昭和史を歩く

改 訂 版 2022.12.28 改訂

★昭和史を歩く 二・二六事件 紀元二千六百年 いまも生きる紀元節 昭和十六年十二月八日 大平洋戦争開始
江田島、青春の日々 今に残る兵学校の伝統 学徒出陣 わだつみのこえ今も 敗戦 悔しさの中にも解放感
朝鮮戦争と特需 講和条約とワンマン 「きっと立ち上がる」 東京五輪と出稼ぎ 繁栄と農村の崩壊

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昭和史を歩く 共同通信社[編] 講談社

二・二六事件

クーデター計画

 昭和六年の満州事変前後より国内にクーデター計画が台頭し、不穏な情勢が続いた。

 五・一五事件(昭和七年)後も軍人や右翼による改造運動が続き、特に陸軍部内では皇道派、統制派の二大派閥間の争いも激化した。かねてから武力による国家改造を計画した皇道派の青年将校らが、軍隊を使ってクーデターを起こそうとしたのが二・二六事件。

 襲撃により内大臣斉藤実、大蔵大臣高橋是清、陸軍教育総監渡辺錠太郎が即死、侍従長官鈴木貫太郎は重傷、総理大臣岡田啓介と前内大臣牧野伸顕(のぶあき)は難を逃れた。警護の警官五人が殉職した。

 反乱軍将校二人が自決、特設軍法会議で将校十三人と、民間人六人が死刑になった。

 以後軍部の政治的発言は一段と強まった。

 「閣下、一命を」

andouteruzou.png  昭和十一年(一九三六年)二月二十六日午前五時、東京・麻布の歩兵第三連隊の陸軍曹長だった佐々木喜一さん(旧姓堂込)は、中隊長安藤輝三大尉や二百人の兵士とともに、麹町区(現千代田区)三番町の鈴木貫太郎侍従長邸を襲った。二十三日に降った雪がまだかなり積もっており、寒気が外とうの上から肌を刺す朝だった。

 一階奥の十畳間に踏み込んだとき、侍従長夫人のたかさんがきちんと布団の上に座り、隣の部屋で着剣銃の兵士たちが侍従長を取り囲んでいた。短いやりとりの後、佐々木さんは「時間がありません。閣下、一命を頂戴します」と言って、26年式短銃で二発撃った。

 同じころ、その年、麻布の歩兵第一連隊に入隊したばかりの陸軍二等兵だった小高脩平さんは首相官邸にいた。「暴動鎮圧のため宮城方面へ行く」という出動命令だった。夜明けごろ奥の日本間に老人の遺体が横たわっているのを見た。岡田啓介と間違って射殺された義弟の松尾伝蔵陸軍大佐と後で分かるが、小高さんは新聞の写真で見る首相と違うな、と思った。自分が"決起軍"にはいっているのを知ったのはその直後だった。

 当時、小学校五年生だった村上貢さん(六〇)=東京・多摩市在住は、事件から二日後、警察病院で父の嘉茂左衛門巡査部長の遺体と対面した。全身に数発の銃弾の跡があり、歯を食いしばった父の死に顔をみて声をあげて泣いた。私朊で首相の警護に当たり、兵隊たちと激しく撃ち合って殉職したことを数日後に知った。

 厳しい報道管制

 「昭和維新」を唱え、二十六日早朝行動を起こしたのは、近衛歩兵第三、歩兵第一、第三と、野戦砲兵第七の各連隊などの将兵約一千五百人。政府首脳や重臣を襲撃し、東京・三宅坂から永田町一帯と警視庁を占拠した。二十七日、東京に戒厳令が敷かれると、"決起部隊"も戒厳部隊にに編入され、情勢は一時、彼らに有利に動くともみえた。

 しかし、重臣を殺害された天皇は激怒され、二十八日"決起部隊"撤兵の奉勅命令が出された。二十九日から反乱軍として武力鎮圧が始まった。有名な「兵に告ぐ」の放送が繰り返され、午後二時ごろまでに反乱軍は原隊に復帰、明治以来、日本最大のクーデターは四日間で終わった。

 下士官兵に告グ

一、今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ歸レ

二、抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル

三、オ前達ノ父母兄弟は國賊ㇳナルノデ皆泣イテオルゾ

  二月二十九日     戒厳司令部

 事件の報道は内務省の厳重な検閲下に置かれ、官製発表でしか国民に知らされなかった。特に三月四日、陸軍軍法会議特設の緊急勅令が出てから、反乱軍の裁判は一切、知らされず、七月七日、午前二時、反乱将校ら十七人の死刑を含む第一次判決が七月五日にあったことが突然発表された。

 当時、陸軍省担当の中外商業新報(現日本経済新聞)の記者だった大平(おおだいら)進一さん(八三)は「関係者の口が異常に固く、裁判の内容を取材するのは全く困難だった。軍首脳部は、内容が漏れて同調者を刺激することを最も恐れていたようだ」と語っている。

 それぞれの人生

 事件はその規模の大きさから多くの人々を運命の渦の中に巻き込んだ。その一人、安藤大尉夫人の房子さん(七二)は結婚生活二年九ヵ月で幼児二人を抱え、洋裁を習い、郷里の静岡に帰ってその後の生活を支えた。

 「事件の二ヵ月ほど前から夫の周りには何とも形容出来ない雰囲気がありました。本当に私は何も知らされないで、ある日突然……。以後は夢中で生きて来たんですが、私の人生は一体何だったのかなあ、と思うことがいまでもあるんですよ」

 東京・足立区で老後の日々を送る佐々木さん(七七)は、二年の禁固刑の後、満州(現中国東北地方)に渡り、三年間、ソ連で抑留生活も送った。

 「あの鈴木侍従長が終戦内閣の首相になったことは満州でしりました。二年の刑で済んだのは安藤大尉が"すべて自分の命令"と主張したからと聞いています」と遠い日を思って大きく息をついた。

 埼玉県川越市に住む小高さん(六九)は六十年一月末、四十九年ぶりに首相官邸を訪れた。満州での抗日ゲリラ戦で右足十センチ残して切断、その後、義肢をつけてずっと福祉の仕事を続けて来た。あの日、軍靴で走り回るたびに、カタカタと音をたてた邸内の寄せ木細工の床の上には、いまは厚いじゅうたんが敷き詰められ、つえをついおて歩く小高さんの足音を吸い取って行った。

    ◇   ◇   ◇

 二・二六事件が起きた年の五月十八日、東京では愛人の体の一部を切り取った有名な阿部定事件が起きた。うっとうしい世相に押し込まれていた庶民の好奇心が、この猟奇事件に集まり、しばらく街の話題をにぎわしたのも自然の成り行きだった。

2019.10.15


紀元二千六百年 いまも生きる紀元節

 神国思想の聖地に

syouwasioaruku.ametutinomotohasira.jpg  春の大和路は"古代ロマン"を求めて遺跡や社寺巡りをする若者たちでにぎわう。近鉄橿原神宮駅(奈良県橿原市)は高松塚古墳や石舞台方面へ向かう観光拠点だ、駅前の貸し自転車店には四、五人の女子大生たちがいて笑い声を上げていた。

 「橿原神宮には行かないの?」

 「方向が違うもん。それにちょっとダサいんじゃなーい」

 近鉄戦の西側は緑濃い神宮の森だ。背後には大和三山の一つ畝傍山。そのふもとに、壮大な橿原神宮がある。

 日本書紀によると、神武天皇が日向国(宮崎県)を出発して東征し、大和国・橿原で即位したのが「辛酉(しんゆう)の年」。この歳を天皇元年と為すとしている。明治の新政府は明治五年(一八七二年)に神武即位を西暦紀元前六六〇年のこととし、日本の「紀元」と定めた。

 現在の中学や高校の日本史教科書にはどこにもそんな記述はない。神武天皇は歴史から姿を消している。

 だが、四十五年前の昭和十五年(一九四〇年)、日本は國を挙げて紀元二千六百年を祝った。NHKのラジオを通じて流された「金鵄(きんし)輝く日本の()えある光身にうけてのメロディー(紀元二千六百年)は、五十代以上の人になじみ深いだろう。

 「万世一系」「皇統連綿の神国」をいやが上にも強調するため、さまざまな奉祝行事があり、その一環として橿原神宮神域の拡張や、宮崎市に「八紘一宇」の基柱(あめつちのもとはしら)建立が進められていた。その一方で蓑田胸喜(むねき)らを中心とする右翼運動が広がり、神武天皇を否定する古代史学者津田左右吉(そうきち)博士の著作が発禁されるなど思想統制も強まった。

 宮司は広島被爆者

 橿原神宮は、明治の初めまでは小さな山稜にすぎなかったが、地元有志から「神武天皇を(まつ)る神社を」と請願が起こり、同二十三年(一八九〇年)官幣大社として創建された。「二千六百年」にあたり聖地の面目を保つため、延べ百二十万人が全国から勤労奉仕。約五万平方メートルの神域がほぼ十倍の規模になった。

 当時中学生で大和高田市在住の伊勢美登さん(六〇)は「中学から整列行進して境内へ着くと一日中モッコかつぎで大変でした」と話す。

 ことし二月十一日、建国記念日の日に、神宮では盛大な「紀元祭」が全国から約七千人が参列して催された。

syouwasioaruku.onkarabitu.jpg  圧巻は天皇の勅使が「御幣物(ごへいもつ)」と呼ばれる供物を入れた御唐櫃(おんからびつ)を運ぶシーン。玉砂利を踏み、神前へ向かう列は荘厳さを盛り上げ、参加者は息をのんで見守った。

 「御幣物」の中身は、宮内庁関係者によると絹の反物。勅使は神殿で天皇の「お言葉」を読みあげた。この日は皇居賢所でも式典があり、須崎の御用邸に滞在中の天皇は式典が終わるまで室内にこもっていたという。

 橿原神宮の山田正宮司(六八)は同神宮の宮司になって十五年。昭和二十年八月六日には、補充兵として広島にいて原爆の"洗礼"を受けた人だ。「神様につかえてきたのでこんな細身ですが、大過なくやってこられました」と淡々と話す。

 「憂さ忘れ放歌高吟」

 二千六百年奉祝行事の頂点は十五年十一月十日の宮城外苑(皇居前)での式典。天皇、皇后が出席、参列者は五万五千人に達した。日中戦下の当時は禁止されていたみこし・山車・ちょうちん行列・晝酒もこの日から五日間に限って許された。

 マッチや砂糖の配給が始まり「ぜいたくは敵だ!」のスローガンの下、酒を飲むことも制限されるようになっていた庶民は、憂さを忘れるように歌い、踊った。「乱酔せる学生隊をなして横行し、相抱いて放歌し乱舞するさま醜陋(しゅろう)見るに堪えず」と永井荷風は「断腸亭日乗」の中で書いている。

      ◇      ◇

 戦前の紀元節は、昭和四十二年(一九六七年)に「建国記念の日」として復活した。その後、年とともに奉祝式典は盛んになっている。六十年は「建国記念の日を祝う会」に首相が初めて出席し、労働界代表の宇佐美忠信同盟会長が万歳の音頭をとるなど公式化の色彩を一層強めている。

 橿原神宮の山田宮司は述懐する。「ここも戦後の一時期は荒れ果て、屋根から雨漏りがするほどでした。建国記念の日ができてからは参拝者もどっと増えました、世の移り変わりというのは不思議ですね」


 森 信三『一日一語』 二月十一日

 今日は建国記念日。これについては反対の説もあるようであるが、米国などのように、歴史の浅い国では実証的建国資料もあるが、我が国のように長い歴史をもつ国ではそれは不可能である。

 そこで立場は二つ。科学的に正確な資料がないから放って置くか、それとも、民族の伝承に従って慶祝するかという二種の立場があるが、私は後者の立場に賛したい。


 奉祝國民歌「紀元二千六百年」

内閣奉祝會撰定/紀元二千六百年奉祝會・日本放送協會制定 増田好生 作詞/森義八郎 作曲

一、金鵄(きんし)輝く日本の 榮(はえ)ある光身にうけて
  いまこそ祝へこの朝(あした) 紀元は二千六百年
  あゝ 一億の胸はなる

二、歡喜あふるるこの土を しつかと我等ふみしめて
  はるかに仰ぐ大御言(おほみこと) 紀元は二千六百年
  あゝ肇國(ちょうこく)の雲青し

三、荒(すさ)ぶ世界に唯一つ ゆるがぬ御代に生立ちし
  感謝は清き火と燃えて 紀元は二千六百年
  あゝ報國の血は勇む

四、潮ゆたけき海原に 櫻と富士の影織りて
  世紀の文化また新た 紀元は二千六百年
  あゝ燦爛(さんらん)のこの國威

五、正義凛(りん)たる旗の下 明朗アジヤうち建てん
  力と意氣を示せ今 紀元は二千六百年
  あゝ彌榮(いやさか)の日はのぼる

 「金鵄」とは古事記とか日本書紀に出てくる“金色のトビ”のことで、神武天皇の東征に際し、敵の眼をくらませ勝利に導いたという伝説の鳥。

 ちなみに、この曲は替え歌の方が有名です。いくつかパターンがあるようですが、主なのは次の2タイプ。「金鵄」「光」「鵬翼」は当時の煙草の銘柄です。「金鵄」上がって15銭 栄えある「光」30銭 今こそ来たぜ この値上げ 紀元は二千六百 ああ1億の民は泣く

 「金鵄」上がって15銭 栄えある「光」30銭 それより高い「鵬翼」は 苦くて辛くて50銭 ああ1億のカネがいる


 紀元節唱歌 作詞 高崎正風 作曲 伊沢修二

 一

  雲に聳(そび)ゆる 高千穂の、高根おろしに草も木も、
  なびきふしけん大御世(おおみよ)を、仰ぐ今日こそ、たのしけれ。

 二

  海原なせる埴安(はにやす)の、池のおもより猶ひろき、
  めぐみの波に浴(あ)みし世を、仰ぐ今日こそ、たのしけれ

 三

  天(あま)のひつぎの高みくら、千代よろずよに動きなき、
  もとい定めしそのかみを、仰ぐ今日こそたのしけれ。

 四

  空にかがやく日のもとの、よろずの国にたぐいなき、
  国のみはしらたてし世を、仰ぐ今日こそたのしけれ。

岩波文庫『日本小歌集』堀内敬三 井上武士編による。

 作詞者の高崎正風は天保7年7月28日(1836年9月8日) 薩摩藩の武士の家庭に生まれた。維新後は侍従番長として歌道御用掛の任に就き、その後、枢密顧問官になり、明治天皇の側近としてお仕えしたことでも知られる。

 作曲者の伊澤修二は唱歌の成立に欠かすことのできない教育者として知られる。幕末に洋楽を学び、明治5年に文部省へ入省。明治8年から11年までは師範学科を学ぶためにアメリカへ留学、明治12(1879)年、唱歌の作成・編さんと教師の養成機関である音楽取調掛(おんがくとりしらべかかり)が文部省に設置され、初代所長となる。

 明治14年に日本初の官製唱歌集『小学唱歌集』を完成させた。明治23年には東京音楽学校長,東京盲唖学校長を兼ね,「国家教育社」を設立して、教育勅語の普及につとめた。また、日清戦争で得た台湾に渡り民政局学務部長を務める。東京音楽学校(現・東京芸大)の初代校長を務めたのち、貴族院議員にもなっている。

 つまりこの歌はれっきとした文部省唱歌であるのだが、殆ど知られていないのはどうしてなのか。それは敗戦後、2月11日の建国記念の日を祝うことは占領軍から禁止されたためなのだ。

2019.10.21


昭和十六年十二月八日 暗雲に穴が開いた。太平洋戦争開始

 あの日、「国民学校六年生」

syowasiaruku.16.12.08.jpg  昭和十六年(一九四一年)十二月八日早朝のラジオニュース。 

 「大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は今八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」―"大東亜戦争"の始まりだった。

 「暗雲に穴が開いた。という感じでしたね」と振り返るのは当時、東京で国民学校六年生としてこの放送を聞いたIさん。「これまで"英米"と言っていたのに、順序がどうしてでか逆になったな」と首をかしげたのはYさん(東京)。Iさんはまた「西太平洋って、どの辺りなんだろう」とも思ったという。

 横浜にいたTさんは放送を聞いて学校へ行ったら、十日からの関西修学旅行は中止、と先生に言われた。船で行く計画だったから敵潜水艦警戒のため、ということだった。十二月八日のことで一番はっきり覚えている。

 昼前からは、息つく間もないニュースの連続だった。「皇祖皇宗ノ神霊上ニ在リ」と宣戦の大詔、香港爆撃、マレー半島上陸、ハワイ空襲……。夜に入ってハワイの戦果第一次発表、フィリピン上陸、マレー沖で英東洋艦隊主力全滅まで、ラジオは終日、戦勝ニュースの前奏として『軍艦マーチ』と『敵は幾万ありとても』を鳴らし続け、日本全体が熱狂の渦に巻き込まれていた。

 Iさん、Yさんも例外ではなかったはずだ。その年春から小学校が『国民学校』に衣替えして、その第一回卒業生となるはずの彼らは「大君の御楯(みたて)として兵に召されることを男子の本懐」とする教科書を与えられ、『神国日本』は不滅である、と教えられる。"軍国少年"だった。

 あれから四十四年。京都市の北郊、下鴨で開かれたある小学校のクラス会。かつての『国民学校六年生』たちである。

 「十二月八日というてもね、僕は忘れてしもうた」「僕は裁縫教室で先生から『この戦争はきっと勝ちます』ときつい調子で言われたことを覚えている」とさまざま。

 「八月十五日(敗戦)のことやったら、よう覚えている」という話から、戦争中、戦後の話になって次々に口が開かれた。

 「何というても食べ物のことやな。代用食、いその茎……」「動員で愛知県の飛行機工場へ行って終戦の間際、空襲で十何人もやられた中学生があった」

 Mさんは鹿児島にいた。「あのころのことは思い出さないことにしてるんですよ」と言いよどみながら「ついこの間までカボチャを食べる気がしなかった。戦争中の勤労動員で代用食に出たカボチャの水っぽい味の無さを思い出してねえ」

 学徒勤労動員令の発せられたのが十九年八月、中学校、女学校の三年生になっていたこの人たちは根こそぎ軍需工場へかり出されていった。もちろん授業はない。名古屋にいたSさんのように「勉強ができないから海兵を志願して入学できた」という人もいる。

※私は十九年四月から海軍工廠へ動員された。キュリーが味噌汁に入っていたのには驚いた。同年十月海軍兵学校に入校した。

 純粋培養の軍国少年

 「僕もこの仕事をしてなきゃ、カボチャやサツマイモ、絶対食わないでしょうね」とうのは映画、テレビでおなじみの渡辺文雄さん(1929年生まれ)、この人も当時の国民学校六年生、対米英開戦、動員、空襲、敗戦を東京で経験した。

 食べ物の番組よく出るが「それも遠因を探れば飢餓体験、ということになるかもしれない」

 「十二月八日のニュースには非常に鮮烈なショックを受けた。何といっても純粋培養の軍国少年でしたからね」。それだけに「敗戦の時は世の中全体の空気が真っ白だった。色がなくなった。その原風景は消せない」

 だが戦争中と戦後を通じて、渡辺さんは「一種スポーティ―に乗り越えてきた」。「青春というのは人がつくってくれるものではなく、自分の中にあるものだから、幅を持とうという気分になれば、思い出もそれなりに意味があると思います」という。

 奪われた青春の日

 再び、京都のクラス会での話し合い。予科練、予科兵(海兵78期)の体験から戦後六三制への学制切替え。生活感覚のまるで違う若者が追いかけてくる。会社勤めの男性はいま、定年退職が視野にはいってきた。

 「僕ら、青春ってなかったなあ」

 一人の発言に、強くうなずく人が男女合わせて数人。

 「いや、あんなのが僕らの青春やったんや。そうおもうしかない」と反撃も出る。

 「とにかく、一生懸命に生きてきた。どんなことがあっても、頑張り抜いてきた」

 「そうや、耐えるということは知った」とあいづちを打つのは元予科練氏。

 感慨は人それぞれだが、いかにも重かった。

作家たちはこう記した

 「世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである」と高村光太郎は『十二月八日の記』に書いた。雑誌『改造』に載せた詩にも「この世は一新せられた。黒船以来の総決算の時が来た」とうたう。同じ号で仏文学者辰野隆も「(つい)に来るものが来た。よくぞ来つれと思ふ。間もなく東洋の朝が明けたという状態が全日本の胸を打った」と書いた。

 「暗雲に穴が開いた」というのは、"純粋培養"された『少国民』たちだけの感想ではなかった。というより、国民学校六年生たちは世の大人たちの気持ちをそのまま映す鏡だった。「十二月八日」からしばらくの間、新聞や雑誌には学者や作家たちのこういった文章、作品がたてつづけに載る。

 高ひかる大詔勅(おおみことのり)かしこみて
  (また)けき力ささげたるのみ
           斉藤茂吉『轟沈』 

 「黎明は余りに偉大だ。……いまの歓びを呼吸しきれない遺憾すら覚える」(吉川英治

「十二月八日は、最近日本でこの日くらい国民を緊張させ、感激させ、そしてまた歓喜「させた日はなかろう」(宮沢俊義)

 このほか、"聖戦"をたたえる和歌や俳句の作者を新聞紙面から拾っただけでも釈迢空、尾上柴舟、室生犀星、中村草田男、土屋明文明……と並ぶ。それが「十二月八日」のまぎれもない姿だった。

 ただ、幸田露伴だけは、いささか違う思いをわが子に残してる。幸田文さんが戦後、テレビ対談で話した父、露伴のその日―。

 父は「そうか、そうか、そんな年若い者がね。そうして出かけて行ったのか」と涙をこぼしましてね。

「考えてもごらん、まだ咲かないこれからの男の子なんだ。それがあの暁の暗い空に、冷や酒一杯で、此の世とも日本とも別れて、遠い所へ、そんなふうにたっていったのだ」って言ってね。……「この若い者達を、そんなにしてつぶやいてしまって、事が成り立つはずがない。これはもういっぺんひどい事になる」って言うんです。……(『証言・私の昭和史』から)

※関連:十二月八日


江田島、青春の日々 今に残る兵学校の伝統
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 「帽振れ」は今も

 江田島の海に浮ぶ練習艦隊。「蛍の光」が春の海をわたっていった。海上自衛隊の幹部候補生学校の卒業生たちを乗せたランチが艦隊に向う。「帽振れ」。ランチに鈴なりになった卒業生が岸壁の教官たちに白い帽子をゆっくりと何度も振った。

 「この見送り風景は海軍兵学校時代と変わりません」。昭和二十年(一九四五年)八月、兵学校の最上級生として終戦を迎えた海上自衛隊のトップ、吉田学海幕長(五八)は昔を懐かしんだ。

 広島県・呉港から高速艇で十分間。江田島の一角に、東京・築地から兵学校が移転して来たのは明治二十一年だった。日露戦争の広瀬武夫中佐、太平洋戦争の山本五十六元帥…。多くの「軍神」たちがここで青春を過ごした。兵学校生徒のシンボルである短剣は軍国少年たちのあこがれの的だった。

syouji11-0-1.jpg  江田島の青春はスパルタ教育の毎日でもあった。兵学校名物の鉄拳制裁。勇壮な棒倒し。自治制度が尊重された学校では「一号」と呼ばれた最上級生が君臨していた。「一号はまるで神様だった。私など一年間は八百回も殴られた」と吉田学海幕長はその思い出を話す。

 昭和十六年十二月八日の太平洋戦争開始とともに江田島も一挙に戦時色に染まる。「これからは小生は無き者と思って下さい」。こんな悲壮な手紙を両親に出す生徒も現れた。

 海軍のOBたちのクラブ「水交会」の石隈達彦(六九:第65期S13.3.16卒)は開戦当時、兵学校の教官だったが、真珠湾攻撃をめぐるこんな記憶がある。

 開戦の年、兵学校で毎秋恒例となつている宮島の弥山(みせん)(標高五三〇メートル)登山競技が十一月五日に催された。当日、兵学校同期の一人がひょっこりと姿を見せ加わった。近況を何も語らない。やがてハワイの奇襲攻撃。真珠湾に散った特殊潜航艇の「九軍神」の中に同期の岩佐直治大尉のなを見つけ、ハッとなった。

 「彼は決死の出撃を前に母校に別れを告げに来たのでしょう」と石隈さんは目をうるませた。


牛島秀彦『九軍神は語らず』(講談社)P.184によると

 いよいよ出撃の日を目の前にした昭和十六年九月二十七日、岩佐は、最後の帰国した。

 両親宛ての「遺書」を書いた岩佐直治(海兵六十五期)は、特別攻撃隊の艇長たち(横山、古野中尉、広尾、酒巻少尉)を伴って、江田島の海軍兵学校を訪れ、思い出の古鷹山に登った。

 兵学校刊『生徒生活の一般』には、「古鷹山ー兵学校北方ニ聳ユル高サ三九二(ミクニ)米ノ倹祖ナ峰ヲ云ヒ、巡洋艦古鷹ノ艦名ハ、コレヨリ取ル。学校側ノ中腹ニ本校附属ノ射撃場及ビ水源地アリ。元旦及ビ紀元節ニハ早朝登山シ、皇居ノ遥拝ヲ行ナフヲ例ㇳスルㇹカ、日曜祝祭日ナド、外出日ニㇵ常ニ生徒ハ登山シ、浩然ノ気ヲ養フ霊峰ナリ」とある。

 海兵生徒にとって、古鷹登山は、精神訓練と、肉体鍛錬を兼ねており、頂上から眼下に兵学校、その彼方には、呉軍港及び入港中の「帝国海軍」の艨艟の"威容"を望み得ることなどから、古鷹山は、江田島海軍兵学校の象徴であり、生徒たちは、機を得ては、この山に登ったのだ。

 その古鷹山登山をなした特別攻撃隊の海兵出身の各士官たちは、いよいよ日本を後に出撃する前日に、岩佐大尉に率いられて、宮島の弥山に登った。

 ちょうどその日(11月5日)は、兵学校生徒による弥山登山競争が行われていた。

 弥山は、宮島のなかで、いちばん高い山(海抜五百三十メートル)で、登山競争の日は、朝方ランチに分乗して、江田島を出発、宮島大橋に上陸した全校生徒は、短剣をつけた第一種軍装か、事業服に、黒い脚絆、糧嚢、水筒を身に着けた登山姿で山麓の紅葉谷公園に整列する。各分隊の出発順位を抽選によって決めてから、号砲を合図に、各分隊が五分間隔でスタートし、分隊全員が、弥山山頂の本宮山門に到着するまでの所要時間によって、順位を決める競争だ。

 一着の分隊には、優勝旗が授与されたが、各分隊は、この優勝旗を獲得せんと、必死になった。(事実、心臓麻痺などでの死者も出た)各分隊は、弥山登山競技が行われる一ヵ月以上前から、弥山係生徒指揮の下に練習を積み重ねて、当日に備えた。

 それと言うのも、お山は切り立つような急峻の山で、木立の中を曲がりくねって登っている参道のうちの二キロ近くは、不規則に自然石を積み重ねた急勾配の石段がつづくからだ。それを山頂まで、いろんなものを着装して、二十分あまりで駆け登ろうというのだから、心臓は破裂しそうになり、両脚は棒のようになるまさに、死力を尽くす競技なのである。

 「不撓不屈と協同一致の精神の涵養」という"大目標"が掲げられ、一人の落伊は、分隊全体の落伊――ということになり、連帯責任を問われた。

 岩佐大尉以下、特別攻撃隊の各士官たちは、明日にせまった真珠湾出撃を胸に秘め、弥山の山路の中途に陣取って必死の形相で駈け上がってくる後輩の生徒たちに、「がんばれ!」「しっかりゆけ!」とどやし、汗だくの頭上に、冷水をぶっかけた。

 登山競争が終了すると、一行は、揃って、頂上へと向かった。山門付近で、かつての上官の大野中佐を見付けた岩佐大尉は、直立不動の姿勢をとり、挙手の礼をした。

「あくまで死ぬ気の岩佐たちは、母校のみんなに訣別に来たんだ……」大野中佐は、岩佐の顔をじっと見凝(みつ)めると、そう思い、熱いものが胸にこみ上げてきた。

 頂上に着いた一行は、皆無言であった。そして、眼下に浮ぶ阿多田の島を見凝めていた。

 阿多田の島――。その島は、一九一〇年(明治四十三年)四月十五日に、佐久間勉海軍大尉が艇長の第六潜水艇が演習のため、午前十時、潜行を始めると、間もなく、艇に故障ができて、海水が浸水し、艇は、十四人の乗組員をとどめたまま遭難し、全員死亡した所である。

 佐久間艇長は、沈みゆく艇中で、「小官ノ不注意ニヨリ 陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス、誠ニ申訳ナシ。(中略)希クㇵ、諸君益々勉励以テ此ノ誤解ナク、将来潜水艇ノ発展研究ニ全力ヲ尽サレンコㇳヲ。サスレバ我等一モ遺憾ㇳスル所ナシ」という悲壮な遺書を、薄れる意識のなかで、鉛筆で書き残し、死に就いた。

 岩佐直治も、横山正治も、古野繁実も、そして、広尾彰、酒巻和男も塑像のように動かなかった。


 あこがれの短剣もなく

 ミッドウェー海戦で連合艦隊が大敗、戦局が次第に傾いてきた十七年秋、井上成美中将が兵学校長に着任してきた。

 井上中将はこの後、昭和十九年八月の海軍次官就任を経て、終戦間際に帝国海軍最後の大将となる。軍務局長時代には米内光政大臣、山本五十六次官とともに日独伊三国同盟に反対した「海軍左派トリオ」の一人だった。

 戦時体制の下で、井上校長の教育方針は異色だった。軍事学より普通学の重視。英語教育の継続。教育機関の短縮の反対…。「私は兵隊をつくるのではなくて、ゼントルマンを育てるつもりで教育した」と戦後、井上元大将は教え子たちに語っている。

 次官就任後、いち早く敗戦を見越した井上中将は部下の高木惣吉少将を使い終戦工作を始める。「陸軍の叫ぶ本土決戦をやめさせようと努めた井上さんは日本を救った一人といえないでしょうか」。教え子の一人で「反戦大将井上成美」の著者、生出寿さん(五九)は言う。

参考:生出寿『海軍兵学校よもやま話』(徳間文庫)

 エリート教育の場でもあった兵学校では、戦前、西洋料理のテーブルマナーまで教えた。だが戦争末期には、優雅だった帝国海軍のメッカも空襲を受け、死傷者も出た。

 二十年八月十五日。兵学校は、シンボルの短剣すら新入生に支給できないみじめな状態で敗戦を迎えた。

*この記述は誤りである。

 終戦に納得せず、徹底抗戦を叫ぶ潜水艦が江田島に現れた。「伝馬船をこいで"自分も乗せてくれ"と潜水艦に頼みに行った。後で"軽々しい行動はするな"と、教官から涙ながらしかられた」と、吉田海幕長は当時の思い詰めた心境を語った。

参考:この記述は、事実か?

 生徒館の先輩たち

 松や桜の木立に囲まれた赤れんがの建物。明治二十一年生れの兵学校の名物、生徒館は今も健在だ、海上自衛隊の幹部(士官)候補生百五十人が学ぶその自習室に東郷平八郎元帥らの写真がじっと後輩たちを見守っていた。

 鉄拳制裁や棒倒しは今やない。だが弥山登山は現在も続けられ、兵学校時代と同じ分刻みの日課が学生たちをしごく。「総員起こし」「整列五分前」。こんな号令は今も生きている。

 「兵学校時代のしつけ教育はできる限り継承しています」。鈴木真候補生学校長(五三)は伝統尊重の精神を強調した。


 兵学校と太平洋戦争

 明治三年、兵学校は海軍兵学寮の名称で誕生した。明治六年、一期生二人が卒業、明治九年には海軍兵学校と改称された。

参考:従道小学校と海軍兵学校

 太平洋戦争の敗戦に伴い昭和二十年十月に廃校となるまでの間、兵学校の卒業生は計一万千人。敗戦一ヵ月前の七月十五日、七十四期生(二十年三月卒業)が兵学校最後の少尉に任官した。終戦時の在校生(七十五期ー七十八期)は約一万五千人を数え、生徒数の急増につれ江田島以外の各地に分校が設置された。

 各期別の戦死者数は、七十二期(十八年九月卒業)の三百二十七人がが最も多く、戦死率では六十八期(十五年八月卒業)と七十期(十六年十一月卒業)の六十六%が最高である。

2019.10.23


学徒出陣 わだつみのこえ今も
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 雨の出陣壮行会

 昭和十八年(一九四三年)十月二十一日、東京は朝から冷たい雨にぬれていた。神宮競技場では文部省主催の「出陣学徒壮行会」が行われた。角帽、学生服にゲートル。剣つき銃をかつぎ、泥水を跳ねあげながら各校旗を掲げての学生の行進が続いた。

 この年、四月十八日には山本五十六連合艦隊司令長官がソロモン群島上空で戦死。五月二十九日にはアッツ島の日本軍が玉砕。太平洋戦争の様相がただならないことを多くの日本人が感じ取ってきた、九月には学生の徴兵猶予が停止され、この日は全国の徴兵適齢学生がペンを銃に持ち替えるための出陣式だった。

 スタンドは見送りの父母や女子学生で埋まり、異様な興奮が競技場を押し包んだ。見送りの一人で当時、帝国女子理学専門学校(現東邦大学)の学生だったドクトル・チエコこと木下和子さん(六二)は「入場して来る学生を見ながら、この人たちはもうすぐ死ぬんだなあと思うとポロポロと涙がこぼれ、いつか夢中でスタンドの一番前まで行って、泣きながら手を振りました」と語る。

 東京音楽学校本科二年生として会場で「海ゆかば」の演奏を指揮した現桐朋学園大学教授の萩谷紊さん(六二)は「戦争は語りたくないが、今も心に残る演奏でした」。

 その彼も翌十九年陸軍に入隊。壮行会のブラスバンドに加わった学友四人が戦死した。

 特攻要員に動員

 学徒兵は十八年十二月、星一つ(陸軍は二等兵、海軍は二等水兵)で入隊、一年の教育の後、第一線部隊に配属されていった。

 広島県の大竹海兵団に入った海軍兵科には参院議員の田英夫(六二)もいた。

 「入団最初の夕食にイナゴのつくだ煮が出たのを見て、学徒出陣の意味を複雑な思いでかみしめたのを覚えている。当時の大学生は世間のエリートとされていた。そんな区別もなくなったのかな、というのが率直な感想だった」

syouwasioaruku.sinyou.png  一年後、兵科でも海上特攻隊の募集が始まり、田さんは志願すべきかどうか、眠れない一夜を過ごしたという。二ヵ月後、二度目の募集に震洋特攻隊を志願し、本土決戦に備えての訓練に明け暮れるうち、宮崎県で終戦を迎えた。


※関連;針尾の南東十キロに川棚というところがある。そこに体当たりモーターボート震洋の基地があった。昭和二十年三月末に兵学校を卒業した二十余人の候補生(74期:安藤伸、千葉静市)たちも、艇隊長として特攻訓練をやっていた。生出寿『海軍兵学校よもやま物語』(徳間文庫)P.332.

 私には「震洋」そのものが驚きであった。その上、候補生も配属されていたのには驚きのうわのせであった。


 既に学徒出陣組も陸、海軍を問わず多くが特攻要員に動員される時代だった。

 知覧・最後の出撃

 鹿児島県川辺郡知覧町。薩摩半島南部のほぼ中央台地にあり、沖縄作戦の陸軍の最期の特攻基地になったところだ。

 二十年四月六日から六月十一日まで十次にわたる出撃、千二十人が戦死した。ほとんどが学徒兵と少年飛行兵出身だった。日本獣医専門学校(現日本獣医畜産大学)から陸軍特別操縦見習士官になった会社員の古寺潔さん(六二)=兵庫県在住=。五月二十五日、知覧から出撃したが、天候不良で引返し、三日後再出撃。離陸直後エンジン故障で不時着、重傷を負って生き残った。

 「入隊以来、一緒だった学徒出身同期生七人が全員特攻で死にました。出陣前夜はよく覚えています。残された時間をいかに有効に使おうかと、ほとんど一睡もしませんでした。今でも出撃の夢を見ることがあるんです」

 低い山脈に囲まれたかつての飛行場は、緑一色の茶畑、唐イモ畑に変わり、畑の中に立つ「戦闘指揮所跡」の表示板が当時のな残をとどめている。

 飛行場後の一角には「特攻平和観音堂」と「特攻遺品館」がある。鉄筋二階建て。二階には特攻隊員の遺品と資料が展示されている。昨年の参観者は二十一万人を超した。訪れた日、若い男女が表情を硬くして学徒兵の遺書を読んでいた。

 語り継ぐ死者の声

 昭和二十四年、戦没学生の手記「きけわだつみのこえ」(注・わだつみは海神あるいは海の意味)が刊行されると大きな反響を呼んだ。戦争を否定しながら戦場に赴く苦悩を述べたものや、日本の勝利を信じ、迷うことなく散って行った若者の手紙。いずれも悲しい内容だった。

 その手記の利益金で出来た「わだつみの会」(日本戦没学生会)は、盛時には三百五十の大学、高校に支部を持ち、反戦平和のシンボルになった。その後、同会は解散、再建を経て、今は政治色なしの静かな運動を続けている。支部も東京、大阪、高知の三ヵ所に減った。

syouwasioaruku.kikewadatuminokoe.jpg  ただ「きけわだつみのこえ」だけは百二十余万のロングセラーを続け、故人の意思が広く若い世代に読み継がれていることを証明している。兄をフィリツピンで亡くした「わだつみの会」会長の中村克郎さん(五九)=山梨県在住=は語る。

 「この本こそ戦没学徒兵の魂の紊骨堂であり、青春の営みの記念碑だと思っています。兄の声が耳に残っている限り、わだつみ運動はやめるわけにはいきません」

2019.10.22.「即位礼正殿の儀」の当日。


敗戦 悔しさの中にも解放感

 指先から落ちる汗

 「作業中止、総員帰校…」。瀬戸内海に浮かぶ淡路島を見下ろす神戸市・垂水の丘。昭和二十年(一九四五年)八月十五日、サツマイモ栽培や松根油採取の作業をしていた海軍経理学校の生徒たちに、突然号令が飛んだ。軍朊に着替え、炎天下、運動場に整列した生徒たちは、ラジオから流れる天皇の声を頭を垂れて聞いた。この春、入学したばかりの白鳥邦夫さんは(五七)=現在秋田県立能代工高教諭=もその中にいた。

 「校庭の焼けた砂の上に、手の指先から落ちる汗がポトッ、ポトッとたれていた」と当時の情景を語る。その日の日記に、十七歳だった白鳥さんは「ああ我ら夢にだに思わざりき。帝国の敗北、無条件降伏」と書きつけた。

 しかし、天皇の"玉音放送"は雑音で音声が聞きとりにくくてすぐには理解できず、事態を認識したのは夜。上級生が新聞を読んでくれたからだ。

 「なんとか敵と刺し違えようと思っていたのに、ここで戦争をやめられてはたまらん。悔しい、という気持だった。涙は出なかった。みんな泣いているのに、なぜ私には涙が出てこないのか、とも思った」と白鳥さんは回想する。反面、長野県出身の白鳥さんは「ああ故郷に帰れる」との思いもわいた。

syouwasioaruku.kaigunkeirigatuko.jpg  東京にあった海軍経理学校の品川本校から、生徒が神戸の神戸高商などの校舎へ疎開してきたのは二十年二月。移転からわずか半年余で海軍経理学校は廃校となり、いま、その跡は神戸商科大学と兵庫県立星稜高校になっている。

 両校の本館は当時の建物のままだが、改装され、軍の施設だったことを物語るものは残っていない。経理学校生徒が終戦の放送を聞いた運動場では、同じ夏の日差しの下、高校生がアメリカンフットボールの練習に汗を流していた。「昔ここに海軍の学校があった…」と話しかけると、小さな声で「知りません」と答えた。

※写真の説明:海軍経理学校生徒が終戦の放送を聞いた運動場では、同じ夏の日差しの中、高校生がアメリカンフットボールの練習に汗を流している。正面の校舎は当時のまま=昭和60年8月3日、神戸市垂水区星稜台4丁目と兵庫県立星稜高等学校

 何も残らなかった

 終戦の放送をすぐに理解できた国民は必ずしも多くなかった。「奮励努力せよ」という徹底抗戦の詔勅と受け取った人たちさえいた。

 しかし、その後の放送や新聞などで敗戦の事実は周知させられていく。八月十五日午後、東京では多くの人が皇居二重橋前に集り、玉砂利に正座して涙を流した。降伏を知りながら、九州大分基地から出撃した特攻機もあった。敗戦にやりきれぬ悔しさを抱いた者も多かったが、同時に「死なずにすんだ」「ゆっくり眠れる」といった解放感もまた、戦争に疲れた国民に広がった。

 敗戦で長野県に帰った白鳥さんはその後、高校教師になる。「戦争が済んでみると、今まで学んできたものがみなうそということになり、それを消したら何も残っていない」との敗戦の実感は「自分で自分の言葉をつくろう」との思いをかきたて、友人たちと生活記録の雑誌「山脈(やまなみ)」を始めた。

 自分で空白を埋める

 「山脈の会」は「日本の底辺の生活と思想を堀りおこして、それを記録する」ことを「約束」に掲げ、会員は全国で約二百人になった。昭和三十年代には地域ごとに約十のサークルができた時もある。雑誌の発行は今も続き、最近五十七号が出た。「戦争体験をきちんと記録し、戦争責任を明らかにしていくのが私の仕事。自分の思想、言葉をつくるそのなかでやってきた」。敗戦を原点とした白鳥さんの志は持続している。

 「山脈の会」の地域サークル「東京やまなみの会」の会員、望月寿美子さん(七三)は、疎開先の静岡県・蒲原町で敗戦を迎えた。親類の家に集って終戦詔書の放送を聞いたが、負けたことはすぐわかった。「一番強かったのは、今晩から明るく電気をつけられるという解放感でした」と望月さん。

 東京で夫と食料品店を経営し、特別な政治的な関心は持たず、戦争は必ず勝つものと思っていた望月さんが「戦争は耐えられない」と感じたのは、学童疎開で子供と離れた時だった。そして戦後の暮しの中で、生活記録運動や母親大会へのかかわりをきっかけに、政治的・社会的問題への目を開かれていく。六〇年安保闘争で「声なき声の会」に入り、今も住民運動に参加し続けている。

 「8.15までの無知、空白を自分の足で埋めようとしているのです。例え獄につながれても、今度は絶対に戦争を防ぎます」。望月さんの声は苦々しい。

※海軍経理学校が神戸市・垂水の丘にあり、生徒がサツマイモ栽培や松根油採取の作業をしていたとは。

2019.10.18


朝鮮戦争と特需 アジアの兵器廠
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 ひん死の日本経済

 「米軍の車両修理などはぼつぼつあったのですが、われわれの生活ときたら。それはひどいものでしたよ」

 赤やクリーム色の乗用車や頑丈でスマートなワゴン車が並ぶ東京・三田の自動車会社のショールーム。同じビルの四階役員室で、旧三菱重工業(二十五年一月、過度経済集中排除法により東、中、西の三重工に分割)の川崎製作所に勤務していた中尾充夫さん(六五)=現三菱自動車工業顧問=は終戦直後を振りかえる。

 「給料は遅配、欠配が続き、家族寮は八畳一間。新婚の妻は質屋通い。会社ではナベ、カマ、農機具などをつくっていたのですが、クワなどはお百姓さんの評判が悪くて…」

 終戦の昭和二十年(一九四五年)から二十四年ごろにかけて、日本経済は大戦による生産設備の壊滅、食糧をはじめとするモノ不足、猛烈な勢いのインフレ、産業活動は混乱が続き、各地で労働争議が起きた。誰もが食うや食わずの状態だった。

 ドッジ・ライン危機

 こうしたさ中の二十四年初め、米デトロイト銀行のJ・M・ドッジ総裁が、マッカーサー司令部の経済顧問として来日した。ドッジ氏は当時の日本経済を「竹馬経済」と見立てた。アメリカの援助と国家財政による補助金の大盤振る舞いの日本の"竹の足"は、高くし過ぎると首の骨を折る、というのだ。

 ドッジ氏は、インフレを排除するため、超均衡予算を組み、補助金政策を改めるよう指導した。この緊縮政策でヤミとインフレで景気のよかった中小企業がバタバタと倒れ、失業者があふれた。二十五年に入ると、さらに需要は減退し、安定恐慌状態となり、中小企業には三月危機説が飛んだ。これが日本の朝鮮戦争前夜の状況である。

 二十五年(一九五〇)六月二十五日、朝鮮戦争がぼつ発した。二十年八月に日本がポッダム宣言を受諾、降伏して以来、朝鮮半島は北緯三八度線を境に米ソ両軍に占領された。南が大韓民国、北が朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)。戦闘は南北の軍隊により、突如として三八度線付近で火を噴いた。

 特需がカンフル剤

 戦火は日本までに及ばず、逆にタナボタ的な恩恵を受けた。日清紡績に入って間もなかった奥村修蔵氏(六一)=現同社常勤監査役=は大阪で空前の糸へん景気を体験する。

 「(はた)がガチャンと音を立てると一万円もうかるという"ガチャマン"景気。私の会社でも二十五年上半期(四月期)の決算が八千六百万円の純益。それが下期(十月期)にはなんと七億五千万円にはね上がり二十六年上期は二十億円…。恐ろしいほどでした」

 連合軍に対する日本の特需は二十五年から三十年末までの五年間に、十六億二千九百ドルに達した(経済企画庁「特需契約五ヵ年の概要」)。生産活動は完全に息を吹き返して戦前水準を抜き、三十年には鉱工業生産指数が昭和九ー十一年平均の二倍となった。「もはや戦後ではない」というのが、三十一年の経済白書のキャッチフレーズになった。

 契約物資は当初、自動車関連や繊維製品に集中したが、戦火が激しくなるにつれ、戦車の修復、米軍機のオーバーホール。そしてジェット機の補助タンク、ナバーム弾用タンク、銃弾、火薬類の製造と次第にエスカレート。ナベ、カマをつくっていた旧財閥系の軍需産業も不死鳥のようによみがえり"アジアの兵器廠"と呼ばれるほどになった。

 甦る財閥系企業

 工作ロボットなどにより省力化され、人影もまばらな現在の三菱重工な古屋航空機製作所大江工場内。たまにリベット打ちの音がこだまし、稼働していることが分かる。同製作所のな古屋を中心とした五工場には国産大型ロケット、戦闘機、民間航空機(ボーイング767の後部胴体などを含む)などの最先端の生産技術が結集している。

 同社は朝鮮戦争特需として補助タンクを大量受注。「今にして思えば、この落下(補助)タンクの受注が航空機関連事業のスタートであったかもしれぬ」(三菱重工な古屋航空機製作所二十五年史)。

 三菱だけでなく、三井、住友、日産などの財閥系企業は今日、戦前以上の隆盛をきわめ、日本全体が経済大国。勢いの余った日本に危惧の念を抱く国が増えている。


   朝鮮戦争

 昭和二十五年六月に始まった朝鮮戦争は二十八年七月まで続いた。緒戦で北朝鮮は南進、国連軍を釜山付近まで押し込めたが、国連軍は仁川上陸作戦を敢行。国連軍は北進し、三八度線を越え、中国との国境まで進んだ。その後中国義勇軍が出動、トルーマン大統領は、原爆使用も辞さないと言明、英国はじめ自由陣内から大きな反発を受けた。

 さらに二十六年四月、中国東北部(旧満州)爆撃を主張するマッカーサー元帥を、戦火の拡大を避けようとするトルーマン大統領が解任する一幕もあった。同年六月ソ連のマクリ国連代表による停戦提案などがあったが、休戦までにはぼっ発から三年を要した。

 この戦争で朝鮮半島全土が荒廃し、双方合わせて二百万人以上が犠牲となり、今日にいたっても分断が続き、南、北の傷はいえていない。


講和条約とワンマン 「きっと立ち上がる」
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 戦後復興に力注ぐ

 昭和二十六年(一九五一年)九月八日、米国・サンフランシスコ市のオペラハウスで対日講和条約が調印された。舞台後方には、会議参加国の国旗がABC順に並び、最後に日の丸があった。この日、日本は国際社会復帰へのパスポートを手にした。

 会議の首席全権は、内閣総理大臣吉田茂である。敗戦からまる六年。彼はこの日のために、心血を注いできた。華やかな舞台に立ち、吉田の胸中をよぎったのは、東京がまだ一面の焼け野原だった敗戦直後、娘和子につぶやいた言葉かもしれんない。

 「きっと立ち上がるな、きっといつかは立ち上がる。日本人は偉いんだから」。父の秘書として当時いつも付き添っていた三女、麻生和子(七〇)は、散歩途中、公邸のあった麻布の高台から、ポツンと見える国会議事堂に向って、独り言を言った父を覚えている。

 白足袋、葉巻、ステッキ。国会などで放言を繰り返してワンマンと言われ、政権末期には「打倒吉田」の集中砲火を浴びながら"野たれ死"のようにして政権を放り出された吉田の株が、最近上っている。

 「そりゃそうだ。正しく評価されてるんだよ。日本再建を果し、ここまで持って来たんだから」。吉田内閣の下で何度か国務大臣を務め、党幹事長として女房役だった増田甲子七(ますだ かねしち)(七七)の言だ。

 "戦力なき軍隊"選択

 昭和二十一年五月から昭和二十九年十二月まで、片山、芦田の連立内閣時代を除き、七年二ヵ月政権を担当

 講和条約が具体化したのは、当時の国際情勢の変化だった。

 「当時の情勢では、ソ連などを含めた全面講和は無理だった。吉田は外交官のさめた目で、片面講和を選んだんです」(升味準之助・都立大学教授)

 講和条約とセットで安全保障条約が締結された。

 国務長官ダレスとの交渉で再軍備は断ったものの、政令で自衛隊の前身の警察予備隊が創設され、なし崩しに再軍備が始まった。後に国会で吉田は"戦力なき軍隊"に苦しい答弁をすることになる。

 人間味に親しみが

 独立を果たした吉田を待っていたものは、

 NHKの娯楽番組「冗談音楽」などを舞台に、ギャグで吉田と"闘った"作曲家三木鶏郎(とりろー)(七一)は「戦後の首相の中では、吉田さんがベストワンだった。私の放送は吉田さんが辞職した日にやめました、好敵手、すぐ私の音楽になった人」と、愛情をこめて言う。

 報道陣をステッキで追い払い、記者会見は突然中止、カメラマンにはコップの水をぶっかける。

 しかし郷里に帰れば"おらんくの総理"はやさしい面を見せた。元高知新聞写真部長、浜田豊繁(六八)には、こんな思い出がある。二十二年吉田が選挙で里帰りしたときのことだ。常宿の高知市の城西館で、吉田は突然浜田のフラッシュを浴びた。怒るかと思ったら「キミ一枚だけで良いのか」とニコニコ。

 時には傍若無人、個性が強く、愛情の起伏がすぐ表に出る。そんな吉田に人間味を覚える人が多い。それは本音で物を言わぬ現在の政治家への警鐘なのだろうか。

 (注)増田甲子七はインタビューの後日、故人となった。

syouwasioaruky.yosidakazuko.jpg ※麻生和子出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』麻生 和子(あそう かずこ)、(1915年~1996年)吉田茂の娘。麻生太郎の母。

生涯

1915年(大正4年)5月13日、中国の安東に生まれた。父は吉田茂、母は吉田雪子である。

聖心女子学院を卒業、ローマ聖心女学院(Trinità dei Monti)を経て、ロンドン大学に留学する。母の雪子の影響もあり、熱心なカトリックの信者となる。

1936年(昭和11年)の二・二六事件では、反乱軍兵士に襲撃を受けていた祖父の牧野伸顕を銃口に身をもってかばったとされている。

1938年(昭和13年)に麻生商店社長の実業家の麻生太賀吉と結婚する。子には麻生太郎、麻生泰、寛仁親王妃信子がいる。

1941年(昭和16年)に、母の雪子が亡くなる。総理大臣に就任した吉田茂に、ファーストレディ代わりとして随行する。後に、映画「小説吉田学校」やドラマ「吉田茂」があるが、吉田茂の子として重要な役柄として登場するのは麻生和子である。

1951年(昭和26年)9月8日のサンフランシスコ講和条約締結の会議に、首相の吉田茂に私設秘書として随行した。

1967年(昭和42年)10月20日、吉田茂の死を看取る。前日に「富士山が見たい《という吉田茂の最後の言葉により、麻生和子は抱き起こしたとされている。吉田茂の葬儀は麻生和子ら親族により東京カテドラルで行われ、後に改めて国葬が行われた。

1996年(平成8年)、死去する。

※戸川猪佐武著『小説吉田学校』(流動)昭和46年9月25日 初版発行


東京五輪と出稼ぎ 繁栄と農村の崩壊
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 面目一新した東京

 昭和三十九年(一九六四年)十月十日、秋晴れの国立競技場に高らかに鳴り響いたファンファレーで幕を開けた第18回オリンピック東京大会。一兆八百億円の巨費をかけて開催にこぎつけた大会は、敗戦から立ち直り経済大国となった日本の復興の記念碑であり、国威を内外に示す格好の場だった。

 東京オリンピックを機に東海道新幹線やモノレールが登場、地下鉄、高速道路網も完成し、威容を誇る競技施設やホテルが次々と建てられ、東京は近代的国際都市として面目を一新した。しかし、その陰にどれだけ多くの出稼ぎ農民が礎となったかに思いを寄せた人は少なかった。

 六十年代の高度成長とそれに対応した農基法農政の登場で、農村にも消費ブーム、機械化の波が押し寄せ、切り捨てられた零細農民は出稼ぎへと走った。そこへオリンピックの建設ブームだ。農林省(当時)の調査では三十五年に十七万人だった出稼ぎ労働者は三十八年には三十万人近くに急増、そのほとんどが東北農民だった。

 岩手県二戸市上斗米(かみとまい)前田の農業小館(こだて)実さん(六一)も出稼ぎ列車に揺られ、建設ラッシュの東京に吸い寄せられた一人だった。東京での仕事は港区の高速道路工事現場。海岸端の飯場に住み込み、三食付きで一日の手取りが七百円。

 冬中、めいっぱいに働いても家に持って帰れた金はわずかばかりだったが、「給料持ち逃げされて泣き寝入りした連中や事故で死んだ人間に比べるとずっとマシだった」。故郷に帰って田椊えをするとまた北海道へ稼ぎに行かねばならず、オリンピックどころではなかった。

 事故、妻の家出、非行

 小農の三男坊だった小館さんに与えられたのは日当たりの悪い二十アールばかりの田畑。結婚して六人の子供が生まれ、農業で食えるはずはない。田んぼは奥さんのミヨシさん(五八)に任せ、夏は北海道、冬は沖縄から関東まで出かけて稼ぐしか道はなかった。

 それでも「飲まず食わずの日が続いた」とミヨシさん。小館さんも「子供の修学旅行の費用もままならなくて、校長先生のお世話になったこともあった」と振りかえる。小館さん一家にとってオリンピックなど遠い別世界のことだった。

 昨年冬、東京に出稼ぎに来た小館さんは二十二年ぶりに自分が工事に加わった高速道路の上を走った。「オラがここを造っただぞ、とみんなに自慢した」と語る小館さん、その姿には「オラたちが汗水垂らして働いたから今の東京があるんだ」という自負があった。

 故郷も自ら捨てて

 出稼ぎによる悲劇はオリンピックを前に急増した。出稼ぎ現場では労災事故、賃金不払い。留守家族では妻の家出や病気、子供の非行、そして都会の魔力に取りつかれて出稼ぎ先から帰らない男たち。出稼ぎは農民の体だけでなく家庭を、農村全体を崩壊に導いて行った。

 「出稼ぎ体験は今でも心の傷として残っている」というのは岩手県江刺市出身の社会派詩人安べ(あんべ)英康さん(五五)=群馬県伊勢崎市韮塚町=。自らの体験をよんだ歌集「出稼ぎの歌」など生活に根ざした詩や歌を詠み続けている。

 開拓農業に理想を求めたが、夢破れ気が付けば借金だらけ。最初のころは伊豆のミカン山に出たが、少しでも率のいい仕事を、と高速道路や地下鉄、ビルの建設現場に危険を顧みず飛び込んで行った。オリンピック道路の建設にも携わった。結局、借金を返せないまま故郷と農業を捨て、一家で新天地を求めて群馬へ来た。

 「都会に出稼ぎに来てゼニコのことしか頭になくなり、農民としては堕落してしまった」と自ちょう気味に語る。

 安べさんの左手の薬指と小指は出稼ぎの事故がもとで曲がったままだ。「この指を見るたびに搾取され続けたことを思い出し発奮したり、農業を捨てたことへの罰と思ってあきらめたり…」―複雑な思いにとらわれる。

 今では三人の子供も独立、建売住宅に夫婦だけの生活だが、「年とともに、いろりのある暮らしに戻りたい、という気持が強くなる」と安べさん。「今の私は都市放浪者。一生出稼ぎが続いているようなものです」と言う。

 出稼ぎに出る農民は四十七年をピークに毎年減少、五十九年は十万三千人(グラフ参照)。出稼ぎの理由も「生活向上型」が増え、かつてのように出稼ぎの悲劇は少なくなっている。

 工場の地方分散が進んだことが若い人の出稼ぎを減らしたが、反面、小館さんのような六十歳以上の出稼ぎ労働者は年々、率が高くなっている。


   "東洋の魔女"の秘話

 東京オリンピックといえばまず思い出されるのは"東洋の魔女"と呼ばれたバレーボール女子チームの活躍だが、大会種目としては正式に認知された種目でなかったことは魔女の活躍の陰であまり知られていない。

 国ごとにメダルの数を競うのは本来のオリンピック精神からすると邪道だが、開催国の意地にかけても一つでも多くメダルを、と意気込む日本のオリンピック関係者にとって種目選定は大きな問題。IOC総会の場でも再三、種目問題でやりとりが行われ、三十六年六月、アテネ総会は異例の投票で二十種目を決定した。日本としてはお家芸の柔道が初めて認められたのは予定通りだったが、はずす予定の近代五種、カヌーの二種目もやることになり、関係者を慌てさせた。

 女子バレーが認められたのはさらに一年後のモスクワ総会。三十七の世界選手権でソ連を破り王座についた女子バレーをオリンピック種目に、と願う日本側にとってやっかいな問題は、女子種目を制限していたオリンピック憲章の存在だった。正式種目にするには憲章改正が必要だったが、ソ連など共産圏の協力で、男子バレーボールの十六ヵ国の枠の中から六ヵ国分を女子バレーに提供する、という変則的な形でやっと参加が認められた。

 今では国際的競技になったバレーも、当時は日本、ソ連、などひとにぎりの国のゲームでしかなかった。

2019.10.19

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