兄:黒崎萬亀夫
弟:黒崎達雄の思い出


★黒崎萬亀夫の思い出

 茶褐色に変色した、四隅の一角が破れ、中央部にひび割れが斜めに走っている、十一名の記念写真である。私が生まれ、学校を卒業して社会人に成るまで育てられ住んでいた家の玄関前のものである。「忠海高等海員講習…」と書かれた三十センチ幅の木製看板が軒下に吊るされている。父、兄(萬亀夫)、妹(田鶴子)、私、受講生男性五名と私の家に住んでいたと思われる女性二名の写真である。父は着物で羽織を着ている。黒足袋、下駄履きである。兄は黒の小学校制帽、白っぽい上下揃った服、ふくろはぎまでの黒の靴下、革靴の姿で左手をズボンのポケットに入れている。父の膝の間に凭れかかるようにして両足をそろえてこころもち前に出して立っている。妹は幼児の美しい着物を着せられて、眼鏡をかけた丸髷の女の人の膝の上 に立たされて両手を開き、可愛い丸顔でカメラに目を向けている。私はクリクリ頭である。五つボタンの黒色の上下そろいの服、短ズボン、膝までの白の靴下、革靴を履いている。腰掛けている受講生の一人の膝の間にはさまれて、その人の膝を肘掛けにして両手をかけて座っている。女性二人は日 本髪・和服である。受講生五名のうち二名は和服、三名は洋服である。中折れ帽子を二名がかぶっている。幼いころを思い出させる一枚の写真である。父が健在であるから命日の昭和十年四月以前である。三歳違いの兄は小学生。妹は二歳違い。彼女の写真 の姿から二~三歳であろう。すると私は四~五歳になるか、小学校に入学するまえである。兄は七~八歳になり、小学校一年か二年。帽子、服の具合から一年生のおわりだろうか。冬用の着物、足袋、靴下の様子から冬の十一月ころから三月に近いころだろうか。写真全体から想像すると私が満五歳 ころ、昭和七年の冬か昭和八年の春に近い時期のものであろう。

 家族紹介と名前

 父:黒崎市次郎、母:梅野、姉:千鶴子、兄:萬亀夫、次男:昭二、妹:田鶴子、弟:達雄、弟:勉。(年齢順)

 広島県豊田郡忠海町立忠海西尋常高等小学校一年生のとき、私は教室の外に立たされた。L字型平屋校舎であった。運動場は南側にあり、L字の長い方は東西に配置されていた。一年生の教室の窓の近くにポプラが植えられていた。この木の根元に一人だけ立たされたのである。担任は長田先生である。しっかりされた家庭の主婦でもあった。時折、生徒をひどく叱っていた。この時は何か先生の言われたことをきかないで勝手なことをしていたのであろう。教室の外に罰で立たせられたのであるからよくよくのことであったに違いない。兄が休憩時間に来た。全校生徒に見られていたのだろう。

 兄とは三歳しかはなれていなかったが、小学校の歳ごろではこの差は大きくて一緒に遊んだ記憶はない。

 兄は小学校を卒業の時、一・二番を争う成績であった。家庭の事情で、母の実家から岡山県立岡山工業学校に行くことになり忠海を後にした。昭和十二年当時の岡工は難関であった。合格できなくて、内山下小学校の高等小学校一年生で再度受験。岡山工芸学校とともに合格。

 岡工の上級生の時、陸軍予科士官学校受験。身体検査で不合格。卒業の前、第六高等学校を受験してはと言われたと。工業学校では英語の勉強をしていなのであきらめたとのことである。

 岡工の成績優秀な卒業生は旧制高等工業学校に無試験入学許可の特典が与えられていた。首席で卒業して徳島高等工業学校に特典入学した。神戸高工か徳島高工土木科のいずれかということになった。同級生の一人が神戸に行きたいとのことで、ゆずったとのことであった。

 こんなことから小学校四年の坊主が家長になったのである。姉は結婚していた。母と十歳の妹、六歳と四歳の二人の弟だけになった。母も淋しかっ ただろうが、私も本当にこころぼそかった。兄が夏、冬、春休みに帰るのを指折り数えて待っていたものである。長期の休みには必ず帰って来ていた。休みが終わりに近くなると、私は兄と喧嘩していた。理由はなんであったか記憶にない。

 兄の学校から送られてくる成績票を見て母は喜んでいた。学期ごとに成績が良くなる兄そして私たち子供の成長を首を長くして待っていたと思う。

 成績票は仏壇に必ず供えていた。私のもそうしていた。頼る人がいなかったので仏壇の父の加護を願っていたのであろう。

 私が五年生の担任は佐藤先生(男)であった。バレーボールが上手な背が高く太った方であった。授業中、なにかにつけて兄と比較されて嫌な思い をさせられた。

 家族全員(黒崎家)の写真は一枚もない。

「一葉の写真」には父、兄、妹、私が写っているが母、姉が不在である。

 もう一枚の写真がある。母、姉夫婦と子供、兄(徳島高工生)、妹、弟の二人と私(中学四年生)である。父がいないのである。写真屋さんで撮影したものである。個人がカメラを持つようなことはなかった。

「一葉の写真」はただ一枚、残っている父の写真である。私の一番幼いころの写真でもある。ぼろぼろに傷みかけていたので昭和六十一年にコピーし て保存することにした。

 昭和十九年十月、海軍兵学校76期生として入校のために呉線吉浦駅から江田島小用に渡った時、兄が迎えてくれた。徳島高工の学生たちが兵学校の防空壕構築のために勤労動員されていたのであった。

▼関連:江田島小用、兄が迎えてくれた

 昭和二十年、江田島海軍兵学校本校と大原分校の間で兄と出会う。宿舎に急いで上がり、餅を食べさせてもらった。

 一度、母が江田島に面会にきた。在校中、面会は禁止されていた。忠海出身の海軍特務士官の官舎で。兄も来ていただろう。記憶にない。


 戦 後

 昭和二十年九月、終戦で忠海に帰っていた時、兄に久留米予備士官学校へ9月30入るようにと郵便通知あり。既に終戦の日を過ぎていた。

 あるとき、伝馬船を借りて兄と忠海から瀬戸田へ出かけた。姉が瀬戸田町(当時の町名)の法務局登記所勤務の御主人と官舎に住んでいたから。耕三寺が造られていた。中学校の同級生もいた。

▼関連:瀬戸田へ渡る

★広島鉄道局に入局。

 手始めに三原鉄道保線分区、大乗作業所勤務。忠海宮床の官舎にいた。

 工専の学生であった私は夏休み線路の草ぬきなどに使ってもらって通学のための費用に当てるお金を貰った。

 その後、広島鉄道局(広島市)に異動。国鉄の寮に住んで、宇品にあった局にかよっていた。機械製図の宿題をやってもらったりした。そのためか、製図はまったくできなかった。化学工業科であったので必要性を感じていなかった。

 その後、最終的には九州旅客鉄道熊本支社で部長で終わる。

 退職後、広島県島県廿日市市対巌山一丁目に住む。熊本にはたびたび訪れていた。その時、弟達雄の長男が熊本大学に勤めていたのをよびだしては酒を酌み交わしていた。

 酒は好きだった。どちらかと云えば、雰囲気を楽しむ様子であった。飲むほどに好きな歌を歌っていた。

★兄・妹・兄弟夫婦で旅行を楽しんだ。

 昭和三十八年正月、広島の奥の湯山温泉で正月を過ごす。黒崎家全員で。

 昭和三十九年八月お盆、黒崎家十七名全員でクラレの保養所であった岡山県湯原寮に行く。

*写真説明:画面左:兄、中央:達雄

★関連:兄弟妹夫婦旅行

 生涯、自分についてほとんどかたらなかった。両親・兄弟姉妹について口にすることはなかった。兄弟姉妹の悪口をいったりするのを聞くと、そんな事を云うのは許されないと言っていた。また、怒ったことがなかった。我慢が身についていた。


★黒崎達雄(弟)の思い出

 昭和8年生れ

 父が死亡した昭和十年以後、母ひとりの家庭の経済は苦しかった。その時、三歳くらいの弟・達雄を父方の親戚の家に口減らしのために養子にやろうという話が持ち上がりほとんど纏まっていた。姉は大変可愛がっていた。弟をやるくらいなら自分が女学校を止めて働くからと言って猛烈に反対したのである。遂にこの話は取り止められた。幼いころ、岡山のお婆さんの家にあずけられて苦労したからであろう、女学生の姉は弟のことをどんな風に思って反対したのであろうか………。

 6歳ころ、花月旅館前の入江の石段で遊んでいた。梅雨のころであった。あやまって海にはまり、見えなくなった。しばらくして浮いたところで助け上げられた。まさに危機一髪であった。

 達雄と私は6歳も離れていたので一緒に遊んだ記憶がない。また、私が海軍兵学校入校時、13歳で小学生であった。ただ、次の弟:勉とは2歳違いで仲がよかった。

 広島県立忠海高校にはいった。飛騨先生から君のお兄さんはと言われていたようだ。

 上級学校に進学しないで、卒業すると国鉄にはいった。忠海駅、竹原駅、宇部駅などを転勤して定年前、忠海駅長になった。忠海の名士となり、多くの町民と親しくこうさいしていた。

 私が結婚したとき、母からの手紙で「家は畳替えをしておきます。達雄と二人で張替へました故二階はきれいになりました」と知らせてくれた。

 ともかくも、生涯、忠海の家から離れたことがなかった。

 兄・妹・兄弟夫婦旅行ではスケジュールなどはたいてい達雄がしてくれていた。

 気が優しくて、温和なおとこだった。だが一たび怒るとしっこかった。

 酒が好きだった。何度か外で飲んで、転んだりしていたそうだ。「酒をつつしめ」といっても、できないようだった。口に出せないしこりをを酒を飲んでしずめていたのではなかろうか。岡山に来たときは勉と三人で飲んだりしていた。

 黒瀧山を愛する会を有志が結成していた。達雄は、その一人であった。

★参考1:黒瀧山 

★参考2:黒瀧山

★平成二十九年六月、不治の病に倒れ、忠海病院に入院。平成三十年一月十七日 帰宅することなく旅立った。
★兄萬亀夫もそのあとを追って平成三十年五月二十三日永遠の旅に出た……。

死をみつめるこんな気持ちで生きたい。

平成三十年七月二十二日作成


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第一回いとこ会 石山国際ホテル
1981.3.1

第二回いとこ会 岡山ターミナルホテル
1985.3.17

第三回いとこ会 湯の郷温泉
2015.8.18

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