倉敷レイヨン連絡月報
    

目 次

1倉敷レイヨン連絡月報表紙―― 2井本三郎:リレー随筆 3薦田 永:リレー随筆 4黒崎昭二:リレー随筆
5鈴木哲郎:リレー随筆 6松田洋一:リレー随筆 7加藤鶴夫:リレー随筆

 倉敷レイヨン連絡月報表紙ーー

棟方志功 大原父子との絆

 1957年(昭和32)年から68年まで、それぞれの年の干支が、「倉敷レイヨン連絡月報」の表紙を飾った。

 これらは、世界的な版画家・棟方志功の作品。

 連絡月報を棟方志功棟方志功が描く背景には、クラレ創業者の大原孫三郎・二代目社長總一郎親子と志功氏の、長年にわたる親交と友情があった。

参考1:昭和14年8月 職員用社内報を「連絡月報」と改称。

参考2:『鬼が来た』 長谷部日出雄


 棟方志功の「干支」が連絡月報を飾る

 1957年に、クラレは棟方志功氏が彫った干支「酉」の動物版画を「倉敷レイヨン連絡月報」の表紙に採用。それから12年にわたって戌、亥、子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申と、一連の動物が表紙を飾った。

 酉:連絡月報1957年 戌:連絡月報1958年 亥:連絡月報1959年 子:連絡月報1960年 丑:連絡月報1961年 寅:連絡月報1962年 
 卯:連絡月報1963年 辰:連絡月報1964年 巳:連絡月報1965年 午:連絡月報1966年 未:連絡月報1967年 申:連絡月報1968年

2018.11.25

   

1
井本三郎さんリレー随筆


 Kurashiki Rayon 1965 連絡月報、毎月発行されていたものを一年間分保存していた。その February 号にリレー随筆で井本三郎さんが書かれたものがあった。

 私がクラレの研究所で研究開発を担当しているとき、井本さんは本社(大阪市)で開発の担当で、月に一度は倉敷で開発の進捗状態の報告会を行っていた。佐賀高等学校、九州帝国大学を卒業してクラレに就職。温厚な人であつた。定年後、名古屋の化学関係の会社の顧問をされていましたが、もうとっくになくなられました。ここに哀悼の誠をささげます。

 自 然 の 調 和
 井 本 三 郎(ポバール研究開発室主任研究員)

 技術室の巽さんよりバトンを受けたが、いざ筆をとると、まとまって書き得るようなものを持ち合わせていない。従って私がポバール研究室で開発研究に携わっている者として感ずることなどを、断片的に書いてみることにした。

            ×     ×     ×

 私は入社以来富山工場、研究所、ポバール研究開発室と生産現場、基礎研究、開発研究を経験させていただき、非常に恵まれた環境におかれてきた。そしてそれぞれの職場において適切な指導をうけ、現在受けつつあることを非常にありがたく思っている。会社における研究については最近いろいろな本に書かれたり、話をきく機会も多く、いまさら多言を必要としないが、結局はデベロップメントにつながる以上、生産現場というものをまったく知らずして研究をすすめるとはナンセンスだと思う。いかに簡単な化学反応も、それを一つのプラントに組み立てるには多くの問題があり、それを解決するためにいかに多くの人の叡智が集っているかを、身をもって経験することは非常に尊いことである。こんなことはだれでもわかっている簡単なことであろうが、現在までは研究に携わっている人で、このような機会を持ち得た人は比較的少なかったのではないかと思う。全身でいろんなことを受け止めて経験することは、ほんとうに貴重なことである。

            ×     ×     ×

 それぞれの分野で大成された人の書き物や話に触れるごとに思うが、人にはそれぞれの生い立ちがあり、環境があり、性格があるにもかかわず、これらの人には常に根底に共通したものが脈々として流れているのを感ずる。これらの人は、自分で編み出した、自分に最も適した独特の物の考え方、物の処理方法をもっている。

 研究の進め方にしても、すべての人に共通した最適の方法というものはなくて、自ら自分にもつとも適したものを考えるべきであると思う。われわれは最近のマスコミ、マスプロの渦の中で、自分で考えたユニークなものをもつことを怠っているのではなかろうか。もちろん平均値的な物の考え方、進め方はあると思う。これが研究管理とか何々と呼ばれるものであると思うが、われわれはあまりこの一般則にとらわれすぎているのではあるまいか。社会の客観的な意志に自分の主観的な意志をいかに調和させていくということは非常に大事なことであり、研究にもまったくそのとおりであるように思われる。

            ×     ×     ×

 文化勲章を受けられた数学者の岡潔先生の『春宵十話』は、私の感銘を受けた本の一つである。その中で「人の中心は情緒であり、学問は頭でするものでなくて情緒が中心になっている」といわれておられる。私には十分説明できないが、なんとなく実感としてわかるような気がする。味わい深い言葉であると思う。

 また先生の発見するときの経験として、「ある数学の問題を毎朝方法を変えて手がかりの有無を調べたがその日の終わりになってもその方法で手がかりが得られるかどうかもわからず、気落ちしてしまうという状態を3ケ月続けた。そのころになると、もうどんなむちゃな、どんな荒唐無稽な試みも考えられなくなってしまい、それでも無理にやっていると、後は眠くなってしまうという状態になったが、このような一種の放心状態が発見に大切なことだったにちがいない。種子を土にまけば生えるまでに時間が必要であるように、また結晶作用にも一定の条件で放置することが必要であるように、成熟の準備ができてからかなりの間をおかなければ立派に成熟することはできないのだと思う。だからもうやり方がなくなったといって、やめてはいけないので、意識の下層にかくれたものが、徐々に成熟して表層にあらわれるのを待たなければならない。そして表層に出てきたときは、もう自然に問題は解決している」と書いておられる。われわれのささやかな研究の喜びの中にも、こういったことは経験する。私は失敗の実験は非常に大切で、大事にしなければならないと思う。ニチボー貝塚の大松監督も根性とか土性骨は“カベにぶっかること”“失敗を重ねること”によってできてくるといっておられるが、私はこれらの中に共通したものを感じて嬉しくなる。

            ×     ×     ×

 自然はすべて、一定の法則で調和をもって動いている。われわれは複雑な社会機構の中に生活し、最近はいろいろな広い新しい知識に触れることが多い。ややもすると複雑に物事を考えすぎるているとように思う。もっと自然に物事をとらえ、考えることを努力してみたい。

 かって私は信州大学の呉先生に親しくお話をうかがう機会を得たが、そのとき先生は、高分子化合物のある性質についてわれわれが日常生活の中に見る巨視的な自然現象と結びつけての御意見を示された。ともするとわれわれの研究の中にも、自然の調和を破った物の考えをして気づかずにいることがある。自然のリズムにあわせた調和を保った見方で研究を進めるよう、努力したいと思う。岡先生も「自然の感銘と発見とはよく結びつくものだ」といっておられるが、ほんとうにそうだと思う。私は出張の車中では、ほとんど書物などは読まずボンヤリ車窓の景色をみることにしているが、そんなときに平生考えつかなかったことに気づくことが多い。

 私の腕白な二人の男の子が、顔や手足を泥だらけにして土いじりをして遊んでいる。そんな彼らを私どもは「きたない」などといって叱るが、今彼らは全身で自然の息吹を満喫しているのであろう。そして本能的に自然のリズムを感じとっているのであろうと、最近私も思うようになった。自然と接することの上便な大都会の子にくらべれば、私の子どもらは幸福である。将来のために子どもに自然のリズムを十分満喫させてやるよう注意したいと思う。

            ×     ×     ×

 私は麻雀はやらないが、麻雀の好きな私の友人が「麻雀にも一つの“流れ”がある。一荘中に各人に必ず一度のチャンスがやってくる。このチャンスをとらえてうまくその波に乗り、逆に相手のチャンスをつぶして相手がその波に乗らないようにするのが麻雀のダイゴ味である。」といっていた。われわれの研究はもちろん、いろんな場合にも考えねばならないおもしろい言葉であると思う。

 下手な長談義になってしまって、はなはだ恐縮である。まだまだこれから学びたいことはたくさんある。今後とも種々なことを経験させていただいて、少しでも利口になりたいと思う。皆さま方の御叱正をお願いする次第です。

(次回は尾崎工場事務課の薦田永さんにお願いします。)

★井本三郎さん:昭和26年4月:倉敷レイヨン株式会社入社。

(次回は尾崎工場事務課の薦田永さんにお願いいたします。)

※貼り付けている写真:左から、井本・松永市郎・黒崎・薦田。クラレ倉敷工場又新寮。

平成二十八年五月九日



2
薦田 永さんリレー随筆


 Kurashiki Rayon 1965 連絡月報の March 号にリレー随筆で薦田 永さんが書かれていた。

 城 を 守 る

 薦 田 永(尾崎工場事務課)

 退社防止とか、従業員の定着とかいうことが最近ジャーナリズムをにぎはじめている。当工場では1年半前から労務担当者の最大問題の一つになってきている。最近の中卒女子従業員の募集難はどの会社も同じで、昨年秋は激烈なる募集戦争を行ったといわれている。当尾崎工場ももちろん例外ではなく、苦しい戦いであった。事務係の応援を受け、勤労係は総力をあげて募集戦線に繰り出し、私も四国の山中をかけめぐった。何日も山の中を歩いていると、海や鉄道の見える町なみはほんとうに心を暖めてくれる。この山の向うに学校があるのかと疑いつつ上りつめると、突如視界が開け、十数軒の点在する民家のはずれに猫のひたいのような運動場を持つ中学校を見る。学校訪問は職安の統制でできないことになっているが、募集行為ではなく学校訪問はさしつかえないとされている。出身生徒の近況や工場の近況をお知らせしたいと申し出ると、先生も愛想よく会ってくれる。出身者の工場生活を具体的事実にもとずいて話した後、会社の現況ープラント輸出やクラレエステルの模様、ビニロンの発展の模様などを弁舌さわやかにのべたてる。とはいっても相手により一様にというわけにはいかない。先生とはいっても、それぞれ思考における価値構造が異なる。これを敏感に読みとることも必要である。もちろん話は尾崎工場ののことに移り、松風家政学園や工場父兄グループのことなども産業心理学の知識などを応用して肉付けの上、説明する。そしてつづまるところ、当工場で生活することが本人の将来の生活設計に大いに役立つことを信念として受けとってもらわねばならない。説得する側としては、生徒が尾崎工場へくることが、他のいかなる工場へ就職するよりも本人の人生にとって幸福になるのだと信念をもってあたり、いささかも動揺があってはならない。それから後の話は募集の本論になるので省略した。 

 こうした苦労に苦労を重ねて、いよいよ3月末に入社日を迎えるわけであるが、入社までにボロボロと歯の抜けるようにこぼれるのが1、2年来のならわしである。まったく情けない思いに陥るが致し方ない。このような苦労をするのであるから、いきおい養成教育も慎重にならざるを得ない。扱い方、教育の仕方が悪いと、きびしい注文もつける。中でも寄宿舎は三分の二の生活時間を預かるところであり、現場は仕事の場であり、入社の最大関心事である点において、きわめて重要である。寄宿舎が人の扱いにおいてマンネリズムに陥らず、一方現場が新品の機械をすぐつぶさない配慮をする何十倊かの配慮をして、これら新入社員をあたたかく迎え入れ、クラレの生産戦列に適応させていかなければならない。しかも養成期間はなるべく最短に。

 今年も3月下旬には160名の精鋭を尾崎の城に迎え入れることになる。準備は必ずしも万全とはいえないが、あるだけの兵力、あるだけの設備、器材を使ってがんばるのみである。

 今年も3月下旬には160余名の精鋭を尾崎の城に迎え入れることになる。準備は必ずしも万全とはいえないが、あるだけの兵力、あるだけの設備、器材を使ってがんばるのである。

     ×     ×     ×

 入社があれば退社がある。これは物の道理である。たくさん食べればたくさん出るが、入社、退社はその逆である。たくさん出るからたくさん入れなければならないのである。たくさん入社させるには、たくさんの募集費がかかる。新聞などでは、8当5落などという言葉すらある。その真偽は別として、今かりに1人につき25,000円と想定すれば、 160人の採用により、 400万円を要する。 80人採用すれば 200万円(算術計算では 200万円ということであるが、実際にはこれ以下になる)でよいことになる。尾崎工場の女子従業員の平均在籍は500に満たない。毎年160人入社させるということは平均勤続3年あまりということを示す。この勤続を6年にのばせることができればー6年にのばしたところで15才で入社した者の年令が21才になるにすぎないー毎年 80人の採用ですみ、尾崎工場の勤労係はより以上、経常の業務に精励でき、その上コストの面で 200万円余節減される。そのほかまだまだ余徳が出る。

 尾崎工場では、勤労のみならず各課の一切をあげて退社防止(勤続延長=定着改善)問題ととり組み、あるいは松風学園を設け、あるいは工場父兄グループを育て、余暇もまた、その多くを乙女たちの教育に使い、また家庭生活を憩いの場に提供している。われわれ勤労担当者として頭の下がる想いである。しかし、このような一連の制度を設けながらも、ふと空々しさがつい胸をかすめるときがある。そしてまた、自信がたらん、信念を生む実行がたらんと自分を叱る。

 松風家政学園設立当初は、ほの暗い電灯の下で、また机もたりないので事務講習所から毎回生徒が運搬してきて使うという状態であったが、講師や生徒はなんとか辛抱してきた。今では蛍光灯がまばゆく照り、講師の熱弁は変わらないが、なにかが欠けているように肌に感ずる。工場父兄グループは育ちはじめたばかりであるから、まだ評価する段階ではないが、ともかく小さな城の悩みは尽きない。解決するのはこの工場=城に踏みとどまるさむらいたちだけである。

     ×     ×     ×

 戦国時代に足軽たちは槍をかついで城から城へ流れ歩いていた。いくさは強い方が勝つと彼らはいう。そして強い方につく。弱い方の城から強い方の城へ流れる。城を枕に討死する者はまれである。

 尾崎工場は弱い城ではないと私は信じている。しかし工場をさせる勇士の心に、もしスキマ風が吹くならば、城のさせはむずかしい。この工場にも新しい波が押し寄せ、昔の姿は徐々に、そして大きく変わりつつある。QCの推進、紡績研究室の建設、管理層の斬新な考え方の盛り上がり、さらには事務講習所の設置による刺激等々が反映してか、城にひるがえる旗もようやく生気を加えつつある。

 工場を守るのは担任者をおいてほかにない(担任者をさせえる多くの部下の存在を前提としていることは言をまたないが)。城の堅固や堀の状況を云々する前に、担任者自らの心にスキマ風が吹いていないか問う必要があろう。なるほど工場は小さい。しかし存在価値は大きい。過去の事柄や補給を云々し、責任を他に求めるの弊を改め、大悟一番まず自らが情熱を燃やし、常に部下とともにあり、その先頭に立つ姿勢をとりもどすべく努力しつつあるのが、この工場の近来の姿ではなかろうか。

 その責任感と上撓上屈さにおいて、仕事に対する使命感において、そして最後に城を守ることにおいて、われわれは決して他の先輩工場にいささかのおくれをとるものでないことを信じ、かつ常にそうありたいと念願している。

     ×     ×     ×

 城を守るさむらいの心得る5ヵ条。

 1.忠節を第一義とし、その他のいかなる準則もこれに従わせる。

  これのできないさむらいは、いさぎよく城から去るべし。

 2.自分一人が城をさせているという立場を片時もわすbれるな。

  さむらいは常に城を背負った立場で事を処さなければならない。

  城を背負った立場でおれば問題は山ほどあるはずだ。

 3.常に"会社にプラスになるように""会社に搊害を与えぬように"

  といぬ意識を根本に持つこと。

 4.さむらいは常に部下よりも強くなければならない。

  強いとは実力を持つとである。

  実力とは腕力もその一つ。気力、知力、技術力、そして最後に徳力。

  これらの一つ以上において部下よりすぐれていること。

 5.さむらいは部下の指導ができなければならない。

  オン・ザ・ジョブ・トレーニングのほかに、部下に対して人間指導すなわち人格の体当たり

  教育ができなければならない。常に部下が、無理を承知で進んで仕事の指示に朊従してくれ

  るか否かがポイントである。(戦場の突撃も、仕事も同じだ。)

     ×     ×     ×

 舌たらずの随筆で、あるいは誤解を招く点がありんはしないか危惧の念必ずしも絶無とはいいがたいが、ねがはくは精神をくみ、片々たる語句についてはよろしく御海容願いたい。

(次回は岡山工場合一製造課の黒崎昭二さんにお願いいたします。

★薦田 永さん:昭和26年4月:倉敷レイヨン株式会社入社。

貼り付けている写真:左から、井本・松永・黒崎・薦田。クラレ倉敷工場又新寮。

平成二十九年十二月十二日



3
黒崎昭二リレー随筆


 Kurashiki Rayon 1965 連絡月報の April 号に私もリレー随筆を書いていました。51年も経過していました。40歳前の記録であり、私にとっては古文書と言えるもので、そのまま写し取りながら当時を思い出させるものでした。

 前 頭 葉

 黒 崎 昭 二(岡山工場合一製造課)

 有力なるラガー15人の後をうけて、日常興味をもって考え、読書したことを披歴して責を果たしたいと思います。

 「わが社の最も重要な製品は進歩である」これは、世に有名なアメリカのジェネラル・エレクトリック社が掲げている標語であるといわれています。その目標実現のために創造工学プログラムが指導されているのです。(『創造性の開発』ヴァン・ファンジュ著 加藤八千代・岡村和子訳 岩波書店 <訳者まえがき>冒頭)

 私たちも創造性の必要性およびその技法について、それぞれの立場において研究していますが、これを個人の立場より考えて見ると、次の言葉に適切に表現されているのではないかと思います。

 「彼は退屈な男だ、生まれつき退屈なのだ。だが、今のようになるまでにはさぞ大変な苦労をしただろう。あそこまで間がぬけているのは、自然にそうさせたのではない」(同上書P.29 サミュエル・ジョンソンの言葉)

 このような状態より1日も早く脱出することこそ、創造性ある人に近ずく道ではなかろうか。

 創造性という抽象的なものは、どこで、いかなる仕組みで発現するのかということに目をむけて考えて見ると、その場所は知情意という私たち人間で一番よく発達しているこれらの精神が、人間の脳で広い領域を占めている連合野で営まれているといわれています。そこで人間の大脳について調べてみたいと思います。

 スイスの動物学者ポルトマンの言葉によると「脳に関する限り、人間は生理的早産である。したがって、生まれてからの発達が約束されているわけであり、このことは、人間形成にとってきわめて大切なことである」といわれており、発達進歩がなければならないものと思われています。とくに前頭葉と側頭葉は一番おそく、一生かかっても完成されないといわれているのです。すなわち判断、記憶、創造、感情の分野はおそいといわれ、このことが図1のステイーグリッツの機能変化曲線の精神機能の線にあらわれているのではないかと思われます。この曲線によると40才までに、理由は抜きにして精神機能ー創造等すべての高等作用を包含するーを発達さすべきであると指示されており、図2の大脳皮質の中の前頭葉を切りとると、知能や記憶の能力には障害がおこらないが人格や性格が目だって変わってくるといわれています。すなわち、積極的になにかしようという意欲がなくなる。仕事に情熱がもてなくなる。執着心がうすらぐ。取りこし苦労をしなくなって楽天的になる。計画性がなくなる。将来に対する思慮分別が乏しくなる。感情の動きが浅薄、単純になる。といったような変化が目についてくるそうです。私たち人間が教養を身につけ文化を形成することができるのは、一つにかかって、前頭葉の創造、企画の精神があるからこそで、創造、企画の精神こそ進歩を約束するものであり、根性という形であらわれてくる由来と考えられます。

 この前頭葉の大脳皮質全体の面積に対する比率は、人間の30%、チンパンジー17%、イヌ7%、ウサギ2%(写真の本の中P.109に書かれています)で、意識的に行動する人間の人間たるゆえんは、ここにあるのです。

 前頭葉を活発に働かせて創造性に富んだ生活するための方法について二、三考えてみますと、軽い筋肉運動は頭の働きをよくするのに、きわめて大きな効果をもたらすことに気がつきます。「身体のあらゆる部分の感覚器からの感覚刺激信号は、感覚神経により、その一部を脳幹部で網様体へ送り込まれ、そこで新しい信号がつくられて大脳皮質全体へ。網様体経由の新しい信号は、すべての脳細胞の働きを高める役割をもっている」*これが大脳の研究者マゲーン先生のたどりついた結論です。われわれは気づいていないけれども、網様体の活動をさかんにして、意識をはっきりさせてくれる理想的な信号は、筋肉のなかにうずもれている筋紡錘という小さな感覚器からの信号です。紡錘筋は筋肉が運動したり、強くひっぱられたとき、信号を出す性質をもっているのです。アメリカのヘミングウェーは、立ったまま原稿を書いたといわれています。私たちも難しい問題を考えるときに、無意識のうちに部屋の中を、手を額にのせて往復した経験があると思います。それで問題が解決したありがたい経験をお持ちの方もおられるでしょう。このことは遠くギリシャの哲学者アリストテレスも、同じように、林間を散歩しながら門弟に哲学の講義をしたといわれており、これは逊遥学派いわれています。最近自動車あるいは交通網の発達により歩く機会が少なくなり、足の退歩がいわれ、[歩きましょう]という運動が叫ばれていますが、これは単に体、足の鍛錬のみでないことに気がつかれたことと思います。脳細胞賦活作用が、ツー、ツーという電話の話し中の信号のように發信され、活動状態に励起されているということになる。したがって、そのときこそ私たちは考え、計画し、創造するという精神活動をすべきではなかろうかと思います。

 イギリス人は歩きながら考える、フランス人は考えた後に走り出す、そしてスペイン人は走ってしまった後で考える、といわれておりますが、大脳生理学の論法でいくと、やっぱりイギリス人が見かけ上最も非能率的に思われるが、結局は考えた行動をとっているということになるのです。私はここで強調します。大いに歩きましょう、大いに考えましょうと。否、「大いに歩きながら、考えることにしましょう」と。

 次に咬筋といって、上あごと下あごの間に張って、ものをかむのに必要な筋肉を強くひき伸ばすものについてお話しします。これも脳細胞の賦活作用がずば抜けて強力なものの一つなのです。あくびは頭の働きをはっきりさせるものの一つです。私たちは眠りからさめてあくびをして、背のびをして、次の活動に新しい気持で出発することが日常の習慣になっていますが、これは咬筋を働かせて、頭をすっきりして活動しようということになるのです。

 咬筋についてさらに想を発展させ、口角アワをとばせて議論するという状態になることがありますが、これは頭がはっきりしているから口角が働くと考えることもできるでしょうし、単に口角を充分働かせるから頭の働きが活発になるということにもなるのではないか、どちらがどちらと区別するのは難しいことです。

 連絡月報に「リーチング・アウト」について述べられていましたが、その目的は明日の繁栄より今日の進歩を期待するものであると思います。リーチング・アウトの実行が人間関係のうえで、はじめ想像したほどたいしたものでないという理由を簡単にのべてみます。おそらく、主な理由は、リーチング・アウトによってつくられる管理者同志のより親密な関係で、管理者たちはリーチング・アウトを行う人をよく知り、お互に討論したり、ときに論争や怒ったりもし、また、自分のものの見方をかれに話したり、かれから聞いたりしているので、よく理解しているだろうから、それほど気にしないだろう。と書かれている。私たちは大いに、できるだけ口を大きく動かして咬筋を働かせてしゃべりましょう。そうすれば頭の働きが活発になり、ためになるのではないでしょうか。人の前でしゃべっているときに、よいアイデアを思いついたり、平素まとまらなかった問題が理論正しく整理された経験があります。このことは、しゃべるために準備した、ということも一つの要因かもしれませんが、しゃべる過程の頭の働きも忘れることはできません。さらに物事を記憶しようというとき、読み、書き、の上に声を出して読むとよく記憶できるといわれていますが、すべての感覚器を動員して、頭の働きをよくして能率を上げるということになるわけです。

 以上創造性に富んだ行動をとるための頭の働きを活発にする方法について、読んだり聞いたりして学んだ二、三の例について説明しました。

 期待される人間像はなにか?と、種々の立場で「人づくり」が議論されていますが、しつけや人間形成の問題を科学的ないしは医学的な根拠の上に考えなおそうという動きがみられます。このような精神的な高次元の作用を、科学的な面からすべてを説明できるものかと思いつつも、人間のあらゆる高等な知情意の作用から、味覚、嗅覚そのた本能的な行動についての大脳の生理機構から説明は、私たち門外漢にとって驚異するばかりですが、今後大いに研究して物事に積極的に取り組み、解決しようとする態度を持つように努力したいと思います。

 最後にインフルエンザが流行しているので、これに関係した話でもって筆をおきます。アメリカのインフルエンザの研究で有名なショウブ博士が、医学生時代、先生と次のような質疑応答をしています。

 問 なぜイヌは結核にならないんでしょうか?

 答 わからん。

 問 どうしたらわかるでしょうか?

 答 研究室で研究しなさい。

 問 どうしたら研究室で研究に従事できるようになるでしょうか?

 答 わたしが徐々にその用意をしてあげよう。

 自分自身に正直であり、自分が知っていることは、未知のことに比較すれば、ほんのその微小に過ぎないことを認めるなら、進歩は終わることをしらないであろう。

 独断的な考えを述べました。ご海容のほど。(次回は西条工場・大内延広さんにお願いいたします)

平成二十八年五月七日



4
鈴木哲郎さんリレー随筆


 Kurashiki Rayon 1965 連絡月報の August 号にリレー随筆で鈴木哲郎さんが書かれていた。

 終戦記念日に思う

 鈴 木 哲 郎(ビニロン・エステル事業部管理部・ビニロン管理課長)

 今年もまた八月十五日が巡ってきた。日本が戦いに敗れてから、今年でちょうど二十年を迎える。

 十年一昔というが、すでに二昔の彼方のこととなると、普通の記憶なら大方薄らいでしまうのだが、当時の激しい戦争で得た異常な体験は、なかなか記憶の薄らぐことがない。

 いまさら戦争の思い出話などという気分がしないでもないが、20年目の終戦記念日を迎えるにあたり、思い起こす2、3のことについて語らせていただきたいと思う。

 私事にわたって恐縮であるが、私が10代の終わりから20代の初めにかけてを軍隊に生活した。人間の形成期ともいわれる年代を、江田島の兵学校と引き続く実戦場に過ごしたことから、当時の軍隊と戦争につながる体験、あるいは思想の遍歴が、私の人生にいかに重要な意味を持っているかということで、このような話題を持ち出したことの了承を得たいと思う。

  母の手紙

 終戦当時、私は駆逐艦に勤務していた。聯合艦隊はすでに壊滅して、残存の艦艇のほとんどは、温存のなの下に各地で隠蔽偽装する処置がとられていた。私の乗艦も僚艦2隻とともに、宮津湾の岬の陰に網をかぶって潜んでいた。

関連:終戦へのみちのり~私の体験~

 終戦の詔勅渙発は、当然われわれは大きな打撃であった。士官の間でも一時は議論沸騰して興奮の状態であったが、隔絶した位置にあって情報も十分でなく、とにかく司令部の命令通り撤収して、数日後には舞鶴に帰港した。

 その後武装を解き、10月には復員輸送のため南方へ向かうことになるのであるが、舞鶴に帰港直後、私は母から一通の速達を受けとった。

 巻紙の一片が入っているだけであった。「何と申上げる言葉も無之候。只々陛下の御旨を奉じて、軽挙等必ず必ず慎む事、切に切に願上候。八月十六日 母より」

 まことに簡単な手紙ではあったが、私には母の気持ちが痛いほど身にしみた。終戦当時、軍人の自決が頻々と伝えられた。せっかく戦いに永らえた命を、ここで失わせたくないは母の気持。急ぎ筆をとったようすが想像されるのである。珍しくも巻紙に毛筆でしたためた簡潔な文句や、陛下のなを持ち出すことなど、平素の母らしくもないものであった。母としては、千万言を費やすよりも、この一言に心をこめたなら、また忠義一途と励んできた軍人の息子にとって陛下という言葉を用いたなら、よほど利き目があるだろうと慌ただしくも知恵を走らせたのであろう。その知恵が見えすいているだけに、いじらしく、胸が痛むのを覚えたのであった。

 当時の私は、若年ながら先任将校の位置にあり、艦の処置、規律の保持に頭がいっぱいで、およそ自決など考える余裕もなかったから、母の手紙は、実はよけいな心配だったともいえるのだが、別の意味でまた私を勇気づけ、立直らせてくれるものがあった。

 世の母の子を思う心は、みな等しいと思うが、愚かにも見えるその愛情は、また、それほど純粋なるがゆえに貴いものであろう。

 この母は21年2月、私が復員船で南方へ行っている間に急逝した。

「たらちねの母の心に報ゆるに、すべなかりしを咎むるな神」孝養をつくす機会もなかった息子の、当時の日記に記した稚拙な歌である。

  友を弔う

 友人の中でも兵学校時代の友人は、一種独特の感情で通い合うものを感ずる。それは四六時生活を共にしたというだけでなく、厳しい訓練と指導を通じての肉体的精神的苦痛の中で、裸にされた人間の触れ合い、というものにあったように思われる。いわんや人生の感受期である。「なぜか気が合うて忘れられぬ」友を、私も幾人か持った。そしてこれらの親友のほとんどは戦死して終った。

 われわれのクラスは、この戦争で最も使いやすい手頃な初級士官として激しい消耗率を示した。期友600のうち、生存者は300に満たぬ。

 「散る花になどか後れん我も亦、かくて散りなん大君のため」20年4月14日親友の一人Gは、この一句を基地に残し、神風特攻隊長として数機を率いて沖縄に突入した。聡明で几帳面、人のいやがることを黙って引き受けて、ほがらかにやってのける良い男だった。

 Tは19年10月14日台湾東方の米機動部隊攻撃に出て還らなかった。純真で優しい男だった。一人子を失った母親は、戦後訪れた私に息子と一緒に御飯を食べてくれと、食卓に写真を飾り、同じ膳を供えた。涙が溢れて溢れて馳走はのどを通らなかった。

 潜水艦で出撃して還らなかったY、レイテの海戦に乗艦と運命を共にしたM、比島に上時着戦傷死したN、すべて逝いて今はない。

 私は生き残り、生きる限りを生き得る今の世の平和を享受している。彼等が願って死んだ祖国の繁栄は今や実現したとはいえ、あまりにも大きな犠牲ではあった。人生の喜びも知らず、あたら散らせた若い命のあまりにも惜しく、あわれに思われるのである。

 追憶の中に現れる彼等は、いつも若々しく凛々しい。永遠の若さと清純を保って、あの世で彼等はなにを語り合っているであろうか。

  戦いに生きる

 戦いとは厳しいものである。冷酷、非情、常に死と対決の間にあり、寸分の仮借もない。従って戦いの場にある人間の、極限に生きる厳しさ真剣さは、美しいまでに高められる。もとより私は戦争を賛美するものではない。破壊と殺人、人間性の喪失、戦争が嫌悪すべきものであり、子孫の代にいたるまで平和であれかしと願うのは人に劣らぬものである。

 しかし、戦いの徹底した非情の中に生きる人間のあり方について、最近ことに考えさせられるものがある。それは、近時企業間競争の激化が戦争にたとえられるほどのものであり、わが社もまたその渦中にあって苦難の期に処しつつあるが、この時においてわれわれの心構えに、さらに加わるものの必要を覚えてにほかならない。

 およそ戦いとは力の争いであり、力なきものは必ず滅ぶ。かって太平洋戦争当時、天佑神助という言葉がしばしば用いられた。ことに敗色濃厚になってよりその使用の頻度は高まったものであるが、この言葉はすでに己の力に自信を失った者のいうことであった。「天佑を確信し全軍突撃せよ」というような命令は、いかにも悲壮感に満ち、士気を鼓舞するかに見えたが、これはすなわち、天佑という字を僥倖ないし全滅という字に置き換えても同じことであった

 むしろ戦陣訓にいう必勝の信念「信は力なり、自ら信じ毅然として戦う者常に克く勝者たり、必勝の信念は千磨必死の訓練に生ず。須く寸暇を惜しみ肝胆を砕き、必ず敵に勝つの実力を涵養すべし」の方が理にかなっており、なっ得するものがあった。そしてこの理念は、また今においてもふたたび噛みしめてみる価値があるように思われる。

 われわれは今の事態に対処して、さらに厳しく反省し、不屈の闘志と肝胆を砕く工夫を他に倊してあらしめねばならぬ。

 いまさらに心構えの厳しさについて思うこと切である。

        ×            ×

 実は8月号担当の話を聞いたとき、私はいささか因縁めいたものを覚えた。もともとここに書いたようなこと、ことに20才そこそこの若さで死んだ戦友のことは、いつか、なにかに書いてみたいと思っていたのだが、はからずも終戦後20年目の8月号に、思わざる前任戸塚課長からの御指名を受け、その機を得たことが不思議に思えるのである。

 貴重な紙面を気ままに使わせていただいたことを感謝して筆をおく。

(次回は中条工場・堀田製造課長にお願いいたします。

★鈴木哲郎さん:昭和25年4月:倉敷レイヨン株式会社入社。S54.10.21逝去(56歳?)

★写真(下):倉敷レイヨン株式会社に入社したとき、大内寮で仲間(濱田・三宅・黒崎)と団欒のひととき。温厚で優しさがうかがえる鈴木さん、「海軍よもやま話」を聞いておけばよかったと……。

平成二十九年十二月十二日



5
松田洋一さんリレー随筆


 保存していた写真のような Kurashiki Rayon 1965(巳:へび) 連絡月報の September 号にリレー随筆で松田洋一さんが書かれたものがあった。

 松田さんとはクラレ岡山工場で同じ製造課で勤務したことがあった。

 いつの頃か別れて、私が研修所の所長を終わるころ彼と接触があった。

 会社を辞めてからは交流が途絶えていたが、突然連絡があった。

 それは、彼がガンに侵されて、その対策をいろいろパソコンで調べていたところ、樹脂状細胞による治療法に突き当たり、私の長男のな前を見つけ連絡があった。それからしばらくの間、メールのやり取りしているうちに、残念なことに闘病生活を終えることになった。

 追悼の誠をささげる為に「リレー随筆」を記録します。

 旅の思い出から

 松 田 洋 一(岡山工場・合成第一部製造課長)

 最近「礼儀儀正しくしよう」というキャンペーンが始められているが、7月号のクラレ時報(戸塚康一郎さんリレー随筆)を読んで、ふと学生時代の旅のことを思い出した。

 終戦後3年ばかりたった秋ごろのことである。まだまだ物資上足の状態は続いていたが、世情は少しずつ落ち着きを取りもどし、汽車には買出し商人がかなり乗ってはいたが、レジャーの旅行もあまり気がねせずともよいようになり、私は学友二人とともに、夏休みのアルバイトで得た報酬で、飛騨から信州への旅に出かけた。

 途中列車強盗に気をつけろという乗務警官の言に緊張したりしたが、日本ライン、高山市等を見物して、開通したばかりのバスで、乗鞍岳の肩にある平湯峠を越えたところまで運ばれ、そこからいよいよ徒歩で槍ヶ岳の見える槍見温泉に向かった。

 白樺林の斜面には、蜂の巣箱が点々と置かれ、白樺の柵でかこまれた牧場の広がる中をゆく爽快さは、いまだ忘れ得ない美しさであった。

 やがて目的地に近い川に沿った道にさしかかったが、すでに夕もやが川面に流れて、かなり薄暗くなり、疲れと意外に遠い道のりに、三人とも黙りこんで歩いていた。

 ちょうどそのとき、訪れの早い冬に備えるためか、山へ柴をかりにいった地元の人々が、次々と大きな粗朶の束を背に負うてもどってくる姿が見えはじめた。私たちは、もちろん黙って通り過ぎようとしたが、先頭のおじいさんが、「お晩です」と、にこにこしながら声をかけたので、びっくりして、しばらく口ごもりしながら、「今晩は」と返礼した。老人は、そのまま行き過ぎたが、私たちは、思わぬところでの暖かい歓迎の心を感じ、ジーンと感激が身内に起った。それに続いて、三々五々もどってくる村人たちは、老若男女さまざであったが、みんな、「お晩です」と声をかけていくので、私たちは、ますます都会では見られない素朴な、心からの歓迎に感激を深めた。しかし、最初はどうも、こちらから声をかけられず、声も小さく「今晩は」と返礼するのがやっとであったが、そのうちに慣れたというか、気持ちが明るくなったというか、三人でもっと大きな声で挨拶しようということになり、「お晩です」とこちらから声をかけるようにしたら、村人たちも、にこにこして笑い声をあげて<どこへ行くのか>と聞いてくれ「槍見はもう近い」などと教えてくれたので、私たちも疲れがとれたような気がした。

 都会生活では、顔を知っていても声をかけないのが普通であるが、声をかけられることがどんなに親近感を増すものか、そのときに痛感した。しかしながら、会社に入っての生活で、私はこの教訓を生かすことを忘れて今日まで過ごしてきたのであるが、この機会にまず身辺から、朝晩の挨拶や廊下などですれ違う際に、できるだけ多くの人に声をかけようと思いたって、しばらく前からやり始めているが、なかなかその場の雰囲気や、相手の態度等で声をかけそびれることが多くて、うまくいかず、実行のなかなか難しいことがわかった。会社の規模が大きくなったためか、世相人心の流れによってか、社内もなんとなく都会的空気が強くなっているように思われ、同じ会社で働いている仲間としての親しさを盛り上げていくことの必要性は大きいように思われる。

(次回は玉島工場・脇坂さんにお願いいたします)

平成二十八年五月五日



7
加藤鶴夫さんリレー随筆


 Kurashiki Rayon 1965 連絡月報の Noveber号にリレー随筆で加藤鶴夫さんが書かれていた。

 西堀先生との一時間

 加藤鶴夫(西条工場生産第二課長)

 第一次南極越冬隊長であった西堀先生が、西条へ見えられたのは昨年(昭和39年)の11月30日であったから、もうすぐ、まる1年にになろうとする。この一年間、先生のお話に私は大いに励まされてきたが、これは偶然にも私が直接先生のお話を拝聴する幸運な機会をもち得たことによるのものである。

 工場でのお話は、豊富な実践によって裏付けされた貴重なお話で、聴講者一同感激をもって聞き終わったのであるが、そのあと私は、上司のご好意によって先生を今治までお送りするために同行を許され、山の家からもどってこられた先生を賀茂川大橋に待ち受けて、同席させていただくことになった。車には本社の国広氏も一緒であった。車に入ると、静かに笑みをたたえられた先生は、この突然のぶしつけな来訪者に心よく同席をすすめてくださった。私はかねてより、南極越冬という快挙に大きな尊敬をはらってきたので、その隊長に親しくお話をうかがえることに、恐縮と感激が交錯した気持ちであったが、先生は気楽に山登りの話やQCの話、南極の話等を次々と話された。とくに、先生が日本ではじめて日本製のスキー靴を靴屋に作らせた話や、また冬の比良山のスキー行の途中で大猪と出会い、大格闘のすえ、これをしとめられた話など、非常に興味深く拝聴した。同時に、それらのお話の中にも、先生が常に新しいものに対して‎若々しい情熱を持たれ、また独創性と機転性に加えて勇猛心の持ち主であることが、よく実証されているのを感じた。

※参考:比良山:琵琶湖の西側に縦走する比良山系。比良山系の最高峰(標高1214m)の武奈ヶ岳をはじめ、八雲ヶ原湿原や神爾の滝など見所もある。八雲ヶ原湿原は、国定公園特別地域として自然が守られている近畿では珍しいこの高層湿原で、可憐な草花たちが多く自生しており、シャクナゲ尾根~八雲ガ原湿原へは、ファミリーや、登山に自信のない人などが短時間に比良の自然が十分楽しめるコースである。

 先生は QCの導入期にあたって、いくつもの会社を指導されことも話されたが、とくに苦境に立った場合の問題の解決法を諄々と説くように話された。解決法とは、問題をあらゆる角度から毎日毎日徹底的に考え考え抜くことだと力説された。寝食を忘れて考え抜いたその極限において、天祐というか、神の啓示というか、名案が浮かぶのだといわれた。私たち松下幸之助の著書からも同じことを学ぶものであるが、一つの偉大な事業を成し遂げる根本の原動力は、まったく同じであることに、あらためて思いを深くしたわけである。

 私は山登りに関連して、次のようなことをおたずねした。「未知の高い山を征服しようとする場合に、それを成し遂げる心の支えとなるものは過去に登った山々の高さであって、そのときのいろいろの苦心の経験と、征服し得た自信が、もう一段高いところへ挑むことを命じ、さらにそれを突破してゆく原動力となるので、事業経営の場で一つの仕事を成し遂げる場合も、幾多の仕事を成し遂げた経験と自信が、さらに飛躍した仕事に進めるのではないであろうか?……〛と。

 先生は黙って答えられず、おだやかな晩秋の夕陽が落ちかかる伊予路の平野を、静かに眺めておられた。私は先生が黙っておられたので、なぜだろうかと不審に思っていた。まもなく車は今治市内に入って、港に着いた。尾道行きの船が出るまで、私たち三人はしばらく港内に立ち止まっていた。急に先生はにこにこしながら、「君にはこのことを言っておかねばならぬ」といわれながら、私の「南極越冬記」を手にとられ、構内の柱に表紙をもたせながら裏面の余白に一筆書いて下さった。それは、「勇気は自信に先行する」という言葉であった。「君は何事をやるにも、一つ一つ経験をし自信で固めたことでなければ新しいことには着手しませんか?>」先生はここまではおっしゃらなかったけれども、質問に対する先生のお答えは「否」であって、自信も大切だが、それにも増して勇気の必要性を強調されたのであった。同時にこの言葉は、大いなる未知に向かう偉大なる探検者としての、先生の崇高なる探検精神を示されたものであることを悟ることができた。

 船が岸を離れると、先生は船の上から手を振られ、やがて瀬戸内海の夕陽の中に去って行かれたが、この一時間ほどの間の事柄は、私の心に今日まで強く刻み込まれているのである。

(次回は富山工場勤労課長、原田栄一さんにお願いいたします。)

令和三年四月月二十七日記



 昭和40年リレー随筆目次

1月号  元旦の計         巽 竹 次(技術室)

2月号  自然の調和        井 本 三 郎(ポバール研究開発室主任研究員)

3月号  城を守る         薦 田 永(尾崎工場事務課)

4月号  前頭葉          黒 崎 昭 二(岡山工場合一製造課)

5月号  根性について思う     大 内 延 広(西条工場生産第二課)

6月号  戦国を生きる        桜 井 秀 雄(倉敷工場人絹部管理課)

7月号  偶感            戸 塚 庫 一 郎(東京事務所レイヨン販売課長)

8月号  終戦記念日に思う     鈴 木 哲 郎(大坂本社ビニロン管理課長)

9月号  旅の思い出から      松 田 洋 一(岡山工場・合成第一部製造課長)

10月号 朝 顔          脇 坂 登(玉島工場エステル部長付)

11月号 西堀先生との一時間    加 藤 鶴 夫(西条工場生産第二課長)

12月号 幕末のプラント輸入     原 田 栄 一(富山工場勤労課長)

令和二年十二月二十日