の朝鮮出兵のころ勘兵衛は増田長盛の家来になっているわけだだけれども、勘兵衛として見れば、久し振りにいい主人に出会った……。増田長盛の性格から割り出して、この人物と勘兵衛となら気が合ったんじゃないかと思って小説では扱ったわけです。

 事実、増田長盛のために勘兵衛はよくやっています。関ケ原の天下分け目のとき、長盛は大坂(がた)について、家康から罪を問われ、結局、領国と身分を剥奪されて紀州の高野山に押しこめられますね。そのとき自分は大和郡山の、長盛の城を守っていて、城の引き渡しの前後、勘兵衛はなかなかしっかりしていて主人の代りをつとめて堂々たるものですよ。

 城を受けとりに来た藤堂高虎が、

「渡辺勘兵衛はあっぱれである」

 と絶賛したくらいにね。だから、よっぽどこの主人が気に入っていたんじゃないですか……。

2024.01.29 記す。


男は、成長とともに顔が変わる、という。
男の顔を変える成長とは!
 P.32

 勘兵衛は、増田長盛の片腕として「槍をふるわぬ」戦いを体験するわけです。秀吉の朝鮮出兵のときね。得意の槍にものをいわせて武功をたてたわけではないけれども、主人の長盛の身近につきそって九州の名護屋の本陣と朝鮮との間を往来して、戦事のいろいろなことを経験する……その間に、大きな戦争というものが、単に槍や刀だけでかたづくものではないことを見にしみて知り、やがて休戦ということになって主人とともに京都へもどって来ると、

「勘兵衛殿、顔つきが変わりましたのう」

「まさかに……」

「変わった。たしかに変った……」

「どこが変わりました?」

「りっぱに……さよう、まことに立派な面がえになられてござる」

 そんなふうに小説では書いてあるが、これは実際そのとおりあることだと思いますよ。

 人間について研究したこともあるんです。それと、ぼくは、いつもいうように十三のときから世の中に出ているでしょう。そのころから知っていた人の顔が、ずうっと変化しているのを見ている……自分が十四かそこらのときの自分の友だちとか、同じ世代の、あるいは先輩とか、いるでしょう。もっと上の人でもね。自分が育った二十歳になったときに、その人たちがどういうふうになっていたか、いまはどうなっているか、顔つきなんかの変化と実際のそのときそのときの生活を見て、両方の体験がぼく自身のなかでずっと積み重ねられているから……だから感じで、顔を見ればその人がわかるような気がします。

 やはり、顔というものは変りますよ。

 普通の、勤めて月給をもらって、という人の場合は、こういう人が数としては一番多いわけだが、そういう人が自分の顔をちゃんとしてゆきたいと思ったら、まず「うち」を整えることですね。自分の思うように。それはやっぽあり男の大事業だからね。政治するのと同じことですよ。夫婦二人きりの場合は別としても、たとえば自分の親がいて、妻がいて、子どもができて、それを自分が統御してゆくことができれば政治とっているのと同じだからね。

 うちを整えるのに金があるとかないとかは問題じゃない、金なんかじゃないんです。

 これができれば、やはり仕事も違って来る。外に出てやる仕事もね。昔の反動というか、うちなんかのことをちゃんとしたり、うちを整えるのに一所懸命な人は大したことはない、そういうことは放り出しておいて外へ出歩いているほうがカッコイイという……ちかごろの考え方、あれはまったく間違いです。

 われわれの仲間でも、このごろの作家はスケールが小さくなった、作家というものは浴びるほど酒を飲んで、それで絵空ごとを……そういうことをいいますよ。それは昭和初期の作家、あの時代の人ですよ。その前の作家はそんな人はいませんよ。鴎外にしてもそうだし、藤村にしても、露伴にしても、鏡花にしてもそうですよ。尾崎紅葉にしてもそうですよ……そんなことで作家のスケールをうんぬんするなんて間違いだ。

2024.01.30記す。


「うち」のこともきちんとできないで、
一体そとで何ができるか。男も……女も
 P.33

 うちへ帰って女房のそばにペタペタくっついているのはどうだとか、作家の場合に限らず一般の人もよくそういいますがね。いまのいわゆるマイホーム亭主というのは、ちがうのでしょう、ペタペタしているというのとは。本当にぺたぺたしているんじゃない。

 うちのことを自分の思うようにきちんとやるという、それがまわりからペタペタして見えるのなら、それはいいのです。ペタペタしないで、年中外を出歩いているというのは、要するに逃げているということですよ。男には、もちろん、しなくてはならないつきあいというものもある。しかし、だからうちのことは放っておいていいということにはならない。男は両方やらなくてはならないですからね、結局。うちのことさえ行き届かないような男が、外でろくな仕事ができるはずがない、と思いますね。ペタペタうんぬんを非難するのは、おおむね逃げている奴ですよ。

 家族制度の崩壊なんていうものもね、核家族として親たちと別れて独立しますね、うちをもって……それを家族制度の崩壊というけれども、このことは一つにはやはり年寄りがいなくてもいい世の中になった、ということですね。昔は姑のいるところへ嫁がいないと、若い女が日常に必要な仕事を覚えなかった。仕事を覚えないことには毎日の生活ができなかった。

 いまは全部電気がやってくれるでしょう。金さえ出せば何でもやってくれる。なんでもかんでも金で買っちゃうですよ。昔はふとんの綿の打ち直し、縫い方、ごはんの炊き方、味噌汁の作り方、すべて老人が教えてくれなければ覚えられない。覚えなければ自分が困るから、実際上。だからどうしても、うちには老人というものがいなければならなかったんですよ。それがそうでなくなった。いまは必要ないから、老人の力というものが。だから家族が分裂してゆく。

 その結果どういうことになったかというと手足を動かすことが少ないから、どんどん頭が老化してくる。女は、電気のスイッチ入れるだけですから。神経を使うということが全然必要なくなって「気働き」というものがなくなってしまった。昔なら、かまどにたきぎ(ゝゝゝ)を入れて火加減見ながら洗濯するというように、いっぺんに二つも三つものことを全部やらなければならない。頭の中にいつもいくつかのことがあって、それを同時進行でこなしてゆくのが気働きですよね。いまは、一つのことをやればいいんだから、ほかに気を使うということがない、どこへ行ったって、だから鈍化しちゃんですね。対人関係でも気を使わなくなってくる。人に対する思いやりがないというこよをよくいいますが、これは当然の結果です。人間も動物で、動物的な機能というものはせっせと使っていなければどんどん鈍くなって、だめになってゆくものですから。

2024.01.30 記す。


男女共学、それが大体間違いのもとだ。
せめて小学校だけは男と女を別にせよ
 P.34

 なんでも便利になって、それはそれでいいけれども、気働きというようなものがなくなってしまうのは、やっぱりこまる。どうしたらいいか。これは小学校の教育に求めなければいけない。しかし、いま、絶亡的ですね、ぼくらにいわせると、昔にもどれというのではないですよ。そうではなくて、小学校の教育というものは、非常に完備した子どもたちにいいような県境をつくるということは、いまのところ絶亡的でしよう。学校だけが変わればいいというものじゃないですからね、これは。

 小学校のときから男女共学にするでしょう。あれが間違いですよ。そういうことをするから男の尊厳も女性の神秘も子どものときに失われちゃう。全部、混ぜこぜに生活しているんだから、一番大事なときに。感覚的にもいろんなものが育ってきて一番大事なときに、一緒くた(ゝゝゝゝ)にして芋を洗うように教育するから。だから、男が女みたいになっちゃうし、女が男みたいになっちゃう。せめてそれだけでもマッカーサーの進駐軍の教育制度改革のときに男女別の組だけでも残しておくべきだったとぼくは思う。

 外国ならいいけれど、日本人は、日本人らしい人間が育ってゆかなければ、国際的にも珍重されないですよ。国際的に珍重されるということは、その国らしさということに尽きるわけですから。外国のマネをしてここまできたぞとやればやるほど、かえって馬鹿にされるようなことになりますよ。せめて小学校だけれど、だから、男女別に教育したほうがいいと思いますね。中学校まででもいい、別にして。高校から一緒にしたら、ある程度のお互いの神秘的なもの、男に対するあこがれ、女に対するあこがれをもつようになるんじゃないかと思う……。

 それが、一番肝腎なときにやるから、七歳から十三歳、一番肝腎なときに男女まぜこぜにしてしまうから。そのときに生涯を全部決定するわけですかね、人間というものは。大体五歳から十歳くらいの間に全部決定されるわけですよ、そのときの生活環境でその人の一生が。こういうことを考えてみると、これはもはや個人の問題をこえている。どうにもならないようなところがある。

2024.01.31 記す。


「戦前」は十把ひとからげで否定される。
が、いまはもっと恐ろしい時代ではないか……
 P.34

 いまさら総理大臣が教育の何ヵ条なんていったって、そりゃいっていることは確かにまともなんだけれども、果たしてそれが実行できるか。でき得る環境が全部破壊されちゃっているのに、そんなことを口先だけでいってもどうにもならない。ただ勉強せせればいいなんて。

 大学なんて英国の二、三十倍あるでしょう。大学の大安売りでしょう。それがしかもパーソナリティーというものを全部つぶされた教育だからね。芸術もそうだし、医学もそう。全部パーソナリティーのない、ね。医学なんて次第に管理的医学になっていくだけですよ、そうなったら医学の亡びるときです。医学にはまだ管理するだけの能力がないんだもの。人間の肉体のほうが力があるんだから。その肉体本来の力をふやしてゆく、衰えてゆくのを防いで、助ける、それが医学ですからね。このまま管理的な方向にいったら医学は亡びてしまう……。

 考えてみると、いまが一番恐ろしい時代かもしれない。ですからね、ぼくらは戦前から生きてきたわけでだけれども、いまは戦前というと全部否定しますね。江戸時代、封建時代というと全部否定しまうように。しかし戦前はいけない、軍閥が横暴をきわめた間違った戦争をした……これは実際確かにそうだけれども、内政はとても整っていたんですよ。国民に対する政治家の威張り方というものは、民主主義でもなんでもない。大威張りに威張っていたけれども、国民に対する心づかいというものは、神経の配り方がちがいますよ、いまと。外では馬鹿な戦争をして馬鹿軍人だったけれども、内政に関しては非常に安定していたと思う。

 進歩主義者は、やれ監獄にぶち込まれたの、どうのこうのといいますけれども、しかし、ぼくらなんか相当無茶苦茶なことをしたけれど一度もいやな思いをしたことはないんだから、戦前は、思想関係だけでしょう、そういうことがあったのは。

 学生運動の過激派みたいな、ああいう若い人が出てくるというのも、その人個人というより時代のゆがみ、それがああいうかたちで個人を通じて表れてくる、といえるかもしれない。よくわからないけれど、たとえば重信房子、ああいうほうに走るきっかけというのは、ごく単純なものじゃないかと思う。男にだまされたとか、失恋したとか、家庭環境が面白くないとか、そういうことではないかと思いますよ、動機は。

2024.02.02 記す。


プロセスを通じて自分を鍛えようとしない
だから己を賭ける道も見つからない
 P.36

 自分はこういうふうに生きたいとか、

 感覚的にだんだん鈍化している、ということがあるから。パッと見た瞬間にいいなアと思う、俗にいう「ひとめ惚れ」そういうことがなくなっていますね。ほんとうにパッパッと、男なり女なり、見た瞬間にわかるということがない。

 白か黒か、そういうきめつけがあって中間色がない、いまは、人間とか人生とかの味わいというものは中間色にあるのだから。中間色というのは白と黒の間の取りなし。ということは政治ですよ。本来。その政治そのものが白と黒なんだからね、いまは。

 こういう時代では、勘兵衛が一生を賭けていたような男の意地、夢というものは見つけにくいでしょう。その人の資質によりますけれども。たとえば医学校を出た人ですね、僻地へ行って働くなんて絶対いやがっていますからね。僻地の自然の中で、本当に医者がいなくて困っている人を助ける、これは興味をもって面白く有意義だということ。これは多彩ですよ、あらゆる人間に接するんだから……それをやれば顔も変わってくるんだ。しかし、だれ一人やらない。

 そういうところから得たものによって次の段階を見つけて登ってゆくということが、いまはないんだから。学校卒業した途端に、先に博士になっておこう、そればかり考えるから、途中の段階もなにも考えない。プロセスによって自分を鍛えてゆこうとか、プロセスによって自分がいろんなものを得ようということがない。だから、道が見つからないんですよ。小説書く志望の人でもそうですよ。すぐ流行作家になりたい、原稿を金にしたい、それでやっているんだから、いま。

 はっきりわかっている自明のことをやらないんですよ、最近、いまの文明なり文化なりがどんな具合になっているかというと、時計をごらんなさい。腕時計を。まるで文字盤のないのがあるでしょう。真っ黒だったり赤い色だったりの上に針だけ動いている。あれは時計じゃない。「時を見る機能」がない。アクセサリーでしょう。あれなら腕輪をしたらいい、男でも。そういこと一つを見てもわかるように、物事の道理というものが全部狂っちゃっているんだね。

 医者や小説家志望でなくて、数の上では一番多いサラリーマンの場合ねえ……やっぱり同じことがいえるんじゃないかな。なんだか教訓じみていやなんだけれども、下の仕事、人のいやがるようなことをもっと進んでやる、それが大事なんじゃないかと思いますよ。実際ね、これが一番面白いんだよ。上ばかり見て昇進試験だ、なんだというようなことばっかり気を使ってるとだめだ。

 ぼくは、役所の仕事をしてましたがね、自分では一度も昇進試験なんか受けなかった。それより自分の、そのときの仕事を楽しむ、そういうふうにしていたね。そういうふうにしないとね……楽しむことによつて、おのずから次の段階というものが見つかってくるのだから……。

2024.02.03 記す。


「努力」では実らなかったら苦痛になる
「楽しみ」として、仕事に身銭を切れ
 P.37

 サラリーマンでは仕事を楽しむなんてとても無理、毎日同じで、毎日単調で、と思う人もいるかもしれないけれど、そんなことはないんだよ、決して、考えてごらんなさい、ぼくは役所の、それも税金の徴収係をしていた。そういう仕事でさえ「楽しむ」ことは可能だったんですから。

 自分の仕事をして楽しむことができない仕事なんて、ないですよ。差押え係なんて、あんないやな仕事はないよ、それをぼくは実際楽しみにしたんだから、いろいろとやり方を考えてね。たとえば、日銭の入る店があるでしょう。そういう店には、

「毎日来てあげるから、一日二千円、私によこしなさい」

 これなら相手は払いやすいわけですよ。毎日必ず来る……毎日必ず二千円ずつ払う。そうすると、いつの間にかきれいに済んじゃう……。毎日必ず払ってくれるとわかっていれば、あらかじめ領収書をつくって行ける。

 自転車で店の前へ停めるとサッと払ってくれて、こういうふうだから、他の連中が一日中かかるところをぼくはお昼で終っちゃう。それでいて成績は五番と下らない。だから、お昼からは映画身に行っちゃう、大威張りでね。

 どうしても税金を払わない床屋がいた。あるとき行ったら、ちょうど忌中。奥さんが亡くなって、ぼくは、自分の金五百円だったか包んでね、何もいわずに黙って置いて、その日はそのまま帰って来た。翌日、翌日、一番に来ましたよ、床屋が、税金払いに。

 なにも役所の仕事なのに自分の懐の金を払って、と思うでしょう。ところが結局、とくをするのはぼくのほう。自分の受持ちの町内が決まっているわけですよ。で、ぼくが自転車でまわって行くと床屋が店から飛び出して来て、

「池波さん! ちょっと、ちょっと寄って行きなさい。ヒゲそって行きなさい。この剃刀使いやすいからもって行きなさい……」

 あれで二十回以上ヒゲそってもらったか、もちろん金なんかとってくれまdせんよ。あのころ一回二百円か二百五十円……だから、役人でも、会社員でも、身銭を切りなさいというわけですよ。仕事そのものにね。同僚と飲むことじゃないですよ。そうしないと実らないんじゃないかな、仕事が。

 しかし、いまの人は仕事に身銭を切らないねえ。職場でお茶いれてくれる人がいるでしょう。そういう人には盆暮れにでも心づけをする人が、まあない。いつもおいしいお茶をありがとう……そういってちょっと心づけをする、こりゃ違いますよ、次の朝から、その人に一番先にサービスする。そうすると気分が違う。気分が違えば仕事のはかどりがまるで違ってくる。

 こういう「ふうに、自分の仕事を楽しみにするように、いろいろ考えるわけですよ。楽しみとしてやらなきゃ、続かないよ、どんな仕事だって。

「努力」だけではだめですよ.ガムシャラな努力だけでは、実らなかったら苦痛になる、ガックリきちゃって、一種のスポーツみたいに仕事を楽しむ、そうすることによってきっと次の段階が見つかり、次に進むべき道が見えてくるものですよ。

 最後にもう一ついえば、他人が自分をどう見ているか、気をつけてみることです。とくに日常まわりにいる人でなく、そのとき初めて会うような人、旅先で切符を買うとき、タバコを買うとき、旅館で女中さんに会ったとき、その初めての相手が自分をどう見ているかね。それで自分というものがわかる……。

 これは偉くなればなるほど、そういうふうに気をつけないと、課長とか重役とかになればなるほど、ね。

 訳者でもそうだが、偉くなると「とりまき」ができるでしょう。いつでも自分に対するいい顔(ゝゝゝ)しか見えなくなる。そうしたらおしまいですね。

2024.01.28 記す。


豊臣秀吉


秀吉の出生は、 結局、謎であるとしかいいようがない…… P.42

 秀吉についてはね、貧しい、卑しい生れでありながら立身出世して天下を取った、そういう人物として一般には受け取られている。


天性、秀吉は
人をひきつけずにはおかない人物であった……
P.43

 秀吉の偉くなりかたというのは、まさに強運の人というのを絵に画いたようだということになっている。けれども運だけで偉くなれるわけじゃないから、それじゃ秀吉があれだけになった一番の原動力は何かというと、天性人心を得るような、そういう天性を持っていたんですね。人の心をひきつけずにはおかない……。


サルよ、、秀吉は
禿ネズミよといわれながら……
P.45

 秀吉の偉くなりかたというのは、まさに強運の人というのを絵に画いたようだということになっている。けれども運だけで偉くなれるわけじゃないから、それじゃ秀吉があれだけになった一番の原動力は何かというと、天性人心を得るような、そういう天性を持っていたんですね。人の心をひきつけずにはおかない……。


人間は五、六歳までにきまる。
秀吉はおっかさんのおかげで……
P.47

 若いときに、どういう人間に出会うか。それが人柄というものを左右する。その左右することを自然に選んでゆくわけですよ、だれでも。


士民の子も、
生活の内容は大差なかったから……
P.48

 秀吉というと、すぐに、成上り者といい、士民の子というでしょう。しかし、昔は、そりゃたしかに大名なり大金持ち、大百姓というものはいるけれども、生活自体はそんなに士民とかわらないですよ。ないんだよ。貧富の差というものが。


始めから天下を望んだやつは
みんな駄目になってしまう……
P.49

 秀吉が、始めからひたすら天下を取りたい一心で、それを目的にしてあれこれやっていたら、とっくに駄目になっていたでしょうね。信長に仕えている間、秀吉はまるでそんな気はなかったといっていい。……ただ、信長が自分にうってつけの主人であり、信長にとっても自分はうってつけの家来だという、そういう感じはあったでしょう。理想的な、双方がピタッと呼吸の合った関係で、その活動の中に主従とも酔っていたんじゃないですか。二人の関係を言えば。


男というものは
挫折するたびに大きくなってゆくものだ……
P.30

 いま、現にやっていることに、どれだけ打ち込んでいるかという、その積み重ねが後になってそのとき(ゝゝゝゝ)が来たときの差になる……かといって、ただ一所懸命に努力するというのでも駄目だということは、この前にも話したと思うけども。行く先の望みということでどりょくするというのは、その望みが思いとおりにならないと、もう続きませんから。苦痛で。


政治家としては
秀吉よりも家康のほうが一枚上だが……
P.52

 信長にね、秀吉がこういっていますよ。日本の天下が治まったら自分は朝鮮にやってくれ、朝鮮を自分に治めさせてくれ。そうしたら、お前は大変な大風呂敷だと信長が笑った。秀吉が異国へ目を向けるという感覚は、これはやはり信長の感化でしょうね。


もし、秀吉に跡継ぎがいたら
歴史は一変していたろう
P.53

 せっかく天下をとっても、自分亡きあとの天下をだれに譲るかということになったとき、秀吉の心は暗澹としてくる。家康のように将来への展望というものが持てないわけだから。

 


人間、やることは
必然的にその師匠に似てくるものです……
P.54

 信長にね、秀吉がこういっていますよ。日本の天下が治まったら自分は朝鮮にやってくれ、朝鮮を自分に治めさせてくれ。そうしたら、お前は大変な大風呂敷だと信長が笑った。秀吉が異国へ目を向けるという感覚は、これはやはり信長の感化でしょうね。


死にざまを見れば
その人間がわかる……
P.56

 天下をとった秀吉というのは、朝鮮を攻めとって、そこへ天下様をお迎えするとか、少し誇大妄想気味になる。とうとう狂ってしまわれたと家臣みんなが思った」くらいだからね。家康なんかに、これはもう長いことはないという見きわめをつけられてしまう。もともと朝鮮征伐に賛成した大名はひとりもいないんだからね。みんなはんたいしているわけだ。


芸術文化の大パトロンとして
秀吉の名は永遠不滅である……
P.57

 秀吉の死んだあと、秀吉の時代はたった十年かそらしかなかった。しかし、この十年というものは大変な十年ですよ。


加藤清正


慶長十六年三月、京都二条城において、徳川家康、豊臣秀頼と会見。それは豊臣家の存亡を賭けた歴史的な会見であった。この日のために死力を尽くしてきた清正にとっては生涯最良の一日であったろう。だが……一週間後、清正は突然発病する。

急遽熊本へ帰路についた清正は、船上で血を吐き、六月二十四日ついに帰らぬ人となった。清正公毒殺さる……噂はたちまち広がった。

清正というと、
ひげの豪傑というイメージが強いが……
 P.76

 たしかに加藤清正は、ひげを生やしていた。しかし、中年になってからだよね、これは、朝鮮戦争の前ごろからじゃないかな。そのひげと、有名な虎退治の逸話から、清正すなわち豪傑という概念がすっかり出来上がってしまっている。といっても、戦前までの話だ。

 ぼくが子どものころは、五歳の幼児でも清正のなをしっていましたよ。ちかごろは高校生でも知らない。加藤清正がほとんど主人公であるような小説、そう『火の国の城』、あれを書くとき近所の高校生をつかまえて聞いてみたんですよ。

「加藤清正、知っているかね」

「それ、議員でしょ……」

 これだからね、いまじゃ、外国の歌手やスターのな前なら知っていても、自分の生まれて育った国のことは何も知らない……。

 加藤清正は、永禄五年(一五六二)年六月二十四日に、尾張の国、愛知郡の中村というところに生まれた。現代(いま)のな古屋市・中村。秀吉も、この同じ中村の生まれなんですよ。この時代のことはね、なにしろ百年も戦争が続いていたんだから家系だ、なんだといっても、それがどこまで本当かよくわからない。調べようもないし。秀吉もなもない土民の子に生まれて、ついに天下人になったということに定説ではなっているけれども、高貴な血を引いていたという説もある。

大した立派な女性だったらしい。
清正のおっ母さんという人は……
P.77

 たかだか村の鍛冶屋の娘……というと、現代(いま)の人は「なんだ……」と思うかも知れないけれども、これがそうでない。しがない仕事どころか大した職業だった。当時は、ちゃんと苗字もあるしね。相当な格式を持っていた。清兵衛の祖父(じい)さんは小島式部という武士であった、ともいわれています。ウデのある職人というものは、むかしは珍重されたばかりでなく、社会的に尊敬されたもんだ。

 むかしの書物(ほん)には、とにかくいろいろと書きのべてあって、清正の叔母さんが秀吉夫人の姉さんだという説のほかに、

「いや、従姉妹どうしだった」という人もあれば、「いやいや、清正の母と秀吉の母が従姉妹なのだ」と記しいるのもあるし、また「そうではない、秀吉の母の妹が清正の実母に他ならぬ」と書いてある本もあるんだよ。

 まあ、こまかいことはどうでもいいんだけれども、とにかく清正のおっ母さん、大変な偉い人だった、情の厚い……。清正の母、伊都という人については、こんなエピソードが伝わっている。清正が、まだ伊都の腹ン中にあったときの話だというんだが、ある日、近くの家から火事が出た。

 その家に、めくらの老婆がいて、ちょうど風呂に入っていた。「火事だ!」という村人の叫び声を聞いて伊都は、自分が妊娠中の躰だというのも忘れて外へ飛び出し、

「ばばさま、ばばさま……」

 と、めくらの老婆を助けるため、猛火の中へ飛びこんで行った。そうして、見事、老婆を救い出した……というんだよ。

 こういう話は、しばしば後から作られることがある。単なる英雄美化のための説話、といってしまえばそれまでだ。けれども、清正のおっ母さんという女性が、こういう性格の持ち主だったということは事実だろう、これは。そう思いますよ。ほかにも例証を挙げればいっぱいあるんだ。

 だから、とにかく、そういう立派な母親に育てられた清正だということですよ。大政所という立派な、偉いおっ母さんに育てられた秀吉と、そういう点で似ているんだね、清正は。

 清正が子どものころは、村中で知らぬ者はないという、大変な腕白者だった。年上の少年と相撲をとっても一度も負けたことがなかったというんだから。そのころの腕白仲間、つまりおさななじみが、後にみんな加藤家の重臣になっている。飯田覚兵衛とか、森本儀大夫とか……。

 村の子どもの一人、後の家老の飯田覚兵衛がいっていますよ、清正のおっ母さんのことをね、自分の本当のおっ母さんみたいだと……。

「自分は殿(清正)の御生母から、我が子同様に可愛がられた。自分の実の母は早くから世を去っていたため、まるで自分の本当の母のような気がして、ずいぶんと甘えたり、物ねだりをしたものである。御生母は虎(清正)の友だちは、虎の財宝(たから)でござる、と、かように申され、自分のみばかりでなく、幼少のころの殿のまわりに集まる子どもたちを、惜しみなくいつくしんでくれたものだ」……これは覚兵衛が後年、語り残したことばです。

 自分の息子も、その友だちも、少しもへだてなく可愛がることの出来た、そいう心の温かい、本当に情のある人だった、清正の母親は。ちかごろのいわゆる教育ママなんかとは違いますよ、全然。

天正九年、清正二十歳の初陣
以後、秀吉に従って……
P.78

 十五歳になると、前髪を落として元ぷくの式を挙げ、正式にな前が与えられて、一人前の男になる。現代(いま)でいうところの成人式だね。いまは、やっと二十歳(はたち)になってだけれども。このとき以来、加藤虎之助は加藤清正になる。このころ秀吉は、近江長浜の城主だ。肉親の情はことのほか厚い秀吉だから、正確にはどうかわからないけれども、とにかく身内といっていい清正、さっそく取り立ててやったに違いない。これから先は、秀吉に仕えつつ次第に清正、なを挙げて行くことになる。

 最初に戦功を立てたのは、天正九(一五八一)年の鳥取城攻めのときだったといわれている。清正、二十歳。どういう男になっていたかといえば、大変堂々たる偉丈夫であったらしいね。非常に背の高い人で、優に六尺は越えていたという。現代でも相当なものだがそのころとしては大変な大男といっていい。

 翌年、秀吉が高松城を攻める当たって、その前に冠山城を攻めた、このときにも加藤清正、武功があったらしい。一番乗りで攻めこみ、虎之助清正さながら鬼神のごとく、十文字槍を振って働いた……と、これは『清正記』という書物に書いていることだけれどもね。

 そのあとも、いろいろあって、そのたびに結構、清正、働いた。しかし、なんといっても勇名をとどろかせたのは例の賤ヶ嶽の七本槍だろう。本能寺の変(天正十年・一五八二)のすぐあと、山崎の合戦で主君信長の仇、明智光秀を打ち滅ぼした秀吉は、文字通り旭日昇天の勢いだったわけだ。これが、まわりの連中、われこそは……と内心思っていた柴田勝家なんかにしてみれば面白くない。この勝家を中心にして出来た反秀吉勢力を、秀吉がすっかり討ち果たして天下統一を実現して行くんだけれども、賤ヶ嶽の戦いは秀吉と勝家が覇権を賭けて闘ったものだ。

shitihonyari.png  このときの戦いで、秀吉側近の若武者たちが、それぞれ槍を振るって目覚ましい働きをしたわけで、これが世にいう賤ヶ嶽の七本槍。加藤虎之助清正。平野長泰。脇坂甚内安治。加藤孫六嘉明(よしあきら)。福島市松正則。糟谷助右門武則。それから片岡助作且元(かつもと)、この七人。清正は真先かけて飛び出し、一番槍とな乗って、敵の武将拝郷五左衛門隊の鉄砲頭・戸波隼人という者を討ちとったというんだな。

 この賤ヶ嶽の働きで、七本槍の連中は一様に三千石もらうことになった。ところが、どういうわけか福島正則だけは別挌の五千石。これには血気盛んな当時の清正、怒ったそうだよ。

「市松もご一家なれば、われらもお爪の端。こたびの槍、われら少しも市松におとり申さぬに、なにゆえ、われらの方が二千石少ないのでござる。気に入らねば、このお墨付、お返し申す!」

 と怒鳴ったという話が伝わっている。ともかくも清正、これを機に主計頭(かずえのかみ)に任ぜられて、以後は部隊長としての働きになるわけだ。

 天正十四年(一五八六)年、関白の位について天下人になりつつあった秀吉は、翌十五年、九州平定に出かける。このとき清正は秀吉に従って九州入りした。そして次の年の天正十六年(一五八八)年には肥後の国、隈本(くまもと)城に入り二十五万石。これは、もう、大変なスピード出世です。福島正則さえあっという間に追い越してしまう。まだ、ようやく二十六か七だ、清正。

 この隈本城というのは、後世の熊本城とは違いますよ。古城と呼ばれているところで、現在の熊本城から五、六百メートル離れたところだ。二十六、七の若さで九州の大名に取り立てられたのは、このころもう秀吉に外征の心づもりがあったからじゃないかな。多分ね。朝鮮を攻め、さらに(みん)国まで攻め入る、その先鋒に清正を予定していたのだろうと思う。秀吉も、清正なら安心だからね。

清正、朝鮮に武勇を轟かす。
しかし、秀吉の怒りを買って……
P.80

 秀吉は、朝鮮へ兵を出す前に、天下統一の総仕上げとして小田原の北条氏を攻めた、天正十八(一五九〇)年に。この小田原攻めに際しては、清正は「九州の地を守れ」と命ぜられて、熊本の城にいたから、従軍していない。わざと出陣させなかったわけだ、秀吉は、それは朝鮮征伐のために、力を蓄えさせておいたのだ。九州が本陣になるからね。その大事な九州は清正にまかせておきたい、また清正でなければならない……と秀吉は考えていたのだろう。

 秀吉は、小田原の陣中から、みずから筆をとってしたためたものを含めて六通もの手紙を熊本の加藤清正に送っていますよ。いろいろとこまかく戦況や滞陣の様子など知らせて。この手紙を読むと、清正にかけていた秀吉の信頼がどれほど大きかったか、それがよくわかる。

 朝鮮出兵は、知っての通り、二度あった。前役での清正の働きでは二人の王子をとりこにしたのが有名だね。清正の軍は、まったく無人の境を行くようなめざましさで、不敗だった。強いばかりではない。清正の軍は、軍紀が厳正なことでも知られている。そういう厳正な人物だったということですよ、清正。釜山上陸以来、どこへ攻め上っても民を犯すということがなかった。まったく、清正軍が占領した土地では、どこでも民はふだんと少しも変わらず安らかに生業に従っていたというんだから。

 朝鮮の役が始まって四年目、慶長元(一五九六)年に、清正は秀吉の勘気をこうむって急ぎ帰還せよという命令を受けた。これは、結局、現場で生命けで戦っている清正と、本国の遠く離れてたところにいる秀吉とをつなぐパイプ役がよくない、そのためです。

 両者の意志の疎通をはかる中継ぎ役であるはずの石田三成(1560~1600年)、これが小西行長(*黒崎記:戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。肥後宇土城主。アウグスティヌスの洗礼名を持つキリシタン大名でもある。 当初は宇喜多氏に仕え、後に豊臣秀吉の家臣となる。文禄・慶長の役では女婿・宗義智らと共に主要な働きをし、序盤の漢城府占領の際には加藤清正と先陣の功を争った。 1555~1600)なんかと組んで清正のことをいろいろと悪(あ)しざまに秀吉に報告したんだな。このあたりの理由については、いろいろいわれているけれども、元来、加藤清正という人が、真向正直な、妥協することをよしとしない人間で、石田三成のような策謀家タイプと正反対だ。全然肌が合わない、お互いに。

 最近は、新説や新解釈が流行(はや)って、石田三成を大変立派な人物だともいいますがね、そうは思わないな、ぼくは……はっきりいって。なにか、こう小賢しい感じでね。智謀の士というよりも、むしろ陰険な能吏型の人間ですよ。人に取り入ることが上手(うま)くて、現代の政治行政でいえば、まあ官房長官みたいな、そいう役どころがぴったりだった。だから、秀吉という大器量の人の下にいれば、それなりの優れた働きはするんだけれど。

 三成の中傷で呼び戻されて蟄居を命ぜられた清正、その心中は察するに余りがある……。こんなに殿(秀吉)のために一所懸命に最前線で働いて来たのに……物心ついて以来ずっと秀吉のためにつくして来たのに……と、ずいぶん失望しただろうと思う、清正は。それまで自分の心の張りになっていたものが不意にプッンと切れた。がっかりしたろうねえ、そりゃ。

「地震加藤」の一幕があって、
徳川家康のとりなしがあって……
P.81

 清正は、内心欝々としながら伏見の邸に謹慎していた。ちょうどそのとき京洛の大地震があったわけだ。誤解から怒りを買い、秀吉に目通りさえ許されずにいた清正だけれど、このとき我を忘れて駆けつけた、伏見の城に。指月(しづき)の城というんだが。

 余震もまだやまない深夜の庭で、提灯の明かりで清正を見た秀吉は、思わず涙を流したといいますよ。幼い時分から手塩にかけた清正なんだから、もともと。その清正が、数年にわたる異国の滞陣で、やせ黒ずんだ上に、自分に謹慎を命ぜられて、その心労が重なって……。本来はとても温かい人ですからね、秀吉という人は。

 この地震騒ぎのときのエピソードが、例の有名な「地震加藤」という芝居になった。このあと、家康が秀吉にとりなしてくれてね、前田利家と一緒に。それで清正、許された。これが加藤清正と徳川家康の直接的なかかわりの最初かな。家康は先の先まで読める大変な人だからね。清正の価値をよく承知していたろう。こういう人物を自分の味方につけておかなくては、将来何かあったときにえらいことになる。そういう配慮が家康のどこかにあったかも知れない……。

 それから間もなく、秀吉は大阪城で明の講和使と引見したが、その講和の条件というものがひどいものだったから、すっかり怒ってしまった、秀吉が。小西行長や石田三成が、耳ざわりのいい話ばかり、適当に秀吉に伝えていたわけですよ、それまで。ここで激怒した秀吉は、使節を送り返し、二度目の朝鮮役が起こる。二度目は前の役と違って日本軍、旗色が悪かった。明の大軍に押され気味でね。それでも、清正軍の蔚山(うるさん)の籠城戦は語り草になっているくらい立派なものだった。水も食糧もなく、紙を食べ、壁土を煮て食いながらついに頑張りぬいたのでしたのですから。

 慶長三(一五九八)年八月に入って秀吉が死ぬと、その遺言で外征はとりやめになった。秀吉が死ぬときの話ですがね、いわゆる五大老(*黒崎記:徳川家康,前田利家,毛利輝元,宇喜多秀家,小早川隆景)に後事を託しているでしょう。家康を始めとする。こういうところが、人間の哀しさというか、むずかしいところなんだ。

 加藤清正ほど秀吉にとって信頼できる人はいないわけだよ。親族であるし、婚姻関係もある。そういう主従なんだから。徳川家康ほど親子代々の家臣団ではないけれども、秀吉にも清正をはじめとする大家臣団みたいなものがあったわけですよ、一応。ところが、せっかく天下を取って死ぬときに、秀吉、そういう本当にたのみになる人に後事を託さないんだねぇ。遠ざけたというのではないんだけれども、清正なんか、ね。

 結局は家康なんかに託しているわけですよ。つまりそれは、家康がそれだけの実力を持っているから、秀吉としてみれば自分の次は家康だと思うから、頼まざる得なかったんだろう、家康に。

 現在でもよくある、こういう話は、ぼくの知り合いにもあるしね。見当違いのところに自分の後事を託しちゃう……自分が一番よく知っている、自分の小さいころからの旧友に託さないで……。そうすると、とんでもないことになったちゃって、あとに残された身内の人なんかが大変な苦労をしなければならない。そいうところ、なかなかむずかしい話でね。秀吉ほどの英雄でも見当違いをしちゃうのだから。やっぱり死ぬ前のころから、多少ボケていたかも知れない。

秀吉没後の清正は、
もはや単なる武将ではない……
P.82

 関ケ原の役で天下が東西に別れたとき、清正は東軍についた、知っての通り。西軍の張本人の石田三成と不和の間柄だったということもあるが、それ以上に、

「西軍は、豊臣家の軍ではない。あれは治部少(三成)の私的な軍である」

 という信念を持っていたんだね、清正は。だから徳川家康の東軍に味方をして、九州一円の鎮圧に当ったわけだ。家康も、このことを大いに感謝し、

「よくぞ仕えてのけてくれた」

 と、戦後に肥後全土と豊後の一部を合わせて五十四万石を清正に与えている。

 また石田三成のことになるけれども、この関ケ原の戦い一つを見ても、その人物が大したものでないことがわかる。兵数からいえば三成方が十二万八千、家康方が七万五千。断然西軍のほうが優勢なわけだ。ところが負けちゃう。実戦の経歴が、全然ないわけではないけれども、まあ、ないに等しい。

 大軍をひきいて戦をする器じゃないんだね。根本的なことは、三成の西軍が数こそ多いけれども、まったくの烏合の衆だったということ。それだけ人望がないんですよ、石田三成に。この人のために力を尽くして戦おうという気にだれもならない。ほうびに釣られて味方しただけの軍勢だということが三成にわかっていないんだ。

 三成は秀吉の好調時代に秀吉のそばにくっついていて、つねに権力の座にいたいたけれども、順境しか経験がない。清正みたいに異国の地で生命がけで敵と戦い抜いた、壁土まで食いながら頑張ってのけた、そいう体験をしていないでしょう。こういう、逆境に沈んで苦しみ抜いたことのない人間は、だいたい駄目なんだ。人を見る目も出来ていないしね。

 関ケ原は、家康が三成を挑発して計画的に誘い込んだ戦いですよ。みすみす、それに乗っちゃう、三成は。それでも西軍が勝つチャンスがなかったかというと、決してそうじゃないんだ。あったんだよ、絶好の機会が。家康がすぐ目と鼻の先に到着した、その晩、夜襲をかけて一気に家康を討ちとる可能性ががないこともなかった。それを献策した人があったのに、三成は実戦の経験がないから、むざむざこの好機を逃してしまう。

 陰険な性格で人望がなく、実戦も知らず、人心を洞察する力も欠けていた、こいう三成が家康に勝てないのは、まあ、当然のことだった。これに比べて、加藤清正は人間の大きさが違っていたなあ。朝鮮の役から以降、清正は別人のごとく大人物に変貌している。秀吉亡きあとは、天下が家康にならなければ治まらないということを、明確に洞察していた、清正は。

 戦争というものがどんなものか、清正は身をもって味わっている。永久に戦争のない天下であらねばならないと、清正は秀吉の没後ひたすらその一事を考えているんですよ。それには、家康が天下を治めるしかない……と清正は見きわめていたんだ、ぼくはそう思う。


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※参考:谷沢永一『五輪書の読み方』(ごま書房)昭和57年10月5日 初版第1刷発行 P.170~173(黒崎記)

"虚"を衝けずに敗れたロマンチスト・石田三成

 剣の世界に限らず、敵方の情報を入手することは重要である。企業社会においても絶えずライバル社の動勢を探り出すための"情報戦"が繰り広げられている。もっとも、それがあまりに素朴にすぎると、例のIBM事件のようになってしまうが……。

 さて、武蔵は「一、景気(けいき)を知(る)といふ事」の項で敵情判断の重要性を説いている。「敵のさかへおとろへを知り、相手の人数((にんずう))の心を知り、其場の(くらい)を受け、……」 (岩波文庫『五 輪 書』宮本武蔵著 渡辺一郎校註 P.88:黒崎記)

 要するに敵方の動向を的確に判断せよ、と言っている。なぜ敵情判断が必要かと言えば、それは相手の虚を衝くためにほかならない。

 武蔵はロマンチストではない。『五輪書』に書いてある内容を見てもわかるように、つねに実践に即したものの考え方をしている。その考え方からすれば、勝負に勝つために虚を衝く、敵の弱点を攻めるというのは当然のことなのだ。

 この武蔵と対照をなす人物が石田三成である。三成は"虚を衝く"ことを潔しとしなかったためか、大仕掛けの合戦を好んだフシがうかがえる。歴史に残る関ケ原の大合戦は、あるいは三成の壮大なロマンチシズムから発したのかもしれぬ。しかし、哀しいかな三成は、敵も同様に態勢を整備していたことに気づかなかったのである。つまり敵情判断が甘く、それが家康に敗れる因となる。敵情判断を怠って、大仕掛けの合戦に臨むというのは、勝負の問題よりむしろ美学の問題と言ったほうがよい。その意味で、三成は武蔵よりもはるかにロマンチストであった。

 もう一つ、西軍が敗れた理由は、三成が"理外の理"ということを知らなかったから。

 明治になってから、ドイツの兵法の専門家が日本に来た時、関ケ原の陣容の配置図を見て、「これは西軍の勝ちだ」と言ったという。つまり、戦略上では絶対に勝てるはずだったのである。

 それなのになぜ負けたかと言えば、先の理由に加えて内通者が出たからだ。三成は太閤縁故の西軍から内通者が出るとも思っていなかった。これは"理外の理"を知らなかったということ。人間は究極では恩義とか正義とか義理というよりも、わが身大切で利に走るという"人間性の極意"を知らなかったのである。

 したがって、この場合には東軍の敵情判断の方が勝っていた言える。戦力的には西軍が勝っていながらも、東軍の"虚を衝く"作戦に、西軍は無惨にも敗れ去ったのである。

 要するに、勝負にはこれと決まったルールはないということである。それは政治や人間関係でも同じだ。チャップリンの映画にあるように「一人殺せば殺人罪になるが、何十万人殺せば英雄になれる」ということが現実にある。政治は大義名分さえ立てば大量の人殺しができ、それを刑罰で罰することはできないのだ。

 人間関係も同様、刑法に触れさえしなければ、戦争において相手をどんな形で蹴落としても罪には問われない。こうしてはいかん、ああしてはいかん、というルールはまったくないのである。

 その点、『五輪書』もルールには一切触れていない。終始一貫して勝負に勝つための方法論、技術論が述べられているだけだ。つまり、ルールも大前提もない、ひとつの極限の場というものを設定しているところに、『五輪書』の意味があるわけである。

 したがって、武蔵が他の兵法書を批判するのもきわめて当然である。道場は板敷で、広さはこれだけ、竹刀の長さはどれくらいで、打ってよい場所は四ヵ所だけというように、ルールにがんじがらめになった剣術は、もはや勝つための技術ではないのである。

家康に口実をあたえてはならない。
豊臣家を守る道はただ一つ、と……
P.84

 秀吉には秀頼という遺児がある。あるけれども、まだ子どもですからね。その秀頼が成人して自分の力で豊臣家を切ってまわすようになるまでは、どんなことがあっても戦争なしで済ませなくてはならない。それが清正の心だったとぼくは考えている。

 そのためには、清正は自分が家康に忠義を尽くしていなければならないわけだ。ところが清正の本当の心がわからない大阪城の豊臣の家来や、ことに淀君なんか、清正がすっかり徳川方に鞍替えしたとしか思わない。清正の家康への忠義の尽しぶりが非の打ちどころのないものだけに、一層誤解されてしまうんだね。

 清正の江戸屋敷は、現代(いま)の国会議事堂の北東面、皇居の堀端に向かい合わせに尾崎記念館のあたり一帯にあった。後に井伊家の藩邸になり、幕末には大老井伊直弼がこの屋敷を出て出仕をする途中を勤王浪士に襲撃されるわけだ。大層豪華をきわめた立派な屋敷で、外塀の丸瓦にすべて金の定紋をはめこんだから、きらきら光って大評判だったといいますよ。

 ぜいたくな屋敷を建てたものだけれども、これだって清正が、暗に、

「これほどの費用を屋敷にかけておりましては、もはや戦をするゆとりもありませぬ」

 と、徳川家康に表明していることですからね。そのくらい清正は気をつかった。

 外様(とざま)の大名には、毎年のように江戸城やな古屋城の工事を命じて金を使わせる、これが家康の方針なのだけれど、ほとんど十年もの間、加藤清正は文句一ついわずに、この難題に耐え忍んでいる。はるばる遠い九州から出て来ては城つくりや城なおしを引き受けるのだから、実に大変なことですよ。

 それもこれも、関東(徳川家康)の気持を怒らせまい、事を起こすまいと思えばこそなんだ、豊臣家のために。それを大阪方では「関東にこびへつらう肥後どの」だとか「むかしの武名が泣いておるわ」とか、聞くにたえないような悪口をいう。淀君に至っては、「肥後どのがまいっても、右府さま(秀頼)へお会わせしてはならぬ」とヒステリックになっている。清正の苦心、苦労が思いやられますよ、実際。こういう清正の胸の内を本当に理解していたのは、秀吉夫人、そのころ尼になって高台院と呼ばれていたけれども、この人だけだっただろうと思う。

 清正と高台院の二人には、ひたすら"再び戦火を起こしてはならぬ"という心しかなかった。この二人は、家康の本心を察知しているから、豊臣方がこわくて仕方がないんだ。家康は、完全に天下を取った形になってはいるけれども、いつ、豊臣方が反抗するかわからない。家康もだんだん齢を取って来るでしょう。かつての天下人であり、自分が臣ぷくして来た信長や秀吉が、いずれも死後に天下の大権を子孫へ譲り渡すことが出来なかった、その事実を家康はわが目で見て来ている。

 それだけに、自分が死んだ後も徳川の天下がつぶれぬよう、しっかり土台を固めておかなければ……と家康は決心しているわけだ。その家康にとって唯一の心配の種は豊臣家ですから、結局。できることならば、なんとかこれを戦争に引きずりこんで、徹底的に叩きつぶしていまおう、そう考えている。

 清正はそれを知っている。だから、家康にしかける口実を一つたりとも与えまいと苦心をしているわけですよ。

豪勇の武将から深慮の大政治家へ。
 その清正に比べて、ちかごろの……
P.85

 まったくお粗末になっちゃた、このごろの政治家は。

 すべたがそうではないが、大半は政治家と呼ぶにも値しない、とぼくは思うね。少しは歴史を研究して清正や家康の人物を勉強するといいんだよ。この両者の虚々実々の駆け引き、そこに政治家の一つのありかたを見ることが出来るんじゃないか。

 党利党略とか、党内の派閥争いとか、それだけでしょう、現代(いま)は。これは、どの党を見ても全部同じだよ。だから、日本の政治の全体がすっかりおかしなものになっちゃっている。内政も駄目。外交も駄目。ビジョンもなにもあつたものではないし。亡びる前の大阪方と同じだね、いってみれば。

 加藤清正の立場としては、あくまでも関東(家康)に乗ずるすきを与えてはならぬ、このことに尽きぬ。徳川家康が狙っている開戦の機会を、絶対に与えてはならない……そのためには、いさぎよく頭を下げるべきときは下げねばならない、と、こう考えているわけですよ。もし、再び豊臣家が天下をつかんだとしても、それは一時的なものに過ぎず、決して永続きはできまい……清正はそう見ていた。天下を統治して行くためには、そのころの豊臣家の政治機構が単純すぎて駄目なんだから。

 まず、譜代の家臣団というものがないでしょう。豊臣恩顧の大名といっても、それは全部、亡き秀吉が一代のうちに”わが家来”にしたものですからね。関ケ原の戦いを見てもわかる通り、中心の秀吉亡きあとは協力も結束も、もろいものだ……。

 そこへ持って来て、秀頼の生母の淀の方の問題がある。そりゃ血筋はいいし、愛らしい、いかにも女らしい女だっただろうと思う、むすめのころは。しかし、秀吉によって破天荒な甘やかしを与えられた。わざわざ彼女のために、淀へ城を築いてやったくらいだから。それで淀君とか、淀の方とか呼ばれるのだけれどもね。

 女が、驕慢の頂点へのぼりつめてしまうと、もう決して、わが身のことをかえりみなくなる。物事が正しく見えなくなっちゃうんだな。大局を見るなどということはまったくできない。これは、まあ、女性の特質なのだけれども……。

 冷静な政治的判断からすれば、当時、徳川家康の力がどれほどのものか、それに比べ、豊臣家がどういう現状であるのか、これは明々白々なんだ。それが淀君にはわからない。そのくせ自意識だけは、異常とも思えるくらいに高いだろう。天下は一時、家康に預けてあるにすぎない、家康などは亡き殿下(秀吉)の家来でしかない……そういう観念からどうしてもぬけきれないわけですよ。

 加藤清正に対しても、そうですね。むかし、あんなに殿下のご恩をこうむりながら、関東へ尾を振り、家康の機嫌をとり結んでいる。あのありさまはどうじゃ……と腹を立てることしか知らない。関東と大阪方の実力の懸隔を知り尽して、なんとか豊臣家の安泰のために両家の間に戦が起こらぬように、と心をくだいている清正の胸のうちへは、どうしても考えが及ばない。文字通り生命を賭けて豊臣家の安泰をはかろうとした実力者は、加藤清正ただ一人といってもよかったのだけれども、まあ、所詮は女ですからね……。

清正の豊臣家への忠誠心は
むしろ家康のほうが知っていた……
P.86

 文句のつけようがない徳川家への忠義の尽しぶりだけれども、しかし、清正の本当の心がどこにあるか、一番よく知っていたのは家康だろう、大阪方ではなくて。

 慶長十五(一六一〇)年の早春、加藤清正は肥後熊本の居城を発し、な古屋へ到着した。な古屋城の築城工事のためだ。このとき、清正は武装の兵列をひきいて、自分も甲冑に身をかため、まず大阪へ着くと直ちに大阪城の秀頼の機嫌をうかがい、伏見の加藤屋敷で三日をすごし、それから大軍をひきつれてな古屋入りをした、というんだな。

 これは「おだやかならざること……」と徳川方で思った。当然。それで家康は、本多正信を使者に立てて清正のところへ寄こした。本多佐渡守正信、家康の腹心ですよ。この正信が清正に三ヵ条の質問をしたんだ。まず第一に、秀頼の機嫌うかがいを堂々とやってのけ、それから後にこちらへ出向いて来るとは、大阪方を関東より重く見ているのではないか……次に、天下太平の世であるのに物々しい軍勢をひきつれての道中は、いささか不穏ではないか……第三には、清正どのがむかしの戦陣の折のまま、ひげをつけておる、それは時節柄、異風殺伐な感じがするゆえ剃り落としてしかるべきではあるまいか……。

 大名のひげにまで文句をつけるとは、まったくばかばかしいような話だけれども、そいう家康の無茶ともいえる注文が通るかどうか、試してみたんでしょうね、これは。このとき清正の返答、実に見事なものだ。

「これは、また、腑に落ちぬことを申される。豊臣家が、この清正にとって、いかに大恩のある家か、これは家康公もとくとご存じのはずでござるまいか。なるほど、それがしは徳川家にも恩義がござる。なれど新恩のために旧恩を捨てると申すのは、まことの武士のなすべきことではないと存ずる」

 正論ですよ、堂々たる。本多正信も、こう明快にいわれては返すことばもなかった。次に、清正はこういった。

「ご承知のごとく、それがしの領国は、肥後の国にて、はるばると遠うござる。もし万一、途中にて異変が起こった場合、軍兵を領国から呼び寄せたりしていては、急場の役には立ち申さぬ。したがって、十分のご奉公もできぬ、と、思いつきましたので……」

 その、ご奉公とは、どなへのご奉公でござるかと、正信が鋭く問いつめた。清正は言下に

「無論のこと、天下を治むる徳川家へのご奉公でござる」といい切った。これではもう、これ以上問いつめょうもないわけだ。ひげの件に関しては、清正、こういっている。

「なるほど、まさに、このようなものを剃り落としてしまえば、さっぱりといたすことでござろう。なれど、若いころからたくわえた、このひげ。むかし戦陣に在ったころ、このひげ面に頬当をつけ、兜の緒をきりりと締めたるとき、身の内が引きしまるほどのこころよさを、いまもって忘れがたく……」。

 このように天下太平の世とはなっても、若きむかしを忘れがたい清正の胸中、とくとお汲みとりねがいたい

 しようがないから、本多正信、駿府(静岡)の城にいる徳川家康のところへ帰って、その通り清正のことばを伝えたわけだ。すると家康、むしろ機嫌よく

「清正の申すことよ」と、笑ったという話ですよ。しかし、清正の本心、家康ほどの人だからちゃんとわかっている。口調にそぐわない緊張が、そのとき家康の面上に漂っていたに違いない、と思いますね。

史上随一の土木と建築の名人、
それは、加藤清正である……
P.88

 清正みずから率先して引き受けたというな古屋城の天守閣の工事。これは本丸の西北の方に建てられたもので、その偉容がどんなものであったかは、再建された現代のコンクリート造りのな古屋城天守閣を見てもある程度はわかる。形だけでもね。

 天守は五重で、土台は地中深々と松の丸太を敷きつめた。その上へ二十数メートルも石垣を積み上げて天守台とした。もう実に大変な工事なんだけれど、早いんだ。清正の工事というものは、驚くほど早い。清正はじめ十九の大名たちが延べ二十万人を越える人夫を使っての築城だったというけれども、清正の工事が群を抜いて早かった。早いばかりではなくて、その工事のしかたが清正独特のもので、これは秀吉の流儀にならったんだろうね。思い切り金を投じて、派手に、にぎやかにやるんだよ。

 天守の石垣に使う大石が船で運ばれて来るだろう。その大石を赤の毛氈で包み、大綱に鮮やかな緑色の布を巻き付けたものでからげ、その石の上に清正自身が乗る。大烏帽子(えぼし)をかぶって、片鎌の槍を突き立てて。まわりには着飾った小姓たちをはべらせてね。それで清正みずから「それ、唄え」と大音声で木やりの音頭をとる。この清正を乗せた大石を先頭にして、いくつもの石材を何千人の人夫が引き運ぶわけだ。

「肥後さまの石引き」といえば、すっかり名物になっていて、沿道には酒、さかな、餅などを売る商人がつめかけ、店をひろげ、人夫と見物人を相手に目の色を変えたというんだから。いい機嫌になった見物人や商人たちまでが、ほろ酔いで何千何百、これも飛び入りで一緒に石材を引く……だから運搬の能率がかえって上がったわけですよ。人心の機微を実によく心得ているんだ、清正。まあ、こういうところが「秀吉ゆずりの仕様」というのだろう。

 しかも、ね、加藤清正自身が、麻の小袖に短袴をはき、工事場へ出て来て、人夫たちと一緒になって汗まみれで、石材を動かしたり大声で指揮をしたりする。これは福島正則なんかもそうだったといいますがね。

 夜になると、遊女たちを大勢呼び集め、宿舎の前に踊り屋台をもうけて、笛や太鼓もにぎやかに、かがり火を明々とつらねて……もちろん酒さかなもたっぷり用意させ、人夫や家来たち、見物人にも振舞った。大変な散財ですよそりゃ。

 けれども、こいうお祭り騒ぎの中にも清正がこまかく神経をつかい、綿密な指揮を与え、みずから泥と汗にまみれて働くのだから。これは、人夫も家来も、働くことが愉快でたまらない。気分よく一所懸命に働く。結局は清正の築城工事が一番能率よく、むだがないということになるわけですよ。

 まあ、そのころの加藤清正は、日本一の土木と建築の名人だったといえるだろう。その清正が心魂をかたむけて造りあげたのが熊本城だ。素晴らしいものですよ、これは。

熊本城。
実戦のための城としてこれ以上の城は他にない……
P.89

 熊本城の実戦用としての素晴らしさは二百何十年も後になって、ちゃんと証明されている。例の西郷隆盛の薩摩士族の反乱軍、さすが勇猛なこの軍勢も、どうしても熊本城を攻め落とすことができなかったんだから。西郷隆盛が、苦笑をして、自分の片腕とも言うべき武将、桐野利秋にいったそうだよ

「わいどんらは、加藤清正と戦をして勝てぬようなものじゃ」

 この城は慶長年間に造られたものだけれども、築城工事が始まったのは慶長六年だ、いや三年からだ、あるいは慶長四年だ、と各説がある。熊本平野の北の端に、北から南へ細長くのびている丘陵があって、その南端を茶臼山という。清正は、そこに本城を築いた。この城を中心にし町づくりが行われ、それが現代の熊本市になったわけですよ。

 茶臼山へ築城する前の清正は、そこから西へ五百メートルばかり離れたところにある隈本城を居城にしていた。朝鮮出兵のころは。いま、その辺りは古城と呼ばれていて、いまも当時の濠の跡がありますね。

 熊本城は、三つの川に取り巻かれている。坪井川、白川、井芹川、この三流を巧みに濠に利用した。谷と崖を利用した幾層もの石垣が、南にひらけた平野に対し、とくに厳重な構えを見せていて、これはまあ当然なことだけれども、石垣と濠と、幾重にも備え固めた櫓や城門が、深く深く本丸と天守閣をつつみ切っている……それを見るたびに、そこに加藤清正の意志が何か語りくるような、そういう気持ちがしますね。

 城の周囲は二里余におよぶ、といわれています。当時の城郭は、現在の熊本市街の一部を含みこんでいたわけだから、その偉容は大したものだったでしょう、もっともっと。築城に当っては、水が重要になる。熊本城の築城と同時に周囲の土木工事も整然と行われた。水利を改良し、その水を城内に引き入れるためには、深さ二十メートルにもおよぶ井戸が掘られた。この井戸は、いまでも場内に残っていますが、これ一つ見ても素晴らしさがわかりますよ。当時、場内にはこういう井戸が百二十もあったという……。

 熊本城は、その石垣の築き方が独特なんだ。日本の数多い城の中でも異色のもので、裾がゆるやかに外に出て、その上に半弧形に積み上げてゆく様式。ちょっと見ると、よじのぼれそうだけれども、途中までのぼると、石垣の上のほうが頭上にくつがえって来て、空も見えない……さっき話をした西南戦争のときにも西郷軍の兵が「なんじゃ、こげんな石垣」と走り上ろうとしたけれども、どうやっても駄目ですごすごと下りたという話だ。朝鮮の城壁にこの「はねだし」という様式が多いというから、何年間も朝鮮に滞陣していた清正は、そこで学んだのかも知れないな。当時の書物には、清正のことを「石垣つきの名人である」と書いてありますよ

 いまだに崩れることを知らない「石垣」堤防というものが肥後の各河川にある。清正が築いたものだ、これも、何百年たってもビクともしない。この堤防の築造によって船が往来できるようになり、農村の灌漑にも大変役に立った。内政に力を尽くし、領国を豊かに住みやすいようにする、そういうことにかけても立派な人物だった。加藤清正は。また、そうでなければ、到底これだけの築城工事はできませんよ。大変な金がかかるんだから。それも休むひまなしに家康に命ぜられた工事をやりながら……ですからね。

 いくら度々工事を命じても、いささかもこだわることなく「お受けつかまつる……」。そこへ惜しみなく財を投じながら、しかもその間に熊本には、大阪城をしのぐとさえいわれるほどの古今無双の城を築いてしまう。家康も「底が知れぬわえ」と、さすがに舌を巻いたそうだ、これには。加藤清正が、領国経営にいかに見事な手腕を持っていたか、これを見てもわかりますよ。現代(いま)、清正のような人がいて都知事になったら、さぞかし東京も住みよいところになるだろうと思う

 清正の、そういう政治家としての立派さはほとんど知られていないんだんな。あまりにも豪傑のイメージが強いものだか。しかし、大政治家だったんですよ、加藤清正は……。

慶長十六年三月二十八日。
清正の望み、ついに叶うか、と……
P.90

  関ケ原以後、徳川家康の天下が確定して行ったわけだけれども、その間、清正の唯一の”望み”といえば、関東(家康)と大阪(豊臣)との戦争を起こさぬことだった。前にもいったように、事が防げるものならどんなことでもしよう、どんなことにも耐え忍ぼう……そう考え続けていたわけですよ、清正は。

 そうしないと、必ず、つぶされてしまう、豊臣家が。家康のほうでは、とにかくことを起こしたくてしかたがないんだから。とうとう最後には理由にならない理由をこじつけて強引に戦争に持ちこむ、その話は、真田幸村のところでしましたね。大阪冬の陣、夏の陣の話を。

 清正にしてみれば、そういう事態を何よりも恐れていた。洞察力のある人ですから。秀吉の朝鮮征伐にしてもね、その強引さは、清正自身は始めから心得ていたに違いない、とぼくは思う。承知の上で己れが為すべきことを為した……そういう人ですよ、清正は。

 それでとにかく、今度は、家康に開戦の口実を与えないために心魂をかたむけた。裏切り者呼ばわりされながら。豊臣家の存続のためには、それ以外に道はないと知っているから、二条城で家康と秀頼を会見させたのは、そのためですよ。この会見を実現するまでの加藤清正の苦労というものは、それは大変なものだった。

 前に一度、家康が秀頼に”あいさつ”に出て来てもらいたいといったとき、大阪方はこれを断っちゃっている。家康が将軍の座を伜の秀忠に譲り渡して、その将軍宣下の式をするために京都へ行ったとき……。このときは、まだ秀頼が小さくて、淀の方が、

「徳川が強(た)って秀頼どのに上洛させよと申すなら、母子(おやこ:淀君・秀頼)ともに大阪において自害したほうが、よほどましじゃ」

 と、いきり立って断った。それで家康が腹を立てて、あわや……という寸前まで行った。まあ、そこで家康がこらえたからね。戦争にはならなかったわけだ。

 しかし、それから五年たって、今度は家康の力が前とは比べられないほど強大になっている。家康自身、老人になって気が短くなっているし。もう一度断られたら、

「大阪は、われに謀反を起こそうとしている」

 という理由で豊臣方を戦争に引きずりこむことができる。で、ちょうど後陽成天皇の譲位の儀式かなにかで家康が上京するのを機会に、また、秀頼に「京へあいさつに来るよう」に申し入れをした。これを断れば、今度こそ開戦ですよ。

 だから、清正が必死の努力をした。万が一にも、秀頼の会見が実現しなかったらどうなるか、家康の意図がどこにあるか、よくわかっているからね。清正には。もちろん大阪城内では、淀君が強くて、秀頼公のほうから家康のところへ出向くなんてとんでもない……と相変わらず愚かなことをいっている。

 そういう事情の中での苦心ですから、清正は大変だった。福島正則、浅野幸長なんかと力を合わせて、百方手を尽くして、ようやく家康と秀頼の顔合わせを実現したんですよ。それが慶長十六年の春、三月二十八日。

 清正と浅野幸長につきそわれて、秀頼は二条城へ出向いた。そこで家康に合ったわけだけれども、非常に堂々として立派な態度だったというね、秀頼は。

 背は六尺二寸もあっても何といってもまだ十九歳の若さ。一方の家康は七十の老人。圧倒される思いがしただろう、家康のほうは。

 しかし、家康と秀頼の会見が一応無事に終わったから、これで関東と大阪の危機はなんとか避けることができた。

 この日が、清正にとって最良の日だったかも知れない。ついに多年の”望みが叶った”と思ったろう……。

”二条城の会見”からわずか三月(みつき)……
六月二十四日、加藤清正死す
P.92

 二条城での会見を無事に終わらせるために、清正は実に周到な配慮をしていますよ。秀頼は四方あきの駕籠のようなものに乗り、この両わきに加藤清正と浅野幸長の二人がふとい青竹の杖をつき、徒歩でつきそって行った。清正と幸長の躯が、秀頼の袖にふれるばかりだったといいますから。文字通り、二人とも”身をもって”秀頼を守ろうとしたんだな。

 さらに清正は、あらかじめ数百の将兵を小者の恰好をさせて京都と伏見の町々にひそませてあったという。城内に入ってしまうと自分はぴたりと秀頼のそばについて離れない。こういう宴席では丸腰にならなくてはならないから、ふところに短刀を秘めていた。

 それだけの苦心をして、ついに無事、会見を終わらせることができた。うれしかったでしょう、清正。そのまま帰りに秀頼を自分の伏見の屋敷に招き、改めて祝宴をあげている。前もって伏見まで回送しておいた秀頼の御座船の上でね。これも、やはり、清正一流の心くばりですよ。わざわざ川に浮かべた船の上で宴を催すというのは。

「秀頼が大阪城へ帰る途中に、折しも伏見の肥後屋敷前を通りかかったので、しばらく足を休めていただき、酒食を供した……」という”かたち”を整えたわけで、白昼の川面でだれの目にも明らかな、あけっぴろげの宴でしょう。家康の神経を刺激しないように、という配慮ですよ。

 ところで、ここから先が実に奇々怪々なんだ。加藤清正が発病する、会見の日から一週間か十日で、単なる気疲れか、風邪か、と思っていると、どうもそうでない。五月になると清正は、是非にも急いで熊本へ帰る……と、大阪城の豊臣秀頼にいとまごいに行き、その晩すぐに大阪から船で帰国の途についた。ところが、この船上で血を吐いた、清正が。

 五月二十七日に、ようやく熊本城へ帰ったときには、もう重体だったらしね。それから約一ヵ月、六月二十三日から危篤状態になって、翌日、二十四日の丑の刻(午前二時)に息を引き取った。五十歳だ、ちょうど。

 殉死者が二人出ましたよ。清正には禁じられていたんだけれども、その一人は、金官(きんかん)という朝鮮人で、あの朝鮮征伐のときに清正に拾われて熊本へ来ていた。清正とう人が、どれほど家来たちを可愛がり、家来たちがどんなに主人の清正を慕っていたか、わかる。

 清正が亡くなった同じ月に、清正より一週間ばかり早くに、堀尾吉晴が死んでいる。豊臣家恩顧の大名ですよ、この人も。紀州の九度山に押しこめられていた、あの真田真幸が死んだのも、二年前のこの月だ。翌々年の慶長十八年になると池田輝政。それから今度は、清正とともに秀頼を守り続けてきた浅野幸長だ。まだやっと三十八歳ですよ、幸長。さらに翌年には、加賀の大守前田利長が死ぬ。あの前田利家の子どもの。

 たった三年ほどの間に、豊臣家と最も深い関係にあった大名たちがほとんど死んでしまうのですから、だれが考えても、これは……ということになる。毒殺だ、という説が、もうその時からあった。もちろん、そうだとはいいきれませんがね。

 一方、徳川家康は、七十を越えて壮健そのものだ。そこで、いよいよ、

「もう、よかろう……」

 と、腰を上げることになる。慶長十九年、大阪冬の陣。攻めてみたらなかなか大阪城が落ちないものだから、一時和睦して、濠をどんどん埋めてしまい、すぐさま夏の陣に持ちこむ。ここらあたりは、実に強引ですよ、家康。老人の執念だな。

 もしも、清正が、大阪夏の陣まで生きていたらどういうことになったろうか……それを考えながら、ぼくは『火の国の城』とう小説を書いたわけですよ。

 大阪戦争が終わると、さすがの家康も、心身のおとろえを感じたようだ。

 「それにしても……」

 と、駿府の城へ帰って来た家康は、老臣・本多正信へ、

「大阪の戦に、もし主計頭加藤清正が生きて在ったなら……と、それを思うて、わしは、陣中にいて、つくづくと胸をなでおろしたものじゃ」

「いかさま……」

「なれど……」

「は?」

「清正は、まこと毒をのまされたのであろうか……」

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「さて……」

「わしは清正を殺せとは申さなんだ」

「それがしも、うけたわりませぬ」

 さぐるような家康の視線を受け、本多正信は苦笑をもらした。

「もはや、すぎ去ったことでござります」

「そうであったのう……」

 どちらにせよ、加藤清正の死によって、豊臣家の栄光は、家康の目の黒いうちに消滅したのであった。

 大阪戦争が終わった翌年の四月十七日に、徳川家康は七十五歳の生涯を終えた。

                                   (『火の国の城』より)            

★加藤清正の記事:平成二十九年十二月二十六日 記す。

★大和勇三著作『戦国武将・人間関係学』(PHP文庫)「石田三成と加藤清正」を書いている。(黒崎記)


徳川家康

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はっきりしたことはわからないが、
乞食坊主が家康の先祖だという説も……
P.96

 徳川幕府のことは、信長のときから、もう何回も話して来たから……大体のことはわかっているだろうが、家康の家系や生い立ちについては、まだ話してなかったね。その辺のことを少しいおうか。

八歳にして父が家来に殺された…… P.97

 家康、そのころは竹千代だが、とにかく哀れな幼少時代をすごさなくてはならなかった。大名同士が戦争をしている上に、その家来たちが、また三つにも四つにもわて争ったという時代だから、滅茶苦茶なわけだよ。そういう中で、家康は子どものころに両親を失ってしまう。

"他人の飯"を食って育った家康は、
その代り忠誠無類の家臣団を得た……
P.98

 若君の竹千代が、人質として苦労している。その小さい主君を推し立てて(いつかは、きっと松平家を立派に、盛り立てなくてはならない……)と心に誓った家来たちがいる。この家来と主君の結びつきというのは普通じゃない。その団結たるや凄いものだ。徳川家康と豊臣秀吉の差は、結局、家臣団の団結力の差であったといってもいい……この話は前にもしたけれど。

家康の最初の妻は十歳上の姉女房。
今川義元に押しつけられて……
P.99

 弘治ニ(一五五六)年正月十五日、いまでいえば"成人の日"だ。この日、竹千代は元服して、二郎三郎元信となった。烏帽子親(えぼうしおや)は今川義元で、前髪を剃り落とす(ゝゝゝ)は今川家の重臣の関口親永。この親永は、義元のいとこで、、今川家の身内だ。元服したその日、元信は親永の(むすめ)を妻に迎えたわけだが、形の上では一度義元の養女にして、それから元信に嫁がせたことになっている。戦国時代の常套手段だよ、これは。

温かい"家庭の味"を知ってたら、家康は
もっと違った人間になったろう……
P.100

 親と子が一つ屋根の下で和気あいあいと暮らすということが、家康にはついになかった。それがどのくらい家康という人の性格に影響しているか……。

人間、大事なのは五、六歳から十二歳。
現代(いま)の母親を見ていると恐ろしくなる……

 本当いえば、五、六歳から十二歳ごろまでの六、」、七年間ですね、大事なのは。その時期に人間の一生涯というものはほとんど左右されてしまうね。この頃の教育が、だから、何よりも重要なわけですよ。 P.101

家康は、自分が偉くなってからでも
「家来たちに温かく」はない……
P.102

 子どものときに、さんざん苦しい思いをして、それが身についてしまっているから、家康は。

大御所と呼ばれるようになっても、
自分は質素に質素にしていた家康……
P.103

 加賀百万石の前田利家の三代目か四代目が若いころ、十七か八のときでしょう、一種の人質として江戸城にいた。それで何度か家康を見ることがあったわけですけれども、ある年の冬に、寒い寒中に廊下でかしこまっていると、家康が向こうから歩いて来て、お辞儀をしている利常(としつね)を見て、こういった。

上に立つ人間はいかにあるべきか
松竹新喜劇の座長・藤山寛美の例……
P.104

 違う話になるけれども、松竹新喜劇という劇団、目下非常に人気がある……切符を買う人の行列ができるというくらいだ。その現座長が藤山寛美で、その前は渋谷天外だった。

 

家康自身は早々と隠居し二代秀忠へ、
しかし実権は死ぬまで放さなかった……
P.105

 芝居の劇団と国を治めることとではスケールが違うけれども、根本は一つだよ。家康は、

二代将軍秀忠、堅い一方のつまらぬ男。
しかし、おとなしそうに見えて……
P.106

 家康の真似をして秀忠も早いうちに引退していますよ、家光に譲って。親父のやった通りに自分もやった。自分は隠居して、忰の指導をしている。家康の目に狂いはなかったということだ。そのまま家康の流儀を踏襲してやった。とにかく堅い男でね、秀忠というのは。

あの時代は男が威張っていて、
女は虐げられていた、というけれども……
P.108

 夫が浮気したら、その浮気の相手の女を毒殺するくらいのことを平気でやりますよ、戦国時代の女は。戦乱の時代で、自分も何度も死にかけている。いつ死んでもこわくない、そういう覚悟ができている。

徳川幕府が十五代も続いたというのは、
やっぱりそれだけの金があったから……
P.108

 夫が浮気したら、その浮気の相手の女を毒殺するくらいのことを平気でやりますよ、戦国時代の女は。戦乱の時代で、自分も何度も死にかけている。いつ死んでもこわくない、そういう覚悟ができている。

元和二年四月十四に駿府に死す。
ときに徳川家康七十五歳。
P.109

 江戸幕府がしっかり天下を治めて行けるように……と、家康は死ぬ間際まで働きづめだった。大坂戦争が終わったその年に、わざわざ駿府の城から江戸城まで出て来て、

老獪な政治家・狸親爺のイメージだけが
あまりにも強いが、大変な豪傑だった。
P.110

 晩年が晩年だったからね、どうもイメージがよくない、家康。けれども、徳川家康という人は、大変な豪傑です。槍を持てばだれにもひけ(ゝゝ)はとらない。鉄砲も上手(うま)かったし。馬も上手い。武術も上手い。大変な豪傑ですよ、本来。いまでも家康の手型が残っているけれども、大きい、実に大きい。ぼくの手より一まわりどころか二まわり大きいくらい。


番外・戦国の女たち

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血で血を洗う戦国の乱世に
戦略の具として、というが……
P.114

 戦国時代というのが、一体、どんな時代であったか、一応の様子はつかめたろうと思う……。

 そこで、まあ番外というような形で"戦国の女たち"という話をしよう。女性たちの何人かを追ってみることで、逆に、この時代の男たちの生きざまを、一層よく知ることができるかもしれないし。

 戦国や封建時代というと、もうそれだけで女は人間扱いされず大変に不幸な時代であった……と決めてかかる、そういう見かたが多いんだな。庶民は別として、武家の女性といったら政略結婚、人質の道具、つまり父だの兄だの、あるいは伯父だのという、まわりの男たちの道具でしかない……という見かた。

 これはね、必ずしも一概にそうだといえないんですよ。政略結婚というものはあった、確かに。だからといって、それがそのまま、戦国の女は不幸であったということにはならない。現代(いま)の人は、右でなければ左、左でないなら右、すぐさまどっちかにきめつけるであよう。しかし、物事、そう簡単に断定するのは間違いですよ。大変な誤りだ。

 政略結婚の例証は数え切れないほどある。その一つ一つの事例を、ちゃんと、実態はどうであったか、確かめた上でものをいっているんじゃないんだから、きめっける人。もちろん仲の悪い夫婦だって、そりゃありましたよ。しかし、なかに政略結婚で非常に仲のいい夫婦ができあがったのも多いんですからね。 

 政略結婚といってもね、やっぱり、これは一種の見合い結婚なんだ。現代(いま)の女性たちのように、女の主体性だ、本人の自由意志だ、なんていいながら、その実は、男に目迷いして「あれと一緒になったらうまく行くだろうか、こっちのほうがいいだろうか……」とソロバンをはじいて目移りばっかり……あげくの果てにろくでもないのを焦ってつかまては後悔する、そういうことがないだけいっそ確かだともいえるわけです。

 一緒になってからは、たいてい夫婦仲がこまやかになるな、戦国時代の政略結婚は。実際は、そういうほうが多いくらい。結婚してから恋愛に入るわけですよ。だから、年月がたつほど深く心が通い合って夫婦仲がよくなって行く……。

 第一ね、政略結婚というものに対して、女自身、考え方が違う、現代(いま)の女性と。自分もまた自分の国(領国)のため、家のために働く、働かなくてはならないという気持が強いんだよ。女だからって、男に負けてはいられない……。その意味からいうと、かえって、戦国時代の女たちは主体性が強烈だったといえるかも知れないな、現代(いま)以上に。

 当時はね、領国の意識が強い。日本に国境がなかったなんて、とんでもない話で、何十もの国境があったわけだ、現実には、その時分には、それを守るために男に負けないで働く、そのような情熱というものがあった。

 

信長の妹、お市の方。
その数奇な生涯をたどれば……
P.115

 そういう時代だから。国を守らなければ、家をまもらなければ、結婚も何もありはしないんだから。当然、結婚観が違うわけですよ、全然。親兄弟のことなんかまったく関係ないという態度で、自分本位に結婚を考えるのが今日のやり方でしょう、一般的にいって。それで、現代(いま)に人たちは愛情だとか、夫婦だけの生活の単位とか、そればかり問題にする。いってみれば"自分の都合"ばかりだ。だから、もし、親のいうなりに嫁に行って、相手が変な顔の男だったりしたら、たちまち不満が起こる。  

 戦国時代の価値観というか、結婚観からいえば、何よりまず大切なのは"国を守る"ことだ。その上で初めて結婚も幸福も成り立つんだから。考え方の根本が違う。

 そうなると、男に対する見かたも違ってくる。男は顔だのなんじゃないんだ。男といものは働き(ゝゝ)なんだ。という風に基準が違うわけですよ。男の立場から女に求める基準も同様に違って来る。幸・不幸の観念も現代(いま)と違うしね。だから、政略結婚イコール女の不幸なんていえないわけですよ、まったく。そこのところを、まず、ちゃんと理解しておかないといけない……。

 戦国の女の典型として、最も有名なのは、お市の方(ゝゝゝゝ)だろう。この 女性(ひと)のことから話をすすめるとしようか。

 お市の方は、信長の妹に生まれて、非常に美人dえね、若いころは尾張随一のいわゆる傾国の美女といわれたくらい……それほどの美人だった。絵像が残っているんです、信憑性のある。だからわかるんだよ。で、このお市の方は、織田信長の政略結婚で浅井長政に嫁がされたわけだ。やがて長政が信長に攻め亡ばされときに、長政と別れて信長のところに帰って来た……。

 政略結婚の道具に使われた、形としてはそういうことになるけれども、これは信長だけじゃなく、だれもがやっていることでね。。やらないのは上杉謙信だけだった。謙信は生涯独身だったから、当然、娘というものはいない。しかし、娘がいなくても養女をもらって政略結婚に使うという手がある。彼はそれをいさぎよしとしない。それは珍しい例ですよ、非常に。

 信長は、自分のまわりの女性たちを盛んに将棋の持駒のように使ったといわれるけれども、お市の場合なんか見ると非常に気を気を使っていたことがわかる。

 つまり、いつもの信長らしくないと思えるほど根気よく辛抱強く協力の要請をしているんです。朝倉方の浅井長政に。自分が京都に上って、邪魔をするものを次々と平らげていたときに、越前の朝倉義景は頑強だった。それを何度も何度も足を運んで、おれと一緒に協力してやってくれと考えて、長政のところに嫁いでいたお市の方のことを考えていたからだrこう。信長にしては珍しく粘り強くやっちます。

 朝倉を敵にまわせば、お市の夫である浅井長政とも刃を交えなければならない。できることなら信長はそれを避けたい……だから、ずいぶんこのときは逡巡しています。

 長政自身は、信長の心はよくわかる、わかるけれども、やはり朝倉に対する恩義から抜けきれない。自分のお父さんや重臣たちの意向を無視することはできない。それで信長と朝倉がついに事を構えたときに、信長の気持がはわかっていながら朝倉方につかねばならなかった。これは提携というか、むしろモラルですからね。古臭い義理だと簡単にかたづけられることではないんだ。そのモラルを守らなければ人間生きて行けないという場合もある……。結局は、戦国に生きる武将としてモラルに殉じたわけだ。

 やがて小谷城が落城して長政は死んだ。お市の方は三人の娘を連れて、兄のところへ帰って来た。娘が小さいからね。帰って来て清州だの岐阜だので娘と暮らしているうちに、今度は信長が本能寺で殺されてしまう。明智光秀に。そうすると、次は秀吉対柴田勝家の勢力争いになった。この勝家は、かねてからお市が好きだった……。

 信長の息子たち、お市から見れば甥にあたるわけだが、この息子たちも「叔母上は勝家に嫁ぐのが一番よい」と勧めたので、改めて三人の娘を連れて柴田勝家に嫁ぐことになる。お市のかた自身は、勝家のことはよく知っているわけですよ、やっぱり信長の家来だったんだから。代々の重臣の一人で、勝家の人物も性格もよくわかっている。だから、いやいや嫁いだとは考えられない。甥たちに頼まれもしたろうけれど、柴田勝家がいやな男だとは思わないのです。

 

戦国の女は気が昂っていた。
油断すると何をするかわからない……
P.116  

   柴田勝家という人も、また戦国武将らしい立派な人物だったからね。そこでお市は柴田に嫁いだ。そうしたら今度は猿面冠者すなわち秀吉と柴田勝家の決裂だ……。

 それで賤ヶ岳の七本槍で有名な戦いで勝家が秀吉に破れてしまい、居城までどんどん追われて、北ノ庄というところに立て籠ったわけだ。 

 いよいよ北ノ庄が落城というとき、勝家は「お市は故信長公の妹である。三人の娘は自分とつながりはない。浅井長政の娘であるから、秀吉も粗略にはしないだろう……」そう考えて、お前は城外へ逃げてくれといった。しかし、今度は長政と別れたときとは事情が違っていた。

 というのは三人の娘が大きくなっているから。お市は勝家とは琴瑟相和していちゃから自分は城外へ出ない。愛している勝家と共に死ぬことにためらいはなかった。で、、三人の娘だけを城外へ出して、北ノ庄の落城の炎の中で勝家と一緒に死ぬわけです。このとき、お市は三十七歳だね。

 戦国の女というものは、どういうものであったか。別にこういう例も「渡辺勘兵衛」のところでちょっと話したけれど……武田の武将の妻だけれども、その夫が殺された。夫を愛するその女は、夫の仇を討とうとして追っかけて行き、その敵に刃を向けた。その途端にその男に惚れちゃった。

 そうして、事もあろうに、本来ならば夫の敵であるはずのその男と一緒になってしまったものだから、親戚中が集まって、

「けしからぬ……」

 と追求したわけだ、当然ながら。ところが、この女は、惚れて一緒になった新しい亭主と二人で戦って、とうとう追手を返り討ちにしてしまい、見事に添いとげたというんだ。この女のことは、ぼくの『猛婦』という小説に書いたことがある。当時は、こういう女が多かったんだよ。

 また、こういう話もある。信長の妻の濃姫(のうひめ / のひめ:黒崎記)は斎藤道三の娘ですが、この道三は、いわば、戦国の梟雄(きゅうゆう)の代表みたいな人物で、裏切りだの、中傷だの、主殺しだの、ありとあらゆる凄いことをしてのし上って来た……。(きようゆうの読みしかみられない:黒崎記)

 この斎藤道三の娘の濃姫が信長のもとへ嫁いで来た。まあ、いうところの政略結婚だね。ところが信長は、毎晩夜中の二時ごろになると外へ出て行ってしまう。濃姫が新婚の床の中で怒って、

「それほど好きな侍女でもいるなら、公然と愛したらよいではありませぬか!」

 すると信長は、

「いや、そのような浮いた話ではない……。実は、お前の父・斎藤道三を攻める気で、斎藤家の家老としめし合わせであり、その家老たちが道三の寝首をかいて反乱の火の手を上げる時刻が午前二時という約束になっておるのだ。それゆえ、今夜上るか、今夜こそ火の手が見えるかと夜中に出いるのだ……」

 と、こう答えた。濃姫はそれに対して、

「よくぞ打ち明けてくだされました。私も一たび織田家に嫁いだ以上は織田家の人間。このことは構えて父・道三には洩らしませぬ」

 それからどうしたかというと、信長は、濃姫の周囲を厳しく監視の目で囲んでしまった。そして、しばらくしてからわざと(ゝゝゝ)その監視をゆるめた。待ってましたとばかり濃姫はこのチャンスをつんかんで、腹心の侍女を道三のところこへ走らせ「夫の信長は父上を攻めて亡ぼそうとしております。家老にご油断あるなかれ」と通報したものだ。

 すると道三としては、実の娘のいうことだから、これは信じるに決まっている。いきなり怒って、左右の腕とも頼んでいた家老を斬っちゃった、ろくろく調べもせずに、そのために斎藤家は家来を()くして勢力が衰えてしまい、やがて信長に亡ばされてしまうんだ。

 信長は、妻の濃姫を、まあ、だましたといえなくもない。というより試したんだね。妻の方で、あなたの妻になった以上は決して内通などいたしません……なんていっておきながらパッと内通しちゃって。女というものは、やはり度しがたいものだよ……。女がちゃんとしてくれなければ家がおさまらない。信長はとくにそういう点で女にも厳しく要求した人だからね。信長のちょっとした留守に、普段うるさい殿様がいないというんで女中たちが酒飲んで宴会みたいなことをやって遊んだ……。帰って来た信長、その女中たちをみんな斬っちゃったという話。信長のところで話したね。

お市の方の三人の娘たち。
茶々、お初、お江の運命は……
P.118

 さっきのお市の方にもどるが、自分は夫の勝家と死んで、三人の娘だけ城外に逃がして助けるわけだ。その三人がまた数奇な運命をたどる……。 

 長女が茶々、後の淀君だ。次女が(はつ)。そして三女がお(ごう)。長女の茶々からいくと、これがまた母のお市の方に生き写しといわれる美貌の持ち主でね、秀吉はもともとお市の方に懸想していたんだけれども、それを娘の茶々に移した。無理もない話だと思う。

 次女のお初というのは、京極高次という人のところへ嫁いだ。京極家というのは近江源氏の六角の同族で、あくまも秀吉に反抗した。三女のお江は、知多半島に小さな城を持っている佐治与九郎に嫁いだ。秀吉としては目的は茶々一人だからね。妹二人はまあコブだからしようがない。適当に……。それで妹の二人は秀吉と仲の悪いもののところへ嫁に行っているわけだ。茶々だけ自分のものにして。

 ところが、だんだん利用することを考えつく、秀吉が。それで佐治与九郎から強引にお江をもぎ取って、近い親戚の羽柴秀勝にやる。秀勝が朝鮮征伐で死ぬと、今度はさらに徳川秀忠にやる……。

 佐治与九郎というのは人物(ゝゝ)で、ね。無理に近いお江と離婚させられたあと坊主になってしまった。これは当時の事情からいえば大変なことですから。普通の男だったら揉み手して、

「どうぞ、どうぞよろしきように……」

 というところなんだ。

 お江をもぎ取るについては、秀吉は与九郎に対してそれまで一万石だったのを二万石に加増してやった。それにもかかわらず、与九郎、家を出て坊主になっちゃった。やっぱり相当な男ですよ。

 二度目の亭主が朝鮮へ出かけて行って病気で死んでしまい、お江は未亡人になる。すると秀吉が「それなら今度は徳川に縁結びをするがよい」というので、家康の息子、後の二代将軍秀忠に嫁がせた。お江はこれで三婚でしょう。年齢(とし)も二十六歳だ。秀忠のほうはやっと十七歳。まるで女房に頭が上がらない。家康のところでも4話したけれども、お江はたちまち自家薬籠中のものにしてしまったわけですよ、秀忠を。

 徳川家のほうへ行かされたのは二女のお初も同様で、お初自身、秀吉にいい感じを持っていなかった。だから反秀吉派の京極に嫁いでいるんだ。京極高次は家康に接近して、関ケ原のときには見事に大津を守って、一応降服はしたけれど家康との盟約を果して秀吉に復讐したわけでしょう。

 お茶々だけは秀吉について純然たる豊臣の人間になったが、妹二人は結局二人とも徳川についたことになる。秀吉に対する恨みで、大坂の陣で豊臣と徳川が天下を賭けて戦ったときには、実は姉と妹が敵味方に別れて戦っていたわけだ。しかも次女のお初は高次が死んでから仏門に入り、常高院となっていたんだけれども、冬の陣では休戦の使者を買って出て、姉の淀君を説いて休戦させた。これは家康の内命を受けてしたことだからね。妹二人はあくまで徳川方の人間になり切って、秀吉・秀頼も徳川家を亡ぼすことに力を尽したといえなくもない。

 長女の茶々は淀君として大坂城で死に、三女のお江は二代将軍秀忠の正室として満ち足りた晩年を過ごした。運命の面白さだな。お江・秀忠の夫婦は徹底的にかかあ天下(ゝゝゝゝゝ)ですよ。秀忠は、お江の監視の下に、辛うじてただ一人の測妾を持っただけ……。

 この、ただ一人の妾にうませたのが保科正之で後に会津の名君になった。正之がその女の腹に宿ったときに、お江は怒ってね、

「流してしまえ!」

 と命じたのだけれども、本多正信が間に入って助けてくれた。秀忠の場合、この一回だけですよ、浮気は。

 徳川関係の資料では「秀忠公は非常に律儀なため御台所の他は女に目もくれなかった……」という風に書いてある。しかし、お江はなにしろお市の方の娘ですから、きれいだった、やっぱり。その上に二人の夫を持って経験豊かだったわけで、年齢も上だし……若い秀忠はお江の思うがままでであったことに間違いないよ。

※参考:南条範夫著『徳川十五代物語』(平凡社)P.39~40  将軍や大名が例外なしに耽溺した女色についても極めて淡泊であった。彼の正室は淀君の妹達子で、佐伯一成、羽柴秀勝に嫁した後、三度目に秀忠の妻となった女である。秀忠よりずっと年長であった。秀忠はこの年上の妻に完全に敷かれていた恐妻将軍である。

 秀忠が駿府に赴いて二ヶ月余り滞在したことがある。家康が阿茶の局を呼んで、

 ――(秀忠)はまだ若いのだ。二ヶ月も独り寝では寂しいだろう。しかるべき女中に菓子でも持たせて慰めにゆかせるがよい、

 と命じた。阿茶はお花という十八歳の美女に美しく化粧をさせる一方、下女に命じて秀忠にその旨をそっと報せておいた。

 お花が庭の方から秀忠の許を訪れると、秀忠はきちんと上下をつけた姿で自ら木戸を開け、お花を導いて上座に坐らせ、持ってきたお菓子を押戴き、

 ――大御所さまから下されたもの、忝い、夜も更けたこと、そなたは早々にお引取りなされ、

 と、先に立って戸口まで送ってくるので、お花もどうしようもなく、すごすご戻って家康に告げると、家康は、

 ――さても律儀なこと、わしは梯子をかけてもかなわぬわ、

 と、呆れたという。

 唯一の例外はお静という女中に手を出して幸松という子を生ませたことだが、これも妻君の嫉妬を怖れて、保科肥後守正光の養氏にやってしまった。後の名宰相保科正之がこれである。

 この温厚な秀忠も、大名に対しては、断乎たる処置をとっている。(黒崎記)

しあわせであったかも知れない、
好きな男と共に落城して死んだ淀君も……
P.120  

   お江は、秀忠と結婚してからはお江与(えよ)の方となって二人の息子が出来た。その一人が三代将軍家光になった竹千代。自分は二代将軍の御台所で、息子は三代将軍で、徳川家三百年の基礎を固めた末に大往生をとげた……。

 そのお江に比べると、淀君は哀れだという人も多い。しかしね。かわいそうには違いないけれども、本人としてみればそれで満足であったかもしれない。しあわせだったかも知れない。 

 始めは、いやいや(ゝゝゝゝ)であったかもしれない秀吉、一緒になってみるとフェミニストではあるし、持ち前の愛嬌のよさはあるし、それに恐らくは閨房の技術も達者だったから、茶々も秀吉が生きていたころはしあわせだったろねえ。

 その秀吉が死んだ。恋人も死んだ。恋人というのは石田三成。一般に淀君の恋人だったといわれている大野治長は、あれは第二の恋人だ。ぼくはそう思っている。資料は何もないけれども、秀頼というのは石田三成の子のような気がする。

 秀頼が秀吉の子どもでないという理由の一つに、

 だから、秀頼が絶対に秀吉の実子でありえないとはいえない。

 とにかく、だ。戦国時代の女性であるからといって必ずしも不幸ではない……ぼくはそう考えている。

 現代(いま)の女性たtに比べてみるといいんだ……どっちが不幸か。目移りはするし、結婚してもお互いの愛情が不安のままに毎日暮らしているんでしょう……。

淀君と寧々。
二人の女の違いはどこにあったか……
P.121

 ここに、もう一人、面白い戦国の生き方を生きた女性として、淀君のライバルの立場にあった北政所ね、すなわち、お寧々(ねね)という人がいる。織田の家来では、軽輩の娘だといっていい。まあ、中の下くらい。   

 しかし、この寧々を秀吉は愛していた。秀吉生前のころは、寧々は淀君へのヤキモチもやいていたろうが、秀吉も、よく尽しましたよ、寧々に。  

 嫉妬とかヤキモチとかでなくて、むしろ、秀吉の死後の淀君に対して非常に危険なものを感じ取ったんだね、寧々としては、

 前にもいろいろ話したように、家康自体も頭から豊臣家を亡ぼそうとは考えていなかったわけですよ、秀頼さえ臣従してくれれば、家康自身も長い間秀吉に仕え、頭を下げて来たんだから。同じように、今度は秀頼のほうでそうしてくれさえすればな得したのだ。

 だけど淀君はあくまでも家康を家来とみなして、絶対に頭を下げない……それが昂じてついに大阪攻めになった。盲目的になっちゃっているんだな、淀君は、それが"女"だといえばそれまでだけれども。

 そういうときに、寧々は、いろんな方面から、悪い感情でなしに、淀君に徳川家の下に頭を下げたらいいのではないかといっているね。

 寧々は、秀吉の貧乏時代から、軽輩時代からの女房だ。文字通りの糟糠の妻。だけど、秀吉がどんどん出世して行くと、それに伴い彼女の夫人としての地位も高まって行く。と同時に、小さな家の切り盛りで済んでいたものが、次第次第に城主夫人になれば養う家来も多くなるし、意識のあり方が違って来なければならない。

 そういうことで、大変な苦労を重ねて来たわけですよ。これを非常に見事にやってのけた。寧々という賢い夫人がいたればこそ、秀吉は安心して何でもできた。あの戦国時代の多忙な中を駈けまわっていた男を夫に持って、いつ死ぬか、いつどうなるかわからないという生死の間を生き抜いたんだから。夫と一緒に。なみなみならぬ女性ですよ。

 だから、人間的には、とにかく立派な人なんだ。あまりにも立派すぎてね、面白味がないという気がしないでもない。淀君は、女の愚かしさというものを、それこそうん(ゝゝ)と持っていた。愚かさ。驕慢さ。その化身みたいでさえあった。そういう女のほうが可愛い……たまらない(ゝゝゝゝゝ)魅力になるわけですよ、男の目から見ればね、寧々、つまり北政所には、そういう愚かしさがない。そこらあたりが、この二人の女の一番違いだろうと思う。

夫・忠興を狂気に走らせた
細川ガラシャの場合について……
P.122

 戦国の女のもう一つのタイプとして、次に細川ガラシャという女性のことに触れておこう。

 幼名を玉子といって、これはあの明智光秀の娘だ。信長の仲立ちで、見も知らない細川忠興のところへ嫁いだ。信長は「明智氏と細川氏は丹後と丹波の城主だから、これを提携させて、毛利攻めに参加させれば、なお緊密でよい……」と考えて、自ら媒酌を買って出た。  

 忠興という青年が十九歳。玉子という少女が同じ十九歳。この玉子がまた大変な美女で、美貌であったとはっきり史料に書き残されているのはお市の方と玉子くらいのものだ。宣教師たちも口をそろえて美貌だったといっている。

 忠興のほうもね、後には父の細川幽斎をしのぐほどの、細川家指折りの名君だ。まあ、だから実に似合いの夫婦が出来たわけだ。ところが……彼女がキリシタンに帰依してからおかしくなる。以来、駄目になっちゃうんだよ、性生活が。

 そのころのキリシタンというものは、いまのキリスㇳ教と違って、やはり一種の流行ですから、新興宗教というのはいつでもそうだけれども、狂信的なものがある……。これはね、な前はいえないが、現代のある有名4な俳優が、そのために細君と別れた話がある。この細君がやっぱり凝っちゃたんだ。新興宗教に。これで二メートルくらい飛び上がるのだ。亭主はかなわない。これ(ゝゝ)やられちゃ。

 忠興夫人の場合は、それほどにはないにしても、宗教が夫婦の間に入って来たために、二人の夫婦生活がうまく行かなくなったのではないかな……。

 こういうエピソードが伝わっているよ。夫婦で庭に向って食事をしていたんだな。ちょうどそのときに、屋根直しの職人が足を滑らせて庭へころげ落ちた。それを忠興は斬って、その血のしたたる生首をいきなり玉子の前へ投げ出した。

 それでも玉子は平然として顔色一つ変えない。何事もないような様子で食事を続けたそうだよ。さすがに呆れ果てた忠興が、

「お前は、蛇のような女だ」

 といった。すると玉子が答えてこういった。

「あなたは鬼だ。鬼には蛇のような妻がふさわしいではありませぬか」

 忠興としてはね、水のように冷たくなってしまった理智的な妻の生身(なまみ)の"女"に触れたい、そういう衝動から狂気のようになったのだと思う。結局、忠興は寂しかったのだ……ということがいえる。

 お市の方の三人の娘にしても、性格的にはたくましく、強いね。それやこれやから、単純に現代(いま)の道徳感覚で「戦国時代の女性は不幸だ、悲劇だ」ということには、ぼくは非常に反撥を感じる。それなら、当時の女たちに比べて現代女性は幸福かといえば、必ずしもそうじゃない……。あの時代、燃えたぎるような動乱の中に、男と女の愛情が激しく火花を散らした、その面白さ、その充実感というものは現代(いま)の女にはわからないんですよ。

戦国時代に微温湯(ぬるまゆ)ムードはない。
つねに生きるか死ぬかだ……
P.123

   愛情をどのように持続させるかということについてもね。つねにスリリングな、死物狂いの緊張があったわけだ、あの時代は。絶えず生命の危険がある。その、一つ間違えば必ず死ぬという情況の中で営まれる愛情生活というものは、非常に鮮烈なんだよ。

 関東の北条の娘が、武田勝頼の妻になった。あのひとは、夫の勝頼と共に天目山で死んでいるでしょう。現代(いま)、夫が死なねばならないとき、自分もためわらず共に死ぬという女性があるかい……。 

 人間というのは、ちつとも進歩していないわけだよ、あの時代と比べても、進歩というか、つまり、何も"高等動物"になったわけじゃないんんだよ。それが、近代文明の力というものでいろんな形で阻害されて、また別の形で人間の不幸というものが現われて来るだけのことなんですよ。

 現代の妻なり、女なり、まあ一般に女性全体といってもいいが、社会的地位は確かに向上している。女自身の自覚も教養も、見たところは進歩したようで、それだけ女は幸福になったように見える……。しかしねえ、日本という国の現状そのものが微温湯(ぬるまゆ)的な太平ムードにひたっているだけでしょう。その中で、夫婦というもののあり方も、やはり微温湯的で、一見しあわせそうな中に何か不安が影をさしていると思う。それから比べたら、戦国女性はある意味では大変不幸だし、暴力的な破壊力の前にはしばしば無残な結果になるけれども、逆にいうと、それだけ生活に緊張がある。愛情の燃え上がり方、夫や子どもへの対し方、実に鮮烈そのものですからね。

 考えてみると、いまの世の中というものは、女を責めるより、やはり男がいけないのだ。戦国の男たちは女を力づくで屈ぷくさせていたというけれども、女を屈ぷくさせることは女を軽蔑しているというのとは違うんだから。

 戦国時代でもね、賤ヶ嶽の七本槍の一人である福島正則という豪傑が、奥さんには一目も二目も置いていたんだが、ある時浮気をして妾をこsらえた。それが発覚して、奥さんが薙刀(なぎなた)を振りかざして追っかけて来ると、正則はお城の表門まで逃げて、そこで手を合わせて拝んだ……という話が残っている。みんなそうだったんですよ。戦国時代の武将たちは、本当の意味での"恐妻家"。ということは、それだけ妻を尊敬して大事にしていたということに他ならんだ。妻の方もね、恐妻というよりは、妻としての責任感が凄く強かったんですよ。

 戦国時代の女に比べると、"まったく鈍っている"と思う。現代の女性は、あの時代のような激しい愛の燃焼というものがなくなってしまった……。

 戦国時代に女が蔑視されていたということの一つの例として系図に女のな前を出さないということがいわれるでしょう。あれなんかもね、女性蔑視と見るのは間違いなんだ。戦国時代の場合は。つまり、な前を書いちゃうと、後難のおそれがあるわけですよ。男が負けた場合、一族郎党残らず殺されてしまう。そのとき、女をかばう気持が、ああいう系図の書き方に表れているのだ。これは必ずしも女性蔑視というのではないんだよ……。

 戦国乱世を生きた女たちは、みんな、それぞれに自分の運命というものにまとも(ゝゝゝ)にぶつかって行った。自分の不幸にしても、しあわせにしても、精いっぱい自分の力を尽して闘いとる。ついに逆い切れない運命がやって来たときには、それを甘んじて受けるけれども、ひとたび受け入れると、今度はひたすらその新しい運命を切り拓いてしあわせな方向へ持って行こうとする……その姿勢には実に素晴しい強靭さがあるんだねえ……。

2022.04.26 部分的に記す。2022.09.13 全部記す。


     Ⅱ 江戸篇

荒木又右衛門


家光が三代将軍になれたのは春日局の
おかげと俗にいうけれども……
P.138

 三代将軍・徳川家光が生れたのは慶長九(一六〇四)年で、家康が初代将軍になった翌年のことだ。そして慶長十年には二代・秀忠が将軍職を継いでいる。だから家光は、生れながらの将軍家ということになるんだね。

 けれども、何の支障もなくすんなりと三代将軍になれたわけでなかった。家光の母は例のお市の方の三人娘の一人お江。これが秀忠の正室におさまって於江与(おえよ)の方になり、何人も子どもが生れた。

 男の子は家光と弟の忠長。後の駿河大な言。母親である於江与の目から見ると、次男の忠長のほうが可愛いんだ。子どものころの性質からいって、いわゆる利発な子どもだった、駿河大な言忠長。それに引きかえ、家光のほうはいたずら小僧で、何だか、たよりなかったのだろうね。

 それで、於江与の方は、家光よりも弟の忠長を可愛がった。三代将軍としては家光より忠長がいいというわけだよ。だから、女房である於江与のいうことに引きずられて、出来ることなら忠長のほうを後継ぎにしようと考えたこともあったらしい。

 ところが春日局(かすがのつぼね)。家光の乳母であった春日局が黙っていなかった。なんといっても家光は兄であるし、自分が我が子のようにして育てた家光だから、なんとしても家光を三代将軍にしたい。そこで駿府の大御所(家康)に直談判(じかだんぱん)に及んだ。

 徳川家康ほどの人物ですからね、女のいうことに左右されるようなことはない。しかし、家康の目から見ると、確かに忠長は子どもの間はりこう(ゝゝゝ)かも知れないが、将軍としての素質は家光にあると見きわめて、それで家光のほうに決めたわけですよ。

 家康としては、自分の息のあるうちに三代将軍を決めておきたかった。で、ちょうどいい機会だと考えて、わざわざ江戸城まで出て来て、三代将軍となる者は家光であると明言をした。家光が将軍になったのは、だから、やはりお祖父(じい)さんの家康のおかげ。家康もこれで安心をしたわけだ。伜の二代将軍・秀忠は、これは自分がきびしく教育してあって、すでに立派な政治家になっているから何の心配もない。

 家康のかげに隠れているけれども、政治家としては一級だったからね、秀忠。あまり評価されていないが大変な政治家だ。何をやっても、どれほどうまくやっても、みんなお父さん(家康)の真似だといわれてしまうそんな立場なんだよ、秀忠は。

 秀忠は二十七歳の若さで二代将軍になり、家康が死んだときまだ三十八歳。けれども早々と三代将軍に位を譲って、スパっと隠退してしまうんだ。これは家康流だね。自分は隠退して西の丸に入り、後見として自分の伜を三代将軍として育ててゆくという方針なんだよ。

 自分が何から何までやっちゃて、自分がパタンと死んじゃって、すぐ三代将軍教育というものが出来ない。だから早いうちに秀忠は隠退してしまうんだ。家光が三代将軍になったとき、秀忠は四十五歳ですよ。それで元和九(一六二三)年家光が三代将軍となったときから、寛永九(一六三一)年に自分が死ぬまで、晩年の十年間は西の丸にいて家光の後見ができた。こういうのはすべて父親の家康のやりかたを踏襲あいたわけだ。だから真似ばかりしているといわれる。

 だけど、自分が生きているうちに徳川幕府の基礎を固めて、幕府にとって邪魔になりそうな大名はすべて取り潰してしまった。伜のために盤石の土台を築いたんだからね、辣腕をふるって、秀忠という将軍は、やはり政治家として大変なものだった。

 あの真田家だってあぶなかったわけだから、そのときに、豊臣生き残りの福島正則もこの秀忠に潰されている。広島四十九万八千石の領地を没収して信州中島に流し、たった四万五千石の捨扶持を与えている。

 こういうふうに、あぶない大名はすべてすっかり叩き潰しておいて、それであとを伜に渡してやったわけですよ。大まか(ゝゝゝ)にいえばね。

※参考:南条範夫著『徳川十五代物語』(平凡社)P.51~70(黒崎記)

寛永十二年、鎖国令いよいよ強化。
幕府は宗教になを借りた侵略を恐れた……
P.129

 家光というのは、子どもの時分はいたずら小僧で、こういう性格は将軍になってからも変わるものじゃない。三代将軍になって親父(おやじ)の秀忠が死んでから後のことだが、新しい刀の試し斬りに江戸市中へ出て辻斬りをしたという噂があるくらいだ。

 それを柳生但馬守が、わざと出て行って家光に斬りつけられるところを、逆にやっつけた……講談ではそういうことになっている。これは講談だけれども、そのくらいのことはしていただろうね、実際。そころはまだ江戸城といっても後の江戸城と違う。全然違うんだよ。将軍様だって、ふらりと町に出て歩くこともある。戦国時代のな残りだから。戦国大名というのは後世の将軍と違うわけだ。もっと荒っぽいだな。将軍といえども武将ですよ。

 将軍の居城として江戸城の築造が完成したのは家光が将軍位に就いてから相当たってのことでしょう。寛永十三(一六三六)年、家光が三十三歳のときだよ、確か。

 ともかくも、そういう乱暴なことをする将軍だった、家光。それを輔佐したのが柳生家なんだ。柳生但馬守、飛騨守、あるいは十兵衛もそうだったね。これが家光を輔佐して、そういう激しい性格をなおした。沢庵和尚もそうだな。教育係。

 だから、そういうことの土台というものは全部、家康と秀忠とで固めてあったわけだ。彼が将軍になって多少ばかな真似をしても、まわりがびくともしない。そういう頼りになる重臣層をお祖父さんとお父さんがしっかりこそらえておいてくれた。そのおかげで、家光の若いころの過激な性格がだんだんになおってきて、まず武将としての将軍、名将軍ともいえないかも知れないが、一応立派な将軍に成長して行ったわけだ。

 政治家としての家光は、家康、秀忠のあとを()けて、よくその遺志を継ぎ、なかなかよくやったといえるでしょう。徳川幕府の権勢がさらに大きく伸びて安定したのは、この三代・家光の時代であるといってもよいと思う。鎖国令、参勤交代の制度、いずれも家光時代に確立されたものだからね。

 家康、秀忠のころには、まだ鎖国令の必要がなかった。ところが家光の時代にはキリスト教が九州を起点にだんだんと勢力を拡大してきて、侍にも大名にも信者がふえ、その数が無視できないほどになった。キリスト教の禁止、いわゆるキリシタン禁制は、家康の晩年にすでに定められていたわけだが、年々ひろまる一方だ。

 それで、幕府が考えるには、これは純粋にいい宗教をひろめるというにとどめない宗教は隠れ蓑であり、これによって日本の国民をまず手なずけておき、その上で、向うのポルトガルなりスペインなりが日本へ侵略して来るものに違いない……と考えたんだ。

 最初は宣教師を送り込み、次に軍隊がやって来る。これは外国のしょく民地化政策の常套手段だからね。だから、鎖国令ときうものに対して、今日の進歩的文化人と呼ばれるような人たちが、あれは宗教の自由を否定したものだ、信仰の自由をうばうけしからんことだなんていっているけれども、とんでもない話だ。大間違いだよ、それは。だって、その当時のポルㇳガルにしろスペインにしろ海賊だもの。そうでしょう。

 宗教的に侵略しておいてから武力で乗り込んで来る向うのやりかたを、幕府は幕府なりに研究して知っているわけですよ。いろいろな知識に情報がすでに入って来ているんだから、それで、あぶないということで、家光が独断で決めたというよりも幕府の重臣層が、家光とともに鎖国を決定した。

 寛永十(一六三三)年から十二年にかけて三回にわたって鎖国令を発布しているのを見ても、当時、キリスト教の勢いがどれぐらい盛んになりつつあったかわかる。現に、それを決めてすぐあとにキリシタンの蜂起があった。それは鎖国令と同時にキリシタン弾圧が強化されて、その反動として起ったわけだが。

寛永十四年「島原の乱」起る。
民兵に手こずった幕府軍のだらしなさ……
P.131

 島原藩主・松倉重治と天草を領していた唐津藩主・寺沢堅高(てらざわ かたたか:黒崎記)とは、キリシタンに対する弾圧がことにひどかった。

 島原では、改宗を拒否した信者を拷問した上、雲仙岳の火口に投げ込んで殺したり、磔刑(はりつけ)にしたりしたというんだ。

 単なるキリシタン弾圧というだけでなく、両藩とも無茶苦茶な税を課したから、それでついに農民たちが蜂起したわけですよ。たまたま、この寛永十四年という年は大変な凶作だった。苛酷な重税、凶作、キリシタン弾圧、これらが重なって百姓ちゃちが困苦のどん底にあったとき、この地一帯に奇妙な流言が飛んだ。

「やがて天の使いの少年が現われるであろう。そのとき天は東西の雲を焦がし、地は不時の花を開く。人びとは頸の十字架を頂き、白旗をひるがえし、イエズスの教えは、全土にひろまるであろう……」

 こういうんだよ。ちょうどこのtヴぉき、空が何回となく真っ赤に燃え、秋だというのに桜の花が咲いたというんだな。

 そうした状況の中でキリシタンの教えを説いていた益田四郎時貞、俗にいう天草四郎だが、これが並外れた美貌だゅやから、農民たちは、これこそ予言された天の使いだと信じたわけだ。

 十月の二十三日、まず島原領内がの民が代官を殺し、附近の村々から農民が集まってきて一揆を起こし、島原城を襲撃した。sぐさまこれに呼応して天草でも一揆が起こり、寺沢氏の富岡城を襲う。

 だけど、城はそうそうやすやす陥らない。そこで天草四郎時貞を総大将とする一揆の連合軍、といってもみんなお百姓さんですよ、この総勢三万七千が肥前島原半島の原の古城を修復してここにたてこもった。

 幕府にこの反乱の報告が届いたのは十一月の八日だ。さっそく家光は、板倉重昌を上使として現地に派遣し、反乱軍の鎮圧を命じた。ところが駄目なんだ。

 板倉重昌は、鍋島、松倉、有馬、立花という各藩からの兵を指揮して、十二月八日から原城攻撃を始めたんだが、相手のほうが志氣旺盛で、どうにも攻め落せない。ばかな話でしょう。

 関ケ原の合戦が一六〇〇年だから、それからいくらもたっていない。寛永十四年は一六三七年か。わずか三十七年しかたっていないのに、この間に如何に武士というものがだらしないものになってしまったということが、そこで証明されている。

 相手は、民兵だよ。天草のキリシタンは武器なんて持ったこともないお百姓さんなんだ、みんな。それを本職の軍人が行っていながら、手も足も出ない。みっともないったらないんだ。

 江戸の幕府もいささかあわてふためき、改めて、老中松平伊豆守信綱を総司令官として派遣するという騒ぎだ。これを知った先任司令官の板倉重昌は、面目上、何が何でも信綱着任以前に城を攻め落そうと、明けて寛永十五年正月の元旦から総攻撃をかけた。

 ところが、すっかりだらしなくなっている軍隊であり、混成軍だということもあって、逆にやっつけられてしまった。板倉重昌自身は、このとき戦死する。面子にかけても生きてはいられなかったろうね。

 正月四日に松平信綱が到着し、ここで新たに細川、黒田の兵も加わり、攻囲の幕府軍は総勢十二万人にふくれ上がった。この大軍で攻撃してもまだ攻め落とすことができない。松平伊豆守はオランダ船に頼んで城を砲撃してもらうやら、坑道を掘って城内に突入しようと試みるやら。いろいろやったけれども、結局どれも失敗に終り、とうとう長期包囲政策を採るしかなかった。つまり、攻めることができないから、ただ遠まきにして自滅を待つというわけだよ。

 こうして二月の末までかかって、あれだけの大軍で攻撃しながらさんざん苦労して、やっと城を陥とすことができた。幕府の武力というものの総合的結集がもはやそれほど大したものでなかったということが、このとき如実に示されたわけだ。

 ということは命が惜しくなってきたからですよ。天下泰平が三十七年続いて。戦国時代の武士と、このころの侍とでは、まるで別のものになりかかっているんだね。すっかり変ってしまったとはいわないけれども。

映画〔八甲山〕に観るかつての軍人は
頼もしいね。それが今では……
P.132

 二十年でも人間の気持というものはそれだけの変化がある。ましてや戦後、日本に軍隊がなくなって三十何年でしょう。軍隊があって軍国主義の国になることがいいというんじゃないよ。けれども、日本が軍隊というものを持たない国になって三十何年たって、日本の男の心が現にどうなっているか……

 これは例えばの話だけれども、もしも今、外国の軍隊が、ぱっと侵入して来たらどうなる? 男は一体どうする? ゲリラにおなって抵抗したりレジスタンスを組織して闘うだけの気力はないだろう。おれは、そう思うんだ。たちまち無条件で降伏して向こうへついちゃうだろう。恐らく。

 こういうことをいうと、すぐ右翼だときめつけられる。日本の軍隊を復活させるなんてとんでもないというわけだ。だけどね、これはむつかしい問題ですよ。観念的に十把ひとからげにきめっけたって駄目なんだ。

 自衛隊を日本の守りとして育てるということはね、ぼくは、今の時点では必要だと思う。自分たちの国を自分たちの手で守らなかったら、だれが国を守るんだい。安保条約があるからアメリカが代って日本を守ってくれるだろう……一応そういうことになっているけれども、いざというとき本当にそれで済むだろうか。

 アメリカは手を引きつつあるでしょう、アジアから。これはまぎれもない事実なんだ。

 韓国から完全に撤兵するといっているでしょう、アメリカは。その次は日本だよ。それで万が一、ソ連が千島から入って来て北を制圧したら、そこから飛行機で沖縄の基地を抑えたら、もう日本は完全に分断されてしまう。向うから来る石油の船を抑えられたら日本は麻痺してしまうんだ。

 しかし、それならば自衛隊をどんどん大きくして軍隊にしたらいいかというと、これはまた心配になってくるということだ。そうだろう。自意識過剰かも知れない。それでひどい目に遭っているかも知れない。

ikenamiotoko1.JPG  だから〔八甲田山〕という映画なんか観るとね、つくづく思うだが、少なくとも〔八甲田山〕のころの軍隊がいてくれると頼もしいなあ。かつての日本は、こういう軍人が守ってくれたのかという気がする。

 あれは一種の人体実験みたいなことが行われたわけで、その意味では確かに問題があるけれども、頼もしいよね。高倉健や北王路欣也が演じた、ああいう将校がいて国を守っていたことだけでも、明治のころの人たちは頼もしかったんじゃないかな。彼らには、はっきりと自分の手で国を守るのだという気概があった。

 いまや、国を守るという気概どころか、そいう意識すらないんだから。ソ連がいくら千島へ出て来ても、サケ・マスで強引な横車を押しても、若いひとたちはなんにも感じないんだものね。まるで他人事(ひとごと)のようにしか見えていない。むかしのような危機感はまるで感じていないんだな。むかしだったら大変な危機感を抱いたところですよ、あんなことをされたら。

参勤交替を法制化し、盛んに国替えをし、
幕府は支配権の強化に万全を期した……
P.134

 それでね、九州の一画のキリシタンの反乱というものを幕府が抑えられないぐらいに大変な騒ぎで、この事実は天下に知られてしまったから、幕府にとって大きなコンプレックスになった。案外、たいしたことはないんじゃないかというわけだよ、幕府といっても。

 そういうことで、参勤交替というシステムを改めて強化する。法制化されてはいなかったけれど、大名が将軍の住んでいるところに奥方と子どもをおいておく、これはむかしからあったことだ。大名は何か用あったり呼ばれたりしたときに江戸へ出て来る。毎年じゃない。何年かに一回ぐらい。

 それを今度は一年おきに必ず江戸へ出てくるという定めにした。一年間国もとで暮すと、次の一年間じゃ江戸で生活をする。ずっと国もと江戸から離れたままでいると、何を企むかわらないからね。そういう幕府の不安を解消するシステムとして、大名は一年おきに江戸と国もとを往復するということになった。

 奥方と跡継ぎの長男は、つねに江戸にいるんだよ。次男以下は国もとに。それで奥方と離れている一年間、大名はどうするかというと、国もとには側室がいるわけだ。現代のモラルでは測れないようなことで、単なるお妾とは違う。正夫人に子どもが生まれても、死ぬ率が高いでしょう、そのころのことだから。

 子どもがいなかったら、ただちに家は断絶ですからね。なるべく子どもはたくさんいたほうが安心なんだ。いくらいても食うに困るわけじゃないしね。とにかく、跡継ぎの子どもというものを確実にしておかなくてはならぬ。必ずしも男の子でなくても構わないんだ。女の子の場合、養子をもらえば済む。

 だけど簡単に死んじゃうだよ。現代と違って、ばい菌に対する予防が何もできていない。消毒なんていうこともない。ちょっと疫病が流行(はや)ったり、怪我をしたりすれば、すぐころころと死んでしまう……という時代だから。

 だから、武家の場合、側室というものは不可決であったといってもいい。奥方は当然それを許さなければならない。後継ぎがなくなったら大変だかれね。

 それで、天草の乱を契機にして、幕府は支配力をもっとしっかり固めなければいかんというわけで、参勤交替をはじめ高等政策を続々と打ち出した。大名の国替えもその一つです。

 江戸のまわるには譜代の大名、むかしからの徳川の家来を配置し、遠くには外様。こうしておけば江戸へ攻めて行こうと思っても何百里もあるところを出て来なければならないから、現実には不可能だろう。九州の島津がそうだね。

 外様の大名の江戸への道筋には、要所要所に譜代を入れて実に巧妙なものだ。真田家が、これはずっと前のことだけれど、大坂の陣のあと、上田から松代に移された。上田というのは天下の要所だから、北陸街道の、江戸に通じる街道への重要拠点。

 そういう大事な場所に真田をおくということは、幕府にしてみれば不安の種だ。真田信幸の弟(幸村)は大阪方で闘っていて、兄弟で敵味方に別れた。しかし、互いに通じていたという噂がひろまっていたから。それで万が一のときを考えて、この真田を上田から松代へ移してしまった。

 松代といえば山かげの荒れ地ですよ。それまでいた上田は六万石か七万石だけれども、これは表高(おもてだか)で、実収は十五万石という信州でいちばん収穫の多いところだった。それを十万石に昇格すると称して松代へやって、これで真田藩の実収は三分の二に減らされてしまったわけだ。かわりに上田へは親藩の松平が入る。

「身内優遇」という感じがする現代。
しかし、それでは指導者とはいえない……
P.135

 大名と旗本というのは仲が悪い。これは、もとをただせば家康の政策から必然的に生じた確執といえなくもない。

 家康のやりかたというのは、外にたっぷり、内にちょっぴりだろう。最初から自分に尽くして来た譜代の家来に対しては禄高は少ないんだ。三万石とか五万石とか、その程度の小さな名にしておくわけだ。

 その代りに権威だけは持たせる。老中にしたりして。老中という要職にsっても禄高はわずか三万石かそこらで、實歳には贅沢なんかできもしないしくみだ。

 何十万石というたくさんの禄をやるのは、自分が将軍になるのを外から助けてくれた大名たち。自分の家族のような家来には三万石か四万石。これは当然だと思う。

 今でもこうでなければと思うね、おれは。まず身内を優遇してしまっら外の人たちは面白いはずがない。

 それが現代では、身内優遇という感じがする。一般的にいって、相当大きな会社でも自分の伜に社長を継がせることが多いでしょう。松下幸之助なんかは、その点、さすがだね。伜でもなんでもない他人に次代社長を譲るわけだ、人格と能力次第で。敢て自分の伜に譲らない。伜、いるんでだろうね、松下さんに。

 徳川家康が死ぬときに、おれが死んで、もし伜の将軍の代になって不心得なことがあったら構うことはない、遠慮なしにやっつけていいといっている、重臣たちを集めて。まあ、そういうことのないように、よくよく伜を仕込んで死んだわけだけれども。そういうことがある。

 豊臣秀吉の朝鮮征伐のときに、ここのところはいろいろと行き違いあったんだけれども、加藤清正だの福島正則だのが怒ったでしょう。自分たちが現地で一所懸命に戦ったことに対して、石田三成がその戦闘ぶりを正当に評価しないで秀吉に嘘の報告をした、と。

 戦争が終ってから、ほかの大名たちには恩賞があったのに、本当に戦地で命がけで働いた人間に何の恩賞もなかった。

 そのことに加藤清正や福島正則が不満を持ったということは、恩賞をもらいたくていっているんじゃない。せいかくに自分たちの働きが伝えっれていないという、そのことに対して怒ったわけだ。

 石田三成にいわせると、秀吉が死んでしまった後でいうのはなんだけれど、殿下は清正や正則、子飼いの家来たちの働きというものをしゃんと正当に評価しておられた、そのことについては取りあえず外の人たちに恩賞を与えた後で、改めて考えてするつもりでいたんだ、というわけだよ。

 だけど太閤が死んでしまったものだから、清正や正則にしてみれば、何をいまさら、口先でうまいこといってということになるんだな。

 ともかくもそういうことであって、子飼いの家来、自分の家族同様である家来たちというものは、秀吉にしろ家康にしろ、あとまわし(ゝゝゝゝゝ)なんだ。それはそうですよ、やっぱり。

 おれなんかでも、新国劇で演出をやっていたとき、座員に弟いたわけだ。だけど弟には、いい役をつけられないよ。そんなことをしたら、他の座員たちにいわれるでしょう。なんだ先生は、自分の弟にいい役をつけて、と。

 それと同じじゃないかな。みんなを引っぱって行く人間というものは、自分のことはもちろん、自分の身内というものを優遇したら駄目なんだよ。

不満のやり場がなかった旗本連中。その
はけ口が大名へのいやがらせとなって……
P.136

 そいうわけで家康は、子飼いの家来にたくさんの禄はやらない代りに役職を与えた。老中とか若年寄、そういう幕府の閣僚は全部いわば身内で固める。禄の代りに権威、というわけだ。

 だけど、譜代の大名たちはそれで一応なつ得させたとしても、旗本の連中がおさまらない。幕府の閣僚になれるのは大名だけであつて、旗本というのは老中や若年寄になれないんだから。

 閣僚のポストには限りがあるし、それに元来、旗本というのは実戦の部隊長だからね。そういう連中を全部閣僚にするわけにいかない。せいぜい部隊長、中隊長くらいだろう、旗本は。連隊長とか司令部は大名だからね。

 役職ももらえない、禄高も少ない。一万石以下なんだ、旗本の場合。一万石以上が大名。それに比べると、ほかから手伝ってくれた大名たちはいずれも何十万石という領国を与えられている。あんまり差があり過ぎるじゃないかと、その不満なんだよ。、旗本の不満というのは。

 戦争がなくなって三十何年も平和が続いているから、こういう連中、働き場がないわけでしょう。もともと実戦部隊なんだから。槍一本で功みょうを挙げて禄をかちとるという、そういう機会がない。

 それで、お祖父(じい)さんの武勇伝というものをいやというくらい聞かされているだけなんだ。これじゃたまらない。

 それだから、そのエネルギーがどういうことになるかというと、白柄(しらつか)組とか何々組とか徒党を組んで、まあ今でいえば愚連隊だな。そんな組をこしらえて、集まっては酒を飲む。飲んでは暴れる。どうしてもこういうことになってくるわけだ。

 それで気勢をあげて、将軍家(うえさま)はわれわれに冷たいなんていいながら憂さ晴らしをやる。事あるごとに、おれは徳川の直参(じきさん)だ、先祖代々の直属の家来だといって威張るんだよ。

 こういう旗本連中に対して、大名のほうは一目(いちもく)おかなければならない。何しろ将軍直属のの家来だから。すると、旗本のほうは、大名たちが我慢しなければならないのをいいことに、将軍の威光を笠に着て、いろいろといやがらせをやる。

 大名行列が向こうからやって来ると、ウウーッと大声を張り上げて、大名行列の前で小便したりするんだ。さすがに大名のほうでも腹に据えかねて「無礼な!」と咎めるだろう。そうするとだ、「われこそは天下の直参、旗本の何々である。文句があるならば屋敷へ参れ。いつなりとお相手申す」というようなことで大威張りで帰ってしまう。

 そういわれたって大名は、本当に喧嘩するわけにいかない。やけくそで生命がけで喧嘩をやろうという奴だから、相手は。いくら相手のほうがわるいのだからといっても、喧嘩なんかしたらお家断絶だからね。結局、大名の側は歯をくいしばってこらえる以外にない。こういう軋轢がほうぼうにあった。当時。その代表的な事件が、荒木又右衛門事件なんだ。


徳 川 綱 吉

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江戸の「元禄」も「昭和元禄」も、
つまりは戦後の繁栄ということだ……
P.176

 もう、一時代前のことになるけれども「昭和元禄」という言葉が流行(はや)ったろう。流行らせたのは福田赳夫さんだというけれどね。

 江戸の元禄と、昭和の元禄、必ずしもそっくり同じではないが、確かに共通するところがある。それはどういうところかというと、つまり「戦後の社会が繁栄した」ということだ。そこが一番よく似ている。

 戦争が始まったあとの国が戦争に費やしていたエネルギーを平和に振り向けることができたために、めざましい勢いで繁栄したということ。その点が非常に似ているんだよ。

 元禄時代というのは一六八八年に始まって一七〇三年まで続くわけだが、これは、いわゆる戦国時代の終りから数えて七、八十年たった時期に当る。

 関ケ原の天下分け目の合戦が一六〇〇年、徳川家康が江戸に幕府を開いて征夷大将軍となったのが一六〇三年だろう。それが江戸時代の始まりということになるけれども、まだ戦争は完全に終っていない。大阪に豊臣秀頼がいたからだ。家康にしてみれば、これだけが目の上のこぶだった。

 それで、無理やりにも豊臣方を戦争に引きずりこんで、ついに完全に息の根をとめる。それが大阪城の攻防だ。冬の陣が一六一四年、夏の陣が翌年の一六一五年。これでようやく徳川幕府の基礎というものが固まったわけだ。

 家康が秀頼を亡ぼして後、二代秀忠、三代家光、四代は家綱、それから五代綱吉でしょう。綱吉が将軍位に就いたのは確か一六八〇年だと思ったな。

 大阪の陣以後の七、八十年というのは、これはまったく戦争が絶えて、それまでは全部戦争に使っていた物資とか生産力とか輸送力、ひとくちでいえば経済力だな、それがそっくり平和に振り向けられてくるから、当然、そこに繁栄の状態というのが、あらわれてくる。それが元禄時代を現出したということなんだね。

 昭和元禄というのも、太平洋戦争が終って三十年近くたって、経済力が全部平和のために振り向けられた結果に他ならない。だから、そこのところが根本的に似ているというわけだ。 

 日本は敗戦国になったけれども、その戦後の三十年間というものは、まったく戦争をしていない三十年なんだ。これは日本だけじゃないのかな。ドイツもそうか。

 世界の各国、主だったところは、この三十年間にも相変わらず戦争のためにエネルギーを使っているでしょう。イギリスだってちょっとやったし、フランスはアルジェリア、アメリカに至ってはベトナムに手を出して大変だったわけだ。こういう国にしてみれば、戦後というのがないわけで、ずっと戦争が続いているということだからね。

 ソ連の場合は、自分の国が直接戦争をしていないかわりに、あっちこっちに介入しているから、事実上は戦争をしているのと同じだろう。他のいろいろな国のために武器を生産して提供しているんだからね。中国とも、表向きは冷戦状態ということだけれども、つねに戦時体制にあるわけだ。

 だから、文化水準とまではいわないまでも国民生活の水準というものは、ソ連ではいまだに繁栄から遠いわけですよ。

 結局、経済力を全部平和に注ぎこんで国民の生活が豊かになったという点では、今度の戦争で負けた日本が一番。この三十数年というもの、まったく無傷でやってきたんだから。従ってこの高度成長になったわけだ。

 しかし、反面では、社会にさまざまな歪みというものがあらわれてくることにもなる。政治家がちゃんとしていないから。五代将軍・綱吉の元禄時代もやっぱりそうだった。

※参考図書:大石慎三郎著『元禄時代』(岩波新書)(黒崎記)

 五代将軍・綱吉の生母・桂昌院。
 もとはお玉といって魚屋の娘……
P.177

 綱吉のことをいうとね、この人は三代・家光の第四男として生まれたんだ。四代・家綱の弟ということになる。 

 綱吉のおっ母さんというのは桂昌院という人で、もともとは卑しい素性の女なんだが後に偉くなって、ついには江戸城の大奥で幕府を操るほどの権力を発揮したわけだ。

 この桂昌院のときにはじめて幕府の大奥に女の権力が生れたんですよ。綱吉の時代に。それまでは、女はほとんど政治にくちばしを入れることがなかった。幕府の閣僚、大老、老中、むろん将軍もそうだが、女には一切口を出せず、全部、男がとりしきってきたものだ。

 それが綱吉の時代になって、綱吉の生母である桂昌院が将軍の母親として権力を拡張したがために、ここに大奥の権力というものが生れたわけだ。政治、経済、社会に至るまで、あらゆるところに江戸城大奥の女どもがある程度強い影響力を発揮するようになったのは、この五代将軍・家綱の時代からですよ。

nanjo.tokugawazyugodaimonogatari.jpg ※南條範夫『徳川十五代物語』(発行所平凡社)P.76 家綱の時代も大奥が政治面に口を出すということがますます盛んになっていく、と書かれている。(黒崎記)

 それで、桂昌院だけれども、もとはお玉ということだけで身元がはっきりわからない。俗説には、魚屋の娘だというね、京都の。あるいは京の堀川の八百屋の娘ともいう。

 家光がどうしてこれをお妾にしたかというと、自分が三代将軍になったときに、幕府の威勢を京都の朝廷に誇示するために大変な行列を連ねて京都へ乗りこんだ。そうして将軍が天皇と対面したわけなんだ。

 これはもう素晴しい行列で、大変豪華なものでね。京都へ行って盛大に金をばらまいているし、つまりはそれによって徳川の威光というものをみせつけたわけです。

 そのときにね、向こうに滞在している間になんらかの伝手(つて)でお玉が将軍つきの侍女になって入りこんできたんじゃないかと思う。

 別の一説では、参議六条有純の娘お万という女性が、寛永十六年、伊勢山寺・慶光院の住持になったお礼言上のため江戸へ下ったとき、お玉はその侍女としてついて行ったというんだな。

 お万の美貌に目を奪われた家光は、江戸へ出てきたお万をそのとき還俗させて側室にしちゃった。それで、お玉もそのまま仕えているうちに、今度は家光がお玉にまで手をつけたというわけだ。

 まあ、いずれにせよ、魚屋だ八百屋だか、よく身元もわからないような娘が将軍の身近に仕えるようになったということは、後の江戸時代の幕府においては、先ず考えられないことですよ。中期以後は、そういうことは例がないんじゃないか。

 だから、そのころはまだ戦国時代のな残があって、割合に闊達な素朴な感じというものがそこかしこに残っていたんだろうね。女であっても、そいうふうに自分の魅力を武器として、ついには将軍の側室になり、後には幕府の政治までも操るところまで行く……そういうことができるだけの、はつらつとした時代だったということでしょう。いいことか悪いことかは別として、つまり男にも女にもチャンスというものがかなり与えられいたわけだ。

 とにかくそういうことで、お玉というのは家光の側室になり、後の五代将軍・綱吉を生んだ。家光には長男・家綱のほか腹ちがいの息子が四人いた。次男が亀松、三男が綱重、それから綱吉で、この下にもう一人、鶴松というのが生れている。

 兄さんが三人もいて、自分は四男坊だから、まさか将軍になるとは思っていなかったわけだ、綱吉としては。それは全然計算に入れてなかったろうよ。お玉……桂昌院もそういうことは考えていなかったに違いない。それが、四代将軍・家綱に子どもがいなかったために、綱吉のところへ五代将軍がころがりこんできた。

学問だけが趣味で学問に淫した綱吉。
それというのも母親の育てかたが…
P.179

 家光は長男の家綱を世子にしたが、弟の綱重を甲府城主、綱吉を館林城主として、それぞれ二十万石を与えた。他の子どもは早く死んじゃったんでしょう、幼いうちに。

 ところが綱重という人も早死にしてしまうんだ。で、残っている家光の子どもというのは、上州・館林の殿様になっていた綱吉だけ。

 館林の城では、ごくつつましい生活をしていたんだよ、綱吉も。そのころはたとえ将軍自身といえどもきわめて質素に暮していたんだから、家光自身。

 そりゃ家光という人はいろいろ噂のある人ですよ。乱暴したとかね。あまり芳しからぬ話もあるけれど、将軍の生活自体はごく質素なものだったんだな。

 それはどういうところでわかるかというと、川越に喜多院という寺がある。そこに三代将軍・家光のころの御殿の一部があって、春日局の使っていた部屋がそこに残っているんだ。それを見ると実につつしまやかなものです。そういうところで家光は育っているわけだからね。御殿といっても、あまり御殿という感じはしない。地方のちょっとした庄屋さんのお屋敷程度のものだよ。

 そういう質実剛健な生活をしたわけだろう。将軍が。ましてや館林の殿様に過ぎない綱吉がそんなに贅沢な生活ができるわけがないんだよ。

 どんな物でも大切にしておいて、いざというときに役立てることをモラルにいしていた時代ですからね、その当時は。そういう根本的な人間生活のモラルを将軍自ら実践していたんだ。筆一本でもちびるまで使う、冬でも足袋をはかない、そういう生活が指導階級にあった。

 だから、義理の兄貴である家綱が死んで五代将軍がころがりこんできた当初は、綱吉もまだ割合とつつましくやっているわけなんだ。

 家綱という人は生まれつき病弱なほうだったらしい。四十歳で病死している。わずか十一歳で将軍になったから在職期間は長いけれどね。

 この家綱に子どもがない。それで弟の綱吉を養子ということにして将軍を継がせたわけですよ。ところで、この綱吉だが、父親の三代将軍・家光という人が、自分が若いころ勉強しないで武術ばかりやって学問しなかったということを悔んでいた。そんなわけで、家光は晩年に桂昌院に、

「自分は学問をきらって今日におよんだことを後悔している。さいわいに綱吉はかしこい性質のようであるから、つとめて聖賢の道を学ばせるように……」

 そういう遺言をしたんだね。桂昌院はそれを守って綱吉に子どものころから盛んに学問させた。いい先生をいっぱいつけて。今日でいえば教育ママということだね。

 子どもというのは、たいてい勉強なんて嫌いなもんだろう。親がいくら勉強しろ勉強しろといったてね、いやがるのが普通ですよ。ところが綱吉は好きなんだ。

 学問することが大好きで、十七、八のころは家来を呼んで〔論語〕の講義をした。下手か上手か、それはまあ別として、綱吉としては家来を集めて講義して聞かせるのが何よりも楽しみなんだよ。

 むろん綱吉自身の天性ということもあるだろう、幾分かは。だけど母親のせいだよね、大部分。桂昌院は、もともと身分が卑しい生い立ちでしょう。そのことがコンプレックスになっていて、いつもひた隠しにしてきたに違いない。

 その反動でもあるんだろうな。むやみやたらに綱吉を可愛がると同時に、学問でなければ夜もあけぬという育てかたをしたわけだ。子どもの時分からこんな育てかたをされたらたまったもんじゃありませんよ。

 学問だけに熱中する子どもというものは、不健全にきまっている。子どものころは、何よりもまずその小さな肉体をフルに使って、躰で万象を確かめるべきなんだよ。

 綱吉が家来に講義するのが楽しみだというのは、それをつまらないという奴はいないからね。恐れ入って聞いていなくてはならないわけけだもの。だから綱吉は面白くてしょうがない。自分はこんなに学問ができるんだぞ、自分は学問のある偉い殿様なんだぞ、そう信じこむようになって、それが誇りなんだ。将軍になったときには、それで、学者将軍なんていわれた。

 他に何も楽しみを知らなかっただろうと思うね。〔論語〕の講義なんかする以外に、そういう人間、いまでもいるじゃないの。学問が趣味になり、いわば学問に淫してしまって、学問ばかりで世の中のことがまったくわからない……そういうのが。

綱吉が五代将軍になれたのは、ひとえに
老中・堀田正俊の働きのおかげ……
P.180

 綱吉が五代将軍になったすぐのことだ。越後騒動というのがあった、高田に。越後高田城主・松平光永の家中で世継ぎ問題をめぐって騒動が起きた。例の小栗美作(おぐりみまさか)の事件だ。 

 この越後藩の騒動は四代・家綱のころから引き続いていて、なかなか解決できなかったわけだ。延宝七年、これは綱吉が将軍になる前年だが、幕府は一応裁決を下して家老・小栗美作の勝ちということになった。これは当時の大老である酒井忠清が小栗の賄賂を受け取っていたためだというんだけれどね。 

 その翌年、綱吉は、将軍になるやいなや早速この越後騒動を自ら再審するとういうわけだ。就任早々に出て行って、たちまち解決してしまったものだ。一日か二日のうちに。 

 御三家以下、諸大名がずらりと居並ぶ中で双方のいい分を聞きとると、その場で大声で判決を下し、翌日には小栗美作に切腹を命じた上、続いて松平光永を改易だ。この綱吉の裁きというのは大したものだった。だから、偉い将軍が出てきた、これで徳川幕府は万々歳だというわけだよ。 

 そもそも綱吉は、将軍になれるかなれないか、わからなかった。何故かというとね、四代将軍・家綱を輔佐していた大老の酒井忠清が、家綱が間もなく死ぬというときに、皇室から天皇のお子さんをもらってきて将軍に据えようという構想を打ち出したんだ。 

 酒井忠清というのは、当時、大変な権勢を誇っていて、世間では忠清のことを「下馬将軍」と呼んだくらいだ。忠清の邸が江戸城内大手門外の下馬札の付近にあって、将軍同様の権力をふるったからだ。 

 その忠清がどうしてそういう考えを起こしたかというと、家綱の弟の綱吉には老中・堀田正俊という人がついている。この堀田正俊に対抗して自分の勢力を維持するためには、家綱に子がいない以上、だれか他のところから候補者を連れて来なければいけないわけだ。それで、いわば窮余の一策だな。「鎌倉幕府の先例にならって……」という大義名分のもとに、京都から有栖川(ありすがわ)宮幸仁親王を迎えして将軍にしようと提案した。 

 老中の堀田正俊という人は、下総の国・古河の城主で、三代将軍・家光の乳母として有名な春日局の養子格なんだよ。堀田正俊のお父さんという人も、やはり、春日局の養子格で、非常に春日局に可愛がられた。 

 春日局といえば、乳母とはいえ家光を育て上げて将軍の位に就けたほどの人で、その養子格だからね。堀田正俊。将軍直属の重臣ということで、その勢力もなかなかあなどりがたいものがあった。 

 だから、酒井忠清も、うっかりしていると自分が蹴落とされてしまうから、そこで宮様をもらってきて将軍にしようとしたわけですよ。これが実現すれば、自分は将軍のうしろだてとして権力が安泰になるからね。 

 ところが、大老・酒井忠清を恐れるあまり一人として反対する者がない中で、敢然と反対意見を主張したのが堀田正俊だ。

「館林侯(綱吉)は将軍家の実弟であられる。正統の後嗣まさにこれなり。皇族をわざわざ迎えまつるなどとは、まことにもって不思議千万なことである」

 立派な肉親の血を分けた弟というものがありながら何事かというわけだよ。

 それで両者の間に、むろん、暗闘がくりひろげられたわけだね。いよいよ家綱が死にそうだというとき、堀田正俊が綱吉を連れて江戸城に入ってきた。正俊はよっぽどうまく事を運んだろうな。忠清の気付かぬうちに綱吉をさっと城内に連れてきて、家綱が寝ている枕元で、次の将軍は綱吉であると家綱に認めさせてしまった。電光石火のごとく。

 これでは、さすがの酒井大老も手も足も出ない。結局、そのために酒井忠清は失脚しますね。「陰の将軍」といわれたくらいの酒井は、こうして威勢を失うわけです。堀田正俊に出し抜かれて。

※令和四年の日本の政治家でも政権の座の主人公のうしろだてとしての権力をえようとしている。2022.04.15記す。

貞享元年八月二十八日、江戸城中にて
大老・堀田正俊・斬殺さる。
P.182

 だから、綱吉にとっては、堀田正俊は自分を将軍の座に就けてくれた大恩人だ。それで家光が春日局に頭が上がらなかったように、同様に綱吉も正俊に頭が上がらない、少なくとも将軍になった当初は。

 堀田正俊という人は。本来、なかなかの硬骨漢でね。幕府閣僚随一の剛直無類をうたわれた人物だった。それでいて馬鹿じゃないしね。綱吉を見事に将軍にした手腕はなみなみではないわけだから。

 正俊は、もちろん、酒井忠清のあとをおそって大老になった。こうして五代将軍・綱吉とこれを輔佐する堀田大老との幕政体制がととのえられた。正俊は綱吉を立派な将軍にしようと思っていろいろ進言するし、一方、綱吉も堀田大老の意見をよく聞き一所懸命政務に励む。だから最初のうちはボロが出ない。

 ところが、堀田正俊が思いもかけぬ急死をとげてしまう。貞享元(一六八四)年八月二十八日というから、綱吉を輔佐することわずか四年だね。

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 それは、大石内蔵助が祖父のあとをついで国家老となって五年目のことで、浅野内匠頭がはじめて赤穂へ国入りをした翌年ということになる。

 この日……。

 堀田大老は、江戸城中において、一万二千石の若年寄・稲葉石見守正休(いなば いわみのかみまさやす)に斬り殺された。

 堀田正俊と稲葉正休とは、縁類であった。

 稲葉正休は、

 「乱心者」

 とされ、その場において、駈けつけた人びとに打ち取られている。

 どうして、このようなことになったか、はっきりとした理由はあきらかでない。

 一説には、堀田正俊が前の酒井大老にかわる権力者となり、しだいに(おご)りたかぶり、

 「このままでは御政道が乱れることになる!!」

 と、稲葉正休が決意し、江戸城中にて従兄弟にあたる堀田大老を斬り殺した、ともいわれている。

       (『おのれの足音=大石内蔵助』より)

 もともと堀田正俊と稲葉正休は親類なんだ。それで片一方は若年寄で、堀田は老中だから、幕府の政治のことをしょっちゅう話し合わなければならないわけだ。

 その間に、はっきりした理由はわかっていないけれども、お互いに意思の疎通がなくなって行ったようだ。堀田正俊という人は大老になったからといって威張るような人物とも思われないんだが、大老という職掌柄、上から抑えつけるということもあったでしょう。かねてから政治上、意見が合わなくて、いがみあっていたのは事実だな。

 その恨みがあったのか、突然、斬りつけて大老を殺してしまった。稲葉もその場で斬られて死んだ。この事件は、その場で喧嘩両成敗になったから、あとに問題が残らなかった。

 けれどもね、綱吉自身の立場で考えるとどうなるか。綱吉という人は、自分の在職の間に二度、江戸城中での刃傷事件を經驗しているわけだよ。

 これはだれも気が付いていないし、書いた人もいないが、自分がまだ若いときに堀田正俊が殺されたということがね、浅野内匠頭の刃傷事件における綱吉の反応に影響しているのではないかと、おれは思っている。

 頼りにしていた、父親とも思っていた堀田正俊を稲葉が殺したわけだろう。憎いよね。そいう思いがあるから、刃傷事件という場合には殺されたほうにどうしても同情的になる。吉良上野介に対しても、あのとき、そういう気持がはたらいたんじゃないかと思うんだ、とっさに。それで、あんな一方的な裁判をすることになった。むろん、それだけでなくていろいろな理由はあるだろうけれどね。この視点から「松の廊下」事件を書いたのはまだないと思うんだが。

※元禄14年3月14日 (旧暦)(1701年4月21日)、赤穂藩主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が、江戸城松之大廊下で、高家吉良上野介義央(きらこうずけのすけ)に斬りかかった事に端を発する。

事件当時、江戸城では幕府が朝廷の使者を接待している真っ最中だったので、場所柄もわきまえずに刃傷に及んだ浅野に対し、第五代将軍徳川綱吉は大激怒、浅野内匠頭は即日切腹、浅野家は所領の播州赤穂を没収の上改易されたが、吉良に咎めはなかった。かえってお褒めの言葉さえ賜った。史料によると、老中は将軍の命をふくんで高家詰所に臨み、「上野介儀公儀を重んじ、急難に臨みながら、時節を弁へ、場所を慎みたる段、神妙に思召さる。是に由て、何の御構もなし、手疵療養致す可き上意なり。」と伝達したということである。その後の経過も、まさにこの線に沿ったもので、結局、浅野家は断絶、家来は浪人しなければならないとことに対し、吉良にはもと通りの出仕を許したのである。

 この処置はいわゆる喧嘩両成敗の原則に反し、きわめて片手落ちであることの不満が浅野家の側に生じたということである。

※参考:赤穂浪士と喧嘩両成敗(黒崎記)

齢を取ってから、やったことないことを
始めると、これはどうにもならない……
P.183

 堀田正俊が殺されたとき、綱吉はいくつになるかな。正保三(一六四六)年生まれで、将軍の座を射止めたのが三十五歳のときだから、このときすでに四十近いわけだ。もう若いという年齢(とし)じゃない。

 だから、堀田を失ったことでがっかりしたし、情けなく思ったけれども、その反面、うれしくないこともない。頭を抑える家来がいなくなったんだから。

 いよいよこれからは万事、自分の思うままということになったわけだよ。それから急速に綱吉が変になってくる。

 親の代からの重臣というのは、頼りになると同時に、なにかにつけて煙たい存在でもある。どこの殿様でもそうなんだ。重臣にいじめられ、鍛えられて一人前になって行くわけだが、鬱陶しいんだな、どうしても。

 館林時代からの質素な生活が、堀田正俊の死後、手のひらを返すように一変してしまう。頭を抑えていた堀田正俊がいなくなって、もうなんでも自分の思う通りにできるというので、それまで家綱の内部に鬱積していたものが反動的に出てきた。

 それからは、どんどん贅沢しはじめて、あとは贅沢三昧。御殿を建て直したり、毎日のように宴会をやったりしたんじゃないの。役者を()んで踊らせたㇼ、お能に凝ったり……。

 若い時分は学問一点張りでしょう。なにもやったことがないんだ。他に、人間、齢をとってから急にやったことないことをやると、どうにもならない。

 こういうことをいうと自慢するように取られるかも知れないが、そうではなくて、おれなんかの場合、戦争に行くまでは株屋だろう。ごく短い間で、まあ十年くらいやったような気がするけれども、充実していたからね、いろいろと……。

 だから戦後、兵隊から帰って来て、なにもないだろう。だけど、一向に平気なんだ。何を着ていようが気にもならない。西洋乞食みたいな恰好していても平気なんだよ。戦後、おれはついに背広というもの、つくらなった。若い人はみんな月給をやりくりして、食うもの減らして背広をつくっていたよ。靴を買い、ネクタイを買ってね。おれは昭和二十五、六年ごろまで海軍の服だったな。この間死んだ谷中の叔父のお古を一つもらって持っていたけどね。

 昭和二十五年ごろには、ほとんどだれでも背広だった。だけど、別段、欲しいと思わない。全然。贅沢なこともなんにもしようと思わない。若いうちに贅沢の限りをしてしまったからだ。

 戦争にも行かないで、あのままだったら、どうもこうもならなかったろうね。幸か不幸か大変な経験をして、だれでもそうだけれど、戦争に行ったために前の生活が中断されたから……。

 とにかくそれで、戦後になってもいまさら贅沢しようという気が起きないんだ。普通、人がだんだん齢を取るに従って覚えて行く贅沢の味を、おれの場合は十代のうちに圧縮して知っちゃったということかな。

 ここで変なふうに自分をどうかしようと思ってもしようがない。そうでしょう。背広だけやっと買ったところで、あとの物はどうなるというんだ。それに似合うワイシャツがない。ネクタイがない。帽子がない。靴がない。コートがない。

 そういう物が全部そろえば、買ってもいいけれど、なんにもそろわない。みんなチグハグで、だから買う気になれないんだよ。

 家を持つんだって、もともと大した家に住んでいたわけじゃないけれども、戦前でもね。だけど、どこだってきれいな家へ入って、うまいもの食ったり、旅行したりね、いろんなことをしてきてるだろう。

 だから、いい家を持ちたいとということもないんだなあ。おれの場合は要するにそういうことなんだけれども、綱吉の場合はそうじゃないからね。

 三十過ぎてまで質素、質素とやらされてきて、思いもかけない将軍になって、はじめのうちは堀田正俊なんかが頭を抑えていたからおとなしくしていたけれども、その堀田が死んでしまったろう。そこではじめて贅沢の味を覚えたから大変なんだ。

歴史に残る悪令「生類憐みの令」も、
もとをただせば綱吉のエゴイズム。
P.185

 綱吉がこうして贅沢に溺れて行くと、当然、将軍のおつ母さんである桂昌院も、女ながら大変な勢力を備えるようになる。

 というのも綱吉は論語なんか勉強して自分では非常に親孝行のつもりなんだから。ところが、綱吉の親孝行というのは自分の母である桂昌院のみに対してであって、他人の孝行なんかどうでもいいんだな。

 それがために、変な坊主が、隆光というんだが、とんでもない権力を持つようになる。これは紀州のどこかで山伏のようなことをしていた一種の予言者なんだ、密教の。千里眼であるとかいってね。この坊主が桂昌院に取り入って、すっかり信頼を得てしまう。

 綱吉が将軍になって間もなく重い病気にかかった。すると早速、隆光が祈禱をしてね、偶然にもなおってしまった。むろん偶然に過ぎないけれども、それは昔の人だからね、みんな祈祷のためになおったと信じるわけだ。綱吉もすっかり隆光を信頼するようになる。

 そうすると隆光は、ますます気に入られようと思うから、

「将軍家におかせられましては戌の年のお生まれにござります。なれば、無益(むやく)の殺生を禁じるが肝要。ことに犬をいたわり、これをいつくしむことによって、御家はますます御繁栄。天下は万万歳にござります……」

 こういう、愚にもつかぬことをいい出した。実際は、綱吉は最後に死ぬとき自分の子どもはみんな死んでしまって、結局は自分のすぐ上の兄で甲府の殿様になつた綱重、この人の子どもの家宣が六代将軍になったんだからね。

 いま、新橋に「御浜御殿」というのがあるだろう、浜離宮、あれは甲府の殿様の下屋敷だった。

 そういうことで、悪名高い「生類憐みの令」というのが出るわけだ。手はじめは犬を殺してはいかん、犬を大事にしろという法律だったが、そてがどんどん強化拡大(エスカレート)されて動物全部を愛護しろということになった。

 江戸城の中で将軍の料理番が魚を料理しているとき蚊が一ぴきとまった。で、パチンとはたいてつぶしたら、それを見ていた同僚がいいつけた。可哀そうな蚊を無惨に殺したというので料理番は島流し、同時に、告げ口した奴も見ていながら()めなかったというのでこれも八丈島送り。

 いまの大久保から中野あたりに、十八万坪の犬のアパートをつくって、江戸中の野犬を集めて、うまいものを食わせた。「御犬屋敷」というんだ。八万二千頭もいたそうよ、そこに。

 その予算だけでも一年に二十万両とか三十万両とかかった。そういう負担は全部、江戸市民にかかるわけだ。犬医者なんていうのは肩で風切って歩いた。金もたっぷり入るしね。

 犬どもは「御犬さま」と呼ばれて傲慢無礼になり民家に入りこんで食いちらす。追っ払うわけには行かないんだ。そんなことをしたらすぐ、犬目付に捕まって牢に入れられる。野良犬が子どもに咬みついてもどうにもできない。

 綱吉は手前のために贅沢のしほうだい。犬は全部市民の負担。今日、われわれがやらされているのと同じだよ。われわれが税金払ってトラックのために道路つくっているのとおんなじなんだよ。

 現代社会は文明的とかなんとかいっているけれども、われわれの租税でバカみたいな議員どもの高い給料を払っているわけでしょう。結構な話だよね。バカでない政治家なら、いくらでも払って、十二分につかってやってもらいたいと思うけど、バカ議員、バカ政治家ばっかりでしょう。むろん、全部じゃないが。

 国民をなめているわけだよ、手前の苗字やな前をひらがなで書くじゃないの。ポスターでもなんでも。あれは、おのれの字を投票者が読めないと思うから、そういうことをするんだよ。ひらがなで書く奴が選挙のたびにふえるな。芸能人みたいに。

 だから、そういう意味では元禄時代に似ている。政治家が国民をばかにしているという意味で。あのころも現代も変っちゃいないわけだよ。

 元禄時時代は綱吉の独裁時代だから、そもそも綱吉が国民をばかにしているということだな。しかし「生類憐みの令」のような奇怪愚劣な法令に反対する家来が一人としていないという、これも呆れた話だ。()びへつらう奴ばかりで。

 堀田正俊の死後、綱吉の独裁者としての力は物凄かった。もともとバカな人じゃないから。やたらに書物を読んでいて、きれる人なんだから。こわいわけだよ、家来どもは。

2022.04.17記す。

戦争があるとないとではこうも違う。
江戸に蕎麦屋ができ、茶漬家ができ……
P.187

 戦争があるとないとではこうも違う。江戸に蕎麦屋ができ、茶漬家ができ……

 綱吉が一つ法律をつくったことで役人がふえたわけだ。犬のための役人が。犬の収容所の所長もできるし、犬目付という犬のたの警察もできる。それは犬を虐待する者を探して歩くんだ。ちょっと野良犬を蹴飛ばしたりしようものなら、すぐしょっぴかれる。そうすると手柄になるんだから、犬目付の。

 そっくりだろう、現在の社会の様子と。いろいろな世の中のことが、封建時代であろうと二十世紀であろうと、やっていることは変っちゃいないんだ。人間のしくみが同じだからね、やることは同じなんだよ。

 それでね、こういう悪政が続く中で、綱吉は贅沢をしているわけでしょう。当然、他の大名もこれに習う。将軍といえども真冬に足袋もはかずにあかぎれだらけだったものが、いまや足袋一つでも贅沢な生地でつくるということになる。刀でもただの刀では気が済まないから金とか銀とかで(つば)をつくったりする。持ち物すべてが贅沢になってくる。着物にしても、女の下着にしても。食いものだって、昔は外へ出るときに弁当持って行かなければならなかったのが、元禄時代になると、金さえ持っていれば外で食えるようになる。食いもの屋がでできたから。

 どうしてそういう店ができるようになったかわかるかい?

 戦国時代には「余剰」というものがない。物質の面でも時間の上でも、戦争のためには、食いものだってなんだってできるだけ切り詰めて、武器をつくり大砲の弾つくりをしなければればならないだろう。

 人口も少なかった。それが戦争がなくなると、戦争に使っていた人手が余る。人の手があれば土地を開墾できるじゃないの。作物の耕作地帯がひろがる。人手が余っていれば米の他にも何かつくれる。蕎麦だとか。それがどんどんできるでしょう。

 食糧事情にゆとりが出てくるわけだよ。米の他にもいろいろつくれるということで。だから、まず、蕎麦屋というものができる、都会では。余った人手の所産だよ、これは。金さえ持って行けば蕎麦が食べられるから大変便利になった。はじめは太く打った黒い蕎麦を箸でちぎるようにして口へ入れ、丹念に噛みしめるものだった。それがしだいに調理のしかたも工夫されてくる。

 たとえば、「蒸切(むしきり)蕎麦」などというものができるようになった。これは、湯でさらした蕎麦を水で洗って、それを蒸篭(せいろ)に入れて熱く蒸すんだよ。これを柚子の香りのする汁につけて食べるんだ。

 元禄のころは、江戸では蕎麦屋と茶漬屋が大流行だった。米の生産も余剰分ができるようになったからね。ちょっとした盛り場へ行けば三色茶漬、五色茶漬などというものが食べられる。お茶漬けといっても今日のそれとは違うよ。三色というのは三種類のおかずで飯を食わせるということなんだ。

 西瓜なんかも、信長、秀吉のころは南蛮渡来で、ポルトガルのものを船底に冷たくして運んできて、日本へ上陸すれば一個いくらか知らないが、とても一般の人は買えない値段だった。千利休なんかが、親指の頭ほどに切って茶会の席で使っているわけだ。

 それが人手が余って畑も広くなってくると、蕎麦ばかりじゃない、西瓜なんかもできるから、夏になると西瓜、西瓜と売りに来て、都会なら金さえもっていればどんどん買える。

 戦後、われわれが何もないところから、だんだん電気洗濯機だ、電気掃除機だ、テレビ、ステレオだ……こうなってきた。元禄時代から見れば現代は大変な贅沢だけれども、戦国時代から見ると元禄時代はもっと贅沢だった。夢みたいな、とんでもない贅沢だったわけだよ。

 それほど戦争というものはエネルギーを食っちゃうんだよ。戦国時代から家光のころまでは宿屋へ行ったって丹前なんか出さない。江戸時代中期になっても出さないな。幕末に近くなってからだ、こういうものを出すようになったのは。

 宿屋へ着くと袴ぐらいは脱ぐけれども、ちりを払って部屋に通って、それで金を払って米を買うんだよ、客が。自分で宿屋の台所へ行って鍋釜を借りて自炊するんだ。弁当も自分でつくる。

 それが綱吉の時代になれば、人手が余ってきて、金儲けができるから、宿屋へ行っても金さえ出せば全部用が足りるようになる。湯に入っている間に飯ができていて、これを食えばいい。昔の旅と較べたら天地の差だ。生活革命だよ、これは。こういうように世の中がなってくると、いろいろな商売が出てくる。ということは武士の使う金がみんな町人の懐に入ってしまうということだろう。元禄時代になって本当に町人が経済的な実力をつけたんだよ。

 そのかわり、綱吉が死んだとき、江戸城の御金蔵はからっぽですよ。祖先の遺した莫大な金を全部使いつくして、そのうえ町人に借金まで残した。それで、みんなも知っている御三家の一人、徳川光圀、例の水戸黄門がずいぶん綱吉に意見したけれども、結局、光圀は怒って隠居しちゃうわけだ。

2022.04.18記す。

なんでも覚えるととめど(ゝゝゝ)がなくなる綱吉。
その「女狂い」のすさまじさときたら……
P.189

 贅沢と慢心が昂じてくると、今度は女に狂い出す。綱吉というのは、はじめは女にあまり興味がなくて学問ばかり。むしろ男色のほうだった。これでは跡取りの子も生まれないし困るというので、牧野成貞、これは綱吉が館林の殿様だったころからの家来で、綱吉が将軍になると抜擢されて側用人になったが、この人がいろいろ考えた挙句、なんとかいうきれいな女を腰元にして将軍に近づけた。そうしたら綱吉、覚えちゃった……女の味を。

 この将軍はなんでも一つ覚えるととめど(ゝゝゝ)がなくなるんだよ。綱吉というのはそういう性格なんだ。それで、お気に入りの牧野成貞の屋敷へたびたび遊びに行くなんて破天荒のことなんだ。こんなことを始めたのは綱吉が最初だな。牧野のうちじゃ大変だよ。

 そのたびに邸内を改築したり、能舞台をこしらえたりして一晩もてなす。そうしたら、綱吉、こともあろうに牧野の女房に目をつけた。きれいな女性(ひと)だったんでしょう。ある晩、突然、江戸城に呼びつけ、それっきり自分の妾にしちゃった。自分の最も信頼する、最も忠義な家来の細君をですよ。何年かたって牧野のところへ平然と奥さんを返した。普通の神経じゃないね。

 そればかりじゃない。今度は牧野の娘・安子に目をつけた。これは一晩か二晩で返された。だけど、このときには安子は結婚したばかりだった。黒田直相(なおすけ)の次男が養子に来て牧野成住となっていたわけだよ。

 自分の女房のときも、自分の娘のときも、牧野成貞は目をつぶってこらえた。一言の文句もいわずに。気が弱いんだな。けれども成住のほうは黙っていなかった。将軍を斬るわけに行かないから切腹してしまった。狂人のような将軍に対する、これが唯一の反抗だったのだね。安子も翌年死んだ。病死ということになっているが、わからないね。

 牧野成貞は実に哀れだよ。まるで生ける化石のようになった奥さんと、死ぬしかなかった娘と、両方を体験しているわけですよ。それで「汝はまことに忠臣である」というような賞をあたえたりしているんだよ。綱吉は、破廉恥のきわみだ。

 女色ばかりか、男色のほうも盛んなものだったらしい。綱吉は一生の間に、彼に愛玩された男女は合せて百人をこえるというんだから。そんなことを平気でやっていながら、自分では動物を愛護しているつもり、母親に孝養をつくしているつもりなんだ、綱吉は。

 自分は非常に孝行な将軍であるということをつねに自慢していた。仁義礼智信、孝行の道というのがあるでしょう、論語に。それを自分が実行しているつもりである。

 だから手前(てめえ)だけの学問なんだ。世の中のことが何もわからない人が学問するとこういうことになってしまう。蚊をつぶして島送りになった侍に親がいて、どんなに悲しむか、そんなことは知っちゃいない。

 いまでもいますよ、こういうタイプのインテリが。たとえば、勝手に法律をつくって、他人が自分のつくった法律を破ると容赦しない。それで自分がそれを破るのは一向に平気という……まったく身勝手なんだよ。こういう将軍のために一番苦しんだのは江戸の市民だね。それと直属の家来たち。大名の領地はそれぞれ独立した国だから、将軍といえどもそこまで行ってどうこうすることはできない。

 学問をしながら空虚なんだ。つねに。自分が実践しようと思っても機会がないでしょう。夜中に抜け出して町の酒屋で一杯飲みながら他人(ひと)の話を聞くなんてことはできないよね。将軍になったら、だから自分のできないことを家来に強いる。女房を自分の妾に差し出すことが忠義である、そういうふうに自分で勝手になっ得する、頭の中で。インテリだからね、綱吉は。インテリというのは自分で理屈をつけて自分でなっ得できる。自分でなっ得させちゃう。これが綱吉のようなタイプのインテリの特長なんだ。

 女でも、たまたま棄てたりしても、自分で自分に都合のいいようになっ得するんだ。あれを棄てたのはこういう気に食わないことをしたから、これは棄てるのが当然である、自分はちっとも悪いことをしていない、悪いのは女のほうだ……こうなっ得するわけだ。自己弁護の技術にたけているんだな、つまり。

綱吉は六十五歳まで生きた。
その血筋をたどって行くと、なんと……
P.191

 綱吉には徳松という子どもがいたんだが、五つのときに病死してしまった。それっきり世継ぎの子が生れない。「生類憐みの令」というのは、もとはといえば跡継ぎ欲しさからだった。

 それで、とうとう甲府の綱重の子をやむなく六代将軍にするわけけだが、この六代・家宣に将軍の座をあけ渡す最後のときに、自分が死んでも「生類憐みの令」は撤廃してはいかんと命じたんだよ、遺言として。

 ところが家宣は、将軍になるやいなや、一日でもってこの悪令を廃止してしまうんだ。これは先代が最も気にかけておられたものに相違ないが、この禁令に触れて罪を得た者は何十万にも上る、先代の御意志に背くけれども自分はこの禁令を廃止する、そういってね。だから、いかに悪令であったか、どれほど怨嗟(えんさ)の声が(ちまた)に満ちていたかわかる。

※参考:南條範夫著『徳川十五代物語』(平凡社)P.113 参照。(黒崎記)

 綱吉が、こんなに恨まれながら六十五まで長生きしたということは、町民の血が入っていたから。母親がえたい(ゝゝゝ)の知れない魚屋の娘だったといわれる、その血が入っていたからじゃないかな。そう思うだよ。

 それからね、信長の血も入っているんだ。綱吉には、織田信長の血筋なんだよ、考えてみると。

 いいかい。信長の妹のお市の方。これが浅井長政に嫁いで三人の娘が生まれたわけだ。長女は例の淀君。次女が(はつ)。三女がお(ごう)で、これが三度目の結婚で徳川二代将軍・秀忠の夫人になるでしょう。そして秀忠夫人が生んだのが三代・家光で、家光とお玉の間に生まれたのが綱吉というわけだからね。だから、信長と同じ血が入っていることになる。面白いだろう、ちょっと。

※参考:権力者の不明(黒崎記)

2022.04.19 記す。


     Ⅱ 幕末維新篇篇
井 伊 直 弼

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長野主膳に出合ったときから、
 不思議な宿命に行き当たる。
P.260

 徳川幕府崩壊の一番大きな原因を一言でいえば、結局、日本が鎖国をしていたということ。そもそもの遠因はそこにあるんですよ。どうしてだかわかるかい?

 この戦後の三十数年を考えてみてもわかるようにね、農作物というのは年ごとに出来、不出来があるでしょう。たとえば去年の冷害がいい例だ。今日の日本では、そうした場合に、すぐ貿易で食料を輸入するから、何でもない。ところが江戸時代は鎖国をしていて、外国との交際がない。凶作だったらどうにもならない。

 幕末の井伊直弼が大老に就任する前の、田沼時代から天候が定まらなくて飢饉が相次いでいるわけだよ。これは地球の運行によって周期的に繰り返される現象なんだ。いまでも「冷夏」だとか氷河時代に近づきつつあるとか、いろいろいわれている。本当のところはどうなのか、よく知らないけどさ。

 ただ、平安朝のころの風俗を見ると、男でも女でも薄い麻の単衣のきもので、冬でもそれを何枚か重ねているだけでしょう。あのころはやっぱり気候が現代よりいくらか暖かったんじゃないのかね。

 それが幕末になると、何というのかえ、ちょうど地球の運行からいって気候不順の時期に当たちゃったんだね。冷害が続いて飢饉の年が続く。みんなが騒ぎ出す。 

 騒ぐということなら、いつの世の中でも政治が悪いということになるわけだよ。それで、もう一方に国学の発達ということがある。本居宣長に発する「日本は神の国である」という、古事記を舞台とした思想だな。これがいつの間にか有力な、幕府政治に対する反対イデオロギーのようなものになってきた。 

ikenamiotoko1.JPG ※参考図書:『新 日本の歴史』(山川出版)P.220(黒崎記)

 折りしも世界の交通が発達して、外国人たちが船で日本へやって来る。進んだ武力を背景として日本に対して開国を迫る。しかし、国学が盛んになっている日本では、青い眼の外人たちがこの神国へ入って来るなんてとんでもないことだ、というわけだ。 

 いろいろな条件が幕末のこの時期に来て全部一緒に重なっちゃたんです。そこに「夷狄を()」つまり異国の人間を追い払う攘夷思想というものが生まれた。ところが外国側も黙って引込んではいられない。日本という基地が東南アジアの一角にどうしても必要なんだから。現代の日米関係と同じことですよ。まあ、あの当時は貿易のための航路で水や食料を補給したいということでしようけれどね。

 アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦四隻を率いて浦賀へ来航したのが嘉永六(一八五三)年の六月、同じ年の六月。同じ年の八月にはロシアのプチャーチンが、やはり軍艦四隻とともに長崎へ現われた。安政元(一八五四)年にはイギリスの東インドシナ艦隊が来るという具合で、日本の国情は内外ともに騒然たるものになってきた。

 ちょうどそういう時代に井伊直弼は大老になったわけです。井伊家はごぞんじのように藩祖・井伊直正以来、徳川家の大名の中でも生え抜きの名家で、井伊直弼という人はその十三代目に当たる。

 本当は直弼が井伊家を継ぐはずはなかたんだよ。それというのも十一代藩主・直中の十四男ですからね、それも妾腹の。だから他の大名の養子になるあてもなく、彦根城のそばに小さな家をもらってね。これに、 

埋木舎(うもれぎのや)」 

 というな前をつけて、そこでひっそりと暮らしていた。自分はもうここで一生埋もれ木で朽ち果てるというあきらめなんだ。いまでも残っていますよ、大名の子どもが住むような家じゃなくてね。まあ、(うまや)はありましたがね。

 それで、悶々の日々を過ごしていたところに現れたのが長野主膳なんだ。のちに井伊直弼の懐刀といわれた人物。この人の経歴は詳しくはわかっていないけれども、紀州のね、殿様の御落胤……という感じなんだな、どうも。とにかく紀州藩に(ゆかり)の深い人ではあるが、やっぱり直弼と同じような境遇で、だからこの二人は意気投合したところもあるんでしょうね。

 井伊直弼という人は、何事によらず一心に打ち込んでやる性格だったらしい。文武両道を学んだが、どれも通り一遍ではない。禅は悟道の域に達し、居合は自分で一派を創立したほど、さらに茶道にも熱心で後年「茶湯一会集」という本を著しているんですから。

 また直弼は和歌も学んでいた。それで、国学者として、同時に歌人として盛名を馳せていた長野主膳に出合ったときから、主膳の学識に心酔して子弟の契りを結んだ。これが天保十三(一八四二)年のこと。当時はまだ井伊直弼も若かった。三十にもなっていません。むろん、やがて自分が大老になるだろうなんて夢にも思っていない。

 ところが不思議な宿命というのか、思いもかけず井伊家の当主になる。兄貴がみんな死んだり他家へ行っちゃったりでね。そうすると、本来井伊家はめぃ藩ではあるし、直弼の持前の賢明さ、頭の切れるところが作用して、それでついに大老に就任ということになったわけだ

直弼は水戸藩を恐れた。
何せ十四代将軍で争った仲だから……
P.261

 幕末のことを考えるときは、水戸藩の存在というものに注目しなければならないんだ。紀州家、尾張家、水戸家。これは徳川の親族の中でも最大の、いわゆる御三家で、将軍家に跡継ぎがいないときは、御三家から出るというぐらいのものですからね。それほど重要な御三家の一つでありながら、水戸藩というのはかねがね幕府に対して不満を抱いているわけだよ。  

 そもそも水戸家は、黄門・水戸光圀の時代から、幕府に対する御意見番なんだ。幕府の政治がよくないというとときには、昔から水戸家が意見をいうことになっている。光圀以来ね。 

 光圀の時代というのはちょうどバカ将軍の五代綱吉の時代で、綱吉が光圀にさんざんやっつけられたものだから、ついに光圀を遠ざけてしまった。それで光圀は隠居して引き籠り、そこで「大日本史」というものを編纂した。そのときから水戸藩というものは、学問の非常に盛んな、日本の歴史というものはどういうものであるかを研究することの盛んな、そういうお国柄になっているわけですよ。 

 元来がそういう幕府批判の伝統のある水戸藩であるのに加えて、ちょうどそのときの藩主が水戸斎昭。これがンええ、偉い人だったというんだが、まあ何ていうのか一種の過激人物なんだね。大老・井伊直弼とこの水戸斎昭がことごとく激しく対立した。直弼は開港やむなしという考えかたなんだ。とにかく外国側の強硬な申し入れを断ったら大砲でどんどん撃ちかけられて、もう、どうにもならない。勝負にならないとわかっているから、それで井伊大老は、この際、しかたがないから国を開いて外国と交際を始めという政策に踏みきったわけです。

 ところが水戸藩にいわせれば、井伊大老はけしからん、外国と交際するなんて何事だ、というわけ。そういう水戸の精神的風土を頼って、攘夷派のグループがいろいろ画策をする。水戸は水戸で彼らに対してひそかに援助をする。 

 こうなってくると直弼としては、ちょっと捨てておけないことになる。単に過激な革命分子がうろうろして騒いでいるのと違うから。徳川の親藩である御三家の一つでる水戸藩が、そういう不穏分子と結びつくということは、これは大変なことですからね。幕府の大老である井伊直弼は、立場上、何とか思い切った手を打たなければならない。それがつまり「安政の大獄」ですよ。

 徹底的に取り締まって、多くの人間を処刑した。このとき直弼の意を受けて働いたのが長野主膳でね。革命分子のアジトがいっぱいあった京都へ長野主膳が行き、いまでも残っている俵屋という旅館を定宿にして、密偵を放っていろいろとお公家さんだの志士だの、あるいは大名家なんかを探索して、それを井伊直弼に報告する。 

 長野主膳は、紀州藩と深く関係のある人でしょう。ということは元来水戸とは相容れない立場なんだ。将軍家継承問題でも、紀州の徳川慶福(よしとみ)か、それとも水戸の一橋慶喜か、争ったばかりのところですからね、結局、このときは紀州藩主慶福が勝って、十四代将軍家茂になる。この陰に主膳の暗躍があった。 

 そういうこともあって、水戸藩に対する処分が一番過酷なのになった。安政の大獄と呼ばれる弾圧では百人を越える反幕府派が捕えられ、処刑されたけれども、やっぱり徹底的にやられたのは水戸藩。斎昭(慶喜の実父)は国許永蟄居、慶喜は隠居・謹慎。あるいはね、検挙しなくてもいい者までもやってしまったかもしれないんだよ。だけどね、井伊のやったことは、大老としては当然のことをやったまでなんですよ。

 ただ、時代が悪かった。もう少し前だったら是認された何でもないことなんだけれども、このときは、かえって火に油をそそぐ結果になってしまった。井伊自身は、よくよく考えて、これはやらなくてはしようがないと思ってしたことだろうと思うんだよ、ぼくは。後になってから、井伊のやりかたは過激だ、もっと他にやりようがあったろうなんていうのは簡単なんだ。だけど、あの当時にあってはね、ちょっといえないと思うね。 

 ところで、もう一つね、これは歴史家がまだ見逃しているんじゃないかと思うんですがね。人間というのは、年少のころから若い時代に押しひしがれた下積みの生活をしているとね、自分が権力の座に着いたときに、反動的にその力をふるうんだよ。これは井伊大老のみならず、一般の人みんなに当てはまることです。 

 恐ろしんだよ、これは、年少のころの鬱屈したものが、何かの拍子にパーッとふき出して来る。それは本人でさえ無意識のうちにすることなんだ。 

 直弼の場合は、別に生活に困るといういうことはないわけです。下積みではあっても一応、藩から金は出ている。しかし、現実には自分の家来たちよりももっとひどいような家をあてがわれてねえ。十七歳から三十二歳で藩主になるまで、わずか三百俵の捨て扶持でしょう。殿様の子でありながら貧乏世帯なんだ。その直弼が井伊藩三十五万石の藩主になり、ついには大老になったとなるとだね。やっぱり、しいたげられていた時代の反動が無意識のうちに出てくるんだよ。 

 だから、そういう人間のどうにもならない心理というのから見て、安政の大獄に象徴される井伊大老のやりかたに、ある程度年少時代の反動が出たということはいえるんだ。そうでなければ、ああまで激しい弾圧はしなかったんじゃないのかな。他にまだ方法がなかったわけじゃないと思うしね。

 幕府の大老としては、あくまで当然のことをしたに過ぎない。井伊が悪いことをしたとは、ぼくは思わないんだ。しかし、もう少しやりかたが他にもあったろう、他の人だったらまた別の方法で解決しようとしただろうということですよ。たとえば、せめて皇女和宮の降嫁の終るまでは事を延ばすとかね。まあ、井伊としては、ここでやってしまわないと見せしめにならないと思ったんでしょうね。何しろ水戸が背後にいるから、革命分子たちの。直弼はその点を一番恐れたんだよ。 

第二次大戦で本当に戦ったのは、
天皇しかいない。
P.264

 当事者というのは、自分のことはわからないものなんだ。自分で自分のことはわからなくても、他人(ひと)のことはわかる。これが人間ですよ。同時に、渦中にあるときはわからないんだよ。 

 このことは大東亜戦争自体を見てもわかるでしょう。あの推移を見てもね。駄目だとわかっていながらも引きずられて、結局は戦争をするんだから。駄目だ、駄目だってみんがいっていた。海軍でも到底こんな戦争はできない、やったら敗けると、資材もなくてやったら必ず最後には敗けるんだと海軍がいっているのに、陸軍がおっぱじめるだろう。 

 だから、動乱のときというのはどうしようもないんだよ。日露戦争のときのように、陸軍と海軍がすっかり肚を割って、相談して、この戦争はやるけれども早くやめなければいけないということで一致してね、そこでお互いに協力して戦争を始める――ということじゃなくてだねえ、もう駄目だとわかっていて引きずりこまれるわけだからね、この前の戦争は。 

 だから、井伊直弼の場合は、それよりもっと無理からぬことだと思うんですよ。一番バカバカしいのは今度の太平洋戦争ですよ。あの中で、真面目に戦ったのはただ一人だけです。他の、大臣とか政治家、軍人、みんな口では、駄目だ駄目だ、陸軍の横暴を何とかしなきゃいかんっていってましたがね、本当に戦ったのはたった一人しかいない。だれだかわかる? 

 天皇ですよ。日本の敵・陸軍の横暴というものに対して、たった一人敢然と戦ったのは天皇なんです。ぎりぎりのところまで戦い続けている。政治上の独裁権がないにもかかわらず。だけど、その天皇を援けるやつが一人もいなかったんだ、命賭けでやるやつが。

 始めから最後までもう、しっかりとした見通しを持ち、日本の将来というものを賢明に予見して、正しい考えをつらぬいたのは天皇一人だけ。これは、ちかごろいろいろな資料が出るようになってきて、ようやくわかったことです。もし、そういうものの資料が出なければ永久にわからずじまいですよ。天皇はいつも雲の上の存在で、戦争なんかでもみんなまわりのいう通りに動かされて、うんうんっていって戦争になっちゃっと、というふうにしか思えない。

 それがこのごろになって、さかんに資料が公開されるようになり、だから、ああそういうことだったのかとわかってきたわけだよ。あれほど英邁な君主がいながら、時の流れというものは結局どうしようもなく、日本はバカバカしい戦争に突入した。このことは、ちゃんと覚えておいたほうがいい。 

桜田門外の変もかなり疑問の事件だ。
資料に表われない裏側の事情があったはず……
P.265

 安政の大獄以来、水戸藩の井伊大老に対する怨みというものは、これは大変なんだ。まあ、あれだけ徹底的にやられたんだから無理もない。で、結局、その不満が爆発して、水戸浪士が桜田門外で井伊直弼を殺すわけだ。 

 この事件も不思議なんだよね。当然、早くから、何かありそうだ、いつ襲われるかもしれないという噂は入っているわけだし、危険であることは十二分にわかっていたわけですよ、井伊家にも、それにもかかわらず、あんなに簡単にやられちゃうといのが不思議でしょう。いくら雪が降っていたからって、油断をしたといってもねえ。江戸城のところで真っ昼間に襲撃してくるとは夢にも思わなかっただろうな。こういうことが、こういう場所で起こるという、そこにも将軍家というものの権威がいかに落ちていたか、よく表われていますね。  

 昔の将軍家の威光といったら、それは大したものだからね。考えられないわけだよ、こんな事件が起きるなんて。結局、八代吉宗以降、だんだん将軍家の威光が薄れていったんだ。中には利口な将軍もいたけれどね。それで当然、独裁政権であるだけに、ひとたび威光が薄れだしたらもう、どうにもならないんだ。

 やむを得ず合議制になってくるわけだ、政治が。老中、若年寄が集まって相談をし、それを大老が決裁するというような形にね。合議制というものには本来、それなりのいいところがあるわけだが、そこがやっぱり、いまの民主政治と違ってそれぞれ殿様だからね。領国があり、そこへ帰れば絶対君主でしょう。  

 封建時代の日本は、たくさんの独立国の集合体ですからね。国境がいくつも存在したわけです。国境感覚が日本人にはないなんていう学者がいるけれど、とんでもない話でね。 

 それでまた桜田門の事件だが、井伊家といえば藩祖・直政以来「赤備え」でなを取ってきた武勇の家柄なんだ。それがわずか十八人の浪士に襲撃されて、大将の首を取られるという醜態をさらしたわけだからねえ。井伊家の江戸屋敷は桜田門から見えるんだよ。いまの国会議事堂のちょっと前のところですからね。ほんのわずかな距離でしかない。しかも真っ昼間なんだ。  

 この三月三日は上巳の節句といって、殿中でお祝いの儀式があるわけだ。だから各大名がどんどん行列をつくって登城してくる。ちょうど雪が降っていたこともあって、みんな合羽を着て、刀に柄袋(つかぶくろ)をはめている。その柄袋をはずさなければ刀は抜けない。そこへ飛び込んで来られたものだから、たちまちに斬り立てられたんですね。  

 井伊の家来にも一人や二人、落ち着いているのはいた。柄袋をはずして、たすきを掛けて、それから立ち上がって防いだというものもいました。だけど、そのときにはすでに井伊直弼は腹に鉄砲玉を受けていた。そうでなければ直弼ほどの男があんな死にざまはしませんよ。  

 映画で観るとみんなおかしいんだ。桜田門外の変。何回も映画になっている。それが必ず血相変えて、いまにも斬り込むぞという格好で近寄っているわけだ。あんなことをしてたら、すぐにバレちゃう。井伊のほうだって柄袋をはずせることになる。だから、柄袋をはずすひまもないような斬り込みかたを見せないとね。あれはアッという間に終っちゃうんだから。まず、五分か十分だろう。  

 桜田門の近くに集っているのはいいんだよ。みんな武鑑を持って、  

「今度の大名は何々様だ。次は何様……。」 

 と武鑑に出ている紋と行列の紋を照らし合わせて、見物しているわけだ、田舎侍が。それで井伊家の行列がすぐ目の前まで来た瞬間に、水戸浪士の一人、森五六(ごろく)郎っていうのがパッと飛び出し、訴状を捧げて、

「申し上げます!」 

「何事だ、退()け!!」

 そのときにもう、隠れてるやつがドーンと一発撃っている。それが直弼に当たっちゃたんですねえ。実際に見たわけじゃないが、まあ、こうだっただろうと思う。

 浪士十八人の中に一人だけ薩摩藩の出がいた。有村治左衛門という。この有村が駕籠から直弼を引きずり出して、首を切り取った。それで有村はその首を持って、少し逃げて、結局重傷のために松平大隅守の屋敷の門前で死んだ。そのために松平家が直弼の首を預かっちゃったんだよ。

 井伊家としては、その首を返してもらうのに大変だった。傷口を縫合して、病死ということで幕府へ届け出たわけです。むろん、幕府は委細承知の上で、これを認めた。認めざるを得ませんよ。大老が路上で浪士に殺されたなんていったら、幕府の権威自体が吹っ飛んじゃうもの。そうでなくたって非常時なんだからね。

 一説には、前の晩に、

「明日の御登城に浪士たちの襲撃あり」

 という投げ文が、井伊家の屋敷にあったというんだ。で、それを直弼に知らせたところが、泰然自若としていたとか、死を予期して、

「死ぬなら死んでもかまわぬ……」

 という様子であったとか、そういう話が残っている。だからねえ。資料には表われない裏側の事情が、やっぱり、いろいろあったんじゃないかと思いますね。

昔の大名というのは、政治でも、座興にしても
真剣にやった……
P.267

 十二、三年前に、彦根へ講演に行ったんんですよ、頼まれて。講演の後で市長主催の宴会があったわけだ。そのときぼくは市長の井伊さんの三味線で長唄をうたった。「勧進帳」を。ぼくは、どっちかというと、そんなことをしたくないほうなんだ。

 小福っていう芸者がね、ぼくに、 

「あたし市長さんの三味線、一回も聴いたことがないから、いい機会だから是非聴きたい。だから、勧進帳お願いします」 

 と、そういうんだ。

 ぼくは、そのとき考えたのはね、自分がそういうことやるのはいやなんだけれども、市長がどういうふうに三味線を弾くのか見たかった。殿様だからねえ。それで、

「じゃ、やろう。おまえも手伝ってくれ」

 と、いうことになって、小福といっしょに勧進帳をうたった。井伊兄弟の三味線で。市長の弟さんは大学の先生なんだ。学者ですよ。その人も三味線を弾くんですよ。 

 うたいながら市長の井伊さんを見てるとね、もう真剣なんだねえ。汗びっしょり流して。いわゆるお座敷芸じゃない。もう本当に自分が習ったものを真剣にやるわけですよ。あれはやっぱり大名芸ですね。お大名というのは、それほど真面目な、立派なものなんだ。 

 この話はもう何べんもしたろうけれど、いいと思うんだ。とにかくぼくは非常に感にうたれてね。ご兄弟を見ていて、 

(ああ、昔の大名というのは、こういうものだなあ……) 

 って、感覚としてね、こういうふうに思ったね。それは、どこがどうって、ことばではいい切れませんよ。ただ、昔の大名というのは何事に対しても、たとえ座興の、座興ですよ実は、ぼくなんかの三味線を弾くというのはね、それでも汗びっしょりになって真剣にやるわけだよ。

 大名っていうのは、こうだったんだよ。政治でも何でも。むろん、バカ大名もいただろうけれども、だいたいはもう、みんな一所懸命ですよ。 

 で、井伊さんがね、全国市長会議に行くだろう、当時ね。そうすると一番見すぼらしいんだよ、洋服が、戦前のものをそのまま着ているから。修理に修理を重ねてね。ところがねえ、会議が始まるでしょう。すると、だんだん井伊さんがピカピカ光ってきて、立派に見えてくるんだって。これ、別の市長から聞いた話だ。つまり、大名っていうのはそういうものだよ。 

 あとでぼくは恨まれたよ、本来ならば彦根藩の殿様である人に三味線を弾かせた、池波正太郎はけしからん、なんてね。 

 それで、井伊さんは、昔の御下屋敷の一つの小さなほうに、奥さんと二人で暮しているわけだ。奥さんは沖縄の公女ですよ。大変な名流の出なんだ。だけど女中も使わないで掃除から何から全部、奥さんが自分でやっていて、屋敷の一部を何か病気の人たちの施設にして、その世話もしているわけですよ。

 そういうことを彦根の市民はみんな知っている。他人によく思われよう、自分が何か得をしようという気が全然なくて、そういうことを一所懸命にやっていることをね。だから、いかに革命派が立っても市長選挙には駄目なんだよ。勝てないんだよ。市民が知っているから。 

 本当の大名というものはどうであったか、井伊さんを見ているとわかる。自分のことなんか考えていないんです。ところが明治維新で成り上がったやつには、そういところがない。利権を漁る、地位を漁る、名誉を漁る、というやつのほうが多くなっちゃった、明治維新後の政治家は。       

 昭和のこういう世の中になっても、大名というのはああなんだからね、井伊さんのよくに、金にも名誉にも関心がない、何よりも市民のことが一番大切だと。殿様って、そういうものなんですよ。そういう無私の生きかたが伝統的に血になってつながってきているわけです。そこがわからない人が多いんだねえ。

2022.04.22 記す。


徳 川 家 茂


和宮降嫁の条件としてあった攘夷は、
始めから空手形だった。
(P.270)

 十三代将軍・家定というのは、生来凡庸だった上に、子どもができなかったから、早くから跡継ぎのことが問題になっていた。候補者は二人いて、一人は家定の従弟に当たる紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)、つまり後の十四代、家茂だな。そしてもう一人は水戸藩の徳川斎昭(とくがわ なりあき:黒崎記)の七男である一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)

 幕府の大奥と奥女中たち、これは大変な勢力があるわけだよ。その大奥と井伊大老が協力して、紀州の慶福を推し、水戸側と真っ向から対立した。

 将軍になったとき家茂はようやく十三歳ですよ。そりゃ昔の十三歳といえば、現代とは違って大人であるとはいえるけど、やっぱりまだ一人前じゃない。周囲の情勢に流されて、気が付いてみたら十四代将軍になっていた……というのが家茂の偽らざる気持ちじゃないの。

 百四十年前に、同じように紀州藩主から八代将軍になった吉宗の場合は、もう三十三歳だったわけですからね。それに何といっても時代がよかった。吉宗にとっては、徳川幕府の勢いが盛んで天下太平だったでしょう。だから徳川中興の祖と称えられるような名将軍になることができた。

 それと比べて、家茂の場合は、あまりにも時代が悪かった。晩年の勝海舟は、家茂のことが話題にるたびに「お気の毒なかただった」と、老眼に涙を浮かべて嘆息したそうだよ。「

 家茂が十四代将軍になった翌々年に、井伊大老が暗殺されてしまう。同じ年の夏、徳川斉昭も死ぬ。井伊直弼亡き後、大老の地位についたのは安藤対馬守信正だ。安藤信正は井伊直弼の政治構想を受け継いで「公武合体」というものを推し進めようとした。その一つの策が皇女和宮の降嫁ですよ。将軍家茂の妻として、孝明天皇の腹違いの妹である和宮を迎えることができれば、幕府と朝廷の絆は万全になる。典型的な政略結婚だね。

 孝明天皇は、執拗な幕府の要求に負けて、この結婚を承諾したわけだね。それというのも勤王派の長州だの薩摩だの、あるいは各地から流れ込んで来た浪士たちが京都で騒ぎ立てるでしょう。これが非常にいやだったんだねえ。それともう一つ、極端なほどの外人嫌いだった。

※参考:南條範夫著『徳川十五代物語』(平凡社)P.212(黒崎記)

 目の色の青いやつらが、日本へ入って来てどんなことをするかわからないということで、和宮を家茂の嫁にやる代わりに、必ず夷荻をやっつけてしまうというのが和宮降嫁の条件だった。幕府はこの条件を呑んで、やっと政略結婚を実現させるわけだ。

 だけど、幕府の基本方針は、本当は違うわけでしょう。すでに日米修好通商条約を結んだりしているわけだからね。だから攘夷の約束は始めから空手形なんだ。それでも孝明天皇は一応満足された。

公武合体も、孝明天皇と将軍家茂の死で
四年しか続かなかった。
(P.271)

 和宮降嫁が発表されると、尊王攘夷派の志士たちが騒ぎだして、江戸へ下る途中を襲って皇女を奪いかえそうよいうわけだ。それで降嫁の行列は厳重な警戒のもとに、危険な東海道を避けて、中山道をとった。

 行列が京を発ったのは文久元(一八六一)年十月二十日、江戸へ無事到着したのが十一月十五日。婚儀が行われたのは翌年の二月十一日。江戸へ無事到着したのが十一月十五日。婚儀が行われたのは翌年の二月十一日。このとき、家茂も和宮もまだ十七歳です。この婚儀の約一ヵ月前には、老中安藤信正が浪士の襲撃を受けて負傷している。いわゆる「坂下門外の変」だ。

 和宮には、幕府から降嫁の要請があったとき、もう婚約者がいたんだよ。有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)という。それを無理やり引き裂いて降嫁を実現させるために暗躍したのが岩倉具視。だからそのおかげで、尊王攘夷の過激派が全盛のときには、岩倉具視は命が危うくなって、京の外へ逃げ出して隠れなければならなかった。

 将軍の娘が天皇家へ嫁いだ例はあるけれど、天皇家のかたが将軍のところへ嫁入りするというのは、これが初めてだから、幕府としては随分と気を遣ったらしいよ。たとえば将軍夫人となった和宮を、どのようによべばいいかというようなことまで。

 このとき、大奥で実権をふるっていたのが天璋院(てんしょういん)なんだ。この人は前将軍家定の未亡人で、もともとは薩摩の出身ですよ。なかなかの女傑だったらしい。それだけに和宮の気苦労というものは並みたいていじゃなかったろう。

 だけど、将軍家茂と和宮の仲は睦まじいものだった。同じじ十七の若い将軍と若い夫人ですからね。政略結婚ではあっても、結果的には二人の心が通い合って、この結婚は成功だったわけですよ。。

 その点はよかったんだけれども、孝明天皇に対する幕府側の約束がある。攘夷という約束だ。孝明天皇は早く攘夷を実行せよと迫る。幕府はいよいよ窮地に追い込まれて行く。ということは、将軍である若い家茂が一身に苦労を引き受けるということですよ。立場上ね。

 家茂は文久三年(一八六二)年二月以降、三回上洛している。というより行かざるを得なかった。朝廷の勢力がそれだけ強くなっていて、政治の中心はもう江戸じゃなくて京都に移っていたということですよ。

 この当時、京都では過激な浪士たちが、天皇のことを「(ぎょく)」なんていって、

「玉をかつぎ出して、どこかへ移してしまえばいいではないか」

 とか、

「面倒だ。いっそう玉をやってしまえ」

 とか、平気でいってたんだからね。もう、ひどいものですよ。

 天皇を長州へ移して、そこで事を起そうというような話は本当にあったんだ。風の強い日に御所へ火を放って、その騒ぎのうちにあわよくば天皇を誘拐して――という計画だった。

 だから、孝明天皇は、いかになんでもそういう無茶なことをしかねない勤王は、自分は絶対にいやだ、長州はもういやだと。そんな浪士たちと比べれば、幕府のほうがどれだけ信頼がおけるかわからない――ということにあるわけですよ。

 初めて上洛して参内した若い将軍を見て、孝明天皇は一日で気に入った。誠実で純真な家茂の人柄がわかったから。公武合体はこのとき実現したといっていいわけだ。ところが続かないのだな。これが、時の流れの恐ろしさですね。それからわずか三年後に、家茂が大垣で二十一歳の若さで病死してしまう。長州征伐に行って幕府軍がさんざんに打ち負かされて醜態をさらしている最中のことだ。続いて、同じ慶応二年の終りに、今度は孝明天皇も早く病死してしまう。公武合体という理想は、ここで、あえなくも終止符を打たれることになる。

討幕の主流は薩・長・土・肥。
みんな金のある藩だった……
(P.272)

 討幕運動というのは京都で始まって、それからもう終始、京都を中心として行われたわけだ。これは京都に天皇が京都にいるんだから、まあ、当然のことでしょう。天皇がいるところでやるからこそ勤王運動になるんだからね。

 で、その京都では、どうしても評判がわるいんだよな。どうしてわかる? つまりねえ、一口にいうなら金がないわけですよ、もう。幕府自体にそんなに金がないから、幕府の用事をしている大名たちが、それぞれ自分のところで(まかな)わなきゃならない。京都守護職を命じられていた会津藩にしても、とにかく金がないんだよ。

 だから、どうしても何かにつけて金払いが悪いことになる。料理屋なんかに対してもね。京都の料理屋でも、芸者町でも、幕府の御用(あれ)だっていうと、みんな、いやな顔になるわけだ。

 勘定をツケにしてためておくだろう。そうすると年中、転勤命令が出るんだよ。京都の町奉行所の役人たち、奉行や与力なんかにね。今度は江戸へ戻れ、だれそれと替われと。というのも京都が大変だから、しょちゅう人間を入れ替えて何とかしようというわけですよ。そうするとね、料理屋の勘定、ためぱなしで江戸へ帰っちゃう。それが二人や三人じゃない。年中なんだ。当然、幕府のほうは人気が悪くなる。

 そして、反動的に勤王の志士たちに人気が集まる。京都の市民はみんな、まあ全部でないけれど、勤王びいきになっちゃう。金を落してくれるのは勤王の連中だから。

 長州なんていうのは、ぽんぽん金をばらまくでしょう。長州の志士なんか料理屋へ行って、芸者をあげてさ、金ばなれのいいこと凄いんだ。それで京都市中の人気はもっぱら勤王の志士に集まってだねえ、現に芸者の幾松(いくまつ)なんていうのは桂小五郎の愛人から、ついに夫人になってしまったね。

 革命運動だ何だといったって、金がなけりゃ何もできやしない。薩摩、長州なんか金があったからこそ主流になれたわけですよ。暗殺者を雇って邪魔な人間を殺させる。それも金があるからできることでしょう。人斬り以蔵と異みょうを取った岡田以蔵にしたって、金で雇われて働いたんだからね。

 勤王運動の中心になった四大藩は、ごぞんじのように薩・長・土・肥。土は土佐、肥は肥前。みんな江戸から遠いんだ。九州、四国でしょう。で、隠密が報告したからって、末期の幕府にはもう、それに対して、けしからから呼びⒿ出してどうのなんていえないんだよ。そんなこといったら(さか)ねじくわされるぐらい幕府は腰くだけになっているんだから。

 それで、これじゃいかんというわけで井伊大老が幕政刷新をはかったのが、前にいった安政の大獄なんだ。だけど、それがもう遅かったんですね。もう少し前だったら効果があったことが、逆に導火線に火をつける始末になってしまった。

幕府に対する長州藩の恨みは
関ケ原以来の怨念だった。
(P.273)

 どうして薩摩・長州があれほど倒閣運動の中心になれたのか……このもんだいを考える場合は、薩摩と長州の実態をよく知らないといけないんだ。変な話だけどね、長州と薩摩では幕府に対する考えかたが違うんですよ。

 長州はね、水戸と同じく、幕府に対する長い間の怨念がある。何しろ関ケ原以来の怨念なんだ。毎年、正月が来るたびに、殿さまの前でみんなが「幕府を倒せ」つていうようなことを誓い合って正月の儀式をするくらいですからね。そういう抜きがたい恨みが長州にある。幕府自体もまた長州に対しては、過去の二百何十年間、つねにひどく冷たい態度を取り続けてきたわけだよ、関ケ原の合戦以来ね。

 長州つまり毛利家というのは、まかりまちがえば徳川に代って天下を取ろうという者の子孫なんだから。それが関ケ原で敗れたために、俸禄をぱっさり削られて、とにかくひどい扱いを受けてきた。その恨みが大変なんだ。

 ところが、薩摩のほうはね、これは毛利と全然違うんだよ。幕府に対するあれが。薩摩藩の場合は、「攘夷、攘夷」っていっていながら、もう外国とは貿易をしなければならないということがわかっているわけですよ。薩摩自体が前から盛んに密貿易をやっているんだもの。

 ただ、攘夷というスローガンを利用して幕府を倒そうとしているだけなんだ、薩摩は。倒すというのも、完全にやっつけて再起不能にしようとか、徳川を根絶やしにしようとかいうのとちょっと違うんだな。薩摩と幕府とは昔からいろいろと接触も多いしね。ほら、天璋院のように、薩摩から将軍のところへ嫁入りしている場合さえあるわけだから。

 だからね、西郷にしても大久保にしても、徳川幕府を倒して明治維新を達成したときにね、自分が指揮権を握って事に当らなければ、むざむざと長州の一派に取られるだけだろう。それでやったに過ぎないんであってね。

 結局、明治維新の後で、幕府に対して一番同情的だったのは西郷隆盛だったんじゃないかと思うんだ。西郷にしろ大久保にしろ、旧幕府の人たちに対しては非常に好意的ですよ。人材登用のしかたなんてを見てもね。もう気の毒なことをしてしまった、済まないって気があるわけだよ、薩摩には。

 薩摩・長州が革命運動の主軸になった理由というのは、要するに、まず金があったということ、それとやっぱり地理的な条件だね。あんな日本の端っこでしょう。幕府の眼が届かないわけですよ。何かやってるなと思ったって手の出しようがない。

 幕府は長州や薩摩へ隠密を潜入させていろいろやっているんだが、みんな殺されてしまう。だから、隠密が行ったきりで帰れないのを「薩摩飛脚」というくらいですよ。

 薩摩藩では他国の人間が入って来てもすぐわかるようにことばまで変えた。あれはいまでも、ぼくらが行ってもわかりませんね。外国語も同然で、新国劇の芝居に岡野利明を書いたとき、薩摩ことばを少し勉強しようと思ってね、鹿児島のおばちゃん芸者を三人ばかり呼んで、勝手にしゃべってもらった。聞いてたら、何いってんだか全然わからなかったよ。だから、ぼくの芝居では、だれが聞いてもわかる薩摩弁にした。

 その芝居、「人斬り半次郎」を、テレビでもやったんだよ、若山富三郎が、まだ売れなくて弟の勝新太郎に押しまくられちゃって、しょんぼりしてたころ、このドラマをきっかけにして若山は息を吹き返したんだからね。そのときに、薩摩から人を呼んで、ある程度本格的にやったんだよ、薩摩弁を。わからないんだ、何をいっているんだか。

 で、薩摩弁というのは、たいてい芝居なんかで西郷隆盛が出てくると、

「なんとかなんとかでごわす!」 

 と、威張った口調でやるだろう。あれ、全然違うんだよ。もう、優しいんだよ、本当は。どちらかといえば京都弁によく似た、とてもやわらかいアクセントなんですよ。

孝明天皇はほぼ暗殺された。
誰が犯人かははっきりしないが……
(P.275)

 とにかくね、幕末のこの時期になると、しっかりと腹のすわっているのがすくないんだ、幕府の要人に。みんな大名だからね、それぞれ自分の藩を持っている。それで、あっちへついたほうがいいか、こっちへついたほうがいいか、うろうろkしている。薩摩といまのうちに手を握っておかなきゃいけない。いや、長州と組んだほうがいいなんてね。

 で、長州はまあ、やっつけても構わんじゃないかと、こともあろうに御所へ攻めかかって来たんだからね、長州兵。そのときは松平容保の会津藩の兵が中心になって、ようやく長州兵を打ち破ったわけだ。この「禁門の変」では薩摩藩も幕府側について長州をやっつけているんだよ。

 その後、今度は長州征伐になるわけだが、責め切れないんだ、幕府は。みんな腰抜けばかりになっちゃったから。それで、勝海舟がこんなことじゃしようがない、長びけば幕府が馬鹿にされるばかりだというので、長州へ乗り込んで行って和解を成立させた。まったくだらしがないんだよ、幕府のほうも。結局のところ寄り合い世帯で、みんな大名だから、薩摩や長州と同じなんだから。いざとなると自分の領国のことしか考えてない。もうそれだけ幕府というものの威厳がなくなっていたということですね。

※参考:勝海舟 勝部真長編『氷川清話』(角川文庫)P.38 〔長州との談判〕(黒崎記)

 その中にあって若い家茂がね、一人で苦労をしていたわけだよ。そういう家茂の純粋な気持ちに孝明天皇も動かされる。自分の妹のご亭主なんだから、可哀そうになってくる。それで、いよいよ天皇は幕府のほうに好感を持つようになるわけですよ。

 そうなるとだ、討幕派にとっては、孝明天皇がもう邪魔だってことになってきた。だから、妙な話だけれども、孝明天皇が亡くなられたときに暗殺説が流れたんです。これは有名な話で、作家の南条範夫さんをはじめ、いろいろな人たちがね、それぞれにかなり信憑性のある調査のもとに書いていますよ、孝明天皇暗殺説を。ぼくも、ほとんど暗殺に違いないと思っている。

 だれが犯人か、だれにもわからないよ。

 これは嘘か本当か知らないけれども、伊藤博文を暗殺した犯人がㇵルピンで裁判にかけられたときね、犯人がだね、

「伊藤公は、明治維新の際に、孝明天皇を……」

 っていいかけたら、その瞬間に、

「閉廷!!」

 って、ストップさせられたというんだ。これは事実らしいんだよ。だけどどこまでで、もう「中止!!」って引っぱられ行っちゃったから、真実はやっぱりわからない。

ikenami.kondouisamuhakusyo.jpg  また、ある人にいわせれば、孝明天皇が御所で便所へおいでになって、帰りに手を洗ったときにね、縁の下から手槍でもって孝明天皇を突いたやつがいる、と。それが伊藤博文だという説がある。説だよ。本当だっていうんじゃない。本当でないともいえないんだ。天皇のあれをね、拝見したお医者さまの話が伝えられているんです。歴史小説家の村雨退二郎さんが、だいぶ前にこの人は亡くなりましたが、「病死か暗殺か――孝明天皇」とい一文を遺しているんだ。それをぼくも「近藤勇の白書」という小説の中で紹介しておいた。

 村雨氏の知人でシェパードの訓練士をしていた山本正英氏から、村雨氏が直接にきいたはなしだそうであるが……。

 山本氏の祖父は山本正文といい、当時の御所の医師をつとめてい、山本氏は、この祖父から孝明天皇の最後について、次のようなことをきいた記憶がある。と、村雨氏に語った。「……孝明天皇の毒殺説というのがあるが、毒殺じゃないんのだ。ほんとうはね、天皇が厠から出て来られ、お手を洗っておられるときに、下から手槍を突き上げた者があるんのだ。天皇は、槍に突き倒され、それから縁側を這って御病間へ辛うじてもどられたのだよ。縁側は血だらけになっていた。

 ……自分が御所によばれ、駈けつけたとき、次の間に、二十五、六の女官らしい女が、ふすまの陰から苦しんでおられる天皇の御様子「をうかがっていたが、自分を見ると、ニヤリと、それはそれはぶ気味な笑いをうかべたかと思うと、すーつと、どこかへ消えてしまったよ」

         (『近藤勇白書』より)

十四代将軍家茂の死で
徳川幕府は滅びたといえる。
(P.277)

 結局、十四代将軍家茂は、ついに徳川幕府二百何十年の歴史が閉じられという変動期にあって、将軍なるがゆえに苦労に苦労を重ねてね、その苦労がつみかさなったために病死しまうわけですよ。二十一歳の若さで。その家茂の死についても、やっぱり一時は毒殺でゃないかという説が流れた。家茂は慶応二(一八六六)年七月二十日、大坂城中で死んだわけだが、七月二十五日、大坂出帆の船で博多へ帰った助蔵なる者が、将軍は何者かの仕業によkって毒殺されたらしいという大坂表での風説をを伝えているんです。それが福岡藩庁の記録に載っているという。だけど、これは当時の異常な雰囲気の中から生まれた単なる噂でしょうね。家茂が殺されたんだとすれば、家茂を殺したのは心労そのものですよ。

 もともと家茂は躰が弱かった。その弱い躰に鞭打って京都と江戸を何度も行ったり来たりしているわけでしょう。真面目一方の誠実な人柄で、ほとんどもう申し分のない立派な将軍だった。だからこそ死んじゃったんだ。これが十五代・徳川最後の将軍になった一橋慶喜のように変わり身の早い人間だったら、もっと長生きできたかもしれないんだ。

 そういう将軍の苦悩しているありさまを、和宮は夫人として目のあたりに見ているわけですよ。だから、、はじめは泣き泣き嫁いで来た和宮だけれども、夫婦になってみると、そのあまりにも純真な夫の人柄にだんだん、心を惹かれていったのは当然なんだ。

 で、苦闘空しく家茂が大阪で病死してしまったときに、その和宮がだね、

「世の中の憂きてふ憂きを身ひとつに……」

 と。憂きというのは、ほら、憂鬱の憂き、人間としての苦しみだょ。

「……憂きてふ憂きを身ひとつに、とりあつめたる心地(ここち)こそすれ」

 と、詠んでいますよ。自分の夫を(いたん)んで。これはもう、そのころには家茂にに対して心からの愛情を持っていたということですよ。家茂のほうでも妻である和宮を愛していた。三度目の上洛で、そのまま大坂で死んでしまったけれども、妻への土産に西陣の織物を買い調ええていたくらいなんだ。家茂の遺骸と共に船で運ばれて来たその西陣織をひしと抱きしめて、和宮は、

空蝉(うつせみ)の唐織衣(からおりごろも)何かせん(あや)(にしき)も君ありてこ」

 と詠んで泣きくずれたと伝えられている。

 家茂が死んだ後、明治維新になり、和宮にはまた皇室へ戻っていただこうという動きもあったんです。だけど和宮は最後まで将軍家の人であることを望まれて、だから没後は芝・増上寺の家茂の隣に葬られている。。

 これは余談だけど、和宮の姑にお当たる天璋院ね、十三代将軍家定の夫人、この人は前にもいったように薩摩の島津家から嫁に来ているわけだろう。それにもかかわらず明治維新のときには、この人も徳川の人になりきっちゃっているから、もう嫁と姑が完全に一つになっちゃったわけだよ。

 それで、十五代将軍慶喜が鳥羽伏見の戦いで敗けてさ、さっさと船に乗って大坂から江戸へ逃げ帰ってきたろう。そしたら、天璋院と和宮に、

「総大将が何ということだ、しっかりしなさい」

つて、やっつけられたんだよ。やっぱり水戸の出だからね、慶喜は。幕府のために本当に命を捨てて戦おうという、何としてでも徳川幕府を存続させようという精神がとぼいんだよ。だから、十四だい将軍家茂が死んだ慶応二年をもって家康以来の徳川幕府は滅びたと、そういっていいでしょうね。

2022.09.24 記す。


松 平 容 保


徳川幕府の屋台骨がゆるんでも
会津藩には藩祖以来の伝統が受け継がれてきた。
(P.280)

 公武合体という政治構想の実現には、孝明天皇と将軍家茂に、もう一人、会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)が大きな働きをしたんです。今度は、松平容保の話をしましょう。

 会津・若松二十八万石の最後の殿様になった松平容保の肖像写真というのがのこっているんですよ。それを見ると、文字通り眉目秀麗な美男子そのものなんだ。容保が京都守護職という大任を課せられいるときの写真では、陣羽織に籠手(こて)臑当(すねあて)をつけ、陣太刀を持っている。まあ、いかめしい武装をしているわけだけれども、そういう格好とまったく異質の、優しくて美しい顔ですね。躰もほっそりとしている。少年のころから病身だったというからね。

 松平容保の少年時代のことはあまり詳しく伝えられていない。天保六(一八三五)年十二月二十九日に、美濃国、いまの岐阜県だな、高須三万石の城主・松平義建(よしたつ:黒崎記)の六子として生れたわけだ。生まれたのは美濃じゃなくて江戸。四谷の藩邸ですがね。幼名は銈之允(けいのすけ)

 高須藩というのは禄高こそ三万石の小藩だけれども、本家はいわゆる「御三家」の一つ、尾張家の分家なんだ。尾張家二代・大な言光友の次男・源四郎義行がその藩祖で、義建は十代目に当たる。家柄はもう非常にいいし、官位も高いんです。

 六番目の子ですからね、容保はやがて会津・松平家へ養子に入ることになる。十二歳のときかな。そして六年後の嘉永五(一八五二)年に養父の忠恭が死ぬと、銈之允改め松平肥後守容保として名実共に会津藩主九代目の藩主になる。

 会津藩というのは、前にも話したように、徳川二代将軍秀忠の子である保科正之が藩祖であす。保科正之が、三代家光、四代家綱の両将軍をたすけ、幕府政治をゆるぎないものとするため、精力的に働いたのは有名な話だ。

 正之が幕府の閣僚たちと一緒に改定した「武家法度」二十一ヵ条というものを読むと、これはむろん徳川政権の安泰を願うためのものであるけれども、行文には、おのずからなるきびしさがみなぎっている。つまり、幕府も大名も互いに歩調をそろえて、

「世をおさめるものは、みずからをきびしくいましめねばならぬ」

 という意気込みが、はっきり出ているわけです。その正之の時代から二百年経って、徳川幕府の屋台骨はもう、すっかりゆるんでしまうわけだけれども、まあ、会津藩には藩祖保科正之以来の伝統がきびしく受け継がれてきた……といっていいでしょうね。それが幕末に至って、最後の藩主・松平容保によって開花したんだ。

松平容保が京都守護職の役についたのは
欲得ずくでなく、義に生きるため……
(P.281)

 松平容保が幕府の政治に参与し、京都守護職という大任を当てられたのは文久二(一八六二)年のことだ。この年の七月、幕府は京都守護職という新しい役所の設地をを決定した。その目的は、いうまでもなく朝廷と京都の守備です。京都には前から京都所司代というのが置かれていたんだけれども、もう、それだけじゃおさまらないような情勢になっていたんだね、当時の京都は。

 それで、京都所司代の上にもう一つ京都守護職を新設して、それを松平容保に命じたわけだよ。だけど、ちょうどそのたき容保は病気中で、はじめはこの大役を辞退した。

「いやしくも将軍の命とあらば、何事にせよこれを受けるのが藩祖からの家訓であり、謹んで命を奉ずるべきであるが、この容保は才がうすく、空前の、この大任あたる自信がない。そのうえに会津は東北の地にあって家臣らはおおむね都の風習に暗く、なまじいに将軍の命と藩祖の遺訓を重んじて浅才(せんさい)を忘れ、大任にあたるとしても、万一過失のあった場合、一身一家のあやまちではおさまらず。累を宗家にまで及ぼすかもしれない……」

 というわけだ。

 無理もない話ですよ。何しろ大変な時代になってきているから。革命運動を行なう勤王の志士や浪人たちが続々と京都へ集って、血を血で洗う陰謀や暗殺が日常茶飯事になっているわけでしょう。そういうところへ乗り込んで行くなんて、まるで薪を背負って火の中へ飛び込むようなものだと、国許の会津から家老の西郷頼母(さいごうたのも)が駆けつけて来て、絶対に反対だというわけだ。

 勤王の志士といっても、中には随分ひどいのもたくさんまじっている。浮浪者みたいなものまで勤王の志士と称して、どさぐさまぎれに徒党を組んで悪事を働いていたんですからね。金品強奪や婦女暴行なんて珍しくもない。要するに、そのころの京都は目もあてられない状態にあったんだ。

 で、ここは何が何でも松平容保に京都守護職を引き受けてもらわねばならない。そのために前越前福井三十二万石の藩主・松永慶永(よしなが)を通じて、幕府は再三にわたって容保を説得した。

 松永慶永はほとんど連日のように容保のところへ足を運び、将軍家からの()っての頼みであるというわけだ。

 それで、ついに松平容保が引き受けた。慶永の熱心な説得に負けたというよりは、やっぱり年若の将軍家茂のことを思えば、引き受けないではいられなかったことでしょうね。

 こういう役目を引き受けると大変なんだ。金がかるんだよ、金が。昔はみんな、大名が役を命じられたとき、費用は全部大名自身が持つんだからね。何百人という部隊を率いて殿様みずから京都まで行って、家族たちの生活費だけでも大変なところへ、京都ではいろんな設備をして屋敷を構えなきゃならない、各方面へ運動費を使わなきゃならない、交際費もちょっとやそっとでではすまない……ということだから、会津藩だってそんなに金持ちじゃないでしょう。家来がみんな大反対したのは当たり前の話なんだ。

 それでも、最後に松平容保が断を下した。

「この上は義の重さにつくばかりで、他日のことなど、とやかく論ずべきではない。君臣もろともに京都の地を死に場所としよう」

 殿様にここまで決心されたら、もう、家臣たちも何もいうことはないわけだ。こういう覚悟で京都へ行ったんですからね、容保は、天下のために、世の中を鎮めるために、自分はどうなっても構わない、と。

 そこが偉いんだよ。だからその気持ちが、自然に天皇へと伝わることになる。つまり、他意がないんだから、まったく。単に勤王のやつらをやっつけちゃえとか、そんなことじゃないんだ。

 あくまでも公武合体して世の中を(しず)めようという、自分はその一つの力になればそれでよろしいということで行ったわけだから、孝明天皇の気持とぴたりとあったんですね。

「反対のための反対」という風潮は
幕末維新から……
(P.282)

 そのころ京都で騒いでいた浪士たちなんていうのは、ただもう、 

「幕府を倒せ、幕府を倒せ!!」

 というだけなんだ。で、幕府を倒したら、その後どうするのかということは考えてもいない、一般の浪士の場合はね。もっと偉い人たち、たとえば西郷隆盛のような人は、倒幕後の政治構想をある程度は持っていたけれどね。

 一般の浪士は騒ぎ立てること自体が目的なんだよ。というのも、みんな食いつめているから、下積みの生活で。騒ぎがあれば、なんとかどさくさにまぎれて、そこで食べて行ける。だから戦国時代にだねえ、大坂城に十何万人もの浪人たちが集まったでしょう。あれと同じなんだ。もう、半分はやけっぱちで、いつ死んでもかまわない、世の中を騒がせるのが面白くてやっているということなんだ。そういう連中が自分の命をちっとも惜しまないで暗殺をやったり、いろいろやるわけだよ。勤王がたの偉いやつに操られて。 

 これは変な話だけれども、日本人というのはどうも時の政府に対して、どんな政府であろうと反対をする、そういう風潮があるでしょう。そういう反対のための反対(ゝゝゝゝゝゝゝゝ)という風潮が出きたのは、考えてみると、この幕末維新のころからなんだ。

 つまり、政府のやっていることで、いいことであった場合には、反対党であっても政府と力を合せてやっていこうという気風がね、このとき以降、なくなちゃったんだよ。

 結局、その当時でも、もうわかっているわけですよ、勤王運動、攘夷運動の指導者たちにも、つまり、外国と交際しなければだめだということが、港を開いて外国と条約を結んでやっていくしかないと、彼らsにもわかっているんだ。わかっていながら反対するわけです。なぜかというと、反対するスローガンが「攘夷」でなければいけないから、幕府が「開港」なんだから、その反対はどうしても「攘夷」になるわけだよ。どうだい、いまの日本の政治そのものだろう。 

 スローガンのために反対しているのであって、指導的な立場にあるほどの人たちは、気持の中では、

(外国とは、いずれ開港して交際しなければならない……)

 と、わかっている。だけど、幕府が開港を主張する限りは、あくまでもそれに反対するわけですよ。どんなにいいことがあっても、幕府のやることには全部反対するんだ。 

 話はいろいろと前後するけれど、幕末の動乱を勤王革命、明治維新と美化していうでしょう。あれ(ゝゝ)は封建制度を打破して現代日本を誕生させた正義の革命である、と。しかしねえ、あれは民衆の革命じゃないんだ。武士階級の、特権階級の政権交代に過ぎないんです。

 本当の意味での革命になっていない。だから結局のところ、同じようなものができただけなんだよ。支配権が徳川幕府から薩長連合に移ったというだけのことなんだ。反対のための反対ということじゃなくて、みんなが幕府を助けるようにして明治維新政府をつくっていたら、もっとあかぬけていますよ。いろんなやりかたがね。幕府のほうには優れた人材がいっぱいいたんだから。そういう人材がみんな埋没しちゃった。敗けたばっかりに、それで新政府は田舎っぺばかりになっちゃった。

 ただ、中には、自分はもともと田舎者であると、あかぬけないんだと、政治家としてもっと勉強してしっかりやらなきゃいけないんだ、そういうふうに自覚して努力をした人もいますよ。 

 維新の新政府に徳川方の人材がもっと有効に登用されていたら、日本の歴史は随分変わっていたろうと思いますね、ぼくは。だけど、維新というのは要するに民衆とは無縁の政権闘争だからね、敗れたほうはすべて追放してしまうわけだよ。

 政治家というのは、その時代にぴたりと合ったときに、力が出るんです。たとえば、吉田茂さんという人は動乱期が、終戦直後のあの動乱期が性格的に合っていた。だから、あれだけの活躍ができたわけですよ。現在(いま)のような時代だったら、吉田茂はもう面臭がって、何かにつけて「馬鹿野郎!!」の連発ですよ。いくつ内閣を替えたって足りやしないよ。あの動乱期だったからこそ、てきぱきと自分の思うがままにやることが全部、ツボにはまったわけです。

 選挙の投票日に、吉田茂がだね、白足袋を履いてさ、草履を脱がずに投票していった。畳敷きのところへそのまま上って。みんな他の選挙民は履きものを脱いで投票するのに吉田はけしからん、威張っていると、一事が万事、野党の論理というのはそれなんですよ。 

 だけど、よく考えてごらんよ。一般民衆が投票するのに、履きものをぬがなきゃ上がれないような選挙投票場をなぜつくるのか、といことだよ。そうでしょう。だれでも履きものを履いたままで、どんどん投票できるようにしておくのが当り前なんだ。なんでもないないことなんだと、そんなことは。だから、吉田茂は別に偉ぶって履きもののままで投票したわけじゃないんだよ。

 日本の野党というのはね、そんなこともわからないで、ただもう重箱のすみをほじくるように、上げ足取りをするだけなんだ。みんなつまらないんだよね。反対のための反対ばかりでさ。そういう風潮が出てきたのは、もとは明治維新からなんだ。

天皇が自分の着ているものを
最初にあげたのが容保だった。
(P.284)

 また松平守保の話に戻ると、とにかく立派なんだよ、やることなすことがね。容保が京都の藩邸に入ったのは十二月二十四日だが、京都守護職を引き受けた八月に、さっそく京都へ先発隊を送って、いろいろと下準備をさせている。大庭恭平という家臣には特別の密命を与え、情勢を探らせた。

 その大庭の働きで、会津藩のアの字も知らなかったような浮浪志士の連中が、だんだん会津藩の立場をよく理解するようになってね。

 後に、守保が事破れて会津へ帰り、官軍を迎えて若松城へ立て籠ったときに、ひょっこり現れて、

「死ににきましやよ」

 と、会津藩士とともに戦って死んだ者が何人もいるんです。

 京都では、先に京都守衛を命じられてさんざん失敗を演じている彦根藩や、二条城へ逃げ込んだ所司代などの姿を見ているだけに、一般の市民さえも、

「田舎大名が、どんな間の抜けた姿を見せるか……」

 と、馬鹿にしているわけだ、会津藩のことを。ところが会津藩士の行列というのは、それはもう立派なものだった。馬上に凛然たる殿様を中心として、行列は前後一里にも及び、殿(しんがり)を務める家老・横山常徳をとりまく儀仗兵だけでも五十人に及んだというんだから。会津藩が二百年の間に培ってきた士風というものが、遺憾なく発揮された素晴らしい行列だったと思いますね。それで、京都の市民たちもびっくりしたんだ。

 松平容保は、京都に入るとすぐさま、時の関白・近衛 忠熙(このえ ただひろ)を訪れて挨拶をしている。

「ただいまの急務は、日本国内の人心一和が何よりの先決で、その人心一和は主として公武の、即ち皇室と将軍家の一和であり、それが欠けましては、いかなる上策がありましょうとも実行はむずかしいと存じまする。これに反し、人心一和すれば、いかなることもかなわぬことなし。容保、不肖ながら公武一和のため、死をもってこれに当たる決心にございます」

 こういったわけだよ。

 近衛関白も老熟した人物で、勤王運動の騒ぎに巻き込まれて熱に浮かされたような、いわゆる過激派の公卿たちとは比べものにならない。だから松平容保の挨拶に対して、非常に好感を持ち、さっそく孝明天皇に報告して、会津中将は当今稀なる至誠の人物でありますと伝えています。

 年が明けて文久三(一八六三)年の正月二日、松平容保は初めて孝明天皇に拝謁をした。天皇は、前に近衛関白から容保の人物を聞き知っておられたから、非常な期待を持って謁見されたわけだ。実際、会ってみたら、

(まさに、近衛が申した通りの人物である……)

 というので、たちまち好感を抱いた。それで、特に緋の御衣を下賜されて、それを、戦袍(せんぽう)直垂(ひたたれ)につくり直すがよい

 と、いうわけです。こんなことはかつてなかったことですよ。天皇がご自分の着ておられるものを手ずから武士に賜るという、この一事をもってしても、容保が、初めての謁見でいかに天皇の深い信頼を得たかということがわかる。

 天皇と現将軍・家茂をつなぐ一つの絆は、和宮の降嫁によって生れたわけだけれども、これは幕府が無理やりに実現したものだからね。孝明天皇としては、家茂の純な人物を知るまでは、面白く思っていなかったわけだ。

 そういう意味で、松平容保が果たした役割は非常に大きかった。公武合体のの最も強力な絆になったんだからね。このとき松平容保、二十九歳。偉かったねえ、昔の日本の男は。

容保の配下にあって臨時警察になったのが
すなわち新選組……
(P.286)

 容保が京都守護職としてしなければならないことは山のようにあった。しかも、全部、急を要することばかりなんだ。まず、何をおいても皇都である京の街の治安をととのえなけらばならないいし、同時に、朝廷の経済状態も改善しなければならない。

 物価が上がっているわけですよ。昔に比べたら何ばいにも。天皇家だって苦しいんだ。それに対して、長い間、幕府は何も積極的な手を打たなかったわけだ。もっと早い時期に、こんなことは当然ちゃんとしておかなければいけなかったんだ。

 それを放置していたというのは、つまり、それほど幕府政治というものが新しい時代の流れに鈍感になっていたということですよ。

 皇室に対する経費というものが乏しいものだから、むろん、公卿たちの暮らしはさらに苦しいことになる。ほとんど食うや食わずの貧乏生活を強いられてきたわけですよ。だから、内職をしながらやっと暮らしてきたというお公卿さんが多いんだ。

 その鬱積した恨みが全部、幕府に向けられて、勤王運動が起こると同時に公卿たちがこれに参同して、

「幕府を倒せ!!」

 と、騒ぎだしたのは当然のことです。

 そういうところへ容保は乗り込んで行ったわけですからね。一通りや二通りの苦労じゃないんだよ。京都守護職として容保が働き始めてからは、一時、公卿たちもおとなしくなった。

 だけどもう、あまりにも時期が遅かった。相変わらず暗殺は横行しているし、後見職の一橋慶喜の宿へ生首が投げ込まれたりしたこともある。だから松平容保や幕府に協力しようと思っても、うつかり何かすると、自分の命が危くなつちゃんだ。

 こうした中にあって、容保は何回も躰をこわし、病床についている。病気にならないのが不思議なくらいの激務についているんだからね。それでいて、容保のすることは実にてきぱきしているんだ。

「京都守護の責任は、何事も自分一身にある」

 と、いい切って、どんなにむずかしい事件が起きても、他へ責任を転嫁したり、逃げたりするようなことは一度もない。だから孝明天皇の信頼は深まるばかりで、容保が軽い病気にかかったりすると、それが回復するまで、

「中将の身に万一のことあらば、今後の日本の行末にもかかわることになる」

 と、いても立ってもいられない様子で心配をされたというんだ。

 容保は、そこまで天皇の信頼を得て、いよいよ公武合体を完全にする好機であると考えた。つまり、

(今こそ、将軍家みずから上洛して親しく皇室をまもり、世情をととのえるべきである)

 と、すでにすでに勤王派の活動は手がつけられないほどになっていて、

「何月何日に外国勢力を追い払え」

 なんていう無茶なことを平気で公言している。具体的に攘夷の月日を決めろというわけだよ。できるわけないでしょう。そんなこと。

 一番強硬だったのは長州藩で、公卿の三条実視線を押し立て、過激派の朝臣を引き入れてね、もう物凄い勢いを示していたんだ。

 容保自身にしても、幕府があまりにも外国列強に対して弱腰なものだから、それについては苦々しく思っていたんです。だから、

「横浜、長崎、函館の三港のみを外国に開き、その他の開港要求は拒絶し、後に時期を見て外国に出て行ってもらえばよい……」

 と、考えていた。

 そういう容保の、しごく当然ともいえる考えを実現するために、一日も早く将軍・家茂に上洛してもらわなければならない。それで、この年の三月、家茂が京都へ上ったわけですよ。その直前二月、浪士隊二百三十四名が一足先に京都へ出発している。近藤勇も土方歳三もその中にいたわけだ。

 物騒だからね、京都は、将軍が出かけて行ったら、たちまち暗殺される恐れもある。そこで、腕の立つ浪人を集めて京都へ先発させてね、京都守護職である松平容保の配下に置き、それでもって革命志士たちの動きを封じようということですよ。いわば臨時警察というか、機動隊だな。それが後に新選組になるわけだ。

新選組の母体は
清河八郎の野心から出たもの。
(P.287)

 この浪士隊というのは、清河八郎の発案によるものなんだ。清河八郎というのは、もともと山形の豪商の子に生まれ、郷士の扱いを受けていた人物ですよ。頭はよかったらしいよ。学者であり、また、剣客としても相当なものだった。北辰一刀流の千葉道場で鍛えたんだからね。

 清河は、実は熱心な尊王攘夷主義者なんだ。だけどなにしろ頭の切れる男だからね、そんなことはうまく隠して、幕府に浪士隊の発足を説いた。幕府はうまうまと清河の弁舌に乗せられたことになる。というのも清河自身は、この浪士隊を京都へ連れて行って、自分が勝手にそれを動かして勤王方の戦力として使うつもりだったんですから。

 浪士隊が京都へ着いた途端に、清河が現われて演説をした。今回の浪士隊の目的は、近く上洛する将軍家を守護し、併せて京都の治安を守ることとなっているが、それはあくまで表向きの名目である、と。真に目指すところは「尊王攘夷のさきがけとなり、一天万乗の大君をいただき、天下のために粉骨するにある。以後は、この清河八郎が指揮をらせていただく」

 こういうわけだよ。

 清河の弁舌のあざやかさというのは、魔術的だったらしいね。何が何だかよくわからなくて、煙に巻かれてしまうんだ。みんな。清河八郎は、まず、こうして浪士隊の連中を掌中に収めると同時に、朝廷へ建白書を差し出した。

 朝廷は、この建白書を採り上げて、鷹司関白を通じて孝明天皇の御製を下賜された。

   雲きりをしなとの風に払わせて

   たかまの原の月のきよけさ(ゝゝゝゝ)

 さあ、もう清河の喜びようといったらない。それというのも、御製の月のきよけさのきよ(ゝゝ)、これは清河八郎の(きよ)にかけて天皇が詠まれたと思い込んだから。

 だけど、近藤勇と芹沢鴨、後の新選組の連中だけは怒っちゃった。怒るのが当たり前でしよう。まるで詐偽だもの。清河八郎は近藤たち十三人を京都に残して、他の二百二十何人かを連れて、さっさと江戸へ帰ってしまう。

 その浪士隊を清河がうまく使ったかというと、結局、うやむやに解散しちゃんだよ。何もできなかったんだ。

 それから、どうもあいつはけしからん、幕府に対して裏切りを働いたのは許せないというんで、会津藩士の佐々木只三郎がね、清河を斬るわけだ。むろん、幕府からの指令があってのことでしょうがね。

 清河八郎ほどの剣の遣い手が、どうして簡単に殺されちゃったかというとね、佐々木は浪士隊を組織するときからの同志だから、佐々木に挨拶をされrば、挨拶を返さないわけにいかないんだよ。清河は。で、佐々木が、

「あ、清河さん。どうもしばらくでした。ごきげんよろしうございますか」

 って、頭を下げたものだから、清河もしかたなく、

「しばらく……」

 と、笠をぬいだ、その瞬間にパッと斬った。太刀じゃない。脇差だよ。太刀というのは、ある程度の距離がなくては使えないんだ。離れてなけりゃ太刀はぬけないでしょう。で、そばへ来てこうだから、清河ほどの剣客でも、まさかと思ったわけですよ。

 清河八郎については、なかなか人間的な一面もあり、再評価すべきであるという人もいるんですよ。いまだに清河の郷土では、偉い人物だといわれている。だけど、なんの実績もないんだねえ、結局。

 それでまあ、京都に残った近藤・土方たちは会津藩に泣きついてね、こういう次第であるから庇護してもらいたい、と。それに対して松平容保が、可哀そうだというので、金を出してやり、屯所を設けてやり、それでだんだんと隊士をふやして行って、新選組というものが生れたわけだ。

薩長連合ができると
会津藩は「朝敵」の汚名を着せられた。
(P.289)

 松平容保の庇護のもとに誕生した新選組が一番華々しい働きをしたのは、いわゆる「蛤御門の変」なんだよ。幕府と薩摩藩がついに手を結んで、暴走する長州藩を京都から追い払ったわけだ。このとき、そこまでは、まあよかったんだけど、すぐに家茂が急死し、孝明天皇も後を追うかのように死んでしまうでしょう。

 松平容保が意図し、命がけで促進してきた公武合体という構想は、ここにおいて完全に挫折することになる。薩摩藩はこのときから旧敵の長州と手を結んで、いよいよ薩長連合軍の倒幕運動が表面化する。

 家茂の後、十五代将軍になった徳川慶喜は、松平容保とはどうもしっくりいかなかったらしい。いるけどね。容保は一命を賭けて主張を貫き通すという人でしょう。ところが、慶喜のほうは簡単に変わっちゃうんだ、世の中の動きにつれて、そこが慶喜の賢明なところだ、新しいタイプの政治家だという人もいるけれどねえ。

 やがて、

「政権を朝廷に返し、徳川家も一大名として新政府に奉公すべし」

 ということになった。

 だけど、薩長連合のやつらは、それでは満足しないんだ。何が何でも徳川を根絶やしにしようというわけだよ。幕府側は「鳥羽伏見の戦い」で、もう惨憺ちゃる敗けかたをしたのを最後に、とうとう江戸へ逃げ帰る。松平容保も将軍とともに江戸へもどり、明治元年(一八六八)年の二月、会津へ帰って、朝廷に対して恭順の意を表明した。

 松平容保の会津藩が「朝敵」の汚名を着せられるなんて、とんでもないことですよ。

 薩摩も長州も、京都で会津藩の実力をまざまざと見せつけられているからね、いくら容保が謹慎し恭順の意を明らかにしても、心配なんだ。だから強引に会津を攻めたんだ。

 このとき乗り込んで来た薩摩・長州の連合軍は「官軍」の威名をふりかざして、それこそ横暴の限りをつくした。あまりにもそのやりかたがひどいものだから、東北諸藩の反抗が激発して、ついに官軍参謀の世良修蔵が暗殺されることになる。

 こういう情勢のもとでは、人間の本当の心が届かない、おたがいに、それで、どちらも疑惑を深め合って、結局は戦争になるわけだよ。ベトナム戦争だってそうだったでしよう。人間のやることというのは、昔も現代(いま)も少しも変らないんですよ。

 で、松平容保は、ついに抗戦の決意を固めざるを得なかった。不本位ながら、このとき会津藩が藩士一同に与えた布告がある。それを読むと、維新戦争における会津の立場というものが非常によくわかります。だから、少し長いけど、その大要を載せよう。

「……嘉永六年以来、外国軍艦航海して猖獗(しようけつ)をほしいままにし、物価の高騰、日に益し月にはなはだしく、ついに人心混乱するに至る。その原因(みなもと)これみな幕府の失体よりおこる。

 天皇ふかくこれを憂悶し給い、ゆえに何となく公武の間、一和せざるの勢いあり。

 幕府、この罪をさとり、旧弊をあらため遵奉の典をおこし、衆に(よつ)て、我公(容保)を京都守護の職に任じ給う。(中略)我公の上京するや、誠忠をもってはたらき給うにより天皇ふかく依頼し給い。将軍(家茂)の愛寵また厚し。

 以来、六年の間、誠忠ついに変らず、天皇叡感のあまり幾度となく宸翰を下したまわり、我公かつて病するとき、かたじけなくも、みずから内侍所において祈願し給うにいたる。その寵遇、実に無比類というべし。(中略)元来、長州は先年より外は尊王攘夷に託し実は不軌(むほん)の志をいだき、皇室をさそい、幕府をあざむき、その罪枚挙すべからず。甲子七月、ついに大兵をあげて皇居を襲い、銃丸は御所の屋根におよぶ。その逆乱の罪、誅してなおあまりあり。

 天皇はお怒りになり、将軍またこれを()むといえども、ついに寛典にしたがい、官位を脱剥そ領地をけずるも、長州はなおその命をきかず。

 しかるに天皇(孝明)崩御、将軍(家茂)薨去(こうきょ)し、国家多難のときに逢い、すべからく兵を解くを知り、姦邪、そのすきに乗じて、もったいなくも幼主(明治天皇)の明をくらましたてまつり、事に託して長州の罪をゆるし官位旧に復し、先帝の飛勘をこうむる公卿を用い、陪臣をして参与せしめ、将軍、我公など、みなその職を免じ、正邪地を()え、忠姦ところを換うるに至る。

 これ先帝(孝明)の意にあらざるのみならず、また今上(明治天皇)の意にあらざるは明白なり。

 嗚呼、一杯の土いまだ乾かざるに、今上をして父の道をあらためしむること、大悪不道の至りというべし。

(中略)我公多年の誠忠はむなしく水の泡となり、残念というもおろかなることならずや。禁庭に対し弓を引くことは決してなうべからずといえども、姦邪の徒、もしも綸旨を矯めて兵を加うることあらば関東と力を合せ義兵をあげて君側の姦悪をのぞかざることを得ず」

 まあ、およそこうしたものだが、この布告を藩士全員に暗誦させたわけですよ。

明治元年九月二十三日。
ついに松平容保は降伏。
(P.291)

 官軍と称する薩長軍が会津を攻めたときのやりかた、ついに若松城が陥落した後のやつらのやったこと、ひどいねえ。強姦、掠奪、やりたい放題ですからね。

 そりゃ、そうなんだ。もう食いものもなくて攻めているんだから、官軍のほうだって。官軍官軍なんて、勝手にそういっているだけで、軍資金はないし、掠奪しながら攻めて行くより他にどうしようもないわけだよ。

 会津藩の抗戦というのは、それだけで何冊もの書物になるほどの悲痛な話ばかりですよ。老人も戦い、子どもも戦い、女たちまで戦ったんだ。戦記には、こうある。

「……城兵死するもの相つぎ、糧食は()き、弾丸無し。このとき、ようやく初冬の候、北風冷雨肌を刺し、婦女子は飢えんとす。士卒は創痍に苦しみ、城外の領民は、みな山野をさまよい、家を焼かれ財をうばわれ、尚いまだ城下の戦止まざるをもって帰ることを得ず……」

arumeizizinnokiroku.jpg  この悲惨な戦いのことをね、会津の人が書いていますよ、柴五郎という人が。中公新書で出ている。『ある明治人の記録――会津人柴五郎の遺訓』というんだ。やっぱり、ぼくみたいなものは、それを読んでいると涙がでてくるね。ひどい、あまりにもひどい目にあわされているので。

 会津藩というのは、自分たちで大変な犠牲を払って、経済面でも、あるいは人的資源の面でも、公武合体という理想を達成するために努力を続けてきたわけでしょう。それはみんな天下を平和にしようという、ひたすらそれだけなんだ。自分たちにとっては何の得もないことなんだ、直接的にはね。

 それで、その誠実さを認められて、孝明天皇にあんなに信頼されてねえ、誇りを抱いていたわけですよ。その天皇の軍がなぜ自分たちを朝敵として討つのか、と。どう考えたってなつ得が行かないよ、会津にしてみれば。あれほど犠牲を払って一所懸命にやってきたものが、いきなり賊軍にされてしまったことについての、抑えても抑え切れない口惜しさがある。

 その口惜しさというのは、黙って泣き寝入りをしてしまったのでは、永久に埋もれたままになるでしょう。結局、敗けることはわかっていても、歴史にその事実を残すことができるわけですよ。そのための抗戦なんだ。

 明治元年九月二十三日、午前十時。

 ついに松平容保は白い降伏旗をかかげた。当時、もう城内には白布がないんだ、全部負傷者の包帯に使い果しちゃって、それで、ようやく白の布の切れ端を何十枚も縫い合わせて白旗をつくったというね。

 そこで両軍の砲撃がようやく止んだ。正午に、官軍から代表として中村半次郎、後の桐野利秋だな、これが兵を率いて城受け渡しの式場へやって来た。このときばかりは、軍監である桐野の指揮がよかったから、官軍の態度も整然としていた。だから、式を終えた松平容保父子が官軍陣営へ連れ去られるときも、恥をうけるようなことはありませんでした。一応、ちゃんと駕籠に乗せられて行ったんだからね。

 松平容保は江戸へ送られると、鳥取藩邸へ預けられ、厳重な監視のもとにおかれた。はじめは死刑にされるはずで、容保自身、当然死を覚悟していたんです。だけど、明治政府もさすがに気がとがめているからね。結局、二年後に死一等を減じられ、永久禁錮ということになった。それも後には許されましたよ。

 その後、容保は日光東照宮の宮司になったりしたんだけれども、寂しい晩年だった。最後は会津へ帰って、若松市の粗末な長屋に住み、零落のままに身をまかせて、明治の終り近くに亡くなりました。

2022.09.20 記す。


西 郷 隆 盛

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本来、詩人であり教育者である男が
歴史の舞台に登場せざるを得なかった……
P.294

 西郷隆盛はどういう人間か……一言でいうならば詩人ですよ。軍人でもなければ政治家でもないんだ。あるいは教育者といってもいい。西郷隆盛の本質は教育者であり詩人なんだ。

 そういう多情多感な、理想主義的な男が時代の奔流に包み込まれて歴史の舞台に登場せざるを得なかったということですよ。

 西郷隆盛は前名を吉之助という。文政十年(一八二七)年十二月七日、薩摩七十七万石、島津家の城下、鹿児島で生まれた。西郷が生まれた鹿児島の鍛冶屋町というのは、下級藩士の家が集まっているところです。父の吉兵衛は勘定方小頭だった。同じ加治屋町で大久保利通も生まれている。

 吉之助は長男で、下に弟や妹がいっぱいいた。全部で七人きょうだいでね。

「夜具(ふとん)などつくれぬほど貧しいくらしなもので、一枚の夜具をきょうだいどもが引っ張り合うて寝たものじゃ」

 と、後年に西郷が語っていますよ。

saigo.douzou.jpg  西郷隆盛というと、だれでも上野公園に建っている銅像を思い浮かべるでしょう。現代(いま)の若い人たちはそれも知らないかな。六尺に近い巨体で、素晴らしい顔をしている。それは子どものころからだった。無口で純重な感じの少年で、まわりの子どもたちからは、

「木のぼりもできないやつ」

 と、蔭口をいわれていた。だけど、まともに吉之助に向かい合って、あの黒ぐろとした大きな眼で見つめられると、だれも圧倒されて口がきけなくなったそうだよ。

 当時の西郷は、四書の素読も習字も算盤もだめ。何をやっても上達が遅いいわけだ。得意なのは腕力にものをいわせる相撲だけだった。仲間の少年と争って右腕を傷つけられてね、腕のすじを切られちゃったものだから、それで剣道をあきらめなければならなかったというエピソードが残っている。

 西郷吉之助の勉学が目ざましく進み始めたのは、この右腕の負傷が動機だったというから、少年時代の出来事というものが人間の一生にいかに大きな影響をもたらすものか、つくづく思い知らされるね。

 十六歳のころからは、島津家の菩提寺である福昌寺へ通って、無参和尚について禅を学んでいる。西郷隆盛が、後年、征韓問題をきっかけに陸軍大将の軍ぷくを脱ぎ、明治新政府と訣別して故郷の鹿児島へ去ったとき、子どものころから西郷をよく知っている大久保利通が、

「西郷な思いきりが早すぎて困る、困る」

 と、ちょうどそばにいた伊藤博文に嘆いたという話があるよ。

 西郷隆盛の伝記的なことは、いろんな本があるんだから、それを見ればいいだろう。ぼくも一冊『西郷隆盛』という題で書いている。

派閥争いにくれた新政府に
西郷は大きな不満を抱いた。
P.295

 西郷に大きな影響を与えたのは、島津藩主の島津斉彬なんだ。幕末の最も有力な幕府改革論者の一人ですよ。この殿様は、西郷が、

「自分にとっては斉彬公は神のごときものであるけれどもあまりにも殿が異臭粉々たるには困ります」

 と、顔をしかめたほどのハイカラ―好きなんだ。若いころから外国事情に通じていて、幕府の厳しい監視の目を盗んでは蘭学者たちとも深い交際をしていた。

 雲行丸という日本最初の蒸気船を運行させたのも斉彬だし、その他に精錬所をつくり、反射炉を設け、電信機も取り寄せて研究している。みずから写真機をあやつって撮影したりね。とにかく熱心にあらゆる外国文化の吸収につとめた人物ですよ。そういうことができたのも薩摩という国の地理的条件のおかげなんだ。古くから密貿易をやっていて、外国との交際を一番身近に感じていた薩摩藩だからね。

 島津斉彬の政治構想は、一橋慶喜を中心に有力大名や有能な幕臣、さらには天下有識の人物を広く登用して、強力な新政府をつくりあげ、いずれは海外諸国との官貿易もおこない、世界の強国に肩を並べて行かなければならぬ……というものだった。

 こいう殿様の薫陶をうけている西郷隆盛だからね、幕府はもう腰抜けの状態で、このまま日本の将来を幕府の手にゆだねておくわけにはいかない、と。そういう信念を持っているわけです。その確固たる信念のもとに、自分が隠密になって、本当は自分はいやだと思うようなこともやっているんだよ。つまりさまざまな謀略活動をね。だけど、本質的にそういうことが好きじゃないんです、あの人は。

 それでも西郷は、信念というか、西郷なりの新時代に対する構想があって、あくまでもそのために東奔西走したわけだ。新しい強力な行政府をつくり出すためには、ひとまず徳川政権を倒さなければならない、そのために謀略が必要ならあえて辞せずということですよ。結局、それが成功して明治維新になったよね。そのときに西郷自身はどう考えていたか。

 あれだけのことをして、つまり表沙汰にはとてもできないようなことをいろいろやって、多くの犠牲の上につくり出した新政府である。だから絶対に失敗は許されない。これからはもう、行政に携わる人間がみんな緊張して、全力を尽くして日本のために働かなければならない。そう考えていたわけだ。物凄い責任感があったということですよ。

 ところが現実にできた新政府は、これは一体何だ、ということになった。新時代の理想も何もない。たちまち派閥争い、利権争いの場になっちゃたんだ。長州藩、薩摩藩、何藩、何藩がつくった新政府だから、そのポストはおれがもらう、いや、その椅子はこっちへ寄こせ、そのためにはあいつが邪魔だから何とか追い出してしまえとかね、もうそればかりなんだ。

 新政府ができあがった途端にこれだから西郷はがっかりしちゃったわけですよ。理想のために血まで流して生み出した新政府なのに、みんな威張りくさつて、いい気になって大邸宅を構え、賄賂を取り、そんなことでどうするんだというのが西郷の怒りなんだよ。

成り上がりのような思想を
西郷は持たなかった。それだけに絶望の度も……
P.296

 明治維新政府というものが誕生したとき、西郷はまあ、やはり高給をもらう立場になったわけですよ。だけど、それを自分のものにしていない。子弟の教育とかそういうことに全部注ぎ込んじゃって、自分自身は浜町の昔の大名屋敷の跡の長屋に住んでいて実に質素な暮らしをしているんですよ。

 その西郷が見るとだね、みんなこうヒゲなんか生やして、ふんぞり返っているでしょう。ついこの間までは素浪人だったり足軽の伜みたいだったのが、急に偉そうにしてさ、軍人になったり政治家になったりしているわけだ。妾を囲ったり、利権を漁ったり、やることが見ていられないわけだよ、西郷にしてみれば、苦々しくてたまらない。

 二十年、三十年たってそうなったじゃないんだ。ついこの間のことなんだ、明治新政府が生まれたのは。できたと思ったら四、五年もたたないうちに、そうなっちゃった。だからどうしたって西郷が離れて行くことになる。

 われわれが徳川に代わって天下を取った暁には、ひたすら身をつつしみ、一所懸命日本のために尽すんだと、それで国民全部をしあわせにするんだというのが西郷の新政府の理想でしょう。それでなかったら、なにも幕府を倒す必要なんかなかったんだ。

 にもかかわらず、新政府になってみたら、せっかく血を流して多くの死者を出して倒した幕府の時代よりも、もっとひどくなつちゃった。成り上がり者がみんな威張り出してね。西郷の考えている新しい時代とはまったく違う。それで西郷は次第に絶望して行くんですね。

 山縣有朋なんてねえ、元をただせば長州藩の足軽よりさらに下、これより下はないという軽輩だったものが、もう出世欲の権化になっちゃって、文字通り「位人臣を極め」たわけだろう。大元帥になって、物凄い屋敷を構えてさ。目白の、いまの椿山荘。あれは山縣有朋の屋敷だったんだからね。(黒崎記:西郷は山縣を助けたとの記述もある)。

 人斬り半次郎といわれた中村半次郎。これも陸軍少将に出世して、ヒゲを生やして、な前も桐野利秋。湯島の切通しの向かい側に、何とかいう大きな殿様の屋敷があったんだよ。今はマンションが建ってるけど。あそこを自分の住まいにしてね、威張りくさって暮らしていたわけだ。

 だけど、人間の中身はちっとも変っていない。西郷から見れば。あんな薩摩の水のみ百姓の伜で、食うものも食えないでいたやつがね、いくらヒゲ生やして偉そうにしていたって、全部わかっているわけだよ。知っているんだから、昔から。

 人間というの、自分ではその時は気づかない、後になってようやくわかるんだけれども、自然にその時代の流れというものにね、押し流されて行っちゃうものなんだ。だから世の中こわいよ。

 昔、よく、畸人といわれる人がいるでしょう。たとえば、池大雅とか。金がいくらでも入って来るようになると、わざわざ金から離れる人がいるんだ。これは金というものがね、こわいんですよ。金を持つことによって自分が変わるのがこわい。

 だから、いくら金を積まれて絵を描いてくれと頼まれても、わざと断っちゃう。それで一生貧乏。そういう変人畸人というのがいるでしょう。それは、やはり、金がほしくないというんじゃなくて、金を持つことによって自分はどうなっちゃうか、自分の人間性は、芸術はどうたっちゃうか、それを恐れるわけだ。つまり、それだけ人間の弱さを知っているということですよ。己を知るというかね。明治維新政府の役人や政治家は、むろん全部じゃないけど、成り上がりばかりだからね、それが全然わからないんだ。西郷隆盛がそういうものに絶望したのは無理もないことなんだ。

征韓論の対立で
西郷は新政府と袂を分かつ……
P.297

 西郷の本質は詩人であり、教育者であるから、つまり、無私の人なんだ。こういう人間は幕末の何がどうなるのかわからないような動乱の中にあっては、多くの人びとの指導者として一番大きな役割を果たす。しかし、一度新政府という官僚組織ができあがってしまうとね、もう西郷のような存在は無用になってくるわけだよ。邪魔なんだよ、むしろ。

 西郷隆盛が下野する直接の動機となった征韓論でもね、西郷は自分で向うへ行って死ぬつもりで、自分が死んでしまえば、つまり自分が朝鮮で殺されてしまえば、それを理由に出兵できると、そいう狙いで朝鮮へ使者に行きたがったのだと、まあ、こういうふうに一応いわれています。しかし、本当のところはどうなんだかねえ。

 西郷自身は、そんな戦争をしかけるつもりで朝鮮へ行くと主張したわけじゃない、とぼくは思うんだ。向うへ行って談判をして、説得する自信があったからなんだ。

 当時、朝鮮はどうなっていたかというと、それまで幕府とはちゃんとつきあってきたわけだ。その幕府を倒した、素性の知れない浪人どものつくったような新政府とはね、自分たちはつきあう必要はないというわけだよ。それで何回も新政府から通告しても全然応じない。日本から行く使者は非常な侮辱を加えられたんだ。いろいろと嫌がらせをさらたりね。

 それで、もう放っておけない、もっと強腰で本格的な外交交渉をしなければいけないということになって、それなら、

「よろし。他人じゃいかぬ。わしが使節となって朝鮮へ乗り込んで見よう」

 と、西郷がいい出したわけだ。

 旧幕時代から続いている旧対馬藩の出張所のようなものが朝鮮の釜山にあって、これを倭館と呼んでいた。そこに日本の外交官や居留民がいたわけですよ。ところが、朝鮮政府が、倭館の日本人に対して衣食用品を一切売ってはならぬとか、無茶なことをいい出していたからね。そのうちには居留民たちの生命の危険まで感じられるようになってきた。

 それでついに西郷が乗り出そうというわけだ。そうすると新政府の閣僚たちは、武力を背景にした強硬な談判を行う以外にない、まず軍隊を先に釜山へ送り込んで、それから交渉を開始すべきであるというんだ。このとき西郷は、そいうやりかたは朝鮮をいたずらに刺激するだけだからいけないと、はっきりいっていますよ。

「そりゃちょいと早すぎもそ。にわかに出兵となれば戦争さわぎになりますよ。いままでの折衝のこともあろうし、ここは、先ず全権を派遣して正式に韓国政府へのぞみ、正理公道を説き、大院君にも面接して、切に反省を求むべきじゃ。

 この全権にしても兵をひきいて行くべからず。大使たるものは、よろしく烏帽子直垂の礼装に身をかため、礼をあつくし、道を正すこといを第一義として彼地へおもむくべきでごわしょう」

 そういう礼を尽くしたやりかたで朝鮮へ交渉に行きましょうというのが西郷の主張だったんだ。だけど、新政府は、西郷隆盛が出て行ったら必ず戦争を誘発するつもりだと。

 もし、そうなったら大変だ、戦争になったら日本はまだ内政も固まっていないし、いたずらに諸外国列強の食いものにされてしまう。だから、絶対に戦争になるようなことだけは避けなければならないというのが、大久保利通や木戸孝允(たかよし:桂小五郎)なんかの考えかたなんだ。そのために必死になって西郷全権派遣を阻止したわけです。

 で、結局、岩倉具視の暗躍が成功して征韓論はつぶされ、西郷隆盛は、もうこういう新政府とは一緒にはとても働けないということで、薩摩へ帰ったと、まあ、こういうわけだ。だけど、そのときは朝鮮と戦争にならずすんだが、じきに戦争になってるじゃないか、台湾と。まったく馬鹿な話ですよ。ビジョンも何もないわけだよ、新政府には。

政治家の感覚としては
大久保利通の方が西郷より上。
P.299

 大久保利通には、大久保なりの構想というものがあった。薩摩も長州もない、新しい政府をつくるんだということでは、大久保も西郷も同じなんですよ。ただ、西郷のことをね、薩摩の士族たちが「先生、先生」といって神のごとくにあがめたてまっている。みんながみんな軍人なんだからね、ほとんどが。西郷隆盛の動き一つで、新政府の軍隊というものが、どうにでもなってしまう恐れがあるわけです。だから大久保としては、やりにくいことおびただしい。

 大久保はアメリカからヨーロッパを回って、列強の科学文明の素晴らしさを目のあたりに見て来ている。そして日本へ帰って来て一番感じたのは、とにかく内政をととのえなければならぬということなんだ。

 まだ新政府ができたばかりで、内政が乱れている、官吏だの軍人だのをきちんと掌握して、内政を固めてからでなければ、戦争どころじゃないというのが大久保の信念なんだ。

 自分が正しいと信ずる政治構想を実現するためなら、どんなことでもするのが大久保利通ですよ。政治家としては、それはもう大久保のほうが西郷よりも上です。西郷自身、大久保のほうが上だということを知っている。だから、あとのことは大久保にまかせておけばいいと、自分は故郷へ帰ったわけですよ。

 だけど、西郷隆盛は神様も同然だからね、薩摩へ帰ったら。まわりの子分たちが悲憤慷慨して、西郷を押し立てて、新政府をやっつけようとする。それが困るわけだよ、西郷も。なんとか薩摩軍人たちをなだめて、暴走させないようにと、西郷は一所懸命に頑張った。

 だから旧佐賀藩の士族たちが、ちょうど故郷へ帰って来た江藤新平をかつぎあげて、佐賀の乱(1874年:明治7年2月)を起こしたとき、鹿児島の西郷のところへも一緒に事をあげましょうと誘いがかかって来たけど、西郷は言下にはねつけていますよ。そんなことをしてはいけないって。

 佐賀の乱は、あっという間に鎮圧された。江藤新平が四国まで逃げて捕えられると、大久保はみずから佐賀へ駆けつけ、そこで臨時裁判所を開いて、たちまち江藤を死刑にしてしまうんだ。中央政府の力を何としても強固なものとして確立しなければならない。

 それがためには地方士族の反乱など片っ端から打ち砕いてくれようと、大久保は大久保なりに闘志を燃え上がらせていたわけです。

 熊本の神風連の挙兵(1876年:明治9年10月)。九州・秋月の乱(1876年:明治9年に福岡県秋月:現・福岡県朝倉市秋月)。長州・萩の乱(1876年:明治9年に山口県萩で起こった、明治政府に対する士族反乱の一つである。 1876年10月24日に熊本県で起こった神風連の乱と、同年10月27日に福岡県で起こった秋月の乱に呼応し、山口県士族の前原一誠(元参議)、奥平謙輔ら約200人(吉田樟堂文庫「丙子萩事変裁判調書」では506人、岩村通俊遺稿では2千余人と諸説あり)によって起こされた反乱である。こういうものを大久保は徹底的にやっつけている。そのたびに各地から西郷へ誘いがかかるんだけれども、西郷は動かない。相手にしないんだよ。大久保のやっていることが正しいと認めているからなんだ。

 大久保利通の強圧手段というのは、安政時代の井伊大老の大弾圧に比べれば、規模は小さい。だけど、その激しさは安政の大獄よりもっと凄かった。命がけで新政府の安定を目指していたからね、大久保は。政治家としての大久保の生活は西郷と並んで清廉そのものなんだ。

 とても今をときめく政府最高権力者とは思えないほど粗末な家に住んでいて、死んだとき家にはわずか三百円の金しか残っていなかったそうです。

 大久保利通のやりかたは、それが正しいと思ったらもう、他のことは全然気にしないんだ。旧藩士意識というようなものはまったくないから、すべて新しい中央政府の立場から割り切って考える。

 藩籍奉還とか廃藩置県とかを推進して、かつての主君島津久光が激怒したって平気だし、きのうまでの仲間である士族たちが没落したって一向気にしない。そこが大久保の大久保らしいところであり、西郷隆盛と違う点でしょうね。

西郷を敬慕する私学校党の生徒達の蜂起に
西郷は従わざるを得なかった……
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 西郷の場合は、不平不満の士族たちを、大久保のように切り捨てられない。むしろ、彼らの不満というものを全部、自分が一身に引き受けてしまう。結局そのために西郷は死ぬことになる。

 もし、西郷隆盛が生きていて、明治維新前夜の秘密をしゃべったら、今の歴史なんか一変しちゃうようなことがあったに違いないと思いますね、ぼくは。

 西南戦争というのは、大久保が謀略によって挑発したものだという説がある。ある程度真実と思っていいでしょうね。薩摩だけは西郷王国として独立国みたいになっている。それは困るわけだ、新政府としては。何とか手を打ちたいんだけれども、大久保にしてみれば自分の故郷であり、西郷への遠慮もあるから。

 それで、いつかは機会をとらえて薩摩の西郷王国を中央政府の前に屈ぷくさせようと狙っていたわけだ。そのために鹿児島県令の大山綱良を東京へ呼びつけて詰問したり、鹿児島へ大量の密偵を送り込んだりしている。それが西郷に心酔している私学校党に見つかって、捕えられた密偵の一人が西郷暗殺計画を自白したからたまらない。そういう騒ぎの中で、私学校党が、鹿児島にある政府の火薬庫を襲撃するという事件が起きた。

 もう、こうなったら公然たる反乱ということになる。大久保にいわせれば、またとない薩摩打倒の口実ができたわけですよ。このとき西郷自身は大隅半島の小根占というとこころにいて、狩猟を楽しんでいたんだが、火薬庫襲撃の第一報が届いた瞬間、

「しまった!!」

 と叫び、やがて嘆息をもらして、

「ただ,天でごわすよ」

 と、つぶやいたのは有名な話だ。

 大久保利通を中心とする新政府が、とうとう西郷を死に追いつめたといっても間違いではない。だけど、政府が追いつめたというよりも、西郷みずからが追い込まれて行ったというほうがもっと正確でしょうね。そこが政治家でもなければ軍人でもない、西郷の西郷らしいところなんだ。情に負けてしまったわけですよ、自分のかつての部下たちの。じゃあ、みんなのために死んでやろう、と。そうすればまた、そのことによって中央政府のやりかたというものが正しい方向へ改められて行くだろう、というわけだ。

 詩人ですからね。あまりにも感情が豊かだから。それに禅の影響も受けているでしょう。若いときから。それで思い切りが早過ぎるということになるんだよ、どうしても。

 井伊大老の大弾圧のときもそうなんだ。島津斉彬の在世中から西郷とともに幕府改革を叫んで来た人びとが徹底的に弾圧されたでしょう。西郷もこのとき、幕府方の追及を逃れて、僧・月照と一緒にようやく鹿児島まで落ちのびた。だけど、藩の重役たちは、幕府を恐れて、ただちに月照を立ちのかせよという。西郷にはそんなことはできない。それで、たちまち月照とともに死のうと決意してしまうわけだよ。そういう人なんだよ。大久保のような粘りがないんだね。

昔の政治家は教養があった。
それにひかえ今の政治家は……
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 西郷隆盛はね、大変な女好きですよ。京都の島原の遊郭へはしょちゅう通ってたよ。若いころは、金があるからね、勤王がたは。それで、どこかの料理屋の仲居といい仲になってね。その西郷の恋人というのは、西郷に負けないくらいの大女でさ。凄いおでぶちゃんなんだ。

 これ、芝居でよくやりましたよ。先々代の松本幸四郎が西郷をやるとするとね、今の延若のお父さん、石川五右衛門をやるような大きな女のほうになるんだよ。

 島流しになったときも、島の娘の愛加那(あいかな)と一緒になって、子どもも二人いた。後に鹿児島へ連れて来ましたよね。とにかう西郷は女が好きですよ。それで新政府が新島原という遊郭を今の新富町のところへ設けたわけだ。ところが、あんまり新政府の連中が遊び過ぎて、風紀が乱れるというので、廃止しちゃうんだ。そのとき西郷は物凄く怒ったという話が残っていますよ。西郷の女好きというのは、女のほうが放っておかないわけだよ。西郷を。あの大きな黒ぐろとした眼で見つめられたらねえ、だれだって逆らえないよ。

 明治維新であれだけ大立物として活躍した西郷だけれども、本質は政治とは無縁の詩人でしょう。そういう不思議な人がいるんだよね、ときどき。軍人でありながら本質的に違うというような、たとえば乃木希典がそうですよね。

 これもやはり詩人ですよ、西郷と同じだよ。軍人じゃないんだ。本当は。乃木希典の詩、漢詩ですがね、これは日本詩人全集を出したら真っ先に入れなきゃいけないほど立派なものですよ。素晴らしいんだよ。だけど詩人としては絶対に認めないね、日本の文壇は、乃木希典を。

 山縣有朋なんかでもね、政治家あるいは軍人としての山縣は、ぼくはあまり好きじゃないけど、詩人として漢詩は大したものですよ。これはもう物凄く感情が激しい人なんだ。だから詩はいいんだよ。

 岸信介にしてもね、獄中にあったときに短歌を詠んでいるわけですよ。うまくはない。それでも短歌になっているものね。とにかく岸信介という政治家ではなくて、もう一人別の岸さんの顔をみるような気がするぐらい。昔の人はみんな、何かそういうところがあったよ、どこかにね。

 そいう点では、現代の政治家は実に無教養でお粗末なのが多いね、全部とはいわないけれども。泥臭いでしょう、みんな。明治維新当時の政治家は田舎臭い成り上がり者ばかりではあったが、なるべくあかぬけよう、あかぬけようと努力したことは事実なんだ。

 明治天皇でもそうでしょう。この天皇は大変な豪傑だったというんだけど、天皇としての責任を物凄く強く感じているんですよ。明治維新のときはまだ子どもだったとはいえ、自分を中心に押し立てて薩長を中心とした勤王がたが新しい政権を樹立したわけでしょう。

 そのことがつねに心にあるから、大変な責任を感じている、日本の国に対して。だからあれだけ立派な天皇になったわけだ。

   〽年々(としどし)に思いやれども山水の 
    汲みて遊ばん夏なかりけり

 そういう御製があるんですよ。毎年毎年、山へ行って清水を汲んで遊びたいと思いながらも、そういう夏はない、と。国務にそれだけ打ち込んでいるわけですよ。これはねえ、一般のわれわれと違って嘘をついたり自分を飾ったりしないんだよ、天皇は。本心をいっているんだよ。

 小学校のとき、読本に載っていた、その明治天皇の歌をね、ぼくは今でも覚えているんだ。子ども心にも、

(ああ、天皇って偉いなあ……)

 と、思ったからだろうね。何から何まで国のため、国民のため、それしか考えないのは天皇だけでしょう。「……汲みて遊ばん夏なかりけり」って、衒(てら)いでも嘘でもハッタリでもないんだから。今の天皇の歌もそうですよね。優れた名歌とかなんとかいうんじゃないけど、やっぱり俗人じゃ詠めない歌ばかりですよ。「明治天皇御製」が出ているだろう。どこかの文庫で。たまには、ああいうものを読むといいんだよ。いまの政治家は……。

2018.01.07、2022.04.07 補足・修正。