戦中用語集

改 訂 版 2022.12.29 改訂

 
★戦中用語集 盧溝橋 戦艦大和 零 戦 死の行進 ミッドウェー海戦 バンザイ=クリフ 興亜奉公日 八紘一宇
軍 神 転 進 玉 砕 千 人 針 撃ちてし止まむ 海行かば 月月火水木金金 竹 槍
戦 陣 訓 三八式歩兵銃 ゲートル ひめゆり部隊 新型爆弾 国体護持 引 揚 げ ******


三国一郎著『戦中用語集』(岩波新書)1985年8月20日 第1刷発行 による。

盧溝橋

andouteruzou.png  盧溝橋 P.2

 マルコ・ポーロが、「東方」への長い旅の末に北京へ着き、その西南郊外の永定河(えいていが)にかかるこの橋を見て、「世界でいちばん見事な橋」と嘆賞し、その『東方見聞録』(第四章)にも記録した、その橋がそのまま「事件」の呼称にとり入れられ、橋の美観とは別の意味で、歴史に残ることになった。

  「盧溝橋」は、またその周辺の部落の名称でもあったが、昭和一二(一九三七)年七月七日の夜、その付近で日本軍の一個中隊が夜間演習をしていたところ、どこからか「十数発の小銃弾」がうちこまれた、という。これが「日中戦争」の「発端」とされ、中国の名橋の名前が、現行検定の高校教科書にまでのるようになった。

 大筋だけを書けば、日本側はすぐ演習をやめ、「中隊」をそのまま現場にとどめおいた、ところが別のコースに日本軍の大隊主力が進出、現場に登場し、未明の五時三〇分には、この大隊がさらに前進をはじめて、中国側との軍事衝突に至った、とされている。

 この「軍事衝突」に対して、日本の政府も軍の指導部も、「現地解決・不拡大」の方針を打ち出したものの、結果的には、この日本側の軍事行動が、華北(中国北部)から上海へと拡大する。その段階で、政府はそれまでの行動の目的を、「支那軍の暴戻(ぼうれい)膺懲(ようちょう)し以て南京政府の反省を促す為」と声明した。(八月一五日)。

 このときから叫ばれるようになったのが、「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」という軍部作製のスローガンで、当時一六歳の中学生だった私の記憶にも、この四文字は強く印象づけられ、弟たちをいじめるときにも、ちゃんとこの時局語を用意していて、母親にとがめられると、待ってましたとばかり、「(弟が)いたずらをしたからヨーチョーした」と、しらを切ったものである。余談だが、このとき理由なく「ヨーチョー」された弟の一人は、のちに陸軍士官学校に入り、職業軍人になったが、中尉で戦病死した。

 それにしても、スローガンとして急速に定着する「暴支膺懲」を打ち出した日本政府のほうはと見ると、この「第一次近衛内閣」が、「東亜新秩序建設」というスローガンを高々とかかげはじめる。この二つのスローガンの間に、どんな関係があるのか。

 本音はともかく、たてまえだけを見れば「東亜」に「新秩序」を「建設」するためには、ぜひとも「暴支」を「膺懲」(こらしめる)しなければならぬ、という理屈だったと思われる。

 この「盧溝橋事件」については、以後の「現地解決」と「不拡大」とを、日本政府、軍中央部ともに"方針"として打ち出した。しかし、その「現地解決」が日本の予定を裏切るようなものになれば、「不拡大」も御破算になることは自明である。「不拡大」が実現すれば、「全面戦争」にはならなかったはずである。


十二月八日

 十二月八日 P.18

 昭和一六年のこの日、「大東亜戦」がはじまった。

 一見、何のへんてつもない日づけを示す文字群にすぎないが、ある年齢に達した日本人としてこの日を迎えたものには、単なる「日づけ」以上の、なにか運命の影を帯びた特別な日として、この日づけが長く記憶されているのではないか。連帯性のある運命感覚といえるものの記憶が、この日づけにからんでいるような気がする。

 たとえば、あの東京の下町を愛し、市井人の叙情に傾きやすい作風の、久保谷万太郎のような文学者でも、

   〽十二月八日をへたる初日(はつひ)かな

   〽十二月八日おもほゆ初日かな

の二句を昭和一七年に作り、とくに後者の句は、自撰句集『久保谷万太郎句集』(三田文学出版、昭和一七年)にも収録されているのである。

 あきらかに、「十二月八日」は、日本人の間で、社会的な意味を帯びた一つの用語になった。良くも悪くも、そうなったのだ。そのことを、私たちよりずっと若い世代の人たちに知ってもらいたいと思う。

 当時私は、東京大学(旧制)文学部社会科の一年目の学生で、東京東中野の下宿で、同じな古屋の旧制八高から来た十数人の東大生たちと共同生活をしていたが、そこには当然、理・工・医・農(以上理科系)、法・文・経(以上文科系)の各学部の学生が同じ屋根の下に生活しているので、戦争のような大きな事件にぶっかったときの反応のちがいなどを、学生それぞれについて観察しながら考えてみることなども可能だった。

 いまでも不思議に思ふのは、戦果というものについて文科系、理科系の反応のちがいであり、常識で考えると、理科系がクールに反応するかのようだが、実は反対で、わーっと喜ぶのは理科系に限られていた。

 理科系でも秀才のあつまる機械工学科の学生のひとりなど、つぎつぎと発表される「戦果」を克明に半紙に筆と墨で書き、食堂の鴨居に貼りつける作業を飽きることなくつづけ、悦に入っていた。

 反対に沈鬱だったのは、文科系の経済学部の一学生で、どんなに大戦果がラジオから放送される日でも、決して歓声をあげたり浮かれたりはしない。それどころか、理科系の連中には聞きとれないように用心した小声で、そのたびに私につぶやくのである。「たいへんなことになった」と。彼は、目前の戦果のかげに、何か別のものの影を見ているようであった。何か不𠮷な、いずれは大きな不幸となって日本人をとりこみ、そのなかに包みこんでしまいかねないものの存在を、早くも緒戦の「大戦果」の時期に感づいているかのようであった。

2019.10.24


戦艦大和

 戦艦大和 P.26

 イギリスがロンドンでの「海軍軍縮会議」に、日本。アメリカ・フランス・イタリアの四国を招請したのは、昭和四年(一九二九)年一〇月七日。日本は同月一六日に「参加」を回答した。

saitoutakasi.senkankikokusaiseizisi.jpg やがて開かれる国際会議で「海軍力に限定した大国間の軍縮小問題」が合意に達し得たのは、すでに大戦(第一次)後の大国間の勢力関係が明瞭になっていたからであり、ワシントン(大正一一年)・ロンドン(昭和五年)の両条約は、「大国間の勢力関係の基礎の上に海軍力についてのみ妥協が成立したも」(斉藤孝『戦間期国際政治史』岩波書店、昭和五三年)と見ることができるだろう。

 ワシントン会議で締結されたのは、「主力艦」についてのみの海軍軍縮条約であり、それをロンドン会議では「補助艦」(大型巡洋艦・軽巡洋艦・駆逐艦・潜水艦)にまで拡大しようとした。主力艦の建造停止を五年のばし、保有トン数の比率を英・米15、日本9と改正した。いわゆる五・五・三の比率である。しかし建造停止も、時が経てば無効になり、「無条約時代」がくる。それにそなえて日本海軍が極秘裏に建造した戦艦の一号艦が「大和」である。「大和」は昭和一二年一一月、広島県呉工廠で、二号艦「武蔵」は一三年三月、三菱重工長崎造船所で起工、太平洋戦争直後の一六年一二月一六日に「大和」、一七年八月五日に「武蔵」が完成した。まさに「大戦艦巨砲時代」のシンボルであった。全長二六三メートル、排水量(公試)六万八千二百トン、主砲46センチ最大射程四万メートルを九門、飛行機(水上偵察・観測)七機。当時、世界最大の巨艦であった。

 敗戦の色濃い昭和二〇年四月六日、「大和」は沖縄に上陸作戦を展開したアメリカ海軍の艦隊に突入を決め、軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」ほか八隻の駆逐艦とともに片道燃料で出撃(第二艦隊司令長官伊藤整一中将指揮)したが、七日アメリカ海軍の艦上機延べ一〇〇〇機の「波状攻撃」を受け、乗員三〇〇〇人を乗せたまま、九州坊の崎の南方九〇カイリ(徳之島の西方洋上)で轟沈、四三〇メートルの海底に沈んだ。その「大和」に勤務し、重傷の身で生還した吉田満(少尉)の警抜な記録『戦艦大和の最期』(創元社、昭和二七年)がある。

 同型式「武蔵」は、昭和一九年一〇月二四日、フィリピンのレイテ沖海戦でシブヤン海を航行中、アメリカ艦上機の集中攻撃をうけて沈没、乗員二四〇〇人のうち約一〇〇〇人が救助された。

2019.10.27


零 戦

 零 戦 P.28

horikosi.zerosen.jpg  いわゆる「零戦(ぜろせん)」は略称で、正式には「(れい)式艦上戦闘機」として海軍に採用された戦闘機である。「零」は紀元二六〇〇年(昭和一五年)の末尾の数字から採られた。設計者、堀越二郎。昭和一四年七月六日、海軍による最初の試験飛行(操縦者、海軍航空廠飛行実験部中野忠二郎少佐・真木成一大尉)の結果、わずかな改善意見だけで「極めて優秀な性能を具備するもの」と認められた。

 そもそもは、「九六艦戦」の後継機として、昭和一二年ごろから「一二式艦戦」の名で計画が進められていたが、一四年三月、三菱重工業な古屋製作所で一号機が完成、早くも一五年七月、中国戦線に出動した。正式に採用が決まる前から量産態勢に入ったのは、よほど「待たれ」ていたのだろう。

 その後、少しずつ改良が加えられることにはなるが、一五年九月、漢口(はんかお)の基地から出撃した一三機の「零戦」は重慶(じゅうけい)の上空で中国軍戦闘機(ソ連製イ15、イ16)二七機と交戦、全機を撃墜し、「零戦」の被害は、数機が機体に被弾しただけで、という記録を示した。航続力、空中戦闘能力、7・7ミリ・20ミリ機銃各二という装備が画期的で、その後太平洋戦争初期まで、「世界最強の戦闘機」を誇った。当然、真珠湾攻撃にも参加、運動性能と航空距離の優秀さが世界的に知られるようになったといわれるが、当初から世界を敵とする航空機が意識されいたのかもしれない。

 しかし、以後の「零戦」には、とかく悲運がつきまとう、まず開戦半年後の昭和一七年五月五日、大本営は山本五十六連合艦隊司令長官に対し、陸軍と協同してミッドウェーとアリューシャン西部要地の攻撃を命令する。この作戦で、アリューシャン方面は、海軍の北方部隊(第五艦隊、第二機動部隊、第一水雷戦隊、特別陸戦隊)と、陸軍の北海支隊(歩兵一個大隊と工兵一個中隊を基幹とする)の協力で戦果があり、とくに海軍の第二機動部隊は六月四、五の両日、ダッチハーバーの空襲で成果をあげた。しかし、この作戦には、決定的な不運がつきまとった。「零戦」の不時着陸機がアメリカ軍の手に入り、すぐ徹底的に「研究」されてしまったことである。

 このことがアメリカ側には幸いし、強力なグラマン戦闘機やロッキード機の開発を早めることになる。「零戦」は、一万機以上製造された唯一の機種(一万四二五機)で、追って「(はやぶさ)」「飛燕(ひえん)」「疾風(はやて)」とつづき、日本の航空部隊を強くすることに大いに貢献したが、アメリカの空軍をさらに強くすることにも役立ったのは皮肉である。

 それに、「零戦」は、後継機の開発がおくれ、その間エンジンを換装したり機銃の口径を大きくしたりしたが、後継者の技術低下もあり、戦争末期には、ついに全兵装をとりはずし、二五〇キロ爆弾を固縛しての「特攻機」に使われた。悲劇を愛する日本人には、かえって恰好な飛行機だったのかもしれない。

※手持ち図書: 1、『零 戦』その誕生と栄光の記録 主任設計者 堀越二郎』堀越二郎(光文社)

2、『零式戦闘機』吉村 昭(新潮社)

2019.10.30


死の行進

 死の行進 P.34

 開戦直後の日本軍の進撃は速く、新年の二日にはマニラが占領され、マニラ湾の西に位置するバターン半島の攻略がつづいてはじまる。主力は第四八師団だが、このとき誤算があって、この主力が「蘭印攻略戦」に「転用」され、日本軍はパターン攻略で思わぬ辛苦をなめる。密林におおわれた足場の悪い山岳戦、アメリカ・フィリピン連合軍の意外に強固な抵抗……。しかし、さいわいに戦力増強が成功し、二月から三月にかけて、相手の連合軍は追いつめられ、さすがのマッカーサー司令官も、オーストラリアへ脱出する。あとから逃げてきたフィリピンのケソン大統領と同行で、空路の逃避行である(「アイ・シャル・リターン」)が、このときの現地着陸第一声であった)。

 マッカーサーが、オーストラリアにげのびたあとも、アメリカ・フィリピン軍は抗戦をつづけたのである。総指揮官キング少将の投降(四月)に続くウェーンライㇳ中将の降伏命令(五月)に従わず、島々に残留した七〇〇〇余の兵力は、六月九日にやっと全軍降伏した

 それはよかったが、全軍降伏に至る前の四月、日本の軍隊は、思わざる難問題にでくわす。意外に多人数の捕虜が出てしまい、この捕虜部隊の後方移送(約六〇キロ乃至一二〇キロ)が、のちに大きな問題になる。七万六〇〇〇人の中から、「日本軍の虐待と炎天下のため、五〇〇〇人の死者を出した」というもので、これが、いわゆる「パターン死の行進」である。

tunodahusako.itusaihayume.png  七月二〇日、軍司令官の本間雅晴は「待命(たいめい)」(退職を前提として命令を待つこと)の「内閣電報」を受けとる。この日、本間が故国の妻富士子に送った手紙の中に「寝耳に水の如く、八月一日附参謀本部附被仰付(おうせつけられ)後日待命との内閣電報来る。大将の夢は斯くて果敢(はか)なく破れたりと雖(いえども)、心境水の如く(略)」(角田房子『いっさい夢にござ候』中央公論社、昭和四七年)と書いているとおり、八月にはもうフィリピンから東京に帰らされている。

 「死の行進」ということばに定着することになる「俘虜移送」についての抗議が公になるのは、事件発生の二年後のことで、昭和一九年二月五日付でスイスの全権公使セイ・ゴルシュから重光外相へあてた「抗議文」の中に、香港など多くの他地域の事件と並記して書かれたことからであり、この時点では、まだ「パターン死の行進」という呼びなは使われていない。しかし、パターンの一脱走兵から日本軍の残虐行為を聞かされたマッカーサーは、激しく怒り、パターン半島からの移動と、それにつづく捕虜収容所での「残虐行為」の下手人たちを裁くことを「私の聖なる職務」と声明した(コレヒドール陥落一年後、ニューギニア戦場での「祈り」の中で)という。

 昭和二一年四月三日の未明、マニラの刑場ロス・バニオスで、本間雅晴は銃殺された。この日は四年前、本間の指揮する第一四軍がパターン第二次攻撃を開始した日であった。「さあ来い」が、本間の最期の声であった、という。

※角田房子には『責任ラバウルの将軍今村均』(新潮社)もある。

2019.10.31


ミッドウェー海戦

 ミッドウェー海戦 P.36

map.jpg  日本の本州とハワイ諸島の中間、ハワイ寄りの太平洋上に、ミッドウェーと呼ぶ珊瑚礁の小島があった。

 アメリカ軍は、早くからこの小島に飛行場をつくり、いわばハワイの前哨基地としていたのだが、昭和一七年四月一八日、米機動部隊が陸上機を航空母艦に積んで東京などを初空襲させたことのショックから、連合艦隊の山本五十六司令長官は、「ミッドウェー攻撃作戦」を早急に策定し、ミッドウェーを奪取して、逆に日本の対米哨戒の拠点とし、前哨基地ともしようと考えた。

 六月上旬、連合艦隊は、アメリカの艦隊をはるかにしのぐ陣容をそろえて、ミッドウェー攻略に出動する。しかし、その情報はいち早くアメリカ側にキャッチされ、おなじく航空母艦の全力をあげて、迎撃の態勢にあった。

 ちなみに当初の段階で両軍の戦力はどうだったか。日本側は山本長官直率の旗艦「大和」以下戦艦七隻、軽巡(「巡」は巡洋艦)三隻、小型空母一隻を基幹とする「主力部隊」、南雲忠一中将指揮の空母「赤木」「加賀」「飛龍」「蒼竜」の四隻を基幹としての艦上爆撃機八四、艦上攻撃機九三、戦闘機八四、計二六一機と先発戦闘機三六機を搭載した第一機動部隊。これに「攻略部隊」として第二艦隊司令長官近藤信竹中将指揮下の戦艦二、重巡八、軽巡二、小型空母一、水上機母艦二を基幹としての、上陸作戦兵力(一木支隊約三〇〇〇人、第二連合特別陸戦隊約二八〇〇人)を搭載した輸送船一二隻。さらに「先遣部隊」として潜水艦一五隻を配置した。

 これに対してアメリカ海軍は、ニミッツ大将指揮の空母三(「エンタープライズ」「ホーネット」「ヨークタウン」)、巡洋艦八、駆逐艦二〇、計三一隻で、日本側の半分にも満たなかった。

 ところが、六月五日、第一次攻撃隊がミッドウェー空襲をおこなっただけで、「赤木」「加賀」「蒼竜」はアメリカの艦上爆撃機の急降下爆撃の命中弾で炎上、「飛龍」が「ヨークタウン」を沈没させたが、「飛龍」そのものも被爆沈没、第二航空隊司令官山口多聞少将、「飛龍」艦長加来止男大佐は艦と運命を共にした(北蓮蔵画伯の戦争画大作「ミッドウェー海戦・山口多聞提督の最期」がある)。

 同六日、午前二時五五分、山本長官は「ミッドウェー攻撃作戦中止」を命令した。

 圧倒的優勢が無惨な敗北に帰したことへの海軍首脳部の「弁明」は、暗号や無電の「情報戦」に敗れたこと、日本側の索敵機発信が「カタパルト(飛行機射出機)」故障で遅れたこと、航空機の爆弾積みかえたため発進が著しく遅れたこと、このため発進直前の甲板上の全飛行機が魚雷もろとも空襲で爆発、母艦の全滅を招いたこと、などがあった。

 しかし、全体として緒戦の成功に奢った日本海軍の迂闊な誤算が根本原因であったのではないか。


参考:旧日本軍の空母「赤城」、米調査団が発見。ミッドウェー海戦で沈没 2019.10.22 Tue posted at 12:02 JST

ミッドウェー海戦で沈んだ旧日本軍の空母を発見

(CNN) 深海探査や歴史の専門家で構成する米調査チームが、第2次世界大戦中のミッドウェー海戦で沈んだ旧日本海軍の空母「赤城」を発見したと発表した。

 赤城は1942年6月5日、ミッドウェー海戦で沈没した。4日間にわたった海戦では、日本人3057人と米国人307人が命を落とした。

 調査船を運航するバルカンの発表によると、残骸は20日、自律型海底探査機を使った海底探査で発見され、ソナー画像と赤城が沈んだ地点に関する情報を照らし合わせて、残骸が赤城であることを確認した。

 赤城はハワイの真珠湾からおよそ2000キロ北西に位置する太平洋中部のパパハナウモクアケア海洋保護区で、深さ約5000メートルの海底に沈んでいた。

2019.10.24


バンザイ=クリフ

 バンザイ=クリフ P.44

map.jpg  日本を攻撃の中心にしっかり据えたアメリカ軍が、中部マリアナ諸島のサイパン島(本土防衛線として重視されていた)の上陸に成功したのは、昭和一九年の六月一五日、終戦の一年二ゕ月前である。

 この「マリアナ作戦」には、アメリカ側にもいくつかの問題点があった。その第一は、マリアナ諸島に基地を持っても、そこから日本の本土まで当時として最大の爆弾をつみ、無着陸で往復できる爆撃機が未完成だったことだ。

 しかし、ついにそれが完成した。「超要塞」といわれる「ボーイングB29」の出現である。

 これでB29の搭乗員たちは、酸素マスクを装着することなく、一万メートルの高々度で、最大9トンの爆弾を抱え、最長五二〇〇キロ飛ぶことができる。

 もうアメリカ軍は、マリアナからなら、日本本土の主な都市を、どこでも爆撃し、しかも無着陸で基地に帰ることができるのだ。

 サイパン島西南西のマリアナ沖海戦は、六月一九、二〇の両日にわたって展開されたが、日本側は「大鵬」はじめ三隻の空母をうしなう。アメリカ軍のそん害は軽微であった。これで日本は、空母は空母だが、貴重な搭乗員の主力を喪った。

 もう、こうなると、サイパンの運命は決したのと同じである。制海権も制空権も持たぬ軍隊はどうしたらよいか。もはや「玉砕」以外にないことは誰もが知っていた。

 それでも、日本軍の陸上部隊は、二〇日間の激戦をたたかい抜く。七月六日、斎藤義次陸軍中将・南雲忠一海軍中将らが自決し、残余の兵力は七日と八日に、最後の「バンザイ突撃」で戦死した。

 しかし、悲惨なのは、信頼した軍人たちに先立たれてしまった二万五〇〇〇の一般住民の運命である。それでも住民たちは、サイパン島北端のギリギリまで、どうにか辿りつく。アメリカ軍は、しきりに呼びかける。住民を死から引きとめようとするのである。しかし、それに応じるくらいなら、今まで生きてはいない。「投降勧告」をしり目に、用意した手榴弾で自爆する。毒薬を飲む。続々と死んでゆく。「戦陣訓」のさとすとおり「生きて虜囚(りょしゅう)(はづかしめ)を受けず」の死に方を、軍人ならぬ住民が忠実に守ったのである。

 サイパン島の北端にあるマッピ岬からは、とくに多くの女性が断崖に身を躍らせて自殺した。アメリカ兵の呼びかけを尻目に、つぎつぎと身を投げる。中には、幼い子供を抱いたまま身をおどらせる母親もいる。多くのアメリカ兵、とくに若くして従軍した独身の青年兵たちは、この光景のおそろしさに慟哭した、という。「バンザーイー」の最期の一声は、のちのちまで彼等の耳にのこっただろう。のちに、この場所は、「バンザイ=クリフ(崖)」「スイサイド(自殺)=クリフ」と呼ばれる。

2019.10.29


興亜奉公日

 興亜奉公日 P.40

 昭和一四年八月三〇日、総辞職した平沼内閣のあとをついで、阿部信行内閣が成立し、この二日後の九月一日、第二次世界大戦がはじまった。

 阿部内閣は第二次世界大戦への「不介入」と、日中戦争の「早期解決」を政策に打ち出したが、国内問題にも厄介な事情が山積して、国民は苦しい歩みを余儀なくされる。まず食糧をはじめとして、生活必需品の不足が目立ってくる。

 「興亜奉公日」は、「国民精神総動員運動」の一環として、昭和一四年九月一日から、毎月一日をそう呼ぶことに決めたものであった。「興亜」とは、アジアを興こす、いまのことばで言えばアジアを「活性化」すること、「奉公」は、いうまでもなく「戦場の労苦を偲」び私生活を二の次、三の次として「公け」のために「奉仕」しましょう、という趣旨である。

 しかし、そのために一体なにをすればいいのか。そこで決められたのが、この日には全国民が朝早く起きて神社に参拝する、食事は一汁一菜(いちじゅいっさい)と質素に切りつめ、禁酒、子どもは梅干し一つだけの「日の丸弁当」、「勤労奉仕」にはげみ、飲酒、接客の各業種は休業。いまから考えれば、理解に苦しむほどつまらない(●●●●●)日が、この「興亜奉公日」であった。「興亜の大業を翼賛」するために、個人生活のいろいろな欲望を抑え、きりつめ、まじめに働く日、といってよかろう。

 昭和一四年というこの年は、「戦時立法」が多かった。次々に法律をつくって、統制し、制限し、なんとか国民を戦争の方向へ引っぱっていく、そのための法律づくりが頻繁におこなわれ、違反するものは「非国民」の名前で、きびしく罰する立法が進められたのである。

 中でも、「米」の統制と配給制度が実施されたのには、ほとんどの国民が驚いた。当時の日本人は、現在とは比較にならぬほど「米」に依存した食生活に親しんでいた。その米が統制され、国民の自由にはさせぬというのだから、当時の国民はひそかに重大な危機感を抱いたはずである。米の「配給」は、「興亜奉公日」が制定される前の四月から法令で公布されていたから、国民も予想はしていたが、その実施の一〇月一日を迎えると、危機感は一段と深刻化する。やがて、米の消費をおさえるため、米を精白して食べやすい白米にすることが禁止された。次の年の昭和一五年に、農家に米の強制出荷が命令され、いわゆる米の「配給制」がはじまるのだから、為政者はかなり前々から計画を練っていたことがわかる。ほかの生活物質とちがって、米はむかしから日本人とは切っても切れないもの、それを統制する法律が公布されては、国民の気持が沈んでくるのは当然である。「統制」は女性のヘアスタイルにも及び、一四年の、パーマネット・ウェーブの廃止が決まった。

 「興亜奉公日」(毎月一日)は、昭和一七年一月八日から、毎月八日の「大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)」に切りかえられる。「太平洋戦争」完遂という目的を国民に滲透させるための制定である。 

※参考
14.06.16 ネオン全廃、中元歳暮の贈答廃止、学生の長髪禁止、パーマネット廃止など生活刷新案決定。
14.09.01 初の(興亜奉公日)(毎月1日実施)。待合・バー・料理屋など酒不買で殆ど休業。ネオン消燈。
15.01.05 広島県吉名村、米の自主的消費規制。池田勇人首相の出身地。
15.11.10 紀元2600年祝賀行事、赤飯用もち米特配。
 以上『近代日本総合年表』岩波書店による。

※私が子供のころ、家では、玄米を一升瓶に詰めて搗いていた。

2019.10.27


八紘一宇

 八紘一宇 P.74

 紀元二六〇〇年の式典で、総理大臣の近衛文麿は、天皇の「臣」を代表して、非常時を打開し、「八紘一宇」の「皇謨(こうぼ)」を「翼賛」すると宣言した。そして、宏く大きく限りない天皇の「聖恩」にむくいるのが国民の覚悟であると、公けに、これも「宣言」した。

 「八紘一宇」の「皇謨」とは何だろうか。私などのように昭和以前に生まれた日本人は、こうして意味のよくわからない日本語を、いくつも知っていた。いや、知らされていたのである。花電車に掲げられた「天壌無窮」もそうだし、「八紘一宇」もそうである。「国体明徴」またしかり。なんとなく、現代語でいうフィーリング●●●●●●)としてはわかるが、正確な意味となると、自信が持てない。戦前戦中の日本語にはそんな言葉が多かったようだ。

 私は、ちょうど「紀元二六〇〇年」の昭和一五年に、高校の教室でこの「八紘一宇」の原典らしいものについて教わった記憶がある。そのころ「国体の本義」という教科書を文部省が編集し、内閣印刷局が印刷と発行(昭和一二年五月)、さらに販売まで取りしきっておて、全国の学校・社会教化団体・官庁に配布されたものである。

 その「国体の本義」は、「緒言」「第一 大日本国体」「第二 国史における国体の顕現」から成り、巻頭に「本書は国体を明徴にし、国民精神を涵養振作すべき刻下の急務に鑑みて編集した」とある。ついで第一章「大日本国体」の第一節に肇国(ちょうこく)」という項があり、まずその最初のところを見ると、「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心趣旨を奉体して、()く忠孝の美徳を発揮しうる。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。」というのだから、なんのことはない、明治の「教育に関する勅語」の一節と、言おうとするところは似たりよったりである。

 ところが、あらためてこの教科書をずっと読んでいくと、「八紘一宇」が出て神武天皇が大和の橿原(かしはら)の地に都を定めたときの詔(みことのり)の中に、それがある。乾霊(あまつかみ)という祖先の神から国(日本)を授けられたことを感謝し、子供を正しく養い育てようと思う、そして国内をおさめて都をひらき、八紘(あめのした)(おお)つて(いえ)(家)としたい……、というのだから、要するに天下を一つ国にしたい、これにつきるようだ。

 これとまた同じことは『日本書紀』にもあり、そちらは「六合を兼ねて以て都開き、八紘を掩ひて而して宇と為す」(巻の三)というのだから、要するに元は一つであろう。

 中国から東南アジアにかけて勢力を伸ばし、北京やシンガポールを自国の都市の一つとみなして、諸民族を統合し「大東亜共栄圏」を作ろうではないか……。田中智学(宗教家)が造語したという「八紘一宇」を昭和の時代にあてはめると、およそこんなことになったのではないか。

2019.10.25


9gunsin.jpg

軍 神
 軍 神 P.78

 ある時代までの日本は、武人や軍人の神格化になじみやすい国民的気風が明らかであった旅順港口の「閉塞(へいそく)」(古い舟艇を港口の海底に沈め、敵艦隊の出入を妨害する作戦)の指揮中戦死した広瀬武夫は「軍神広瀬と、其のな残れど」と文部唱歌にもうたわれた日露戦争の英雄で、神田の万世橋に建てられた銅像(戦後、撤去)は東京の名物の一つになった。

 くだって「大東亜戦争」にも、「軍神」はその開幕を飾ることになる。しかもその「軍神」は一人ではなく、九人であった。「真珠湾」の緒戦における海軍の作戦中に死んだいわゆる「九軍神」がそれである。

 「大東亜戦争」は、ハワイ、マレー半島、フィリッピンなどの太平洋西部の各地と中国大陸で、主に「奇襲作戦」による戦端を開いたが、その段階で効果の大きかったのは航空部隊の「空」からの攻撃で、イギリス海軍の新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェルズ」と巡洋艦「レパルス」を襲って沈没させた「マレー沖海戦」の立役者は軍艦ではなく飛行機であった。

 また、アメリカの海軍の重要な基地の一つであったハワイの真珠湾を襲って、停泊中のアメリカ太平洋艦隊と陸上施設に大きなそん害を与えたのも、南雲(なぐも)忠一海軍中将が率いる空母六隻をふくむ第一航空隊を主力とする「機動部隊」である。

 しかし、この緒戦で誕生した「軍神」は海軍は海軍でも、それらのはなばなしい空の作戦の勇士ではなく、隠密の行動に終始する小型の潜水艦の搭乗員であった。

 開戦の翌年の三月六日、五隻の「特殊潜航艇」に乗り込んで「戦死」した「特別攻撃隊」の九人のな前が公表され、太平洋戦争ではじめての「二階級特進」の「軍神」として顕彰された。四月八日には、日比谷公園でこの九人の軍人の合同海軍葬がいとなまれたが、五隻の潜航艇は、それぞれ二人が乗る型式なのに、軍神の数が「九柱(くはしら)」であることに首をかしげない国民はいなかった。

 実は、中の一隻は攻撃中の故障でオフア島の海岸に打ち上げられ、そのうちのひとりは意識不明のまま捕虜になっていたのである。この「捕虜第一号」については、報道の統制で、戦後になるまで国民には秘密にされた。

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参考:牛島秀彦『九軍神は語らず』(講談社)P.30によると、伊24潜(酒巻艇)の遅れは、転輪羅針盤(ジャイロ・コンパス)の故障で(その故に、酒巻艇は、湾内突入がかなわず、裏オフアのベローズ・ビーチ沖に坐礁し、酒巻和男少尉は、捕虜第一号となった)出発が遅れたのは、判明しているが、第二陣の広尾艇が大幅に遅れた原因は、戦後の今日でも不明のままだ。

 五隻の特殊潜航艇に乗り組んだ十人の二十台の青年職業軍人たちの心情は、もはや「決死」ではなく「必死」であった。


 昨夏の獅子文六が岩田豊雄の本名で、昭和一七年七月から一二月まで朝日新聞に連載した小説「海軍」は、「九軍神」のひとり横山正治をモデルにした作品で、「戦争文学の秀作」と評価され、その年度の「朝日文化賞」を受賞した。

参考:『獅子文六全集』第十六巻 (朝日新聞社)昭和四十三年七月二十日印刷発行を参照。

 この軍神に先立つ西住戦車隊長、加藤 隼戦闘隊長を加えた「三軍神」の「勲功」はそれぞれ映画化され、好評を博した。生前の軍神に扮したのは、横山が山内明、西住が上原謙、加藤が藤田進であった。

参考文献:牛島秀彦『九軍神は語らず』講談社 一九七六

2019.10.24


転 進

 転 進 P.82

 文字どおりに解釈すれば、行動の方向を変えることだから、それが「敗走」に直接つながるとは限らない。しかし太平洋戦争の戦場で、日本の軍隊が「転進」したとたびたび報道されるうちに、受けとるほうの国民は、敗走したと解釈するようになる。日本軍が「退却」し、戦線を離脱したことを、戦況が日本に不利になりつつあることを、徐々に知るようになった。

 その時期は、開戦の次の昭和一七年、「真珠湾」の輝かしい「戦果」から一年もたたない一七年の初秋あたりからであった。

 さらに一八年に入ると、控え目に使われていた「転進」が、だんだん目立つようになる。一七年四月のアメリカ空軍による日本本土初空襲のときは、東京の空に入ってきた敵機は一機だけで、被害もわずかだったが、「いつかは……」という悪い予感は、多くの国民の頭に拡がっていった。ヨーロッパ戦線では、一八年二月二日にドイツ軍がソビエト領内から撤退をはじめ、イタリアもドイツを助けて参戦したものの、五月一二日北アフリカで大敗し、同じ年の七月二四日、ファシスト大評議会で、指導者ムッソリーニの失脚が決議される。

 「転進」の新聞発表には、ほとんど場合、現地での「任務」は「作戦」を「終了」したための行動という説明がつけられたが、国民は次第にそれを素直に受けとらなくなる。日本軍が敗北し、逃げ出した、と暗黙うちに察知した。ガダルカナル島にいた日本軍は総攻撃で壊滅的な打撃を受け、運良く逃げ出した兵力だけが、フィリッピンやラバウルへ、いのちからがら「転進」する。その一八年四月一八日、連合司令長官の山本五十六提督が、ソロモン海域を空から視察しているうちにアメリカ空軍に狙いうたれ、戦死した。

 太平洋戦争の主導権が、敵ににぎられていることを、国民はもう、いやおうなく認めざるを得なかった。

 それでも、国内の日本人の大衆を、より以上の戦争と献身にかり立てるため、「標語」がつぎつぎ作られていく。「進めつらぬけ米英に、最後のとどめ刺す日まで」「山本司令長官につづけ、一億玉砕」「元帥の(あだ)は増産で討て」など。

 山本元帥戦死の次の五月一二日には、アメリカ軍がアリューシャン列島のアッツ島に上陸し、やがて守備部隊の山崎保代(やまさき やすよ)部隊長以下全将兵戦死の報がつたわる。すると、「アッツの仇は増産で」という標語が作られる。この「アッツ島」での悲劇的敗戦には、もう「転進」などというごまかし(●●●●)はきかない。全員が「玉砕」と発表された。

 日本軍の守備部隊がいたマキン・タラワ(南方海域)両島にも、一一月には米軍が上陸、凄惨な戦闘ののち、日本軍の全滅が伝えられた。国内でも次の月の一二月に「学徒出陣」がおこなわれ、一般の男子に適用される「徴兵検査」が二〇歳から一九歳へと引き下げられた。

2019.10.26


玉 砕

 玉 砕 P.90

 中国の古語が起源のようで、「玉のように美しく砕けること」、転じて「名誉や忠義を重んじて、いさぎよく死ぬこと」と、辞典などには解いてある。玉は玉だから美しいのであって、その玉が砕けることが、なぜ美しいのか。宝石は砕ける前の美しさが生命である。「玉砕」の美学には、古すぎてついていけない感じが伴う。もしかすると、本来は「玉」ではなかったものが、「砕け」たことによって「玉」に昇格したのかもしれない。それとも、「砕け」かたに各種あって、問題は「砕け」かた如何なのではないか。「玉」とされる「砕け」かたと、されない「砕け」かたがあるのかもしれない。

 では、「玉砕」とされるためには、どうすればよいか。一つは、そのときの「社会的通念」によって、その「砕け」かたが「悲壮」であるとされるような条件下に死ぬ、いさぎよく(●●●●●)と見なされるような死にかたで死ぬことである。もう一つは、当事者が「玉砕」を宣言して死ぬことである。いわば、後世の評価を先どりして死ぬことである。

 と対比されることばに、「瓦全(がぜん)」「甎全(せんぜん)」がある。その意味は、「瓦となって安全に残ること」「瓦のようにつまらないものとなって、何もなすことなく、いたずらに生きながらえていること」(『大漢和辞典』大修館書店)とされている。瓦は、明らかに蔑視されている。

 死が目前に来たと悟ったときの日本人には、むかしから「いさぎよく死ぬ」というモラルがあった。自ら進んで、「死」の中に入っていくこと、それが美徳とされた。本当は死にたくなかったが、まわりの状況から、どうしても、という形跡などは些かも残さず死ぬ、それが美しい死にかたであった。

 太平洋戦争後期、西部太平洋の南洋委任統治領マリアナ群島のサイパン島で展開された日米攻防戦を「サイパン島戦」と呼ぶ。昭和一九年六月一五日、連合軍はオレアイ海岸に上陸をはじめる。日本軍も善戦したが次第に追いつめられ、七月五日、「ワレラ玉砕ヲモッテ太平洋ノ防波堤タラントス」との「訣別の電報」を発信し、六日、中部太平洋方面艦隊司令長官南雲忠一中将、第四三師団長斉藤義次中将は自決、全軍が総攻撃して「玉砕」した。民間人をふくむ日本人の死者五万一二四四人。

 このサイパン島の他にも、主な「玉砕」として、次の事例があった。

  アッツ島(二千五百人)、昭和一八年五月二九日。

  マキン・タラワ両島(五四〇〇人)、同一八年一一月二五日。

  クェゼリン・ルオット両島(六八〇〇人)、同一九年二月六日。

  グアム島(一八〇〇〇人)、同一九年八月一〇日。

  硫黄島(二万三〇〇〇人)、同二〇年三月一七日。

2019.10.28


千 人 針

 千 人 針 P.132

 盧溝橋事件から発した「北支事変」につき、政府が「自衛行動」をとることを声明し、国内三個師団に「華北派遣命令」が発令されたのは昭和一二年七月二七日。 

 その年の暮れの一二月二六日、内閣情報部から発表されたのが国民歌「愛国行進曲」(「見よ東海の空明けて、旭日高く耀けば……」)である。

 官選歌「愛国行進曲」の歌詞は、鳥取県の青年詩人森川幸雄の作だが、「補作」にあたって北原白秋と佐々木信綱が激論をたたかわせ、ほとんど原形をとどめなかった、という。作曲は「軍艦行進曲」の瀬戸口藤吉。昭和一二年は、この「愛国行進曲」のメロディーで暮れたといいわれ、六社によって同時発売されたレコードは百万枚という空前の売れ行きを見せた。

 NHKの国民歌謡として作られた「千人針」(サトウ・ハチロウー作詞、乗松昭博作曲)も、歌詞は当時のものだが、専属の関係からレコード化がむずかしく、別に長津義司の作曲のものが関種子の歌唱で、レコードがポリドールから発売された。乗松昭博作曲のもののレコードは、戦後井口小夜子が歌い、キングから発売されている。

   〽橋のたもとに街角に/千人針の人の数
   〽私も一針縫いたいと/じっと見ている昼の月

と、この歌にあるとおり、銀座でも新宿でも、また東京以外の都市でも、人通りの多い街のあちこちに、千人針の布を持って立つ人、足をとめて「私も一針」と針を持つ人の姿が、必ずといっていいほど見受けられたものである。布には、あたかじめ一千個の(しるし)が丸くつけられており、そこへ一針縫って糸を結ぶ。一枚の「千人針」には、千人の女性の思いが縫いつけられている、というもので、これを腹にまいて出征する兵士には、敵弾も避けてとおる、とされていた。

 中でも、"トラは千里の道を往って千里の道を還る"との言いつたえから、寅歳の女性は自分の歳の数だけ縫うことができた。

 私も陸軍の兵士のひとりとして、昭和一九年の一月、満州の新京の歩兵部隊に初年兵入隊したとき、一枚の千人針を持っていった。中には死線(●●)をこえるというまじない(●●●●)に「五銭」の貨幣を縫いつけられてある千人針を持ってきていた新兵もいた。

 しかし実際は、この千人針にも困った問題があった。うっかりシラミをわかすと、千個の縫い目に一匹ずつ計千匹のシラミが住みつきかねないことである。

※私が小学生のころ、女の子がシラミをわかし、櫛ですきとっていた。いくらでもいた。翌日もおなじようであった。消毒薬もなかったのだろうか。

※愛国婦人会,大日本連合婦人会の人たちが活躍していた。

2019.10.28


撃ちてし止まむ

 撃ちてし止まむ P.126

 昭和一八年の三月一〇日は、太平洋戦争がはじまって二度目の「陸軍記念日」であった。もともとこの記念日は明治三八年の奉天会戦における日本軍の勝利を記念して翌三九年、日本海海戦を記念する「海軍記念日」(五月二七日)とともに制定され、戦争中は幅をきかせたものである(戦後廃止)。この開戦後二度目の陸軍記念日には、「撃ちてし止まむ」が、国民運動のスローガンに昇格し、各所で国民の目をひくことになった。

utitesiyaman.png  まず東京では、巨大な写真のパネル(添付写真)が、有楽町あたりの道行く人びとの目をおどろかせた。

 その図柄には、鉄カブトをかぶり、防毒面の袋を首にかけた帝国陸軍歩兵の兵士が、なにごとかを怒号しながら、右手に握った手榴弾らしいものを、今しも前方の敵陣にむけて投げつけるとともに、おそらく突撃に移ろうとする緊迫した模様が写されている。それが朝日新聞社と道路ひとつへだてて日劇(日本劇場)の正面の壁面いっぱいに取りつけられ、その巨大さと迫力ある画面のほどに気押されないものはなかった。

 おそらくすぐ近くの高架線を走る列車や省線電車(国電)の乗客も、目をおどろかせらただろう。 

 『ボクラ少国民・第三部 撃チテシ止マン』(辺境社、昭和五二年)の著者山中恒の説明によると、この企画は、陸軍記念日の「撃ちてし止まむ」国民運動にこたえ、陸軍省報道部指導、陸軍戸山学校協力のもとに朝日新聞社が企画し、三月五日を期して発表されたもので、写真の原板は6×6判であるのを、まず六尺四方に引き伸ばし、それを三五等分し、さらに一つ一つをタテ九尺、ヨコ六尺に引き伸ばして、「百畳敷」の大きさに完成したもの、とある。三五等分した一枚ずつに同じ色調を出すのに苦労し、完成までに約一ゕ月かかった、という。

 この「撃ちてし止まむ」の出典は、いうまでもなく『古事記』(中の巻)で、神武天皇が「御東征」のみぎり、長髄彦(ながすねひこ)(ㇳミノナガスネビコの略称)「御討伐」のときの歌、

   みつみつし 久米の子らが 垣下に うゑしはじかみ(椒)
   口ひひく(しびれてひりひりする) われは忘れじ 撃ちてし止まむ  

である。要するに将兵の士気を鼓舞する歌で、まさに、この前年昭和一七年六月五日にはミッドウェー沖海戦で日本軍の大敗があり、その秋のソロモン海戦ではさらに決定的な打撃をこうむって、戦局は緒戦のときとはうらはらの"負けいくさ"に転換していたのである。

 「撃ちてし止まむ」のスローガン(大政翼賛会、選定)は、この他ポスターなどにデザインされ、宮本三郎が描いた陸軍兵士が星条旗を踏みにじり、銃を構えて突撃に移る姿、また横山隆一デザインの「フクちゃん」が敵をけとばしているポスターなどもあった。 

2019.11.01


海行かば

 海行かば P.132

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 海()かば、水漬(みず)(かばね)
 山行かば、草むす屍、
 大君の()にこそ死なめ。かえり()はせじ。

 この歌の詞が、そもそもは『万葉集』(巻一八)に出ている大伴家持の長歌の一節であること、大君のお側で死のう後ろを顧みることはすまいという意味を持つことは、広く知られている。

参考:『新訓万葉集』(岩波文庫)下巻P.244

では、この歌は誰が、いつ作曲したものか。

 作曲者は、信時潔(のぶとききよし)である。ところが、信時がメロディーをつけた「海行かば」の前に、もう一つの「海行かば」があり、そのほうは宮内省の伶人(れいじん)(「音楽を奏する人」の古語)であった東儀季芳(とうぎすえよし)が明治一三年に作曲し、海軍の「礼式歌」として使われた、という。

 戦時中にさかんに歌われたのは、その東儀が作曲した古いほうではなく、信時の作曲になる新しい「海行かば」であった。

 では、信時潔は、いつこの新「海行かば」を作曲したか。金田一春彦・安西愛子編の『日本の唱歌(下)』(講談社文庫、昭和五七年)によれば、昭和一二年、NHKの委嘱により、「総理大臣その他顕要の地位にある人が放送で講演をする場合のテーマ音楽」として作曲された、という。つまり、「海行かば」は放送局が使うVIP用のテーマ曲であった。

 信時潔。この人は明治二〇年に大阪で生まれ、東京音楽学校(現、東京芸術大学)の本科器楽部を明治四三年に卒業後、さらに新設の研究科作曲部に学んだ。ドイツに留学、大正一二年から昭和七年まで母校で作曲を教えた。下総皖一(しもふさかんいち)や諸井三郎らの師である。

 昭和一八年一二月に、文部省と大政翼賛会は、この「海行かば」を儀式に用いることを決め、以来「君が代」に次ぐ「準国歌」と見なされた。

 しかし戦争末期になると、ラジオで「玉砕」を報道するときのテーマ曲に使われたので、悲しい思い出のイメージで聴く人も多かったはずである。

 また、海軍省制定による曲には、「海行かば」の他に、山本五十六元帥の葬礼(昭和一八年六月五日、国葬)のさい、霊車が水交社から日比谷の斎場に向う間、軍楽隊によって奏されたという「命を捨てて」がある。

   命を捨ててますらをが
   たてしいさをば天地(あめつち)
   あるべきかぎりかたりつぎ
   いひつぎゆかんのちの世に
   絶えせずつきじよろづ世も
2019.10.28


月月火水木金金

 月月火水木金金 P.132

kindaiti.nihonnoshouka.jpg  もとは海軍のことばで、正式の用語ではないが、海軍では土曜も日曜も「返上」して、連日訓練にはげんでいる、という意味である。このことばの起こりには二説あって、すでに二〇年も前から海軍で使われていた、という説と、昭和一五年ころ、海軍大佐だった津留雄三という人物が言いはじめた、という説があったことを、金田一春彦が『日本の唱歌(下)』に書いている。

 いずれにせよ、このことばを題名にした歌「月月火水木金金」は高橋俊策の作詞で、内田栄一が歌い、昭和一五年の一一月にポリドールからレコードが発売された。歌詞は四節から成り、江口夜詩(えぐち よし)が曲を作った。その第一節と第四節は次のとおりである。

   朝だ夜明けだ 潮の息吹き
   ぐんと吸い込む(あかがね)色の
   胸に若さの漲る誇り
   海の男の艦隊勤務
      月月火水木金金

   どんどんぶつかる 怒涛の唄に
   ゆれる釣床(つりとこ) 今宵の夢は
   海の男だ艦隊勤務   
   月月火水木金金

 この昭和一五年一一月は、「紀元二千六百年祝賀式典」が、宮城外苑に天皇・皇后をはじめ、全皇族。文部百官・外国大公使。全国各地代表・外国在住代表など五万五千人の参列者をあつめて開かれた年でもある。さまざまな奉祝行事がくりひろげられた。祝賀行事のあいだは、町々に"祝へ元気に朗らかに"の立看板が見られたが、その文句もまもなく"祝い終わった、さあ働こう"に変わる。

 しかし、「月月火水木金金」の唄のほうは、その後もヒットして、この海軍の歌を、なぜか老若男女を問わず歌った。詞も曲も、わかりやすく歌いやすかったためでもあろう。が、その底にはやはり日本人になじみやすい勤労礼賛の傾向がひそんでいたと思われる。「休日返上」を美徳とする気風は、戦後に到っても長く衰えなかった。「週休二日制」が定着したかに見える現在からは、信じ難いようなテーマの歌、それが「月月火水木金金」である。

 労働組合運動も、「全日本労働総同盟」(昭和一一年)、「産業報国連盟」(昭和一三年)を経て、この年「大日本産業報国会」が創立(一一月二三日)され、労資融合、戦争協力に急速に傾く。

※私の「週休二日制」は、昭和50年(1975年)4月からであった。

2019.12.25


竹 槍

 竹 槍 P.140

 太平洋戦争の初期は、日本軍に有利な展開が陸海空の各戦場で見られ、敗戦などということは考えられない、というのが一般の通念であった。

 各方面での戦局の緊迫が、つぎつぎに伝えられるようになるのは昭和一八に入ってからで、やがてその推移に不安と焦燥を覚えはじめていた国民が大きなショックを受けたニュースがある。

 それは昭和一九年二月二三日の毎日新聞の第一面に掲げられた戦局解説記事で、連合軍の「ハサミ討ち作戦」が進捗して、日本の「絶対防衛線」がピンチに瀕している、という訴えである。

 つまり、連合軍がマーシャル群島からトラック島へと、日本軍の防衛線を狙う線、ソロモン・ニューギニアからラバウルを狙う線、この双方が「蟹のハサミ」のように迫ってきて、日本の絶対防衛線が危機に瀕していることを如実に示す緊迫したニュースである。

 そして、その記事の見出しというのが「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋防空機だ」という大きなもので、この戦況が航空機の膨大な「消耗戦」で、このままでは敗戦必至と強く訴え、この決戦海面に航空機を送れと、率直に説いた記事であった。

 戦局は昭和一八年に入って緊迫の度を加え、国民も一様に不安をつよく感じていただけに、この記事はショックを与えるとともに、共感を呼んだ。

 この記事を書いた海軍担当記者新みょう丈夫(しんみょうたけお)は、決して戦局を誇張して伝えたのではなく、二月一七日の「トラック島大空襲」に、いよいよ日本の戦況が破局に直面したと感じ、思ったままを、見たとおりの真相を記事に書いたのであった。

 この記事は、大本営報道部や情報局筋では、むしろ好評で迎えられたという。しかし、唯一人、激昂した人物がいる。怪しからぬ記事だと、怒り狂った軍人がいる。首相の東条英機である。

 これには、前々から陸軍と海軍との間のシコリのようなものが一役買っていた。航空機の優先権を陸軍が握っていたため、常に有利な配分を受けている。これを根にもった海軍が(事実、海軍も艦隊を消耗し、航空機を欲しがってはいたのだが)、飛行機の配分を有利にするため、この記事が書かれたと、東条は邪推したわけである。

 新名記者は、東条首相の厳命で「懲罰招集」にあい、四国・丸亀の機関銃中隊に三七歳で入隊させられた、という。これが世にいう「竹槍事件」である。

 昭和一九年八月、閣議は「国民総武装」を決定、「大日本婦人会」をはじめ、「竹槍訓練」も本格化するに到った。もはや飛行機も銃も頼むに足りず、残されたせめてもの武器である「竹槍」で、敵軍を水際に刺殺する以外に手はないとでも考えたのであろうか。

20119.10.28


戦 陣 訓

 戦 陣 訓 P.170

 私は、身体の大きい健康な青年だったから、徴兵検査は「甲種合格」でパスし、故郷の名古屋市とは縁もゆかりもない、当時は満州といった中国東北部の新京市の中心部にある「関東軍独立守備歩兵第七大隊第二中隊」に、初年兵として入隊した。昭和一九年一月一八日のことである。

 こんな古いことを、こまかく正確に書けるのは、私の記憶が良かったからではない。今でも持っている当時の軍隊手牒(てちょう)のおわりのほうの「履歴」のページに、係りの下士官が達筆の細字で記入してくれたことがらを、ここに写しているにすぎないのである。

 この「軍隊手牒」は、ふつうの手帳としてよりも、むしろ正式の身分証明書、または軍人たるものの(ライセンス)としての意味をを持っていて、兵営の生活に不慣れな初年兵時代や、激しい演習のつづく幹部候補生のころには、「亡失」などを未然に防ぐため、所属中隊の事務室に一括してあずけてあったものだ

 その後、任地を転々として敗戦後に帰宅するまで、置き忘れたりなくしたりせずに持っていてよかったとしみじみ思うわけだが、いま「戦陣訓」というものの原文を再読することができるのも、この古ぼけた一冊の手帳のおかげである。

 「軍人勅諭」というものがあった。明治天皇が軍人に対して下した「訓戒」で、この「勅諭」は、「軍隊手牒」の最初のところに、とくに朱色の活字で印刷してある。それは、「一、軍人は忠節を尽すを本分とすべし」からはじまる「五ヶ条」の「訓戒」と、それに先行する「前文」、あとの「後文」、この三部構成になっていて、最後の日附は明治一五年一月四日である。

 ところで、この「軍隊手牒」の中でも、とくに多くのページを占めているのが「戦陣訓」の部分で、全文は二二ページに及び、「勅諭」とは別の、写真しょく字に似た小さめの美しい字体の活字で印刷されている。

 なぜ「軍人勅諭」のほかに、わざわこうして、「戦陣訓」を新しく布告したのか。「戦陣訓」の「序」の中に、

「……戦陣の環境たる、()もすれば眼前の事象に捉はれて大本(たいほん)を逸し、時に其の行動軍人の本分に(もと)るが如きことなしとせず。深く慎まざるべけんや。(すなは)ち既往の経験に(かんが)み、常に戦陣に於て勅諭仰ぎて(これ)が履行の完璧を期せむが為、具体的行動の慿拠(ひょうきょ)を示し、以て皇軍道義の昂揚を図らんとす。是戦陣訓の本旨とする所なり」
とあるのを見ると、かなり深刻に受けとめていたらしい、と私には感じられるのである。

 たしかに、通説としていわれているように、日本軍の「外地」における軍事活動が拡大するとともに、兵員数も急激に増大し、さらに兵役年齢の引下げやら、引退していた「予備役」の再三の「招集」も目に見えて増えている。多かろう悪かろうに加えて、訓練も統制も手薄になる。案の定、軍隊内の規律やモラルが低下してきた、というのが、その危機感の内容だったと、今からなら想像がつくわけである。

 しかし、「戦陣訓」の中の「第八 なを惜しむ」の、

  ()きて虜囚の(はづかしめ)()けず、()して罪禍(ざいか)汚名(おめい)(のこ)(なか))れ

の一項が、多くの悲劇を生んだことも否定できない。

 フィリピン戦線の末期に山中での救護活動に挺身した大山タイ(「救護班要員トシテ招集ス」の項参照:この本のP.46)の談話がそれを物語っている。

 たしかに、この一項にこだわりすぎたため、またこの一項について執拗に教育されたため、死ななくてもよかった兵隊や非戦闘員が死んだ事実は少なくなかったはずである。そこに"軍隊残酷物語"を見出す考え方を非難し得る人が何人いるか。

 別の項(「英霊」:この本のP.86)にも書いたが、不名誉な死に方をした(かど)で、遺骨の入った箱が荒縄でがんじがらめにされていたという例もあるくらいだから、死んでも「(はづかしめ)」からは解放されないわけである。

 ここで私が考えるのは、「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」の一項が、明治一五年に作られた「軍人勅諭」にある「信義」の項の"だめ押し"だったのではないか、ということだ。そこで、明治の「勅諭」を再読してみると、「信義」(軍人は信義を重んずべし)の部分に、「信とは己が(こと)践行(ふみおこな)ひ義とは己が(ぶん)を尽すをいふなり」と定義してある。おぼろげなこと、自信のないことをうっかり約束してしまうと、あとで二進(につち)三進(さつち)もいかなくなり、"身の()き所に苦しむ"ことにもなりやすいから、はじめによくよく考え、これはあぶないと感じたら、すぐその場でストップするのがよい、深入りしてはならぬ。「(いにしえ)より(ある)は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に踏迷ひて私情の信義を守りあたら英雄豪傑どもが禍に遭ひ身を滅し、(しかばね)の上の汚名を後世(のちのよ)まで遺せること、其例尠(そのためしすくな)からぬもの深く警めでやはあるべき」とつづいているが、この中の「屍の上の汚名を後世まで遺せること、其例尠からぬもの深く警めでやはあるべき」は、そのまま「死して罪過の汚名を残すこと勿れ」に写されている。

 それにしても、問題はその前の、「生きて虜囚の辱めを受けず」で、降伏という戦場での止むを得ぬ行動への理解の浅さが、はっきりここにあらわれているといえないだろうか。

 「戦陣訓」の序に「夫れ戦陣は、大命に基き、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦へば必ず勝ち、遍く皇道を宣布し、敵をして仰いで御稜威(みいつ)の尊厳を感銘せしむる処なり」とあるのを見れば、当時(昭和一六年一月八日)としても「戦陣訓」がかなりずれた戦闘認識からの所産だったことがわかろうというものである。

2019.10.29


三八式歩兵銃

 三八式歩兵銃 P.176

 明治三八年に、おそらくは日露戦争の勝利を記念して制定された日本陸軍の基本的な「単発銃」で、以後太平洋戦争まで歩兵の「基幹小銃」として、また戦前戦中の学校教練「中学以上の学校で男子の課業としておこなわれた軍事教育」でも、広く使われた。ただし、中等教育の教練では、高学年に限り、この銃を使う「執銃(しつじゅう)教練」、低学年には銃を持たない「徒手(としゅ)教練」が課せられた。

 「三八式」と名づけられた旧式の銃であったものの、性能は良く、私が後年陸軍の兵士として実際に使った経験から見ても、改良型の「九九式小銃」より信頼度が高った。一部は海外に輸出されたというが、現在でもどこかのゲリラ戦で愛用されていると思う。

 作家の駒田信二は中国での陸戦での体験を作品化した小説『脱出』の中で、開拓地で射撃するときの「三八式小銃」の発射音を「ピャック―ン」と文字化しているが、まさにそのとおりの音を発した。

 作動は「槓桿(こうかん)」(引き金)を右手で握り、持ち上げ、手前に引く「ボルト・アクション」にはじまり、一動作で一発しか発射できない。給弾方式は「挿弾子(そうだんし)」による五発装てん、"重厚な風格"を持ち、私は今でも愛着を感じている。この「三八式」は、昭和一四年(紀元二五九九年)に、外国なみの七.七ミリ口径の「九九式小銃」に切かわった。口径が「三八式」より一.二ミリ長くなったことにより、「貫徹力」を増大した、とされたが、全長は一六.五センチ短く、正式のな前は「九九式歩兵短小銃」であった。

 一見モダンで性能もよさそうだったが、実地の歩兵としての感想では"見かけ倒し"で、命中精度は「三八式」ほどではなく、乱暴に扱っても狂いの少ない旧式のこの銃の人気は衰えなかった。

 不満の一つは、実弾の発射時に肩に受ける反動が大きく、銃弾の口径を大きくしても、命中精度が改良されなければ無駄、と思ったものである。

 いずれにせよ、歩兵の銃は、「陛下から授けられた」ものとして、なかば神格化され、粗略に扱ったり、手入れが不十分だったりすると、それこそ目玉がとび出るほど叱責され、殴打される。私もカラフトの部隊にいた初年兵のころ、吹けば飛ぶほどの埃りを一つだけついていた(室内)で、というので、下士官の班長からなぐられ、顔がしばらく変形していたことがあった。

 撲られるのはまだしも、どこかの兵営で、歩哨(ほしょう)(警備)に立っているとき、うっかり居眠りをし、自分の銃を(巡察)(営内を見まわる)の将校に持ち去られたのを苦にして、営内の古井戸に投身自殺した兵がいた。以来、深夜その辺りを通ると、井戸の底から、「銃をかえせ」という声がきこえた、という。このパターンの"怪談"は、なぜか各所の部隊に語りつがれていた。

2019.10.31


ゲートル
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 げーとる P.180

 昭和一八年の夏ごろの銀座を撮ったスナップ写真に、「ガ島ノ神兵ヲ忘レルナ!! 防空服装ニナレ 銀座五丁目指導係」と大書した立て札が見えているのがある。

 ニューギニア方面の重要な拠点としてのガダルカナル島(ソロモン諸島)に、日本海軍の設営部隊が飛行場の建設にとりかかり、完成に近づいたころの昭和一七年八月八日と二四日の両日、ソロモン海域で激しい海戦があった。ガダルカナル島がアメリカの空母艦載機の襲撃を浴びたのもそのときのことで、やがて第一海兵師団の二万人ちかい兵力が上陸をはじめ、以後、陸空海にわたる激しい戦闘がつづき、ついに「大本営」は翌一八年二月から、駆逐艦による「撤退作戦」をはじめる決断を下した。「転進」という当時の日本人には目新しい用語が誕生したのはそのときである。

 ところで、その立て札に見える「防空服装」の、一つのサンプルのような身支度をした男性の姿が、その写真にもはっきり写っているので、ざっと描写してみると、あご紐(●●●)をかけた黒い戦闘帽(日本の軍人の略帽に似たもの)、鉄カブト、防毒マスク(袋入り)、それに長い木の棒(あるいは(とび)ぐちか)を持ち、両脚を黒色の「ゲートル」で包んでいる。写真の中で、この男性(指導員らしい)が、全く「戦時色」のない私服姿の男性の老人をつかまえて、「防空服装ニナレ」と、注意を与えているようである。

 たしかにその当時は、東京がすでに「空襲」を經驗していた時期だけに、男性も女性もとくに服装に気を使った。

 女性はスラックスか、「モンペイ」姿なら文句をいわれなかったが、男性はゲートルを足にまくことが望ましい、とされたものである。

 「ゲートル」(guetre)はフランス語で、要するに脚をつつむ脚絆(きゃはん)のようなもの。軍隊では「巻脚絆」とよび、厚い木綿、ラシャ製細い帯状のものを足にまきつけた。私も初年兵当時は、演習が終ると急いで古年兵や班長の足もとに駆け寄り、巻脚絆をほどき、きちんと巻き直してやったものである。それをやらないと、いつかは"意地悪"をされるからだ。ところが連中の中にも、さらに嗜虐的な人物がいて、こちらが巻き直してやったものを手にとると、空高く放り上げる。地面に落ちてきてそれがくずれたり、ほどけたりすると、大声をあげて初年兵の私を面罵し、もう一度きっちりと固く巻き直させるのである。そんなことは、旧軍隊では日常茶飯事であった。

 歩兵の職場では、このゲートルが、応急処置の繃帯代りになることもあり、また骨折した手や足を吊るためのゲートルの使い方も、たしか教わったように思う。しかし、いずれにせよ、ゲートルには、芳しい思い出はない。

*私も、昭和一五年、中学生になったとき、ゲートルを着用した。当時は国防色で人造絹糸製であった。繊維が人絹であったため滑りやすくて、しっかり止めるには馴れなければならなかった。

2019.10.30


ひめゆり部隊

 ひめゆり部隊 P.194

 日本軍の抵抗を排除して、アメリカ軍がフィリピンをほぼ制圧しおえたのは、昭和一九年三月。日本本土上陸の足がかりとしての次なる目標は、沖縄である。苛烈なる沖縄攻撃がはじまる。

 ところが、それを迎撃すべき日本軍側は、アメリカの次なる目標は台湾だとばかり思いこんでいたので、その沖縄から一個師団を引きぬいて、台湾に送りこんでしまった。沖縄の守備兵力は、六万七〇〇〇程度。これを連合軍が約一八万三〇〇〇の上陸軍で攻めまくったのである。その上、宮古・八重山の攻撃にはイギリス太平洋艦隊も加わり、その陸・海・空兵力はまさに空前だった、という。

shugaku.okinawa.himeyuri.jpg  沖縄を守っている日本軍の第三二軍(司令官、牛島満中将)は、彼我の戦力差から、水際での「邀撃(ようげき)作戦」をあきらめていた。「洞窟」を陣地としての持久戦略に作戦を切り替えたのである。住民の中で成年の男子はもとより、中学生、女子生徒でも、戦力になりそうなものはみな「義勇(防衛)隊」として軍に協力させることになった。では、戦力にならない老人、子供、女たちをどうしたか、結果としては、この最後の陣地の外に、見捨てたのである。この怨念は消えるときがあるまい。

 四月一日、アメリカ軍は沖縄本島に上陸した。無血上陸である。守備軍は出る気がはじめからないのだ。大本営はら立ち、強く出撃を命じた。とどのつまり、四月一二、一三にわたり「総攻撃」をおこなったが、失敗に終った。しかし大本営は、さらに出撃を命じる。五月四日、これが最後という総攻撃をかけた。これも失敗であった。圧倒的火力の前にはとても立ち打ちできない。沖縄戦は、大本営にとっては当初から本土のための「捨て石」としての戦争であり、切り捨てられた沖縄守備軍、住民の強いられた犠牲は太平洋戦争の中でもきわだっている。

shugaku.okinawa.mabuni.png  六月二三日、牛島司令官らは自決し、組織的戦闘に幕が下りる。このとき、住民の義勇隊とともに散ったのが沖縄県立第一高女、沖縄師範女子部職員生徒たちである。

 彼女らはみな、従軍看護婦として野戦病院に勤務し、軍と行動を共にしていた。最後に糸満市伊原の洞窟に立てこもり、自決した。その数は四十余人といわれる。

 これらの職員生徒を「ひめゆり部隊」と呼び、それを合祀して建てられたのが「ひめゆりの塔」である。第一高女の校章白百合からとって「ひめゆりの塔」となづけられた、という。

 さらに、沖縄には「沖縄師範健児之塔」もあることを見のがすことはできない。やはり軍と行動をともにし、摩文仁(まぶに)の洞窟内で手榴弾自決した沖縄師範男子部生徒三〇〇余名を記念して建立されたものである。

 沖縄の激戦で、戦闘のまきぞえになった住民、陰に陽に自殺を強いられた住民は多い。軍・義勇隊の死者一〇万、住民・非戦闘員の死者約一五万といわれる。

2019.10.30


新型爆弾

 新型爆弾 P.200

 太平洋戦争における日本の敗北を決定的なものにしたものは、八月六日の午前八時一五分、広島の上空に入ったアメリカのB29エノラ・ゲイ号が投下した落下傘つきの一発の爆弾、つまり「原子爆弾」であった。

 ほとんど一瞬のうちに、広島市中央に巨大な爆発がおこり、市民の一〇万人以上が即死、さらに重軽傷を負った人、のちに「原爆症」と判明する。それまでの人類が一度も罹ったことのない、重大な症状に悩むことになった人、その大爆発の犠牲者は厖大な数にのぼった。次の七日になって大本営は、これを「新型爆弾」による攻撃と発表する。しかし、その七日の朝、アメリカ大統領は、声明を発表し、広島に投下したのは、「原子爆弾」であること、もしこれでも日本が降朊しないなら、さらに次の原子爆弾を投下することを、その中で明言した。

 不幸にして、その二つ目の原子爆弾が、八月九日、日本の長崎に投下され、さらに七万人の犠牲者が加わった。「新型爆弾」は、広島・長崎ともに軍事目標をもたない市街の密集地帯に投下されたため、老人・子供をはじめ男女の非戦闘員、つまり市民がその犠牲になった。

 なぜアメリカは、その当時二発しか完成していなかった原子爆弾を、その時期に日本に投下したのか。問題はソ連にあった。

 アメリカは、この第二次大戦のあとの「世界戦略」を考え、ソ連に先立って日本に致命的なそん害を与えて降伏させ、単独で日本を占領すること、それによって戦後の対ソ戦略に優位を確保したかったのである。日本の市民は、いわばその戦略の犠牲になったのである。

 そこへいくと、日本の「大本営」は事態に対し楽観的で、翌七日、「新型爆弾」で攻撃され、相当なそん害を受けた、と発表したにすぎない。

 念のため、このときの「大本営発表」を読んでみると、「大本営発表(八月七日十五時三十分)一、昨八月六日広島市はB29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり。二、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり」とあり、八月九日一四時四五分の「西部軍管区司令部発表」には、「一、八月九日午前一一時頃敵大型二機は長崎市に侵入し、新型爆弾らしきものを使用せり。二、詳細目下調査中なるも被害は比較的僅少なる見込み」とある。

 そして、この「新型爆弾」に対しては、白いものを着るか、物陰にかくれることが被害を少なくする、と発表した。

 参謀本部は、原爆であることを知りながら、このことを国民に知らせると、一般の戦意を低下させることになる、それを恐れていたというのだから唖然とする。東郷外相は八月八日、天皇に、原爆が使われるようでは日本の戦争継続は不可能であろうと告げている。しかし、原爆問題について、その日のうちにも緊急閣議をひらいたとか、「最高戦争指導会議」を招集したとかいう記録はない。会議は次の日になってやっと動き出す。

※関連:私も見たキノコ雲―新型爆弾が原子爆弾へ―

2019.10.26


国体護持

 国体護持 P.202

 なんとしても「天皇制」だけは守りたい、という天皇側近の「宮中グループ」が、この段階で何より恐れたのは、決して原子爆弾ではない。すでに前々から東ヨーロッパの諸国がソ連軍によって解放され、王政が倒れ、民主革命が実現している事実を知らされているので、ソ連が日本へ、圧倒的な軍事力を集中して攻めこんでくること、それが何よりこわかったのである。

 八月九日午前の「最高戦争指導会議」で、国体の護持、つまり天皇制の温存、この点を連合国に条件としてのませる、この一点だけについては全員の合意が見られた。しかし、この国体護持の一条件に、戦争犯罪人の自主的な処罰、「武装解除」の自主的な実現、小範囲の少兵力による本土占領、この三条件を附加することで、陸相・参謀総長。軍令部総長のグループと東郷外相とが対立する。外相は「国体護持」の一条件だけを主張した。米内(光政)海相は外相案に大体同調し、会議は二派に分れてそまった。

 やり直しの閣議でも、東郷外相と阿南陸相の対立意見のまま七時間が空転した。

 九日夜、深夜の宮中防空壕で、おなじ「最高戦争指導会議」が天皇臨席を得て再開、それまでのまたむしかえす。天皇の眼の前で、こんなに会議が空転した例は無いといわれる。

 ついに八月十日午前二時すぎ、鈴木首相は天皇に「聖断」を仰ぐことを申し出た。天皇は言下に外相案に同意した。天皇の地位に変更を加えない「国体護持」の一条件のみ、という案に、天皇の裁断がおりたのである。

 そのあと同日の三時から臨時閣議が再開「一条件つきポッダム宣言受諾」が決まる。

kindaisougounenpyou.png  この決定は、無論すぐ連合国に伝えられる。スイス・スウェーデンの公館経由の公式通告であり、ラジオを通じても海外に放送された。これで、まず一つの危機はのりこえられた。しかし、おひざもと(●●●●●)おひざもとの日本では、別の混乱が、一時的にせよ起きる。情報局総裁談として「国体を護持し、民族の名誉を保持せんとする最後の一線を守るため、政府はもとより最善の努力をなしつつあるが、一億国民にありても、国体の護持のためにあらゆる困難を克服していくことを期待する」という、なにか奥歯にもののはさまったような発表になったのに対し、陸軍は別に、阿南惟機陸相(あなみ これちか)の「訓辞」として、「全軍将兵に告ぐ」という、何が何でも戦争を継続する決意を打ち出した。

 八月十一日朝の各新聞には、当然この二つの声明、陸軍大臣訓辞と情報局総裁談が並んで掲載され、政府の真意を国民は怪しんだ。

※参考:新聞各紙、情報局総裁下村宏の国体護持の談話、陸相阿南惟機の全将兵への断固抗戦訓示を並べて掲載。岩波書店『近代日本総合年表』第二版による。

 当時、私は川崎市溝ノ口の兵営にいたが、「やれやれ、また戦争か」と、うんざりしたものである。

2019.10.26


引 揚 げ

 引 揚 げ P.206

 日本の戦争(太平洋戦争)は、「ポッダム宣言」の受諾という形式による降伏で、正式に終了した。

 しかし、この降伏を、突然の出来事として受け取った日本国民は決して少なくない。外地にいてそれを迎えた軍人、とくに下級の兵隊や一般の居留民がそれである。その同胞たちにとって、戦争という状況は、国内でのように迅速にはあらたまらなかった。「戦争」はまだ終らず、中には戦争中にもまさる苦難に悩んだ日本国民は少なくないのである。

 一応、降伏文書調印の手続きは、昭和二〇年九月二日、東京湾に入ってきたアメリカの戦艦「ミズーリ」号の艦上で行われた。同時に、「連合国軍最高司令官」ダグラス・マッカーサーが(軍令司令第一号)を発し、日本の軍隊の降伏方式が、それで決まった。

 その時点で、「外地」に残されている日本の軍隊は三七〇万人、その大まかな内訳は、満州・朝鮮に約一〇〇万、中国に一一〇万、南方諸地域に約一六〇万、合計三七〇万の陸・海軍人、そのほか大陸各地の居留民つまり民間日本人三〇〇万近くが残っていたといわれる。

 そのときの日本政府が何より恐れたのは、国民の間に異常事態が発生し、進駐してくる占領軍との間に摩擦が起きて、軍政の下に連合軍の直接統治がおこなわれるような事態になることだった。そのために、第一に急がれるのは国内の軍隊の解体、つまり陸軍も海軍も、兵隊たちを一刻も早く「武装解除」して故郷に帰らせることであった。輸送機関は大部分破壊されていたが、兵器を捨て、被朊その他のわずかな物資を背にした復員兵たちは、占領軍到着前に、なんとか故郷に、わが家にと帰っていった。それに対し、戦争中の南方諸地域などで、日本軍の頑強な抵抗を経験しているアメリカの占領軍部隊は、警戒と緊張の中に上陸してきたが、急速な軍隊の解散のおかげで、おおむね無事であった。

 しかし、その後も「外地」に残された部隊の旧軍人たちの帰国は、必ずしも順調には進まなかった。やはり船舶の大部分が戦争中に失われいるからで、その遅滞のため、降伏決定後も南方の孤島などに取り残され、むざむざと餓死者を出す例や長期の「強制労働」に苦しむ同胞が多かった。とくに戦後ソ連軍によってシベリアに連行された満州駐在の諸部隊、イギリス軍進駐地域に残留した南方軍の諸部隊は、強制労働を課せられ、苦難の体験を重ねることになる。

 寒地、熱地における過重の労働に加えて、食糧の欠乏、生活環境の劣悪、生命の脅威などから、在外残留日本人が蒙った苦難の記録は厖大なもので、とくにフィリピンや中部太平洋諸島からの引揚げ者の中からは、「餓死者」が続出するという事実さえあった。

 残留日本人の悲惨な状況は、こうして各地に見られたが、満州の関東軍が「ソ連参戦」とともに総退却し、在留民間人をおびただしく(置き去り)にした事実は、とくに国民に衝撃を与えた。残された人たちの多くは、青壮年男子を軍隊に引き抜かれたあとの老幼婦女子であった。ソ連軍による暴行略奪事件が多発したことは、中国における日本軍による暴行殺戮の事実などを考えあわせ、あらためて戦争の惨禍に慄然とする。満州からの「引揚げ」は、いちじるしく遅滞した。大部分の引揚げが終ったとされる昭和二三年八月の時点でも、まだ数万を数える在留日本人が残されていたといわれ、捕虜となってソ連内に「連行」され、各地域に分散させられて「強制労働」に服した人びとの引揚げは、昭和三一年にまで及んだ。

 やっと帰国の港の岸壁にたどりついた人びとの姿の中で、とくに涙を誘ったのは、幼い引揚げ者たちの、疲れきった姿であった。

iiyamatatuo.tiisanahikiagesya.jpg  当時、引揚げ者たちの姿を記録した写真の中で、とくに力弱い女性や子供にカメラをむけて記録した飯山達雄氏(東京)の作品を見ると、私たちはつくづく戦争の惨害の甚大さを思わざるを得ない。

 写真の中の、一組の幼い引揚げ者は、餓えた恐怖におびえ、徒歩と無蓋貨車によってであろうか、満州からの「引揚船」への乗船口「コロ(葫蘆)島:中国,遼寧省西部,遼東湾北西岸にある港湾都市」にたどりついたばかりの姿を示している。少女は眠りこけた妹を背にしばりつけ、長い旅路の炎熱を辛うじて共に避けてきた一つの編笠を、大事そうにしっかり握っている。また一人の、さらに小さな男の子は、自分の身体ほどの荷をつめたリュックサックを背負っている。なた、もう一枚の写真の中には、引揚の途中に両親を失った四、五歳の孤児が、博多の引揚げ寮の一隅で、見知らぬ引揚げ者が用意している朝食のそばへ、おずおず近寄ってきている姿が写されている。

kozi.jpg  さらにまた、のちに多くの同胞たちの眼にふれることになる一枚の作品(右)は、母の遺骨を収めた木の箱を白布で首から胸に下げ、やせこけた素足に粗末な草履をはいて、呆然とあらぬ方を見ている子供を撮ったものである。少年のように見えるその子供は、実は暴行を避けるために髪を断ち坊主頭になった少女であり、朝鮮北部から奉天まで六〇〇キロの道のりを、半年がかりで歩いてきたとのことであった。

 また、帰国の望みを断たれ、異郷の土と化した日本人同胞、為政者の掛け声に躍らされ、「大陸進出」の犠牲になった還らざる国民が多かったことも、生き残った私たちは忘れてはならないだろう。「中国残留孤児」についてもしかりである。

2019.10.27


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