★自 分 史 ビニロン企業化を決定 クラレ入社試験 岡山工場勤務時代 ビニロン創業式挙行 研究所勤務時代 倉敷レイヨン中央研究所着工
研修所勤務時代 連絡月報 クラレタイムス 倉敷レイヨンのTSQC ビニロン
―石から合成繊維―
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 倉敷レイヨン(株)、ビニロン創業式挙行 <ビニロンの年譜>より

 工場の敷地に関しては、すでに接収解除となっていた岡山工場を繊維工場に当てることは確定的であったが、ポバール工場についてはカーバイド工場の隣接地を選ぶ必要があった。その結果、いわゆる昭電事件のあとをうけて会長となった石川一郎氏を訪ねて、昭電富山工場の隣接地にポバール工場を建設することに協力を求めて快諾を得たので、その方針に決定した。しかしそれについては、当時の部長の多くはあらゆる点で批判的であった。しかし、ほかに適地を推薦するというのでもなかった。その得失の結果は、現在の立地条件が現実に示しているとおりである。そのほか、通産省では、繊維局はわが社がポバールの製造まで行なうことにに賛成であったが、化学局には化学製品は化学会社に委すべきだとの意見があり、化学会社もまたそれに同調する傾きがあった。しかしわれわれは、一貫作業の技術的重要性をあくまで主張し、特にポバールの製造技術確立のために払った多くの犠牲を忘れることはできなかった。

 こうして建設計画は急速に具体化し、まず倉敷の試験工場の一貫設備を日産1トンに拡大することと、富山と岡山にポバールとビニロンの日産5トンの工場を建設する準備にかかった。

 その間、ドツジ公使の来日によって、わが国のインフレ経済は急速にデフレ的政策の強行に転じ、25年は安定恐慌的様相の中に明け、レイヨンの在庫の圧迫は極度に達して株価はほとんど額面にまで低落し、新事業の前途は並々ならぬ波瀾を思わせるに至った。そうしているうちに倉敷工場のの設備は4月にでき上ったが、設計どおり動かず、拡大設計が容易でないことを強く経験した。これは倉敷工場の拡張を、富山工場建設の前に必要とするかどうかという議論があって両論が分れたとき、倉敷工場は日産2トンでも採算に合うとの主張もあって倉敷で一段階を置くことになったのだが、その必要性に有利なように見えた。

 上況が進行している途上、突如として起ったのは朝鮮事変であった。この思いもうけぬ事件によって、わが国の経済は爆発的な活況を呈し、輸出の激増は、おりからの統制廃止とあいまって莫大な利潤を企業に与えただけでなく、アメリカの対日政策にも大きな変貌が見られ、その後の繊維産業の動向は、戦後の復興期の様相とはなはだしく異なったものに変っていった。

 ブームのまださめやらぬとき、昭和25年11月11日、富山工場と岡山工場は、わが国最初の本格的量産工場として創業の式典をあげた。出発の時はまだ恵まれた環境の中にあった。原価は最初予想したものと全く同じくポンド当り360円前後であり、売価は550円であった。借入金は、朝鮮事変ブームと社債の枠の拡大によって、行詰りを見ることなく解決した。富山工場の隣を流れる神通川の読みが陣痛に通ずるので、安産を願う意味でな付けた晏山(あんざん)寮の床には、棟方志功の作った板画の軸をかけた。それにはニーチエのツアラㇳウスㇳラの字句がすられている。

『ツアラㇳウㇳラは30才の時、その故郷とその湖とを去りて山に入りぬ。この処にその精神とその孤独とを享楽し、10年を経て倦むことなかりき。されど遂に、彼の心機は一転せり。ある日の朝、黎明と共に起き出て、太陽の前へ歩み寄りて、斯く彼は太陽に語りき――<汝大いなる星よ。汝によりて照らざるところのものなくば、何の幸福なることが汝にあらん……>』(以下略)

(連絡月報、昭和36.6月号)

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