第1講 『般若心経』の魅力 | 第2講 智慧のお経 | 第4講 「空」のお経 | 第5講 観音さまのお経 |
第9講 「波羅密多」の深い意味 | 第11講 『般若心経』の翻訳 | 第12講 初めにエッセンスありき | 第14講 「彼岸」の智慧の完成 |
第18講 舎利子に語りかけたのは誰か | 第20講 「色不異空」をイカとタコで考える | 第24講 経読みの経知らず | 第27講 第二の矢は受けてはいけない |
第32講 死は不生不滅である | 第34講 プラスの考え方・マイナスの考え方 | 第36講 小乗仏教を批判する | 第39講 禅僧と美女と三人の弟子の話 |
第40講 女性を拒否した僧は清僧か | 第43講 「五蘊」「十二処」「十八界」 | 第47講 禅僧の死に方、二つ | 第49講 釈迦の教えた四つの真理 |
第50講 「道諦」にも八正道あり | 第53講 エリート主義徹底批判 | 第58講 「いい加減」のすすめ | 第61講 涅槃とは何か |
第63講 仏経の三つの性格 | 第66講 凡夫はどこまで行けるか | 第68講 聖徳太子の仏教観 | 第69講 故に知る「般若波羅蜜」 |
第70講 真言――真実のことばの力 | 第71講 誰にでもできる布施 | 第73講 請求的祈りと領収証的祈り | 第77講 『般若心経』の最後の部分 |
第82講 阿修羅の正義 | 第85講 「羯諦。羯諦」は喜びの歌 | 第86講 「空」であるとみなすこと | 第87講 あなたも観音さま |
第88講 仏教という幸福学 | ****** | ****** | ****** |
『ひろさちやの般若心経88講』(新潮文庫) 第1講 『般若心経』の魅力 P.16~18 『般若心経』は、いま、日本でいちばんよく読まれているお経です。 仏教のお経の数は、いったいどれくらいありますか? ときどき、そんな質問をうけます。 仏教の経典の場合は、じつは数え方がむずかしいのです。まあ、いろんな学者の意見を参考にして言えば、ざっと三千といったところが、仏教のお経の数ではないでしょうか……。しかし、その三千のお経の大部分は、その名称すら人々に知られていないものです。専門の仏教学者が知らない教典も数多くあります。一般によく知られたお経といえば、多分三千のうちの一パセンートの三十ぐらいだと思います。どう数えてみても、百にはならないでしょう。 ところで、日本人が最もよく知っているお経といえば、これは文句なしに、 ――『般若心経』―― です。『般若心経』は知吊度ナンバー・ワンのお経です。日本仏教のほとんどの宗派がこのお経を読みます。読まない宗派は、浄土真宗と日蓮宗だけです。 もっとも、浄土真宗と日蓮宗は、非常に信者数が多い宗派ですから、この二つの宗派が読まないということは、ある意味では『般若心経』の価値を引き下げることになります。けれども、なぜこの二つの宗派が読まないかといえば、 「読む必要がない」 からです。日蓮宗は『法華経』だけを読んでいればよいので、その他の経典は読む必要がない。浄土真宗の場合も、「浄土三部経」という浄土のお経だけを読んでいればいいので、『般若心経』を読む必要がないので読まないだけです。決して読んではいけないというわけではありません。 その意味では、『般若心経』は、日本仏教の多くの宗派で読まれている教典であると同時に、日本仏教のほとんどの宗派で読んでいい教典です。また、実際に、多くの人が読んでもいます。日本でいちばん多く読まれている教典が『般若心経』であります。 では、なぜ、『般若心経』はそれほど人気が高いのでしょうか……? なんといっても、その第一の理由は、このお経が短かい教典だからです。文字の数は、これも数え方によって差があるのですが、三百字たらずのものです。忙しい現代人には、この短かさが魅力なのでしょう。お経を読誦するにも、また写経をするにも、短かいということいいことです。 第二は、『般若心経』が大乗仏教の奥深い思想を説き明かしていることです。 『般若心経』は、小乗仏教の難解な教理体系を一刀両断して、大乗仏教の立場から、ずばりと、 ――「空」―― を主張します。「空」とは、いずれ詳しくお話ししますが、簡単に言えば、 「こだわるな!」 ということです。 小乗仏教は煩悩にこだわっていました。煩悩をなくそう、なくそうと悶々としているのが小乗仏教です。ちょうど、眠れぬ夜に、眠ろう眠ろうと羊の数をかぞえているいるようなものです。そこを『般若心経』はずばりと「こだわるな!」と教えてくれます。眠ろうとしなければいいのです。煩悩にこだわらなければいいのです。そこのところに、『般若心経』の大きな魅力があると思います。 2023.03.30 『ひろさちやの般若心経88講』第2講 智慧のお経 P.19~21 『般若心経』は「智慧」のお経です。 こんな話があります。 関山慧玄:建治3年(1277年)~正平15年/延文5年12月12日(1361年)といえば、わが国、南北朝時代の臨済宗の禅僧です。花園上皇に迎えられて、妙心寺を開きました。 次の話は、たぶん関山慧玄が美濃の山中に隠栖していたころのものでしょう。 ある日、にわかの大雨で、本堂に雨漏りがしはじめました。そこで関山慧玄は、 「雨漏りじゃ、なにか受ける物を持って参れ」 と、弟子たちに命じました。 大勢の禅僧たちは、あわてて庫裏(寺院の台所)に走って行きます。でも、雨漏りがするほどの貧乏寺です。雨受けになるような、気のきいた物はなにもありません。彼らはウロウロ、キョロキョロしていました。 ところが、ここにななかなか機転のきいた小坊主がいました。この小坊主の名前はわかりませんが、仮に"珍念"となづけておきます。 珍念は、師匠の関山慧玄が、「何か、雨受けになる物を持って来い」と命じた時、パッと庫裏に飛んで行って、そこにあった笊を持って帰り、 「はい!」 と、師匠に渡したのです。師匠は、「よし」と受け取りました。 翌日、関山慧玄は弟子たちに説教しました。文字通りの説教です。……おまえたちは何年、禅の修行をやっているのか?! 昨日のあの態(ざま)は何だ?! ウロウロ、キョロキョロするばかりで、いっこうに役に立つたんではないか……そこに行くと、あの珍念は偉い。さっと笊を持って来た。おまえたちは、あの珍念の爪の垢でも煎じて飲むべきじゃ……。 さて、この話、おわかりになりますか……? わたしがこの話をすると、ときどき、「そうですね、まあ笊だって、ないよりはましですよね。少しは役に立ちますよね」と言われる方がいます。残念ながらその人は、まったく禅がわかっていないのです。雨受けに笊が役に立たないことは、小学生にもわかります。 では、なぜ、関山慧玄は珍念を褒めたのでしょうか……? それは、他の弟子が、珍念の笊よりももっと役に立たない物を持って来たからです。 そうです。他の弟子が持って来たウロウロ、キョロキョロは、糞の役(失礼!)にも立ちません。何の役にも立たないウロウロ、キョロキョロよりは、そしてそれをいつまでも続けているよりは、珍念のように笊を「ハイ」と渡して、あとはのほほんとしているほうがよいのです。そのほうが、精神衛生にもいいと思います。関山慧玄は、そこのところを言っているのです。 もっとも、わたしが偉そうにこんなことを言えるのも、わたしが「後知恵」を働かしているからです。わたしだってその場になれば、キョロキョロするだけだったと思います。 つまり、わたしたちが持っている知恵は、迷いと同居した知恵です。迷いがあるから、肝心のときに知恵が働きません。どうしても後知恵になってしまいます。 下種(げす)の後知恵――と言われるように、あとからああすればよかった、こうすればよかったとなるのです。あるいは「悪(わる)知恵」になります そんな知恵ではダメだ。もっと本物の知恵を持て! と言っているのが『般若心経』です。どうしたら本物の知恵が得られるかを教えてくれているのが、『般若心経』なのです。 2012.04.01記 『ひろさちやの般若心経88講』第4講 「空」のお経 P.25~27 動物のこうもりは、超音波を発して物を見ているのですね。いや、見ているのではなく、聞いているというほうが正確かもしれません。 百科事典によりますと、こうもりは五万から十万ヘルツの超音波を毎秒数回ないし数十回、断続的に発し、その反響を耳で聞いて、障害物や獲物を探知しているそうです。ロボットも同じで、ロボットの方から電波を出して、それが跳ね返ってくるのをキャッチして、物体を確認しています。 じつは、仏教では、わたしたちが物を認識するときに、これと同じことをしているのだと考えています。仏教の理論では、わたしたちが物を見るとき、物体のほうから送られてくる光をこちらが受け身の立場で受け取っているのではありません。人間のほうから何かを発して、その何かが物体に当って跳ね返ってくるものをキャッチして、わたしたちは物を見ているのです。 人間の発するものは何か、これはわたしが考えた比喩ですから、それには名前がついてません。しかし、名前がないのは不便ですから、いちおう、 ――ニンㇱキ波―― と呼んでおきます。つまり、仏教の考え方は、こちらから物にニンㇱキ波をぶつけて、それが跳ね返ってきたものを見ているのです。 そう言われると、思い当る節があります。わたしたちが相手をやさしく、あたたかい眼で見れば、相手はいい人に見えます。憎しみの眼で見れば、憎たらしく見えます。それは、わたしのほうから発するニンㇱキ波が違っているからなのですね。新幹線の中でぎゃあぎゃあ騒いでいる子どもも、他人の子にはこちらから憎しみのニンㇱキ波を発するから、憎らしく見えるのです。それがわが子であれば、やさしいニンㇱキ波を発しますから、騒いでいるのが元気でいい子に見えるのです。 「幽霊の正体見たり枯れ尾花」――と言います。こちらがびくびくしたニンㇱキ波を発すると、幽霊が跳ね返ってきます。しかし"枯れ尾花"ということばを知らない人には単なる「雑草」しか跳ね返ってきません。 わたしは色弱ですが、色弱の人が発するニンㇱキ波は普通の人と違っています。だから、わたしと妻とでは色の識別が違います。それで、わが家では、ときどき混乱が起きるのですが……。 このように、仏教では、ニンㇱキ波の違いによって物は違って見えると考えています。物は、誰が見てもこうであるといった、絶対不変のあり方をしていないのです。見る人が違えば、物は違って見えるのですから、そこで仏教では、物は、 ――「空」―― だと言うのです。「空」なる物に、わたしたちは自分のほうからそれぞれのニンㇱキ波をぶつけて、そして跳ね返ったものをキャッチしているのです。「空」とは、そういう意味です。そして『般若心経』は、すべての物は「空」であることを表明したお経です。 さて、そうすると、『般若心経』の教えは、物は「空」であるから、わたしたちのほうから発するニンㇱキ波を変えると、物は違って見えるわけです。びくびくしたニンㇱキ波を発すると幽霊が見えますが、ニンㇱキ波をもっと強くして普通になれば幽霊は消えます。ここのところは、「霊のタタリ」におびえている人には重要なところです。「霊のタタリ」にびくびくしたニンㇱキ波にあるのですから、そのニンㇱキ波をかえればいいのです。『般若心経』は、そのようなことを教えてくれています。 2012.04.02記 『ひろさちやの般若心経88講』第5講 観音さまのお経 P.28~30 『般若心経』は、観音さまのお経です。 観音さまのお経といえば、有名な『観音経』があります。しかし、『般若心経』も、観音さまのお経です。 観音さまは、正しくは、 ――観世音菩薩―― といいます。また、省略して"観音菩薩"といいます。"菩薩"という語は、この場合は「ほとけに準じた存在」といった意味です。 ところで、『観音経』というお経は、じつは独立した教典ではなしに、『法華経』の一章なのです。『法華経』を訳したのは羅什三蔵(らじゅさんぞう)ですが、彼は"観世音菩薩"と訳しました。しかし、『般若心経』を訳した玄奘三蔵(げんじようさんぞう)は、経典の冒頭にあるようにこれを、 ――観自在菩薩―― と訳しました。"観世音菩薩"も"観自在菩薩"も、原語のサンスクㇼッㇳ語は同じですが、訳者が違うので違った表記になった次第です。したがって、『般若心経』もまた、『観音経』と並んで観音さまのお経です。 では、観音さまとは、どういう方なのでしょうか? "観音"ということばは、いささか奇妙なものですね。なぜなら、音は聞くものであって、観(み)るものではありません。それなのに、どうして"観音"というのでしょうか? わたしはこう考えています。 観音さまは、わたしたち仏道修行者を助けてくださる菩薩です。わたしたちは、煩悩のこの此岸から、悟りの彼岸に渡ろうとして、川を泳いで渡っています。たぶんわたしたちは、力が足りない弱い凡夫ですから、途中で溺れてしまうでしょう。わたしたちが溺れたときに、さっと救助の手を差し伸べてくださるのが観音さまなのです。 だとすれば、観音さまは音を聞いていてはいけないのですね。わたしたちの、 「観音さま、助けて――」 という救助の叫び声(それが「南無観世音菩薩」の意味ですが)を聞いてから駆け付けたのでは、手遅れです。間に合いません。音波の速度が遅いからです。音波は一秒間に三百四十メートルぐらいの速さしかありません。 だから、観音さまは、じっとわたしたちの口許を観ておられるのです。光りであれば、一秒間に地球を七回半ほどまわる速さ、約三十万キロメートルの速さで進みますから。 夏の夜の花火を思い出してください。「ドン」と花火の音を聞いてから夜空を見上げても、あらかた花火は消えかかっています。音の聞える前から、じっと夜空を観ていないといけないですよね。観音さまは、同じように、わたしたちが溺れて、「助けて……」の救助信号を発する前から、じっとわたしたちを観ていてくださっているのです。それが"観音"の意味です。 けれども、じっと観ているのは、とてもつらいことです。わたしたちも、たとえばわが子が苦しみ悩んでいるときに、なかなかじっと観ておれません。つい、救助の手を差し出してしまいがちです。学校でいじめられたりすれば、すぐに庇おうとします。でも、それでは甘やかしになります。苦しまねばならぬときには、しっかり苦しんでおかないといけないのです。むごい、上憫と思いながら、じっと観てやるのが真の愛情です。 じつは、これが、"観自在"の意味です。本当に救いが必要になるまで、じっと自在に観ておられるのが観音さまです。そう考えると"観自在"と"観音"が同じ意味になりますね。 2021.04.08記 『ひろさちやの般若心経88講』第9講 「波羅密多」の深い意味 P.40~42 大きな川があります。川のこちら側が此岸で、わたしたち凡夫の煩悩の世界です。川の向うは彼岸で、悟りの世界であり、仏の世界です。わたしたちは、此岸から彼岸に渡らねばなりません。 ……と言えば、もうその話は聞いた。同じ話を二度するなと、叱られるかもしれません。しかし、ここのところは重要です。大乗仏教の考え方、とりわけ『般若心経』の教えを理解するためには、この「此岸から彼岸に渡る」という図式、すなわち、 ――到彼岸―― という考え方が基本になります。どうしたら、「到彼岸」ができるか……を教えたものが仏教であり、また『般若心経』なのです。『般若心経』の"般若"とは「智慧」の意味だということは、すでに述べました。ですから、それを踏まえて言うなら、 「智慧でもって到彼岸しよう」 というのが、『般若心経』の主張であります。この「此岸から彼岸に渡る>」図式は、これからも何度もふれると思いますが、聞きあきたと言わずにつきあってください。 さて、「彼岸」のことを、サンスクリット語では"パ―ラム"と言います。そして「到」は"イ"+"ター"です。したがって、「到彼岸」はサンスクリット語でいえば、"パ―ラム+イ+ター"です。パ―ラム・イ・ターは、パ―ラムの語尾の m とイのi がくつついて mi になりますから、結局、 ――パ―ラミター―― になります。パ―ラミター……どかで聞いたことばですね。そうです、『般若心経』は正しくは『仏説魔訶般若波羅蜜多心経』ですが、そこに出てくる"波羅蜜多"が、この"パ―ラミター"を音訳したものです。つまり"波羅蜜多"というのは、「到彼岸」「彼岸に渡る」という意味です。 もっとも、"パ―ラミター"には、ほかに「完成」といった意味もあります。本当はこちらのほうがいいようですが、日本では伝統的に"パ―ラミター"を「到彼岸」と解釈してきましたので、その伝統に従っておきます。 『般若心経』は、わたしたちに、 「智慧でもって彼岸に渡れ!」 と呼びかけたお経です。なぜ、彼岸に渡らないといけないかといいますと、此岸にいては問題を根本的に、本質的に解決できないからです。 法然上人は、わが国、浄土宗の開祖です。法然上人の父は漆間時国(うるま ときくに)といって、美作国(岡山県)の押領使(おうりょうし)でした。法然上人の九歳のときに、夜討ちによって殺されます。その際、法然上人の父は、「決して父の仇を討とうとするな」と遺言しました。法然上人はこの父の遺言によって、後日、出家をしたのです。 父が殺されたとき、子は父の仇を討つのが当時の此岸世界の常識です。しかし、それでは、問題は根本的に解決されません。子が父の仇を討って、相手を殺したとします。すると、その相手の子は、また父の仇を討たねばなりません。 『ダンマバダ』という仏教経典には、 「この世において、怨みに報いるに怨みをもってすれば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みを捨ててこそ息む。これは永遠のの真理である」 と説かれています。怨みに報いるに怨みをもってするのが此岸の世界でありますが、それでは怨みがなくなることがありません。怨みを捨てて、彼岸に渡らねばなりません。それが『般若心経』の教えです。 2021.04.09記 『ひろさちやの般若心経88講』第11講 『般若心経』の翻訳 P.46~48 ここで『般若心経』の翻訳に触れておきます。 『般若心経』が紀元前後のころにインドでつくられたお経であることは、前にも触れましたが、わたしたちが読んでいるのは、もちろんサンスクㇼッㇳ語で書かれた原典からの翻訳で、その翻訳者は玄奘三蔵です。今日、『般若心経』といえば、玄奘訳にきまっているといってよいですが、じつは『般若心経』には翻訳には七種あります。ただし《、玄奘訳以外の『般若心経』は、ほとんど読まれていません。 玄奘三蔵といえば、孫悟空や猪八戒(ちょはつかい)、沙悟浄(さごじょう)などが活躍する、中国明代の長編小説『西遊記』に登場するお坊さんです。『西遊記』の玄奘三蔵は唐からインドに仏典を得て帰って来たのです。 ※参考図書;前嶋信次著『玄奘三蔵』(岩波新書)。中野美代子著『西遊記』(岩波新書)。 帰国しや玄奘は、インドから持ち帰った経典の翻訳の仕事をはじめます。経典の翻訳というと、わたしたちは、玄奘三蔵が書斎にこもり、独りでこつこつとサンスクリット語を中国語に翻訳したかのように思いがちですが、それはまったく違います。唐の太宗皇帝は勅命でもって、玄奘三蔵のために国立の翻訳機関として翻訳経院を建てます。この翻訳経院において、玄奘三蔵は大勢の弟子とともに経典の翻訳をしたのです。経典の翻訳は、まさしく国家事業でした。 ところで、わたしは玄奘のことを"玄奘三蔵"と表記していますが、この"三蔵"というのは、経律論に通暁した僧を、尊敬の念をこめて"三蔵"または"三蔵法師"と呼ぶのです。経律論とは、 経蔵……仏の教えを記したもの。これが狭義の「お経」 律蔵……戒律を記したもの 論蔵……経典を注釈・解説したもの です。狭い意味でお経といえば、経蔵だけを言いますが、広い意味では律蔵も論蔵も含めて、三蔵全体がお経と呼ばれます。玄奘はこの三蔵全体に通暁した学僧なので、"玄奘三蔵"と呼ばれるのです。いや、玄奘三蔵はあまりにも有名で"三蔵法師"といえば玄奘――ということになっています。ちょうど日本で、 「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる」 と言われいるのと同じです。"大師"は朝廷から高僧に与えられる諡号(しごう)であって、何人もいます。弘法大師空海があまりにも有名なので、"大師""お大師さま"といえば弘法大師が浮んできます。また"太閤"というのは、摂政または太政大臣の尊称であり、のちには関白をやめてその地位をわが子に譲った者を"太閤"と呼びました。もちろん、何人もの太閤がいるわけですが、民衆の人気は"太閤"を豊臣秀吉の称号にしてしまいました。 だいぶ脱線しましたが、玄奘三蔵は仏教のお経に通暁した、ナンバー・ワンの高僧です。そして、玄奘三蔵の翻訳は、非常に原典に忠実であります。そこで玄奘三蔵以前の翻訳者――(たおえば、羅什三蔵がそうです。この人も立派な翻訳者で、とくに『法華経』の翻訳者として有名です)――の翻訳を「旧訳(くやく)」と呼び、玄奘三蔵の翻訳を「新訳」と呼んで区別します。それほど、玄奘三蔵の翻訳は信頼度が高いわけです。 先に述べましたように、経典(三蔵)の翻訳は国家事業として行われました。したがって「完全な翻訳」が行われたわけで、おもしろいことに翻訳が完了すると、中国人はもはや原典は不要と考えました。中国にはサンスクリット語の原典が残っていません。それほど自信満々の完全な翻訳が行われたというわけなんですね。 2021.04.09記 『ひろさちやの般若心経88講』第12講 初めにエッセンスありき P.49~51 それでは、いよいよ『般若心経』の本文に入りたいと思います。 ――「観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。 「照見五蘊皆空。 度一切苦厄。」―― これが最初の文章です。『般若心経』は全文三百字にもならない短かいお経ですが、その短かい『般若心経』のエッセンスが、わたしはこの最初の一文、わずか二十五字のうちに凝縮されていると思います。この二十五字をしっかり理解すれば、『般若心経』がわかったことになる――そう断言しても、決して言い過ぎではないと思います。 ざっと解説しておきますと、 「観自在菩薩が般若波羅蜜多を行深された時に、五蘊が皆『空』であると照見されて、一切の苦厄を度された」 と読みます。もっと簡単に言えば、 「観自在菩薩が一切の苦しみ・災厄を度された」 ということです。観自在菩薩(これは「観音さま」ですね)が主語で、度された(克服された)が述語です。何を度されたかと言いますと、一切の苦しみ。災厄です。 では、どういう方法で、観音さまは苦しみ・災厄を克朊されたか、と言えば「五蘊が皆『空』であると照見されて」克服されたのです。「五蘊」というのは、簡単に「人間の肉体と精神」と訳しておきましょう。わたしたちの肉体も精神も、みな「空」なのです。実体がありません。びくびくし、不安になりますが、そのびくびく、不安はなんら実体のないものです。つまり「空」なのです。 わが国、江戸時代の臨済宗の高僧に、盤珪禅師という人がいました。ある日、盤珪禅師のところに一人の僧が来て、 「某は生まれついて、平生短気にござります。これは何としたら直りましょうぞ」 と質問しました。すると盤珪禅師は、 「そなたは面白い物を生まれつかれたの……。今も短気がござるか。あらばここへ出されしやれ、直して進ぜよう」 と言われた。そう言われても、僧は「短気」を出すわけには行きません。なぜなら、わたしたちの肉体も精神もすべて「空」だからです。盤珪禅師は、こう言っています。 「然らば、短気は生まれつきではござらぬ。何とぞした時、縁によってひょつと、そなたが出かすわいの」 このように、「短気」といったものがあるのではなしに、それらはすべて「空」だということがわかれば、解決方法がおのずからわかってきます。つまり、「短気」が出てくるような条件(縁)をつくらなければいいのです。わたしたちは、短気そのものをなくそうなくそうとしますが、そうするとかえって問題がこじれてきます。眠れぬ夜に、眠ろう、眠ろうとあせるようなものです。あせればあせるほど、眠れなくなります。観音さまは、すべてが「空」だと悟って、不安や短気を克服されたのです。 では、どうしたら五蘊が皆空だと照見できるかといいますと、それは、 「行深般若波羅蜜多時。」 です。般若波羅蜜多を実践(行深)した時、五蘊皆空がわかってくるのです。そして、最後に、「般若波羅蜜」とは何か、といいますと、いまは簡単に「智慧の完成」と申し上げておきます。 かくて、観音さまは智慧を完成させた時、肉体も精神もすべて「空」だとわかって、苦しみを克服されました。だから、あなたがたも、観音さまのように智慧を完成させて、苦しみを克朊しなさい! 『般若心経』はそう言っているのです。『般若心経』の主張は、最初のこの一文で尽きていると思います。 『ひろさちやの般若心経88講』第14講 「彼岸」の智慧の完成 P.55~57 「シンダイシヤイラヌ」――という電報が来ました。さて、これはどういう意味でしょうか? 二つの解釈が可能です。 「死んだ、医者要らぬ」 「寝台車要らぬ」 じつをいえば"般若波羅蜜多"ということばには、二つの解釈が可能なのです。"般若"は「智慧」の意味で、これは変りませんが"波羅蜜多"はサンスクㇼッㇳ語"パーラミター"を音訳したもので、この"パーラミター"の読み方が二通りあります。 "パーラム+イ+ター"と読めば、「彼岸に渡ること」「到彼岸」の意。 "パーラミ+ター"と読めば、「完成」の意。 になります。したがって、"般若波羅蜜多"は、 ――智慧でもって彼岸に渡ること 智慧の完成 と、二通りの解釈ができます。そして、"行深"は「実践する」「修行する」といった意味ですから、"行深般若波羅蜜多時"は、 ――(観音さまが)智慧でもって彼岸に渡る修行をされた時 ――(観音さまが)智慧の完成という修行をされた時 というように、二つの解釈ができるわけです。 さて、わたしは、仏教は「見方革命」を教えていると思っています。『般若心経』の教えは、わたしたちのものの見方を変えなさい――ということです。 たとえば、こんな話があります。ある仏教学者が、隣家からの貰い火で、自分の家が焼けてしまいました。貴重な蔵書も、書き溜めた研究論文も、何もかも灰になりました。彼はくやしくてなりません。腹が立ちます。なんとかして隣家に仕返しをしてやろうと、悶々と考えていました。 こういう状態で出てくる人間の智慧は、所詮悪知恵にしかならないものです。自分が罪にならずに相手を苦しめてやろう……といった知恵では、結局は問題を解決できません。それは此岸の知恵です。考えれば考えるほど、よけいに腹が立ってきます。前にいいましたように、喉の渇きを癒そうとして、海水を飲むようなものです。海水を飲めば飲むほど、ますます渇きがひどくなります。知恵を磨けば磨くほど、ますます苦しくなります。こんな知恵では、心の平静は絶対に得られません。 仏教学者は、ふと気が付きました。 彼は、「彼岸の智慧」「般若の智慧」を持とうとしたのです。 それには、自分のものの見方を変えねばなりません。「(家を)焼かれた」という見方をしていたのでは、復讐したくなります。これは此岸の見方ですね。 その仏教学者は、「自分で自分の家を焼いた>と見ようとしました。けれども、それは不可能です。彼は焼いてはいないからです。事実に反することはできません。 最後に彼が思いついたのは、 ――焼けた―― と見る見方です。焼かれたのでもない、焼いたのでもない、ただ焼けたのです。その人はお念仏の人でしたから、静かにお念仏を称えながら、ただ焼けたのだと思うように努力しました。そうすると、だんだんに心が落ち着いてきたといいます。 わたしは、これが「彼岸の智慧」であり「般若の智慧」だと思います。このような「彼岸の智慧」を完成させなさい――と、『般若心経』はわたしたちに言っているのですね。 2021.04.04記 『ひろさちやの般若心経88講』第18講 舎利子に語りかけたのは誰か P.67~69 では、次の文に行きます。 ――「舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。(しゃりし。しき ふい くう、くう ふい しき。しき そくぜ くう、くう そくぜ しき。) 受想行識。亦復如是。(じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ。) 」―― ここのところは、いわば『般若心経』のクライマックスです。『般若心経』といえば、誰もがすぐに思い浮かべる、あの、 ――「色即是空」―― のことばがここに出てきます。『般若心経』は、はじまってすぐにクライマックスになるのですね。ざっと読んでみましょう。 舎利子よ、というのは、呼びかけのことばです。お釈迦さまの弟子に舎利子と呼ばれる人がいました。その舎利子に「舎利子」と呼びかけているのです。では、誰が呼びかけたのでしょうか……? 『般若心経』には、そこのところが書かれていません。 一つの解釈としては、お釈迦さまが呼びかけた――と考えることができます。お釈迦さまが大勢の弟子を集めて説法をなさっています。たまたまそこに観自在菩薩(観音さま)も来ておられる。そこでお釈迦さまは、弟子の代表として舎利子の名前を呼んで、 「あのね、舎利子よ、ここにおられる観音さまは、"彼岸の智慧"を修行されて、すべての物が"空"だとわかり、苦しみ・災難を克服されたんだよ。だから、あなたたちも、観音さまのように、"彼岸の智慧"を修行しなさい。舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色はすなわち空、空はすなわち色なんだよ……」 と、こういうふうに語られました。そんな解釈も可能です。そして、これまに申し上げましたが、『般若心経』の表題は、 「仏説魔訶般若波羅蜜多心経」 となっています。この「仏説」の二文字が、このお経はお釈迦さまの語りかけであることを示しているともいえそうです。 もう一つの解釈は、「舎利子よ……」と呼びかけたのは観自在菩薩だ、とするものです。 じつをいえば、こちらの解釈のほうが、学問的には正しいようでです。というのは、『般若心経』には、小本と大本の二種があります。小本(あるいは略本ともいいます)は、わたしたちがいま読んでいる『般若心経』です。しかし、そのほかに大本(あるいは広本ともいいます)と呼ばれる『般若心経』もあります。この大本のほうは、小本よりももう少し長くて、形式も整っています。この大本では、観自在菩薩が舎利子に教えを説いていることが明記されています。 それを参考にすると、「舎利子よ……」と呼びかけたのは観自在菩薩になるわけです。 でも、まあ、わたしはどちらでもいいと思います。「舎利子よ……」と呼びかけたのがお釈迦さまであっても、観自在菩薩であっても、教えの内容は変りませんから、あまり問題にしないでよいでしょう。ここでは通説に従って、観自在菩薩が舎利子に呼びかけたことにしておきます。 「舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならない。色はすなわち空であり、空はすなわち色であり、空はすなわち色である。そして、受・想・行・識もまた同じである」 観音さまは、舎利子にそう教えました。ここで、色・受・想・行・識というのが前に述べた「五蘊」です。五蘊は肉体と精神のことだ、と言っておきましたが、色が肉体で、受・想・行・識が精神です。詳しいことはのちに触れますが、ともかくここでは、「五蘊皆空」をもう一度繰り返しているのです。この「五蘊皆空」が『般若心経』でいちばん大事な教えなのです。 2012.04.05記 『ひろさちやの般若心経88講』第20講 「色不異空」をイカとタコで考える P.73~75 タコとイカの違いはご存じですよね。タコは八本足で、イカの足は十本です。でも、わたしたちはいちいち足の数をかぞえて、これは十本だからイカ、八本だからタコと認識しているのでしょうか? そんなことはありません。わたしたちは一目見たとたんに、「これはタコ」「これはイカ」と認識しています。そうでないと、万が一、イカの足が二本とれていて八本になっていたら、イカをタコに分類してしまいます。そんな馬鹿なことをする人はいません。一目見ただけで、なにも足の数をかぞえなくても、タコとイカは区別できます。 ……と言いましたが、じつは本当は、そこに「日本人であれば……」と、ただし書きを加えるべきです。日本人であれば、タコとイカの区別は一目でできるのですが、イギリス人にはそれはできません。 実験してみるとわかりますが、イギリス人にタコを見せても、イカを見せても、彼らはそれを"devilfish"と呼びます。"悪魔の魚"ですね。もちろん、タコ(octopus)とイカ(cuttlefish)を指す別々の単語がないわけではないのですが、それよりも"devilfish"のほうをよく使います。イギリス人には、タコもイカも同じように見えるのですね。 彼らにとっては、タコとイカを区別する必要がないのです。同じに見えて、ちっとも困りません。 その反対が牛です。わたしたち日本人は、「あれは牛だ」と認識します。けれども、イギリス人ですと、オス牛(bull)とメス牛(cow)の区別を最初にするのです。日本人は、まず「牛だ」と認識してから、特別に必要な場合(めつたにありませんが)、「オス牛だ」「メス牛だ」とあとから区別します。しかし、イギリス人は最初からオス牛・メス牛を区別して見ているのです。 ここのところは、仏教の「空」の理論でうまく説明ができます。いや、逆でした。わたしは、仏教の「空」の考え方をうまく説明するために、こんな例をとりあげたのです。 前にも解説しましたが、仏教では、すべて事物が(それが「色」です)は「空」だと言っています。その「空」なる事物にこちら側、人間のほうからニンシキ波を発して、そのニンシキ波が「空」に当って跳ね返ってきたのを受け取って認識しているのです。ちょうどロボットが電波を発して、レーダーで物を探知しているのと同じです。 前にも申しましたが、このニンシキ波には個人差があります。心のやさしい人が発するニンシキ波はやさしいので、事物がやさしく見えるのです。冷たい心の人は冷たいニンシキ波を発するので、事物が冷たく見えます。びくびくしている人は、「空」なる物を「幽霊」と見るし、別の人は「枯れ尾花」と見ます。あるいは、「枯れ尾花」を知らない人は、単に「雑草」と見るかもしれません。 ニンシキ波には個人差があるだけではなく、民族性もあります。日本人とイギリス人のニンシキ波は違いますから、日本人にはタコとイカが一目でわかるのです。しかし、日本人でも、子どもはまだタコとイカの区別がつくニンシキ波がありませんから、イギリス人と同じに、タコとイカの区別ができないのです。イギリス人のニンシキ波は、タコとイカの区別のない devilfish といったニンシキ波ですから、そう見えるのです。日本人のニンシキ波では、「牛」といったニンシキ波になっていますから、「牛」が見えるわけです。イギリス人のニンシキ波は(cow)と(bull)が区別されていますから、(cow)と(bull)が区別されて見えます。 『般若心経』が言っている「色不異空」――色(物)は「空」に異ならず、すなわち、物は「空」だ――というのは、そういう意味です。 2021.04.05記 『ひろさちやの般若心経88講』第24講 経読みの経知らず P.85~87 ここでちょっと、『般若心経』の原文に触れておきます。 わたしたちは、ここまでに、『般若心経』の ――「色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。」―― を読んできました。ここが『般若心経』のさわりの部分とも言えそうそうです。 ところで、"不異"ということばと"即是"というのは、どう違うのでしょうか? "不異"は「異ならず」であり、"即是"は「すなわち」です。ともに「イコ゚ール」の意味だと思ってよさそうです。それほど大きな違いはありません。したがって「色不異空。空不異色」と「色即是空。空即是色」は、同じことを二度繰り返していると思ってよさそうです。つまり、 「色ば空である。空は色である。色は空である。空は色である」 と言っているのです。まったくの反覆です。 ただ、ここでちょっと疑問に思うのは、「色は空である」と「空は色である」と、主語と述語を入れ換えて、同じようなことを言っていることです。これは、簡単にいえば、「AはBである」と言っただけでは、「A=B」にはならないのです。たとえば、「人間は動物である」と言っても、「人間=動物」ではありませんね。そこで、「AはBである」と「BはAである」と言って、はじめて「A=B」になります。「東京は日本の首都である」「日本の首都は東京である」と言って、「東京=日本の首都」になるのです。したがって、 「色は空である。空は色である」 と言って、はじめて、 「色イコ゚ール空」 になります。『般若心経』は《、「色イコール空」と言わんがために、「色不異空。空不異色。色即是空。空即是色」と、主語と述語を入れ換えた表現にしているのです。 そうすると、『般若心経』は、「色イコール空」ということを、別の表現で二度繰り返して言っていることになります。つまり、 「色イコ゚ール空(色不異空。空不異色)」 「色イコ゚ール空(色即是空。空即是色)」 と言っているのです。なぜ同じじことを二度も言わないといけないのか……と、不思議な気がしますが、じつはサンスクリット語の原文を見ますと、驚くなかれもう一度、すなわち三度も同じことを言っているのです。原文は三度も繰り返しているところを、玄奘三蔵は二度に省略しているわけです。ですから、なぜ二度も同じようなことを繰り返すのか? と問題を立てるより、玄奘三蔵はなぜ三度繰り返されているのを、二度に省略したか……と疑問を持つたほうがいいと思います。 参考のために、別の翻訳書(沙門法月訳)による翻訳を示しておきます。 「色性是空空性是色。色不異空空不異色。色即是空空即是色」 これで見ると、玄奘三蔵は最初の「色性是空空性是色」を訳さなかったのですね。どうしてでしょうか……? これはむずかしい問題です。わたしが思いますのは、「すべてが空である」ということをわかるのに、サンスクリット語の原文は三段階あると言っているわけですが、最初の第一段階はただ観念的なわかり方で、頭の中だけの理解でしかない。そんなものは仏教でいっている「空」ではないと、玄奘三蔵は考えたのではないでしょうか……。いくら頭の中で「空」がわかっても、それだけだと、「『般若心経』読みの『般若心経』知らず」になってしまいます。それではいけないというわけですね。 2021.04.24記 『ひろさちやの般若心経88講』第27講 第二の矢は受けてはいけない P.94~96 仏教の開祖のお釈迦さまは、こんなことを言っておられます。 悟りを開いたお釈迦さまのような聖者でも、わたしたち凡夫と同じように、「第一の矢」は受ける。しかし、聖者と凡夫の違いは、凡夫はつづいて「第二の矢」を受けるけれども、聖者は「第二の矢」を受けない、と。 たとえば、わたしたちが何かに躓いたとします。そのとき、「痛い!」と思います。これが第一の矢です。わたしたち凡夫も「痛い!」と思いますが、お釈迦さまのような方でも同じで、やはり「痛い!」と思われます。 ところが、お釈迦さまは、それで終わりです。わたしたち凡夫は、そうは行きません。わたしたち凡夫は、つづいて「第二の矢」を受けます。 「誰だ?! こんな所にこんな物を置いたのは……? 危いじゃないか、気をつけろ!」 そう怒鳴りたくなります。実際、そう怒鳴ってしまいます。それが「第二の矢」です。 これは、美しい物を見たときも同じです。美しい花が咲いている。「ああ、きれいだなあ……」と思います。これは「第一の矢」であり、わたしたち凡夫もそう思いますが、お釈迦さまのような聖者でもそう思われるのです。 けれども、お釈迦さまであれば、それで終りです。ところが、わたしたち凡夫は、それに執着してしまいます。花を摘んで、家に持ち帰りたくなります。あるいは、写真に撮っておきたくなる。それが「第二の矢」です。「第二の矢」は凡夫だけが受けるのです。 この話は、何を教えてくれているかといえば、わたしたちが「痛い!」と思ってもいいのです。「美しい」と思ってもいい。「苦しい」と思ってもいいのです。わたしたちはそれにこだわってはいけません。こだわるから、問題が出てきます。こだわらずに、すぐに忘れてしまえばいいのです。もっとも、そうは言っても、なかなか簡単にこだわらずにすませるわけには行きませんが……。 『般若心経』は、そのことを、 ――「受想行識。亦復如是。」―― と言っています。「受想行識」というのは、わたしたちの精神作用です。「痛い!」「美しい!」と思うのが、「受想行識」です。「亦復如是」というのは「またまた是(かく)の如し」といった意味で、前に「色」について言ったことがそっくりそのまま「受想行識」に当て嵌まると言っているのです。つまり『般若心経』は前に「色」について、 「色不異空。空不異色。色即是空。空即是色」 と述べています。この「色」を「受想行識」に置き換えてもいい、というのです。ですから、 「受想行識不異空。空不異受想行識。受想行識即是空。空即是受想行識」 となります。これが「亦復如是」の意味です。 よく仏教を、いっさいの欲望・煩悩をなくしてしまって、乾涸(ひか)らびた老人のようになれ……と説いている教えだと誤解されておらる人がいます。仏教はそんなことを教えていません。少なくとも『般若心経』が言っているのは、「痛い!」と思ってもいいし、「美しい!」と思ってもいい。ただ、それにこだわらなければいいのだ……ということです。 それはそれなりにむずかしいことですが、『般若心経』が言っているのは、「痛い!」と思ってもいいし、「美しい!」と思ってもいい。ただ、それにこだわらなければいいのだ――ということです。 その点をまちがえないようにしていただきたいと思います。 2021.04.06記 『ひろさちやの般若心経88講』第32講 死は不生不滅である P.109~111 古代ギリシャの哲学者エピクロス(紀元前341年ごろ~前271年ごろ)は、こんなふうに言っています。 「……それゆえに、死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわれわれにとって何ものでもないのである。なぜかといえば、われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。そこで、死は、生きているものにも、すでに死んだものにも、かかわりがない。なぜなら、生きているもののところには、死は現に存しないのであり、他方、死んだものはもはや存しないからである」(出隆:いでたかし・岩崎充胤:ちかつぐ) なるほど、そう言われるとその通りですね。生きているあいだは死はないし、死んでしまえば死はないのです。だから、死はこわくない……でも、なんだかペテンにかけられたような気がします。歯医者に行って、歯を抜く前は歯があるし、歯を抜いてしまえば歯はないのだから、ちつとも痛くなんかないよ……と言われたようなものですよね。 仏教の「死」の考え方は、これとは根本的に違っています。 仏教では、死を、氷が融けて水になるようなものだと考えます。 最初の状態では、100%の氷です。しかし、誕生の瞬間から死ははじまっています。100%の生の状態を出発点として、少しずつ死の状態が開始されます。そして、たとえば90%の生=10%の死の状態を通過し、50%の生=50%の死といったように、生と死が半々の状態になります。わたしは現在(平成2年)、53歳ですから、とっくにこの状態を通過しているでしょう。30%の生=70%の死……といった状態かもしれません。氷が融けて、どんどん水が増えて行きます。 そして最後は、氷が完全に融けて100%の水になります。それが、一般に言われている「死」であります。1%の生=99%の死から最後に0%の生=100%の死になるわけです。 この氷が融けるスピードは、もちろん人によって違います。さらに環境条件によって変ります。暴飲暴食をしたり、あれこれ心配したりすると、氷は速く融けるでしょう。 これが、仏教の考え方です。古代ギリシャの哲学者が考えたように、死は突然、わたしたちを襲ってくるものではありません。だから、仏教では、「死」と言わずに「老死」と言うことが多いのです。「生」のうちに「死」が忍び込んでくるのが、「老」ですね。 さて、『般若心経』は、 ――不生不滅」―― と言っています。これはどういう意味でしょうか……? もうおわかりだと思いますが、氷と水を連続的に考えれば、氷もH2Oですし水もH2Oです。H2Oは増えても減りもしていません。全体量は同じですね。とすると、生じたり減したりしていないのです。 わたしたちのこの「いのち」に関して言えば、わたしたちはいま現在、人間の姿をとってこの世に生きています。この世においては死はあります。この世においては、いつかわれわれは人間の姿でなくなるでしょう。 けれども、わたしたちが、もっと大きな「ほとけの宇宙」のなかに生きている――いや、生かされていると考えるなら、そこには生まれたり死んだりすることはありません。ただ、氷の状態が水になるだけです。あるいは、水の状態が蒸発して水蒸気になるだけです。水蒸気になっても、H2Oであることに変わりはないのです。 それが、『般若心経』の言う、「不生不滅」の意味なのです。わたしはそのように考えています。 2021.04.06記 『ひろさちやの般若心経88講』第34講 プラスの考え方・マイナスの考え方 P.115~117 インドの民話に、こんな話があります。 一人の金持ちがいました。彼は99頭の牛を所有していました。99頭ですから、あと1頭の牛を手に入れると、100頭になります。彼はなんとかあと1頭の牛を手に入れ、100頭にしたいとあせっていました。 ある日、彼はわざわざボロの服を着て、遠くに住んでいる旧友を訪ねて行きました。友人は1頭の牛を所有して、細々とやっていました。 その友人に、金持ちは涙ながらに語ります。自分は困っている。明日の食事にも事欠くありさまだ。なんとか助けてほしい……と。もちろん、嘘です。金持ちは友人に嘘をついたのです。 友人は顔を曇らせて言いました。 「ぼくは、きみが困っているいることを知らなかった。昔は隣近所で一緒に遊んだのに、遠く離れてからは、きみのことを忘れていた。友人として申し訳ないことをした。自分は、この牛がなくても妻と力を合わせて働けば、なんとかやって行ける。この牛を差し上げるから、連れて帰ってくれ給え。ぜひ、がんばってほしい> 金持ちは、お礼を言って、感謝しながら牛を引いて帰りました。もちろん、心の中では、友人を騙してやったと、ペロリと舌を出していたはずです。 かくて金持ちは、うまく牛を100頭にしました。 では、この二人の男、いったいどちらが幸福でしょうか……? わたしが読んだインドの民話の本では、最後にそう問いかけていました。 答えは明白です。自分の所有するたった1頭の牛を友人に布施することのできた男のほうが、幸福であることになんの疑いもありません。自信を持って断言できます。 おそらく、99頭の牛を100頭にした金持ちの喜びは、たった一晩のものだったと思います。翌朝、目が醒めると、彼はきっとこう考えるでしょう。 (ああ、よかった。ようやく100頭になった。次は、目標を150頭にしてがんばるゾ) そう思ったとたん、彼の所有する100頭の牛は、たちまちマイナス50頭になってしまいます。そして、そのマイナス50頭をマイナス40にし、マイナス30にするために、彼はイライラし、ガツガツし、あくせくするでしょう。しかも、必ず150頭にできるとはかぎりません。うまく行って、よしんば150頭にできても、彼の喜びはまた一晩だけです。なぜなら、翌日、再び彼は、 (次は、目標を200頭にしてがんばるゾ……) と考えるにちがいないからです。そうすると、彼の所有する150頭の牛が、またまたマイナス50頭になってしまいます。わたしは、このような考え方を、 ――マイナス思考―― となづけています。自分の所有する物を「プラス」に見ることができず、「マイナス」の形でしか見られない考え方――それがマイナス思考ですが、マイナス思考では絶対に幸福になれません。 ここのところを、『般若心経』は、 ――「不増不減」―― と言っているのです。100頭の牛は「100頭」です。それをプラス100頭と見るか、マイナス50頭と見るか、見る人次第です。増えも減りもしない物(不増不減」)を、わたしたちの心が揺れ動いて、いろいろに見えてしまうのですね。 マイナス思考をやめろ! それが『般若心経』のわたしたちに対する忠告だと思います。 ※参考:インドの民話 インターネットによる。 2021.04.07記 『ひろさちやの般若心経88講』第36講 小乗仏教を批判する P.121~123 最初の方でも述べましたが、『般若心経』は大乗仏教のお経です。大乗仏教は、お釈迦さまが入滅されてから五百年ほどして、インドの地に形成された新しい仏教です。 大乗仏教は、在家の信者を中心に形成された仏教で、その特色を一口に言うなら、 ――在家仏教―― と言えるかもしれません。もちろん、大乗仏教に出家者がいなかったわけではありません。出家者も参加していましたが、中心となったのは在家信者です。在家信者が中心となって、仏教の革命運動を推進してきたのが、大乗仏教です。 この大乗仏教に対して、古い仏教を「小乗仏」と呼びます。「大乗」が大きな乗り物を意味したように、「小乗」というのは、小さな乗り物・劣った乗り物という意味です。仏教は、悟りの彼岸・救いの彼岸にわたしたちを運んでくれる教えであり、それを乗り物に譬えますが、小乗仏教は小さな・劣った乗り物(教え)だというのです。もちろん、これは、大乗仏教がそう言ったのです。 したがって、「小乗」といった呼称を使うべきでない――という意見もあります。相手を軽蔑して言ったことばだから、そして現在もこの小乗仏教を信奉している国があるのだから、礼儀としては使わないほうがよいかもしれません。 しかし、わたしは、大乗仏教と小乗仏教の関係は、ちょうどキリスト教とユダヤ教の関係になると思います。キリスト教は、ユダヤ教がこちこちの律法主義に陥るのを否定して、「神の愛」を説いた新しい宗教です。ユダヤ教はまちがっていると批判するのが、キリスト教徒の使命です。ユダヤ教に遠慮していては、キリスト教は成立しません。 それと同じで、大乗仏教は、小乗仏教がこちこちの戒律主義と出家至上主義に陥っているのを見て、それを否定して「空」の精神を説いた新しい仏教です。小乗仏教はまちがっていると否定するところに、大乗仏教の根本精神があります。それを、エチケッㇳの問題だといっていちいち遠慮していたのでは、大乗仏教は成り立ちません。だから、わたしは、堂々と「小乗仏教」を否定すべきだと思っています。 なぜ、わたしがこんなことを言うかといえば、『般若心経』が、 ――「是故空中無色。無受想行識。(ぜこくうちゅう、む しき、む じゅ・そう・ぎょう・しき) 。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法(む げん・に・び・ぜっ・しん・に。む しき・しょう・こう・み・そく・ほう)。無眼界。乃至無意識界(む げんかい、ないし、む いしきかい。) 無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽(む むみょう、やく む むみょう じん、ないし、む ろうし、やく む ろうし じん)。無苦集滅道。無智亦無得(む く・しゅう・めつ・どう。む ち やく む とく)。」―― と、「無……無……無……」を繰り返しているからです。『般若心経』が「無い、無い」と主張しているのは、じつは小乗仏教の教理体系です。つまり、小乗仏教は、 五蘊 十二処 十八界 十二縁起 四諦 といった煩瑣な教理体系をつくって、仏教を説いてきました。が、『般若心経』は、すべては「空」であるから、そんなものはないと言っているのです。いちいち五蘊・十二処・十八界・十二縁起・四諦だなんて、細かなことは言う必要はない。われわれはずばり、 ――こだわるな―― でいいではないか。そのように『般若心経』は断定しています。 したがって、本当をいえば、この部分は読み流しにしていいのですね。「こだわるな!」と言っているものを、いちいち細かに解説する必要はありません。もっとも、だからといって、わたしが解説をサボるわけにも行きませんが……。 2021.04.07記 『ひろさちやの般若心経88講』第39講 禅僧と美女と三人の弟子の話 P.130~132 富士山などに登るとき、登山者は、「六根清浄(ろつこんしょうじょう)、お山は晴天」と掛け声をかけます。俗説によりますと、この「六根清浄」がつづまって、「ドッコ゚イショ」の掛け声になったそうです。あまり当てになりませんがね。 六根とは、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の六つの感覚器官のことです。『般若心経』は、 ――「無眼耳鼻舌身意(むげんびぜっしんい)」―― と言っていますが、その「眼耳鼻舌身意。」が六根です。眼という感覚器官、耳、鼻、舌という感覚器官、そして身という感覚器官(これは具体的には皮膚のことです)、意という感覚器官(心といえるでしょう)、この六根にともなって、わたしたち凡夫はさまざまな執着を起こします。美しい女性を眼根が見れば、われわれは色欲の虜になります。ですから、この六根を清浄にしておかねばなりません。それが、「六根清浄」の意味です。 余談ですが、わが国の俗言には「六根清浄、一根不清浄」というのがあります。眼・耳・鼻・舌・身・意の六根は、まあなんとか清浄にすることはできても、あの一根だけはなかなか清浄にできない……といった意味ですね。あの一根とは、もちろん、男性にとっては男根、女性にとっては女根です。うん、うん、とうなずきたくなることばです。 さて『般若心経』は、「無眼耳鼻舌身意」と言っています。これはどういう意味かといえば、小乗仏教では、わたしたちの六根を清浄にせよと教えていますが、清浄にしよう、清浄にしようとこだわるのはかえっよくない、ということです。小乗仏教のやり方は、「清浄」という観念にこだわっている。それでは問題は解決できない。そんなやり方ではなく、こだわりをなくせば、問題は解決できると、『般若心経』は言っているのです。 禅の世界には、こんな話があります。 ある禅僧が、三人の弟子を連れて旅をしていました。川があって、禅僧たちは川を渡るのですが、そのとき川岸に女性がいて、困っていました。女性は着物をたくしあげることができないので、困っていたのです。 美しい女性でした……ということにしておきます。 彼女は和尚さんに、自分を抱いて向こうに渡してくれと頼みました。 「おお、よしよし」 と、禅僧は気軽に頼みを引き受け、彼女を抱いて川を渡ります。 川を渡った所で女を降ろし、禅僧たち一行と女性は左右に別れました。 それから一里ばかり行った時です。弟子の一人が、和尚さんに抗議しました。 「和尚さん、日頃はわれわれに女を遠ざけよと説教しながら、先程は女を抱かれました。和尚さんの言動は矛盾しています!」 他の二人の弟子も、口々に和尚を非難しました。彼らはずっと、和尚さんが女性を抱いたことを、じくじくと考え、悩んでいたのです。 ところが、お弟子さんの抗議に、和尚さんはこう応えました。 「なんだ、おまえたちは、まだあの女を抱いていたのか?! わたしはとっくに降ろして来たぞ!」 つまり、お弟子さんたちは、六根清浄にこだわっていたのです。だが、禅僧にはそんなこだわりがありません。じつにあっけらかんとしています。 お弟子さんたちが小乗仏教の考え方で、禅僧が『般若心経』の「空」の立場に立っていることは、おわかりいただけると思います。 2023.04.01記 『ひろさちやの般若心経88講』第43講 「五蘊」「十二処」「十八界」 P.142~144 わたしたちの『般若心経』の解説も、どうやら前半分を終了しかけています。ここでちょっと、これまでのところを総ざらえしておきます。 『般若心経』はわたしたちがいま読んでいる部分では、しきりに「無……無……無……」を繰り返しています。これは、前に申しましたように、小乗仏教を批判しているのです。すなわち『般若心経』の、 ――是故空中無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界。 の部分は、小乗仏教でいう、「五蘊」「十二処」「十八界」の教理体系を否定しているのです。小乗仏教は、「五蘊」「十二処」「十八界」と煩瑣な教理体系をつくっているが、すべては「空」であるからそんなものはない。そんなものにこだわるな! と、『般若心経』は𠮟っている。 「五蘊」という語は、『般若心経』の最初のほうに出てきました。「照見五蘊皆空」とあったのがそれです。前にも述べましたが「蘊」というのは「集まり」の意味で、人間の肉体と精神を五つの集まりに分けて示したのが「五蘊」です。すなわち、色蘊(肉体)と受蘊(精神のうち感受作用)・想蘊(表象作用)・行蘊(意志作用)・識蘊(認識作用)の五つです。小乗仏教では、この「五蘊」が仮に集合して人間が存在している――五蘊仮和合(ごりんけわごう)――と説いています。『般若心経』は、それを否定しています。「無色。無受想行識」と、「五蘊」なんてないと言っているのです。 次に「十二処」というのは、先に挙げた「六根」と「六境」を合わせたものです。 「六根」は、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の六つの感覚器官です。 「六境」というのは、この六つの感覚器官の働く対象で、眼根に対して色境、耳根に対して声境、鼻声に対して香境、舌根に対して味境、身境に対して触境、意根に対して法境があります。つまり「六境」は、色境・声境・香境・味境・触境・法境の六つです。 『般若心経』は、この「六根」と「六境」から成る「十二処」を否定して「無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法」と言っています。 その次は、「十八界」です。六つの感覚器官(「六根」)と六つの対象(「六境」)の接触によって六つの認識作用が生じます。すなわち、眼根と色境との接触によって眼識が、耳根と声境の接触で耳識が、鼻根と香境から鼻識が、舌根と味境から舌識が、身根と触境から身識が、意根と法境から意識が生じます。ここに生じた眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六つの認識作用を「六識」といいます。 こうして出来た「六根」と「六境」と「六識」を合わせると、全部で十八種になります。これを「十八界」と呼ぶのです。"界"とは、物(肉体と精神)を構成する要素の意味です。 「六根」……眼・耳・鼻・舌・身・意 「六境」……色・声・香・味・触・法 「六識」……眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識 から成ります。それぞれ"界"をつけて呼ぶと「十八界」になります。すなわち。 ――眼界・耳界・鼻界・舌界・身界・意界・色界・声界・香界・味界・触界・法界・眼識界・耳識界・鼻識界・舌識界・身識界・意識界―― となるわけです。『般若心経』は、この「十八界」がないと言わんとして、省略した形で「無眼界、乃至無意識界」と、最初と最後だけを挙げているのです。 2021.04.13記 『ひろさちやの般若心経88講』第47講 禅僧の死に方、二つ P.154~156 わが南北朝の禅僧、関山慧玄が禅宗・妙心寺の開山であることはまえにふれました。 この関山慧玄の死にぶりが、なかなか立派でした。 彼は永らく病床にありましたが、ある日、 「どうやらお迎えがまいったようじゃ」 と言って、みずから旅仕度をし、 「どれ」 と、杖をついて寺を出て行きます。弟子たちはじっと見送っていましたが、三十歩ほど歩いた所で、関山は杖にもたれてじっとしています。弟子たちがかけつけてみると、彼はそのまま死んでいました。まさに禅僧らしい死に方ですね。 これに対して、明治の禅僧といわれた、臨済宗天竜寺派の管長の橋本峨山の臨終は、いささか風変りなものでした。 息をひきとる間際になって、峨山は弟子たちを全部呼び集めました。 「おまえたち、よく見ておくがよいぞ。ああ、死ぬということは辛いものじゃ。死にとうないわい」 そう言いながら、峨山は死んでいったのです。 わたしは、これもまた、みごとな禅僧らしい死にぶりだと思っています。 つまり、わたしたち凡夫は、死ぬときは立派に死ななければならない、従容として死なねばならないと思っている。あるいは、現代の老人たちは、死ぬときはどうかポックㇼいきたいと思っているようです。じつは、それらは凡夫の「こだわり」でしかないのですが、凡夫はまさに死に際のよさにこだわっています。 禅僧には、そういうこだわりがありません。禅というのは、死に方に対するこだわりをなくするものなんです。わたしはそう思っています。こだわりがなくなれば、坐禅をしながら大往生をしても、あるいは反対に、 「死にたくない、死にたくない……」 とわめき、のたうちまわりながら死んでも、どちらでもいいのです。どちらでもいいと悟るのが、禅の禅たるゆえんだと思います。そして、『般若心経』も、同じように「こだわるな!」と教えているのです。 そういえば、明治の俳人であった正岡子規が、こんなことを言っています。正岡子規は脊椎カリエスのために、三十歳にならない前から死ぬまで、ほとんど病床にありました。その病床にあって、ある日、彼は忽然と気づいたのです。 「余は今迄禅宗の所謂悟りという事を誤解して居た。悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」(『病牀六尺』) なるほど、その通りだと思います。死に際を飾るだけであれば、やくざの親分でも、殺人鬼にでもできることです。思い詰めてカッとなれば、あんがい簡単にできることです。 しかし、死に際にこだわらない――となれば、これはやっぱり相当の悟りを必要とするでしょう。「こだわらない」ということは、あんがいむずかしいのです。いかがです、あなたは死に際にこだわっていませんか……? やっぱり気になるでしょう。気にしないでいられるようになるには、もう少し『般若心経』を勉強しないとダメなようすね。 ――「亦無老死尽(やくむろうしじん)。」―― 『般若心経』は、そう言っています。老死もないし、老死が尽きることもないのです。つまり、老死にこだわるな、と言っているのですね。 2021.04.02記 『ひろさちやの般若心経88講』第49講 釈迦の教えた四つの真理 P.160~162 キリスト教という宗教は、ある意味で「奇蹟の宗教」だと思います。『新約聖書』を読むと、イエスが行ったさまざまな「奇蹟」が出てきます。海の上を歩いたり、病気を治したり、あるいは死人を蘇生させたりしています。 けれども、仏教の開祖であるお釈迦さまは、あまり奇蹟を行なってはいません。初期の仏典に奇蹟がないわけでありませんが、奇蹟は必ずしも不可欠の要素になっていません。お釈迦さまが説かれた仏教は、むしろ奇蹟とは縁遠い宗教だと思います。 では、お釈迦さまは、どのよう教えをとかれたのでしょうか……? 古来、お釈迦さまの教えの中心は、「四諦であったとされています。四諦とは四つの真理」の意味で、 1 苦諦……わたしたちの人生は苦であるという真理 2 集諦……苦の原因は欲望であるという真理 3 滅諦……原因である欲望を滅すれば、結果である苦もなくなるという真理 4 道諦……その苦の原因である欲望を滅する方法(道)に関する真理 の四つから成ります。 このお釈迦さまが説かれた「四諦」は、じつは医療の体系に似ています。医者が患者を治療するときのやり方と、お釈迦さまが説かれた「四諦」の教説がそっくりだというのですね。 まず、医者は、患者の病状をよく知らねばなりません。そのために、最初に患者を診察します。この診察の段階が「苦諦」であります。 次に、医者は、そうした病状の原因を究明します。熱があるからといって、解熱剤を与えるのはヤブ医者のすることです。熱がいかなる原因によって生じているかを知らないと、本当の治療はできません。同様にお釈迦さまも、苦の原因を解明しました。お釈迦さまは、苦に対して安易な慰めを与えはしない。そんなことをしても、わたしたちの苦はなくなりません。大事なのは、しっかりと原因を知ること。お釈迦さまは、苦の原因が欲望にあることを見抜いたのです。この段階が、第二の「集諦」です。 さらに医者は、病気の原因を滅することを考えます。原因が除去されると、結果としての病状も回復されます。しかし、この場合、医者は理想的な状態を知っていなければなりません。あまりに過度な治療を施すと、逆効果になることがあります。肥満体をなおそうとして、餓死した女性がいましたが、そんな愚かなことをしてはいけません。 この段階が、四諦のうちの「滅諦」にあたります。 そして最後の段階が、医療でいえば治療の段階、「道諦」です。 このように、お釈迦さまの教え……四諦……は、医学によく似ています。 さて、『般若心経』は、 ――「無苦集滅道。」―― と言っています。「無苦集滅道」は、お釈迦さまが説かれた四諦です。『般若心経』は、四諦を否定しているのですが、どうしてそんなことをするのでしょうか……? こんな話を聞いたことがあります。胃潰瘊の患者が、医者の言い付けを守って酒も飲まず、早寝早起きで、健康な生活を送っていました。一日も早く病気を治したいためです。 が、医者はその患者に忠告したそうです。「たまには暴飲暴食をするくらいでないと、病気は治らんよ」と。 そう、あまりに神経質になってはいけないのです。神経質になりすぎると、病気も治りません。『般若心経』は、そこのところをいっているのだと思います。 2021.04.14記 『ひろさちやの般若心経88講』第50講 「道諦」にも八正道あり P.163~165 前講で申しましたように、仏教の基本の教理体系に、 ――四諦―― があります。四諦の"諦"は「真理」の意味で、しがって四諦とは「四つの真理」です。"諦"は日本語では、「あきらめ」の意味に使われますが、その"あきらめ"も本来は「明らめ」であって、「真理を明らかにすること」でした。「明らめ」が本義で、「断念する」のほうは派生的な意味なのです。四つの真理(四諦)とは、前講で述べた通り、 1 苦諦……わたしたちの人生は苦であるという真理 2 集諦……苦の原因は欲望であるという真理 3 滅諦……原因である欲望を滅すれば、結果である苦もなくなるという真理 4 道諦……その苦の原因である欲望を滅する方法(道)に関する真理 です。『般若心経』が、「無苦集滅道」と言っているのが、この「四諦」ですね。 もう少し註釈をしておきますと、まず、第一の「苦諦」ですが、仏教では人間の基本的な苦として「四苦」を教えています。四苦とは生・老・病・死の四つで、仏教では「生まれる」ことをも苦しみと見ています。生まれるのが苦しみだというのは、地獄や餓鬼、畜生、人間や天界にわたしたちは生まれるのですが、生まれた者は死なねばならず、生存中は老病死という苦に悩みながら、最後には死ぬという苦しみにおびえているのです。わたしたちはときに、いっそ生まれないほうがよかった……と思うことがありますが、それがとりもなおさず生まれることの苦しみを言っています。 この生老病死の四苦に加えて、仏教は、 愛別離苦……愛する者と別離せねばならない苦しみ 怨憎会苦……怨み憎む者と会わねばならぬ苦しみ 求不得苦……求める物が得られぬ苦しみ 五蘊盛苦……われわれの肉体と精神(それが五蘊です)がすべて苦である の四苦を加えています。四苦に四苦を加えて八苦になりますから、それで「四苦八苦」ということばが出来ました。 それから「道諦」ですが、これは苦の原因である欲望を滅する道(方法)を教えたものです。これは「八正道(八つの正しい道)」といったかたちで示されています。 八正道は―― 1 正見……正しいものの見方。具体的には、仏教の教えを学ぶことです 2 正思……正しい思索 3 正語……正しい言語活動 4 正業……正しい行ない。具体的には、殺生・盗み・淫らな生活をしないこと 5 正命……正しい日常生活 6 正精進……正しい努力。でも、利益を求めて猛烈に働いたり、受験のために猛勉強するのは、おのれのために努力しているのであって、正精進ではありません。 7 正念……正しい注意力。ついうっかりをなくすこと 8 正定……正しい精神統一 さらに「滅諦」ですが、この"滅"の言語(サンスクリット語)は"ニローグ"で、本当は抑制する・コントロールする、といった意味なのです。欲望を全部なくしてしまえば人間でなくなります。だから、そんなことは考えず、欲望を抑制すればいいのです。『般若心経』が「苦集滅道」と言っているのは、ややもすればわたしたちが欲望を滅しなければならぬ、と力んでしまう、そういうこだわりを捨てろという意味だと思います。 ※参考図書:八正道について。道元著『正法眼蔵(三)』(岩波文庫)P.292~ 2021.04.14記 『ひろさちやの般若心経88講』第53講 エリート主義徹底批判 P.172~174 ちょっとまとめをしておきます。 わたしたちが第25講以下これまで『般若心経』を読んできた部分は、「無……無……無……」と繰り返している部分でした。すなわち、 ――是故空中無色。無受想行識。) 無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。)無眼界。乃至無意識界。)無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。)無苦集滅道。無智亦無得。)以無所得故)―― この部分は、前にも指摘しましたように、小乗仏教の教理・教説を批判した部分です。『般若心経』は大乗仏教のお経なので、小乗仏教を徹底的に批判しています。 仏教というのは、此岸から彼岸に「渡れ!」と教えている宗教だということは、すでに述べました。大きな川があって、川のこっち岸は此岸で、迷いの世界です。わたしたちは、この迷いの此岸に住んでいます。けれども、それではいけないので、川の向うの彼岸に渡れと、仏教では教えています。 なぜ、彼岸に渡らないといけないのか……? それは、此岸が欲望の世界であって、譬えていえば喉がカラカラに渇いた状態で、海を漂流しているようなものだからです。海水はいくらでもありますが、海水を飲んでも渇きは癒されません。むしろ、ますます渇きがひどくなるでしょう。だから、彼岸の渇きのない世界に渡らねばないのです。 問題は、その渡り方です。大きな、流れの急な川を、どうして渡りますか? 普通、川を渡るには、泳いで渡ります。 では、川を泳いで渡るのですが、そのためにはわたしたちは裸にならないといけません。窮屈な洋朊を着ていると、泳げないででしょう。また、金銀財宝を抱えて、流れの激しい川を泳ぎ渡ることは不可能です。裸になって、いっさいの財宝を捨てて、それではじめて泳げるのです。 さらに、妻子を連れて泳ぐことは無理です。自分一人でさえ、泳ぎ渡れるかどうかわかりません。途中で溺れてしまうかも知れないのです。女房、子どもは此岸に置いて、独り身になって、はじめて泳げるのです。 それが、つまりは「出家」です。裸になり、地位も財産も捨て、女房や子どもも捨てて独り身になる。それが「出家すること」ですが、出家をした者だけが彼岸に泳ぎ着ける可能性があります。出家した者が全員、彼岸に泳ぎ着ける保証ははありませんが、ともかく出家しなければ彼岸に渡れる可能性はないのです。「泳いで渡る」ことを前提にすれば、そうなるわけです。 じつは、おわかりだと思いますが、それが小乗仏教です。したがって、小乗仏教は「出家主義」の仏教です。 大乗仏教は、このような出家主義に反対しています。出家した者だけが救われる(彼岸に渡れる)なんていう仏教は、出家者というエリートのためだけの仏教であり、独善的な仏教である。出家・在家を問わず、あらゆる人が救われる(彼岸に渡れる)仏経でなければならない。大乗仏教はそう考えています。 では、どうすれば、在家信者も彼岸に渡れるでしょうか? その質問はむつかしいものですが、『般若心経』が言っているのは、 ――智慧(般若)でもって彼岸に渡れる―― ということです。ちょっと言い過ぎかもしれませんが、誤解をおそれずに言えば、あまり彼岸にこだわらなけでばいいのだ……ということになりましょうか。 ともあれ、『般若心経』は、出家至上主義・エリート主義の仏教である小乗仏教を鋭く批判しています。それが「是故空中無色」から「以無所得故」の部分なのです。 2021.04.14記 『ひろさちやの般若心経88講』第58講 「いい加減」のすすめ P.187~189 英語に"フェア"(fair)という語があります。普通は、「公平な、公正な」と訳されることばです。しかし、わたしは、"フェア"のいちばんいい訳語は、 ――"いい加減"―― だと思っています。そんなことを言えば、「いい加減なことを言うな!」とお叱りをうけそうですが……。 たとえば、『小学館ランダムハウス英和大辞典』を引きますと、この"fair"の語に、 ※参考:『小学館プログレッシブ英和中辞典』 「まあまあの、どうやらこうやらの、かなりよい」 といった訳語が出てきます。ということは、"フェア"は「いい加減」に近いのです。 あるいは、アメリカ人はよく、 ――ジェンㇳルマンのC…… ということを言います。ジェントルマン(紳士)の成績はCであれ……という意味です。この C は ABCDE の C であって、54321の3に相当します。優、良、可、不可であれば、可になるのですね。紳士はガリ勉をして A や B をとってはいけない、C でいいのだ、と言っているわけです。そしてそのことを"フェア"と呼んでいます。そうすると、"フェア"が「いい加減」に近いことがおわかりいただけるでしょう。 もっとも、日本語の"いい加減"ということばも、なかなかむずかしいことばです。わたしは子どものころ母に、「あれを買ってほしい」としつこくねだって、「いい加減にしなさい!」と叱られたことがあります。また、別のときには、学校の宿題をいい加減にやっていたら、「そんないい加減なことをしてはいけません!」と叱られました。いい加減にしていいのか、悪いのか、子ども心に悩んだことがあります。に いい加減ということばは、お風呂の湯加減をいうときに使います。お風呂の湯がいい加減だというのは、熱い湯の好きな人には熱い湯が、ぬるい湯の好きな人にはぬるい湯がいい加減なのです。しかし一般には、この「いい加減」は、ぬるま湯とまちがわれているようです。ぬるま湯は中途半端なもので、決していい加減なものではありません。 つまりいい加減ということばは、仏教のことばでいう、 ――中道―― に相当するのではなでしょうか……。「中道」というのは、極端に偏しないことです。徹夜の猛勉強をしてみたり、そうかと思うと学校をサボってパチンコ屋で一日を過ごす。そんな極端な生活を、仏教は否定します。大学生であれば、ゆったりと勉強もし、また遊びもすべきです。それが「ジェントルマンの C」といった考え方につながります。 英語の"フェア"が「いい加減」だと言いましたが、もちろん、"フェア"には「公平な、公正な」という意味もあります。しかし、この「公平・公正」ということも、日本人が考えるような意味での、杓子定規な公平・公正ではありません。もっとゆったりした公平、いい加減な公正なのです。 ともかく、「いい加減」ということばは、わたしはすばらしいことばだと思います。 『般若心経』は、 ――「無罣凝故。」 と言っています。これは、「執着がない」「とらわれない」「わだかまりがない」といった意味です。かくあるべし、かくあらねばならぬ……というようなわだかまりがないことなのです。わたしは、これが「いい加減」だと思っています。つまり『般若心経』は、「いい加減」のすすめをしているのではないでしょうか。 2021.04.26記 『ひろさちやの般若心経88講』第61講 涅槃とは何か P.196~198 仏教には、お釈迦さまにちなんだ行事をする日が三日あります。 一つは、四月八日の「花祭り」で、お釈迦さまの誕生をたたえる日です、 第二は、十二月八日の「成道会」で、お釈迦さまが悟りを開かれたことをたたえる日です。 そしてもう一つは、二月十五日の「涅槃会」です。これはお釈迦さまが涅槃に入られた日です。 では、いつたい、「涅槃」とは何でしょうか? 『般若心経』は、 ――「究竟涅槃。」―― と言っています。これは伝統的には「涅槃ヲ究竟ス」と読んでいます。つまり、究竟の涅槃に到達する、といった意味でしょう。 涅槃は、サンスクリット語では、"ニルヴァーナ"。意味は、 ――火の消えた状態―― なのです。したがって、「寂静の境地」といった意味になります。 わたしたち凡夫の心のうちには、メラメラと煩悩の火が燃えています。煩悩にはさまざまなものがあり、古来、百八煩悩あるいは八万四千の煩悩を数えています。とりわけ大きな煩悩は、 ――貪・瞋・癡―― の三大煩悩です。仏教では、これを「三毒」とも呼んでいます。 貪は貪欲で、むさぼりの心です。あれが欲しい、これが欲しいとガツガツするのが貪。 瞋は怒りの心です。すぐにカッとなるのが、わたしたちの煩悩です。 癡は愚かさです。『般若心経』で説明すれば、すべては「空」であって、わたしたちの迷いの心が恐怖をつくり出しているのに、それがわからずに枯れ尾花を幽霊と見てびくびくしている。それが愚かさです。 お釈迦さまは、三十五歳のときに、インドのブッダガヤーの地において仏陀になられましたが、じつをいえば、そのときに煩悩を克朊されたのですから、「涅槃」に入られたのです。これが第一の涅槃です。三十五歳以後のお釈迦さまにあっては、もはや貪・瞋・癡の煩奧の火は消えています。 けれども、仏陀となられたお釈迦さまでも、生命の火は燃えています。その生命の火によって、八十歳まで生きつづけ、多くの人々に仏教の教えを説きつづけられました。 だが、やがて、その生命の火も消えます。 八十歳になられた時、お釈迦さまはやはりインドのクシナガラの地において入滅されました。これを第二の涅槃といいます。そして、完全にすべての火が消えたので、"般"(「完全な」という意味)の字を冠して「般涅槃」といいます。また、お釈迦さまに対する尊敬の意をこめて、それに"大"の字を冠して「大般涅槃」ともいいます。つまり、涅槃には、段階的に二つの涅槃があります。 『般若心経』が言う「究竟涅槃」ですが、これは「煩悩を克服して涅槃の達成」の意味に理解すればいいでしょう。 それから、付け加えておきますと、煩悩の火を消す――といっても、水をぶっかけて消すような方法は最低です。それは小乗仏教のやり方で、大乗の菩薩はそんなやり方はしません。大乗の菩薩はどうするかといいますと、要するに火が燃えるのは薪があるからです。そのように明らめて、薪の補給をやめるのです。燃えている火はそのままにしておいて、次から次へと薪を補給するのをやめる。そうすると、火は静かに消えて行きます。そこに「涅槃」が現出します。それが大乗仏教のやり方なのです。 ※参考:護国残曹源寺 涅槃図 2012.04.25記 『ひろさちやの般若心経88講』第63講 仏経の三つの性格 P.202~204 仏教とは何か? よく問われる質問です。 仏教とは、文字通り「仏教」です。「仏教」とは「仏の教え」と読みます。いまから千五、六百年の昔、インドの土地で教えを説かれた釈迦牟尼仏(すなわちお釈迦さまです)の教えが仏教です。ちょうどキリスト教がイエス・キリストの教えであるように、仏教は釈迦牟尼仏の教えです。 しかし、仏教には、もう一つの意味があります。それは、仏教は、わたしたちが「仏になるための教え」です。わたしたち凡夫が一生懸命修行に励んで、その結果、わたしたち自身が仏になることを目指しているのが仏教です。 この点は、仏経とキリスト教の大きく違っている点です。仏経は、「仏の教え」であると同時に、「仏になるための教え」であります。しかし、キリスト教は、「キリストの教え」ではあっても、「キリストになるための教え」ではありません。なぜなら、イエス・キリストは「神の子」であって、われわれ人間とはまったく違った存在だからです。人間が神の子になることは絶対にありません。その点では仏教とキリスト教はまるで違っているのです。 ところが、仏教にはもう一つの意味があります。それは、「仏教」とは、 ――仏をまねて生きる教え―― なのです。わたしたちが毎日の生活において、仏らしく生きるのが仏教です。 わたしがそのことに気づいたのは、インド人との会話からです。 「ミスターひろ、わたしは毎朝、ブッダになります」 インド旅行のときに、インド人ガイドがわたしにそう言いました。彼は大学でサンスクリット語を勉強した、なかなかのインテリでした。わたしはこのことばを聞いて、いささか不愉快になりました。ブッダというのは仏です。仏教では、われわれはそう簡単に仏になれない、何度も何度も輪廻転生を繰り返し、修行を積んだのちに仏になれる、と教えています。毎朝、ブッダ(仏)になる――などとは、不遜きわまる発言です。 わたしが、彼のことばがよくできたジョークであることに気づいたのは、じつはそのインド旅行から帰国する飛行機の中でした。 "ブッダ"というサンスクリット語は、もともは「目が覚める」という意味です。そこで真理に目覚めた人(悟りを開いた人)を、仏教では「ブッダ(仏陀、仏)」と呼んだのです。ですが、本来の意味からすれば、毎朝、目が覚めるのも「ブッダ」なんですねえ。インド人はそのような"ブッダ"の意味の二重性をうまく使って冗談を言ったのでした。それなのに、わたしはそのジョークに気づかなかったのです。 のちにこのジョークに気づいたとき、わたしはこう思いました。 ……わたしたちが本当の仏になることはむずかしい。でも、目が覚めたときは、わたしたちの誰もがある意味での仏である。そうであれば、その日一日を仏らしく生きることはできないか……。仏をまねて、仏らしい生活をおくる。毎日毎日、目が覚めたとき(ブッダになったとき)、そのまま仏として生きるのです。つまり、「仏をまねて生きる」のです。仏らしく行動し、仏らしい言葉を言い、仏らしいものの考え方をするのです。それが仏教ではないだろうか……。わたしはそんなふうに考えました。 『般若心経』は、 ――「三世諸仏。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提(さんぜ しょぶつ、え はんにゃ はらみった こ、とく あのくたら さんみゃく さんぼだい)。」―― と言っています。わたしたちは、これからこの部分を読んでみましょう。 2021.04.11記 『ひろさちやの般若心経88講』第66講 凡夫はどこまで行けるか P.211~213 「嘘も方便」という言葉があります。 仏教の「方便」がどういうものか、それをよく教えてくれる話に、次のようなものがあります。じつは『法華経』という大乗経典に出てくるものですが……。 遙か彼方にある宝の国を目指して、商人たちの一団が出発します。この宝の国というのが仏教の理想とする悟りの境地だと思ってください。そして彼らを引率するリーダー(指導者)が仏です。出発した当初は元気のよかった一団も、しばらくすると疲れがでてきて、弱音をはく者がいます。 「もう嫌だ。ここから引き返そうではないか。宝なんてあきらめた」 そのとき、リーダーはすぐ目の前に化城(けじょう)を出現させます。化城とは幻の城です。そして、一行を勇気づけるのです。 「諸君、あそこに見える城が、われわれの目指す目的地だ。もう少しだ。がんばれ」 一行はその化城で休んで、元気を取り戻します。すると、指導者が言います。 「諸君、ここはわれわれの最終目的地ではない。われわれの最終目的地はもっと遠い。さあ、出発しよう……」 『法華経』には、化城をつくりだす話は一度きりしか書かれていません。でも、想像するに、リーダーは何度も何度も化城をつくって人々をやすませながら、最終目的地へと導いて行くのだと思います。この最終目的地が、『般若心経』の言う、 ――「得阿耨多羅三藐三菩提(とく あのくたら さんみゃく さんぼだい)」。―― の「阿耨多羅三藐三菩提」です。この語はサンスクㇼッㇳ語の、"アヌッタラー・サムヤックサンボーディ"の音訳語で、意味をとって訳せば、「無上正等正覚」、すなわち「この上もない、正しく完全な悟り」です。 この「阿耨多羅三藐三菩提」、つまり「無上正等正覚」は、残念ながらわれわれ凡夫には得られません。これが得られるのは、仏だけです。ですから、『般若心経』は、 「三世の諸仏が般若波羅蜜(多)に依るが故に阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり」 と言っています。けれど、われわれ凡夫は最終目的地(阿耨多羅三藐三菩提)に到達はできませんが、それに向って歩んで行くことはできます。その歩みが ――方便―― なのです。なぜなら"方便"ということばはサンスクリット語の"ウバ―ヤ"の訳語で、意味は「近づく」です。最高の悟りに向って近づく歩みこそが方便なのです。砂漠の中につくられた化城は「嘘」だから、「嘘も方便」というのではありません。『法華経』が言っているのは、わたしたちが最高の悟りを目指して一歩一歩、歩んで行く歩みが大事だということこです。 ユダヤ教のあるラビ(教師)が言っていました。 「砂漠を旅する者は、星に導かれて進む。彼は星に向って歩んでいく。星に到達することはないが、星に近づこうとすることによって、目的地である町に着くのだ。人がそれぞれ掲げる理想は星のようなものだ。 星が「「阿耨多羅三藐三菩提」です。そして、歩みが「方便」です。仏教者は仏教の星を目指して歩みます。いや、仏教者は星を目指して歩まねばならないのです。わたしはそう思っています。 2012.04.11記 『ひろさちやの般若心経88講』第68講 聖徳太子の仏教観 P.217~219 聖徳太子という人は、わが国、仏教の基礎を築かれた人であります。推古天皇の下で摂政皇太子として政治に携わり、仏教を基調とする政治を行いました。その聖徳太子のことばに、 ――「世間虚仮、唯仏是真」―― があります。 ところで、江戸時代の儒者たちは仏教が大嫌いで、仏教を擁護した聖徳太子を攻撃しました。彼らの言い分はこうです。摂政というのは、天皇に代って実際に政治を行なう人間である。ぞの政治をする人間が、自分が治める世間を虚仮、すなわち嘘、いつわりと見ているのはけしからん、許せぬ――というわけです。 しかし、聖徳太子の述べた「世間虚仮、唯仏是真」の真意は、彼らの解釈とはだいぶ違っているように思われます。 中国古典の『韓非子』に、こんな話が出てきます。 昔衛の国に、弥子瑕(びしか)という寵臣がいました。主君の衛君は、なにかにつけこの男を贔屓にしていました。それに応えて弥子瑕も一所懸命、主君に尽くします。 ある日、弥子瑕は主君とともに果樹園を散策していました。桃を一つもぎとって食べたところ、その桃の味のよさに、弥子瑕は残りの半分を主君に食べさせました。衛君はよろこんで、こう言いました。 「美味(うまい)い物は全部食べたいのが人情なのに、彼はわしに半分の桃をくれた。いいヤツである」 また、ある夜のこと、弥子瑕の母が病に倒れたとの報に接し、弥子瑕は無断で、主君の車に乗って出かけました。当時、衛国の法律では、許可なく主君の車に乗った者は刖(あしきり)の刑に処せられることになっていたにもかかわらず……。 あとでこのことを知った衛君は、かえって弥子瑕をほめました。母のために刖の刑を忘れるとは、まさに孝行者である。と。 ところが、です。のちに弥子瑕は衛君の寵を失いました。衛君は次のように言いました。 「あの男は不届きなヤツである。わしをいつわり、無断でわしの車に乗りおったし、わしに食いあましの桃を食わせおった」 この話をもとに、「余桃の罪」ということばができました。 ※参考;『史記列伝 二』(岩波文庫)P.31 考えてみると、このような価値観がコロコロ変わる話は世間にざらにあります。わたしの子どもの頃は、「鬼畜米英」と言われていたのですが、戦争が終ると米英は日本の同盟国であります。「欲シガリマセン、勝ツマデハ」「贅沢は敵だ!」が、のちには「消費は美徳」になったのです。 聖徳太子が「世間虚仮」と言ったのは、世間が下す善悪是非の評価はころころ変わるものであり、そのような評価を基準に政治をしてはいけない、ということだと思います。 わたしは、聖徳太子のこのような考えは、『般若心経』の主張と一致すると思います。なぜなら『般若心経』は、此岸(世間)は虚仮であるから、われわれは彼岸(仏の世界)に渡らねばならぬと考えています。きのうの真理がきょうの虚偽となり、きょうの虚偽があすの真理となるのが此岸です。そんな此岸の価値判断に惑わされてはいけません。彼岸に渡って、仏の世界からこの世間を見るのです。その彼岸からものを見ることのできる力が、「般若波羅密(多)」です。つまり、「彼岸の智慧」です。『般若心経』はつづけて、 ――故知般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒。是無上咒。是無等等咒、能除一切苦。真実不虚(こち、はんにゃ はらみった、ぜ だいじん しゅ、ぜ だいみょう しゅ、ぜ むじょう しゅ、ぜ むとうどう しゅ、のうじょ いっさいく、しんじつふこ)。―― と述べています。この部分をよんでみましょう。 2012.04.12記 『ひろさちやの般若心経88講』第69講 故に知る「般若波羅蜜」 P.220~222 「ここに4個のリンゴがあります。3人でこの4個のリンゴをわけると、1人当たりいくつになりますか?」――そんな算数のテストがありました。簡単ですよね。正解は「1 1/3」。 とろが、ある小学生が。答えを「1」と書きました。もちろ、「×」です。彼女は家に帰ってから、お母さんにさんざん叱られす。 「あなたは、どうしてこんなやさし問題ができないの」 彼女は学校で叱られ、家に帰ってからもお母さんに叱られます。かわいそうではありませんか? 別のお母さんは、やさしく子どもに訊きました。 「お母さんも、1個でもいいと思うわ。でも、3人が1個ずつリンゴを貰うと、リンゴは1個余るでしょう。その1個を、どうすればいいの?」 「わたしも、そのことを考えたの。そしてね。その余った1個をほとけさまに供えようと思ったの。でも、そのことを書くところがないでしょう。だから、答案用紙には、"1"だけ書いておいたのよ」 そのお母さんは、「あなたはすばらしい子だ。お母さんはあなたが大好きよ」と、お嬢ちゃんを抱擁してあげたといいます。 わたしの友人に、いわゆる知恵遅れの子どもの父親がいます。しかし彼は、いつもわたしにこう訴えています。 「あの子は決して知恵遅れじゃない。すばらしい知恵を持っている。三人きょうだいのまん中の子なんだけれども、三人にケーキが五個しかないとき、絶対に二つ目は食べようとしないんだ。一個半にしてやると、喜んで食べる。それに、お兄ちゃんや妹が学校に行っていて、自分が一人だけのときは、いくらたべさせようとしてもケーキを食べない。みんなで一緒に食べたほうがおいいしい……といことをよくしっているんだね」 「だから、"知恵遅れ"といった呼び方はしてほしくない。知恵は決して遅れていないんだ。いや、あの子はほとけさまの知恵を持っている。あまりにも浄(きよ)らかな知恵を持っているんで、現代社会に適応できないんだ」 「ぼくはね、あの子を"知恵遅れ"とは思わない。たんに"知識遅れ"なんだ」 『般若心経』は、 ――「故知般若波羅蜜多。」―― と言っています。「故に知るべし、般若波羅蜜多……」と読むのですね。「般若若波羅蜜多」とは、すでに何度も出てきた言葉です。これは最後の"多"を省略して、ふつうは「般若波羅蜜」と呼ばれています。"般若"とは「智慧」の意味であり、"波羅蜜(多) "は「完成」あるいは「彼岸に渡ること」という意味でしたね。 わたしたち凡夫は、此岸にいます。この此岸にあって、わたしたちの知恵はエゴイズムの知恵です。他人と競争して、他人よりも多くを得たいと考える、そんな知恵ばかり磨いているのではないでしょうか。 般若波羅蜜多は、そんな欲望に根差した知恵ではありません。此岸の知恵ではなく、彼岸の智慧なのです。ケーキやおやつは、みんなで仲良くわけて食べたときがいちばんおいしいとわかるのが、般若波羅蜜です。 般若波羅蜜多を、これまでわたしは、「彼岸の智慧」あるいは「智慧の完成」と訳してきました。それはそれでよいのですが、ひょっしたら、般若波羅蜜を、 ――ほとけさまの智慧―― と訳したほうがよいかもしれませんね。そんなふうに思っています。 2021.04.19記 『ひろさちやの般若心経88講』第70講 真言――真実のことばの力 P.223~225 子どもの頃、転んで擦り傷をつくったようなとき、母が傷口に唾をつけて、 「チチンのプイ」 と言ってくれました。すると不思議に痛くなくなったことを覚えています。あの「チチンのプイ」は、なかなかよく効く呪文だったと思います。 昔の人は、ことばには不思議な力があると信じていました。その言語にやどる霊妙な力を、昔の日本人は「言霊」と呼んでいました。 敷島の大和の国は言霊の幸はふ国 ※参考:『新訓 万葉集 下巻』(岩波文庫)P.86 しき島の日本の言霊のさきはふ國ぞまさきくありこそ と、『万葉集』に詠まれています。また、古代では、自分の名前を相手に教えると、自分を相手の支配下に置くことになる、と信じられていました。したがって、女性の名前は親兄弟や夫にしか教えません。女性の名前を尋ねることは、求婚の意味になったのです。 現代人だって、たとえば、"四"は"死"に通じるからといって、"四"の数字を嫌います。近代的なビルに十三階がなかったり、結婚披露宴においては、帰る、戻る、返す、別れる、去る、飽きる、切る、離れる……などの「忌み言葉」を使ってはならないとされています。これでは昔の人を笑えませんね。 古代のインド人も、ことばに不思議な力が宿っていると信じていました。とくに、バラモン教の聖典である『ヴェーダ聖典』のことばは真実のことばであって、そのことばには神聖な力が宿っていると考えられていたのです。不 おもしろいのは、『リグ・ヴェダ―』――これは、わが国の「祝詞」のようなものです。――のことばは、始原的には人間が神々に祈願することばであったはずです。ところが、後生のバラモン教の司祭者たちは「真実のことば」でもって神々に祈願しているうちに、自分たちがこの「真実のことば」を唱えて祈願すれば、神々を自由に動かすことができると考えるようになったのです。すなわち、「真実のことば」に宿る不思議な力によって、人間が神神を支配できると考えたのです。ことばには、それほどの威力が宿っていると、バラモン教の司祭者たちは信じていたわけです。 このような、神々をも支配できる「真実のことば」を、サンスクリット語では"マンㇳラ"といいます。そして仏教では、「真言」あるいは「呪」と訳しています。仏教の経典のことばや、経典のことばのうち究極の真理をあらわす特別のことばを「真言」「呪」と呼んで、それにすばらしい、不思議な力があると、仏教においても考えらています。 また、仏教においては、この「真言」あるいは「呪」を、 ――陀羅尼―― とも呼びます。陀羅尼は、サンスクリット語の"ダーラニー"の音訳です。意味をとって訳せば、「総持」「能持」となります。経典のことばはよく記憶して心に持つべきものだから、「総持」と呼ばれるのです。厳密に言えば、「真言」「呪」と「陀羅尼」とは少し違いますが、われわれは同じものとしておいてよいでしょう。 真言宗でよく唱えられる「光明真言」を紹介しておきます。 「おん あばきゃ ベいろしゃのう まかばだら まに はんどまじんばら はらばりだたや うん」 『般若心経』の中に出てくる、 ――「是大神呪。」―― 以下の「呪」が、ここで解説した「マンㇳラ」「真言」です。「大神呪」の"神"は霊力あるといった意味です。 2012.04.12記 『ひろさちやの般若心経88講』第71講 誰にでもできる布施 P.226~228 「お前は、きょうは何か心配事があるのか? それとも、体の具合でも悪いのか?」 いつか、アメリカ人にそう問われたことがあります。わたしは、何も心配事もないし、体の具合も普通だ、と答えました。するとそのアメリカ人は、「それなら、そんな顔をやめろ!」と言うのです。 「これは、わたしの地顔だ」 「その地顔がいけない。もっと笑顔にしろ!」 そんなふうに言われて、わたしは一瞬、むっとしたのですが、あとでよく考えてみたら、――和顔愛語―― という『無量寿経』のことばと同じことを、アメリカ人は言っているのですね。反省させられた次第です。 「和顔」というのは、柔和な顔のこと。つまりは笑顔です。自分のことを棚上げして言うなら、われわれ日本人は笑顔の下手な民族です。お追従笑いや曖昧笑いは浮べますが、相手の気持ちをほっとさせる微笑(ほほえみ)ができません。すぐに仏頂面になってしまいます。 日本は昔から、「武士は三年に片頬(かたほほ)」と言って、武士たるものは笑ってはならない、笑っていいのは三年に一度、それも片頬だけで笑え、と言われてきました。これではアメリカ人に叱られても無理はありません。いや、お釈迦さまに叱られるでしょう。 また、日本人は総じて口下手です。「沈黙は金」といって、黙っていることを美徳のように考えています。これはたぶん、日本人は均質文化を持った民族なので、誰もが自分と同じ考え方をしていると思い、そういう安心感から、自分の気持は言わなくても相手に通じていると思っているからでしょう。 インドのような国では、そうは行きません。インドにはヒンドゥー教徒とイスラム教徒がいますが、ヒンドゥー教徒は死体を火葬にしないと天界に往けないと信じています。イスラム教徒は反対に、死者が火葬にされると地獄に堕ちると信じています。だから、黙っていては大変です。自分の希望を言わずに死ねば、死後、どうされるかわかりません。わたしはイスラム教徒だかた、絶対に火葬にしないでくれ……と、あらかじめ自分の希望をはっきり表明しておかねばなりません。そういう社会では、「沈黙は金」とはならないのです。 わたしたち日本人は、自分の気持は言わなくても相手に通じていると思っていますが、実際には言わないとわからないのです。言ったほうがよいのです。仏教は、わたしたちが積極的にやさしいことば、思い遣りのことば、つまり「愛語」を言うようにと命じています。それが「和顔愛語」なのです。わたしは、この「和顔愛語」を、 ――笑顔の布施とことばの布施―― と呼んでいます。これは誰にでもできる布施です。一銭のお金も使わずにできます。寝たきり老人になっても、病人であっても、看護してくれる人に笑顔を布施し、「ありがとう」のことばを布施することは可能なのです。 赤ん坊は、いつもにこにこと笑顔でいます。あれはきっとほとけさまが、おまえは布施する財産は持っていないが、笑顔の布施はできるんだよと、笑顔をあたえられたのでしょう。それなのにわたしたちは、成人すると笑顔をなくして仏頂面に変えてしまいます。それではいけないのですね。 『般若心経』は、 ――「是大明呪。」 と言っています。"呪"は真実のことばですが、「和顔愛語」こそ『般若心経』が言う「呪」だと思います。 2021.04.15記 『ひろさちやの般若心経88講』第73講 請求的祈りと領収証的祈り P.232~234 私事で恐縮ですが、わたしはいわゆるおばあちゃん子で、子どもの頃は両親と離れて祖母の家に住んでいました。祖母は仏教の信仰があつくて、孫のわたしにも朝晩、仏壇を拝ませます。仏壇を拝んでからでないと、朝のご飯も食べさせてもらえないし、夜も寝かせてくれません。そして祖母は、つねづねわたしに、 「ほとけさまにお願いごとをしてはいけない。ほとけさまを拝むときは、ただ、"ありがとう"と言って拝みなさい」 と教えていました。でも、子どものわたしはそれを忘れて、しばらくするとお願いごとをしてしまいます。そんなときにかぎって、祖母から、「きょうはどう言って拝んできたか」とテストされます。わたしは、 「今日は算数の試験があるから、"百点取らせてください"とお願いしてきた」 と答えます。すると祖母はわたしを叱り、そのお願いごとを取り消してこいと命ずるのです。わたしは再び仏壇に向って、チンチンとやって、 「さっきのお願いを取り消します」 と言います。そうしてはじめて、朝ご飯を食べさせてもらえました。 そこで、わたしは祖母に問いました。 「おばちゃん、なんで願いごとをしたらあかんのや……?」 わたしは大阪生まれなもので、大阪弁なのです。だが、わたしがそう問うても、祖母は「知らん」と答えるのです。わたしは言います。 「そんなん、知らんで教えるなんて、無責任やんか……」 「わたしもおばあちゃんから教わったんや。そやからあんたに教えてるんや」 のちに、仏教を勉強するようになって、祖母の教えが正しいことがよくわかりました。 わたしたちは願いごとをしていると、現在の自分が惨めに思えます。いまの自分が貧しいからといって、金持ちになりたいと願えば、金持ちでなければ幸福になれないのだと錯覚してしまいます。貧しくっても幸福に生きることはできるのです。貧しい人であれば、幸福な貧乏人になるように心がけるとよいのです。 病気もそうです。早く病気を治してくださいと願いごとをすればするほど、病気である現在の自分が惨めに思えるのです。病気になれば、一刻も早く幸福な病人になるようにすればよいのです。わたしは、神仏に願いごとをすることを、 ――請求的祈り―― と呼んでいます。請求的祈りは、自分自身を惨めにします。と同時に、それはエゴイズムの祈りなのです。自分を大学に合格させてくださいと願うことは、誰か一人、他人を落してくださいと願っていることなのです。そんな祈りは、本当の祈りではありません。本当の祈りは、わたしは、 ――領収的祈り―― となづけています。「ありがとう」と感謝するのが、本物の祈りです。健康であれば、健康な生活をさせていただけることに感謝します。病気になれば。病気でありながらなおも幸福な日々を過ごさせていただいていることに感謝します。大学に合格できれば、合格させていただいたことに感謝し、落ちたときには浪人として勉強させていただけることに感謝します。その感謝の、「ありがとうございます」のことばが、真の祈りのことばです。それが、『般若心経』の言っている、 ――是無等等(ぜむとうどうしゅ)―― すなわち、等しいもの、比べるもののない最高の真言だと思います。 『ひろさちやの般若心経88講』第77講 『般若心経』の最後の部分 P.244~246 『般若心経』も最後の部分になりました。『般若心経』は、最後にこう言っています。 ――「故説般若波羅蜜多咒。即説咒曰。羯諦。羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提薩婆訶。―― これはつまり、こういう意味です。 「そこで、般若波羅蜜(多)の咒(真言)を説きます。すなわち、これが呪です――"羯諦。羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提薩婆訶"」 ここでちょっと、『般若心経』をはじめから振り返ってみましょう。 『般若心経』はまず冒頭で、観音さま(観自在菩薩)が般若波羅密多を実践して、苦しみを克朊されたと述べています。般若波羅密多は、最後の"多"を省略して"般若波羅密"と呼ぶことにしましょう。その意味は、「彼岸に渡る智慧」「彼岸の智慧」あるいは「智慧の完成」です。さらには、「ほとけの智慧>といった訳語も可能なことは、前に述べました。 ともあれ、観音さまは般若波羅蜜を修行されて、苦しみを克朊されました。だから、あなたがたも、観音さまを見習って、般若波羅密を実践して苦しみを克朊しなさい……と、『般若心経』は冒頭でそう言っているのですね。 そして次に、観自在菩薩は舎利子(シャ―リプㇳラ)を叱ります。舎利子は、小乗仏教では偉いお坊さんですが、大乗仏教では評判はよくありません。観自在菩薩は舎利子に、 ――こだわりを捨てろ―― と叱っておられます。つまり、舎利子たち小乗仏教の出家者は、煩悩を実体視し、煩悩を克服しよう、煩悩をなくそうとやっきになっていますが、それはおかしいのです。煩悩は「空」(実体がない)だから、煩悩にこだわらなければそれでいいのです。したがって、「空」というのは、実体視してはいけないということであり、換言すればこだわるなということです。この「空」が、『般若心経』の中心テーマです。 ついで『般若心経』は、小乗仏経の教理体系を徹底的に否定しています。小乗仏教は、「五蘊」「十二処」「十八界」「十二縁起」「四諦」という複雑な教理体系を展開していますが、そんなものは無視すればよろしい――と、勇ましくも断言してくれているのです。なかなか痛快ではありませんか。 そのあとで『般若心経』は、般若波羅密の効用を述べています。いや、効用というより、これまでの実績かもしれません。すなわち、過去の菩薩たちがすべて般若波羅密によって大いなる精神の自由を獲得され、その結果、苦しみや恐怖を克朊することができました。また、過去、現在、未来の諸仏たちも、般若波羅密によって、最高の悟り、究極の悟りを得られました。般若波羅密は、それほどすばらしいものです。 この般若波羅蜜の呪(真言・陀羅尼)は、あらゆる苦しみを取り除いてくれる効果があります。一般に呪は、雨を降らせたㇼ、病気を治したり、怨敵を降伏させたり、さまざまの効用のあるものですが、この般若波羅密の呪はいっさいの苦しみを取り除いてくれるという、すばらしい効用があります。 では最後に、その呪を紹介しましょう……というのが、「故説般若波羅密多呪」のところです。『般若心経』は最後に、すばらしい効用のある呪をわれわれに紹介してくれています。その呪が、 ――「羯諦。羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提薩婆訶。」―― なのです。 2021.04.13記 『ひろさちやの般若心経88講』第82講 阿修羅の正義 P.259~261 インド神話に、アスラとインドラという神様が登場します。アスラは正義の神で、インドラは力の神です。 アスラには美しい娘がいて、その美貌は神々の世界でナンバー・ワンの評判をとっていました。父親のアスラは、力の神のインドラに心を寄せていた、自分の娘をインドラに嫁がせたいと願っていました。ところが、インドラは力の神であるだけに豪放磊落であって、あるときアスラの娘を見て、力でもって彼女を犯し、無理矢理自分の宮殿に連れ去ったのです。 父親のアスラは、当然、怒ります。そして、武器をとってインドラに挑みます。だが、インドラは力の神です。正義の神であるアスラが、力の神に勝てるわけがありません。戦闘はアスラの敗北に終わります。 けれども、それでアスラの怒りがおさまるはずはありません。娘を奪われたアスラの怒りは烈しく、なおもアスラはインドラに戦いを挑むのです。戦いは何度繰り返しても、アスラの敗北になりますが、にもかかわらず、アスラは執拗に戦闘を繰り返します。 その結果――面倒になったインドラは、ついに正義の神のアスラを神々の世界である天界から追放してしまいました。 仏教はこの神話にもとづいて、敗北者のアスラを「阿修羅」または「修羅」と呼んで魔神にし、勝利者のインドラを「帝釈天」と呼んで護法の神にしました。すなわち、正義の神を魔類にし、力の神を護法の神としたのです。それが仏教のやり方です。 これでは、まるで「勝てば官軍」ではありませんか。最初、わたしはそう思いました。だが、じつは、これでいいのです。これが仏教の考え方であり、『般若心経』の考え方であり、これでまちがいではありません。 なぜなら、暴力でもって凌辱され、帝釈天の女とされた阿修羅の娘は、のちに幸福な帝釈天の妃になっているのです。たしかに、最初の帝釈天の行動はよくないにしても、過去の出来事をいつまでも根にもって、みずからの「正義」にこだわりつづけている阿修羅の狭量さのほうがもっと恐ろしい。仏教はそう考えるのです。 仏教説話には、帝釈天のいろんなエピソードが語られていますが、こんな話もあります。珍しく負け戦で、逃げて行く帝釈天の軍勢の行く手に、道の上を何万匹ものアリが這っていました。それを見て、そのアリを助けるために、帝釈天は軍勢を再び元の逃げてきた道に引き返させているのです。逃げている軍隊が引き返すなんて、一種の自殺行為です。それができるのは、帝釈天が力の神であって、弱い者に対する同情心、憐れみの心があるからです。おそらく、正義の神である阿修羅には、それができないでしょう。正義のためには、少しぐらいの犠牲はやむを得ない。正義にこだわり、みずからの正義ばかりを主張しつづけて相手の立場を考えない、そんな正義を、 ――阿修羅の正義―― となづけました。「阿修羅の正義」は魔類の正義です。仏教は、そんな「正義」にこだわるなと教えているのです。『般若心経』は、 ――「波羅羯諦。」―― と述べています。これは「彼岸に渡れ!」の意味です。わたしたちが「阿修羅の正義」にこだわったとき、すみやかにその「正義」を離れて彼岸に立つべきです。彼岸に立つとは、ほとけの目で相手を見ることでしょう。『般若心経』は、わたしたちにそのようなアドバイスをしてくれているのです。 2012.04.25記 『ひろさちやの般若心経88講』第85講 「羯諦。羯諦」は喜びの歌 P.268~270 仏教のお坊さんは、漢文のお経を棒読みにする。あれでは、聞いているほうはさっぱりわからない。ちゃんと素人にわかるよう読むべきではないか……そんなお叱りをよくうけます。 たしかに、『般若心経』なども、 「観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。舎利子。……」 とやられたのでは、なかなか意味がわかりません。どうすればいいのでしょうか? あまり名案はありません。この問題はむずかしので、ここでは深入りしないでおきます。 ところで、お経の漢文の棒読みは評判が悪いのですが、じつはお経の中には、もっと意味のわからない部分があります。それは呪(じゅ:真言)の部分です。『般若心経』で言えば、 ――「羯諦。羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提薩婆訶」。―― の部分です。他の部分は、素人にはわかりませんが、漢文の読める専門の仏教学者には意味がとれます。けれども、この呪(真言)の部分は、いくら漢文が読めても意味がわかりません。前にも説明したように、これはサンスクリット語(梵語)をそのまま音訳したものだかです。われわれ日本人はカタカナを持っていますから、この部分はカタカナで表記するでしょう。しかし、中国にはカタカナがないので、サンスクリット語の音をそのまま漢字で置き換えました。それがこの部分です。 では、この呪(真言)のサンスクリット原文は何でしょうか? 「ガテー・ガテー・パーラガテー・パーラサンガテー・ボーディ・スヴァーハー(gate gate paragate parasamgate bodhi svaha)」 です。だが、この呪は、文法的に正しいサンスクリット語ではありません。したがって、正確な意味はわかりません。わたしは、多くの学者の研究を参考にして、いちおう次のように訳しておきます。 「往(ゆ)き、往きて、彼岸に到達せし者よ。まったく彼岸に到達せし者よ。悟りあれ、幸あれかし」 『般若心経』はわたしたちに、煩悩の此岸を去って、悟りの彼岸に渡れ、と教えています。煩悩の此岸には、 ――貪欲(むさぼり)・瞋恚(しんし:いかり)・愚痴(おろかさ)の三毒―― の火が燃えます。わたしたちは身も心も傷悴するのです。 このような此岸に、いつまでもしがみついていては駄目だ。観音さま(観自在菩薩)は、すべてが「空」だということを悟られて、煩悩の此岸から彼岸の世界に渡られた。あなたがたも観音さまにならって、早く彼岸にわたりなさい! 『般若心経』はわたしたちにそう教えています。そして、彼岸に渡った者に、 「羯諦。羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提薩婆訶」。 と、祝福のことばを送っているのです。それが『般若心経』の呪(真言)です。 だとすれば、わたしはこの呪を、次のように訳し変えてみたいと思います。 「来たよ、来たよ、ほとっけの国に、 みんなと一緒にほとけの国に、 ほとけさま、 ありがとう」 そうなんです。これは「喜びの歌」です。わたしたちが『般若心経』を学んで、そしてほとけの国(彼岸)に渡ることができた、その歓喜の声が「羯諦。羯諦。波羅羯諦。…」の呪でなければなりません。そのような感謝のことばが発せられるように、わたしたちは『般若心経』を学びたいと思います。そのような願いをこめて、わたしは呪を訳してみました。 2021.04.10記 『ひろさちやの般若心経88講』第86講 「空」であるとみなすこと P.271~273 『般若心経』も、ついにいちばん最後の部分になりました。おもしろいことに、このお経は、いちばん最後に、 ――「般若心経。」―― と言っています。じつは、仏教の経典は、最後のところで、 「ここに、××××とう経典を終える」 と述べるのです。それが、仏教経典ばかりでなく、インドの書物の伝統的なスタイルです。『般若心経』も、そのスタイル通りに、最後に、『般若心経』といっているのです。 さて、『般若心経』は、 ――すべてが「空」である―― ということを教えた経典であると述べてきました。そして「空」とは、すでに何度も記しましたが、「差別するな!」「こだわるな!」といった意味です。 しかし、ここのところはよく誤解されるので注意を促しておきたいのですが、正確に言えば『般若心経』は、「すべてが"空"である」と言っているのではありません、ちょっと考えてみればわかることですが、この世の事物は「空」でははりません。「空」ではなしに、まさに反対に差別の存在です。だから、「すべてが"空"である」と言ったら、『般若心経』は嘘を説いていることになります。したがって、正確に言えば、その教えていることは、 ――すべてを「空」と見るようにしなさい―― ということなのです。法律用語の"みなす"という語を使えば、 ――すべてを「空」とみなしなさい―― というのが、『般若心経』の主張なのです。 法律用語の"みなす"という語は、たとえば、「民法」の第八八六条第一項に出てきます。「胎児は、相続については、既に生まれたものとみなす」 もちろん、胎児は生まれていません。生まれていないから胎児です。しかし、「民法」のこの規定は、父親が死んだあとに生まれてきた子どもが、父親の財産を貰えないのはかわいそうだから、遺産相続については、母親の胎内にいる胎児もすでに生れたものとみなして、これに相続権を与えようというものです。"みなす"というのは、そのような意味です。 そして、『般若心経』が「色即是空」と言っているのも、「色(さまざまな存在)を"空"とみなしなさい」ということです。決して「色は"空"である」ではありません。この世の事物は、どう見ても「空」ではありませんよね。まさに差別の存在です。差別の存在であることが十分にわかっていて、しかもなおかつ「空」とみなせと、『般若心経』はわれわれに命じているのです。ちょうど「民法」が、胎児は生まれていないことを百も承知の上で、しかもなおかつわれわれに、胎児は生まれたものとみなせと命じているのと同じです。"みなす"という語は、そういう意味のことばです。 この世に存在する事物は、まさしく差別の存在です。男と女の差別があり、大きい・小さい、高い・安い、きれい・汚い、……等々、差別の相の下に存在しています。それを、『般若心経』は、「空」とみなすように……と、われわれに命じています。差別があるものを「空」とみなすのですから、それはつまりは「差別にとらわれるな!」――それが、『般若心経』の主張なのです。 2021.04.17記 『ひろさちやの般若心経88講』第87講 あなたも観音さま P.274~276 『般若心経』が観音さまのお経であることは、最初のほうで述べました。その冒頭に出てくる「観自在菩薩」は、「観世音菩薩」すなわち観音菩薩、観音さまの別名であることも、そのとき詳しく説明いたしました。 ところで、観音さまのお経には、もう一つ『観音経』というお経があります。『観音経』は『法華経』の中の一章を独立させてつくられた経典です。したがって、『観音経』(あるいは)『法華経』と『般若心経』は、兄弟のお経だということになります。 『観音経』の中には、観音さまは極楽浄土のほとけさまで、三十三の変化身(へんげしん)をとってわたしたちの娑婆世界に「遊び」に来ておられる――と書かれています「遊び」ということばは、ふざけた意味ではありません。ゆったりと、楽しみながら修行をしておられる、その姿を「遊び」と表現したのだと思います。つまり、観音さまは三十三のさまざまな姿をとって、この娑婆世界に修行に来ておられるのです。 その三十三の姿の中には、出家者もあれば在家の人間もあり、男もあれば女もあり、大人もあれば子どももあります。観音さまはありとあらゆる姿をとって、わたしたちの世界に来ておられるのです。 だとすれば、ひょっとして、あなたの夫が、あなたの妻が観音さまかもしれませんね。あなたの親が、あなたの子どもが観音さまかもしれません。あなたの隣にいる人が観音さまかもしれません。そして、隣の人の隣はあなたですから、あなた自身が観音さまかもしれません。いや、観音さまかもしれない……というのではなく、しっかりと観音さまだと信ずべきです。それが仏教の態度です。なぜなら、この人は観音さま、あの人は観音さまでないと差別する心は、仏教がいちばん嫌う心です。『般若心経』は口を酸っぱくして、差別するな! とわたしたちに教えています。 だから、わたしたちはしっかりと信じるべきです。わたしの隣におられる方、わたしの前におられる方、わたしの後ろにおられる方が、みんな観音さまだ、と。そして、隣りの隣りはわたしですから、わたしもまた観音さま、みんな観音さま―― ――あなたも観音さま、わたしも観音さま、みんな観音さま―― と、しっかり信じることが仏教者としての第一歩です。 そうすると、それが信じられるようになると、この世の中を見る見方が変ってきます。この世の中には、金持ちも貧乏人もいますが、それは観音さまが金持ちの姿をとっておられるのであり、観音さまが貧乏人の姿をとっておられるのです。頭のいい観音さまもいれば、頭のわるい観音さまもおられる。健康な観音さまもおられれば、病人の観音さまもおられます。でも、みんな観音さまです。 こんなふうに考えるとよいでしょう。観音さまがこの娑婆に来て、娑婆の舞台の上で学芸会をしておられるのです。舞台の上では、王子と乞食、美人と老人、警官と囚人、……等々、さまざまな配役があります。みんながみんな王様になるわけに行きませんから、搊な配役を割り当てられる人もいます。しかし、それは舞台の上での配役です。舞台を下りると、みんながすばらしい観音さまです。 そう考えると、表面的な、舞台の上での役割にこだわって、人間を差別することの愚かさがわかっていただけるでしょう。なるほど役割の差はありますし、それを無視することはできませんが、それよりもわたしたちはしっかり「みんなが観音さま」と信じて、すべての人を尊敬する心を持つべきです。 こう考えると、『般若心経』の「空」――差別するな――の教えが、「みんな観音さま」という考え方に通じるわけです。 2021.04.10記 『ひろさちやの般若心経88講』第88講 仏教という幸福学 P.277~279 仏教は「幸福学」です。わたしはそう思っています。いや、仏教にかぎらずすべての宗教は幸福学です。いったい幸福とは何か、どうしたら幸福になれるか、を教えてくれているのが仏教であり、キリスト教であり、イスラム教であり、その他本物の宗教なのです。 では、仏教は、いったい何が幸福であり、どうしたらわたしたちは幸福になれると教えているのでしょうか? それは、簡単に言えば、『般若心経』の教えである。 ――彼岸に渡れ!―― なのです。わたしたちは此岸にいては幸福になれません。此岸においては、本当の幸福が得られません。本物の幸福を攫むためには、わたしたちは此岸から彼岸に渡らなければならないのです。 此岸は競争の社会です。他人よりも金持ちになりたい、他人よりも出世がしたいと、わたしたちはあくせくし、いらいらしています。わたしたちは他人と競争し、他人に勝つことばかりを考えていますが、この競争社会にあっては、よしんば競争の勝者になっても、心の平安は得られません。いや、勝者になれば、こんどは誰かに追い越されはしないかと心配でならなくなります。勝者になればなるほど、不安に怯えるのが此岸のあり方です。かといって、敗者になっても、心の平安は得られません。敗者は屈辱感を味わねばなりません。わたしたちは此岸においては、絶対に幸福になれないのです。 此岸は欲望の世界です。欲望は、それを充足させることによっては、絶対に心の平安は得られません。欲望を充足させれば、かえって欲望が膨れあがります。上等のドレスをを買えば、それに合う靴がほしくなり、アクセサリーがほしくなります。そのドレスを着てパーティーに行き、「あら、いいドレスね。よく似合うわよ」と言われたら、余計にいけません。次のパーティーには、それよりも上等のドレスを着て行かねばなりません。それが此岸の欲望の特性です。 此岸の欲望は、タバコのようなものです。タバコをのまないでいると、イライラしてきます。そのイライラを鎮めるためにタバコを吸いますが、吸ったところで、なんらプラスの価値は得られません。せいぜい、イライラするといったマイナスの感情をゼロにしただけです。そして、吸ったタバコが次のイライラ感を生みだします。いくらタバコを吸っても、満足感はありません。吸えば吸うほど、イライラをつくっているのです。 此岸にいては駄目です。だから、『般若心経』はわたしたちに、口を酸っぱくして「彼岸に渡れ!」と教えているのです。 彼岸に渡って、そこで幸福を得るための方法を箇条書きにしておきます。これらはすでに述べてきたもののまとめです。 少欲であれ! 欲望を充足させるのではなく、欲望を少なくするのです。 いい加減のすすめ いい加減は、決して中途半端ではありません。熱い湯の好きな人には、熱い湯がいい加減です。ぬるい湯の好きな人には、ぬるい湯がいい加減です。それぞれのいい加減があります。自分自身のいい加減を見つけることが、自分自身の幸福を掴む途(みち)なのです。 こだわるな! ものの見方は各人まちまちです。自分の見方にこだわってはなりません。 差別するな! みんな観音さまです。すべての人が観音さまだと信じられたら、自分も観音さまだとわかります。そうすると、自分のいまのあり方のままに幸福になれます。 感謝の気持ちを持つこと それが幸福への秘訣です。 2021.04.08記 ※参考:摩訶 般若 波羅蜜多 心経
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