中学生の自覚 ★昭和十五年 広島県立忠海中学校入学 入学定員 200人(我々のクラスから)。4組編成。(昭和二十年卒業時、192人。一級上級は卒業時、125人であった。) 入学試験日:15.03.05 明治二十九年創立、昭和六十二年、九十周年。卒業生には、竹鶴 政孝 、池田勇人、新見海軍中将(海軍兵学校長)らがいる。 中学生の自覚が生々しく思い出される。十五歳が「立志」、人生の出発点としの意義が強調されている。満十三歳弱で自覚を持ったのは意味のあったものと思えてならない。 形成された要因について、考えられるものを列挙してみよう。 選抜試験受験の影響:三月五日入学試験。小学校の内申書と口頭試問であった。ぶっけの本番である。模擬試験などの練習 の記憶はない。面接の部屋には二人の先生が机を前にして坐っていらっしゃる。二メトールくらい手前に置かれている椅子に坐らされての口頭試問であった。先生はどなたで、どんな内容であったか記憶にない。膝を揃えて坐って、質問にこたえていた姿を記憶している。 小学校からは十三人進学。男子同級生の進学率は二十%弱であった。全国公私立中学校、昭和十五年度入学志願者数約二十二万人、入学者数約十一万人。昭和五十四年、大学の入学者数約四十一万人、国・公立大学だけで約九万人。 ※忠海中学校第46回卒業生に記載されているのは:井口・泉・井原・射場・瓜井・黒崎・西川・西原・廿日出・宮内・宮住・向井(十ニ名)。 同窓会名簿:4年生:東藤・遠木・中西(三名)となっている。 参考:中野孝次『わが体験的教育論』P.16に 一九三五年(昭和十年)度の数字で尋常小学校卒業者男子七七万六千人のうち中学校進学者は八万人少し(10.3%)で、女子七四万六千人のうち高等女学校進学者は九万七千人ほどである。当時上級学校進学者はいかにエリートであったかがわかるであろう。 生徒の出身地:忠海を中心にした広域から来ていた。東は三原市、西は呉市、南は瀬戸内海の因島、生口島、大崎上島・下島、北は豊田郡北部、賀茂郡にわたっていた。汽車通学、自転車通学、徒歩通学、そのほかに学校には寄宿舎があり、また下宿している者もいた。中学生が父母兄弟から離れて生活していたことは何等かの独立心の釀成になっていただろう。 制服の着用:制服、制帽、靴、肩掛けカバンが指定され、ゲートル着用であった。制服、制帽、ゲートルの色は国防色(ベージュ色の当時の呼称)であった。セルロイド製のカラーを付けていた。四季を通じてただ一着で、常時着用するのが規則であった。服装を正すことも自覚形成に役立つていたと思う 参考:平成のはじめ、服装と自覚に関する話を聞いた。 A高校で、夏、暑いので快適な服を生徒に着させようと、薄地の色目も涼しそうなものに改めた。全くの思いやりからの発想であった。ところが、生徒は着るのを嫌がったのである。新しい服を着ていると自分の学校名がすぐに人に分かると言うのである。その学校は二流の学校であって、例えば中学生の親は、自分の子供が勉強しないのをみると、A高校に行くのであれば勉強などしないでもよいと言うほどであった。 躾ー挨拶:登下校時、先生に逢えば、そこで止まり先生の方に向かって軍隊式(陸軍)挙手注目の敬礼をしなければならなかった。上級生には歩きながらすることになっていた。欠礼があればその場で注意された。 授業方式:全科目、専門教科の先生が教える。クラス担任の先生は決められていたが専門教科の先生と変わらないくらいの接触しかなかった。小学校では担任が全教科の面倒をみてくれたのと全く様変わりであった。科目の数が多く、英語などは初めての科目、教えるスピードが速い。小学校と雲泥の差であった。三学期制であり、各期二回の試験があり、日程も三~四日連続。成績の順位が知らされた。新体験ばかりであった。 戦時教育 昭和十六年十二月十二日閣議:戦争の名称を支那事変を含めて大東亜戦争とすることに決定。 中学生時代の支那事変~大東亜戦争との関連を纏めてみよう。 中学生の軍人志望 支那事変は私が小学校四年生のときに始まった。日米開戦は中学校二年生。 陸海軍関係学校があった。陸軍幼年学校、陸軍予科士官学校、海軍甲種飛行予科練習生、海軍兵学校などであった。
★中学一年:新しいことばかりであった。
▼校舎の正面二階に、畳敷の教室があった。「三省」の額が掲げられいた。修身の授業を中井校長先生から受けた。内容は全く覚えていない。授業の雰囲気、窓の外の瀬戸内海の景色など彷彿と浮かぶ。この三省は『論語』の学而第一から引かれたものだと思う。 曽子曰。吾日三省吾身。為人謀。而不忠乎。與朋友交。而不信乎。傳不習乎。 訓 曽子曰く、吾は日に三たび吾が身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習わざるを傳うるか。 新 曽子曰く、自分は毎日三度、自分のしたことを反省する。人の相談にのってあげて十分誠意をつくしたか。友人と談話する間にいい加減なことを言わなかったか。(弟子たちに)未熟な知識を教えなかったか。 以上は宮崎市定著『論語の新研究』(岩波書店)P.163 による。 ▼同年代の中学生が陸軍幼年学校への入学希望者が非常にたくさんいた。入学するためには算数の「植木算」「鶴亀算」などを完全に理解している力が求められていた。 二年生のとき、伯母(梨和りな:父の姉)さんに広島市にあった学校を受験のためつれて行ってもらった。伯母さんの長男:吉之輔さん(近畿鉄道に勤務。後、大阪近鉄バファローズ•1950年オーナー)が比治山の家に下宿して、広島第五師団に勤務していた。立派な庭園があった。昭和20年の原爆にやられてしまった。 ▼木村 晋さんについて。梨和の家に下宿していた。その家は私の家からはなれていて、忠海港の近くにあった。木村さんは、忠海中学、昭和16年卒。当時、室蘭高等工業冶金科(現室蘭工大)に入学。卒業後、西芝会社(姫路市)に就職。広島県呉市の眼科医の御子息。私は二年生の時、経緯は記憶にないが、梨和の家で寝泊まりしていた。ともかくも二年生になり勉強が大事なときであった。まさにそのとき、五年生と同じ屋根の下にいた。 おもえば、小学生のときには、四年生になり、亀田先生が赴任され(忠海では1年間しか勤務されなかった)担任となられた。そして私は優等生になった。それまでは算術だけが甲(甲・乙・丙の三評価)、それ以外はすべて乙であった。それが、自分では一生懸命に勉強した覚えがなかったのだがどうしてだったのだろうか。それ以後、順調に推移、五年生の時には、蛭子道子さんに教えてもらってさらに読み書き算術が上達した。優等生で卒業できた。この体験は生涯にわたって私の底力になったのは間違いなかった。本当にめぐり合せの幸運に恵まれた。 ▼広島一中から忠中へ転校してきた生徒がいた。彼は二年生のときは、かなりいい成績であった。三年生になってからは普通の成績になってしまつていた。広島一中の教育は忠中より進んでいたと思われた。 このようなことから、広島一中から旧制高等学校・海軍兵学校などへ進学するのは忠中より多いのは当然だと……。 ★中学三年 中学三年生の頃、具体的な目標を立てていなかった。例えば四年になったとき級長になる。 四年終了で高等学校進学のための受験対策の勉強をするとか。 勤労動員 三年生(昭和十七年)支那事変の影響が浸透し始め、農村では若い人が兵役に取られて、農耕に人手不足になってきた。 勤労奉仕で農家に行く。春秋の農繁期、学校を離れて、農家に泊まり込みで出向いた。家族が軍人として出征されて、手の足りない農家の応援が多かった。私は農業の経験がなかったので麦刈り、稲刈り、稲こぎなど楽しいものであった。畦道での「さんじ」(おやつ。こひる。)に、蒸した芋などをほうばった。時には、農耕馬に乗せてもらって走った。私を乗せて、家の軒下に駆け込んで屋根に突き当たらせようとしたり、小川の縁に行き首を下げて水を飲むようにして滑り落とそうとしたり散々な目に合わされた思い出……。 17.11.07~稲刈り勤労奉仕出動。 ※写真の説明:先生が引率されて麦刈りに勤労奉仕で行きました。写真はその時のものです。先生と級友(明田・岡本・井上らと小生)たち。 勤労奉仕に引率された英作文の先生が渡辺先生について。先輩から伝わっていたあだなは「アドベンチアー」で親しまれれていた。当時の英語は英文・英作文・英文法と別々の先生が教えていた。 瀬戸内海の島々を南にみる、ボートの倉庫からボート(エイト)が海に引き出せる学校の2階の教室。
先生の1時間目の授業の時にはリンゴを持ってこられて、黒板を背にした教壇の机の椅子に坐り、リンゴをかじられていた。こんなのんびりしたことは、いまでは許されないだろう長閑な場面が記憶のなかの写真に収められている。月並みだが「古き良き時代」であった。 さらに、先生が「この地方は2月11日(紀元節)ころから暖かくなるよ」といわれたことである。 私は今でもこの日が近づくと、寒さが北の国に向かっているとかんじている。 その時に教えられたイギリスの諺に「一日に一個のりんごは医者を遠ざける(イギリス)」があると言われたことが思い出される。 ※参考:池 田 潔著『自 由 と 規 律』岩波新書 1963年6月20日 第25刷改定版発行 P.125 戸口に立つて棚から林檎を手にとると、〚一日に一個の林檎は医者を追払う〛、必ずあれを独語いいながら、上衣でゴシゴシ擦ってよく艶を出してからこっちに投げてくれる。受取る。お休み、途中気をつけろ、狼が出るぞ、狼、狼、そして戸がパターンと閉じる。 参考:An apple a day keeps the doctor away. ※余談:彼等の試験に不正行為が全くないという厳たる事実である。 リンゴの効果については説明されなかった。これまで詮索したことがなかった。 以上の事情から、食物を専攻されている医師に効果をおききしたいものだと思っている。諺になるくらいだからきっと説明されるものだと信じている。 参考:皮の直下のポリフェノールの主成分は、日本茶よりも抗酸化力の強い「プロシアニジン」です。プロシアニジンは脂肪の蓄積を抑制し、がん細胞を自死させる働きがあることが分かっています。絞り汁になってしまうジューサーではなく、植物繊維をたっぷり取れるように、皮ごと、ミキサーにかける。「サビない身体」を作るのにはリンゴはもってこいなのです。 私の知己である、千葉大学大学院医学研究院先進加齢医学の清水孝彦准教授は、リンゴに活性酸素を制御する能力があることを突き止めました。活性酸素は、ミトコンドリアが酸素を燃やす時に出るもので、老化やがんの促進に深く関係していると言われています。 清水准教授はまず、活性酸素を解毒するスーパー・オキシド・ディスミュターゼ(以下=SOD)という酵素を用いて、マウスの心臓でSODを遺伝的に不活性化させる実験を行いました。その結果、マウスの寿命は平均五~六カ月に短縮、心筋細胞が急速に老化しました。このマウスに、リンゴから抽出したポリフェノールを餌に混ぜて与えたところ、雄のマウスでは寿命が二九%、雌のマウスでは七二%も伸びたのです。しかも心筋細胞の老化は押さえられ、心臓は若々しい状態に保たれていました。 英国の十九世紀の格言に「一日一個のリンゴは医者要らず」があります。昨年オックスフォード大学の研究者がコレステロール阻害薬スタチンとリンゴの効果を比較する研究を行いました。一年間に血管に関する病気で亡くなる人の減少数は、スタチンを毎日飲んでいる人が九千四百人に対して、リンゴを毎日食べている人は八千五百人。リンゴは格言を裏切らない効果を証明したのです。 「100歳まで元気なアンチエイジング最新報告」 白澤卓二(しらさわたくじ) 順天堂大学大学院教授の記事。『文芸春秋』2014.8月号による。 ▼上東(かみひがし)晴夫さんについて。忠海中学、昭和18年卒。呉市広の出身。海軍兵学校入校。74期生であった。私が入校した時、「鬼の上東生徒」と恐られていた。ところが上東さんが五年生の時、私は三年生、偶然にも彼と三八式小銃を共同使用していた。 昭和十七年 四月十八日 山本五十六海軍元帥、ソロモン諸島ブーゲンビル島上空で戦死。 写真:昭和17年8月1日。於江田島 ★17.07.26:江田島勤労作業:三年生全員が江田島へ勤労動員された。期間・宿泊・作業内容などの記憶が定かでない。
昭和19年10月、海軍兵学校に入校したのだが、三年生の頃にはあごがれていたものだ……。
甲種飛行予科練習生の志願者が増加。従兄の二人、同級生も入隊した。当時の中学生は軍人志望者が多かった。 ★18.01.27:冬季錬成大会(安芸津町往復十里行軍) ★18.03.19:小泉・白滝山・黒滝山へ夜間行軍行軍。このとき、歩きながら眠ることを体験した。
★中学四年:昭和十八年
★中学五年:昭和十九年 忠海陸軍兵器支廠に勤労奉仕作業に行き、倉庫の整理、運搬作業をおこないました。また、大久野島にも渡り、ドラム缶などを運ばされた。19.04.15~ 4、5年大久野島勤労出勤 19.05.10、広海軍工廠(呉市に近い広町)に同級生200人の中150人動員された。11空廠4年。飛騨先生と工廠の安永寮に入り、工廠での職場に分散して働いた。二交替制の十二時間勤務であった。私は補助機関の工場に回され、ボルトを作る単純作業の旋盤運転係りであった。久留米工専の学生、広島女学院の女子生徒も動員されていた。閣議で動員決定されていたのである。わたしは、そこから海軍兵学校を受験した。 十月に兵学校に入校した。向井恒夫君・平田琢磨君・有田義明君・黒崎が海軍兵学校。吉岡典威君が陸軍予科士官学校へ。 ★飛騨先生について 三年生・四年生のときの担任の先生は飛田先生(国語)だった。忠海中学の先輩で、京都帝国大学卒。 中学3年生全員が江田島へ勤労動員されたとき引率された。5年生のときは、呉の東にある「広」の海軍工廠に動員されたとき引率教員として、安永寮に生徒と一緒に宿泊して動員の生活をされた。 私は、学校に弁論部があることは知っていたが、部活には縁遠い生徒であったので誰が部員か、指導されていた先生がどなたであるかは全く知らなかった。 たまたま、パソコンで私の昭和史――自分史の試み――岡野幸郎を見つけた。 岡野さんの名前は、中学三年生の二学期の運動会:昭和十七年十一月三日(明治節)で、校内放送のマイクが「岡野君が海軍兵学校に合格しました」と知らせた。すると、歓声がわきあがった記憶がある。海軍兵学校74期生徒である。 岡野さんの自分史の中の下記の記事で飛騨先生が弁論部を指導されていたことを知った。 弁論部主将 意外にも私は四年生、五年生の弁論部のベテランを抑えて優勝した。最後に講評した弁論部長の飛騨先生は、私が弁論部ずれのしない、平談俗語で演説したことを誉めた。それに、演壇上に拡げた原稿用紙を、話の切れ目ごとに一枚づつめくっていったことまで、慎重で用心深く、落着いた態度だと誉めた。この弁論大会の後、弁論部長の飛騨先生に弁論部に入るよう要請された。この飛騨先生はわが忠中の先輩であった。三高から京大文学部を出て、母校の国語の教師であった。知らないことは知らないといい、率直で飾らない人柄は生徒から敬愛されていた。私としては優勝させてもらった負い目もあり、断ることはできなかった。四年生になると私は弁論部の主将になったらしい。らしいと言うのはこのあたりの記憶が欠落しているからである。ただ、十数人の弁論部員と一緒に 海岸に出て海に向かって発声練習をしたことだけは覚えている。一昨年の家屋解体の際、見つかった作文の把(たば)のなかに、昭和17年度(1942)の弁論大会の開会の辞の原稿があったのである。開会の辞は弁論部主将の役目だから、多分私は主将であったのだろう。それは内容の空疎な決まり文句を羅列した拙い文章である。しかも私がもともと嫌悪していた弁論部臭ただよう文章である。しかし如何に拙い文章であろうと、それはそれでわが精神成長の一過程を証明するものである。以下記録にとどめておくことにする。
T.14.04.13 陸軍現役将校配属令を公布(中学以上の学校では現役将校による教練を実施。大学学部・私立校は申請制)。
S.19.01.18 閣議 緊急学徒勤労動員方策要綱を決定。学徒勤労動員は年間四カ月を継続して行うこととする。 S.19.03.07 閣議 学徒勤労動員を通年実施と決定。軍事訓練 陸軍から配属将校(少尉・中尉クラスの将校)が学校に配属されて、生徒の軍事訓練を担当していた。 S.23.06.19 衆参両院、教育勅語・軍人勅諭・戊申詔書・青少年学徒に賜りたる勅語の失効確認・排除に関する決議案を可決。 以上『近代日本総合年表』岩波書店による。
▼教練教程は、挙手の敬礼法、不動の姿勢、ゲートルの巻き方、駆け足、隊伍の組み方、号令の掛け方などをはじめとして、三八式小銃操作、散兵の仕方、サーベル操法、指揮法にいたるまで訓練された。十里行軍、夜間訓練などもあった。 体力測定テストでは手榴弾投擲距離・米俵運搬時間などが測定されるなど戦時色のものがあった。 ▼普通教育 授業 教科書に従って教えられていた。一学年の間に一冊教科書を始めから終わりまで完了したことがなかった。はなはだしいときは二学期分でその学年が終わることさえあった。こんな調子の授業の進め方であった。上級学校への受験勉強の指導をされた記憶はない。 定期試験:各学期、中間試験と期末試験、年間六回試験。中学三年生から定期試験のほかに実力試験があった。上級学校進学の準備を始める。 定期試験で思い出されるのは、四年生の漢文の試験であった。解答用紙の表を書き終わって、寝てしまった。ベルがなる五分前に、裏に問題があるのに気づいて急いで解答を書き終わったのである。 五年生になると、受験組と就職組に分かれていた。 上級学校合格者の氏名が廊下に張り出されていた。海軍兵学校の合格発表は十一月三日の運動会の日、拡声器で氏名が放送されると歓声が上がっていた。 ▼「質実剛健」が学校のモットーであった。 ▼落第制度 一年生から二年、二年生から三年へと進級出来ないものがいた。二百人の同級生の中で四~五名だったろう。二%くらいになる。落第は一学年で二回までゆるされていた。五年生になるまで何回も落第するものがいた。一年生のころの落第生は恥ずかしそうにしていたが、三年生以上になると達観した様子にも見えた。しかし、だれ一人として落第が理由で学校をやめる者はいなかった。 ▼退学などの罰則もあった。謹慎処分、停学、退学と重くなっていた。学校には多くの規則があり、一度は説明されているはずであるが覚えていない。 ▼上級生、同級生が登校しなくなる。映画を見ていて先生に見付かった。煙草を吸ってバレた。試験中にカンニングが発覚。こんな類いの理由であった。 ※参考:池 田 潔著『自 由 と 規 律』岩波新書 1963年6月20日 第25刷改定版発行 P.134 パブリックスクールでの試験に不正行為が全くないという厳たる事実である。 ▼進路指導 直接先生から受けたことはなかった。生徒自身が決めていたが、時代の流れである海軍兵学校・陸軍予科士官学校へと動いていた。 先輩がどの学校に行き、どんな勉強をしていたかの見様見真似であった。学校での成績が何番であれば先輩の実績と比較して、どの学校に合格するか自分で判断していた。 進 学:中学四年修了で上級学校に進めた。秀才は四修で進学した。 大谷圭三君が第六高等学校へ、山本道広君・山本譲二君が海軍兵学校へ、砂田義一君が陸軍予科士官学校へと四修で進学した。 中学四年生の時、進学希望校(旧制高等学校)の過去五年間くらいの試験問題を集めて解けるまでの力をつける努力をしなかった。忠海中学校での教科書の勉強だけでは不十分であった。大谷君が級長で私が副級長だったので受験対策などを話し合って具体的対策をしておけばよかった。(2027.8.12記す) 同級生の進学状況は、創立100周年記念 同窓会会員名簿 1996 による
広島高等学校:6(児玉昭人君をはじめとして全員文科)、第六高等学校:1(大谷圭三君、理乙)、松山高等学校:2(高川 功君・柄 一典君、文科)、第七高等学校造士館:1(川本正司君・理科)、大阪高等学校:1
▼中学での成績 一年生の第一回中間試験の成績は二百人中七十番くらいであった。勉強の方法が分からなかったのであった。小学校での優等生がこんなはずでないとの思いがあった。 一年生の総合成績は最終的には12番であった。 二年生の総合成績は8番であつた。以後、卒業までは八番、副級長であった。 成績順にクラス編成されていた。一・二・三・四の順にそれぞれ一・二・三・四組、五・六・七・八が四・三・二・一組といつた配分であった。級長は一番から四番まで、副級長は五番から八番までが指名されていた。従って私は一組の副級長であった。
▼恩 師
中学に入り、戸惑った学科は英語と幾何であった。 英語では It is a desk. まではそのまま抵抗なく頭に入ったのであるが、There is a desk. の語順がどうしても理解できなかった。ともかくも英語は丸暗記するものであると叩き込まれたようである。 幾何学の証明問題は公理、定理を使っての論理訓練である。公理、定理の定義の概念が頭に入るには小学校卒業年齢の少年には無理のようであった。四苦八苦の勉強であった。徳田先生の名句:「幾何は定規で正確な作図をして眺めておれば解答が分かる」は救いであった。正確な作図を眺め、補助線をどこに引くかを考えていると解答が見付かったものである。 東洋史の村上先生 「中国史」を村上先生から教えられました。この先生からの考査を思い出しました。考査の前に自分なりに勉強した解答を書きますと、意外にも点数が低いので不思議に思ったことがありました。その後、偶然にも先生の問題には教科書の記事を丸暗記して書かないと評価されないことをしりまして、教科書を繰り返し読み、覚えて解答するとかなりの高得点になりました。 先生が何を意図されての理由はわかりませんが、柔らかい頭の少年に中国史を記憶させようとされたのでしょうか。英語にしても短文を暗記させられた記憶があります。その影響か、私は漢文も英語も好きな科目になっていました……。 教科書の一字一句を間違はないで説明されて、記憶力の素晴らしさに感嘆した。試験でもそのように書かなければ高得点はえられないほど徹底していた。 国語の横田先生 国文法は難しいと印象づけられはしたが、格助詞の「は」と「が」の意味の違いを教えられた。 ▼中学2年生でした。漢文の時間に吉田松陰の「士気七則」を暗記させられました。 先生が下記の書き下し文のように読み、私たち一同が口をそろえて読みますと、教室にその声がこめられました。先生のおな前は太刀川先生でした。 披繙冊子。嘉言如林。躍躍迫人。顧人不讀。即讀ず行。苟讀而行之。則雖千萬世ず可得盡。噫復何言。雖然有所知矣。ず能ず言。人之至情也。古人言諸古。今我言諸今。亦詎傷焉。作士規七則。 冊子を披繙すれば、嘉言林の如く、躍躍として人に迫る。顧に人読まず、即読むとも行はず、苟くも読みて之を行はば、則ち千万世と雖も得て尽す可からず。噫、復た何をか言はん。然りと雖も知る所有りて、言はざること能はざるは、人の至情なり。古人は諸を古に言ひ、今我は諸れを今に言ふ、亦た詎(なんぞ)傷まん。士規七則を作す。 現在でも、「冊子を披繙すれば、嘉言林の如く……」と口ずさむことがあります。今でも暗唱できる。中国古典への手掛かりを作っていただいた。 英語の渡辺先生は忠海は紀元節(二月十一日)になると寒さが緩み暖かくなるとの余談。今でも、私には二月十一日が春の訪れになっている。 国語の飛田先生、忠海中学の先輩。京都帝国大学卒。三年生・四年生のときの担任先生。 石田先生、岡田先生、中学教員専検合格の先生。知識豊富。 五十嵐先生、化学実験と講義を聞き、東京高等師範学校卒業の先生はさすがだった。 校長…数田・中井の諸先生。 日本史…岡田、東洋史…村上、西洋史…?、数学…仁科・長谷川、幾何…徳田、英語…森・矢口・渡辺・中野、国語…横田・飛田、漢文…太刀掛、植物…山田・石田、化学…五十嵐、公民…夏目、体育…宮里、剣道…山崎、柔道…河合、教練…高橋・秦・内山。 一人一人のお顔が鮮明に浮かぶ。 ▼武道 柔道と剣道に分かれていた。私は剣道を選んだ。海軍兵学校でも柔道・剣道に分かれていて同じく剣道を選んだ。 ▼体 育 体育は、正規の授業・学校全体の体育行事・部活動に大別出来る。それぞれ印象に残っているものを書いてみよう。 遠 泳:中学一年生のときである。学校は瀬戸内海の海辺にあった。校庭の南には、防潮堤の上に松並木があり浜は白砂の風情であった。 入学して五月の半ばともなれば、晴天の日は、体操の授業は水泳であった。 水泳は小学校低学年から一通りマスターしていたから、中学校での水泳は苦にはならなかった。夏休み前の仕上げが遠泳であった。 中学校の海辺から隣の部落・長浜までの往復四キロの遠泳である。一年生全員参加。六尺褌をしめて白の水泳帽子。二列縦隊で適当な間隔を置き隊ごを組んで泳ぐ。沖にはスナメリ鯨が游泳していた。救助用の伝馬船二~三隻に先生が乗って監視。瀬戸内の潮の流れはかなり速い。干満の差が大きいことからも分かる。海辺から五十メートル沖合を泳いでいて流れに乗ればすいすいと進むが、逆らうことになれば一メートル進むにも容易なことではない。場所によっては流れが変わっている。進んでいるかどうかは陸地の位置の変化から判断していた。 海水につかっているのだから暑いとは思えないが、これがとんでもないことである。水に入っている部分は冷えているが頭は太陽に照らされていて暑くて仕方ないのである。絶えず水に濡らさなければならない。 中学一年生の体力が尽きて伝馬船に引き上げられる者が出てくる。それも四~五人である。船に乗りたいが、上がれば恥ずかしいと思っていた。 往復を完泳して学校の海辺の底に足がついたときはホットとした。海水を掻き分けて砂浜に辿り着く。立つことができないでフラフラと倒れる。あちらでもこちらでも。なぜだろうか? お粥が配給された。唇まで色が変わるほど冷え切っているときの温いお粥はたまらなく美味しかった。 遠泳も終わり、夏休み。広島高等師範学校の学生さんに正式泳法「高師流」を教わった。 ★ボート競漕 私どもが入学した昭和15年でも校内のボートレース競漕が行われていた。校庭の南の土手で、応援歌を歌わされた。
1、沖の島々数限り
「味潟海(あじかたうみ)」は、忠中ボート応援歌(沖の島々)大正8年卒業第20回生 作詞 に詠みこまれています。 ボートはエイトで、艇庫からレールが海へひかれていて、簡単にボートを海に浮かべることが出来ました。 ボートと言えば、岡山の第六高等学校のボート部が遠漕で忠海まで来ていた。 ★学校全体の体育行事 運動会:十一月三日、明治節の日に行われていた。男子中学校の運動会であり、地元の生徒は数えるほどで、遠方からの者がほとんどであったので、父兄が参観されることはまずなかった。体育時間の延長に過ぎなかった。 マラソン:私には印象深い。 出発前、数田校長の訓示が忘れられない。 「マラソンは長距離で辛いものでしょう。しかしこれに耐え完走した体験は将来きっと役に立つと思う。将来困難に遭遇したとき、マラソンを思い出せば乗り越えて行けるものと確信します。全員、頑張り、落伍しないで完走することを期待する」との主旨であった。 隣の町幸崎町まで往き、返りは久津の坂を駆け登り二窓を通過して校庭までの一周コースであった。全校生徒が町に繰り出しての競走で、沿道の顔見知りの声援を受けるので、中学生としての誇らしさを感じていた。同級生で上位にはいるのは自転車通学者だった。毎日、四~五里の通学中に健脚になっていたようである。親友児玉昭人君もその一人であった。 部活動 陸上競技部、柔道部、剣道部、ボート部、相撲部、銃剣術部、グライダー部、自動車部、蹴球部、庭球部、野球部、徒歩部等々があった。 一九一五年、朝日新聞社主催、全国中等学校野球大会の第一回大会以来、我が母校の野球部は一度も出場したことがない。 毎日新聞社主催の全国選抜中等学校野球大会にも選抜されたことがなかった。戦後一度だけ、あわや甲子園出場というところまで善戦したことがある。当時、従兄弟・梨和吉之輔がプロ野球チーム近鉄球団の社長をしていたので、出場すれば藤井寺球場を借りて練習をする手筈まで整えていた。 全国大会出場する選手はでていた。部活動はあくまで生徒主体のものであって、学校ぐるみといった雰囲気はなく、まして父兄ぐるみ、町ぐるみといつたことは一切なかった。 ★私の時代の中学時代のあれこれ 男女別学 男女共学に対してこんな言葉が当時の教育にはピッタリである。小学校4年生以来、共学の経験がない。 忠海町には県立中学校と県立高等女学校があった。私は昭和15年4月に中学に入学。2年生(昭和16年12月)の時に太平洋戦争が始まった。 中学校は町の西の端にあり、女学校は東の端にあった。通学の途上、裁縫道具の風呂敷包みを抱えて帰る女生徒、女子用の自転車に乗って帰る女学生に会っても話しかける中学生は一人もいなかった。中学生ばかりでもなかった。女学生も男に近寄ろうとしなかった。 伯母の家は女学校から200メートルくらい離れていて、二階から見通せる位置にあった。中学生が女学校の辺りをうろうろするようなことは許されもしなかった。校則で禁止されていたかどうかはしらないが、むしろ社会的規範であったのではなかろうか。 伯母の家の二階から女学校の運動会を遠望した記憶がある。中学校と違い、万国旗で飾られ、音楽が響き、保護者父兄の応援も多く、華やかであった。 制 裁:上級生が下級生に鉄拳制裁をしていた。 口実は上級生に挙手の礼をしなかった、肩掛けの鞄の紐を長くしてお尻のあたりまで下げている、ゲートルの巻き方が悪い等々であった。 制裁する人もされる人も大体決まっていたようである。不良振り、悪者ぶって下級生をいじめる上級生。上級生にいじめられても俺はものともしないのだといった下級生であった。 制裁は先生の目のとどかない所で行われた。たとえ、先生の耳にとどくことはあっても処罰されることもなかった。あくまでも生徒間の問題であった。4年生が3年生以下を指導する習慣であった。五年生(現在の高校二年生)は何も口出ししなかった。一・二生のころは四年生といえばかなり怖い存在であった。三年生になると制裁を受けることは少ない。要領が良くなっているのと、四年生も三年生を指導するようなことはしなかった。 喫煙・飲酒・万引き 大人になるための通過儀式であったのか。ガンジー氏もその自伝に「盗みと贖い」の一章を書いている。たばこを盗みそして懺悔文を一枚の紙片に書いて自分の手で父に渡している。 映画鑑賞 映画館への入場は禁止されていた。上級生の中には映画館に入っているのを見つかり謹慎処分を受ける者がいた。他校の先生も含めた横断的組織・教護連盟があり、輪番で映画館に入り監視していたとのことであった。 時々、講堂で上映された。暗幕用のカーテンを引いた講堂に寿司詰めにされて膝小僧を抱えて見たものである。 ★修学旅行 三年生から四年生に進級すると、春休み中に朝鮮に旅行するのが恒例であった。我々クラスは昭和十八年の春、進級したが、旅行はなかった。 参考:昭和十五年六月二十二日 文部省、修学旅行を通牒(十八年以後、全面中止)されていた。 そこで、修学旅行の代わりに無銭旅行を従兄弟の恒松廣志・忠志兄弟と近所の下級生二~三名と小旅行を計画実行した。 コースは忠海~上下~東城~広島~忠海であった。自転車での無銭旅行。 上下町には中学の先生がいて、東城には、恒松忠志君(広島県立西条農学校)の同級生がいるとの理由で決めたようである。 忠海~上下は直線距離で約四十二キロである。一日目の夕方、上下の小学校に止宿させてもらった。上下~東城は地図上の直線距離で約二十四キロ。忠志君の友人の家を捜して一泊させていただいた。歓待され、お膳でご馳走された。二日間の自転車で疲れたので東城~広島は汽車旅行に変更。自転車はどうしたのか覚えていない。 広島市ではじめて映画館にはいった。広島は忠海から離れているということもあってか、校則を破って。教護連盟の先生に見付からないように服装などには細心の注意をはらって。獅子文六原作「海軍」という映画であった。鹿児島一中の生徒が海軍兵学校生徒になる物語であった。今考えると、積極的にみせても良かったのではないかと思える。 二泊三日の小旅行、しめて十一円使った。汽車賃と映画代が主な出費であった。 参考:以上の経緯で、たまたま、この映画を観ていたので、朝日新の記事が目に留まった。 平成18年(2006年)7月14日の朝日新聞で「歴史と向き合う 第2部 戦争責任」を読む。 「散華」士官 予想外の戦意高揚効果 大ヒット 獅子文六の新聞小説「海軍」 戦後は自粛生活 追放の仮指定もの見出し。 当時の新聞は読まなかったが映画「海軍」は見た。 映画「海 軍」 その要点をまとめてみよう。 作家獅子文六に、朝日新聞から次の連載小説の依頼がきたのは、真珠湾で戦争が始まって間もない頃だった。「今度は戦記ものでお願いできないかと」と学芸部長にいわれた。 パリ仕込のシニカルな個人主義者で、熱狂や集団心理、ましてや軍国主義とは無縁だった。そんな彼も「戦争になった以上、一国民として、できることはやろう」という気持ちになったと、後に書いている。 1942年(昭和17年3月6日。疑問:約3カ月後の発表はなぜか?)、真珠湾攻撃の小型潜航艇の発表があった。2人乗りの5隻がひそかに真珠湾に潜入し、乗員9人が散った。各新聞は「九軍神」とたたえ、歳そこそこの若者たちの自己犠牲に国民はあげて感動した。 朝日新聞は「九軍神ではどうか。材料は海軍報道部がだすから」と勧める。広い舞台が与えられ、得がたい便宜が図られ、大衆と心を共有できる。朝日は9人全員の伝記を望んだが、文六は1人だけなら書けるかもしれない、と思った。新聞連載が始まると徴用されないらしい、という思惑もあった。 広島県・江田島の海軍兵学校の取材は海軍の協力で可能になった。朝日も海軍省詰めの記者を同行させた。 主人公の出身地・鹿児島にも行き、「軍国の母」になった戸惑う母親にも会った。地元駐在の朝日記者が案内した。実家には全国から手紙や贈り物が届いていた。 次の朝刊小説は「海軍」、という社告が大きく朝日新聞に出たのは6月末。作者は獅子文六ではなく岩田豊雄、本名である。社告で文六は「帝国海軍という厳粛なる事実を前にして、筆名の衣を脱ぎ棄てる必要を感じた」と書く。海軍報道部、平出英夫大佐の「誠に時宜を得たる意図にして欣快に堪えず」という談話ものった。「海軍」は7月1日~12月24日まで。 「海軍」は鹿児島の米屋に生まれ、海軍兵学校で学び、特別攻撃隊に選ばれ、真珠湾で戦死した横山正治中尉(死後2階級特進で少佐)の生涯をたんたんと描いた作品だ。責任感が強く、実直な青年。生い立ちや友情などが詳しく、神格された軍神像からほど遠い。 だが、あるいはだからこそ、「海軍」は読者の胸にしみた。空前の困難に直面した国民の緊張感と覚悟が、作者と読者を結びつけた。少しも好戦的でない作品が、皮肉にも戦意高揚に寄与した、連載が終わるとすぐ本になりベストセラー、さらに映画化され、大ヒットした。 文六はその後、神奈川県・湯河原に疎開し、終戦の玉音放送を聞いた。その年の12月、四国の田舎に2年間、逼塞生活を送る。 四国行きには色々な事情があるが、「戦争協力」への、ある身の処し方ともいえる。「自粛した暮らしのようでした。やはり反省の意味はあったと思います」と作家・半藤一利さんは言う。 その頃、文学者の責任問題がもちあがっていた。文六も追放の仮指定を受けたが、後に解除される。「海軍」執筆は軍部、新聞社の要請によるもの、という主張が認められたからである。その後人気作家に返り咲いた。 ▼この新聞記事にはさらに「虚偽の軍発表 そのまま報道 社論曲げ、戦争協力への道へ」の見出しも掲載されている。また「戦果を誇張 好戦一色の紙面」などを掲載して、「過誤を鏡にして」編集委員が考えを記載している。 「・・・あの時代にどうすればよかっのかは難問だが、今後どうすべきはかは考えられる。当時と今とでは条件も大きく変わっている。変化した一つは、現在の憲法で表現の自由が基本権として保障されたことだ。新聞紙法のような言論統制法は今の日本にはない。・・・」といっている。それが守られることをねがう。 ▼終戦後61年になろうとしている。60歳以下の人たち太平洋戦争の経験がない。遠い昔話でしかないだろうが。現在では考えられない当時の日本の国民(大人から中学生にいたる)の行動・考え方を作家と言わず、新聞、すべての国民が何らかの形でこの戦争に協力していたことを記録に残したいので整理した。 平成十八年七月十六日 参考:平成29年5月22日、本棚に獅子文六全集(朝日新聞社發行)を見つけて、ぱらぱらとめくる。開巻冒頭に「海軍」の記事あり。海軍(映画)(インタネット)によるを読む。 総括して、中学時代は大東亜戦争(支那事変・太平洋戦争)の中にあった。
※忠中沿革年表抜粋
明治29.04.01 豊田郡各町村立豊田学校設立
卒業証書 戦争末期、広と忠海の2ケ所で分散卒業をしたと記録されており、その時列席した者以外には卒業証書が渡されておりません。在学中の写真もなく、卒業証書もないため子供に忠中卒業を疑われた者もおるとか、されば再現せんものと増田、丹下両君、故郷の仏壇から引っ張り出して複製。勿論正式なものではなく、卒業式までおればこれがもらえたのだといった記念品的な積もりで作ったところ、母校行年教頭の配慮により現校長の証印をして頂き、公式なものとなりました、今更何になるものでありませんが更めて受取って下さい。 (昭和50年6月3日 藤田健 作成:忠海中学校第46回卒業生 名簿 による) |