海軍兵学校時代
昭和十九年〇十月〇九日 第七十六期 入校式(三千二十八名)


 昭和十九年、中学校五年生に進むとすぐ、広(広島県)の海軍工廠に動員されて2階木造建ての安永寮に入り、先生も一緒だった。工廠の職場までは二キロくらいもあった。十二時間勤務の二交替制で働いていた。私は海軍工廠の補機という部門でネジ切旋盤を使ってネジを切っていた。決められた鉄棒を差し込み、機械を動かせば自動的に作動する、極めて簡単に操作出来た。こんなことで役にたつのだろうかと、疑問に思っていた。

 当時、廣島女学院の生徒、久留米工専の学生も動員されて奉仕していた。

 勤務中、たびたび空襲警報があり避難していた。


「航空廠・広工廠」生の声後世に 2019/8/12 中国新聞 電子版

広海軍工廠での体験を研究会メンバーに証言する福岡さん

 呉市の広郷土史研究会が戦時中に広地区にあった軍需工場である、第11海軍航空廠(しょう)と、広海軍工廠の実態をたどる調査を進めている。資料収集に加え、当時を知る元動員学徒にもインタビュー。空襲体験も含め、消えゆく記憶を後世に伝える。

 第11海軍航空廠は1941年に広海軍工廠の航空機部が独立して発足。広海軍工廠は艦艇の機関やスクリューなどを造り、航空廠は航空機の製造や修理を担った。資料は戦後、大半が焼却処分され、実態は不明な点も多い。関係者が保管してきた図面や写真を、研究会が収集してきた。

 研究会のメンバーたち8人は3日、市立広高等女学校の同級生だった呉、東広島市在住の元動員学徒7人を呉市内で取材した。呉市川尻町の福岡都喜子さん(90)は人間魚雷「回天」のスクリュー製造を担当し、「一つ造れば、一人死ぬ。力を入れて造れと言われ」と証言。航空廠や広海軍工廠が標的になった45年5月5日の空襲では「防空壕(ごう)があった山が揺れ、鼓膜が破れそうだった」と振り返った。

 ほかの元動員学徒もれんが作りをしたが、木づちで一日中たたく作業で、体が痛くてつらかった。「空襲で焼け野原になったが、家族にも話すなと言われた」などと語り、研究会メンバーがメモに残した。

※元動員学徒たち、こんなこともあったのか。


 動員先から海軍兵学校願書などの書類を送り、身体検査、学術検査をうけることになった。

 願書締切は四月某日。出願のさい提出すべき書類は願書、写真一枚(キャビネ版、所定台紙に貼り、氏名等を明記)返信用葉書(住所・氏名及び希望する受験地記入の事)。五月上旬本人あて返送され、受験番号と身体検査場、学術検査場が通知された。

 以上の手順で、五月中旬、身体検査を呉一中(現三津田高校)で受けた。

 当時の体格検査での基準身長は一五〇センチ、胸囲八〇センチであった。私は、身長は問題なかった。しかし、胸囲はぎりぎりかやや少なかった。鉄棒で胸囲を大きくするように努力はしていたのだが。検査で、息を吸い、吐かせられたが、どうしたのか検査の下士官が息をぬかない状態で胸囲を計ってくれたので基準を満たした。

 この時期から兵学校受験者は勤務中に、自習する時間を作ってくれた。工廠も海軍の組織としてこんな計らいをしてくれたのだろうか。陸軍予科士官学校志望者にはこんな特典は許されなかった。

 七月下旬、学術試験、呉二中(現宮原高校)で受験した。バスで広から峠を越えて呉の試験場に行った。

 兵学校へは全国の秀才が集まったといわれていた。入学倍率は七十六期生では十五倍であった。昭和十九年の全国普通中学校の受験資格者は総数十一万人であった。海軍三校(海軍兵学校・海軍機関学校・海軍経理学校)志願者六万九千人、中学生の約半数が志願している調査がある。

 学術試験方法が変わっていた。科目は数学、英語、物理・化学、国語であった。

 一日目試験が終ると、夕方にはその日の科目の合格者が掲示発表され、不合格者は翌日以降の試験は受けられない。二日目の受験者は約半数になる。同じ要領で三日間あった。

 最後まで残ったものは、入校して着用する服の採寸があった。

 七月下旬から発表までの期間に陸軍憲兵隊が身元調査を行っていた。

 調査されると、試験に合格していると噂されていた。私の家も調べられていることを近所の人から知らされていたようだ。

 身元調査の対象項目の一つに家の職業があったとのことである。ことほどさほど徹底していた。

 母は司法書士のかたわら親戚の旅館の手伝いをしていた。こんな事情を知ってか手伝いをやめたうえ、海軍軍人に私の兵学校入校をお願いしたとのことである。位の高い軍人が親戚の旅館臨濤館(りんとうかん)(忠海では一番大きかった:父方の親戚が経営)に止宿されたのをただ一つのてがかりとしてであったようだ。


 九月八日、家に、電報で合格が通知されていた。ちょうど夜勤のために安永寮で寝ていて、家から知らされた。

 電報内容:カイヘイゴ ウカク」ヘイガ クコウテウアテサイヨウキボ ウノウムヘン、イインテウ

 数日後、自宅あて、[入校についての諸注意]が封書で郵送された。

(1)所属分隊=五〇七分隊

(2)入校日の指定=十月五日江田島本校に到着すべし。

(3)入校式までの身分=学校で身体検査を行い、その結果をもって合否を決める。したがってそれまでの間は入校予定者である事。

(4)学校までの道順=呉線吉浦駅に下車の事。

それから学校までは学校派遣の下士官が案内する。

(5)持参する物品について

●衣類、日用品、薬品類は一切不要である。

●辞書類の持参は許可する。

●予防接種証明書(種目指定)

●着用してきた衣服・靴等返送用荷造用紙、荷造ひも、荷札。

 電報、[入校についての諸注意]は家に送られてきていたので「サイヨウキボウ」の返信、準備はすべて母親が済ませてくれた。

 また、海軍兵学校より下記の連絡が送られていた。

保護者あて協力依頼

  昭和十九年十月

    海 軍 兵 学 校

 生徒身上其ノ他ニ關シ父兄トシテ御留意アリ度事大要左ノ通ニ付御了承ノ上御協力願度

一、生徒被服、日用品、飲食ニ就テ

 (イ)被服類ハ官給シ私有物ハ一切使用セシメズ

 (ロ)必要ナル文房具類日用品ハ官給ス

 (ハ)家庭ヨリ菓子其ノ他ノ食物ヲ送付セセラルルコトハ厳禁シアリ(学校宛タルト倶楽部タルトヲ問ハズ)

二、金銭ニ就テ

 (イ)不足文房具、日用品ノ購入等ノ為若干ノ小遣銭ヲ必要トシ、月約五圓乃至七圓程度ナリ

 (ロ)家庭ニ不幸等アリテ急ニ帰省ヲ要スル場合等ノ旅費ヲ要スレバ學校ニテ立替フ

三、休暇、帰省ニ就テ 

 (イ)定期ニ許サルル休暇

    年十日内外

 (ロ)生徒ハ入校ト同時ニ海軍軍籍ニ入リ上命ニ依リ修学スルモノナレバ私情ヲ以テ休暇帰省ハ許可セラレズ

    但シ父母ノ重病又ハ死亡等ノ場合ニハ特ニ許可サルルヲ例トス

    上ノ場合ハ必ズ保証人ヨリ各校教頭宛て出願相成度(急ヲ要スル場合ハ電報ニテ可)

四、學校トノ連絡ニ就テ

 生徒ノ身上ニ就テハ生徒直接ノ身上取扱者タル分隊監事ト密接ナル連絡ヲ保チ不審ノ点ハ遠慮ナク照会セラルルト共ニ何事モ隔意ナク打開ケ協議セラルル様致度

五、面会ニ就テ

 面会ハ特別ノ理由アルトキヲ除キ許可セズ特別ノ理由アルトキハ来校前豫メ分隊監事ノ許可ヲ要スル付御了承相成度


      海軍兵学校入校

 昭和十九年十月五日(木)、町長、愛国婦人会、国防婦人会、親戚、少数の友人(中学の同級生は勤労動員中)に見送られた。出征軍人なみの扱い。

 忠海中学から兵学校合格者は毎年数人あったが、この年の忠海町からは向井恒夫君(終戦後、第六高等学校→東京帝国大学工学部→三井建設副社長)と私の二人であつた。

 駅頭での町長の激励の挨拶に応えて決意の表明をした。

 児玉昭人君のお母さんが赤飯を持って南方村から駆けつけていただいた。本当にいまだに感謝している。
 児玉君は当時満州哈爾濱にあった哈爾濱学院の学生になっていた。
※参考:ハルピン学院(哈爾浜学院/哈爾濱学院/哈爾賓学院)創立:1920年、所在地:中華民国ハルピン市(現中国黒竜江省ハルビン市) 、廃止:1945年
ハルピン学院 (哈爾浜学院/哈爾濱学院/哈爾賓学院)(はるぴんがくいん) は、1920年(大正9年)に、中華民国ハルピン市に設立された旧制専門学校。
 設立当初は外務省所管の旧制専門学校であったが、1940年以後は満洲国所管の国立大学となった。日露間の貿易を担う人材養成を標榜した。

参考:児玉昭人君の一面帰巣本能

 呉線吉浦駅で下車。当時は軍機密保護のため、海に面した側の列車の窓はブラインドを下ろさせられていた。軍港・呉付近は特に厳重で列車には憲兵が乗り込んで監視していた。

 吉浦駅から江田島の小用(こよう)に小舟で渡った。徳島高等工業学生(土木科)の兄(勤労動員で兵学校の防空壕をつくつていた)が迎えにきてくれていた。到着すると、下船して坂道を越えて、徒歩で兵学校の赤レンガの裏門をくぐった。

※写真説明:左裏門。右:西生徒館。

 (エ)五〇七分隊(江田島)に配属。


谷口分隊監事・一号・二号・三号全員。教育参考館前の階段で撮影

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 田代千馬:沼津中、水嶋(島)善太郎:湘南中、熊谷:四国の中学校、曽篠幸夫:不明、若山俊治:京都三中、黒崎昭二:忠海中、吉松富弥:府立六中、清野貞勝:札幌一中、飯澤(沢)竹義:米沢興譲館中、島:和歌山中、福田幸雄:八戸中、佐藤昭雄:宮城築館中、田中:ふ明、岩崎:不明、堀尾武一:大阪住吉中、森 信成:横浜三中、宮崎:神戸一中、前田民夫:彦根中、高山:熊本県中学済々黌、賀集誠一郎:神戸三中。(以上20名)

 出身県:北海道・青森県・宮城県・山形県・東京府・神奈川県・滋賀県・京都府・大阪府・和歌山県・兵庫県・広島県・愛媛県・熊本県の各地からの合格者がきていた。


※韓国出身者は一人も採用されていなかった。76期に限らなかった。陸軍予科士官学校では採用されていたという。

※参考:飯尾 憲士海軍兵学校受験記事。

不昭和十七年、中学四年生で海軍兵学校受験した。父親が朝鮮人であったら、海兵生徒になることなど望むべくもないなど、まったく気づかない。P.88

 中学五年のとき再び海兵を受験し、毎日振り落とされてゆく受験生のなかで運良く最後まで残って制服、帽、靴の寸法まで測られたが、やはり落ちた。併せて受験していた陸軍予科士官学校からは合格の電報がきたが、韓国併合の首謀者ともいえる陸軍が、危険分子とみなされる朝鮮人との混血児を合格させたことは、不可解である。寛大であったのか、杜撰であったのか。ともあれ私は陸軍予科士官学校に入学し、そして陸軍航空士官学校まで進んだが、戦後私は自分の履歴に陸士の経歴を隠しつづけた。肌の合わない学校であった。四角四面の空疎さがやりきれなかった。P.91

飯尾 憲士『ソウルの位牌』(集英文庫)による。


 まず入浴して体を清め、分隊の寝室に行くと、すでに自分のベッドが指定されていた。

 西生徒館2階の寝室のベッドには短剣、軍帽、制服などが置かれていた。

 早速、身に着けていた一切のものを官給のものに着かえ、荷造りして家に送り返した。

 兵学校では一般世間を娑婆と呼んでいた。全く娑婆との縁切りをさせられた。

 十月五日(木)から、十月九日(月)の入校式を含んで十五日(土)までの間、手足を取らんばかりの兵学校生活の指導を受けた。

 大講堂での入校式 七十六期生は江田島本校、大原分校、岩国分校、舞鶴(海軍機関学校)に分かれていた。

 江田島には同期三千人のうちの約千五百人いた。

校長の訓示 

 七十六期入校時の校長は大河内伝七郎中将であった。訓示の一言も思い出せない。

 井上成美中将は昭和十七年十月二十六日から、昭和十九年八月五日の間、校長であった。海軍次官に転出されて二カ月と四日後、我々は入校した。

井上中将の海軍兵学校教育の指導の考え方が七十六期にたいする教育に色濃く影響を与えていた。

井上校長、七十五期生徒入校式訓示(昭和十八年十二月一日)が、我々の入校当時の海軍兵学校幹部の考えだと思う。以下に掲載する。

 諸子、本日茲ニ海軍兵学校生徒ヲ命ゼラレ光輝アル歴史ト伝統ト有スル帝国海軍軍人トシテ生涯ノ第一歩ヲ印ス。諸子ノ本懐ハ察スルニ余リアリ今ヤ生徒トシテノ修練ヲ開始セントスルニ当リ一言以テ諸子ノ向フベキトコロヲ示サントス。

 一 現下皇国ノ興廃ヲ賭スル大戦ハ正ニ酣ニシテ「一億国民悉ク戦闘配置ヘ」ノ声ヲ聞クノ秋、諸子ハ全国多数ノ青年中ヨリ選バレテソノ光栄アル戦闘配置ニ就クヲ得タリ。諸子ハ実ニ此ノ極メテ重要ナル配置ニオイテ本日ヨリ戦闘ニ参加スルモノナリ。訓育トイヒ学術教育トイヒ諸子ノ本校ニ於ケル学習ハ是レ戦闘ニ外ナラザルナリ。今ヤ諸子ノ一挙手一投足ハ断ジテ諸子ノ一身上ノ問題ニ止マラズ。況ンヤ出世栄達ノ為ニ非ズ名聞名利(みょうもんみょうり)ノ為ニ非ズ。今日以後諸子ハ全身全霊以テ国家ニ奉公スベキモノナルコトヲ銘記スベシ。

 二 自啓自発ハ最良ノ学習法ナリ。学術訓練ニ臨ムニ際シテハ「教ヘラルルガ故ニ学ビ命ゼラルルガ故ニ為ス」ノ消極的態度ヲ執ルコトナク須ラク常ニ「学バント欲スルガ故ニ教エヲ乞フ」ノ積極的態度ヲ以テシ終始一貫敢為進取学習ニ精励スベシ。

 三 諸子ノ本校ニ於テ学ブベキ学術訓練ハ極メテ多岐多端ニ亘ルト雖モ是レ何レモ初級将校タルノ素養トシテ必須欠クベカラザルモノナリ。サレバ断ジテ自己ノ好悪ニ因リ勤怠ノ差ヲ生ゼセシムルガ如キコトアルベカラズ。而シテ学習ハ徹底ヲ期シ遂ニ活用自在達人ノ域ニ達スルヲ要ス。知ルハ習フノ第一歩ナリト雖モタダ単ニ知ルヲ以テ事足レリト為スガ如キハ剣法ヲ心得ズシテ銘刀ヲ帯ブルニ等シキモノナルコトヲ悟ルベシ。

  諸子、克ク右ノ三条ノ意義ヲ銘肝シ常ニ陣中ニ在ルノ覚悟ヲ持シ教官監事並ビニ上級生徒ノ指導ニ順ヒ一意専心生徒ノ本分ニ精進スベシ。                              (終)

兵学校の気風の一端を知るために後世への義務――池田淸著『重巡・麻耶』の記録を参考に


 海軍兵学校の一日
05:30  起床(冬は6時)
07:00  朝食
08:10~12:00  授業
12:10  昼食
13:10~14:00  授業
14:10~15:20  自選時間
15:30~16:30  運動および教練
17:30  夕食
18:30~21:00  自習(冬は21:30まで)
21:15  巡検準備(冬は21:45)
21:30  巡検および消灯(冬は22:00)

兵学校でのモットーには「確実、静粛、迅速」と言うのがありました。これを一日の始まりである起床動作から、厳しく仕込まれます。

 例えば生徒の一日は起床ラッパと共に始まります。全校生徒は一斉に床をけってはね起き、カーテンを引く、窓を開ける、毛布をたたむ、服を着替えると言った動作を2分30秒以内で行わなければいけません。

その後、洗面所に駆けて行って、顔を洗い、起床15分後には練兵場に整列して体操を行います。だから手際よくやらなければ間に合いません。

またモットーの「静粛」ということは、無駄口をきくなということです。無駄口をきけば、動作は遅くなるし、雑音が多いと事故が起こりやすくなります。

 午後の自選時間(14:10~15:20)というのは、生徒が各自興味を感じていることを何にもかかわらず探求する時間で、これが生徒たちの唯一の自由時間です。このねらいは自分自身の時間を有効活用する選択力を養成し、また幅広い読書で一般的な教養を身につけることにあります。

また、生活全般にわたって、何事も5分前には次にする行動の準備を終わらせておくという「5分前の待機」がありました。これによってまず船乗りとしての心構えや生活感覚を叩きこまれます。生徒たちは起床から就寝まで「5分前!」の号令とともに行動することに明け暮れました。


分隊組織

 生徒は入校と同時に同期生としての団結を持つことになるのだが、生活の単位は分隊であった。私は一号生徒の経験がないので、学校当局がどれだけ生徒生活に関与していたか分からない。分隊の運営は自治であった。

 分隊の指導教官には分隊監事と補佐の教官がいたが、分隊の生活は生徒に任されていた。各分隊は一号(三年生)・二号(二年生)・三号(一年生)の生徒らの編制であった。江田島の歴史の中では一号から四号までの時代があったが、私が入校したときは三号までであった。

 一号は八人、二号二十三人、三号二十人であった。分隊の責任者は一号の先任(成績最上位者)の伍長(石川芳光:水戸中)、次席の伍長補(板東健児:徳島中)であった。

 生徒館(生徒の居住の建物)での生活、江田島名物の棒倒し、総短艇などの分隊を単位として行われるものには分隊の名誉のために一致協力して奮闘した。

 分隊監事について触れておこう。五〇七分隊監事は谷口尚真大将のご子息の第六十六期の谷口真大尉。

 谷口尚真大将は、広島の生んだ提督の一人で、駐在武官や東郷元帥の副官、第二艦隊長官、呉鎮守府長官には前後二回、連合艦隊長官、そしてロンドン会議の直後、軍令部長になったが、陸上派と目され晩年寂しく逝った。和漢洋の学に通じたことは部内でも有名であった。

 いまなお、江田島に残っている教育参考館は、実に同校長が関東大震災で焼失した東京・九段の遊就館をここに再興せんとして計画したものである。教育参考館をつくるときは、校長と教頭の意見が合わなかった。谷口校長が三井や三菱など財閥まで説いて、建設資金を集めた。(毎日グラフ別冊『ああ江田島』一九六九年) 

参考:教育参考館は昭和十一年三月に完成した。先輩は基金五十万円を投入している。正面を玄関から入れる者は海軍兵学校の生徒と海軍士官のみであったとのことである。終戦後、進駐軍に接取され、昭和三十一年一月米国から返還された。

 殿下分隊

 昭和二十年三月、三号から二号に進級して、江田島本校の五〇七分隊から一〇一分隊に配属された。

★参考:二号一〇一分隊のメンバー

 青木太三郎:横須賀中、上田侑:呉一中、江上精亮:松本中、奥村長生:津中、木下成史:呉一中、黒崎昭二:忠海中、斎藤龍彦、高木宏:府立十中、田中千夫、原田毅:米沢興譲館、松永昭雄、光田博文:岡山一中、結城薙也:村上中。(以上13人)


※関連;昭和51年07月31日(土)

 海軍兵学校76期会全国大会(京都)に参加のため京都に行く。霊山新温泉に16:00頃到着

 3号時代のクラスメイト分隊会

 田代、福田、吉松、森、若山、飯沢が集まっていた。遅れて加集が来た。まったく31年目の顔

 田代:海上自衛隊2佐で退職 禅に入っている 禅は師を選ぶことにあるとのこと。翌日2号の期友奥村に聞いたところ、禅は1対1の教育であるとのこと。本を読んでは知ることの出来ない事を奥村君から聞いた。

 福田:長男が中3の時に悪性腫瘍にかかり生死の問題に直面した。このような時には男しか判断できない。男親と子供の信頼関係を得ることができたとのこと。弘前高校→東大 朴訥な感じが残っていた。

 吉松:奥さん胃癌で死亡したとのこと。以後、独身。兵学校時代のことをよく記憶してしゃべってくれる。相変らずテキパキしていた。

 森 :厳しい態度を保持している。子供の教育に熱心である。みんなから子供を階段から落とすことがないように注意される。

 若山:今度の大会でよく世話をしてくれた。御所の庭を毎日2Km位走っている、健康管理のために。

*前田君不参加。堀尾君(大阪大学教授)は講演のため不参加。島君、中学校の先生。地位が低いので遠慮したとのこと

昭和51年08月01日(日)

 2号時代のクラスメイト分隊会

 奥村、光田、蛸、江上、青木、上田、木下

 奥村:東京地裁判事。真面目。裁判官の姿勢であった。しかし、兵学校時代の面白い話し方が思い出されて懐かしかった。曹洞宗のお寺にお母さんが一人で居られる。長男、一浪で東大理。    

 光田:神島化学。長男が一浪で阪大医学部に入ったとのこと。

 蛸 :おっとりとものを言う。あまり積極的には話さなかった。秋田で医院開業。奥さんの里だそうだ。

 江上:世界統一教―朝鮮の男と日本の女との間で立派な人をつくるねらいとのこと(木下の話し)―に長女が入っているのが話題。

 青木:耳鼻咽喉科医師。東京高校→千葉医大。色紙をみんなにくれる。よく気がつく男だ。医学部進路について聞く。6年後ほとんど研究科にいくとのこと。

 上田:まったく年寄になっていた。

 木下:長女が広大を出て教師1年後また音楽学校へ。

*逢った瞬間よくわからなかったがだんだんと31年前の印象に焦点があってくる。みんな分隊でメイトに逢えることで集まった。結城・高木が予定していたがこなかった。


 二号一〇一分隊のメンバーは海軍兵学校出身者名簿76期エ101~エ608分隊に記載されている。

三号一〇一分隊のメンバーは海軍兵学校出身者名簿77期エ101~エ505分隊に記載されている。

 当時、一〇一分隊には七十五期に皇族・賀陽宮治憲王殿下(ご長補)がおられた。

 一〇一分隊は宮様分隊または殿下分隊と呼ばれていた。分隊監事は第四十九期の多久大佐だった。


★参考「今なぜ宗教か」 石田 慶和(よしのぶ)(龍谷大学教授)

 五十年前、昭和二十年八月中旬、天皇の放送で終わったことを知った江田島の海軍兵学校の教官や生徒は、ほとんど全員が茫然自失の状態にあった。そのとき一〇一分隊の自習室で、一人の教官が謄写版刷りのプリントを配って生徒たちに訓示した。そこに記された「ドイツ国民に告ぐ」というフィヒテの講演の記録は、おそらく生徒たちの誰もが知らなかったものだろう。しかしそれは、ナポレオンの軍隊に蹂躙されたドイツ国民に対して、哲学者フィヒテが大学において自らの所信を述べ、敗戦の打撃から立直ることをうながそうとしたものであった。

 私は四月に入校したばかりの三号生徒(一年生)としてそれを聞いていた。それまで兵学校出の軍人とは違って、大学出身の技術士官としていくぶん柔軟に見えたいた分隊付き士官が、静かではあるが毅然とした態度で訓示する姿に、大きな驚きと深い感銘を受けたことを今も記憶している。

 その士官は、のちに京都大学理学部長をされた富田和久先生であった。富田先生は東大理学部を出たのち海軍に入り、昭和十九年、兵学校の教官になられたのだった。(*黒崎は、作業簿に富田氏が感想を記載された)

 その時は何も知らなかったが、先生はすでに一高在学中から三谷隆正、矢内原忠雄両先生に師事されていた無教会キリスト教の信者であった。そのことが、敗戦というすべての者にとって大きなショックの中で、ひとり動揺することなくフィヒテの講演によって生徒たちを力づけようとされたことの基礎にあったといえよう。

 宗教ということ、信仰ということは、こういうことである。富田先生は戦後、東大助手を経て京大理学部に奉職され、科学者としてすぐれた業績を残されている。他方、先生は昭和三十三年に京大聖書研究会をはじめられ、また昭和三十七年から平成三年にお亡くなりになるまで、信仰通信誌「おとづれ」を刊行し続けられた。クリスチャンとしても、なすべきことをなしとげられたのである。

 はじめに述べた敗戦のとき、私たちの分隊の伍長は、前宮崎大学工学部教授の永田忍氏(*住吉中)であった。永田さんも、先生の訓話に強い印象を受けた一人だったのであった。永田さんは、富田先生の『遺構・追想集』にこう書かれている。ーー富田先生が日本敗戦のその瞬間に、しかも将校養成の軍隊組織の中にあって、「軍人」に向ってそのような話をされたということに「驚きと畏敬の念」を抱いたが、のちに「京都大学で教室会議や学部長時代の先生から感じた先生の信念に満ちた生き方は、敗戦の時に見たあの先生の姿が、青年期以来一貫してつらぬかれているものにほかならないといように私には思える」と。

 以上は、一〇一分隊の三号生徒であった石川大海さんが、同分隊会の案内に当たって『大法輪 9月号』の巻頭に論説が掲載されていたので、コピーを送ってこられたものである。論説の一部である。(*)は黒崎が記す。


 編成替の前、五〇七分隊の分隊監事室で谷口海軍少佐から訓示を受けた。

 「今回、殿下分隊に配属になった。皇族である殿下と学友になるのだから、平民である君は注意して行動するように…」といつた内容であった。

 昭和二十年以前には士族・平民の身分が戸籍簿に明記されていた。平民であることをあからさまに知らされたのはこのときが初めてであった。1947年の戸籍法全面改正によって士族の名称は廃止された。

 平民であることを意識するよりは、皇族の殿下と学友になれることにこのうえない光栄を感じたものである。家にも便りで知らせた。母親も名誉に思ったに違いない。

参考:『海軍兵学校全校における分隊の編成については、「一号、二号、三号」のところで述べたが、一O一分隊の分隊編成も、基本的にはそのやりかたでおこなわれたので、伍長と各号先任はそれぞれ兵学校のトップだが、あとは普通であった。ただ賀陽宮のために、つぎのような変更がくわえられた。先ず、分隊員生徒たちの出身地、出身学校全国的にバラエティがあるようにされた。つまり、台湾出身者もいれば、北海道出身者もいるというぐあいである。ただし、賀陽宮のために学習院出身者を二人編入させた。

 また、体育面でも、分隊員生徒たちの特異技にバラエティがあるようにされた。つまり、剣道、柔道、体操、相撲など、それぞれ得意がちがう生徒たちを、本来の席次の者の近くからえらんだのである。といっても、抜群にすぐれている者だけをえらんだわけではなかった。

 この編成は、井上校長の意向をうけた高田生徒監事と、先任生徒隊付監事・第六十一期の村井喜一少佐によって起案され、昭和十八年六月から大杉少将にかわって教頭兼監事長になった第四十一期の有馬馨少将をへて、井上校長が決裁したようだ。

 しかし、私は一O二分隊の隣りの隣りの分隊にいて、同分隊の一号から三号まで見ていたが、暴れ者や素行に疑問がある者や奇癖のあるものなどは排除し、善良温厚な生徒ばかりをえらんだように思った。生出 寿『海軍兵学校よもやま物語』(徳間文庫)から。P.257

 対番制度

 分隊での躾教育の徹底を図るために新入の三号に二号生徒一名と、一号生徒一名とがマン・ツー・マンで面倒を見る。二号が母親、一号が父親の役目をするのである。

※私が三号のときの二号林生徒が対番であった。私が二号になって、三号にはいってきた生徒川田生徒の対番となった。

余談:昭和25年私は会社に就職した。退職まえ、中堅社員の教育担当となった。そのとき、対番制度に相当する「アドバイザー制度」を導入して成果をあげることができた。

 マン・ツー・マン指導の例

 食事の要領 食事には右手だけ使い、食器を左手で持ち上げてはならない。西洋料理のマナーを日常の食事の中に取り入れていたのであろう。また、艦内生活、特に駆逐艦、潜水艦は狭いので、両肘を張って食事をするスペースがないための訓練といわれていたが、これはどうも疑問。

 食パンは手でちぎり一口一口食べる。食パンの塊(時折、朝食のメニューは半斤のパンと味噌汁)にかぶりついてはいけない。それまで全く知らなかったことを教えられた。

▼参考1:昭和12年頃を例にとると、朝食は必ずパンとみそ汁でした。パンは大きなパン半斤(300g)で、みそ汁はアルミニウムの食器に一杯、パンには砂糖をつけて食べます。

▼参考2:兵学校の食事

 便所の利用の仕方:先ず、小便の仕方、伝統的仕方を先輩の文章を引用しよう。

 便所で、小便をするとき、足を置く敷石の部分に小便を漏らすことは許されない。必ず爪先を前進させ完全に小便が便器の中に落ちるようにしなければならないのである。赤レンガの旧生徒館では、横に細長い便所であったので、生徒が並んで靴の半分位を敷石から溝の方に前進させて、放尿している姿がよく見られた。この方式の故に、便所の敷石は、常に真っ白で、一滴のしみもついていない。かつて、乃木将軍が学習院長の頃、兵学校を見学に来て、この真っ白な敷石を見て、

 「さすがに兵学校だ。この便所の清潔さは、是非、他の学校や部隊でも見習うべきだ」

 と感心した、という話をよく聞かされた。

 こういう所に兵学校の躾の特色がある。『江田島教育』(新人物往来社) P.32      

 大便所は水洗便所であって、扉に帽子掛けのフックがついていた。それに帽子を掛けて、内側に入り鍵を掛けて用をたしていた。誰が中に入っているか分かる仕組みになっていた。海軍兵学校の躾教育はすべて対番生徒により基本を教えられた。

 姓名申告

 入校式当日の夕食後、姓名申告が自習室で行われた。自己紹介である。

 自習室の入り口は前後二カ所にあった。前は二・三号、後は一号専用であり厳密に守られた。生徒の机は前から後ろへ三・二・一号の順に配列されていた。三号は後ろから二・一号に見られていることになる。

 三号は全員、自習室の中の前部に、一・二号の座っている方向に向かって一列横隊で並ばされた。

 伍長が椅子から立ち上がり

 「三号、よく聞け! 貴様たちは、本日から伝統ある五〇七分隊に編入された。これからは毎日、顔を付き合わせて生徒館生活を行う。それには名前をよく知っておく必要がある。今から江田島名物の姓名申告を行う。まず、上級生徒が模範を示す。よく聞いておけ!」

 伍長がまず

 「剣道係、伍長、石川芳光!」と申告が始まり、一号生徒が一人ずつ一回だけ言われる。次は二号の先任が「短艇係補佐、〇〇〇〇!」と申告。順番に怒鳴りあげた。

  いよいよ三号の番である。三号には分隊での仕事の役割の係りがないので、出身中学校名と姓名を申告する。

 「広島県立忠海中学校、黒崎 昭二!」と言う、だが

 「広島県立…」と言いかけた途端に

 「わからん!」「聞こえん!」と、一号から怒声が飛ぶ。

 何回も繰り返してやっと自分の番が終わる。

 声もかすれんばかりになり、恐ろしさに涙もでるくらい。

 宮城県立花巻中学校・佐藤昭雄君の場合は忘れられない。彼は東北弁であったのだ。「キ」の音が「チ」に聞こえるのだ。「ㇵナマチチュウガッコウ・サㇳウ・アチオ」になる。一号生徒は軍刀の鞘を払い、切っ先を申告中の三号の喉元につけて、「大きい声を出せ」と叱る。

 順次、同期生が申告。私と同じ程度であった。

 入校以来の優しく指導してこられた一号生徒が、姓名申告で、一転して鬼に見えてくる。海軍への訓練の第一歩が始まったのである。

 ここで、上級生徒と下級生徒の関係に触れておこう。学年に差はあるが、生徒としての身分は全く同じである。従って、下級生が上級生の靴を磨いたりする必要は全くなくて、そんなことをすれば逆に注意される。上級生が私用に下級生を使ったりすることを見たことも、させられたこともなく、許されもしなかった。

 将来、海軍将校を目指す将校生徒としての躾を上級生徒はきっちり仕込むのである。一般の学校と違って手荒であったといえる。

※自習室は写真のように生徒の自習を行う部屋であった。

 三号生徒のときは、一号が8人、二号が23人、三号20人、計51人が使用していた。

 机の配列は、三号が前、その後ろに二号、さらにその後ろに一号の配列であった。

 部屋の前には信号暗号書保管金庫があった。その横に旗旒信号の模型があった。

 部屋の後ろには小銃保管庫、日本刀保管庫があった。

 自習室の前の廊下には30cmくらいの高さに横長の靴の台があった。それに靴をのせて靴掃除をしていた。そして、部屋に入る時は、入口のマットで靴の泥を落として入室した。靴の汚れが見つかると注意された。

 部屋の出入り口は前と後ろの2カ所あった。二号と三号は前の出入り口を使用、後ろは一号と教官が使用。生徒のときは、なぜこんなことまで決められているのかと疑問に思わなかった。

 自習室は、三号の時は西生徒館一階の大食堂の東隣り寝室はその二階。二号の時は同じ西生徒館の正面入り口のすぐ西側にあり、練兵場が見わたされた。

 起床動作

 自習室で、自習時間をたっぷり使っての姓名申告が終わると、就寝時間になる。ここでまた、一仕事が待ち受けていた。起床動作の練習である。

 ベッドを作り、寝て、また起きて、毛布をきっちりたたむ訓練である。

 ベッドメーキングをして、第二種軍装(生徒の作業服)・靴下を脱ぎ、寝間着に着かえて、脱いだものをきちんと所定の形式(次の着用に都合のよいようにたたむ)におりたたみ、所定の位置に置き、毛布の中に入る。ここまでが寝る動作である、

 次は、起きる動作。毛布から抜け出して、毛布をたたみ、整理してベッドの上に置き、寝間着を脱いで、作業服に着かえ、靴下を履き、寝間着をたたみ、所定の位置に置く。

 寝る動作・起きる動作の所要時間がいずれも二分三十秒になるまで、練習は入校式の日から相当期間続いた。

 ベッドの毛布は正確にたたまれているか、決められた通りに敷かれているか。衣類を着用したとき、ボタンを掛け忘れていたり、シャツがズボンからはみだしたりしていないか。所定時間以内に静粛に行われているか。

 確実、静粛、迅速の訓練が起床動作に限らず、すべての行動において基本として徹底的に行われた。

 約一カ月、入校教育が実施された。

 生徒訓育科目・生徒学術教育科目

 海軍兵学校の教育は海軍将校の養成である。海の、軍人、しかも将校である。従って船乗りであり、戦う人であり、世界の船乗りに通用する条件も満足する教育を行っていたと言える。

 普通学

 「基礎数学(一)を修得すべし

  昭和十九年十月

   海軍兵学校長 小松輝久」

 教科書の開巻第一ページの文章は命令文である。学校は修得を命じ、生徒は修得しなければならない。兵学校の教育指導の考え方を推測できる。

 艦船の操縦が正しくなければ、船そのもは勿論のこと人命を危うくする。教えられたことはきっちりと頭に入っていて、しかも体で応用できるまで反復訓練することになる。この考え方は教育すべてに徹底していた。

 基礎数学(一)は微分であった。私の受けた当時の授業は二時間を一時限としていたが、二時限の授業の後、テストを行う方法をとつていた。中学校時代、一学期の中間と期末にまとめて試験する方法と比べると、頭に残る程度は雲泥の差があった。このように徹底した方法を採用していた。

 姓名明記:教科書の裏に第七十六期生徒(或は七十六期)黒崎 昭二と墨書している。教科書に限らずすべての持ち物に書いていた。

 英語教育

 井上校長の英語教育の考え方が七十六期にも生きていた。『井上成美』 井上成美伝記刊行会 P.388~

 「兵学校は将校を養成する学校だ。およそ自国語しか話せない海軍士官などは、世界中どこへ行ったって通用せぬ。英語の嫌いな秀才は陸軍に行ってもかまわん。外国語一つもできないような者は海軍士官には要らない。陸軍士官学校が採用試験に英語を廃止したからといって、兵学校が真似することはない。>

 井上の決裁によって、採用試験に英語が残されたことはむろん、入校後の生徒教育でも、英語が廃止されることはなかった。多数意見を却下された教官たちの間には「校長横暴」の声もあったが、「こういう問題は、多数決で決めることではない」とする井上の考えは不動であった。

 戦後になって、井上のこの措置は卓見であった、と一般に言われている。アメリカ海軍では、対日戦争開始と同時に、アナポリス海軍兵学校に日本語の講座を開設していたのである。

 井上は、英語教育についても自分の体験に基づく考え方を英語の教官たちに詳しく説いた。「教育漫語」の中から、その要旨を抜き出してみよう。

 一 外国語は海軍将校として大切な学術である。

 一 兵学校教程に示す程度の英語は学問に非ずして技術である。

 一 言葉は人間同志の符牒であり規約である。その使い方を知り、これに習熟することがその技術を習得する所以であるが、本校教程は時間が少なく、これを望み得ないようである。しかし英語に対するセンスは充分にこれを養成して卒業させる必要がある。

 そして井上は、少ない英語の授業時間の中で「センス」を養う方策として「極メテ大胆ナル表現ナルモ」としながらも、次のような一案を英語教官たちに提案した。

 (一)兵学校ノ英語教育ㇵ、文法ヲ基礎ㇳシ骨幹ㇳスベシ

 (二)英語ㇵ頭ヨリ読ミ意味ノ分ルコトヲ目標ㇳスベシ。英文ヲ和訳セシムルㇵ英語の「センス」ヲ養フニ害アリ、(中略)和訳ㇵ英語ヲ読ミ乍ラ英語ニテ考フルコトヲ妨ゲ、反対ニ英語ヲ読ミ乍ラ日本語ニテ考フルコトヲ強フルヲ以テナリ

 (三)常用語ㇵ徹底的ニ反復活用練習セシムベシ

 (四)常用語ニ接シテㇵ、ソノ Word Family ヲ集メシメ、語ノ変化ニ対スル「センス」ヲ養フベシ

 (五)英文和訳ノ害アルガ如ㇰ英語ノ単語ヲ無理ニ日本語ニ置キ換へ訳スルㇵ、百害アリテ一利ナシ。英語ノ「サービス」ノ如キ語ヲ日本語ニ正確ニ訳シ得ザルㇵ、日本ノ「わび」ㇳカ「さび」ㇳカ云フ幽玄ナル語ヲ英語ニ訳シ得ザルㇳ同ジ

 生徒に、長年親しんできた英和辞典の代わりに、英英辞典を全生徒に使わせるよう要望したのも、こうした井上の考え方によるものであった。

 こうして、井上の「直読直解主義」による授業が始まった。しかし、この方式に困惑する教官もいた。文官の平賀春二教授はその一人である。彼は、井上式が語学教育や言語心理学の上からいって、文句のつけようのない、至極もっともなものであるとは思いつつも、どうしてもそれになじめなかった。

 「旧制高等学校のように英語の時間数の多い学校でなら効果もあがりましょう。しかし時間数の比較的少ない兵学校で、しかも戦局日々に緊迫の度を加えつつある折りから、このような授業はまどろっこしく、且つ非能率だと思われてなりませんでした。また微妙な個所が外国の言葉ではままならず……」

 と、平賀は当時を回想している。

 井上式教授方法の徹底は難しかった。井上も数学教育の場合とは異なって、限界があることを理解していたのであろう。その後の授業視察で、必ずしも自分の期待通りに行われていないのを見ても、決して井上式を強制はしなかった。

 ただ、英英辞典を全校生徒に使わせることは、井上の強っての要望であった。在校の七十三期、七十四期と、やがて入校して来る七十五期の一人一人に貸与するものとして、総数約五千冊が必要とされた。これを一度に、しかも早急に調達したいという英語科からの提案が教務会議で検討された。主計長はこれに対して消極的な発言をし、他の科の教官たちも同調して、あわや調達が保留となりそうなムードになった。それまで黙って聞いてきた井上が珍しく笑顔で言った。

 「おい、主計長! お金で済むことではないか、君!」

 こういうのを鶴の一声というのであろうか。

★兵学校の卒業式が済むと、真新しい軍服姿になった候補生たちは、在校生徒や教官たちの見送る中を、機動艇に分乗して表桟橋から離れて行く。そのとき軍楽隊が「オールド・ラング・サイン」(「蛍の光」の原曲)を演奏するのが慣例になっていた。ところが戦時下ますます激しくなった適性語追放の空気から、卒業式行事でこの曲を演奏するのは取り止めてはどうか、という意見が出てきた。スコットランド民謡だから、というのがその理由である。しかし井上は「名曲は名曲である。敵味方を絶している」として廃止の意見を斥けた。「蛍の光」は戦時中、国内どこの学校でも聞かれなくなったが、兵学校では終戦の年まで使用された。

海軍兵学校での成績

 兵学校では試験の成績で順番が決まり、その順位が、自習室・寝室・食堂でも成績順に着席、配置された。

 自分の持ち物、例えば教科書などにもその順位を明記した。たとえば、分隊名・順位を記載する。

 江田島本校(江田島には本校と太原分校があった)で、第一部第一分隊は、一〇一と書く。最初の一が一部、次の〇一が一分隊に相当する。次に成績は三号生徒のときの成績が五番であると、三〇五と書く。最初の三が三号、次の〇五が五番である。作業服に付けているネームプㇾーㇳにさえも、同じように書いていた。

 海軍にいる限り、兵学校の成績がついてまわる。成績のよいものは海軍大学にすすむ。そしてエリートになるとのことである。

 山梨勝之進(1,877~1,967)海軍兵学校25期 次席/25人
 水野広徳(1,875~1,945) 海軍兵学校26期 24/62人
 山本五十六(1,884~1,943)海軍兵学校32期 11/192人
 新見政一(1887~1993)海軍兵学校36期 14/192人 ハンモック・ナンバー(卒業席次・遠洋航海の時に与えられるハンモックの番号)の足を引っぱって、結局192人ちゅう14番で明治41年に海兵を卒業。ハンモック・ナンバーの記録が記載されている。

※参考:幻の軍刀、「蛍の光」原曲

 こうして井上が堅持した方針は、英語は採用試験からも除かれず、生徒教育でも存続された。そして戦後、隠棲中に、父兄から頼まれて近所の子供たちを相手に開いた英語塾では、「教育漫語」で述べたやり方で、漸く彼の期待どおりの成果を挙げることになるのである。


参考:マンモスクラスの誕生 『井上成美』(井上成美伝記刊行会)P.392~396

 未曽有の大量生徒である七十五期の入校は、兵学校として画期的なことであった。その採用業務や受け入れ準備については、中央からの教育短縮の要望も絡んで、井上の最も苦心したところであった。

 前年入校の七十四期が約千名であったのに比べ、十八年十二月一日入校予定の七十五期が一挙に三・五倍になったのは、ガダルカナル島奪回の企図が挫折して、南東方面の戦局が航空を中心とする対峙消耗戦となり、長期戦の様相が明確になってきたからである。

 いよいよ本格化した連合軍の進攻に対し、大本営は航空を中心とする緊急戦力増強を計画した。軍令部では昭和二十一年初頭での士官搭乗員の所要数を約七千名と見積り、その確保を海軍省に要望した。この数値は、ミッドウェー海戦後された実行中の搭乗員養成計画に、さらに六千百名増加を必要とするものであった。海軍省ではあらゆる方策を検討したが、最も困難な問題は、中隊長級の士官搭乗員を急速に養成することであった。このため七十五期は、兵学校の受入れ可能の限度まで増加採用することにしたが、その数は十八年四月ごろの人事局案では一応、千五百名となっていた。しかしその後これではとても軍令部の要望を満たせないことがわかり、十八年度採用予定の予備学生や甲種飛行練習生の採用増加を検討したが、これにも限度があり、結局は七十五期生徒の増加要望となった。同年四月十六日の戦備打合せ会では、生徒採用数を二千八百名(内二千名内外飛行科)とし、予備学生採用数は六千名(内外飛行科四千名)を目途として準備を進めることが決定された。しかし、江田島の現施設では、いかに手を加えてみても二千八百名の収容は不可能であった。そこで、いままで練習航空隊であった岩国航空隊を、さし当り千五百名程度収容の分校とすることに決め、急いで増改築工事に着手することになった。また、すでに着工中の大原分校も、十九年十月までに二千名の収容が可能になるように、極力工事を促進することとなった。

 一方、予備学生を、期待するほど大量に採用することは困難な見通しとなってきたのに反し、兵学校生徒への志願者は予想以上の多数になる見込みがついた。そこで、論議はあったものの、七十五期の採用数はさらに追加されて、五月末には三千五百名とすることが確定した。

 これについて、当時の教育局長矢野志加三(しかぞう)少将(43期、のち中将)は、その意見書の中で次のように述べている。

昭和二十一年ヲ目途ㇳスル、航空軍備ニ対応スル兵学校生徒採用員数ノ増加ㇵ当然ナルトコロ、ソノ発動ガ一年遅レタルタメ員数ニ於テ急膨張ヲ来シタルノミナラズ、今後三年間ニ基礎教育ㇳ航空術科教育ヲ施サザレバ間ニ合ㇵザル破目ニ立到レリ。謂ㇵバ後手ノ帳尻ヲ兵学校ニ持チ来リ、無理押シニ三千五百名ノ生徒ヲ採用シ、内最小限二千名ヲ三年間ニ航空幹部タラシメントスルガ今次ノ対策ニシテ、正ニ二年短縮ノ変形ㇳ云フベシ。其ノ弊害ニ就テㇵ茲ニ繰リ返スノ要ナカルベキモ、現甲種飛行予科練習生ニ比シ、若干優越スル程度ノ教育ニ甘ンゼザルベカラザルㇵ必定ナリ。益々幹部教育ヲ強化スベキ現時ノ要求ニ対シ、之ニテ差支ナキモノナリヤ。

 生徒志願期日は、昭和十八年五月一日から三十一日までとなっていたが、六月十日まで延長した。七十四期の志願者総数が約一万二千名であったのに比べ、七十五期は約五万名に達した。※七十四期競争率約十二倍、七十五期は約十五倍。

 採用試験は、全国各地で六月末から八月初めまでの間に、身体検査、学術試験、口頭試問の順で行われた。身体検査で志願者の約三十五%が不合格となり、その合格者の七十%が学術試験で振り落とされた。残った九千七百余名から三千五百名を銓衡する仕事は大変であったが、井上以下関係者の日夜を分かたぬ努力で遅滞することなく行われ、十一月一日には七十五期生徒採用予定者に合格電報が発信された。全国中等学校から、いわば身体、学術とも最も優れた若者の大半を江田島に集めたようなものであった。

 七十五期生徒を収容するための各種工事も大急ぎで進められていた。岩国分校のほか江田島本校でも約四千四百名収容のための諸工事が行われていたが、十一月中旬にはほぼ完成した。

 昭和十八年十二月一日、第七十五期生徒入校式が、江田島本校、千代田艦橋前の練兵場で行われた。練兵場での入校式は初めてであった。生徒数の増加で、それまで行われていた大講堂に収容し切れなかったからである。午前八時、千代田マストに軍艦旗が掲揚され、九時四十分、千代田艦橋上の井上校長が「海軍兵学校生徒ヲ命ズ」の命課を告達し、七十五期生徒代表が宣誓書を朗読した。これで入校予定者は正式に海軍軍人になった。続いて井上が軍人勅諭の奉読と訓示を行なった。

井上の訓示は、三項目の心構えを示した極めて簡潔なものであった(資一六九頁)。まず第一に「自啓自発ㇵ最良ノ学習法ナリ」と教え、最後に、

 「本校ニ於テ学ブベキ学術訓練ハ極メテ多岐多端ニ亘ルト雖モ、是レ何レモ初級将校タルノ素養トシテ必須欠クべカラザルモノナリ。サレバ断ジテ自己ノ好悪ニ因リテ勤怠ノ差ヲ生ゼシムルガ如キコトアルベカラズ」

と説いている。

 戦争の真最中であり、中学生の学力は一般に低下し、また学術軽視の風潮もあった。学力低下は、主として応召による教員の不足と、勤労作業による授業時間の減少が原因で、特に理数科が甚だしかった。七十五期生徒はこれらの理由に加えて、多人数のために出身校も多様であったから、優劣の格差が大きかった。

 井上は七十五期の入校直後、理数科について全員の実力査定を行い、成績不良の者には特別教育を実施した。「落伍者を出すな」が、井上の教育方針であった。

※七十六期はこんなことはなかった。


参考:七十四期の教育期間は七十三期と同じく二年四か月とし、これ以上の短縮はしない。その代わり、七十四期以降は在校中から航空班と艦船班に分け、適当な時期から軍事学についての分離教育を実施する。特に航空班の生徒に対しては霞ケ浦練習航空隊における飛行学生基礎教程の一部を、生徒時代から繰り上げて実施できるように、兵学校の教程を航空中心に組み替える。そうすることによって、飛行学生卒業時期の早期化を期待する、というものであった。


 体 育

 海軍体操、鉄棒などを中心とするものであった。熟練度によって級位が判定されていた。 

 水 泳

 正式には、武道の科目のなかで游泳術の課目として扱われていた。

 海軍に入りながら、まったく泳げないものがいた。彼等錨組みは赤い帽子をかぶりプールで特訓を受けた。その他のものは、平泳ぎ、背泳、クロールを教員にテストされて、級位が決められた。級位を示すマークの付いた帽子を着用して江田島湾内で游泳訓練を受けた。

 どれだけ長時間、游泳できるかが眼目であったように思える。一度、海に入れば雨が降ろうが、風が吹こうが、所定の時間、ぐるぐる回りながら泳がされた。游泳の型が悪いといつた指導は受けなかった。

 江田島~宮島間の伝統的遠泳があった。残念ながら我々七十六期は体験しなかった。

 戦闘中、艦船が沈没したとき、朝から夕方まで宮島遠泳を泳いだのが自信となって救助を待っていたと言う話を先輩からよく聞かされた。

 短艇橈漕

 短艇橈漕訓練は運用科の教員に教えてもらった。

 短艇は別名カッター。長さ九メートル、幅二・四五メートル、深さ〇・八三メートル、重量は一・五トン。普通は十二人で漕ぐので、櫂は十二本、その櫂の長さはみな四メートル。乗員は、艇指揮と、舵を取る艇長と、漕手を合わせて十四人。しかし、最大搭載人員は四十五人。

 階級からいえば、生徒は下士官である教員の上だが、教員は生徒の師であるから、生徒にたいして教員は敬語をつかわない。そのかわり、生徒の氏名にはかならず「生徒」をつけ、言葉は命令形をつかわずに、第三人称で話をすることになっていた。

 教員の指導をうけ、我々はダビットに吊るされているカッターを吊るしてある短艇索(ロープ)を握り、カッターを徐々に海面に降ろし、全員、岸壁の索梯子をつたってカッターに乗りこんだ。

 艇指揮・艇長の座席がある。左右六人ずつ漕手座に腰をかけ、二人が艇首に立って爪竿(つめざお)を持った。漕手座は、右舷が艇首から艇尾に一、三、五、七、九、十一番、左舷が二、四、六、八、十、十二番となっている。身体の小さい者は、一、二、三、四番、十一、十二番などとなり、大きくて力のある者が中央部となって漕ぐ。

「櫂用意」

 艇尾中央に立った教員が号令の模範を示し、それにならい、総指揮が、<櫂用意>と号令をかけた。

「艇首(おもて)はなせ!」

 艇首の二人は爪竿で岸壁を突き、カッターを岸壁からはなし、海へ押し出した。

「櫂備え」「防舷物入れ!」「用意、前へ」

 十二本の櫂が舷側に渦巻きを起こし、カッターはしだいに沖に向かう。櫂は重く、たいへんな重労働だ。

 五分ほど漕いだあと、教員は、全員の漕ぐ手をやめさせ、自分が腰と体をつかって橈漕の模範を示し、それから一人一人に漕がせて、漕ぎ方を教えた。そのあと、ふたたび全員に漕がせながら、あれこれ注意して、十分ほどのちに櫂を上げさせて、一息つかせた。

 三回めはかんたんに休ませなかった。十分、十五分、二十分とたつうちに、腕と手の力がなくなり、櫂を流しそうになってくる。全員、息をきらせ、顔をゆがめている。しかし、漕ぐのをやめさせない。

 へとへとへとなったが、教員に励まされて漕ぎ続けた。よやく「櫂上げ!」となり、全員は「フーッ」と息をついた。

 われわれは、また、漕ぎ方も下手なのだが、それにしても、はじめての短艇橈漕は、大変な重労働だった。

 いつの日か、「櫂立!」の練習をした。これが、なかなか難しい。何度かしているうちに要領があった。それは、櫂を櫂座に備えた状態で、掴んでいる両手の右手で櫂の端を下に押し下げる。すると、櫂が櫂座から上に浮かぶ。すかさず、左手を櫂の下をつかみ、押し上げる。見事に立つ。そこで両手で掴んで足許におろすと艇底に落ち着く。

 日ごろ訓練を続ける。総短艇訓練。非常呼集訓練など行われた。西生徒館玄関の階段を駆け下りてカッターのある海岸に向かって猛進。乗り込んで、沖のブイーまで一周して帰る訓練。夜間の訓練では明かりがほとんどなくて、階段の段数を記憶していて、数えながら駈け下りていた。

 短艇競漕。分隊単位での競漕が行われていた。一号・二号生徒の腕力のある生徒が乗り込んでのものだった。

 短艇橈漕が続くと、尻の皮がむげ、椅子に坐っても、痛くなり、就寝時、仰向けに寝られなくなるほどだった。

 武 道

 剣道及び柔道に分かれて稽古。私は、中学以来、剣道をやっていたから、そのまま竹刀を握った。

 剣道も実践的指導法であった。面(めん)、小手(こて)、胴(どう)を打つ場合、中学校時代は、それぞれの部位に当てるといった感じで勝負の判定がされていたように思う。ところが、打ち込んで倒すような剣さばきでないと、一本にならなかった。いうなれば、一刀必殺の剣であったといえる。

 相 撲 

 なぜ、将来、艦船に乗り組む連中に相撲を体育の体技の中に入れて訓練したのか。

 海軍関係の写真集を見ると、停泊中、軍艦甲板上で相撲を取っているものがある。狭い船で、楽しみながら体力の維持を計るのに恰好のスポーツであったのかもしれない。しかも、相撲は国技であるとすれば国際的な海軍とすれば、外国にも紹介して親善友好に役立つたのだろう。

 江田島では相撲教育に力を入れていた。大相撲の元十両が指導していた。基本動作である、すりあし、脇をかためての押し相撲の稽古など教えられた。

▼余談1:賀陽宮殿下と相撲をとったことがある。

▼余談2:二号生徒の時。朝の海軍体操の時間、起床と同時にまわしを締めて相撲場に出向き、相撲の練習。終って浴場でシャワーを浴びて分隊に帰っていた。

 教 練 教練の日常化と錬磨について述べよう。

 信 号

 信号方法は、モールス符号による電信、発光、手旗信号、旗旒信号、暗号信号。

 モールス符号とイロハとの対応の記憶、手旗の動作型とイロハの関係、旗旒の組み合わせとその意味内容の教育は一般の学校と大差ない。しかし、これに熟練させるやり方がさすがと感心させられた。

 モールス符号の訓練 食事時間五分前の練習 食堂の入り口に五分前に待機する。その間にトンツー、トンツーの信号音が拡声器を通して流される。従って毎日三×五分は嫌でも訓練出来た。

 発光によるモールス符号の受信訓練 夜の自習時間の中休みの時間に行われた。全員、練兵場に出て散歩する。生徒館から二百メートルくらい離れた位置に旗旒信号掲揚のマストが立つていて、その上に発光信号器が取り付けられていた。これから発射される光の長短の点滅を読んで訓練。また、旗旒信号も勉強した。自習室にも旗旒信号の模型を掲げていた。

 井上校長の訓示にある「学習ハ徹底ヲ期シ遂ニ活用自在達人ノ域ニ達スルヲ要ス」が教練の日常化により徹底されていた。

 勤 務

 隊 務 分隊単位の日常作業。役割訓練になっていた。一号生徒がすべての指揮命令、二号生徒は実働責任者、三号は実働を分担。

 分隊では短艇(カッター)、小銃を保管していた。

 短艇の保管整備は隊務のなかで手数のかかるものであった。毎週土曜日の午後は、生徒館の大掃除(分隊自習室、寝室、便所掃除)の他にカッター整備が組みこまれていた。短艇の保管整備の実務も三号の仕事であった。雨が降れば大変であった。ダビットに吊り上げられたカッターは底栓を抜いていたから雨水も溜まらなかったが、海上に繋留している場合は淦(あか)が増えるので、汲み出さなければならなかった。この作業は食事後にしていた。

 ここで食事風景について書いておこう。

 食堂にはテーブル、長椅子が配置され、入り口に近い、一段と高いひな壇に、教官の食卓があった。

 生徒は分隊ごとに定められたテーブルに坐る。席の順序は入り口(出口でもある)に近い方から上級生、下級生と並ぶ。生徒番号がついていた。私の三号時代は、五〇七ー三〇七になっていた。第五部の七分隊の所属で、三号生徒の番号であることを示していた。二号のときは一〇一ー二〇七であった。

 教官がひな壇に着席され、生徒全員が所定の席についたところで、「カカレ!」の号令が発せられた。烹炊員が配膳した食事に一斉にかかるわけである。食事時間中、人に迷惑をかけない程度の談笑は許された。食事がほぼ終わった頃合に、「ヒラケ!」の声がかかる。終わっている人は食卓を離れるのが許された。

 雨天の日、「ヒラケ!」の合図があった後も、三号が食事をしていると、上席の一号生徒から「三号!」と怒鳴られた。カッターの淦汲みはどうなっているのかを意味していた。そこで、飛び上がって食堂をかけだしてカッター岸壁に向かった。一、二回叱られると、要領が分かり、号令までには食事が終わっているようにした。教官もこんな体験をしているから、発令のタイミングには心くばりされていたようだ。

 その他にも、台風が近付けば荒天準備また定期点検に備えてのペンキ塗り等の作業を通して海の男に訓練された。

 号令練習

 海軍初級指揮官として号令による指示・伝達は必須である。この練習も日常の中に組み入れられていた。夜の自習時間の中休みに、練兵場で散歩しながら声を張り上げての練習をした。

「右向け右!」「前へ進め!」「気を付け!」「頭右!」など。

 全校生徒の声が夜空に響き渡るのである。多分、江田島の人々は、時計代わりにしていたに違いない。

 海軍体操 毎朝、起床後、分隊単位で、グランドの所定位置で、一号の号令で行っていた。四季を通して上半身裸体で体操をした。冬は寒くてしかたないので、乾布摩擦で皮膚を暖めて駆け足をしたあとで体操をしていた。

 挨 拶 教官、上級生に対する挨拶はきっちりと決まっていた。

 上級生は本来なら、生徒としての身分は同格であるから敬礼はしなくてもよいと言えないこともない。

 上級生に対しては歩いていれば歩きながら、走っていれば走りながら、その人に注目、挙手の敬礼であった。起床後、食事の時刻までで、それ以後は一切しなくてもよかった。

 躾教育

★スマート

 「スマートで目先が利いて几帳面、負けじ魂、これぞ船乗り」のモットーを叩き込まれた。スマートというのは、おしゃれをしろとか身を飾れというのでない。頭のひらめき、すなわち頭の回転が早いということと、身のこなし方すなわち動作が敏捷であることである。目先が利くということも、船乗りにとっては大切なことである。目先が利くといっても、人を出し抜いて、うまく立ち回れというのでない。常に先のことを考え、手順よく、事を運べというのである。

 「目先が利く」と、「一を聞いたら十を知れ」はなにか共通したものを感じる。

 几帳面は言うまでもなかろう。

 最後に負けじ魂 どんな目にあってもへこたれない精神、この不屈のファイティング・スピリットこそ、船乗り精神であり、江田島教育のなかで養われるものである。

★敷居を踏むな 芝生の端を踏むな 手摺に凭れるな

 入校当初、厳しくしつけられる。自習室出入り口の敷居、練兵場の芝生の境界を踏むな。生徒館屋上の手摺にもたれるな。

 軍艦は多くの部屋から構成されている。戦闘に入れば、全部の部屋は密閉することになる。被弾破損しても、その部屋だけですむように設計されている。扉を閉じても敷居が摩滅していればどうなるか明らかである。

 こんな躾も、一度言われると二度とは言われない。その場で覚えなければならない。その上、なぜ、そうしなければならないかの理由説明はほとんどなかった。身につけておけばよい。実戦で必ず役立つ。そのときに気付けばよいと言うところか。こんなことも海兵教育の特徴。

★つり銭はとるな 生徒館内の散髪屋での支払いのマナーである。

 床屋 ある日の訓練終了後、床屋(正式には理髪所)にいった。床屋は西生徒館(第一生徒館)の一階東北端にあり、五〇七分隊自習室から東に出て北に向かった近いところにあった。理髪は課業時間以外はいついってもいいことになっていた。

 「はい、おつぎ」

 おじさん(海軍では理髪師を剃夫と称していた)の声で理髪台にいって坐ると、とたにバリカンが後頭部から額につっぱしり、六、七回くり返されると、もう終わりだった。

 つぎに、たっぷり石鹸水をふくんだ刷毛が、顔中をぐるぐる撫でたかと思うと、剃刀が鼻の下を二回、顎のまわりを四回,両頬を一回ずつさっとかすり、<はい、終り>となった。

 その間二分三十秒。起床動作とおなじだった。目の前に洗髪台があり、自分で石鹸を頭につけて洗い、持ってきた自前のタオルで顔と頭を拭いた。(*私は記憶していない)。

トラ刈ではなく、平均したイガ栗頭になっていた。

 料金は十銭で、入口脇の料金箱に十銭玉を入れればよかった。丁度の金を持っておればそれを支払い、大きいお金しか持っていない場合はそのお金を入れて、おつりはとってはいけないことが躾であった。(つり銭はとるな 生徒館内の散髪屋での支払いのマナーである。)

 すべて文句のつけようはなかったが、ただ一つ、短い毛が襟首や背中に入りこんで、ちくちくするのが欠点だと思った。

参考: 海軍兵学校はイギリスを見本にしているといわれている。そのイギリスに留学していた池田潔氏の著作『自由と規律』に理髪店での体験がある。学校のマナ-教育に類似したものがある。

 学校の特約理髪店は小さな質素な店でよく満員だった。町には学校の特約でないが、もつと静かで設備のよい店があった。リースに入学して間もなく、急いでいたのでつい 悪いと知りつつ、校帽を懐に納れてその店に入ったことがある。いい心持で半分刈上げさせて、ふと鏡に写った隣の客の顔を見た。途端にそれに並んだ黄黒い方の顔が土管色 に変った。胸算用で、やがて申し渡されることを覚悟した罰の量を当たってみる。

 まだ貴方には紹介されたことがないのに、突然、話しかけて失礼だが……。私が校長 を勤めている学校に、やはり貴方と同じ日本人の学生がいてね。もし逢うような序でが あったら言伝てしてくれ給え。この店にはリースの学生は来ないことになっている、と。この店で髪を刈ることが悪いことなのではない。ただリースの学生のゆく床屋は別に 決まっていて、リースの学生は皆そこに行くことになっている。あの日本人の学生は入 学したてで、まだそれを知らないらしい。何?知っていた?君は知っていたかも知れないが、あの学生は知らなかったに決まっている。知っていたら規則を破るようなことはしないだろうから。

 悄然として立ち去ろうとする後ろから、小声で、ここは大人の来る店だから心付けが要る。これをわたしておき給え。何?自分で払う?一週間分のお小遣いではないか。そして突然大きな声で、子供はそんな無駄費いをするものじゃない。

 その後、大学生になっても大学を卒業してからも、その店だけには行けなかった。大人になれば心付けは他の店だって払うのである。ただ、何となくその店にゆくことがリースの校長先生に相済まない気がしたからなのである。池田潔『自由と規律』(岩波新書)

 落とし物 校内の何処に物を落としても、その日の夕方には手もとに返ってきた。どんな持ち物にも名前を書いていたのはいうまでもないが、落としたものが必ず返ってくるのは信じられないくらいであった。

 命令の聞き方 上級生が下級生に大事なことを口頭で伝達する場合

 「聴け!二度と言わない。〇〇生徒は至急〇〇〇分隊に集まれ。終わり!」といった調子で、一度しか言わない。もし、戦闘中、命令を聞き損じたり、間違って聞いたりすればどうなるか。平素からの訓練がすべて実戦を想定したものであった。

 姿 見

 生徒館の廊下のつきあたりに全身が写る姿見の鏡が取り付けられていた。生徒はその前で服装を正し、海軍式の敬礼の練習をした。日曜日、外出点検のまえには特に念入りに鏡に写して塵ひとつ付いていないように注意した。外出点検は厳しくチェックされた。服の塵ばかりでなくて例えば靴の踵に泥がついているのも指摘されたほどであった。

 中国、天津市内にある故周恩来の記念館の入り口に姿見の鏡があるそうである。

 その上に珍しい文字が掲示されている。

 面必浄 (顔を必ず浄くしなさい)

 髪必理 (髪を必ずきちんとしなさい)

 衣必整 (衣を必ず整えなさい)

 紐必結 (紐を必ず結びなさい)

 頭容正 (頭を正しく保ちなさい)

 肩容正 (肩を平らかに保ちなさい)

 胸容寛 (胸を寛やかに保ちなさい)

 背容直 (背をまっすぐに保ちなさい)

 気象

  勿傲 (傲ってはいけない)

    勿暴 (暴れてはいけない)

  勿怠 (怠ってはいけない)

 顔色  (顔色のありかたについて)

  宣和 (宣しく和やかに保ちなさい)

  宣静 (宣しく静かに保ちなさい)

  宣荘 (宣しく元気よく保ちなさい)

                 上村嵐『如何に怒濤は逆まくも』(ダイヤモンド社)

★日曜日の外出について触れておこう。

 決められていた倶楽部に行く。教官の官舎を訪問する。古鷹山に登るなどして日曜日の外出を楽しんでいた。倶楽部について、毎日グラフ別冊 あゝ江田島 THE MAINICHI GRAPHIC 8/1 1969 を紹介する。写真はは文中の静枝さんが戦後の自衛隊の隊員に開放されていた時のものである。

 おばさん倶楽部

 海軍兵学校の名物にクラブというのがあった。休日に生徒が集まり青畳のうえでゴロゴロする民家のことだが、そこの主婦は若くても老婆でも「オバさん」とよばれた。いま自衛隊正面近くにいる橋中静枝さん(74)は昭和のはじめから、そのクラブをやっていた。戦後は占領軍二世に部屋を開放したこともあるが、いまはまた自衛隊第一術科学校の少年兵のクラブをやっている。「私の自慢は昭和八年の卒業生で開校以来の秀才をお世話したことです」というが、その秀才平柳育郎は全科百点だったという。「それが太平洋戦争で戦死され……お母さんは頭がおかしくなられたそうです」とうい静枝さんは、目をしばたかせる。「東郷さんのお孫さんもこられましたが、こちらはあまりデキになられませんだ」ともいうのだが、いまも”かつての生徒さん”がたずねてくるそうだ。それがまた楽しみなのだろうが、彼女の長男も兵学校を出ていた。

▼母親と面会:「面会ハ特別ノ理由アルトキヲ除キ許可セズ特別ノ理由アルトキハ来校前豫メ分隊監事ノ許可ヲ要スル付御了承相成度」と規程があった。昭和20年6月のある日曜日、母親が面会に来た。機関科特務士官(知人?)の官舎に来て、私もそこに行って面会。牡丹餅を持参していた。

★従道小学校

 海軍兵学校在職員等の子息が通う学校として明治23年から昭和20年まで構内に設立された小学校で、校名は西郷隆盛の弟で明治時代に海軍大臣となり、海軍初の元帥になった西郷従道のな前から命名されました。教育参考館に、当時の校章等が保存されております。

説明:近所に在住の佐藤さんも学んだ生徒であったとのこと。お婆さんが医師であったそうだ。

★鉄拳制裁

 鉄拳制裁は、今では死語になっていると思う。

 江田島では、拳骨で殴られた。旧制中学でも、時々、上級生から殴られた。兵学校ほどではなかった。

 「本日、中央便所で、敷石に小便を漏らしたものは、自習の中休み時間に第〇〇〇分隊前に集合」と達示があり、集合すると、あれこれと説教されて、鉄拳を食らうといったこともあった。

 私の体験では、三号時代、木曜日になると、自習時間の始まる前、分隊の自習室に、一号生徒から集合を命じられた。

 「この一週間、貴様たち三号の態度を見るに、だらだらして見てはおれない。いまから気合を入れる。全員、股を開け! 掌を握れ! 歯を食いしばれ!」と怒鳴られた。

  一号生徒・七人が順次、往復ビンタをくらわす。総計十四ぱつになる。

 殴る方も、拳を固めて頬を殴る。いわゆる拳骨である。平手で張り飛ばすことは決してしなかった。間違って耳に当たっても、鼓膜を破らないとの配慮があったと聞いている。しかし、口内の皮膚がきれたこともあり、味噌汁がしみることもあった。

 江田島での鉄拳はどんな意味があったのか。

 豊田穣著『江田島教育』(新人物往来社)の中で二通りの意味に解している。

 第一は、もっとも普通の意味で、<今後、このような生徒館の規則に違反しないように>と教えさとすものである。

 第二は、これが根本的であるが、海軍将校たるもの、常に鉄拳の嵐にたえて己を強靱な人間に仕立てあげるべきだという考え方である。

 阿川弘之『軍艦長門の生涯(中)』(新潮文庫)P.263 によると、

 同じ海軍兵学校でも、クラスによって空気がずいぶんちがう。六十四期は、鉄拳制裁を知らずに育った紳士クラスで、概しておとなしい。それは六十四期が四号生徒の時、六十一期が一号で、鉄拳廃止という思い切った改革を試みたためであった。

 その反動で、六十二期が一号になると、

「あれで教育改革をやったつもりかも知らんが、なぐられずに育った奴はどうもどろくさい。俺たちは鉄拳制裁を復活する」と、新しく入って来た六十五期の四号生徒を、さんざんにしぼり上げた。そのため、全体的に気性が荒っぽくなっていた、と書かれている。

 私が二号生徒のときの一〇一分隊の三号生徒は分隊自習室で鉄拳制裁されているのをみたことがなかった。一〇一分隊が殿下分隊だったからであろう。

 いま、私が思うには、肉体的に厳しい訓練の中で、時々、気合を入れなければ肉体もまいって病気になるものが出たのではないかと。殴られると、精神に緊張が与えられて、その後の訓練に耐えたのではないかと。

 現在の防衛大学では鉄拳制裁は禁止されているとのことだ。

★船乗り三つの精神

 兵学校で強調されていたものの中に、船乗り三つの精神がある。

 五分前の精神、宜候(よーそろ)の精神、出船の精神である。

 一 五分前の精神

 (一)五分前に集合、物心両面にわたり事前の準備をする。

 (二)定刻になればただちに全力を発揮できるようにする。定刻発動。

 (三)常日頃から時間を厳守する習慣をつくる。

 発動五分前に所定の場所に集合して、忘れ物はないか、身の回りを反省して、よかったら心静かに待機する。所定の時刻になれば、元気いっぱい与えられた課業に全力集中して成果をあげるように努力する。

 二 宜候の精神 船乗りの用語である。海軍でも使われていた。宜候の意味は、定められた針路を正しく進めということである。

 広辞苑では<取舵(とりかじ)・面舵(おもかじ)の必要なく、真直に進めという場合の命令語>と説明している。

 人が道を歩くのは比較的容易だが、艦船を操縦するのはそんなに簡単ではない。潮流の方向・強さがあり、加えて風向・風速・風量の影響がある。

 そのため艦船の方向は右や左に振れたりしている。操舵員はいつも精神を集中して細心の注意を払い油断なく操作しなければならない。

 宜候の精神は、目の前のいろいろな出来事にまどわされず、目標に達するまでは右にも左にも偏らない正しい道を進めということをおしえたものである。

 三 出船の精神 長い航海をして、母港に帰れば、船乗りは一刻も早く上陸したいものである。そこで針路そのままで入港して、繋留すれば、作業も簡単で時間も少なくて済むので上陸も早くなり、乗員が喜ぶのはわかりきっている。だから船長もそのようにしたいのだが、決してそうはしない。入ったままの状態ー入舟というーにしておくと、次の出港のとき苦労する。また、なんどきに、緊急避難の事態が発生しないとも限らないから備えておかなければならぬ。

 そこで、乗員がいかに疲れて、面倒くさくても、また早く上陸したくても、船を反転、後進させて繋留する。この状態を<出船>という。狭い港の海面で、前進、後進を繰り返して船首を回すのであるから、なかなか難しく時間もかかる。波風があればなおさらである。しかし敢えてこれをするのが出船の精神である。

★リーダーシップ訓練

 人を動かす方法 

 言い訳をするな! 朝食の前、校内を駆け足で走っていると、

  「待て!」と一号生徒からよびとめられることがある。とめられた生徒は、その位置で不動の姿勢をとり、前方を直視していなければならない。

 一号生徒が目の前に来て

 「貴様は敬礼をしないで通り過ぎた。以後注意しろ!」

 「真直ぐ前方を見て走っていましたので、上級生の姿が目に入りませんでした」と言うと「言い訳をするな!」と怒鳴られ、時には、殴られた。

 一事が万事!! 上級生から注意されるときは決して言い訳をしないことを身をもって体験させられた。どんな場合でも、間違った事をして、重大なマイナス結果が起きれば、言い訳をして取り戻せるものでない。

 <やってみせ><いつてきかせ><させてみて>の手順で上級生から指導、教員から訓練を受けた。

 山本五十六海軍大将の言葉に

 「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かぬ」がある。

 一 やってみせ模範をしめしてやることである。実力がなければ立派な模範を示すことは出来ない。つねひごろから実力を身につけておくことである。でないと「やってみせ」というぐあいにゆかないのである。

 二 言って説明することである。説明は相手が分かってくれなければなにもならない。何事もわかりやすく、相手によく理解できるように説明することである。

 三 聞かせて聞かせることは、相手になっ得させることである。そのためには一回だけでなく、繰り返し説明することが必要である。

 四 させてみて実際に体験させることである。頭でよくわかっていても、やってみるとなかなか思うとうりにいかないことが多い。やはり、理論だけでなくて、自分の手足を使ってやることが大切である。

 五 ほめてやらねば やったことに対して、良い悪いと評価してやることである。よくできたときはほめてやらねばならない。ほめることはなかなか指導者はしないものである。悪い場合は、もう一度、説明して悪い点を直し、励ましてやることが必要である。やらせておいて何も言ってやらないと、張り合いがないばかりでなく、やる気をなくさせることにもなる。

 リダーシップ(L.S.)について松永市郎氏は次のように定義している。

 L.S.=A(知 力・体 力・人 格)ーB(言い訳・泣きごと・不 平)

 AのプラスもあるがBのマイナスをへらすこと

 Aの知力、体力、人格が重要なことは何人も反対する理由はない。しかし、これらは天性的なものもあり、後天的に磨くとしても生涯の課題として取り組まなければならない問題である。

 Bの項目は自分で実行しようと思えば今直ぐにでも出来るものである。

 Aが十点の人でも、言い訳が多く、泣き言、不平も言い五点であるとすれば、この人は総合点は五点である。一方、Aは六点しかないがBの項目が完全に守られている人は総合点は六点であり、前者よりリーダーシップを備えた人であるといえる。

★五 省

 一 至誠に悖(もと)るなかりしか

 一 言行に恥ずるなかりしか

 一 気力に欠くるなかりしか

 一 努力に憾(うら)みなかりしか

 一 ぶ精に亘るなかりしか

 一日の日課の反省の言葉として自習時間の終わる五分前、二十一時二十五分に、その日の当番一号生徒が五省を一項目ずつ、約十五秒間隔で唱えていつた。分隊総員瞑想、深く反省した。五省が終わって、「課業止め」のラッパが鳴り終わると、寝室に上がった。

★参考:「五省」は戦後英訳され、今はアメリカのアナポリス海軍兵学校の学生が毎日斉唱しているという。戦後日本は多くのものを米英から学んだが、逆に米英が日本から学んだものは決して多くはなかっただろう。その少数の一つがこの<五省>だった。
 <五省>の英訳文は次のとおりである。
 
1. Hast thou not gone against sincerity
1. Hast thou not felt ashamed of thy words and deeds
1. Hast thou not lacked vigor
1. Hast thou exerted all possibile efforts
1. Hast thou not become slothful
*山口 透『甦る江田島教育』(高文堂出版社)P20,P.45

土曜日大掃除

 三号にとって、短艇橈漕と同じように苦しいのが、土曜日午後の大掃除のときのソーフであった。ソーフというのはスパニヤン(spun yarn)を直径十センチぐらいに束ねた木甲板拭き用のものと、古靴下を束ね帆布でくるんだリノリューム甲板拭き用のものがあった。

 寝室は木甲板なので、甲板に水を撒き、三号たちがスパニヤン・ソーフでそこをごしごしこすって、汚れを落とすのだ。

 自習室はリノリューム甲板で、甲板にワックスをまき、三号たちが靴下ソーフでその上をごしごしこすって磨く。

 こう書いただけでは、べつにどういうことはないようだが、ところがこれがたいへんなことだった。甲板のこすり方は寝室、自習室ともおなじで、こういうものであった。

 まず、事業服の上着を脱ぎ、下着の袖とズボンをまくって裸足になり、ソーフを持って、相撲のように蹲踞する。

 つぎに、ソーフを両手で鷲づかみにつかんで、前方の床につける。ついで左足を左前方に出し、ソーフをおなじく左前方に力を入れてこすりながら、右膝を曲げる。これを繰返す。ちょっと蟇のタテ歩きみたいな恰好だ。

 「三号ソーフ用意!」

 三号とおなじ姿になった当番一号の号令がかかると、三号六、七人が横一列に並び、しゃがんで、両手で持ったソーフを甲板につける。

 「まわれーっ」

 三号は一斉に、左に右にソーフで甲板をこすりながら前へ進む。

 「佐藤は腰が高い、黒崎は力を入れろっ」

 一号のきびしい声がとぶ。

 「まわれーっ」

 三号は一斉にまわれ右をして、いま来た方向へ進んでゆく。

 当番一号は、寝室では三号たちの前方にオスタップ(wash tab 洗濯盥)から水を撒き、自習室では手にぶら下げた缶からワックスをベタベタ甲板に撒く。そうしないと、ソーフが甲板をすべらず、三号たちはひどく苦労する。中には意地悪く、水やワックスをあまり撒かず、三号を苦しい思いをさせる一号もいる。

 一号の「まわれ、まわれ」が三十回ぐらいならいいが、四十回、五十回ともなると、脚も腕も硬直して動かなくなり、脂汗ばかりが出てくる。たいていの一号は、ころあいを見て、

 「ソーフ止めー、立てーっ」の号令をかける。

 だいたい兵学校の大掃除は、自習室、寝室をきれいに磨き上げようというのではなくて、ソーフで三号たちに苦痛を与え、それに堪えさせようというのが、目的のようになっていたようだ。

 それも、あるていどはいいだろうが、必要以上に苦痛をあらえ、それが三号たちの将来にプラスになったかというと、むしろマイナスだったようだ。

説明:多くの記述は生出寿著『海軍兵学校 よもやま物語』(徳間文庫)による。

棒倒し

 兵学校名物棒倒しは毎週土曜日午後、大掃除後、校庭で行われる部対抗の行事である。数個分隊が集まって1部を形成する。私の3号時代は、江田島本校は10部、全校で3800人であった。各部奇数分隊と偶数分隊に分けて、20個のグループになっていた。一つのグループは190人であり。その半数が攻撃隊・防御隊に分かれる。従ってそれぞれ90人であった。

 紅白両軍それぞれ190人は、約100メートルへだてて対峙した。両軍とも、約半数ずつの攻撃隊と防御隊に分かれている。

 防御隊は、高さ二メートル半、直径十五センチの丸棒を中心に、そのまわりを幾重かのスクラムを組んでかため、その肩の上に一号たちが乗って、敵の攻撃隊と闘う陣形をとっていた。

 棒の頂上に、紅軍は赤、白軍は白の旗を立てている。棒の根元には、二人の頑丈な生徒が枯芝の地面にあぐらをかいて、棒をささえている。

 防御陣の前方には、一号の防御指揮官を先頭にした十数人の遊撃隊が、二列になって身がま、敵の攻撃隊を蹴ちらそうとしている。

 一方、攻撃隊は、防御陣の左翼に位置し、一号の攻撃隊指揮官を先頭にして、敵陣へ殴りこむ姿勢をとっていた。

 白軍は襟に紺の太い緑どりがある棒倒し服を着ており、紅軍はそれを裏がえしに着ていて襟まわりが白く、敵味方の識別は一目瞭然であった。

 棒倒しにおいては、突撃開始のときに全軍が、「わーっ」という鬨の声をいちどあげたあとは、いっさい声を出さずに戦えとされていた。そのかわり、相手が上級生であろうと何であろうと、急所に対する攻撃以外は殴る蹴るは勝手だった。

 「戦闘用意」のラッパが鳴り、両軍は緊張した。つづいて「撃ち方始め」のラッパが鳴りわたり、紅白両はいっせいに、「わーっ」と鬨の声をあげ、各攻撃隊は敵陣めがけて、全速力で突っこんでいった。

 攻撃隊指揮官が敵の防御隊指揮官と殴り合ううちに、攻撃隊の二号たちは敵の遊撃隊の間を縫って突入し、先頭は敵のスクラムのなかに頭を突っこみ、そのあとにつぎつぎにくっつき、一号たちが自分らの背中を踏み越え、棒に殺到していくための踏み台をつくった。

 その上を一号たちはどかどか走って、敵の中枢に突っこみ、両軍入り乱れて、押す、頭突きする、殴る、蹴る、突き落とす、潜りこむなどの乱闘をくりひろげた。

 やがて、紅軍の旗に白軍の一号が取りついてゆさぶり、赤旗が傾きはじめ、六十度ぐらい落ちたとき、「待てー」のラッパが鳴りひびいた。つづいて当直監事が、「元の位置につけ」を命じ、両軍の攻撃隊は自軍の位置にもどり、防御隊は陣形をといた。

 「ただいまの勝負、二分三十六秒、第〇部の勝ち」

 当直監事が判定を申し渡すと、白軍の攻撃隊指揮官は、「イーチ・ニーッ・サン」とさけび、白軍全員がそれにつづいて両手を挙げ、「バンザーイ」と、高らかに勝鬨の声をあげた。

 審判官の脇には看護兵が酸素吸入器や簡単な治療用具を用意して待機しているが、鼻血が出たぐらいでは誰もその世話にはならない。棒倒し競技の際、生徒が着ているのは棒倒服と称する専用の服である。厚手の木綿で出来ていてボタンも襟もなく容易に破れない。

 その後われわれも、何回か棒倒しをやり、棒倒しの練習もやった。

 私黒崎は防御隊のスクラムの真正面で、両隣の生徒と腕を組み合わせて待ち構えていた。攻撃隊が頭を突んできたとき、一瞬気をうしなった。正気になつて、唾を吐き出すと血が混じっていた。その後、問題はなかったことがある。

※余話:吉田 満『鎮魂戦艦大和』(新潮社)祖国と敵国の間 P.107~290 読み始める。

 大田孝一:1921(大正10年生)カルフォルニア州で果樹園を営む大田家の長男。

 カルフォルニア大学一年から慶應大学に留学。

 学徒出陣(1943年)により海軍に招集。暗号士の即成教育を受ける。

 海軍少尉に任官後、戦艦大和に乗組み沖縄特攻作戦に参加して二十四歳の短い生涯。

 父大田令三は広島県佐伯郡宮内(今は廿日市町に合併)の出身。明治時代、十八歳でアメリカに渡る。

 母節子は能美島大柿出身

 九里浜の通信学校での大田の棒倒しの記載がある。P.178

 およそ体技課目の不得手な大田にとって、棒倒しだけは例外で、防御陣のカナメになった時の執拗な頑張りは、同輩たちの注目をひいた。小粒な彼は、棒の付け根に対坐して身をもって芯を支える二名の代表選手に選ばれることはなかったが、それを取り巻くスクラムの垣根に組みこまれたら、どんなに踏みつけられて下敷きにされても、腕を離そうとはしなかった。

軍歌演習

 日曜日の夕方、18:00、全校生徒は練兵場で軍歌演習のため、二重の同心円の隊列をつくった。18:05、軍歌演習開始のラッパが鳴り、台上の生徒隊週番生徒が、

 「右向けー、右」と号令をかけけると、外円は右、内円は左を向いた。

 「軍歌演習第三ページ、艦船勤務。前へー、進めー」

 全員、左手の手帳ほどの軍歌集を前方肩の高さまで突き出し、声を張り上げて歌い、行進しはじめた。

 〽四面海なる帝国を 守る海軍軍人は 戦時 平時の別(わか)ちなく 勇み励みて勉(つと)むべし

 如何なる堅艦快艇も 人の力に依(よ)りてこそ その精鋭を保ちつつ 強敵風波に当た得れ

 ときどき、一号たちから、「三号、元気がなーい」「声が小さーい」「元気を出せーっ」という声がかかった。

 つづいて、「如何に狂」「軍艦マーチ」を歌い、最後に「江田島健児の歌」を歌って終わった。

※<江田島健児の歌>

大正八年兵学校創立五〇周年記念 第五〇期生徒 神代 盛男 作歌 海軍軍楽少尉 斉藤 満吉作曲

一、 澎湃寄(ほうはいよ)する海原(うなばら)
    大濤砕(おおなみくだ)()るところ
    常盤(ときわ)の松の翠濃(みどりこ)
    秀麗(しゅうれい)国秋津洲(くにあきつしま)
    有史悠々数千載(ゆうしゆゆすうせんざい)
    皇謀仰(こうぼあお)げば弥高(いややか)

二、 玲瓏聳(れいろうそび)ゆる東海(とうかい)
    芙蓉(ふよう)(みね)(あお)ぎては   
    神州男子(しんしゅうだんじ)熱血(ねっけつ)
    わが胸更(むねさら)(おど)るかな
    あゝ光栄(こうえい)国柱(くにばしら)
    (まも)らで()まじ身を()てゝ

三、 古鷹山下水清(ふるたかさんかみずきよ)古鷹山下水清く
    松風(まつかぜ)の音()ゆる時
    明けはなれゆく能美島(のみじま)
    (かげ)紫にかすむ時
    進取尚武(しょうぶ)の旗()げて
    送り迎へん四つの年

四、 短艇(たんてい)海に浮べては
    鉄腕櫂(てつわんかい)(たわ)むかな
    鉄剣(てつけん)とりて(おり)りたてば
    軍容粛々(しゅくしゅく)声をなし
    いざ蓋世(がいせい)の気を()いて
    不抜(ふばつ)の意気を(きた)はばや 

五、 見よ西欧(せいおう)に咲き(かほこ)
    文化の(かげ)(うれい)あり
    太平洋を(かえり)みよ
    東亜の空に雲暗し
    今にして我(つと)めずば
    護国(ごこく)(にん)(だれ)()

六、 嗚呼江田島(あ丶)健男児(けんだんじ)
    機到(ときいた)りなば雲()びて
    漢字(かんじ)天翔け行かん蛟竜(こうりゅう)
    ()(ひそ)むにも()たるかな
    (たお)れて(のち)()まんとは
    我真心(わがまごころ)(さけ)びなれ

★兎狩り

 昭和20年1月下旬、広島県廿日市市地御前(ジゴゼン)の丘陵地帯で兎狩りが行われた。生憎の雨。雨合羽を着用して、上陸用舟艇に乗り込んで現地に向かった。現地で、犬かわりの勢子隊になり仕掛けていた網に追い込むように丘のみねに向かって登った。何と獲物は兎0羽。昼食は兎ならぬ、ブタ汁。冷えた体が暖まった。その後、江田島に帰った。

★巡 航

 昭和20年初夏:二号生徒の時(短艇係補佐であった)、土曜日の夕食後、翌日曜日の朝食の準備をして、カッターに乗り込む。一号生徒と二号生徒であった。江田島湾内では橈漕、湾を出て帆走。

 巡航などでカッターが赤道(江田湾の江田島と能美島との中間辺りを兵学校で赤道と称しました)を越えると一種の無礼講?でよく歌ったのが、巡航節でした。作詞、作曲者不明ということになっています。

*巡 航 節 〽あの鼻まわれば 生徒館が見えるヨー 赤い煉瓦にゃヨー 鬼が住むヨー

 江田島湾外の幸ノ浦の砂浜に停泊。翌朝、生徒館に帰った。一度の巡航であったが、兵学校での楽しみの一つだった。

★軍事教育 

1、砲術科教育:教員による、15cm機関砲の構造の説明。

2、運用科結索教育:教員による、もやい結び等。試験もあった。

3、陸戦訓練。能美島の丘で夕方から翌朝までの夜間訓練。一晩中、三八式小銃をもって、駈けづりまわっての訓練であった。

 教科書による教育はなかった。海軍の学校での軍事教育が中学校でのそれと大差なかった。 

4、小銃、拳銃射撃訓練。

 小銃訓練は兵学校の裏山にあった300メートルの射撃場で行われた。三八式小銃に実弾をこめて標的にむかって、伏せ撃ちの射撃。300メートㇽ前方の的とのあいだの丘陵に着弾して砂埃があがる。なかなか標的には当たらなかった。生徒の期間中一回だけであった。

 拳銃射撃訓練は30メートルの標的に向って行う。立った姿勢で両手をのばし、肩の力を抜いて、引き金を握りしめるようにして発射。意外にも、射撃の瞬間の反動で銃口が上にもちあがり弾丸は上方へ。小銃と同じくなかなか標的にはあたらなかった。一度や二度の練習ではものにならない。小銃訓練と同じく、生徒の期間中一回だけだった。

※2022.07.08(金):安べ元首相が拳銃で撃たれて死亡した日、記載。

※参考:水上特攻の悲劇たどる 広島県江田島の奥本さん出版

 旧陸軍海上挺進戦隊と旧海軍震洋特別攻撃隊についてまとめた「陸海軍水上特攻部隊全史」を出版した。

 海上挺進戦隊は陸軍船舶特別幹部候補生の少年たちで構成し「マㇽㇾ」と呼ばれた「四式連絡艇」に乗り込んだ。震洋特別攻撃隊は海軍予科練習生たちで構成し、震洋と名付けたボートで敵に突っ込んでいった。それぞれの全部隊史や訓練風景の写真、図面を掲載した。

 海上挺進戦隊は、原爆投下後の広島で被爆者の救護もした。訓練基地があった江田島市江田島町幸ノ浦には慰霊碑が残っている。2020.11.13(金)NHKテレビの紹介で知った。


 昭和二十年七月二十八日(土)

 重巡洋艦利根着底・軽巡洋艦大淀横転擱座

 昭和二十年七月二十八日、朝から夏空の快晴。九時か十時頃、空襲警報が発令された。米軍の飛行機が江田島湾に碇泊中の巡洋艦を来襲攻撃したのである。

 この軍艦は五月頃から江田島湾に回航して、甲板には松の木などで偽装されていた。私たち生徒には何故碇泊したままであるのかは知らされるはずはなかった。

 私たち分隊の指定の防空壕は西生徒館裏の御殿山に掘られた横穴であつた。当日、丁度、西生徒館にいたのでアメリカの飛行機の攻撃がどの程度か見たいと思い、生徒館前の練兵場の境に構築されていた二十人余り収容できる地下壕に向かって百メートルばかり走っていった。到着寸前に、低空飛来した攻撃機から機銃掃射された。走っていた方向にそのまま顔を下にして倒れた。一・五メートル間隔に打ち込まれた機銃弾が地面で砂埃を上げた。巡洋艦に向かって飛び去ると直ぐに立ち上がり、まさに命からがら防空壕に飛び込んだ。壕内にいたのは一号が大部分であり、その人たちは攻撃機に関心を持つていたので入り口近くに出ては観察していた。

 この時の攻撃で重巡洋艦利根着底・軽巡洋艦大淀横転擱座してしまった。敵機の襲撃が終わり、午後には同艦の負傷者が兵学校に収容された。

 戦時下、中学校では軍事教練を受け、学徒動員として勤労奉仕・海軍工敝での生産活動を通して私たちは戦争に参加していた。また従兄弟が戦死もしていた。兵学校では将来の海軍将校の教育を受けていたので、戦争の意識はないとはいえなかったが戦場を目の前にしたのはこれが初めてであった。

★参考:軽巡洋艦「大淀」 昭和20年3月の空襲で穴だらけになり応急修理のうえ江田島の兵学校沖に避難したが ここでまた空襲をうけ ついに横転してしまった 比島沖海戦の前後聯合艦隊旗艦となったこともある 戦後ひきあげられ呉のドックで解体スクラップとされた

 重巡洋艦「利根」海外から”海の狼”とよばれたシリーズの1艦だが昭和20年春 燃料がなく動けなくなったところをネライ撃ちされ 呉軍港からさらに江田内へ避難したが これまた空襲をうけ大破着底してしまった 着底後もまだ同艦は対空砲火を撃ちつづけたという

記載本:毎日グラフ別冊 ああ江田島 第十年第六号 1970/3/20


 昭和ニ十年八月六日(月)のことである。午前八時六分。

 原子爆弾

 ピカツ、ドン、ガタガタ、震動する窓ガラス。一瞬、火薬庫の爆発だ、安全地帯に逃げなくてはと思った。西生徒館内の湯飲み場からカッターを吊り上げているダビットのある海岸線に向かって飛び出した。

 北の方向、江田島の古鷹山の裏側の秋月には火薬庫があつた。そのあたりの空を見た。それらしい形跡はなかった。西のほうに目を向けると、広島市の中空あたりに浮かぶキノコ状の雲が私の目の中に焼きついた。

 二十年八月六日。朝から好天気であった。平面測量実習で海岸線を実測していた。夏の陽射しにあてられたので、お茶を飲んでいたその時であった。

 当日の課業が終わり、夕方、機関科の関教官が私たち分隊全員を集めて訓示があった。「広島に投下された爆弾は新型である。あの程度のものは、日本でもすでに作られている。硫黄島で実験済みである(三月十七日、守備隊全滅)。心配することはない。訓練に励むこと…」。

 それからは、空襲が発令されると、防毒マスクのほかに風呂敷大の白布を持って防空壕に避難することになった。

 新型爆弾の当時の朝日新聞の記事などを拾うと

 八月八日

 大本営発表(八月七日十五時三十分)

 一 昨八月六日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり

 二 敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり

 八月十日

 屋外防空壕に入れ 新型爆弾に勝つ途

 八月十四日

 新型爆弾は原子爆弾と発表(『近代日本総合年表』)

 八月十五日

 戦争終結の大詔渙発される。科学史上未曾有の惨虐なる効力を有する原子爆弾

 詔書には「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ…。」と書かれている。

 昭和六十年ころの私の感想。

 新型爆弾は原子爆弾といわれるようになり、核の問題は八月六日を原点として始まった。 ハイテクノロジー時代に入り、エレクトロニクス、機能性高分子、バイオテクノロジーなどの技術開発が進んでいる。このなかでバイオテクノロジーについて考えてみたい。植物の品質改良、醗酵技術分野に活用されるのは人間生活を豊かにするためにも歓迎されることである。医学分野で病気治療に応用されるのも意味がある。しかし遺伝子による生命操作とか現在では測り知ることが出来ないことに利用されるとどんなことになるのか。新型爆弾が原子爆弾になり、使用された時には考えられなかった悲劇を人類に与えている。バイオテクノロジーの技術の開発応用がこんな展開にならないようにと原子爆弾のキノコ雲の異形の思い出と結びつく。

 終戦の僅か二週間前であった。

 八月六日(月)広島原爆投下、八月十五日(水)終戦へと急展開した。

 八月九日(木)長崎原爆投下(午前十一時二分)。

 終 戦

 八月十五日の前日か前前日だった。

 授業中の国語の教授が

 「君たちは眠っているが近いうちに大変なことになる」と、言われた。何のことか分からないままに聞いていた。

 終戦の日、午前中は通常の日課の授業を受けた。

 正午に天皇の放送があるから分隊の自習室に集合するように伝達された。自習机に座り、姿勢を正して「玉音放送」を聞いた。分隊自習室のラーウド・スピーカからの放送は雑音で聞き取りにくかったので内容は理解できなかった。全員無言で、冷静そのもであった。海軍兵学校全体も静粛であった。

 しかし目に見える変化が現れた。午後からは課業はなかつた。一号生徒も囁きあっていた。翌日から教官の姿も目に入らなくなった。午前中は空襲に備えて解体していた木造生徒館の材木整理。夏の暑さが本当に身にしみ込むのを感じたものである。それまでは蝉の鳴き声にも勢いを感じていたが何となく寂しさを奏でているように思えた。午後は課業もなく、風呂に入ったりするようになった。一号生徒も下級生の指導は一切しなくなり、完全な虚脱状態としか言えない環境になった。

 数日経ってから岩国海軍航空隊の戦闘機?が飛来し、練兵場にビラを投下した。

「我々は終戦を認めない、決起して闘う」といつた内容の檄文であった。

 そこで校長か副校長であつたか全校生徒を集めて訓示をされた。

 「天皇陛下の命令にしたがって生徒諸君はあくまで冷静に行動して軽挙妄動してはいけない」といつた内容であった。


★参考1:元海軍教授の郷愁―源ない師匠講談―

★参考2:八月十五日、第二種軍装で玉音放送を聞いた時、つい先刻まで怒号に満ちていた生徒館は水を打ったように静まり返っていた。大日本帝国、帝国海軍の最後だった。通夜にも似て、兵学校生徒は悲痛な感懐に顔を歪ませていたが、軍記は厳しく保たれていた。第五航空隊司令長官、宇垣纏中将の沖縄特攻の電文が発せられた。岩国海軍航空隊の「月光」が江田島上空に飛来し、兵学校生徒の決起を促す伝単を撒いた。また、「八幡大菩薩」」「非理法権天」の幟を潜望鏡にまきつけた潜水艦が六隻、江田島湾に入り、示威航走を行った。先輩の士官がふり廻す日本刀が真夏の太陽にギラリと光った。

山口 透『甦る江田島教育』(高文堂出版社)P.106

黒崎記:「第五航空隊司令長官、宇垣纏中将の沖縄特攻の電文」については、当時の生徒が知るはずはなかった。

 『「八幡大菩薩」「非理法権天」の幟を潜望鏡にまきつけた潜水艦が六隻、江田島湾に入り、示威航走を行った。先輩の士官がふり廻す日本刀が真夏の太陽にギラリと光った。』は初めての記事である。著者は確認して記載しただろうと思うが。


 生徒同志、戦後処理の噂を囁きあった。私の記憶に残っている代表例は「イタリアの海軍兵学校生徒(存在していたのか現在でも知らない)は軍艦に乗せられて地中海の沖で轟沈させられた」といつたものであつた。それでは山の中に逃げて隠れよう、しかし長野(松本中学出身者:江上がいた)の山中に隠れても見付け出されるだろうとも話し合ったものである。

 何時のころからか生徒を帰す話が出始めた。早く家に帰りたいなどは考えもしなかった。どんな編成で帰すとか、交通手段に何を使うのか、例えば汽車で帰るとすれば何処から乗るのか、四国・九州にはカッターで帆走にするとか。呉市から僅かしか離れていない江田島であるが校外の状況は全く知らされていなかった。

 最終的には九月二十三日の校長訓示の後、外人部隊が進駐する前に、食糧として牛肉の缶詰少しばかりと事業服などを持って第一種軍装、短剣の正装で呉線の吉浦駅から満員列車で郷里に帰った。

 海軍兵学校長訓示

 百戦効空シク四年ニ亘ル大東亜戦争茲ニ終結ヲ告ゲ停戦ノ約成リテ帝国ハ軍備ヲ全廃スルノ止ム無キニ至リ海軍兵学校亦近ク閉校サレ全校生徒ハ来ル十月一日ヲ以テ差免ノコトニ決定セラレタリ

 諸子ハ時恰大東亜戦争中志ヲ立テ身ヲ挺シテ皇国護持ノ御楯タランコトヲ期シ選バレテ本校ニ入ルヤ厳格ナル校規ノ下加フルニ日夜ヲ分タザル敵ノ空襲下ニ在リテ克ク将校生徒タルノ本分ヲ自覚シ拮据精励一日モ早ク実戦場裡ニ特攻ノ華トシテ活躍センコトヲ希ヒタリ又本年三月ヨリ防空緊急諸作業開始セラルルヤ鐵槌ヲ振ルッテ堅巌ニ挑ミ或ハ物品ノ疎開ニ建造物ノ解毀作業ニ或ハ又簡易教室ノ建造ニ自活諸作業ニ酷暑ト闘ヒ労ヲ厭ハズ尽瘁之努メタリ然ルニ天運我ニ利非ズ今ヤ諸子ハ積年ノ宿望ヲ捨テ諸子ガ揺籃ノ地タリシ海軍兵学校ト永久ニ離別セザルベカラザルニ至レリ惜別ノ情何ゾ言フニ忍ビン又諸子ガ人生ノ第一歩ニ於テ目的変更ヲ余儀ナクセラレタルコト誠ニ気ノ毒ニ堪ヘズ

 然リト雖モ諸子ハ年歯尚若ク頑健ナル身体ト優秀ナル才能トヲ兼備シ加フルニ海軍兵学校ニ於テ体得シ得タル軍人精神ヲ有スルヲ以テ必ズヤ将来帝国ノ中堅トシテ有為ノ臣民ト為リ得ルコトヲ信ジテ疑ハザルナリ生徒差免ニ際シ海軍大臣ハ特ニ諸子ノ為ニ訓示セラルル処アリ又政府ハ諸子ノ為ニ門戸ヲ開放シテ進学ノ道ヲ拓キ就職ニ関シテモ一般軍人ト同様ニ其ノ特典ヲ与ヘラル兵学校亦監事タル教官ヲ各地ニ派遣シテ漏レナク諸子ニ対シ海軍ノ好意ヲ伝達セシムル次第ナリ

 惟フニ諸子ノ先途ニハ幾多ノ苦難ト障碍ト充満シアルベシ諸子克ク考ヘ克ク図リ将来ノ方針ヲ誤ルコトナク一旦決心セバ目的ノ完遂ニ勇往邁進セヨ忍苦ニ堪ヘズ中道ニシテ挫折スルガ如キハ男子ノ最モ恥辱トスル処ナリ大凡モノハ成ル時ニ成ルニ非ズシテ其ノ因タルヤ遠ク且微ナリ諸子ノ苦難ニ対スル敢闘ハヤガテ帝国興隆ノ光明トナラン終戦ニ際シ下シ賜ヘル 詔勅ノ御主旨ヲ体シ海軍大臣ノ訓示ヲ守リ海軍兵学校生徒タリシ誇ヲ忘レズ忠良ナル臣民トシテ有終ノ美ヲ濟サンコトヲ希望シテ止マズ

 茲ニ相別ルルニ際シ言ハント欲スルコト多キモ又言フヲ得ズ唯々諸子ノ健康ト奮闘トヲ祈ル

  昭和二十年九月二十三日

             海軍兵学校長  栗田健男

 海軍兵学校練兵場の千代田艦橋前に生徒全体が集合しての訓示であった。

 「日本が敗れたのは科学の力の違いである」とも言われた。この一言はその後いつまでも私の心の中に残っていた。戦後、技術者の道を進む動機になった。

 九月二十三日以後、期友はそれぞれの故郷に散っていった。

 私たち一〇一分隊には賀陽宮治憲王が配属されていた。彼は少し早めに東京に帰られた。分隊監事・多久大佐(佐賀県出身)の先導で最後の挨拶に分隊自習室に来られた。軍務を離れての行事では身分が優先することを知った。彼は外交官として活躍されてた(平成二年現在)。

賀陽 治憲(かや はるのり、1926年〈大正15年〉7月3日~2011年〈平成23年〉6月5日)、日本の外交官、旧皇族。賀陽宮恒憲王の第2王男子。海軍兵学校75期。1947年10月14日の皇籍離脱までは、治憲王(はるのりおう)。


 七十六期年表

 昭和十九年〇四月〇〇日  願書提出

 昭和十九年〇五月十九日  身体検査

 昭和十九年〇七月〇〇日  学術試験

 昭和十九年〇九月〇八日  合格者発表

 昭和十九年〇十月〇五日  江田島本校に到着

 昭和十九年〇十月〇九日  入校式(三千二十八名)

 昭和十九年十一月〇七日  校長に小松輝久中将着任

 昭和十九年十一月十五日  江田島東道場火災

 昭和十九年十一月〇〇日  第七十四期生徒航空班霞ヶ浦航空隊へ赴任

 昭和二十年〇一月十五日  校長に栗田健男中将着任

 昭和二十年〇三月十九日  江田島に敵機来襲、七十四期佐原三次戦死

 昭和二十年〇三月二十日  防空壕構築作業始まる

 昭和二十年三月二十六日~:沖縄戦が1945年(昭和20年)3月26日から始まり、主な戦闘は沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は4月2日に開始、6月23日に終了した。

 昭和二十年〇三月三十日  第七十四期生徒卒業式

 昭和二十年〇四月〇七日  戦艦大和が、多数の米軍艦載機による攻撃を受けて、鹿児島県の坊岬沖で撃沈された。

 昭和二十年〇四月〇十日  第七十七期生徒入校

 昭和二十年〇五月 上旬  護国隊編成、陸戦強化、木造物解体、防空壕作業交替など

 昭和二十年〇七月十三日  江田島空襲

 昭和二十年〇七月二十四日 江田島空襲

 昭和二十年〇七月二十五日 江田島空襲

 昭和二十年七月二十四日  江田島空襲、利根・大淀、二度にわたる米艦載機の攻撃をうけ大破  

 昭和二十年〇八月〇六日  広島に原爆投下

 昭和二十年〇八月十五日  終戦

 昭和二十年〇九月二十三日 海軍兵学校長栗田健男中将訓示

 昭和二十年〇十月〇一日  海軍兵学校生徒差免 以上

 以下に入校から海軍兵学校での様々、原爆投下、終戦について述べる。

★追記:昭和二十年四月、507分隊から、101分隊に移動した。その時のメンバーに奥 村 長 生 君(津中学)、江上精亮君(松本中学)たちがいた。

参考記事
1、映画「海軍」について
2、貴 様
3、温習と五省
4、海軍兵学校での規律
5、後世に道を託す
6、明日は明日の風が吹く
7、「姿見の鏡」
8、芝生の縁を踏むな
9、太平洋戦争の私の体験
10、二度と言わんぞ!
11、治憲王(はるのりお)
12、終戦へのみちのり~私の体験
13、私も見たキノコ雲―新型爆弾が原子爆弾へ
14、黒い雨
15、幻の海軍刀
16、軍人らしさの印象
17、海軍中将新見政一小伝―
18.海軍兵学校 殺し文句

※参考図書:

豊田穣著『江田島教育』(新人物往来社)。

生出寿著『海軍兵学校よもやま物語』(徳間文庫)

平賀春二著『元海軍教授の郷愁』――源ない師匠講談十三席――(海上自衛新聞社)

山口 透『甦る江田島教育』(高文堂出版社)

平成二十八年十月二十六日

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