★習えば遠し 第1章 生活の中で学ぶ 第2章 生きる 第3章 養生ー心身 第4章 読 書 第5章 書 物
第6章 ことば 言葉 その意味は 第7章 家族・親のこころ 第8章 IT技術 第9章 第2次世界戦争 第10章 もろもろ

第4章 読 書

READING BOOK

人は有字の書を読むを解して、無字の書を読むを解せず。
有絃(ゆうげん)(きん)琴を弾ずるを知りて、無絃の琴を弾ずるを知らず。

(あと)を以て用いて、(しん)を以て用いず、何を以てか琴書の趣を得ん。

                〔菜根譚 後集 八〕

目 次

01本物と素読 02『正法眼蔵随聞記』(岩波文庫)
―のり付け本―
03『日暮硯』を読む
―恩田木工―
04宮尾登美子
『蔵』
05ヘレン・ケラー
06目 耕 07色 読 08五分間読書のすすめ 09辞書の勲章 10桑原 武雄
『論語』を読んで
11国語辞典を読む 12松阪の一夜 13中国古典の読み方 14梅 原猛
『湖の伝説』
15「忘れ」と「読書」
16立花 隆
『宇宙からの帰還』
17「仕事の上手な仕方」:ヒルティの方法 18中島 敦
『弟子』
19わたしの読書 20「学んで時に之をならう」
21シュリーマン
『古代への情熱』
22城山 三郎
〚頭にガッンと一撃〛
23士気七則暗誦 24音読の効用 25J.ヒルトン『チップス先生さようなら』
26アンドレ・モロア
『フレミングの生涯』
27A New Way to Fight Disease 28大石順教尼
『無手の法悦』
29子供を読書好きにするには 30読書週間
31木鶏の教訓
ー〚荘子〛よりー
32有吉佐和子
〚華岡青洲の妻〛
33幸田 露伴の樹相学 34時の力―忘 却― 35向田 邦子
〚父の詫び状〛
36O・ヘンリ
賢者の贈りもの
37O・ヘンリ
最後の一葉
38O・ヘンリ
二 十 年 後
39三浦 哲郎
『忍ぶ川』
40朗 読―しゃがれ声の改善―
41西堀 栄三郎
『石橋を叩けば渡れない』
42遠藤周作
印度仏跡旅行
43真田 幸村:われに挑む一人の男もなきか 44原典を探す 45カルネアデスの板
46セネカ
『人生の短さについて』
47山本 夏彦
〚やぶから棒〛
48スルガ銀行指導精神 49パール・バック〚母よ嘆くなかれ〛 50松野 宗純
『人生は雨の日の托鉢』
51篠田 雄次郎
『日本人とドイツ人』
52吉村 昭
『白い航跡』
53吉村 昭『海も暮れきる』:尾崎放哉 54吉村 昭
『戦艦武蔵』
55志村 武
『鈴木大拙随門記』
56板橋 興宗
『人生は河の流れのごとく』
57板橋 興宗
『良寛さんと道元禅師』
58高島 俊男
『お言葉ですが』
59池田 潔著『自由と規律』――イギリスの学校生活 60照于一隅
61Wimbledon 62The conquest of Everest 63Old Roads across the Ocean 64ABOARD THE MAYFLOWER 65THE ROSETTA STONE
66A Visit to Hiroshima 67HIROSHIMA:AUGUST 6, 1945 68THE SNOWFLAKE MAN OF JERICHO 69The Acropolis of Athens 70The Road to Happiness
71After twenty years 72The Gift of the Magi 73The Last Leaf 74The Green Door 75The Cop and the Anthem


1

本物と素読


 骨董などが本物か偽物かの判断の力を養うには、小さいころから本物しか見せないといわれている。この場合、本物を見なれている人がそばにいることも大事だと思う。判断の付かない人はどこが良いのかわるいのか、着眼点はもちろんその意味さえ分からない。

▼こんな話を耳にすると思い出すのは昔の古典(多くは論語など)の素読である。少年時代「子曰く……」と大声で暗誦できるまで素読させられたそうである。当然、そのときは、其の意味は分からない。ある年配になっても文章はほぼ記憶していて、其の上、その意味が少しずつ分かってくる。

▼今は、こんな教育は行われていない。有名大学に入るためには、有名中学・高校一貫の学校へと。また入試に関係ないものは教えてもらわなくてもよいと思う父兄。

▼人生一貫教育をいまこそ考えなければと思うことしきり。

平成十五年十一月二十日


2

『正法眼蔵随聞記』―のり付け本―



 昔は文庫本でも糸綴じであった。近頃のものにはそんな本があるのだろうか? 多くの本は糊付けだけである。 一九八三年(昭和五十八年))八月二十日(約二十一年前)に購入した第47版発行の本である。私の愛読書の一冊の本も糊付けであった。数年前に本が割れたので背中を糊付けして何とか修理した。今年、其の本がさらに割れてページをあわせるに注意しなければならないほどになった。そこで、その文庫本をしっかりとそろえて、クリップにはさみ、表紙から目打ちで穴をあけて糸で五カ所縫いつけた。

▼珍しいものでも、絶版本でもない。今でも売られている本だから新しく買えば済むことではないか、と思う。しかし、購入以来、何度も繰り返し読み、読んだ時に感じたことなど書き込みをしている。それを読むのも自分の読書の足跡を見る気持ちがして手放したくない気持ちを断ち切れず修理をした。

本があふれる時代、製本のコストからやむをえないのだろうが、私は古典などの良書は少し値段を高くしても糸綴じにして、長期に読み続けても、ばらばらにならない本、さらに、希望としては本の終わりに白紙のメモ欄を数ページを作ってもらえないものだろうか。出版社にお願いしたい。

平成十六年二月十三日

▼この本を読むにあたって中村 元先生の改版に際しての文章を是非お読みください。

中村 元

一 『正法眼蔵随聞記』の成立

二  岩波文庫本の由来

 道元が単にわが国の曹洞宗の開祖としてではなくて、わが国の生んだ偉大な思想家として一般に知られるようになったのは、和辻哲郎博士の力によるところが大きく、そうして道元の人物像がくっきり浮かび上ってきたのは、この『正法眼蔵随聞記』の岩波文庫本による点が多い。

 和辻先生は、道元の思想および人格にひかれて「沙門道元」という論文を、大正九年から十二年にわたってまとめ、その初めの部分すなわち約三分の二を雑誌『新小説』に連載し、残りを当時創刊された『思想』誌に掲載されたのである。それが発表直後にどれだけの影響を及ぼしたか、よくは解らないが、この論文がやがて『日本精神史研究』岩波書店、大正十五年十月刊行)のうちにおさめられて刊行されるとともに、道元という思想家・宗教家が一般に非常に注目されるようになった。

 その一例として、わたし自身の経験をのべることを許して頂きたい。わたしは東京高等師範学校附属中学校に、大正十四に入学したが、級担任で修身の先生であった原房孝先生が、修身の時間に道元の事蹟を感激を以って伝えられ事を覚えている。それは、求道者たるもの、ひいては勉強を志す者はこれだけの覚悟が要るということを強調されたのである。わたくしが後年研究者になってから知ったことであるが、原先生の講話の内容は、大体「沙門道元」の中に出ていることがらであり、さらに遡れば、『正法眼蔵随聞記』の中に出て来ることがらであった。

 岩波文庫本の『正法眼蔵随聞記』が刊行されたのは、昭和四年である。道元に対するブームが漸く起ったので、やがて原典を刊行するという運びになったのであろう。世間でこの文庫本は非常に歓迎され、昭和十三年よりも以前にすでに十一刷を刊行していた。

 道元自身の著作である『正法眼蔵』にくらべれば、この『随聞記』のほうは、はるかに内容が読み易いが、しかし当時でも一般の人々には近づき難いものであったらしい。そこでこれに振り仮名をつけようという提議がばされ、わたくしがそれを為すように、和辻先生から仰せつかった。

 大変勉強になる好い機会であったが、わたしには、なかなか重荷であった。一般の仏教辞典や禅学辞典にも出て来ない語が沢山見受けられる。そこで旧幕時代からよく読まれた『随聞記』(京都、貝原書院刊)および『永平正宗訓』(同じく、貝原書院刊)に出て来る若干の振り仮なを片はしから検討した。しかしそれらの振り仮なはごく僅かであり、部分的であった。当時はまだ『随聞記』全体についての振り仮名版本は刊行されていなかった。

 そこで個々の話の読みくせを知るためには、特に『正法眼蔵』の振り仮なつきの出版に当らねばならぬ、と考えて、当時曹洞宗聖典として振り仮なのつけられて出版(例えば東方書院版、あるいは来馬琢道師編のもの[無我山書房刊、明治四十四年])などをいろいろ参照した。それでもはっきりしないところは、のちに永平寺西堂となられた橋本恵光老師や永平寺東京別院副監院の成河仙嶽老師に教えて頂いた。そのほか宇井伯寿先生にも何かと御教示にあずかったことを覚えている。

 そのように諸先輩の一方ならぬお世話に与(あずか)ったにもかかわらず、ここに付した振り仮なでよいかどうか、なお確信をもっていない点がある。例えば、「道」という字が一字だけ出て来るときに、来馬琢道師編の聖典には「どう」と振り仮名がつけてあるが、橋本恵光老師は、提唱のときに、つねに「みち」と読んでおられた。そうして老師に個人的に伺ったところが、ただ「みち」と読むほうが良い」といわれたが、その理由については、別に何も言われなかった。

 ともかくこういう道筋をたどって、昭和十三年四月二十五日に振り仮名つきの第十二刷が刊行された。その後もつづけて印刷されている。

 ところで一九八一年に、この文庫本の紙型が摩耗してしまったので、新たに組み直すに当って、従前どおり面山本によるべきか、新たに長円寺本によるべきか、ということが、問題となった。

 『随聞記』の原形を明らかにするためには、文献学的には長円寺本を重んずべきであろう。しかし現在の岩波文庫本としては、やはり面山本を校訂刊行することにした。そのわけは、 

(1)面山が手を加えているから、全体として読み易く、解り易い、内容を把握することが容易である。長円寺本で不明な点が、面山本でよく理解される個所もいくつかある。

(2)面山以後現代に至るまでの、道元思想の理解に、面山本は決定的な重要性をもっていた。曹洞宗は伝統的に面山本を依用しているので、今でも権威がある。

 現在の研究者のうちにも、面山本によるべきであるという主張がすくなくない。(ただし長円寺本をとる傾向が徐々に増えていることは否定できないが。)

 よって精密な研究のためには、読者は「日本古典文学大系」本を参照されたいが、「岩波文庫」としては、その性格上、やはり面山本の印刷を継続することにした。

 振り仮なつについては、この機会に曹洞宗の若干の方々に是正を乞うたが、今までには特に挙げられることもなかった。なおこの点については、諸方からの御叱正を願っている。

 漢字については、常用漢字の字体を使い得るものについては、それを使って読み易くした。しかし仮なについては旧仮なおよび版本のままの仮な遣いに従った。そのわけは微細な変更が意味の誤解をひき起す恐れがあるからである。[例えば、「ゐる」と「いる」と直すと、もう意味が違って来る。]

 なお版本は片仮な書きであるが、翻刻に当っては、旧版以来平仮な書きに改めてある。

三十六年二月十三日
十九年九月五日、上記の日付に作成した文章を大幅に変更しました。


参照:このホームページに、『正法眼蔵随聞く記』より引用したもの5件を列記します。
道元の関東下向
生死事大、無常迅速
わたしの読書
道元の二人の弟子
生死事大、無常迅速

平成十九年九月五日


3

『日暮硯』を読む

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 リーダーの読むべき本として『日暮硯』(岩波文庫)をすすめてきた。江戸時代の中期に、信州松代藩の家老恩田木工が、甚だしい窮乏に陥った藩政の建て直しを一任せられ、まず五カ年計画を立て、身を挺してその改革に当り、よくその功を成した事蹟に関する説話の筆録である。歴史年表によると、一七五九年、肥後・松代藩などで藩政改革が行われると記録されている。

樋口清之『うめぼし博士の 逆・日本史2』P.76~78によると

higurasisuzuri.JPG  日本および日本人のメンタリティは"結果"より"動機"を重んじる傾向が強い。たとえば、松代藩の経済を立て直したといわれる恩田木工(おんだもく)民親(たみちか)(一七一七~六二)のなは、その著書『日暮硯』とともに、清貧な人物による善政として有名である。

 この本によると、御用商人・八田家からの借金だけでも二一万両にのぼり、給料遅配が原因で足軽たちがストライキをしたり、百姓一揆が相次ぎ、彼が家老職を拝命した一七五四(宝暦四)年には、松代藩の財政はほとんど瀕死の重症だった。

 だが、この困難な状況を、彼は勇躍、唯一人で乗り切ったとされている。まず、藩の重だった連中から彼の政策に絶対に反対しないという一札を取り、親戚・家臣一同には、「いっさい嘘をいわない」とうことを約束させ、食事は飯と汁、衣類は木綿以外は着ないなどの質素倹約的生活をさせたうえ、領内の百姓には約束事は必ず守り、公表した施策はいっさい変更したりせず、また御用金なども申しつけないなどの善政を敷いたとされる。

 一方、藩士には信賞必罰の制度を徹底させ、この善政によってわずか五年で、藩の財政ならびに領地を、まことに豊かに立て直した――これが『日暮硯』に書かれている内容である。

 だが、事実はこの記述とずいぶん違っていた。恩田木工が五年間、改革に腐心したのは事実だが、莫大な藩の借金は減っておらず、彼が死んだ次の年、藩主の参勤交代の費用さえ捻出できない状態だったし、彼が農民に約束した政策も、ほとんど守られることがないありさまだった。

 つまり、彼の純粋な動機や政策とは無関係に、現実の松代藩の経済は、何一つ改善されることがなかったのだが、彼の人柄の清潔さゆえに『日暮硯』においては、日本的美学が強力に働き、事実を極端にねじ曲げ、"結果"まで、逆に美化されたのである。

 これと対比するに、薩摩藩の財政再建に非常な功績のあった調所笑左衛門(ずしょしようざえもん)広郷(ひろさと)(一七七六ー一八四八)の生涯に対する評価は、まことに対照的である。

 彼は使番・町奉行などをへて、藩主・島津斉興(しまづなりおき)の側用人・家老に成り上がった人物である。この成り上がり者が、日本社会では必要以上に軽んじられることは『逆・日本史(1)』(73ページ以下)で詳しく述べたとおりだが、かてて加えて、笑左衛門は財政建直しに、個人の徳目などまるで考慮にいれなかった。

 一国の経済に個人の美徳、つまり人格や人柄は無関係のはずである。いや、正確には人格とは無関係に、適切で効果的な手が打てる能力があるか否かが、家老としての最初の要件である。そして彼は、じつに有能であった。

 たとえば、二五〇年賦償還法(ふしようかんほう)(借金の二五〇年分割法)を強引に押し進めたり、砂糖の総買入れや琉球を介して密貿易を行ったりし、ついに、薩摩藩の財政を大幅に建て直すことに成功したのである。だが、その強引さが災いし、幕府の嫌疑を受けるところとなり、最後は自殺に追いこまれれている。

 そして、古くから、「恩田木工=善、調所笑左衛門=悪」のイメージが一般に定着しているわけだが、財政建直しという観点から見れば、つまり、家老職としての職責をどちらが全うしたかの判断からすれば、世間の評判とはまったく逆の結論が導き出されるのは言うまでもない。

個人の美徳を優先してきた農耕民族・日本人

 では、なぜこんなことが起きるのであろうか。一つには、渡部昇一氏がつとに指摘されたことだが、リーダーに能力がなければ全滅の危機に瀕することがしばしば起る牧畜民族と違い、農耕民族のリーダーは、能力より人徳で人心の掌握を行ってきたため、キラキラとした才能を疎んずる風習のある点が挙げられる。

 また、農耕民族は能力による格差を極端に嫌うメンタリティ、つまり、嫉妬心がきわめて強く、やや誇張して言えば、日本社会には「他人の不幸はわが幸せ、他人の幸せはわが不幸せ」というべクトルが、つねに働きつづけていることも忘れてはならない。

 さらに大きな要因として、欧米とはちがい社会全体を観察する精緻な学問が、日本社会には発達する土壌がなかったことも挙げられよう。

 たとえば、MIT(マサチューセッツ工科大学)の教授であるポール・サムエルソンの代表的な著作である『経済学』の冒頭には、「個人の美徳は集団の悪徳である」という一文が載っている。現在でも、この一文にはじめて接すると、たいていの日本人は一様に驚きと嫌悪感を露(あらわ)にする。

tutumi.higurasisuzuri.jpg  日本人は、「個人の美徳の集積のうえに、集団全体の美徳は発揮される」と考えたがる民族だからである。これも、農耕社会での豊かな収穫は、一人一人が勤勉に働いた結果、ようやく手にできるという素朴な実感が育てた感覚だろう。

▼奈良本辰也氏は「『図説長野県の歴史』で、古川貞雄さんが、『日暮硯』における名家老恩田木工の事蹟は、『つくられた』面が多いことを指摘されているが、それはまさにその通りであろう「…しかし、木工在世中には、百姓一揆などおきてはいない。とすれば、やはり政治の姿勢によるものだと言うことが出来る。根本にある仁政の思想が、そのような虚構を作り出したのだ。」

ikenami.sanadasoudouki.jpg ☆補足:「自学自得ハガキ通信第二部」102号と同じです。

※堤 清二訳・解説 現代語で読む『日暮硯』(三笠書房)もある。あとがきに、丸山真男先生にお目にかかった。『日暮硯』の件を申し上げると、「あれは面白いよ。松代藩は僕の郷里だからよく読んでいるが」とのお話であった。と書いている。

※池波正太郎『真田騒動 恩田木工』(新潮文庫)に「恩田木工」について書かれている。この本は、[信濃大みょう記][碁盤の首][錯乱][真田騒動]および[この父その子]の短編・中編4あわせて五編が収録されている。[真田騒動]は真田騒動――恩田木工―― となっている。 


4
宮尾登美子『藏』

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 《物語》大正八年、冬の吹雪きの夜に烈は生まれた。父の意造は新潟県亀田の地主で、清酒『冬麗』の藏元二代目。妻・加穂は、八人の子を妊り、死産、早逝ですべて亡くしている。烈という、女の子に似わぬ猛々しいなには、この子だけは逞しく生き延びてほしいという両親の深い祈りが込められていた。病弱な加穂に代わっな、烈の養育は、加穂の妹、独身のまま実家にとどまっていた佐穂に委ねられる。その親身の世話で烈はすくすく成長するが、小学校入学直前に烈の目に異変が発見される。夜盲症ーいずれ失明に至る、不治の眼病である。烈と家族の、哀しくとも美しい物語が、ここに始まる。

▼「もともと、仕事に自分の全人生を賭ける人間を見るとすっかり魅了されてしまうたちで、これまでにも琴を弾くひと、絵を書くひと、芝居をするひと、香を焼くひと、などにのめりこんで描いてきました」この小説では眼の不自由な女性・烈を酒造りの世界に置いている。「みなさんもどうぞ、長く長く、烈のこと、佐穂のこと、意造のこと、お胸のうちでいとしんで下さいませね」。

著者あとがき。

▼「火鉢の(おき)(じよ)となってはらりと落ちる、そんな音まで聞こえそうな」(文中の表現)など、静寂さをこんな言葉の美しさに私はいつも惹かれている。
*尉:炭火の白い灰になつたもの。


 「蔵」大正十五年、春まだ浅い二月末。

 新潟県中蒲原郡亀田郷・・・

この地の大地主で酒造業を営む田乃内家の奥庭では、新酒の仕込みの祝いを兼ねた梅見の宴が始まろうとしていた。

当主・田乃内意造には、九人の子を次々と亡くした後にやっと恵まれた一人娘・烈があった。

烈は意造の愛情を一身に集め、女子大進学を目指して励んでいる。

意造の妻・賀穂は病弱だったため、烈が十五の歳に亡くなり、妹・佐穂が母代わりとして幼い烈を育てていた。

佐穂の弟・佐野武郎は意造が佐穂を後添にするつもりがないことに不平をもらす。

意造の母・むらも、佐穂が意造の妻となることを願っていたが、意造は曖昧な返事をするだけだった。

新潟古町の置屋、能登屋の女将・昌枝に連れられて、初々しい振袖奴・せきも宴に呼ばれていた。

宴のさなか、突然の吹雪に一同が家の中に入ろうとした時、烈がつまずく。

不審に思い問い詰める意造に、以前から視力が落ち不安に脅えていたことを打ち明ける烈。

意造と佐穂はがく然とする。

目の診察を受けるために東京の帝大病院に烈を連れて行っていた意造と佐穂が、

しょう然として帰ってきた。

烈の病名は「網膜色素変性症」と言い、いずれは失明に至ることを医師に宣告されたのだ。

「私、少しでも光が見えるうちに死んじまいて!「絶叫して叫ぶ烈。

誰もが沈うつな思いに沈む中、むらは賀穂が自分の死後は妹の佐穂に烈の母親になってもらうようにと言い残したことを意造と佐穂に打ち明けた。

とまどう佐穂。

意造は主治医・常石に、烈の目の病の原因に遺伝の可能性があると帝大病院の医師から告げられたことを話す。

 意造は賀穂の実家・佐野家の血を疑っていた。

 その時、意造はあたりの匂いに酒蔵の以上を知る。

 酒造りに致命的な「腐造」を出したのだ。

 打ちのめされた意造は能登屋の若い芸者・せきを相手に酒浸りになっていたが、

 突然せきを後添いにもらうと言い出す。

 意造を密かに慕っていた佐穂は、衝撃を受ける。

 意造もまた佐穂の気持ちに気づいていたが、若いせきを妻に迎えることで不幸続きの田乃内家に新しい血を入れたいと考えていたのだ。

 婚礼の日、せきを嫁と認めないむらは烈を連れて席を立ってしまう。

 烈の目も日ごとに光を失っていた。

昭和四年四月。

 田乃内家ではむらが亡くなり、意造とせきの間には丈一郎という息子が生まれていた。

 烈はせきに心を開かず、丈一郎が跡取りになれば目の見えない自分は厄介者になると考え、かたくなになっていた。

 今や手探りでしか歩けない烈は、ある日女人禁制の酒蔵の中に迷いこみ、若い杜氏・涼太と出会う。

 目が見えなくても幸せに生きている人がいると語る涼太。

 その言葉に、閉ざされていた烈の心に希望の光が差し込む。

 そこに、駆け込んで来た女中が、意造が倒れたと告げる。

 中風で倒れた意造も杖をついて歩けるほどに回復してきたある日、母屋から突然悲鳴があがった。

 幼い丈一郎が、洗い場の石の角で頭を打ったのだ。

 ぐったりとした丈一郎を抱えて半狂乱になるせき。

 いたたまれずに庭にでた烈は、突然凍りつく。

 「見えね!何しとつ見えね!」。

 烈は完全にその光を失ったのだった。

昭和六年元旦。

 丈一郎の死、烈の失明と続く不幸にうつひしがれた意造は蔵を閉める決意をしていたが、烈はこれに反対し自分に酒造りをさせてくれるように訴える。

 驚いた意造は酒蔵は女人禁制、ましてや烈の目では無理だと説く。

 しかし、失明の絶望を乗り越え自分の生きる道を見つけようとしている烈の必死の思いに、ついに意造の心も動かされる再び酒造りに取り組む決意を固め、烈に手伝ってくれるように言うのだった。

翌年三月。

 烈が蔵に入って初めての酒造りは順調に進み、酒蔵では仕込みを終えた内祝いの宴が開かれていた。

 烈は、涼太から故郷の野積や日本海の話を聞き、名杜氏への夢を熱く語る涼太に魅かれていく。

 屋敷の奥では、佐穂が昌枝から重大なことを打ち明けられていた。

 それはせきが意造以外の男の子どもを妊娠しているということだった。

 佐穂がせきに子どもの父親を尋ねているところへ烈が現れ、相手が涼太ではないかと疑い、せきを問い詰める。

 涼太へのほとばしる思いを明かす烈に、佐穂はやさしく声をかける。

 目が見えなくたって、好きらって叫ぶことはできるでしょう?

 叫んでちょうだい。何一つ叫べなかった私の替わりに。

 丈一郎の死以来、意造との仲が冷えていたせきが姿を消した。

 心配した佐穂は意造にせきが妊娠していることを告げる。

 やがて昌枝に連れられて戻ってきたせきを、意造は激しくなじる。

 離縁して田之内家から開放してほしいというせきの哀願をも冷たく拒絶するのだった。

昭和八年春。

 田之内家に代々伝わる雛飾りの前で、せきが佐穂に別れを告げていた。

 せきの腹の子は死産だった。

 何かあったら戻って来るようにと言う佐穂に、せきは「もう後ろは振り返らない」ときっぱり答えて去っていった。

 その姿を、意造はただ立ち尽くして見送っていた。

 しょう然とする意造に烈は、涼太と結婚していっしょに酒造りをやっていきたいと告げる。

 驚き憤る意造に、烈はこれから故郷の野積に戻ってる涼太のもとへ行って結婚を申し込むつもりだと言い放ち、意気揚々と旅立っていく。

 せき、そして烈までに立ち去られてがっくりとうなだれる意造のそばには、佐穂がそっと寄り添っていた。

 烈と涼太に跡をゆずって自分たちもいっしょになろうと言う意造に、佐穂は答える。

 私はあにさまのお側にいられただけで、ほんにしあわせでごぜえました。

 それで十分でごぜえますがね。野積の浜辺を烈が転げるように駈けてくる。

 驚く涼太に思いをぶつける烈。

 とまどっていた涼太も、目の見えなかった涼太の母のために幸せになろうと言う烈の言葉に大きくうなずく。

 烈の後を追ってきた新発田の叔父・武朗が、意造が二人の結婚を許したことを知らせ、

 仮祝言用に用意してきた純白の打ち掛けを見せる。

 幸せに顔を輝かせる烈。

 おとっつっぁま!おばさま!私、もう何も怖くはねッ!

 私の目の底の闇に、光が見えてきたから。

 烈は光に向って歩く!それが生きる歓びだから!

 烈は天を仰ぐ。

 ふりそそぐ光を両手いっぱいに抱えて。

★Web Site による。場所が、新潟県中蒲原郡、私はこの地の中条へ何度も訪れている。知人も何人かいる。こんなご縁で読んでも烈に惹かれる。平成29年7月21日、追加。


補足:平成二十七年一月八日:「吉川栄治と宮尾登美子と広辞苑」を検索すると、以上の記事が掲載されていた。

 平成五年十月一五日 一〇四号 宮尾登美子『藏』 ...... 作家宮尾登美子さんは、〈広辞苑の愛読者で、美しい言葉にであうと、ノートに書き込んでいます。それが ... 吉川英治氏は、十八、九歳のころ、横浜から上京、本所のある印刷工場の住み込み職工になった。

宮尾登美子


 新聞は一斉に宮尾さんの訃報と作品について報道した。ある新聞の記事を紹介します。

 宮尾登美子さん死去:濃密な文章、情感豊かに 構想じっくり温め

 女性たちの生きる姿を追い続けた作家、宮尾登美子さんが88歳で亡くなった。2008年、ベッドから落ちて背骨を痛めてから、徐々に執筆から遠ざかり、13年7月、文芸誌に発表した柝(き)の音の消えるまで 追悼市川団十郎丈が最後の原稿となった。同年夏から療養を続けていたが、次女環さんによると先月30日夜、静かに息を引き取ったという。

    ◇

■評伝

 生家の「芸妓娼妓(げいぎしょうぎ)紹介業」が、宮尾さんの大きな十字架だった。高等女学校の入試で県立に落ちたのは、家業のせいとうわさされた。早く家を出たかったため私立の女学校卒業後、高知市を離れ山間部の代用教員になり17歳という若さで結婚。

 しかし、作家への道をこじ開けてくれたのもまた、忌み嫌った家業だった。

 婦人公論女流新人賞でデビューして約10年、ことごとくボツの憂き目にあっていた。「小説は面白く書けばいいと思っていたが、自分自身と血を吐く思いで向き合って書かないといけなかった」。そうして生まれたのが、生家をモデルにした「櫂(かい)」だった。それからはベストセラーを連発。読者はドラマチックな宮尾文学に魅了されていった。

 アイデアは10年でも、20年でも長い時間温める。いよいよ向き合っても、例えば「一絃(いちげん)の琴」なら琴を取り寄せることから始まる。1日の執筆量は原稿用紙数枚。それ以上書くと、「内容が薄くなる」。共に上京してくれた元高知新聞記者の夫との生活も大事にした。こうして紡いだ小説からは情感がにおい立ち、文章の密度は濃い。執筆に9年かかった「櫂」は、“手織りの木綿のような文章”と評された。

 次に出したい小説の種があった。「櫂」「朱夏」「春燈」「仁淀川」と書き継いできた自伝的小説の続きだった。私のことだから書くとなっても10年くらいかかる。どうなりますことやら。そう笑ったのは08年のこと。宮尾さんには時間が足りなかった。

平成二十六年一月八日


5

ヘレン・ケラー

  


 『わが生涯の記』の一部を拙訳しました。人生のなかで最も忘れ難い日はアン・サリバン先生との出会いである。七歳になる三か月まえの日であった。その日の朝、アンはパーキンズ盲人学校の子供から送られた人形を彼女に与えた。しばらく人形で遊んだ後、アンはヘレンの手のひらに「doll」と綴った。この指つづりが楽しくなりまねをした。ついにその字が正しく書けるようになると子供らしい喜びと誇らしくなりました。二階の部屋から階下にいた母のところにかけおりて、自分の手のひらを上げてdollの字をかいた。単語を綴っていることや言葉があることさえ知らなかったのである。その後、この方法で多くの言葉の綴りを知った。pin~hat~cup。動詞のsit~stand~walkなど。(中略)多くの新しい言葉を学んだ。mother~father~sister~teacherなど。言葉を知って彼女の世界に花が咲いた。その日、ベッドに横たわり喜びをかみしめているとき、私より幸せな子供はいないだろう。明日に速くなればと初めて待ち望んだ。         

▼『D・カーネギー 人生のヒント』から教えられました。(三笠書房)

目が見えなくなる―これが人生最大の不幸だと思っている人がおおいが、ヘレン・ケラーによると、目が見えないよりも耳の聴こえないほうが辛いそうだ。彼女は全くの暗黒と静寂によって社会から隔離されている。最も恋い焦がれているのは友情ある人の声なのである。彼女は全盲である。そのくせ、彼女は大概の目の見える人より遥かに本を読んでいる。おそらく一般人の百ばいは本をよんでいるだろう。その上、著書も七冊まである。その生涯が映画化された時は出演までした。耳も全く聴こえないが、ちゃんと耳の聴こえる大概の人より遥かによく音楽を鑑賞できる。


198号と同じです。

*追加:2008.3.8

 Googleで「Three Days to see」を検索しますと、ヘレンケラーの願望が読み取れます。

*追加:2009.10.19 


6

目 耕


 安岡正篤『照心語録』の中の一つに『真剣に読書することを目耕という。晋の王韶之(しょうし) が若い時、貧乏もかまわず本ばかり読んでいる。家人が「こんなに貧乏なのだから少しは耕したらどうか」とそしると、彼曰く、「我常に目耕せるのみ」と。書斎などに掲げておきたい語だ。』との語録がありました。

▼私のハガキ通信「三二三号(平成十五年十二月一日)」「色 読」について、近所の日蓮宗のお寺での「日蓮・なぐさめの手紙」について講演を聴いたときである。講演者は「最近、日蓮の手紙を読み始めた。私の手紙の読み方は、通り一遍の、皮相な読み方なのであるが、日蓮の手紙は、襟を正し、本気で読まないと、理解できないことを知った。色読の必要である。」            

▼読書の態度について味わいのある言葉を先人は考えていたものだ。私は目耕・色読をとおして心を耕しているのではないかと思い「心 耕」という言葉を造語した。

▼インターネットで「心 耕」を検索すると、「心耕」と「耕心」の言葉が使われているのを知った。そのなかに、三宝寺(所在地は記録されていなかった)の記事があった。当寺では「耕心の会」という法話の会を月に1回開催しております。「耕心」の名前の由来は、釈尊が在世中にお悟りを開かれて説法伝導の旅の途中で、田を耕していた農夫に「聖者よ、あなたもそんなことをしていないで田でも耕したらどうだ。」と言われ、釈尊は静かにその農夫の前に行き、そっと農夫の胸に手を当て「私も大切な“心という田”を耕しているのだよ。」といわれた、故事によるものです。

▼よい言葉を造ったものだと、ひとりで喜んでいたが、お釈尊様以来すでにつくられているのを知り、自分の無知を恥じた。

平成十六年三月二十二日、平成二十三年一月二十四日再読。


7

色 読


 愛読、未読、素読など読む字のつくものは平素よくきく言葉である。色読は知らなかった。近所の日蓮宗のお寺での「日蓮・なぐさめの手紙」について講演を聴いたときである。講演者は「最近、日蓮の手紙を読み始めた。私の手紙の読み方は、通り一遍の、皮相な読み方なのであるが、日蓮の手紙は、襟を正し、本気で読まないと、理解できないことを知った。色読の必要である。」そのとき、全身で読み、行動実践で読むことを意味するでしょう(後略)とある歴史家の解釈を紹介された。

▼愛読書を持っているだけで幸せである。愛読書にもいろいろあるだろうが、行動実践で読めるものを持っているだろうか? 一つでも持っている者は幸せである。二つ持てば、なお幸せである。現在は価値観の多様化によって自分で色読する読み物を持っているひとは多様化しているのではないだろうか。

▼色読できるために、まず問われるのは、過去.現在を問わず、この人ならば、実践行動で尊敬できる人を自分が持っているかどうか。そのためには生存されている尊敬できる人がいる者。また、それがない人には、現在にいたるまで読み続けられた古典と呼ばれる著作とその人物の研究がよいのではないだろう。そして、その人たちの言動を真似ること。少しも恥ずかしいことではない。 「自学自得ハガキ通信第二部」323号と同じ。


8

五分間読書のすすめ


 OECD国際学習到達度調査(参加国が共同して国際的に開発した十五歳児を対象とする学習到達問題を実施する調査。日本では高校一年生一三〇万人から、層化二段階抽出法で調査する学校うぃお決定し、各学校から無作為に調査対象生徒約四七〇〇人を選定した。)

▼「数学的リテラシー(応用力)」は六位、「読解力」は経済協力開発機構(OECD)平均並みの十四位―十七日公表された国際学習到達度調査の結果で、日本はこの二つの分野で前回より大きく順位を下げた。私も残念に思います。文部科学省や教育専門家の方々が制度や対策をとられるでしょう。最近「ゆとり教育」の反省の言葉を大臣が発言したりしている。

▼私はかって某企業の社員の研修を担当したことがあります。その方法はいわゆる通信教育法でありました。一定期間、研修生を合宿、指導項目を教えて、職場に帰し、毎月課題を与えて報告を提出、添削して返却する。ある期間するとまた研修所に寝泊りして教育指導・試験をする形式であった。仕事が終わり家庭に帰り通信課題を調べ報告するためには2~3時間は勉強しなければならなかった。大変つらいことであった。それでも彼らは頑張っていました。

▼あるとき「生活アンケート」を送り調べたことがあります。その中のひとつに「職場の人や家族にほめられましたか」という質問にたいして、職場もさることながら家族からほめられたという回答が意外と多かった。例えば「よくお酒が辛抱できますね」とか「昔よりおこらなくなりましたね」とか「お父さんはよく勉強するね」とか。私が見落としていたのはそこでした。会社での研修でもあると同時に、家庭の研修でもあったのではないか。私はもともと、研修は職場と研修生と研修所の三位一体だと考えていたのですが、実は家族を含めた四位一体だったのです。

★参考:お父さんの勉強は家族を動かす

▼子供の親も塾に通わせる、よいと思われる学校を選んでいる。しかし、それだけでは人任せになりませんか。私の体験から、読解力を向上するには、子供が本を読む機会がふえることが先決でないでしょうか。そのためには、父母たちが子供のいるところで少なくとも毎日一日五分間(それ以上が望ましい)でも本を読んでは。必ず効果があると信じています。親が想像する以上に子供は親のすることを見ています。

平成十六年十二月二十日


★補足:2005年07月120日(水曜日)朝日新聞社説
 言語力 やはり読書が大切だ
 「言語力」という聞き慣れない言葉を盛り込んだ法案が衆議院で可決され、今の国会で成立する見通しとなった。
 文字・活字文化振興法案である。与野党の286人から成る超党派の議員連盟がまとめた。
 法案では、読み書きだけでなく、伝える力や調べる力なども含めて「言語力」と呼ぶ。言語力をはぐくむことで、心豊かな生活を楽しめるようにする。そんな目的を掲げて、図書館の充実などを国と自治体に求めている。
言葉の力をつけるのをわざわざ法律で定める必要があるのか。そんな疑問を抱く人がいるかもしれない。
 しかし、さまざまな学力調査が示すように、児童や生徒の読解力や表現力が低下している。大学生の採用試験で企業が最も重視するのは、コミュニケーション能力である。伝える力や聞く力の乏しい学生が少なくないからだ。
 言葉の力をつけるには、言葉と出合う機会を増やすにかぎる。それには本を読むことが欠かせない。
 全国学校図書館協議会の04年度の調査では、1カ月間に1冊も本を読まなかったのは、小学生で7%、中学生で19%、高校生では43%にのぼった。
 最悪だったころに比べれば、本を読まない中高生はやや減っている。しかし、進学するにつれて、読書から遠ざかる傾向は変わっていない。
 大学でも、本を読む学生と読まない学生の二極化が進んでいる。
 今はインターネットでさまざまな情報が得られる時代だ。だからといって、読書の意義が薄れたわけではない。
 言葉の使い方を知り、漢字や慣用句を覚える。論旨を読み取り、展開の仕方を学ぶ。文化や歴史を学び、思考を伸ばす。想像力を磨く。そうしたことに、読書ほど手軽で効率的な方法はない。
 昨年2月の文化審議会は、急速に変化していく今後の社会では、今まで以上に国語力が必要だと答申した。そのために、「自ら本に手を伸ばす子ども」を育てようと提言している。
 すでに、いくつかの学校図書館で母親らが児童への「読み聞かせ」を続けている。図書の整理や受付を手伝うグループも多い。家庭で要らなくなった本を集めて学校に配っている自治体もある。
 本好きの子どもを増やす取り組みが、もっと広がってほしい。法案をつくった議員は息長く国や自治体に働きかけ、後押しを続けてもらいたい。
 言葉の能力の低下というと、大人は若者だけの問題と考えがちだ。しかし、文化庁の世論調査では、年配の人ほど敬語に自信を持っているのに、実際には敬語の使い方を誤っている回答が目立った。「青田買い」などの慣用句でも、50歳以上は若者より間違える人が多かった。


9

辞書の勲章


 箱入りの本は本棚にのると読む機会が少なくなる。

 辞書も箱入りのものが多い。そのうえ表紙はプラッスチクでカバーされている。

 辞書を購入したら箱から取り出して、カバーも外し、箱はメモの入れ物に利用するなど勧めている高校の先生がいた。同じ程度の辞書が数種あれば値段の高いほうを買うように話しているそうだ。
 大学に入って自分以外の学生の辞書が手垢で使い古されているのを見てこれでは勉強しないわけにはいかないと感じたそうである。

▼つかいふるされているのは勲章をつけているようなものだといわれていた。雑巾も汚れなければ雑巾ではない。

 【天声人語】2005年05月09日(月曜日)付を読み率直に驚いた。大学生もここまできたかと。そのまま引用いたします。

ゴールデンウイークが終わって、きょうから大学のキャンパスも活気を取り戻す。講義もそろそろ本格化する頃である。
かつては、英語以外にフランス語やドイツ語を学ぶことは、知的な背伸びをしているようで、大学生になったという実感を持ったものだった。最近は、第二外国語を必修から外す所も出てきて、語学学習の風景もだいぶ変わった。

▼都内の私大で第二外国語のスペイン語を教えている知り合いによると、年々辞書を持たない学生が増えているという。毎年、最初の授業で何冊かの辞書を推薦するのだが、今年3回目の授業で尋ねたところ、クラス30人のうち購入したのは3人だった。かなり前なら、外国語を学ぶのに辞書を買うのは常識だった。いまの学生が辞書を買わない理由「高い」「重い」「引くのが面倒くさい」の三つだという。

別の私大のベテラン教員は、一昔前のこんな話を教えてくれた。辞書の持ち込み可でフランス語を訳す試験を行ったところ、ある学生は仏和辞典だけでなく、国語辞典も持ち込んだ。訳文に正確さを期するためだった。これまた失われた風景だという。

▼いま書店の外国語コーナーをのぞくと、「超やさしい○○語の入門」「10日でマスター」といったようなタイトルの薄っぺらい本であふれている。詳しい文法は省略だ。辞書を買わない学生もこういう本は購入する。辞書を片手に難解な原書に挑戦するなんてことは今時、はやらないかもしれない。だが、外国語は地道な努力が習得の基本である。それはいつの時代も変わらない。

 孫が某大学の文系の学部に入ったので、私の本棚にデンと鎮座していた研究社の英和大辞典、その他にオクスフォードの英英辞典を持ちかえらせた。これを読み、時流に合わなかったのかと、半信半疑。一度、彼女に実情を聞いてみたいものだ。

平成十七年五月九日、平成二十三年五月六日再読。


10

桑原武雄『論語』を読んで


其の一

 学而第一

子曰わく、学んで時に之を習う、亦た説(よろこ)ばしからず乎(や)。有朋(とも)遠方より来る、亦楽しからずや。人知らずして慍(いか)らず。亦君子ならず乎。 P.7

 論語開巻第一章は、学問とは何か、つまり孔子は学問というものをどう考えていたか、を示す。この言葉を後の編纂者が『論語』の最初にすえることによって、孔子学団における学問のあり方を示そうとしたものである。伊藤仁斎がこの一章を「小論語」とよび、ここに『論語』の全精神が集約されてあらわれているとみたのは的確である。また別に、この章は孔子一生の要約であって、彼は「学びて厭(いと)わず」(述而(じゅじ)第七2)という持続的な学習態度によって天下三千の秀才を集めたが、生涯不遇であった、にもかかわらず「天を怨まず」(憲問(けんもん)第十四37)という悟達の境地に達していたことを示す、とする解釈もあるようだが、それは後世の付会であって、私は賛成しない。ただ素直に孔子が学問のよろこびを語ったものとよんでおきたい不
 以上は桑原武雄『論語』(ちくま文庫)一九八五年十二月四日 第一刷発行の文章である。

▼私も何度かホームページに『論語』の語句を引用させていただました。この章の桑原先生の説明のように、「生涯学習」の態度を持ち続けたいものです。  為政第二

子曰く吾(わ)れ十有五(じゆうゆうご)にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)う。七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず。「為政第二」P.37

 この章は規範的にも、歴史的にもよむことができる。「吾」という字が冠せられているのだから、孔子が一生を段階的に特色づけて述べた簡潔な自叙伝であることは間違いない。しかし、それが聖人の生涯なのであるから、のちの者にとっては一つの規範ないし模範と受けとられたのは自然である。たとえば、四十代のことを「不惑」と日常語でもいい、四十にもなったのだから、もう人生への態度をはっきりさせなければならない、あやふやな生き方は許されない、といった語感がそこに常にからむのである。この章は、規範的に受けとるのが普通であって、それはそれで正しいと思う。
 桑原先生は上述のようにのべています。
私見:ある本によると「世界でもっとも短い自分史である」と述べているものもあります。

▼先生が説明されている終わりに、最後に冒涜的に見えることを恐れず私の感想を一つつけ加えると、人間の成長には学問修養が大いに作用するが、同時に人間が生物であることも無視できないであろう。「天命を知る」というのは、自分がこの世で完遂すべき使命を自覚することであると同時に、五十の衰えの感覚から自分としてはこうしかならないのだということを認め、その運命の甘受の中で生きようと思うことでもある。自信であると同時に諦念である。「耳順」は、自覚的努力というより、生理の作用する寛容、あるいは原理的束縛からの離脱であることが少なくないのではないか。よく言えば素直さだが、あくまで突進しようとするひたむきな精神の喪失ともいえる。「心の欲する所に従いて矩を踰(こ)えず」というのは、自由自在の至上境といえるが、同時に節度を失うような思想ないし行動が生理的にもうできなくなったということにもなろう。それは必ずしも羨ましい境地とは言えないのではないか。これ以上飲むと明日頭が痛かろう、と思って、意志的に盃をおくのが立派なのであって、飲んでいるうちにいつのまにか盃が手を離れるというのでは、いささか淋しかろう。そう思うのは、いつまでも悟れない人間の愚かしい感想だろうか。しかし孔子もまた人であって、彼の発言が無意識的に彼の生理的諸段階を反映しているのかもしれないのである。

▼桑原先生のこの作品は昭和四十九年(1974年)である。先生の生年は1904年であるから、七十歳のときにかかれたものである。孔子のなくなられたのは七十三歳である。

 桑原先生がフランス文学研究の情熱を孔子の学問に対するそれと重ねあわされての感想だろうか。

 読書好きの年配者に過ぎない私には何か生理的に共感するものがあります。

平成十七年十二月二十一日

 宮崎市定『論語の新解釈』など参考にして読まれると表現は違うけれどもおなじような説明を知ることができます。

平成二十三年二月七日


 桑原武夫『論語』を読んでいると興味深い論が述べられていた。孔子の「子曰く吾(わ)れ十有五(じゆうゆうご)にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)う。七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず。」の言葉に対して、その深い意味を認めた上で、これは単純に孔子が年を取って肉体的に衰えてきたからだとも読みとれる、と言うのである。つまり、六十にして耳順うとか、七十にして矩を越えずとか言うのも、人間は年老いてくると、他人にいちいち逆らったりするのも面倒だし、若いときのような無鉄砲な力もなくなるので、自然にこうなると言うのである。

 このような考えが正しいとか正しくない、と言うよりは、このように突き放して「東洋の知恵」を見てみることも必要と筆者には思われる。このことは言いかえてみると、孔子は老年の知の方から発言しているのに対して、それを桑原武夫は壮年の知の側から見ることも可能なことを指摘している。物事は見方によって、いろいろに見えるものであり、どれかひとつが絶対に正しいなどとは、簡単に言えないのである。河合隼雄『日本人とアイデンティティ』P.60より。 

2017.10.23


11

国語辞典を読む

 最近、老化防止のため「簡単な数字の足し算、引き算」、「文字をなどる」、「写経本」また「パズル」の本などが、書店の入り口のよく見える場所におかれている。

▼私は手元の表題の辞書を読むことにした。分からないものに赤鉛筆で線を引く。1日目はわずか6ページ読んだだけである。

 それぞれの説明をあえて割愛した書き込んで自分で確かめると、その意味を思い出せないものがある。私だけででの分類すると

1、読み方を知らなかったもの:あいせい【合婿】

2、読み方は知っていたが、意味を知らなかったもの:あかぎっぷ【赤切符】、あいよめ【相嫁】

3、意味を知らなかったもの:あいえんきえん【合縁奇縁】、あいかた【合方】、あいくち【合口】、いぜん【愛染】
4、読みも・意味も知らなかったもの: あいろ【文色】

5、書き方を知らない漢字:あいばん【間判・合判・相判】

6、一度も使ったことのない熟語:あいちょう【愛重】、あいもち【相持ち】

7、使っている言葉の漢字を知らなかったも:あかぎれ【皸】
8、辞書で初めて知ったもの:あおどうしん【青道心】、あかわし【赤鰯】

 辞書を読めば自分の日本語の力を知ることができる。古今の書籍をいくら読んでいるかの目安にもなるのではないかと。

 以上の言葉の多くは出版物にも平素の会話でもあまり使われない言葉であることにも気づいた。

 もし本を読んでいるときにこんな言葉に出会ったときに意味がわかる程度にはなりたいと思う。

 反面、こんな言葉を辞書が残している利便と私たちの日常の言葉の変化を知ることができた。辞典を読み楽しがあるようだ。

岩波『国語辞典 第三版』より


 
参考:読まれた方はその意味を試してみてはいかがですか。見出しの下段の最初に書かれている説明を写しましたからご参考までに。

【合婿】…………………「気にいりのむこ」
【合縁奇縁】……………「人の交わりには互いに気がよく合う合わないがあって、それは不思議な縁によるものだということ」
【合方】…………………「歌い手に対し、三味線(しゃみせん)をひく者」
【合口】…………………「つばのない短刀」
【愛染】…………………「煩悩。▽愛着に染まる意から出た」
【赤切符】………………「もとの汽車の三等乗車券の通称。▽赤い色をしていたから」
【相嫁】…………………「夫の兄弟の妻▽その妻どうしで言う」
【愛重】…………………「愛して大事にすること」
【相持ち】………………「いっしょに持つこと。特に、平等に負担すること」
【間判・合判・相判】…「紙の大きさの一種」
【文色】…………………「様子。ものの区別。けじめ」
【青道心】………………「僧になったばかりで仏道を十分におさめていないひと」
【赤鰯】…………………「ぬかづけにしたいわし。それを干したいわし」
【皸】……………………「寒さのために手足の皮が裂けたもの」

このホームページに辞典関連について次の項目を書いています。 辞書の勲章 
大漢和辞典 
辞典・辞苑・事典

平成十九年八月六日


12

松坂の一夜


 本居宣長が加茂眞淵に一生に一度だけ会ったという話が記憶に残っていて、時折、その記録を探していました。

 小林 司『出会いについて』(NHKブックス)P.5~P.9で見つけ出すことが出来ました。


 以下にその内容を抜き書きします。

 松阪の一夜 私が習った戦前の小学校の国語の教科書『小学校国語読本巻十一』の第十三課には、「松坂の一夜」という文章が載っていた。

 三重県松阪市殿町にある本居宣長記念館へ行ってみると、この教科書が、いまでもガラスのケースの中に展示されている。読者の多くもたぶん記憶しておられるこの文章を次に引用しておこう。

「本居宣長は伊勢の國松阪の人である。若い頃から読書が好きで、将来学問を以て身を立てたいと、一心に勉強してゐた。」

 或夏の半ば、宣長がかねて買ひつけの古本屋に行くと、主人は愛想よく迎へて、

『どうも残念なことでした。あなたがよく會ひたいとお話しになる江戸の加茂眞淵先生が、先程お見えになりました。』

といふ。思ひがけない言葉に宣長は驚いて、

『先生がどうしてこちらへ。』

『何でも、山城・大和方面の御旅行がすんで、これから参宮をなさるのださうです。あの新上屋(しんじょうや)にお泊りになって、さつきお出かけの途中『何か珍しい本はないか。』と、お立寄り下さいました。』

『それは惜しいことをした。どうかしてお目にかゝりたいものだが。』

『後を追つてお出になつたら、大てい追附けませう。』

 宣長は、大急ぎで眞淵の様子を聞取つて後を追つたが、松阪の町のはづれまで行つても、それらしい人は見えない。次の宿の先まで行つてみたが、やはり追附けなかつた。宣長は力を落して、すごすごともどつて来た。さうして新上屋の主人に、萬一お帰りに又泊られることがあつたら、すぐ知らせてもらひたいと頼んでおいた。

望みがかなって宣長が眞淵を新上屋の一室に訪ふことが出来たのは、それから数日の後であつた。二人は、ほの暗い行燈のもとで対座した。眞淵はもう七十歳に近く、いろいろりつぱな著書もあつて、天下に聞こえた老大家。宣長はまだ三十歳余り、温和な人となりのうちに、どことなく才気のひらめいてゐる少壮の学者。年こそ違へ、二人は同じ学問の道をたどつてゐるのである。だんだん話してゐる中に、眞淵は宣長の学識の尋常でないことを知つて、非常に頼もしく思つた。話が古事記のことに及ぶと、宣長は、

『私は、かねがね古事記を研究したいと思つてをります。それについて、何か御注意下さることはございますまいか。』

『それは、よいところにお気附きでした。私も、実は早くから古事記を研究したい考はあつたのですが、それは萬葉集を調べておくことが大切だと思つて、其の方の研究に取りかゝつたのです。ところが、何時の間にか年を取つてしまつて、古事記に手をのばすことが出来なくなりました。あなたはまだお若いから、しつかり努力なさつたら、きつと此の研究を大成することが出来ませう。たゞ注意しなければならないのは、順序正しく進むといふことです。これは、学問の研究には特に必要ですから、まづ土台を作つて、それから一歩々々高く登り、最後の目的に達するやうになさい。』

夏の夜はふけやすい、家々の戸は、もう皆とざされてゐる。老学者の言に深く感動した宣長は、未来の希望に胸ををどらせながら、ひつそりした町筋を我が家へ向かつた。

其の後、宣長は絶えず文通して眞淵の教を受け、師弟の関係は日一日と親密の度を加へたが、面会の機会は松阪の一夜以後とうとう来なかつた。

 宣長は眞淵の志を受けつぎ、三十五年の間努力に努力を続けて、遂に古事記の研究を大成した。有名な古事記傳といふ大著述は此の研究の結果で、我が國文学の上に不滅の光を放つてゐる。

この本居宣長と加茂眞淵の出会いは、一七六三年(宝暦十三年)五月二十五日の出来事であり、これを佐々木信綱が書いた「松阪の追懐」という文章に基づいて小学生向けにわかりやすくリライトしたものである。この教科書の文中には書かれていないけれども、本居宣長は、京都で修業をしたのちに松阪に戻って小児科医を開業していた。したがって、国文学についてはいわば素人である。

 このとき、加茂眞淵は六十七歳、宣長は三十四歳であり、加茂眞淵のほうは、『冠辞考』(一七五七)、『萬葉考』(一七六〇)などもすでに完成していて、将軍有徳公の第二子田安、中な言宗武(国学者。江戸幕府第8代将軍・吉宗の次男)に対する国学の先生を勤め、その名前が天下に響いている大家であった。

 二十二歳で京都に医学を学びに出てから、医学だけではなく、契沖の著書などを読んで、国学に興味をもっていた宣長は、長い間ぜひ、加茂眞淵に一度会ってみたいと思っていたのであるが、ちょうど加茂眞淵が旅行をしてきたので、幸運にも旅館で会うことができたのであった。

 宣長の日記(宝暦十三年五月)には、「二十五日、曇天、嶺松院会也。岡部衛士当所新上屋一宿。始対面」とある。岡部衛士というのは加茂眞淵のことだ。

著者:小林 司は1929年生まれで、私とほぼ同年でありますが。以上のお話は記憶にありませんでした。

こんな立派な人同士のただ一度の出会いと、その後の絶えざる文通による師弟関係は宣長にとっては、研究の力になっただろうと思われます。

私にも、小学校の先生との全く偶然の出会いで忘れられないものがあります。 

参考1:教科書に載った松阪の一夜  

私にとって非常に参考になりました。

参考2:本居宣長:うひ山ふみ
 勉強の仕方を述べている。

平成二十年四月二十日、平成二十六年二月二十一日、修正


13

中国古典の読み方


★其の一 守屋 洋 新釈『菜根譚』一九八六年十一月十日第一版第三十二刷(PHP)
 『菜根譚』について 『菜根譚』の魅力

『菜根譚』は、人生の書である。

 こう言えば、青臭い書生論を連想されるかもしれないが、じつはそうではない。人生の円熟した境地、老獪きわまりない処世の道を説いたのが、『菜根譚』である。

 私事になるが、初めて『菜根譚』を読んだのは、二十代の時だった。そのときは、なるほどと肯く面もないではなかったが、多くの点で納得がいかなかった。むしろ反発すらおぼえたものである。それから十年すぎた三十代に、また手にしてみた。そのときは、反発はほとんど感じない。むしろ多くの点で、共感すらおぼえた。さらに十年たった四十代、つい二、三年まえに、三たび読む機会があった。すると、どうだろう、思わず小膝をたたきたくなることばに、しばしばぶっかるではないか。

『菜根譚』は、不思議な魅力をもった本である。

 中国の古典のなかには、処世の道を説いた本がたくさんある。いや、中国の古典というものは、もともと「応対辞令の学」といわれるように、直接間接に、処世の道を説いたものが主流であった。古典の九〇パーセントがそういう内容の本だと言ってよい。

『菜根譚』は、そのなかにあって、他の本にはない大きな特色をもっている。それは何かと言えば、儒仏道、すなわち儒教と仏教と道教の三つの主張を融合し、そのうえにたって処世の道を語っていることだ。

 中国には、むかしから、思想、道徳のうえで、儒教と道教という二つの大きな流れがあった。この二つは、互いに対立し互いに補完しあいながら、中国人の意識を支配してきた。この関係は、現代中国でも生き続けている。

儒教というのは、「修身、斉家、治国、平天下」、すなわち学問を修め、身を立てて国を治めることを説いたエリートの思想であり、「功名を竹帛ニ垂ル」ことをすすめた「表」の道徳である。また、広く人たるの規範を示しているという点では、建て前の道徳と言ってもよい。

 だが、表の道徳だけでは、世の中は息苦しい。そこで必要になるのが、それを補完する「裏」の道徳である。その役割をになったのが道教であり、その原型となる老荘思想だった。儒教が競争場裏に功名を求める哲学だとすれば、道教はみずからの人生にのんびり自足する哲学だと言ってもよい。また、儒教が建て前の道徳だとすれば、道教は本音の道徳だと言ってよいかもしれない。

さらに、儒教がエリートの思想であるとすれば、道教は民衆の思想であったともいえる。しかし、エリートでも、公の場では建て前として儒教の規範に従うが、私生活の本音のところでは、むしろ道教の影響を強く受けてきた。

 儒教と道教は、このような関係を保ちながら、中国人の意識を支配してきた。だが、儒教にしても道教にしても、中国の古典は、いわゆる「応対辞令」の学であって、人々の心の問題にまではほとんど立ち入らない。中国人の関心は、一貫して厳しい現実をいかに生きるかにあって、悩める心の救済にはあまり関心を示さなかった。その欠を補ったのが、インドから伝わった仏教であり、とくに、それをもとに中国で独自の展開を見せた禅である。禅は一時、在来の儒教や道教を圧倒する勢いで、中国社会に広まった。

『菜根譚』は、この三つの教えを融合したところに特徴があり、そこから独特の味わいがかもし出されている。

たとえば、悠々自適の心境を語りながら、必ずしも功みょう富貴を否定しない。また、きびしい現実を生きる処世の道を説きながら、心の救済にも多くのことばをついやしている。隠士の心境に共鳴しながら、実社会に立つエリートの心得を説くことも忘れない。

だから、『菜根譚』という本は、読む人の境遇によって、受け取り方がずいぶんちがってくるにちがいない。

しかし、それぞれの境遇に応じて、必ずや得るところもおおいはずである。きびしい現実のなかで苦闘している人々は適切な助言を見出すであろうし、ふ遇な状態に苦しんでいる人々はなぐさめと励ましを受けるであろうし、心のいらいらに悩まされている人々は大いなる安らぎを与えられるであろう。

読む人の境遇に応じて、いろいろな読み方ができるところに、『菜根譚』のあやしげな魅力があると言ってよい。

▼参考:釈 宗演 人生の名著 『菜根譚』 (三笠書房)から出版。

釈 宗演は、1859年、若狭国に生まれ、12歳で妙心寺の越渓(えつけい)について得度し、仏門に入った。その後、越渓の師である備前国曹源寺の儀山のもとで参究を続け、20歳で鎌倉に赴き、円覚寺・洪川(こうせん)和尚の法燈を嗣いだ。夏目漱石や鈴木大拙の師として有めおい。


★其の二 宮崎市定「論語読み」の愉しみ 『プレジデント』特集=孔子の人間学 平凡人活性術の研究 (プレジデント)1992年3月号より抜粋。P.60

 孔子の人間学――論語からの発想 「論語読み」の愉しみ

 実用的な職業訓練の書『論語』

  山本七平氏が、『論語の読み方』(祥伝社)で[論語]を現代に生きていくのに役立てようという、きわめて実用的な「読み方」をしています。そして私は、山本氏の読み方は、ひとつの立派な方法だと思う。

もちろん、学問という観点からすると、山本氏の読み方は、第二義的なものにすぎない、とはいえます。そもそも、学問というのは、つき進めていけば、そのまま実用に役立つというものではない。とくに、基礎的な研究になればなるほど、実用とは縁遠くなるものですが、それでも「論語」についていえば、山本氏の読み方は、決して間違っていないと言えるでしょう。

私がこのように言うのは「論語」そのものが、孔子がその弟子に職業訓練をしたときの言行録であって、それはきわめて実用的なものであったからです。

 ちなみに、「論語」の冒頭に、「子曰わく、学んで時に之を習う。亦悦(よろこ)ばしからずや」という有名な一句があります。ここでいう「学」とは礼を学ぶことで、孔子は礼を教える職業学校の校長とみてもいい。当時はまだ祭政一致の傾向の強い時代でしたから、伝統的な礼を知っている人材を要求され、孔子は弟子に礼を教えて、諸侯や貴族の下に就職させていたのです。

 ところで、礼、あるいは「仕来」というと、最近の人は単なる形式といって軽視するところがありますが、これは大変な間違い。いっさいは、人間関係の処理でエネルギーを節約する重要な方法です。

 たとえば、朝、人と会ったとします。「おはよう」という言葉がなければ、どのようにして、相手に自分の好意を伝えるかで、そのたびに考えなければならない。これは、ほんの一例ですが、現在の外交にしても政治にしても、それほど障害のないところは、すべて類型化、形式化して、エネルギーを節約している。

 このように人間関係には礼は重要ですが、孔子の時代は祭政一致の傾向が強く、今以上に礼が重視されたのですから、礼の大家である孔子の下に、よい就職先を得るために、多くの弟子が集まってきたのでしょう。

 「論語」は、こうして孔子が弟子に職業訓練をしたときに、弟子の質問に答えて話したことを、後になって弟子たちが言行録としてまとめたもので、孔子自らが筆をとって書いたものではない。それで「論語」では、よく「こういう場面で弟子が質問した」という書き方になっている。また「子曰わく」と書いてあっても、孔子がみんなを集めて演壇の上から説教したのではなく、折々に質問に答えて話した言葉です。

「仕来の中から人生を求める」

 ところで、「論語」ではもちろん、礼のことについても多少はとりあげていますが、これは全体からみると少ない。何故なら孔子は、ただ昔からの「仕来」をオウム返しにするだけでは満足しなかった。礼の裏には必ず仁とか道とかいう人間性の問題があると考え、その意味も礼とともに弟子に教えたからです。

つまり、「仕来」の中から人生を求めていった。それが「論語」にまとめられたといえます。先の例で言えば、「論語」は職業学校の校長の精神教育の報告書とでもいえましょうか。

 このように、孔子には、それまでの習慣を集大成した古い面と、人生の意味を突きとめようとした新しい面とがある。しかし、いずれにしても、彼の動機が職業教育、弟子の就職というところにあったことは疑いない。

 だから、山本氏のように「論語」をハウツウもののように読むのは決して間違いではないし、大いにそのように利用していいのです。

 ところで、当時は孔子だけでなく、ほかにも礼を教える先生はいたはずなのに、それらの学説は滅びてしまい、孔子だけが残ったという点も無視できない。これは、孔子の学説が、当時の世の中をよくよく反映していたということでしょう。それだけに、当時の社会、教育などが一体どういうものであったか、を知るのは大変参考になる。

[論語]は、山本氏の読み方のほかにも、あらゆる利用の方法がある。ということです。

 それでは、このように一般の人にも親しみやすいはずの「論語」が、大変に難解なものとみられてきたのは、何故でしょうか。それを知るには、やはり、「論語」の歩んできた歴史をみる必要があります。

 先王の教から孔子の儒教

 まず、「論語」は、儒教の最高の経典とみていいのですが、孔子自身は儒教という言葉を一度も言っていない。これは、儒教が孔子の時代から数百年も後の漢代の初期に成立したものですからです。(中略)

 宋時代を分岐点(朱子学が成立)として、先王の教であった孔子の教えである儒教にスッキリと形を整えていきました。このことを宋史の「道学伝」では、

 「故に曰く、(孔)夫子は堯舜よりも賢(まさ)ること遠し矣」

 と書いています。

 さらに、こうした儒教の教学上のことだけではなく、官吏登用試験である科挙のやりかたが「論語」をより、広く中国社会に根づかせることになりました。

 科挙の試験科目は四書と五経、それに詩をつくらせる詩賦と、策論の四種類。宋時代以降、その中で最も重んじられたのが四書ですが、ことに「論語」は問題が出しやすいこともあって科挙の最重要科目になりました。

それで、何をおいても「論語」だけは、十分に理解しておかなければ絶対に受からない、というので、子供の教育も、まず字の形をおぼえたら、すぐに「論語」を読ませるというようになっていったのです。

 以上が、まことに概略だけになりましたが、「論語」の中国の歴史で辿った歩みです。  

▼以上、二人の学者の説明で中国古典の読み方の参考になりました。

 「学」と言えば私は現代の学問を思いますが、孔子の時代は「礼」など想像することもできませんでした。宮崎先生に啓蒙させられました。それにしても内藤湖南先生が万巻の書を読まれたと何かで読んだことがあります。その中に、私の記憶では書籍の「前書き」「後記」に目を通しておられたことが印象に残っています。私が本を読む時には、これらはほとんど読まず、すぐに本文を読んでいます。これは反省しなければならないことです。「前書き」「後記」に著者が書きたいことが述べられているものだと思いますので、先ずこれらを読み、概要を知った上で本文を読むのがよいと思います。 平成十八年七月十九日

★参考:中国の古代思想家4
平成十八年七月二十九日


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『湖の伝説』を読みて



 新聞を読んでいると三岸節子と好太郎の記事に出会う。

 以前に読んだ画家の名前だったと思った。琵琶湖の余呉に関係があった記憶は残っていた。愛知県とかかれているとは。確かめるために本棚を探すと、梅原 猛『湖の伝説』―画家・三橋節子の愛と死―であった。三岸節子と三橋節子の一字違いの名前であった。

▼その本の表紙の裏に1977年1月4日と書かれていた。約30年昔、私はかなり熱心に読んだ記憶がよみがえってきた。表紙のカバーに「近江昔話花折峠」の絵が描かれている。その絵にこころ惹かれた。写真を見ればわかるでしょう。

 私の印象や感じたことを書いてみます。

 赤い着物を着た女性に視点が向く。三分の一くらいの幅の紺色の河とも大地とも思えるところに右肩をしたにして、その腕を左上に向け、仏像の手のひらに見られるように何かを受け取るようなかたちである。(右腕を肉腫で切断した)大きな左手を腹部に置き、左肩辺りは横向きであるが下半身は上向きかげん、ふっくらとした顔は上を向いているようでもあり左を向いているようでもある。両足も大きく踏みしめているように描かれている。画面の下にはいろいろな小さい可憐な花が咲いている。画面の右上には左側から右にのびて、弧をえがいて上にのびてどこまでも続く白い道と思われるものが描かれていて、そのうえにワイン色の着物を着ている子供が両手を高く挙げている。横たわっている女性をしっかりと見送っているような構図に、私には若い母親(一男一女の母親であった)が子供を残して旅立つときの思いと最期を見届けるかのように見送っている子供の気持ちが胸を詰まらせる。この絵を見ているだけで彼女の思いに、本を読むまでもないような気分にさせられて題目のフレーズになった。同時に「お釈迦様の涅槃図絵」を思った。自分でも説明しがたいのですが、こころの底からの声のよう・・・。

▼彼女の略歴は、昭和14年生まれ。36年、現、京都市立美術大学日本画科を卒業。48年、3月、左鎖骨腫瘊のため右腕切断手術。左手にて作品を描き出品をつづける。12月、2度目入院。49年、12月、3度目の入院。50年2月24日転移性肺腫瘊のため死去(35歳)。この絵は左手でかかれたものである。「こころ」を余すことなく無言ではあるが絵にすることにより表現している。私は絵の持つ力に圧倒された。
彼女の生き方などについて梅原 猛氏が詳しくかかれていますからお読みください。

▼私の中学同級生の一人が廣島高等学校(現広島大学)の生徒であったとき、大腿骨肉腫のため大学病院で左足切断手術。その後、松葉杖をつきながら通学していたが卒業を待たず死去した。今にして思う、彼が死去するまで明るく当時の高校生らしく勉学を続けた原動力はなんだったのだろうかと。

平成十八年六月十八日、2011/02/28再読。


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「忘れ」と「読書」


 忘れ物を含めて忘れることが多い。最近の私の例では、バスの中に手提げカバンを忘れて、家に帰って気づき、バス会社に電話すると保管されていた。

▼身に着けているものでさえ忘れる。以前にもホームページに書いたかもしれない?大学病院歯学部で治療を受けて、そのまま帰り、入れ歯をわすれているのに気づいた。学生さんがわざわざ家まで届けてくださった。

 また、ある日、病院での受診診日だと思いこみ、バスに乗り込み、たまたま手帳を見ると1日前であったので、気づいたバス停で降りて、折り返して帰り、翌日、あらためて受診に出かけるなどなど。

 自分ではこんなはずではなかったのにとおもっているのだが生理はいかんともなしがたしと。

▼岩波新書が出版されると、全部買い、読まれているほどの読書家の先輩(HJidesaburou.Kobayashi)との電話。「最近はボケ防止に本を読んでいるが、すぐに忘れてしまう」と、こぼされていた。

 本当に防止になるのだろうか?
 私も、少し堅苦しい古典を読んでいます。1回ざっと読み、2回目を読んでみますと、まったく初めて読んでいる感じがします。これでは、新刊の本を買うようなことをしなくても、手元の本棚にある本を読めば新刊書でなくても、本を読むのと同じではないかと。

 忘れることの効果はいろいろ言われています。読書についても年配者にとってはまんざらではなさそうだ。反面、研究者などにとっては好ましくないことであろう。然し彼らも所詮は人様であるから、記憶力の減退、忘れを避けることは出来ないでしょう。

▼インターネットで「ボケ防止と読書」を検索すると、本当に多くの人が自分の心がけを書かれている。それほど多くの人が(多くは年配の人だと想像)関心をもたれていると思える。
 これまでの私の読書はどちらかといえば、新知識をえることに力を入れていたようである。然し、今は、読書しているときを楽しんでいるようだ。理解できればそれでよし。理解できなければ次にまた読めばよしと。あまり記憶する気持ちはなく「こんな考え方もあるのだな! 人さまざまである」などと楽しんでいる。

平成十八年十月十三日


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立花隆『宇宙からの帰還』ー宇宙船と大鵬ー


宇宙体験の内的インパクトは、何人かの宇宙飛行士の人生を根底から変えてしまうほど大きなものがあった。宇宙体験のどこが、なぜ、それほど大きなインパクトを与えたかのか。宇宙体験は人間の意識をどう変えるのか。

そこのところを宇宙飛行士たちから直接聞いてみようと、一九八一年の八月から九月にかけてアメリカ各地をまわり、さまざまの生活を送っている元宇宙飛行士たち十二に取材してきた結果をまとめたのがこのレポート(『宇宙からの帰還』)である。P.36

▼この本の「むすび」を読むと、本書はここで終わる。はじめは、ここまで紹介した宇宙飛行士たちのさまざまな考えをあれこれ分析し、総括して、結論めいたものを付け加えようとおもっていた。

しかし、ここまでのところ何度か読み返しているうちに、そんなことはしないほうがよいと思うにいたった。ここで語られていることは、いずれも安易な総括をゆるさない、人間存在の本質、この世界の存在の本質(の認識)にかかわる問題である。そして、彼らの体験は、我々が想像力を働かせば頭の中でそれを追体験できるというような単純な体験ではない。彼らが強調しているように、それは人間の想像力をはるかに越えた、実体験した人のみがそれについて語りうるような体験である。そういう体験を持たない筆者が彼らを論評することは、いささか無謀というものだろう。と。

          立花隆『宇宙からの帰還』(中央公論社)昭和五十八年十二月十日二十一版

▼私はこの本を読み、『荘子』の鵬鯤(ほうこん)の物語と共に始まる「逊遥遊篇」をおもった。それは、以下のようなものである。

北の果(は)ての海に魚がいて、そのなを鯤(こん)という。鯤の大きささはいったい何千里あるか見当もつかない。ある時突然形が変わって鳥となった。そのなは鵬(ほう)という。鵬の背中は、これまたいったい何千里あるか見当もつかない。ふるいたって飛びあがると、その翼(つばさ)はまるで大空一ぱいに広がって雲のようである。この鳥は、海の荒れ狂うときになると、(その大風に乗って飛びあがり、)さて南の果ての海へ天翔る。南の果ての海とは天の池である。地(てんち)なり。

鵬が南の果ての海に移る時には、水に撃(うつ)つこと三千里、つむじかぜに羽ばたいて上ること九万里、六月の風に乗って天(あま)がけり去るのだと。

大鵬が九万里の上空から眺めた地上の世界の光景が説明されている。我々の住む地上の世界――野馬(かげろう)はためき、塵埃のたちこめ、生きとし生けるもの犇(ひしめ)きあって呼吸するこの地上の生活――の遥かなる高みにひろがる果てしなき天空のあの深くたたえた蒼(あお)さ、それは天空それ自体の色なのであろうか、それとも天と地との限りなき距(へだ)たりがそれを蒼く見せるのであろうが、今、大鵬が九万里の空の高みから逆に地上の世界を見下ろす時、この世界も亦蒼一色として遠くその眼下にひろがるであろう。地上の世界の矮小(わいしょう)さと雑多さとを超克するもの、それは大鵬の限りなき飛揚であり、その超克のみが、一切の地上的な差別と対立の姿を大いなる一に止揚するのである。

▼西暦前四世紀(現代の宇宙物理・工学では説明できない文明・文化の時代)に書かれた「大鵬」と二十世紀の宇宙船を比較するとき、西暦前四世紀その想像力のすさまじさをおもわずにいられません。二つの本を比較しながら読むと自分なりになにかが得られるとおもいました。

平成十八年十一月三日:「文化の日」に書之。

平成十八年十一月十一日


多くのことを親しく教えていただいている方の、6年前に読まれた感想と参考になる体験を追加いたします。私にも非常に参考になります。

『宇宙からの帰還』(立花 隆著 中公論社)を読んで H.10.05.01

 「地球の重力圏から脱出し、宇宙空間や月面から地球を眺めたとき、精神に異常なインパクトが与えられる。」宇宙的体験をすることにより、その後宇宙飛行士達は、NASAの勤めを辞め、特異な生活に入っている人が多い。ある人は、宗教家、ビジネスマン、政治家等になり、またある人は、精神に異常をきたしている。中でも、宗教家になっている人が多い。

 ただ一人で、暗黒の宇宙の中でぽっかりと浮かぶ宇宙のオアシス地球を眺めたとき、また自分から猛スピードで遠ざかって行く青く美しい聖なる地球の姿を眺めたとき、「自分が宇宙の中でどんな存在であり、自分とは何か?」と問わざるを得ない根本命題にとらわれると思われるが……。

 私も、この宇宙体験に似た体験をしたことがある。アメリカのデイズニーランドで仲間とはぐれ、間違って、ただ一人でスペースシャトル宇宙探検号に乗ってしまった時のことである。異国で暗黒の世界に、ただ一人投げ出された時の恐怖とふ安は言葉で言い尽せない。

▼宇宙空間で感じることは、その時の状況にもよるが、本人のライフヒストリーや思考傾向にもよると思われる。しかし、考えが次第に自分・人種・人類・地球・宇宙と広がり、そして神とのつながりに思い巡らされるようになるのは、当然であろう。

 人は、置かれている立場がより高くなり、総合的視野が増し、抽象度が高くなると、自己概念も自ずと変容をきたし、外的な諸状況に的確に対応出来るようになってくる。この事は、何事に置いてもあてはまると思われる。

 現在の自分の立場から離れ、別の立場から物事を眺めてみると、新しい発見がある。別の見方や考え方の中に創造性が宿っている。そうなると、全ては相対的かと思われるかもしれない。そうとばかりは言えない。なぜなら、宗教的根本原理は一義的に存在すると言ってもよい。例えば、「我れ思う故に我れ在り」「太陽は、東から昇り西に沈む」「生は死への近づきである」等、これらは閉じた系であり、論理的には矛盾がない。これらを基として、ふ死の体得・永遠のいのちの目覚めから宗教的教義が出来ていると思う。キリストにしても釈迦にしても孔子にしても根本原理は同じであろう。ただ、自分たちなりに自分たちの宗教的教義を展開しているに過ぎず、教義を導くその具体化の段階で、内容や方法において、その時どきその人々により、千変万化していると思われる。

 坐禅は、この千変万化の姿に振り迷わされることなく、根本に立ち返り、本来の自己(スピリチュアル・ワンネス)に目覚めるための一方策である。鋭く自己の内面に働きかけ、心身一如に到達できるまで生活を聖らかにすることである。
追加:スピリチュアル・ワンネスは大自然の摂理だと思います。
平成18年11月14日


17

「仕事の上手な仕方」


 ヒルティ著『幸福論 第一部』草間平作訳 (岩波文庫)1992年7月15日 第71刷発行

 仕事の上手な仕方 P.13

 仕事の上手な仕方は、あらゆる技術のなかでもっとも大切な技術である。というのは、この技術を一度正しく会得すれば、その他の一切の智的活動がきわめて容易になるからである。それなのに、正しい仕事の仕方を心得た人は、比較的少ないものだ。「労働」や「労働者」についておそらくこれまでになく盛んに論議される現代においてすら、実際にこの技術がいちじるしく進歩したとも普及したともみえない。むしろ反対に、できるだけ少なく働くか、あるいは生涯の短い時間だけ働いて、残りの人生を休息のうちに過ごそうというのが、一般の傾向である。

 それなら働きと休息とは、一見両立しない対立物のようにみえるが、果たしてそうであろうか。まず第一に、これを検討しなければならぬ。誰でもがすぐそうするように、勤労をたたえるだけでは、勤労の意欲はわくものではない。それどころか、勤労を厭う心が不幸にもこんなにひろまって、ほとんど近代的国民の一つの病気となって、誰もかれもが理屈の上では称賛される勤労から、実際にはできるだけ逃れようとするかぎり、社会状態の改善などは言うも無駄である。働きと休息とが対立物だとすれば、事実上、この社会の病気はとうていなおる見込みはないであろう。(中略)

 今日の社会ではまず第一に必要なことは、有益な仕事は、例外なく、すべての人々の心身の健康のために、従ってまた彼等の幸福のために、必要欠くべからざるものだ、という認識と經驗が広く世に普及することである。

 以上のことから必然に次のような結論が出てくる。すなわち、怠惰を業とする者はもはや優秀な「高い」階級とは認められず、その正体通りのもの、つまり、正しい処世の道を失った精神的にふ完全な、ふ健康な人間とみなすべきである。こうした考え方が一度、社会全体のゆるがぬ確信の表現の風習となって現れるならば、そのとき初めて、この地上にも、より良い時代が到来するであろう。それまでは世界は、一方の人たちの過大の労働と、他方の人々の過小の働きのために悩むのある。この両方は互いに因果をなして制約し合っているが、しかし、そのいずれかが真実のところ、より不幸であるかはなはだ疑問である。

 ところで、われわれのさらに疑問とするところは、この原則は、人類の数千年来の経験に基づくものであり、また、誰もが働いたり働かなかったりして毎日自分でそれをためしてみることができるし、その上、すべての宗教や哲学が常に教えることなのに、なぜそれが今なお広く世に行われないのか、ということである。たとえば、聖書を大いにありがたがっていながら、聖書にはさほど明らかに記されていない死刑をしごく熱心に弁護する一方、聖書のきわめて明白な命令にそむいて、もっとも全然働かないわけではないが、せいぜい一日くらい働いて、あとの六日は貴夫人業である怠惰のうちに日を送って、ふ思議なほど平気でいられる数千人の「貴夫人」があるのは、なぜだろうか。こういうことになるのは、おもに労働の分配と処理とが適当でないからで、そのために労働はしばしば、まったくの重荷となるのである。そこで、われわれはいま本論の主題にかえることになる。

 さて、なんらかの仕事がぜひとも必要だという原理がよく納得できて、しかし、やろうとすると妙に故障が起るがそれさえなければ、喜んで仕事にかかりたいという人たちのために、いま初めて、ある教訓を与えることが出来るのである。

参考:ヒルティ

*カール・ヒルティは一八三三年、スイスで生まれた。一八九一年、この本は出版された。約百二十年前であるが、「勤労を厭う心が不幸にもこんなにひろまって、ほとんど近代的国民の一つの病気となっても、誰もかれもが理屈の上では称賛される勤労から、実際にはできるだけ逃れようとするかぎり、社会状態の改善などは言うも無駄である。」との記述は、当時のスイスと現在日本の社会の情勢の背景の違いはそれぞれあると思うが現在の若者に「NEET」があることとなぜか結びついてくる。

ヒルティの著作には『眠れぬ夜のために 第一部 第二部』があります、今後、私の生活に役立つ言葉に出会いましたら、適宜掲載します。
平成19年3月18日


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「弟子」


▼中島敦『弟子』

     一

 魯《ろ》の卞《べん》の游侠《ゆうきょう》の徒、仲由《ちゅうゆう》、字《あざな》は子路という者が、近頃《ちかごろ》賢者《けんじゃ》の噂《うわさ》も高い学匠《がくしょう》・陬人《すうひと》孔丘《こうきゅう》を辱《はずか》しめてくれようものと思い立った。似而非《えせ》賢者|何程《なにほど》のことやあらんと、蓬頭突鬢《ほうとうとつびん》・垂冠《すいかん》・短後《たんこう》の衣という服装《いでたち》で、左手に雄雞《おんどり》、右手に牡豚《おすぶた》を引提げ、勢《いきおい》猛《もう》に、孔丘が家を指して出掛《でか》ける。雞を揺《ゆ》り豚を奮《ふる》い、嗷《かまびす》しい脣吻《しんぷん》の音をもって、儒家《じゅか》の絃歌講誦《げんかこうしょう》の声を擾《みだ》そうというのである。

 けたたましい動物の叫《さけ》びと共に眼《め》を瞋《いか》らして跳《と》び込《こ》んで来た青年と、圜冠句履《えんかんこうり》緩《ゆる》く玦《けつ》を帯びて几《き》に凭《よ》った温顔の孔子との間に、問答が始まる。

 「汝《なんじ》、何をか好む?」と孔子が聞く。

 「我、長剣《ちょうけん》を好む。」と青年は昂然《こうぜん》として言い放つ。

 孔子は思わずニコリとした。青年の声や態度の中に、余りに稚気《ちき》満々たる誇負《こふ》を見たからである。血色のいい・眉《まゆ》の太い・眼のはっきりした・見るからに精悍《せいかん》そうな青年の顔には、しかし、どこか、愛すべき素直さがおのずと現れているように思われる。再び孔子が聞く。

「学はすなわちいかん?」

 「学、豈《あに》、益あらんや。」もともとこれを言うのが目的なのだから、子路は勢込んで怒鳴《どな》るように答える。

 学の権威《けんい》について云々《うんぬん》されては微笑《わら》ってばかりもいられない。孔子は諄々《じゅんじゅん》として学の必要を説き始める。人君《じんくん》にして諫臣《かんしん》が無ければ正《せい》を失い、士にして教友が無ければ聴《ちょう》を失う。樹《き》も縄《なわ》を受けて始めて直くなるのではないか。馬に策《むち》が、弓に檠《けい》が必要なように、人にも、その放恣《ほうし》な性情を矯《た》める教学が、どうして必要でなかろうぞ。匡《ただ》し理《おさ》め磨《みが》いて、始めてものは有用の材となるのだ。

 後世に残された語録の字面《じづら》などからは到底《とうてい》想像も出来ぬ・極めて説得的な弁舌を孔子は有《も》っていた。言葉の内容ばかりでなく、その穏《おだや》かな音声・抑揚《よくよう》の中にも、それを語る時の極めて確信に充《み》ちた態度の中にも、どうしても聴者を説得せずにはおかないものがある。青年の態度からは次第に反抗《はんこう》の色が消えて、ようやく謹聴《きんちょう》の様子に変って来る。

「しかし」と、それでも子路はなお逆襲《ぎゃくしゅう》する気力を失わない。南山の竹は揉《た》めずして自ら直く、斬《き》ってこれを用うれば犀革《さいかく》の厚きをも通すと聞いている。して見れば、天性優れたる者にとって、何の学ぶ必要があろうか?

 孔子にとって、こんな幼稚な譬喩《ひゆ》を打破るほどたやすい事はない。汝の云《い》うその南山の竹に矢の羽をつけ鏃《やじり》を付けてこれを礪《みが》いたならば、ただに犀革を通すのみではあるまいに、と孔子に言われた時、愛すべき単純な若者は返す言葉に窮《きゅう》したは底本では「窮《きゅう》しし」。顔を赧《あか》らめ、しばらく孔子の前に突立《つった》ったまま何か考えている様子だったが、急に?と豚とを抛《ほう》り出し、頭を低《た》れて、「謹《つつ》しんで教を受けん。」と降参した。単に言葉に窮したためではない。実は、室に入って孔子の容《すがた》を見、その最初の一言を聞いた時、直ちに雞豚《けいとん》の場違《ばちが》いであることを感じ、己《おのれ》と余りにも懸絶《けんぜつ》した相手の大きさに圧倒《あっとう》されていたのである。

 即日《そくじつ》、子路は師弟の礼を執《と》って孔子の門に入った。

     二

 このような人間を、子路は見たことがない。力|千鈞《せんきん》の鼎《かなえ》を挙げる勇者を彼《かれ》は見たことがある。明《めい》千里の外を察する智者《ちしゃ》の話も聞いたことがある。しかし、孔子に在るものは、決してそんな怪物《かいぶつ》めいた異常さではない。ただ最も常識的な完成に過ぎないのである。知情意のおのおのから肉体的の諸能力に至るまで、実に平凡《へいぼん》に、しかし実に伸《の》び伸びと発達した見事さである。一つ一つの能力の優秀《ゆうしゅう》さが全然目立たないほど、過ふ及《かふきゅう》無く均衡《きんこう》のとれた豊かさは、子路にとって正《まさ》しく初めて見る所のものであった。闊達《かったつ》自在、いささかの道学者|臭《しゅう》も無いのに子路は驚《おどろ》く。この人は苦労人だなとすぐに子路は感じた。可笑《おか》しいことに、子路の誇《ほこ》る武芸や膂力《りょりょく》においてさえ孔子の方が上なのである。ただそれを平生《へいぜい》用いないだけのことだ。侠者子路はまずこの点で度胆《どぎも》を抜《ぬ》かれた。放蕩無頼《ほうとうぶらい》の生活にも経験があるのではないかと思われる位、あらゆる人間への鋭《するど》い心理的|洞察《どうさつ》がある。そういう一面から、また一方、極めて高く汚《けが》れないその理想主義に至るまでの幅《はば》の広さを考えると、子路はウーンと心の底から呻《うな》らずにはいられない。とにかく、この人はどこへ持って行っても大丈夫な人だ。潔癖《けっぺき》な倫理的《りんりてき》な見方からしても大丈夫《だいじょうぶ》だし、最も世俗的な意味から云《い》っても大丈夫だ。子路が今までに会った人間の偉《えら》さは、どれも皆《みな》その利用価値の中に在った。これこれの役に立つから偉いというに過ぎない。孔子の場合は全然違う。ただそこに孔子という人間が存在するというだけで充分《じゅうぶん》なのだ。少くとも子路には、そう思えた。彼はすっかり心酔《しんすい》してしまった。門に入っていまだ一月ならずして、もはや、この精神的支柱から離《はな》れ得ない自分を感じていた。

 後年の孔子の長い放浪《ほうろう》の艱苦《かんく》を通じて、子路ほど欣然《きんぜん》として従った者は無い。それは、孔子の弟子たることによって仕官の途《みち》を求めようとするのでもなく、また、滑稽《こっけい》なことに、師の傍に在って己の才徳を磨こうとするのでさえもなかった。死に至るまで渝《かわ》らなかった・極端《きょくたん》に求むる所の無い・純粋《じゅんすい》な敬愛の情だけが、この男を師の傍に引留めたのである。かつて長剣を手離せなかったように、子路は今は何としてもこの人から離れられなくなっていた。

 その時、四十而不惑《しじゅうにしてまどわず》といった・その四十|歳《さい》に孔子はまだ達していなかった。子路よりわずか九歳の年長に過ぎないのだが、子路はその年齢《ねんれい》の差をほとんど無限の距離《きょり》に感じていた。

 孔子は孔子で、この弟子の際立った馴《な》らし難さに驚いている。単に勇を好むとか柔《じゅう》を嫌《きら》うとかいうならば幾《いく》らでも類はあるが、この弟子ほどものの形を軽蔑《けいべつ》する男も珍《めずら》しい。究極は精神に帰すると云いじょう、礼なるものはすべて形から入らねばならぬのに、子路という男は、その形からはいって行くという筋道を容易に受けつけないのである。「礼と云い礼と云う。玉帛《ぎょくはく》を云わんや。楽《がく》と云い楽と云う。鐘鼓《しょうこ》を云わんや。」などというと大いに欣《よろこ》んで聞いているが、曲礼《きょくれい》の細則を説く段になるとにわかに詰《つ》まらなさそうな顔をする。形式主義への・この本能的|忌避《きひ》と闘《たたか》ってこの男に礼楽を教えるのは、孔子にとってもなかなかの難事であった。が、それ以上に、これを習うことが子路にとっての難事業であった。子路が頼《たよ》るのは孔子という人間の厚みだけである。その厚みが、日常の区々たる細行の集積であるとは、子路には考えられない。本《もと》があって始めて末が生ずるのだと彼は言う。しかしその本《もと》をいかにして養うかについての実際的な考慮《こうりょ》が足りないとて、いつも孔子に叱《しか》られるのである。彼が孔子に心ぷくするのは一つのこと。彼が孔子の感化を直ちに受けつけたかどうかは、また別の事に属する。

 上智と下愚《かぐ》は移り難いと言った時、孔子は子路のことを考えに入れていなかった。欠点だらけではあっても、子路を下愚とは孔子も考えない。孔子はこの剽悍《ひょうかん》な弟子の無類の美点を誰《だれ》よりも高く買っている。それはこの男の純粋な没利害性のことだ。この種の美しさは、この国の人々の間に在っては余りにも稀《まれ》なので、子路のこの傾向《けいこう》は、孔子以外の誰からも徳としては認められない。むしろ一種のふ可解な愚《おろ》かさとして映るに過ぎないのである。しかし、子路の勇も政治的才幹も、この珍しい愚かさに比べれば、ものの数でないことを、孔子だけは良く知っていた。

 師の言に従って己《おのれ》を抑《おさ》え、とにもかくにも形に就こうとしたのは、親に対する態度においてであった。孔子の門に入って以来、乱暴者の子路が急に親孝行になったという親戚《しんせき》中の評判である。褒《ほ》められて子路は変な気がした。親孝行どころか、嘘《うそ》ばかりついているような気がして仕方が無いからである。我儘《わがまま》を云って親を手古摺《てこず》らせていた頃《ころ》の方が、どう考えても正直だったのだ。今の自分の偽《いつわ》りに喜ばされている親達が少々情無くも思われる。こまかい心理|分析家《ぶんせきか》ではないけれども、極めて正直な人間だったので、こんな事にも気が付くのである。ずっと後年になって、ある時|突然《とつぜん》、親の老いたことに気が付き、己の幼かった頃の両親の元気な姿を思出したら、急に泪《なみだ》が出て来た。その時以来、子路の親孝行は無類の献身的《けんしんてき》なものとなるのだが、とにかく、それまでの彼の俄《にわ》か孝行はこんな工合《ぐあい》であった。

     三

 ある日子路が街を歩いて行くと、かつての友人の二三に出会った。無頼とは云えぬまでも放縦《ほうじゅう》にして拘《こだ》わる所の無い游侠の徒である。子路は立止ってしばらく話した。その中《うち》に彼|等《ら》の一人が子路の服装《ふくそう》をじろじろ見廻《みまわ》し、やあ、これが儒服という奴《やつ》か? 随分《ずいぶん》みすぼらしいなりだな、と言った。長剣が恋《こい》しくはないかい、とも言った。子路が相手にしないでいると、今度は聞捨《ききずて》のならぬことを言出した。どうだい。あの孔丘という先生はなかなかの喰《く》わせものだって云うじゃないか。しかつめらしい顔をして心にもない事を誠しやかに説いていると、えらく甘《あま》い汁《しる》が吸えるものと見えるなあ。別に悪意がある訳ではなく、心安立《こころやすだ》てからのいつもの毒舌だったが、子路は顔色を変えた。いきなりその男の胸倉《むなぐら》を掴《つか》み、右手の拳《こぶし》をしたたか横面《よこつら》に飛ばした。二つ三つ続け様に喰《くら》わしてから手を離すと、相手は意気地なく倒《たお》れた。呆気《あっけ》に取られている他の連中に向っても子路は挑戦的《ちょうせんてき》な眼を向けたが、子路の剛勇《ごうゆう》を知る彼等は向って来ようともしない。殴《なぐ》られた男を左右から扶《たす》け起し、捨台詞《すてぜりふ》一つ残さずにこそこそと立去った。

 いつかこの事が孔子の耳に入ったものと見える。子路が呼ばれて師の前に出て行った時、直接には触《ふ》れないながら、次のようなことを聞かされねばならなかった。古《いにしえ》の君子は忠をもって質となし仁をもって衛となした。ふ善ある時はすなわち忠をもってこれを化し、侵暴《しんぼう》ある時はすなわち仁をもってこれを固うした。腕力《わんりょく》の必要を見ぬゆえんである。とかく小人はふ遜《ふそん》をもって勇と見做《みな》し勝ちだが、君子の勇とは義を立つることの謂《いい》である云々。神妙に子路は聞いていた。

 数日後、子路がまた街を歩いていると、往来の木蔭《こかげ》で閑人達《かんじんたち》の盛《さか》んに弁じている声が耳に入った。それがどうやら孔子の噂のようである。――昔《むかし》、昔、と何でも古《いにしえ》を担《かつ》ぎ出して今を貶《おと》す。誰も昔を見たことがないのだから何とでも言える訳さ。しかし昔の道を杓子定規《しゃくしじょうぎ》にそのまま履《ふ》んで、それで巧《うま》く世が治まるくらいなら、誰も苦労はしないよ。俺《おれ》達にとっては、死んだ周公よりも生ける陽虎様《ようこさま》の方が偉いということになるのさ。

 下剋上《げこくじょう》の世であった。政治の実権が魯侯《ろこう》からその大夫たる季孫氏《きそんし》の手に移り、それが今や更《さら》に季孫氏の臣たる陽虎という野心家の手に移ろうとしている。しゃべっている当人はあるいは陽虎の身内の者かも知れない。

 ――ところで、その陽虎様がこの間から孔丘を用いようと何度も迎《むか》えを出されたのに、何と、孔丘の方からそれを避《さ》けているというじゃないか。口では大層な事を言っていても、実際の生きた政治にはまるで自信が無いのだろうよ。あの手合《てあい》はね。

 子路は背後《うしろ》から人々を分けて、つかつかと弁者の前に進み出た。人々は彼が孔門の徒であることをすぐに認めた。今まで得々と弁じ立てていた当の老人は、顔色を失い、意味も無く子路の前に頭を下げてから人垣《ひとがき》の背後に身を隠《かく》した。眥《まなじり》を決した子路の形相《ぎょうそう》が余りにすさまじかったのであろう。

 その後しばらく、同じような事が処々で起った。肩《かた》を怒《いか》らせ炯々《けいけい》と眼を光らせた子路の姿が遠くから見え出すと、人々は孔子を刺《そし》る口を噤《つぐ》むようになった。

 子路はこの事で度々師に叱られるが、自分でもどうしようもない。彼は彼なりに心の中では言分《いいぶん》が無いでもない。いわゆる君子なるものが俺と同じ強さの忿怒《ふんぬ》を感じてなおかつそれを抑え得るのだったら、そりゃ偉い。しかし、実際は、俺ほど強く怒りを感じやしないんだ。少くとも、抑え得る程度に弱くしか感じていないのだ。きっと…………。

 一年ほど経《た》ってから孔子が苦笑と共に嘆《たん》じた。由《ゆう》が門に入ってから自分は悪言を耳にしなくなったと。

     四

 ある時、子路が一室で瑟《しつ》を鼓《こ》していた。

 孔子はそれを別室で聞いていたが、しばらくして傍《かたわ》らなる冉有《ぜんゆう》に向って言った。あの瑟の音を聞くがよい。暴厲《ぼうれい》の気がおのずから漲《みなぎ》っているではないか。君子の音は温柔《おんじゅう》にして中《ちゅう》におり、生育の気を養うものでなければならぬ。昔|舜《しゅん》は五絃琴《ごげんきん》を弾《だん》じて南風の詩を作った。南風の薫《くん》ずるやもって我が民の慍《いかり》を解くべし。南風の時なるやもって我が民の財を阜《おおい》にすべしと。今|由《ゆう》の音を聞くに、誠に殺伐激越《さつばつげきえつ》、南音に非《あら》ずして北声に類するものだ。弾者の荒怠暴恣《こうたいぼうし》の心状をこれほど明らかに映し出したものはない。――

 後、冉有が子路の所へ行って夫子《ふうし》の言葉を告げた。

 子路は元々自分に楽才の乏《とぼ》しいことを知っている。そして自らそれを耳と手のせいに帰していた。しかし、それが実はもっと深い精神の持ち方から来ているのだと聞かされた時、彼は愕然《がくぜん》として懼《おそ》れた。大切なのは手の習練ではない。もっと深く考えねばならぬ。彼は一室に閉《と》じ籠《こも》り、静思して喰《くら》わず、もって骨立《こつりつ》するに至った。数日の後、ようやく思い得たと信じて、再び瑟を執った。そうして、極めて恐《おそ》る恐る弾じた。その音を洩《も》れ聞いた孔子は、今度は別に何も言わなかった。咎《とが》めるような顔色も見えない。子貢《しこう》が子路の所へ行ってそのむねを告げた。師の咎が無かったと聞いて子路は嬉《うれ》しげに笑った。

 人の良い兄弟子の嬉しそうな笑顔《えがお》を見て、若い子貢も微笑を禁じ得ない。聡明《そうめい》な子貢はちゃんと知っている。子路の奏《かな》でる音が依然《いぜん》として殺伐な北声に満ちていることを。そうして、夫子がそれを咎めたまわぬのは、痩《や》せ細るまで苦しんで考え込んだ子路の一本気を愊《あわれ》まれたために過ぎないことを。

     五

 弟子の中で、子路ほど孔子に叱られる者は無い。子路ほど遠慮《えんりょ》なく師に反問する者もない「請《こ》う。古の道を釈《す》てて由《ゆう》の意を行わん。可ならんか。」などと、叱られるに決っていることを聞いてみたり、孔子に面と向ってずけずけと「これある哉《かな》。子の迂《う》なるや!」などと言ってのける人間は他に誰もいない。それでいて、また、子路ほど全身的に孔子に凭《よ》り掛かっている者もないのである。どしどし問返すのは、心から紊得《なっとく》出来ないものを表面《うわべ》だけ諾《うべな》うことの出来ぬ性分だからだ。また、他の弟子達のように、嗤《わら》われまい叱られまいと気を遣《つか》わないからである。

 子路が他の所ではあくまで人の下風に立つを潔しとしない独立|ふ羈《ふき》の男であり、一諾千金《いちだくせんきん》の快男児であるだけに、碌々《ろくろく》たる凡弟子然《ぼんていしぜん》として孔子の前に侍《はんべ》っている姿は、人々に確かに奇異《きい》な感じを与《あた》えた。事実、彼には、孔子の前にいる時だけは複雑な思索《しさく》や重要な判断は一切《いっさい》師に任せてしまって自分は安心しきっているような滑稽《こっけい》な傾向も無いではない。母親の前では自分に出来る事までも、してもらっている幼児と同じような工合である。退いて考えてみて、自ら苦笑することがある位だ。

 だが、これほどの師にもなお触れることを許さぬ胸中の奥所がある。ここばかりは譲《ゆず》れないというぎりぎり結著の所が。

 すなわち、子路にとって、この世に一つの大事なものがある。そのものの前には死生も論ずるに足りず、いわんや、区々たる利害のごとき、問題にはならない。侠といえばやや軽すぎる。信といい義というと、どうも道学者流で自由な躍動《やくどう》の気に欠ける憾《うら》みがある。そんな名前はどうでもいい。子路にとって、それは快感の一種のようなものである。とにかく、それの感じられるものが善きことであり、それの伴《ともな》わないものが悪《あ》しきことだ。極めてはっきりしていて、いまだかつてこれに疑を感じたことがない。孔子の云う仁とはかなり開きがあるのだが、子路は師の教の中から、この単純な倫理観を補強するようなものばかりを選んで摂《と》り入れる。巧言令色足恭《コウゲンレイショクスウキョウ》、怨《ウラミ》ヲ匿《カク》シテ其《ソ》ノ人ヲ友トスルハ、丘|之《コレ》ヲ恥《ハ》ヅ とか、生ヲ求メテ以《モッ》テ仁ヲ害スルナク身ヲ殺シテ以テ仁ヲ成スアリ とか、狂者ハ進ンデ取リ狷者《ケンジャ》ハ為《ナ》サザル所アリ とかいうのが、それだ。孔子も初めはこの角《つの》を矯《た》めようとしないではなかったが、後には諦《あきら》めて止《や》めてしまった。とにかく、これはこれで一|匹《ぴき》の見事な牛には違いないのだから。策《むち》を必要とする弟子もあれば、手綱《たづな》を必要とする弟子もある。容易な手綱では抑えられそうもない子路の性格的欠点が、実は同時にかえって大いに用うるに足るものであることを知り、子路には大体の方向の指示さえ与えればよいのだと考えていた。敬ニシテ礼ニ中ラザルヲ野トイヒ、勇ニシテ礼ニ中ラザルヲ逆トイフとか、信ヲ好ンデ学ヲ好マザレバソノ蔽《ヘイ》ヤ賊《ゾク》、直ヲ好ンデ学ヲ好マザレバソノ蔽ヤ絞《カウ》 などというのも、結局は、個人としての子路に対してよりも、いわば塾頭格《じゅくとうかく》としての子路に向っての叱言《こごと》である場合が多かった。子路という特殊な個人に在ってはかえって魅力《みりょく》となり得るものが、他の門生|一般《いっぱん》についてはおおむね害となることが多いからである。

     六

 晋《しん》の魏楡《きゆ》の地で石がものを言ったという。民の怨嗟《えんさ》の声が石を仮りて発したのであろうと、ある賢者が解した。既《すで》に衰微《すいび》した周室は更に二つに分れて争っている。十に余る大国はそれぞれ相結び相闘って干戈《かんか》の止む時が無い。斉侯《せいこう》の一人は臣下の妻に通じて夜ごとその邸《やしき》に忍《しの》んで来る中についにその夫に弑《しい》せられてしまう。楚《そ》では王族の一人が病臥《びょうが》中の王の頸《くび》をしめて位を奪《うば》う。呉《ご》では足頸を斬取《きりと》られた罪人共が王を襲《おそ》い、晋では二人の臣が互《たが》いに妻を交換《こうかん》し合う。このような世の中であった。

 魯の昭公は上卿《じょうけい》季平子《きへいし》を討とうとしてかえって国を逐《お》われ、亡命七年にして他国で窮死《きゅうし》する。亡命中帰国の話がととのいかかっても、昭公に従った臣下共が帰国後の己《おのれ》の運命を案じ公を引留めて帰らせない。魯の国は季孫・叔孫《しゅくそん》・孟孫《もうそん》三氏の天下から、更に季氏の宰《さい》・陽虎の恣《ほしいまま》な手に操られて行く。

 ところが、その策士陽虎が結局己の策に倒れて失脚《しっきゃく》してから、急にこの国の政界の風向きが変った。思いがけなく孔子が中都の宰として用いられることになる。公平無私な官吏《かんり》や苛斂誅求《かれんちゅうきゅう》を事とせぬ政治家の皆無《かいむ》だった当時のこととて、孔子の公正な方針と周到な計画とはごく短い期間に驚異的《きょういてき》な治績を挙げた。すっかり驚嘆《きょうたん》した主君の定公が問うた。汝の中都を治めし所の法をもって魯国を治むればすなわちいかん?

 孔子が答えて言う。何ぞ但《ただ》魯国のみならんや。天下を治むるといえども可ならんか。およそ法螺《ほら》とは縁《えん》の遠い孔子がすこぶる恭《うやうや》しい調子で澄《す》ましてこうした壮語を弄《ろう》したので、定公はますます驚いた。彼は直ちに孔子を司空に挙げ、続いて大司寇《だいしこう》に進めて宰相《さいしょう》の事をも兼《か》ね摂《と》らせた。孔子の推挙で子路は魯国の内閣書記官長とも言うべき季氏の宰となる。孔子の内政改革案の実行者として真先《まっさき》に活動したことは言うまでもない。

 孔子の政策の第一は中央集権すなわち魯侯の権力強化である。このためには、現在魯侯よりも勢力を有《も》つ季・叔・孟・三|桓《かん》の力を削《そ》がねばならぬ。三氏の私城にして百雉《ひゃくち》(厚さ三|丈《じょう》、高さ一丈)を超《こ》えるものに郈《こう》・費《ひ》・成《せい》の三地がある。まずこれ等を毀《こぼ》つことに孔子は決め、その実行に直接当ったのが子路であった。

 自分の仕事の結果がすぐにはっきりと現れて来る、しかも今までの経験には無かったほどの大きい規模で現れて来ることは、子路のような人間にとって確かに愉快《ゆかい》に違いなかった。殊《こと》に、既成《きせい》政治家の張り廻《めぐ》らした奸悪《かんあく》な組織や習慣を一つ一つ破砕《はさい》して行くことは、子路に、今まで知らなかった一種の生甲斐《いきがい》を感じさせる。多年の抱負《ほうふ》の実現に生々《いきいき》と忙《いそが》しげな孔子の顔を見るのも、さすがに嬉《うれ》しい。孔子の目にも、弟子の一人としてではなく一個の実行力ある政治家としての子路の姿が頼《たの》もしいものに映った。

 費の城を毀《こわ》しに掛かった時、それに反抗して公山ふ狃《こうざんふちゅう》という者が費人を率い魯の都を襲うた。武子台に難を避けた定公の身辺にまで叛軍《はんぐん》の矢が及《およ》ぶほど、一時は危かったが、孔子の適切な判断と指揮とによって纔《わず》かに事無きを得た。子路はまた改めて師の実際家的|手腕《しゅわん》に敬服する。孔子の政治家としての手腕は良く知っているし、またその個人的な膂力の強さも知ってはいたが、実際の戦闘に際してこれほどの鮮《あざ》やかな指揮ぶりを見せようとは思いがけなかったのである。もちろん、子路自身もこの時は真先に立って奮い戦った。久しぶりに揮《ふる》う長剣の味も、まんざら棄《す》てたものではない。とにかく、経書の字句をほじくったり古礼を習うたりするよりも、粗《あら》い現実の面と取組み合って生きて行く方が、この男の性に合っているようである。

 斉との間の屈辱的《くつじょくてき》媾和《こうわ》のために、定公が孔子を随《したが》えて斉の景公と夾谷《きょうこく》の地に会したことがある。その時孔子は斉の無礼を咎《とが》めて、景公始め群卿諸大夫を頭ごなしに叱咤《しった》した。戦勝国たるはずの斉の君臣一同ことごとく顫《ふる》え上ったとある。子路をして心からの快哉《かいさい》を叫ばしめるに充分な出来事ではあったが、この時以来、強国斉は、隣国《りんこく》の宰相としての孔子の存在に、あるいは孔子の施政《しせい》の下《もと》に充実して行く魯の国力に、懼《おそれ》を抱《いだ》き始めた。苦心の結果、誠にいかにも古代|支那《しな》式な苦肉の策が採られた。すなわち、斉から魯へ贈《おく》るに、歌舞《かぶ》に長じた美女の一団をもってしたのである。こうして魯侯の心を蕩《とろ》かし定公と孔子との間を離間《りかん》しようとしたのだ。ところで、更に古代支那式なのは、この幼稚な策が、魯国内反孔子派の策動と相《あい》俟《ま》って、余りにも速く効を奏したことである。魯侯は女楽に耽《ふけ》ってもはや朝《ちょう》に出なくなった。季桓子《きかんし》以下の大官連もこれに倣《なら》い出す。子路は真先に憤慨《ふんがい》して衝突《しょうとつ》し、官を辞した。孔子は子路ほど早く見切をつけず、なお尽《つ》くせるだけの手段を尽くそうとする。子路は孔子に早く辞《や》めてもらいたくて仕方が無い。師が臣節を汚《けが》すのを懼れるのではなく、ただこの淫《みだ》らな雰囲気《ふんいき》の中に師を置いて眺《なが》めるのが堪《たま》らないのである。

 孔子の粘《ねば》り強さもついに諦めねばならなくなった時、子路はほっとした。そうして、師に従って欣《よろこ》んで魯の国を立退《たちの》いた。

 作曲家でもあり作詞家でもあった孔子は、次第に遠離《とおざか》り行く都城を顧《かえり》みながら、歌う。

 かの美婦の口には君子ももって出走すべし。かの美婦の謁《えつ》には君子ももって死敗すべし。…………

 かくて、爾後《じご》永年に亘《わた》る孔子の遍歴《へんれき》が始まる。

     七

 大きな疑問が一つある。子供の時からの疑問なのだが、成人になっても老人になりかかってもいまだに紊得できないことに変りはない。それは、誰もが一向に怪《あや》しもうとしない事柄《ことがら》だ。邪《じゃ》が栄えて正が虐《しいた》げられるという・ありきたりの事実についてである。

 この事実にぶつかるごとに、子路は心からの悲憤《ひふん》を発しないではいられない。なぜだ? なぜそうなのだ? 悪は一時栄えても結局はその酬《むくい》を受けると人は云う。なるほどそういう例もあるかも知れぬ。しかし、それも人間というものが結局は破滅《はめつ》に終るという一般的な場合の一例なのではないか。善人が究極の勝利を得たなどという例《ためし》は、遠い昔は知らず、今の世ではほとんど聞いたことさえ無い。なぜだ? なぜだ? 大きな子供・子路にとって、こればかりは幾ら憤慨しても憤慨し足りないのだ。彼は地団駄《じだんだ》を踏《ふ》む思いで、天とは何だと考える。天は何を見ているのだ。そのような運命を作り上げるのが天なら、自分は天に反抗《はんこう》しないではいられない。天は人間と獣《けもの》との間に区別を設けないと同じく、善と悪との間にも差別を立てないのか。正とか邪とかは畢竟《ひっきょう》人間の間だけの仮の取決《とりきめ》に過ぎないのか? 子路がこの問題で孔子の所へ聞きに行くと、いつも決って、人間の幸福というものの真の在り方について説き聞かせられるだけだ。善をなすことの報《むくい》は、では結局、善をなしたという満足の外には無いのか? 師の前では一応紊得したような気になるのだが、さて退いて独りになって考えてみると、やはりどうしても釈然としない所が残る。そんな無理に解釈してみたあげくの幸福なんかでは承知出来ない。誰が見ても文句の無い・はっきりした形の善報が義人の上に来るのでなくては、どうしても面白くないのである。

 天についてのこの不満を、彼は何よりも師の運命について感じる。ほとんど人間とは思えないこの大才、大徳が、なぜこうしたふ遇《ふぐう》に甘んじなければならぬのか。家庭的にも恵《めぐ》まれず、年老いてから放浪の旅に出なければならぬようなふ運が、どうしてこの人を待たねばならぬのか。一夜、「鳳鳥《ほうちょう》至らず。河、図《と》を出さず。已《や》んぬるかな。」と独言に孔子が呟《つぶや》くのを聞いた時、子路は思わず涙《なみだ》の溢《あふ》れて来るのを禁じ得なかった。孔子が嘆じたのは天下|蒼生《そうせい》のためだったが、子路の泣いたのは天下のためではなく孔子一人のためである。

 この人と、この人を竢《ま》つ時世とを見て泣いた時から、子路の心は決っている。濁世《だくせ》のあるゆる侵害《しんがい》からこの人を守る楯《たて》となること。精神的には導かれ守られる代りに、世俗的な煩労《はんろう》汚辱《おじょく》を一切|己《おの》が身に引受けること。僭越《せんえつ》ながらこれが自分の務《つとめ》だと思う。学も才も自分は後学の諸才人に劣《おと》るかも知れぬ。しかし、いったん事ある場合真先に夫子のために生命を抛《なげう》って顧みぬのは誰よりも自分だと、彼は自ら深く信じていた。

     八

「ここに美玉あり。匱《ひつ》に韞《おさ》めて蔵《かく》さんか。善賈《ぜんか》を求めて沽《う》らんか。」と子貢が言った時、孔子は即座《そくざ》に、「これを沽らん哉《かな》。これを沽らん哉。我は賈《あたい》を待つものなり。」と答えた。

 そういうつもりで孔子は天下周遊の旅に出たのである。随った弟子達も大部分はもちろん沽りたいのだが、子路は必ずしも沽ろうとは思わない。権力の地位に在って所信を断行する快さは既に先頃の経験で知ってはいるが、それには孔子を上に戴《いただ》くといった風な特別な条件が絶対に必要である。それが出来ないなら、むしろ、「褐《かつ》(粗衣《そい》)を被《き》て玉を懐《いだ》く」という生き方が好ましい。生涯《しょうがい》孔子の番犬に終ろうとも、いささかの悔《くい》も無い。世俗的な虚栄心《きょえいしん》が無い訳ではないが、なまじいの仕官はかえって己《おのれ》の本領たる磊落《らいらく》闊達を害するものだと思っている。

 様々な連中が孔子に従って歩いた。てきぱきした実務家の冉有《ぜんゆう》。温厚の長者|閔子騫《びんしけん》。穿鑿《せんさく》好きな故実家の子夏《しか》。いささか詭弁派的《きべんはてき》な享受家《きょうじゅか》宰予《さいよ》。気骨《きこつ》稜々《りょうりょう》たる慷慨家《こうがいか》の公良孺《こうりょうじゅ》。身長《みのたけ》九尺六寸といわれる長人孔子の半分位しかない短矮《たんわい》な愚直者《ぐちょくしゃ》子羔《しこう》。年齢から云っても貫禄《かんろく》から云っても、もちろん子路が彼等の宰領格《さいりょうかく》である。

 子路より二十二歳も年下ではあったが、子貢という青年は誠に際立った才人である。孔子がいつも口を極めて賞《ほ》める顔回《がんかい》よりも、むしろ子貢の方を子路は推したい気持であった。孔子からその強靱《きょうじん》な生活力と、またその政治性とを抜き去ったような顔回という若者を、子路は余り好まない。それは決して嫉妬《しっと》ではない。(子貢《しこう》子張輩《しちょうはい》は、顔淵《がんえん》に対する・師の桁外《けたはず》れの打込み方に、どうしてもこの感情を禁じ得ないらしいが。)子路は年齢が違い過ぎてもいるし、それに元来そんな事に拘《こだ》わらぬ性《たち》でもあったから。ただ、彼には顔淵の受動的な柔軟《じゅうなん》な才能の良さが全然|呑《の》み込めないのである。第一、どこかヴァイタルな力の欠けている所が気に入らない。そこへ行くと、多少|軽薄《けいはく》ではあっても常に才気と活力とに充ちている子貢の方が、子路の性質には合うのであろう。この若者の頭の鋭さに驚かされるのは子路ばかりではない。頭に比べてまだ人間の出来ていないことは誰にも気付かれる所だが、しかし、それは年齢というものだ。余りの軽薄さに腹を立てて一喝《いっかつ》を喰わせることもあるが、大体において、後世|畏《おそ》るべしという感じを子路はこの青年に対して抱いている。

 ある時、子貢が二三の朋輩《ほうばい》に向って次のような意味のことを述べた。――夫子は巧弁を忌《い》むといわれるが、しかし夫子自身弁が巧過《うます》ぎると思う。これは警戒《けいかい》を要する。宰予などの巧さとは、まるで違う。宰予の弁のごときは、巧さが目に立ち過ぎる故、聴者に楽しみは与え得ても、信頼《しんらい》は与え得ない。それだけにかえって安全といえる。夫子のは全く違う。流暢《りゅうちょう》さの代りに、絶対に人に疑を抱《いだ》かせぬ重厚さを備え、諧謔《かいぎゃく》の代りに、含蓄《がんちく》に富む譬喩《ひゆ》を有《も》つその弁は、何人《なんぴと》といえども逆らうことの出来ぬものだ。もちろん、夫子の云われる所は九|分《ぶ》九|厘《りん》まで常に謬《あやま》り無き真理だと思う。また夫子の行われる所は九分九厘まで我々の誰もが取ってもって範《はん》とすべきものだ。にもかかわらず、残りの一厘――絶対に人に信頼を起させる夫子の弁舌の中の・わずか百分の一が、時に、夫子の性格の(その性格の中の・絶対|普遍的《ふへんてき》な真理と必ずしも一致《いっち》しない極少部分の)弁明に用いられる惧《おそ》れがある。警戒を要するのはここだ。これはあるいは、余り夫子に親しみ過ぎ狎《な》れ過ぎたための慾《よく》の云わせることかも知れぬ。実際、後世の者が夫子をもって聖人と崇《あが》めた所で、それは当然過ぎる位当然なことだ。夫子ほど完全に近い人を自分は見たことがないし、また将来もこういう人はそう現れるものではなかろうから。ただ自分の言いたいのは、その夫子にしてなおかつかかる微小ではあるが・警戒すべき点を残すものだという事だ。顔回のような夫子と似通った肌合《はだあい》の男にとっては、自分の感じるようなふ満は少しも感じられないに違いない。夫子がしばしば顔回を讃《ほ》められるのも、結局はこの肌合のせいではないのか。…………

 青二才《あおにさい》の分際で師の批評などおこがましいと腹が立ち、また、これを言わせているのは畢竟《ひっきょう》顔淵への嫉妬だとは知りながら、それでも子路はこの言葉の中に莫迦《ばか》にしきれないものを感じた。肌合の相違ということについては、確かに子路も思い当ることがあったからである。

 おれ達には漠然《ばくぜん》としか気付かれないものをハッキリ形に表す・妙《みょう》な才能が、この生意気な若僧《わかぞう》にはあるらしいと、子路は感心と軽蔑とを同時に感じる。

 子貢が孔子に奇妙な質問をしたことがある。「死者は知ることありや? 将《は》た知ることなきや?」死後の知覚の有無、あるいは霊魂《れいこん》の滅ふ滅についての疑問である。孔子がまた妙な返辞をした。「死者知るありと言わんとすれば、まさに孝子順孫、生を妨《さまた》げてもって死を送らんとすることを恐る。死者知るなしと言わんとすれば、まさにふ孝の子その親を棄《す》てて葬《ほうむ》らざらんとすることを恐る。」およそ見当違いの返辞なので子貢は甚《はなは》だ不服だった。もちろん、子貢の質問の意味は良く判《わか》っているが、あくまで現実主義者、日常生活中心主義者たる孔子は、この優れた弟子の関心の方向を換《か》えようとしたのである。

 子貢は不満だったので、子路にこの話をした。子路は別にそんな問題に興味は無かったが、死そのものよりも師の死生観を知りたい気がちょっとしたので、ある時死について訊《たず》ねてみた。

「いまだ生を知らず。いずくんぞ死を知らん。」これが孔子の答であった。

 全くだ! と子路はすっかり感心した。しかし、子貢はまたしても鮮《あざ》やかに肩透《かたすか》しを喰ったような気がした。それはそうです。しかし私の言っているのはそんな事ではない。明らかにそう言っている子貢の表情である。

     九

 衛《えい》の霊公は極めて意志の弱い君主である。賢とふ才とを識別し得ないほど愚かではないのだが、結局は苦い諫言《かんげん》よりも甘い諂諛《てんゆ》に欣《よろこ》ばされてしまう。衛の国政を左右するものはその後宮であった。

 夫人|南子《なんし》はつとに淫奔《いんぽん》の噂が高い。まだ宋《そう》の公女だった頃異母兄の朝《ちょう》という有名な美男と通じていたが、衛侯の夫人となってからもなお宋朝を衛に呼び大夫に任じてこれと醜《しゅう》関係を続けている。すこぶる才走った女で、政治|向《むき》の事にまで容喙《ようかい》するが、霊公はこの夫人の言葉なら頷《うなず》かぬことはない。霊公に聴《き》かれようとする者はまず南子に取入るのが例であった。

 孔子が魯から衛に入った時、召を受けて霊公には謁《えっ》したが、夫人の所へは別に挨拶《あいさつ》に出なかった。南子が冠《かんむり》を曲げた。早速《さっそく》人を遣《つか》わして孔子に言わしめる。四方の君子、寡君《かくん》と兄弟たらんと欲する者は、必ず寡小君《かしょうくん》(夫人)を見る。寡小君見んことを願えり云々。

 孔子もやむをえず挨拶に出た。南子は絺帷《ちい》(薄《うす》い葛布《くずぬの》の垂れぎぬ)の後に在って孔子を引見する。孔子の北面稽首《ほくめんけいしゅ》の礼に対し、南子が再拝して応《こた》えると、夫人の身に着けた環佩《かんぱい》が璆然《きゅうぜん》として鳴ったとある。

 孔子が公宮から帰って来ると、子路が露骨《ろこつ》にふ愉快な顔をしていた。彼は、孔子が南子|風情《ふぜい》の要求などは黙殺《もくさつ》することを望んでいたのである。まさか孔子が妖婦《ようふ》にたぶらかされるとは思いはしない。しかし、絶対|清浄《せいじょう》であるはずの夫子が汚らわしい淫女に頭を下げたというだけで既に面白くない。美玉を愛蔵する者がその珠《たま》の表面《おもて》にふ浄なるものの影《かげ》の映るのさえ避けたい類《たぐい》なのであろう。孔子はまた、子路の中で相当|敏腕《びんわん》な実際家と隣《とな》り合って住んでいる大きな子供が、いつまでたっても一向老成しそうもないのを見て、可笑《おか》しくもあり、困りもするのである。

 一日、霊公の所から孔子へ使が来た。車で一緒《いっしょ》に都を一巡《いちじゅん》しながら色々話を承《うけたまわ》ろうと云う。孔子は欣んでふくを改め直ちに出掛けた。

 この丈《たけ》の高いぶっきらぼうな爺《じい》さんを、霊公が無闇《むやみ》に賢者として尊敬するのが、南子には面白くない。自分を出し抜いて、二人同車して都を巡《めぐ》るなどとはもっての外である。

 孔子が公に謁し、さて表に出て共に車に乗ろうとすると、そこには既に盛装《せいそう》を凝《こ》らした南子夫人が乗込んでいた。孔子の席が無い。南子は意地の悪い微笑を含《ふく》んで霊公を見る。孔子もさすがにふ愉快になり、冷やかに公の様子を窺《うかが》う。霊公は面目無げに目を俯《ふ》せ、しかし南子には何事も言えない。黙《だま》って孔子のために次の車を指《ゆび》さす。

 二乗の車が衛の都を行く。前なる四輪の豪奢《ごうしゃ》な馬車には、霊公と並《なら》んで嬋妍《せんけん》たる南子夫人の姿が牡丹《ぼたん》の花のように輝《かがや》く。後《うしろ》の見すぼらしい二輪の牛車には、寂《さび》しげな孔子の顔が端然《たんぜん》と正面を向いている。沿道の民衆の間にはさすがに秘《ひそ》やかな嘆声《たんせい》と顰蹙《ひんしゅく》とが起る。

 群集の間に交って子路もこの様子を見た。公からの使を受けた時の夫子の欣びを目にしているだけに、腸《はらわた》の煮《に》え返る思いがするのだ。何事か嬌声《きょうせい》を弄《ろう》しながら南子が目の前を進んで行く。思わず嚇《かっ》となって、彼は拳を固め人々を押分けて飛出そうとする。背後《うしろ》から引留める者がある。振切《ふりき》ろうと眼を瞋《いか》らせて後を向く。子若《しじゃく》と子正《しせい》の二人である。必死に子路の袖《そで》を控《ひか》えている二人の眼に、涙の宿っているのを子路は見た。子路は、ようやく振上げた拳を下す。

 翌日、孔子等の一行は衛を去った。「我いまだ徳を好むこと色を好むがごとき者を見ざるなり。」というのが、その時の孔子の嘆声である。

     十

 葉公《しょうこう》子高《しこう》は竜《りゅう》を好むこと甚だしい。居室にも竜を雕《ほ》り繍帳《しゅうちょう》にも竜を画き、日常竜の中に起臥《きが》していた。これを聞いたほん物《もの》の天竜が大きに欣んで一日葉公の家に降《くだ》り己《おのれ》の愛好者を覗《のぞ》き見た。頭は《まど》に窺《うかが》い尾《お》は堂に揓《ひ》くという素晴らしい大きさである。葉公はこれを見るや怖《おそ》れわなないて逃《に》げ走った。その魂魄《こんぱく》を失い五色主無《ごしきしゅな》し、という意気地無さであった。

 諸侯は孔子の賢のなを好んで、その実を欣ばぬ。いずれも葉公の竜における類である。実際の孔子は余りに彼等には大き過ぎるもののように見えた。孔子を国賓《こくひん》として遇《ぐう》しようという国はある。孔子の弟子の幾人《いくにん》かを用いた国もある。が、孔子の政策を実行しようとする国はどこにも無い。匡《きょう》では暴民の凌辱《りょうじょく》を受けようとし、宋では姦臣《かんしん》の迫害《はくがい》に遭《あ》い、蒲《ほ》ではまた兇漢《きょうかん》の襲撃《しゅうげき》を受ける。諸侯の敬遠と御用《ごよう》学者の嫉視と政治家連の排斥《はいせき》とが、孔子を待ち受けていたもののすべてである。

 それでもなお、講誦を止めず切磋《せっさ》を怠《おこた》らず、孔子と弟子達とは倦《う》まずに国々への旅を続けた。「鳥よく木を択《えら》ぶ。木|豈《あ》に鳥を択ばんや。」などと至って気位は高いが、決して世を拗《す》ねたのではなく、あくまで用いられんことを求めている。そして、己等《おのれら》の用いられようとするのは己がために非ずして天下のため、道のためなのだと本気で――全く呆《あき》れたことに本気でそう考えている。乏しくとも常に明るく、苦しくとも望を捨てない。誠にふ思議な一行であった。

 一行が招かれて楚《そ》の昭王の許《もと》へ行こうとした時、陳《ちん》・蔡《さい》の大夫共が相計り秘かに暴徒を集めて孔子等を途に囲ましめた。孔子の楚に用いられることを惧《おそ》れこれを妨げようとしたのである。暴徒に襲われるのはこれが始めてではなかったが、この時は最も困窮に陥《おちい》った。糧道《りょうどう》が絶たれ、一同火食せざること七日に及《およ》んだ。さすがに、餒《う》え、疲《つか》れ、病者も続出する。弟子達の困憊《こんぱい》と恐惶《きょうこう》との間に在って孔子は独り気力少しも衰《おとろ》えず、平生通り絃歌して輟《や》まない。従者等の疲憊《ひはい》を見るに見かねた子路が、いささか色を作《な》して、絃歌する孔子の側《そば》に行った。そうして訊ねた。夫子の歌うは礼かと。孔子は答えない。絃を操る手も休めない。さて曲が終ってからようやく言った。

「由《ゆう》よ。吾《われ》汝に告げん。君子|楽《がく》を好むは驕《おご》るなきがためなり。小人楽を好むは懾《おそ》るるなきがためなり。それ誰《だれ》の子ぞや。我を知らずして我に従う者は。」

 子路は一瞬《いっしゅん》耳を疑った。この窮境に在ってなお驕るなきがために楽をなすとや? しかし、すぐにその心に思い到《いた》ると、途端《とたん》に彼は嬉しくなり、覚えず戚《ほこ》を執って舞《ま》うた。孔子がこれに和して弾じ、曲、三度《みたび》めぐった。傍にある者またしばらくは飢《うえ》を忘れ疲を忘れて、この武骨な即興《そっきょう》の舞《まい》に興じ入るのであった。

 同じ陳蔡の厄《やく》の時、いまだ容易に囲みの解けそうもないのを見て、子路が言った。君子も窮することあるか? と。師の平生の説によれば、君子は窮することが無いはずだと思ったからである。孔子が即座に答えた。「窮するとは道に窮するの謂《いい》に非ずや。今、丘《きゅう》、仁義の道を抱き乱世の患に遭う。何ぞ窮すとなさんや。もしそれ、食足らず体|瘁《つか》るるをもって窮すとなさば、君子ももとより窮す。但《ただ》、小人は窮すればここに濫《みだ》る。」と。そこが違うだけだというのである。子路は思わず顔を赧《あか》らめた。己の内なる小人を指摘された心地である。窮するも命なることを知り、大難に臨んでいささかの興奮の色も無い孔子の容《すがた》を見ては、大勇なる哉《かな》と嘆ぜざるを得ない。かつての自分の誇《ほこり》であった・白刃《はくじん》前《まえ》に接《まじ》わるも目まじろがざる底《てい》の勇が、何と惨《みじ》めにちっぽけなことかと思うのである。

     十一

 許《きょ》から葉《しょう》へと出る途すがら、子路が独り孔子の一行に遅《おく》れて畑中の路《みち》を歩いて行くと、蓧《あじか》を荷《にな》うた一人の老人に会った。子路が気軽に会釈《えしゃく》して、夫子を見ざりしや、と問う。老人は立止って、「夫子と言ったとて、どれが一体汝のいう夫子やら俺《おれ》に分《わか》る訳がないではないか」と突堅貪《つっけんどん》に答え、子路の人態《にんてい》をじろりと眺めてから、「見受けたところ、四体を労せず実事に従わず空理空論に日を暮《く》らしている人らしいな。」と蔑《さげす》むように笑う。それから傍の畑に入りこちらを見返りもせずにせっせと草を取り始めた。隠者《いんじゃ》の一人に違いないと子路は思って一揖《いちゆう》し、道に立って次の言葉を待った。老人は黙って一仕事してから道に出て来、子路を伴って己が家に導いた。既に日が暮れかかっていたのである。老人は雞をつぶし黍《きび》を炊《かし》いで、もてなし、二人の子にも子路を引合せた。食後、いささかの濁酒《にごりざけ》に酔《よい》の廻《まわ》った老人は傍なる琴を執って弾じた。二人の子がそれに和して唱《うた》う。

  湛々《タンタン》タル露《ツユ》アリ

  陽《ヒ》ニ非ザレバ晞《ヒ》ズ

  厭々《エンエン》トシテ夜飲ス

  酔ハズンバ帰ルコトナシ

 明らかに貧しい生活《くらし》なのにもかかわらず、まことに融々《ゆうゆう》たる裕《ゆた》かさが家中に溢《あふ》れている。和《なご》やかに充ち足りた親子三人の顔付の中に、時としてどこか知的なものが閃《ひらめ》くのも、見逃《みのが》し難い。

 弾じ終ってから老人が子路に向って語る。陸を行くには車、水を行くには舟《ふね》と昔から決ったもの。今陸を行くに舟をもってすれば、いかん? 今の世に周の古法を施《ほどこ》そうとするのは、ちょうど陸に舟を行《や》るがごときものと謂《い》うべし。猨狙《さる》に周公の服を着せれば、驚いて引裂《ひきさ》き棄てるに決っている。云々…………子路を孔門の徒と知っての言葉であることは明らかだ。老人はまた言う。「楽しみ全くして始めて志を得たといえる。志を得るとは軒冕《けんべん》の謂ではない。」と。澹然無極《たんぜんむきょく》とでもいうのがこの老人の理想なのであろう。子路にとってこうした遁世哲学《とんせいてつがく》は始めてではない。長沮《ちょうそ》・桀溺《けつでき》の二人にも遇《あ》った。楚の接与《せつよ》という佯狂《ようきょう》の男にも遇ったことがある。しかしこうして彼等の生活の中に入り一夜を共に過したことは、まだ無かった。穏やかな老人の言葉と怡々《いい》たるその容に接している中に、子路は、これもまた一つの美しき生き方には違いないと、幾分の羨望《せんぼう》をさえ感じないではなかった。

 しかし、彼も黙って相手の言葉に頷《うなず》いてばかりいた訳ではない。「世と断《た》つのはもとより楽しかろうが、人の人たるゆえんは楽しみを全《まっと》うする所にあるのではない。区々たる一身を潔うせんとして大倫を紊《みだ》るのは、人間の道ではない。我々とて、今の世に道の行われない事ぐらいは、とっくに承知している。今の世に道を説くことの危険さも知っている。しかし、道無き世なればこそ、危険を冒《おか》してもなお道を説く必要があるのではないか。」

 翌朝、子路は老人の家を辞して道を急いだ。みちみち孔子と昨夜の老人とを並《なら》べて考えてみた。孔子の明察があの老人に劣《おと》る訳はない。孔子の慾《よく》があの老人よりも多い訳はない。それでいてなおかつ己を全うする途を棄て道のために天下を周遊していることを思うと、急に、昨夜は一向に感じなかった憎悪《ぞうお》を、あの老人に対して覚え始めた。午《ひる》近く、ようやく、遥《はる》か前方の真青《まっさお》な麦畠《むぎばたけ》の中の道に一団の人影が見えた。その中で特に際立って丈の高い孔子の姿を認め得た時、子路は突然《とつぜん》、何か胸を緊《し》め付けられるような苦しさを感じた。

     十二

 宋から陳に出る渡船の上で、子貢と宰予とが議論をしている。十室の邑《ゆう》、必ず忠信|丘《きゅう》がごとき者あり。丘の学を好むに如《し》かざるなり。という師の言葉を中心に、子貢は、この言葉にもかかわらず孔子の偉大《いだい》な完成はその先天的な素質の非凡《ひぼん》さに依《よ》るものだといい、宰予は、いや、後天的な自己完成への努力の方が与《あずか》って大きいのだと言う。宰予によれば、孔子の能力と弟子達の能力との差異は量的なものであって、決して質的なそれではない。孔子の有《も》っているものは万人のもっているものだ。ただその一つ一つを孔子は絶えざる刻苦によって今の大きさにまで仕上げただけのことだと。子貢は、しかし、量的な差も絶大になると結局質的な差と変る所は無いという。それに、自己完成への努力をあれほどまでに続け得ることそれ自体が、既に先天的な非凡さの何よりの証拠《しょうこ》ではないかと。だが、何にも増して孔子の天才の核心《かくしん》たるものは何かといえば、「それは」と子貢が言う。「あの優れた中庸《ちゅうよう》への本能だ。いついかなる場合にも夫子の進退を美しいものにする・見事な中庸への本能だ。」と。

 何を言ってるんだと、傍で子路が苦い顔をする。口先ばかりで腹の無い奴等め! 今この舟がひっくり返りでもしたら、奴等はどんなに真蒼《まっさお》な顔をするだろう。何といってもいったん有事の際に、実際に夫子の役に立ち得るのはおれなのだ。才弁縦横の若い二人を前にして、巧言は徳を紊るという言葉を考え、矜《ほこ》らかに我が胸中一片の氷心《ひょうしん》を恃《たの》むのである。

 子路にも、しかし、師へのふ満が必ずしも無い訳ではない。

 陳の霊公が臣下の妻と通じその女の肌着を身に着けて朝《ちょう》に立ち、それを見せびらかした時、泄冶《せつや》という臣が諫《いさ》めて、殺された。百年ばかり以前のこの事件について一人の弟子が孔子に尋《たず》ねたことがある。泄冶の正諫《せいかん》して殺されたのは古の名臣|比干《ひかん》の諫死と変る所が無い。仁と称して良いであろうかと。孔子が答えた。いや、比干と紂王《ちゅうおう》との場合は血縁でもあり、また官から云っても少師であり、従って己の身を捨てて争諫し、殺された後に紂王の悔寤《かいご》するのを期待した訳だ。これは仁と謂うべきであろう。泄冶の霊公におけるは骨肉の親あるにも非ず、位も一大夫に過ぎぬ。君正しからず一国正しからずと知らば、潔く身を退くべきに、身の程をも計らず、区々たる一身をもって一国の淫婚《いんこん》を正そうとした。自ら無駄に生命を捐《す》てたものだ。仁どころの騒《さわ》ぎではないと。

 その弟子はそう言われて紊得して引き下ったが、傍にいた子路にはどうしても頷《うなず》けない。早速、彼は口を出す。仁・ふ仁はしばらく措《お》く。しかしとにかく一身の危《あやう》きを忘れて一国の紊乱《びんらん》を正そうとした事の中には、智ふ智を超えた立派なものが在るのではなかろうか。空しく命を捐つなどと言い切れないものが。たとえ結果はどうあろうとも。

 由《ゆう》よ。汝には、そういう小義の中にある見事さばかりが眼に付いて、それ以上は判《わか》らぬと見える。古の士は国に道あれば忠を尽くしてもってこれを輔《たす》け、国に道無ければ身を退いてもってこれを避けた。こうした出処進退の見事さはいまだ判らぬと見える。詩に曰《い》う。民|僻《よこしま》多き時は自ら辟《のり》を立つることなかれと。蓋《けだ》し、泄冶の場合にあてはまるようだな。

「では」と大分長い間考えた後《あと》で子路が言う。結局この世で最も大切なことは、一身の安全を計ることに在るのか? 身を捨てて義を成すことの中にはないのであろうか? 一人の人間の出処進退の適ふ適の方が、天下|蒼生《そうせい》の安危ということよりも大切なのであろうか? というのは、今の泄冶がもし眼前の乱倫に顰蹙《ひんしゅく》して身を退いたとすれば、なるほど彼の一身はそれで良いかも知れぬが、陳国の民にとって一体それが何になろう? まだしも、無駄とは知りつつも諫死した方が、国民の気風に与える影響から言っても遥かに意味があるのではないか。

「それは何も一身の保全ばかりが大切とは言わない。それならば比干を仁人と褒めはしないはずだ。但《ただ》、生命は道のために捨てるとしても捨て時・捨て処がある。それを察するに智をもってするのは、別に私《わたくし》の利のためではない。急いで死ぬるばかりが能ではないのだ。」

 そう言われれば一応はそんな気がして来るが、やはり釈然としない所がある。身を殺して仁を成すべきことを言いながら、その一方、どこかしら明哲《めいてつ》保身を最上智と考える傾向が、時々師の言説の中に感じられる。それがどうも気になるのだ。他の弟子達がこれを一向に感じないのは、明哲保身主義が彼等に本能として、くっついているからだ。それをすべての根柢《こんてい》とした上での・仁であり義でなければ、彼等には危くて仕方が無いに違いない。

 子路が紊得し難げな顔色で立去った時、その後姿を見送りながら、孔子が愀然《しゅうぜん》として言った。邦《くに》に道有る時も直きこと矢のごとし。道無き時もまた矢のごとし。あの男も衛の史魚《しぎょ》の類だな。恐らく、尋常《じんじょう》な死に方はしないであろうと。

 楚が呉《ご》を伐《う》った時、工尹商陽《こういんしょうよう》という者が呉の師を追うたが、同乗の王子|棄疾《きしつ》に「王事なり。子、弓を手にして可なり。」といわれて始めて弓を執り、「子、これを射よ。」と勧められてようやく一人を射斃《しゃへい》した。しかしすぐにまた弓を韔《かわぶくろ》に収めてしまった。再び促《うなが》されてまた弓を取出し、あと二人を斃《たお》したが、一人を射るごとに目を掩《おお》うた。さて三人を斃すと、「自分の今の身分ではこの位で充分反命するに足るだろう。」とて、車を返した。

 この話を孔子が伝え聞き、「人を殺すの中、また礼あり。」と感心した。子路に言わせれば、しかし、こんなとんでもない話はない。殊に、「自分としては三人斃した位で充分だ。」などという言葉の中に、彼の大嫌いな・一身の行動を国家の休戚より上に置く考え方が余りにハッキリしているので、腹が立つのである。彼は怫然《ふつぜん》として孔子に喰って掛かる。「人臣の節、君の大事に当りては、ただ力の及ぶ所を尽くし、死して而《しこう》して後に已《や》む。夫子何ぞ彼を善しとする?」孔子もさすがにこれには一言も無い。笑いながら答える。「然《しか》り。汝の言のごとし。吾《われ》、ただその、人を殺すに忍《しの》びざるの心あるを取るのみ。」

     十三

 衛に出入すること四度、陳に留まること三年、曹《そう》・宋・蔡・葉・楚と、子路は孔子に従って歩いた。

 孔子の道を実行に移してくれる諸侯が出て来ようとは、今更望めなかったが、しかし、もはやふ思議に子路はいらだたない。世の溷濁《こんだく》と諸侯の無能と孔子のふ遇とに対する憤懣《ふんまん》焦躁《しょうそう》を幾年か繰返《くりかえ》した後、ようやくこの頃になって、漠然とながら、孔子及びそれに従う自分等の運命の意味が判りかけて来たようである。それは、消極的に命なりと諦める気持とは大分遠い。同じく命なりと云うにしても、「一小国に限定されない・一時代に限られない・天下万代の木鐸《ぼくたく》」としての使命に目覚めかけて来た・かなり積極的な命なりである。匡《きょう》の地で暴民に囲まれた時|昂然《こうぜん》として孔子の言った「天のいまだ斯文《しぶん》を喪《ほろぼ》さざるや匡人《きょうひと》それ予《われ》をいかんせんや」が、今は子路にも実に良く解《わか》って来た。いかなる場合にも絶望せず、決して現実を軽蔑せず、与えられた範囲で常に最善を尽くすという師の智慧《ちえ》の大きさも判るし、常に後世の人に見られていることを意識しているような孔子の挙措《きょそ》の意味も今にして始めて頷けるのである。あり余る俗才に妨げられてか、明敏子貢には、孔子のこの超時代的な使命についての自覚が少い。朴直《ぼくちょく》子路の方が、その単純極まる師への愛情の故であろうか、かえって孔子というものの大きな意味をつかみ得たようである。

 放浪の年を重ねている中に、子路ももはや五十歳であった。圭角《けいかく》がとれたとは称し難いながら、さすがに人間の重みも加わった。後世のいわゆる「万鍾《ばんしょう》我において何をか加えん」の気骨も、炯々たるその眼光も、痩浪人《やせろうにん》の徒《いたず》らなる誇負《こふ》から離れて、既に堂々たる一家の風格を備えて来た。

     十四

 孔子が四度目に衛を訪れた時、若い衛侯や正卿|孔叔圉《こうしゅくぎょ》等から乞《こ》われるままに、子路を推してこの国に仕えさせた。孔子が十余年ぶりで故国に聘《むか》えられた時も、子路は別れて衛に留まったのである。

 十年来、衛は南子夫人の乱行を中心に、絶えず紛争《ふんそう》を重ねていた。まず公叔戊《こうしゅくじゅ》という者が南子排斥を企《くわだ》てかえってその讒《ざん》に遭って魯に亡命する。続いて霊公の子・太子|蒯聵《かいがい》も義母南子を刺《さ》そうとして失敗し晋に奔《はし》る。太子欠位の中に霊公が卒《しゅっ》する。やむをえず亡命太子の子の幼い輒《ちょう》を立てて後を嗣《つ》がせる。出公《しゅつこう》がこれである。出奔《しゅっぽん》した前太子蒯聵は晋の力を借りて衛の西部に潜入《せんにゅう》し虎視眈々《こしたんたん》と衛侯の位を窺う。これを拒《こば》もうとする現衛侯出公は子。位を奪《うば》おうと狙《ねら》う者は父。子路が仕えることになった衛の国はこのような状態であった。

 子路の仕事は孔家《こうけ》のために宰として蒲《ほ》の地を治めることである。衛の孔家は、魯ならば季孫氏に当る名家で、当主孔叔圉はつとに名大夫の誉《ほまれ》が高い。蒲は、先頃南子の讒に遭って亡命した公叔戊の旧領地で、従って、主人を逐《お》うた現在の政府に対してことごとに反抗的な態度を執っている。元々|人気《じんき》の荒《あら》い土地で、かつて子路自身も孔子に従ってこの地で暴民に襲われたことがある。

 任地に立つ前、子路は孔子の所に行き、「邑に壮士多くして治め難し」といわれる蒲の事情を述べて教を乞《こ》うた。孔子が言う。「恭《きょう》にして敬あらばもって勇を懾《おそ》れしむべく、寛《かん》にして正しからばもって強を懐くべく、温にして断ならばもって姦を抑《おさ》うべし」と。子路再拝して謝し、欣然《きんぜん》として任に赴《おもむ》いた。

 蒲に着くと子路はまず土地の有力者、反抗分子等を呼び、これと腹蔵なく語り合った。手なずけようとの手段ではない。孔子の常に言う「教えずして刑《けい》することの不可」を知るが故に、まず彼等に己の意の在る所を明かしたのである。気取の無い率直さが荒っぽい土地の人気に投じたらしい。壮士連はことごとく子路の明快闊達に推服した。それにこの頃になると、既に子路のなは孔門|随一《ずいいち》の快男児として天下に響《ひび》いていた。片言もって獄《ごく》を折《さだ》むべきものは、それ由《ゆう》かなどという孔子の推奨《すいしょう》の辞までが、大袈裟《おおげさ》な尾鰭《おひれ》をつけて普《あまね》く知れ渡《わた》っていたのである。蒲の壮士連を推服せしめたものは、一つには確かにこうした評判でもあった。

 三年後、孔子がたまたま蒲を通った。まず領内に入った時、「善い哉、由や、恭敬にして信なり」と言った。進んで邑に入った時、「善い哉、由や、忠信にして寛なり」と言った。いよいよ子路の邸に入るに及んで、「善い哉、由や、明察にして断なり」と言った。轡《くつわ》を執っていた子貢が、いまだ子路を見ずしてこれを褒める理由を聞くと、孔子が答えた。已《すで》にその領域に入れば田疇《でんちゅう》ことごとく治まり草莱《そうらい》甚だ辟《ひら》け溝洫《こうきょく》は深く整っている。治者恭敬にして信なるが故に、民その力を尽くしたからである。その邑に入れば民家の牆屋《しょうおく》は完備し樹木は繁茂《はんも》している。治者忠信にして寛なるが故に、民その営を忽《ゆるが》せにしないからである。さていよいよその庭に至れば甚だ清閑《せいかん》で従者|僕僮《ぼくどう》一人として命《めい》に違《たが》う者が無い。治者の言、明察にして断なるが故に、その政が紊《みだ》れないからである。いまだ由を見ずしてことごとくその政を知った訳ではないかと。

     十五

 魯の哀公《あいこう》が西の方《かた》大野《たいや》に狩《かり》して麒麟《きりん》を獲《え》た頃、子路は一時衛から魯に帰っていた。その時|小邾《しょうちゅ》の大夫・射《えき》という者が国に叛《そむ》き魯に来奔した。子路と一面識のあったこの男は、「季路をして我に要せしめば、吾|盟《ちか》うことなけん。」と言った。当時の慣《なら》いとして、他国に亡命した者は、その生命の保証をその国に盟ってもらってから始めて安んじて居つくことが出来るのだが、この小邾の大夫は子路さえその保証に立ってくれれば魯国の誓《ちかい》など要《い》らぬというのである。諾《だく》を宿するなし、という子路の信と直とは、それほど世に知られていたのだ。ところが、子路はこの頼をにべも無く断《ことわ》った。ある人が言う。千乗の国の盟をも信ぜずして、ただ子《し》一人の言を信じようという。男児の本懐《ほんかい》これに過ぎたるはあるまいに、なにゆえこれを恥とするのかと。子路が答えた。魯国が小邾と事ある場合、その城下に死ねとあらば、事のいかんを問わず欣んで応じよう。しかし射という男は国を売ったふ臣だ。もしその保証に立つとなれば、自ら売国奴《ばいこくど》を是認することになる。おれに出来ることか、出来ないことか、考えるまでもないではないか!

 子路を良く知るほどの者は、この話を伝え聞いた時、思わず微笑した。余りにも彼のしそうな事、言いそうな事だったからである。

 同じ年、斉の陳恒《ちんこう》がその君を弑《しい》した。孔子は斎戒《さいかい》すること三日の後、哀公の前に出て、義のために斉を伐《う》たんことを請うた。請うこと三度。斉の強さを恐れた哀公は聴こうとしない。季孫《きそん》に告げて事を計れと言う。季康子《きこうし》がこれに賛成する訳が無いのだ。孔子は君の前を退いて、さて人に告げて言った。「吾、大夫の後《しりえ》に従うをもってなり。故にあえて言わずんばあらず。」無駄とは知りつつも一応は言わねばならぬ己《おのれ》の地位だというのである。(当時孔子は国老の待遇《たいぐう》を受けていた。)

 子路はちょっと顔を曇《くも》らせた。夫子のした事は、ただ形を完《まっと》うするために過ぎなかったのか。形さえ履《ふ》めば、それが実行に移されないでも平気で済ませる程度の義憤なのか?

 教を受けること四十年に近くして、なお、この溝《みぞ》はどうしようもないのである。

     十六

 子路が魯に来ている間に、衛では政界の大黒柱|孔叔圉《こうしゅくぎょ》が死んだ。その未亡人で、亡命太子|蒯聵《かいがい》の姉に当る伯姫《はくき》という女策士が政治の表面に出て来る。一子|悝《かい》が父|圉《ぎょ》の後《あと》を嗣《つ》いだことにはなっているが、名目だけに過ぎぬ。伯姫から云えば、現衛侯|輒《ちょう》は甥《おい》、位を窺う前太子は弟で、親しさに変りはないはずだが、愛憎《あいぞう》と利慾との複雑な経緯《けいい》があって、妙に弟のためばかりを計ろうとする。夫の死後|頻《しき》りに寵愛《ちょうあい》している小姓《こしょう》上りの渾良夫《こんりょうふ》なる美青年を使として、弟蒯聵との間を往復させ、秘かに現衛侯|逐出《おいだ》しを企んでいる。

 子路が再び衛に戻《もど》ってみると、衛侯父子の争は更に激化《げきか》し、政変の機運の濃《こ》く漂《ただよ》っているのがどことなく感じられた。

 周の昭王の四十年|閏《うるう》十二月|某日《ぼうじつ》。夕方近くになって子路の家にあわただしく跳び込んで来た使があった。孔家の老・欒寧《らんねい》の所からである。「本日、前太子蒯聵都に潜入。ただ今孔氏の宅に入り、伯姫・渾良夫と共に当主|孔悝《こうかい》を脅《おど》して己を衛侯に戴かしめた。大勢は既に動かし難い。自分(欒寧)は今から現衛侯を奉《ほう》じて魯に奔るところだ。後《あと》はよろしく頼む。」という口上である。

 いよいよ来たな、と子路は思った。とにかく、自分の直接の主人に当る孔悝が捕《とら》えられ脅されたと聞いては、黙っている訳に行かない。おっ取り刀で、彼は公宮へ駈け付ける。

 外門を入ろうとすると、ちょうど中から出て来るちんちくりんな男にぶっつかった。子羔《しこう》だ。孔門の後輩で、子路の推薦《すいせん》によってこの国の大夫となった・正直な・気の小さい男である。子羔が言う。内門はもう閉《しま》ってしまいましたよ。子路。いや、とにかく行くだけは行ってみよう。子羔。しかし、もう無駄ですよ。かえって難に遭うこともないとは限らぬし。子路が声を荒《あ》らげて言う。孔家の禄《ろく》を喰《は》む身ではないか。何のために難を避ける?

 子羔を振切って内門の所まで来ると、果して中から閉っている。ドンドンと烈《はげ》しく叩《たた》く。はいってはいけない! と、中から叫ぶ。その声を聞き咎《とが》めて子路が怒鳴《どな》った。公孫敢《こうそんかん》だな、その声は。難を逃《のが》れんがために節を変ずるような、俺は、そんな人間じゃない。その禄を利した以上、その患《かん》を救わねばならぬのだ。開《あ》けろ! 開けろ!

 ちょうど中から使の者が出て来たので、それと入違いに子路は跳び込んだ。

 見ると、広庭一面の群集だ。孔悝のなにおいて新衛侯|擁立《ようりつ》の宣言があるからとて急に呼び集められた群臣である。皆それぞれに驚愕《きょうがく》と困惑《こんわく》との表情を浮《う》かべ、向背《こうはい》に迷うもののごとく見える。庭に面した露台《ろだい》の上には、若い孔悝が母の伯姫と叔父《おじ》の蒯聵とに抑えられ、一同に向って政変の宣言とその説明とをするよう、強《し》いられている貌《かたち》だ。

 子路は群衆の背後《うしろ》から露台に向って大声に叫んだ。孔悝を捕えて何になるか! 孔悝を離せ。孔悝一人を殺したとて正義派は亡《ほろ》びはせぬぞ!

 子路としてはまず己の主人を救い出したかったのだ。さて、広庭のざわめきが一瞬静まって一同が己の方を振向いたと知ると、今度は群集に向って煽動《せんどう》を始めた。太子は音に聞えた臆病者《おくびょうもの》だぞ。下から火を放って台を焼けば、恐れて孔叔(悝)を舎《ゆる》すに決っている。火を放《つ》けようではないか。火を!

 既に薄暮《はくぼ》のこととて庭の隅々《すみずみ》に篝火《かがりび》が燃されている。それを指さしながら子路が、「火を! 火を!」と叫ぶ。「先代孔叔文子(圉)の恩義に感ずる者共は火を取って台を焼け。そうして孔叔を救え!」

 台の上の簒奪者《さんだつしゃ》は大いに懼れ、石乞《せききつ》・盂黶《うえん》の二剣士に命じて、子路を討たしめた。

 子路は二人を相手に激《はげ》しく斬り結ぶ。往年の勇者子路も、しかし、年には勝てぬ。次第に疲労《ひろう》が加わり、呼吸が乱れる。子路の旗色の悪いのを見た群集は、この時ようやく旗幟《きし》を明らかにした。罵声《ばせい》が子路に向って飛び、無数の石や棒が子路の身体《からだ》に当った。敵の戟《ほこ》の尖端《さき》が頬《ほお》を掠《かす》めた。纓《えい》(冠の紐《ひも》)が断《き》れて、冠が落ちかかる。左手でそれを支えようとした途端に、もう一人の敵の剣が肩先に喰い込む。血が迸《ほとばし》り、子路は倒《たお》れ、冠が落ちる。倒れながら、子路は手を伸《の》ばして冠を拾い、正しく頭に着けて素速く纓を結んだ。敵の刃《やいば》の下で、真赤《まっか》に血を浴びた子路が、最期《さいご》の力を絞《しぼ》って絶叫《ぜっきょう》する。

 「見よ! 君子は、冠を、正しゅうして、死ぬものだぞ!」

 全身|膾《なます》のごとくに切り刻まれて、子路は死んだ。

 魯に在って遥かに衛の政変を聞いた孔子は即座に、柴《さい》(子羔)や、それ帰らん。由《ゆう》や死なん。と言った。果してその言のごとくなったことを知った時、老聖人は佇立瞑目《ちょりつめいもく》することしばし、やがて潸然《さんぜん》として涙下った。子路の屍《しかばね》が醢《ししびしお》にされたと聞くや、家中の塩漬類《しおづけるい》をことごとく捨てさせ、爾後《じご》、醢は一切|食膳《しょくぜん》に上さなかったということである。

 (昭和十八年二月)

底本:「ちくま日本文学全集 中島敦」筑摩書房 1992(平成4)年7月20日第1刷発行

青空文庫作成ファイル:このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


子路からはじまっている。

 私は論語を読んでいて顔回が尊敬すべき人物であると思う。

 論語(岩波文庫)の人名索引で出現する人物の多い順位を調べてみた。

 それによると1位は子路(季路・仲由)=43、2位は孔子(仲尼)=40、3位は子貢(賜)=31、四位は子張(師)=19、五位は顔淵(回)=18であった。

▼また『史記』(筑摩世界文学大系)の「列伝篇」の「仲尼弟子伝第七」には

 孔子が述懐して言った。「私の門人で六芸(りくげい)に通暁する者はは、七十七人いるが、みな、すぐれた才能の士である。徳業家としては顔渕(がんえん)・閔子騫(びんしけん)・冄伯牛(ぜんはくぎゅう)・冲弓(ちゅうきゅう)がおり、政治家としては冄有(ぜんゆう)・季路(きろ)、弁論家としては宰我(しが)・子貢(しこう)、文学家としては子遊(しゆう)・子夏(しか)がいる。ただそれぞれぞれに短所もあって、子張(しちょう)は偏屈、曽参(そうしん)は遅鈊、子羔(しこう)は愚直、子路は粗野、顔淵は貧乏で、しばしば米櫃(こめびつ)の空しことがあった。子貢は仕官しないで貨殖し、事をはかってよく的中した。」

 顔回(がんかい)は魯の人、字(あざな)を子淵(しえん)といい、孔子より三十歳の年少であった。顔淵が仁について問うたところ、孔子は、「おのれの私欲にうちかち、みずから礼に立ちかえってこそ、天下の人は、みな仁にむかうだろう」と答えた。孔子の言に、賢いかな、回(かい)は。箪一盛の飯、瓢一杯の水に満足し、きたない露地の中に安住している。普通の人なら、憂悶に堪えないのに、回は道を楽しんで改めようとしない。回と話すと、一見愚かもののようであるが、私の前を退いたのち、その私生活を観察すると、やはり道義を啓発するものがある。回はけっして愚かなものではない。登用されれば道をおこない、捨てられれば引きこもる。これは、ただ私とおまえと、二人だけができることだとある。回は二十九歳で、頭髪ことごとく白く若死にした。孔子は慟哭し、回を得てから、門人はますます私に親しんだのに――と言って嘆いた。魯の哀公が孔子に、「弟子のうちでは、だれが学問を好むか」と問うたとき、孔子は「顔回という者がおりまして、學を好み、怒りを人に移さず、過ちを二度とくり返さぬ男でございましたが、不幸にも短命で死にました。いまでは他に學を好むという者はおりません」と答えた。(中略)
 子路についても詳しく述べられている。


 以上で「仲尼弟子伝第七」について述べるのを終わります。

 論語については非常にたくさんの本があります。しかし、孔子についての小説は少ないのか私はよんだことがありませんでしたが、井上靖氏は『孔子』について小説的に纏められています。

 孔子の弟子についの小説についてはさらに少ないのではないかと思います。ありましたらご教示ください。私の手元にあるものは以下のものです。

 『論語」その裏おもて』駒田信二(旺文社文庫)1985年1月25日初版発行のなかで、駒田信二は、愛弟子・子路――その「狂狷」の項目 P.187 で、

 孔子の弟子たちのなかで『論語』に最もしばしばなのあらわれるのは子路である。子路の言動に触れた章は、三十章を越える。

 中島敦(一九〇九~四二)の小説「弟子」は、孔子と子路との師弟愛を描いた秀作であるが、そのなかで作者は次のように語っている。

 弟子の中で、子路程孔子に叱られる者は無い。子路程遠慮なく師に反問する者もない。

「請ふ。古い道を釈(す)てて由(ゆう)の意を行はん。可ならんか。」などと、叱られるに決まっていることを聞いてみたり、孔子に面と向かってづけづけと「是(これ)ある哉。子の迂なるや!」などと言ってのける人物は他には誰もいない。それでゐて、又子路程全身的に孔子に凭り掛かってゐる者もないのである。どしどし問返すのは、心から納得出来ないものは表面(うはべ)だけ諾(うべな)ふことの出来ぬ性分だからだ。又、他の弟子達のやうに嗤(わら)はれまい叱られまいと気を遣はないからである。

 との文章がある。

▼次に此の小説の解説者は『弟子』は孔子と子路の性格や運命を書いたといえ、題名がしめすように、門下第一の勇士である子路一人の性格や運命が描かれているといった方がよい。もちろん、孔子の人格が思想とともにみごとな人間像をつくり、生き生きと描きだされているからこそ、弟子の子路の一生がその性向とともに美しく描き出されもするのである。子路の人物・性向を愛して、写しだしている。

 私も子路が孔子に学び成長する姿に共感するものがありました。また、論語の読み方について、一節一節について学んでいましたが、中島敦『弟子』のように、この人はと思う人の言行についてまとめて読み通すことにより、その努力を知ることも読み方としてあることを教えられました。

2009/01/1、2011/02/26


19

わたしの読書


 読書論は、読書遍歴と読書の方法に大別できる。今回は読書の仕方にかぎって私が実行しているやり方、これまでに読んだ読書論の中で参考になった方法と自分流にアレンジしたものについて述べます。

★一冊の本の読み方

 私は、本を手にとると、書名・著者名を見る。まえがきはとばして、目次にザーと目を通す。本文を読み終わると、一瞬肩の力がぬけるおもいがよぎり、本をとじ、棚にしまいこむ。こんな繰り返しが、私の読み方であった。しばらくの間、印象に残っているが、ほとんど忘れ去られてしまう。

 コップにつがれたビールを手に持ち、口に運び、一気に飲みほす。ゴクゴクとのどごし、胃に入る。ああ、うまい。こんな連想をしてもおかしくなかった。

 本は、「まえがき」、「目次」、「本文」、「あとがき」で構成されている。すいせん文、解説がついているものもある。まえがきには、著者がどんな意図で本を書いたかをのべている。意図しないものを書いているはずがない。したがって読者は、これを読めば、作者のメッセージをインプットされる。本文を読み進むと、予想されたものにぶっかる。なるほどとうなづかさせられ、目標地点に着いた感じさへする。

▼桑原武夫『わたしの読書遍歴』(潮文庫)昭和六十一年四月二十五日発行 

 この本 P.26 に内藤湖南先生(一八六六~一九四三、元京大東洋史教授)の本の読み方について記載されている。を紹介する。

 内藤湖南「(一)は大ていの本は序文・目次・結論だけを精読して見当をつけ、精読派を圧倒することがあった。これは彼がすでに無数の本を読んでいたからである。すべての本を精読しなければ気がすまぬ人もあるが、そういう人は恐らく幅の広い教養はもてまい。ここのところは、実は読書論の一ばん重要で、高級なところだが、うまく説明した本を知らない。もちろん私にも説明できぬが、インタレストの強度ということで説明するより他はなかろうと思っている。」

※余談:この本のⅢ トルストイ『復活』、アベ・ブレヴォ『マロン・レスコ』、プーシキン『大尉の娘』、アンドレ・ジッド『狭き門』、ヘミングウェイ『武器よさらば』、中江兆民『三酔人経綸問答』、竹越与三郎『二千五百年史』、宮崎滔天『三十三年之夢』、南方熊楠『十二支』、内藤湖南『日本文化史研究』である。

 この読み方を参考にして、まえがき・あとがきを私も読むように努めている。更に、読み終わった直後、もう一度まえがきにかえっている。すると、一回目に読みすごしていたものに気づいたり、内容理解の程度が深くなり、著者が強調している点を再認識する。また、内容を重点的に記憶するのに役立つ。

▼人体の重心点はへそである。本にも中心になるへそがあると思っていた「図書」編集部編『私の読書』岩波新書1983年11月25日 第2刷発行 で、モーティマ・アドラー教授――(Mortimer Jerome Adler, 1902年12月28日 - 2001年6月28日)はアメリカの哲学者、教育者――の本の読み方は同じ考え方をしている。

 教授の本の読み方というのは一口でいうと、その本の伝えようとしているいるメッセージを直接的に表現した文字を、その本の頁の中から探し出すということである。その直接的に表現した文字が「へそ」に相当する。P.14 鵜飼 信成

 本の中のへそをさがすのも読書の楽しみの一つになる。このへそをさがしあてるヒントは、まえがきにも書き込まれていると私は考えている。まえがきを精読した者だけがこのメッセージ、へそを読みとることができる。

★本の選び方

 「読書ができるようになれば半分教育が出来たことになります。読書によっていくらでも勉強できます。読む本ですが、ベストセラー等読ませる必要はありません。十年たっても尚読まれる本はよい本です。五十年たっても読まれる本は尚よい本です。百年たっても尚読まれる本は尚よい本です。(後略)」

 基督教独立学園(山形県小国町)鈴木弼美(すけよし)校長先生から教えていただいたものです。十年、五十年、百年と読み継がれた本をキッチリとよまなければならないことを教示されている。

 どんな本を選ぶにはどうすればよいかの目安としては立花隆氏『「知」のソフトウエァ』(講談社現代新書)昭和五九年三月二〇日第一刷発行(二) に書かれているものが役立つ。
 「入門書は一冊だけにせず何冊か買ったほうがよい。その際、なるべく、傾向のちがうものを選ぶ。定評ある教科書的な入門書を落とさないようにすると同時に、新しい意欲的な入門書も落とさないようにする。前者は版数の重ね方でそれと知れるだろうし、後者は、はしがきなどに示された著者の気負いによってそれと知れるだろう。」 P.96

 「同(五)じ本を読むならば、ちゃんとその大道を行くべき本は決まっておる。ほかのものを読むこともさしつかえはないが、少なくとも大道を歩くものをまず修めて後にしてもらわないと困る。漢学のほうでありますれば、昔から言つた四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)が少なくともそこらを読んでおらなければ始まらないのです。ところがそれさえも読まない。この傾向は、おそらく英文学でも国文学でも同じでしょう。また歴sなどでも同じではないでしょうか。」 諸橋徹次先生は言われている。古典、そして読みつがれた本はちゃんと読んでおきたいものである。『古典の叡智』P.75

★どれくらい読むか

 「よく万巻の書を読むなどというが、そんなことが人間にできるはずはない。人は一年に一万ページの本を読めば、それでひとかどの人物になれるはずだ。一万ページと言えばびっくりするかもしれないが、一日わずか二十八ページずつ読んでいけばいいのだ。」と草柳大蔵氏は書いている。

 一日わずか二十八ページずつは、一週間に二百ページ弱の本を一冊読む計算になり、年間五十二冊になる。一人ひとりの読書量を比較してみるとよい。

 一日わずか二十八ぺージ読むことを実行してみることにする。三日間ぐらいは続けることはできる。読みやすい本ばかりを読むわけではない。古典類を読みはじめると、また専門書を勉強すると途端にページ数は進まなくなる。それでも二十八ページと思うと苦しみにさへなる。毎日まいにち二十八ぺージの量はこなさなくても、毎日一日も休まずに平均二十八ぺージを読むことはできる。しかし、これができれば、やはりひとかどの人物だと言えると私も思う。

 実践する秘訣はいつ、どこででもよむことである。きまった時間、場所でと思っていてはできない。通勤の電車・バスの中で、けいたいしている本を開くことである。

 「一日読まざれば、一日くらわず」と覚悟されている先生がいらっしゃいます。満九十歳になられますが、いまでも毎日読書され、私達に佳書の紹介・指導されています。

★抜き書き

 「読書の楽しみのひとつは、感動した言葉や気に入った詩歌を『抜き書き』して、知的宝石箱を作ることにある」と、草柳大蔵氏は言っている。私は、読んだり、聞いたりしてこれぞと思った言葉をいつもけいたいしている手帳に書きこむようにしている。その際、書き抜いた日付・書名・出典、ページなどをきちょうめんにメモしておくことをすすめる。

 抜き書きは実行するのをすすめる。どんな効果があるか、一人ひとりの楽しみにまかせることにしたい。

★立腰と読書

 昨年十月より、起床すると、坐り机をまえにして静坐立腰、読書継続してみた。静坐を始めると即刻読書に打ち込めるのと、寒さを余り感じないことを一冬の期間に体験した。

 佐藤一斎の『言志晩録』に「読書と静坐を一時に行う工夫」がある。

 「(七四)吾れ読書静坐を把(と)つて打(だ)して一片と做(な)さんとと欲し、因て自ら之を試みぬ。経を読む時は、寧静端座し、巻を披(ひら)きて目を渉(しょう)し、一事一理、必ず之を心に求むるに、乃ち能く之れと黙契し、恍として自得する有り。此の際真に是れ無欲にして、即ち是れ主静なり。必ずしも一日各半の工夫を做さず。」(岩波文庫)P.165

 昔、朱子は「半日静座、半日読書」といったが、佐藤一斎は読書静坐とを合わせて一ぺんにしようと試みたと、川上正光氏は説明している。

★わたしの読書課題

 「(一)最愛の著者の全作品を読み、これを全人としてとらえること。」 

 「(ニ)人の卓れた思想家を真に読みぬく事によって、一個の見識はできるものなり。同時に真にその人を選ばば、事すでに半ば成りしというも可ならむ。」 『森信三先生一日一語』二月二十二日

 「(三)自己と縁なき著名人の書を読むより、縁ある同志の手刷りのプリントを読む方が、どれほど生きた勉強になるかわからぬ。これ前者は円周上の無数の一点に過ぎないが、後者は直接わが円心に近い人々だからである。」 『森信三先生一日一語』九月三日

 尊敬している人が読まれた本を読み追体験

 繰り返し読める本を持つこと。


「参考文献」

一 桑原武夫『わたしの読書遍歴』(潮文庫)昭和六十一年四月二十五日発行 P.26
二 立花隆氏『「知」のソフトウエァ』(講談社現代新書)昭和五九年三月二〇日第一刷発行
三 寺田清一編『森信三先生一日一語』
四 編集部編『私の読書』(岩波新書)1983年11月25日 第2刷発行
五 諸橋徹次『古典の叡智』(講談社学術文庫)昭和59年12月25日 第4刷発行
六 佐藤一斎著/川上正光全訳 註『言志四録』(言志晩録)
七 佐藤一斎『言志四録』(岩波文庫)

*1986(昭和六十一年八月)に書いていたものを加筆訂正したものです。

2009.06.06記、2012.12.再読・追加。

※2009.04.23:再読して。引用書物の中に、著者・発行年月日が記載されていない、また直ぐに何ページに書かれているか分からないものがあった。。 


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学んで時に之をならう


 これは『論語』の冒頭の「学 而 第一」の「子曰く、学んで時に之を習う。亦た悦ばしからずや。朋あり、遠方より来る。亦た楽しからずや。人知らずして慍(いきど)おらず。亦た君子ならずや。」の時についての解釈について、下記の著作から抜き出してみた。

1、宮崎市定『論語の新研究』(岩波書店)P.160:「子曰く、(禮を)学んで、時をきめて(弟子たちが集まり)温習会(おさらい)を開くのは、こんなたのしいことはない。」

2、金谷 治『論語』(岩波文庫)P.17:先生がいわれた、「学んでは適当な時期におさらいする、いかにも心嬉しいことだね。[そのたびに理解が深まって向上していくのだから。]」

3、宇野哲人『論語新釈』(講談社学術文庫)P.14:先覚者に従って聖賢の道を学び、(たえ)えずこれを復習して熟達するようにする。そうすると、()が開け道が明らかになって、ちょうど今まで浮くこともできなかった者がたちまち(およ)げるようになったようなもであるから、誠に喜ばしいではないか。「時」については時々刻々少しも間断のないこと。

4、諸橋徹次『論語の講義』(大修館書店)P.1:孔子言う、学問をして、その学んだところを機会ある毎に復習して練習して行くと、学んだところがおのずから真の知識として我が身に体得されて来る。これはまたなんと愉快なことではなかろうか。「時」に之を習ふとは、時に当って幾度も練習実習すること。習の字は、雛鳥が巣立ちをする前にしばしば羽ばたきの稽古をすることで、従って自習を続ければ、学んだことが実行にも移されるのである。

 以上四冊の本から「時」の解釈を読みました。

 「時をきめて」「適当な時期」「時々刻々少しも間断のないこと」「時にあたって幾度も」である。

 宮崎市定『論語の新研究』では、

 学はここでは禮を学ぶこと。孔子は禮の師であり、弟子に禮を教えて諸侯や貴族の求めに応じて就職させた。当時はまだ祭政一致の傾向の強い時代であったから、伝統的な禮を知っている者が要求されたのである。習うとは復習の意味であるが、ここでは今日の学校における学芸会のように、皆で集まって実演することを言う。孔子の家は学校であった。集会であるから常に行うわけに行かないで時をきめて挙行する。漢の司馬遷が曲阜へ行き、孔子の廟堂を観たが、数百年を経た当時においても、諸生は恰も孔子の時のように、時をきめてその家で禮を習っていることを聞き、史記孔子世家に、

 諸生は時を以て、()を其家に習う。

と記している。

 「時」の一字さえも、こんなに解釈が沢山あるのを知った。宮崎市定氏の「時」の解釈は、孔子のこれほどまでの徹底的研究によるものだろうと思った。 

2009.11.3 文化の日


21

古代への情熱


 小林 司『出会いについて 精神科医のノートから』P.28~P.30より引用、紹介します

 トロヤ文明、ミケーネ文明という二大文明を発見した考古学者ハインリッヒ・シュリーマン(一八二二~九〇)は、八歳のときに、ゲオルグ・ルドウィヒ・イエッラー博士が書いた『子供のための世界歴史』という本を、父親から、一八二九年のクリスマスにもらった。

 その書物には、燃えあがっているトロイのさし絵があり、そこには巨大な城壁やスカイヤ門がたつていて、父のアンキセスを背負い、幼いアスカニアの手を引いて逃げていくエーネスが描かれていた。

 このさし絵を見て、シュリーマンは大喜びで「おとうさん、あなたは間違っていたよ。イエッラーはきつとトロヤを見たことがあるんだ。でなければ博士がここを書けなかったでしょう」と叫んだのであつた。父親は「いや、そんなことはないさ、これはただの空想で書いたんだよ」と答えたのだが、シュリーマンは、「それなら、古代トロヤには実際にこの絵に書かれているような堅固な城壁があったのでしょうか」と聞くと、父親は「そうだ」と答えた。

 そこで「お父さん、もしその城壁が建つていることがあるなら、それがあとかたもなくなるなんてことはないから数百年間の石ころやチリの下に隠れて埋まっているかもしれないでしょう」と主張した。父親はもちろん、「そんなことはないさ」と言ったのだが、シュリーマンが自分の考えを堅く主張してゆずらないので、「そのうちにはいつかトロヤを発掘しよう」ということでその場はおさまった。

 この時から四十二年後の一八七一年十月十二日、シュリーマンは、ヒッサリックの丘でトロヤの発掘をはじめ、そして古代文明を発掘することになった。もしも、父が八歳の子どもに『子供のための世界歴史』をくれなかったら、こんなことは実現しなかったかもしれない。

 これは、シュリーマンと本との出会いであるけれども、よく考えてみると、シュリーマンは本に突然出会ったから古代の発掘を決めたのではなくて、それまでもすでに古代史に対しては熱情的な興味を持つていた父親から、しばしば、古代ローマの小都市ヘラクラネウムやポンペイの悲劇的な滅亡を聞かされていた。そこで行われた発掘を見物するのに十分な時間とお金を持つ人こそは、もっとも幸福な人間であると思っていたらしい。

 この父親は、また、しばしば、シュリーマンに、ホメロスの英雄の働きや、トロヤ戦役の出来事を讃えながら物語ったが、「トロイは完全に破壊されて、あとかたもなく地上から消え失せた」と父親に聞かされて、いつも悲しい思いをしていたのであった。そうした下地があったからこそ、この本に出会ったとき、シュリーマンの一生を決定するような気持ちがわいてきたのに違いない。

 この場合の本との「出会い」は、いわばガソリンのある所でマッチをすつたような「火つけ役」をしたのものとかんがえられよう。


※参考1:「ゲオルグ・ルドウィヒ・イエッラー博士」はインタネットで検索しても見つかりません。小林司先生が読まれた原本はいまや知ることができません。

※参考2:岩波文庫からも出版されています。以前、これを読みまして感動した記憶だけは残っています。

※参考3:トロイの遺跡の場所です。想像の翼を広げてみてください。

※参考4:トロイの遺跡発掘のシュリーマンは江戸時代の日本に来ていた。

 1871年にトロイアの遺跡を発掘したことで知られるシュリーマン。『古代への情熱』だけではなく日本好き。世界周遊の旅の中で江戸時代の日本にやってきていたのだ。江戸時代に訪れた場所は、横浜、八王子、浅草、愛宕山など、外国人への襲撃が繰り返される中での訪問だった。『シュリーマン旅行記 清国・日本』より


※余録 江戸川柳「かやば町手本読み読み舟にのり」と… 毎日新聞2019年12月6日 東京朝刊

 江戸川柳に「かやば町手本読み読み舟にのり」とある。江戸・茅場町の寺子屋に渡し舟で通う子どもの様子で、読んでいた手本とは「往来物(おうらいもの)」と呼ばれた教科書だ。進学のない時代にずいぶんと勉強熱心である

▲「教育は欧州の文明国以上に行き渡っている。アジアの他の国では女たちが完全な無知の中に放置されているのに対し、日本では男も女もみな読み書きできる」。これはトロイアを発見した考古学者、シュリーマンの日本観察である

▲「みな読み書き」は言い過ぎにせよ、幕末や明治に来日した外国人はその故国と比べて日本の庶民、とくに女性が本を読む姿に本当に驚いている。歴史的には折り紙つきの日本人の「読む力」だが、その急落を伝える試験結果である

▲79カ国・地域の15歳を対象に3年ごとに行われる国際的な学習到達度調査(PISA)で、昨年の読解力の成績が前回の8位から15位へと低下した。科学や数学の応用力の成績が上位に踏みとどまった中での際だった学力後退という

▲「テスト結果に一喜一憂(いっきいちゆう)するな」と言いたいところだが、この成績低下、思い当たるふしがあるのがつらい。何しろ本を読まない、スマホに没頭(ぼっとう)する、長文を読んで考える習慣がない……止まらない活字離れを指摘する専門家が多い

▲以前はゆとり教育からの路線転換をもたらしたPISAのデータだが、読解力はV字回復の後に再び低落した。川柳子や幕末の外国人を驚かせたご先祖たちに教えてもらいたくなる「楽しく読む力」である。

2012.04.17、2014.09.19、2019.12.6追加 


22

頭にガッンと一撃


ジャー・フォン・イークの表題の名前の本です。城山三郎訳で珍しいので読みました。

▼どんなことをしているときに、あるいはどのような状況で、皆さんのアイデアは閃くか? たとえば、決まりきった仕事をしているときに、質問に対する反応として、運動の最中あるいはその後に、夜更けに、自動車を運転中に、人と一緒にいるときに、など。

 私は数千人のひとにこの質問をした。その答えは二つの範疇に分けることができる。第一は「必要性」でその代表的な答はつぎのとおりである。

●問題に直面したとき
●物が壊れて、修理しなければならないとき。
●満たすべき要求のあるとき。
●期限が迫ったとき――なんとしてでも絞り出さねば。

 これらの反応は古くからの格言「必要は発明のはは」を裏付ける。しかし興味深いことに、それ以上とは言わないまでも、それに匹敵する同数の人たちが、まつたく逆の状況でアイデアを思いついていて、彼らはつぎのように答えた。

●ただ遊んでいるとき。
●関係のないことをしているとき。
●問題をいじりまわしているとき。
●気楽に構えているとき。
●ビールを一杯飲んでいるとき。

▼この事実から、私は、必要は発明の母かもしれないが、遊びが父であることは確かだと結論する。序論で述べたように、遊び心は創造力の基本である。事実、皆さんが新しいアイデアの大部分を生み出すのは、きっと、皆さんが精神の遊び場で遊んでいるときだろう。皆さんが無防備になり、頭のこわばりがほぐれて、ルール、実用性、あるいは間違いを気にしないからである。

 私は何か仕事をしているときとその仕事を中断して散歩などして、木々や花の季節の変化、また雲の流れとかをどちらかといえば無心に観察したりしているとき、ふとアイデアが浮かぶことが多いようである。

 また、人と話をしているとき、人が作業をしているときをみているとき、あまり関係ない本を読んでいるときなどにも、アイデアが得られることがある。

 基本に自分の仕事がどこかに潜在的に隠れているから、それと結びついたものが湧き出てくるのではないかと思います。動かなければあたえられるものではないようです。

▼補足:ヒルティをクリックしてください。

2008.6.4、2014.9.26補足 


23

士気七則暗誦


 私は散歩しながら、旧制中学生の時(昭和16年ころ)に学んだ漢文の一節を暗誦していることがある。

▼それは「冊子を披繙すれば寡言林のごとく躍々として人に迫る。おもふに読まざるのみ。読みてこれを行えば千万年といえども得て尽くすべからず。」と。

 さらに次の文章があったと思うが記憶に残っていない。私はこの文章は頼 山陽の 「士気七則」ものだと思い込んでいた。その後、吉田松陰の書かれたものであることを知りました。

 漢文の先生は太刀掛先生。漢文の短い文章から、だんだんと長い文章を暗誦させるように教えられていた。教室での授業の場面が頭のなかで絵として刻まれている。少し調べたくなりインターネットで「嘉言如林」で検索したところ「士気七則」の項目があった。引用させていただくと次の記述でした。


★士規七則
                   贈毅甫(ぎほ)加冠 正月五日

 披繙冊子嘉言如林。躍々迫人。顧人ず読。即而読ず行。苟読而行之。則雖千満世ず可得尽。噫復何言。雖然有所知矣。言わざること能(あた)わざるは。人乃至情也。古人言諸古、今我言諸今、亦何傷焉。作士規七則。

 書き下し文

▼冊子を披繙(ひはん)すれば、嘉言(かげん)林の如く、躍々として人に迫る。顧(おも)ふに人読まず、即(もし)読むともこれを行わず。苟(まこと)に読みて之れを行わば則ち、千満世と雖(いえども)も得て尽くすべからず。噫(ああ)、復(また)何をか言わん。然りと雖(いえど)も、知る所ありて、言わざること能(あた)わざるは、人の至情なり。古人これを古(いにしえ)に言い、今、我れこれを今に言う、亦、なんぞ傷(いた)まん。士規七則を作る。

一、およそ人として生まれたのならば、人の禽獣と異なる所以を知るべきである。そもそも人には五倫があり、その中でも特に父子の親と君臣の義を最も大なりと為す。故に人の人たる所以は忠と孝を本と為す。
*五倫:儒教で、人として守るべき五つの道。君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信を言う。

二、およそ日本に生まれたのならば、日本の偉大なる所を知るべきである。日本は万世一統にして、地位ある者たちは世々に禄位を世襲し、人君は民を養いて祖宗の功業を継ぎ、臣民は君に忠義を尽くして祖先の志を継ぐ。君臣一体、忠孝一致たるは、ただ吾が国においてのみ自ずから然りと為す。

三、士の道は義より大なるは無し。義は勇によりて行われ、勇は義によりて長ず。

四、士の道は質朴実直にして欺(あざむ)かざるを以て要と為し、偽り飾るを以て恥と為す。公明正大なること、皆これより始む。

五、古今に通ぜず、聖賢を師としなければ、くだらぬ人物となってしまう。故に読書して古人を友とするは君子の事である。

六、盛徳達材は、師の教導と友との切磋琢磨をどれだけ経験するかである。故に君子は交遊を慎む。
*死して後已む:命ある限り努力して止(や)めない。

七、死して後已むの四字は簡単な言葉だが言うところは遠大である。堅忍果決、何事にも動ぜざる者は、この言葉を置いては成る術は無い。*果決:決断が速いこと。 と、述べられていました。


 調べると記憶は正確ではなくて少し表現が違っていた。記憶すべきものによっては完全でなければならないものとそうでないものがあると思う。今回の場合は主旨さえ違わなければよしとおもっている。またふ思議に序文のみしか記憶していいなかった。あまりにも長い文章だったからだろうか? あるいは先生が強制されなかったのだろうか? いまは確かめようがない。今にして感ずるのは、七則の内容は私共が受けていた教育は明治の初めからのものであったと。ふ易流行の流れをここにも感じさせられる。最近、教育基本法の改正が話題になり論議されているが時代の変遷を思うことしきり・・・・・。
☆補足:萩市の旅ー三門

平成十八年五月五日


24

音読の効用


 読書の方法としては「黙読」が多いのではないでしょうか。「目耕」「色読」の読み方をされると教えられましたのでそれについては本章で触れています。

 昔の人は「素読」されていたとを聞き、読んでいます。特に「論語の素読などは子供時代には意味がわからなくても、大人になって役立つた」などといわれる方が多くいました。平成二十四年の読書初めに、閑谷学校(江戸時代・寛文10年(1670)岡山藩主池田光政によって創建された、岡山藩直営の庶民教育のための学校・学問所です。岡山藩の藩校であった)では論語の「素読」が行われている様子がテレビで放映されていました。

▼「素読」と意味が少し違いますが「音読の効用」について、伊藤 肇『帝王学 ノート』に記載されていましたので、これからの私の読書の参考のために引用いたします。P.122~125

 松声。澗声(かんせい:谷川の音)。山禽(さんきん)ノ声。夜虫ノ声。鶴声(かくせい)。琴声(きんせい)、棋子(きし)落ツル音(碁石ノバチリバチリ)。雨、階(きざはし)ニ滴(したた)ル音。雪、窓ニ洒(そそ)グ声。茶ヲ烹(に)ル声。皆、声ノ至情(しじょう)ナリ。而(しこ)ウシテ読書ノ声、最タリ。
         酔古堂剣掃(すいこどうけんすい)

▼扇谷正造さんが、「安岡先生の『朝の論語』を一章ずつ読んだ」と述懐していたが、多分、これは論語の原文の部分を音読したという意味を含めてであろう。

▼「シェクスピア」の研究家の中野好夫さんも、
 「少年の日々を送った四国の城下町で、住宅地域の狭い町並みを夕方歩いていると、本を朗読する声がきまって左右の家々聞こえたものだったし、家へ帰れば、自分自身が朗読者になった。そして、こういう朗読の習慣が文章を書く際にふ可欠な日本語としての一種のリズム感、文章の始末とでもいうものを体得させてくれた」といっている。
 もともと、朗読には二つの意味がある
 一つは、自分に読み聞かせることであり、も一つは他人に読み聞かせることである。そして「自分に読み聞かせる」ことが「他人に読み聞かせる」ことの基礎となり、両者がそれぞれの必要条件を充たしつつ一体となったとき、それはよい朗読ということになる。
 しかし、何よりも大事なことは、朗読するという行為そのものが自分にとって楽しいことでなければならぬのである。良寛を評した言葉に、
 「師、平生、色をなさず。疾言(早口)することを聞かず、その飲食(おんじき)、起居、舒(ゆるや)かにして愚なるが如し。師、音吐朗暢、読経の声、心耳に徹し、聴者おのずから信を発す」
 とあるが、経文の朗読もここまでできたらホンモノであろう。

▼仏教学者の紀野一義さんが学生とともに一年がかりで『正法眼蔵随聞記』を読んだ時のことである。
 一週間に一度、学生とともに大声で『随聞記』を読むと、胸の中にたまっていたしこりが何処かへ消えてしまったそうだが、これは道元禅師その人の命のリズムに共鳴したからである。
 その結果、「『随聞記』は声を出して読まねば読む意味がない」とまで断言するにいたった。

▼その紀野さんが、関西の財界人を前にして仏教の講演をしたとき、ある社長が「じつは……」といいにくそうに、
「『正法眼蔵』を長くよんでいるのですが、むつかしくて、どうしてもわからないのです。何とか、これを理解する法はありませんでしょうか」と切実な問題をぶっけられた。

 即座に紀野さんが「声をだしてお読みですか」と聞くと、案の定「いいえ」と答えた。そこで、『随聞記』の例をあげて大声で読誦することをすすめたところ、それだけで、もう心の奥深くうなずくものがあったとみえて、社長は喜んで帰った。

 「どんなに巧みに組み立てられた形而上学でも一篇の抒情詩にひとしいものだ」と喝破したのは、文豪、森鴎外である。
 思想とか、哲学というものは目で読むだけでは足りない。頭で考えるだけでも足りない。声にだして読み、耳で聞かなければならぬのは、そこに宿る詩魂が問題だからである。したがって、近ごろのように朗読の習慣がすたれ、思考力から耳の機能を追放したのは大変なあやまちである

▼こう書きながら、昔、安岡先生が指摘された言葉を痛切に思い出した。

 「孔子も『詩ニ興リ、樂ニ成ル』といっている。詩は人情の自然に発した事を詠じ、思いを述べたものであり、音楽は人の性情を和らげ、情操を涵養する。だから、詩と音楽とによって、自然のうちに人格が陶冶されるのだ。ところが、現代人、とりわけ若い人々にとって、朗詠、朗読、朗吟できるようような詩や文章がなくなってきたきたことは、大いなる不幸である。感動のあまり、思わず、声をだして誦(しょう)したくなるような文章が全く影をひそめてしまった」

 晩飯のあと、テレビのくだらぬ番組をみるかわりに、家族そろって詩や名文を朗読しあう習慣や、朝、すがすがしい気分で座右の書を朗読する習慣を、もう一度とりもどしたいものである。

所感:私は『正法眼蔵随聞記』を読むのは好きで、十数回は読んだでしょう。朗読はしていませんでした。耳を使うことにより、目、口、耳の総合力によって、内容の理解も自分なりにすすむのではないだろうかと。少なくとも脳の活性化に役立たないか。

 次に思うのは、朗読は健康のためになるのではないかと。職業により様々だとは思いますが、年配になりますと、現役と比較して人との会話が少なくて喉を使うのが少ないので声がどちらかといえばかすれ声になります。このことは定年後、学校に勤めているとき、夏休みが終わり、2学期にはいたとき、声が出にくくなり、授業が進むと平常に返る体験をしました。

また、ある年配になると食べ物を嚥下する力がよわくなり、食事の時にむせることが徐々にではあるが増えるようです。以上の効果をこの「音読の効用」を引用して感じました。

▼2013.01.02、80歳前の人と話していると、のどが渇いて困っていた、唾液の分泌が少ないためであるとのこと。そこで顎を左右に動かしてことにつとめ、毎週一回朗読の会に参加している。そして自分で本を読むときは必ず大きな声をだして読むことにして、乾きが収まったとのことである。健康保持のためによいとのことである。

2008.7.9、2012.01.09再読修整,2013.01.03再再度修正しました。


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チップス先生さようなら


 『チップス先生さようなら』
ヒルトン 菊池重三郎譯訳(新潮文庫)昭和三十九年四月二十日 十七刷

1章。P.5~

 年をとってくると、(もちろん病気ではなくて)、どうにも眠くてうっらうつらすることがある。そんな時には、まるで田園風景の中に動く牛の群れでも見るように、時のたつのがものうく思われるものだ。秋の学期が進み、日脚も短くなって、点呼の前だというのに、もうガス燈をつけずにいられないそれほど暗くなる時刻になると、チップスが抱く思いはそれに似たようなものであった。チップスは、老船長のように、過去の生活から身に沁(し)みた色々の合図でもって、いまだに時間を測るくせがあった。道路をはさんで学校と隣り合ったウィケット夫人の家に住んでいる彼にしてみれば、それも無理ない話、学校の先生を辞めてから十年以上もそこで暮らしていながら、彼とこの家の主婦が守っているのは、グリニッチ標準時間というよりは、むしろブルックフィールド学校の時間であった。

「ウィケット奥さんや」

 と、チップスはいまだに昔の快活さを失わぬあのひきつるような甲高い声で呼びかける。

「自習の前にお茶を一杯欲しいものですな」

 年をとってくると、暖炉(ストーヴ)のそばに坐って、お茶を飲み、学校から聞こえてくる夕食や点呼や自習や、消燈を知らせる鐘を聴くのは悪くないものだ。チップスはその最後の鐘が鳴り終わると、きまって時計のネジを巻き、炉除けの金網を暖炉の前に立てかけ、ガス燈を消し、そのうえで、探偵小説を持って寝床に入るのだった。ものの一頁も読むか読まぬうちに、もう静かな寝息をたてたが、それは身を変えて別な世界に入って行くというよりは、上断の知覚作用を強めるために神秘な力を借りたと評した方がいいようなものものだった。すなわち、彼の夢現(ゆめうつつ)の状態は昼夜の別なく続いていたからである。

 彼は年をとってきた(だが、もちろん病気ではない。)メリヴェイル医師も言うように、まったく、どこといって具合の悪いところは少しもなかった。

「どうも、あなたの元気にあ、かないませんな」

 と、たいがい二週間ぐらい間をおいては診に来てくれるブルックフィールドは、シェリー酒をなめながら驚いて見せるのである。

「あなたぐらいの年になったら、とっくにどこか老衰(かたびし)してきてるものだが、こんな例は珍しいことでしてな、天寿を全うする倖(しあわ)せ者の仲間入りをしたというわけですね。だが、これあ勿論、死ぬことを仮定しての話。いずれにしても、あなたのような人こそ、世にまれなオールド・ボーイの典型的人物というべきでしょうな」

 しかし、チップスが風邪をひいたり、東風が沼澤地方を吹きまくる時があると、メリヴェイルはウィケット夫人を玄関まで連れだして囁(ささや)くことが、時々あった。

「気をつけてあげて下さいよ。胸部が……参っちまったらお終いですからな。いやあ、どこといって悪いところは全然ないのだが――年が年だし、しかもそいつがいつか命取りなるという極めて厄介な奴ですからな……」

 年が年……正にそのとおりだった。一八四八年に生れ、あの大博覧会見物に連れて行かれたのは、思えば、まだよちよち歩きの子供の時分だった。今どき、こんなことを吹聴して得意になれる人間なんて、そうたんとは生きていまい。のみならず、チップスはウェザビー時代のブルックフィールドだって覚えている。まずザラにある話ではなかった。ウェザビーは、一八七十年(――という年は、忘れもしないあの普仏戦争勃発の年だが)あの頃、すでにもう老人だった。チップスがブルックフィールドに履歴書を提出したのは、メルベルで一年勤めた後だった。何故メルベリを罷(や)めたかといえば、ひどくいじめられて、こちも愛想がつきたからであった。だが、ブルックフィールドは滑り出しからして気に入った。赴任の打ち合わせする最初の面会日のことを、チップスはいまでも思い出す。爽(さわや)かに晴れあがった七月のことで、香(かぐ)わしい花の匂いが大気に満ち、そして運動場からはクリケット競技のあのブリック・ブロックという球の音が耳に響いてきた。丁度ブルックフィールドはバーンハーストと対校試合をやっていて、折からバーンハーストの小柄なデブ公が見事百點を叩き出したところだった。そんなことが上思議に、目に泛ぶようである。ウェザビーその人は慈父のごとく、応対もまた鄭重であった。が、気の毒に、後から考えれば、すでにその頃病気であっちゃにちがいない、というのは、チップスが第一学期の授業を控えた夏休みのうちに亡くなってしまったからである。しかし、いずれにしてもこの二人は、親しく話し合っていた。チップスはウィケット夫人の家の暖炉にあたりながら考えることがあった――あおの老ウェザビー先生を生(いき)々と思い出せる人間は、まず世界中でわしくらいなものかも知れんな……生々と、まさにそのとおり、時々心に泛ぶ光景は、あの夏の日のことで、ウェザビーの書斎に射しこんだ陽が、空気によどむ埃(ほこり)をキラキラ照していた。 

「チッピング君、君は若いし、ブルックフィールドは古い学校です。老若結び合ってうまく行く結合があるものです。君の熱情をブルックフィールドに注いで下さい。ブルックフィールドも、それに対して何か恩返しせずには措かないでしょう。ただ生徒に悪戯を許すような隙を見せないことが大事ですぞ。察するところ、ああ、メルベリでは、生徒に少しばかり甘過ぎたんじゃなかったですかな」

「はい、そんなことだったかも知れません」

「まあいい。君はまだ前途洋々、それもいい経験だったとしておいてさ、さてまたこの学校で機会を与えられたというわけだ。初めが大事、厳格な態度をとり給え、若い経験を生かす秘訣はそれなんだ」

 その忠告は当っていたのだろう。最初の自習時間を監督した時のあの恐ろしい試練は今でも忘れられない。すでに半世紀以上にもなる或る九月の夕方のことだった。合併教室は、哀れこの合法的な犠牲(いけにえ)を急襲せんものと、手具脛ひいた血気盛りの腕白者でぎっしり詰っていた。血色がよく、高いカラーをつけて、(当時行われた奇妙な風習の)頬鬚を生やしたこの青年教師は、五百を数える上作法極まるチビどもに翻弄されようとしていた。新任教師を虐め悩ますことは、生徒たちにとっては愉快な芸術であり、趣味を唆るスポーツであり、一種の伝統でもあったのである。一人々々だと行儀のいい少年たちでも、五百人も集まると情(なさけ)容赦もあらばこそ、それこそ始末に負えなくなるものだ。彼が教壇の机まで歩いて席に就くと、シーッという声がした。彼は殊更こわい顔をして、心の動揺を見せまいとした。背後で時を刻む大時計の音とインクやニスの匂い、血のような赤い太陽が焼絵硝子(ステインド・グラス)の窓から斜にさしこんでいた。誰か机の蓋をわざとパタンと閉めた者があったが、ここでマゴマゴするのは大禁物、間髪を入れず相手の機先を制しなければならぬ、鼻にもひっかけないふうをしているに限るのだ。

「キミ、その五列目にいる、赤い髪の、キミ。君のなは何というんだ」

「はい、コリーであります」

「よろしい。ではコリー、百行清書のこと……罰だ」

 それから後は、面倒なことは何も起こらなかった。彼は第一回戦をものにしたというわけである。

 後年、このコリーがロンドン市参事会員になり、従男爵とかその他いくつも立派な肩書を持つな士になった時、彼は(また赤()の)息子をブルックフィールド学校に入れた。すると、チップスが言ったものである。

「コリー、君のお父さんは、わたしが二十五年昔ここに赴任してきた時、罰を食った最初の生徒だった。罰を食うには食うだけの理由があったのだが、さて今日もそれを食って見るわけだ」

 皆は笑ったの笑わないのってなかった。父親のリチャード卿も、次の日曜便で、息子からその話を報告されると、いやもう腹の皮をよじらんばかりであった。

 さてまた、その後何年かたつと、洒落は一層生彩を放つのである。又してコリーが入校してきた。すなわち、一番初めのコリーの息子であるコリーのそのまた息子である。この頃になるとチップスは、「あーム」という何も意味のない音(おん)を話の間に挟むのが癖になってしまったが、

「コリー、君は……あーム……遺伝の……あーム素晴らしい実例だ。わしは君のお祖父さんを覚えているが……あームお祖父さんはな、ラテン語の絶対奪格(アブレテイブ・アブソリューツ)が最後まで解らずしまいだった。つまり、頭が悪かったんだな。君のお祖父さんという人は。ところが、君のお父さんはな、その壁ぎわの向うの机にいつも坐っていたんだが……ま、似たり寄ったりというところだった。しかしだ、わしの考えセで、これだけは絶対だと思うんだが、ね……コリー君や……君は……あーム三人ンのうちではズバ抜けて頭が悪いよ!」

 ゴーッと起る哄笑。

 まことに見事な洒落であった。が、これも今ではだんだん生彩を失って行き、それどころか、何となく哀しいものにさえ思えてくる。秋の風に窓がガタガタ鳴るのを耳にしながら、炉辺に坐っていると、可笑しさと哀しさとが、波のように後から後から思い出の中に去来して、チップスは涙をこぼしてしまうのだが、そこにウィケット夫人がお茶を入れてくることがあると、彼女はチップスが笑っているのか、泣いているのか、判断に迷うのであった。チップスだって同じことだったのである。

2章。P.12~

 塁壁を聯想させるような楡の木立の後ろの道の向うに、ブルックフィールド学校が在って、それは秋の蔓草に蔽われて小豆色をしていた。十八世紀の建物が集って中庭を囲んでおり、それに附属して五千坪ほどの運動所、つづいて小さな学校村と広々とした沼沢地があった。ブルックフィールドは、ウェザビーも言ったように、歴史の古い学校であった。エリザベス朝に初等学校として設立されたもので、運よく行けばハロ―校に劣らず有名になったかも知れなかった。が、実際はその運という奴にあまり恵まれず、永い歳月の間には幾盛衰の波を経歴して、殆ど閉校の一歩手前まで衰微した時代もあれば、また、校名一世を風靡せんばかりの華々しい時代もあった。校舎の本館が再築され、同時に大増築が行われたのは、ジョージ一世の御代、すなわち、その後者に属する時代でのことであった。その後、ナポレオン戦争からヴィクトリヤ朝中葉まで、学校は、その数でも、世間の評判でも、また香(かんば)しくなかった。一八四〇年になると、ウェザビーが赴任して来て、いくぶんか盛り返しはしたものの、以来、一流校の位置を占めることは、その後の歴史では絶えてなかった。しかし、二流では立派な学校であった。五六の有名な家族がこれを維持し、時代の歴史を作る人物、すなわち、判事、国会議員、殖民地行政官、二三の貴族並びに僧侶などを生んだ実例も相当あった。しかし、卒業生の多くは実業家とか製造業者とか医者、弁護士になり、郷士、教区牧師になって地方に散在している者の数も尠くはなかった。これを要するに、人前を繕ふ体裁やだったら、何だか聞いたことがあるように思う、ぐらいなことは言いかねない程度の学校だったのである。

 しかし、その程度の学校でなかったら、おそらくチップスを採用するようなことはなかったであろう。何故なら、社会的或いは学問的、孰れの点から考えても、ブルックフィールド学校と同様、チップスは、立派ではあるが、別して優秀というほどの人物でもなかったからである。

 初めてこの事実を紊得するまでには、ちょっと時日がかかった。といって、彼がべつだん傲慢だとか自惚れだとかいうのではなく、二十代の彼も亦、その年頃の青年の例に洩れず、雄心勃々たるものがあったからである。彼の夢は、行く行くは第一流の学校の校長か、さもなくば、せめて教頭まで漕ぎつけることであった。ところが、幾度か試験を経、失敗を繰り返して見ると、改めて、自分の資格ではふ充分だということが、だんだん解ってきたのであった。例えば、彼が持っている学位は、特別どういうものでなく、その訓育法まことに適切で、巧くなっていったというものの、だかと言って、いかなる事情のもとでも、絶対信頼が置けると言い切れるほどのものでもなかった。それに財産がわけではなし、また身内関係で有力な手引きを持っているわけでもなかった。かくて、ブルックフィールドで教鞭をとること、すでに十年にもなる一八八〇年頃、彼が漸く悟り始めたことは、ここを去って何處かへ栄転出来るなぞ、思いも及ばないということであった。が、それと同じ頃、彼は一方では現在の地位に甘じんていられることが、心の隅でいっそう楽しくなり始めていたのでもあった。四十になると、彼はここにすっかり根をおろして、生活を心から楽しんだ。五十になると、首席教師になった。六十になると、まだ青年の新校長のもとで、彼はブルックフィールドそのものであった。同窓会の晩餐会では主賓として招かれ、ブルックフィールドの歴史と伝統とに影響を及ぼすようなあらゆる事件に対しては控訴院の役目をした。こうして一九一三年、六十五歳になった時に職を退き、金一封と机と掛時計とを贈られ、それから、道一つ距てた学校隣りのウィヶット夫人の家に同居することになった。身分相応の経歴が、それに相応しい幕を閉じた。例の騒々しい学期末晩餐会の席上で、皆はチップス先生萬歳を三唱した。

 萬歳三唱。だが、それで萬事終ってしまったわけではない。思いがけないエピローグ。彼は吊残を惜しむ観客のアンコールに應えて、もう一度現れるであろう。

退職後、することはいくらでもあった。新入生をお茶に招(よ)ぶこともあったし、ブルックフィールドの運動場で催される主な競技は見落とすことは出来なかった。一学期に一度は校長と会食し、また一度は教師たちと食事を共にすることになっていた。また校友会名簿の準備と編集もあった。彼は、それから校友会クラブの会長の役を引き受け、ロンドンの晩餐会にも出かけた。

  13章

▼第一次世界戦争(1914~1918)の4年 P.71~

 戦争下の四年。

 初めは衝動を受けた。が、見透しについては楽観的であった。マルヌ河畔の戦、ロシアの壓倒的軍勢、キッチナー元帥。

 「先生、この戦争、長びくとお思いになりますか」

 チップスが、シーズン初めの練習試合を観ていると、そう訊くものがあり、それに対する、彼の返事は至極朗かなものであった。彼は、世間一般と同様、如何ともし難い間違いをしていた。が、戦争の雲行きが怪しくなるにつれて、世間一般とは反対に、最初の思い違いを隠すことはしなかった。

「何とかして、……あ!……クリスマスまでに、あ!……片付けたいものだ。ドイツの敗けは歴然(はつきり)しているじゃないか。それなのに何だって、君は兵隊に……あ!……なりたいと考えてるの、フォレスタ?」

 冗談のつもりでそんなことを言った――というのは、フォレスタはブルックフィールド始まって以来のチビの新入生で、泥だらけの蹴球靴をはいても、背丈がやっと四呎(フイ―ㇳ)ぐらいしかなかったからである。(しかし、後日になって思い合わせると、まんざら冗談でもなかった。何故なら一九一八年、彼はキャムプレエンの上空で撃ち墜されて、戦死したからである。)しんかし、当時は、先がどういうことになるか、誰にも想像がつかなかった。九月になってブルックフィールドの卒業生が初めて戦死した。皆が受けた感動は何となく悲劇的でさえあった。その報(ニュー)知が入った時、チップスは、百年前、この学校の卒業生がフランス軍と戦っていたことに考え及んだ。或る意味において、一つの世代の犠牲が他の世代を棒引きにしてしまうのは可笑しなことだった。彼はそのことを、寄宿舎の学生委員長をしているブレイドに話してきかせようと思った。が、まだ十八歳の子供で、士官候補生になる訓練を既に受けていたブレイドは、ただ笑って何も答えなかった。そんな史実とこれと、いったいどんな関係があるというのだろう? 例によってチップスの一寸した思いつき、それだけのことに過ぎないんだ。

 一九一五年戦線は海岸から瑞西(スイス)まで膠着状態に陥った。ダーダネルズ海峡、ガリポリ半島方面の戦況。ブルックフィールド附近には兵舎が、続々建った。兵隊たちは運動や訓練のために、運動場を使用した。ブルックフィールド士官養成隊も急速に発展した。若い教師は大方出世するか、軍服を着用した。毎週日曜日の夜、晩祷の後の礼拝堂で、チャタリス校長は戦死した校友のなを、略歴を附けて、読みあげた。悼(いたま)しさで胸がいっぱいになる思いだったが、チップスは、礼拝席の後ろの席にいて、考えるのである。校長にとってはtふぁだ名前だけですむ。自分のように顔を憶えていjるわけでないからまだいい……。

 一九一六年。ソンム河畔の大會戦。そして、或る日曜の晩には、二十三人の戦死者のなが読みあげられた。

 あの上幸な七月の終わる頃のことである。或る日、チャタリス(ブルックフィールドの校長)は、ウィヶット夫人の家に訪ねて来て、チップスと話した。見たところ過労と心痛からひどく窶(やつ)れていた。

「實を申しますとね、チッピングさん、近頃は気が揉めることばかり、すこしも落々(おちおち)出来ないのです。御承知のように、わたしは三十九になります。だもんですから皆はこんな時勢にわたしが安閑とこうしていることに慊らないらしいのです。間(ま)の悪いことには、わたしは糖尿病を患っていましてね、そのため、どんなヘッポコ軍医にも通して貰えないので……かといって、玄関前(さき)に、医者の証明書を貼っておくわけにもいきません」

 チップスは初耳だった。そしてこのチャタリスが好きだっただけに、驚きに胸を衝かれた。校長はそれからなお話をつづけた。

「現在の学校の状態は改めて申し上げるまでもなく御覧のとおりです。ロールストン前校長は、若い教師を補育しました。この教師たちは、勿論皆立派でしたが、しかし、今やその大半は入隊してしまい、その代わりが出来たのです。ところがこの代りの連中ときたら、箸にも棒にもかからぬ代物ばかりです。先週の晩のことでした、彼等は予習している生徒の首にインクを流しこむような乱暴をしたのです。莫迦なことをやるにもホドがる。まるで気狂いです。それで、莫迦者どもにも委せっ放しにしておくのも心もとなく、わたしも自分で授業に出、予習を見なければならず、そのため仕事に追われて夜もろくろく眠らないで、しかも、皆から徴兵忌避者として冷たく当たられている始末です。それやこれやでこれ以上に辛抱することは、到底出来ません。もし、このままの状態で来学期になったら、マイってしまいそうです」

 「お気持ちはよく分かります」

 チップスは同情して言った。

 「そう言って頂いて、嬉しゅうございます。わたしが今日こちらへ伺ったのも、そのお言葉に甘えて申せば、一つお願いごとがしたかったのです。早い話が、実は、もし、やってやろう、やってもいいという風に思って下さいますなら、いかがでしょう暫く学校に帰って来て下さいませんか。健康の御様子だし、それに学校のことなら知らないことはないというのは、先生だけです。べつに骨の折れる仕事を持つていただくつもりはありません。楽な仕事で結構なので、気が向いたことをチョクチョクやって下されば、わたしの方はそれで満足なのです。一番お願いしたいのは、実際の仕事を手掛けて貰うより――勿論それも有難いには有難いのですが、それよりも、学校にいつでも居て下さるということ、それだけが望ましいのです。先生ほど皆から親しまれたかたもありませんし、現在でもそれは渝りありません。ですから、もし、てんでに飛び去る危険が彼等にあるなら、それを纏めるために先生のお力を拝借さしていたきたいのです。しかも、これは単に想像でなく、その危険が既におこりそうなのです……」

 チップスは、呼吸を弾ませ、すがすがしい喜悦(よろび)を感じて言った、

 「承知しました……」

  14章 P.76~

 彼は相変わらずウィヶット夫人の家に部屋を借りて、そこで暮していた。が、毎朝十時半頃になると、上着を着、襟巻をして、それから道を横切って学校へ行った。體の調子は頗る上々、実際の仕事も負担にはならなかった。四つ五つのクラスのラテン語とローマ史を受持った。科目も昔どおりなら、発音も昔どおりというところだった。カヌリヤ法典では、例の洒落が相変わらず飛んだが、新しい世代の生徒は初めて聴くのだから、これはこれで大成功である。彼はその効果に頗る御機嫌であった。が、それでも演芸館の人気歌手が、本当に最後の舞台をすました後で、また戻って来た気持ちがしないでもなかった。

 生徒たちの間では、彼が生徒のなと顔とを忽ちにして覚えてしまうその素晴らしさが、大変な評判だった。が、道を置いたすぐ隣から、彼が離れ難いつながりを学校に持って暮らしていたかというこには、思ひ及ばなかった。

 彼は全く素晴らしい成功を収めた。妙なことから学校に手を籍(かす)ようになったのだが、しかし、その間(かん)のことは皆が承知もし、また感じとつてもくれた。彼は生まれて初めて、自分が必要欠くべからざる存在であることを感じた。自分の心に最も近く存在するものに対して、無くてはならぬものだということを感じた。この世に生きる限り、これにまさる崇高な自覚がまたとあるであろうか。しかも、それを、彼は遂にわがものとしたのであった。  

 彼は新しい洒落をいくつも作った。――士官養成隊について、食糧配給制度について、また家の窓には残らず取附けなければならない防空用遮光板(ブラインド)について。そしてまた、毎週月曜日の学校の食卓に、何とも言えぬ味がする肉入饅頭(リソウル)みたいなものが現われ始めると、チップスは、辛抱出来(アブホー)ないという意味から「アブホレンダム」と名をつけた。その話は学校中に広まった――チップスの最近作を知っているかい? とね。

 チャタリス、一九一七年の冬、病気になった。それで一生の間に二度勤めるというわけで、チップスは再びブルックフィールドの校長事務取扱になった。四月になると、チャタリスは亡くなった。評議員会はチップスに当分現職を続けてくれないかと、頼んできた。その返事として、公式の任命をしないということだったら、引受けても宜しいと、彼は答えた。遂に手の届くところに来たこの最後の栄誉を、彼は本能的に振り捨てたわけだが、理由は、どう考えても適任でないことを悟ったからである。彼はリヴァズ卿に言った。

「ねえ、わしは若い者と違うんだし、あんまり、……あー……期待をかけられても、困ってしまう。わしは、ほらどこでも見掛けるあの新米の大佐や少佐のようなものでさ、謂わば、戦時僥倖者(まぐれあたり)ですよ。兵士上がりの将校、まあ、そのへんのところですな」

 一九一七年。一九一八年。チップスはそれを切り抜けた。毎朝、彼は校長室に坐って、問題に目を通し、ふ平や要求を処理した。豊富な経験から、温かで穏やかな確信が自然と現れてきた。釣合の感覚を保つこと、これが大事なことだった。世界の多くが益々それを失っていた。だから、適当な場所にそれを保っておくのは好いことだし、当然またそうあるべきだろう。

 日曜ごとに、礼拝堂で、例の悲痛な戦死者名簿を読みあげるのは、今や彼の仕事になった。そして、声涙ともにくだる彼を見るのは哀しかった。学校中の話では、そう、それも無理のないことだ。老人のことだ、涙もろくもなるだろう、と。もしもこれが他の者だったら軽蔑したかも知れないことも、優しく宥された。

 或る日、彼は瑞西の、友人たちから手紙を貰った。厳重な検閲を受けたあとがあったが、耳新しい報せが認めてあった。次の日曜のこと、いつものとおり校友戦死者のなと、その経歴を読みあげた後で、彼は一寸間をおき、それから附け加えて言った。

「戦前からここにお在(いで)になる少数のひとは、ドイツ人のマックス・シュテーフェル先生を記憶されていることと思います。先生はドイツに帰宅していらっしゃる時に、この戦争が勃発したのでありまして、当校では皆から親しまれ、また友人も沢山ありました。ところで、先生を記憶しているかたには、哀悼に堪えないことと思いますが、先生は先週、戦死されたということであります、西部戦線で……」

 と言って、自席に腰をおろした時に、彼は、何か思い切ったことをやってのけた緊張から、やや蒼褪めていた。誰に相談もなく、やったことなので、したがって、他の人に迷惑がかかることもあり得なかった。礼拝堂から出た時、彼は誰かが論議し合う声を耳にした。

「西部戦線で、とチップは言ったな。その先生はドイツ軍のために戦っていたってわけなのかい?」

「そうらしいね」

「だったら、他のひとと一緒にしてなを読みあげるなんて、可笑しいとおもわない? つまり、敵じゃないか」

「なあに、チップの一寸した思いつきで、そんなこと言ったんだろう。あの年でも、まだ相当やるからな」

 チップスは、部屋に戻ってからも、その批評が別にふ愉快ではなかった。さよう、この年でも、まだいろいろ思いつきがあるんだ、――気狂い染みた世界ではだんだん稀しくなってくる威厳と寛容とを併せ持った思いつきが、と。それから、彼が考えたことは、ブルックフィルドもそれを自分から学ぶだろう。さもなければ、自分以外からはもう学べなくなっているということであった。

 或る時、クリケット観覧席の附近で行われている銃剣術訓練について意見を求められたことがあった。すると彼は、その頃、生徒たちからいつでも大仰に真似されていた例の懶(ものう)げで、少し喘息ぎみの調子で答えた。

「どうも、わしには、……あーム……莫迦々々しく野蛮な殺人術としか思われんな」

 この珍談はすぐにひろまって、頗る皆を愉快がらした。陸軍省の高級将校に向って、チップスが、銃剣術戦法なんてものは野蛮だと、言ったんだとさ。いかにもチップスの言いそうなことだよ。それから皆は彼のために一つの形容詞を、ようやく使われ始めていた形容詞を見つけ出した、かれは戦前派だ、と。

  15章 P.80~

 或る満月の夜のことだった。チップスが四年下級にラテン語を教えていると、空襲警報が鳴り出した。すると、砲撃が忽ち始まって、榴散弾の破片がバラバラと附近に落ちてきたので、チップスは、校舎の一階からそのまま動かないで凝っとしている方がいいと思った。頑丈に出来た建物で、防空壕としてもブルックフィールドにこれ以上の所はなかったし、もし直撃弾を喰ったら、それこそ何処に居ようと、生命なんてものは、望んで得られるものではなかった。

 そこで、彼はかまわずラテン語を続けていった。ドカンドカン響き渡る砲声と高射砲弾の耳を貫くような唸りに、ともすれば消されそうになる声を大きくして、生徒は苛々して、勉強に身を入れてるものは殆どなかった。彼は静かに言った。

「ロバートスン、世界歴史のこの特別な瞬間に、……あーム……二千年前ゴールで、シーザーが何をしようと、そんなことは、……あーム……何となく二義的な重要性しかなく、また、……あーム……「tollo(トロ)」という動詞がふ規則変化をするなんてことは、……あーム……どうでもいいと、君は思うかも知れない。しかし、わしははっきり言っておくが、……あーム……ロバートスン君や、真実はそんなものじゃないんだと」

 丁度その時、凄まじい爆発の音が、それもすぐ近くで爆発した。

「……いけないんだ、……あーム……もの事の重大さを、……あームその物音で判断してはな。ああ、絶対にいけないんだ」

 クスクス笑いが聞えた。

 「二千年も長い間、大事がられてきた、……あーム……このようなことは、テキ屋が、実験室で、新種の害悪を発明したからといって、そんなもので、消し飛んでしまうものではないんだよ」

 疳高いクスクス笑いが起った。というのは、バッフルスという蒼く痩せて医学的にいうとふ適任である科学教師に、テキという渾ながついていたからで――。この時また、先刻よりはもっと近くで、爆弾が落ちた。

「さて、……あ……さっきの続きを始めよう、やがて、……あーム……中断される運命にあるにしても、何か、……あーム……もっとも適切なことをやっていることにしよう。誰か文脈解剖をやってみようというものはいないかな」

 丸ボチャで大膽で悧巧で生意気なメイナードが手をあげた。

「はい、ぼくがやります」

「感心々々。では四十頁の、一番下の行から始めてごらん」

 爆弾はまだ落ちている。聾になるくらい凄い音だった。そのたびに、校舎全体が土台を持ち上げられるような揺れかたをした。メイナードは少し先をめくって指された頁に眼をおとし、疳高い声で始めた。

「ゲヌス・ホック・エラット・ブックネ――これは謂わば戦争でありました。クォ・セ・ゲルマニ・エクセルクェント――ドイツ人はセッセと活動しました。――ああ、先生、これはうまい、ここのとっころはダンゼン面白いですね、先生――先生の傑作の一つ……」

 皆が笑い出した。するとチップスが言う。

「どうです、……あーム……こんな死んだ言葉が、……あーム……また生返ることが、時には出来るということが、今や皆にわかったというわけだな、え、そうだな?」

 後になって、ブルックフィールド校の中や周囲(まわり)に爆弾が五つも落ちたことがわかり、一番近い奴の落ちたところは運動場のすぐ外側だった。九人もの爆死者が出た。

 この時の話は、次から次へとひろまって、だんだん潤色されていった。

「何しろ、あの老人ときたら、髪の毛一筋も動かさいないんだ。そして、古くさい文句なんぞ引張り出してきてさ、それでもって現在の事件を例証するんだよ。何だかシーザーの中にあるドイツ人の戦いぶりのことだったな。シーザーの中にそんなことがあったと考えたことはあるまい?

 そして、チップスの笑いかた……あの笑いかたを知っているだろう……涙を流してさ……あんなに笑ったの、まず見たことないな……」

 彼は伝説であった。

 古ぼけて、ボロボロになった教師服(ガウン)、危く躓きそうな歩きぶり、鉄縁の眼鏡越しにこちらをのぞく優しい目、それに妙におとけた話しかたなど、彼のブルックフイールドにおける在りかたは、それでなくては通用しなくなった。

 一九一八年十一月十一日

 ニューズが午前中に入った。一日休校の指示があった。そして食堂係は、戦時中の配給の許すかぎり盛大な御馳走を出すようにとの達しを受けた。喝采したり歌ったり、パン合戦をやったり、食堂はお祭騒ぎだった。その騒ぎの最中に、チップスが顔を出した、すると、シーッと静かになったが、やがて嵐のような拍手が湧き起った。一同は恰も勝利の象徴をでも仰ぐかのように、凝っと眼を光らして彼を視つめた。彼は一段高い席へ歩いて行った。何か話をしたい風だった。一同は静粛にしてそれを待構えたが、彼は一寸頭を振ったきりで、また、出て行ってしまった。

 湿った濃霧の日であった。中庭を横切って食堂まで歩いて行くうちに、寒気がした。翌日、彼は気管支炎で床についたが、そのままクリスマスまで寝てしまった。しかし、既に菟十一月十一日のあの晩、食堂に行った後で、彼は理事会に辞表を提出していたのである。

 休暇後、学校がまた始まった時、彼はウイケット夫人の家に戻っていた。彼の申し出によって、こんどは送別会も贈物もなく、後任者と握手をしたきり「事務取扱」という言葉は公文書から消えた。「當分」は終わったのである。

  18章 P.80~105

 眼が醒めた時――というのは眠っていたとばかり思っていたからだが――寝台に寝ていることが解った。見れば、メリヴェイルが傍にいて、上から窺きこみながら、ニコニコしていた。

「さてさて、ひと騒がせ……気分はどんなですか? 本当に吃驚させられましたよ」

 チップスは、一寸息をのんでから口を動かしたが、その声の弱々しさは自分ながら驚くくらいであっいた。

「どうか……あーム……どうかしたんですか」

「なあに、一寸、気が遠くなられたんですよ。ウィケッㇳ奥さんが戻って来て、わかったんですが、本当によかったですよ。もう大丈夫です。安心なさい。で、眠かったら、お眠りなさい」

 そんないいことを考えてもらえたことが彼は嬉しかった。何だかすっかり気が弱ってしまったものだから、どういう風にして二階に運びあげられたか、ウィケッㇳ夫人が何を言ったかなど、そんな細々したことに、もう煩わされたくなかった。が、ふと気がつくと、寝台の反対側にそのウィケッㇳ夫人がいるではないか。そしてニコニコ笑っている。僕は考えた。おやおや、何だってここに来ているのだろう? それから、メリヴェイルの蔭にいるのはカートライトさんじゃないか、新任の校長の――といっても既に一九一九年以来ブルックフィールドにいたんだから、今更「新任」もないものだが――そのひとだ。それから通称「ロディー」と呼ばれているバッフルスもいる。何だって、皆はここに来ているのだろう? まあいいや、何故だろう? なんて、そんなことを気にすることはない。ひと眠り眠ることにしょう。

 しかし、それは眠っているのでもなければ、かといって丸っきり眼が醒めているのでもなかった。その中間の夢現(ゆめうつつ)の状態で、いろんな夢と声がそこらじゅうにいっぱいあった。なつかしい数々の場面や、昔の歌がきれぎれに、キャスィーが昔合奏したモーツァルトの三重奏――喝采と哄笑と大砲の音、――すべてそのものの上に流れてくるブルックフィールドの鐘の音、ブルックフィールドの鐘の音。

「そんなわけで、もし平民嬢が貴族氏に結婚したいと望んでいるのに……いいえ出来ますわよ。嘘つきね……」洒落……我慢出来ない肉(アブホレンダム:abhorred)。……洒落。……おお、マックス? さあ、お入り。本国(ドイツ)から何ぞお便りがありましたかな?……オー・ミヒ・プレテリトス。……ロールストンは、わしのことを投げやりで能率的でないと言った、が、わしがいなくてはやって行けなかったじゃないか、……オビリ・ヘレス・アゴ・フォルティブス・エズ・イン・アロ。――誰か、これを訳せるものは、手をあげて?……洒落なんだがね。……

 一度、彼は皆が同じ部屋で自分のことを何か話しているのを耳にした。

 カートライトが医者のメリヴェイルに囁いていた。

「気の毒になあ、一生ひとりで淋しく暮してきたにちがいない」

 すると、メリヴェイルが、それに応えた。

「ずーっと一人で通してきたんじゃありません。奥さんがあったんですよ」

「おや、そうでしたか。ぜんぜん知りませんでした」

「なくなりましてね。そう、もう三十年……も昔のことになりますか、或いはもっとかな……」

「気の毒にね。それにお子さんもなかったのは、よくよくですな」

 この時である。チップスは出来るだけ大きく眼を開き、皆の注意を惹くように努めた。声を大きく出して話すのは骨が折れたが、何やら話したげな様子であった。皆は顔を見合して、ずっと側に寄って来た。

 彼はものを言うのが、いかにもまどろっこしそうだった。

「何だか……あーム……皆さん仰有(おっしゃ)ったったようですな、このわしのことを、今ね?」

 バッフルス老人はニコリとして、言った。

「何にも……何にも。ただね、あなたがその静かな眠りからいつ醒めるんだろうなんて話してただけですよ」

「ううん……あーム……たしか、たしかにわしのことを何とか言ってたようだが……」

「気にされることじゃ何もないんです。本当に、大丈夫ですよ……」

「誰かが、子供が無くて、……あーム……気の毒だっていうようなことを言ったように思うけど。……だけどね、わしにはあるんだよ……」

 居合したものは、微笑(わら)っているだけで、それには何も応えなかった。すると暫くして、チップスは弱々しいクスクス笑いを始めて言った。

「たしかに……あーム……ある」

 となおも、楽しげにつづけた。「何千も……何千もね……それが皆、男の子ばかりでね……」

 すると、その何千人の子供の大合唱が、これまで聴いたことのない壮大さと美しさと温い慰めとをもって大団員の階調(ハーモニー)を歌いあげるのであった。……ペティファ、ポーレッㇳ、ポースン、ポッツ、プルマン、パヴィス、ピム・ウィルスン・ラドレッㇳ、ラプスン、リード、リーバー、レディ・プリマス……さあ皆んなわしの周囲に集りたまえ、お別れの言葉と洒落をやってあげよう……ハーパー、ヘイズリッと、ㇵッフィルド、ヘザリ……これがわしの最後の洒落さ……わかったかな? ……ボーン、ボストン、ボヴィ、ブラッドフォド、ブラッドリ、ブラモール・アンダスン……君たち、今何処にいようと、何事があっても、この瞬間、皆わしのところに集って来てくれたまえ……この最後の瞬間……わが子供たちよ。

 チップスは、やがて眠りに沈んだ。

 あんまり安泰(やすら)かに見えたので、お寝(やす)みと言うのも憚られた。が、翌日、学校で朝食の鐘が鳴った時、ブルックフィールドは訃報を受けとった。

「ルックフィールドは、彼の愛すべき人格を決して忘れることはないと思います」

 カートライト校長は全校生を前にした話の中でこう言った。が結局一切のことが忘れられてしまうからには、それも理に合わない話である。しかし、それは兎も角として、リンフォド少年だけは忘れないで、いつまでも話すことだろう。

「亡くなる前の晩だったな、ぼくは、チップスに、さようならって言ったんだよ……」

    あとがき P.113~116

 ジェムズ・ヒルトン(James Hilton)は英国のランカシャ県、マンチェスタとリヴァプール両市を結んだ直線の、丁度真ん中頃にあるリイという町で生まれた。父親がロンドンで先生をしていた関係から、幼時に郷里を出て、ロンドンで基礎教育を受け、中等教育はリース校で、大学はケンブリッジを出た。専攻は歴史である。

「彼から受ける印象は、小柄で、控え目、挙措動作はまことに静かな、翳のない顔立をした英国人。綺麗な髪をし、歯切れのよい話しぶり」だったということだから、まず典型的な英国の紳士だったということが、想像される。 

 このような学歴と人柄とから、「チップス先生さようなら」(Good-bye, Mr.Chips,1934)が、作者の出身校であるリース校で得た体験に基いて書かれたのであろうことは、誰にでも直ぐ感じられることで、私も初めは、そう考えたものである。ヒルトンと同じくリース校出身の友人に、わが国では池田潔さんがあって、この人の著書である「自由と規律」(岩波新書)を通読するに及んでその感を益々深くした。ところがその後「ライフ」その他の刊行物で写真紹介された英国の代表的なパブリック・スクールの生活なるものを見ると、場所と人こそ違うけれどもヒルトンが本書で物語る雰囲気は、いずれの学校を覗いても些かも渝らない。どの学校も皆同じである。すると、もちろんヒルトンは彼の出身校を舞台に物語を展開しているようだが、実は、ブルックフィールドという仮名の学校に、英国のパブリック・スクールの在り方を集約しているとも考えられて、そこで、池田さんにこれを糺すとと、果たしてそれに違いなかった。作品鑑賞には直接かかわりないことだが、これは英国の教育に関心を抱く人には注意を惹くことであろうと、思われる。

 この「チップス先生」は、彼が三十三歳の時、「ブリティシュ・ウィークㇼ」から、そのクリスマス号付録のため、執筆を依頼されて、出来上ったものである。締切まで二週間あったが、着想と執筆が最後の四日間。その着想は、焦々したあげく、その辺を自転車で廻って来た時の霊感から授かった、というのは有名な話である。この作品の前後に、彼は数々の小説を発表している。そして、その都度好評を博し、劇化され、映画化されるものもあったが、しかし、それらの作品は、概して、筋を追うことにのみ急で、作意が見え、叙述も平板で、余韻に乏しく、通俗、むしろ退屈なものに、私は思っている。この作者は元来、思想や問題を先に立てて、執拗にそれを追究して見せるとというよりは、むしろ、物語を物語って見せることに優れ、素質的にもそれが適しているもののようである。それ故に、短時間に、しかも、限られた字数で、作品を手掛けざるを得ない土壇場に追いこまれると、殊にそれが回想形式をとる場合には、その音楽好きな性質――と私は、彼の作品から感じているが――と揺曳する回想とが渾然一体となって、ある階調に乗り、旋律をかなでて流れ始め、見事な効果をあげるということもあるわけで「チップス先生」は、その好個の一例であろうと思う。音楽的で、緊密で、冗漫ところがなく、散文詩でも読むような美しさである。それは用意周到な計算において創られたものではなく、霊感によって、流るる如く、歌いあげられたものである。つまり、作家としてのヒルトンの真骨頂が、この作に間然するところなく発揮・露呈されている――と、私はそのようにこの作品を見、したがって、率直に言って、彼はこの一作においてのみ永く記憶されるのではなかろうかとさえ考えている。

「チップス先生」の発表は、英国において熱烈な賞讃をもって迎えられたが、やがて、これがアメリカの雑誌に転載されると、ここでも本国に劣らず、絶賛を浴びた。それは単に文字によってのみならず、映画化され、劇化されて、観る人の笑いと涙を誘ったという。残念ながら、私はそれらを観ていないので、何とも言うことが出来ないが、その発表当時パリとアメリカにいて、これを観たという友人たちが、今なお、思い出を語ってくれながら、感動を新たにする様子を見ると、私も危くそれに引きこまれそうになるのを覚ゆるので。口喧しい友人たちだけに、よけい、信用がおけるのである。

 ヒルトンは、一九〇〇年九月九日生れで、五十四歳の一九五四年十二月二十一日、カリフォルニアのロング・ビーチで、肝臓ガンでなくなった。

                          菊池 重三郎

  [作品]

  Catherine Herself(1920), And Now Good-bye(1931),

  Contango(1932), Knight Without Armour(1933),

  Lost Horizon(1933), Good-bye Mr.Chips(1938),

  We Are Not Alone(1937), To Your Mr. Chips(1938),

  Random Harvest(1941), The Sory of Wassel(1944),

  So Well Remembered(1945), Nothing So Strange(1947),

  Morning Journey(1951), Time and Time Again(1954),

参考:「自由と規律」をお読みください。 P.120には下記の記事があります。

※ハウスマスター:数年前、英米でベスト・セラーズの一に算えられ劇になり映画になって騒がれた『チップス先生さよなら』と題するものがある。作者はリースの卒業生でその老教師がモデルになっているが、ハウスマスターと学生相互の心的関連聯を取り上げ、このような経歴の一生を終る人間の感慨が、感傷主義に堕さない適度の憂愁をもって描かれている佳編である。


▼この記事を纏めているとき英国との学校制度の違いはありますが。わたしの中学校にもなくてはならない存在の先生がいらっしゃいました。

 この先生は私たちの母校を卒業されて、旧制の京都帝国大学を終わると、母校の中学の国語の先生になられました。

▼私が中学三年から五年生の十月に海軍兵学校に入校するまでの担任をしてくださいました。私の弟二人ともこの中学に入りました。すぐの弟は先生から「君のお兄さんは○○○だったよ!」と話しかけられたそうです。

 終戦後、進学しないで就職していたら、母に上級学校に行くように勧めてくださったそうです。

 先生は飛田先生、数年前、同級生の有志がお墓参りを致しました。

 Good bye Teacher Hida !!

2008.8.4、2013.01.07補足。


 昔、読んだ本が懐かしくなり、急に読み直してみたくなることがある。英国の作家、J・ヒルトンの名作『チップス先生、さようなら』もそうした本の一つかもしれない。本屋でみたとき、古い友人に会ったような気分になって、つい手を出していた。

▼なにしろ、辞書と悪戦苦闘しながら読んだ本である。それに、話もよくできていた。古き良き時代のパブリック・スクールを舞台に、教師と教え子たちの間でくりひろげられる交流一一それが引退した老教師の回想の形で語られていく。温かい心と英国人特有のユーモア。当時も読んでいて感動した記憶がある。あの体験をもう一度、という気があったのだろう。

▼期待にたがわず、三十余年たったいまも、この本は昔と同じ感慨を再び呼び起こしてくれたのである。その変わらぬ味わい一一こういうのを真の名作というのだろう。そして、日本は折からの受験シーズン。その狂騒のなかで、子弟の触れ合いは紙のように薄くなってしまったようにみえる。そのことがなお一層、この本の印象を強くしていたかもしれない。

▼もちろん再読には新発見もある。例えば、センス・オブ・プロポション(つり合いの感覚)。腹を立てたり、ユーモアを解さないのは、これが失われているせいだと主人公が嘆く場面がある。この言葉は今流にいえば、この本のキ一ワ一ドだったのである。その重みが理解できるようになったのも年のせいか。新発見といっても、変わったのは読む力で、本の方ではない。

昭和六十二年二月二十一日「日経:春秋」より。


Good -bye, Mr. Chips (KENKYUSHA)

1 P.1~5

When you are getting on in years (but not ill, of course), you get very sleepy at times, and the hours seem to pass like lazy cattle moving across a landscape. It was like that for Chips as the autumn term progressed and the days shortened till it was actually dark enough to light the gas before call-over. For Chips, like some old sea-captain, still measured time by the signals of the past; and well he might, for he lived at Mrs. Wickett's, just across the road from the school. He had been there more than a decade, ever since he finally gave up his mastership; and it was Brookfield far more than Greenwich time that both he and his landlady kept. "Mrs. Wickett," Chips would sing out, in that jacket, high-pitched voice that had still a good deal of sprightliness in it, " you might bring me a cup of tea before prep., will you ?"

When you are getting on in years it is nice to sit by the fire and drink a cup of tea and listen to the school bell sounding dinner, call-over, prep., and light out. Chips always wound up the clock after that last bell; then he put the wire guard in front of the fire, turned out the gas, and detective novel to bed. Rarely did he read more than a page of it before sleep came swiftly and peacefully, more like a mystic intensifying of perception than any changeful entrance into another world. For his days and nights were equally full of dreaming.

He was getting on in years(but not ill, of course); indeed, as Doctor Merivale said, there was really nothing the matter with him. "My dear fellow, you're fitter than I am," Merival would say, sipping a glass of sherry when he called every fortnight or so. " You"re past the age when people get these horrible disease; you're one of the few lucky ones who're going to die a really natural death. That is, of course, if you die at all. You're such a remarkable old boy that never knows." But when Chips had a cold or when east winds roared over the fenlands, Merivale would sometimes take Wickett aside in the lobby and whisper: "Look after him, you know. His chest...it puts a strain on his heart. Nothing really wrong with him-only anno domini, out that's the most fatal complaint of all, in the end..."

Anno domini ...by Jove, yes. Born in 1848 and taken to the Great Exhibition as a toddling child-not many people still alive could boast a thing like that. Besides, Chips could even remember Brookfield in Wetherby's time. A phenomenon, that was. Wetherby had been an old man in those days-1870-easy to remember because of the Franco-Prussia War. Chips had put in for Brookfield after a year at Melbury, which he hadn’t liked, because he had been ragged there a good deal. But Brookfield he had liked, almost from beginning. He remembered that day of his preliminary interview sunny July, with the air full of flower-scents and the plick-plock of cricket on the pitch. Brookfield was playing Barnhurst, and one of the Barnhurst boys, a clubby little fellow, made a brilliant century. Queer that a thing like that should stay in the memory so clearly. Wetherby himself was very fatherly and courteous; he must have been ill then, poor chap, for he died during the summer vacation, before Chips began his first term. But the two had seen and seen to each other, anyway. Chips often thought, as he sat by the fire at Mrs. Wickett's ;I am probably the only man in the world who has a vivid recollection of old Wetheby... Vivid, yes; it was a frequent picture in his mind, that summer day with the sunlight filtering through the dust in Wetherby's study. "You are a young man, Mr. Chipping, and Brookfield is an old foundation. Youth and age often combine well. Give your enthusiasm to Brookfield and Brookfield will give you something in return. And don't let anyone play tricks with you. I -er- gather that discipline was not always your strong point at Melbury?"

"Well, no, perhaps not, sir."

"Never mind; you're full young; it's largely a matter of experience. You are another chance here. Take up a firm attitude from beginning, that's the secret of it."

Perhaps it was. He remembered that first tremendous ordeal of taking prep.; a September sunset more than half a century ago; Big hall full of lusty barbarians ready to pounce on him as their legitimate prey. His youth, fresh-complexioned, high-collared, and side-whiskered (odd fashions people followed in those days), at the mercy of five hundred unprincipled ruffians to whom the baiting of new masters was a fine art, an exciting sport, and something of a tradition. Decent little beggars individually, but as a mob, just pitiless and implacable. The sudden hush as he took his place at the desk on the dais; the scowl he assumed to cover his inward nervousness; the tall clock ticking behind him and the smells of ink and varnish; the last blood -red rays slanting in slabs through the stained-glass windows. Someone dropped a desk lid-quickly, he must take everyone by surprise; he must show that there was no nonsense about him. "You there in the fifth rowーyou with the red hairーwhat's your name?"ー”Colley, sir."*”Very well, Colley,”you have a hundred lines." No trouble at all after that. He had won his first round.

And years later, when Colley was alderman of the City of London and baronet and various other things, he sent his son(also red -haired) to Brookfield, and Chips would say: "Colley, your father was the first boys I ever punished when I came here twenty-five years ago. He deserved it then, and you deserve it now." How they all laughed; and how Sir Richard laughed when his son wrote home the story in next Sunday's letter!

And again, years after that, many years after that, there was an even better joke. For another Colley had just arrived-son of the Colley who was a son of the first Colley. And Chips would say, punctuating his remarks with that little "umph-um" that had by then then become a habit with him: " Colley, you are -umph-a splendid example of -umph-inherited traditions. I remember your grandfather-umph-he could never grasp the Ablative Absolute. A stupid fellow, your grandfather. And your father, too-umph-I remember him-he used to sit at their far desk by the wall-he was'nt much better, either. But I do believe-my dear Colley-that you are-umph the biggest fool of the lot!" Roars of laughter.

A great joke, this growing old-but a sad joke, too, in a way. And as Chips sat by his fire with autumn gales rattling the windows, the waves of humour and sadness swept over him very often until tears fell, so that when Mrs. Wickett came in with his cup of tea she did not know whether he had been laughing or crying. And neither did Chips himself.

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A cross the road behind a rampart of ancient elms lay Brookfield, russet under its autumn mantle of creeper. A group of eighteenth-century buildings centred upon a quadrangle, and there were acres of playing-fields beyond, and the open fen country. Brookfield, as Wetherby had said, was an old foundation ; established in the reign of Elizabeth, as a grammar school, it might, with better luck, have become as famous as Harrow. Its luck. However, had been not so good ; the school went up and down, dwindling almost to non-existence at one time, becoming almost illustrious at another. It was during one of these latter periods, in the reign of the first George, that the main structure had been rebuilt and large additions made. Later, after the Napoleonic Wars and until mid-Victorian days, the school declined again, both in numbers and repute. Wetherby, who came in 1840, resorted its fortunes somewhat ; but its subsequent history never raised it to front-+rank status. It was, nevertheless, a good school of the second rank. Several notable families supported it ; it supplied fair samples, Members of Parliament, colonial administrators, a few peers and bishops. Mostly, however, it turned out merchants, manufactures, and professional men, with a good sprinkling of country squires and parsons. It was the sort of school which, when mentioned, would sometimes make snobbish people confess that they rather thought they had head of it.

But if it had not been this sort of school it would probably not have taken Chips. For Chips, in any social or academic sense, was just as respectable, but no more brilliant, than Brookfield itself.

It had taken him sometime to realize this, at the beginning, Not that he was boastful or conceited, but had been, in his early twenties, as ambitious as most other young men at such an age. His dream had been to get a leadership eventually, or at any rate, a senior mastership in a really first class school ; it was only gradually, after repeated trials and failures, that he realized the inadequacy of his qualifications. His degree, for instance, was not particularly good, and his discipline, though good enough and improving, was not absolutely reliable under all conditions. He had no private means and no family connections of any importance. About 1880, after he had a been at Brookfield a decade, he began to recognize that odds were heavily against his being able to better himself by moving elsewhere ; but about that time also, the possibility of staying where he was began to fill a comfortable niche in his mind. At forty, he was rooted, settled, and quite happy. At fifty, under a new ad youthful Head, he was Brookfield ; the guest of honour at Old Brookfieleldian dinners, the court of appeal in all matters affecting Brookfield history and traditions. And in 1913, when he turned sixty-five, he retired, was presented with a cheque and a writing-desk and a clock, and went across the road to live at Mrs. Wickett’s. A decent career, decently closed ; three cheers for old Chips, they all shouted, at that uproarious end-of term dinner.

Three cheers, indeed ; but there was more to come, an unguessed epilogue, an encore played to a tragic audience,

▼GOOD-BYE, MR.CHIPS retold by M.H.TREVOR, M.A.(Oxon) BISEISHA PUNLISHING COMPANY による。

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He still lived in his rooms at Mrs. Wickett's house but every morning, at about half-past ten, he put on his vercoat and went to the school. He was not ill and he did not have too many classes. He taught the same things that he had taught before and told the same jokes. The new boys had not heard Chips’ jokes before and he was happy when they laughed. He felt like an old actor or comedian who comes back again to the theater after he has already retired once.

The boys said it was wonderful how he could remember their names and faces so quickly. They did not how much he thought about the school even though he did not live there.

Chips was a great success. Everyone felt that he was really helping the school and he knew it too. For the first time in his life he felt necessary―and necessary to something that was nearest his heart. This is the best feeling in the world and at last it was his.

He made new jokes―about the food during the war and other things, On Monday there was a strange kind of meat dish in the school dining-hall and Chips gave in the Latin name “abhorrendum”―meaning “meat to be abhorred”.

Chatteris got ill during the winter of 1917 and, for the second time in his life, Chips became Acting Headmaster of Brookfield. In April Chatteris died and the Governors asked Chips to be headmaster until the end of the war. Chips agreed but he said, “I am not a young man and I did not want people to expect too much from me. I am not really a Headmaster: I am just an ordinary person.”

So Chips was Acting Headmaster in 1917 and 1918. He sat in the headmaster’s study every morning and his work. After his long experience, he had a kind and gentle confidence in himself. The most important thing was to be reasonable; so much of the world had become unreasonable.

He now had to read out the sad list of the boys that had been killed in the chapel on Sunday. Sometimes there were tears in his eyes. But why not? He was old man.

One day he got a letter from Switzerland. On the following Sunday, after he had finished reading the list in the chapel he waited a moment and then said, “The few of you who were here before the war may remember Max Staefel, the German master. He was in Germany, visiting his home, when the war started. He had many friends in England. Those people who knew him will be sorry to hear that he was killed last week, on the Western Front.”

Chips was a little pale when he sat down. He knew that he had done something unusual. Latter he heard someone say,“Chips said Mr. Staefel was killed on the Western Front. Does that mean he was fighting for the Germans?”

“Yes, I suppose so.”

“It means funny to read out his name with the others. After all, he was an enemy.

“Yes, but it was one of Chips’ ideas. He has his own ideas.”

Chips was happy to hear this. Yes. He still had his own ideas : those ideas of dignity and kindness that was getting fewer in the hurried modern world. He thought : Brookfield accept those ideas from me but it will not accept them from other people.

Some of the boys were learning how to fight in the war. When someone asked Chips what he thought about this, he replied, “ It seems very vulgar to me.” The boys liked this story and they found a special word to describe him. They said he was pre-war.

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And once, on a night of full moonlight, the air-raid warning was given while Chips was taking his lower―fourth in Latin. The guns began almost instantly, and as there was plenty of shrapnel falling about outside, it seemed to Chips that they might just as well stay where they were, on the ground floor of School House. It was pretty solidly built and made as good a dug-out as Brookfield could offer; and as for a direct hit, well, they could not expect to survive that, wherever they were.

So he went on with his Latin, speaking a little louder amidst reverberating crashes of the guns and shrill whine of anti-aircraft shells. Some of the boys were was nervous; few were able to be attentive. He said gently: " It may possibly seem to you, Robertson―at this particular moment in the world' history―umph―that the affairs of Caesar in Gaul some two thousand years ago―are―umph―of somewhat secondary importance―and that―umph―the irregular conjugation of the verb ' tollio' is―umph―even less important still. But believe me―umph―my dear Robertson―that is not really the case." Just then there came a particularly loud explosion―that is quite near. "You cannot―umph―judge the importance of things―umph―by the noise thy make. Oh, dear me, no." A little chuckle. "And these things―umph―that have mattered―for thousands of years―are not going to be―snuffed out―because some stink―merchant―in his laboratory―invents a new kind of mischief." Titters of nervous laughter; for Burrow, the pale, lean, and medically unfit master, was nicknamed the Stink-Merchant. Another explosion―nearer still. "Let us―um―resume our work. If it is fate that we are soon to be―umph―interrupted, let us be found employing ourselves in something―umph―really appropriate. Is there anyone who will volunteer to construe? "

Maynard, chubby, dauntless, clever, and impudent, said: "I will, sir."

"Very good. Turn to page forty and begin at the bottom line."

The explosions still continued deafeningly; the whole building shook as if it were being lifted off its foundations. Maynard found the page, which was some way ahead, and begun shrilly:

" Genus boc erat pugna―this was the kind of fight―quo se Germani exercuerant―in which the German busied themselves――Oh, sir, that's good-that's really very funny indeed, sir―one of your best-"

Laughing began, and Chips added: "Well―umph―you can see*now*that these dead languages―umph*can come to life again―sometimes-eh? Eh?"

Afterward they learned that five bombs had fallen in and around Brookfield, the nearest of them just outside the School grounds. Nine persons had been killed.

The story was told, retold, embellished. "The dear old boy never turned a hair. Even found some old tag to illustrate what was going on. Something in Caeser about the way the Germans fought. You wouldn't think there were things like that in Caeser, would you? And the way Chips laughed... you know the way he does laugh...the tears all running down his face...never seen him laugh so much..."

He was legend.

With his old and tattered gown, his walk that was just beg inning to break into a stumble, and his quaintly peering over the steel-rimmed spectacles, would not have had an atom of him different.

November 11th, 1918.

News came through in the morning; a whole holiday was decreed for the School, and kitchen staff was implored to provide as cheerful a spread as war-time rationing permitted. There was much cheering and singing and bread fight across the dinning-hall. When Chips entered in the midst of the uproar there was instant hush, and then were upon wave of cheering; everyone gazed on him with eager, shinning eyes; as on a symbol of victory. He walked to the dais, seeming as if he wished to speak; they made silence for him, but he shook his head after a moment, smiled, and walked away again.

It had been a damp, foggy day, and the walk across the quadrangle to the dinning-hall had a given him a chill. The next day he was in bed with bronchitis, and stayed there till after Christmas. But already, on that night of November 11th, after his visit to the dinning-hall, he had sent in his resignation to the Board of Governors.

When school reassembled after the holidays he was back at Mrs. Wickett's. At his own request there were no more farewells or presentations, nothing but a handshake with his successor and the word " acting" crossed out on official stationery. The "duration" was over.(kenkyusya15end)

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AND now, fifteen years afterwards, he could look back quite calmly on everything that had happened. He was not ill, of course,―only a little tired, but he did not like the winter. He did not went to go abroad. He had once been to the South of France but the weather had been unusually cold and he said, “I prefer to be cold at home.” He had careful when there as a cold east wind. When it was cold he stayed at home with a book by the fire. Of course he liked the summer best. The weather was nice and many old boys came to visit Brookfield. Sometimes he got tired when many of them came but he could always rest and sleep afterwards. He enjoyed their visit more than anything else. “Well, Gregson, I remember you. You were always late. Perhaps you will be late in getting old, like me.” Afterwards he said to Mrs. Wickett, “Do you remember Gregson ? A tall boy with spectacles. He visited me today. He has a job with League of Nations. I suppose they will not notice if he is late!”

When the school bell rang in the evening he sometimes used to go to the window and look at the boys. They had new names but he still remembered the old ones…Jefferson, Jennings, Jolyon, Juppy, Kingsley, Kingston…where are you all, where have you all gone to? Mrs. Wickett, please bring me some tea just before prep., will you? There were many changes in the world during the first ten years after the end of the war. Chips was disappointed. The news from abroad was sometimes very worrying. But in Brookfield and in England there was still something old that had survived. Chips was not disappointed with Brookfiekd. It had not changed so much but the masters and the boys were now more friendly with each other. One new master, who had just graduated from the university, was perhaps too friendly ; he allowed the boys to call him by his Christian name. Chips did not agree with that.

In 1926 there was the General Strike. Brookfield boys helped to transport food. Chips felt that something very important had happened.

An American visitor told him that the Strike had cost a lot of money, but Chips replied,“Yes, but advertising is always expensive.”

“Advertising?”

“Yes. The Strike lasted a week but not even one person was killed. No one fired a shot. But in America more people would have been killed by the police when they raided a drinking place!”

Laughter…laughter…everywhere Chips went there was laughter. He was famous for his jokes and everyone expected him to make them. Whenever he spoke, people waited for him to say something funny. Sometimes they laughed before he had finished telling the story. They used to say, It is wonderful how he can always see the funny side of life.”

After 1929 Chips never left Brookfield. He did not even go to Old Boys’ Dinners in London. He did not want to catch cold and he got tired too easily. When the weather was nice he came to the school and he still invited visitors to tea. He had enough money and gave some of it away to people who had had bad luck. When he died some of his money was to be used for a scholarship to Brookfield.1932 came. People asked him many questions about the news. “When do you think it will get better?” they asked him. They asked him all sorts of questions, especially as they wanted him to make a joke about the answer. Somebody asked him a question about politics and he answered,“Well, when I was a young man, there used to be someone who promised people nine pence for four pence. I do not think that anyone got nine pence, but the government have now found out how to give four pence for nine pence!” Laughter.

The boys asked him many questions.

“Please, sir, do you think Germany wants to fight another war ?”

“Have you been to the cinema, sir?”My parents took me there the other day. There is quite a large cinema in Brookfield. They have even got a Wurlizer?”

“And what is a Wurlizer?”

“It is an organ, sir, a cinema organ,”

“Really ? I have seen the name in advertisements, but I thought it was a kind of German sausage !”

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He sat in his front room one November afternoon in 1933. The weather was cold and it was not safe for him to go out. He had not very well since he had caught a cold in November 1918 when the war ended. Doctor Merivale had been that morning to see him. He came to see him every fortnight. “Is everything all right? You had better stay at home in the cold weather. Many people have flue now. I wish I could have your life for a few days.” (I wish I were as healthy as you.)

His life…and what a life it had been! He remembered many things as sat in front of the fire. He remembered Cambridge in 1860, the Lake District on an August morning and Brookfield at all times. He also thought of the things he had not done and never would do now. He had not been in a plain and he had never been to the cinema. He was both more and less experienced than the youngest boy in the school.

Mrs. Wickett had gone out to visit someone. She had left the tea cups and plates ready on the table, in case there any visitors. But the weather was so bad that Chips did not think anyone would come. He would probably be alone.

But no. At about a quarter to four the front doorbell rang. Chips opened the door himself and found a small boy wearing a Brookfield cap and looking a little frightened. “Please, sir,” he said, “does Mr. Chips live here?”

“You had better come in,” said Chips. “I am the person you want. What can I do for You?”

“Somebody told me that you wanted me, sir.”

Chips smiled. This was an old schoolboy joke and he himself had made many jokes. So he made another joke now and said! Yes, that is quite right. I wanted to invite you to tea. I do not think I have seen you before. Why is that?”

“I have been ill, sir, and I have only just come out of the school hospital.”

“I see.”

Chips made the tea. He gave the boy some cake and found out that his name was Linford.

“You know, Linford, you will like Brookfield when you get used to it. School is not as bad as you imagine. You are little afraid of it, aren’t you? So was I―at first. But that was a long time ago. Sixty-three years ago in fact. When I first saw all the boys together in the Big Hall I felt afraid. I was more afraid then than when the Germans bombed Brookfield. But I did not feel afraid for long. I soon felt quite happy. It was like home.”

“Were there many other new boys with you in your first term, sir?” Linford asked.

“What? I wasn’t a boy at all ! I was a young man of twenty-two. When you next see a new master taking prep. For the first time in the Big Hall, just imagine how afraid he is !”

“But if you were twenty-two then, sir―”

“Yes?”

“You must be―very old―now, sir.”

Chips laughed to himself. It was a good joke.

Well, I am not so young.”

He laughed quietly to himself for a long time. Then he talked to Linford about different things, about school and school life in general, and about the news in that day’s papers.“You are growing up into a very angry world, Linford. Perhaps it will not be so angry when you are older. Let us so, at least…..” Then he looked at the clock and said what he always used to say to boys who came to tea. “I’m sorry you can not stay….”

He shook hands with Linford at the front door.

“Good-by, Linford.”

“Good-bye, Mr. Chips.”

Chips sat by the fire again. He remembered the words,“Good-bye, Mr. Chips.” It was an old joke to make the new boys think that his name really was Chips, instead of Chipping. He liked the joke. He remembered when Kathie had said the same thing just before they got married, because he was so serious then. I am certainly not too serious now, he thought.

Suddenly there were a few tears on his face. It was silly perhaps, but he was an old man. He felt very tired. He got very tired talking to Linford, but he was glad that he had met him. He was a nice boy and he would be successful.

He heard the school bell. The sky outside was getting darker. It was time to put on the light. But when he began to move he felt very tired indeed. He sat back in his chair. “I am not so young,” he thought, which was true. He was happy to have made a joke when Linford came. Now he could laugh at the people who had sent Linford. Good-bye, Mr. Chips…it was odd, though, that he should have said it just like that.

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When he awoke, for he seemed to have been asleep, he found himself in bed; and Merivale was there, stooping over him and smiling.“Well, you old ruffian―feeling all right? That was a fine shock you gave us!”

Chips murmured, after a pause, and in a voice that surprised him by its weakness: “Why―um―what has happened?”

“Merely that you threw a faint. Mrs. Wickett came in and found you―lucky she did. You’re all right now. Take it easy. Sleep again if you feel inclined.”

He was glad someone had suggested such a good idea. He felt so weak that he wasn’t even puzzled by the details of the business―how they had got him upstairs, what Mrs. Wickett had said, and so on. But then, suddenly at the other side of the bed, he saw Mrs. Wickett. She was smiling. He thought: God bless my soule, What’s she doing up here? And then, in the shadows behind Merivale, he saw Cartwright, the new Head (he thought of him as “new,”even though he had been at Brookfield since 1919), and old Buffles, commonly called “Roddy.”Funny, the way they were all here. He felt: Anyhow, I can’t be bothered to wonder why about anything. I’m going to go to sleep.

But it wasn’t sleep, and it wasn’t quite wakefulness, either; it was a sort of in-between state, full of dreams and faces and voices. Old scenes and old scraps of tunes―a Mozart trio that Kathie had once played in―cheers and laughter and the sound of guns―and over it all, Brookfield bells, Brookfield bells.“So you see, if Miss Plebs wanted Mr. Partrician to marry her…yes, you can, you liar…”That you, Max Yes, you can, you liar…” Joke…Meat to be abhorred…Joke…That you, Max? Yes, come in. What’s the news from the Fatherland?...Oibile prateritos…Ralston said I was slack and inefficient―but they couldn’t manage without me…Obile beres ago fortribus es in aro….Can you translate that, any of you?...It’s a joke…

Once he heard them talking about him in the room.

Cartwright was whispering to Merivale. “Poor old chap―must have lived a lonely sort of life, all by himself.

Merivale answered; “Not always by himself. He married, you know.”

“Oh, did he? I never knew about that.”

“She died. It must have been―of, quite thirty years ago. More, probably.”

“Pity. Pity he never had any children.”

And at that, Chips opened his eyes as wide as he could and sought to attract their attention. It was hard for him to speak out loud, but he managed to murmur something, and they all looked round and came nearer to him.

He struggled, slowly, with his words. “What―was that―um―you were saying―about me―just now?”

Old Buffles smiled and said: “Nothing at all, old chaps―nothing at all―we were just wondering when you were going to wake out of your beauty sleep.”

But ―umph―I heard you―you were talking about me―“

“Absolutely nothing of any consequence, my dear fellow―really, I gave you my word….”

“I thought I heard you―one of you―saying it was a pity―umph―a pity I never had―any children…eh?...But I have, you know…I have…”

The others smiled without answering, and after a pause Chips began a faint and palpitating chuckle.

“Yes―umph―I have,” he added, with quavering merriment. “Thousands of ‘em…thousands of ‘em…and all boys…”

And then the chorus sang in his ears in final harmony, more grandly and slowly and sweetly than he had ever heard it before, and more comfortingly too….Pettifer, Pollett, Porson, Potts, Pullman, Purvis, Pym-Wilson, Radlett, Rapson, Reade, Reaper Primus…come round me now, all of you, for a last word and a joke…Harper, Haslett, Hartfield, Hatherley…my last joke…did you hear it?...did it make you laugh?...Bone, Bostone, Bovey, Bradford, Bradley, Brandhall-anderson…wherever you are, Whatever has happened, give me this moment with you…this last moment…my boys…

And soon Chips asleep.

He seemed so peaceful that they did not disturb him to say good night; but in the morning, as the school bell sounded for breakfast, Brookfield had the news.“Brookfield will never forget his lovableness,” said Cartwright, in a speech to the School. Which was absurd, because all things are forgotten in the end. But Linford, at any rate, will remember and tell the tale: I said good-bye to Chips the night before he died….

※[kenkyusha oocket english series]、[today library]の本が手元にある。二つを適宜使用した。


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『フレミングの生涯』アンドレ・モロア


 50年以上も前の著書だが、なお古びていない本。
 フレミングの名前を現在知っている人は何人いるだろう? ぺニシリンといえば、薬だろうと知っているひとはいるでしょう。 

この本を紹介しましょう。

▼フレミング(Sir Alexander Fleming)は、1881年、スコットランドに生まれた。セント・メァリーズ病院(イギリス・ロンドン)に入学し、熱心に勉強するかたわら、大学登録試験の準備をして、1902年、それに難なく合格した。そこで医学関係の勉強をした。ある期間理論教育を受けてから、学生たちは、病院にはいることを許された。

   彼が医学を修めたのも、単に長兄が医師であるという理由からに過ぎなかった。一生をすごすことになるなるセント・メァリーズにはいったのも、ウォター・ポロのためである。

 解剖学と生理学とを勉強していた年、誰かが若いフレミングに、外科の予備試験を受けておくと有利だということを教えた。出願料は、五ポンドした。フレミングは、もちろん合格した。

 そして、彼は五ポンドをとりもどすためにF・R・C・S(王立外科医医師会会員)になったのである。他日彼が栄光を獲得するきっかけとなる細菌学をえらんだ動機も、それにおとらず風変わりな、そして些細なものだった。

▼フレミングはひさしい以前から、患者の組織細胞には害をおよぼさずに病原菌を破壊するような物質をさがしていた。ふとした偶然が、この魔法の物質を彼の実験台の上にもちこむことになるのである。しかし、彼も十五年待ちに待ったのででなければ、この未知の訪問客を見のがしたにちがいない。

彼の小実験室は、あいかわらずうすぐらく、とりちらかっていた。シャーレの山が、見た目にはいかにも乱雑に積みかさねられていたが、そのどれをさがすかになると、彼はすこしも迷わず必要なものを取り出した。戸口はいつも開っ放しになっていて、しかじかの種類の細菌とかなにかの器具を借りに来る若い研究員たちは、すぐ迎えいれられた。フレミングはは腕をのばし、求められた培養液を相手にわたすと、たいていの場合一言も言わずにまた仕事にとりかかった。このせまい部屋の空気が息苦しくなると、彼はプレイド・ストリートに面する窓を開けた。このことがペニシリン発見のきっかけになったのです。 

▼慎重なこのスコットランド人は、もはやなにひとつ学ぶことがないとわかるまで、彼の培養菌液を処分することをこのまなかったのである。友人が訪問して話を続けながら、いくつかの古いシャーレをとりだして蓋をあけた。そのうちのいくつかの寒天には、黴が生えていた。ありふれた事である。フレミング自身、〈シャーレの蓋をあけるやいなや、面倒なことばかりおこってくる。いろんなものが空中から落ちるんだ。〉言っていたとおりである。だが突然彼はだまりこみ、それからしばらく観察したあとで、例のさりげない声で言った。〈これは変っている。〉寒天に黴が生えることはなにもこの場合にかぎらず、ざらにあることであるが、ただこの寒天では、黴のまわりに葡萄球菌のコロニーが溶解してしまい、半透明の黄色い塊りをつくらず、露に滴に似た形になっていた。

▼ E.B. チェインは次のように書いている。
 グループ研究は、すでに知られているアイデアを発展させるためには重要であるが、しかし、私は、ひとつのグループが新しいアイデアを生み出すことは、決してないのではないかと思う。

▼またフレミングは言う。
 なにかまったく新しいものが生まれるためには、ひとつの事件が必要である。ニュートは林檎が樹から落ちるのを見た。ジェムズ・ワットは薬缶を観察した。レントゲンは写真の乾板を混ぜてしまった。そしてこれらのひとびといずれも、十分その道に通じていたのではじめて、そのような平凡な事件を新しい言語に翻訳することが出来たのである。

▼「新しい主題を発見するのはたしかに孤独な研究者であるが、世界が複雑になってゆくにつれ、われわれはますます、他人の協力なしには何事も成功までみちびくことが出来なくなっていく。」―フレミング―

私見:研究開発を担当したときに、私も実感しました。新規なアイデアを生み出す人は個人であって、それを発展進歩させるにはグループの力が有効です。

▼偉大な発見にみちびく出来事の連鎖というのは、さまざまであり、錯綜している。フレミングは、ペニシリンを発見した。彼は、自然状態のこの物質の殺菌力と無毒性を立証した。そして弱い微生物によって汚染した傷口に、これを利用してみることを示唆し、すぐれた試験成績をを発表した。

ハワード・フローリとチェインがペニシリンが濃縮され精製したのである。

▼いよいよ、人間にたいして実験を行うときが訪れたと思われた。もっとも説得効果のある実験は、敗血症の場合にちがいない。それには障害がないではなかった。一方において、かぎられたペニシリンの量では大量の注射はふ可能であり、他方においては、この薬品はたちまち体外に排出され、ながく体内にとどまらない。

多くの瀕死の患者で試みられた。試験は成功したが、量的ふ足がその成果を挙げることが出来なかった。このような好成績をもとにして医薬を工業的に大量生産させることは出来ないものだろうか? 1941年のイギリスは、たえまなき爆撃にさらされ、またいたるところの戦線で、戦闘をまじえ、あるいは準備していた。イギリスの工場は、戦時下の過酷な条件のもとにあって、そのような努力を払える状態にはなかった。残るはただ、目をアメリカに向けることだけだった。

▼フローリーとヒートリーは、1941年6月、アメリカに旅立った。学者から学者へと紹介され、自分の直面している問題を説明した。ここで注意を喚起しておかなければならないことは、英国の学者たちは――フレミングにしてもフローリーにしても、またチェインにしても、またヒートリーやエブラハムにしてもそうだが――自分たちの発見を、なんらの特許権によって保護しておかなかったということである。彼らの考えでは、人類にたいしてそのような貴重な貢献をする物質は、営利の源となるべきではなかった。このような無欲ぶりは賞賛する値打がある。彼らはアメリカ人たちに、永年にわたる彼らの生産方式のすべてをうちあけ、その代償としてはただ、医学実験をつづけることが出来るよう、ペニシリンの提供をもとめただけである。  

▼1945年 医学アカデミーでは彼は、この神聖な団体に所属出来ると考えただけで、うれしいと述べたあとでこう語った。

〈さきほど私は、ペニシリンを発明したという、身に覚えのない罪を着せられました。しかしペニシリンは、太古の昔、自然により、ある黴の手によって生成されたものでありますから、いかなる人間も《発明》することは出来ないはずです……実際私は、この物質そのもの発明したものではなく、それにひとびとの注意をひき、ペニシリンという名前をつけただけであります。〉

▼1945年10月25日、ストックホルムからの電報が、彼およびフローリーとチェインに、ノーベル医学賞が与えられと通告してきた。ノーベル賞委員会ははじめ賞の半分をフレミングに与え、残りの半分をフローリー卿とチェインの間で分けることを提案した。その後中央委員会が、三等分の方が公平であると結論したのである。
 十二月六日、彼はストックホルムに向けて、飛行機で旅立った。

1995年。彼はこの世を去った。

彼はセント・ポール大寺院の地下室に埋葬されたが、これは少数の偉大なイギリス人にしか与えられない破格の名誉であった。セント・メァリズの学生と看護婦たちが、儀仗隊を組織した。いっしょに医学生活に入って以来のフレミングの親友にして伴侶であったバネット教授が、告別の辞をのべた。

上の記述は、アンドレ・モロア『フレミングの生涯』(新潮社)昭和34年11月30日 発行(約50年前)に書かれたものであります。非常に長い引用になりました。というのはこの本は非常に細かいところまで書かれていますのでついつい書き続けさせられました。

医学に限らず、人類に貢献する研究者の意思と基本的な姿勢に感銘を受けました。
参考:A New Way to Fight Disease英文をよみやすくするため、フォントサイズを大きくしました。

平成二十年四月二十五日、平成二十四年七月十五日補足。平成二十六年九月再読補正。

      あ と が き

 アンドレ・モーロワがいかなる作家であるかについては、すでに『愛の風土』や『家族の輪(邦訳名『宿命の血』などの小説作品、『生活の技術』や『恋愛七つの顔』などのエッセーばかりでなく、『イギリス史』『アメリカ史』『フランス史』『文学研究』など、十八種を数える著作が翻訳されている今日、ここにあらためて説明するまでもないと思う。伝記作家としての彼の側面も、『シェリーの生涯』や『ジョルジュ・サンドの生涯』の訳書によって、われわれの十分親しんできたところであり、フランス本国では今日、彼は小説家としてよりも伝記作家として知られているほどである。

 だがそれにしても、いったい誰が、この『アレクサンダー・フレミングの生涯』のような科学者の伝記を、彼から期待したことであろうか? 第一にモーロワ自身がそれを予期していなかったことは本書の《はしがき》に明らかなとおりであり、七十歳をこえてもなおこのように新しい主題ととりくむ勇気は、たしかに尊敬すべき、かつおどろくべきことである。細菌学という、それまでの彼にはまったく未知の領域へ足をふみいれたモーロワは、彼に手ほどきを与えたアルベ-ル・ドゥロネー博士の言によれば、多数の専門的な文献を読破したばかりでなく、みずから白衣をまとって、フレミングの行なった実験のすべてをひとつひとつ追実験し、なつ得のゆくまで実地に研究した。そして原稿も、三度まったく書き改めたということである。

 その結果、いかなる書物が出来上ったかは、読者の御覧のとおりであり、すでにフランス本国だけでなく、アメリカ合衆国でもベスト・セラーとなり、『ニューヨーク・タイムズ』紙はこの書を本年度最良書のベスト・テンの一つに数えている。

 私たちもまた、細菌学の知識に関して皆無に近いが、一読してなんら難解な点も見当たらず、しかも、無口で控えめなスコットランド人フレミングという、きわめて扱いにくい個性の見事な肖像に魅せられたばかりでなく、知らず知らず細菌学の興味津々たる発展の歴史まで教えられて、一気に読了したものであった。

 この書はまた、フレミングという一個人ばかりでなく、科学者という特殊な職業人のひとつの典型、それに特有の生活様式や思考過程まで生き生きと描きだすことに成功している。科学がますますわれわれの生活のなかに重要な地位を占めつつある今日、このような書物は、興味があるばかりでなく、有益であり必要でさえあると考えたのも、私たちを動かして、訳筆を取らせた理由の一つである。 

 それにしても、相当の専門知識を必要とするこの書の翻訳には、かなり多くの困難に遭遇しなければならなかった。専門用語を説明し、校正を閲覧して下さった高橋勝三、賀田恒夫両氏にまず感謝しなければならない。また、フランス語学上の難点を明らかにして下さったピエール・アンリ―・ヴァネ君、グローリア・クラパス嬢にも、そのあつい友情に感謝の念をささげねばならない。

   昭和三十四年八月

                      新 庄 喜 章 

                      平 岡 篤 頼

関連:アンドレ・モロア著 大塚幸男訳『初めに行動があった』

2022.04.28 記す。


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A New Way to Fight Disease


 私は英語が好きです。だがまとまった英文を読むことはもちろん書くこともしていません。その私が本棚にある高校英語教科書をパラパラとみていると、ぺ二シリンの発見者であるアレキサンダー・フレミングについてい書かれているものに出合いまして筆写しました。ワードのスペル・チェックを使って誤字を訂正したものが、下記の文章です。興味をおもちの方はどうぞ気楽にお読みください。

(1)

Alexsander Fleming always took advantage of accidents and chance happenings. Even the reason he begun to study bacteria was quite strange. He was good with guns. St. Mary's, where he was studying medicine, had an excellent gun club, so he joined the club. After he had completed four years of medical school, he was invited to work in the laboratory at St. Mary's, so that he could remain in the gun club. He accepted the position in 1906 and remained St. Mary's until he died.

Now events begun to prepare Fleming for his most important accident, an accident that led a discovery important for every one of us.

(2)

In 1922, he found a substance in tears that was able to kill bacteria. Unfortunately, the bacteria it killed were not disease-causing bacteria.

In 1928, Fleming was studying a certain kind of bacteria. He was growing these bacteria in dishes that contained a soft substance. Most of the time the dishes were covered, except for short periods of time when he took the covers off to examine the growing bacteria.

The summer of 1928 was hot in London, and windows were kept wide open to catch any little wind. In Fleming's laboratory at St. Mary's the windows were open too, allowing dust to fly in one day.

A few days later, Fleming found that blue-green mold was growing in one of his dishes. Fleming knew that little pieces of mold were carried by the air. He guessed, therefore, that some mold had come in through the open window, and had settled in the dish when the cover was off.

Many people would have thrown the dish away and started all over again. But Fleming decided to watch what would happen. Imagine his surprise when he found that the area around the mold was clear, and not yellow like the bacteria. Something in the mold seemed to be killing the bacteria!

Now Fleming used all his skill to learn more about the mold. First he had to get some pure mold so that he could study it more carefully. He removed some of the mold and placed it in a substance where he knew it would grow. It grew very fast. It began as a white substance, then turned dark green. It grew by sending out branches in the shapes of pencils, which enabled Fleming to identify it as a member of penicillium family of molds.

The next step was to grow more of the mold so it could be tested on different bacteria. Fleming found that the juice from the mold was powerful killer of several disease-causing bacteria. He made the mold juice weaker and weaker. Still it was able to kill bacteria.

(3)

Fleming wanted to know if all molds produced this bacteria-destroying material. He tried five completely different molds and eight different types of penicillium mold. Of these, only one type of penicillium worked against bacteria, and this was same type as the first mold. Knowing that the mold juice had great power to kill some kinds of bacteria, Fleming then wanted to know if it was too powerful. Would it be harmful to people? He added some mold juice to a small amount of human blood. Minutes, then hours passed. The blood was not affected by the mold juice.

Fleming then decided to try the juice on a living animal. He injected some bacteria into some laboratory rabbits. Then he gave the animal his mold juice. Success again. These bacteria were killed, and the animal had no bad side effects.

Now Fleming was ready for perhaps the most important test of all: to test the mold juice on a human being. This was very easy to arrange. Stuart Craddock, his laboratory assistant, was willing to let Fleming test the mold juice on him. The test was a success. Craddock was not harmed by the mold juice.

Soon after, Fleming decided to give the mold juice a name. Since it came from the juice of penicillium mold, he called it penicillin. In June, 1929, when Fleming published the first report on penicillin, it received little attention.

There were a few reasons for this lack interest. Probably the main reason was that no one was able to obtain pure penicillin. In the mold juice it was mixed with other substances that might prove harmful. Although Fleming kept his faith,penicillin was all but forgotten in the ten years after its discovery.

(4)

In 1938, two men at Oxford University, Harold Florey and Ernest Chain red Fleming's report. Chain decided to see if he could make pure penicillin. By using new methods, he was able to get some penicillin that was very pure. His penicillin was about 1,000,000 times more active than the mold juice that Fleming had used in his early experiments.

After completing successful experiments on animals, Flory and Chain were ready to test the medicine on humans.

The problem was to get enough penicillin and to make the penicillin. In February 1941, after two years of building a supply, they had one spoonful of the pure yellow penicillin. They believed that this would be enough to treat one person. A young man dying from bacteria that had entered his blood was chosen for experimental treatment. Penicillin was given to him every three hours. By the next day his condition had improved. After two days, the hospital doctor said that one more week of treatment would complete the cure. But the small supply of penicillin was gone! The man lived a few days and then died.

Although Florey and Chain were not able to save the man’s life, they realized that as a test of penicillin the experiment was a success. If there been enough penicillin, they would have been able to save the man’s life.

Another supply of penicillin was obtained. Treatment on another man was begun. But again the supply was gone before the man was completely cured. At last, in May 1941, penicillin saved a human life. A 48-year-old man serious ill. After seven days of treatment with penicillin, he was completely cured.

This is how penicillin began to be used in medical treatment. Of course, it was years before this antibiotic could be of real help in fighting against disease-causing bacteria. Had it not been for Fleming’s accidental discovery of the drug, we might never have added penicillin to our arsenal of weapons against disease.

■チェック
・take adovantage of をうまく利用する
・work against を抑える働きをする
・all but=almost
・be of real help=be really helpful
※関連:『フレミングの生涯』アンドレ・モロアを参考にお読みください。写真は1945年、ノーベル章受章のものです。

2012.07.15 


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大石順教尼


 ご存じない人が多いかもしれません。『無手の法悦』大石順教著(春秋社)の著作があります。この題名から推察すれば手がないと想像出ます。その通りです。

 この本の「はしがき」から紹介します

 か み な れ し 筆 も さ ら さ に 花 の 冷 え

 十七歳の春、思わぬふ詳事のために両手をなくした私は、いつの頃よりか、口に筆をかんで、ものをかくことを覚えたのであります。

 ものを書くとは申せ、何も知らない、内容のとぼしい私のことでありますから、私らしい、おぼつかない筆の運びであることはいうまでもないことでありますが、両手の無い私にとって、筆を口にかみしめ、ものを書くという一事を見出したことは、やはり私の人生の開眼ではなかったかと思っているのであります。

 それ以来、数多くの筆が、私の人生と共に、口の中でささらのように朽ち、朽ちたまま私の口になれていってくれたのあります。

 妙なもので、こうしたおもむきは、なかなか筆や文字に表しにくいものであります。人生の行く道において、"こんなことでよいのだろうか" "こんなことではならぬ" と、いたらない日々を歩んできた私でありますが、いつの間にか、八十という齢を重ねてしまった今日、口の中でかみなれた筆のように、うきふし多い無手の身も、それはそれなりに忘れている年輪というのものをしみじみと味わっているのであります。

 私は人に頼まれると、よく「忍」という字を書くことがあります。私は「忍」という文字が好きなのであります。それは忍の道を人に教えるということではなく、何にもまして、この「忍」という言葉の奥にひそかな内容がなつかしく、ひとしお身近く私をみちびいてくれるからなのであります。

 既に故人となられた吉川英治先生が"忍"という字を使うことの許されるのは、貴女だけだ」ということを、おっしゃられたことがあります。どういう意味で、私のようなものにおっしゃってくださったのかわかりませんが、この私の分に過ぎたお言葉にも、先生のあたたかい滋味がしのばれ、今ではなつかし思われてくるのであります。

 しかし、一口に申し上げてしまえば、私は忍びやすい人生の出発に恵まれていたのだろうと思っているのであります。

 それは、一つには、両手を失った「無手」の身であること。一つには、何にも知らない「無学」なものであること。一つには、どんな人ともひとつになれる貧乏な「無財」なものであったからであります。

 この三つの無形の財産が、私のゆく道に、どれだけ幸せしてくれたであろうかを思い、しみじみと感謝しているのであります。「盲人は蛇を恐れぬ」と、いう言葉があるそうでありますが、世の中の怖さを知らぬ無学な私は、側からみるよりは、案外あかるい無邪気な人生を送ることができたのではないかと思っています。

 この度、このようなつたない私の体験のしおりが、一つの本にまとまって出版されることになりましたが、どうぞ私のとぼしい表現や内容にこだわらず、どんな人々の心の中にも光が宿され、自由無礙な心が活かされている仏の深い慈愛をおくみとり下さるよう、お願い申し上げるものです。

  昭和四十三年二月一日記

                             仏 光 院
                              大 石 順 教


 ある日、大石順教尼が木村武山画伯(インターネットでお調べ下さい)をお訪ねした。武山は武者絵や仏画の一流大家でである。武山は如何にも残念そうに

 「とうとう私は絵が書けないようになった」

 と言って不随になった右手を撫でて見せた。吉田絃二郎が右手不随で小説がかけなくなったように、作家の右手は年をとると痛み易いのである。順教尼は気の毒でたまらず

 「それは先生御不自由でございましょう」

 と心から同情の挨拶をして、それからそこにあった画用紙を貰い、筆を口にくわえてさらさらと三枚の絵を書いた。

▼一枚は蘭、もう一つは岩に這う蟹、最後には老松。その松には「松老雲閑」の四文字を自ら讃した。それをじっと見ていた画伯は、ぐんと心を打たれた。その時順教尼は言った。

 先生の右手がお使い出来ぬようになったのは、惜しみてもあまりあることです。しかし先生ほどの大家が、今までの手の先の芸として絵をお書きになっていたとはおもえません。芸術の心、世にも稀れな先生の天分は、ただ手の先を道具にして表現されるものではありますまい。先生の画は、先生の心が書いているのです。幸い先生の左手は病んでいません。妾は両手がありませんが、妾は心で只今の様な画を書いています。先生どうかその左手で書いて下さい。先生のお心は、右にも左にもそのまま現れて来るに違いありません

 とズバリ言った。

▼「ふむ。――そうであった。よく言ってくれた」

 そう答えた武山は直ちに唐紙を出して、畳の上にひろげ、左手で一気に達磨を書き上げた。畳の目がそのまま墨痕をうつし、雅美あふれる達磨大師の大作が出来た。武山は快心の笑い、悟り得た魂の歓喜にみち、何とも言えぬ感激の場が展開されたのであった。

▼木村武山ともあろう人に、芸術の大説法ができたのは、両手を斬られて死線を越え、生死を離れて、心経の空の世界に生き抜いた来た大石順教尼だからこそである。大山澄太『般若心経の話し』(潮文社)の中に「大石順教尼の心経体験」の章の中の一部P.93より。
参考:『無手の法悦』大石順教著(春秋社)の一章「松老いて雲閑かなり」P.55~57にも同様な記事が読まれます。
2012.07.15 


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子供を読書好きにするには


 読書については「私の読書法」など無数の著作がある。大部分がその時代の有名人か大学教授たちの経験談を中心として書かれている。

 私は表題についての家内が子供にほんを読ませるのを見守っていた者として、思い出しながら書いている。

▼家内は長男が幼稚園に入るか前後のころ、喜びそうな絵入りの漢字(ふりがな付き)の混ざった本を買い与えていた。そして具体的にはどのように教えていたかは記憶にない。

 ともかくも、長男は順調に小学校・大学付属中学校・高校・大学の難関学部に進学した。

▼長女が結婚して女の双子が生まれた。何分にも双子の養育は大変だから、家内は一人ずつを預かり保育していた。

 そうこうするうちに、二人は元気に大きくなり、幼稚園に入る前から、保存していた長男に読ませた本を取り出して、読ませはじめた。

 多分に長男での体験を生かしてのことであろう。

 この二人は我が家の座敷で足を伸ばして、その上に本をおいて熱心に読み、分からないところは家内に聞いての読書が続いていた。

 そんな繰り返しをしているうちに、ノートに字を書き始めました。知り合いの方から、こんなに小さい子が字を書けるのは驚かされますと言われるようになつた。私も同じで、長男の時には感じなかった幼児教育の効果には教えられた。

 やがて、小学校・中学校・高校生となり、大学に二人とも同時に合格した。私が尊敬している先生から
 「双子さんが同じ大学に合格したのは快挙です」と賛辞を頂きました。

▼大学を卒業して社会人となり、時折、我が家に遊びに来ると、家内や私と談笑して、ときに、私の本棚から、めぼしい本をみつけては「これを読みたいから、持って帰ってもよいか?」と、断わり持ち帰っている。

 最近は自分で買った本を読んでいる。

 「子供を読書好きにするには」幼いときに本と親しませ、わからないことを聞かれると、ていねいに教えるという、簡単なことをすれば、これが種蒔きになり、さらに、習慣となり、第二の天性となるのだと。

▼参考に仮なと漢字について、原田 種成(たねしげ)著『漢字の常識』(三省堂)P.145を引用します

   原田氏の友人石井勲氏は
 "仮名は易しく漢字は難しいもの"、誰でもそう思い込んでいます。ところが、実際に小学一年生に、"馬"と"うま"とを同じ条件で学習させますと、比較にならぬほど速く"馬"のほうを覚えます。字形が複雑だから覚えにくい、というのは常識的な判断で、実は漢字の字形の複雑さは記憶の手がかりになっているもののように思われます。ちょうど、人の顔もノッペラボーでは覚えようがありませんが、目や口や耳や鼻など手がかりが沢山あるので覚えられるようなものだと思います。その人が眼鏡をかけ口髭をはやしてホクロがあれば、なお記憶し易くなります。

 私は一年生にこの実験を試みたとき、子供たちが、仮なに比べて漢字をあまりにも、やすやす覚えるのに全く驚かされました。今では、神戸市の特殊学級で、仮なが覚えられない知能の低い子供でも、漢字はよく覚えるという事実も確かめられています。"漢字は難しいから、一年生は仮なで教える"という明治以来のやり方は間違っていたのです。漢字を沢山使ったほうが、一年生でも学習しやすいのです。
と言っている。一年生に「どうぶつ」と仮なで教えたところで、少しも易しいことにはならない。それよりも、漢字で「動物」と教えれば、「先生、動物って、動く物とも読めるね」と子供が言う。漢字で教えれば、その内容・実態まで正しく理解することができるが、仮なで教えたのでは、金魚やトンボが「どうぶつ」であるかどうか、子供にはのみこめない。石井君は、教科書の仮なのところに、当用漢字で書き表すことのできるものには、プリントした漢字をはりつけて学習させ、その結果、小学一年生でも新聞がバリバリ読めるようになり、クラス一の劣等児でも、文部省の目標の二ばいも漢字を覚えるようになった。そして、他の教化の邪魔になっているどころか、かえって、良い教育効果をあげていた。石井氏の漢字教育の詳細については『石井式漢字教育革命』(昭和五二年一一月、グリーン・アロー出版社)の著がある。

▼また「朝日新聞」の「論壇」(昭和五三年一月一二日)に幼稚園の戸田白鳳氏が「幼稚園の才能教育」と題し、

 「漢字教育についても、一年間に四、五百字は扱っているし、それも当用漢字にに限らず、子供にとって身近なもの、たとえば、『猿』『象』『蝸』『苺』『蜜柑』『鍋』『釜』など、、動椊物や日常使う道具類なども取り入れている。そして子供たちは、字が読めるようになると、よろこんで読書するようになる」
と記し、さらに、

▼才能教育をしていても、小学四年生ぐらいになると、これをしていない他の子供たちとほとんど差がなくなるというが、そのようにせっかちに評価してはならないということである。

 なぜならば、幼児期に開発された能力は潜在意識の中に取り入れられ、その人の一生の中で、必ず芽をふいてくるに違いないからである

と、幼児の漢字教育が才能を伸ばすのに役立つと主張している。

2012.09.03,平成二十六年五月二十一日再読訂正。 


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読書週間


 秋がすすみ、自然は美しく飾られ、農作物はうるほい、果物が実っています。私たちには、思いを深め、また読書の秋になりました。

 「読書週間」というのは、今でもあるのだろうかと思いインターネットで調べる。

 ウィキペディアによると

▼読書週間(どくしょしゅうかん)とは、10月27日から11月9日までの2週間にわたり、読書を推進する行事が集中して行われる期間。

 1924年(大正3年)に日本図書館協会が11月17日から11月23日までの「図書週間」を制定していた。1933年(昭和8年)には「図書館週間」と改称され、出版界では「図書祭」が開催されていた。しかし、戦争の影響で、1939(昭和14年)年には一旦廃止された。

 終戦後の1947(昭和22年)年、日本出版協会、日本図書館協会、取次・書店の流通組織、その他報道・文化関連団体30あまりが参加して「読書週間実行委員会」が結成され、11月17日から11月23日までの第1回「読書週間」が行われた。「一週間では惜しい」という事で、2回目からは10月27日から11月9日までの文化の日を挟んだ2週間となり、現在に続いている。

 1959年11月に、読書週間実行委員会の任務を引き継いで「読書推進運動協議会」(読進協)が発足した。

参考:読書推進運動協議会

 読書週間も戦前・戦後の歴史を反映してい、思わぬ変遷を知ることができました。

▼平成26年10月10日:岡山市内の丸善に久しぶりに立ち寄った。金曜日の午前中ということもあったのかお客はまばら。店内の書物はあふれている。目新しいものばかりで目移りするばかりで、「この本を読みたいと思うもの」がなければ、本屋に入った意味がないなアと思った。

 店員に「読書週間」は行われているのですか?と尋ねてみました。

 「読書週間のイベントは行っていません」との答え。

 この言葉をを聞きまして、もうこれ以上聞いても仕方ないと、店を出た。

▼読書週間に関連した事柄を思いつくままにかいてみます(以前を含めて)。

 岡山市には、県庁のすぐ前に「岡山県立図書館」があり、ご承知と思いますが、利用率は日本一だそうです。利用者カードも持っています。私は、最近は本を読む量も時間も減っている、その上岡山市の中心街から離れたところにすんでいるから、図書館も遠く、近所に本屋もないのでどんな本が読まれて、売られているかも知らない。したがって、本を買うこともめったになくて、以前に買い集めた本を読んでいる。

岡山県立図書

 岡山城天守閣・後楽園などをお楽しみください。

 「本を読む」という楽しむ手段も多様化している。いわゆる普通の本を読む形から、電子版さらに、それを本にしている本。本を手に入れる方法まで変化している。さらに価値観の違いから種類も豊富である。ともかくも、大きな書店に入るとまさに違った空間に入り込んだ感覚にはまり込む。年齢のためか……。

 個人的には、読書週間により読者する人が増えてくれることを希望している一人です。

▼「読書週間には、名にのみ聞いて、実は知らない書物、すなわち、論語、孟子、万葉、源氏、ホーマー、ダンテ、シェスクスピア、ゲーテなどを、はじめの十行でもよろしい、とにかく読んでみる、ということをしたら、どんなものであろう。」(読書週間に寄せて)
*小島直記『回り道を選んだ男たち』(新潮社)に、福原麟太郎随想全集からの引用されたもの。

▼私も試みることにした。

 それは、本棚にデンと座り続けている、ダンテ『神曲』寿岳文章訳(集英社)のはじめの文章、下記の八行を読みました。

 ひとの世の旅路のなかば、ふと気づくと、私はまっすぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた。
 ああ、その森のすごさ、こごしさ、荒涼ぶりを、語ることはげに難い。思いかえすだけでも、その時の恐ろしさがもどってくる!
 その経験の苦しさは、死にもおさおさ劣らぬが、そこで巡りあったよきことを語るために、私は述べよう、そこでみたほかのことどもをも。
 どうしてそこへ迷いこんだか、はきとはわからぬ。ただ眠くてねむくてどうにもならなかった、まことの道を踏み外したあの時は。

 であった。

 「地獄篇」「煉獄篇」「天国篇」「後記」の構成であります。587ページのぼう大な本である。

私感:上記の短い文章の下注が4個もあり、キリスト教に関連したものである。どうやら私は圧倒されて宝の山の麓に佇んでいる。

2012.10.13、2014.10.11追加。 


春秋 2016/11/1付

 秋はスポーツの季節であり、食欲の季節でもあり、何をするにもよいころあいである。外が寒くなりはじめる11月は「灯火親しむの候」と呼ぶにふさわしい。というわけで、きょうは「読書の日」。え、聞いたことがない? それはそうかも。秋田県だけの行事なのだ。

▼2001年にできた子ども読書活動推進法は毎年4月23日を「子ども読書の日」に定めた。秋田県はそれでは飽きたらず、2年前にとうとう県独自の、しかも大人も対象に含めた読書の日を新設した。昨年、同県の中学3年生で「読書が好き」と回答したのは78.9%だった。全国平均は67.9%だから、大きく上回った。

▼秋田県は文部科学省が実施する全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)で毎年、上位の常連である。同県には子どもが自然に勉強好きになることで知られる「秋田県式家庭学習ノート」などさまざまな独自メソッドがあるが、本を読むのがとにかく好きという県民性がそうした活動の土壌になっているのは間違いない。

 全国学力テストで岡山県ではどうだろうか。小6が大幅上昇 38位から28位へ 中3は41位

 文部科学省が25日公表した2015年度全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)結果で、岡山県内公立校の全国順位は前年度と比較可能な国語と算数・数学の平均で小学6年が28位(前年度38位)と大幅に上昇。中学3年は41位(同42位)だった。 1都1道2府43県の46から計算すると小学6年でも半ばよりか下位である。

 隣の県である広島県の全国順位は小6が6位、中3が13位。また、海を隔てた香川県は小6が9位、中3が24位だった。成績にくらべても岡山県は劣る。

 インターネットによれば

 岡山県の教育を決定づけた高校小学区制、*教育委員会の暴走

 岡山県の教育は学力、校内暴力、非行問題、ふ登校などで文科省の調査で近年、全国最悪レベルをのたくっている。さらに教育ではないが対外発信のアピ ール度を民間シンクタンクの調査で全国47都道府県で今年は46位という結果と なった。何かと全国調査で最低ラインを突っ走る岡山県の根底に何があるのだろうか?

 岡山県人は古来なぜか「教育県」と自称する習慣がある。これはあくまで自称であって決して他府県の人が岡山県を指して教育県と言うことはまずない。ただ これが岡山県人に誤った教育への慢心、向上心の低下をもたらした悪影響は否 定できない。

 岡山県の高校以下の教育の性格を決定づけたことに

 戦後長く続いたほぼ完全な高校小学区制度がある。

 東京などは長く自由だったがいつだったか「学校群制度」なるものが出来て進学可能な都立高校が限定的になってふ評を招いたことがある。美濃部都政だったか?

 しかし学校群はまだ群の中からの選択が可能である。進学できる普通高校を何校から選択できる制度だが、岡山県の小学区制度が進学可能な普通科高校は原則として一つ(ただし5%入学の例外規定はあった)であること、・・・・

 戦後、ほぼ完全な高校小学区制を敷いたのは京都府と岡山県だったが、京都府は私学、・・・・・ハイレベル私学などもあって岡山県と私学事情が全く異なっていた。

 岡山県は今でこそ高校の私学も活発化しているがかっては私学ふ毛と言われる極度の私学ふ在だった。

 学校格差を作らない、トップ進学校を作らない、全国区の進学校を作ってはいけないという目的があったようだ。凡庸の横並びが強制され続けた。

 だから、・・・・

 岡山県には優秀な公立高校があると言うのは全くの虚偽である。

 岡山市の「朝日高校」はただ「人口相応」で進学成績を上げているだけであって、全く特筆すべき秀でたものはない。

 これは倉敷市の青陵高校を「進学校」だと言うのも同じでただ、人口相応の進学成績でしかない。凡庸以下である。

 全てが凡庸な進学成績と言うのも徹底した小学区制度の歴史からして当然の結果である。「その地域」からしか進学は許さず、他の地域からの進学を認めないという哲学からは「人口相応」という結果しか出ない。

 優秀な高校を目指したい、という他地域からの有志の入学を拒絶し、地域単位に特化の普通科高校ばかりで特色を持ってはならない、独自の創意工夫は行ってはいけない、横並びでなければならない、・・・・

 という悪平等の思想が岡山県の教育レベルを低下させていき、現在の全国の最低レベルという体たらくを招いたと考えて間違いない。

 無論、高校単位では下らない「補習」にうつつを抜かす程度の独自性しか生まず、低迷岡山県の悪しき社会主義は小学校まで及び、創意工夫のかけらもない知育の点で失格の岡山県の伝統が築き上げられたわけである。

 岡山県教委が、ただ均質性だけを至上の価値とし、小学区制を維持する警察官のごとき役割しかなさず、「何の取り柄もない」無個性な高校ばかりにしてきたツケは教育のレベル低下に直結したことは否定のしようもない。

 横並び思想の悪しき惰性は岡山県の教育を支配し続けている。

★広島県はどうか 調べてみると

 広島県県立高校は以下の通りである

☆平成18年度入学者選抜からすべての県立高校の通学区域を全県一円とします。

 全県一円となることによって,自分にあった高校,学びたい高校を県内どこでも自由に受験できます。

 私の思うには、有名高校(有名大学への合格率で決められる)へ優秀な生徒が集まるだろう。機会は平等に与えられているのだから、能力のある生徒はのばすべきであるとの考えで全県一円制に賛成である。

 第一点は、子供の学力を伸ばす 第二点は、高校からの大学進学の問題の2点について考えると 

 第一点について、私のささやかな体験を紹介します

「座談会」新制第一期の研修を終えての記事に、アンケートの結果で驚いたことには「職場の人や家族にほめられましたか」という質問に対して、職場もさることながら家族からほめられたという回答が意外と多いのです。例えば「よくお酒が辛抱できますね」とか「お父さんはよくべんきょうするねの記事が見られます。親である研修生の勉強する姿が子供に椊えこまれる様子が窺えます。将来子供の成長への種蒔きをされていて、何時の日にか実を結ぶのが約束されていると思います。

 子供を勉強好きにするにはどうすればよいか。読書好きにすることに異論はない。それにはどうすればよいか。私は子供が幼稚園に入る前、本を沢山読ませると、字を覚える子供になることは間違いないようです。

 第二点について

 私はその昔、広島県の東部にある旧制中学を受験した。今で言う全県一円であった。昭和15年入学した当時は中学が少なかったので、東は三原・西は呉:北は本郷・南は大町などの島嶼から生徒が集まっていた。従って旧制高校・専門学校・海兵・陸士などにもある程度進学していた。ところが、最近は高校が各地にできて、そのうえ全県一円制であり、田舎でもあり、教育環境も整わず、優秀な生徒は広島市周辺へ集まるためか、国立大学への合格者も微々たる状況である。

 以上、日経春秋 2016/11/1付の記事を読んで、整理してみた。

2016.11.02。 


春秋 2017/11/4付

 「本に恋する季節です!」とは今年の読書週間の標語だ。ポスターには、山積みの本に囲まれた高校生らしきカップルの姿。明けても暮れてもスマホの若者が紙の本にそんなに引かれるかなと思いつつ、明日まで開催の「神田古本まつり」に赴けば意外に若い人が多い。

▼ふだんから本、本、本の神田神保町だが、この季節は蔵出しされた書籍、雑誌、それに古い絵はがきやら地図やらが大通り沿いの屋台にひしめいている。デジタル全盛の昨今でも容易にデジタル化できぬ、紙の上の記録と記憶が街に満ちているのだ。インターネットでは引き出せない珠玉の言葉もそこに眠っているだろう。

▼15世紀の半ば、グーテンベルクが活版印刷を発明して世界は大きく変わった。あらゆる情報が大量に印刷され、壁を越え、それを人々が共有するようになった。長い歴史を持つその文化はIT(情報技術)の前に劣勢ではあるが、決して捨て置けぬ資産の山なのは疑いない。ネット上の知識の多くも、もとは印刷物である。

▼紙ならではの質感がまた、本の魅力だ。最近よく出合う、こだわりの書店の棚はそれ自体がアートだからほんとうに「本に恋する」気持ちになる。1947年の第1回読書週間の標語は「楽しく読んで 明るく生きよう」だった。心の糧を必死に求めた時代にも、情報のあふれかえる現代にも、本はわたしたちを離さない。


余録 「読まずんば死せよ」… 毎日新聞2018年10月27日 東京朝刊

 「読まずんば死せよ」。ものすごい標語もあるものだが、これは大正時代の第1回図書館週間の標語募集で3等になった作品という。2等は「最大の国も一箇の図書館より小なり」、1等は該当作なしだった

▲この図書館週間、戦後の1947年に始まった読書週間の前身ともいえる戦前の読書推進運動である。ちなみに、読書週間としては第72回となる今年の標語は「ホッと一息 本と一息」という。先の脅迫標語とは対照的な癒やし系だ

▲だが小紙の読書世論調査を伝える紙面には「雑誌購買『減った』37%」「『本買わない』増加、24」など相変わらず活字離れの進行を伝える見出しが並ぶ。こうなれば脅迫系標語を持ち出したくなる出版人が現れてもおかしくない

▲今回の調査では読書の前提となる日本人の読み書き能力についての意識調査も行った。結果、能力ふ足を感じる人が8割を超え、原因をスマホなどの利用に求める人が4割になった。どうも長文の読み書きに及び腰なのが感じられる

▲幕末から明治に来日した欧米人は日本の庶民の多くが読み書きできるのに驚き、貧困層や若い女性が貸本をむさぼるように読んでいるのに目を見張った。読み書きの能力と本を読む楽しみとが表裏一体だったご先祖たちの幸せである

▲今年の世論調査の救いは読書を「大切」と思う人が95%の多数にのぼり、読書を尊ぶ価値観の健在が示されたことだろう。脅迫など一切無用、ひたすら本を読む「幸せ」を探求したいこの読書週間である。


31

木鶏の教訓

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 紀省子(きせいし)という闘鶏を育てる名人が、王様がもっていた一羽のすぐれた鶏を鍛えていた。

 王様というものは、もともとせっかちである。十日もたたぬうちに「もう、ぼつぼつ蹴合わせてもいいのではないか」とせつくと、紀省子は「まだ、いけません。ちょうど空元気の最中です」と断わった。

 そう言われては「無理に」とも言えぬので、やむなくすっこんだ王様は、それから十日もたつと、もうじりじりしてきて「どうじゃ」と催促する。だが、紀省子は「相手をみると、すぐ興奮するのでいけません」ととりつくしまもない。

 それから十日待たされた王様は「いくら何でももうええじゃろう」と紀省子の尻をたたくと「まだ、いけません。かなり自信はできてきたのですが、どうも、相手に対して、何がこやつ! と嵩(かさ)にかかるところがあります」。

 ぶ精ぶ精(ぶしょうぶしょう)あきらめた王様に、それから十日たつて、やっと名人はオーケーを与えた。

「もう、ぼつぼつ、よろしいでしょう。相手が挑戦してきても、いつこうに平気で、ちょっとみると木彫の鶏のごとく、その徳が完成しています。これからは、どんな敵が現われても、戦う前にしっぽをまいて退却することでしょう」

 蹴合わせてみたら、果たして、その通りだった。

 望之似木鶏(之ヲ望ムに木鶏ノ似(ゴトシ)シ)の由来だが、この寓話には四つの教訓が含まれている。

sousi3-1.JPG  第一に「競わず」。むやみと余計な競争心をかりたてないこと。

 第二に「てらわず」。自分を自分以上に見せないこと。

 第三に「瞳を動かさず」。絶えず、あたりを気にして、キョロキョロ見回さないこと。

 第四に「静かなること木鶏の如し」。木彫の鶏のごとく静かに自己をみつめること。

 伊藤 肇『十八史略の人物学』P74~75(プレジデント社)

『荘 子』第三冊 外篇 達生篇第十九 金谷 治訳注 (岩波文庫)P.54 

 紀省子、王の()めに闘鶏(とうけい)を養う。十日にして問う。鶏、()(成)れるかと。曰わく、(かんじ)だし。(まさ)虚憍(きよきよう)して気を(たの)むと。十日にして又た問う。曰わく、未だし。()漢字(かん)(きよう)()(影)に応ずと。十日にして又た問う。曰わく、未だし。猶お嫉視(しつし)して気を盛んにすと。十日にして又た問う。曰わく、(つく)せり。鶏()く者ありと雖も、(すで)に変ずることなし。これを望むに木鶏(ぼくけい)に似たり。其の徳全し。異鶏()えて応ずる者なく、(かえ)()げんと。―読み下し文―

 紀省子が王のために闘鶏を養って訓練していたが、十日たっておたずねがあった、「鶏はもうできあがったか。」「まだだめです。今はむやみに威張って気力に頼っています。」それから十日たってまたおたずねがあった。「まだだめです。音がしたり影がさしたりすると、まだそれに向っていきます。」それから十日たってまたおたずねがあった。「まだだめです。まだあいてをにらみつけて気勢を張ります。」それから十日たってまたおたずねがあった。「じゅぶんになりました。他の鶏の鳴くことがあっても、この鶏はもうなんの反応も示しません。離れてそれを見るとまるで木で作った鶏のようです。その(もちまえ)は完全なものになりました。他の鶏でたちむかってくるものはなく、背をむけて逃げてしまいます。」 ―口語訳

2010.10.27 


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 安岡正篤『先哲講座』(竹井出版)昭和63年2月25日第二刷発行 P.118~120

 鶏に託して人間を風刺した面白い話であります。  

 相撲は闘鶏のように闘技でありますから、双葉山関が、土俵の上でも、また私生活においても終始変らず、この修行をしたということは、じつに立派なものであります。彼が横綱になりました頃は、本当に人間として木鶏の風格がありました。淡々とした中に何とも言えぬ落ち着きと充実があって、しかもそれがきわめて自然でありました。話をしておりましても思わずできておるな(●●●●●)、と思うことが度々ありました。やはり修行すれば人間もこうなるのだということを痛切に感じました。

 民族的に申しますと、漢民族は世渡りの上でこういう練達・練熟、向うの言葉で言うと「(らお)」、この字のとおり老成したところがあります。これに対して日本人は「()」、いい意味においても悪い意味においても純でなま(●●)老獪(ろうかい)ということになってやっかいです。な高い林語堂などは、やはり自分で自分の民族の悪いほうの性格の中に、これをいれて英語でrogueと使っております。

 文化の面から見ましても、中国の文化をあらわす文字に「蕩」という字があります。老獪と訳したら一番当たっておりましょう。酒でも向こうは老酒(らおちゅう)、日本は生一本という。まことに面白い相違であります。人の性格にも、あの人は「()一本だ」とよくほめる言葉に使いますが、「なま」というと、まだ人間ができていないことでありますから、あらゆる点において対照的あります。

 文化の面から見ましても、中国の文化をあらわす文字に「蕩」という字があります。これには三つの意味があって、その一つは「王道蕩々」というように非常にスケールが大きいということに使います。次が老練・老熟というねれている(●●●●●)という意味に使います。そして三番目がとろける(●●●●)という、どちらかと言えば悪い意味に使います。この「蕩々」に対する言葉が稜々(りょうりょう)(なま)だということであります。このへんにも中国文化と日本文化との相違がみられます。

2020.04.12記す。


余録 昔、闘鶏を育てる名人が王に頼まれて鶏を預かった…毎日新聞2018年1月29日 東京朝刊

 昔、闘鶏を育てる名人が王に頼まれて鶏を預かった。敵の声や姿に興奮したりするうちは使いものにならない。どんな敵にも無心になり、やっと最強の闘鶏が完成した。まるで木でできた鶏。中国の故事に由来する「木鶏(もっけい)」である

▲今から79年前の大相撲1月場所で、横綱・双葉山は連勝が69で止まった。友人が心中を気遣って「サクモヨシチルモマタヨシサクラバナ」と電報を打つ。双葉山はこう返電した。「イマダ モッケイタリエズ フタバ」

▲双葉山の著書「相撲求道録」には相撲道を究めようとする厳しい姿勢が表れている。片や今の角界は、昨年の元横綱・日馬富士による暴行事件が裁判でひとまず決着したものの、波風が収まらない

▲理事から降格された貴乃花親方と日本相撲協会との確執が続く。平成30年2月に予定される協会の理事候補選挙を巡り、勢力争いに注目が集まる。そんな協会の現状は「木鶏」の精神からほど遠い

▲不祥事が相次いでもチケットは売り切れるが、いつどうなるか分からない。作家の吉川英治が人気絶頂の双葉山を交え食事をした時のことを書いている。あちこちから声がかかり、ちやほやされる。「低い所から落とせば欠けない物を勝手に高所までさし上げて行って落とすのが人気の特質である」。人気とは恐ろしい

▲今場所、一人横綱となった鶴竜はどんな思いで千秋楽を迎えただろう。吉川が孤高の双葉山にしたためた一句がある。〽江戸中で一人さみしき勝角力(かちずもう)。角界を支える綱のなんと重いことか。


32

華岡青洲

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 有吉佐和子著『華岡青洲の妻』(新潮社)昭和四十二年十一月二十日 三十刷 を読む

 私はこの本を読んで日本にも素晴らしい外科医が居たことを知り、誇りに思った。

 乳岩の手術はこうして成功裡に。終わった『我療乳巌乎。竊擬華佗(かた)之術と青洲は書いている。

▼それで通散仙と自らな付けたものをわざわざ華佗は三国志時代の名医が用いた麻酔薬と同じように麻沸散と記しているのだろうが、千七百年前の聖医は後の人のためには何一つ記録を残していないので、青洲は華佗を擬するにも具体的な手がかりはなく、これは全く彼自身の独創によるものであった。わざわざこうしたものにまで華佗をひきあいに出したのは、青春の日からの目標であった聖医のなをこのときに到ってもなを忘れることがなかったからであろうし、手術に際しての青洲の意気込みもうかがわれるというものである。この手術は、単に華岡青洲のなをあげるに足る偉業であっただけではない。それは近世外科界で実に世界最初の全身麻酔による手術であった。

▼アメリカ合衆国のロング医師がエーテルを用いて実地手術を行ったのは一九四二であり、一八三一年にスーベローの創製したクロロフォルムを使って英国のシンプソン婦人科医が手術したのは一八四七年、華岡青洲より三七年から四十二年後のことなのである。この成功は、そてまで極めて消極姑息なものにすぎなかった外治医術に一大飛躍を遂げさせ、いわゆる「大手術」と称する外科の新領域を開拓した。

▼伊都郡丁之町の松本新次郎といえば、名手の妹背(いもせ)家とは家格の点でこそ較べものにならないけれども、地主である他に藍屋や染物業へも手を拡げてしかも堅実に取り仕切っている評判の高い家であった。その娘であった於継(おけい)が適齢期に到ってひどい皮膚病に冒さたとき松本家では金にあかして医者に診せたが彼らは悉く匙を投げた。ところがその話を聞いてた上那賀郡な手(なて)の平山の医師:華岡直道が紀ノ川を渡っての門を叩き、必ず治癒して見せるがその暁には於継を自分に娶らせてほしいと云ったものだ。そして結果は、於継が貧乏医者の家に嫁入りすることになってしまったのである。

▼於継が妹背家に現われのは、妹背の祖父が亡くなってからの三年後の晩春であった。

 「こちらの加恵さまを手前どもの震に頂きたく、まかりこしてござります」

 妹背の祖父が亡くなってから大庄屋をしている佐次兵衛は「何分にも突然のお越しや。よう考えた上で御返事しますわ」

 佐次兵衛は穏かな微笑さえ浮かべ於継を送り出したが、内心では少しも考える気はなく、紊庄屋か肝煎りにでも言伝してすぐ断りを云わせるつもりであった。

 いろいろな経緯があって結局妹尾家と華岡家の縁組が結ばれることになったのは、最後には加恵の意志が働いたからだと云うことができる。

 天明二年(1782年)の秋、加恵は華岡家に嫁いだ。

▼花婿の座には雲平の代わりに「本草綱目」という書物が置かれていた。それは雲平の祖父に当る華岡雲仙尚政がその師の許で写した写本である。この雲仙の代から華岡家は医を本業としたのであるから、それだけで意味があったが、明(みん)の李時珍が著した「本草綱目」は薬草全書にも等しいものであって、漢方医学のいわば聖書であった。雲仙の子直道、そして雲平と、三代が各頁を指で繰って薬草の知識を吸収しようとしたな残が、古びた紙と蒼然とした墨痕と、そして縁の早くもぼろぼろになってきている表紙に侵みついて見える。それは隣の座についた花嫁に、医家へ嫁いだという現実を厳しく印象づけねばやまない。強い意志を持つているようだった。

 加恵は緊張していた。隣席が空いているだけでな、蒼古とした書物が百年の齢を持つ生物のように黙っている坐っているのだ。加恵はたった今送り出されてきた妹背家の賑わいから突然隔絶され、怖しい孤独に中に突き落とされたような気がした。体を固くして、加恵は体の芯が小刻みに震えているのを感じていた。

 加恵のすぐ目の前みは直道と於継が並び、その両側に雲平の弟妹が並んでいた。婚礼の席に連なっていたのは加恵と同年の於勝(おかつ)と小陸(こりく)以下妹二人と、当年三歳になる幼い良平の五人である。

▼華岡家は予想以上につつましい暮らしをしていた。加恵が来た日といっても、直道の膳に徳利が二本並んだだけが特別で、料理も二品ばかり。

 僅かな酒に直道はいよいよ勢づいて滔々と弁じたてていた。酒よりも話すことに酔っているらしかった。

 なんと云っても医者は人の命を助けるの役目だ。寿命で人が死んでも、医者としては他に助けようがなかったかと考える、これが自然だ。半農半医の伝右衛門尚親から数えて儂で四代目、医師専業となって雲平で三代目という華岡家に、この、しもうた、どないして助ける法はなかったか、という口惜しさは代々積み上げられ、堆肥のように黝(くろず)んできている筈なのだ。ひとは儂を息子自慢と嘲るが、儂は雲平だけ見て、彼(あれ)に才ありというのではない。この華岡の家は、もうそろそろ花の咲く時分どきだと確信しているからなのだ。この確信の源となるのは、今も話した通り、華岡家代々は偉業を邪(よこし)まに用いた者は一人も居ないからだ。武士の裔(すえ)が刀代りに鍬を取るだけでは足りず、刀で弱きを守る代りに匙で人命を救いたいと考えた。先祖の初一念は今日まで守り通されている。それが雲平に一人の体に噴き出ない筈はない。三男を高野に上らせたのは、先祖の腕の未熟やふ運から死なした者の菩提を葬(とむら)わせるためである。人を造るに百年の大計を以てす、華岡家はすでに医家として百有余念を経ているのだから、その歴史が顕れるならば雲平に顕れる筈なのだ――。

▼華岡家の中は、加恵が縁づいて後もしばらくは、加恵が来ない前と同じような段取りで明け暮れた。

 質素な朝の食事が終わると、於勝も小陸も布を織り、食事どきまで休みもせず続けた。

 だが加恵は間もなく、於勝たちが自分の為に機織にいそしんでいるのではないことに気付いた。それは修学中の雲平に仕送りのためのお金をためるためのものであった。

 それに気がつくとすぐに加恵は於継に云わずにいられなかった。

 「私も織りますよし。機械を買わせて頂かして。織り方を教えていただかして」

 於継は微笑を含んで頷き、丁寧に教える。

 京都にいる雲平から加恵宛てに便りのきたことは一度もなかった。送金を受け取っても一々礼状ががきたためしもない。

▼修学が終わり雲平が家に帰ってきた。

 於継は雲平を見上げ、

 「加恵さんやして。このひとも待っていたのえ」

 雲平は頷いて加恵をまっ直ぐに見た。鋭い光を持った大きな目だった。若者らしい気遅れもしく、恥じらいもなく、雲平は強い視線を加恵に当てると、

 「お」

と喉許(のどもと)から言葉にならない声をあげた。こういう場合の初対面の夫婦がなんといって挨拶すべきか雲平も知らなかったし、加恵の方はといえばすっかり動転(どうてん)していたのだから、頭を下げるだけが精一杯で、すぐ厨(くりや)に飛込むと湯を汲む用意にかかった。

 夕餉の用意はせめて妻の手で整えようと厨に立つた加恵は、間もなくまた同じ思いの中へ閉ざされることになった。三年前に、しかも肝腎の雲平の留守に嫁いてきたばかりの加恵には手も足も出ない。雲平の好みの端々を加恵がしっている筈はなかった。

▼雲平は「外科に志すものは、まず内科に精通しておらんとあかんのですわ。腫物(できもの)の先を突いて膿はとるだけが外科やないのです。内科の医者が持て余したものを処理するのが外科やないですか、儂はそない思うて学んで来ました。外科医がもっている刀は、いわば武士の刀と同じことで、理非を正すように患者の内外をつぶさに診た後で見きわめて刀を下さないかんのですから」

 「よう云うたぞ、雲平」

 「…しかし儂の目標は日本の華佗(かた)たらんとすることですのや」

 「華佗やて、えらいものを持ち出してきたのう、雲平」

 雲平は麻酔薬の完成を目指す。

▼薬草を椊えて研究材料とする曼荼羅華(毒草)を栽培したりしていた。また猫や犬を実験用に使う。

 雲平の妹:於勝が乳の中に腫瘊ができたが、兄はどうすることもできなかった。ついに、妹は息を引き取った。

 猫での麻酔薬の研究が遂に成功した。

 次に人間で試すことになる。於継と加恵とが同時にその申し出をして二人に試すことになる。それぞれ2回の人体実験し、結果は成功したが、加恵は盲目になった。

▼ある日、母屋の方が急に騒がしくなった。

 「先生、暴牛(こつてうし)に角にかけられた女ですんや」

 「どこを突かれたんや」

 「乳が」

 青洲が門弟たちに口癖のように云っていた活動窮理のときがきたのだ。乳房が女の肉体的生命を左右するものなのかどうかという大きな疑いの前で、青洲は女の上半身を洗い、止血し、痛み止めを塗り、消毒薬で拭き、やがて縫合して終わる。女の命は助かった。

 六十歳の女性。乳房の中に固いものができたのを、診せた医者はすぐに岩だと診断てたが、治療の方法もないとして投薬もしなかった。うわさを聞いて青洲のところにやってきて手術を願った。乳岩の手術は成功に終わった。

▼華岡流医術の威名が全国に轟きわたる頃、杉田玄白(六十歳のとき)から謙虚に教えを乞いたい旨を記した手紙も届くようになった。当時、青洲は五十三歳であった。

 文政十二年(1830年)、加恵は逝った。六十八歳であった。

 六年後に華岡青洲は没した。

参考:西国第三番札所・粉河寺と医聖・華岡青洲の里

 彦左 様:お読みくださり、そのうえLinkさせて戴き有難う御座いました。

2010.12.26 

 平成二十四年十二月二十三日、テレビで、華岡青洲の業績が日本の医師として世界に誇るべきものであると報道されていました。再度読みました。

参考:華佗


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幸田露伴の樹相学


 安岡正篤著『運命を開く』(プレジデンㇳ社)1986年12月2日 第1刷発行 P.115

 はじめにご紹介したいと思うのは樹相哲学とも言うべきものである。土に親しみ山川草木を愛する農業者であるところの諸君は、樹の語る哲学を持つことも、またゆかしいことだ。樹に関しては、いろいろな哲学あり、文学あり、これもまた無限であるが、ここに一つ面白い樹相学を紹介します。これは幸田露伴翁が昔、名文をもって論じている、興味津々たる文章であるから写して置かれるとよい。

 それは、樹には五つの相がある。第一には懐(ふところ)の蒸れることだ。枝葉を払わないと、風通しや日ざしが悪くなる。あれを「懐の蒸れ」という。その次に、あるところまでゆくと樹の発育が止まる。これを「梢(うら)どまり」という。それから「根あがり」「・裾あがり」というやつ――これは土が落ちて根が出てしまう。それからボツボツの梢どまりが進んで「梢枯れ」が始まる。この辺りの樹ををご覧なさい。みな梢枯れだ。煤煙や虫などのため特にひどい。第五に「蟲つき」だ。樹には、こういう懐の蒸れ、梢枯れ、蟲つきという姿がある。

 これを樹のことだと思ったら大きな間違いだ。お互い人間にも、懐の蒸れ、梢どまり、裾あがり、蟲つきがあるというのだ。まさにその通り。これまた実に面白い。諸君も注意せんと、ぼつぼつ梢どまり、梢枯れ、蟲つきが始まる。そして愛誦されるとよい。原文を読みましよう。

 「人長じては漸くに老い、樹長じては漸くに衰ふ。樹の衰へ行く相(すがた)を考ふるに、およそ五あり。天女にも五衰といふ事の有るよしなれば、花の樹の春夏に栄え、葉の樹の秋冬に傲(おご)るも、復(また)五衰の悲(かなしみ)を免れざることにや。」

 「樹の五衰は何ぞ。先ず第一に其の懐(ふところ)の蒸るヽことなり。樹の勢い気壮(さかん))にして枝をさすことも繁く、葉を持つこと多ければ、やがて風も日も其の懐深きあたりへは通らぬ勝(がち)となるより、気塞(ふさ)がり、力閊(つか)へて、自らに葉も落ち枝もかれ、懐蒸れて疎(まばら)となるに至る。これは甚だしき衰えの相にはあらねど、萬の衰えに先立てる衰なり。たとへば人の勢いに乗じ時を得て、やうやく美酒嬌娃(きょうあい)に親しむがままに、胸中の光景の前には異なりて荒み行くが如し、ふ祥これより起こらんとす。

 「第二には梢止(うらどまり)なり。樹の高きは樹だに健やかならば限(かぎり)無かるべき如くなれども、根の水を送り昇す根圧力も、幹の水を保ち持つ毛細管引力も、極まるところありて、其所に尽くれば、希有の喬木もその高さ三百尺に超ゆるは無しと聞く。まして常の樹は、およその定例(さだまり)までに至れば天をさして秀で聳えんとするの力極まり尽きて、また其の本幹の高(たかさ)をば増さずして已(や)む。これを称して梢止といふ。よろずの樹梢止に至れば、やがて成長の機そこに転じ発達の勢いそこに竭(つ)きて、幾程も無く衰えを現ず。たとへば人の学問芸術よりよろずの事に至るまで、或地歩に達すれば力竭き願撓(たゆ)みて、それより上に進まざるが如し。力士、優伶(ゆうれい)、畫人、詩客などを観れば、其の技の上に於ける梢止となれるものと、梢の猶止まらぬものとの異れるさま、明らかに暁(さと)り知る可し。樹も人も梢止となりて後は、栄華幾許時(いくばくとき)もある可からず、萬人に称(たた)へられ一時に誇る時、既に梢止の畫、梢止の文を為し居るがおほし。矯樹潅木は皆早く梢止となりて、葉を展(の)べ枝を張りだにすれば宜しとせるに似たり。卑むべし。」 

 「第三は裾廃(すそあがり)なり。松杉樅(もみ)桧(ひのき)など、天に冲(ひい)るまで喬(たか)くなりたるは宜しけれど、地に近き横枝の何時と無しに枯れて、丈高き男の袴を着けずして素臑露(すずねあら)はしたるを見るが如くなりたる、見苦しく危げなり。

[野中の一本杉など、裾廃となれるが暴雨風(あらし)には倒され勝(がち)なり。是(これ)たとへば人の漸く貴(とうと)く漸く富みて、世の卑(いやし)き者に遠ざかるに至れるまヽ、何時と無く世情に疎くなれるが如し。軍人官吏など、位高きは裾廃となれるが少からず。徳川氏の旗下(はたもと)など、用人給人の下草に蔓(はびこ)られて皆裾廃の松杉となりしなるべし。」

 「第四に梢枯(うらがれ)なり。梢(うら)の止りたるは猶可し、梢の枯るヽに至りては、其の樹やうやく全(まつた)からざらむとす。歌ふ者に潤(うるおい)無く、畫 く者の筆に硬(こわみ)多きに至るは、梢のやうやく枯れたるなり。梢枯れ初めては、樹も日に月に衰へて、姿悪(あし)く勢脱けて見え、人も或は暴(あら)びて儼(いか)つくなり、或は耄(ほ)れて脆(もろ)げになり行く。一腔の火の空しく燃えて双鬢の霜の徒(いたずら)に白き人など、まさしく梢枯の相をあらわせるにて、寒林に月明らかにして山の膚(はだ)あらはなる禿頭も、また正(まさ)しく然り。五十前後より人誰か能く梢の枯れざらん。」

 「第五には蠧附(むしつき)なり。油蟲は嫩目(わかめ)に附き、貝殻蟲は葉にも椏(えだ)にも附き、恐ろしき鐵砲蟲は幹を喰ひ通し、毛蟲根切蟲それゞの禍(わざわい)をなす。此等の蟲に附かるれば樹も天寿を得ず、十分に生ひ立たで枯る。蟲は樹に附くのみかは、亜爾箇保児蟲(アルコホル)むしは酒客の臓腑を蝕(く)ひ、白粉(おしろい)蟲は好(すき)ものの髄を食ひ、長半蟲(ちょうはんむし)は気を負ふ者の精を枯らし、骨董蟲は壮夫の志を奪ひて喪ふ。さまゞの蟲、人を害(そこ)ふこと大なり。

 樹木の五衰上(かみ)の記すが如し。一衰先ずおこれば二衰三衰引き続きて現はれ、五衰具足して長幹地に横たはるに至る。嘆く可く恨む可し。人も樹に同じ、衰相無き能はず。たゞまさに老松古柏の齢(よわい)長うして翆(みどり)新なるに効(なら)ふべきのみ。」

 含蓄も構想も文章もまことによい。

*参考:〈枝すかし〉込み入った枝や風通しが悪くなった時は、〈枝すかし〉と呼ばれる刈り込みをするといい。枝数を少なくして風通しをよくする方法で、三~四本のうち一本を切って、向こう側が透けて見える程度が目安だ。

*参考:小説家(1867~1947年)第一回文化勲章受賞。

関連:五衰ビジネス版

2011.01.21 


34

時の力―忘 却―


 近ごろは、新刊書などを買うことがない。

 以前に買い集めた本が私の居間(書斎と云うほどでなくて、本の置き場所)は約6畳ほど。東西の壁に6~7段の本棚がある。その棚に前後に本を配列しているから延べてみると東西南北に本があるともいえる。

 こんな部屋に机・パソコン・印刷機を持ち込んで、南側の窓ガラスから射し込む陽を受けて書き物などしている。

 さて本題の新刊書をかわないのは、この本棚から、書名・著者から読みたい本を抜き出して読みはじめると、一度は読んでいたのはたしかである(本の中に書き込みなどしているから)が、内容はまるで新しくかった本をよんでいるようである。読み進んでいると以前に書き込んでいたところの文書と違っているところに興味がわくところが随所にある。年齢による私の読む関心事の変化によるものだろう。従って冒頭のような事態になっている。

 時の時間との関係は多様な面から古今東西にかかわらず述べられている。「光陰矢の如し……」「時間の速さの感じ方は年代の数字の逆数分の1であるなどなど。

 物理的な時間以外に「時の力は忘却させる力を持つている」とよく耳にするが、私も長い間の読書からしきりにたいけんさせせられている。

 この思いをおし進めてみる。

 私どもは、愉しいこと・辛いこと、嬉しいこと・悲しいことに出会う。昔の人は「禍福はあざなえる縄の如し」と名言を述べている。辛いこと・悲しいことにもしも時の力がなければ「いま」を生きていけるだろうか。いや、その状態に取り込まれてしまって、はやりの言葉でいえば「うちごもり」になって動きのとれないようになるのではないかと。

 こんな「時の力」は自分が努力しても得られるものでなくて、「時の力」に恃むことしかできないもどかしさを感じる。

 「時は不思議な力を持っている!」ものだと思うこのころを過ごしている。

2012.01.27 


35

父の詫び状


 子供の頃、玄関先で父に叱られたことがある。

 保険会社の地方支店長をしていた父は、宴会の帰りなのか、夜更けにほろ酔い機嫌で客を連れて帰ることがあった。母は客のコートを預かったり座敷に案内して挨拶をしたりで忙しいので、靴を揃えるのは、小学生の頃から長女の私の役目であった。

 それから台所へ走り、酒の燗(かん)をする湯をわかし、人数分の膳を出して箸置きと盃を整える。再び玄関にもどり、客の靴の泥を落とし、雨の日なら靴に新聞紙を丸めたのを詰めて湿気を取っておくのである。

 あれはたしか雪の日であった。

 お膳の用意は母がするから、といわれて、私は玄関で履物の始末をしていた。

 七、八人の客の靴には雪がついていたし、玄関のガラス戸の向うは雪明りでボオッと白く見えた。すき間風のせいかこういう晩は新聞紙までひんやりと冷たい。靴の中に詰める古新聞に御真影がのっていて叱られたことがあるので、かじかんだ手をこすり合わせ、気にしながらやっていると、父が鼻唄をうたいながら手洗いから出て座敷にゆくところである。

 父は音痴で、〽箱根の山は天下の険 がいつの間にかお経になっているという人である。うちの中で鼻唄をうたうなど、半年にあるかなしかのことだ。こっちもちつられてたずねた。

 「お父さん。お客さまは何人ですか」

 いきなり「馬鹿」とどなられた。

 「お前は何のために靴を揃えているんだ。片足のお客さまがいると思っているのか」

 靴を数えれば客の人数は判るではないか。当たり前のことを聞くなというのである。

 父は、しばらくの間うしろに立って、新聞紙を詰めては一足ずつ揃えて並べる私の手許を眺めていたが、今晩みたいに大人数の時はしかたないが、一人二人の時は、そんな揃え方じゃ駄目だ、というのである。

 「女の履物はキチンとくっつけて揃えなさい。男の履物は少し離して」

 父は自分で上がりかまちに坐り込み、客の靴を爪先の方を開き気味にして、離して揃えた。

 「男の靴はこうするんだ」

 「どうしてなの?」

 私は反射的に問い返して、父の顔を見た。

 父は当時三十歳をすこし過ぎたばかりだったと思う。重みをつけるためかひげを立てていたが、この時、何とも困った顔をした。少し黙っていたが、

 「お前はもう寝ろ」

 怒ったようにいうと客間に入って行った。

 客の人数を尋ねる前に靴を数えろという教訓は今も忘れずに覚えている。ただし、なぜ男の履物は少し離して揃えるのか、本当の意味が判ったのは、これから大分あとのことであった。

 父は身綺麗で几帳面な人であったが、靴の脱ぎ方だけは別人のように荒っぽかった。くつぬぎの石の上に、おっぽり出すように脱ぎ散らした。

 客の多いうちだからと、家族の靴の脱ぎ方揃え方には、ひどくうるさいくせに自分はなによ、と父の居ない時に文句をいったところ、母がそのわけを教えてくれた。

 父は生まれ育ちの不幸な人で、父親の顔を知らず、針仕事をして細々と生計を立てる母親の手ひとつで育てられた。物心ついた時からいつも親戚や知人の家の間借りであった。

 履物は揃えて、なるべく隅に脱ぐように母親から言われ言われして大きくなったので、早く出世して一軒の家に住み、玄関の真中に威張って靴を脱ぎたいものだと思っていたと、結婚した直後母にいったというのである。

 十年、いや二十年の恨みつらみが、靴の脱ぎ方にあらわれてたのだ。

 (中略)

▼客の人数が多いので酒の肴を作るのも大仕事だった。年の暮れなど夜行で帰って、すぐ台所に立ち、指先の感覚がなくなるほどイカの皮をむき、細かく刻んで樽いっぱいの塩辛をつくったこともあった。新円切り換えの苦しい家計の中から、東京の学校にやってもらっている、という負い目があり、其の頃の私は本当によく働いた。

 働くことは苦にならなかっが、嫌だったのは酔っぱらいの世話であった。

 仙台の冬は厳しい。代理店や外交員の人たちは、みぞれまじりの風の中の雪道を歩いて郡部から出て来て、父のねぎらいの言葉を受け、かけつけ三杯のドブロクをひっかける。酔わない方がふ思議である。締め切りの夜など、家中が酒くさかった。

 ある朝、起きたら、玄関がいやに寒い。母が玄関のガラス戸を開け放して、敷居に湯をかけている。見ると、酔いつぶれてあけかた帰っていった客が粗相した吐瀉物が、敷居のところいっぱいに凍りついている。

 玄関から吹き込む風は、固く凍(い)てついたおもての雪のせいか、こめかみが痛くなるほど冷たい。赤くふくれて、ひび割れた母の手をみていたら、急に腹が立ってきた。

 「あたしがするから」

 汚い仕事だからお母さんがする、というのを突とばすように押しのけ、敷居の細かいところいっぱいにつまったものを爪楊枝で掘り出し始めた。

 保険会社の支店長というのは、その家族というのは、こんなことまでしなくては暮らしてゆけないのか。黙って耐えている母にも、させている父にも腹が立った。

 気がついたら、すぐうしろの上がりかまちのところに父が立っていた。

 手洗いに起きたのだろう、寝着に新聞を持ち、素足で立って私が手を動かすのを見ている。

 「悪いな」とか「すまないね」とか、今度こそねぎらいの言葉があるだろう。私は期待したが、父は無言であった。黙って、素足のまま、私が終わるまで吹きさらしの玄関に立っていた。

 三、四日して、東京へ帰る日がきた。

 帰る前の晩、一学期分の小遣いを母から貰う。

 あの朝のこともあるので、少しは多くなっているかと数えてみたが、きまりしか入っていなかった。

 いつも通り父は仙台駅まで私と弟を送ってきたが、汽車が出る時、ブスッとした顔で、

 「じゃあ」

 といっただけで、格別のお言葉はなかった。

 ところが、東京へ帰ったら、祖母が「お父さんから手紙が来てるよ」というのである。巻紙に筆で、いつもより改まった文面で、しっかり勉強するようにと書いてあった。終りの方にこれだけは今でも覚えているのだが、「此の度は格別の御働き」という一行があり、そこだけは朱筆で傍線が引かれてあった。

 それが父の詫び状であった。

向田邦子『父の詫び状』(文春文庫)P.9~19より

感想:父親の娘に対して、褒めてやりたいことがあっても、口にはしないでぐっと黙っていて実は褒めている気持ちが私も共感するものがあります。この本は短編24編の構成で、冒頭にでています。 2009.9.25


参考:向田 邦子(むこうだ くにこ、1929年(昭和4年)11月28日 - 1981年(昭和56年)8月22日:飛行機事故で逝去)は、テレビドラマ脚本家、エッセイスト、小説家。第83回直木賞受賞。
 週刊誌のトップ屋時代は幸田 邦子名義で執筆していた。共同ペンネーム「葉村彰子」の一員でもある。

平成二十六年十一月二十四日


 マスコミでは、亡くなって久しい作家などに敬称はつけない。歴史的人物の枠に入るわけである。どれくらい過ぎたら「さん」が取れるか微妙だが、せいぜい十数年だろう。しかし、じつに没後35年もたつのに「さん」づけが似合う不思議な人がいる。向田邦子さんだ。

▼1981年、彼女が飛行機事故で不慮の死を遂げたのは夏の終わりだった。以来、この季節になると繰り返し回顧され、エッセーや小説が読み直され、新たな読者を得ていく。そういうファンもしばしば「向田さん」と呼ぶ。作品だけでなく、その手料理や暮らしぶりまでが世代を超えて愛される「現役作家」なのである。

▼若い人たちにも向田作品が読まれるのは「胸底に響く言葉の力を有する」からだ――。ノンフィクション作家の後藤正治さんが「オール読物」8月号の特集で、こう指摘している。そうそう、と愛読者はひざを打つはずだ。たとえば出世作「父の詫び状」を読み返すたび、酔っぱらいで威張り屋の父親の姿が胸の底に響く。

▼「ご不浄」「到来物」「増上慢(ぞうじょうまん)の鼻をへし折られ」……。向田ワールドにはこんな言葉がよく登場するが、昨今はやりの「美しい日本語」ではなく、とても自然だ。戦前の家族を描きながら、決して型にはまった家族主義ではないところも新鮮さを失わぬゆえんだろう。50年たっても「向田さん」は元気であるに違いない。

春秋 2016/8/30付による。


 刺し身やすしを食べるときに、小皿にどのくらい醤油(しょうゆ)を注ぎますか。まあ適当に? 気にしてない? ところが向田邦子さんは子どものころ、少しでも醤油を残すと父親にこっぴどく叱られたという。小皿の醤油は翌日、ちゃぶ台の向田さんの前に置かれたそうである。

 中流家庭でもこうだったから、戦前は本当に食べ物を大切にしたわけだ。「今でも私は客が小皿に残した醤油を捨てるとき、胸の奥で少し痛むものがある」と、昭和を生きた向田さんはエッセーに書いている。さて時は流れ、醤油どころか刺し身やすしだって盛大に食べ残す昨今だ。それでも現代人の胸はさほど痛まない。

 コンビニで売れ残った弁当。立食パーティーの手つかずのごちそう。どんな家にも、冷蔵庫には使い残しの調味料などが眠っていよう。こういう「食品ロス」は年間600万トン余にのぼる。「もったいない」という言葉が注目されながら食のムダが膨れあがる日本なのだ。反省ムードが高まりだしたのも当然かもしれない。

 宴会の最初30分と最後の10分は食事に専念する「3010運動」や、フードバンクへの食品寄付など試みはさまざまだ。対策法案をつくる動きもある。ものを食べ切ることの気持ちよさを知る時期に来ているのだろう。向田さんが得意だった手料理のひとつに「ゆうべの精進揚げの煮付け」がある。うまいんだな、これが。

春秋 2017/8/24付による。


余録 作家の向田邦子さんは女学校時代… 毎日新聞2018年1月17日 東京朝刊

 作家の向田邦子(むこうだ・くにこ)さんは女学校時代、東京大空襲に遭う。辛くも生き延びた翌日、「次は必ずやられる。最後にうまいものを食べて死のうじゃないか」と父が言い出した。白米を炊き、埋めてあったさつまいもを掘り出し天ぷらにして親子5人で食べた

▲これが最も心に残る“ごはん”だと本人のエッセーにある。おいしさや幸せとは無縁でも、生き死にに関わる場面で誰とどこで何を食べたかは忘れ難い。23年前のきょう発生した阪神大震災で同じような経験をした人は少なくない

▲「被災後最初に何を食べましたか」。神戸市中央区の「人と防災未来センター」で、語り部ボランティアらに聞き取りした企画展が開かれている。震災資料専門員の岸本(きしもと)くるみさん(30)が「食べ物の話題があの日を振り返るきっかけとなれば」と考えた

▲自宅が全壊して生き埋めになった夫婦は約7時間後に救助された。恐怖で震えが残る中、避難所で小さなパンを家族4人で分けて食べ、あきらめなければ誰かが命を助けてくれることを実感した

▲家の下敷きになった女性は夫と励まし合って救出された。しかし周辺はがれきの街と化し、水道管が壊れたのか、道端から流れ出る水を飲んでしのいだ。数日後、燃料を買いに出た先の喫茶店で出た水はとてもきれいで、その味は今なお覚えている

▲避難所で配られたおにぎりは冷たくても心のこもった糧と感謝した人もいる。遠い日でも食の記憶は、助け合いや命を守ることの大切さを鮮やかに思い起こさせる。

毎日新聞2018年1月17日

★1986年1月17日朝、5時過ぎ、ベッドに寝ていた。振動が激しくて箪笥が倒れてこないかとふ安になり、布団をかぶつた。


36

賢者の贈りもの

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 一ドル八十七セント。それだけだ、しかも、そのうち六十セントは一セント銅貨である。それだって、乾物屋や八百屋や肉屋で買いものをするたびに値切って、そんなしみったれたけちくささを非難する無言の声に顔から火の出る思いをしながら、一枚二枚と貯(た)めた銅貨なのだ。デラは、それを三度かぞえなおした。明日はクリスマスだというのに。

▼みすぼらしい小さなベッドに身をなげて、わあわあ泣くよりほか、どうしようもなかった。だからデラはそうした。そうしているうちに、人生は「むせび泣き」と「すすり泣き」と「ほほえみ」とで成り立っていて、わけても「すすり泣く」ことが一番多いことがわかってきた。

 むせび泣いていたこの家の主婦は、次第にすすり泣きの段階に落ちついてくると、部屋の中を見まわした。週八ドルの家具つきのアパートだ。言語に絶するほどひどくはないにしても、この部屋のたたずまいは、たしかに浮浪者狩りの警官隊が乗りこんでくるのを警戒するだけのことはあった。

▼階下の玄関には手紙なんぞ入れられたことのない郵便受けと、どんな人間の指で押しても鳴りそうもないベルがあった。またそこには、「ジェームズ・ディリンガム・ヤング」と書かれた名刺が貼りつけてあった。

▼その「ディリンガム」も、このなの持主が週三十ドルもとっていた好況時には、風が吹いててきてもびくともしないかったものだが、収入が週二十ドルに減った現在は、「ディリンガム」の一字一字がぼやけてしまって、つつましく、謙虚に、頭文字の「D」一字に縮めてしまおかと真剣に考えているようであった。だが、そのジェームズ・ディリンガム・ヤング氏が帰宅して、二階の自分の部屋にたどりつくと、いつも「ジム!」と呼ばれて、すでにデラというなで紹介ずみのジェームズ・ディリンガム・ヤング夫人に、ぎゅっと抱きしめられるのであった。これは、まことに結構なことである。

▼部屋の窓と窓のあいだに、壁掛けの鏡があった。週八ドルのアパートなどでよく見かける壁鏡だ。ひどくやせていて、身軽な人だったら、その鏡に映った自分の姿の細長い断片を、つなぎあわせて、どうにか正確な自分の全身像を見ることができるだろう。デラは、ほっそりしていたので、そうした技術を身につけていた。

▼ところで、ジェームズ・ディリンガム・ヤング夫妻がひどく自慢しているものが二つあった。一つは、かつて祖父のものであり、父のものもあったジムの金時計である。もう一つはデラの髪の毛だ。もしもシバ女王が路地の向こうのアパートに住んでいたら、ある日デラは髪の毛を乾かすために窓へたらして、いっぺんに女王の宝石や宝物の価値を下落させたことだろう。もしもソロモン王、その財宝をこのアパートの地下室に積みあげて、ここの管理人をしているとしたら、ジムは、そのそばを通るたびに金時計をとり出して、王がうらやましがって顎鬚(あごひげ)を掻きむしるのを見たことだろう。

参考:シバの女王はシバ王国の支配者で、ソロモンの知恵を噂で伝え聞き、自身の抱える悩みを解決するために遠方の国家からエルサレムのソロモン王の元を訪れたとされる。その来訪には大勢の随員を伴い、大量の金や宝石、乳香などの香料、白檀などを寄贈したとされる。シバの女王は、旧約聖書に登場する女王。

▼いま、デラの美しい髪の毛は、褐色の滝のように波うち輝きながら身体のまわりに垂れていた。それは膝の下までとどき、まるで彼女の長上着のようであった。それからデラは、いらいらと手早く髪を結いあげた。一滴、一滴、涙がしたたりおちた。

▼デラは古びた茶色のジャケットを着、古びた茶色の帽子をかぶった。スカートをひるがえし、両の目にまだ光るものをためたまま、ドアのそとへとび出すと、階段をおりて、通りへ出た。

▼「ダム・ソフロニイ。かつら類一式」という看板が出ているところで、デラは足をとめた。階段を駆けのぼってはあはあ息を切らしながら、気を落ちつけようとした。マダムは大柄で、色が白すぎるほど白くて、つめたい感じで、どう見ても「ソフロニイ」(訳注 優雅な美貌を思わせる言葉)

訳注 優雅な美貌を思わせる言葉)というなにはふさわしくなかった。

▼「あたしの髪の毛を買っていただけますか?」とデラは言った。

▼「買いますとも」とマダムは言った。「帽子をとって、ちょっと見せてごらんなさい」

▼褐色の滝が、さざなみをたてて、流れおちた。

▼「二十ドルですね」なれた手つきで髪の房をもちあげながら、マダムは言った。

▼「早くお金をください」とデラは言った。

▼そのあとの二時間、時はバラ色の翼にのって軽やかにとんで行った。いや、こんな出がらしの比喩などは、どうでもよろしい。彼女は店から店へとジムに贈るプレゼントをさがして歩いていた。

▼やっとそれを見つけた。たしかにそれはジムのためにつくられたもので、ほかの誰のためのものでなかった。ほかのどの店にも、こういうものはなかった。どの店も入念に探しまわったあげくなのだ。それは、あっさりした上品なデザインのプラチナの時計鎖で、すべて高級な品はそいうものであるが、けばけばしい装飾によらず、品質だけで十分にその価値を主張していた。「あの時計」につけても、決して見劣りしない品だった。それを見たとたんに、デラは、これこそジムのものでなければならないと思った。それは、まったくジムにふさわしかった。落ちつきと価値――この形容はジムの鎖の両方にあてはまった。鎖に二十一ドル払ったので、デラは八十七セントをもって、家へ急いだ。あの時計にこの鎖をつけたら、ジムは誰の前でも、いばって時間を気にすることができるだろう。時計こそ立派なものだが、鎖の代りに古い革紐(かわひも)を使っているので、ジムは、ときどきこっそり時計をのぞいていたのだ。

▼家へ着くと、陶酔が少し冷めて、理性と分別をとりもどしてきた。鏝(こて)をとり出し、ガスをつけ、愛情に気前のよさを加えたため生じた被害箇所を修理しはじめた。こういうことは、ああ、親愛なる諸君よ、つめに恐るべき大仕事なのである――マンモスのような大仕事なのである。

 四十分もすると、デラの頭は、かわいく、短くならんだ巻き毛でおおわれ、学校をずる休みする生徒を思わせるような格好になってしまった。彼女は鏡に映った自分の姿を、しげしげと、念入りに眺めた。

 「ジム」とデラは、ひとり言を言った。「あたしを一目見て、殺すようなことをしないにしても、きっとコニイ・アイランドのコーラスガールみたいだと言うにちがいない。でも仕方がないわ――そうでしょう? たった一ドル八十セントで、なにができるっていうの?」

 七時にコーヒーができた。いつでもチョップがつくれるようにフライパンが料理用にストーブの上で熱くなった。

▼ジムは帰りが遅れたためしがない。デラは時計の鎖を二つに折って手でにぎり、いつもジムがはいってくるドアの近くのテーブルの端に腰かけた。やがて下の階段の一段目を踏むジムの足音がきこえた。デラの顔が、ほんの一瞬、血の気をうしなった。彼女は、日頃、ごく普通の何でもないことにでも、短いお祈りをする癖があった。そうしていまも小さな声でつぶやいた。「どうぞ神さま、あたしがいつまでもやっぱりきれいだとジムに思わせてくださいまし」

▼ドアが開いた。ジムがはいってきてドアを閉めた。やつれて、ひどく真剣な顔つきをしていた。可哀そうに――まだ二十二歳になったばかりだというのに――家庭という重荷を背負わされているなんて! 外套を新調しなければならないし、手袋もなかった。

 ジムはドアの内側に立ちどまると、鶉(うずら)のにおいを嗅ぎつけたセッター犬のように、ピタリと動かなくなった。彼の目は、デラに注がれたままだった。その目には、デラには読み取れない表情が浮かんでいた。それが彼女をおびえさせた。それは怒りでも、驚きでも、非難でも、恐怖でもなく、デラが覚悟していたどんな感情でもなかった。彼は、その奇妙な表情をうかべたまま、穴のあくほどデラを見つめていた。

▼デラは、もがくようにテーブルから離れると、ジムのそばへ近づいた。

 「ジム」彼女は叫ぶように言った。「そんなふうにあたしを見ないで、あなたにプレゼントもせずにクリスマスをすごすなんて、とてもやりきれなかったので、髪の毛を切って売っちゃつたのよ。髪なんて、また伸びるわ――ね、かまわないでしょう! だってほかに仕方なかったんですもの。あたしの髪は、とてものびが早いのよ。クリスマスおめでとうと言ってちょうだいな、ジム。そして愉快にしましょうよ。あなたはまだ、あたしが、どんなにすてきな――どんなに美しい贈りものを買ってきたか、ごぞんじないんだわ」

▼「髪を切っちゃったんだね?」ジムは、いくらいっしょうけんめいに考えても、まだその明々白々の事実がのみこめないらしく、やっとそれだけ言った。

 「切って売っちゃったの」とデラが言った。「こうなっても、やっぱりいままで通りにあたしを愛してくださるでしょう? 髪の毛がなくても、やっぱりあたしはあたしよね、そうでしょう?」

 ジムはふしぎそうに部屋を見まわした。

 「きみの髪の毛は、もうなくなっちまっただね?」腑抜けになったように彼は言った。

▼「さがすまでもないわ」とデラは言った。「売っちゃったんですもの――売ってもうなくなっちゃつたんですもの。今夜はクリスマス・イヴよ。やさしくしてくださいな。あなたのために売っちゃったですもの。あたしの髪の毛は、きっと神様がかぞえてくだすった思うわ」(訳注 マタイ伝十章三十節参照)。不意に、とても甘い声になって、彼女はつづけた。「でも、あたしのあなたに対する愛情は誰も勘定できないことよ。チョップを火にかけましょうか、ジム?」

▼ジムは、とたんに我に返ったようであった。彼は愛するデラを抱きしめた。われわれはここで十秒間ほど脇道にそれて、それほど重要ではないが、別にあることを慎重に考えてみよう。週に八ドルと、年に百万ドルとでは――どういうちがいがあるのだろうか?数学者や賢者にきいてみたところで、正しい答えは得られないだろう。かの東方の賢者たち(訳注 キリスト降誕のとき贈りものをもってきた東方の三人の賢者)は価値のある贈りものをもってやってきたが、正しい答えは、その贈りもののなかにはなかった。このふ可解な言葉の意味は、いずれあとで明瞭になるだろう。

 じむはオーバーのポケットから小さな包みをとり出して、テーブルの上へほうり出した。「勘ちがいをしないでくれよ、デラ」と彼は言った。「髪の毛を切ったり、剃ったり、洗ったりするようなことで、この僕が自分の妻を愛したり愛さなかったりすると思うかね。だけど、その包みを開いてごらん。そうすれば、なぜぼくがさっき、ちょっととどまったかがわかるだろう」

 白い指が手早く紐や紙を引きちぎった。それから、思わずわれを忘れたようなよろこびの声がわきおこった。それは、次の瞬間には女らしいヒステリックな涙と号泣(ごうきゅう)に一変し、この部屋の主(あるじ)は、たちまち、ありとあらゆる手段を講じなければならなかった。

▼出てきたのは櫛が一揃(ひとそろ)い――デラが長い間ブロードウェイのショウウインドウーであこがれていた横櫛と後櫛の一揃いだった。ふちに宝石をちりばめた正真正銘のの鼈甲製の美しい櫛であり――いまはなき彼女の美しい髪にさすには、もってこいの色あいだった。とびきり高価なものであることがわかっていたし、単に熱望するだけで、自分のものになろうなどとは夢にも思わず、あこがれていた櫛だった。いまそれがデラのものになったのだ。ところが、そのあこがれの装飾品を飾るべき髪は、いまはもうないのある。

 でも彼女はそれをひしと胸に抱きしめ、やっと、うるんだ目をあげて、ほほえみながらいうことができた。「あたしの髪は、とても早くのびるのよ、ジム」

 それから、デラは、毛をこがした小猫のようにとびあがって叫んだ。「そうよ。そうなんだわ!」

▼ジムはまだ彼に贈られた美しいプレゼントを見ていなかった。デラは、それを彼の目の前へもって行って、掌(てのひら)を開いて見せた。にぶい貴金属の光は、デラの光り輝く熾烈(しれつ)な心情を反映して、ぱっと燃えあがるように思われた。

 「どう。すてきでしょう、ジム。町じゅう探し歩いて見つけたのよ。これからは、一日に百回も時間を見たくなるわ。あなたの時計を貸してちょうだい。どんなによく調和するか見てみたいの」

 それに応じるかわりに、ジムはベッドにひっくりかえり、頭のうしろに手をあてがって微笑した。

 「デラ」と彼は言った。「ぼくたちのクリスマス・プレゼントは、片づけて、しばらく、そっとしまっておくことにしよう。いま直ぐ使うには、上等すぎるよ。きみの櫛を買うのに、金がいるので、腕時計は売っちまったんだ。さあ、チョップを火にかけてくれないか」

 ご承知のように東方の賢者たちは賢明な人たちであった――秣桶(かいばおけ)の中のみどりごに贈りものをもつてきた――すばらしく賢明な人たちであった。あの人たちがクリスマスにプレゼントをするということを考えだしたのである。賢明な人たちであったから、その贈りものも、もちろん賢い贈りものであった。おそらく重複した場合には、他のものと交換できるという特典をもつていたであろう。ところで、ここに私は、わが家の一番大事な宝物を、最も賢くない方法で、たがいに犠牲にした。アパートに住む二人の愚かな幼稚な人たちの、なんの変哲もないお話をふ十分ながら申しあげたわけである。だが、最後に一言、贈りものをするどんな人たちよりも、この二人こそ最も賢い人たちであったのだと、現代の賢明な人たちに向かって言っておきたい。贈りものをあげたりもらったりする人々の中で、この二人のような人たちこそ最も賢明なのである。どこにいようとも、彼らこそは「賢明」なのだ。彼等こそ東方の賢人なのだ。

           (The Gift of the Magi)    

 O・ヘンリ短編集(二)大久保康雄訳(新潮文庫)[賢者の贈りもの] P.8~17

関連英文:The Gift of the Magi

O・ヘンリ辞生の句

参考:「賢者の贈り物」は、オー・ヘンリーの代表作となった短編小説。 新約聖書の、東方の聖者がキリストの誕生を贈り物を持って祝いに来たエピソードを下敷きに、贈り物をめぐる行き違いを描いた。 クリスマス劇の演目としても人気が高く、皮肉だが暖かい結末はオマージュが繰り返され非常に知名度が高い。


余録 若く貧しい夫婦はクリスマスに互いに何を贈るか思案する…

毎日新聞2017年12月25日 東京朝刊

 若く貧しい夫婦はクリスマスに互いに何を贈るか思案する。目抜き通りのきらびやかなショーウインドーで妻がきれいなくしを見ていたことを思い出した夫。自分の大事な時計を売ったお金でくしを買う。妻は美しい髪を売り、夫の時計につける鎖を買う

▲O・ヘンリーの短編小説「賢者の贈りもの」は胸に染みるクリスマスの物語である。今ごろ、同じようにプレゼントを交換する家族やカップルが無数にいるはずだ

▲つらく悲しいクリスマスになってしまった家族もいる。2年前、電通社員の高橋まつりさん(当時24歳)が過労自殺した。イルミネーションがきらめく街をまつりさんの母幸美さんは警察へ向かう。「うそであってほしい」と願いながら。だがこの日が娘の命日になった

▲過労死・過労自殺は重大な社会問題となる。この秋、電通は労働基準法違反で有罪判決を受けた。行政機関は違法残業を積極的に摘発し、企業も「働き方改革」を進めている。まつりさんが社会を大きく動かしたことは間違いない

▲師走の夜、都心のオフィス街を歩く。ビルを見上げると、今も遅くまで窓の明かりがともっている。窓の中で人影が動く。向かいのビルでも

▲まつりさんは生前、幸美さんに「会社の深夜の仕事が東京の夜景をつくっている」と話していたという。会社の明かりが早く消え、家々の明かりとイルミネーションで東京の夜景をつくる時がいつか来るのだろうか。「賢者の贈りもの」のような、ささやかな幸せが奪われないように。


37

最後の一葉

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 ワシントン・スクエアの西の小さな区域では、いくつもの通りが乱雑に錯綜して、「プレース」と呼ばれる小路(こうじ)に寸断されている。これらの「プレース」は奇妙な角度と曲線をもっていて、一本の通りが、一度や二度は、それ自身と交叉したりしているのである。かつて、ある絵描(えか)きが、この通りに、一つの貴重な可能性を発見した。絵具や紙やカンヴァスの代金をあつめにきた集金人が、この通りはいりこんで、分割払いの一セントももらわないうちに、帰ってくる自分自身とばったり出っくわしたとしたら、どうだろう?

 やがてこの一風変わった古めかしいグリニッチ・ヴィレッジに絵描きどもが集まってきて、北向きの窓と、十八世紀風の屋根裏部屋と、安い間代を求めて、うろつきはじめた。ほどなく彼らは六番街から白鑞製(はくろうせい)のコップや卓上用の焜炉(こんろ)を、いくつか買いこんできた。そしてここに「芸術家の村」ができあがったのである。

 ずんぐりした煉瓦づくりの三階建のてっぺんに、スウとジョンジーはアトリアをもっていた。「ジョンジー」というのはジョアンナの愛称である。スウはメイン州、ジョンジーははカリフォーニア州の出身だった。二人は八丁目の食堂「デルモ二コ」で定食を食べているときに知り合い、芸術の上でも、チコリ・サラダやショップ・スリヴ型のドレスについても、好みが一致しているのを知って、共同のアトリエをもつことになったのである。

▲それは五月のことであった。十一月になると、医者が「肺炎」と呼ぶ冷酷な目に見えない侵入者が、この「芸術家の村」をうろつきまわり、その氷のような指で、あちらこちらの人をなでてあるいた。この破壊者は、向こうの東側では、傍者無人にのしあるいて、犠牲者を何十人と束にしてうち倒してが、この狭苦しい苔むした「プレース」の迷路は、そっとした足どりで通り抜けた。

 この肺炎氏は、とても騎士道的な老紳士といえるおうな代物ではなかった。カリフォーニアの軟風で血の気の薄くなった、ちっぽけな小娘は、血まみれの(こぶし)を握りしめ、息づかいも荒々しいこの老いかさま師にとっては、正面から堂々と攻撃するに価する獲物ではなかった。それなのに奴(やつ)はジョンジーに襲(おそ)いかかったのある。ジョンジーは、ほとんど身動きもせずに、ペンキを塗った鉄製のベッドに横たわり、小さなオランダ風の窓ガラsごしに、となりの煉瓦づくりの家の、窓も何もない壁を見ているだけであった。

 ある朝、忙しそうな医者が、もじゃもじゃのゴマ塩の眉毛で合図してスウを廊下へ呼び出した。

 「助かる見込みは――まず十に一つといったところだな」と彼は体温計の水銀を振っておろしながら言った。「その見込みも、あの娘が生きたいと思わないことには、どうにもならならん。いまのように、葬儀屋をよぶことばかり考えているようでは、どんな諸法も役に立たん。あんたのお友達は、なおらないものと自分できめこんでいる。気持の上で何かこれと打ちこめるるようなものはないいかね?」

 「あのひとは――いつかナポリ湾を描きたいと言っていましたわ」とスウは言った。

 「絵を描くって?――ばかな! 何かじっくり考えるだけの値うちのあるものを心に抱きつづけるているというようなものはないのかね?――たとえば、恋人であるとか……」

 「恋人?」とスウは、ユダヤ・ハーブの音のような声で言った。「恋人なんかにそんな値うちが――いえ、先生、そんなものはありませんわ」

 「なるほど、そこがあの娘の弱味だて」と医者は言った。「まあ、わしの力のおよぶかぎり、あらゆる療法をほどこしてみよう。だが、患者が自分の葬式にくる車の数をかぞえはじめたら、医薬の効能は五割がた減じるものと思わなければならん。あんたが、あの患者に、この冬の外套の袖の新型について質問させるようにしむけることができたら、見込みは十に一つではなく、五つに一つと保証してもよい」

▲医者が帰ってから、スウは仕事部屋へ行って、日本製のナプキンがぐしょぐしょになるまで泣いた。それから、画板をかかえると、ジャズを口笛で吹きながら、威勢よくジョンジーの部屋に入って行った。

 ジョンジーは、ほとんど掛け布団に皺ひとつ寄せずに、窓のほうを向いて寝ていた。彼女が眠っていると思って、スウは口笛をやめた。

 スウは画板をすえると、雑誌小説の挿絵のペン画を描きはじめた。若い画家は、若い作家が文学への道を切り開いて行くために書く雑誌小説の挿絵を描くことによって、絵画への道を開いて行かなければならないのである。

 スウが、小説の主人公であるアイダホのカウボーイの姿の上に、馬匹(ばひつ)共振会用の派手な乗馬ズボンと片眼鏡をを描いていると、ジョンジーが低い声で何度もくりかえすのがきこえてきた。スウは急いでベッドのところへ近づいた。

 ジョンジーの目は大きく見開かれていた。窓の外を見ながら彼女は数をかぞえていた――数を逆にかぞえているのであった。

 「十二」と言って、すこしたつてから「十一」それから「十」「九つ」それから、ほとんど同時に「八つ」「七つ」……

 スウは気になって窓の外を見た。何をかぞえているのだろう? 見えるものといえば、殺風景な薄暗い中庭と、二十フィート離れた煉瓦づくりの隣の建物の窓もなにもない壁だけであった。根っこが節くれだって朽ちかけている古い蔦(つた)のつるが、その煉瓦の壁の中ほどまで這いのぼっていた。つめたい秋の風が、つるから葉をたたき落として、骸骨のような枝が、ほとんど裸になって、崩れかかった煉瓦にしがみついていた。

 「ねえ、何なの?」スウはたずねた。

 「六つ」とジョンジーは、ささやくような声で言った。「だんだん落ちるのが早くなったわ。三日前には、まだ百くらいあったのよ。かぞえていると頭が痛くなるなるくらいだったわ。でも、いまは楽よ。あら、また一つ落ちたわ。あと五つしかないわ」

 「何が五つなの? ねえ、わたしにも数えてよ」

 「葉っぱよ。蔦のつるについている葉っぱ。最後の一葉が落ちたら、わたしも行かななきゃならないんだわ。三日前からわかっていたのよ。先生も、そうおっしゃらなかった?」

 「まあ、そんなばかげたことは聞いていないわ」とスウは、ひどく軽蔑した口調で、叱るように言った。蔦の枯葉と、あんたの病気がよくなることと、どんな関係があるの? そういえば、あんたは、あの蔦がとても好きだったわね。でも、あまりばかげたことをいうもんじゃないわ。お医者さんも、今朝、おっしゃっていたわ、あんたがどんどんよくなる見込みは――ええと、お医者さんは、どんな言い方をしたっけ?――そう、よくなる見込みは一つに十だと言ったわ。それなら、このニューヨークで、市電に乗っても、新築工事中のそばを歩いてても、危険率は同じことよ。さあ、「スープをすこしのんでみない? そして、わたしに絵をつづけさせてよ。絵ができたら、編集者から金をもらって、病気の赤ちゃんにはポートワインを、食いしんぼのわたしにはポークチョップを買ってこられるのだから」「もうポートワインなんか買う必要ないわ」ジョンジーは目を窓の外にすえたまま言った。「また一枚落ちたわ。いいえ、スープなんか、ほしくないわ。これで、あとたった四枚だけよ。暗くならないうちに最後の一葉が落ちるのを見たいわ。そしたら、わたしも行くんだわ」

 「ねえ、ジョンジー!」とスウは彼女の上に身をかがめて言った。「わたしが絵を描いてしまうまで、目をつぶっていて、窓の外を見ないと約束してくれない? あの絵は、明日までに渡さなければならないのよ。わたしは光線が必要なの。それでなかったら、シェードをおろしてしまいたいところだけど――」

 「向こうの部屋では描けないの?」ジョンジーは冷ややかに言った。

 「わたしは、あなたのそばにいたいのよ」とスウは言った。「それに、くだらない蔦の葉っぱなんか、あんたに見ていてほしくないの」

 「描きおえたら、すぐにそう言ってね」ジョンジーは、蒼(あお)ざめて、倒れた彫像(ちょうぞう)のようにじっと横たわったまま目を閉じた。「わたしは最後の一葉が落ちるのを見たいの。もう待ちくたびれたわ。考えるのくたびれたわ。わたしは、すべての執着から解き放たれて、あの哀れな疲れきった木のように落ちて行きたいの」

 「一眠りしなさいよ」とスウは言った。「わたし、ベアマンさんを呼んできて、年をとった世捨人をモデルになってもらわなければならないの。すぐ戻ってくるわ。わたしが戻ってくるまで、動いたりしちゃだめよ」

▲ベアマン老人は、彼女たちの下の階に住んでいる絵描きだった。年は六十をすぎていて、ミケランジェロが描いたモーゼ像に見るような髭(ひげ)が、半獣神(はんじゅうしん)のような顔から、小鬼(こおに)のような体に、ちぢれて、たれさがっていた。ベアマンは芸術の落伊者であった。四十年間も絵筆を握ってきたが、芸術の女神の衣の裾に触れられるところまでも近づくことができなかった。いつも口癖のように傑作を描くのだと言っていたが、ついぞ一度もそれに手をつけたことはなかった。ここ数年、商業用か広告用のへたくそな絵をときどき描くほかは何ひとつ描いていなかった。彼は本職のモデルをやとえない「芸術家の村」の若い絵描きたちのモデルになって、わずかな収入を得ていた。やたらにジンを飲んでは、なおも未来の傑作のことを口にしていた。その他の点では、彼は、小柄ではあるが、気の強い老人で、他人の柔弱さを手ひどく嘲(あざけ)り、階上のアトリエにいる二人の若い画家を守護する特別の番犬をもって自ら任じていた。

 スウが行ってみると、ベアマン老人は、階下の薄暗い部屋で、ねずの実(訳注 ジン酒の香料)の匂いをぷんぷんさせていた。部屋の片隅には、何も描いていないカンヴァスが画架にのっていたが、このカンヴァスは傑作の最初の一筆が入れられるのを二十五年間もそこでまちつづけるのであった。スウは老人に、ジョンジーの気まぐな空想について話し、この世にすがりつく彼女のかぼそい力がもうすこkし弱くなったら、実際に彼女は、木の葉のように軽く、もろく、ふわふわと飛んでいってしまうのではあるまいか、と言った。

 ベアマン老人は血走った目に、ありありと涙をうかべて、ジョンジーのばかげた空想に、大きな声で軽蔑と嘲弄(ちょうろう)を浴びせかけた。

 「なんじゃと……」と老人は叫んだ。「あんなくそおもしろくない蔦のつるから葉っぱが落ちると自分が死ぬなんて、そんなべらんぼうなことをいう奴が、どこの世界にいるんだ。そんなたわけた話、わしは聞いたこともない。うんにゃ、わしは、あんたのくだらない世捨人の阿呆(あほう)のモデルになんぞなるのは、まっぴらごめんだ。あんたもまた、なぜそんな阿保くさい考えを、あの娘(こ)の頭に起こさせるのかね? ああ、なんて可哀そうな娘なのだろう」

 「とてもひどくて、すっかり衰弱しているのよ」とスウは言った。「熱のために気持ちが病的になって、いろいろと奇妙な妄想するんだわ。いいわ、ベアマンさん、わたしのためにモデルになりたくないというのなら、それでも結構よ。でも、あなたって、ほんとうに頼りにならない――意地悪じさんね」

 「女ってものは、すぐにそれじゃから困る」ベアマンさんはわめいた。「だれがモデルにならないと言った? さあ、行きなよ。わしも一緒に行くから。わしは半時間も前から、いつでもあんたのモデルになってやると言おうとしてたんだ。ほんとだとも! ここはジョンジーさんみたいな善良な人間が病気で寝るところじゃない。いつかは、わしも傑作を描く。そしたら、みんなでここを出て行こう。ほんとだ! そうだとも!」

 二人が階上へ行くと、ジョンジーは眠っていた。スウはシェードを窓の敷居までおろし、となりの部屋へ行くようにベアマンに合図した。二人は、そこの窓から、こわごわ蔦のつるをのぞいた。それから、一瞬、無言のまま顔を見合わせた。雪をまじえた冷たい雨が、ひっきりなしに降りつづいてていた。ベアマンは古びた紺のシャツを着、岩に見立てた大きな鍋を裏返しにして、そこに腰かけ、世捨人の鉱夫のポーズをとった。

▲翌朝、スウが一時間ほど眠ってから目をさますと、ジョンジーは、生気のない目を大きく見開いて、おろされている緑色のシェードをじっと見つめていた。

 「シェードをあげてちょうだい、わたし、見たいの」と彼女は、ささやくような声で命令した。

 スウは、しぶしぶ言われる通りにした。

 ところが、どうだろう! 叩きつけるような雨と吹きすさぶ風とが、長い長い夜じゅうつづいたというのに、煉瓦の壁の上には、まだ蔦の葉が一枚、はっきりとのこっているではないか。それは、つるにしがみついている最後の一葉だった。葉柄の近くは、まだ濃い緑色だが、鋸(のこぎり)の歯のような縁(ふち)は黄色く朽ちて、健気(けなげ)にも地面から二十フィートほどの枝にぶらさがっていた。

 「最後の一葉だわ」とジョンジーは言った。「夜のうちに、きっと落ちてしまっていると思っていたのに。風の音がきこえていたわ。今日は落ちるは。そしたら、わたしも一緒に死ぬんだわ」

 「困ったひとね……」スウは疲れた顔を枕に押しあてて言った。「自分のことを考えたくないんなら、この私のことを考えてよ。わたしは、どうすればいいの?」

 しかし、ジョンジーは答えなかった。長い神秘な旅路に出る覚悟をきめた人間の魂ほど、この世に孤独なものはない。彼女は友情や大地に結びつけている絆(きずな)が、一つ一つほどけてゆくにつれて、例の気まぐれな空想が、ますます強く彼女をとらえてゆくように思われた。

 その日も過ぎ、夕暮れになっても、あのひとりぼっちの蔦の葉は、壁の上のつるにしがみついていた。やがて、夜になるとともに、ふたたび北風が吹きはじめた。雨も依然として窓をたたき、低いオランダ風の軒から滴(しずく)がしたたり落ちていた。

 夜が明けると、ジョンジーは無情にもシェードをあげるように命じた。

 蔦の葉はまだそこにあった。

 ジョンジーは、寝たまま、長いあいだ、じっとそれを見つめていた。それから、ガス・ストーブでチキン・スープをかき回していたスウに呼びかけた。

 「わたし、わるい子だったわね、スウディ」とジョンジーは言った。「わたしが、どんなに悪い子だったかを思い知らせるために、何かが、あの最後の一葉を、あそこにのこしておいてくれたんだわ。死にたいと思うなんて、罰当(ばちあた)りな話ね。さあ、スープをすこしちょうだい。それから、ミルクに葡萄酒をすこし入れたものもね。それから――いいえ、それよりまず手鏡をとってちょうだい。そして枕を二つ三つ、わたしのわたしのまわりに入れてくれない? からだを起こして、あんたが料理するのを見たいの」

 それから一時間後にジョンジーは言った。

 「ねえ、スウディ、わたし、そのうちナポリ湾を描いてみたいわ」

▲午後になると、医者がやってきた。医者が帰るとき、スウは口実をつくって廊下に出た。「見込みはまず五分五分というところだな」医者はスウの細い、ふるえる手をとって言った。「看病がよければ、あんたが勝つ。ところで、これからわしは階下のもう一人の患者を診なきゃならん。べアマンというなの男で――絵描きだろうと思うがね。やはり肺炎でな。年をとって、からだも弱っているし、急激にやられとるんで、まず恢復の見込みはないと思う。だが、今日入院することになっとるから、それをすれば、いくらか楽になるだろう」

 翌日、医者はスウに言った。「もう危機を脱した。あんたが勝った。あとは栄養と摂生――それだけでいい」

 そして、その日の午後、ジョンジーがベッドで、ものすごく青くて、とても実用には役立ちそうもない肩かけを満足そうに編んでいると、そこへスウは近づいてきて、枕ごと腕で彼女を抱いた。

▲「ねえ、ちょっとあんたに話したいことがあるの」とスウは言った。「ベアマンさんが、今日、病院で、肺炎でなくなったのよ。たった二日わずらっただけなの。最初の日の朝、管理人が、階下のあの人の部屋で、ひとりで苦しがっているいるのを見つけたんですて。靴も服もぐしょ濡れで、氷みたいに冷え切っていたそうよ。あんなひどい晩に、どこへ行ってたのか、誰にも見当がつかなかったの。そのうちに、まだ灯(ひ)のついているカンテラと、いつもおいてある場所から引きずってきた梯子と、散らばった絵筆が数本と、それから黄色と緑の絵具をといたパレットが見つかったの。それで――ちょっと窓の外を見てごらんなさいよ、あの壁の上の最後の蔦の葉を。風が吹いても、ちっとも動かないし、ひらひらゆれもしないのを、変だと思わなかった。? ねえ、ジョンジー、あれがベアマンさんの傑作だったのよ――最後の一葉が落ちた夜、あの人があそこへ描いたのだわ」 (The Last Leaf)

出典:O・ヘンリ短編集(三)大久保康雄訳:最後の一葉

関連英文:The Gift of the Magi

平成二十六年十二月二十六日、平成三十一年十二月十日修正。


38

二 十 年 後

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 パトロールの警官が、大通りを尊大ぶって歩いていった。尊大なのは習慣的なもので、みせびらかせるためではなかった。というのは、それを見ている人がいたわけではないからである。時間は、まだやっと夜の十時前後であったが、雨をまじえて吹いてくる冷たい風のために、道行く人の姿は、ほとんど絶えていた。

 がっしりした体格の、すこしばかり肩をゆすって歩くこの警官は、いろいろ細かな動きをつけながら巧(たく)みに警棒をくるくるまわしたり、家々の戸じまりを調べたり、ときには静まりかえった通りに警戒の目を投げたりしていた。その姿は、いかにも平和の守護者そのものであった。この付近は朝も早いが夜も早い地域であった。ときたま煙草屋(たばこや)や終夜営業の食堂の灯(あか)りが見えることもあるが、大部分はオフィスの戸口で、もうとっくに閉まっていた。

 ある通りの中ほどまでくると、警官は急に歩調をゆるめた。あかりの消えた一軒の金物屋の入口に、火のついていない葉巻をくわえた一人の男がよりかかっていたのである。警官が近づいて行くと、その男は、あわてて話しかけてきた。

 「なんでもないですよ、お巡(まわ)りさん」安心させるように彼は言った。「友達を待っているんだけなんです。二十年前の約束でしてね。というと、ちょっとばかり変にきこえるでしょうね。つくりごとでないと確かめたいのなら、お話ししてもいいんです。ずいぶん前のことになりますが、いまこの店が建っているところにはレストランがあったんです━━ビッグ・ジョウのブランディ・レストランという店がね」

 「それなら五年前まではあったよ」警察官は言った。「それから、とりこわされてしまったんだ」

 入口にいた男はマッチをすって葉巻に火をつけた。その明りで、あごの角張った青白い顔と、するどい目と、右の眉(まゆ)の近くに小さな傷のあとが見えた。ネクタイピンは妙に変ったやりかたではめこまれた大きなダイアモンドであった。

 「二十年前の今夜」と男は言った。「あっしはジミー・ウェルズと、ここのビッグ・ジョウのブランディで一緒に飯を食ったんです。ジミーは、あっしの一番の仲よしで、世界じゅうで一番いい奴(やつ)でしたよ。ジミーとあっしはこのニューヨークで、まるで兄弟のようにして育ったんです。あっしが十八で、ジミーは二十(はたち)でした。その翌朝、あっしは一財産つくるために西部へでかけることになっていたんです。ジミーをニューヨークから引っ張り出すなんてことは、とてもできるものじゃありません。奴は、ここだけが人間の住むところだと考えていたんですからね。それで、あっしたちは、その晩、約束したんですよ。たとえばどんな境遇になっていようと、また、どんなに遠くからこなければならないにしろ、かっきり二十年後のこの日のこの時間に、ここで再会しよう、ってね。二十年もたてば、どういう人間になっているかわからないが、あっしたちの運命もきまっていることだろうし、財産もできているだろう思ったわけでしでね」

 「なかなか面白い話だな」警官は言った。「しかし、再会までの期間が、かなり長いようだ。きみが西部へ出かけてから、その友達から便りはあったのかね?」

 「ありましたよ。しばらくのあいだは手紙のやりとりをしていたんです」と相手は言った。

 「ところが、一、二年たつうちに、たがいに音信普通になってしまったんです。なにしろ、西部ってのは、ばかでかい代物(しろもの)でしてね。それにあっしは、いそがしくあちこち飛びまわっていましたからね。しかし、もし生きてさえいるなら、ジミーは、あっしに会いに、きっとここへやってくるはずです。奴は、いつだって嘘をつかない、すごく義理の固い男ですからね。あいつが約束を忘れるはずはありませんよ。あっしは今夜この戸口に立つために、一千マイルも遠いところからやってきたんですが、昔なじみのあいつがきてくれさえすれば、それだけの値打ちがあるというもんですよ」

 待っている男は立派な懐中時計を取り出した。その蓋には小粒のダイアモンドがちりばめてあった。

 「十時三分前か」と男は言った。「あっしたちが、このレストランの入口で別れたのが、かっきり十時だったんです」

 「西部ではうまくやっていたのかい?」警官が聞いた。

 「もちろんでさ!……ジミーが、あっしの半分でも、うまくやっていてくれるといいんですがね。あいつは、いい奴にちがいないんだが、こつこつと手堅くやる男なんですね。あっしは、他人(ひと)の財産までかっぱらうような油断もすきもない連中と張り合ってこなけりゃならなかったんです。ニューヨークじゃ人間が型にはまった生活をしているだけですがね。人間を、かみそりの刃(は)のように鋭くするには西部にかぎりますよ」

 警官は警棒をくるくるまわして二、三歩あるき出した。

 「さ、わしはもう行くよ。きみの友達が、まちがいなくきてくれるといいがね。約束の時間までしか待ってやらないかね?」

 「いや、そんなことはありませんよ」と相手は言った。「すくなくとも三十分くらいは待ってやりますよ。ジミーが、どこかで生きていさえすりゃ、それまでにはくるでしょうからね。さよならお巡りさん」

 「おやすみ」と言って警官は、道々戸じまりを調べながら、巡回区域を歩いて行った。

 いまは細く冷たい霧雨(きりさめ)が降り、ときたま気まぐれに吹いていた風が、たえ間なく吹きつけるようになっていた。そのあたりを歩いている、わずかばかりの通行人は、外套の襟を立て、ポケットに手をつっこんで、陰気に口をつぐんだまま、急ぎ足に歩いて行った。そして、金物屋の入口では、青年時代の一友人との、ばかばかしいほど当てにならない約束を果たすために一千マイルも遠いところからやってきた男が、葉巻をふかしなが待っていた。

 それから二十分ほど彼は待っていた。するとそのとき、長いオーバーの襟を耳のところまで立てた一人の背の高い男が、通りの向う側から急ぎ足で渡ってきた。彼は、待っている男のところへ、まっすぐ近づいてきた。

 「ボッブか?」と彼は疑はしげに声をかけた。

 「ジミー・ウェルズか?」入口にいた男は叫んだ。

 「こいつは驚いた!」いまきた男が、相手の両手を握って叫んだ。「たしかにボッブだ。お前が生きてさえいれば、きっとここへきていると確信していたんだ。よかった。よかった━━二十年といやあ長い年月だからな。例のレストランはなくなってしまったぜ、ボッブ。あれがまだ残っていればよかったんだがね。そうすりゃ、またいつしょに食事ができたのに。ところで、西部はどうだったい?」

 「すばらしいぞ、ほしいものは、なんでも手に入るんだからね。それにしても、お前はずいぶん変わっちゃったな、ジミー。お前がおれより二、三インチも背が高いなんて夢にも思わなかったぜ」

 「おれは二十(はたち)過ぎてから、すこしばかり背が伸びたんだ」

 「ニューヨークでは、うまくやってんのか、ジミー?」

 「まあまあというところさ。市役所のある課に勤めているんだ。さ、行こう、ボッブ。おれの知っているところへ行って、昔のことでもゆっくり話そうじゃないか」

 二人の男は腕を組んで通りへ出た。西部からきた男は、成功によってうぬぼれがふくれあがり、自分のそれまでの身の上話のあらましを語りはじめた。相手の男は外套にすっぽりくるまって興味ぶかげに聞いていた。

 街角に、電灯が明るく輝いている一軒のドラッグ・ストアがあった。その明るい光のなかに入ると、たがいに相手を見ようと、二人は同時に相手の顔を見た。

 西部からきた男は、急に立ちどまると、組んでいたいた腕をほどいた。

 「お前はジミー・ウェルズじゃね」彼は叩く(たた)きつけるように言った。「二十年は長い年月だが、人間の鼻を鷲鼻から獅子っ鼻に変えてしまうほど長くはねえはずだ」

 「ときには善人を悪人に変えることもあるがね」背の高い男は言った。「お前はもう十分前から逮捕されているんだぞ、シルキー・ボッブ(訳注:シルキーはボッブのあだなで、絹のように人あたりがいいという意味)。シカゴ警察では、お前がこっち方面へ立ちまわたかもしれないと考えて、お前にご用があるからと電話をよこしたんだ。おとなしくるだろうな? そうか、そんならいい。ところで署に行く前に渡してくれと頼まれた手紙があるんだ。この窓のところで読んでみるがいい。パトロール係りのウェルズ巡査からだ」

 西部からきた男は手渡された小さな紙きれを開いた。彼の手は、読みはじめたときはしっかりしていたが、読み終わったときには、すこしふるえていた。その手紙は非常に短いものだった。

 ボッブよ、おれは時間通り約束の場所にいた。お前が葉巻に火をつけようとしてマッチをすったとき、おれはその顔がシカゴでお尋(たず)ね者になっている男の顔であることを知った。いずれにしても、おれは自分でお前をつかまえることはできなかった。そこで、ひとまず署へもどって、その仕事を私服刑事にたのんだのだ。       ジミーより           
(After Twenty Years)
O・ヘンリ短編集(Ⅱ)大久保康夫訳(新潮文庫)P.189~195

関連英文:After twenty years

平成二十八年三月四日


39

『忍ぶ川』

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 志乃をつれて、深川へいった。識りあって。まもないころである。

 深川は、志乃が生まれた土地である。深川に生まれ、十二のとしまでそこで育った、いわば深川ッ子を深川へ、去年の春、東北の片隅から東京へでてきたばかりの私が、つれてゆくというのもおかしかったが、志乃は終戦の前年の夏、栃木へ疎開して、それきり、むかしの影もとどめぬまでにやきはらわれたという深川の町を、みていなかったのにひきかえ、ぼっと出の私は、月に二三ど、多いときには日曜ごとに、深川をあるきまわるならわしで、私にとっては深川は、毎日朝往復する学校までの道筋をのぞけば、東京じゅうでもっともなじみの街になっていた。

 二人は深川にゆく。

 志乃は首をすくめた。

 「それじゃ、ご案内ねがいます。どちらがちかいかしら」

 「ぼくは、木場」
 「あたしは、須崎」
 志乃は、もはや帰ってきはしない私の兄を、私が最後にみた場所へ、いってみたいというのであった。そうして、ついでに志乃が生まれて育った土地を、私にみせたいというのであった。

▼六人きょうだいの末っ子の私。六歳のときまで、兄が二人、姉が三人。六歳の春、私の誕生日に、二番目の姉が自殺。津軽の海へ入水した。同年夏、上の姉も、琴を枕に服毒自殺。同年秋、長男が失踪。兄はひどい神経質で、妹たちの不幸におそらく耐えきれなかったのでしょう。のこった一人の兄によって私を大学に入れてくれた。その兄も会社を設立する名目で資金をあっめ、逐電してしまった。

 この兄の背信は、私たち一家にとって大きな打撃でありました。このショックで、父は脳溢血で倒れました。私たちはうちひしがれて、絶望して、めいめい危険な計画に耽った暗黒の時期もありました。今では、私がかつての兄の立場にとってかわりつつあります。そのために、一家はふたたび希望をとりもどしました。

▼「忍ぶ川」という小料理店につとめる哀しい宿命の娘志乃にめぐり会いました。いたましい過去を労わりあって結ばれた『忍ぶ川』。以前、よんだとおもえるのだが、今回、読むと、いたいほど過去の哀しみを秘めながらも、結ばれたふたり。

 志乃のお父さんが病気が急変して父の病む町に電車で帰るとき、見送った彼にひとめ父にあっていただきたく、お願い申しあげます。両親ふたりともあなた様をみせずに死なせてはかわいそうで、わたしもくやしくてなりません。せめて父にはあなた様を見せてやりたいのです。そうしてせめて志乃のこと、安心して死んでもらいたいのです。……。

 志乃の父の病床に私はゆきました。
 志乃の父は「私が馬鹿で、ろくに子供もそだてられないで、いたらぬものですが、志乃のことはなにぶんよろしゅ、おねがいもうします」
 いいきって、父はさすがにはげしく喘いだ。
「みえる? ねえ、お父さん、みえる?」
 志乃は、どうでも父に私をみせたいらしく、父の胸にすがるようにして懸命に訊いた。
 「ああ。みえるよ」
 「いい男だよ」
 ――その翌日、志乃の父は、死んだ。
 私と志乃はは、生前、志乃の父が好んで「惚れてさっさとする結婚」を、その父の五七があければすぐに実現するのであった。
 その年の大晦日、私は志乃をつれて、夜行列車で上野を発った。
 私の家での家族に祝福された結婚式と、志乃が私の家に馴染もうとするかいがいさには心を打たれる。 

 私の読んだ本は「新潮文庫」であり、『初夜』『帰郷』と章が続いています。


 私がこの小説を本棚から取り出したのは、朝日新聞(22.9.26)惜別:三浦哲郎を読んだからです。

 芥川賞の選者の川端康成氏は選評に『忍ぶ川』は私小説だそうである。自分の結婚を素直に書いて受賞した、三浦氏は幸いだと思えると述べている。

参考1:三浦 哲郎(1931~2010)

参考2:三浦哲郎

2010.10.2、2014.11.10、2015.11.25補足再読。 

 


40

朗 読―しゃがれ声の改善―


 「本物と素読」「目 耕」「色読」「五分間読書のすすめ」「音読の効果」などが読 書ついて書いてきた。

▼ところが、最近、知人と話している時、声がしゃがれていると言われ、心配されて、「風邪がはやっているから内科の先生に診ていただいたら」と。

 たしかに、声がしゃがれている。携帯電話で話した声を聞いて聞いてみると、自覚させられた。

▼風邪に罹っていないのに、しゃがれるには私なりの理由を考えると、一人暮らしで会話をする相手が少ない。その上、家にこもりがちでますます口をきくことが少ないからだろう。

▼改善する方法がないものかと思いついたのは、好きな本をできるかぎり大きな声で読むことを続けてみては改善されるのでなかろうか。

▼めっきり新刊書をかうのもへり、読書量もすくなくなっていたが、ある人にすすめられて買ったた『大原孫三郎』(中公新書)を毎日、平均して10ページ程度朗読してみた。

 一週間後、その人にあって、「声はどうですか」とたずねると、「ふつうになっていますよ」とのことであった。

▼高齢になれば話すことをある程度しなければ声帯の柔軟性が失われるのではないかと思われる。しかも毎日、行わないと声帯の柔軟性が失われていることもたいけんしている。

 この改善法に思いついたのは、けいけんによるものである。

▼会社定年後、高校の教師をしたことがある。約1カ月の夏休み(先生は自宅研修をしていた)は専ら2学期の教科指導の準備をしていた。平素は授業中、大きな声でだしていた。それをしないので、2学期の始めに大きな声がでなかったが、2~3日すると復元したことがあった。

▼今回の朗読をはじめて気づいた思わなかった効果があった。
その1は習慣的な黙読に比べて内容の理解がふかまるようである。
その2は文章の字句を正しく間違はないで朗読することは難しいことである。丁寧に字句を目で追い朗読しなければならない。NHKのニュース番組の方々の熟練ぶりに感心させられている。

▼年配の方々で声がしゃがれていっるなと感じられている方は大きな声を出す方法として「歌を歌う」とか、友人・知人との話す機会を多くするなど、ご自身に適した工夫をされることをおすすめします。 

2013.06.07 


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西堀栄三郎著『石橋を叩けば渡れない〛(日本生産性本部)


  若いころの夢はいつか実現する

 忘れもしない、私が十一歳のとき、白瀬中尉が南極から帰ってこられて、活動写真と称するものを見せてくれました。

 それには、ペンギンという珍しい鳥が出てくるし、大きな氷山というか、シェルフ・アイス――台状氷山――が映っています。飛行機はなかった時代ですから、全部地上から写したものですが、実に雄大な景色で、子供ながらに心を打たれたのでしょう、いつかチャンスがあったら南極へ行ってみたいなあ、という気持ちをもったわけです。

 こうした志というか、願いというか、夢というか、そういうものをもっていると、いつか実現の道が開けてきます。人間は生きていくうちに、必ずどこか分かれ道に行き当るものですが、そのとき、夢とか志があると、ついそっちの方を選び、チャンスをつかむことになるのです。

 私が、アメリカに留学していたときに、土曜、日曜の休日に何を過ごそうかと考え、「そうだ、南極へ行ったことのある人を訪問してやろう」と思いつきました。アメリカにはバードさんなどといっしょに南極に行ったことのある人がいますから、その人たちに会ってみようと思ったのです。

 これが一つの分かれ道といえますが――その人たちに会ってみると、とても親切で、いままで何年間もつきあってきたようです。全く人種を越え、歴史を越えて、私たちは大変親しくなりました。その中には、犬ひきがいる、コックさんがいる。そういう人たちは“偉い人”ではありませんから、南極のことで訪ねられることもないのに、日本からわざわざ訪ねて来てくれたというので、とてもよろこんでくれ、親しく接することができました。

 また、古本屋へ行っても、まるで心の奥底から指図でもあるかのように、フッと手が南極の本をとっています。それらの本をたくさん買い込んで、日本へ帰ってきました。当時は飛行機でなく船でしたから、荷物は多くても運賃はあまりかかりません。

 持って帰った本はたくさんあるので、そう簡単には読めないのですが、幸か不幸か戦争(第二次世界戦争)が始まり、ほかに読む本がなくなったので、読むといえば南極の本ということになってしまったのです。

 当時、私は、南極へなど行けるとは考えていませんでした。しかし、手のとどかない高嶺の花かもしれないが、そのことを思っているということは、心のささえでありますし、それが励みになっていく。夢というものはそういうものではないでしょうか。

 私が十一歳で志を立ててから、四十何年ぶりかで、南極の話がパッと出てきました。もうそのときは、私は五十三になっていました。会社でいえば定年も間近です。そんなじじが、いまさら南極へ行けるとも思っていませんでしたが、せめて若い人たちが行かれるのに、少しでもお手伝いしたいものだ、くらいの気持だったのです。

 さて突っ込んで話しあってみると、南極のことを知っとるのかいなと思われる人たちばかりで、ああでもないこうでもないといっている。私はつい出しゃばってしまって、だんだん深みに入ったのでしょう。自分の心の奥底に、またムラムラと出てくるものがあるものですから、それに抵抗することができず、ついに南極に行くことになってしまいました。

 ふりかえってみると、人間の運命とはどいうものだろうか、運命を切り開くということはいったいどいうことなのだろうか、志というものはどんなものであろうかということについて、私自身いろいろと教えられるところがありました。  とにかく、強い願いを持ちつづけていれば、降ってわいたようにチャンスがやってくるのです。そのとき、取越し苦労などしないで、躊躇なく勇敢に実行を決心することです。P.1~3


 キノコは千人の股をくぐる

 佐々木申二先生(京都大学名誉教授)から「キノコは千人の股をくぐる」という言葉をうかがったことがあります。

 キノコとは松茸のことです。一般の人は、松茸を探しに行っても、千人もの人が歩いたあとでは、もう見つからないだろうと考える。しかし、千一番目に行った人が、「あっ、松茸があった」と松茸を拾うかもしれないという意味のことです。

 月の世界へ行ったらこうなっている、ということは、いまはもう何億人もがすでに知っていることです。しかし何億人目の人間、私の友人がそれを役立たせて、カネを儲けたことは、前章でお話しました。千人の人が歩いたあとでも、まだ松茸はあるのです。

 みなさんの目の前には、新事実になるべきものがいっぱいあります。そこから新知識を得て、得た知識を自分自身、あるいは人のために役立たせ、社会に貢献できるような技術を確立していく。こう考えることが大事なのです。また、そういうことが可能なのです。

 未知の世界を何とか知ろうとして、一生懸命になって探す。松茸がないかなと思って、一生懸命に探す。ほかの人が探しているから、もうないだろうときめてかかるのではなくて、みなさんが毎日しておられる仕事の中から、一生懸命に探していくことが大切なのです。つまり大事なのは研究的態度を持つということです。

 その探し方の秘訣は何かと言うと、”観察”です。つまり、「変だぞ」と思うことがあったら、それを徹底的に究明することです。その場合、オレは学校を出ていないからだめだ、などと考える人があったら、それは大まちがいです。かえって学校を出た人は、理屈が先に立つてしまい、世の中が自分の考えたとおりにならないと、これはオレが悪いんだなどと考えがちです。

 ですから、学校を出たとか出なかったとかに関係なく、これはすべての人に与えられた特権として、身のまわりにあるいろんな現象を観察することです。

 観察の仕方にもいろいろありますが、大事なことは、理屈をいわず、虚心坦懐に現象を眺めることです。

 自分で先に絵を描いておいて、絵のとおりにならないと、これはウソだと考える。こいうのは、学校出の人に案外多いようです。だから、何にもとらわれないで、何か現象を見つけたら徹底的に究明し、それを社会に役立たせようとする意欲を持つこと、その意欲さえあれば、いくらでも新しいものが見つけられます。

 ことに、日本人は基礎的な知識をたくさん持っています。情報過多とさえいわれるくらい、誰もが知識のもとは持っているのですから、あとはその持てる知識を、使うか使わないかという意思の問題です。

 外国で多くの金をかけて、たくさんの人が研究しているのだから、いまさらわれわれがいくらやってもだめだ。また、そんなよい考えだというものなら、とっくの昔に外国でやっているはずだ、などと考えるのは止めてほしいものです。P.26~28


   最初というのは必ずいっぺんあります

 南極へ行くまえ、自分がゆくかどうかはまだわからなかったのですが、誰がゆくにせよ、私は、最初の年から越冬することが必要だということを力説したのです。

 すると学術会議の先生方から、そんな無理なことはいかん。最初の年から越冬するとは何事だといって叱られました。「そんなことは自殺的行為であるからやめい」というわけです。

 それで私はいいました。

 物事には、最初というが必ずいっぺんはあります。その最初をやらなかったら、二度目はないのです。最初のないものというものはない、だから、それを私たちはやろうと考えているのです。私たちはじゅぶんの自信を持ってやります。準備その他についても万全を期しています。P.32


   石橋を叩けば渡れない

 何か新しいことをするときには、やるかやらないかのか決めることが必要になってきます。その場合、まず事前にあらゆる角度からよく調査し、それからやるかやらないのかを決めよう、というやり方をすることがあります。また、うまくいかずにしくじったり、あるひは何かぐあいがが悪いことが起こったりすると、決心する前の調査がふ十分だったからだといわれる。

 新しいことには、リスク(危険)があるに決まっています。リスクというのは、危険ということだけではなくて、うまくいかないというリスク、ふ成功というリスクも入っています。危険ももちろんあり得ると思います。そこで、やるかやらないかを決心する前に十分調査しておかないからリスクがあるんだ、あるいは失敗があるんだ、という考え方です。

 しかし私は、そんな考え方ではとうてい新しいことはできないと思います。

 やるかやらないかを決心する前に、こまごまと調査すればするほど、やめておいた方がいいんじゃないかということになる。〝石橋をたたいて渡る”とか〝渡らん”とかいうけれども、石橋を完全にたたいてから、渡るとか渡らんか決心しようと思っていたら、おそらく永久に石橋は渡らんことになるだろうと思います。

 完全にリスクを防止できる調査なんて、できるはずがないのです。新しいことには、リスクがつきもので、だからこそ新しいのです。

 やるかやらないかという決心は、調査などで決まるものではない。もっとほかから決めさせられていることが多いのです。そんなことをやればみすみす失敗するかに見えるような場合でも、どうしてもそれをやることに決心しなければならないという場合もあるわけです。

 むしろ新しいことをやる決心は、「知らぬが仏」とか「盲蛇」とかいわれるようなのがよいのです。P.41~42


   “西堀流”というのは何ですか

 越冬隊員は、とにかくにも、初めてこの昭和基地で生活をともにすることになったわけです。

「これから一年間、この昭和基地を統治します」と、まあ私は施政演説をやらなければいけないわけです。

「つきましては、この昭和基地を “西堀流”に統治いたしますから、さよう心得ていただきたい」「いやな人はさっさと帰れ」といったところで帰るわけにはいきませんので、ともかくも我慢してもらわなければならないわけです。

 ちゃめな隊員が、

「その“西堀流”というのは、何ですか」

 というので、私は

「それは、私は自由というものを味わおうとしておる。この一年間に、自由というものの良さ、それがいったいどういうふうになっていくかということを、私は実験したいと思う。ひとつ、みなさんもそういうふうにやっていただきたい」

「隊長、その”自由”というのは何ですか」

 私はちょうどそこにあった、ちょこと徳利を両手に持って、

「自由というものは、まず人の自由を尊重すること、人の自由を尊重できないようなものには、自分の自由は与えられん。だから、昭和基地では、一切、酒をひとについでは相ならん」

 これが、昭和基地の憲法第一条です。

 ひとに酒をつぐ、ということは、人の自由を妨げることで、飲みたくない酒を「まぁ飲め、いいから飲め」といわれるほど、困ることはない。だから、もういっさいひとに酒をついでは相ならん、といったわけです。

 そのかわり、自分で手酌で飲むんならなんぼ飲んでもよろしい……というわけです。

 そして、一年間、酒のトラブルというのは一つも起こりませんでした。

 これは、"自由"の一とつの象徴です。P.83~84


   研究室“聘珍楼”

 東芝で真空管の研究をしていた当時、自分の研究室に“聘珍楼(へいちんろう)”という名前をつけました。横浜の南京町(中華街)へ行くと、聘珍楼という中華料理屋がいまでもあります。聘珍とは、珍なものよ、おいでおいでという意味ですが、私はできるだけ珍な人間を研究室へ招聘しようと考えていまいたので、この名前をつけたのです。

 なるほど珍なやつばかり集まりました。珍ンあやつということは、逆にいうと、個性の非常に強い連中ばかり集まってきたというわけです。

 ところが、珍なやつはやはり一癖ありますから、一筋縄ではいきません。軍隊式に押さえようなんてしても、とても無理です。なかなかむずかしい。どうしたらいいだろう。

 ちょうどそのころ、ドイツのハーゲンベックという猛獣使いの一団が日本に来ました。ハハア猛獣みたいな連中ばかりいるんだから、ひとつハーゲンベックに猛獣をどんなふうにあつかっているのか、聞いてみようということで、出かけていきました。ムチを持てとか、エサで釣れとか、あるいは愛情をもってどうこうしなさいとか、いうかと思っていたところが、そんなことをいいません。                                 

  「それは簡単です、象には象なりに、虎には虎なりに個性を持っている。だから、象は象なりに、虎は虎なりに、やらせたらいいんです」                     

 つまり、言葉をかえていえば、個性を尊重せよということ、それ以外に方法はない、ということを教わったのです。相手の長所を活かすことに専念せよ、ということです。私はとんで帰って、

「よい話を聞いてきた。今後は君たちの個性を伸び伸びと発揮して仕事をしなさい」といいわたしたのです。

 それ以後、その珍な連中が、みなほんとうに力を出して、よくやってくれました。自慢するようですけれども、私たちのグループじゃ、当時東芝においても最高の実力を持っていました。P.89


   他人の個性は変えることはできない 

 私たちの隊員は、ほんとうによくもこれだけ違う個性を持った人たちが集まったと思われるくらい、個性の強い連中が集まりました。

 たとえば、昭和基地で私たちの与えられた個室、これはみんな同じことになっています。私の部屋も畳一枚か、それよりちょっと小さいくらいで、ほかの人も大きさは同じです。ベッドがあり、枕がありというふうに、みな同じ規格の部屋です。けれども、その部屋のしつらえ方というものは、これはもう各自のそれぞれの個性に合ったやり方をしています。

 私の部屋なんていうのは、古着屋の店先みたいに、フンドシがぶらさげてあると思うと、シャツがぶらさがってある。写真機がある。望遠鏡がある。壁が見えないくらいに、いろいろなものがずっとぶらさげてある。手をのばしたら何でもとれるように、お酒があるし、たばこもあるし、何でも寝ながらできるようになっている。また外の気象、風がどう吹いているとか、気温は何度とか、何でもフッと見たらわかるようになっている。とにかく実に奇妙奇天烈な、足の踏み場もないような部屋です。しかしこれは私の性格をあらわしていますから、しようがありません。

 ところが前にでてきた「ブンブン」なんていう人は、非常にきちょうめんな人で、部屋に手拭一つぶらさげていません。みんなしまっているのです。まるで空家にでも入ったように寒々としているのです。

 またもう一人の男は、晩寝るときには、必ず壁にはってある女優の写真にキッスをしないと眠れないというふうです。隊員の中のいたずら小僧が、その写真の唇のところにトウガラシを塗っておいたら、それを知らずにキッスをしたものだから、大騒ぎになったという話があります。

 また一年間とうとう一度も部屋の掃除をしなかったという男もいます。

 それぞれが個性を発揮している。私はそれでいいと思っています。ところが世の中には、よく自分の部下というものを、欠点だらけで長所なんかない、という人がいます。私は、それはいけないと思います。人は必ず自分の型というものを持っている。あるいは理想像というものを描いている。その目で相手の個性をみるから全部欠点に見えるのだというのです。

 たとえば、きちょめんで部屋をきれいにする男が、もし隊長になって、そして自分の型にみんなを合わせたいという気持が、無意識にどこかに働いたとしますと、まず私の部屋にやってきて、隊員である西堀に「君何だこれは、何でもかんでもブラブラさげて、こんなにだらしないことじゃだめだ。そんなことをしているから仕事のほうもだらしがなくなる。一事が万事キチンと片づけろ」というようなことをいいたがるものなのです。その人の型というものは、キチンという型であって、それを理想と思っているわけです。このように自分の型というものを持って、それで相手を見ると、相手はそれと違うものですから、すぐそれが欠点として感じられるわけです。しかし、私はそんな寒々とした部屋に一日だっていられません。

 人の顔がみな違うように、われわれの隊員は、みな性質が違う。そこがいいのです。ではそういうふうにみるためにはどうしたらいいかというと、人の欠点、短所というものを認めなければいい。まず第一には個性というものは、自分では変えられるかもしれないけれども、ほかの人では決して変えられないものだとあきらめることです。

 欠点というふうに見えているその裏には、必ずその人の何か個性があって、その個性がたまたま欠点という形になってあらわれているだけのことだと考えることです。欠点とか短所とかいわれるようなものを少し堀りさげて考えてみると、それはその人のあるクセだということがわかります。そのクセをいいほうにふりかえることはできるはずなのです。        

 つまり、もとの個性というものは変えられないのですからそのままにしておいて、そのかわり短所になってあらわれているあらわれ方だけを、長所にふりかえるようにするしかないのです。

 たとえば、私の隊にあわて者がいたとします。「バカやろう、お前はなんてあわて者じゃ」、といいたい時があるわけです。ところが、欠点とみられているあわて者ということも、もとを正せば、その人は物事を早くやりたいという、性質があるわけです。だからそれをいいほうにふりかえって、「君はなかなか機敏だね」とこういうのです。

「君はなかなか機敏だなあ、だから失敗しないようにやれば、なおいいんだけどなあ」こういっておけばそれでいいのです。個性を殺していないわけです。

 このように、欠点ということをいわないで、欠点を直すのではなくー*欠点を直すと個性まで殺してしまいますからーー個性のあらわれ方だけを直したらいいいのです。

 個性は直せないから、個性をいかそうと思う、これは非常に価値のある大事なことです。

 個性尊重ということは、個性は変えられぬと思うことからはじまるのです。P.91


   個性は変えられないが、変えられるものがある。 

 個性は変えられないが、変えられるものがある。

 それは何かというと、能力です。能力というものは変えられる。これは後からついてきた、すなわち後天的な性格のものですから。

 従来は、「能力は変えられないが、個性は変えられる」、などと考えていたのです。

 私は仲人をしたことがありますが、その新郎に、「君の奥さんの個性は変えられないよ。しかし能力はいくらでも変えられるよ」とこういったことがありますが、その男は後になって非常に感謝しております。

 えてして、結婚したときは、“あばたもえくぼ”ということもあって、いい性叱だと思っているけれども、そのうちにその性質が悪いように見えてくることがあるものです。すると、うちの女房はけしからん、もっと性格を変えてやろうと思う。性格がよくて結婚したんじゃないか、それをいまさら変えるとは何事だ。能力はいくらでも変えられるけれども、性格は変えられないと思わなければいけないのです。それなのに、この能力は変えられないと思っているということは、能力をカチカチの入れものの容積のように考えて、ここへ何か入れると何かを取出さなければしようがないという考えがあるからです。

 たとえば、いろんなことを手広くやりますと、広くなるかわりに薄く浅くなるだろうという。広さを考えれば薄くなる、浅くなる、ということは容積一定の考え方なのです。実は、そんなものではないのです。

 能力というものはゴム風船のようなもので、プーツといくらでもふくれるのです。これをやれる、あれもやれる、何でもみなやれるのです。そうするためには、そこに内圧がかからなければいけない、その内圧とは何かといいますと、“意欲”というものです。意欲さえ出たら能力はいくらでも増やすことが出来るのだ、という確信を私は持っています。

 くり返しいいますけど、まず個性は尊重する。これは変えられないものだから、ありのままの個性をいい方にいい方に読みかえる以外にない。と同時に、その人の能力を高めるために、その人の意欲をますます燃やさせる必要があるということです。P.95


   虎穴に入らずんば虎児を得ず 

         ――教えることと育てることーー 

 日本はタテ社会で、終身雇用的社会です。ですから、社内教育は有効で、とくに昨今はその重要性が高まりつつあります。しかし、その教育のありかたには、いささか反省を要するものがあると思います。

 アメリカにおける社内教育のような、ただ「従順」を要求するための、必要最小限度としての愚民教育を主眼としている教育は、日本では適当とはいえません。今後の日本における教育は、もっと自立、自主の能力を根底から増大するためのものでなければなりません。それが意欲のもとになり、生きがいのもとになるものなのです。

 そのような教育というものはどういうものなのでしょうか。

 従来の教育には、「教」はあっても「育」がありません。教師なり先輩なりが、教科書によって、「もの」の理をとき、知識をさずけるだけのものでした。教えられるほうも、記憶力のある者が成績が良い、というようになってしなっています。

 したがって「知識」はあれども「知恵」はない、ということになります。知識を「応用する才能」というものは、教えられるものではなく、失敗を恐れずに修行させて、育てるものなのです。育てるとは、失敗の責任を授業料だと思って、引き受けてやることです。「学」は教えることができるが、「術」は育てることでのみ得られるものです。

 育てるということは、自発性をそそることですから、他動性にもたれかかることをさけさせるようにしなければなりません。命令とか指導とかではなく「激励」とか「暗示」とかが大事なのです。「激励」とは成功の認識させることであり、「おだてる」ということもその変形です。「暗示」とは成功の可能性を断定することです。これらはともに成功可能性の根拠をほのめかすようなチャンスを待っている必要があります。

 育てるということは、「成功」の味をしめさせ、「失敗」に学ばせることです。育てるということは「調子に乗らせて」いやがうえにも、意欲を高め、それによって能力を増大することです。

「調子に乗らせる」ということを悪いことのように考える人は、相手に正しい方向や目的を指示する能力をもたないか、相手の能力向上を嫉妬している人です。

 このような、育てることによってのみ得られる能力とは、教えることで得られるものとは、違っているということを、よく理解しておく必要があります。

 たとえば、次のようなことを考えてみて欲しいのです。

「理屈」がわかっても、「直感」がない。

「欲」があっても、「望」がわかない。

「組織」があっても、「運営」がうまくいかない。

 知っちゃいるけど、行わない。

 IEはわかっても、QCの理念はわからない。

 育てる心をささえるものは、

「君子危うきに近寄らず」ではなく、

「虎穴に入らずんば虎児を得ず」

 の哲学なのです。P.153


   「勇気」は「自信」に先行する

 創造性とは新しいこと、革命的なことをやることです。独創とは誰もやらなかったこと、気のつかなかったことをやることです。したがって、それを実行した場合、失敗するかもしれないし、途中で思いもよらぬ出来事が起こって、危険にひんすることもあるかもしれないのです。この危険を感じながら敢えて実行することを危険といいます。そして、これを敢えてやるという気構えが「勇気」であります。

 「勇気」とは、思い切って決行する気迫です。人間が、何か新しい行動をしようと決心するとき、自分の心の中にそれをこばむ抵抗があります。それは俗にいう、「取り越し苦労」というものもあり、あるいは「現状維持本能」というものもあります。こうした心の抵抗を打ち破り、切り捨てて、まず決行することを決心する必要があります。けれども、それは単に強引にそれをするということではありません。

 まず、それをやれるという「自信」というものがないと「勇気」が出てこないものです。自信は、その問題の困難性を見通すことと、それを解決する能力の自己評価とのかねあいで決まるものです。

 問題の困難性を見通す、これはその問題に関するできるだけ多くの情報を集め、これをもとにして、どんな困難や失敗の可能性があるかを予想し、そしてそれを克服する手だてを推理してみることです。しかし、初めてのしかも未来のことですから、何がそこにあり、何が起こるかということは、なかなかわかりにくいことです。「思いもよらぬ出来ごと」「予想外のこと」などが、いつ、なんどき起るかもしれない、という恐ろしさやふ安の方が先に立って、真の姿がなかなかつかめず、そのふ安は心配すればするほど深くなって、つぎからつぎへとふ安を呼び、考えれば考えるほど、かえって恐ろしさが増えてきます。

 したがって、その問題の困難性を見通すには、一応の情報をもとにして、直感的に見定めるしか、しかたがないのです。これが、いわゆる「カン」というものでないでしょうか。   

 また、「予想される困難を克シテ服解決する能力」の問題にしても、もともとどんな困難があるのかわからないのですから、それを解決する能力があるかないか、などということはあらかじめわかるものではありません。したがって、能力を問題にしうるのは、どんな困難があるかを予想できる場合のみにかぎられるのです。しかも、そのときになって、果たしてその能力を発揮しうるかどかもわからないのです。そして、それを克服するために、自分以外の人たちの協力や組織、資本などを要する場合には、なおのこと能力の有無は、正確にわかりようはずがありません。結局は、過去の実績や経験をもとにして、あるいは他の人の能力や経験談を求めたりして、できるだけ客観的な評価をするとしても、帰するところ、自分の能力を直観的に自分で評価するしか仕方がないものです。

 したがって、「自信」というものは、あくまでも主観的なものであって、「自分はできると信じる」というだけのことです。他の人からはそれはうぬぼれだといわれてもやむをえないことで、気にする必要はないのです。以上のような理由から、あまり微に入り細にわたって調査研究しても、自信を得ることには役に立たず、むしろかえって、困難を過大評価し、自分の能力ふ足を感じ、ひたすらふ安にかられ、自信をにぶらせるだけのことになってしまうことが往々にしてあるのです。従来は、このふ安のために自信がもてず新しいことにはだれも手をつけず、やりそびれていた、といえるでしょう。

 いままでやらなかったことをやるとか、いままでだれもが解決しえなかったことを決行しようというためには、このような自信論を超越して、やろう!ということにならなければなりません。それを「勇気」というのでありましょう。

 自信の有無や、「自信かうぬぼれか」の論議ではなく、もっともっと、信仰とでもいわれるようなものとでもいいましょうか。「人事をつくして、天命をまつ」とい言葉、「案ずるより産むが易し」という言葉は、すべて勇気を出させるためのものなのです。

 ともかく、「やってみろ!失敗してもおれが責任をもつ、安心してやれ!」というようにすれば、必ず道がひらけます。「成せば成るのである」ということは、暴言でもむちゃでもないのです。

 たとえ、途中で困難や危険があろうと、また論理や経験からはふ可能と思われようと、「カン」という第六感的洞察によって、可能性の見通しがつくこともあるのです。また一見、見通しがつかないときにこそ、「窮すれば通ず」のたとえのように、創造性が必要であり、また出やすいときですから、できる、と信ずることが、道をひらいてくれることになるのです。

 単に理屈による論理の問題ではなく、本当に困難や危機に遭遇したときに、天佑とか、神の啓示というようなヒラメキによって切り抜けぬけて成功にいたった例は実にたくさんあります。それを計算に入れないで、自信がないからやめておこう、というのは勇気がないとしか言いようがありません。「勇気」は「自信」に先行する。それを私は強調したいのです。P.195~198

『石橋を叩けば渡れない。』西堀栄三郎 著(発行所:日本生産性本部)1972年12月10日第9刷


参考:南極地域観測隊

 この記事を丁寧に読みますと、「南極観測船」「国立極地研究所 南極観測のぺージ」が読めます。

 最近の南極の記事として、第55次隊昭和基地 Now!「困難を乗り越えてスカーレンに到達」更新2014年9月14日などが記載されています。写真をふんだんに見ることができます。また、世界の国々の記事もあります。

 これらの資料に乗って南極に飛べる思いがしました。

参考:Yagi Web Site


 西堀栄三郎著『南極越冬記』岩波新書(昭和33年7月31日 第一刷発行)

  はじめに

 この書は、南極リュツォウホルム湾昭和基地において、十人の同士と共に過ごした一九五七年二月十五日から翌五八年二月二十四日までの一年間の生活記録である。しかしこれは、日本南極地域観測隊・第一次越冬隊の、隊長としての立場で書かれた公式記録ではない。ただ、南極の大自然の中で一年間、なにをし、なにを感じたかを、プライヴェー?な立場からありのままに書いたものにすぎない。中には、自分が心おぼえに記録しておいたメモや日誌のそのままの部分などあって、読者には判読に苦しまれるかもしれない。しかし、われわれの生活の様相は行間から読み取っていただけると考えている。またこの中には、自分が感じたままのことを率直にのべたところがある。考え方の誤っていることもあろうが、世の識者の御批判をうけて、自らの反省のよすがとしたい。

   一九五八・七・一三       西堀栄三郎


 西堀 栄三郎(にしぼり えいざぶろう、1903年(明治36年) - 1989年(平成元年)は、日本の登山家、無機化学者、技術者。従四位。

 京都府出身。京都一中、三高を経て、京都帝国大学理学部化学科卒業。京大講師、助教授を歴任した後、東京電気(東芝)に移る。
 1936年、京都大学より理学博士。
 東芝技術本部長時代には海軍の要請を受けて真空管「ソラ」[2]を開発し、技術院賞を受賞した。材料ふ足の状態でも大量生産できるように、微細な部分に至るまで製造マニュアルを完備し、"新橋の芸者を集めてでも製造可能"とされた。
 戦後は独立コンサルタントとして統計的品質管理手法を日本の産業界に持ち込み、デミング賞や電電公社総裁賞を受賞。戦後日本の飛躍的な工業発展の礎の1つとなった。
 京大に助教授、教授として復帰してからも精力的に活動し、第一次南極観測隊の副隊長兼越冬隊長や日本山岳協会会長を務める。日本初の8000m級登山であるマナスル登山計画時にはネパール政府との交渉役として活躍。日本原子力研究所理事や日本生産性本部理事も務めた。
1973年、勳三等旭日中綬章受章。

平成二十六年九月二十八日


 ある人の旅行体験記より

 2017年では、年間3万人以上の観光客が南極へ訪れると言われています。

 南極条約が決められており、規則に従わなければ上陸できません。過酷な荒海に囲まれているので上陸も容易ではありません。

 日本からローマ経由で南アメリカのアルゼンチン ウイシュアイアに行き、そこから船旅です。

   魔のドレーク海峡を超え、南極半島 サウスジョージア諸島フォークランド島 モンテビデオ ヴェノスアイレスと長い飛行機 船 の旅を過ごしました。

 船酔いで酔い止めの薬はかかせませんでした。

参考:南極への旅行

平成29(2017)年3月29日


42

印度仏跡旅行

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 「聖なる河、ガンジスが心を清め、人と動物がひしめく迷路のような市場をさまよう。その昔、インダスのほとりに文化が開花したインド」

 スクリーンには、白い椀を伏せたようなタージマハル宮殿や額に赤い印をつけたバラマン老僧の姿、性的な手ぶりの印度舞踊のビデオが次々と映し出された。半月後に出かける印度仏跡旅行の説明を受けるため二十人ほどの男女が集まったが、大半は年配者である。

 咳の音やかすかな身動きのなかでスクリーンに同じような風景や同じようなヒンズーの寺が出る。群衆の汗と体臭がこもったボンベイやカルカッタの大通り、ルンビニーやカピラヴァストゥやブッタガヤーやサールナートのような仏跡。日本はもう秋だといういうのにあと三週間もたたぬうち、自分自身がこの暑い光の土地を歩いているのがふしぎな思いである。

 あかりがついた。場内の空気に皆の息のにおいのまじっているのを感じた美津子はハンカチをバッグから出した。ハンカチにつけたコロンの匂いに前列の男がふり向いた。そして驚きの色をみせた。

 「楽しく旅行して頂きますために、添乗員の江波から御旅行中の注意事項を申し上げます。お手もとの紙を御覧ください」

 すると丸い眼鏡をかけた三十四、五歳の男がさきほどのスクリーンの前にたって挨拶した。

 「添乗員の江波と申します。印度には四年ほど留学しておりました。その間も、このコスモス社のお客さまたちを向こうでご案内しておりましたので、経験からお客さまに三つのことを御注意申しあげます。三つとは、まず水です。現地で生水は絶対にお飲みにならないでください。必ず煮沸した湯を召し上がるか、コーラやジュースを飲まれることをお奨めします。ホテルでアイス・ウォーターやウィスキーのオン・ザ・ロックを御注文になってその氷でお腹をこわされる方もおられます」

 印度における便所の特殊な使い方、左手はふ浄なものと言われているから、左手で子供の頭などを撫でぬこと、特殊なリクエストをしない限りチップは必要としないこと。盗難への注意の仕方などを彼はひとつ、ひとつ、印刷した紙に書いてある通り説明をした。

 「印度にはカーストという宗教的な身分制度があります。ヴァルナ・ジャーティとも申します。それは非常に複雑でして簡単には御説明できません。ただ最も下のヴァルナにも入らない、つまりアウト・カーストともふ可触民ともよばれる人々がいることは知っておかれたほうがよいと思います。ふ可触民とは、現在ではハリジャンと呼び形式的には神の子などというこういう差別を旅行中、目撃され、日本人としては不快な気持ちになられるかもしれませんが、そこには長い宗教的歴史的背景のあることをお含みおきください」

 さまざまな旅行中の注意をのべると、彼は質問を促した。

 「おそれ入りますが、お互い、早く顔見知りになって頂くため、質問なさる際、お名前をおっしゃって頂きます」

 二、三人の者が挙手した。

 「沼田といいます。野鳥保護地区に行きたいのです。そのためアーグラかバラット?プルに一人、少し残っていたいのですが」

 「このツアーは仏跡訪問ツアーですが、訪問先で一カ所の町にお残りなって、あとで全員に合流なさりたいのなら御自由ですよ。動物がお好きですか」

 「はい」

 「印度自体が自然動物園のようなものです。至るところに猿やマングースや虎が住んでいます。コブラまでも」

 江波は皆を笑わせて、

 「でも一カ所に特別滞在をなさる時は、我々の指定のホテルにお泊まり願います。外で食事をされる時、特別料金になります」

 「わかっています」

 この時期の温度や服装について質問する女性につづいて一人の年配者が手をあげた。

 「向うの寺で法要をお願いできるでしょうか」

 「寺とおっしゃいますと、ヒンズー教の寺院ではなく、仏教の寺ですね。失礼ですが、お名前は」

 「木口と言います」

 「木口さん、何か特別な法要でしょうか」

 「いや、私は戦争中ビルマで多くの戦友を失ったし、印度兵とも戦ったので、その……敵味方の法要を向うでお願いしたいと思いまして……」

 この時は皆は一瞬、黙りこんだ。

 「確約はできませんが、たいていできるとと思いますよ。ついでに申しあげますと、印度は現在、ヒンズー教が圧倒的に多く、次にイスラム教徒で仏教のほうは滅びたと言っていいくらいです。公称では三百万人の仏教徒がいると言われてますが、実際は仏教礼拝は先ほど申しあげたふ可触民に多いのです。つまり、いかなるカーストにも属さない最下層の人々が、人間の平等を説く仏教に救いを求めたわけですね。カースト制度は、とにも角にもヒンズー教を支え、印度社会を支える柱だったので、仏教はこの国で衰弱したのです」

 「それじゃ、ヒンズー教徒は何を信じているのですか」

 と無邪気な老婦人がたずねた。彼女は夫と共にその仏跡めぐりをするつもりだった。

 「お名前をどうぞ」

 「小久保です」

 「有難うございました。ヒンズー教は非常に複雑でして一口には御説明できません。現地で彼等の神々の像を御覧になるのが一番です。その信仰する神も多数ありまして、一寸、スライドで御説明しましょうか」

 スクリーンに異様な女性の姿がうつし出された。片足で男の死体をふみつけ四本の手のひとつでネックレスのかわりに数々の人間の首を肩にかけていた。

 「これは印度の寺院や家庭でよく飾ってある女神たちは、たいてい地母神と言いまして優しい神と共に怖ろしい存在です。たったひとつ、印度の苦しみをそのまますべて引きうけたようなチャームンダー女神というのがあって、これは是非、私は皆さんに御案内したいのですが」

 室内が明るくなると、さきほどの小久保夫人が

 「ああ、怖ろしかった」

 と声を出して、皆の笑いをかった。

 「では予定の時間もすぎましたので、集まりを終わります。御苦労さまでした」

 と江波はふたたび、厚い眼鏡を指でずりあげ不器用に頭をさげた。ホールを出る一同にまじって立ちあがった美津子は前列の男から声をかけられた。

 「成瀬さんじゃありませんか」

 「はい」

 「お忘れですか。妻が病院で看病して頂いた磯辺です」

 記憶の底から、あの辛抱強い末期癌の女性と毎日のように病室を訪れていたこの夫が浮かびあがった。

 「あの節は、色々とお世話になりました。しかし、こんな場所でふたたびお目にかかるとは思いもしませんでした」

 磯辺は成瀬美津子のなかに妻の思い出を探るような眼つきをしたので、その視線が美津子には重かった。

 「印度は御一緒のようですから、宜しくお願いします。偶然ですわね」

 彼女が話題を変えようとすると磯辺はうなずいて、

 「しかし、成瀬さんが仏跡訪問などに御関心があるとは知りませんでしたな」

 「別に仏教に興味があるわけではないんですけど」

 と美津子は曖昧な笑い方をした。まぶたにはさっきの生贄(いけにえ)と血とを求める女神たちの姿がまだ残像のように残っている。彼女は印度で何を見たいのか、本当は自分でもわからなかった。ひょっとしたら善と悪や残酷さや愛の混在した神たちの像を自分と重ね合わせたいのかもしれなかった。いやそれだけではなく、もうひとつ、彼女には探したいものがあった。

 「成瀬さんなら、フランスなんかに興味をお持ちだと思いました」

 「なぜですの」

 「妻がそんな風に申していたのを思い出したんです」

 「一度、参りましたけど、わたくし、あの国、あまり好きじゃないのです」

 磯辺は美津子のはっきりした言い方に白けたように黙った。美津子は自分の口調のきつさに気づいて、

 「すみません、生意気言って。磯辺さん、印度は観光でいらっしゃるのですか」

 「いやそれもありますが……」

 磯辺は困った表情をして、

 「あることを探りに行くんです。本当に宝探しみたいな旅です」

 「皆さん色々なお気持ちで、印度に向かわれるのですね。動物がお好きな方もいらっしやったし、戦友の法要で行かれる方もおられるし」

 歩道には褐色によごれた街路樹の落葉がもう散っている。出口の前にはタクシーの列が並び、米国人の夫婦が街路の露店の玩具を面白そうに眺めていた。美津子はまだ話しかけようとする磯辺に重さを感じて、

 「失礼します。当日、成田の飛行場でお目にかかりますわ」

 「十時半、集合でしたね」

 「ええ、出発二時間前」

 会釈して、彼女は並んでいるタクシーに体を入れた。タクシーの窓から、ぽっんと立っている磯辺の姿がうしろに去っていった。いかにも妻を失った孤独な男という肩と背中をしていた。(以下略)

遠藤周作『深い河』(講談社文庫)P.41~P.50より。

平成二十八年一月十七日


戦国争乱の世というのは、生ぬるい根性で生きられる時代ではなかった。

43

真田幸村 われに挑む一人の男もなきか

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 戦国争乱の世というのは、生ぬるい根性で生きられる時代ではなかった。慶長五年(一六〇〇)天下分け目の関ケ原合戦に真田家は"家"を保つため真二つに分かれ、幸村は父の昌幸(まさゆき)と共に西軍、石田三成に加担、兄の信行(のぶゆき)は東軍、徳川家康に属して、親子兄弟が袂を分かって戦いにのぞんだ。

 が、関ケ原で西軍は壊滅し、戦後、昌幸、幸村父子は罪を得て紀州高野山麓の九度山に配流の身となる。そして、天下に比類のない軍略で秀吉に舌を巻かせ家康に苦汁をなめさせ、徳川軍を翻弄した謀将、昌幸も、十一年後の慶長十六年(一六一一)、失意のうちに九度山で死ぬ。

 以来、幸村は妻子やわずかな家臣とともに更に三年の歳月をこの地で過ごすことになる。九度山での幸村の暮しは困窮をきわめたものであった。

 現在も真田家の菩提寺、高野山蓮華定院(れんげじょういん)に残る無心状のなかで幸村は、

 「その後ごぶさたを致しております。さて、(使いの者に持たせた)この壺に焼酎をお詰めくだされ。一杯詰めてこぼれぬよう壺の口をしっかり目張りしてくだされ。壺二つに焼酎の件よろしく願いまする」

 と、酒を愛した貧しい日々を語り、また、老いのしのびよる身の歎きを姉婿の小山田壱岐守(いきのかみ)に、しみじみと書きつらねている。

 《とかくとかく年のより申し候こと、口惜しく候。我らなどもにわかに年より、殊の外、病者になり申し候。歯なども抜け申し候。ひげなどもくろきはあまりこれなく候》

 この手紙からは、テレビや映画などでよく見る、百万の兵馬をひきい天下を切り取りかねまじき風貌をした英雄の印象とはうらはらな、歯がぬけ髭も白くなり、病がちな小男といった幸村の表情が泛(うか)びあがってくる。これが現実の幸村であった。現実といえば、幸村は柔和で心やさしい人物であったと、兄の信之の追懐の言葉にある。

 九度山でのふ遇の時代の幸村の見事さは、終始柔和で、わが身を腐らせなかったことであろう。逆境にあっても落ちこまず、心を荒(す)さませず、つねに自然体で、世を拗(す)ねていないことだ。

 こうして慶長十九年(一六一四)十月、九度山で朽ち果てるのかと半ば諦めていた人生の涯(はて)の、四十八歳の幸村の前に、大阪入城を勧める豊臣家からの使者がやってくる。

 「行こうぞ、大坂へ」

 決断した瞬間から、幸村は豹変する。

 大坂に入城し五千の軍兵を預けられた幸村は、将兵の軍装を燃えたつような赤一色に統一した。風になびかせた真田の旗はもとより、のぼり差物から甲冑にいたるまで、ことごとく真っ赤に染めあげた真田隊の、赤備(あかぞな)えの派手やさは敵味方の目をひいた。

 《真田左衛門(幸村)赤のぼりを立て一色赤装束にて》(『山口休庵咄』)

 《真田が赤備え、躑躅(つつじ)の花の咲きたる如く……》(『武徳編年集成』)

 赤という色は人の心を昂奮(こうふん)させる色であり、戦場にのぞんだ将兵たちを奮いたたせる色でもあった。幸村自身も、緋(ひ)おどしの鎧に鹿の角の前立(まえだて)をうつた兜をかぶり、金覆輪(きんぷくりん)の鞍に紅の厚総(あつぶさ)をかけた馬上にある。幸村は、こうした演出を心得た男である。心にくいばかりに敵味方の戦場心理を読みぬいた男である。真っ赤な火の玉に化(な)って突撃してくる真田隊の凄絶さに恐怖した徳川軍は、もろくも四散し敗走する。

 こうした演出ぶりは、現代にも通用する。人びとの心を目的にむかって直進させるために、軍隊での軍服、工場での制服のような工夫も必要なのである。すぐれたリーダーとしての資格は、いかに部下たちをおのれの統率のもとに魅(ひ)き込むか、集団催眠をかけられるかであろう。戦闘指揮官としての幸村は、こうした器量を完璧なまでに備えたリーダーであった。それなればこそ真田隊は精強であり、はるかに巨大な相手に挑み、撃破するという奇襲戦法も可能であったのだ。

 にんげん幸村の魅力を語るエピソードの一つに、大坂入城の供をした高野山の庄官(しょうかん=庄屋)や地侍ら一五四人の男たちがある。九度山幽居十五年のあいだ、幸村の人となりに接した男たちが吸い寄せられるように集まってきたのである。

 そして彼らは、その風采のあがらない小柄な老人に従って嬉々として奮迅し、全員燃えたつ火の玉となつて雲霞のような徳川軍団に突撃すること数度、幸村討死の後も、その場を去らずことごとく死んでいくのである。この中には、高野山の奥から鉄砲を肩にやってきた猟師たち三十余人もいる。主将が討死した場合、将兵たちは戦場から落ちのびていくのが戦国の世の常であって、全員戦死というのは異例のことだ。

《真田日本一の兵(つわもの)、いにしえよりの物語にも(これほどの精兵は)これなき由(よし)、惣別(そうべつ)(東軍の陣中で)これのみ申す事に候》と島津(家久であろう)が国元へ送った手紙の中にある。

 そして戦場での幸村は、こうした部下からの信頼に見事に応えている。

 翌、元和(げんな)元年(一六一五)夏ノ陣の河内での激戦で伊達政宗軍を撃破し悩ませていた幸村は、大坂城へ引き上げるとき、群がちたつ東軍にむかって、《関東勢百万も候え、武士(おとこ)は一人もなく候》

 と大声で罵倒し、悠々と引き上げていった。(大坂陣『北川覚書』)。

 このときの幸村の、あまりに不敵な惚れ惚れするような勇将ぶりは、味方でもある大坂方の武将たちも妬んだほどであったいうから、幸村に従う将兵たちは心ふるえるほどの感動をおぼえたにちがいない。もちろん、これは幸村得意の演出だが、こうしたことは理屈ではない。部下を心腹させ、よろこんで死地に赴かせるための指揮官として、よほどの器量、人間的魅力がなくては愜(かな)わぬ芸であろう。

 戦闘指揮官幸村のすばらしさは、機略縦横の作戦ぶりはもとより、死ぬための戦いしかなかった夏ノ陣の悪戦苦闘の中にあっても、悲愴感さえ泛べていなかったことであろう。肩ひじを張ったり、まなじりを吊りあげたりすることなく自然体で、それどころか最後の突撃に入る前日など、「どこで死んだら一番分がよいか、家康殿の様子をちょっと眺めてみましょうわい」などと、茶臼山の丘にのぼり、家康本陣を観察したりして、将兵たちを微笑(わら)わせている。リーダーとしての幸村の、こうしたモノに動じない腰のすわりと余裕が、真田隊の士気(モラール)を掻きたて結束をより強いものにしたことは慥(たし)かである。

 世に人使いの名手というのがある。傍にいるだけで、それだけでもう胸が熱くなり、芳醇な酒のように人の心を酩酊させてしまう、そんな、にんげん的魅力をもつた男である。西郷隆盛や山本五十六がそうであった。彼らから声をかけられただけで「もう、この人のためなら死んでもいいと思った」と後に部下たちは、そう述懐している。幸村も、そんな男であったのであろう。

 それにしても、河内の野をうずめつくすような徳川軍団の前に進み出た幸村が、「関東軍百万もあれど、われに挑む一人の男(武士)もなきか」と叫んだという光景は、事にのぞんだ際のリーダーのあるべき姿を描きだしている。

 戦国の世に残すべき"家"をもたなかった幸村が、歴史のなかに遺(のこ)した唯一つの、"訓(おしえ)"である。

神坂次郎『男この言葉』(新潮文庫)P.77~81より

参考1:NHKの大河ドラマ「真田丸」が平成27年初めから放映される。
参考2:真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。真田昌幸の次男。「真田幸村(さなだ ゆきむら)」の名で広く知られている。

平成二十八年一月四日


44

原典を探す


 私のホームページ作成を簡単に述べます。

 ハガキ通信を行っているとき友人に勧められて、「自学自得ハガキ通信」としてホームページに載せていただくことを始めました。その後、私もインストールのプロバイダーにも加入して、多くの方々の助けと、作りかたを調べて自分でもなんとかやれるようになりましたので「習えば遠し」の題名にして自前のホームページを作り、「習えば遠し」「自学自得ハガキ通信第一部」「自学自得ハガキ通信第二部」「日曜日は坐禅」「師をもとめて」の五部にいたしました。

▼はじめはハガキによるものであるから、字数が制約されました。ホームページに記載してから後、時折思い出しては追加あるいは補正することにしました。やってみるものですね。書いた時からの自分の気持ちの変化を知ることができるようです。
 また、ホームページの作成に使用するHTMLなどの使い方を少しずつ勉強して、応用すると進歩が感じられるのはなんともいえない気分を味わえるようです。

▼自学自得ハガキ通信第二部の「Who are you?」にふれた香厳智閑禅師の話について原典を補足したくなり、探し始めた。『正法眼蔵』で読んだとの記憶から岩波文庫四巻の第一巻からページをめくりすすめました。見当たらない二、三、四巻までぱらぱらと目を通したが出会わない。もしかしたら記憶違いでほかの本だったかとの疑いが起こり、関連ありそうな本の数冊にあたってみた。依然として探し出せない。また文庫に返る。それでもだめ、あきらめきれない。

▼探し疲れて、落ち着いてからと思うようになった。ふと、インターネットでさがせないだろうかと。Yahooのポートサイトで検索することにしました。「中国 禅僧 香厳」を打ち込むと、二つの項目が出てきた。

一つは

本人のHP自学自得ハガキ通信 第一部. 自学自得. 手作りの小冊子 ... 38. 自分の顔. 138. 香巌和尚. 39 ... する機会に初めて恵まれた。 中国地方は戻り梅雨で警戒警報が発令されて ... 祝福した人がいます。. 中国の清時代の黄丕烈(一七六三~一八二五)がその ...

参考:Who are you?

二つは

ほかの人のものでした。読むと、『正法眼蔵』渓声山色の内容にかかれていることがわかり、あらためて文庫本を開くと書かれていた。ようやく原典にたどり着いた。たまたまYahooであったから幸運であったようだ。蛇足だがGoogleで検索したが見つからなかった。翌日、Yahooで「Zazen on Every Sunday Kurosaki Shoji」で検索すると、これまた「習えば遠し」がでてきた。

▼原典を探すのは意外に楽しいものでした。今回の反省では、文章中にに引用したものには書名・著者・出版社などを必ず記録すること。ついで、感じたのは研究者が追い求め其の目的に到達したときの喜びはこんなところにあるものだろうと。

平成十八年四月二十日


☆補正
香巌和尚については、『自学自得ハガキ通信第一部』138号(平成七年三月一日)に書いているのに気づいた。十一年も経過している。

平成十八年四月二十四日


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カルネアデスの板

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 カルネアデス(CarneadesまたはKarneades, 紀元前214年 - 紀元前129年)は、古代ギリシアの哲学者。カルネアデスの板という問題を出したことで有名である。

 彼はキュレネで生まれ、アテナイのアカデメイアで哲学を学んだ。そしてアカデメイアの学頭となり、急進的な懐疑主義(蓋然主義者ともいわれる)の立場からストア学派を攻撃した。著作はないが、弟子のクレイトマコスなどによって伝えられている。

 カルネアデスの板(カルネアデスのいた、Plank of Carneades)は、古代ギリシアの哲学者、カルネアデスが出したといわれる問題。カルネアデスの舟板(カルネアデスのふないた)ともいう。

 舞台は紀元前2世紀のギリシア。一隻の船が難破し、乗組員は全員海に投げ出された。一人の男が命からがら、壊れた船の板切れにすがりついた。するとそこへもう一人、同じ板につかまろうとする者が現れた。しかし、二人がつかまれば板そのものが沈んでしまうと考えた男は、後から来た者を突き飛ばして水死させてしまった。その後、救助された男は殺人の罪で裁判にかけられたが、罪に問われなかった。

 緊急避難の例として、現代でもしばしば引用される寓話である。現代の日本の法律では、刑法第37条の「緊急避難」に該当すれば、この男は罪に問われないが、その行為によって守られた法益と侵害された法益のバランスによっては、過剰避難と捉えられる場合もある。

 松本清張の短編小説「カルネアデスの舟板」の題名の小説を書いている。

 一九五四年(昭和二十九年)九月二十六日、鹿児島に上陸した台風十五号は、時速百キロという高速で、日本海から北海道西岸を一日でぬけていった。

 このまれにみる台風で、青函連絡船洞爺丸(四三三七トン)は函館湾で沈没。乗員乗客を合わせて千百五十五人の犠牲者をだす大惨事となった。これはあのタイタニック号(一九一二年、死者千五百十三人)に次ぐ史上第二番目の海難事故である。

 この時、アメリカ人宣教師・ディーン・リーパーが洞爺丸に乗りあわせていた。ディーンは恐怖におびえる乗客に、自慢の手品を披露、船室の空気をやわらげることにつとめた。そしていよいよ沈没が避けられなくなったとき、女性や子どもたちに救命具を着せてやり、最後まで励ましのことばをかけながら死んでいった。

 ディーンは一九二〇年、アメリカのイリノイ州に生まれた。父親は農場経営者。キリスト教信仰を持つ敬虔な両親のもとで育った。

 ディーンは父のあとを継ぐべく、イリノイ州立大学農学部に入学。また、大学内のYMCA(キリスト教を信じる学生たちの集まり)に入会。そこでアジアから帰国した宣教師に感化を受けたディーンは、家業を継ぐより、アジアに宣教師として遣わされることが神の導きなのではと心が変えられていく。

 そのようなディーンを、父親は激励した。

 ディーンは卒業後、海外宣教学生献身運動のリーダー、ワシントン州立大学国際会館の責任者と、確実に宣教師への道に近づいていく。

 ところが、太平洋戦争が長期化し、ディーンにも海軍から召集がきた。しかし、「武器は持ちたくない」との彼の希望が受け入れられ、戦場には行かず、敵国日本を研究する一員としての任務が下った。これがディーンと日本を結びあわせたきっかけ。また、この日本研究の任務を通して、マージョリ・カービンスと出会い、将来を誓いあった。

 一九四五年、日本が降伏すると、アメリカは占領国として日本の復興に力を注いだ。

 アメリカYMCAも、日本YMCAの指導者として、このとき二十八歳のディーンを推薦。ディーンは喜んで承諾。妻マージョリ、長男スティーブンと日本へ出発した。

 東京についたディーンは、大半が焼土、食料をはじめあらゆる物資も極度に欠乏、いまだに防空壕に住む人々を目の当たりにし、強い衝撃を受ける。

 ディーンはYMCA再建に力を尽す一方、自ら日本人になろうと努力した。そこで、鉄道はいつも三等車に乗車することを決める(欧米人は二等以上が常識)。また、できるだけ銭湯に顔を出し、日本人と背中を流しあった(まさに裸のつきあい)。ディーンはプロ級の手品師でもあった。多くの人々を楽しませ、たちまち人気者になってしまう。

 長く感じたか、短く感じたか、デイーンは四年の働きを終え、家族とともに休暇のため一時アメリカに帰ることとなった。

 帰国したディーンは、休暇の大半を大学に通い、牧師の資格をとることに励んだ。今後の日本での働きのために、ふ可欠なものと考えたからだ。

 そして、一年半後、ディーン一家は日本に帰ってきた。

 さっそく、北海道と東北地方のYMCAを巡回する多忙なスケジュールが待っていた。家族は東京に残し、北海道のYMCAをまわったディーンは、運命の九月二十六日、函館から青函連絡船洞爺丸に乗り込んだ。

 この日、台風十五号は時速百キロをこえるスピードで北上。洞爺丸は台風の通過を待っていた。すると、風が止み、青空も広がり、洞爺丸は約四時間遅れの午後六時三十分、函館を出航した。

 これが悲劇のはじまりだった。  

 あらしが静まり、晴れ間がのぞいたのは、「函館が台風の眼に入ったからだ」と船長らは判断した。とすると、台風が通過するのはもう時間の問題。吹き返しに注意は必要なものの、官民が総力を挙げて建造した最新鋭船。多少の強風にはビクともしない自信があったに違いない。

 しかし、船長らが台風の眼だと思ったのは、実は閉塞前線のいたずらだった。函館上空を閉塞前線が通過した瞬間、風は弱まり、青空が現われた。ところが、洞爺丸出航直後、台風は容赦なく牙をむき襲いかかってきた。

 驚異の暴風に、港からなんと一キロにも満たないところで洞爺丸は浸水、エンジン故障、操舵ふ能のまま七重浜沖八百メートルのところで座礁してしまった。

 ディーンはうろたえる乗客にやさしく語りかけ、次から次にと自慢の手品を披露した。あざやかな手さばきに、子どもも大人も大喜び。船室に落ち着きがもどった。

 ふつう、座礁した船は安全のはずだった。ところが悪いことに、洞爺丸は船底の貨車をとめる鎖が切れ、船体はどっと傾き、ついにSOS発信に追い込まれてしまう。

 ディーンは、たまたま同乗していたアルフレッド・ストーン宣教師、ドナルド・オース宣教師と力をあわせ、悲鳴の渦のなかで逃げまどう乗客に救命具を配り、着用に手間取る子どもや女性を必死に助けた。

 アルフレッドは、救命具のない学生を見つけ、「あなたの前途は長いから」といって救命具をゆずった。ディーンは、子どもづれの母親に自分の救命具を与え、最後まで励まし続けたと伝えられている。

 洞爺丸が転覆したところは、七重浜からわずか六百メートルの海上だった。七重浜には、打ち上げられた死体と船の残骸があふれた。ドナルドは奇跡的に助かったが、アルフレッドとディーンは死体で見つかった。

 事件後、日本経済新聞は、救命具をゆずり、乗客を励ましながら死んでいった二人の宣教師を、「北海に散った外人宣教師」の見出しで報じた。

 ディーンの長男スティーブンは、やがて広島で平和運動の働きに従事。次男デイビットは牧師に。長女リンダは牧師と結婚、作家三浦綾子さんの『氷点』に父親のエピソードが書かれたことを感謝し、のちに三浦さんを尋ねている。

 ディーンの死後に生まれたケンは、建築家のかたわら、平和運動にも熱心だったという。

 北海に散った父、ディーンの生きざまは、しっかりと子どもたちに受け継がれていった。

参考1:三浦綾子『塩狩峠』

参考2:蜘蛛の糸(芥川龍之介)

平成二十八年十月十六日


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『人生の短さについて』

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☆セネカ(Lucius Annaeus Seneca, 4頃 B.C.-65 A.D.)
 セネカはローマ帝政の初期というひどく険呑な時代に生きた。事実、かつての教え子ネロ帝から謀反に加担したと疑われ、自殺を命じられるのである。良く生きれば十分に長いと説く「人生の短さについて」、併収の「人生の短さについて」「心の平静について」「幸福な人生について」のいずれも人生の苦境にたちむかうストア哲学の英知に満ちている。

一 われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。われわれは人生に不足しているのではなく濫費しているのである。P.10

二 「私は五十歳から暇な生活に退こう。六十歳になれば公務から解放されるだろう。」では、おたずねしたいが、君は長生きするという保証でも得ているのか。君の計画どおり事が運ぶのを一体誰が許してくれるのか。P.15

三 生きることは生涯をかけて学ぶべきことである。そして、おそらくそれ以上に不思議に思われるのであろうが、生涯をかけて学ぶべきは死ぬことである。P.22

四 毎日毎日を最後の一日と決める人、このような人は明日を望むこともないし恐れることもない。P.24

五 髪が白いとか皺が寄っているといっても、その人が長く生きたと考える理由にはならない。長く生きたのではながく、長く有ったに過ぎない。P.25

六 万人のうちで、英知に専念する者のみが暇のある人であり、このような者のみが生きていると言うべきである。P.42

七 偶然に生じたものはすべて安定を欠き、また高く上ったものほど落ち易いからである。P.49


 延促は一念に由り、寛窄(かんさく)はこれを寸心に係(か)く。故に機閒なる者は、一日も千古より遥かに、意広き者は、斗室も寛(ひろ)くして両間の若(ごと)し。

一 延促――伸び縮。時間の長短。二 寛窄――空間の広い狭い。三 機閒なる――心のはたらきが、ゆったりしている。 四 斗室――一斗ますほどの広さの室。 五 両間――天地の間。
『菜根譚』(岩波文庫)P.249


 時間については万人同じ課題であるようだ。

平成十八年六月十三日


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やぶから棒ー夏彦の写真コラムー 山本夏彦 新潮社


 可哀想な美空ひばり P.8~9

 美空ひばりは、最後の日本人のような気がする。なぜならばひばりは親孝行である。孝行は以前は「徳」だったが、今は徳ではない。いまどき孝行であるには、勇気に似たものが要る。

 その上ひばりは姉弟思いである。孝行のほうはまだ全く滅びはしないけれど、きょうだい思いのほうは滅びた。ひばりは弟たちを一人前にするつもりで、共に舞台に立ったがものにならなかった。それはまあ仕方がないが、弟はやくざ者と仲よくなって、何度も警察のご厄介になった。

 ひばりは弟をかばって、日本中を敵にまわした。口を「へ」の字にまげ、世間の非難に屈しなかった。ゆえにNHKまで『紅白』に出てもらいたくないような口ぶりなので、そんな処へはこっちから出ないと断った。全盛時代ならともかく、くだり坂の芸人の進退だから誰も驚かなかった。それでもなが年のよしみで、NHKは驚いたふりをした。

 もう一つ、ひばりとその母親は縁の下に大金をかくした。おかかえの運転手が堀りだして逃げたから、それは露見した。

 これでひばりが銀行を信じていないことがわかった。私たちの父祖が信じていなかったように信じていないことがわかった。

 美空ひばりは代表的な日本人である。そのしんがりをつとめる者である。それなら天下の同情が集まってもよさそうなのに集まらない。俗に「才あれど徳なし」というが、その徳において彼女は欠けるところがあるようなのである。

 かわいそうな美空ひばり!

*写真は、芸能生活三十三周年記念 特別公演の美空ひばり(昭和五十四年六、七月興行 東京・新宿コマ)


 頻(しきり)に無辜(ム コ)を殺傷し(「終戦ノ詔書」より)

 八月六日の原爆を、私は見た。広島で見たのではない。写真で見た。写真は当時の『科学朝日』が広島にかけつけて写したものである。

 アメリカ人は原爆の被害をかくそうと、草の根わけて写真を没収した。カメラマンは七年間ネガをかくして、没収をまぬかれた。

 ようやくわが国が独立した昭和二十七年夏、『アサヒグラフ』は全紙面をあげてその写真の特集をした。当時の編集長は飯沢匡である。

 私が見たのはその特集号である。それはまざまざと実物を写した。酸鼻をきわめるという、筆舌を絶するという。それは写真でなければ到底伝えられないものである。私は妻子に見られるのを恐れて、押入れ深くかくして、あたりをうかがった。いま三十半ばの友のひとりは小学生のとき偶然これを見て、覚えず嘔吐したという。

 原爆許すまじという。何という空虚な題目だろう。「原水禁」「原水協」以下は、アメリカの原爆はいけないが中国のならいい、いやソ連のならいいと争って二十年になる。

 原爆記念日を期して私はこの写真を千万枚億万枚複写して、世界中にばらまきたい。無数の航空機に満載して、いっせいに飛びたって同日同時刻、アメリカでヨーロッパでソ連で中国で、高く低く空からばらまきたい。

 アメリカ人は争って拾うだろう、顔色をかえるだろう、子供たちは吐くだろう。ソ連と中国では 拾ったものを罰しようとするだろう。罰しきれないほど、雨あられとばらまいてやる。

 今わが国は黒字国だとアメリカ人に非難されている。これに要する 費用は黒字べらしの一部にすると言えば、アメリカ人に否やはないだろう。このことを私は書くこと三度目だが、ほんとんど反響がない。これでも彼らがなお原爆の製造競争をやめないなら、それは承知でやめないのだから、それはそれで仕方がない。

*写真は、『アサヒグラフ』昭和二十七年八月六日号より


 人間は何をつくってきたか P.84~85より

 NHK教育テレビ特別番組「人間は何をつくってきたか」ーー夜八時から毎回一時間、連続六回のうち三回と半分を見た。

 人間はこれまで何をつくってきたかというのは永遠テーマで、私たちは小学校以来なじんみである。人はこれまで汽車を汽船を自動車を飛行機をつくった、スチーブンソンがフルトンがライトがつくったと、戦前の教科書も戦後の教科書も、まるで自分がつくったように自慢した。

 昔は夜は暗かったが今は明るい。昔は歩いて旅したが今は自動車で飛行機で旅する。昔は不便だったが今は便利だと教科書はいうから、しぜん子供は信じた。

 今回の特別番組はそのテレビ版で、全く同じ精神に貫かれている。私たちは自分の生まれた時代が、一番いい時代だと思わなければいられないよに教育されている。

 だから私たちは二千年前の墓を発掘して、なかに高い文化があるといって驚くのである。絹がある文字がある漆器がある竹牌がある。

 そんなもの、あるにきまっている。彫刻家平櫛田中翁は百七歳で死んだ、二千年は平櫛翁二十人分にすぎない。一弾指である。一弾指は二十瞬だという。

 二千年前はシナでは孔孟老荘、ギリシャではソクラテスプラトンの時代である。我らは彼らの知恵に加うるに何を持つというのであろう。

 だから新幹線がある自動車がある飛行機があるというのだろうが、むかし私たちは二本の足で一里を一時間で歩いた。今自動車で一里を五分で行くとすれば、今は昔に勝るか。自動車を独占してひとり五分で行けるなら勝るが、皆さん五分で行くのだから、歩いた昔と同じではないかと、私は旧著のなかで笑ったことがある。

 「人間は何をつくってきたか」は好評でさらに続編を制作する予定らしいが、それは「水爆をつくった」で結んで、被爆者のあの写真をならべるがいい。自動車や飛行機をつくった知恵の極にはこれがある。その知恵の末端の自動車を享楽して、先端の原水爆だけ許さないと叫んでも、それは出来ない相談である。自慢話の最期はこれでしめくくるがいい。

参考:蒸気機関を推進力とした船舶。1807年、フルトンが初めて実用化した。

 産業革命の重要な発明。蒸気機関を船舶の推進力にしようというアイデアは何人かが試みているが、その実用化に最初に成功したのがアメリカ人のフルトンだったので、彼が“蒸気船の発明者”とされている。この蒸気船はクーラモント(クレアモント)号とな付けられた、全長40m、150トンの外輪船で、ニューヨークとオルバニー間のハドソン川を時速4ノットで往復した。『世界史を読む辞典』朝日新聞社 p.575,722

 当初は蒸気力を補助的に使用する外輪船で、併せて帆走もできるものであったが、風に依存しなくとも進むことが出来るので、大きな進歩だった。蒸気船は急速に普及し、12年後の1819年には補助的ではあったが蒸気機関を積む船が大西洋を横断、1838年には大西洋横断の定期船も就航した。また蒸気船は軍艦にも利用されるようになり、帆船と併用されるようになった。


 汚職で国は滅びない P.86~87より

 リベートや賄賂というと、新聞はとんでもない悪事のように書くが、本気でそう思っているのかどうか分からない。

 リベートは商取引にはつきもので、悪事ではない。ただそれを貰う席にいないものは、いまいましいから悪く言うが、それは嫉妬であって正義ではない。だからといって恐れながらと上役に訴えて出るものがないのは、いつ自分にその席に坐る番が回ってくるかも知れないからで、故に利口者はリベートをひとり占めしない。いつも同役に少し分配して無事である。会社も気をつかって交替させ、同じ人物をいつまでもそこに置かない。我々貧乏人はみな正義で、金持と権力ある者は正義でないという論調は、金持でなく権力もない読者を常に喜ばすことができるから、新聞は昔から喜ばして今に至っている。これを迎合という。

 城山三郎著『男子の本懐』(新潮社)は、宰相浜口雄幸と蔵相井上準之助を、私事を忘れて国事に奔走した大丈夫と描いている。けれども二人は非業の死をとげる。

 当時の新聞は政財界を最下等の人間の集団だと書くこと今日のようだった。それをうのみにして、若者たちは政財界人を殺したのである。

 汚職や疑獄による搊失は、その反動として生じた青年将校の革新運動によるそれとくらべればものの数ではない。血盟団や青年将校たちの正義は、のちにわが国を滅ぼした。汚職は国を滅ぼさないが、正義は国を滅ぼすのである。

 今も新聞は政治家を人間のくずだと罵るが、我々は我々以上の国会も議員も持てない。政治家の低劣と腐敗は、我々の低劣と腐敗の反映だから、かれにつばするのはわれに唾することなのに、われはかれに勇んでつばすることをやめない。


谷沢永一著 『百言百話』明日への知恵 (中公新書)P.68~69

 汚職は国を滅ばさないが、正義は国を亡ぼすのである

          山本夏彦 『やぶから棒』          

 分析に徹した思考の論理を、さらに分析しようと試みてもほとんど不可能であるように、自他ともに許す天下第一等のコラムニストが、圧縮の極を示した文章に註釈の余地はないので、以下にほぼ全文を引用するしかない。

 ――「リベートや賄賂というと、新聞はとんでもない悪事のように書くが、本気でそう思っているのかどうか分からない。」

 リベートは商取引にはつきもので、悪事ではない。ただそれを貰う席にいないものは、いまいましいから悪く言うが、それは嫉妬であって正義ではない。だからといって恐れながらと上役に訴えて出るものがいないのは、いつ自分がその席に坐る番が回ってくるか知れないからで、故に利口者はリベートをひとり占めにしない。いつも同役に少し分配して無事である。会社も気をつかって交替させ、同じ人物をいつまでもそこに置かない。

 我々貧乏人はみな正直で、金持ちと権力ある者はみな正義でないという論調は、金持ちでもなく権力もない読者を常に喜ばす。タダで喜ばすことができるから、新聞は昔から喜ばして今に至っている。これを迎合という。

 城山三郎著『男子の本懐』は、宰相浜口雄幸(はまぐち おさち)と蔵相井上準之助を、私事を忘れて国事に奔走した大丈夫として描いている。けれども二人は共に非業の死をとげる。

 当時の新聞は政財界を最下等の集団だと書くこと今日のようだった。それをうのみにして、若者たちは政財界人を殺したのである。

 汚職や疑獄による損失は、その反動として生じた青年将校の革新運動によるそれとくらべればものの數ではない。血盟団や青年将校たちの正義はのちに我が国を滅ぼした。汚職は国を滅ばさないが、正義は国を亡ぼすのである。

 発行部数を誇る大新聞の長い長い歴史を有する「迎合」ぶりを、気張らず平静に真正面から批判するには、確信を持った遥かな見通しを要するものである。

藤原正彦さん、山本夏彦の発行する「室内」に連載していた。

参考1:濱口 雄幸(はまぐち おさち、1870年5月1日(明治3年4月1日)~1931年(昭和6年)8月26日)は、日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は勲一等。号は空谷。大蔵大臣(第29・30代)、内務大臣(第43代)、内閣総理大臣(第27代)、立憲民政党総裁などを歴任した。昭和5年(1930)東京駅で狙撃され重傷、翌年死亡。

参考2:井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、明治2年3月25日(1869年5月6日) - 昭和7年(1932年)2月9日)は、日本の政治家、財政家。日本銀行第9、11代総裁。山本、濱口、第2次若槻内閣で大蔵大臣に就任。貴族院議員。昭和7年(1932)血盟団に射殺された。


 現代のばか殿様「NHK」P.210~211より

 「私の紙面批評」「新聞を読んで」などと題して、このごろ新聞は新聞の批評を各界名士に書かせ、それをきまった日に掲載して新聞の良心だと自分も思い人にも思わせている。

 けれども私はそこに肺腑をえぐる字句を発見したためしがない。いま新聞を論じて痛切な言葉が吐けないとは信じられないことである。

 何故このことがあるかというと、各界名士は新聞に召集されて始めて名士だからである。いくら遠慮なく言えと言われても、キチガイじゃあるまいし金をもらって新聞に新聞の悪口を書くものはない。

 新聞と執筆者の仲は、殿様と家来の仲に似ている。たとい殿様が名君で腹蔵なく申せと命じても家来は言わない。生殺与奪の権をにぎっている主人に、忌憚なく言えるはずがない。それでも言えと迫るのは野暮で、小利口な家来なら殿は申しぶんない名君で、ただこの一点だけと言ってとるにたらぬ欠点をあげる。他の家来たちはへへーっと平伏してそれに賛意を表する。この迎合に立腹しないのが殿様なのである。

 こんなことを言うのは去る六月の第一日曜「NHKへの提言と期待」という番組を見たからである。名士の二、三が苦言を呈して、NHK会長がそれを拝聴するという番組である。はたして名士が忌憚なく言うふりをして、会長が耳を傾けるふりをした。それも五分や十分でなく日曜の夜九時三十五分から、えんえん十時二十分までやりとりが続いた。あまり長いのでしまいに会長は拝聴するふりするのを忘れてNHKの自慢話をはじめ、ついには値上げしたい口吻までもらした。

 新聞もNHKも共に現代の殿様だから、手下を集めて意見を徴するのである。それが茶番であることは第三者にはすぐ分かるのに、当人にはよしんばいくら利口でも分からないのである。


山本 夏彦(やまもと なつひこ、1915年6月15日 - 2002年10月23日)は、日本の随筆家、編集者。東京市下谷根岸出身。

平成29年6月27日


48

スルガ銀行指導精神


 日本の銀行は、明治六年に渋沢栄一が設立した『第一国立銀行』と明治九年設立の『私盟三井銀行』にはじまる。それから今日まで大小無数の銀行が生まれ、文字どおり「優勝劣敗」の原則を実証して、あるものは繁栄し、あるものは消えていった。

 ただ、これらすべての銀行に共通していたのは、いずれも「営利」を目的として設立されたことでらる。

 『第一国立銀行』は、三井、小野両富豪の出資により、資本金二百四十四万円でスタートしたが、「営利」を目的としないものだったら、両富豪も出資しなかっただろう。  

『私盟三井銀行』は資本金二百四万円で、わが国最初の私立銀行ということになるが、その淵源は天和三年(一六八三)創業の三井両替店にある。ゼニもうけを第一義としてスタートしたものだ。

『富士銀行』の前身『安田銀行』は、明治十三年資本金二十万円でスタートした。が、その母胎は、元治元年(一八六四)安田善次郎が江戸人形町に創業した小銭両替店安田屋にある。彼は二十歳のとき、「まず一千両の分限者になろう」と志して、越中富山から江戸にのぼっている。そして玩具屋に三年、海苔兼両替屋に三年奉公してためた五両をもとでに独立。五両では一軒の店がもてないので、小船町の四っ辻で戸板の上に小銭をならべて商売をはじめた。露店商人ではあるが「営利」が目的だったことに変わりはない。

『住友銀行』は明治二十八年資本金百万円、住友家家長住友吉左衛門を行主とする個人銀行として設立された。そのときの総理事は伊庭貞剛である。「重役がほんとうにイノチがけの判を押さねばならないのは、在職中たった二度か三度あるくらいのもの。五度あれば多すぎる。それ以外はメクラ判でさしつかえな」といった伊庭が、イノチがけで押した判の一結果であるとはいえ、住友家が天正年間から営んだ銅精錬の本業に付随せるものとして兼営するにいたった金融業にその淵源がある。無論、「営利」がその目的だった。

『三菱銀行』は、大正八年三菱合資会社の銀行部の業務を継承して、資本金五千万円で設立された。その三菱合資は明治二十六年に設立、資本金五百万円のうち、百万円をさいて銀行部を新設し、第百十九国立銀行の業務を継承した。が、そのそもそもは、明治九年岩崎弥太郎が為替局をつくって荷為替の貸付を行ない、十三年三菱為替店を開設して普通銀行業務を兼務したことに発している。すなわち、これもまた「営利」を目的とした。

ところが、これらの中でただ一行、まったく「営利」と関係なく、一青年の善意と指導精神によって生まれたのが『駿河銀行』であった。

「スルガ」というのはアイヌ語で「天国」を意味するものだというが、その駿河湾に面した沼津一帯は、気候温和、肥沃な耕地にめぐまれた土地だった。しかし、天災地変をまぬがれることはできない。明治十七年九月十五日の夜、この地方を大暴風雨がおそった。それは駿河と伊豆半島をなめて上陸し、愛鷹(あしたか)山と富士山にぶっかり、山梨県にぬけていったが、このため稲作の収穫はほとんどなく、農民たちは餓死寸前の状態に追いこまれた。翌年の春になると、食べるもののなくなった村人たちは、ぞろぞろと愛鷹山に登り、カシの実をひろったり、ワラビや野ネズミをうばいあって飢えをしのいだ。この村の窮乏を見て、自分一人安閑として学問をしている気になれないといって、学校をやめて郷里にもどった若者がいた。青野村の岡野家の跡とり息子喜太郎である。当時十八歳、韮山の師範学校の生徒だった。岡野家の先祖は武田信玄の部族で、武田氏滅亡後一族をひきいて青野に落ちのび、ここに土着した旧幕時代は代々な主(村長)をしていた旧家である。村のためにつくさねばならぬ、というリーダーシップは、血肉と化して継承されていた。

喜太郎は早朝から夜遅くまで働き、人びんとをはげましていったが、天災がいつくるかもしれないとおもうと心配でならい。凶作のためどうしたらよいのか、それには貯えが必要だが、貧乏村のことで、一人ではなかなか貯金はできない。そこで彼は、毎月十銭掛をやろう、と村人を説き、やがてつくったのが『共同社』(のちの『資蓄会』)だった。

 その規約の総則には「当社ハ有志者協議ノ上、共同一志ヲナシ、互ニ其業ヲ勉励シ、冗費ヲ省キ節倹ヲ実行シ、得ル処ノ金銭ヲ蓄積シ将来ニ目的ヲ立テントス」とある。すなわち「営利」とはまったく関係がなかったが、明治二十八年「銀行類似の業務」をやる以上銀行に改めるべきだろいう当局の意見で『根方銀行』(明治四十五年『駿河銀行』と改称)を設立することとなった。資本金一万円。喜太郎会長の年報七十円(月に約五円八十銭)、四人の取締役は年手当四円。二人の監査役は三円、オフィスは岡野家の茶部屋だった。

 このころ、三井銀行では総長三井高保が月給三百五十円、学校出たばかりの新米行員小林一三ですら十三円もらっていたこととくらべると、いかに小規模な、地味で質朴な存在だったかがわかる。けれども、仕事への打ち込み方は「一流」で、泡沫のように消えていった数百の同業者の中で生き残り、なお流々と発展したのである。1990年スルガ銀行と表示変更。

 ところで、沼津の我入道(がにゅうどう)から、作家芹沢光治良が出ている。昭和四十五年五月、その海岸に「芹沢文学館」が建ったが、これは三代目喜一郎によるものだった。芹沢は中学を出たあと、小学校の代用教員をしたことがある。そのころ、駿河銀行本店前を毎日通っていたが、何の関係もなかった。それが偶然にも、昭和三十四年『ロワールとイタリヤの旅』という旅行記に心を打たれた。著者の経歴をきいてみると、沼津中学の後輩で、駿河銀行の重役であった。『文ヲ以テ友ニ会ス』で、一冊の著書が二人を結びつけたのは縁だろう。恐らく芹沢さんだって、文学と無関係の一実業家からの申し出だったら、文学館設立のOKを与えはしなかっただろう(『財界』昭和四十五年七月一日)と伊藤肇は書いている。

 また、『日経ビジネス』四十五年七月号には、「アフリカのケニヤで、緑茶の開発輸入のための合弁事業がうぶ声をあげようとしている。キリマンジャロをあおぐ観光ロッジの計画も進行中だ。この計画の推進役は駿河銀行。世界をまたにかけ、現地政府と話をまとめては、地元企業にあっ旋する海外進出の水先案内だ。それは地場産業の情報機関、オルガナイザーたらんとする地方銀行の新しい姿である」という記事が出ている。

 駿河銀行で刊行した『東海道棟方板画』には、「江戸時代から幕末にかけ、さらに明治、大正、昭和と幾多の人生と歴史の駆けすぎていった東海道こそ本行の永代蔵であります」ということばがあるが、その駿河路に芽生えた一人の若者の善意と指導精神は昭和の今日「芹沢文学」に、そして遠く遥かなアフリカの原野にまで拡がっていったわけである。

 その若者は、昭和四十四年六月まで長生きして、青野の自邸で眠るような大往生を遂げた。享年百一歳。

*児島直紀著『伝記にみる 風貌姿勢』(竹井出版)P.284~288より

★岡野喜太郎(おかの・きたろう)略歴(プロフィール)1864年~1965年(元治元年~昭和40年)現・スルガ銀行創業者。静岡県生まれ。豆陽中学師範科中退。1887年、貯蓄組合共同社設立。1895年、根方銀行を設立し頭取に就任。1912年、駿河銀行(現・スルガ銀行)頭取。93歳で長男に頭取の座を譲り渡して会長に退くまで銀行頭取在位62年間の大レコード記録をつくる。101歳で没。

参考1: [山を歩いて美術館へ] 越前岳からビュフェ美術館・井上文学館/ビュフェ"

参考2:駿河銀行研修所の「三学三樹の教え」です。

平成29年6月30日


49

パール・バック(1892~1973)「母よ嘆くなかれ」


 「母よ嘆くなかれ」は、こんな具合に書き出されている。

 「私は、この物語を書こうと決心するまでにはずい分長い間かかりました。これはうそ偽りのない本当にあったことなのです。そして、そのためにこれは話しにくいことなのであります。今朝、およそ一時間ほど冬枯れの森を散歩して帰ったあとで、私は、とうとうこの話を書くべき時が来たと決心しました・・・・・」

 パール・バックが書くことをためらっていたのは、彼女が知的障害児の母だったからだ。

 パール・バックにとっては、自分が知的障害者の母になるなど、およそありえないことだったのである。父方の家系には言語学や文学の部門で業績を上げた有名人がいたし、母方の家系も高い教養を持ったものばかりだったのだ。

 私の家族はみんな馬鹿げたことや、ぐずぐずしたことを黙って見ていられない性質でした。しかも私は、自分たちより鈊感な人に対して我慢出来ないという、私の家族の癖をすっかり身につけておりました。そこへ自分でもわけのわからない欠陥をもって生れた娘を授けられたのです。

 このような子供を授けられるということは、本当に残酷で不正であるとさえ私には思えたことがありました。

 自らの家系に誇りを持っていた彼女は、最初、我が子の障害をなかなか認めようとしなかった。娘はパール・バックが若さの絶頂にあるときに中国で生まれ、見るからに利発そうな赤ん坊だったからである。顔かたちがハッキリして、珍しいほど美しくもあった。生後一ヶ月の赤ん坊をバスケットに入れて船のサンデッキにいたら、デッキを散歩していた乗客たちは立ち止まって皆ほめてくれた。

 「綺麗な子だな。こんな綺麗な子は、めったにいない」

 「あの深みのある青い目をごらんよ。本当に利口そうだわ」

 パール・バックは、娘が3歳になっても話すことの出来ないことや、娘の注意力がほんの一瞬しか続かないこと、身軽に歩き回る動作に目的がないこと、青く澄んだ目の深みにうつろな影のあることなどを見て、ようやく一抹の不安を感じ始め、そして娘が四歳になってから、ついに子供が知的障害児であることを認めざるを得なくなったのである。

 娘に障害のあることが判明してから、こういう子供を持った親だけが知っている終わりのない悲しい旅がはじまった。パール・バックはアメリカに戻り、どこかに自分の子供を治してくれる人がいるに違いないと探し始めた。持てる時間と金のすべてをささげて、アメリカだけでなく世界中を歩き回る旅をはじめたのである。

 彼女は娘を連れて各地の病院をめぐり、評判のいい個人医があればその門を叩いた。効果のある治療をしてくれた医者は一人もいなかったが、医師たちは最後に言い合わせたように、「望みがないわけではないですよ」と慰めてくれる。それでパール・バックは勇気を出して、改めて娘を連れて次の病院に向かうのだった。

 パール・バック母子の終わりなき旅は、ミネソタ州のメイヨー・クリニック病院で終止符が打たれた。この病院で娘は多種多様の検査を受け、最後に小児科長の部屋で診断結果を知らされた

 日はすでに暮れ、院内の関係者はほとんど引き上げ、巨大な建物は静かで虚ろな感じがした。小さな娘は疲れ切ってパール・バックに頭をもたせかけながら、静かに泣き始めていた。

 「何故でしょうか」とパール・バックは、これまで数え切れないほどしてきた質問を小児科長に投げかけた。

 「わかりません」

 「望みはないでしょうか」

 「いえ、あきらめずに色々やってみるつもりです」

 母子は小児科長の部屋を出て、ガランとしたホールの方へ歩いていった。ある部屋を通り過ぎようとしたとき、室内から出てきた見覚えのある小児科医に呼び止められた。

 相手は、目立たない感じの、言葉のアクセントから見てドイツ人の医師だった。

 医師は尋ねた。「科長は何といいましたか」

 「あの方は、駄目だとはおっしゃいませんでした」

 すると相手は強い口調でいった。

 奥さんに申し上げますが、お子さんは決して正常にはなりません。ご自身を欺くことはおやめなさい。貴女が真理を受け入れなければ、貴女は生命をすりへらし、家族は乞食になるばかりです。

 お子さんは決してよくならないでしょう。お子さんは、よくても4才程度以上には成長しないでしょぅ。

 奥さん、準備をなさい。お子さんが幸福に暮せるところをお探しなさい。そして其処にお子さん置いて、貴女はご自分の生活をなさい。私は貴女のために本当のことを申し上げているのです

 なも知れぬドイツ人医師の言葉は、パール・バックの全身を刺し貫き、まるで手術で患部を切開するようだった。彼女は悪夢から覚めたような気がした。医師の手際は鮮やかで、しかも迅速だった。

 パール・バックは娘を連れて中国に帰り、次にアメリカに戻ったときには、病院巡りを打ち切って、娘を入所させる施設探しに取りかかるのである。障害者を持つ親の心配は、自分が死んだ後、誰が子供の面倒を見てくれるかということである。子供が生を終えるまで、責任を持って預かってくれる施設を探すのは容易なことではなかったが、彼女は何とかそれに成功している。

 パール・バックは、障害児を持った悲しみをいかに克したかについても、率直に書いている。彼女は娘の死を願っていたことまで告白するのである。

 もし、私の子供が死んでくれたらどのくらいいいかわからないと、私は心の中で何べんも叫んだことがありました。

 このような経験のない人たちには、これはおそるべき考えに聞こえるに違いありません。しかし同じ経験を知っている人たちには、おそらくこれは何も衝撃を与えるようなことには響かないと私は思うのです。

 私は娘に死が訪れるのを喜んで迎えたでありましょうし、今でもやけりその気持に変りはありません。というのは、もしそうなれば、私の子供は永遠に安全であるからです。

   2                           

 知的障害の子供を持った母親が、名医を求めて果てしない旅を続ける話を以前にも読んだことがある。その母親が病院を立ち去ろうとしたら、病院関係者らしい見知らぬ女性が、「こんな事をいつまで続けるつもりですか。ご自分の人生を台無しにしてはいけませんよ」と耳元に囁いて去っていったというのである。

 これは恐らくパール・バックの「母よ嘆くなかれ」から換骨奪胎したエピソードなのかもしれない。回復の見込みのない家族の世話をして一生を終える者がいたとしたら、それは水に溺れているものを救おうとして相手に抱きつかれ、一緒に溺死する救助者のようなものではなかろうか。人間には、自分の一生を思い、どこかで決断を下さなければならない時があるのである。

 パール・バックは、「障害者を抱えている親には、克服しなければならない問題が二つある」という。一つは、自分が死んでからも、子供が生きて行ける道を講じておいてやらなければならないことであり、もう一つは、「そのような子供を持った悲しみにどうやって耐えて行くか」という問題に取り組むことだという。

 癒すことの出来ない悲しみにとりつかれると、以前に喜びを与えてくれた風景とか花とか音楽がすべて空虚に感じられ始める。娘が障害を持っていると知ってからは、パール・バックは音楽を聴くことも出来なくなった。

 彼女は普段通りに暮らし、来客にも会い、自分の義務を果たしていた。だが、客が帰ると彼女の全身を悲しみが包み、彼女は泣くしかなかった。すると、娘は泣いている母親をじっと見つめ、それから笑いだすのだった。

 「私が、世の中の人々を、避けることの出来ない悲しみを知っている人と知らない人たちとの二種類に分けることを知ったのは、この頃のことでした。悲しみには和らげることの出来る悲しみと、和らげることの出来ない悲しみしみという根本的に違った二つの種類があるからです」

 人の前では平静を装うことをしているうちに、彼女は他者と「誠の交わり」を経験することが出来なくなった。友人たちは彼女の表面的な明るさについて行けないものを感じるようになったのだ。友人たちは、パール・バックのなかに何か浅薄なものを感じ取っただけでなく、彼女に人間としての冷たを感じ、それに反発するようになったのである。

 そんなパール・バックが蘇生したのは、あるがままの事実を受容するようになったからだった。この悲しみは死ぬまで自分から離れることはないし、また、誰も自分を助けることが出来ない──そう悟った瞬間に、彼女はこれが自分の運命なのだ、自分はそれを生きて行くしかないと覚悟したのだった。

 彼女が悲しみとともに生きて行くことを覚悟したときに、悲哀克服の第二段階が始まった。彼女は、悲しさのなかにあっても、楽しみを求めることは可能であり、積極的に楽しみを求めるべきだと考えるようになったのである。

 すると、娘が軽蔑されたり、いやがられたりしない施設で、彼女と同じレベルの仲間と暮らすようにしてやらなければという積極的な気持ちが湧いてきた。パール・バックは自分の悲しみの中に浸っていることをやめ、娘のことを第一に考えるようになったのだ。

 彼女は、率直に書いている。

 「私が自分を中心にものごとを考えたり、したりしているかぎり人生は私にとって耐えられないものでありました。そして、私がその中心をほんの少しでも自分自身から外せることが出来るようになった時、悲しみはたとえ容易に耐えられるものではないにしても、耐えられる可能性のあるものだということを理解出来るようになったのでありました」

 パール・バックは、それまで娘が世の中に出ても苦労しないようにと、少しずつ文字を教えていた。やがて娘は易しい文章なら読めるようになり、努力すれば自分の名前を書けるようになった。

 パール・バックが娘に文字を書く練習をさせているときだった。

 「私は偶然、娘の手をとって字を書かせようと、私の手を彼女の手にかさねたことがありました。彼女の手は、なんと汗でびっしょりぬれていたのです。私はその両手を取って、それを開いて見ました。両手ともびっしょりとぬれていたではありませんか。その時、私は、子供が自分自身では何もわからないことに一生懸命になって、私を喜ばせようとする天使のような気持から、ただ母親のために非常に緊張しながら字を書くことを覚えようとしていたことを知ったのです」

 この可憐な魂に無理をさせてはならないと、パール・バックは考えた。娘に出来もしないことをさせて一体何の益があるだろうか。娘も一人の人間であり、幸福になる権利を持っている。娘にとっての幸福とは、与えられた能力のままで生活するということなのだ。

 パール・バックの娘が一番好きなのは音楽を聴くことだった。彼女は流行の歌を嫌い、クラシック音楽なら何時間でもレコードに聴き入っていた。交響曲を聴いていると、彼女の口元に微笑が浮かび、その目は遙か彼方を見つめて恍惚の世界に入っていた。

 娘は、大好きなクラシックを聴きながら生きて行けばいいのである。パール・バックは、あるがままの娘をそのまま受け入れ、それ以上期待しないことを心に誓った。

 (わが国のノーベル文学賞作家大江健三郎にも、知的障害を持つ息子がいて、彼もまた音楽に非凡な才能を示している)

 パール・バックは娘が9歳になったときに、彼女自身が慎重に選んだ施設に娘を入れている。この時、娘は小さな腕を母親の首に回して離れようとしなかった。パール・バックはそういう娘を引き剥がし、後を振り向きもせずに帰途についた。

 彼女は施設の保母が娘をしっかり抱き留めていてくれることを感じながら、(振り返ってはならない、振り返ってはならない)と自分に言い聞かせて施設を出て行った。

 パール・バックは、「あれから何年もたち、今では定期的に家に帰ってくる娘は一週間もすると施設に帰りたがるようになった」と書いている。

 パール・バックの長い戦いは終わったのである。彼女はこの体験記を、次のような文章で終わりにしている。

 「私たちは喜びからと同じようにまた悲しみからも、健康からと同じようにまた病気からも、長所からと同じようにまた短所からも・・・・・おそらくはその方がより多くのことを学び得られるのです。人の魂は十分に満たされた状態から最高度の域に達することは滅多になく、逆に奪われれば奪われるほど伸びて行くものです。もちろんこれは、幸福より悲しみが、健康より病気が、そして富裕より貧困がよいというのではありません」

 ──「母よ嘆くなかれ」を読んで不満を感じるのは、叙述の中に具体的な地名や人名などが省略されていることだ。彼女は何故中国で暮らしていたのか、夫は何の職業で、どんな人物なのか、娘の名前はなんというのか、それら一切が記されていない。そのため、ある種のもどかしさが残るのである。

 私は、日本人女性では神谷美恵子に興味があって少し調べてみたことがあるが、アメリカ人女性に興味を持ったことはなかった。しかし、パール・バックについてはもう少し知りたいと思っている。

   3

 アメリカ人を見ていて感じることは、彼らが実によく食うことである。鯨飲馬食という言葉があるけれども、彼らは大量のビフテキや肉料理をぺろりと平らげ、ビールやウイスキーを水のようにぐいぐい飲んで、見るからに強靱な肉体を作り上げている。こういう食い方、飲み方を先祖代々続けてきたのだから、彼らの肩幅は広く胸板は厚くなるのも何の不思議もない。

 UFCという総合格闘技の団体では、ローマ帝国時代のコロセウムを小型化したような金網でかこんだ舞台装置を作り、この中で世界中から集めてきた男たちに殴る・蹴る・押さえ込む、何でもありの流血の格闘技で競わせている。WOWOWは定期的にこれを中継しているが、たまに出場する日本人選手をアメリカ人選手と比較すると、その体格、体質の差には暗然とせざるを得ないのだ。

 これがボクシングだったら、ボクサーの技術がものをいうから日本人でも彼らと対等に闘うことができる。だが、総合格闘技となると、体力勝負が基本で、日本人に勝ち目がなくなる。我々は、ただアメリカ人のバイタリティーに感嘆するしかなくなるのである。

 さて、アメリカ人のバイタリティーに感嘆するのは、総合格闘技の男たちに対してばかりではない。アメリカ女の知的格闘力に対しても、嘆声を発しないではいられないのだ。パール・バックやアグネス・スメドレーの伝記を読めば、誰でも既成観念に挑み、これをねじ伏せようとする彼女らのすさまじいばかりのバイタリティーに驚き呆れるのである。

 ―――パール・バックの最初の戦いは、父親に対するものだった。

 彼女の父親は、1880年(明治13年)に中国の杭州に上陸してから、1931年(昭和6年)に南京で亡くなるまで、50年間を中国でキリスト教宣教師として活動している。この父を子供の頃に英雄のように崇拝していたパール・バックは、成長するにつれて父を批判的な目で眺めるようになるのだ。

 父のアブサロムには、苦い思い出がある。6、7歳頃、母が隣家の婦人と立ち話しているのを聞いていたら、隣家の女は彼を指さし、こういって母を慰めていたのである。

 「あの子はとても醜い子だけれど、どこの家にも出来搊ないが一人はいるものよ」

 アブサロムは歯を食いしばって考えた。そういえば、母はほかの7人の兄弟ほどには自分を可愛がってくれない。

 アブサロムは、自分が魅力のない子で、家族から愛されていないという劣等感を埋めるために、何か人とは違った英雄的な生涯を送らねばならないと考えるようになった。

 それが、中国に渡って異教徒を救うことだったのである。

 彼の意識の底にあるのは、中国人に対する優越感だった。自分はアメリカでは魅力に乏しい人間かもしれない。だが、中国に行けば高級な文明国から来て民衆を救う救世主になれるのだ。

 パールの父を含む宣教師たちが、いわれのない優越感をもって中国人に臨むときに、中国人の方でも宣教師への反感から、いろいろなデマを飛ばしていた。宣教師は豚を崇拝しているとか、奴隷を探しに中国へやって来たとか、精力剤にするために中国人の子供の目玉をえぐり出して食べているとか・・・・・。

 こんな状態だったから、アブサロムの努力にもかかわらず、成果はほとんどあがらなかった。彼だけではない。当時、中国には千人以上の宣教師が派遣されていたが、彼らが獲得した信者は一万人弱にすぎなかった。宣教師一人あたり、僅かに10人を改宗させただけだったのである。

 父に対するパール・バックの批判は、そのいわれのない民族的な優越感に対してだけではなかった。父は聖書の記述を文字通りに解釈し、進化理論に反対してこれを「邪化」理論と呼んでいた。彼はまた、教会が福祉活動に参加することにも強硬に反対していた。父は、旧派キリスト教的信念を片意地に守り、キリスト教の新しい潮流を理解できないでいたのだ。

 宣教師仲間の間で孤立しつつあった父は、家族の間でも孤立していた。

 母親のケアリーは信仰心が厚く、海外布教を自分の使命と感じて夫と共に中国に渡ったのだが、結核を病んでいて病弱だった。そのために彼女自身マラリアや赤痢にかかり、生まれて来た子供も長男を除いて三人が相次いで死ぬという不幸に見舞われていた。パール・バックは、この夭折した三人の子供の後に生まれた女児だったのである。

 理想に燃えて中国にやってきたケアリーも、夫が自分に冷淡なばかりでなく子供の死に対しても感情を動かそうとしないのを見て、次第に夫を憎むようになった。彼女は、子供たちが死んだのは中国のせいであり、そして中国に自分を連れてきた夫のせいだと考えるようになった。そして、その思考はさらに発展してすべての不幸はキリスト教信仰に由来するとまで考えるようになったのだった。

 だが、父親のアブサロムは、いい気なものだった。妻のケアリーが苦しんでいるのをよそ目に、妻も自分と同様にこの結婚に満足していると思いこんでいた。パール・バックは、母親の絶望を地中深くに埋め込んだまま、奇妙に静まりかえった家庭で少女期を過ごし一人前の女性になっていった。彼女は次第に、自分よりも聡明な女性を我慢ならないと感じる家父長的な父を憎むようになった。

 「パール・バック伝」の著者ピーター・コンは、この頃のパールについてこう書いている。

 「夫に対するケアリーの拒絶感は、長くゆっくりと流れる海外の生活で絶え間なく増大し続け、パールの母への同情からくる父への嫌悪感もそれに応じて日増しに強くなっていった」

 中国にある女子ミッションスクールを卒業したパール・バックは、アメリカの大学に進学したいと考えるようになった。母との別れを思うと気が重くなったが、息が詰まるような父の影から一刻も速く逃げ出したいという気持ちが強くなったのである。かくてパール・バックは、アメリカのバージニア州にあるランドルフ・メイコン女子大学に入学することになる。

 四年間の女子大での生活は順調といってよかった。パールは、二年次にはクラスの会計係、三年次には級長に選ばれ、最後には大学代表という大役を仰せつかっている。そして大学を卒業したとき、心理学の教授から勧められて助手になった。これは学者としての将来を約束されたに等しいものだったが、このとき彼女は父親から帰宅を促す手紙を受け取るのである。母親のケアリーが消化器系の熱病にかかって危険だというのである。

 パール・バックは大学での将来を放棄して中国に戻り、以後三年間母の看病をして過ごしている。そして、農業学者の男性と結婚するが、この結婚も知的障害児のキャロルを二人の間に残して破綻するのだ。彼女がノーベル文学賞を受賞するのは、まだ先の話になる。

(つづく)

   4

 「パール・バック伝」(ピーター・コン)は浩瀚な本だが、パール・バックの最初の結婚相手ロッシング・バックについての記述は漠然としている。彼が中国に渡ったのはボランティアとしてだったと書いているかと思うと、次のような意味不明の記述があったりするのだ。

 「(彼は)聖職者ではなかったが、農業宣教師として指名されるよう外国使節団の長老教会委員会に応募した」

 ロッシングはコーネル大学で農業経済学の学位を取ってから、中国農業について研究したいと願っていた。彼が長老教会に接近したのは、中国に渡る伝手を得るためだったらしい。幸い彼は教団から採用され、中国の宿州に派遣されて農業指導をすることになったが、気持ちは中国農業の研究にあり、キリスト教の布教にはあまり関心がなかった。中国に滞在する欧米人の多くは、夏になると避暑のために廬山に滞在する。ロッシングも欧米人の例にならって廬山に滞在しているうちに、同じく避暑に来ていたパールと知り合って恋に落ちる。パールも、ロッシングに夢中になり、アメリカにいる親友にこんな手紙を書いている。

 「日ごとに幸せになるの。ロッシングは全女性の憧れの男性よ。私を絶対幸せにしてくれるわ。彼ったら、もうめちゃめちゃ善良で、素晴らしくって、純なんだから」

 パールは両親の反対を押し切ってロッシングと結婚する。新婚時代の彼女は、幸福な日々を満喫していた。

 ロッシングは調査に戻り、パールは彼の報告書をタイブしたり、彼の目が疲れている時には代わりに読んであげたり、時々通訳をしたりして彼を助けた。1917年9月ロッシソグの両親宛にタイブされた手紙の中で、パールは自分のタイプミスを謝りながらこう述べている。

 「もっと練習が必要です。というのは、ロッシソグのタイピストとして、彼が書かねばならない多くの手紙を助けるために十分に熟練したいからです」

 ランドルフ・メイコン女子大を優等で卒業後、三年経ってもまだ、バールは自分を夫の手助けという不平等なパートナーシップの中で、喜んで従者として甘んじょうと考えていた。(「パール・バック伝」ピーター・コン)

 だが、彼女は次第に結婚相手に失望するようになる。理由は、夫が女性を男より一段低いものと見て、結婚した女は家事に専念していればそれで十分だと考えていたからだった。

 「(パールは)自分が実際に結婚した相手は、自分の最も基本的な要求を抑えつける男だと知った。ロッシングは、明らかに結婚相手の女性に、ごく因習的な期待しか持っていなかった。例えば、教授の妻、無報酬の通訳、研究助手、そして時が来れば母親といった役割に彼女が満足するものと思っていた(「パール・バック伝」)」

 ロッシングは、やがて南京大学の教授に就任する。が、パールの目から見ると彼は父親のアブサロムにそっくりだった。父が伝道に熱中して家庭を顧みなかったように、夫は学究的な生活に没頭して家のことには全く無関心だった。そして父が妻は現状に満足していると信じ切っていたように、夫もパールが教授の妻という立場に満足しているものと思いこんでいた。

 パールは、夫が近眼で眼鏡をかけていることまで父に似ていると思い、そのことで腹を立てた。彼女は父の独善的な説教や布教活動に何の敬意も払っていなかったが、今や夫が中国人に教える西洋式農法をも同じような軽侮の目で見るようになっていた。彼女は、夫の仕事をこういって辛辣に批評している。

 「ところで、しばしば、秘かに疑問に思っていた事ですが、四千年ものあいだ、同じ土地で肥料と潅漑を最も効果的に利用して、今なお近代的な機械類なしに驚くべき生産を上げている中国の農民たちに向かって、アメリカの若僧が一体何を教えることが出来るんでしょうか」

 「パール・バック伝」の著者は、夫に対するパールの不満の根底には性的な欲求不満があると暗示している。ロッシングが研究にかまけてパールの性的要求を無視していたことが、彼への敵意を生んでいるというのである。

 二人の夫婦生活が淡泊だったためか、パールが一人娘のキャロルを生んだのは、結婚後三年のことだった。「母よ、嘆くなかれ」には、触れていないけれども、パールは分娩数週間後に子宮に腫瘊のあることが発見され、アメリカに帰国して摘出手術を受けている。このため、彼女はもう子供を産めない体になってしまった。

 「母よ、嘆くことなかれ」が触れていないことを、もう一つあげるなら、彼女はキャロルの知恵遅れが判明してから、生後三ヶ月の女児をもらってキャロルの妹にしている。パールはキャロルを施設に預けるまで、この二人を姉妹として育てている。その後、彼女はさらに6人の子供たちを養子にして我が家に引き取り、彼らが独立するまで実の子供のように養育している。

 パールのこうした行動に彼女の欲望の強さをかいま見ることが出来る。彼女はひとたび性の世界を知ると、これを徹底的に味わいたくて夫に夜のサービスを求めた。そして子供が生まれ、これを育てることに喜びを知ると、7人もの子供を引き取って養子にしている。彼女は、何事についてもほかの女性の数ばいの欲求を持ち、それを完全に充足させなければ気が済まなかったのである。

 キャロルの生まれた翌年に、母のケアリーが亡くなっている。ケアリーも激しい女だった。彼女は難病にかかって亡くなるのだが、病床では音楽のレコードを聴くことを好んだ。けれども、事情を知らないものが、「主の元にやすみ給え」という賛美歌のレコードをかけると、怒って、「やめて」と叫んだ。

 「私は待ったんですよ。でも、無駄骨でした」

 彼女は、いよいよ死が迫っても夫の訪問を許さなかった。

 「行ってあなたの異教徒を救いなさい」

 パール・バックは、母の生涯を「母の肖像」という本にまとめて出版している。愛する母を失い、心の通じ合わない夫と暮らしているうちに、彼女は執筆への衝動を覚えるようになる。それに差別的な扱いを受けている中国の女性のために、何かいわねばならないという義務感も強くなっていた。

 当時の中国では、実に多くの女性が、夫や親類の女性たちの酷い仕打ちのために自殺していたのだ。パール自身、口汚い姑によって自殺未遂に追い込まれた若い女性を見たことがある。その女性は首を吊ったが、息絶える前に発見されて床に引き下ろされた。パールがその女性の家に着いた時、彼女はまだかすかに息をしていた。

 ところが、横たえられたその女性は耳や鼻を塞がれ、さらに口に猿ぐつわをはめられて息ができないようにされていたのだ。

 パールは、これでは窒息してしまうから猿ぐつわを外すように嘆願した。しかし彼女は人々から拒絶され、その女性が殺されつつあるのを知りながら、その場から立ち去らなければならなかった。

 人々が縊死しようとした女性の口をふさいだのは、女性の息がほとんど身体から出てしまったので、女性の中にまだ残っている息を閉じ込めておくためだったのである。

 パールは、この事件を手紙で家族に知らせた後で、こう付け加えている。

 これらの人々の無知や迷信には全く際限がありません

 こうした体験に接するたびに、パールは虐げられている女性のために何かを書かねばならないという気持ちを強くしたのだった。

   5

 パール・バックが「東の風、西の風」と題する小説を初めて出版したのは、娘のキャロルを施設に預けた翌年のことだった。手のかかる娘の世話から解放されて、執筆の時間がとれるようになったことのほかに、彼女が著作活動に乗りだしたのには二つの背景があったと思われる。

 その第一は、この頃にパールが徐志摩という中国の詩人と恋愛関係に入っていることで、徐志摩はその数年後に、飛行機事故で死亡しているけれども、彼の存在がパールの創作欲を刺激したことは疑いないところだ。

 もう一つは、家計をロッシングに握られ、パールの自由になる金がほとんどなかったことだろう。ロッシングは知恵遅れの娘のために金を使うことを無意味だと考え、自分の調査研究のために一家の生活費までつぎ込んでいた。南京大学の英文学講師をしていたパールにも収入があったが、彼女はその全額を夫に渡し、そこから改めて家計費をもらっていたのである。

 「東の風、西の風」の出版は、最初、非常に難航した。中国で暮らしているパールは、本を出してくれる出版社をアメリカ在住の代理人に依頼して探さなければならなかった。が、ニューヨークじゅうの出版社から断られ、最後にジョン・デイ社がやっと引き受けてくれたのだった。

 ジョン・デイ社の社長リチャド・ウオルシュは、「東の風、西の」に続いてパールの次回作「大地」を出版してくれた。そして、これが大当たりして、パールが一躍人気作家になると、彼はパールのマネージャー役を務めることになる。マスコミ各社の招請に応じて、パールが夫のロッシングと共に、アメリカにやってくることになったからだ。

 パールは米国への旅仕度をするとき、これが人々の目に勝利の凱旋のように見えるのではないかと心配していた。彼女はプライバシーを守るのに必死だったのである。彼女は旅程を秘密にし、住所や電話番号も隠し、インタビューや正式な社交行事は断ってほしいとリチャード・ウォルシュや他の関係者に念を押している。彼女は変装して旅をしようかと考えたほどだった。それも、レポーター達に娘のキャロルのことを詮索され、質問攻めにあうことを恐れていたからだった。

 リチャード・ウォルシュは喜んで彼女に協力した。「大地」の著者が、あまり業績のあがらないでいた彼の出版社を建て直してくれたからだ。彼はパールの訪米を宣伝に最大限利用したいと思っていたが、彼女の隠密に行動したいという希望を優先することにした。リチャードは、ロッシングとパール夫妻が秘密裏に七月に到着できるようにはからっってやり、パールへの郵便物を振り分け、どの招待を受けるべきかアドバイスしてやった。

 とにかくリチャードの最大の仕事は、この国で一番人気のある作家になった女性を群がるレポーター達から隠すことだった。パールのマスコミ嫌いは、結局良い結果をもたらした。リチャードは賢明にも、パールのよそよそしい態度にはある種の魅力があり、ジャーナリストの食指をそそることを見抜いたのだ。彼女は謎の人物となり、「パール・バック」は実在しないかもしれないといった憶測まで出始めた。

 以来、リチャードはパールにとってかけがえのない存在になった。彼は彼女の編集者であり出版者であったが、たちまちマネージャー兼代弁者になり、彼女の社交界との繋がりを管理する渉外係になった。彼は彼女の才能を崇拝し、彼女は彼の正確な判断に信頼を置いた。彼らは共通の興味をもち、ジャーナリストとしての成功を分かちあった。

 リチャードとロッシングは、違っていた。それは、いわばニューヨーク生まれの教養ある洗練された男と、ユーモアのセンスが全くない技術屋との違いだった。リチャードとパールは、その後数カ月間、ほとんど毎日のように一緒に過ごした。リチャード・ウオルシュはこの時42歳、妻と三人の子供を養っている所帯持ちだった。リチャードとパールは、数年後、それぞれの配偶者と離婚した上で、結婚する。

 パールが離婚したいと申し入れたとき、ロッシングは承知し、周囲に感想を苦々しげに語っている。

 「覚悟は出来ていた。私は成り行きを見守っていたが、彼らの振る舞いはかなり図々しいものだった。だが、それに異議を唱えるなんて馬鹿げている」

 リチャードは結婚後30年間、パールの著作のすべてを出版し、米国文学史上、最も成功した「著者と出版者のおしどりチーム」と称された。「大地」をはじめ、パールの主要作品はリチャードの助言と激励によって生まれている。

 「大地」はアメリカ国内だけでなく世界中で飛ぶように売れ、パールのふところに予想以上の額の印税収入が流れ込むようになった。

 パールの収入はキャロルを一生世話できるはどになった。四万ドルの小切手をヴアインランド・トレーニング・スクール(特殊学校)に寄付したので、キャロルは、ここで一生面倒を見てもらえることになった。

 パールは、キャンパス内に、二階建ての、キッチン、バスルーム、幾つかの寝室付きの離れを建てさせた。玄関には素敵なポーチ、裏には歩いて遊べるプールも備えた。「キャロルのコテージ」として知られるこの家には、パールの娘キャロルと同年代の少女数人を住まわせた。

 (キャロルは、一九九二年九月に七二歳で死亡するまで、ここで過ごした)キャロルは音楽が大好きだったので、コテージには蓄音機とレコードのコレクションが備えられた(「パール・バック伝」)。パールは、リチャードと結婚後、ニューヨークの私宅のほかにグリーンヒルズ農場にも屋敷を構え、この両方を行ったり来たりするようになる。そのどちらにいるときにも彼女は午前中を必ず執筆時間に当ててペンを走らせていた。

 彼女は最初の本を出版してから死ぬまでの43年間に70冊以上の小説を書いている。そのほかに、「母の肖像」「母よ、嘆くなかれ」などのノンフィクションや、時論集、エッセーなどを公刊していて、これを単純に年ごとに割り振れば一年に二冊以上の本を出版していることになる。その作家としての多産ぶりは、全く驚くほどだった。

 このほか新聞雑誌への寄稿も多く、講演会の依頼も後を絶たなかった。こうしてパール・バックはアメリカで最も有名な、最も影響力のある女性の一人になっていった。この影響力を生かしてパールは、平等社会実現のために生涯にわたって獅子奮迅の活動をする。ピーター・コンの著した「パール・バック伝」の半分以上は、彼女のこうした活動を紹介することにあてられている。

 パールがリチャードと再婚してから二年後に、日中戦争が始まった。米国民は、当初、日本軍の中国侵略に無関心でいたが、パールの熱心な活動によって徐々に中国支援の世論がたかまり、蒋介石夫人がアメリカ議会に乗り込んできて流暢な英語で日本攻撃の演説をすると、中国を助けろという声は米国の隅々にまで行き渡った。蒋介石夫人は熱狂的な人気を集めて、アメリカ民衆のアイドルになった(しかし、パール・バックも米国大統領夫人エリノア・ルーズベルトも、派手好みの蒋介石夫人を嫌っていた)。

 その頃の中国では、国民党と共産党が協力して抗日戦線を展開しながらも、内部で激しく主導権争いをしていた。中国にいて、この両党の争いを観察し来たパールは、今でこそ国民党は圧倒的に優勢で政権を握っているけれども、腐敗している国民党は、やがて共産党に取って代わられるだろうと予測していた。彼女は中国支援のために各方面からのカンパを集めながら、歯に衣着せぬ言い方で国民党を率いる蒋介石を非難していた。

 事情はパールの盟友アグネス・スメドレーにしても同じだった。彼女はインドの民衆と共にイギリスの椊民地支配と闘うためにインドに渡ったが、やがて中国の抗日戦争に協力するため中国にやってきて国民党の腐敗を見て絶望したのだった。それで彼女は国民党と敵対する中国共産党のシンパになり、毛沢東や朱徳と行動を共にするようになる。

 パールは、中国支援を続けながらアメリカ国内の社会問題にも積極的に発言している。 黒人にも白人と同等の権利を与えようとする公民権運動をはじめとして、産児制限運動を進めるサンガー女史と提携しての男女同権運動など、あらゆる社会的不平等に対して果敢な戦いをつづけた。

 彼女は常に公正だった。日中戦争をはじめた日本、そして真珠湾攻撃を行った日本を厳しく糾弾しながら、アメリカ政府が日系アメリカ人を収容所に押し込めると、攻撃の矢を政府に向けた。日系アメリカ人を収容所に入れるなら、ドイツ系アメリカ人をどうして放置しておくのだという論点からだった。

 戦争が終わると、パールは反核運動に挺身する。そして原爆でケロイドの顔になったヒロシマの少女たちをアメリカに呼び寄せて整形手術をしてやっている。さらに彼女は、日本・韓国などの女性に米兵が生ませた混血児の救済に乗りだし、「ウエルカム・ハウス」を設立している。

 パールの社会事業が成功した理由は、これらの事業にまず自分自身で多額の寄付をしておいて、米国大統領を始め各界の有力者に面会して協力を求め、一般市民に対しても自ら電話したり手紙を書いたりして説得を続けたからだった。

 アメリがベトナム戦争を始めた時にもパールは反対して、この戦争に米国は敗北するだろうと予言している。彼女は国内の右翼からは「反米主義者」として攻撃されたし、為政者にとっても核兵器反対を唱える彼女は目の上の瘤のような存在だった。FBI長官のフーバーはパールを憎み、彼女に関する数千ページに及ぶ秘密調査書を作成したといわれている。

 こういう彼女にも、別の面があった。夫のリチャードが死亡すると、奔放な老いらくの恋に突き進んだのである。

   6

 夫のリチャードが心臓発作に襲われたとき、パールは60歳になっていた。最初は軽いと思われていたリチャードの心臓病は悪化するばかりで、7年の長い闘病の後に彼は椊物人間になっていた。

 パールは夫を看護する傍ら、小説を書き、ウエルカム・ハウス始め多くの社会事業を行っていたから、寸暇もなかったはずだった。だが、彼女はタッド・ダニールスキーというポーランド生まれの若者と浮きなを流している。タッドはテレビ局に勤め、パールの作品をドラマ化しているうちに、この高名なノーベル文学賞作家パール・バックと親しくなり、彼女と共同でドラマを合作するかと思えば、二人でテレビ映画会社を発足させるなど、日々関係を深めていったのである。

 二人は食事・観劇・旅行を共にするだけでなく、長期に及ぶヨーロッパ旅行、アジア旅行でも寝食を共にしたから、その濃密な関係は当然ゴシップのネタになった。だが、彼らの関係は、リチャードが亡くなり、パールに新しい恋人が出現すると同時に終わっている。

 タッドの次にパール・バックの恋人になったのは、ハーバード大学の哲学部教授を引退したアーネスト・ホッキングだった。彼は90歳の老人だった。一方、パールも夫を亡くしたばかりの67歳の老未亡人だから、二人の関係は絵に描いたような「老いらくの恋」だったのである。彼らが初めて知り合ったのは、30年ほど昔のことだった。当時、中国の南京で暮らしていたパールは、アーネストが宣教師の活動状況を調べる調査団長になって中国やってきたときに顔を合わせ、互いに強くひかれあったのだ。

 アーネストは、パールが夫を失ったことを知ると、妻が死んだときの自らの心境を綴ったエッセー「生と死について」を彼女に送り届けた。二人は、これが機縁になって文通するようになる。手紙の往復は次第に頻繁になり、やがて彼らは互いを恋人として意識するようになった。

*ピター・コンの「パール・バック伝」によると、パールはこんな手紙を老哲学者に宛てて書いているという。

 「・・・・あなたのやさしさは、私をとても幸せにし、とてもありがたく思っています。お互いが、同じ様に愛し合っていることを知ることほど幸せなことはありません。私は貴方を愛しています。日夜、私が貴方だけを愛していることを忘れないで下さい」

 別の手紙の追伸に、パールはこう書いた。

 「もし、この手紙が、ラブレターかのごとく聞こえたら、本当に、これは私のラブレターなのです」

 パールは、何回かアーネストの家に泊まったことがあった。そのたびに彼らは二人だけで数週間を過ごした。ふたりは、暖炉の前に座り、お互いに手を握りしめたまま、一日中黄昏になるまで、愛情をこめて語り合った。そして、ふたりはベッドを共にした。

 パールは、彼女の秘書のひとりに、小説「愛になにを求めるか」は、彼女の自叙伝だと語った。この小説の主人公、エディスという女は、エドウィンという老哲学者を、彼のニューイングランドにある自宅にたずね、夕食後、ふたりは全裸になって、明け方まで、しっかり抱き合っているのである。

 パールとアーネストの「老いらくの恋」は、パールの人生の空白期に訪れたのだった。夫リチャードを失い、ポーランド人の若者タッド・ダニーレスキーとの不和が日増しに悪化し、パールが人恋しさに耐えられなくなったときの恋だったのである。男勝りに見える彼女の心には、日々の伴侶を求める女らしい渇望があったのである。

 アーネストは、世評を気にするパールの警戒心を取り除くことに努め、彼の死が訪れるまでの三年間、男と女の自由奔放な私生活を楽しんだ。ふたりの自伝小説「愛になにを求めるか」は、彼がこの世を去ってから数年後に発表された。

 ―――パール・バックは、「人間はすべて平等であるべきだ」という信念に従って公正に生きた。彼女の予言が常に的中したのは、公正な目で世界を見ていたからだった。

 そして、その目は実は彼女が否定していた父親から受け継いだものだったのである。

 パールの皮肉な見方によれば、半世紀に及ぶ父親の活動は彼自身のみを幸福にしただけで周囲の誰をも幸福にしなかったのだが、そういうパールは父の献身的な伝道活動を見て、人はどのように社会と関わるべきかを教えられていたのである。ただし、父の守旧的・独善的な言動はパールにとって反面教師の役割をも果たしていたのだが。

 父の持っている二つの面は、アメリカ社会自体の持つプラス面とマイナス面を体現したものだった。アメリカの建国精神が何かといえば、愚直なほど素朴な民主主義と合理主義だった。にもかかわらず、そこへ旧派キリスト教の独善と盲信が入り込んで当初の建国精神をスポイルさせていた。パールは父を批判していたときの両面作戦をここでも活用して、開拓時代の原初的民主主義を擁護しながら、その後のアメリカ国民の世俗的独善的社会意識を非難するという両面作戦に出たのである。

 パールの行動に狂いが見え始めたのは、彼女の前にダンス教師テオドール・ハリス(愛称テッド)が出現してからだった。彼は最初、ポールの養女たちにダンスを教えるために招かれたのだが、そのうちにパールもレッスンを受けたいといいだしたため、テッドはパール家に日参してパール家の備品の一つになってしまったのである。

 テッドは、お世辞たらたらの山師だった。テッドは、パールから著作をプレゼントされた時、大仰にこう言って感謝した。

 「私は、これらの本を生涯の最高の宝として、永遠に大事にしていくつもりです」

 テッドのこうしたやり口を見て、パールの周辺にいる近親者はテッドを、裕福で孤独な老婆を利用するご都合主義の山師だと思った。しかしテッドは、パールの関心と寵愛を一身に集めた。

 パールは彼の同伴を喜び、彼の温かい賛同に鼓舞され、周囲がなんと言おうと彼を全面的に支持し弁護した。そして彼女は、「テッドは、抜け目ないビジネスマンで、かつ素晴らしいパートナーです」と言い張り、彼を財団の幹部に登用しようとしたのだ。金持ちのビジネスマンで「ウエルカム・ハウス」の前会長カーミット・フィッシャーは、テッドのお世辞たらたらのへつらいにムカムカしたが、パールの方は、テッドが彼女に惜しみなく浴びせる称讃を楽しみ喜んでいた。

 自宅であろうが、旅行先であろうが、テッドがいつも必ず彼女の脇にいるようになった。彼は、彼女のためにすべての手配をした。彼女の契約の交渉、電話の取り次ぎ、食事の注文、車の中でも、飛行機の中でも、常に彼女の直ぐ隣に座っていた。彼女は実質上、テッドと呼ばれる袋に包み込まれて生きることになり、外の世界が見えなくなった。

 パールは、テッドの目を意識して厚化粧をするようになり、高価な宝石で身を飾りはじめた。そして経営問題に無知なテッドを「パールバック財団」の支配人に任命してしまった。直ぐに、この地位を利用してデッドがよからぬことをしているという噂が乱れ飛ぶようになった。テッドは韓国から財団に連れてきた幼い混血児数人にイタズラをしているとか、自動車販売業者が財団に貸し出していたキャデラックを売り払ってしまったとか、テッドはパールの荷物のなかに麻薬を忍び込ませているとか。

 パールは薄々テッドが彼女を食い物にしていることを承知している。が、もはや彼女は金で買える伴侶を手放すことが出来るほど若くないことを知っているので、テッドを放任しているのだろう―――これが周囲の見方だった。

 やがて、パールは血迷ったとしかいえない遺言状を書くことになる。

 パールは、彼女の七五歳の誕生日を目前に、グリーン・ヒルズ農場を含めて、彼女の全資産を、「パール・バック財団」に遺贈することを発表した。彼女の新しい遺書には、「遺産の一部分を私の子供たちに譲るほかは、私の死後、印税収入は全て私の財団へ行くべし」と指示している。彼女の推定によれば、七百万ドルを財団とその事業のために与えるととになりそうである。

 米亜混血児たちを除けは、新しい遺産配分案の主要な受益者は、テッドであった。彼は年間四万五千ドルという、途方もなく多額の俸給を受け取ることになる。(パールは、テッドが財団に留まるか否かにかかわらず、一生、そのような報酬を受け取れる、と遺書の中で述べている)つまり、パールは母親としての義務を放棄し、自分の養子や養女の遺産相続権を、事実上破棄させてしまった(「パール・バック伝」)。

 パールが80歳で肺ガンのため死亡したとき、テッドは葬式には現れなかった。彼は遺産相続を巡ってパール家から訴訟を起こされ、裁判所から、「故人の遺言を無効にする」という敗訴宣告を受けていたのである。「インタネット」による。  


 ほんとうに中国で生活できるのは、ある種類の人間だけ。それは、本当の意味のわかる人。世界をよりよくしたいと思うだけでなく、よりよくできると信じる人。そしてそれが行われないと憤る人。世界にのこされたわずかないい場所の一つに、自分だけかくれようとしない人――ねばりづよい人だ。(郷土)

 貧乏人があまり貧乏になりすぎ、金持ちが金持ちになりすぎると、貧乏人はどうすればいいかをしっている。

この日(6月26日)アメリカに生れた文学者。少女時代からほとんど中国でくらし、中国の現実を〚大地〛(ノーベル文学賞受賞)『郷土』などに描いた、ヒューマニスト。

*桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.105

平成29年8月08日


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松野宗純『人生は雨の日の托鉢』(PHP)1991年6月28日 第一刷発行

 「余生」ではない後半生を生きる

 「宗純さんは、なぜ余生を禅の道にもとめたのでしょう」「その動機は何ですか」、あるいは「素晴らしい第二の人生ですね」などと、これまで私は多くの人々から質問を受け、かつ好奇の目で見られてきました。しかし、私は「余生」(余った人生)を仏道に捧げたのではありません。私はただいま精一杯に、この生命(いのち)「生」を生きているつもりです。この世に生を受けたのち、実業界の第一線を退くまでの六十年間が、現在のための準備期間、「余生」だったさえ思っています。                             

 余生という文字を、いろいろあてはめてみると大変味わい深いことがわかります。

 たとえば、余生は「預生」とも書けます。                             

 私はいま、仏法の大海に身を投じ修行しております。私の命は、大宇宙、仏様から預かったものです。ですから、これまで仏様からいただいたご恩に、少しでも利子をつけてお返ししたいと心に決めています。それがみなさまのお役に少しでも立てるのなら、それほど嬉しいことはありません。

 また、余生は「生」にもなります。

 人は自分の意志でこの世に生を受けるわけではありません。生命は宇宙から与えられます。与えられた命を、同様に自らの意志で阻止できない「死」が訪れるまで、精一杯に燃焼させなくてはならないでしょう。余生を「誉生」と考えることもできます。

 それは他人から栄誉を与えられようと欲することではありません。立派な晩節をけがす姿を見るにつけ、自分で自分を誇れる人生を最後まで生きたいと決意しています。

 余生を「余った人生」と考えずに、このように考えれば、実りある後半生が開けてくるのではないでしょうか。

 肉体が年齢とともに老いるのは、命あるものの摂理です。しかし、心まで老いさせる必要はありません。心が熱く燃えているかぎり、その人の青春は終わることがありません。

 齢(よわい)六十歳も越えれば、人生の半分は過ぎ、戻り道にさしかかっています。しかし、行と帰り道には、それぞれの風情があるはずです。東京から大阪へ向かう時に見える富士と大阪から東京へ戻る時に見る富士とは、同じ富士でも趣が異なります。

 過ぎた日を懐古し、感傷にふけることも時には味わいがありますが、いまのいまに全精力を傾注し、前向きに歩く方が生の充実を手にできるはずです。

 帰り道が無味乾燥で単調とはかぎりません。「与生」を精一杯、熱く若々しく生き抜きたいものです。P.16~17


 人生は雨の日の托鉢に似て

 「観世音、南無仏、與物有因、與仏有縁‥‥‥」

 「延命十句観音経」を唱えながら、修行僧は町中を一軒一軒托鉢をして歩きます。毎月八日、二十八日は托鉢の日ですが、その日が近づくといつも天候が気になります。

 雨の日は冷たい。十一月半ばともなれば寒さも身にしみます。では六月ごろならいいかといえば、合羽を着るので体中に汗をかき、不快極まりありません。こうした春秋のつらい経験から、「雨の托鉢はかなわない」という思いがあります。

 しかし、いくらじたばたしても、どうにもならないのが天候です。雨の日の托鉢は、自分の計らいではどうにもならない世界があるという当然の事実を、改めて実感させてくれます。

 とはいえ、雨の托鉢は、私にとっては三つの選択が可能です。

 第一に、「雨だから托鉢に行くのはやめよう。年も取っているし、健康にも自信がないから」。しかし、それでは何のために、はるばる金沢の大乗寺まで修行に来ているのか、自分で紊得がいきません。

 第二の選択は、「みんなが行くのだからついて行く」という消極的な態度です。そして、最後の選択は「どうせ行くのだから、雨でも頑張って行こう」という積極的な意志に変えることです。

 積極的な気持ちで托鉢に行くと、「いやだ」「つらい」と思っていた以前の托鉢とは、全く違ったものが見えてくるから不思議です。たとえば、桜の散った後の新緑が美しいことは言うまでもないことですが、雨に打たれた緑の美しさが、感動的なほど生き生きとしていることを始めてこの目で知りました。

 また、町を行くとおばあさんが、われわれに「ご苦労さん」とねぎらいの声をかけてくれます。ところが、雨の日に言われる「ご苦労さん」は、同じねぎらいの言葉でも、わが身にズシンと響いてきます。

 托鉢を終えてお寺に戻ると、韋駄天さんの前で、「無事托鉢を終えました」と、お礼の般若心経を雲水(修行僧)一同が読みます。このお礼のお経も、雨の日の方が素晴らしい感激を味わうことができるのです。

 私もそろそろ六十三歳ですが、十一月の雨の寒さの中でも托鉢をやれるという自信と、逆境の中でもやり遂げたという感激は、電気のように体中を走り抜けます。晴天の托鉢を何千回何万回もやろうと、雨の托鉢の感激と厳しさを実感することはできないでしょう。ことは人生も同じです。平常時にどんなにうまくいっていても、一たび逆境に陥った時、果してどうでしょうか。

 天候は自分で選択することはできません。人生の環境も、自分ではどうにもならないことが多いものです。人の一生はそうした運命の連続だといえるかもしれません。自らどうにでもできない運命のいたずらに、左右され苦しみます。しかし、人生の真の価値は逆境を逆手に取り、負けずに生き抜くことです。

 あたり前と言えば当たり前ですが、置かれた環境の中で最善を尽くし、自分を完全燃焼させることが、できることのすべてではないでしょうか。

 しかし、これがなかなか凡人には難しい。

 雨の日の托鉢を終え、確かな充足を味わいながら、人生の晴雨にんついてそんなことを考えていました。P.52~54


 東司掃除から学ぶ

 十月一日から始まる冬期の安居(あんご)に首座(しゅそ)に命じられました。安居というのは、修行僧が僧堂に定住し、一切の外出もせずに修行に専心することで、夏期と冬期のそれぞれ百日間が当てられる厳しい修行期間です。首座は修行僧の第一座として修行の先頭にたつ役割を与えられています。修行僧にとってこの任にめいぜられることは光栄ではありますが、反面責任も大きくなります。

 安居の期間、首座は振鈴(しんれい)、東司当番(便所掃除)、粥座(しゅくざ)(朝食)および斉座(さいざ)維那(いな、いのう)の役(食事の儀式の進行役)、作務(さむ)太鼓係、法戦(ほつせん)式などなどの役目を果たさなければなりません。早朝四時二十分から暁天坐禅が開始され、続いて朝の読経が始まります。これが終わると直ちに作務衣(作業衣)に着替え、寺内外の清掃を開始する合図の太鼓を打ち、それから東司にかけつけます。

 東司の掃除はブラシに洗剤をつけて便器をゴシゴシ洗い、さらに一つ一つ丁寧に雑巾で拭きます。それから祭られている東司の烏芻沙摩明王(うすさまみようおう)に線香を立て、一日の無事を祈ります。東司当番は重要な仕事ですが、正直言ってあまり愉しいものではありません。これが十五週間毎日毎日つづきます。

 汚れていない東司掃除の方が抵抗が少ないのはいうまでもありませんが、一週間、二週間と掃除を続けていくと、段々と心境に変化が起きてきます。そのうち、汚れていない東司を清掃しても、どこか心が満たされないのに気づきます。むしろ汚れた便所を清掃する方が、後で爽快感を覚えるのです。

 そしてさらに三、四週間が過ぎると、今度は東司が汚れていようといまいとどちらでもよくなり、清掃そのものに意義を感じるようになります。掃除した後の真っ白に光った磁器製の便器に、何とも言いようのない愛着が湧いてくるのです。

 自分がした仕事の成果で、同僚の修行僧や参禅する人々が気持ち良く便所を使えるのだと思うと、やりがいでいっぱいになります。「家では少しも手伝わないのに」と苦笑する妻の顔が浮かんできます。

 そうこうするうちに、ビジネスマン生活が長かったせいか、効率を考えるようになります。どのような手順で清掃すれば最も短時間でできるか。さらに余った時間を担当以外の仕事に振り向けることができるかどうかーー。無心に仕事をしようと念じながらも、いろいろな想念がよぎっていくのです。

 道元禅師の師で第五十五祖天童如浄禅師大悟の因縁話が浮かんできました。如浄禅師が師の雪寶(せつちょう)禅師に浄頭(じょうとう)の役(東司掃除の役)を申し出た時、雪寶禅師は、「浄頭になるのはよいが何を清めるというのか。東司とはきれいなものだが、それをさらにきれいにしようというのか。返事ができたら浄頭の役を与えよう」と言われました。

 ――師は汚い東司を何故きれいだと言われたのか? きれいなものなら何故毎日掃除をしているのか?

 師の言葉に、その時如浄禅師は答えられませんでした。

 それから長い間参究に参究を重ね、ある日はたと悟りました。

 「不染汚(ふぜんな)のところを打す。きれいな所をきれいに掃除するのです」

 普通は、便所は汚い所で汚れやすいから掃除をするのだと考えます。

 しかしよくよく考えてみれば、元来便所はきれいとか汚いとかいう概念を超えた場所です。人間にとって最低限一日何回かは必要な場所ですから、きれいも汚いもないもないのです。

 したがって、汚いきれいにかかわらず、毎日毎日心を込めて掃除をすることこそが真の道なのです。そこには仏法があり、仏道修行があるのではないでしょうか。私は如浄禅師の大悟の話を念頭に浮かべながら、安居の期間、毎日便器をゴシゴシ洗っております。P.84~86

平成29年8月11日


51

『日本人とドイツ人』篠田雄次郎(光文社)昭和52年11月20日 初版1刷発行
猫背の文化と胸を張る文化


まえがき

 日本人はドイツに行くと、他のどの国に行くよりも歓迎されるとよく言われる。また日本に来たドイツ人は、日本はほんとうに居心地がいいと口にする。

 日本人とドイツ人ほど、互いに好意を寄せあっている国民はないだろう。それは単に、ともに手をつなぎ、世界を敵にまわして第二次大戦を戦った仲というだけはではなく、類(たぐ)いなく勤勉な国民性を認めあっているからだと思う。

 国際会議で外貨残高がありすぎるといって日本が非難されるときも、「いっしょうけんめい働いて金を蓄めるのがどうして悪いのか」と、ドイツは擁護してくれる。勤勉の意味を知っているドイツだからこそ言えることである。

 また、だからこそ、日本人とドイツ人はやっぱりたいへん似ているという意見が出てくるのだろう。しかし、腰を落ち着けてよく観察すると、それは、真相の半分しか語っていないとわかるに違いない。

 たとえば町の中で信号待ちなどをしているときのドイツ人を見るといい。彼らはほとんどといっていいくらい顔を動かさない。日本人は横目でキョロキョロ、顔を右に左にむけてキョロキョロと、じつに機敏だが、ドイツ人は横目を使わず、顔を左右にむけることもない。横を見るときには、体ごとぐるりとむけて、おもむろに見るのである。

 こうした日本人とドイツ人の外見からの印象、それは見事に考え方のちがいをあらわしているといっていい。

 頑固さと剛直性の同居しているドイツ人に対して、われわれ日本人には機敏で、器用で、柔軟なところがある。

 この本の中で私は、原則と例外ということについて日独の考え方を書いたが、日本人には原則的に処理しれたりされたりするのをたいへん嫌うところがある。原則論をもち出すと、「頭が固い、もっと柔軟な姿勢があってもいいじゃないか。」と思うのがそれである。

 だから当然のように、例外的に扱われるのが好きである。例外という言葉は、日本人の中では「格別」ということと、ほとんで変わらない「あなたの場合は例外なので。」とか、「これは例外なのですが、いいでしょう。この際認めましょう。」などと言われると、うれしくなってしまうのである。

 これに対しドイツでは、例外を認めないからからこそ原則は維持できるのだという厳とした考え方をとる。

 安息の日の日曜に洗濯をしたり芝刈りを したりするのはいけないのがドイツの生活で、それを知らないよその国の人間がやろうものなら、どこかで誰かが見ていて、ドアを叩いて注意に来る。「いや、明日から出かけるので、今日中にすませておこうと思いまして。」なんて言い訳をしても、まるでとりあってくれない。

*アメリカN.J.州、フォート・リーでのこと、冬庭に雪が積もって、そのままにしておくと、必ず「雪かきをしろ」と注意されるという。

 原則をかたくなまでに重んじるドイツ的「剛構造」と、まるで例外ばかりで成り立っている日本の「柔構造」とのおもしろい相違である。

 私が日本の文化を猫背の文化と考え、ドイツのそれが胸を張る文化(書名の副題)だと見るのも、じつはそこに理由があるわけだ。

 「似て非なる」という言葉があるが、似ていると言われる日本人とドイツ人の間には、その他にも、大きな違いがある。たとえば教育である。ドイツでは普通教育と職業教育の専門分化が早くおこなわれる体系になっている。だから、専門家がよく育つ。もちろん、職業教育の課程に進んでも、徒弟(レーリンク)から職人(ゲゼレ)になって親方(マイスター)の資格をとれば大学卒と変わらない給料がとれるという保証がしっかりある。

 これとは逆に日本の教育は、早くから専門を分かれさせずに、いろいろな方面に進める可能性を後々までのばすという、「つぶしのきく」人材養成に力がおかれているといえるだろう。ドイツの専門家教育に対して、専門予備軍の層で対抗していることになる。

 日本には世界でいちばんたくさん平均値的頭脳を持った人間がいるけれど、世界で最高級の頭脳の人間はほとんどいないと皮肉られるのは、そのあたりの事情を語っているわけだ。

 また、よく、ドイツの機械や道具は優秀だと言われるが、それはドイツ人がぶ器用なところからきている。ぶ器用なドイツ人は、だれもが機械や道具を上手に使うことができない。そのために、機械・道具は不備が許せない。たとえぶ器用なでも使いこなせるようにと、完全なもの、完璧なものが作られてきたのである。

 日本人は全体に器用な人間が多いから、機械や器具に多少の使いにくさ、欠陥があっても、その持前の手先の器用さでカバーしてしまう。したがって機械や器具には、どうしても甘い点がある。

 日本人やフランス人だったらカンでかたづけてしまうようなときも、ドイツ人は一歩一歩論理を重ね、埋められない淵に来るとそこで止まって進まないところがある。ドイツ人の論文に推論や推測がみられないのはそのためで、だから邪馬台国論争のような旺盛な空想力の作業は学者より作家の才能にまかせてしまえという思考なのである。

 このように、私はこの本の中で日本とドイツのすべてについて、会社の論理、軍隊の論理、技術の論理、家の論理、社会の論理、教育の論理の六つの角度から書いてみた。

 ドイツを考えることはすなわち日本を考えることだろう。その発想の落差、角度の違いを見つめれば見つめるほど、私たちの生活は何なのか、人間が暮らすとはどういうことなのかを想わずにいられない。


休暇の心理学

 1989年7月末から8月、アメリカに旅行した、私ども夫婦と長男(留学でニューヨークにいた)夫婦がレストランで夕食をとることになり、市内のフランス料理店に予約の電話をいれた。

 バカンスで休業していますとの返事。他の店にあたると幸いにも開店している店があった。

 かねがね、ヨーロッパ・アメリカの人たちが長い日数の休暇で、保養地でバカンスを楽しんでいることを日本人の一人として羨ましくおもっていた。

▼たまたま、その解答と思える文章の一つに出会った

 篠田雄次郎『日本人とドイツ人』(1997年)P.33

休暇の心理学

年次有給休暇は、勤続年限によって二週間から三週間は中断なくとらなければならないのがドイツ方式だ。しかもこれは法律により定められている。中断があれば年次有給休暇とは認められない。こんな法律は、日本人だって大歓迎だ。そのうえ、トップは四週間はとるのがふつうで、だから下は遠慮することはない。休暇は6月下旬に、通常は最北のシュレスヴィヒ・ホルスタイン州から始まり、州ごとにだんだん南下する。学校の夏休みもそれに従う。

 どれほど重要な仕事があっても、この場合休暇を優先する。人間あっての仕事です、という思想で、交通ストのたびに泊まりこみまでさせらる、なんてことは考えられない。だいたい交通機関はストをしない。

 この休暇意識は、しかし、日本の会社員とどうにも違うところがある。それは「休暇をとる」のと、「休暇をもらう」の差である。

 日本では、かりに、のっぴきならない冠婚葬祭でもできて、三日ぐらいの休暇を申告したとしよう。このとき、上役がすんなり許可してくれたら、サラリーマンなら誰でもが、「やれ、よかった。」という気持ちに、もう一つつきまとって離れないものに気づくはずでである。「俺がいなくても仕事にさしさわりはないのだな。」という失望だ。

 このひきとめられてみたいという願望が消えない限り、労働とまったく質の違った時間、休暇のとり方は日本では変質しないだろう。

休暇が州ごとのスライド制になっているのは出勤時間と同じ発想で、自動車でイタリアやスぺインに行くので、道路が混雑するからと、避暑地や保養地が満杯にならないように考えている。いちどきにワッと集まって、夏季特別料金といった平常の二ばいのホテル代と、泣く泣く出費させられるようなまずいことも、これで心配ない。

 これが社会全体のルールになっていれば、それで運用はうまくゆく。このあたりの日独の差は、しかし、ドイツではそれがシステムになっているの、日本では個人の「心意気」にかかっていることである。そこで、日本ではその心意気に訴える、「頑張れ」という激励の言葉ができる。ドイツでは、「うまくやれ」というぎ技術的なはげましである。

▼年次有給休暇の制度として、なるほど合理的な方法であると理解できる。しかし、ある人たちはバカンスに使い、あるものはそれぞれの計画をこなすに使えることでしょう。

▼日本でもこの休暇がある。勤務年数によってその年間の日数は決まっている。しかし、平均的に利用日数も少なくて、バラバラに使っている。

▼職階の上の人ほどとっていないから、下の者はなんとなく使用することがすくない。連続して一~二週間もとれば、自分の職務を同僚に負担をかけるというような心理が働いてくる。

▼日本では正月・五月の連休・お盆休みが連続している。そして全国民が一斉に休日になり移動するから交通機関(自動車・新幹線・航空機など)は大変混雑・渋滞しているうえに宿泊費も高くなっている。

 それぞれの国の事情によって違うものだと知ることができたことが収穫であった。

平成二十五年十一月七日


専門家と専門予備軍

大器晩成型と早成型

 一口に言ってドイツの学校は学歴のためでなく、修業のためにある。どこの学校を出たかではなく、何を勉強したかが重視される。たとえば実務知識の必要な銀行では、金融論をやった大学卒よりも、高卒者を入れて、信用業務、証券業務、外為業務を三年みっちり仕込んだほうが使いものになるから、学歴を重んじない。州により違いはあるが、ドイツ人の進学のだいたいのパターンをお目にかけよう。

 まず六歳で基礎学校(グルントシューレ)に入り、十歳で卒業する。そこで将来の方針をきめ、成績のよいものは、大学進学を志して九年制中学高校のギムナジュムに入る。

 さもなければ、六年制の実科学校(レアルシューレ)か、五年制の主要学校(ハウプトシューレ)に進む。ただし実科学校で成績がよければ、五年もしくは六年を終了してからギムナジュムに転入できるので、一度入ったらそれまでという形ではない。

 十五歳で主要学校をすませると、三年の職業学校に入る。この職業学校は定時制で、昼間は企業の養成学校で実務を、夜間は学校で理論を修得することになる。

 こうして職業学校を出ると、専門学校に入校できるし、成績のよい生徒は、定時制ギムナジュム(コレーク)に行って、大学入学資格試験を受けることができる。

 詳しく言えば、主要学校を了(お)えると、企業に入って養成工(レールリンク:Rērurinku?)または実習生となり、同時に定時制の職業教育訓練所にある学校に四年通うことができる。ここから高卒資格検定試験準備コースをとって大学に行くこともできるから、養成課程で、急に「よし、やってみよう。」と、勉学の志を立てたものには、それなrぃの道が開かれている。

 十五歳から自分の向き、不向きに応じて実技を身につけさせるドイツ方式と、文科系に行こうが理科系に進もうが、微分積分から古文まで、満遍なくやらせすぎる日本の教育との差は、このあたりがいちばん大きいところだ。

 要するに、誰もが、小学校、中学校、高等学校、大学、というルートを画一的にたどるのでなく、はじめは成績が悪くても十七、八歳ぐらいで才能を伸ばせば、大学に行けるという、個性とその伸びぐあいに合った制度が展開されているところに注目していただきたい。

 ドイツ語では、教育を「エルツィーウング」という。「エル」は日本語と同じ「得る」で、ツィーウングの原形「ツィーエン」とは「引く」こと。つまり、「才能を引き出す」ことなのだ。これは元来、ギリシャ古代の概念「エンテルカレカイア」から来ている。

 種はみな同じように見える。だけども、松の種と杉の種は違う。松は「松なりに」伸び、広がり、根を張り、杉は「杉なりに」育っていく。それぞれの種は秘められたものの本性を生かして高く、広く成長して、松は松としての美しさの頂点に近づき、杉は杉としての美しさの頂点に近づいていくが、この成長の極致をエンテレカイアというのである。

 人間の成長の速度は各様で、早成型もあれば晩成型もある。そこを見分けて、個性を伸ばすのが教育であるのはいうまでもないだろう。早成型が悩むのは、やる気をなくすからであろう。けれどドイツシステムでは、半年に一回の試験で、よくできるものは一クラス追い越して進級させている。これに対して日本のは、コンヴォイ・システムというべきだろう。

 コンヴォイとは輸送船団のことだが、輸送船団は、二十八ノットの船団をたくさん仕立てても、その中に八ノットの船が一隻でもあれば、その速度に船速を落とさざるをえない。できないものの水準に落ち着けたら、できるものはやる気を失う。

 ベルトコンヴェアの作業の最大の欠点は、そこにある。速度は、できないものに合わせてあるから、できるものは、コンヴェアの横に座っていらだつしかない。

*私が体験したのは、できる生徒が「数学のK先生は教える速度が遅すぎる。いやになるので、先生に速度を速めてくださるように、言ってください」とのことであった。

 反対に、晩成型の苦しみは、早成型と同じ型にはめられる点にある。ところがドイツシステムでは、ギムナジュムに行っても、「自分は追いつけない。」「高校卒業試験はあぶない。」と思ったら、いつで主要学校に移れる。

 それでは、大学進学はあきらめるのかというと、そうではない。その後に工業専門学校に入って、「グート」(優)の成績をとれば、高卒試験(大学受験資格)がなくても大学に進学できる。

 ドイツ型教育体系の特色はそればかりではない。まったく別系統の私立学校が異なる制度で教育するのを許しているのもその一つである。

 さらに、学校に通わないものも認めているからびっくりする。現に私の同窓生で、小、中、高校のどこもでていない女子学生がいた。有名な貴族の娘で、経済的にそれが許されたという事情はあるけれど、両親は、それぞれの科目に家庭教師をつけて、「公立学校の教育よりこちらのほうが優れている。」と、主張したのである。なんとその申請は認められ、しかも、彼女は大学ン入学資格試験をスムーズに通って、大学に入ってしまった。

 学校教育とは、「みなが生き生きと生きてゆける社会」を作る準備をするものだろう。学校という形にこだわらず、力をつけ、才能さえ引き出せれば、教育の目的は達せられるという精神なのである。

 敗者復活の精神とは

 第二次世界大戦後、アメリカ占領軍当局が、教育制度の変革を強行しようとしたときのことである。ドイツは敢然として、

 「諸君はドイツの学校制度を模範としてアメリカの制度を作ったのである。ゆえに模範のほうを変更せよとうのは、スジが通らない。」と拒否した。弟子が先生の態度に文句をつけるのかいったわけだが、この反論のため、幸いにして、六・三・三制の画一教育でなく、性格、才能の相違のきわめて多様な青少年が、それぞれ自分のコースを選べるような教育制度が残ったわけである。

 総合大学、単科大学、高等専門学校、高等学校から、尋常高等小学校まで、多様なだった戦前の日本の制度と似ていると考えていいだろう。

*帝国大学(京都帝国大学)、医科大学(岡山医科大学など)、文理科大学(広島文理科大学など)・商科大学(神戸商科大学など)、高等工業(広島高等工業など)・高等商業(高松高等商業)・高等農林(鳥取高等農林など)、高等商船学校(神戸高等商船学校など)、高等蚕糸学校(京都高等蚕糸学校)、高等学校(広島高等学校など)、尋常高等小学校(庭瀬尋常高等小学校など)。

平成29年9月22日~


52
『白い航跡』(講談社文庫)(1994年5月15日 第1刷)吉村 昭

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『白い航跡』

 明治期の日本海軍が、当時陸海軍(や日本全国)で蔓延していた原因不明の病「脚気」の原因が白米食だ...という仮説を大規模な試験航海で実証したという話につきあたった。

 その顛末を小説化したのが吉村昭の『白い航跡』。

 脚気は、明治期の陸軍・海軍の存亡に関わるくらい深刻な病だった。

『白い航跡』は、その脚気を海軍医高木兼寛が兵食改善によって撲滅していく過程を中心に描いた歴史小説・伝記と医学ノンフィクションを合体したような小説。

 この小説の見せ場は、イギリス医学を学んだ兼寛が、海軍に蔓延する脚気の原因を白米食にあると確信し、脚気撲滅のために試行錯誤と実地試験を重ねていくプロセス。大規模臨床実験の計画・実施・検証と新しい食事療法の開発・導入と言えるような一大プロジェクト。

 そこに最新のドイツ医学に基づく細菌説を信奉する陸軍医学部門と東京大学医学部を中心とする医学界との軋轢が加わり、当時の脚気をめぐる医学の世界の様子がリアルに伝わってくる。

 それに、ドイツの細菌学者コッホの下で学んだ陸軍軍医森林太郎(森鴎外)の脚気栄養説に対する徹底的な批判と脚気細菌説への固執という頑迷さは、作家とは別の医学者としての顔を知ることになる。陸軍内部での麦飯導入により脚気がほぼ消滅したという現実があっても、依然として白米食至上主義を採り続け、その結果、日清・日露戦争で脚気による膨大な死者を出すことに繋がった。

 小説は兼寛の生涯をほぼ時系列的に追っているが、冒頭の戊辰戦争の話から、脚気論争へと繋がるストーリーの伏線が張り巡らされている。

  西洋医学の師

 兼寛は能力・人格とも優れた師に恵まれていた。

 蘭方・方法医学の師である石神良策は、海軍医となるよう東京へ兼寛を呼び寄せ、妻になる富との縁談の世話をやき、公私両面で兼寛を導いた医師。

 鹿児島で兼寛にイギリス医学を教えた英国人医師ウイリスの生涯は、時代の流れに翻弄されたような人生だった。

 東京の海軍病院に招聘された英国人医師アンダーソンもウイリスと同じように紳士的で優れた教師だった。

 一方、脚気論争で兼寛を徹底して批判する医学界と陸軍の人物は多数いたが、なかでも陸軍医学部門の上層部にいる石黒忠悳と森林太郎(作家の森鴎外)はその急先鋒だった。

 医学の世界では、その主張も成果も認められず、叙勲も兼寛ではなく後輩の海軍医に与えられるなど、四面楚歌状態の兼寛の心の支えとなったのは、「麦飯食」の話を熱心に聴きその功績に感心する明治天皇。

英国留学時の成績

 英国留学で兼寛が紊めた成績の優秀さは、当時の日本人のなかでも驚異的だったのでは。

 セント・トーマス病院付属医学校と病院で、医学理論と実技を学び、医学校の試験でもイギリス人の学生を抑えて上位や首席になり、外科・産科・内科学の医師資格取得し、医学校では数々の賞を受賞して、最優秀の医学生となる。さらに外科のフェローシップ免状(学位)を授与されたことで、医学校の教授資格も得る。

脚気論争

脚気の研究

 脚気の原因は、すでに漢方医の脚気専門の第一人者である遠田澄庵が、インド:日本で脚気が多いのは「脚気ハ其原米ニ在リ」と主張していた。

 兼寛の脚気研究は、軍の統計や艦船の航海記録をもとに脚気の発生状況を調査分析し、食事が原因ではないかと推定。

 イギリスで学んだ実用栄養学を元に食事内容を分析した結果、脚気にかかる軍人の食事は蛋白質が極めて少なく、含水炭素がはるかに多い。

 ここから、白米食が脚気の原因だという仮説を立て、「洋食兵食」による脚気改善効果の航海実験を計画。

 試験航海には、海軍予算が年間300万円だった時代に、その1/60(1.67%)に当る5万円が費やされている。

 天皇・大蔵大臣など政府高官を説得し巨額の試験費用を費やしたこの試験航海で、脚気患者が続出すれば深刻な問題になるのは必至。兼寛は試験航海中、大変な精神的重圧のために、「筑波」で脚気患者や死者が続出する悪夢に悩まされ、食欲減退し気鬱になり抑うつ的な状態になり、周囲の人々も心配する。それだけに「ビョウシャ 1ニンモナシ アンシンアレ」という電報電報を見たときの喜びと安堵がどれだけ大きかったか想像できる。

 試験航海と並行して改善兵食の試験的導入による検証、洋食兵食の実現可能性の検討、白米麦混合食への全面切り替えを勧めていく。

 兼寛は当初、洋食導入を主張していたが、洋食には多額の費用がかかること、英国海軍が航海中はパンではなくビスケットを支給していたことを知る。

 麦飯でさえ抵抗があるのに、パンやビスケットなら水兵たちが受け入れることは難しいと判断し、白米と麦の混合食にすることに方針転換。

 「パン食が理想ではあるが、経費の増額と兵の食習慣の二点で実現は不可能と考えたのである。...どのような改定をしても、水兵がそれを口にしなければなんの意味もないことをはっきりと感じたのである。」

医学界・陸軍による批判

 陸軍・医学界はドイツのべルツが主張する細菌説を信奉して、脚気白米食原因説(洋食・麦飯食による脚気対策)には、学問の理論的裏づけがないとして、理論的な批判・実験を行い、陸軍の白米食至上主義(1日に白米食支給が6合)を改めようとはしなかった。

 東京大学生理学教室教授大澤による論文「麦飯ノ説」:米と麦の蛋白質と人体への吸収量を比較し、米の方が優れているため、麦飯食は意味がない。鴎外も比較研究で白米食が洋食に優れているという試験結果を発表する。

 陸軍と海軍の脚気対策の違い

 海軍と陸軍では、中枢の医学部門と現場の部隊との関係の違いがよくわかる。

 海軍の場合は、軍の上層部も現場の部隊・艦船も一体となって、医療部門の仮説・検証・食事改善に対して取り組んでいた。

 最終的に、洋食ではなく、白米麦混合食を兵食と定め、全ての艦船・部隊が平時・戦時においても、上層部の兵食に関する指示を厳守し、脚気が再び蔓延することを防いだ。

 一方、陸軍では、医学部門の上層部では細菌説に基づいて、現場の衛生状態の改善を指示していたが、脚気患者が一向に減らず。

 中枢の医療部門の脚気細菌説・白米食至上主義に反して、脚気に悩むを現場の部隊は独自の判断で麦飯、白米と麦の混合食に替えて言った。例えば、大阪陸軍病院長一等軍医正堀内利国は、麦飯を食べている監獄の囚人に脚気患者が極めて少ないことから、大阪鎮台の部隊でも一年間麦飯を支給したところ、脚気患者が激減した。行軍時に白米と白米麦混合食を食べさせて、健康状態を比較する実験をする部隊もあった。

 各地方部隊の陸軍医たちが独自に白米麦飯混合食を導入していったが、上層部はこの措置を快く思わず、麦飯を導入した陸軍医が批判・解雇される事態にもなる。しかし、結局は、陸軍のほとんどの部隊が独自の判断で麦飯混合食を導入し、平時には脚気患者がほぼ消滅する。

 白米食が脚気の原因であるというのは、結果を見ると明らかであるのに、脚気消滅は「兵舎の衛生状態が改善された結果」だとして、依然として陸軍医学部門の上層部はや、東京大学を中心とする医学界は細菌説に固執し続けた。

 彼らにとって、学理的に説明のできない脚気栄養説は、単なる思いつきと偶然の産物にすぎなかった。さらに、彼らの学んできた基礎医学と学理探求を特徴とするドイツ医学が最も優れていると自負しているため、実証・臨床重視のイギリス医学を学んだ兼寛を見下していたことも大きく影響していた。

 日清戦争、日露戦争での陸軍と海軍の兵食の対応も対照的。

 海軍では、戦時中は臨時に白米の支給を増やしたが、1日1人100匁を超えないことを厳守し、脚気患者はわずか(日露戦争では100人余り)

 陸軍では、陸軍の兵食規定に従って、麦飯ではなく、戦地に1日6合の白米を支給し、脚気患者と死亡者が続出。日清戦争では戦死者453人に対して、脚気による死者4064人、日露戦争にはさらに酷く、傷病者352,700人のうち脚気患者が211,600人。傷病者による死者37,200人のうち、脚気による死者27,800人。

ビタミンの発見

 クリスティアーン・エイクマン:1896年に、滞在先のインドネシアで米ヌカの中に脚気に効く有効成分があると考えた。鈴木梅太郎:物質としてビタミンを初めて抽出、発見。1910年、米の糠からオリザニン(ビタミン)を抽出し論文(日本語)を発表。農芸化学者である鈴木梅太郎は脚気予防に効果があると発表しても、細菌説をとる医学界はこの世界的な発見を無視した。カジミール・フンク:1911年に米ヌカの有効成分を抽出することに成功。1912年にビタミン(ビタミンB1・チアミン)を発見。

 脚気ビタミンB欠乏説の実験

 大正8年に欧米各国からビタミンBが脚気に有効であると伝えられ、それを聴いた大森憲太慶応大学教授がビタミンBが脚気に有効であることを証明。軽症の脚気患者6人と

 健康人6人にビタミンBの欠けた食事のみを摂らせたところ、軽症者は重症になり、健康者は脚気にかかる。次に被験者にビタミンBを与えたところ12人全員が完治。白米食ではなく、玄米、分つき米を推奨。

 欧米からも裏付けとなる報告が相次いだことから、細菌説に固執していた医学界もビタミンBが脚気に有効であるということを認めた。

 兼寛の世界的評価

 兼寛はコロンビア大学を始め、英米の大学で栄養バランスを改善した食事が脚気を予防することを講演し、学位を次々と授与され、ランセットにもその講演が掲載されるなど、海外の評価の高さは国内とは正反対。

 小説の最後に、南極大陸のグレアムランド西岸のルルー湾北東部に、"Takaki Promontory"と命名された岬の話が出てくる。

 この岬は、英国の南極地名委員会によって、昭和34年に高木兼寛に因んで命名されたという。その説明に「日本帝国海軍の軍医総監、1882年、食事改善により脚気予防に初めて成功した人」。

 周辺には、「エイクマン岬」「フンク氷河」「ホプキンス氷河」「マッカラム峰」と著名なビタミン学者に因んだ岬がある。日本ではビタミン学者と言えば、鈴木梅太郎など数名が知られているが、南極大陸の岬としてなづけられたのは、高木兼寛のみ。日本では評価されていなくとも、「ビタミン研究の開拓者」として、海外でどれだけ高く評価されているのかよくわかるエピソード。

 森鴎外は「脚気細菌説」の誤りを認めることは、終生しなかったらしい。

 日露戦争後に発表された『妄想』(1911(明治44)年3月・4月)に、この脚気論争に関連する記述がある。

 「食物改良の議論もあつた。米を食ふことを廃(や)めて、沢山牛肉を食はせたいと云ふのであつた。その時自分は「米も魚もひどく消化の好いものだから、日本人の食物は昔の儘が好からう、尤も牧畜を盛んにして、牛肉も食べるやうにするのは勝手だ」と云つた。

 自然科学を修(をさ)めて帰つた当座、食物の議論が出たので、当時の権威者たる Voit(フオイト) の標準で駁撃(はくげき)した時も、或る先輩が「そんならフォイトを信仰してゐるか」と云ふと、自分はそれに答へて、「必ずしもさうでは無い、姑(しばら)くフォイトの塁(るゐ)に拠(よ)つて敵に当るのだと云つて、ひどく先輩に冷かされた。自分は一時の権威者としてフォイトに脱帽したに過ぎないのである。」

※Voitは著名な栄養学者。鴎外が師事した Pettenkoferの弟子の一人。

兼寛の研究

 臨床試験において、評価に値する最良の方法が「ランダム化二重盲検試験」

 理想的には戦艦「筑波」の船員をランダムに2群に分け、片方には従来の食事、他方には高蛋白低炭水化物の食事を与える。船員を診察する医師にはどちらの食事を摂ったか知らせない。

 現代では、比較治療の優劣がついている場合、ランダム化試験は倫理的に不可。

 兼寛はすでに新しい食事と従来の食事を10人に与えて、従来の食事が脚気の原因であると確信しているので、白米食を使うことは不要であるし、心情的にも船員を脚気の危険にさらすことはできない。

 今回の実験のコントロール(対照群)となるのは、脚気が大量発生した「龍驤」。

 試験艦「筑波」は、食事以外の試験条件を出来る限り「龍驤」と同一にするために、「龍驤」と同じ航路と期間で試験する必要があった。航海期間は1年近くと非常に長くなってしまうが、実際、「龍驤」での脚気発生は帰路後半で多くなっているので、同じ航路を辿る必要があった。

 東京帝国大学医学部*陸軍医療部門:基礎研究に優れ、コッホが破傷風菌・結核菌・コレラ菌を発見するなど世界の医学界が注目するドイツ医学を採用。ドイツ医学は、実験研究を重視した「病気を観る学問」

 日本海軍:イギリス海軍の軍制を導入していたため、イギリス医学を採用。イギリス医学は、実験による医学的裏づけがなくても実際のエビデンスを重視した「病人を診る学問」

 兼寛の「脚気白米食原因説」に対する批判・反論

 「緒方正規博士の論文」

 脚気患者からある細菌を分離し、これを動物に接種したところ脚気様症状がみられた=脚気は細菌が原因と結論緒方論文の問題点:脚気患者全員からこの菌を特異的に分離し、この菌がどのように心臓、および神経病理を発生せしめたかについてまで示す必要がある。

※北里柴三郎が、明治43年にこの細菌説を否定した。

「鴎外の批判と実験」

 「もしも正確な実験をするのなら1つの集団を2分して、一方に白米を与え、一方に洋食あるいは麦飯食を与え、しかも同一の地に居住させ生活条件も同じにさせる。このようにしても、米食のみが脚気に罹り他方が罹らなかったならば、米食が脚気を誘発するものと考えられるであろう」?外の批判どおり、兼寛の学説は、エビデンスに基づいているが、実験的検証が弱点。

(鴎外の実験)

 -陸軍第1師団の若い兵6人(すべて健常者)を対象

 ―白米のみ、麦飯。パンと肉、の3種類に分けてそれらを8日間ずつ食べさせる。

 -―ドイツ最新の方法に基づき検査。(各食事のカロリー、蛋白質、脂肪も計算している)

 ―-結論:白米が最も優れ、パンと肉は最も劣る。

(?外の実験・結論の問題点)

 ―被験者が6人と少数。検査結果上有意差があっても、結論を導くのには不十分。

 ―試験が不十分:現代治験の「第Ⅰ相試験」(薬剤の安全性を試験するために健常者に薬剤を投与)に相当する試験のみ実施。発症している患者に試験薬(食)を投与して、その有効性を評価する第Ⅱ相・第Ⅲ相試験は実施せずに、脚気病食の効果がないと結論づけている。

 ―試験期間が8日間と短すぎる。(短期間では、脚気の発生には影響しない)

兼寛の研究に対する評価

 当時、病原微生物を同定することが医学の主流。

 兼寛の脚気病栄養学説は、生活習慣病の病因論を考える上でのエポックメイキングな出来事であり、まさにパラダイムシフトともとれる。


参考情報

 海軍カレー

 有名な「海軍カレー」も、この脚気対策のために誕生した。

 明治期のイギリス海軍は、シチューに使う牛乳が日持ちしないため、牛乳の代わりに日持ちのよいインド起源の香辛料であるカレーパウダーを入れたビーフシチューとパンを糧食にしていた。

 脚気予防のため洋食を導入しようとした高木兼寛は洋食・パン食を導入しようとしたが、農家出身の水兵たちには馴染めなかったために、カレー味のシチューに小麦粉でとろみ付けし、ライスにかけてカレーライスが誕生した。

 脚気という言葉は知っていたけれど、その原因が白米を食べることあるのだと知ったのは、もう10年以上も前に読んだ『食う寝る坐る永平寺修行記』 (新潮文庫)というノンフィクション。

 永平寺で修行する雲水の食事は、誠に質素なもので、おかずの品数や量が少なく、空腹を満たすためにはおかわりが許されている白米のご飯を大量に食べるしかない。それは脚気にかかるリスクがあるとわかっていても、空腹に耐えられずに白米のご飯ばかりたくさん食べるので、脚気で入院する雲水が続出。この本のおかげで、粗食で白米ばかり食べていたら、脚気になるんだというのが、記憶にしっかり残ってしまった。

 「インタネットによる」 nihonzibutushi.jpg

参考:チェンバレン著 高梨健吉訳『日本事物誌 2』(東洋文庫)「脚気Kakke」の項目に「故軍医総監高木博士が、船の乗組員のために肉食とパン食を採用して以来は、日本海軍の健康が飛躍的に改善された。」と記載されている。P.6~9

Link:パンと麦飯と脚気

2017.07.17(海の日)。


53

『海も暮れきる』吉村 昭 (講談社)昭和55年3月22日 初版1刷発行


 放哉は、小さな汽船の船尾に据えられたベンチに腰をおろしていた。

 船は入江のような湾に入り、動揺もやんでいる。おだやかな海面には、帆をあげた漁船が所所に浮かんでいた。陸地は濃い緑におおわれていた。丘の中腹に寄りかたまった藁ぶき屋根の家家は、緑の色の中に深々と埋もれ、その上方に潮風で曲がった松がおおいかぶさっていた。

 まばゆい陽光に眼が痛み、熱いものが湧き出てきた。それは、病状が進むにつれて少しの刺激にも他愛なく流れ出てくるようになり、濃度もかなり薄まってきているように思える。放哉は、眼をしばたき、指で眼のふちににじみ出たものをぬぐった。

 汽笛が長々と鳴り、船が減速した。甲板には、船室から出てきた人々が手すりにもたれして、船の動いてゆく方向に眼を向けている。船着場が接近し、船は右方に大きく舳を曲げて回頭すると、海水を泡立てて後退してゆく。麦藁帽子をかぶった船員が、船尾から桟橋に止め綱を投げた。

 かれは、小さな風呂敷包みを手に腰をあげた。乗客が、錆びた鉄製の浮き桟橋に降りてゆく。日和下駄を手に裸足になった老婆もいれば、白い日傘をひろげた女もいる。潮が干いていて浮き桟橋と波止場ににかけられた板は傾斜し、かれらは、慎重に板をふんで波止場にあがる。放哉も、その後にしたがった。

 瓦ぶきの小さな港務所で切符を渡したかれは、空き地を横切り、川沿いの道を歩き出した。対岸には堤防が伸びていて、海は見えない。陽光が無帽の頭に熱く、道は白っぽく乾いていた。

 歯のすりへった下駄で、かれはゆっくりと歩いていった。呼吸が荒くなると肺臓の患部に悪影響をあたえるので、急いで歩くことはしない。それに、小豆島の俳人井上一二(いちじ)のもとに行くのをためらう気持も胸に湧いてきていて、足どりも鈊りがちだった。島に来たことが早計にも思え、このまま波止場にもどり、汽船の出発港である宇野に引き返したい気持ちにすらなっていた。

 かれは、昨夜、友人の俳人荻原井泉水と京都の路上で仰いだ天の川を思い起こした。天の川は、冴えざえとした白さで夜空を横ぎっていた。京都の夜は蒸し暑く空気も淀んでいたが、その微細な星の群れの輝やきに秋の訪れが近いのを感じた。

 井泉水は、放哉の第一高等学校、東京帝国大学時代の一年上級生で、かれの参加している俳誌「層雲」の主宰でもあった。いわば、井泉水は放哉にとって兄事する友人であり、同時に流浪生活を送るかれの物心両面にわたる庇護者でもあった。

 放哉は、二年前朝鮮火災海上保険株式会社支配人の職を辞し、妻からもはなれて京都の一燈園に入った。ついで、京都知恩院塔頭常称院の寺男になったが、そこを追われ、兵庫須磨寺をへて福井県小浜町の常高寺の寺男にもなった。が、かれの胸部疾患は徐々に悪化し、寺男としての労働に堪えられなくなっていた。かれは、「一燈園」の主宰西田天香になじめず、須磨寺では寺の内紛に嫌悪をいだき、常光寺では過重な労働と煩わしい雑事に辟易し、身の置き場を失ったような寂寞を味わっていた。

 そうしたかれに、一燈園で親しかった男から手紙が寄せられ、男は台湾のバナナ会社に籍をおいていて、かれに台湾へくるようにすすめてくれた。一所に安住できぬ自分にふさわしいように思えた。

 かれは、京都市に住む井泉水を訪れ、台湾に行く予定であることを告げた。

 井泉水は、かれの台湾行きに同意しなかった。日本の地に、かれ一人を置く場はあるはずで、どこか適当な場所を探すから待つように、と放哉に言った。放哉は井泉水の言葉にしたがい、京都の龍岸寺の寺男になって住み込んだ。

 しばらくすると、井泉水からかれのもとに便りがあった。瀬戸内海の小豆島に、「層雲」同人の井上一二がいるが、かれは代々醤油醸造を業とする島の名家の当主で、かれに頼れば住むのに適当な場所を探してくれるにちがないという。小豆島にはお遍路の詣でる八十八ヵ所の札所があり、小さな庵の一つぐらいは探すのに困難はないはずだと記されていた。井泉水は、時折小豆島に赴き、その度に井上一二の家に身を寄せた。一二にとって井泉水は師であり、句作の指導をうけていた。むろん、一二は、放哉の新鮮な自由律の作風を、「層雲」を通して熟知しているはずであった。

 放哉は一二からの返事を待っていたが、便りはこない。龍岸寺では、早朝から夜遅くまできびしい労働が課せられ、病身のかれには堪えきれず、寺を去った。

 放哉は一二からの返事を待っていたが、便りはこない。龍岸寺では、早朝から夜遅くまできびしい労働が課せられ、病身のかれには堪えきれず、寺を去った。

 一二からの返信はなく、放哉の苛立ちはました。井泉水は、近々北越地方へ吟行の旅に出る予定で、かれは、一人取り残されることが心細く、井泉水のいるうちに自分の落ち着く場所を決めたかった。

 かれは、一二の返事を待たず小豆島へ行くことを決心した。かれがそのことを井泉水に話すと、井泉水は、少し思案した後、同意した。

 井泉水は、放哉を送別するため「層雲」の同人で近くに仮寓する著名な陶工内島北郎(井泉水没後、「層雲」発行人となる)を招き、その夜、酒を酌み合った。

 翌日、小豆島へ出発することになり、放哉は短冊会のための句を書き、下駄の鼻緒を立て替えたりした。着物は、井泉水からもらった着古しの浴衣で、風呂敷包みには女中が洗ってくれた猿また、道行、鼻紙、手帳、封筒などを入れた。

 夜になって、放哉は、京都十時三十分発の夜汽車に乗り、翌朝、岡山駅についた。そこから宇野に行ったが、小豆島の土庄行きの船は出た後で、正午過ぎの船に乗った。かれは、船室のゴザの上に寝て、風呂敷から出した古新聞を顔の上にかけて眠った。

 突堤がきれて、海が右方にひろがった。

 かれは、足をとめた。夏の波の海らしく光り輝いている。まばゆい閃きが所々にみえるが、それはゆるやかな波のうねりの頂きに反射する陽光であった。

 かれは、海を見るのが好きであった。兵庫の須磨寺、小浜の常高寺に寺男として勤めたのも海辺の地であったからであり、小豆島にやってきたのも海を見て暮らしたという願いからであった。海と雲とは、密接な関係があるように思えた。四季、そして朝夕に、雲はさまざまな形と色をしめす。その多様な変化は、海辺でなくては眼にすることができない。かれは、深山幽谷には体がしめつけられる怖れに似たものを感じるが、海を見ていると、温かく抱擁されているようなやわらいだ気持になる。

 海を眼にしている折りの安息が、どのような心の動きから発しているのか、かれは知っていた。それは、死を願えば海に歩いてゆくだけでかなえられるからであり、いつでも自分の肉体を受け入れてくれる海が身近にあるということに、深い安らぎを感じていた。

 蝉の声は、驟雨のように頭上から降り注いできている。樹木という樹木に蝉がむらがり、樹液を貪婪に吸い翅をふるはせて鳴きしきっているように思える。まばゆい陽光を浴びた海にかこまれ蝉の声におおわれたこの島が、限りない活力を秘めているようにも感じられる。

 このようにおびただしい蝉の生存を許しているこの島は、自分の肺臓に巣食う菌を追い払ってくれる要素をそなえているかも知れぬ、とかれは思った。潮風は海水中の塩分、沃度をふくんでいて結核菌の発育をさまたげ、海辺の空気にふくまれたオゾンは肺臓内を清浄にするという。海は、自分の肉体に安らかな死をあたえてくれると同時に、生命を維持してくれる機能をもっているらしい。

 入江に永代橋と刻まれた木橋が架っていて、日傘をさした中年の女が下駄を鳴らして渡ってくる。放哉は、欄干に手を置きながら橋上を進んだ。橋脚の下に、群れた小魚の鱗がひらめいていた。

 京都で荻原井泉水から渡された略図をひらき、橋を渡るとすぐに左に曲がって土手道を歩いた。

 略図にしたがって土手道を降りた放哉は、前方に視線を伸ばした。醤油醸造業を営む旧家である井上一二の家は、ひときわ大きいと井泉水に言われていたが、前方に蔵のある家が見えていた。かれは、土塀に沿って門に近づいていった。その付近には樹木が多く、蝉の声が一層激しくなった。

 門の前に立ったかれは、門柱にとりつけられた井上と書かれいる表札を見上げた。醸造所は裏手にあるらしく、門内に桶やはなかったが醤油の匂いが漂い流れていた。

 かれは、門に入るることにためらいを感じた。かれは、思い切って門をくぐると玄関に立った。

 案内を乞うと、皮膚の浅黒い小間使らしい娘が出てきて坐り、小さな風呂敷包一つを手にしただけの放哉をいぶかしそうに見つめ、奥に消えた。

 しばらくすると、白絣を着た三十年配の長身の男が出てきて膝をついた。男は、放哉がなを告げると、

 「一二です」

 と言って、頭をさげた。旧家の若い当主らしい端正な容貌をしていた。

※放哉と井上の出会い。以後、放哉の生涯を生ききるまで世話をして、看取る。

 男は、小間使いを呼ぶと水を張った小さな盥を運ばせ、放哉に足を洗うようにすすめた。その水は井戸から汲まれたばかりらしく、火照った足に快く、だるさも薄らぐようだった。

 放哉は、一二に案内されて廊下を渡り簾の垂れている奥の間に入った。部屋の内部は涼しかった。

 二人は初対面の挨拶をすると「層雲」のことについて会話を交した。自由律俳句を唱える荻原井泉水が俳誌「層雲」を創刊したのは明治四十四年四月で、すでに十四年間が経過している。放哉が「層雲」に参加したのは大正五年で、すでにその頃一二は、

   〽白き牛なり 朝のしづかさ見ませり

   〽雨ふる音の とうがらしぬれてあり

 などの句を「層雲」に発表、中堅同人として句作をつづけていた。

 その頃、同人としては、芹田鳳車、野村朱鱗洞が最もすぐれた句を発表し、放哉の存在は無に等しかった。が、三年ほど前から「層雲」に発表される放哉の句は、新鮮な鋭い作風をしめしてにわかに高い評価をうけるようになり、大橋裸木とともに句界の注目を浴びていた。放哉は、「層雲」を代表する俳人の一人で、一二の態度には、そうした放哉に対する畏敬の念がにじみ出ていた。

 話がとぎれると、一二は、

「私の電報をお読みいただけましたか」

 と、放哉の顔をうかがうように言った。

 放哉は頭をかしげ、見ていない、と答えた。不𠮷の予感が胸をよぎった。

 一二の顔に困惑の色が浮び、電報を打たねばならなかった事情について述べた。井泉水から依頼状が来た後、一二は、放哉の住むに適した庵うを探してみたが見当たらず返事も出しかねていたが、昨日、放哉から直接来島するという手紙が来たので、あわてて時機を待つよう井泉水宛てに電報を打ち、事情を説明した手紙も出したという。

 放哉は、不安が的中したことを知った。一二から返事もこないのに、独断で出向いてきた自分の行為が恥しかった。

 放哉は、深く息をついた。断りの電報と手紙を出したという一二の家にいることに、堪えがたい重苦しさを感じた。

(中略)

  あとがき P.260

 私が稚いながらも俳句に関心をいだくようになったのは、終戦後、学習院旧制高等学校に入学してからである。俳文学の教授であった岩田九朗先生の芭蕉の連句についての講義が興味深く、先生を中心に毎月開かれていた句会に同好の友人たちとともに参加したり、明治以後の俳人たちの句集も読みあさるようになった。

 入学して八ヵ月後、私は喀血し、肺疾患で絶対安静の身になった。病勢の進行は、二十歳という若さのためかいちじるしく、腸も結核菌におかされて半年後には体重が二十五キロも減るほど痩せさらばえた体になり、生きる気力も失われていた。そうした中で、読書が唯一の慰めであったが、活字を読むと疲労が甚しく、書籍はもとより新聞すらも読むことが不可能になった。眼がたちまち充血し、涙がにじみ出る。涙と言っても感情の動きなどとは無縁の、熱をおびた濃度の薄い液体で、閉じた瞼の裏は視神経がやけただれたように朱色に染まった。私の眼には陽光が強い刺激であったのだ。

 病床で俳句を自然に読むようになったのは、眼に負担をかけぬためであった。句を読んでは眼を閉じ、そこに描かれた世界に身をひたす。重苦しい時間の流れが、それによって幾分かは癒された。

 そうした句の中で、私はいつの間にか尾崎放哉の句のみに親しむようになった。放哉が同じ結核患者であったという親近感と、それらの句が自分の内部に深くしみ入ってくるのを感じたからであった。放哉の孤独な息づかいが、私を激しく動かした。放哉も死んだのだから、自分が死を迎えるのも当然のことと受容すべきなのだ、と思ったりした。

 十二年前、放哉の死んだ小豆島西光寺の別院南郷庵に行った。粗末な庵で、その前には、

 〽いれものがない両手でうける

 という句の刻まれた碑が立っていた。近くの道からは、初秋の海が見えた。碑の施主である井上一二氏宅を訪れ、土蔵の中にある放哉から井上氏に宛てた多くの書簡類も見せていただいた。

 その後、荻原井泉水(おぎわら せいせんすい)監修、井上三喜夫編纂「尾崎放哉全集」(彌生書房刊)などを読んだりしているうちに放哉について書きたい気持ちがつのった。放哉が小豆島の土を踏み、その島で死を迎えるまでの八カ月間のことを書きたかったが、それは、私が喀血し、手術を受けてようやく死から脱け出ることができた月日とほとんど合致している。

 私は、三十歳代の半ばまで、自分の病床生活について幾つかの小説を書いたが、放哉の書簡類を読んで、それらの小説に厳しさというものが欠けているのを強く感じた。死への激しい恐れ、それによって生じる乱れた言動を私は十分に書くことはせず、筆を曲げ、綺麗ごとにすませていたことを羞じた。

 放哉は四十二歳で死んだが、それを私なりに理解できるのは放哉より年長にならなければ無理だという意識が、私の筆を抑えさせた。そして、三年前、「本」(講談社発行)に十五枚ずつの連載形式で放哉の死までの経過をたどり、二十九回目で筆をおくことができた。私がその期間の放哉を書きたいと願ったのは、三十年前に死への傾斜におびえつづけていた私を見つめ直してみたかったからである。

 昭和五十五年早春 


 尾崎 放哉(おざき ほうさい、本名: 尾崎 秀雄(おざき ひでお)(1885年~1926年)は、日本の俳人。「層雲」の荻原井泉水に師事。種田山頭火らと並び、自由律俳句の最も著名な俳人の一人である。鳥取県鳥取市出身。東京帝国大学法学部を卒業後、東洋生命保険(現:朝日生命保険)に就職し、大阪支店次長を務めるなど、出世コースを進み、豪奢な生活を送っていたエリートでありながら、突然、それまでの生活を捨て、無所有を信条とする一燈園に住まい、俳句三昧の生活に入る。その後、寺男で糊口(ここう)をしのぎながら、最後は小豆島の庵寺で極貧の中、ただひたすら自然と一体となる安住の日を待ちながら、俳句を作る人生を送った。クセのある性格から周囲とのトラブルも多く、その気ままな暮らしぶりから「今一休」と称された。その自由で力強い句は高い評価を得、代表的な句に、「咳をしても一人」などがある。

の地、小豆島に尾崎放哉記念館があり、隣接する西光寺奥の院に放哉の墓がある。


吉村 昭 (よしむら あきら)、(1927~2006年)は、日本の小説家。

日暮里生まれ。学習院大学中退。1966年『星への旅』で太宰治賞を受賞。同年発表の『戦艦武蔵』で記録文学に新境地を拓き、同作品や『関東大震災』などにより、1973年菊池寛賞を受賞。現場、証言、史料を周到に取材し、緻密に構成した多彩な記録文学、歴史文学の長編作品を次々に発表。日本芸術院会員。小説家津村節子の夫。

 平成二十九年十一月六日


54

吉村 昭『戦艦武蔵』 (新潮社)

 
inokuti.tosihira.png  英米領事館があり、外国人が多く住む長崎で徹底的に秘密裏に建造された戦艦武蔵。途中巨艦の意義が失われて行く中、それでも不沈艦の神話的象徴として建造。その壮絶な最期を遂げるまでの姿を克明に描いた記録文学。

 戦艦大和と代表する旧日本帝国海軍の戦艦・武蔵の建造から壮絶な終焉までを克明に描いた記録文学である。

冒頭、日本全国から棕櫚(しゅろ)の繊維が消えるという話から始まる。昭和12年の春、最初は九州一帯から始まり、その後日本全国で同じ現象が見られたという。

 事情が分らない漁業界では、悪質な大量買占めと思われたが、実はその裏で戦艦武蔵の製造と深く関わっていることが、本の中で明らかになっていく。

 その大量の棕櫚は、戦艦武蔵を建造することになった三菱重工株式会社長崎造船所が、何を造っているか外部から見られないよう、覆いの目的で集荷され市場から消えたのだった。棕櫚を編んで簾(すだれ)とし、武蔵を造る第2船台の周りのガントリークレーンなどを利用して、その簾を垂らして、建造中の艦艇を隠そうというのだ。

 この長崎の町には、英米の領事館があり、その領事館の場所はこの造船所と海を挟んで真向かいの大浦の高台にあり、何も処置しなければ、簡単にその概要を把握することが可能となるのであった。

 この武蔵を着工しはじめた頃はまだロンドンの軍縮条約を締結中で、国際連盟も脱退していなかった。また国際連盟を脱退しても国交断絶にでもならない限り、領事館の撤退はなく、出て行ってくれともいえぬ。そのようなことを言えばあからさまに長崎造船所で何か重大な艦艇を造り始めている事が察知されてしまう訳だ。

 よくもそんな場所で秘密裏に戦艦武蔵を建造することができたたものと思う。またその程度の覆いでよくも英米にばれなかったなあと、不思議でもある。

 ところで、これまで何度も戦艦武蔵と連呼してきたが、この本によると、その艦艇名「武蔵」さえも、建造後しばらくの間迄は、ほとんどの者がなさえも知らず、第2号艦とだけずっと呼んでいたらしい(第1号艦は、広島の呉海軍工廠で造られていた後の戦艦大和)。

★関連:戦艦大和建造中

 造船所で働くものは、皆身内をしっかり調べ上げられ、その上秘密保持に関する宣誓書を取られていた。設計図は大和と同じで、鋼板など主な材料は呉海軍工廠から持ち込まれ、あとは八幡製鉄所などから運ばれたようだ。

 この設計図は、敵国スパイに渡ったら、大問題になると徹底的な管理が行われる。重要な基本的な図面は一切持ち出し禁止で、作業が終わると金網で厳重に囲われた設計図の保管室に返却。その部屋の人の出入りも、たとえトイレなどの小用であっても、出入りの度に厳しくチェックするという徹底さだった。

 それでも一度図面紛失事件が起き、大騒動になる。図面管理の主な関係者が責任を問われ拘束、まるで犯罪者のように執拗な取調べを受けた。結局、図面管理のために雇われた若い男による、仕事への不満から短慮で起こされた図面焼却による紛失と分る。事件は解決したが、その後も余波が残り、工期が遅れ気味になる。

 が年が経つにつれ、時代は次第に世界大戦突入に向けて悪化を辿る。国際連盟も脱退し、日独伊三国同盟も締結。そういう中にあって日本だけヨーロッパとは関係なくいる訳にもいかず、世界大戦の中に巻き込まれるのは濃厚となる。

 海軍は、日本と米英との間の開戦を見越して、紊期短縮を急がせる。長崎造船所では、朝8時から夜の11時頃まで作業したり(時には徹夜作業で)竣工を急ぐ。

 そして昭和16年3月に何とか進水。その後、大砲他武器などの偽装を終えて、瀬戸内海近海などで訓練を行った後、南洋の基地に向けて出航していく・・…。

 このあと、本の中では、フィリピン沖などでの数度の戦いで、戦艦武蔵が時には魚雷を受けても何とか切り抜け横須賀港まで回航して修理するが、その次の戦闘では、敵機の襲来を艦隊の中で集中的に受け、魚雷を多数受けてついに沈没する話も書かれている。

 話はそれで終わらずに、さらに沈没した後、海から救出された兵たちも、その武蔵撃沈の秘報を隠すために、どのような処遇に遭ったかなども書かれており、戦争の非情さをあらためて感じさせられる。

 解説でも述べていたが、吉村氏は、戦争というものの愚行さの現れの中に、それこそ人間の本質的なものを開示しているとでも言いたげな、人間というものを非常に醒めた目で視ている認識のようなものがあると思う。


★レイテ沖海戦(レイテおきかいせん、英語: Battle of Leyte Gulf)での戦艦武蔵の1944年10月23日から同25日での記事を整理した。

昭和十九年八月十五日、朝倉艦長が退艦し、第四代武蔵艦長として猪口敏平大佐が赴任してきた。猪口の着艦は、武蔵のみではなく全艦隊にに時宜を得た人事として歓迎された。猪口は砲術学校教頭をしたこともある日本海軍屈指の射撃理論の権威で、すでに機動部隊の援護も望めない洋上決選には、かれの手腕に期待するものが多かった。

 その頃、大本営は、防衛線をさらに後退させ、太平洋地域の防備強化と敵の来攻に対して四段階の迎撃作戦――「捷」一号作戦……フィリピン方面決戦、「捷」二号作戦……台湾および南西諸島方面決戦、「捷」三号作戦……日本本土方面決戦、「捷」四号作戦……北海道、千島、樺太決戦であった。

 敵の第一攻撃地域が、フィリピン方面と予想していた大本営の判断は的中した。

 昭和十九年十月十七日午前七時、レイテ湾入口のスルアン島見張所から、

 「敵艦二、特空母二、駆逐艦六隻接近中」の報が入電。さらに一時間後には、

 「敵同島に上陸開始」

 の連絡があったが、その発信を最後に連絡を絶った。

 連合艦隊司令部は、ただちに「捷」一号作戦を発令、栗田艦隊に、

 「速やかに作戦通りにブルネイ湾に進出すべし」

 という命令を発した。

 十月十八日午前一時、作戦行動は開始され、栗田艦隊は、栗田艦隊は、西村部隊とともに夜陰に乗じてリンガ泊地をひそかに出港した。艦隊は、速力一八ノットでグレー?ナット群島北側を迂回して、二十日正午、予定通り集結地ブルネイ湾にすべりこんだ。

 二十二日午前八時、まばゆい朝の陽光を浴びた武蔵艦上に出撃ラッパ鳴り渡った。重々しい錨の巻き上げられる音につづいて、始動する機関の音が艦内に起った。

 午後、能代、高雄、愛宕(重巡)からつぎつぎと、

 「敵潜望鏡見ユ」

 の信号が発せられた。

 午後七時、全艦隊は「之」字運動をやめ、速力も一六ノットに落して、漸くフィリピン諸島の北部にあるパラワン島の水路に近づいていった。

 夜空に、星が散った。艦内には、スクリューの廻る音と機関の音がしているだけで、艦の動揺は全く感じられない。乗組員たちも、さすがに感情をたかぶらせているのか、横になっても寝つかれずに輾転反側する者が多かった。

 その頃、旗艦愛宕は海中にひそむ敵潜水艦の発信する無電をしきりと傍受し、遂に二十三日午前五時二十分、

 「作戦緊急信――発信中ノ敵潜水艦ノ感度極メテ大」

レイテ沖海戦第一波

 二十四日夜が明けた。

 武蔵は、艦隊とともにミンドロ島の南方を迂回して北東に艦首を向け、シブヤン海に進んだ。

 七時三十分頃、艦内拡声器が、これより敵制空圏内に入るから至急朝食をとれ、と告げた。

 午前八時十分、突然、

 「総員配置につけ」のラッパが艦内の空気をするどく引裂いた。

 鉢巻をしめた乗組員たちは、それぞれの部署に走った。

 艦隊の上空には、掩護戦闘機は一機もいない。敵機は、艦隊の動きをアメリカ海上主力に連絡しているのだろう。初めて眼にする敵の機影を遠く見つめながら、乗組員たちは苛立ったように唇をかみしめていた。

 やがて機影が姿を消すと、武蔵艦内の緊張は極度にたかまった。

 艦隊司令部は全艦艇に、

 「敵機来襲近シ、天佑ヲ信ジ、最善ヲツクセ」

 と指令した。

 武蔵艦内では、艦長が、全乗組員にそれを伝えた。

 午前十時、武蔵のレーダーは、はるか東方の空に数多くの機影をとらえた。同時に旗艦大和からも、敵編隊接近の報が全艦には放たれ、艦隊の間に無線電信の矢が飛び立った。

 「対空戦闘用意」

 のブザーが鳴り渡ると同時に、東方より敵編隊接近という甲高い声もひびきわたった。

 高角砲、機銃百数十門の砲身は、東方上空に向けられた。ハッチも通風路もすべてしめられ、艦上と艦内は、厚い甲鉄で完全に分離された。

 艦内に静寂がはりつめた。

 「艦載機、右九十度水平線」

 という叫びが、見張所員の口からふき出た。

 水平線に近く、錫片のようなものが無数に輝いてみえる。そして、その輝きは、次第にその光を増してくる。

 「主砲発射用意」

 「発射ッ」

 の声と同時に、九門の主砲が一斉に火をふいた。

 艦体に一瞬はげしに振動がおこり、乗艦員たちの体がよろめいた。他艦からも対空弾が発射され、遠い錫片の周囲に、火の粉のような光の粒が湧き出るように無数にひろがった。

 たちまち飛散する錫片もいくつか望見できたが、大半はその中を突き抜けて急速に大きさを増し、輪形陣に迫ってきた。

 近距離射撃に向かない主砲が砲撃をやめると、副砲・高角砲が連続的に弾丸を発射し、つづいて百余の機銃も一斉に火をふき出した。それは、音のすさまじい氾濫だった。音響が空間を塗りつぶした。高角砲も機銃も生き物のように旋回し、果てしなく弾丸を発射しつづける。上空には、多彩な光の筋が交叉し合い、点状の黒煙が胡麻粒をまいたようにすき間もなくひろがってゆく。その中を、淡水魚のような腹をみせた敵機がすさまじい速度で入り乱れ、透きとおった炎をひきながら海中に突っこんで行く機体や、瞬間的に空中分解する機体もあった。かれらの攻撃は、主として大和・武蔵に集中されているらしく、大和の近くの海面にも水柱が上がるのがみえる。

 武蔵の周囲にも敵機がしきりと接近した。

 右舷の前方と後方から、ほとんど同時に敵機の機体が、するどい金属音をあげて急角度で降下してきた。機銃の群れは、二つに分れて火をふいた。が、機体は、一瞬の後に反転して海面すれすれに飛び去った。その瞬間、右舷と左舷両方の海面に壮大な水柱が上がり、同時に一番砲塔の天蓋の上でピュンという奇妙な金属音が起り、塗料が直径一メートルほどの広さではげた。落下した爆弾が、厚さ一二〇センチの甲鉄ではねかえり海上に飛び去ったのだ。

 機銃員たちは、一瞬の間に頭上をかすめる機影を追って引き金をひきつづけていたが、対空砲火の弾幕をくぐって右舷方向の海面すれすれに接近してきた三機の雷撃機が、その腹部から鉛色の魚雷を投下した。

 飛沫が上って白い雷跡が一直線にすすみ、二本はそのまま艦底を通過していったが、最後の一本が右舷中央部に命中、炸裂音とともに水柱が上り、その水が甲板上にすさまじい音を立てて落下してきた。しかも、それは、大瀑布のようにかなり長い間つづき、甲板上の乗組員たちはあふれるような海水に流されまいと手近なものにしがみついていた。

 対空戦闘をつづけていた射撃員たちにはわからなかったが、艦内の者たちの中には、艦が右舷に僅かながら傾斜したのに気づいた者もいた。魚雷で破られた舷側から海水が侵入し、第七、第十一罐室の壁の鋲がゆるんでわずかな水漏れを発生し、艦は右へ五度傾斜していた。が、防御指揮官工藤計大佐の管轄する注排水指揮所はただちに左舷へ注水して右舷三度まで復元させいた。

 敵機の姿が視野から消えた。

 射撃は、やんだ。

 乗組員たちの鼓膜は間断なくつづけられた音響ですっかり麻痺し、眼は焦点を失ったような光りを浮かべていた。機銃第一群指揮官星周蔵少尉が機銃掃射を受けて戦死したのをはじめ、手足をもぎとられた負傷兵が甲板上にころがっていた。かれらは、敵機が去るのと同時に開かれたハッチから、前部・中央部の二ヵ所の戦時治療室に運び込まれた。軍医長村上三郎大佐は艦底に近い治療室で総指揮をとり、宮沢寅雄軍医大尉は前部治療室で、細野清士中尉は中央部治療室で、負傷者の処置に当っていた。

 武蔵の搊害は魚雷一本右舷に被雷、と旗艦に報告されたが、武蔵にとって、それはかすり傷程度のものでしかなく、速力も二四ノットで進みつづけていた。しかし、被雷の折りの振動で主砲前部方位盤が故障し、主砲の一斉射撃は不可能になった。

 再び敵機が来襲することはあきらかだった。

 主計長伊藤少佐指揮下の主計兵は戦闘食を各部署に配って歩いた。しかし、射撃員たちは、焼けた砲身に水を浴びせて冷やしたり、他の部署の戦闘員も器具の点検に忙しく、食物を口にする者は少なかった。

レイテ沖海戦第二波  十一時四十分、武蔵のレーダーは、再び敵機群をとらえた。

 「対空戦闘用意」

 のブザーが鳴り、すばやくハッチがしめられた。武蔵は一層大きく艦首を振りながら進みつづける。波の激しくくだけ散る音だけが際立って、艦上には、再び重苦しい静寂がひろがった。

 十二時三分、

 「右水平線上、飛行機群」

 見張員の叫び声が、拡声器から流れた。

 作戦予定では航空兵力の総力をあげて作戦に参加してくれるはずであったが、栗田艦隊の上空には、一機の援護戦闘機もない。空襲はさらに激化されることが予想され、艦隊司令部の焦慮は深刻であった。

 第三次空襲は第二字空襲の三十分後に早くも開始された。

 第三次空襲から六分後には、また東方水平線上に敵編隊の機体が光り、重なり合って武蔵の巨体に襲いかかってきた。高空から回転しながら海面に落下してくる魚雷の雷跡は、武蔵を中心に網の目のように走った。

 航海長仮屋実大佐は伝声管に口をつけたまま、

 「面舵一ぱい、急げ」

 「もどせー、取り舵一ぱい、急げ」

 と嗄れきった声で叫びつづけていた。

しかし魚雷は、左舷に二本、右舷に一本が命中、艦はその度に激しく振動した。至近弾の水柱が艦を包み、落下してくる海水が甲板上の血を洗い流し、ちぎれた死体を海上に容赦なく運び去る。

 「二四ノット可能」

 武蔵から、旗艦大和に信号が送られた。輪形陣もくずれず武蔵は艦首をはげしくふりながら、他の艦艇とともに進みつづける。機銃員の三分の一が戦死又は傷ずついていたが、かれらは機銃にしがみつき、弾幕は少しもうすれず、敵機の海上に突っ込む姿も相ついだ。

 しかし武蔵への集中攻撃は執拗を極めさらに左右両舷に同時に一本ずつ、つづいて右舷に二本の魚雷が命中、海水が奔流のように艦内に流れこんだ。また、直撃弾が前部に命中して前部治療室に収容されていた負傷者、衛生兵数十人は、一瞬のうちに四散した。第一砲塔内でも、大爆発が起って砲員の姿が消えた。三式対空弾(原理的には榴散弾の一種)が自然爆発したのだ。

 魚雷はすべて中央より前部に集中、前部の中甲板以下は海水につかり、漸く武蔵の艦首は四メートルほどの傾斜を示した。防御指揮官工藤大佐は機敏に注排水を命じると同時に、浸水を食いとめるための遮防作業を督励した。

 「速力二二ノット可能」

 武蔵の速力はわずかにおとろえただけで、回避運動をつづけながら輪形陣の一角を占めて進んでいた。

 敵機が、去った。

 「射ち方やめ――」

 の指令が流れると、射撃員たちは、崩折れるように膝をついた。甲板上には、多くの肉片と随所に呻き声をあげている負傷者が残されていた。

 艦首への傾斜は、戻らなかった。魚雷の命中した穴へさらに重なり合うように魚雷が命中、武蔵の誇る厚い水線下の防御面も破られたのだ。

 巨大な武蔵にも、漸く衰えがみえはじめた。

 「対空戦闘用意」

 午後二時四十五分、またブザーが鳴った。

 百機近い敵機が一直線に進んでくると、海上に単艦で動いている武蔵に襲いかかってきた。武蔵だけをねらうアメリカ空軍の攻撃には、異常な程の執念が感じられた。

 武蔵は、回避運動をつづけた。が、速力の衰えた武蔵の体には、たちまち十一本の魚雷が、命中し、直撃弾十個、至近弾六個が炸裂した。水柱は林立し、爆煙が全艦をおおい、敵機の姿も見えなくなった。機銃員の戦死が続出し、兵員室から配属されていた重巡麻耶の乗員が代って機銃にとりつき、射撃をつづけていた。しかし、機銃の多くは過熱して使用不能におちいり、発砲する機銃の数は激減していた。

 爆弾の一個は防空指揮所に命中して第一艦橋で炸裂、防空指揮所は崩壊するビルディングのように轟音をあげてくずれ落ちた。

 第一艦橋の作戦室に命中した爆弾は、航海長仮屋実大佐、高射長広瀬栄助少佐ほか七人の生命を奪い、猪口艦長は、右肩部に重傷を負った。その他、中央高射員待機所、第五兵員室、中央部治療室、士官室、司令部庶務室等が飛散、武蔵は、遂に満身創痍となった。

 左舷十度の傾斜は、注排水装置の働きで六度まで回復したが、艦首への傾斜は四メートルから八メートルにも達して、艦首は海水に洗われはじめた。そして速度も六ノットに落ちていたが、武蔵の機銃はまだ弾丸を発射しつづけていた。

 艦長が治療のために艦内に下りると、第二艦橋にいた副長加藤憲吉大佐が、総指揮を引きついだ。

 その頃、栗田長官は、駆逐艦清掃霜、島風を急派、武蔵を護衛してサン?セに後退するよう命じていた。

 敵機は魚雷と爆弾のすべてを投下し終ると、致命的な搊傷を受けてよろめく武蔵の姿を見下ろすように旋回していた。

 第六次攻撃は、さらに多量の肉体を飛散させた。首や手足が至る所にころがっている。艦内電燈は消え、予備の第二次電燈が薄暗くともった。

 艦は大搊傷を受けたので、栗田艦長の命令で駆逐艦島風が左舷後部に横づけされ麻耶の乗員を移乗させた。猪口艦長は頭部と肩を繃帯で巻いて第二艦橋にもどり、再び総指揮をとった。艦はいつの間にか左舷への傾斜を増していた。

 旗艦大和から、

 「全力ヲアゲテ付近ノ島嶼ニ座礁シ陸上砲台タラシメヨ」

 という最後の信号がもたらされた。大搊傷をうけた武蔵のサンホセ回航は無理とさとったのだ。

 猪口艦長は、シブヤン海の北岸に座礁することを考え、艦首をその方向に向けて進ませたが、機関室へも海水が流れこんで、途中で機関がとまってしまった。同時に電燈も消えて艦内は闇になった。

 艦長は副長に命じて、

 「総員上甲板」

 という指令を出させた。

 各ハッチから油と汗でよごれた艦内員がよろめくように上甲板へ顔を出した。彼等は艦上の惨状に一瞬立ちすくみ、顔色を変えて口もきけぬようだった。殊に艦尾方向にいた者たちは、魚雷・爆弾の命中音を、主砲・副砲の発射音と錯覚して、艦の搊傷に気づかぬ者も多かったのだ。

 ハッチからは、負傷者も上甲板に運び出されてきた。その数は二百人を越えていた。

 艦の傾斜は十二度になっていた。猪口艦長は、注排水の作業を命じるとともに左舷にある重量物をすべて右舷に移動させることを指令した。駆逐艦に曳航させて近くの島に座礁させようと考えたのだ。

 しかし移動作業の効果はなく、艦の傾斜は刻々と増してゆくばかりであった。

 猪口艦長は漸く武蔵の沈没を予想し、護衛艦清霜と至近弾を受けた島風と交代した浜風に、

 「負傷者を移乗させるから接舷せよ」

 という手旗信号を送らさせた。

 両艦から折返し、

 「諒解した」

という信号が送られてきたが、両艦は一向に接舷する気配をみせなかった。

 日が傾いてきた。

 猪口艦長は、加藤副長をはじめ防御指揮官工藤大佐、砲術長越野公威(きみたけ)、通信長三浦徳四郎中佐、機関長中村泉三大佐を集め、一人一人に今までの努力をねぎらいながら感謝すると、小さな手帳を加藤副長にに手渡し、

 「これを聯合艦隊司令長官に渡してくれ」

 と言ってから、シャープペンシルを加藤に差し出し、

 「記念に、副長にやる」

 とおだやかな口調で言った。

 加藤たちの顔は青ざめた。手渡された手帳は遺書であり、シャプペンシルは形見であるにちがいないなかった。艦長が、艦と運命を共にする決意であることはあきらかだった。

 「艦長、私もお供させてください」

 と、加藤が言った。

 「いかん。副長は、あくまで生き残って戦況を報告してもらわねばならない。私の副長に願うことは、乗組員及びその遺族の方々の面倒をみてやってもらうことだ」

 猪口は、一語一語力をこめるように言った。

 艦長附の若い准士官や兵たちが、唇をふるはせて泣いた。やがて、猪口は、艦橋にある艦長休憩室に入ると中からドアの鍵を閉めた。

 加藤たちは、光るものを眼にたたえながらドアを凝視して立ちつくしていた。

 日没が近づいた。

 加藤副長は後甲板に行くと、

 「総員集合」

 を命じた。そして、檣頭の後部の軍艦旗を下すことを指令した。乗組員たちの顔から血がひいた。

 御真影は、高橋、横森両兵曹の背に背負われていた。

 君が代のラッパが吹かれ、後檣の軍艦旗が静かに降下した。やがて軍艦旗は畳まれて、小早川信号兵の体にしばりつけられた。御真影と軍艦旗はかれら三人の規律正しい歩みで左舷後部の舷側に進んだ。

 三人は、副長に挙手の礼をとると、同時に海へ飛び込んだ。

 乗組員たちは各部署ごとに人員点呼をとり、整列して次の指令を待っていた。左舷への傾斜はすでに三十度を越しているように思えた。


★関連:海兵68期 松永市郎氏 講演 61.04.20

 松永市郎氏が海軍中尉で古鷹(重巡洋艦)で衛兵司令であった。天皇、皇后、皇太后の御真影が安置されていた。沈没のときは衛兵司令と衛兵副長と下士官3人が御真影を背中にくくりつけて、飛び込み、守ることになっていた。30分間泳いで救助されて他艦初夏に乗ったが下士官1人があがらなかった。

 上官が「松永中尉早まったことはしないよう」と言った。

 呉に帰るとすぐに戦地に配属された(罰の意味があった)


 「退艦用意」

 副長の口から声がもれた。かれの顔は、激しくゆがんでいた。この艦は沈まないという思いがまだ残っている。が、退艦発令の時機を失してしまえば、多くの乗組員の生命がうばわれるのだ。

 その時艦の傾斜が或る限度を越えたのか、突然、右舷に集められた重量物が轟音を立てて左舷へ動きはじめた。滑ってくる重量物に圧しつぶされる者の叫びが所々であがった。

 秩序立っていた艦上は、たちまち混乱した。重量物とともに海中へ落ち込んで行く者、傾斜した甲板を逃げまどう者、山積されていた死体も一斉にころがり出した。負傷者は、すがりつくものを求めながらも、互の体に押されて左舷へとすべって行く。

 「自由行動をとれ」

 怒声に似た命令が艦上を走り、乗組員たちは思い思いの方向に走りはじめた。

 傾斜が急に早まり、右舷の艦底の側面が海水をあおりながら露出しはじめた。乗組員たちが初めに海へ飛び込みはじめたのは、そそり立つた艦尾からであった。が、はるか下方の海面に達するまでに、かれらの口からは悲痛な叫びが起った。かれらのほとんどは、巨大なスクリューに叩きつけられた。

 舷側を走る者が最も多かった。が、魚雷であけられた穴に、波立つ海水とともに吸い込まれる者も目立った。

 艦底の側面から海面までは四、五〇メートルあった。乗組員たちは途中まで側面の上を滑り降りていったが、その側面に厚くこびりついた牡蠣でたちまち傷ついた。

 第二国民兵出身の兵や志願兵たちは泳げない者が多く、上司に怒声をあびせられ殴られても、傾く艦の手すりからはなれない。人間の列が舷側に長々とつづいていた。

 艦の傾斜速度は急に早まり、海水を大きく波立たせて左に横転すると、艦首を下にして、徐々に艦尾を持上げはじめた。艦にしがみついていんる乗組員たちの姿が、薄暗くなった空を背景に艦尾の方へしきりに移動しているのが見える。

 艦首が没し、やがて艦橋が海中に没すると直立するように艦尾が海面に残った。それでも人人の移動はつづき、スクリューにも十数人の尚も上方へ上方へと這いのぼる人影がくっきりと見られた。艦尾とともにそれらの人影が海面から消えたのはそれから間もなくであった。

 武蔵をのみこんだ海面には為体(えたい)の知れぬ轟きとともに巨大な渦とはげしい波が湧き起った。海上に漂う人間たちの体はたちまち渦の中に巻きこまれ、回転させられて海面にあおり上げられると、また渦の中に沈みこんだ。

 突然海中で大爆発音が起った。人々の体は海水とともに夕闇の空高くはね上げられた。海底深く一面に朱色の光がひろがった。ボイラー室に海水が流れこんで爆発したのか、水蒸気の走るような音が、あたり一帯に走った。その爆発で渦がわかれたらしく、巨大な渦は小さな渦の群れに分散して、波立つ海面に人の頭部が回転しながら所々に浮かび上った。

 予想外に多い人間の数だった。

 暗い海上では人声が起りはじめ、波立っていた海面も徐々に落着きをみせてきた。可燃物はほとんど処理されていたので浮遊物は少なかったが、それども海上には、角材、柔道場の畳、ドラム缶、鞄などがただよい、かれらは近くの浮遊物にとりついていた。

 やがて、人間たちのかたまりが、所々に出来はじめた。海面には重油が流れはじめ、五〇センチほどの厚さになってひろがった。重油をのんでむせかえる者もいる。かれらの顔は一様に重油で黒く染り、口からは白い泡をふきはじめていた。

 不意に大きな環から「君が代」が起った。それは他の環に伝って、月光に明るんだ海上を流れた。

 国家がやむと軍歌が、そして流行歌が後から後からとうたわれた。歌をうたうことで、かれらは疲労と眠気を追い払おうとつとめていた。

 月が、かなり移動した。

 歌をうたう気力もうせて、かれらの間に、静寂がひろがった。海面から、何人かの頭が音もなく消えた。口もきけず、舌を垂らして浮遊物にしがみついている者もいた。

 その頃から、気力も体力も限界を越えて、他人の体にしがみつく者もふえた。ふり払おうとする者との間で所々に水しぶきは上がり、からみ合ったまま沈んでゆく者たちもいた。裸身になっている者たちは、しがみつかれるおそれはなかった。重油におおわれた黒光りした皮膚にしがみつく者の手がすべってしまうのだ。自然と衣服を脱ぐ者がふえた。

 三時間ほども経った頃だろうか、

 「駆逐艦だ」

 という声が、起った。

 海上に駆逐艦が二隻近づいてくるのがみえる。歌をうたう気力もうせた漂流者たちはまた活気づいた。

 「元気な者は声を出せ。いいか、一、二、三、クチクカーン」

 唱和する声が一斉に起った。中には、環をはなれて艦影に向って泳ぎ出す者もいた。しかし駆逐艦は潜水艦の雷撃をおそれるのか、たえず移動していて近づくかとみるとまた遠去かる。

 「一、二、三、クチクカーン」

 その声もかすれて力弱くなった。

 駆逐艦から光の矢が湧き、それが海面をないでくる。

 「一、二、三、クチクカーン」

 光の先端が人々の上にとまると、駆逐艦からカッターがおりるのがかすかにみえた。カッターは近づいたが、或る個所でとまってしまうと、それ以上は近接してこなかった。多くの人間にしがみつかれて顛覆するのを恐れているのだろうか。

 漂流者たちは泳ぎ出した。駆逐艦は移動しながら、かれらにロープや竹竿をさしのべてくる。それに必死にすがりつくが、重油で手がすべって落ちた者は気力も失われたのか、そのまま海中に消えた。

 駆逐艦は、潮に流されまいとしてスクリューを廻しつづけていた。それは、漂流者たちにとっては無情な結果をもたらした。漸く艦の近くにたどりついた者も海水の動きに抵抗できず、スクリューに巻きこまれてゆく者がおおかったのだ。

 防御指揮官工藤大佐は、部下たちの手で柔道場の畳の上にのせられて駆逐艦の舷側に近づくことができたが、砲術長の越野大佐は、水泳の達人であったので元気に泳ぎ廻りながら部下を誘導していた。しかし、救助が本格的にはじめられた頃、急に体をめぐらすと、武蔵の沈没方向に一人で泳ぎ去り、そのまま夜の海上に姿を没した。砲術長の責任を負ったとしか思えぬ行為であった。

 駆逐艦に上った者は、甲板上に重なり合うように倒れた。駆逐艦の乗組員が、ガソリンで体の重油を洗ってくれる。飲水も盥(オスタップ)に満たしてある。救助された者はほとんど裸であった。かれらは、駆逐艦の乗組員たちの手で荷物のように兵員室までひきずられていった。

 副長の加藤大佐はすぐに艦橋に上り、艦長に頼み込んで海上を探照燈で照射しつづけてもらった。しかし敵潜水艦の多い海面で光を放ちつづけることはきわめて危険なので、午後十一時、捜索を打ちきった。

 加藤は、駆逐艦上に救出された者のうち六人がそのまま息絶えたことを知った。かれは、それらの死体を練習用の砲弾に結びつけ、走りはじめた駆逐艦上から夜の海に投じた。

 水葬をすませると、加藤は特に提供された艦長室のベッドで、懐から猪口艦長の手帳をとり出した。油紙でかたく包装された手帳は濡れていなかった。手帳を開くと、シャープペンシルで書かれたらしい文字が、こまかく紙面につづられている。


 十月二十四日豫期の如く敵機の觸接を受く。之より先GKFより二十四日早朝ルソン地区空襲の豫報ありたるを以て、〇五三〇起しにて配置に就き充分の構へをなせり。

 遂に不徳の為海軍はもとより全国民に絶大の期待をかけられたる本艦を失うこと誠に申譯なし。唯、本海戦に於て他の諸艦に被害殆んどなかりし事は誠にうれしく、何となく被害擔担任艦となり得たる感ありて、この点幾分慰めとなる。本海戦に於て申譯なきは対空射撃の威力を充分発揮し得ざりし事にして、之は各艦共下手の如く感ぜられ自責の念に堪へず。どうも乱射がひどすぎるから却って目標を失する不利大である。遠距離よりの射撃並びに追打ち射撃が多い。

 被害大となるとどうしてもやかましくなる事は致し方ないかも知れないが、之も不徳の致す處にて慙愧に堪へず。

 大口径砲が最初に其の主方位盤を使用不能にされた事は大打撃なりき。主方位盤は、どうも僅かの衝撃にて故障になり易い事は今後の建造に注意を要する点なり。敵航空魚雷はあまり威力大ではないが、敵機は必中射点で、然も高々度にて発射す。初め之を低空爆撃と思ひたりしも之が雷撃機なりき。

 本日の致命傷は、魚雷命中ありたり。一旦回頭しているとなかなか艦が自由にならぬことは申す迄もなし。それでも五回以上は回避したり。回避したと言うのも先ず自然に回避されたと言ふのが実際であろうと思ふ。……

 機銃はも少し威力を大にせねばならぬと思ふ。命中したものがあつたにもかかはらずなかなか落ちざりき。敵の攻撃はなかなかねばり強し。具合がわるければ態勢がよくなる迄待っもの相当多し。但し早目に攻撃するものあり。艦が運航不自由となればおちついて攻撃して来る様に思はれたり。暗いので思ふた事を書きたいが意にまかせず。最悪の場合の処置として御真影を奉還すること。軍艦旗を卸すこと。乗員を退去せしむること。之は我兵力を維持したき為生存者を退艦せしむる事に始めから念願、悪い處は全部小官が責任を負うべきものなることは当然であり、誠に相済まず。

 我斃るとも必勝の信念搊する處なし。我が国は必ず永遠に栄へ行くべき国なり。皆様が大いに奮闘してください。最後の戦捷をあげらるる事を確信す。

 本日も、相当数の戦死者を出しあり、これ等の英霊を慰めてやりたし。本艦の搊失は極大なるも、之れがために敵撃滅戦に些少でも消極的になる事はないかと気にならぬでもなし。今迄の御厚情に対して心から御礼申す。私ほど恵まれれた者はないと平素より常に感謝に満ち満ちいたり。始めは相当ざわつきたるも、夜に入りて皆静かになり仕事もよくはこびだした。

 今機械室より総員士気旺盛を報告し来たれり。一九〇五.……。

 それらの文字をたどるうちに、加藤の眼には光るものがあふれた。


 全乗組員二千三百九十九人中千三百七十六人の生存者は、駆逐艦清霜、浜風でマニラへ向かったが、途中で急にコレヒドールへ回航になった。かれらは大部分が、下腹部まで露出した裸身で一人残さず素足であった。かれらがマニラへ上陸することは、武蔵の沈没を知らせるようなもので、それをおそれた海軍中枢部は、かれらをコレヒドールへむけたのである。

 これらの生存者についての記述は割愛。次の戦艦武蔵の生存者をお読みください。

★関連:海軍軍人猪口兄弟の坐禅
★参考:伊藤整一海軍中将と有賀幸作大佐の最後
平成二十七年十一月十一日


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『鈴木大拙随門記』志村 武 「虎渓の三笑」「良寛さんが泣いた」と「ありがとう」はこちらから

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★其の一 虎渓の三笑

 儒教、仏教、道教とならべられると、何かいい知れぬ威圧感を受ける人が多い。西洋人にはもちろん、われわれ日本人にさえも、東洋思想の源泉は神秘のヴェールにおおわれているかのように思われる。ところが、大拙先生はこの三教の根本をしっかりとおさえて、現代の時流に浮沈するわれわれのためにそのヴェールの内側を開示してくれた。

 『虎渓の三笑』という絵がある。それは虎渓というところで、三人の聖人が笑っている絵だ。どいう意味のものかというと、恵遠(えおん)という中国の坊さんが山に入っているのを、儒教の人と道教の人、つまり老壮の人がずねていったのだ。そうしたら話がおもしろくなって、なかなかキリがつかなくなってしまった。いつもなら、坊さんは虎渓というところにかかっている橋のたもとまで訪問者を送ってきて、そこで『さよなら』をいうのだ。ところが、三人とも儒教、道教、仏教の話につい夢中になって、橋をこえて向うへいきかけた。そのとたんに、虎が『ウォー、ウォー』と咆哮したというのだ。つまり、

 『もう、そこからさきへいってはいかん。もう限界にきているんだぞ』

 こういって鳴いたというわけだ。もちろん、三人ともびっくりした。それからみんな大笑いして別れたという話なのだ。

 このときの訪問者は、晋の陶淵明と陸修静(中国の劉宋時代の道士)であった。虎渓の山奥に白蓮社を結んで浄行に専念していた恵遠法師は、在住した東林寺より四十年もの間外界に出なかったという。

 「この話には、それからさきを言葉の上でトヤカクいっても、しょうがないぞ、というような意味が含まれているのでしょうか」

 「それを含めて解釈できるのだ。ひっきょうは『虎のひとほえ』だ。『虎のひとほえ』に帰するわけだ。仏教では『臨済の一喝』ということをよくいう。それをやったのだいってもよい」

 「そこが『不立文字』というようなことになるでしょうか」

 「そういってもよい。ともかく、酢をなめればだれでもスッパイと感じる。最後のところは感覚だ。『不立文字』だ。甘いものはなめて知れというのだ。しかし、ほんとうに『知る』ということは、単なる感覚の上のセンスではない。感覚よりも、もっと深いところにあるセンスなのだ」

 「直覚とか?」

 「わしは直覚というよりも、さあ、なんというか……」

 「先生の言葉でいうと、霊性ということにならないんでしょうか」

 先生の定義によると、霊性とは、”精神の奥に潜在しているはたらきで、これが目ざめると、精神の二元性(精神と物質との対立)が解消してしまうもの”である。

 「霊性だ。霊性的直覚とでもいうか。直覚というと、何かものを見て、見るものと見られるものとの間に中間物をおかずに見るということになる」

 「ズバリ向うへ届いていくということですか」

 「そうだ。とどいていく。が、単に直覚という場合には、見るものが見られるものを直(じき)に覚するという意味になる。しかし、わしのいうセンスは、つまり霊性的直覚は……」

といって、先生はすぐ眼の前にある録音用の小型マイクを手に取り、

 「このもの(小型マイク)が、このもの(小型マイク)が覚するのだ。分かれて分かれないのだ」

 と説く。先生によれば、精神と物質とが対峙するかぎり、矛盾、闘争、相剋、相殺などをまぬがれえない。それでは人間はどうしても生きていくわけにはいかない。なにか二つのものを包んで、二つのものがひっきょするに二つでなくて一つであり、また、一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてはならぬ。それを見るのが霊性だというのである。

 「いわば、精神と物質の世界の裏に今一つの世界が開けて、前者と後者とが、互いに矛盾しながら、しかも映発するようにならねばならぬのである。これは霊性的直覚または自覚によって可能となる」

 というのだ。こんなふうに説いたからといって、霊性というものは、精神と物質とのほかに第三者として対峙的に存在するものではない。最初に定義されているように、それは”精神の奥に潜在しているはたらき”なのである。このはたらきが目ざめなければ、「分かれて分かれないところ」はつかめない。したがって、ほんとうに「知る」こともできないのだという。

 話はいよいよ東洋的思想の核心に入ってきた。先生の使う言葉はむずかしくはないが、その内容はきわめて高く深い。先生は私の手を引いて、精神の最深部へグングンと導いていく。

suzukidaisetuzuimonki1.jpg align=right hspace= ★関連記事:諸橋徹次「孔子・老子・釈迦『三聖会談』」P.26 より

 晋の時代、 山麓の東林寺(中国,江西省北部の廬山の北西麓に位置する寺院)に住んでいた慧遠(えおん)法師は、ある年の夏(げ)、安居(あんご)の修行につとめていた。夏安居(げあんご)だから、もちろん寺の外には一歩も出られない禁足の生活だが、ある日たまたまであり、陶淵明と陸修静とが訪ねてきた。知己同心の話がはずんでくると、慧遠はうれしさのあまり、いつか禁足安居のいましめ忘れてしまい、二人を送って出た。ところが、虎渓の橋をわたった瞬間、慧遠の破戒を知ってのことかどうか、林の中から猛虎一声。その声に驚いてわれにかえった三人は、唖然茫然カラカラと打ち笑った、というのが「虎渓の三笑」で、いかにも風趣があり、風刺にも富んだ話として、文人恰好の画題となってきた。

 このばあい、慧遠法師はもちろん仏家であり、陶淵は有名な詩人ではあるが、その中心思想は儒教に養われた人であり、陸修静はまったくの道士で、梁の武帝が道教迫害の詔勅をくだしたとき、武帝にそむいて道教の復興をはかった人だ。これはまさしく、儒・道・仏三賢の雅会とみてよい。

★其のニ 良寛和尚が泣いた

tamasimaentuzi1.jpg  岡山県倉敷市玉島に良寛さんが修行された曹洞宗の円通寺があります。

 桃の木、畑に囲まれて、瀬戸内海を眺められる美しい丘に静かな建物のお寺であります。

 良寛はみなさんに尊敬され愛されて「良寛さん」と呼ばれています。

 私は、なんども読みたい話のひとつつに「良寛さんの涙」があります。

 水上勉『良寛』(中央公論社)P.259に minakamitutomu.ryoukan.png

 「良寛がある日、由之の家に泊まった。由之は、酒にあけくれる馬之助に手古ずって、兄に意見してもらおうと思った。ところが、良寛はひとことも、馬之助に意見はのべず、朝帰りしなに、草鞋をはくとき馬之助に紐をむすばせる。馬之助の手へ、ぽろりと良寛の涙が落ちた。」と書かれています。

 私が思ったのは、ひとことも、意見はのべないで、帰るとき良寛さんは涙をぽろりとおとしたのは、どんな心境だったのでしょうかと。また、酒にあけくれる馬之助に意見したとしても、かれには、それなりに理由があって酒にあけくれていたと思うのです。だから意見を受け入れることはないでしょう。極端な想像をすれば、ますます酒にのまれてしまうのではないかと。

 それとも、伯父さん良寛さんのおもいを受け入れ、親をてこずかせることがないほどに立ち直つたでしょうか。

 良寛の涙には万感の思いが込められていると私の胸にひびいてきます。

 良寛の涙を手に受けた馬之助の後日談はどのようになったのでしょうか。

▼私は非常に辛いことがありますと、「沈黙はその人の感情の最高の表現」だと思っています。その沈黙が涙となってこぼれだしたのではないでしょうか。

 志村 武『鈴木大拙随聞記』 (日本出版協会)昭和42年2月10日 第1刷発行:P.89~93 に「良寛さんが泣いた」ことが書かれていて、私の疑問点にたいするヒントがあたえられました。前述の記述と少しかさなりますがそのまま紹介します。

 仏教では「人を見て法を説く」ということがよくいわれるが、先生は私に対しては、しばしばエピソードに託して限界ギリギリのところを語ってくれたものである。

 「良寛和尚に関するエピソードに、良寛和尚の兄の息子が道楽息子で困ったという話がある。兄は良寛に何か説教をしてもらおうと思って、呼んできてご馳走をした。ところが、良寛は何もいわなかった」

 「その息子に会うだけは会ったのですか」

 「会った。ご飯の給仕ぐらいはしに出てきただろうから。ところで、良寛が何もいわずに帰ろうとして、わらじのひもを結んでいたとき、その息子が結ぶのを手伝いに出てきた。そのとき、良寛が泣いたというのだ」

 一瞬、私にはなぜ良寛が泣いたのかわからなかった。

 ━━良寛ではなく、息子が泣いたのではないか━━

 私のそんな疑念を、先生(鈴木大拙)はいわず語らずのうちにのみこんでくれたのかもしれない。さらに話をくだいて、親切に解き明かしてくれた。

 「良寛が泣いたというのだ。そして、そのまま行ってしまったという話がある。これが『すべてを知るはすべてを許すなり』だ。良寛のそういう態度にうたれて、その道楽息子は、心を改めたという」

 『バイブル』にも、

 「イエス涙を流し給う」(ヨハネ伝第十一章三十五節)

 という一節があるが、人間のぎりぎりの真実はしばしば涙でしか表現しえない。その一掬の涙のうちにこそ、主客未分の絶対の境涯が躍動する。

 「先生はかつて、仏教には、『あなたはあなたのよろしいように』というようなところがある、といわれたことがありますが、良寛和尚のこの話はそこへ通じていく話ですね」

 「そこへ通じるといってもよい。とにかく、自分が好きだからといって、そのままにほどこすことはできないのだ。そのへんはよく考えなければならぬ。つまり、だれかが特定の境遇に身をおいてどうかなったとする。自分も同じ境遇におかれれば、そうなるだろうと思えば、人を責めることができなくなる。何もいえなくなってしまう。それなら黙っているかというと、黙ってもいられない。しかし、しゃべってはいけないのだ。しゃべれないのだ。そういう心情のあふれるところが、良寛の涙だといえよう。偉大だ……」

 先生のしみじみした口調が、たそがれの空の中に重く沈んで、聴く者の心をしめつけてくる。

 「『中庸』の『誠はおのずから成る』とは、そこですね」

 そうだ、『道はおのずから道なるなり』ともいう。『論語』には、『われ事なからんと欲する。四時行われ万物育つす』とあるが、これも同じことだ。『おのずから』という、その『おのずから』が大切なのだ。『おのずから』にかえるようにしなければならぬ。それが一番大事なのだ。『さとり』とは、この『おのずから』に徹することであるらしい。しかし、ここまで説いていただいても、まだ足のかゆみを靴の外側からかいている感を避けえなかったので、私は、私なりの解釈を率直に述べてみた。

 その『おのずから』ということは、かぎりなく素直な心になることではないでしょうか

 「そうだ。なかなかうまいことをいうぞ」

 先生はニッコリした。私が先生にほめてもらえたのは、後にも先にもこのとき一回だけである。その笑顔に私がホッとしたとき、先生は、

 「たしかに、かぎりなく素直な心になることダといってもよい。しかし、その素直を意識にとどめてはいかん。意識されている素直は、素直ではない」

 とすると、『さとり』とは、『かぎりなく素直な心になる』であるとともに、『その素直な心を決して意識しないで行動できること』であるといえるのではなかろうか。こんなふうにいってしまうと、『さとり』をひらくということはやさしいようだが、これはまこおにむずかしい。素直に「ハイ」といえば何も問題なくすむところを、つい意地をはってしまって、後で悔やむようなことが私たちにはしばしばある。また、何かのハズミで素直になることがあると、次の瞬間にはその素直さを妙に意識してしまって、

 ━━私にも、こんな素直さがあったのか━━

 などと、改めて感慨無量的ムードにひたったり、年がいもなくセンチメンタリズムに堕してしまう場合が多い。さらに悪いことには、「私はどうも人間が素直なものですから……」と、ことさらに取りたてて自分の素直を「売りもの」にする場合さえある。

  つまり、私たちにとっては、まず素直になること自体に困難がある上に、その素直さを意識にとどめないことにはいっそうの困難があるのである。ひとたび意識にとどめられてしまえば、その素直さは意識に限定された素直さとなり、決してかぎりないものではなくなってしまう。これを逆にしていえば、意識に限定されないかぎりない誠や素直さだけが、『おのずから』展開するものであるtおいうことになる。しして誠とか素直さというものは、無限性にその本質があるのであって、有限の誠や素直さという者は、言葉の本来の意味とははるかにかけはなれてしまっているのである。P.89

*私の疑問点は良い方に改まっていたことを知ると同時に、大拙先生と志村 武さんの対話に同席させていただいていると感じがします。「有り難うございました」。

★其の三 「ありがとう」はこちらから

 人通りのない急な坂道を、一人の老人が、大きな荷物を引荷物をつんだ荷車を引きながらのぼっていくとする。真夏の太陽がカッと照りつけて、やせひからびた彼のからだからは、汗が滝のように流れ落ちる。息づかいも荒い。だれかが手伝ってやらなければ、荷物といっしょに坂道をころげ落ちていきそうに見える。

 さて、私たちがこいう場面に行き合ったらどうするであろうか。まさか知らん顔で行きすぎてしまうわけにはいくまい。たまたま、私たちの体に故障があるか、重大な急用でもある場合なら話は別だ。そうでなければ、まず百人のうち九十九人までが、前から引っぱってやるか、うしろから押すなどして、その老人の手助けをしてやるだろう。

 問題は、それから後の私たちの気持ちの動きにある。

 私たちが手助けをして、荷車が坂道の上までのぼりついたとき、

 「いや、どうもすみません。おかげさまでほんとうにたすかりました」

 老人がこんなふうにお礼の言葉を述べれば、私たちは、

 「いいえ、何でもありませんよ」

 いくぶんテレくさい気持ちとほのかな満足感を味わいながら、老人のうしろ姿を暖かい目で見送るだろう。

 世のなかのことが、万事こんなふうに進展すれば、イザコザの大半はなくてすむ。私たちの胸のうちにも、よけいな波風は立つべくもない。ところが、必ずしもこういう流れる線ばかりが描かれるとはかぎらないから、しばしば狂瀾怒濤がまき起こるのである。

 荷車が坂道の上までのぼりついた。うしろから押していた私たちはホッとして、流れる汗をふきはじめる。そんなときの私たちは、無意識のうちにお礼の言葉を期待しているものだ。「どうもありがとう」そのひとことでいいのだ。それはこちらからいってもらおうと思わなくても、当然、相手がいうはずの言葉である。たとえ「お早う」という朝の挨拶ぐらいの軽い意味でもよい。とにかく、こんな場合には、だれでも感謝の意が表せられるに違いないと予想するものである。

 その予想を裏切って、老人はひと息つくと、何もいわずにガラガラと車を引いて立ち去っていく。私たちは「おやッ」と思う。「そんなはずはないのだが……」と、去っていく車をジッと見つめる。

 狂瀾怒濤がまき起こるのは次の瞬間である。

 「ひとことぐらい、お礼をいってもよさそうなものだ。けしからん!」

 「この暑いのに、力を貸してやったのに……」

 「エチケットを知らんじいさんだな。だから年よりはきらわれるんだ」

 まるで腐った食物からいっぺんにウジがはい出すように、私たちの胸のうちからは濁った感情がドッと湧きあふれてくる。

 原因は、「ありがとう」のひとことがいわれなかっただけのことにすぎない。それさえいわれていれば、私たちはほのかな満足感に、たとえチョッピリでも酔うことができたのだ。行為はまつたくおなじでありながら、ただ「ありがとう」のあるなしで、私たちの気持ちにはしばしばこのような天地の差が生じてしまう。はたして、これはどうにもならないことなのであろうか。

 「しゃくにさわるのは当然だ。だれだって、怒りたくなるだろうさ。やむをえない」

 こんなふうにしか判断のしようがないものだろうか。この点について改めていっしょに考えてみていただきた。

  一、老人は私たちに手を貸してくれと頼んだわけではない。

  二、私たちが手伝ったのは、老人がかわいそうで見ていられなかったからだ。

  三、そのさい、私たちは老人がお礼をいってくれることを少しも条件に入れてはいない。

 つまり、私たちとしては、「むげにできない気持ち」のままに、自ら進んで協力しただけのことである。とすれば、老人がお礼をいわなくとも、私たちは怒るスジアイはまったくないことになる。老人にいわせば、

 「頼みもしないのに、よけいな手出しをしてくれたものだ……。おせつかいな人もいるわい」

 ということになるかもしれない。

 このへんに、私たちの判断や基準や、老人のためを思ってというよりも、大拙先生の説くごとく、「考えで、どうししたこうしたというものではない」のである。

 「何の関係もないのに働きかける。頼まれたから世話をするのではない。自分が世話をせずにはおれんからというものがあって動く」

 先生のいうこの気持ちの『おのずから』なる流出にほかなるまい。もしそれが『おのずから』出たものではなかったとすれば、私たちが自分自身の気持ちを満足させるために行った行為だということになる。その場面で手を貸さなかったら、だれでもあと味の悪い思いをするにちがいない。まして、老人が坂の途中で力つきて、車もろともころがり落ちて大ケガでもしようものなら、私たちはいよいよ自分を責めずにはいられなくなるだろう。

 このように分析してみると、その老人を助けるのは、老人のためを思ってのことではなく、

一、大拙先生のいう「考えで、どうしたこうしたというのではない」行為、つまり、助けること自体に目的のある最高目的追及の行為であるといえるし、

二、私たち自身の心の安らぎのための行為であるともいえる。

 「ものは考えようだ」という言葉があるが、「老人のためにしてやったのだ」と意識して、判断の基準を「ためにしてやった」ところにおいて、目的=手段の系列下で考えるから腹も立つのだ。「助けたいからから助けたのだ」という意識のままに、「何のためでもない」ところに基準がおかれれば、相手がありがとう」といおうがいうまいが、まったく関係のないことになる。こんなときに、――いつもロクなことをしていない自分が、今日はあの老人のおかげで、いいことをさせていただいた――

 と感謝する気持ちになれば、「ありがとうは、むしろこちらから」いうことになる。「きりかわり」とはこれをいう。「有限的、相対的自分」と「無限的、絶対的自分」との比重関係の逆転である。その全面的逆転をパウロは、

 「アダム死して、キリストに生きる」

といい、禅は、

 「大死一番、大活現成」
 と説く。

  志村 武『鈴木大拙随聞記』P.148~P.152 より


 私はかって、自分がどこにいるかわからない放浪性のおばあさんに出合い、自宅の電話番号は幸いおぼえておられたので電話をして息子さんが自動車で迎えにこられました。

 「あれほど言っているのに……」と、おばあさんにこごとを言って、連絡してあげた私には一言もあいさつしないで自動車でサット去っていかれた、「いい大人でなんと常識のない人だな!」と思いました。

 なかなか、私には『鈴木大拙随聞記』のような「きりかわり」はできない。出来る限り努力して見たいと、勉強になりました。私に自宅に電話させてくれたおばあさん「ありがとう」と言える日を期待して……。

平成24年4月7日

★『人生は河の流れのごとく』 上を向いて泣こう 老いることをなげくな!! お人よしの目を育てよう
寝ながらの坐禅 敗れて目覚める 伊藤整一海軍中将
一歩一歩、一呼吸一呼吸 欠点に美あり 生きているうちには死なれない
明日の心配は明日で足りる 人は棺を蓋て事定まる

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 「しあわせなら手をたたこう」という歌がある。

 嬉しいとき、気分のよいとき自然に顔が明るく、胸を張り、顔も上をむくようになる。

 反対に、不平を言うとき、気持ちの暗いときは自然に背を丸め顔はうつむきになる。落胆した人を表現するのに、がっくり肩を落とした、という。

 子供が「お母ちゃんいない……」と泣くとき、下を向いて泣きじゃくっている子は、母親が現れても泣きやまない。むしろ、一段と声をあげ、すねるように不平を訴える。

 同じ泣くにしても、上を向いている子供は気分の転換がはやい。母親が来ると、涙や鼻汁をたらしながらも受けとったお菓子を食べはじめている。

 姿勢と精神状態は極めて関係が深い。気持ちが落ち込みそうになったら、意識して顔を上げ、背筋を伸ばしてみたらよい。自然に気持ちも晴れやかになるはずである。

 腰を立てると、自然に腹式呼吸になる。不思議に下腹部に力が充実してくる。昔から、気海丹田(きかいたんでん)に力のこもった人を、腹のすわった人、性根(しょね)のすわった人という。腹式呼吸が自然に身に備わった人である。

 日本の「習い事」に「道」がついている。書道、茶道、華道はじめ柔道、剣道、弓道などの武術をも武道と言ってきた。その「道」に共通しているのは、腰を立て腹式呼吸が自然に行われ、重心が臍(へそ)の下におさまり、しかも全身に精気がみなぎることにある。

 ソファに掛けたり、あぐらで背筋を曲げる生活は、人間をダメにする。

 一本、筋の通った人間に育てかったら、幼児から腰を伸ばすしつけをきびしくすることが一番よい。

感想:森信三先生提唱「立腰」とまったく同じである。

※板橋興宗『人生は河の流れのごとく』(PHP)P.158~159より

平成二十七年十月三十日 


板橋興宗さん(1927~2020)

旧海軍兵学校同期の一人の足跡
無風流の漢━わがクラスメートよ! 老いることをなげくな!!『人生は河の流れのごとく』「序」より

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 旧海軍兵学校同期の一人の足跡

 私は宮城県の多賀城の農家の長男として生まれた。

 村の小学校を卒(お)えて、仙台の旧制中学に学ぶことになった。その時の受験の最後の関門は校長の口頭試問である。

 「あなたは将来、何になりたいか」

 「ハイ、政治家になりたいと思います」

 「それでは内ヶ崎作三郎さんのような代議士になりたいたいのか」

 「いや、できるなら内閣総理大臣になりたいと思います」

 その時、校長をはじめ、居ならぶ先生がドッと笑った。

 なぜ笑われたのか、私には腑(ふ)に落ちなかった。校長や先生がたは内閣総理大臣を目指していないのだろうか。多くの受験生も総理大臣になろうと思っていないだろうか。そのことが不思議でならなかった。

 その中学は学期試験の成績順に、教室の席順はもちろん、下駄箱の位置まで変わる。

 私はどれほど頑張っても下位を低迷して上位にはなれなかった。世の中には頭のよい人がいっぱいいることを知らされた。

 内閣総理大臣の夢は完全に消えた。夢が大きかっただけに劣等感も深かった。

▼中学二年の時、日本は米英はじめ世界の強国を相手に戦争に突入した。

 当時、陸軍の幹部を教育する士官学校と、海軍には兵学校があった。現在の防衛大学校にあたるが、軍国一色に燃えていた当時の日本では、この士官養成の学校は若ものの憧れるエリート校であった。

 ところが、戦争が激烈になるにしたがい士官も消耗品なみに必要になり、採用人員が急激に増員された。私の成績でも手の届くまでに枠が拡げられたのである。

 海軍兵学校の生活は、一般の学課もさることながら、いかに戦って、いかに潔く死ぬかという武士道精神に貫かれていた。

 毎朝、毎晩、叱られ殴られるきびしい生活は、緊張と苦しみの連続であったはずだが、それが悩みになった覚えがない。劣等感などという余計な感傷が入る余地の全くない生活であった。

▼しかし、日本は敗れた。郷里に帰った。中学の同級生からは大分遅れて仙台の大学に通うことになる。自分がたどる一生の全体像が見えてきた。またも劣等感にさいなまされることになる。

 当時、仙台の輪王寺に学生数人が修行しながら学校に通っていた。私も仲間に入れてもらい、朝四時起床、坐禅、読経、清掃、おかゆの朝食をすませて通学する。

 規律ある生活からは、悩みは自然に消滅していく感があった。やがて卒業と同時に、待ちこがれていたごとく正式に仏門に入り、修行僧になる。

▼もし、ほどほどに能力もあり、意欲も盛んであったら、現実に総理大臣を目指していたかも知れない。それには戦国武将が天下を取るのと同じくらい、勝ち負けの世界に生きのびなければならない。

 幸か不幸か、私は弱虫で挑戦する意欲すら失った。勝ち負けのない世界に心が傾いていった。世の中の総ての人に負けてもよい、敵をつくらない方が気楽である。敵が無いことは「天下無敵」の強さに通ずる。しかも、一国の総理という限られたものではない。天地自然にとけこむ、いわば宇宙の主人公になる道である。

 それでも、三つ子の魂は百まで、ということがある。劣等感が消えたと思ったら知らず知らずのうちに優越感が芽を吹き出していることがある。優であれ、劣であれ、絶えず心のうごめきを感じなけではない。

 だが、欲望は嫌ってはいけない、人間の原動力である。欲が尽きないから向上心も衰えることがない。

 何に向かって向上するのか。狙いとする目標は何であるのか。

 「ほんもの」を志すものは、その努力の内容も「ほんもの」でなければならない。

 板橋興宗『人生は河の流れのごとくに』(PHP)による。

参考:1、板橋興宗

平成二十六年十月三十日


お人よしの目を育てよう
スイスのチューリッヒに国立銀行がある。そこには世界中から集まった三十兆円とも、或いは五十兆円ともいわれる金塊が保管されている。

 その大金庫の上の道端(みちばた)では、一個百円ほどの古ボタンなどを売るガラクタ市が開かれている。その露店商の主人の言うことがふるっている。

「お金をたくさん持てば、必ず金が人を使うようになる。オレは金に使われるより、金を使う側の人間になりたい。それで、日ごろは、わずかなお金しか持っていないんだ。実はねー、この地下の金庫のお金はみんなオレのものさ。そう思えば心が豊かじゃないか。ただ、オレはこのお金を全部銀行に預けたまま死んでいくだけさ……」

 こんな記事を『中日新聞』で読んだことがある。

 人には大別して、何ごとも明るく楽天的に考えていくプラス思考の人と、何でも悪い方向になりはしないかと考える悲観的なマイナス思考の人がいる。

 同じ家に住むにしても、日の当たる面に目を向けて暮らす人と、台所の裏や縁の下などに目を向け、倒れはしないかと心配げに暮らす人と、どちらが得策であろうか。

 嫁さんを迎えることは「小言(こごと)」も一緒に迎えることだと言った人がいる。「うるさいな、いいかげんにしやがれ……」と、腹の立つことは誰にもあるにちがいない。

「小言(こごと)や文句(もんく)」だけ思いつめると、こんな女性もらって失敗だった、などとイラダチは募(つの)るだけである。

 だがこの小言をいう嫁さんがいなかったら、誰が食事をつくってくれる。洗濯や、縫いものも自分でやらなければならない。自分が腹が立つ以上に、嫁さんは何ばいも腹がにえくり返っていることだろう。そう思いなおせば丸くおさまる。少なくとも皿を飛ばさなくてすむだろう。

 タクシー代が、また値上がりして高いな、と不平を言う人は乗らなければよい。乗せてもらった以上は、自分で重い荷物を持って汗をふきながらテクテク歩く思いをすれば安いものだ、と思ったほうが乗り心地(ごこち)がよい。

 降りぎわに「ありがとさん、釣銭はいりませんよ」と、温かい言葉をかけたらどうだろう。釣り銭の二十円か三十円で、運転手さんも、自分も明るい気分になる。こんな有効なお金の使い方はあるだろうか。

※板橋興宗『人生は河の流れのごとく』(PHP)P.38~40より

平成二十七年十月二十八日 


寝ながらの坐禅

 「健全なる精神は健全なる身体に宿る。健全なる身体と精神は、規律ある生活から生まれる」、これが私の体験から得た心情である。

 このことをラジオで放送したことがある。ところが、早速NHKに反論の電話がはいった。「私は身体が悪くて寝たままである。精神が曲がった悪いことをするものは、身体の丈夫なものに多いのではないのか……」。

 これに対し、こんなことを弁明した覚えがある。「病人は病人ながらの健康というものがある。身も心も病人になってめいっていてはいけない。規律正しい生活をしようとする意識が大切である。病弱な人には、その人なりの生活のリズムがあるはずである。自分の生活にケジメをつけようとする積極的な姿勢こそがたいせつなのである」と。

 最近、トラピストの高橋重幸神父さんの「雪原に朝陽さして」という本を読んだ。

 「健全なる精神は健全なる身体に宿る」というのは、今から千九百年ほど前のローマの詩人の言葉で、原文はラテン語であるという。その本当の意味は、「真の賢人は、神々に健康と健全だけを祈り求める」ということである。健康な身体や精神にくらべれば、富とか名誉などは、とるに足らないものだという教えであろう。

 印度哲学の大家、玉城康四郎先生のラジオ放送を聞いた。

 「睡眠中は自分でコントロールができない。それで、夜、床についてから静かに呼吸をととのえ神を祈る者は、一晩中、神のふところで眠っていることになる。仏を念じながら眠りにつく者は、仏のコントロールにまかせて眠っていることになる。これが毎晩のことであるから必ずや神や仏のいのちにふれることになるだろう」というようなことを説いておられた。

 床についてからの呼吸法は、まつすぐ身体を伸ばして、おヘソのあたりに軽く手を添える。その手が上下に動くように呼吸をする。これが腹式呼吸である。そのとき、吐く息を静かに静かに長く吐くのがコツである。吐く息とともに頭の中や胸の中のモヤモヤも一緒に吐き出される。

 息を吐くリズムに合わせて、神や仏に祈りをささげたらどうだろう。神や仏を想念する短い言葉を唱えながら、一回、二回と繰り返しているうちに、自然に神や仏の眠りにはいってゆくにちがいない。生かされていることの感謝の眠りとなる。

 これが寝ながらの祈りであり、念仏である。そして寝ながらの坐禅である。病弱な人の寝ながらの身と心の健康法でもある。

※板橋興宗『人生は河の流れのごとく』(PHP)P.51~53より。

平成二十七年十一月三日:「文化の日」


敗れて目覚める
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 昭和二十年四月、太平洋戦争も日に日に敗戦の色が濃く、アメリカの大軍が沖縄に上陸し激烈な戦闘が日夜繰り返されていた。

 沖縄の次は日本本土が戦場になることは誰の目にも明らかであった。一億の全国民が最後の一人になるまで決戦を挑む勢いであった。

 この急迫した情況下にあって、当時残存していた戦艦大和をはじめ十隻の軍艦が、沖縄の海上にいるアメリカ軍に向かって、白昼堂々と特別攻撃をしかけるよう命令が下された。

 戦艦大和には少尉、中尉の若手士官が五十人も乗り組んでいた。その中には、高等専門学校や大学に在学のまま兵役についた、いわゆる「学徒出陣」の士官が大勢いた。そのほかに生粋(きっすい)の士官教育を受けた海軍兵学校出身の闘魂に燃えている若者たちもいた。

 出撃準備の命令が下ると、若手士官室では激論がたたかわされた。

 「飛行機一機の護衛もなく、燃料も片路しかない。いかに特攻精神で突込めといわれても、ただの犬死に終わるだけではないか。不本意な戦闘で死ぬのは無意味だ」

 これが学徒出身組の一致した不満であった。

 これに対し、兵学校出身の中尉、少尉は口をそろえて、「国のため、君のために死ぬ、それで本望でないか」と、主張する。

 学徒出身組の士官は色をなして反問する。

 「祖国のために散る。それは分かる。だが、それだけでは嫌だ。もっと何かが必要なのだ……」

 兵学校出身の士官は、「それは理屈だ、有害な屁理屈だ。よし、そういう腐った性根を叩き直してやる!!」。

 ついには鉄拳の殴り合いとなり収拾のつかない状況になってしまった。

 その時、若手士官室を統率していた海軍兵学校出身の臼淵大尉(うすぶちたい い:海兵71期)は、薄暮の洋上に望遠鏡を向けて哨戒の任にあたりながら、静かに囁くように言った。

 進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れてゐた。P.32

 敗れて目覚める。それ以外にどうして日本が救われるか。今目覚めずしていつ救われるか。

 俺たちはその先導になるのだ。日本の新生にさきがけて散る。まさに本望じゃないか

 この言葉が艦内に伝えられるや、出撃以来の死生論議と混迷は断ち切られ、一致して決戦場に臨んだという。

 この臼淵大尉の戦死のもようを『鎮魂戦艦大和』の著者、吉田満さんは簡潔に次のごとく記録している。

  臼淵大尉(後部副砲指揮官)直撃弾ニ斃ル

  智勇兼備の若武者、一片ノ肉ヲ残サズ

  死ヲモッテ新生ノ目覚メテ切望シタル彼、真ノ建設ヘノ捨石トシテ捧ゲ果テタルカノ肉体ハ、アマネク虚空ニ飛散セリP.356

 時に臼淵大尉、弱冠二十一歳の春であった。 
※板橋興宗著『人生は河の流れのごとく』(PHP)P.56~59より
平成二十七年十一月六日


伊藤整一海軍中将
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 日ごろ、土壇場に追いやられるイライラすることがある。

 あれもしなければ……、これもやらなければ……、約束の時間は迫っている……、急に来客がある……。電話の返事もつい荒々しい言葉になってゆく。

 そんな時、ふと頭の中に浮かぶのが伊藤整一海軍中将のことである。地獄ののような決戦場にあって、悠掲揚(ゆうよう)迫るらず、終始、盤石のごとく泰然自若として全般の戦況をにらんでおられた。最後に決定的な命令を下し、黙々として軍艦と運命を共にしていかれた。

 その時の伊藤長官のありさまを頭に想像するだけで、思議に自分をとりもどし、冷静になれる。

 時は昭和二十年四月五日、日本の敗戦が決定的になりつつあった。軍艦大和以下、現存する艦船あわせて十隻、沖縄に向けて出撃の命令が下った。飛行機の一機すら護衛もない。燃料は片路ぶんだけ、文字通りの「特攻」作戦である。

 その頃、アメリカ軍は沖縄に軍艦三百隻、補助艦艇一千隻、兵力五十万、沖縄上陸軍十万という大軍であり、それらになぐり込みこみをかけ、日本海軍玉砕の最後を飾ろうとするものであった。

 その司令長官に任命されたのが伊藤中将であった。有馬大佐を艦長とする戦艦大和に、幕僚たちと坐乗する。

 アメリカ軍は日本艦隊の行動を、日本を離れる前から偵察し察知している。九州の南端を過ぎて外洋を出たところを狙って、何百という飛行機が一団となって、入れかわり立かわり波状攻撃を仕かけてくる。

 勇猛な有賀艦長をはじめ三千三百の将兵が獅子奮迅の応戦をする。衆寡敵せず「不沈艦」をもって世界に誇る戦艦大和も、ついに沈没寸前にいたる。

 この時、船橋にあって伊藤長官の至近距離で任務についていた吉田満さんは次のように記述している。

 (アメリカ軍)ノ襲撃ハ極メテ巧妙、避弾ノ巧緻、照準ノ不敵、恐ラク全米軍切ッテノ精鋭ナルべシ
 長官、温顔ノママ腕ヲ拱キ微動ダモセズ

 コノ後本艦(軍艦大和)ノ傾覆マデ、砲煙弾雨ノウチ終始腕ヲ組ンデ巌ノ如ク坐ス 周囲ノ者殆ンド死傷スルモ些カモ動ゼズ
 竹ヲ割ッタル如キ気風、長身秀麗ノ伊藤長官

 いよいよ戦艦大和の沈没を目前にして、伊藤長官は、「作戦中止、残存艦は生存者を救助して本土に帰投せよ」と戦闘開始以来、最初にして最後の命令を下した。

 生き残りの将兵一人一人にねんごろに握手を交わし、一瞬、顔に笑みを浮かべるようにして長官室に入り、扉を閉じて艦と運命を共にしたという。

 この沖縄特攻はいかに死を強いられた無謀な作戦であったにせよ、伊藤中将が任に当たって冷静沈着、その生死を透脱(とうだつ)し切った豪胆さに、ただただ敬服のほかない。

 これに比して、日常茶飯事にあわてふためいている自分が恥ずかしい。

★写真説明:右上、第ニ艦隊司令長官伊藤整一中将。右下、艦長有賀幸作大佐。右、ケップガン(一次室長)臼淵大尉。『鎮魂戦艦大和』より。

※板橋興宗著『人生は河の流れのごとく』(PHP)P.60~62より

参考:後世に道を託す二題
平成二十七年十一月四日


一歩一歩、一呼吸一呼吸

 駅についたら、いま列車が出た後だった。きょう一日の計画が狂ってしまったとくやしがる。時として、一生の運命が変わってしまうことだってある。

 予定通り列車に乗って、思いどうおりに事がはこぶのも人生ならば、乗りおくれてイライラするのも、それなりの人生ではあるまいか。

 折りあしく、停電のためにエレベターが止まり、階段を一段一段のぼらなければならない時もある。汗を流しながらのぼるうちに、一歩一歩の、「いのち」を実感して喜ぶ人もあるにちがいない。ぶつぶつ不平を言いながらのぼるようでは、いのちの一歩一歩をだいなしにしてしまう。疲れが残るだけで「もつたいない」。せめて、着想の転換をして、勤務中に体力錬成のジョギングをさせてもらっている、と思うだけで気が明るくなり、こころよい汗となる。

 もともと、花の美しさに、一番、二番の序列はない。自分の好みで見るから評価がわかれる。自分のいのちの一こま一こまにも、出来、不出来の序列はない。自分の欲でことを判断するから、成功とか失敗とか明暗をわける。

 この天地宇宙、どこを見渡しても迷っているものは一つもない。山河大地、一木一草にいたるまで光り輝いている。小鳥のさえずり、犬の遠吠えまで、生き生きしている。

 人間はただ、わずかに自分の頭のなかで垣根をつくり、勝手に迷っているにすぎない。ほんとうは、迷っていると思いちがいをしているだけである。だが、その思いちがいのために、みんな右往左往して気ぜわしい一生をおくる。

 私たちは、どれほどもがいても、いつかは心臓の鼓動もとまり、一にぎりの灰になるときがくる。なんで灰に向かって、あくせく急ぐ必要があろうか。ことの出来、ふ出来に目くじらをたてるより、今の一歩一歩、この一呼吸一呼吸にいのちを実感しているほうが、はるかに燃焼した生き方であり、本来の生きざまである。

 空気のなかに生きているのに、空気を実感するのはむずかしい。重力の場に住みながら、重力を感じとるのがむずかし。同じように、現実に生きておりながら、生きている実感をもてない。からだが知っていることを頭でとらえようとするから逃がしてしまう。

 いのちに直(じか)にふれている人は、人生の破局につながるような失敗ごとにあっても、その嘆きがそのままいのちの糧(かて)となり、内容となる。失敗が失敗でなくなる。大地に山や河の起伏があるように、成功も失敗も人生をいろどる風景となる。

 私たちの「いのち」とは、このように際限もなく広く自由自在なものである。頭の中の「自分の世界」が区切りをつくり、狭くしているにすぎない。

※板橋興宗『人生は河の流れのごとく』(PHP)P.83~P.85

平成二十七年十月十一日


欠点に美あり

 十二月もクリスマスとなると、街かどにはジングルベルの音楽が流れてくる。歳末の売上商戦が活気づき人々の心も急にあわただしくなる。

 いよいよ大晦日になると、除夜の鐘をつくために、深夜、寒さにふるえながらお寺に行列をつくる。

 除夜の鐘をついてからお宮さんの元朝まいりがはじまる。一社にとどまらず遠近のお宮さんを回り歩く。

 年末年始の一週間のうちに、キリスト教と仏教と神道の行事に参加していることになる。

 結婚式は神前で三三九度の盃を交わす。最近はカッコよさにあこがれて、にわかクリスチャンになって教会で行うようなものもふえている。

 また仏前結婚も数こそ少ないが根づよいものがある。

 人生の終わりの儀式は、大部分の日本人は仏教式にやる。だが、自分たちの寺の宗派のなさえあいまいなものが多い。その宗派の内容について的確に返答できる人はごく少ない。

 西洋流の宗教感覚からすれば、大部分の日本人には個人の宗教はない。あるのは「家」の宗教である。宗教というよりは社会的な習俗に従って生きているだけである。このように断定する人が多い。

 全くその通りだと思う。だが雑炊のような宗教心が何で悪いのだろうか。

 悪いことをすると、「バチ」があたるという感覚は幼少のころから椊え付けられてきた。そのバチを与えるのが神か仏か、あるいは天なのか、それは全く問題にしない。ある人は神罰といい、ある人は仏罰といい、ある人は天罰という。

 古い寺に参ると、さまざまな仏さんがおられる。苔むした数々の石地蔵さんや観音さん、あるいは奇妙な顔をしている羅漢さんが並んでいる。それらに誰が縫ってかけるのか、色とりどりの帽子や、よだれかけのような「おけさ」が何枚もかけてある。お花や水が供えられ、賽銭まで置いてある。石仏の頭が無くなっているのには、小石をのせ、それに帽子までかぶせて拝んでいる。

 本堂にまつられている仏さんがどんな仏さんか全く気にしない。ただ有難そうに合掌して頭を垂れている。また大きな石や、意味ありげな古木には、しめ縄が張られ信仰の対象ともなっている。

 世の学識者は言うかもしれない。それは素朴な自然崇拝の宗教であり、原始的な宗教感覚であると。個人の心のよりどころとなる高級な信仰心を持つ日本人は少ないと言われても仕方がない。

 だがしかし、個人の支えになっている信仰を持つ人の中には、他の宗教に違和感を抱いたり、相いれない敵対感情さえ持つ人がある。

 「清水に魚住まず」と言われる。自分たちを清水だと信じている人たちにとっては、他の川の水は濁っているように見えてくる。

 日本人の宗教心には雑炊のようにどんなものでも煮込まれている。だが、これを「雑」といってさげすんでよいものだろうか。

 「雑」といえば、大海ほど雑なものはない。ヘドロも呑み込み、汚染された赤い水も、黒い水も、下水道の汚水さえ、みんな呑み込んで、違和感なく平然としている。

 一神教の文化圏の人々には正か邪か、イエスかノウか二つのうち一つしかないのかも知れない。

 日本人はイエスともノウともはっきり言わず、漠然としているところにむしろ落ちつきを得ているように見える。これが日本人の欠点だと西洋人は言う。あいまいな態度のために国際問題をひきおこしたことも多いと聞く。

 だが、この欠点と思われることころにこそ、日本人の美点が秘められていると私は主張したい。最近はイエスでもノウでもない、オンでもオフでもない「あいまいな」ところに科学のメスをいれてファジイの理論をつくり出し、日常の電気器具も便利になった。

 日本人の心情があいまいで、いいかげんな人種と卑下する必要はない。海のようにとらえどころのないほど広く深く、そして温かい情操を持ち合わせてていると、むしろ胸を張ってよいのではないか。

 学校の校庭や道路の拡張のためであろうか、そこに建っている忠魂碑やお地蔵さんを移転することになった。その時、自治体の公費を使用したことで裁判沙汰になったことがある。また市役所を建設するときの地鎮祭を神道でやったことで訴えられた。最高裁まで争われたように記憶している。裁判官の宗教観によって判決も大きくちがってくるようである。

 「宗教」の定義を狭くきびしく適用すれば法律上は解決する。しかし、法律的に合法な判断であっても、海のように広く優しい日本人の宗教的情操や感覚を正しく裁いているかどうかについては、疑念が残らないわけではない。

 日本人の漠とした庶民感情にも法律の物差しをあてて、ケジメヲをつけることは文化国家として当然のことである。

 だがその反面、日本人の豊かな宗教的情操や、優しい温かな感情まで合理的な冷たさがはいり込むことがあっては淋しいかぎりである。

※板橋興宗著『人生は川の流れのごとく』(PHP)P.119~123

平成二十七年十月三日


生きているうちには死なれない

 人が死んだら「あの世」にゆくと言われている。あの世は、生前に善いことをしている人は、極楽世界につれてゆかれて大変愉(たの)しい生活をさせられるそうである。反対に悪いことをした人は、地獄へおとされて、さんざん苦しめられるそうだ。

 あるいはそうかも知れない。そうであって欲しいと思う。

 私はまだ、あの世へ行ったことがないから確かことは分からない。

 未知な予測のつかないところは、あまり感じがよくない。自分からすすんで行ってみたいとは思わない。

 どんなに心の準備をしても、死ぬときは死んでしまう。心の準備とは関係なく、自然に息が切れてしまう。準備のしようがないのだ。

 しかし、死んでから遺されたものに迷惑のかからないように、生命保険をかけておいたり、墓地を用意しておいたりする心遣いは優しいこころづかいである。

 私も、死を目前にすれ「死にたくない」と、あわてて苦しむことだろう。しかし、今からそれを予想して考えてみても仕方がないことである。

 「死んだらどうなるか」と苦しむのは、頭の中で想像した「死」と、頭の中でひとり相撲して苦しんでいるようなものである。

 「死の影」におびえて冷汗を流しているようなものだ。悪夢にうなされているのと似ている。

 どんなに考えても、死ぬときは死ぬ。死んでからのちのことは死んでから考えればよいことである。生きているうちには死ぬことはできないのだから。

 考えても仕方ないことは考えないことだ。頭の無駄づかいして、しかも苦しむだけである。その愚かさに気づくことが大切なのだ。

 今、生きていることに生きがいを感じて生きていれば、あの世のことなど問題にならなくなる。

 それには、あとさきを考えたり、人と比べてあれこれ言いたがる悪い習慣をやめることに尽きる。この努力をふだんからしておくことが大切である。ここに修行や信仰の意味がある。

 死の問題を解決するということは、いろいろ考えて解決をつけることではなく、死ぬことが問題にならなくことに本質がある。

板橋興宗著『人生は河の流れのごとく』(PHP)P.144~146

平成二十六年五月二十五日


明日の心配は明日で足りる

 「バカヤロウ!」と、どなりつけられると、「なにを!」と反射的になる。

 それは、静かな池に石を投げると、ボチャンと音をたてて波紋がおこるのと同じである。

 しかし、水の波紋は時がたてば次第に弱まり、ついには何事もなかったように静かな池に戻る。

 ところが私たちの場合は、そう単純にはゆかない。「お前こそバカではないか」「なんで人の前で大声でおこるんだ」などと、考えれば考えるほどムカつき腹の虫がおさまらない。

 水の波紋は時間の経過とともに勢力が弱まる。なぜ人間の場合はそう簡単にゆかないのか。

 それは、人間は「考える」動物であるからである。考えは考えを呼び、つぎつぎ連鎖反応する。それにつれて感情も大きく起伏する。時によっては一年後にでも仕返しの障害事件を起こすことだってある。

 考えまいと思ってもグチグチ考えるくせがついて、おさえがきかない。

 「気に入らぬ風もあろうに柳かな」という句がある。癪にさわっても、それを問題にしないで、それをサラリと流すのがよい。

 「馬耳東風」ということがある。「馬の耳に念仏」ともいわれる。こらは聞いても聞こええないふりをして、その場をごまかそうという態度である。

 つまらない考えをため込んでおかずに、頭の中を風通しよくしておく意味での「馬耳東風」がよろしい。最近は馬を見ることも少なくなった。さしづめ猫耳東風(びょうじ とうふう)といきたい。

 "明日の心配は明日で足りる"と。きめ込んで日だまりで熟睡している猫を見習いたい。

 人間は「考える」ことで文化生活をするようになった。だが「考える」ことで悩んだりいらいらしたり心配ごと絶えなくなくなった。

参考:明日は明日の風が吹く

※板橋興宗『人生は河の流れのごとく』(PHP)P.154~156より

平成二十七年十一月一日 


人は棺を蓋て事定まる

 大乗寺の涅槃会法要とおだんごまきは、毎年二月十四日である。

 「ねはん」とは、古い印度の言葉でニルバーナといい、「吹き消す」という意味である。煩悩の焔を吹き消すということから、お悟りを開くという意味にも転じた。

 さらに、死んだ時はじめて煩悩の焔が消えると考えたのだろう。人が死ぬことも涅槃と言うようになった。ふつう涅槃会というのは、お釈迦さまの入滅された日に遺徳をたたえる法要のことを言う。

 その法要のときに涅槃図を掲げる。息をひき取られて横になっているお釈迦さまのまわりに、多くの弟子たちや信者たちが泣き悲しんでいる。人間だけではない。ありとあらゆる動物たちも集まって悲しんでいる。

 その動物の中に猫だけがいない。それは、猫が顔をなでおめかししているうちにお釈迦さまの死に際に間に合わなかったと言い聞かされてきた。

 ところが、大乗寺の涅槃図のなかには、猫もいる。しかもジャコウ猫もいる、むかでやだにまで悲しんでいる。

 江戸初期の心岩(しんがん)という有名な画家の作品で文化財なみの大きくて立派なものである(タテ四メートル・ヨコ三メートル)。

 当時、獅子、虎、象、犀などの動物は、日本人では実物を見たことがないのであろう。想像して描いた珍妙な姿をした猛獣たちも嘆き悲しんでいる。

 「人は棺を蓋て事定まる」と言われる。死んではじめて、その人の本当の評価がきまるということである。

 今、自分が息を引き取ったとしても、どれだけの人が嘆き悲しんでくれるだろむか。

 ”死んだ人にまで、お世辞を言う人はいない”

参考:岡山曹源寺涅槃会

※板橋興宗『人生は河の流れのごとく』(PHP)P.168~169より

平成三十年五月十一日


57

板橋興宗『良寛さんと道元禅師』生きる極意
光雲社 昭和六十一年十二月二十六日 四版発行

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 無風流の漢―わがクラスメートよ! 老いることをなげくな!!

 「夏炉冬扇」ということがある。夏の火鉢、冬の扇、これはどちらも季節はずれの間のぬけたものである。このような役たたずを象徴するものに坐禅がある。

 坐禅とは足を無理に組みあわせ、ジーッと精神を統一する瞑想法と理解されがちである。たるんでいる精神にカツをいれる精神修養とも思われている。たしかにそのように誤解される要素をふくんでいるが、本質的にちがう。

 坐禅は"自然"をまなぶことである。ごくあたりまえに息づいている自分の確かさを、おどろきしることにある。しあわせのありかたをヨソに求めて、うろたえていた自分の愚かさに気づくことである。

 水のはいっているコップを机の上にチョンと置けば、水の性にしたがって沈殿するものは沈むし、澄むものはすむ。手ごごろを加えて水を静める必要はない。坐禅も同じようなもので、腰のすわりをキチンと安定させ、背すじをピンとのばし、からだごと投げだしてドッカリ坐っている。身も心も開け放して悠然と坐ることが肝心である。

 もともと人間のからだは、微妙なセルフコントロール(自己制御)つきのすぐれた機能体である。私たちはふだん、この精巧な機能体を自分勝手にムチャな運転をし、酷使している。その危険信号が、からだの痛みや心の苦しみとなって、赤ランプが点滅する。

 坐禅はこの機能体のセルフコントロールのままに、スムーズに自活動させておくことである。なんのヘンテツもない夏炉冬扇(かろとうせん)の無風流(ぶふうりゆう)を味わうがごとく、自分の自然な息づかいに新鮮な悦びを感じている様子である。これを禅門では「自受用三昧(じ じゅようざんまい)」とか「全機現(ぜんきげん)」と言っている。

itabashiryoukan.JPG itabashiryoukan.JPG  私は昭和二十年八月、海軍兵学校生活最後のころ、朝ベッドから飛び起きるとシーツがしっとりぬれていた。それが毎晩つづく。てっきり寝小便したものと、恥ずかしく困惑していた。それが寝汗だったのだ。あの炎天下、みんなと駈足したり訓練するのがつらく胸がヒイヒイ痛んだ。ひそかに便所にはいって休んだことも何度かある。そして敗残兵のように復員列車にゆられて郷里仙台の田舎に帰った。翌日から肋膜炎と診断されて動けなくなる。生来の愚鈊に加えて病気のこともあり、中学の同級生より三年か四年おくれて大学にはいった。あれやこれやで劣等感がますますひどくなる。

 兵学校当時のプライドも気魄も完全に地におちた。自分の一生でゆきつく地位や名誉も、どのていどか見当がつくようになった。嫁にもらう女性のレベルは二段も三段も格おちするだろうと悲観した。今から思えば、たわいもないことだが、当時はうちひしがれてもんもんとしていた。

 「人生とは何ぞや?」

 私にとっては哲学上の観念的な問題ではない。魂をえぐるいのちの疑問である。人生とはふ可解なものなら、そのふ可解なという結論だけは永遠の真理である保証がほしかった。

 そんなある日、ふとしたことで坐禅会に行くことになる。それが縁で学校を卒(お)えると、すぐ正式に禅門の人となった。雲水修行中、休暇を利用して数年ぶりに郷里に帰ったことがある。敗戦から復興に立ち上がった日本の発展は、東北の田舎でもめざましいものがあり、自動車が猛スピードで走り廻り、人々は忙しそうであった。その光景をみて、

 「ははあ!! これからの日本は、精神科の病院と禅寺がはやるな」

と、直感したことをおぼえている。

 その直感がどれほど的中したかは、街かどで目につく精神科の看板をみてもわかるし、大きな禅寺は会社や学校などの参禅研修のスケジュールで一ぱいにつまっていることでも、大体のことは見当がつくであろう。この傾向はますます顕著になることを予言しておきたい。

 むかし人間の知識や技術が発達しない時代は、農耕狩猟するにも、人力の及ばないことは、すべて宗教儀式を通じて超自然の助けを求めた。ところが現代は科学や技術が爆発的に進歩し、今や地球上のことは知らざることなく、月世界はもちろん火星や木星まで探索する時代になった。

 神や仏の力を借りなくとも生活にことかかない。人力以上の力を祈願しなくとも、人間の力でほとんどのことが解決つくように思われる時代になった。その意味では「宗教は阿片なり」と、一笑できる世の中になりつつある。

 ところが、腹一ぱい食べ享楽生活も自由にたのしめる豊かなご時世になったのに、ノイローゼや自殺者がふえる一方であり、新興の宗教はまことに盛んである。毎日報道される人殺しや犯罪も、大げさでハデになった。目標にむかって歯をくいしばり努力しているときは情熱がもえてはりあいがある。それが達成されてしまうと、うつろを感じ希望も消え失せてくる。このシラケムードは青少年にも及び、小中学生の自殺や人ごろしなど衝動的な犯罪が年々多くなっている。

 この現象をみてわかるように、人間には金や物の充足だけではどうにも解決のつかぬ、より大切な問題がある。どれほど物質文明が進歩しても、人間の力で自由に出来る領域はいかに微弱なものであるか。ここに思いを致してこそ真の知識人といえよう。

 その人間だけが他の動物とちがって、自分のやっていることの「意味」を考えることが出来る。食って寝て肉体の欲望をみたすことだけくり返していると、生きていることに倦怠をおぼえて無気力になり、やがて自殺するものもでてくる。自分のやっている生活の意義を感じることによって、生きる張り合いを見出す。これが人間である。

 私たちクラスメートは、すでに五十年以上この世に生きてきた。少なからず悔恨はのこるものの、全力投球して今日まで生きのびて来た。その甲斐あって、この年代になってやっと最高に調子も出てきた。

 しかし秋の日の落ちるのは、はやい。それをからだで実感しつつある。近い将来、全力投球すべき球を取りあげられ、支えてくれたキャッチャーもいなくなる。そればかりか、もっと確実に、このわが身が灰になる日が必ずやってくる。

 私たちは、ガムシャラに生きることだけを考えてきた。ホンの目さきのことだけに東奔西走してきた。この自分が必ず死ぬ、ということは観念として知っているが、陰気なこととして遠ざけて考えまいとしていた。職場を去った老後を、何に生き甲斐を見出して暮らしてゆくか。明日を待たず冷たくなるかも知れない死をどう覚悟してゆくか。死について目をふさいで生きるものは、現在を生きることについても盲目である。死の意味を問うのは人間だけである。自分の死を見つめている者だけが、生きている尊さを知り得る。

 この自分たちが歩んできた人生とは一体なんであったのか。四苦八苦して働いてきたが、これが大宇宙の運行とどれだけのかかわりがあったのか。大自然に息づく今の自分とは何であるのか。

 いつの日か、必ずひとにぎりの骨灰となって大地に還る、このからだ、この自分。この確実な結論を視点にすえて、現在の生活を見なおしてみたい。そこから自然に解答は見出せるのでなかろうか。

 わがクラスメートよ! 気をおとすことはない。秋には秋のけだかき静けさがあるではないか。一刻千金は春宵(しゅんしょう)にかぎったことではない。わびた秋のしずけさこそ一期一会のしみじみした法悦を知る。人生のはかなさを肌で感じ、世の無常を魂でふれたものでなければ、人生のふかさを味わい得ない。この年齢になったら酒や女やマージャンなどで、さびしさをまぎらしては、もったいない。そんなうさばらしを繰り返すのは、生きるはりあいを見失わっているからではないか。わびしさをわびしいままに生きる。さびしさをさびしさのまんまに、そこに親しんでいる。そのやるせないまでの「わび」「さび」の悦(よろこ)びを知らずして、何の人生がある。墓の下にはいってからではおそい。

 むかし禅の大徳は言った。

 「十(と)たび言わんとして九(ここの)たび休し去り、口辺(こうへん)カビ生じて臘月(ろうげつ)の扇(せん)の如く、風鈴(ふうれい)の虚空(こくう)にかかって四方(よも)の風を問わざるが如くなるは、これ道人の風標(ふうひょう)なり」

 私たちは、あまり多くしゃべり過ぎてきた。底の浅い小川は音をたてて流れるように、内容が貧しいばかりに多くを語り、ムダばなしをしてきたのではないか。底の深い大河の水は音をたてないで流れる。自分自身に満ち足りているものは、自分を語る必要がない。口を真一文字に結んで、そこにカビさえ生えるほど寡黙の人、臘月(十二月)の扇のごとく無風流の漢。それでいて風鈴が東西南北の風を問わず軽やかに反応しているように、いつもこころさわやかな人。このような人こそ、自分の人生を自分の足どりで歩いている人と言えよう。

 夏炉冬扇の役立たずの坐禅が、実はこのように格外の力量ある人物を育てるのである。私たちも、こんな生きかたたにあごがれてもよい年代になったのではないか。

  いかに 強風吹きまくも

  いかに 怒涛は逆まくも

 と高歌し、いのちをお国のために捧げつくさんと、紅顔を輝かした昔のエリートたちよ!! 人生の本当のエリートとは一体どう生きることなのか。このへんで、しんみり考えてみようではないか。

――和尚 合掌――
(海軍兵学校クラス会誌『生徒館』・昭和54年8月号掲載)
 板橋興宗『良寛さんと道元禅師』(光雲者)P.133~140 による。
平成二十七年十一月十一日


58

高島俊男『お言葉ですが』

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 高島俊男 中国文学者、エッセイスト(1937~)著『お言葉ですが』(文藝春秋)一九九六年十月十五日 第一刷

「日本語に二人称なし」P.72~76

 読者の御婦人からお手紙をちょうだいした。冒頭「週刊誌文春で……」とはじまって一転、「どうお呼びしたらよいのでしょう」とある。わたし(高島)を呼ぶことばがないことにハタとお気付きになったのである。「先生」は気色が悪し、「高島さん」はなれなれしいし、「おじさん」はちょっと失礼だし……、とある。

 まことにごもつともである。わたしも手紙を書く際いつもそれに困まっている。ある程度の年配と察せられる方に対しては「貴下」「貴台」などでごまかしているが、困るのは相手が御婦人、ことに自分より年上であろうと思われる時だ。「貴下」は変だし「貴女」なんて気持ちが悪くて書いたことがないし……。

 読者のかたへは「残念ながら日本語には、知らない人や年上の人を呼ぶ二人称はないのです」と返事した。

 十七年ほど前のある夜、教師仲間数人と上海の繁華街南京路を歩いていた。繁華街といっても薄暗い。突然目の前に二人の青年が立ちはだかって、矢つぎばやに話しかけてきた。

 「あなたがたは日本人ですか」

 「あなたがたはいつここへきましたか」

 「あなたがたはいつまでここにいますか」

 「あなたがの職業なんですか」……。

 聞けば、夜間の学校で日本語を習っているとのこと。話してみたくてしようがないらしい。

 仲間の一人で平井という語学専門家が、「ちょっと来なさい」と二人を近くの食堂にひっぱりこんだ。今はどうか知らぬが、そのころ喫茶店はなかった。すわって話をしたければ食堂しかない。平井のやつえらい剣幕で何のつもりだろう、といぶかりtくつわれわれもついてはいった。席につくと平井は、

 だめだ。君らは根本的に考えちがいをしている。学校で中国の『你』は日本語では『あなた』だと教わったものだから、そんなに『あなたがた』『あなたがた』を連発するんだろう。大まちがいだ。日本語には二人称はない。と、両人を相手に授業をはじめたのである。

 ーーいいか、日本語に二人称はない。そのかわりほかの語で二人称を示す。「失礼ですが日本のかたでいらっしゃいますか」と言うんだ。「失礼ですが」は人に話しかける時のあいさつ。「日本人」ではなく「日本のかた」、「ですか」ではなく「でいらっしゃいますか」、これが二人称のかわりになる。「あなたがた」なんて日本語はないんだ。わかったか。そのつぎ「いつこちらへおいでになりました」または「いつこちらへいらっしゃいましたか」と言うんだ。「ここ」ではな「こち」、「来ましたか」ではなく……。

 二人の中国青年は、降ってわいた災難にひたすら恐れ入って、ハイ、ハイと神妙にうけたわっている。われわれはこちらのテーブルで、

 「平井はしつこいんだょね」

 「いや、教育熱心なんだよ」

 「急におしえたってわかるものか?」

 「そう、むつかしいんだよ二人称は」

などと勝手なことを言いながら、延々とつづく授業の終わりを待った。

 日本語に二人称がないことはない。君、あなた、おまえ、しかしどれも目下に対するものだから、これから日本語を学ぶ外国の青年にとってはないも同然である。はっきり「ない」と断言したのはさすが平井、「人を見て法を説く」というものだ、とわたしは感心して見ていた。

 学生のころ、台湾から来た洪順隆(こうじゅんりゅう)という留学生がいた。年はわたしより一つ上で、国民学校四年生まで日本語の世代である。だからたどたどしいながら一応しゃべるのだが、見当はずれに強情なところのある妙な日本語であった。

 たとえばわたしが「風邪をひいたらしい」としきりに鼻をかんでいると、親切に「早く薬を食べなさい」と言う。「薬は食べるじゃなくて飲むだよ」と教えてやると、「吃薬(チーヤヲ)だから食べるが正しい。日本人が飲むと言うのは間違っている」と平然たるものなのである。

 誰に対しても「貴様」と呼んだ「貴様は相手をののしる言葉だからやめたほうがいい」と誰もが忠告するのだが、「それはまちがいだ。『貴』は相手を尊重する語、『さま』も日本語で相手を尊重する語ではないか」と決して改めない。教授の部屋に行って「貴様の演習に出たい」と言ったのだそうで、「あれにはびっくりしたよ」と先生が言っていた。

参考:私は、海軍兵学校で同期生と話す時、「貴様と俺」と言っていた。上級生には、決して「貴様」と言うことはなかった。

 毎年夏には一週間の合宿へ行く。午前中と夜は先生の指導で勉強、午後は休みである。その休み時間に数人で歌仙(かせん)をやっていた。歌仙は俳諧の一種で五七五の句と七七の句とをつないでゆく遊びである。

 洪順隆はかたわらでわれわれのすることをじっと見ていたが、そのうち様子がわかってきたらしく、「おれも入れてくれ」と言い出した。 

 「おまえには無理だよ」とすげなくことわったらムッとして、「できる、かならずできる」と引きさがらない。

 高橋という男が、「霧雨の場末のバーに夜も更けて」というへたくそな句を出したところだった。「じゃこれにゆけてみな」と渡すと、しきりに指を折りながらウンウンうなっていたが、そのうちに成案を得て、短冊に書いてよこした。見ると、

 「彼女の顔はまん丸の月」

とある。われわれはドッと笑った。

 さあ洪順隆が怒った。もともと黒い顔に血がのぼってどす赤い変な色になり、立ちあがってわれわれに指をつきつけて、「これは面 如圓月(ミエンルーユエンユエ)を日本語にしたんだ。卓文君(ズオウェンチン)の故事だ。貴様らは卓文君も知らんのか。貴様ら日本人どもにはこの句のよさがからんのか」と怒り狂った。この時には、彼独自の二人称「貴様」が、まことにぴったりであった。

 卓文君は史上聞名の美人であった。司馬相如(しばしようじよ)とかけおちして成都市中で酒場を開き、相如はふんどし一本でで皿を洗い文君はカウンターで客に酒をついだ、と史記の司馬相如伝にある。だから場末のバーにはよく即(つ)いている。それでもやはり「彼女の顔はまん丸の月」はおかしい。その上洪順隆が体をふるわえて貴様ら貴様らと怒るので、われわれは畳を叩いて笑った。

 洪順隆はその後台湾に帰って文化大学の教授になった。一九八〇年の春、わたしは台北へ遊びに行った。洪順隆には前もって手紙で日取りを知らせておいた。宿舎に荷物を置くとすぐ、わたしは瑞安街(ずいあんがい)の彼の家をたずねて行った。門口にあらわれた彼はわたしを見て、

 「貴様、ちょっとも変わらんな」と破顔一笑した。

 久しぶりに洪順隆の「貴様」を聞いて、わたしは心弾んだ。('95.8.10)

平成29年(2017年)六月二十日


「馬から落ちて落馬して」P.77~81

 子供のころ、よくこんなことを言って遊んだ。

 「武士と言われた侍が、馬から落ちて落馬して、女の婦人に笑われて、腹を切って切腹した」「馬から落ちる」と「ラクバする」と「セップクする」というふうに全然ちがうことばが、実は同じ意味であるというのがおもしろかった。こんなことを言いながら、音がちがっていても同じ意味が同じであることばを重ねて言うのはおかしいのだ、ということも自然に覚えたのであろう。

 もっとも「馬から落ちて落馬して」や「腹を切って切腹」は口で言うからおもしろいので、字で書いたら、重複であることからおもしろくない。

 先日の新聞にこんな投書がのっていた。テレビのレポーターが、

 「七年ごしの恋がみのった御両人は、ただいま挙式をあげました」


「もんじゅマンジュ」P.207~211

 ナトリウムもれ事故を起こして以来、新聞に高速増殖炉「もんじゅ」のなを見ない日はないほどだ。

 「もんじゅ」ばかりが有名」になったが、もう一つ兄弟分の「ふげん」というものがある。もっとも「ふげん」のほうは「転換」というものだそうだが――。二つ仲良く並んで福井県敦賀半島の先端にある。

 「もんじゅ」も「ふげん」も菩薩の名前である。漢字で書けば文殊と普賢。

 さてそのもんじゅ、もとはもちろんインドの仏さまで、本名は「マンジュシリ」という。千五百年ほど前、この仏さまが支那に入って、漢字で「文殊師利(マンジュシリ)」もしくは「蔓珠室利(マンジュシリ)」と書かれた。通常は下半分を省略して「文殊」「蔓珠」と言っている。日本ではもっぱら「文殊」を用いるが、マンジュゲだけは「蔓珠沙華」とこちらを書く。

 去年の夏、毎日新聞に「戦後50年の満洲国」と題する短論がでていた。筆者は京都大学の山室信一先生。今の新聞に「満洲」の字が出ることはめずらしい。ふつぶは「満州」と書く。無論「洲」の方が正しいのである。満洲国の専門家である山室先生がつよく主張なさって、毎日新聞が折れたのだろう。

 この「満洲」も仏さまの「マンジュ」である。「文殊」と「満洲」、漢字で書くとまるで無縁みたいだが、同じことばなのだ。

 戦前の日本人が「満洲」と呼んだ地域、あそこには昔、ジュルチンという民族が住んでいた。漢字では「女直」もしくは「女真」と書く。明の時代、十六世紀から十七世紀に強くなった。

 ジュルチンは仏教を信仰したが、特にマンジュ菩薩を尊崇した。そこで自分たちの民族名も、「ジュルチン」をやめて「マンジュ」とした。のちに漢字を使うようになると、これに「満住(マンジュ)」また「満洲(マンジュ)」の文字をあてた。

 「満洲」と書くことに一定したのは、ホンタイジ(皇太極)すなわち清の太宗の時からである。これにはわけがある。

 昔から支那の各王朝はみな、五行(ごぎょう)「木、火、土、金、水」のいずれかを王朝のシンボルとする。明王朝はそれが火であった。これを「明は火徳(かとく)の王朝である」というふうに。

 ホンタイジは明に対抗するために、民族名は「満洲」、国名は「清」、と全部サンズイでそろえた。「水徳(すいとく)の王朝」としたわけである。水は火に勝にきまっている。この作戦(?)は大成功して、ホンタイジ自身はもうちょっとのところで戦死したが、むすこの順治帝の時に明をほろぼして、「中国」に覇をとなえることとなった。

 そういうわけで「満洲」というのは民族名である。それはいまもそうである。現在の中国は民族名はみな下に「族」をつけるから、「満洲族」であるいは略して「満族」と言っている。

 それではいつから地名みたいなことになったかというと、西洋人がやって来て、あの地域を「満洲(マンジュ)の地」マンチュリアと呼んだからである。

 日本では江戸時代の末まで、あの地域を「韃靼(だつたん)」と言っていた。明治以後、西洋人のまねをして満洲(マンジュ)と言い出したのである。

 日本人は奈良平安のころに支那とつきあいがあったから、ずっとたいへん親しい国みたいに勝手に思いこんでいるが、実は鎌倉時代以降はほとんどつきあいがない。特に江戸時代には誰も行っていない。そのあいだに西洋人はどんどん行っているから、地名なんかは西洋人のまねをしたものが多い。北京(ぺきん)、南京(なんきん)、上海(しゃんはい)、香港(ほんこん)などみなそうである。ずっとつきあいがあったら、北京(ぼくけい)、南京(なんけい)、上海(じょうかい)、香港(こうこう)と言っているはずだ。揚子江(ようすこう)も西洋人が「ヤンツーリバー」と言うからそのまねをしたのである。

 つまりあの地域を「マンチュリア」ないし「満洲」と言うのは西洋人の呼びかたなのである。現在中華人民共和国では「東北」と呼ぶ。中華民国時代は「東三省」、それ以前は「漢外(かんがい)」と言っていた。山海関(さんかいかん)の外、の意である。山海関は万里の長城東端の重要な関門である。

 日露戦争後、日本が領有した遼東半島大連の一帯を「関東州」と言ったのも、山海関の東、の意味である。またあの地域におかれた日本軍を「関東軍」と言ったのも同じ。ちかごろは、関東軍というと茨木県あたりにいた軍隊かと思っている人もあるので念のため。

 漢外から見て山海関の内側を「中国」と言う。ジュルチンあらためマンジュが「中国に覇をとなえた」と言うのは、漢外におこって山海関を破り、その内側を取っちゃった、ということである。

 満洲を満州と書くのはまちがいだが、特に歴史上の名辞である「満洲国」を、新聞はもとより各種辞典類までが「満州国」としてあるのは、その見識を疑わざるを得ない。ただし、さすがに『国史大辞典』はすべて「満洲」とする。

 なぜそいうまちがいが生じたか、思うに理由は三つある。

 一つは、戦後に政府が略字を制定して、「はまの旧字」は「浜」、「廣」は「広」、というふうにした際に、「洲」は「州」になったと思う人があるせいである。しかしそれは思いちがいである。もしそうなら、東京の八重洲は「八重州」になり、淡路島の洲本は「州本」になるはずだが、そうはならない。「洲」と「州」は別の字である。

 もう一つは、満洲は徐州・鄭州・杭州などと同系列の地名だと思っている人があるのである。しかしそれがまちがいであるのは、これまでの説明で十分おわかりいただけるはずである。「満洲」は「文殊」と同じく、マンジュという仏さまのお名の漢字表記なのである。

 それともう一つ多分、「洲」の字は当用漢字や常用漢字にないから使ってはいけない、と思っている人があるのだろうが、それもまちがいで、固有名詞は適用外である。新潟の「潟」は常用漢字にないから今後は「新型県」と書け、とはいかに横暴な文部省も申してはおらない。

 そう言うとまた、「でも広辞苑に『満州国』とあります」とおっしゃるかたがあるかもしれませんが、いくら広辞苑にあってもダメなものはダメなのであります。だいたい広辞苑というのは、あまり出来のいい辞書ではない。どうか今後は、まず眉毛にツバをつけてから広辞苑を開く習慣をおつけになるよう、おすすめ申し上げます。P.212

('96.2.29)


 以上は高島俊男『お言葉ですが…』(文藝春秋社)一九十六年十月十五日 第一刷りによる。平成29年8月3日、NHK TVで「満洲」を「満州」とかかれた字幕があった。

▼禅寺の坐禅堂に「文殊菩薩」を祀っていますが、それはなぜだろうかと思いましてインターネットでしらべますと

 各修行道場にある坐禅堂の前門には聖僧という仏像(多くは文殊菩薩)が鎮座しておられます。
 智慧の象徴ともいわれる文殊菩薩が道場での一番の修行の場である坐禅堂におられるのは、禅僧の「一生懸命坐って是が非でも悟るのだ!」という心意気の表れでもあります。

▼十支の「一代守り本尊」が決まっている。

 一代守り本尊では○卯年生まれの人は文殊菩薩 ○辰年生まれの人は普賢菩薩とある。

参考1:一代守り本尊とは、生まれ年によって生涯自分と関わりの深い佛様が決まっているというものです。生涯にわたり自分の守り本尊を大事にされるのも良いかと思います。

 卯 年生まれは、文殊菩薩。普賢菩薩と共に釈尊の脇侍とされ、釈迦三尊の佛様として知られています。獅子に乗った姿が有名で、知恵を司る佛様とされています。維摩経での維摩居士との問答等が有名で、広くは学問の仏様としてよく信仰されています。

   辰・巳年生まれは、普賢菩薩。文殊菩薩と共に釈尊の脇侍とされ釈迦三尊の佛様として知られています。六牙の白象に乗った姿が有名で、慈悲の佛様とされています。女人救済をする佛様として広く認識されており、女性に好まれたそうです。

文殊菩薩卯年生 で出所は『三世相大雑書』という占いの古典のなかに明記されているとの説明がされています。

 山岳に対する信仰が日本にはあるとのことです。雲仙普賢岳もその一つだと思いますが、日々その山を見、対座して考えることはこころの癒しにもなり、その周辺にお住みのかたがたは精神的に幸せなのでないでしょうか。然し爆発して火砕流は周辺のかたがたに襲いかかったことが、つい先日のように思い出されます。いまだに心にきづついていらっしゃる方々にはお慰めいたします。

 高島さんの本から「知の飛び火」をたのしむことができました。

平成二十九年八月三日


 「べし」はどこへ行った P.238~242

 下にかかげるのは、先日の毎日新聞囲碁欄、小堀敬爾さんの観戦記の一部です。

 このなかに、ちかごろめったにお目にかかれない優秀な表現があります。どこでしょう? 碁の知識は関係なし。

 「コウが続き、白68とアテたとき勝負のポイントがあった。ここでコウをやめるべしというのが対局舎の結論。」

 おわかりですか?

 そう、「やめるべし」の「べし」です。これが今、新聞・テレビから姿を消した。

 去年の暮れのころ、ある新聞が三日連続の投書特集をやった。その総テーマが、

「村山内閣は即刻退陣すべき」

というのだから、しまらないよね。言うなら「即刻退陣すべし」と言ってもらいたい。

 これも先日、連合(日本労働組合総連合会)の意見広告が出ていた。組合員の声を特集したものらしいのだが、

 「住専問題に、なぜ連合は怒らないのか。国民の怒りを代弁して行動をおこすべき」

などと「べき」「べき」が並んでいる。

 以前はこうじゃなかった。

 黒澤明監督の名作『七人の侍』。

 野武士の群れになやまされる百姓たちが、浪人者をやとって村を守ってはどうか、と長老に相談を持ちかける。高堂国典扮するあの、半分眠ってて半分死にかけてるような長老が、

 「やるべし」

と断をくだし、数人の代表が腹のへった侍をさがしに出かける‥‥‥。

 あのセリフはなかなか光ってて、「べし」という漫画のキャラクターが生まれたくらいだった。

 いまの新聞の調子だとあそこまで「やるべき」と言うことになる。

 大藪春彦さんの『野獣死すべし』という小説がありました。あれも今なら『野獣死すべき』である。

 いつから、どういう経緯でこうなったのか、無論わたしは存じません。

 わたし個人がはじめてお目に(お耳に?)かかったのは、テレビ朝日ニュースステーションの小宮悦子さんだった。

 あの番組で時々ヨロン調査なるものをやる。その結果をつたえる時に小宮さんが、「自民党は消費税案を撤回すべき」とか「竹下首相はリクルートの責任をとって辞任すべき」とか言う。

 「あのあとにちょいと『だ』か『である』をつけてくれたら、こっちもだいぶ助かるんだけれどなあ。美人かならずしも賢くない見本みたいな人だなあ」とわたしはいつも溜息をついていた。

 かならずしも賢くなくてもやはり美人の影響力は絶大なもので、「言い切りの『べき』」は燎原の火のごとくひろがり、ついに世を制覇してしまった、というのがわたしの印象なのである。

 本来、「べき」で終わるのは疑問や反語なんですね。

 「げに一刻も千金の、ながめを何にたとふべき」。

 今の若いかたはこんな歌習わないかな?「春のうららの隅田川」ではじまる「花」。作詞武島羽衣、作曲滝廉太郎、日本がほこる名曲です。

 それから「故旧忘れ得べき」。これはいよいよお若いかたごぞんじなかろうけれど、「蛍の光」の元歌ですね。スコットランド民謡「久しき昔」、つまりこちらは外国の名曲。その第一行が「Should auld aquaintance be forget」、古い知り合いを忘れてよかろうか、つまり「故旧忘れ得べき」。

 こうした疑問や反語でないのはやはり、「大蔵省は解体すべし」もしくは「解体すべきだ」と言っていただきたいものです。

 上に「ヨロン調査なるもの」と言った。これは小宮美人が言うところと画面の字幕とがちがうから「なるもの」と書いたのである。

 この字と口とのくいちがいについては、何人もの読者のかたから、「失跡」「シッソウ」問題でお手紙をちょうだいしている。ある人が行きがた知れずになったことを報道する際、画面には「失踪」と字が出て、小宮さんシッソウおおっしゃるのである。たしかにおかしい。

 ただしこれは小宮美人にかぎったことではなく、ほかの局の美女も言っている。何のためらいもなくそう言っているところを見ると、どうも美人さんたちは実際「失跡」はシッソウと読むのだと思いこんでいるらしい。

 「失跡」はシッセキとしか読めない。シッソウは「失踪」である。似ているけどよく見れば右側がちがいます。

 そっもそもこの「失跡」という語自体がウサンくさいのですね。戦後の当用漢字のわくから「踪」の字がはね出されたので、新聞がかわりに「失跡」とい疑似造語をひり出した。新聞に出ている以上そういう語が存在するとみとめざるを得ず、辞書ものせる。ついに市民権を得てしまう。そういういかがわしい経緯でデッチあげられて横行している言葉がいろいろあります。「汚職」なんかその最たるもの、「汚い職」とは何のことですか。

 ところでヨロン調査。字幕には「世論調査」と出る。「世論」はどうしたってヨロンとは読めませんよね。もし読めるなら「世界」はヨカイで「二十世紀」は二ジュヨキだ。

 ヨロンは「輿論」。「輿」は「衆」と同じで「おおぜいの人」の意。「輿論」は「おおぜいの人の意見」で、「学内輿論」「社内輿論」などとも用いる。

 また「輿望をになう」というのは「おおぜいの人の望みを一身に負う」ということである。

 対して「世論」はセイロン。あまり使われることばではないが、かっての軍人勅諭には「世論に惑はず政治に拘わらず」とあった。

 また福沢諭吉の『文明論之概略』に「古今の世論多端にして」、同じく『福翁自伝』にも「世論に頓着せず」云々とあり、これら諸例を見てもわかるように「世間の人たちがいろいろゴチャゴチャと言うこと」といった否定的な気分で用いられる。元来「輿論」とはニュアンスのことなる語である。

 世論をセロンと言う人もある。それでもよいが、しかし本来、「世」をセと読むのは仏教語である。「世界」も仏教語。「世論」は仏教とは無関係だから、どちらかといえばセイロンのほうがよい。

 とにかく「世論」をヨロンと言うのは無茶苦茶なのであるが、しかし今の世のなか、なんといっても強いのは美人とテレビである。そのテレビで美人が言っているのだから、あたくしなんぞがこんな所でグズグズ言っても所詮はゴマメの歯ぎしり、「美人の勝ち、オッサンの負け」となるのは目に見えておりますね。(’96・4・18)

*参考1:「世」は「世界」の簡稱。「界」を参看せよ。
*参考2:「世界」とは、天地のの間に同居すると謂ふ。人と人とはただ世を以って界と為し、他に彼此の別なし。本と仏教の語。
*『漢字典』(研文社)より。

私の思い:かねてから私には理解できないものの一として、「よろん調査」の「よろん」の漢字です。

 新聞でも「本社世論調査」と掲載されている。

 インターネットで「よろんちょうさ」で検索するとよろん‐ちょうさ〔‐テウサ〕【世論調査】と出ていました。

▼高島俊男『お言葉ですが・・・』(文藝春秋)に取り上げられていた。

 ヨロン調査。字幕には「世論調査」と出る。「世論」はどうしたってヨロンとは読めませんよね。もし読めるなら「世界」はヨカイで「二十世紀」は二ジュヨキだ。

平成十九年六月九日


「忍」の一字 P.253~257

 いつだったか、テレビで将棋の大山名人のことをやっていました。

 このかたは、揮毫を求められるといつも、「忍」と一字書いたそうです。「じっとがまん」の意味でしょうね。

 終ってチャンネルをまわすと、たまたま「素人忍者コンテスト」なるものをやっていた。静かに素早く塀を越えたり、水にもぐったままお濠を渡ったりの腕くらべ。このほうは抜き足さし足忍び足の「忍」、つまり「こっそり」の意味である。

 「じっとがまん」と「こっそり」とではだいぶ意味がちがうが、「隠して表に出さない」というところに共通のニュアンスが感じられる。

 三十年ほど昔、アルゼンチンから来た青年に論語を教えたことがある。

 この青年、名はロベルト・オラシヲ・エピディオ・オエストという。お前さんの名前はなんでそんなに長いのかね、ときいたら、これはお父さんのお父さんがつけた名前でこれはお母さんのお父さんがつけた名前で……、と一々説明して、由緒のある家の子ほど名前がたくさんあるんだ、といばっていた。

 むこうで日本語を習得してから日本の大学へ江戸時代の研究しにきたとのこと。日本語はまったくふ自由ないのだが、本を読んでいるとわけのわからぬ文句が出てくる。人に聞くと、それは漢籍に出る言葉なのだという。

 言われてみるとたしかに日本人は、「巧言令色鮮(すくな)いかな仁だなあ」などと、ことわりもなしに言う。本にも出る。アルゼンチンの人にはわからないよね。で、そういうのを教えてくれとたのまれた。

 考えて、とにかく一番よく出てくるのは論語だから、論語を全部暗記してもらうことにした。意味内容は自分で英訳を見てくれ、と一切省略(アルゼンチンはスペイン語だが、ロベルトは秀才だから無論英語もできる)。

 毎週一度、三年ほど西巣鴨のアパートへ教えに行った。なにしろお風呂屋の好きな男で、借りてある鍵で入って待っていると、タオルをさげて顔をテラテラさせて御機嫌で帰ってくる。それから論語の勉強である。

 「マナビテトキニコレヲナロー」から始めて順調に進んだのだが、「八佾(はちいつ)」の頭のところでひっかかった。

 原文は「是可忍也孰忍ざらん也」。これを「コレヲシモシノブべクンバイヅレヲカシノブベカラザラン」と読むのであるが、さあこれがどうしても言えない。まんなかあたりまでくると、顔が真赤になる。舌がからまったまま動かなくなる。大汗をかいてやっと峠を越しても、おしまいが「ベラザラカラカラ」になってしまうのである。

 「まあちょっと休んで……」と言うと、お茶を一杯飲んでからんだ舌をもとにもどし、それからやおら「こんなことが人間の口で言えるはずがない」と怒り出す。わたしが言ってみせると、「どうして日本人の舌はそうツルツルとまわるのだ!」といよいよ憤怒する。

 とうとう八佾の冒頭一章はとばすことにしてケリをつけた。

 毎度最初から全部暗誦しなおした上で先に進むのであるが、ここを通りかかるたびにロベルトは、「ゲーッ!」と憎悪と侮蔑の意思表示をすることを忘れないのであった。

 もともと「忍」というのは、「ひどいことを平気でする」という意味である。つまり「残忍」の「忍」だ。

 詩経に見えるおよそ三千年も前の歌に、「ああ、かの忍心」とある。なんというむごい心、ということである。

 また左伝に「あれは忍人だ」というところがある。これは残忍刻薄の人物ということ。

 これが否定の「ふ」をつけた「ふ忍」は、「ひどいことができない」の意になる。つまり「ふ忍」は「思いやり」である。

 孟子という人は、例のいわゆる「性善説」をとなえ、人は誰でも生まれながらに「ふ忍」の心を持っているのだ、と主張した。小さな子供が井戸に落ちそうになっているのを見れば、誰でも思わず駆け寄って助けようとする。それが「ふ忍」の心である、というわけ。

 東京の上野に「ふ忍池」がある。あれは、池にあつまる鳥たちに対してひどいことをしない、今の言葉で言えば「生きもの愛護の池」という意味でなづけられたのであろうとわたしは思っているのであるが、いかがでありましょうか。

 ロベルトがどうしても「コレヲシモシノブべクンバ……」、あれは、「これを辛抱するくらいだったらもうどんなことでも辛抱できる」と解釈する説と、こんなひどいことをするならもうどんなひどいことでもしかねないと解釈する説とがあって、日本では一般に前のほうが行われているが、わたしはどちらかというとあとのほうをとりたい。

 というわけでわたしは、強い将棋指しが「忍」と書くと、「敵に対しては容赦なく、二度と立ちなおれないほど叩きのめす」という感じがちょっとするし、「忍者」というと、「たのまれればどんなむごいことでも平気でする者」という感じがちょっとするのである。

 なぜ「忍」が、「ひどいことをする」であり、また「じっとがまんする」でもあるのか。それはどちらも「心理的に無理をする」行為だからだろう。憐憫の芽生えを抑えて残忍を働く、激情の爆発を抑えて辛抱する、そこに共通するものがあるのだと思う。

 わたしが学生だったころ、主任教授は小野忍という先生であった。この小野先生と仲のわるい、――というより、どういうわけか一方的に小野先生をひどくきらっているKという先生がいた。

 ところが不思議なことに、このK先生がひいきにしてうるのが「しのぶ」というなのスナックバーだという。

 それは面妖だと、ある学生がお供を申し出てそのバアーへついて行った。それでわかった。バーのママさんの名前も「しのぶ」というのである。

 「おい、しのぶ、何をぐずぐずしておるか、さっさとしろ」

 「しのぶ、お前はまったく気の利かん馬鹿だ」

 などと、K先生はむやみにママを叱りつける。ママさんはおとなしい人で、

 「はい、申しわけございません」

 とあやまってばかりいる。しのぶママさんがペコペコするとK先生はアッハッハと高笑い、至極上機嫌なのである。

 K先生は「ひどい」の「忍」、ママさんは「がまん」の「忍」。両義の「忍」の同時共存風景などでありました。

siba.haounoie1.jpg 参考:司馬遼太郎『覇王の家』(新潮文庫)P.47に下記のように「忍人」が使われている。

 武田信玄は、四十代のころ、自分に反逆をはかったという理由で、長男の義信をとらえ、牢に入れ、のち殺している。「稀代の忍人である」と、諸国では信玄の評判は悪い。忍人とは目的のためにはいかにむごいことをしても平気でいるという人物のことである。家康は、べつに忍人ではない。

 武田信玄は、中世貴族である守護大みょうの家に生まれ、その血統は甲斐のひとびとから半神的な尊敬をうけており、当人もうまれついての貴人であるために常人でないところがある。

 「貴人情を知らず」

 といわれるが、信玄にはうまれついてのそういうものがあった。しかし家康は庄屋階級程度のいわば庶民同然の出身であるために、その哀歓の感覚は郎等たちとおなじであった。かれは郎等に対しては人情家で、郎等の不幸には本気で涙をこぼした。三河衆が、この男について行ったのはかれのそういう性質ゆであろう。

 そのかれが、のちに信長から、かれの長男信康を殺せ、といわれている。信康はすでに成人して戦場での勇猛さは評判の人物であったが、信長は、

 ――信康はその生母とともに武田家と通謀している。

 という確証(生母についてはそのとおりであったが、信康はぬれぎぬである)をにぎり、家康にそのように命じた。この命を奉じないと、信長は家康自身を討って徳川家をほろぼすであろう。家康は三日の思案のすえ、信康を殺すことにした。家康は信康を殺す決意をするとき、

 (かつて、武田の屋形もその長子義信を殺したではないか)

 と、その私淑している人物のことをおもい、ともすればひるむわが心をはげましたにちがいない。家康は信玄をならうあまり「忍人」のまねまでした。しかしほんものの忍人になりきれなかった証拠に、のちのちまで信康のことをおもいだしては涙を流したり、繰りごとをいったりして、左右を手こずらせた。家康のこういうあたりがまた、質朴な三河衆たちの彼を好んでいるところであったであろう。

(96.5.16)

2018.07.06記す。


「橋本龍太郎氏」はおかしいよ P.268~272

 わたしが意識的に使わなかった文字やことばがいろいろある。今回はその一つ、「橋本龍太郎氏」のような氏名の下につける「氏」について、いささかリクツをこねることといたしましょう。

 この、橋本龍太郎氏、小沢一郎氏、のごとき「氏」は、今日新聞雑誌上に、あるいは書物のなかで、無数に見られるものである。しかし考えてみると、これはちょっとおかしいのではあるまいか。

 「橋本龍太郎」は氏名である。つまり「橋本」が氏、「龍太郎」が名である。だから「橋本氏」はもとより問題ない。けれども「橋本龍太郎氏」ないし「龍太郎氏」は、変ではありませんか?だって「龍太郎」は「氏」ではないのだから。

 これは、歴史上の人物について考えれば誰にもわかることである。源氏とは言うが源義経氏とは言わない。北条氏とは言うが北条時宗氏とは言わない。徳川氏とは言うが徳川家康氏とは言わない‥‥‥。以下いくら並べても同じことですね。

 明治になって、福沢諭吉氏、夏目漱石氏、のごとき言いかたがあらわれた。これは、男子の姓もしくは姓につける英語のミスター、ドイツ語のヘル、フランス語のムッシューを「氏」と訳し、それを日本人にも適用して、ミスター伊藤博文、伊藤博文氏、としたのにはじまるのではないか、と愚考いたしております。

感想:私も、あまり考えないで橋本龍太郎氏のような使い方をしていた。「橋本龍太郎様」、あるいは「橋本龍太郎さん」のようなつかいかたにこころがけよう。

 もっともさらにもとをたどれば、江戸時代の蘭学者がオランダ人を「何々氏」と呼んだことが、さらにその遠因になっているかもしれない。たとえば長崎出島の商館長で蘭日辞典『ドゥーフ・ハルマ』を作ったドゥーフ(ヅーフとも書く)を、蘭学者たちが「道富氏」または「頭布氏」と称したこと、杉本つとっむ先生の本に見えている

参考:杉本 つとむは、日本の言語史研究者、早稲田大学名誉教授。 本名・杉本孜。 生年月日: 1927年。

 無論ミスター等の訳は「君(くん)」でもよかったわけだし、実際それを用いられたのだが、結局「氏」が優位を占めた。そして欧米人とちがって男女の別をやかましく言われない日本人は、樋口一葉氏、津田梅子氏などと女子にも「氏」をつけ、さらには高浜虚子の著書『漱石氏と私』のごとく、まるっきり氏がないところへも「氏」をつけるにいたった。

 ただし誰もがそうしたわけではない。

 日本語口語文の規範は森鴎外と言ってさしつかえあるまいが、鴎外は氏名につける氏を用いなかった。たとえば、

 頃日わたしは彼書(かのしょ)を蔵するもの二人あることを聞いた。一は京都の藤井正男さんで、一は東京の三村清三郎さんである。そして二氏皆わたくしに借抄を充(ゆる)さうといふ好意があって、藤井氏は家弟潤三郎に、三村氏は竹柏園主にこれを語つた。(伊澤蘭軒)

ごらんのように、最初に姓名を言う時は「さん」、以後姓のみを言う時は「氏」である。

ただし、「或る日長井金風さんに会って問ふと、長井さんが云った」(『蟹江抽斎』)のごとく、ずっ「さん」で通すこともあるのはもちろんである。

 その他、比較的親しい関係であれば上下を問わず「君」もよく用いる。このばあいは氏名にも氏にもつく。

「私の上官であった石本新六君は世慣れた人である。(‥‥‥)或る時私が「記者はどう扱ったら好いものですか」と問うた。「どう扱ってもいけない」と、石本君は答へた。(『亡くなった原稿』)

明治のころの「君」は今より敬意を含んでいたことは、前に言ったことがあります。

 この「氏」についてはっきり発言したのは詩人三好達治である。戦後の昭和二十四年、三好は雑誌『文學会』にこう書いた。

 「日本語は敬称に富む。これは結構なことだが、必ずしも常に便利なことではない。近頃の一般ジャーナリズム、或は日常会話ででも屡々用ひられる「氏」という敬称は、いつ頃から流行りの形式か詳にしないが、考へてみると奇妙な用法だ。正宗白鳥氏、永井荷風氏などといふのはうけがひ難い誤用で俗用だ。谷崎氏潤一郎高村氏光太郎とでも用ひていただければ当を得るところだが、今日これでは何だかピントがあふまい。樋口一葉女史与謝野晶子女史は雅馴に聞こえるが、林芙美子氏吉屋信子氏は殺風景だ。」

 この発言、あまりはかばかしい反応がなかったらしく、二年後三好氏は追っかけてもう一度、こんどは雑誌『演劇』に書いた。

 「たとへば岸田国士氏佐藤美子氏というやうな、今日最も普通に用ひられてゐる基準形の敬称は、正しくは岸田氏国士君佐藤氏美子さんとでもいわなければ通用しかねる間に合わせの誤用で、氏の字を簡単に敬称として万能の如く心得てゐるのはたいへんそそっかしく見つともない。白鳥氏夢声氏縁波氏などといふに至っては論外でお話にならない。私はかねがねこのことを気にやんでゐるが、世間はいっかう平気で無頓着なやうであるから、私としてはとりつく島がない。」

 そして三好氏は、男女を問わず一律に「君」にしてはどうだろう、ただし女子は「さん」でもよいことにしてはーー、と提案しているのだが、これは鴎外の昔とちがって「君」の値打ちさがっているからちょっと無理だったろう(二つの文章は筑摩書房の三好達治全集第八巻に入っています)。

 日本語に、誰の氏名のあとにでもつけられる一般的な語がないことはたしかだが、日本語にかぎったことではなく、英語にもドイツ語フランス語にもないのである。男女の異を立てない「さん」があるだけ、日本語は英語などよりよほどすぐれているのだ。

 中国もこれに悩み、共産党が、毛沢東から商店の売子まで一律オーケーの「同志(トンジー)」を通行させようとしたが、あまり成功したようではない。今日上海あたりのデパートへ行って若い売子さんに「同志」なんて呼びかけたら、向こうがビックリするだろう。

 三好氏のように明確に異をとなえた人は多くないが、氏名の下の「氏」を誤用だからと、使わないようにしている人はたくさんあるだろうと思う。ただ、「どういうことばを避けているか」は、気づきにくく目立たないだけである。

 はじめにちょっとなをあげた杉本つとむさんの本には、「鈴木善幸さんや田中角栄さん」とか、「宇野浩二さんの『蔵の中』に‥‥‥」とかは随所にあるが「鈴木善幸氏」のようなものは見あたらないから、これはやはり意識的に回避しておられるのであろう。

 森鴎外もそうだが心ある人は、人知れず工夫をして見苦しい言いかたを避けているのであり、またそれが奥床しいのである。小生は生来奥床しくないのでペラペラしゃべちゃったというしだい。‥‥‥と言うと、大詩人三好達治先生をも「奥床しくない」仲間にひきずりこんじゃうことになるかな?(’96・7・4)

1996.10.23購入。


 高島俊男さんは、向田邦子の代表作『父の詫び状』の舞台となっている家庭環境が「戦前の標準的な家庭」として描かれていて、一般からもそう受け取られているが、実は非常にエリートの特殊なものであると論じている。

 私は、『父の詫び状』を読んでいて、羨ましい家庭だと感じていた。その感じが、高島さんのいうようなところにあったのか。2107.10.25


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池田 潔著『自由と規律』――イギリスの学校生活(岩波新書)1963.06.20 第25刷 1971.07.07購入

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 英国のパブリックスクール インターネットによる

 読み終えて目頭がじんと熱くなった。英国のパブリックスクールとはかくも気骨あふるるものだったのか。『自由と規律 イギリスの学校生活』は、慶應義塾大学教授であった池田潔氏の英国留学体験記である。

 1920年から22年まで3年間、麻布中学卒業後の17歳の日本人が、英国ケンブリッジのリース•スクール(The Leys School)に留学した。「パブリックスクール」という名称からクセもので、公立ではなく私立校である。宗教改革の余波で設立した当時は「パブリック」の意味があったが、「伝統に対する愛着が強く、容易に新奇な事物に馴染めない国民性のため」、そのままになっているという。厳しい全寮制で門限はおろか、学期中はほとんど外出できない監禁状態で学ぶという。

『他に与え且つ己に取る』精神に基づいて、他人のプライバシーをも尊重する。己の激動した感情を露出することは、これによって他の感情の平静を掻き乱すことが多い。彼等の間に、感情の抑制を美徳として、その誇張をぶ躾とする戒律の生まれた所以である。

Leys.png  9万坪にたった220名の生徒の校舎とグラウンドと寮がある。日本の広い学校でもせいぜい2万坪だ。統率の中で勉学に励み、運動で協調性を育み、いかなるつらさもつらいとは言わない。一言でいえば「矜持」を叩き込まれる。学校はでかデカいが食事は少なく、食べ盛りがいつも腹をすかせて我慢し、たまの甘いものを貪り、毎日のように父母に手紙を書く。

 全ページがおもしろいが特に気に入ったのは2つ――ひとつは校長である。

 校庭で行き合った校長に顔色の優れないことを指摘されて、その理由を問われたことがあった。その朝受け取った家郷よりの消息に母の入院手術のことが書かれていたのである。そして全快退院の報があるまで、毎日、校長と(校長)夫人の慰問激励が続いた。しかもその後七年経って、父母がリースに校長を訪ねたとき、まず母に手術後の経過を尋ねている。このような例は一再に止まらない。

 Bisseker 校長は220名、すべての生徒のことを知り尽くしていた。もうひとつは、英語の教師L先生である。入学当初、英語が話せない池田少年のために特別授業をしてくれた。皆が寝る夜9時前に自転車でL先生の家に毎夜訪ねる。夜間レッスンだ。僕は感動のあまりこのくだりの全文を手で書き写したが、長くなるので要約しよう。

 今夜も訪ねると「WOLF」である。Wの発音とLとRの発音矯正で、指を少年の口に突っ込んで、LとR、狼、狼、狼。これが11時半まで続く。終わると夫人がお茶を出してくれる。どうだつらかっただろう、健康はどうだ、家から便りはあるかと気遣ってくれる優しい先生にもどる。

 吹雪が吹きすさぶある夜のこと、レッスンが終わって先生が言った。途中気をつけろ、狼が出るぞ、狼、狼、そして戸がバターンと閉まる。

 ところが池田少年は道が暗くて植物園の脇の川に落ちてしまった。ずぶ濡れになって自転車は壊れ、先生の宅にもどりかけたが、やめて学校に自転車を引いて戻った。濡れて苔むした格好に寮長が気づいて、校長にもばれた。 翌晩、またL先生の宅でレッスンである。先生は言った。

 誰でも失敗はある、それは責めない。だが寒中水に浸かって肺炎になったらどうする? なぜ私の家に来ない? 寝てると思った? 当たり前だ。なぜ叩き起こさない。ズブ濡れで倒れたら凍え死にだ。死んだら校長がお前の家に電報を打つ。親はなんと思うんだ。いいかこの地図を見ろ。お前はこの島からずーっと地球をまわって、この島に来たんだ。川に落ちて死ぬため来たんじゃない。勉強するために来たんだ。落ちたければ勉強の後にしろ。

 そしてまたLとR、狼、狼、狼だった。とりわけ厳しいレッスンだった。帰りがけに L先生は戸口で言った。 狼と川に気をつけろよ。あ、犬という奴はよく喧嘩するね。相手に噛まれて怪我をする。弱い犬は尻尾を両足にはさんでキャンキャンとわめく。強い犬は黙ってじぃーっと自分の傷をなめている。お休み。

 強い犬にならねば、と思った。こんな素晴らしい留学体験記は世界中探してもない。傑作中の傑作である。この本を教えてくれた大動脈解離の権威に、尻尾を振ってありがとうと言いたい。今日は文が少し長くなりました、すみません。では良い週末を。


パブリック・スクールとは実際において如何なる性質をもった学校であろうか。

Dartmouth.pngleedold swanhotel.jpg  イギリスのパブリック・スクールとは、第十四世紀より第十九世紀の間に興り、私人の私財をもって経営され、全員寄宿制度によって指導階級の子弟に中等教育を施す、私立のグラマー・スクールにほかならに。主なるものイングランドに三十一校。スコットランドに四校を算え、プレパレートリ―・スクール (preparatory school)、を終えてこれに入り、これを修了したものはオックスフォードまたはケムブリッジ大学、サンダースㇳ陸軍士官学校またはダートマス海軍兵学校に進む。パブリック・スクールからこれ等以外の学校すなわちロンドンその他の大学に入るのものはほとんど皆無に近い。一部の卒業生は高等文官、外交官、しょく民地行政官等の登用試験を受け、他の一部はただちに実社会に入る。P.39

 リーズ・スクールはケ゚ンブリッジの西南、静かな町はずれにある。雲を払う巨大な欅の並樹に区切られた一劃、敷地は九万坪、その三分の二がこの国特有の四季常緑に覆われた競技場となっている。

 二百二十名の全学生が、毎日、一斉に運動競技を楽しむためにはこれだけの広さが必要とされる。中央に陸上競技用のトラックがあり、その楕円内に春のクリケット、秋のラグビー、冬のホッケ、それぞれ季節に応じて対校の競技の行なわれるフィールドが築かれる。P.56~57

昭和46年3月4日(木)

leedold swanhotel.jpg  オランダから英国の会社(当時:ICI)を訪問のために、英国の Leeds へ飛ぶ。予約していたので ICI の車が迎えに来てくれていて、当日の宿泊のホテル(Old Swanhotel)にピックアップしていただいた。

 ICI は周囲には緑の牧草であろうか、緑の景色が溢れていた。3月の季節であるというのに。イギリスの国特有の四季常緑を感じさせられた。

 会社の訪問を終えて、街の食堂で昼食をとる。支払いをしようとすると、年配のウエイトレスにお金を渡すと困ってしまい、レストランのマスターが出てきて計算。

 当日は、46年3月4日であったが、英国ではデシマール作戦中で、10進歩に切り替え最中で、年配になってお金の計算がのみこめないものは子供に聞きなさいと、学校で教えているからと指導していた。

 街を見物して歩いていて特に印象に残ったのは駅前の花壇である。青い作業服を着た大人が緑の芝生で覆われた花壇の端を鍬で丁寧に打っていた。非常に綺麗だった。

 ICIの仕事を終ってLeeds 飛行場に行く。空港は所謂英国の牧歌調的牧場がすぐ横にありくつろいだ感じがする。

 学校の特約理髪店は小さな質素な店でよく満員だった。町には学校の特約でないが、もつと静かで設備のよい店があった。リースパブリックスクールに入学して間もなく、急いでいたのでつい悪いと知りつつ、校帽を懐にいれてその店に入ったことがある。いい心持で半分刈上げさせて、ふと鏡に写った隣の客の顔を見た。校長の顔である。途端にそれに並んだ黄黒い方の顔が土管色に変った。胸算用で、やがて申し渡されることを覚悟した罰の量を当たってみる。

 まだ貴方には紹介されたことがないのに、突然、話しかけて失礼だが……。私が校長を勤めている学校に、やはり貴方と同じ日本人の学生がいてね。もし逢うような序でがあったら言伝(ことづ)てしてくれ給え。この店にはリースの学生は来ないことになっている、と。

 この店で髪を刈ることが悪いことなのではない。ただリースの学生のゆく床屋は別に決まっていて、リースの学生は皆そこに行くことになっている。あの日本人の学生は入学したてで、まだそれを知らないらしい。何? 知っていた? 君は知っていたかも知れないが、あの学生は知らなかったに決まっている。知っていたら規則を破るようなことはしないだろうから。

 悄然として立ち去ろうとする後ろから、小声で、ここは大人の来る店だから心附けが要(い)る。これをわたしておき給え。何? 自分で払う? 一週間分のお小遣いではないか。そして突然大きな声で、子供はそんな無駄費いをするものじゃない。

 その後、大学生になっても大学を卒業してからも、その店だけには行けなかった。大人になれば心附けは他の店だって払うのである。ただ、何となくその店にゆくことがリースの校長先生に相済まない気がしたからなのである。

 その行為自体の善悪が問題なのではない。ある特定の条件にある特定の人間が、ある行為をして善いか悪いかはすでに決まっていて、好む好まないを問わずその人間をしてこの決定にふくせしめる力が規律である。そしてすべての規律には、それを作る人間と守る人間があり、規律を守るべき人間がその是非を論ずることは許されないのである。

 イギリスの青少年は、学校で、また家庭で、あらゆる機会に骨の髄に滲み込むまでこのふく従の精神を叩き込まれる。今日の我が国ではこれを封建思想と呼ぶ人が少なくない。もし然りとすれば、万が一これがそのようなものであったとしたら、イギリス人とは、チョン髷を頭に載せ両刀をたばさんだ封建思想の化物以外の何ものでもない筈である。P.59~61

 「つり銭はとるな!」は江田島海軍兵学校(以下海軍兵学校)の生徒館内の散髪屋での支払いのマナーであった。

1mss.jpg  床屋:ある日の訓練終了後、床屋(正式には理髪所)にいった。床屋は西生徒館(第一生徒館)の一階東北端にあり、私がいた五〇七分隊自習室から東に出て北に向かった近いところにあった。理髪は課業時間以外はいついってもいいことになっていた。

「はい、おつぎ」

 おじさん(海軍では理髪師を剃夫と称していた)の声で理髪台に坐ると、とたんにバリカンが後頭部から額につっぱしり、六、七回くり返されると、もう終わりだった。

 つぎに、たっぷり石鹸水をふくんだ刷毛が、顔中をぐるぐる撫でたかと思うと、剃刀が鼻の下を二回、顎のまわりを四回,両頬を一回ずつさっとかすり、「はい、終り」となった。

 その間二分三十秒。兵学校での毎朝の起床動作とおなじ所用時間だった。目の前に洗髪台があり、自分で石鹸を頭につけて洗い、持ってきた自前のタオルで顔と頭を拭いた。

 所謂"トラ刈"ではなく、平均した"イガ栗頭"になっていた。

 料金は十銭、入口脇の料金箱に十銭玉を入れればよかった。丁度の金を持っておればそれを支払い、大きいお金しか持っていない場合はそのお金を入れて、おつりはとってはいけないことが躾であった。(つり銭はとるな! 散髪屋での支払いのマナーである)。

 すべて文句のつけようはなかったが、ただ一つ、短い毛が襟首や背中に入りこんで、ちくちくするのが欠点だと思った。

 パブリック・スクールの食事は質量共にこれに正反対といってよい。この点は、一見、些事に似て実はパブリック・スクール教育を正しく認識する上にきわめて肝要なことであると思う。次に挙げるのはリース・スクールの例であるが、他の学校の場合も大差ないものと見てよい。

 朝は、オートミール少量、燻製鰊、またはソーセージ一片など、日曜日の卵一個は最大の御馳走である。三寸角のパン二切れ、紅茶。昼は馬鈴薯を主とした肉少量の一皿、人参、キャベツの類少量がつくこともある。菓子一皿、パン一斤、マーガリン少量、紅茶。夜食というものは全然ない。

 夜、床に入る。空腹である眠れない。次から次へ食物のことを考える。網膜に写るのは美味しそうな、湯気の立つ、皿に盛り切れないあれやこれやである。この次の休暇にはまず最初に何を食べるかと思案する。転々反則のうちに浅ましい溜息がつづく。隣の床と小声でロースト・ビーフ・チョップとマッㇳン・チョップの優劣論を始める。プリーフェクトに、シーツと一喝される。毛布を冠って結論を夢の中に持ち越す。P.82~83

 海軍兵学校での食事。だが、分隊の隊務、運動などによって食事の量が足りない。絶えず空腹感が横溢していた。

 日曜日の行事となると全く趣が変ってくる。それは学課と運動が厳禁されるからに外ならない。起床時間は三十分遅い。ふく装の整頓と髭を剃ることは非常に喧しいが、日曜日はとくに厳重である。黒の上着、縞ズボン、山高帽、それに純白の堅いカラーとシャツを着ける。朝は三十分の普通礼拝、一時間余の日曜礼拝がある。午後は二時間近い聖書講義、夕方には再び一時間余の特別礼拝に参列しなければならない。勿論、校外には一歩も出られないから、許されることといえば、日向にたたみ椅子を出して学業に関係のない書物を読むか、静かに校庭を散歩する外はない。その退屈さは堪え難いものがある。

 しかしイギリスの日曜日の退屈は、学校内とは限らない。すべての商店、運動競技、興行物が閉鎖され、老幼男女、皆、一帳羅(sunday suitか)を着込んでおさまり返っている。この日は太陽の色も平日とは異り、犬の啼声も変る、とはアンドレ・モーロアの言葉である。わずかに夕方から映画館のみが開かれ、これさえ邪教の業として非難するものがあるが、内心は一同、ほっとしているのが真実であろう。P.96

kaihei_sugatami1.jpg  海軍兵学校生徒館の廊下のつきあたりに全身が写る姿見の鏡が取り付けられていた。生徒はその前でふく装を正し、海軍式の敬礼の練習をした。日曜日、外出点検のまえには特に念入りに鏡に写して塵ひとつ付いていないように注意した。外出点検は厳しくチェックされた。第一種軍装(平常は事業ふく)の塵ばかりでなくて靴の踵に泥がついているのも指摘されたほどであった。

 日曜日の夜には全学生が講堂に集められて家郷に宛てた手紙を書かされる。一体、イギリス人ほど手紙を書く国民は少い。事務的儀礼的なものは別として、政治、文学、哲学、芸術を論じたものから、身辺雑記風なものに至るまで、とにかく、彼等は書くことを悦び、読むことを楽しむ。下宿の女将といった部類の人間でも、朝の食卓に数通の手紙を受取り、毎日、一日の貴重な何十分かを文通のために充てている。 P.97

 海軍兵学校では家郷に宛てた手紙を書かされることはなかった。手紙は普通の口語体の書簡文でなくて候文(文語体、候が使用される)で書かせられた。また簡単な作業簿(一週間分が一ページに区分けしていた)を毎日記録して分隊監事(分隊監事補佐)に提出していた。目を通されてコメントを書き込まれて返却されたこともあった。

 パブリック・スクールの生活が規律正しく運営されてゆくことを助けるものは、プリーフェクㇳの制度である。プリーフェクㇳとは、最高学級に属し人格成績衆望いおずれも他の模範となり、そして何れかの種目の運動競技の正選手をしているものの中から、校長によって選ばれ、校内の自治を委ねられた数名の学生である。決して学生によって選挙されたり、任命に際して校長が教師に意見を聞くこともない。校長の権力はそのように強いが、同時に校長は個々の学生をそれほどよく知りぬいているということにもなる。P.103

 海軍兵学校の対番制度

 分隊での躾教育の徹底を図るために新入の三号に二号生徒一名と、一号生徒一名とがマン・ツ-・マンで面倒を見る。二号が母親、一号が父親の役目をするのである。

 ジェムス・ヒルトンの作で、『チップス先生さようなら』 と題するものがある。作者はリースの卒業生でその老教師がモデルになっているが、ハウスマスターと学生相互の心的関聯を取り上げ、このような経歴の一生を終わる人間の感慨が、感傷主義に堕さない適度の憂愁をもって描かれている佳篇である。P.120

 リースの日課標を一覧すれば、自修は規定の時間に一斉に行うだけで、たとい試験期が迫っても一人抜け駈けの勉強が出来ないことが判る。とくに他人の行動が気にかかる性癖をもっているものでも、運動競技中に同僚がその間に試験勉強をしていることを気に病む必要はない筈である。したがって試験勉強の憂鬱もなく、それによって付焼刃の成績をとるものないことが、彼等の学生生活を明朗にしている。P.135

 海軍兵学校の一日

05:30  起床(冬は6時)

07:00  朝食

08:10~12:00  授業

12:10  昼食

13:10~14:00  授業

14:10~15:20  自選時間

15:30~16:30  運動および教練

17:30  夕食

18:30~21:00  自習(冬は21:30まで)

21:15  巡検準備(冬は21:45)

21:30  巡検および消灯(冬は22:00)

 日課を見る通り自選時間、自習時間は一定している。それ以外に普通学(数学・国語・英語・物理科学など)の勉強はできない。中学時代は自分の考えでいくらでも勉強できた。

2021.07.29記。


60 照于一隅

照于一隅(一隅を照らす)
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 江州彦根の近在に、豊郷という村があります。そこには昨年六十幾歳を一期として此の世を去って行かれた、世にも殊勝なる豆腐屋さんがいました。彼は毎日たった三箱の豆腐をつくること、それを終生の仕事としていた。来る日も来る日も、三箱の豆腐に自分の全心を打ちこんで、気に入ったものを作り上げることに、無上の楽しみと喜びとを感じていた。さすがに味がよいので直ぐに売り切れてしまうが、いくよく売れても、三箱以上は決して作ろうとしなかった。これだけ作らせて戴いたら、之で私の力一杯であり、これ以上に手を拡げると、自分の意に満たぬ粗末なものを作ることになる。自分は冥加をおそれる。まあまあ三箱に止めて置こう、というのが爺さんの一貫した心持であった。

 そこで爺さんは、自分の力相応の仕事をして、皆からうまいうまいと褒められ喜びながら、自分のなりわいを立てさせて貰って、乏しいながら、自分も妻子も何ふ足なく家業に養われて行く、それがただ有り難く、勿体ない。彼は日々家族のものと共々に報恩の行として日々の仕事にいそしみながら、彼の道心を静かに養いながら、その素朴にして麗わしき一生を終わって行「一隅を照らすもの」と言うべきであると思うのであります。

 「照于一隅」という言葉は、伝教大師の山家学生式(さんげがしょうしき)というものの中に、大師が古人の言として引かれたものです。山家学生式というものは何であるかと申しますと、伝教大師が叡山に於て、国民の指導者を養成されるため学則を定めて、嵯峨天皇に上って勅裁を請われた式文(しきもん)であります。あの鎮護国家の大理想に燃えておられた大師が、いよいよ将来、我が国民指導の任に当たるべき青年学生を養成する具体案を樹て、その指導精神を明らかにせられた宣言書といってもよいのであります。しかも、これは弘仁九年の五月に出されたので、弘仁十三年の六月には大師は五十六で遷化して居られますから、五十二の時のことで、謂わば大師の晩年に書かれたものであります。大師は式文の最初に

 国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心あるの人をなづけて国宝と為す。故に古人の言はく径寸十枚是国宝に非ず、一隅を照らす、此れ即ち国宝なりと。

 古人というのは斉の威王のことで、径寸十枚というのは一寸もあるダイヤモンドという程の意味でありましょう。かつて魏の王様が斉の威王に向かって「私の国にはこのような大きなダイヤが十個もある、これが私の宝だ」と誇り顔にいうと、威王は「私の国では一隅を照らす人が沢山いる、それが私の国の国宝だ」といった。それを大師は引かれたのであります。大師の養成されようとする学生も亦、この一隅を照らすものになったのであります。

 然らば、一隅を照らすとは如何なる人であるか、それは即ち「道心あるの人」をいうのであります。道心を以て明るく一隅を照らしている人の謂いであります。そして、これこそ真に国の宝であるとせらるるのでありましょう。国の宝は、決して財宝ではなく、人である。道心あるひとである。国家の構成分子は人であるが、その人の、複雑を極めた日常生活が何よりも先ず、道心によって統一せられなくてはならない。その道心を基礎とし、道心に統一せられ、道心に照らされて行く人、そういう人が国家にとっては何よりの宝である。そういうしっかりした人を先ず叡山の自分の手元で育てて、その学生を全国にやって、日本国民の一人一人が一隅を照らすものとなるようにすること、それを大師は理想とせられていたのであります。でありますから、大師のお心持からしますれば、仮令、名僧知識というような、名声天下に轟く人でなくとも、軍人であれ、官吏であれ、商人であろうと、大工であろうと、百姓であろうと乃至はまた豆腐屋さんであろうと、紙屑屋さんであろうと、苟も内に深く道心に燃えつつ、朗かにその日その日の仕事にいそしみ、その職業をよろこんで果たしているならば、それが、即ち、「一隅を照らすもの」であります。一隅を照らすものはまた「天下を照らすもの」だと申します。ここに国の宝といわれる更に深い意味があると思うものであります。

昭和五十三年四月二十日発行 住友修史室 田中良雄『職業と人生』P.73~76 *昭和59年10月8日、住友生命保険相互会社より頂いた。

同書 「一隅を照らすもの」P.82~92 の記述がある。

※2022.02.11 建国記念の日、再読。


61Wimbledon

Wimbledon

THE NEW AGE EGLISH NEW Edited by Kazuo Araki KENKYUSHA P.42~45

(1)

Wimbledon, the tennis center of the world, is now a part of London. In 1874, it was a country village and was the home of the All England Croquet Club. Croquet was very popular at that time but not many people came to see the national championships there. So the club had little money, and the members were looking for ways of making some.

"I will tell you how to make money," one of the members said. "Let's take up the game of tennis. It's more exciting and many people will come and play it on our beautiful lawns."

In 1875, they changed the name of the Club to the "All England Tennis and Croquet Club." Two years later, in 1877, Wimbledon held the first world lawn tennis championship (men's singles). Twenty-two men played and showed the spectators what tennis was. Those who watched were dressed in the latest fashions――the men in hard top hats and long coats, and the ladies in dresses that reached the ground.

Wimbledon grew. There was some surprise and doubt when women first played in 1884, but it was a great success. The women played beautifully in long skirts that hid their legs and feet.

Until 1907 the winners were all British. But people in more and more contries were playing tennis and the first of many overseas victories went to an Australian in 1907. Soon after the First World War, France produced some very good players. The most remarkable one was Suzanne Lenglen. She won the women's singles every year for five years from 1919 to 1923.

Fred.J.Perry, an Englishman, won three times in 1934-36, but since that time the victory has usually gone to overseas players. So British people were very happy when two English girls won the championships; Anne Jones in 1969 and Virginia Wade in 1977. Other surprises were Sawamatsu and Kiyomura the women's doubles in 1075 and Sweden's Borg's five victories. The latest one was West Germany's Boris Becker. He won the singles in 1985 at the age of 17!

(2)

The Wimbledon championship begin on the Monday nearest to June 22 and last for two weeks. England has its midsummer weather during that period.

There are always a lot of people outside the gates who have been standing in line to get good seats. The gates are opened at midday. The rush begins. The noise of running people comes from the north and south entrance. They all sweep toward the Center Court and they look happy and excited.

The restaurants of the Club begin to fill up at one o'clock. The people love not only tennis but also the place. When the weather is good, it is a very pleasant place. People enjoy chatting in the restaurants for an hour before the first match starts.

Now it is two o'clock. Those who have been spending time in the restaurants are all in their seats at the Center Court. The grass is fresh and green. The umpire walked across and goes up in their chair. The ball boys are ready at the sides of the court. The players in beautiful white tennis clothes with rackets under his arms.

Everything is ready now. All the spectators stop talking. One, two, three seconds. "Play," the umpire calls. Another Wimbledon is under way.

Some of you may want to join the All England Lawn Tennis and Croquet Club. It is very difficult, but I will tell you how you can become a member. There are only 400 members-350 men and 50 women. Singles champions are usually made honorary members. Win the singles, and you will become a member of the Club!

Copy on September1,2012.


62

The Conquest of Everest


THE NEW AGE READERS EDITED BY KAUO ARAKI KENKYUSHA P.183~191

The conquest of Everest

At four o'clock on the morning of May 29, 1953, the fierce winds that normally attack the upper slopes of Mount Everest had waned. Edmund Hillary, a 39-year old beekeeper from New Zealand, and Tenzing Norgay, a 39-year-old Sherpa, were beginning final preparations for their assault on the world's highest mountain peak(29,028 feet above sea level). They had spent the night in the rarefied atmosphere of 27,900 feet, huddled in a small tent pitched on a six-by six-foot ledge that dipped perilously at a 30 degree angle. To conserve oxygen, Hillary and Tenzing had allowed themselves only four hours' flow their precious supply. When wearing the oxygen masks they slept peacefully; the rest of the time they were miserable.

If Hillary and Tenzing could negotiate the remaining 1,128 feet to the summit, they would be the first men to stand on top of the world. Eleven previous expeditions, dating back to 1921, had failed with no fewer than 16 lieves lost. Among the missing was the legendary British climber George Leigh Mallory(1886-1924), who, along with Andrew Irvin(1902-24), apparently got to within 800 feet of the peak in 1924 before the mountain claimed them. It was Mallory who defined the challenge of Everest in aphorism that has become a cliche. When asked why he wanted to climb the mountain, he replied, "Because it's there,"

Strictly as a technical climb, Everest is not as difficult as, say, the sheer face of E1 Capitan in the Yosemite Valley. What makes Everest so forbidding is, simply, its altitude. Climbers can acclimatize to about 21,000 feet without oxygen for short periods, but above 25,500 feet climbers enter what is sometimes called the "zone of death." At 27,00 feet the air contains only about a third as much oxygen as at sea level, and a man without any previous acclimatization will be lose consciousness within three minutes and die.

Almost constant foul weather compounds the difficulty. From November to March, a northwest gale, sometimes reaching 90 mph, roars through the entire Himalayan chain. Climbing Everest at that time is impossible. From May to September the monsoons blow out of the Bay of Bengal, dropping heavy layers of loose, unstable snow on top of the high peaks. The best chance for success occurs in the relatively good weather between winter and the monsoons, and some years the good weather never arrives. Even at the best time the mercury dips to 40°below zero at night and, in the afternoon, temperatures in the sun can reach a scorching 150°.

The way to beat Everest is to move up the mountain fast enough to take advantage of the good weather, but not so fast as to leave climbers exhausted and unprepared for the final push at high altitude. In 1952 an expert Swiss team placed Tenzing and Raymond Lambert(1914-1997) at a camp just 1,500 feet short of the summit, but the operation was too rushed. The climbers had no sleeping bags and only a few pieces of cheese to eat. Without a high-altitude kerosene stove, they could not melt snow for water, a serious impediment because the air is so dry at that altitude that one needs at least eight pints of fluid a day. All night the two climbers stayed awake by slapping each other on arms and back to keep their circulation going. The next morning, exhausted and on the verge of dehydration, they turned back, having achieved only 700 of the last 1,500 feet.

It is not surprising that the Joint Himalayan Committee, which sponsored the 1953 British expedition, selected an army man,42-year old Colonel John Hunt, as its leader. Hunt waged a military campaign against the mountain. He hired 350 porters to carry 71/2 tons of supplies to the base camp. From there, 38 Sherpas and 14 climbers worked for about a month to establish a series of nine camps at progressively higher altitudes. Hunt also set aside a three-week period for the climbers to wander around peaks up to 20,000 feet so their bodies could adapt to the altitude.

The British efforts were helped significantly by a quirk of history. Before World War Ⅱ, every expedition to Everest had gone through Tibet and attacked the mountain's north slope. After the war, Tibet closed off access to Western countries, but in 1949 Nepal opened its borders to climbers, providing a southern passage to the Himalayas that proved to be easier. The rock strata on Everest's north ridges slant downward, and since the rock is always caked with snow and ice, a climber often has the feeling he is sliding down a tiled roof. The rock on the southern side, however, points upward, virtually forming a ladder.

Most climbing difficulties on the southern approach occur at altitudes below the "zone of death." To reach Everest from the south, an expedition must enter Western Cwm, an ice-bound valley that sits Everest between on the north and the 25,000-foot ridge of Nuptse to the south. The key is to cross the 41/2 miles of the cwm and start up the face of 27,000-foot Lhotse. After a 4,000-foot climb, an expedition must veer north across Lhotse Face and into the South Col, a barren, windswept saddle between Everest and Lhotse. The summit then is only a little more than 3,000 feet away.

But just reaching the cwm is Sunday stroll. One must first climb up the Khumbu Icefall, formed when a glacier situated inside the cwm spilled over a 2,000-foot precipice. The icefall is a wilderness of chasms and towers and walls, all fashioned from ice, with peaks reaching 100 feet in height. It looks like a giant frozen river. But it is alive and moving. Each day new cracks fracture the surface and giant ice obelisks crash down.

It took the advance party four days to fashion a route through the center of the icefall and another 10 cross Lhotse Face. By May 24(21/2 months after the party had assembled at Katmandu), 19 Sherpas had crossed the face and deposited 750 pounds of supplies at the highest camp on the South col. The final assault was on.

On May 26 Charles Evans(1918-1955) and Tom Bourdillon(1924-56), the expedition's first team, started up from the col. By early afternoon they had reached Everest's South Peak (28,700 feet), the highest point ever climbed by man, but they had insufficient oxygen to continue. Less than 400 feet from the top, they turned back, That left it up to Hillary and Tenzine.

The two climbers began their attempt on the 28th, using different equipment from that of the first team. Evan and Bourdillon had used "closed-circuit" oxygen, an apparatus that fed their entire air supply through a tube, then recycled the exhaled air. But Hilary and Tenzing used "open-circuit" gear that mixed pure oxygen with the thin air from the atmosphere. Because the open-circuit system is less efficient, Hillary and Tenzing could not climb as quickly as Evan and Bourdillon and were unable to reach the summit in one day. They were forced to stop and rest overnight on a tiny ledge.

The next morning Hillary had to spend an hour thawing his frozen boots over a kerosene burner. By 6:30 a.m. all was ready. Tenzing moved out first, kicking a line of steps up the snowy slope. By 9 a.m. they had reached the South Peak and were in position for an assaut on the summit, which lay out of sight, blocked by the curve of a ridge.

After calculating their oxygen supply(each had 41/2 hours remaining), Hillary kicked a line of steps along the ridge while Tenzin secured him with a rope. Then Tenzing secured by Hillary's rope, moved slowly forward. An hour into the climb, they were stopped by a 40-foot rock face. Luckily there was a large cornice on the east side of the rock, and, between cornice and wall, there was a crack just large enough for a man to crawl through. Hillary wriggled, kicked and shouldered his way up the 40-foot rock and then hauled Tenzing up. Finally, after 21/2 hours of climbing, Hillary noticed that the ridge, instead of rising, dropped away to the North Col and Rongbuk Glacier. Ahead was just a short, narrow snow ridge leading to the summit. A few more steps and they stood on top of Everest. It was 11:30 a,m.

Hillary disconnected his oxygen, took a camera from inside his shirt where he had kept it warm, and photographed the North Col as proof they had made the summit. Then he and Tenzing looked for signs that Mallory and Irvin had reached the top before disappearing. There were none. Tenzing scooped a little hole in the snow and buried some candy and a red-and-blue pencil his daughter had given him. These were offerings to the gods Buddhists believe inhabit the high peaks. Hillary buried a crucifix.

When Hillary and Tenzing stood on top of Everest they robbed the mountain of its invincibility, but its awesome challenge. In the years since then, more than 60 other climbers have reached the summit by a combination of four different routes. Even as he prepared to descend, barely 15 minutes after achieving the ultimate, Edmund Hillary was no longer thinking about Everest. It is said that he gazed across at the frozen unclimbed peak of Makalu, and with the true climber's spirit, mentally sketched a route to that summit.

Copy on September 2,2021


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Old Roads across the Ocean


THE NEW AGE ENGLISH NEW Edited by Kazuo Araki KENKYUSHA P.148~154

European used to believe that their own sailors were the first explorers of the world. They believed, for example, that Christopher Columbus discovered America in 1492. But is it true that Columbus was the first to discover America? He and his crew were, in fact, surprised to find humans living there already. This happened in many other places. Explorers making maps of the world found humans all over the place.

There was a special question about the people of the South Sea Islands in the Pacific Ocean. These tall, beautiful and clever people lived in the loneliest islands in the world. It was a long way across the ocean from any other land. How had they crossed the ocean without our great ships?

A Norwegian named Thor Heyerdahl answered these questions. He found ancient ways across the deep ocean. Of course the old ships using those ways left no marks on the water. But Heyerdahl found signs of the same people on both sides of the ocean. Then he risked his life to prove that they were the same.

(2)

Heyerdahl started his career by studying animals. He went to the Pacific Islands before World War Ⅱ. Soon he came to love the people of the islands, the Polynesians, and he began studying them. He lived among them in a friendly way. He came to know the old songs and stories of his hosts. He often heard old people talking about their ancestors. They said that once a group of tall, strong men had been led by a godlike leader called Tiki. They had come from a great land eastward. They stayed on the islands and taught the natives many things. The natives still prayed to figures which were like their great leader.

Most people were not interested in these old stories, but Heyerdahl asked more questions. He found that on the other side of the Pacific there were South American Indians with another story. They told of a man――or god ――who had also been a great leader and teacher.

His people built the great temples and cities in ancient Peru. They built great roads across some of the highest mountains in the world. They taught the Inca people about building and farming. They prayed to a Sun-god and they believed their leader was the brother of the Sun.

Then these people were nearly destroyed in a great war. Cruel foreign armies attacked them and the peaceful brother of the Sun, the Sun-god, had to go away to a safer place. He collected the rest of his people together and they escaped across the ocean. They disappeared westward and were never seen again. The name of their leader was Kon-Tiki.

The names and histories of Tiki and Kon-Tkti were alike. Heyerdahl wrote a long paper comparing these two peoples and tried to prove that the Polynesians had come from America. He wrote that their ancestors had crossed the ocean hundreds of years ago.

This did not satisfy everyone. Many agreed that the two peoples were alike in many ways. But they pointed out that the ancient Americans had had no boats, though they had had great knowledge of many things. They said it was impossible to cross the world's greatest ocean.

"That is true," Thor Heyerdahl agreed, "but they had rafts. What is wrong with rafts?"

People said, "Rafts! Flat pieces of wood tied loosely, floating on the ocean!" Scholars and seamen booth laughed, "Rafts are good enough for fishing near the coast, but nobody can cross the Pacific on a raft! All the crew will be washed away by the first wave!"

(3)

Most people thought that was the end of the matter. Thor Heyerdahl did not agree. He believe that Kon-Tiki had special rafts. He had seen pictures of them in the ancient temples of Peru. Rafts like these were familiar in Peru only a century ago. They were made of the wonderful balsa wood which would not sink. The rafts were large and strong. They carried a big square sail, a steering oar and a little hut. Heyerdahl was sure that anybody could cross oceans by means of this kind of raft. There was nothing wrong with his ideas. He decided to build a raft like those from Peru and make the same voyage himself. He believed he could prove his ideas in action.

※Photo: Gipsy Moth sailing round Cape Horn It was a mad idea. Luckily there are always people who will support mad ideas. Heyerdahl was not rich and he could not risk heavy debts. But he found men ready to pay for building his raft. He also found the five good men needed for his crew. They came from all over the world but they were alike in two things. They liked the plan for an unusual voyage and they were interested in proving an unusual idea.

(4)

Building the craft wasn't easy. Nobody had built one for a long time. Twelve huge balsa trees were cut down in the high mountains of Peru. They were floated down rivers to the ocean. The crew gave each log name according to the custom of ancient raft builders.

Of course, no nails or wire used in making the raft. The logs were tied together with strong ropes. A square sail was made and a little hut built in the middle of the raft. That was the only protection for the crew.

At last the raft was completed and named Kon-Tiki. The crew set off and followed the old Sun-god's path across the Pacific Ocean. They had a very hard time during the voyage.

About four months after leaving Peru, they reached land among the South Sea Islands. The raft was thrown up finally on a lonely island.

After a few days friendly islanders came to welcome them. They crowded around the Kon-Tiki. They could recognize it. This looked like an actual raft of the kind described in their stories. Their old men nodded their heads. This was what their fathers had told them. Their old stories had come to life again.

Copy on September 3,2021


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ABOARD THE MAYFLOWER

THE CROWN EGLISH READER ⅡB SANSEIDO P.5~13

ABOARD THE MAYFLOWER

Here we have a story of how 102 colonists in 1620 crossed the Atlantic Ocean aboard the ship Mayflower and settled in the New World. The story is told as seen through the eyes of a young man who belonged to a religious group known group as English Puritans.

On a July in 1620, a group of about forty people stood on the harbour at Delftshaven, in Holland. They were waiting to go on board the Speedwell, which was to take them to Southampton, England. From there they would sail, with the Mayflower, to Virginia, in America.

Edward Carver, a young man of twenty, looked round at his companions, and thought about the events which had led up to this voyage. They were all members of the group of English Puritans who had come to Holland thirteen yeas before. They did not like the Church of England's way of worshipping, but had been unable to worship as they wanted in England. They had gone to Holland, hoping that there could live and worship as they wished. But they had found it difficult to earn a living: and two or three years ago some of them had begun to think of moving to America and settling there.

Now everything was arranged. A company called the Merchant Adventurers was helping them with the money needed. King James had permitted them to settle in Virginia and they were to join ninety other colonists at Southampton These others would sail in the Mayflower, which had been hired for the voyage.

Edward thought about these other colonists. Most of them were going to America, not in search of religious or even political freedom, but because they wanted to earn a better living. "They must have very different ideas from us about some things", he thought: "I hope it doesn't make things difficult. Because if we are to "make a success of this colony we shall all have to work together. And work hard."

"As it turned out they all knew each other very well indeed by the time they had crossed the Atlantic. In August both ships left Southampton; but they had hardly started when they realized that the Speedwell was letting in water. They had to put into Plymouth, and there they were forced to leave the Speedwell and go on in the Mayflower alone. In September the Mayflower left Plymouth with a hundred and two colonists――most of the people from the two ships.

And very crowded it was. the Mayflower only 90 feet long, and 25 feet wide. Most people slept on the main deck, lying on the floor. Luckily nobody had brought many things with them. As it was there wasn't enough room for all the things they had brought. "We must be tidy," parents were always saying to their children, "When there were so many people in such a small space, everyone must be as tidy as possible," Captain Jones, the crew , and a few important passengers slept in the cabin towards the back of the ship. But nobody was very comfortable. There was one good thing about the Mayflower; she had been used to ship wine before this, so she smelt quite pleasant. Not all ships did――it depended on what they had been carrying.

Edward found himself next to two brothers at the beginning of the voyage, who were "much the same age" as himself and came from London. They were two of the colonists who had been going to sail in the Mayflower anyway. They were going to America because they hoped to get richer there than they ever would in England; and they could not have had less interest in different ways of worship. But in spite of their very their different views on religion, the three soon became friendly. They "would walk about on deck in fine weather, telling each other stories about their lives. Tom and Jem knew nothing about Holland, and would listen to Edward talking about it for hours.

When they set out the weather was fine, and though most of the peiple on board never sailed before, very few of them were seasick and most of them rather enjoyed it. Very quickly, groups formed: families "made friends with other families; people who were "on their own became friendly with "others by themselves. People made enemies, too. Not everyone was as kind as they might have been about the Puritan's religious views; and some of the Puritans were not very kind to their less religious companions. Every now and then a fight would break out. But they all realized that if they were to succeed in their new home, they would have to work together as friends. So the fights never really became too severe.

Edward and Tom and Jem would discuss the new land they were going to, like everybody else on the ship. Though there was already an English colony in Virginia, at Jamestown, they themselves would be much further north. They would really be on their own. "I wonder," said Tom, "how wild the Indians in America really are? You hear the most terrible stories; but on the other hand the people in Jamestown seem to get on all right," (This was before the Indians attacked Jamestown, and killed the people living there. When that news reached the Mayflower colonist it frightened them very much; by then they were settled in America, and though the Indians round about them seemed friendly, they were afraid that the same thing happen to them. It didn't; the Indians stayed friendly.)

As the days went on, people became quieter. There was very little space on board: nobody could wash enough and the smell on the main deck grew unpleasant ; in bad weather nobody could keep really dry. Sea nd rain leaked through to the main deck, and made everyone wet and miserable. And there was very little to do: they could only watch the sea, talk, and think about what lay ahead.

There were one or two exciting events. One of the women was just about to have her baby when the voyage started; and it was born during the crossing. It was a boy; and nearly everyone on the ship had their own ideas about what he should be called. "A great many of them were certain, as people are, that they knew best. Luckily the child's father was one of the people who thought he knew best; he decided on a name and would not change it. "The child," he said " is to be called "Oceanus, so let us have no more discussion."

There was another exciting event when a friend of Edward's was knocked into the sea by an unusually large wave. The ship was running through a rather bad storm, and most people were down below. The few who were on deck had only just realized what had happened when another wave, almost as large, knocked him back onto the ship again. They caught hold of him, and hurried him down below; and sooner than his frightened mother thought possible he had recovered.

But apart from these events not a great deal happened. There were days when there was so little wind, and they moved so slowly that Edward wondered whether they would ever get to Virginia. Sometimes the wind blew them in the wrong direction, and because it was blowing so strongly they could do nothing about it. There were days of terrible storms; and people were seasick and frightened, cold and miserable. But in spite of it all they went on; and nobody said they wanted to go back.

※Mayflower Ⅱ, a replica of the original Mayflower

Then, in November, after they had been at sea for sixty-seven days, they arrived. "Land! someone shouted, and nearly everybody on board came to look. Edward, standing beside Tom and Jem and watching the land come closer and closer, said a silent prayer of thanks for their safe arrival. But this was not the end of their difficulties, for they found that it was not the part of America they had expected to reach, and so it was not the part of America which they were permitted to settle in. They had been blown out of their course and had arrived further north than Virginia, at Cape Cod.

This was rather a problem. They were not permitted to settle here; they did not know nearly so much about this part of America; it would be more difficult to make a living here than further south. As the men discussed what they should do, the women went on with what they had to do. As they prepared food and took care of the children, they waited anxiously to hear what had been decided. After the men had talked it over, they decided to settle there. So they went ashore a little to the north of Cape Cod. They called the colony Plymouth.

When April came, Captain Jones and the crew sailed the Mayflower back to England. They offered to take back with them anyone who did not wish to stay in America. No one went with them.

参考:WASP(ワスプ、"WASPs")とは、ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント (White Anglo-Saxon Protestants)[

Copy on September 5,2012.


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TTE ROSETTA STONE


THE CROWN EGLISH READER ⅡB SANSEIDO P.80~87

The deciphering of hieroglyphics――the sign and figures used in the writing system of ancient Egypt――is considered to be one f the greatest achievements in the history of language studies. An interesting story, which begins with the accidental discovery of the Rosetta stone, lies behind achievement.  

*Hieroglyphs are symbols in the form of pictures which are used in some writing systems, for example those of ancient Egypt. By COLLINS COBUILD ENGLISH DICTIONARY P.793

Almost two hundred years ago Napoleon set out to conquer the world. Among other places, he sent his soldiers into Egypt. His plans, like those of other selfish, ambitious rulers, ended in failure. However, at least one good thing came out of his expedition: the key to Egyptian hieroglyphics. And that was a pure accident.

For centuries these picture writing of ancient Egypt had kept their secrets as silently as the Sphinx itself. They are to be found almost everywhere throughout the Nail Valley――on the remains of temples that look down on the river, painted with reed brushes on the interiors of underground tombs whose thick stone walls were covered over for thousands of years by the hot sands of the desert. They appear in both public and private ruins, on stone, wood, papyrus. But, until after Napoleon had come to Egypt, no modern man had ever been able to decipher or interpret them.

One August day in 1799 the accident happened. A certain Lieutenant Boussard, a young officer in Napoleon's army, was strolling about the town of Rosetta near the mouth of the Nile. He noticed a slab of rock about four feet long that was sticking out of the sand. The rock attacted his curiosity. He noticed that it was covered with strange characters that he could not read, and he reported his find to his superior, General Menou. Menou realized that that the stone was a valuable thing and immediately had it taken to his home. Napoleon, however, heard of the discovery and ordered that it be sent to Cairo for study. Then he had men come down from Paris for study.

When Napoleon was finally defeated, the British, having heard of this remarkable find, put a special clause in the treaty to gain possession of it. Meanwhile Menou had taken the stone back home again and insisted that it was his personal possession. Needless to say, the British forced him to hand it over, and the much-disputed stone was shipped to England, where it is now on view in the British Museum.

What were these characters that excited so much curiosity and made everyone want to gain possession of the Rosetta stone itself? They were of three kinds; at the top, Egyptian hieroglyphics (the writing for monuments); in the middle, demotic(the writing of ordinary life); the bottom, Greek. The contents of the inscription, which had been cut in 196 B.C., was not particularly important. What was important was that the same thing had been written in three ways, and that one of these was Greek, which could be read with ease. Of course scholars were not sure at first that this was the case, but they hoped so, and the more they studied the surer they became.

One might imagine that after this decision was made, translation would be easy; but, when you consider that no one knew whether the signs were words or letters or symbols, you will realize what a task it was.Deciphering the Rosetta stone turned out to be a extremely difficult job. The work was handed on from one scholar to another for forty years. Of these scholars there was on――who spent his whole career in the work and who finally found the key.

For twenty years after the discovery of the stone little real progress was made. Then an Englishman, Dr. Thomas Young, proved that at least some of the characters were letters of a sort, not just pictures. He even worked out a translation of several groups, established the sound values of six of the hieroglyphs.

That was the beginning. Then came the work of the great Frenchman Champollion, aided by his son.

An important feature of the Rosetta stone is half a dozen ovals with characters inside. Champollion of course noticed these at once, and he guessed that several of them contained the name Ptolemy, which appeared plainly enough in the Greek below.

Now Champollion remembered having seen an obelisk on the island of Philae in the Nile. It, too, displayed Greek inscriptions at the base, hieroglyphs above. It, too, had these ovals, and the names Ptolemy and Cleopatra in Greek.

This is where Champollion picked up his first clue. He saw how similar were the ovals which he guessed contained Ptolemy ――the ones on the obelisk and the ones on the Rosetta stone. He knew then that he was right, and that this was an important step. For the first time in centuries these strange Egyptian pictures were giving up their secret.

Later he studied and deciphered the Cleopatra ovals on both. This gave him more material to work with. He knew had a key, though a small one.

Fortunately both Ptolemy and Cleopatra contain some of the same characters――the character for L,for instance. Here was another clue. Comparing the two words in the two different places, Champollion found the values of thirteen characters. He used other inscriptions and monuments. Next he deciphered Alexander which supplied three more signs. Step by step went through all the proper names he could find adding to his supply of known characters with each At last, he could read whole sentences. And then before his work was completely finished, he died. But Champollion had found the key. After him his son, and after his son Roselini, de Rouge, and others used that key to open the secret of the written language of this ancient people.

Here we have the Cleopatra oval and the key used by the French scholar in translating the hieroglyph. The knee, which looks like a piece of pie, stands for K; which looks like a piece of pie, stands for K; the lion for L; next for the leaf for I(or our E); the cord with knots for O; the square for P; the eagle for A; the hand for D or T; the mouth for R; again the eagle for A. Then Kleopatra.

But there are still two symbols beyond the second eagle, and the oval itself, to consider. These, it turns out, are not letters but idea-pictures. They stand for words. Again the key yields divine, female, royalty or divine queen. So the hieroglyph adds up to Cleopatra Divine Queen.

Notice that Cleopatra is spelled out, that is, written in letters representing sounds, and idea-pictures are used for Divine and Queen. If the Egyptians had also spelled out Divine and Queen, they would have been using a true alphabet straight through――but they never did. They continued to use a mixture of systems.

Copy on September 8,2012.


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CREAYTIOVE English Course Ⅰ Revised Edition DAICHI GAKUSHUSHA p.73~78

A Visit to Hiroshima

On August 6, 1945, the atomic bomb was dropped on Hiroshima, and more than 200.000 people were killed. The writer of this selection is an Englishman who visited Hiroshima more than 30 years later. The horror of the bomb was very real to him, however. What did he see? How did he feel?

 At the point where the atomic bomb was dropped on Hiroshima there is a lovely Peace Park, and in the middle of the Peace Park there is a museum. I visited the museum because I thought that it was important and necessary for me to try to understand what happened when the bomb fell. But it was not a pleasant experience. The museum is full of shocking objects and pictures that show very clearly the damage to the city, the deaths of the people who lived there, and the terrible diseases and injuries that the bomb caused and still causes. I forced myself to look carefully at everything and to read about each object twice, once in English and once in Japanese.

It is hard now, 33 yeas latter, to look back and imagine what it was like when the bomb fell on Hiroshima. To the people who lived there, it must have seemed like an experience from another world, an experience that they could not explain and that they could not accept, even after it had happened. Those who saw the bomb explode said it was "brighter than a thousand suns." Two hours after the bomb had exploded, a strange black rain began to fall on the city. No such suns, no such rain had appeared before in the history of the world.

There are many stories about Hiroshima. One is about a little girl who was not injured by the bomb but who, some years later, began to suffer from the disease that the bomb had caused. Doctors did not know how to deal with this disease and most of the people who suffered from it died. But the little girl's mother didn't want to believe that her daughter would die. She told her daughter that, if she made a thousand little paper cranes, she would get better. As she made the cranes, the little girl grew weaker, and soon she could only make two or three a day. Still her mother encouraged her to go on, and still she went on making the cranes. She died before she could make a thousand. Many people heard about this and began to make parper cranes themselves. You can see these thousands of colored paper cranes hanging today in Hiroshima's Peace Park.

One of the pieces of writing about Hiroshima that I like best is a short poem by Toge Sankichi. Perhaps the only way to write such a terrible experience is to write about it as simply and directly as one can. Toge's poem is the sort of poem a child can write. It is completely simple, not at all "clever," and so it can move us deeply.

Give ne back my father, give me back my mother.

Give back the old.

Give back the children.

Give me back myself, give back

all people who are part of me.

For as long as this world is a human world,

give me peace,

give me peace that will last.

The sun was bright as I walked through the Peace Park and sat and looked the paper cranes. It was hard, in the sunshine of that autumn day, to realize how little time had passed, yet how quickly people forget. It is much easier to forget than to understand.

There is a stone box in Hiroshima that contains the names of all the people who died. On the box are written these words:

Sleep in peace,

The mistake will not be repeated.

Copy on August 25th,2021


67:AUGUST 6, 1945


THE CROWN EGLISH READER ⅡB SANSEIDO P.63~69

HIROSHIMA:AUGUST 6,1945
◆◆◆John Hersey

The following is a description of that tragic day in Hiroshima as seen through the eyes of a Japanese doctor who was on the staff of the Red Cross Hospital.

On the train on the way into Hiroshima from the country, where he lived with his mother. Dr. Terufumi Sasaki, a doctor at the Red Cross Hospital, thought over a bad dream he had had the night before. His mother's home was in Mukaihara, thirty miles from the city, and it took him two hours by train and streetcar to reach the hospital. He hadn't slept very well and had awakened a hour earlier than usual. He had not felt like going to the hospital, but his sense of duty finally forced him to go and he had started out on an earlier train than he took most mornings.

At the terminus, he caught a streetcar at once.(He later realized that if had taken his usual train that morning, and if had had to wait a few minutes for the streetcar, as often happened, he would have been close to the center at the time of the explosion and would surely have died.) He arrived at the hospital at a seven-forty and reported to his boss. A few minutes later, he went a room on the first floor and drew blood from the arm of a man in order to carry out a certain test. The laboratory was on the first floor. With the bottle of blood in his left hand, he started along the main corridor on his way towards the stairs. He was one step beyond an open window when the light of the bomb was reflected, like an enormous flash, in the corridor. He ducked down and said to himself, as only a Jaanese would, "Sasaki, gambare! Be brave!" Just then(the building was 1,650 yards from the center), the blast ripped through the hospital. The glasses he was wearing flew off his face; the bottle of blood crashed against one wall; his slippers also flew off his feet――but otherwise, thanks to where he stood, he was not hurt.

Dr.Sasaki shouted the name of his boss and rushed around to the man's office and found him badly cut by glass. The hospital was in a terrible mess: heavy walls and ceilings had fallen on patients, beds had turned over, windows had blown in and cut people, blood was seen on the walls and floors, instruments were everywhere, many of the patients were running about screaming, and many more lay dead. (A doctor working in the laboratory to which Dr. Sasaki had been walking was dead.) Dr. Sasaki found himself the only doctor in the hospital who was not hurt.

Dr. Sasaki, who believed that the enemy had hit only the building he was in, got bandages and began to bind the wounds of those inside the hospital; while outside, all over Hiroshima, heavily wounded and dying citizens turned their steps toward the Red Cross Hospital to receive treatment.

Dr. Sasaki worked without method, treating those who were nearest him first, and he noticed soon that the corridor seemed to be getting more and more crowded. He also noticed that many of them were suffering from dreadful burns. He realized then that the patients were pouring in from outdoors. There were so many that he began to pass up the lightly wounded. He decided that he could hope to do so was to stop people from bleeding to death.

Before long, patients lay and sat on the floors of the wards and laboratories and all the other rooms, and in the corridors, and on the stairs, and in the front hall, and on the stone from steps, and in the courtyard, and for blocks each way in the streets outside. In a city of two hndred and forty-five thousand, nearly a hundred thousand people had been killed at one blow; a hundred more were hurt. At least ten thousand of the wounded made their way to the Red Cross Hospital. It was the best hospital in town, but had only six hundred beds and they had all been occupied. The people crowding inside the hospital wept and cried for Dr. Sasaki to hear, "Sensei! Doctor!" and the less seriously wounded came and pulled at his sleeve and begged him to come to the aid of the worse wounded. Dr. Sasaki no longer worked as a skillful doctor and a kind-hearted man; he became a robot, wiping, daubing, winding, wiping, daubing, winding.

By nightfall, ten thousand victims of the explosion had invaded the Red Cross Hospital, and Dr. Sasaki worn out, was moving up and down the corridors with rolls of bandage and bottle of medicine, binding up the worst wounds as he came to them. Other doctors were doing the same. That was all they could do.

After dark, they worked by the light of the city's fires and by candles the ten remaining nurses held for them. Dr. Sasaki had not looked outside the hospital all day; the scene inside was so dreadful that it had not occurred to him to ask any questions about what had happed beyond the windows and doors. Patients were dying by the hundreds, but there was nobody to carry away the bodies. Some of the hospital staff gave out biscuits and rice balls, but the smell inside the hospital was so strong that few were hungry.

By three o'clock the next morning, after nineteen straight hours of hard work, Dr. Sasaki was too tired to dress another wound. He and some other members of the hospital staff got straw mats and went outdoors――thousands of patients and hundreds of dead were in the courtyard―――and hurried around behind the hospital and lay down in hiding to get some sleep. But within an hour wounded people had found them. A complaining circle formed around them, "Doctors! Help us! How can you sleep?" Dr. Sasaki got up again and went back to work.

Early in the day, he thought for the first time of his mother, at their country home in Mukaihara. He usually went home every night. He was afraid she would think he was dead.

Copy September 10, 2012.



68 THE SNOWFLAKE MAN OF JERICHO


THE CROWN EGLISH READER ⅡB SANSEIDO P.143~149

THE SNOWFLAKE MAN OF JERICHO
◆◆◆Edwin W. Teale

Here we have a story of a man who perhaps did more than anyone else to open our eyes to the hidden beauty of snowflakes. It was written by Edwin W. Teale, an American naturalist, who visited Jericho, a village in northern Vermont, where Vermont, where Bentley, the Snowflake Man, had spent his whole life "chasing snowflakes in every storm.  

W.A. Bentley photographing snow crystals

Among the men who have lived in my time one of those I regret most never having met is Wilson Alwyn Bentley, the farm boy who became world famous as the Snowflake Man of Jericho. No one has ever entered more fully into the treasures of the snow. Although his camera equipment consisted of only the barest necessities, and his money was always limited, his great collection of snowflake photographs remains unsurpassed.

One winter day, eleven years after he was born on February 9, 1865, his mother let him look through a cheap microscope at the fragile beauty of a snowflake. That was the beginning of the lifelong delight in these beautiful creations of winter, so delicate that a breath will cause them to melt and disappear forever. In 1885, when he was twenty, his mother persuaded his farmer father to buy him a compound microscope and a heavy studio camera. They cost about $100. To the end of his farther looked back on this purchase as a big waste of money. But for almost half a century afterwards, as each winter arrived, this same equipment was set up in a unheated shed to record on large glass plates the magnified images of snowflakes. Every storm, for Bentley, filled the whole sky with falling jewels. Make haste as he would, he could catch and photograph but a small proportion of the infinite number of separate and distinct designs. He considered himself lucky to have been born in northern Vermont where the snows are frequent and the types of snowflakes particularly varied. Vermont winters are long, but they were never too long for Bentley.

Everyone I talked to who had known the Snowflake Man remembered him as a quiet, gentle man, kindly by nature. His neighbors thought him a little queer, "chasing snowflake in every storm." He was slight of build, only five feet four inches tall. He never married.

Long years afterwards he spoke with regret of one particular snowflake, one of the most beautiful he had ever seen, that broke before he could record its image. "But beauty vanishes, beauty passes, however rare, rare it be and the snowflake is beauty in its most fleeting form. Its beauty melts away, and no one will ever see its like again. Its design is lost forever.

Few snowflakes reach the ground in perfect condition. Often they bump or cling together. It was Bentley's habit, when a winter storm began, to stand at the door of the unheated shed, holding out a smooth board about a foot square and painted black. To prevent transmission of any heat from his hands to the wood, he held the board by wire handles. Inside the shed, he exsamined the snow crystals on the board through a magnifying glass, holding his breath as he did so. Snowflakes that were not in perfect condition were brushed away with a fether, and perfect ones were moved with the greatest care to microscope slides. With the camera pointing toward a window, each picture was taken through the microscope with the light passing through the snowflake. The images of the snowflakes appeared magnified from 64 to 3,600 times. In this manner snowflake after snowflake was photographed during a storm.

Various snow crystals

Of all the storms he enjoyed, the one that brought him the greatest yield occured in February 9, 1928. The snow began falling on February 9, his sixty-third birthday. Before it stopped he added to his collection a hundred photographs of new snow crystals. He used to refer to them as a "birthday gift from kind winter."

The design of each snowflake records the story of its birth and growth. At a glance Bentley could tell in what part of the sky a snowflake came into being. The cold, higher regions of the heavens produce the fine, dry snow so highly prized on ski slopes. But it is at the lower regions that the most beautiful designs are formed. Beautiful snowflakes are rarely created at sky temperatures much below zero. In fact, the heaviest snowfalls do not occur in the coldest weather. In the United States, they usually come at times when the thermometer stands between 24 and 30 degrees Fahrenheit

Through his lifework, Bentley preserved in his photomicrographs the forms of nealy 6,000 snow crystals. In his nearly fifty years of searching, Bentley never found two of them alike. It was his belief that each snowflake is unique, that nowhere else on earth would another be found that would be exactly the same. Yet it has been calculated that in a ten-hour storm a million billion snowflakes may fall on a single acre of land.

The pictures Bentley recorded at his remote farmhouse among the winter hills have been used in college textbooks. They have appeared in illustrated magazines in many parts of the world. They have been used in teaching science and art. Artists turn to them for inspiration. To Bentley they brought many honors. His great wok, Snow Crystals, prepared in collaboration with W.J. Humphreys, contains more than 2,000 of his finest snowflake pictures. It appeared in 1931, in time for Bentley to see and enjoy this climax of his half-century-long labors. He died three weeks later, on December 23, 1931.

参考図書:中谷宇吉郎著『雪』(岩波新書)昭和三十三年七月三十日 第十六刷発行 定価百圓:「雪の結晶は、天から贈られた手紙でるということが出来る。そしてその中の文句は結晶の形及び模様という暗號で書かれてゐるのである。その暗號を讀みとく仕事が即ち人工雪の研究であるということも出来るのである。」P.184

Copy on September 13,2012.


69


CREATIVE English Course Ⅱ Revised Edition DAIICHI GAKUSHUSHA P.38~42

The Acropolis of Athens

Everyone who goes to Greece wants to visit the famous Acropolis in Athens. On the Acropolis stand the ruins from the Golden Age of Greece. When one stands there among these ruins he can picture for himsrlf not only the buildings they once were, but also a whole civilization of the past.

The ancient Greeks used to build pars of their cities on hills. Hills were easy to defend against the enemy. The Greeks called this kind of hill-city an akropolis. The name means "high city" in Greek. The most famous akropolis is in Athens.

If you were standing today on the Acropolis of Athens, you could see modern city below you and the blue Mediterranean not far away. On the Acropolis itself you could see the ruins of some of the most beautiful buildings in the world.

At first the Greeks built the Acropolis for protection from their enemies. But gradually they began to use it for religious purposes. On the Acropolis they began to build temples to their gods and goddesses. On the temples and in the temples can be found some of the finest sculpture of all time. There were temples on the Acropolis before 500 B.C., but many of them were destroyed in wars with the Persians. Most of the remaining temples were built during the Golden Age of Athens, about 450 B.C. During that time Pericles was the best-known ruler of Athens.

Pericles, Principle Building of the Acropolis of Athens(imaging View)

The most impressive building on the Acropolis is the Parthenon. The Parthenon is a temple of white marble. Its beautiful pillars support a heavy marble roof. Inside, there once was a great gold and ivory statute of Athena, the goddess of wisdom. Wisdom was very important to the Greeks of ancient Athens. During the Golden Age the ceiling of the Parthenon was painted red, gold, and blue. The tops of the pillars were painted red, and the building was decorated with beautiful marble statutes of Greek gods and goddesses.

Statue of Athena, Inside the Parthenon (imaginary View)

Over the years much of the beauty of the Parthenon was destroyed by war. The Turks ruled Greece in the seventeenth century and used the Parthenon to store gunpowder. When the city of Athens was attacked by Venetian army, this gunpowder exploded. The explosion destroyed the center of the Parthenon and ruined the building. Today most of the marble statues have disappeared. Many of the marble pillars fallen.

Recently the Greek government had part of the great temple rebuilt. At night white and colored lights shine on the marble ruins, and the words of Pericles come from loudspeakers on the Acropolis. Sometimes the words are in Greek, and sometimes they are in French or English. When you watch the lights on the marble ruins and listen to the words of Pericles, you can almost believe that you are living in Athens during the Golden Age.

※参考図書:『古代ギリシア』(タイム ライフ インターナショナル出版事業部)昭和45年6月25日 4刷発行

Copy on September 14, 2012


70 Russell(1,872~1,970年)


THE CROWN EGLISH READER ⅡB SANSEIDO P.136~141

The Road to Happiness

Who are the happiest people in the world? Are they always those who have good health and plenty of money? No, not always. The person who is happy is one who is able to do something which he or she really likes doing. This lesson tells us some of Bertrand Russell's ideas about happiness.  

Bertrand Russell

There are a great many people who have the material conditions of happiness, i.e. health and a large income, and who, nevertheless, are profoundly unhappy. This is especially true in America. In such cases it would seem as if the fault must lie with a wrong theory as to how to live. In one sense we may say that any theory as to how to live is wrong. We imagine ourselves more different from the animals than we are. Animals live on impulse, and are happy as long as outside conditions are favorable. If you have a cat, it will enjoy life if it has food and warmth and opportunities for an occasional night on the roof. Your needs are more complex than those of your cat, but they still have their basis in instinct. In civilized societies, especially in English-speaking societies, this is too apt to be forgotten. People propose to themselves some main objective, and restrain all impulses that do not minister to it. A businessman may be so anxious to grow rich that to this end he sacrifices health and the private affections. When at last he has become rich, no pleasure remains to him except worring other people by encouraging them to imitate his noble example. Many rich ladies, although nature has not endowed them with any spontaneous pleasure in literature or art, decide to be thought cultured, and spend boring hours learning the right thing to say about fashionable new books. It does not occur to them that books are written to give delight, not to afford opportunities for a dusty snobbism.

Businessmen in the City

If you look about you at the men and women whom you can call happy, you will see that they all have certain things in common. The most important of these things is an activity which at most times is enjoyable on its own account, and which, in addition, gradually builds up something that you are glad to see coming into existence. Parents who take an instinctive pleasure in their children can get this kind of satisfaction out of bringing up a family. Artist and authors and men of science get happiness in this way if their own work seem good to them. But there are many humbler forms of the same kind of pleasure. Many men who spend their working life in the City devote their weekend to voluntary and unpaid work in their gardens, and when the spring comes they experience all the joys of having created beauty.

Treadmill

It is impossible to be happy without activity, but it is also impossible to be happy if the activity is too hard or of an unpleasant kind. Activity is agreeable when it is directed very obviously to a desired end and is not in itself contrary to impulse. A dog will pursue rabbits to the point of complete exhaustion and be happy all the time, but if you put the dog on a treadmill and gave him a good dinner after half an hour, he would not be happy till he got to the dinner, because he would not have been engaged in a natural activity meanwhile. One of the difficulties of our time is that , in a complex modern society, few of the things that have to be done have the naturalness of hunting. The consequence is that most people, in a technically advanced community, have to find their happiness outside the work by which they make their living. And if their work is exhausting their pleasures will tend to be passive. Watching a football game or going to the movies leaves little satisfaction afterward, and does not in any degree gratify creative impulses. The satisfaction of the players, who are active, is of quite a different order.

The wish to be respected by neighbors and the fear of being despised by them drive men and women into ways of behavior which are not caused by any spontaneous impulse. The person who is always "correct" is always bored, or almost always. It is a great sorrow to watch mothers teaching their chidren to restrain their joy of life and become quite puppets.

The pursuit of social success, in the form of prestige or power or both, is the most important obstacle to happiness in a competitive society. I am not denying that success is a part of happiness――to some, a very important part. But it is not, by itself, enough to satisfy most people. You may be rich and admired, but if you have no friends, no interests, no spontaneous useless pleasure, you will be miserable. Living for social success is one form of living by a theory, and all living by theory is dusty and dry.

※ノーベル文学賞賞。受賞年:1950年

Copy on September 15,2012.


71


          After Twenty Years

The policeman on the beat moved up the avenue impressively. The impressiveness was habitual and not for show, for spectators were few. The time was barely 10 o'clock at night, but chilly gusts of wind with a taste of rain in them had well night depeopled the streets.

Trying doors as he went, twirling his club with many intricate and artful movements, turning now and then to cast his watchful eye adown the pacific thoroughfare, the officer, with his stalwart form and slight swagger, made a fine picture of a guardian of the peace. The vicinity was one that kept early hours. Now and then you might see the lights of a cigar store or of an all-night lunch counter; but majority of the doors belonged to business places that had long since been closed.

When about midway of a certain block the policeman suddenly slowed his walk. In the doorway of darkened hardware store a man leaned, with an unlighted cigar in his mouth. As the policeman walked up to him the man spoke up quickly.

"It's all right, officer," he said, reassuringly. "I'm just waiting for a friend. It's an apointment made twenty years ago. Sounds a little funny to you, doesn't it? Well, I'll explain if you'd like to make certain it's all straight. About that long ago there used to be a restaurant where this store stands――'Big Joe' Brady's restaurant."

"Until five years ago," said the policeman. "It was torn down then."

The man in the doorway struck a match and lit his cigar. The light showed a pale, square-jawed face with keen eyes, and a little white scar near his right eye brow. His scarf-pin was a large diamond, oddly set.

"Twenty years ago to-night," said the man, "I dined here at 'Big Joe' Brady's with Jimy Wells, my best chum, and finest chap in the world. He and I were raised here in New York, just like two brothers, together. I was eighteen and Jimmy was twenty. The next morning I was to start for the West to make my fortune. You couln't have dragged Jimmy out of New York; he thought it was the only place on earth. Well, we agreed that night that we would meet here again exactly twenty years from that date and time, no matter what our conditions might be or from what distance we might have to come. We figured that in twenty years each of us ought to have our destiny worked out and our fortunes made, whatever they were going to be,"

"It sounds pretty interesting," said the policeman. "Rather a long time between meets, though, it seems to me. Haven't you heard from your friend since you left?"

Well, yes, for a time we corresponded," said the other. "But after a year or two we lost track of each other. You see, the West is a pretty big proposition, and I kept husting around over it pretty lively. But I know Jimmy will meet me here if he's alive, for he always was the truest, stanchest old chap in the world. He'll never forget. I came a thousand miles to stand in this door to-night, and it's worth it if my old partner turns up."

The wating man pulled out a handsome watch, the lids of it set with small diamonds.

"Three minutes to ten," he announced. "It was exactly ten o'clock when we parted here at the restaurant door."

"Did pretty well out West, didn't you?" asked the policeman.

"You bet! I hope Jimmy has done half as well. He was a kind of plodder though, good fellow as he was. I've had compete with some of the sharpest wits going to get my pile. A man gets in a groove in New York. It takes the West to put a razor-edge on him."

The policeman twirled his club and took a step or two.

"I'll be on my way. Hope your friend comes around all right. Going to call time on him sharp?"

"I should say not!" said the other. "I'll give him half an hour at least. If Jimmy alive on earth he'll be here by that time. So long, officer."

"Good -night, sir," said the policeman, passing on along his beat, trying doors as he went.

There was now a fine, cold drizzle falling, and the wind had risen from its unceratain puffs into a steady blow. The few foot passengers astir in that quarter hurried dismally and silently along with coat collars turned high and pocketed hands. And in the door of the hardware store the man who had come a thousand moles to fill to an appointment, uncertain almost to absurdity, with the friend of his youth, smoked his cigar and waited.

About twenty minutes he waited, and then a tall man in a long overcoat, with collar turned up to his ears, hurried across from the opposite side of the street. He went directly to the waiting man.

"Is that you, Bob?" he asked, doubtfully.

"Is that you, Jimmy Wells?" cried the man in the door.

"Bless my heart!" exclaimed the new arrival, grasping both the other's hands with his own. "It's Bob, sure as fate. I was certain I'd find you here if you were still in existence. Well, well, well――twenty yeas is a long time. The old restaurant's gone, Bob; I wish it had lasted, so we could have had another dinner there. How has the West treated you, old man"

"Bully, it has given me everything I asked it for. You've changed lots, Jimmy. I never thought you were so tall by two or three inches."

"Oh, I grew a bit after I was twenty."

"Doing well in New York, Jimmy?"

"Moderately. I have a position in one of the city departments. Come on, Bob; we'll go around to a place I know of, and have a good long talk about old times."

The two men started up the street, arm in arm. The man from the west, his egotism enlarged by success, was beginning to outline the history of his career. The other, submerged in his overcoat, listened with interest.

At the corner stood a drug store, brilliant with electric lights. When they came into this glare each of them turned simultaneously to gaze upon other's face.

The man from the West stopped suddenly and released his arm.

"You're not Jimmy Wells," he snapped. "Twenty years is a longtime, but not long enough to change a man's nose from a Roman to a pug."

"It sometimes changes a good man into a bad one," said the tall man. "You've been under arrest for ten minutes, "Silky Bob. Chicago thinks you may have dropped over our way and wires us she wants to have a chat with you. Going quietly, are you? That's sensible. Now, before we go to the station here's a note I was asked to hand to you. You may read it here at the window. It's from Patrolman Wells."

The man from the West unfolded the little piece of paper handed him. His hand was steady when he began to read, but It trembled a little by the time he had finished. The note was rather short.

Bob: I was at the appointed place on time. When you struck the match to light your cigar I saw it was the face of the man wanted in Chicago. Somehow I couldn't do it myself, so I went around and got a plain clothes man to do the job.

JIMMY.

YOHAN PEARL LIBRARY P.20~26

関連翻訳文二 十 年 後

Copy on September 16.2012.


72

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          The Gift of the Magi

 One dollar eighty-seven cents. That was all. And sixty cents of it was in pennies. Pennies saved one and two at a time by bulldozing the grocer and vegetable man and the butcher until one's checks burned with the silent imputation of parsimony that such close dealing implied. Three times Della counted it. One dollar and eighty-seven cents. And the next day would be Christmas.

 There was clearly nothing to do but flop down on the shabby little couch and howl. So Della did it. Which instigates the moral reflection that life is made up of sobs, sniffles, and smiles, with sniffles predominating.

 While the mistress of the home is gradually subsiding from the first stage to the second, take a look at the home. A furnished flat at $8 per week. It did not exactly beggar description, but it certainly had that word on the lookout for the mendicancy squad.

 In the vestibule below was a letter-box into which no letter would go, and an electric button from which no mortal finger could coax a ring. Also appertaining thereunto was a card bearing the name "Mr. James Dillingham Young."

 The "Dillingham" had been flung to the breeze during a former period of prosperity when its possessor was being paid $30 per week. Now, when the income was shrunk to $20, the letters of "Dillingham" looked blurred, as though they were thinking seriously of contracting to a modest and unassuming D. But whenever Mr. James Dillingham Young came home and reached his flat above he was called "Jim" and greatly hugged by Mrs. James Dillingham Young, already introduced to you as Dell. Which is all very good.

 Della finished her cry and attended to her cheeks with the powder rag. She stood by the window and looked out dully at a gray cat walking a gray fence in a gray backyard. Tomorrow would be Christmas Day, and she had only $1.87 with which to buy Jim a present. She had been saving every penny she could for months, with this result. Twenty dollars a week doesn't go far. Expenses had been greater than she had calculated. They always are. Only $1.87 to buy a present for Jim. Her Jim. Many a happy hour she had spent planning for something nice for him. Something fine and rare and sterling-something just a little bit near to being worthy of the honor of being owned by Jim.

 There was a pier-glass between the windows of the room. Perhaps you have seen a pier-glass in an $8 flat. A very thin and very agile person may, by observing his reflection in a rapid sequence of longitudinal strips, obtain a fairly accurate conception of his looks. Della, being slender, had mastered the art.

 Suddenly she whirled from the window and stood before the glass. Her eyes were shining brilliantly, but her face had lost its color within twenty seconds. Rapidly she pulled down hair and let it fall to its full length.

 Now, there were two possessions of the James Dillingham Young in which they both took a mighty pride. One was Jim's gold watch that had been his father's and his grandfather's. The other was Della's hair. Had the Queen of Sheba lived in the flat across the airshaft, Della would have let her hair hang out the window some day to dry just to depreciate Her Majesty's jewels and gifts. Had King Solomon been the janitor, with all his treasures piled up in the basement, Jim would have pulled out his watch every time he passed. just to see him pluck at his beard from envy.

 So now Della's beautiful hair fell about her rippling and shining like a cascade of brown waters. It reached below her knee and made itself almost a garment for her. And then she did it up again nervously and quickly. Once she faltered for a minute and stood still while a tear or two splashed on her worn red carpet.

 On went her old brown jacket; on went her old brown hat. With a whirl of skirts and with the brilliant sparkle still in her eyes, she fluttered out the door and down the stairs to the street.

 Where she stopped the sign read:"Mme.Sofronie. Hair Goods of All Kinds." One flight up Della ran, and collected herself, panting. Madame, large, two white, chilly, hardly look the "Sofronie."

 "Will you buy my hair?" asked Della.

 "I buy hair," said Madame. "Take yer hat off and let's have a sight at the looks of it."

 Down rippled the brown cascade.

 "Twenty dollars," said Madame, lifting the mass with a practiced hand.

 "Give it to me quick," said Dell.

 Oh, and the next two hours tripped by on rosy wings, Forget the hashed metaphor.

 She was ransacking the stores for Jim's present.

 She was ransacking the stores for Jim's present.

 She found it at last. It surely had been made for Jim and no one else. There was no other like it in any of the stores, and she had turned all of them inside out. It was a platinum fob chain simple and chaste in design, properly proclaiming its value by substance alone and not by meretricious ornamentation-as all good things should do. It was even worthy of The watch. As soon as she saw it she knew that it must be Jim's. It was like him. Quietness and valu-the description applied to both. Twenty-one dollaras they took from her from for it, and she hurried home with the 87 cents. With that chain on his watch Jim might be properly anxious about the time in any company. Grand as the watch was, he sometimes looked at it on the sly on account of the old leather strap that he used in place of a chain.

 When Della reached home her intoxication gave way a little to prudence and reason. She got out her curling irons and lighted the raveges made by generosity added to love. Which is always a tremendous task, dear friends-a mammoth task.

 Within forty minutes her head was covered with tiny, close-lying curls that made her look wonderfully like a truant schoolboy. She looked at her reflection in the mirror long, carefully, and critically.

 "If Jim doesn't kill me," she said to herself, "before he takes a second look at me, he'll say I look like a Coney Island chorus girl. But what could I do-oh! what could I do with a dollar and eighty-seven cents?"

 At 7 o'clock the coffee was made and the frying-pan was on the back of the stove hot and ready to cook the chops.

 Jim was never late. Dell doubled the fob chain in her hand and sat on the corner of the table near the door that he always entered. Then she heard his step on the stair away down on the first flight, and she turned white for just a moment. She had a habit of saying little silent prayers about the simplest everyday things, and now she whispered: "Please God, make him think I am still pretty."

 The door opened and Jim stepped in and closed it. He looked thin and very serious. Poor fellow, he was only twenty-two-and to be burdened with a family! He needed a new overcoat and he was without gloves.

 Jim stepped inside the door, as immovable as a setter at the scent of quail. His eyes were fixed upon Dell, and there was an expression in them that she could not read, and it terrified her. It was not anger, nor surprise, nor disapproval, nor horror, nor any of the sentiments that she had been prepared for. He simply stared at her fixedly with that peculiar expression on his face.

 Dell wriggled off the table and went for him.

 "Jim, darling," she cried, "don't look at me that way. I had my hair cut off and sold it because I couldn't have lived through Christmas without giving you a present. I'll grow out again-you won't mind, will you? I just had to do it. My hair grows awfully fast. Say "Merry Christmas!' Jim, and let's be happy. You don't know what a nice-what a beautiful, nice gift I've got for you."

 "You've cut off your hair" asked Jim, laboriously, as if he had not arrived at that patent face even after the hardest mental labor.

 "Cut it off and sold it," said Della. "Don't you like me just as well, anyhow? I'm me without hair, ain't I?"

Jim looked about the room curiously.

"You say your hair is gone?" he said, with an air almost of idiocy.

 "You needn't look for it," said Della."It's sold, I tell you-sold and gone, too. It's Christmas Eve, boy. Be good to me, for it went for you. Maybe the hairs of my head were numbered," she went on with a sudden serious sweetness, “but nobody could ever count my love for you. Shall I put the chops on, Jim?"

 Out of his trance Jim seemed quickly to wake. He enfolded his Della. For ten seconds let us regard with discreet scrutiny some inconsequential object in other direction. Eight dollars a week or a million a year-what is the difference? A mathematician or a wit would give you the wrong answer. The magi brought valuable gifts, but that was not among them. This dark assertion will be illuminated later on.

 Jim drew a package from his overcoat pocket and threw it upon the table.

 "Don't make any mistake, Dell," he said, "abbot me. I don't think there's anything in the way of a haircut or a shave or a shampoo that could make me like my girl any less. But if you'll unwrap that package you may see why you had me going a while at first."

 White fingers and nimble tore at the string and paper. And then an ecstatic scream of joy; and then, alas! a quick feminine change to hysterical tears and wails, necessitating the immediate employment of all the comforting powers of the lord of the flat.

 For their lay The Combs-the set of combs, side and back, that Della had worshipped for long in a Broadway window. Beautiful combs, pure tortoise shell, with jewelled rims-just the shade to wear in the beautiful vanished hair. They were expensive combs, she knew, and her heart had simply craved and yeaned over them without the least hope of possession. And now, they were hers, but the tresses that should have adorned the coveted adornments were gone.

 But she hugged them to her bosom, and at length she was able to look up with dim eyes and a smile and say: "My hair grows so fast, Jim!"

 And then Della leaped up like a little singed cat and cried, "Oh, oh!"

 Jim had not yet seen his beautiful present.

 She held it out to him eagerly upon her open palm. The dull precious metal seemed to flash with a reflection of her bright and ardent spirit.

"Isn't it a dandy, Jim? I hunted all over town to find it. You'll have to look at the time a hundred times a day now. Give me your watch. I want to see how it looks on it."

 Instead of obeying, Jim tumbled down on the couch and put his hands under the back of his head and smiled.

 "Dell," said he, "let's put our Christmas presents away and keep’em a while. They're too nice to use just at present. I sold the watch to get the money to buy combs. And now suppose you put the chops on."

 The magi, as you know, were wise men-wonderfully wise men-who brought gifts to the Babe in the manger. They invented the art of giving Christmas presents. Being wise, their gifts were no doubt wise ones, possibly bearing the privilege of exchange in case of duplication. And here I have lamely related to you the uneventful chronicle of two foolish children in a flat who most unwisely sacrificed for each other the greatest treasures of their house. But in a last word to the wise of these days let it be said that of all who give gifts these two were the wisest. Of all who give and receive gifts, such as they were wisest. Everywhere they are wisest. They are the magi.

SHORT STORIES BY O.HENRY (YOHAN PUBLICATIONS,INC.)P.9~19

平成二十六年十二月十八日、英文は平成二十九年二月二十四日


73


          The Last Leaf

In a little district west of Washington Square the streets have run crazy and broken themselve into small strips called "places," These ! "places" make strange angles and curves, One street crosses it self a time or two. An artist once discovered a valuable possibility in this street. Suppose a collector with a bill for paints, paper and canvas should, in traversing this route, suddenly meet himself coming back, without a cent having been paid on account!

So, to quaint old Greenwich Village the art people soon came prowling, hunting for north windows and eigteenth^century gables and Dutch attics and low rents. Then they imported some pewter mugs and a chafing dish or two from Sixth Avenue, and became a "colony."

At the top of a squantty, theree-story brick Sue and Johnsy had their studio. "Johnsy" was familiar for Joanna. One was from Maine, the other from California. They had met at the table d'hote of an English Street "Delmonico's," and found their tastes in art, chicory salad and bishop sleeves' so congenial that the point studio resulted.

That was in May. In November a cold, unseen stranger, whome the doctors called Pneumonia, stalked about the colony, touching one here and there with his icy fingers. Over on the east side this ravager strode boldry, smiting his victims by scores, but his feet trode slowly through the maze of the narrow and moss-grown "places."

Mr. Pneumonia was not what you would call a chivalic old gentlemn. A mite of a little woman with blood thinned by California zehyrs was hardly fair game for the red-fisted, short-breathed old duffer. But Johnsy he smote; and she lay, scarcely moving, on her painted iron bedstead, looking through the small Dutch window-panes at the blank side of the next brick house.

One morning the busy doctor invited Sue into the hallway with a shaggy, gray eyebrow.

She has one chance in――let us say, ten," he said, as he shook down the mercury in his clinical thermometer. "And that chance is for her to want to love. This way people have of lining-up on the side of undertaker maskes the entire pharmacopoeia look silly. Your little lady has made up her mind that she's not going to get well. Has she anything on her mind?"

"She――she wanted to paint the Bay of Naples some day," said Sue.

"Paint!――bosh! Has she anything on her mind worth thinking about twice―― a man for instance?"

"A man?" said Sue, with a jew's-harp twang in her voice. "Is a man worth――but, no, doctor, there is nothing of the kind."

"Well, it is the weakness, then," said the doctor. I will do all that science, so far as it may filter through my efforts, can accomplish. But whenever my patients begins to count the carriges in her funeral procession I sabtract 50 percent. from the curative power of medicines. If you will get her to ask one question the new winter styles in cloak sleeves I will promise you a one-in five chance for her, insted of one in ten."

After the doctor had gone Sue went into the workroom and cried a Japanese napkin to a pulp. Then she swaggered into Johnsy's room with her drawing board, whisling ragtime.

Johnsy lay, scarcely making a ripple under the bedclothes, with her face toward the window. Sue stopped whistling, thinking she was asleep.

She arranged her board and began a pen-and-ink drawing to illustrate a magazine story. Young artists must to pave their way to Art by drawing pictures for magazine stories that young authors write to pave their way to Literature.

As Sue was sketching a pair of elegant horsehow riding trousers and a monocle on the figure of the hero, an Idaho cowboy, she heard a low sound, several times repeted. She went quickly to the bedside.

Johnsy's eyes were open wide. She was looking out the window and counting――counting backward.

"Twelve," she said , and a little later "eleven",and then "ten," and "nine"; and then eight" and "seven," almost together.

Sue looked solicitously out of window. What was there be count? There was only a bare, dreary yard to be seen, and the blank side of the brick house twenty feet away. An old , old ivy vine, gnarled and decayed at the roots, climbed half way up the brick wall. The cold breath of autumn had stricken its leaves from the vine until its skeleton branches clung, almost bare, to the crumbling bricks.

"What is it, dear?" asked Sue.

"Six said Jhomsy, in almost a whisper. "They're failing faster now. Three days ago there were almost a hundred. It made my head ache to count them. But now it's easy. There goes another one. There are only five left now."

"Five what, dear? Tell your Sudie."

"Leaves. On the ivy vine. When the last one falls I must go, too. I've known that for three days. Didn't the doctor tell you?"

Oh, I never heard of such nonsense," complained Sue, with magnificient scorn. "What have old ivy leaves to do with yur getting well? And you used to love that vine so, you naughty girl. Don't be a goosey. Why, the doctor told me this morning that your chnaces for getting well real soon were――let's see exactly what he said――he said the chance were ten to one! Why, that's almost as good a chance as we have in New York when we ride on street cars or walk past a new bulding. Try to take some broth now, and let Sudie go back to her drawing, so she can sell the editor man with it, and buy port wine for her sick child, and pork chops for her greedy self."

"You need't get any more wine," said Jhonsy, keepimg her eyes fixed out window. "There goes another. No, I don't want any broth. The leaves just four. I want to see the last one fall before it gets dark. Then I'll go, too."

"Jhonsy, dear," said Sue, bending over her, "will you promise me to keep your eyes closed, and not look out the window until I am done working? I must hand those drawings in by to-morrow. I need the light, or I would draw the shade down,"

"Couldn't you draw in the other room?" asked Johnsy, coldly.

I'd rather be here by you," said Sue. "Beside, I don't want you to keep lookimg at those silly ivy leaves."

"Tell me as soon as you have finished," said Jhonsey, closing her eyes, and lying white and still as a fallen statue, "because I want to see the last one fall. I'm tired of wating. I'm tired of thinking. I want to turn loose my hold on everything, and go sailing down, down, just like the one of those poor, tired leaves."

"Try to sleep," said Sue, "I must call Behrman up to be my model for the old hermit miner. I'll not gone a minute. Don't try to move 'til I come back."

Old Berhman was a painter who lived on the ground floor beneath them. He was past sixty and had a Michael Angelo's Moses beard curling down from the head of a satyr along the body of an imp. Behrman was failure in art. Forty years he had wielded the brush wituout getting near enough to touch the hem of his Mistress's robe. He had been always about to paint a masterpiece, but had never yet begin it. For several yeas he had painted nothing except now and then a daub in the line of commerce or advertising. He earned a little by serving as a model to those young artists in the colony who could not pay the price of a professional. He drunk gin to xecess, and still talked of his coming masterpiece. For the rest he was a fierce little old man, who scoffed terribly at softness in any one, and whregarded himself as especial mastiff-in-waiting to protect the two young artists in the sutudio above.

Sue found Behrman smelling strongly of juniper berries in his dimly lighted den below. In one corner was a blank canvas on the easel that had been waiting there for twenty-five years to receive the first line of the masterpiece. She told him of Johnsy's fancy, and fragile how she feared she would, indeed, light and fragile as a leaf herself, float away, when her slight hold upon the world grew weaker.

Old Behrman, with his red eyes plainly streaming, shouted his contempt and derision for such idiotic imagininings.

"Vass!" he cried. "Is dere people in de world mit der foolishness to die because leafs dey drop off from a confounded vine? I haf not heard of such a thing. No, I will not bose as a model for your fool hermit-dumderhead. Vy do you allow dot silly pusiness to come in der brain of her? Ach, dot poor leetle Miss Yohnsy."

"She is very ill and weak," said Sue, "and the fever has left her mind morbid and full of strange fancies. Very well, Mr. Behrman, if you do not care to pose for me, you needn't But I think you are a horrid old――old flibbertigibbet."

"You are just like a woman!" yelled Behrman. "Who said I will not bose? Go on. I come mit you. For half an hour I haf peen trying to say dot I am ready to bose. Gott! dis is not any blace in which one so goot as Miss Yohnsy shall lie sick. Some day I will paint a masterpiece, and ve shall all go away. Gott! yes."

Johnsy was sleeping when they went upstaires. Sue pulled out the shade down to the window-sill, and motioned Behrman into the other room. In there they peered out the window fearfully at the ivy vine. Then they looled at each other for a moment without speaking. A persistent, cold rain was falling, mingled with snow. Behrman, in his old blue shirt, took his seat as the hermit miner on an upturned kettle for a rock.

When Sue awoke from an hour's sleep the next morning she found Jhonsy with dull, wide-open eyes staring at the drawn green shade.

"Pull it up, I want to see," she ordered, in a whisper.

Wearily Sue obeyed.

But, lo! after the beating rain and fierce gusts of wind that had endured throug the livelong night, there yet stood out against the brick wall one ivy leaf. It was the last on the vine. Still dark green near its stem, but with its seratted edges tinted with the yellow of dissolution and decay, it hung bravely from a branch some twenty feet above the ground.

"It is the last one,"said Jhonsy. "I thought it would surely fall during the night. I heard the wind. It will to-day, and I shall die at the same time.

"Dear, dear!" said Sue, leaning her worn face down to the pillow, "think of me, if you won't think of youraself. What would I do?"

But Jhonsy did not answer. the lonesmest thing in all the world is a soul when it is making ready to go on its mysterious, far journey. The fancy seemed to possess her more strongly as one by one the ties that bound her to friendship and to earth were loosed.

The day wore away, and even through the twilght they could see the lone ivy leaf clinging to its stem against the wall. And then, with the coming of the night the north wind was again loosed, while the rain still beat against the windows and pattered down from the low Dutch eaves.

When it was light enough Jhonsy, the merciless, commanded that the shede be raised.

The ivy leaf was still there.

Jhonsy lay for a long time looking at it. And then she called to Sue, who was stirring her chicken broth over the gas stove.

"I've been a bad girl, Sudie," said Jhonsy. "Something has made that last leaf stay there to show me how wicked I was. It is a sin to want to die. You may bring me a little broth now, and some milk with a little port in it, and ――no,: bring me a hand-mirror first, and then pack some pillows about me, and I will sit up and watch you cook."

An hour later she said:

Sudie, some day I hope to paint the Bay of naples."

The doctor came in the afternoon, and Sue had an excuse to go into the hallway as he left.

"Even chances," said the doctor, taking Sue's thin, shaking hand in his. "With good nursing you'll win. And now I must see another case I have downstairs. Behrman, his name is――some kind of an artist, I believe Pneumonia, too. He is an old, weak man, and the attack is acute. There is no hope for him; but he goes to the hospital to-day be to made more comfortble."

The next day the doctor said to Sue: "She's out of danger. You've won. Nutrition and care now――that's all."

And that afternoon Sue came to the bed where Jhonsy lay, contendly kinitting a very blue and very useless woollen shoulder scarf, and put on arm around her, pillows and all.

"I have something to tell you, white mouse," she said. "Mr. Behrman died of pneumonia to-day in the hospital. He was ill two days. The janitor found him on the morning of the first day in his room downstaires helpless with pain. His shoes and clothing were wet through and icy cold. They couln't imagine where he had been on such a dredful night. And then they found a lantern, still lighted, and ladder that had been dragged from its place, and some scattered brushes, and a palette with green and yellow colors mixed on its, and――look out the window, dear, at the lsst ivy leaf on the wal. Didn't you wonder why it never fluttered or moved when the wind blew? Ah, darling, it's Behrman's masterpiece――he painted it there the night that the last leaf fell."

YOHAN PEARL LIBRARY P.112~124

関連翻訳:O・ヘンリ短編集(三)大久保康雄訳:最 後の 一葉

Copy on September 16.2012.


74


          The Green Door

Suppose you should be walking down Broadway after dinner, with ten minutes allotted to the consummation of your cigar while you are choosing between a diverting tragedy and something serious in the way of vaudeville. Suddenly a hand is laid upon your arm. You turn back to look into the thrilling eyes of a beautiful woman, wonderful in diamonds and Russian sables. She thrusts hurriedly into your hand an extremely hot buttered roll, flashes out a tiny pair of scissors, snips off the second button of your overcoat, meaningly ejaculates the one word, "parallelogram!" and swiftly flies down a cross street, looking back fearfully over her shoulder.

That would be pure adventure. Would you accept it? Not it? You would flush with embarrassment; you would sheepishly drop the roll and continue down Broadway, fumbling feebly for the missing button. This you would do unless you are one of the blessed few in whom the pure spirit of adventure is not dead.

True adventurers have never been plentiful. They who are set down in print as such have been mostly business men with newly invented methods. They have been out after the things they wanted――golden fleeces, holy grails, lady loves, treasure, crowns and fame. The true adventure goes forth aimless and uncalculating to meet and greet unknown fate. A fine example was the Prodigal Son――when he started back home.

Half-adventurers――brave and splendid figures――have been numerous. From the Crusades to the Palisades they have enriched the arts of history and fiction and trade of historical fiction. But each of them had a prize to win, a goal to kick, an axe to grind, a race to run, a new thrust in tierce to deliver, a name to carve, a crow to pick――so they were not followers of true adventure.

In the big city the twin spirits Romance and Adventure are always abroad seeking worthy wooers. As we roam the streets they slyly peep at us and challenge us in twenty different guises. Without knowing why, we look up suddenly to see in a window a face that seems to be belong to our gallery of intimate portraits, in a sleeping thoroughfare we hear a cry of agony and fear coming from an empty and shuttered house; instead of at our familiar curb a cab-driver deposits us before a strange door, which one, with a smile, opens for us and bids us enter; a ship of paper, written upon, flutters down to our feet from the high lattices of Chance; we exchange glances of instantaneous hate, affection, and fear with hurrying strangers in the passing crowds; a sudden souse of rain――and our umbrella may be sheltering the daughter of the Full Moon and first cousin of the Sidereal System; at every corner handkerchiefs drop, fingers beckon, eyes besiege, and the lost, the lonely, the rapturous, the mysterious, the perilous changing clues of adventure are slipped into our fingers. But few of us are willing to hold and follow them. We are grown stiff with the ramrod of convention down our backs. We pass on; and some day we come, at the end of a very dull life, to reflect that our romance has been a pallid thing of a marriage or two, a stain rosette kept in a safe-deposit drawer, and a lifelong feud with a steam radiator.

Rudolf Steiner was a true adventurer. Few were the evening on which he did not go forth from his hall bedchamber in search of the unexpected and the egregious. The most interesting thing in life seemed to him to be what might lie just around the next corner. Sometimes his willingness to tempt fate led him into strange paths. Twice he had spent the night in a station-house; again and again he had found himself the dupe of ingenious and mercenary tricksters; his watch and money had been the price of one flattering allurement. But with undiminished ardor he picked up every glove cast before him into the merry lists of adventure.

One evening Rudolf was strolling along a cross-town in the older central part of the city. Two streams of people filled the sidewalks――the home-hurrying, and that restless contingent that abandons home for the specious welcome of the thousand-candle-power table d'hôte.

The young adventurer was of pleasing presence, and moved serenely and watchfully. By daylight he was a salesman in a piano store. He wore his tie drawn through a topaz ring instead of fastened with a stick pin; and once he had written to the editor of a magazine that "Junie's Love Test," by Miss Libbey, had been the book that had most influenced his life.

During his walk a violent chattering of teeth in a glass case on the sidewalk seemed at first to draw his attention (with a qualm) to a restaurant before which it was set; but a second glance revealed the electric letters of a dentist's sign high above the next door. A giant negro, fantastically dressed in a red embroidered coat, yellow trousers and a military cap, discreetly distributed cards to those of the passing crowd who consented to take them.

This mode of dentistic advertising was a common sight to Rudolf. Usually he passed the dispenser of the dentist's cards without reducing his store; but to-night the African slipped one into his hand so deftly that he retained it there smiling a little at the successful feat.

When he had travelled a few yards further he glanced at the card indifferently. Surprised, he turned it over and looked again with interest. One side of the card was blank; on the other was written in ink three words, "The Green Door." And then Rudolf saw, three steps in front of him, a man throw down the card the Negro had given him as he passed. Rudolf picked it up. It was printed with the dentist's name and address and the usual schedule of "plate work" and "bridge work" and "crowns," and specious promises of "painless" operations.

The adventurous piano salesman halted at the corner and considered. Then he crossed the street, walked down a block, recrossed and jointed the upward current of people again. Without seeming to notice the Negro as he passed the second time, he carelessly took the card that was handed him. Ten steps away he inspected it. In the same handwriting that appeared on the first card "The Green Door" was inscribed upon it. Three or four cards were tossed to the pavement by pedestrians both following and leading him. These fell blank side up. Rudolf turned them over. Every one bore the printed legend of the dental "parlors."

Rarely did the arch sprite Adventure need to beckon twice to Rudolf Steiner, his true follower. But twice it had been done, and the quest was on.

Rudolf walked slowly back to where the giant Negro stood by the case of ratting teeth. This time as he passed he received no card. In spite of his gaudy and ridiculous garb, the Ethiopian displayed a natural barbaric dignity as he stood, offering the cards suavely to same, allowing others to pass unmolested. Every half minute he chanted a harsh, unintelligible phrase akin to the jabber of car conductors and grand opera. And not only did he withhold a card this time but it seemed to Rudolf that he received a card from the shining and massive black countenance a look of cold, almost contemptuous disdain.

The look stung the adventurer. He read in it a silent accusation that he had been found wanting. Whatever the mysterious written words on the cards might mean, the black had selected him twice from the throng for their recipient; and now seemed to have condemned him as deficient in the wit and spirit to engage the enigma.

Standing aside from the rush, the young man made a rapid estimate of the building in which he conceived that his adventure must lie. Five stories high it rose. A small restaurant occupied the basement.

The first floor, now closed, seemed to house millinery or furs. The second floor, by the winking electric letters, was the dentist's. Above this a polyglot babel of signs struggled to indicate the abodes of palmists, dress-makers, musicians and milk bottles white on the window sills proclaimed the regions of domesticity.

After concluding his survey Rudolf walked briskly up the high flight of stone steps into the house. Up two flights of the carpeted stairway he continued; and at its top paused. The hallway there was dimly lighted by two pale jets of gas――one far to his right, the other nearer, to his left. He looked toward the nearer light and saw, within its wan halo, a green door. For one moment he hesitated; then he seemed to see the contumelious sneer of the African juggler of cards, and then he walked straight to the green door and knocked against it.

Moments like those that passed before his knock was answered measure the quick breath of true adventure. What might not to be behind those green panels! Gamesters at play; cunning rogues baiting their traps with subtle skill; beauty in love with courage, and thus planning to be sought by it; danger, death, love, disappointment, ridicule――any of those might respond to that temerarious rap.

A faint rustle was heard inside, and the door slowly opened. A girl not yet twenty stood there white-faced and tottering. She loosed the knob and swayed weakly, groping with one hand. Rudolf caught her and laid her on a faded couch that stood against the wall. He closed the door and took a swift glance around the room by the light of a flickering gas jet. Neat, but extreme poverty was the story that he read.

The girl lay still, as if in a faint. Rudolf looked around the room excitedly for a barrel. People must be rolled upon a barrel who――no, no; that was for drowned persons. He began to fan her with his hat. That was successful, for he struck her nose with the brim of his derby and she opened her eyes. And then the young man saw that that hers, indeed, was the one missing face from his heart's gallery of intimate portraits. The frank, gray eyes. the little nose, turning pertly outward; the chestnut hair, curling like the tendrils of a pea vine, seemed the right end and reward of all his wonderful adventures. But the face was woefully thin and pale.

The girl looked at him calmly, and then smiled.

"Fainted, didn't I?" she asked, weakly. "Well, who wouldn’t? You try going without anything to eat for three days and see!"

"Himmel" exclaimed Rudolf, jumping up. "Wait till I come back."

He dashed out the green door and down the stairs. In twenty minutes he was back again kicking at the door with his toe for her to open it. With both arms he hugged an array of wares from the grocery and the restaurant. On the table he laid them――bread and butter, cold meats, cakes, pies, pickles, oysters, a roasted chicken, a bottle of milk and one of red-hot tea.

"This is ridiculous," said Rudolf, blusteringly, "to go without eating. You must quit making election bets of this kind. Supper is ready." He helped her to a chair at the table and asked: "Is there a cup for the tea?" "On the shelf by the window," she answered. When he turned again with the cup he saw her, with eyes shining rapturously, beginning upon a huge dill pickle that she had rooted out from the paper bags with a woman's unerring instinct. He took it from her, laughingly, and poured the cup full of milk. "Drink that first," he ordered, "and then you shall have some tea, and then a chicken wing. If you are very good you shall have a pickle tomorrow. And now, if you'll allow me to be your guest we'll have supper."

He drew up the other chair. The tea brightened the girl's eyes and brought back some of her color. She began to eat with a sort of dainty ferocity like some starved wild animal. She seemed to regard the young man's presence and the aid he had rendered her as a natural thing――not as though she undervalued the conventions; but as one whose great stress gave her the right to put aside the artificial for the human. But gradually, with the return of strength and comfort, came also a sense of the little conventions that belong; and she began to tell him her little story. It was one of a thousand such as the city yawns at every day――the shop girl's story of insufficient wages, further reduced by "fines" that go to swell the store's profits; of time lost through illness; and then of lost positions, lost hope, and――the knock of the adventurer upon the green door. 

But to Rudolf the history sounded as big as the Iliad or the crisis in "Junie's Love Test."

"To think of you going through all that," he exclaimed.

"It was something fierce," said the girl, solemnly.

"And you have no relatives or friends in the city?"

"None whatever."

"I am all alone in the world, too," said Rudolf, after a pause.

"I am glad of that," said the girl, promptly; and somehow it pleased the young man to hear that she approved of his bereft condition.

Very suddenly her eyelids dropped and she sighed deeply.

"I'm awfully sleepy," she said, "and I feel so good."

Rudolf rose and took his hat.

"Then I'll say good-night. A long night's sleep will be fine for you.

He held out his hand, and she took it and said "good-night." But her eyes asked a question so eloquently, so frankly and pathetically that he answered it with words.

Oh, I'm coming back to-morrow to see how you are getting along. You can't get rid of me so easily."

Then, at the door, as though the way of his coming had been so much less important than the fact that he had come, she asked. "How did you you come to knock at my door?"

He looked at her for a moment, remembering the cards, and felt a sudden jealou pain. What if they had fallen into other hands as adventurous as his? Quickly he decided that she must never know the truth. He would never let her know that he was aware of the strange expedient to which she had been driven by her great distress.

"One of our piano tuners lives in this house," he said. "I knocked at your door by mistake."

The last thing he saw in the room before the green door closed was her smile.

At the head of the stairway he paused and looked curiously about him. And then he went along the hallway to its other end; and, coming back, ascended to the floor above and continued his puzzled explorations. Every door that he found in the house was painted green.

Wondering, he descended to the sidewalk. The fantastic African was still there. Rudolf confronted him with his two cards in his hand.

"Will you tell me why you gave me these cards and what they mean?" he asked.

In a broad, good-natured grin the Negro exhibited a splendid advertisement of his master's profession.

"Dar it is, boss," he said, pointing down the street. "But I 'spect you is a little late for de fust act."

Looking the way he pointed Rudolf saw above the entrance to a theatre the blazing electric sign of its new play, "The Green Door."

"I'm informed dat it's fust-rate show, sah," said the Negro. "De agent what represents it pussented me with one dollar, sah, to distribute a few of his cards along with de doctah's. May I offer you one of de doctah's cards, sah?"

At the corner of the block in which he lived Rudolf stopped for a grass of beer and a cigar. When he had come out with his lighted weed he buttoned his coat, pushed back his hat and said, stoutly, to the lamp post on the corner:

"All the same, I believe it was the hand of Fate that doped out the way for me to find her."

Which conclusion, under the circumstances, certainly admits Rudolf Steiner to the ranks of the true followers of Romance and Adventure.

YOHAN PEARL LIBRARY P.125~139

翻訳本:O・ヘンリ短編集(三)大久保康雄訳(新潮文庫):緑の扉 P.49~62

Copy on September 2.2012.


75


          The Cop and the Anthem

On his bench in Madison Square, Soapy moved uneasily. When wild geese honk high of nights, and when women without sealskin coats grow kind to their husbands, and when Soapy moved uneasily on his bench in the park, you may know that winter is near at hand.

A dead leaf fell in Soapy's lap. That was Jack Frost's card. Jack is kind to the regular denizens of Madison Square, and gives fair warning of his annual call. At the corners of four streets he hands his pasteboard to the North Wind, foot man of the mansion of All Outdoors, so that the inhabitants thereof may make ready.

Soapy's mind became cognizant of the fact that the time had come for him to resolve himself into a singular Committee of Ways and Means to provide against the coming rigor. And therefore he moved uneasily on his bench

The hibernatorial ambitions of Soapy were not of the highest. In them were no considerations of Mediterranean cruises, of soporific Southern skies or drifting in Vesuvian Bay. Three months on the Island was what his soul craved. Three months of assured board and bed and congenial company, safe from Boreas and bluecoats, seemed to Soapy the essence of things desirable.

For years the hospitable Blackwell's had been his winter quarters. Just as his more fortunate fellow New Yorkers had bought their tickets to Palm Beach and the Riviera each winter, so Soapy had made his humble arrangements for his annual hegira to the island. And now the time was come. On the previous night three Sabbath newspapers, distributed beneath his coat, about his ankles and over his lap, had failed to repulse the cold as he slept on his bench near the spurting fountain in the ancient square. So the Island loomed big and timely in Soapy's mind. He scorned the provisions made in the name of charity for the city's dependents. In Soapy's opinion the Law was more benign than Philanthropy. There was an endless round of institutions, municipal and eleemosynary, on which he might set out and receive lodging and food accordant with the simple life. But to one of Soapy's proud spirit the gifts of charity are encumbered. If not in corn you must pay in humiliation of spirit for every benefit received at the hands of philanthropy. As Caesar had his Brutus, every bed of charity must have its toll of a bath, every loaf of bread its compensation of a private and personal inquisition. Wherefore it is better to be a guest of the law, which, though conducted by rules, does not meddle unduly with a gentleman's private affairs.

Soapy, having decided to go to the island, at once set about accomplishing desire. There were many easy ways of doing this. The pleasantest was to dine luxuriously at some expensive restaurant; and then, after declaring insolvency, be handed over quietly and without uproar to a policeman. An accommodating magistrate would do the rest.

Soapy left his bench and strolled out of the square and across the level sea of asphalt, where Broadway and Fifth Avenue flow together. Up Broadway he turned, and halted at a glittering cafe, where are gathered together nightly the choicest products of the grape, the silk worm, and protoplasm.

Soapy had confidence in himself from the lowest button of his vest upward. He was shaven, and his coat was decent and his neat black, ready-tied four-in-hand had been presented to him by a lady missionary on Thanksgiving Day. If he could reach a table in the restaurant unsuspected success would be his. The portion of him that would show above the table would raise no doubt in the waiter's mind. A roasted mallard duck, thought Soapy, would be about the thing―― with a bottle of Chablis, and then Camembert, a demi-tasse and a cigar. One dollar for the cigar would be enough. The total would not so high as to call forth any supreme manifestation of revenge from the cafe management; and yet the meat would leave him filled and happy for the journey to his winter refuge.

But as Soapy s foot inside the restaurant door the head waiter's eye fell upon his frayed trousers and decadent shoes. Strong and ready hands turned him about and conveyed him in silence and haste to the sidewalk and averted the ignoble fate of the menaced mallard.

Soapy turned off Broadway. It seemed that his route to the coveted Island was not to be an epicurean one. Some other way of entering limbo must be thought of.

At a corner of Sixth Avenue electric lights and cunningly displayed wares behind plate-glass made a shop window conspicuous. Soapy took a cobblestone and dashed it through the glass. People came running around corner, a policeman in the lead. Soapy stood still, with his hands in his pockets, and smiled at the sight of brass buttons.

"Where's the man that done that" inquired the officer, excitedly.

"Don't you figure out that I might have had something to do with it?" said Soapy, not without sarcasm, but friendly, as one greets good fortune.

The policeman's mind refused to accept Soapy even as a clue. Men who smash windows do not remain to parley with the law's minions. They take to their heels. The policeman saw a man halfway down the block running to catch a car. With drawn club he joined in the pursuit. Soapy, with disgust in his heart, loafed along, twice unsuccessful.

On the opposite side of the street was a restaurant of no great pretentions. It catered to large appetites and modest purses. Its crockery and atmosphere were thick; its soup and napery thin. Into this place Soapy took his accusive shoes and telltale trousers without challenge. At a table he sat and consumed beefsteak, flapjacks, doughnuts and pie. And then to the waiter he betrayed the fact that the minutest coin and himself were strangers.

"Now, get busy and call a cop," said Soapy. "And don't keep a gentleman waiting."

No cop for youse," said the waiter, with a voice like butter cakes and a eye like the cherry in a Manhattan cocktail. "Hey, Con!"

Neatly upon his left ear on the callous pavement two waiters pitched Soapy. He arose joint by joint, as a carpenter's rule opens, and beat the dust from his clothes. Arrest seemed but a rosy dream. The Island seemed very far away. A policeman who stood before a drug store two doors away laughed and walked down the street.

Five blocks Soapy travelled before his courage permitted him to woo capture again. This time the opportunity presented what he fatuously termed to himself a "cinch." A young woman of a modest and pleasing guise was standing before a show window gazing with sprightly interest at its display of shaving mugs and inkstands, and two yards from the window a large policeman of severe demeanor leaned against a water plug.

It was Soapy's design to assume the role of the despicable and execrated "masher." The refined and elegant appearance of his victim and the contiguity of the conscientious cop encouraged him to believe that he would soon feel the pleasant official clutch upon his arm that would insure his winter quarters the right little, tight little isle.

Soapy straightened the lady missionary's ready-made tie, dragged his shrinking cuffs into the open, set hat at a killing cant and sidled toward the young woman. He made eyes at her, was taken with sudden coughs and "hems," smiled, smirked and went brazenly through the impudent and contemptible litany of the "masher." With half an eye Soapy saw that the policeman was watching him fixedly. The young woman moved away a few steps, and again bestowed her absorbed attention upon the shaving mugs. Soapy followed, boldly stepping to her side, raised his hat and said:

"At there, Bedelia! Don't you want to come and play in my yard?”

The policeman was still looking. The persecuted young woman had but to beckon a finger and Soapy would be practically en route for his insular haven. Already he imagined he could feel the cozy warmth of the station-house. The young woman faced him and, stretching out a hand, caught Soapy's coat sleeve.

"Sure, Mike," she said, joyfully,, "if you'll blow me to a pail of suds. I'd have spoke to you sooner, but the cop was watching."

With the young woman playing the clinging ivy to his oak Soapy walked past the policeman overcome with gloom. He seemed doomed to liberty.

At the next corner he shook off his companion and ran. He halted in the district where by night are found the lightest streets, hearts, vows and librettos. Woman in furs and men in greatcoats moved gaily in the wintry air. A sudden fear seized Soapy that some dreadful enchantment had rendered him immune to arrest. The thought brought a little of panic upon it, and when he came upon another policeman lounging grandly in front of a transplendent theatre he caught at the immediate straw of "disorderly conduct."

On the sidewalk Soapy began to yell drunken gibberish at the top of his harsh voice. He danced, howled, raved, and otherwise disturbed the welkin.

The policeman twirled his club, turned his back to Soapy and remarked to a citizen:

Tis one of them Yale lads celebratin' the goose egg they give to the Hartford College. Noisy; but no harm. We've instructions to lave them be."

Disconsolate, Soapy ceased his unavailing racket. Would never a policeman lay hands on him? In his fancy the Island seemed an unattainable Acadia. He buttoned his thin coat against the chilling wind.

In the cigar store he saw a well-dressed man lighting a cigar at a swinging light. His silk umbrella he had set by the door on entering. Soapy stepped inside, secured the umbrella and sauntered off with it slowly. The man at the cigar light followed hastily.

"My umbrella," he said, sternly.

"Oh, is it?" sneered Soapy, adding insult to petit larceny. "Well, why don't you call a policeman? I took it. Your umbrella! Why don't you call a cop? There stands one on the corner."

The umbrella owner slowed his steps. Soapy did likewise, with a presentiment that luck would again run against him. The policeman looked at the two curiously.

"Of course," said the umbrella man――"that is――well, you know these mistakes occur――I――if it's your umbrella I hope you'll excuse me――I picked it up this morning in a restaurant――If you recognize it as yours, why――I hope you'll――”

  "Of course it's mine," said Soapy, viciously.

The ex-umbrella man retreated. The policeman hurried to assist a tall blode in a opera cloak across the street in front of a street car that was approaching two blocks away.

Soapy walked eastward through a street damaged by improvements. He hurled the umbrella wrathfully into an excavation. He muttered against the men who wear helmets and carry clubs. Because he wanted to fall into their clutches, they seemed to regard him as a king who could do no wrong.

At length Soapy reached one of avenues to the east where the glitter and turmoil was but faint. He set his face down this toward Madison Square, for the homing instinct survives even when the home is a park bench.

But on an unusually quiet corner Soapy came to a standstill. Here was an old church, quaint and rambling and gabled. Through one violet-stained window a soft light glowed, where, no doubt, the organist loitered over the keys, making sure of his mastery of the coming Sabbath anthem. For there drifted out to Soapy's ears sweet music that caught and held him transfixed against the convolutions of the iron fence.

The moon was above, lustrous and serene; vehicles and pedestrians were few; sparrows twittered sleepily in the eaves――for a little while the scene might have been a country churchyard. And the anthem that the organist played cemented Soapy to the iron fence, for he had known it well in the days when his life contained such things as mothers and roses and ambitions and friends and immaculate thoughts and collars.

The conjunction of Soapy's receptive state of mind and the influences about the old church wrought a sudden and wonderful change in his soul. He viewed with swift horror the pit into which he had tumbled, the degraded days, unworthy desires, dead hopes, wrecked faculties and base motives that made up his existence.

And also in a moment his heart responded thrillingly this novel mood. An instantaneous thrillingly to this novel mood. An instantaneous and strong impulse moved him to battle with his desperate fate. He would pull himself out of the mire; he would make a man of himself again; he would conquer the evil that had taken possession of him. There was time; he was comparatively young yet; he would resurrect his old eager ambitions and pursue them without faltering. Those solemn but sweet organ notes had set up a revolution in him. To-morrow he would go into the roaring downtown district and find work. At fur important had once offered him a places as driver. He would find him to-morrow and ask for the position. He would be somebody in the world. He would――

Soapy felt a hand laid on his arm. He looked quickly around into the broad face of a policeman.

"What are you doin' here?" asked the officer.

"Nothin'," said Soapy.

"Then come along," said the policeman.

"Three months on the Island," said the Magistrate in the Police Court the next morning.

Copy on 2021.11.6

YOHAN PEARL LIBRARY P.27~39

翻訳本:O・ヘンリ短編集(一)大久保康雄訳(新潮文庫):緑の扉 P.7~18