★習えば遠し ハガキ通信(1) ハガキ通信(2) ハガキ通信(3) ハガキ通信(4)

ハガキ通信―4―
POSTAL CARD COMUNICATION ーPART4

改 訂 版 改訂 2023.04.01

目 次

01贈り物の花束 02道元と二人の弟子 03英英辞典(COBUILD)
04オンズマンと(ombudsman)梵 語 05 せいざ 其の一 06 せいざ 其の二
07美しい人生を送るコツ 08 『ヘレン・ケラー自伝』原書勉強会
其の1
09 『ヘレン・ケラー自伝』原書勉強会
其の2
10もの言えぬ子供 11「あなたは今、なにをしていますか」 12 『ヘレン・ケラー自伝』原書勉強会
其の3
13『ヘレン・ケラー自伝』原書勉強会
其の4
14『ヘレン・ケラー自伝』原書勉強会
其の5
15飛び入学
16長崎県諌早の国営干拓事業について 17有源水 18会津藩と萩
19スターの発掘 20詩について 21パソコンの印刷機
22プロの店員 23一期一会のみんな
かなしくなつかしく
24きまもり「木守」
25自分と話す 26二の矢をつげず 27われ・吾と我
28いただきます 29 辞書を読む 30 科学者に要求されるもの
31二ページ読書 32 親切と布施 33禅寺の菩提樹
34ひつじぐさの観察 35読書法 36自己を離れる:宇宙飛行士の感想
37天地返し 38ひとりハガキー自分宛 39銀 杏
40柿の花 41誕生日の花と花言葉 42痛 棒
43大学が株式会 44合掌二題 45無駄花(其の1)
46無駄花(其の二) 47Hear say 48自 殺
49I am all ears. 50トニーの仏鈴(おりん)道 顕 51Diary in English
52ノーベル賞(野口英世と利根川進)
二つの研究室
53後楽園・曹源寺投老軒
倉敷市有隣荘
54 筆まめにござ候
55うるうどし 56耐える 57ウグイスの初 鳴 日
58世界地図と地球儀 59 今日は何の日 60遊び:パソコン
キーボードの打ち込み方
61岩清水 62倉安川―くらやすがわ 63ドップラー効果
64花 托 65日曜坐禅会―年末の行 66新世紀初年と十干・十二支
67自分の話し方を聞く 68心配と心労 69早春に想う
70老いと人との交わり:家にかえってやれよ 71あなたの心に残っている人は 72『論語』を読んで--後生への期待
73ハス―其の一―ハスのめい称 74ハス―その二―ハスの葉が水を弾く理由 75孤を託す
76日日是好日 77三学・三樹の教え 78木村無相さん
79「徐 福」の謎 80本卦帰(ほんけがえり) 81羊頭狗肉・選良
82 徒然草 83西行の願心 84中野 忠様返信
85先人の言葉 86芝生の縁(ふち)を踏むな 87ベェツバーツさん
(Betsyroberts)の坐禅参加
88私はどこに居るのでしょうか? 89楕円と円 90給食の時に合掌を禁ずる
91がんの告知 92放射熱と人格 93自分の中にカンセラを
94イーメールとハガキ通信 95パソコンと付き合う 96いまを生きる
97待ち時間 98私の唯一の本 99日記を読む
100 ハスー其の三ーハスの開花時の音 101回遊魚 102私のワープロ日記
103道元の関東下向 104 色 読 105 万 福
106 春こそ空に 107三世代あるいは二世代同居 108 ONE DROP NOTE BOOK
109時事英語の勉強法
ーインターネットによるー
110徳川家康<御遺訓> 111 一生担板(たんばん)
112一人前の医師 113視覚障害者の伴走 114外来語
115一事完了 116心のたけ 117不自由者の工夫
118後指(うしろゆび)を指(さ)されるな! 119雲 水―師を求めて 120落想から落想へ
121歌は腹からへ 122太平洋戦争での私の体験 123庭園曹源水のしゅんせつ
1242005年の8月 125思いがけない一通のハガキ 126ハガキ通信:最後の一葉
                 



平成九年四月 二四一号

01 贈り物の花束


 数年前の夏、スイス旅行した。ある朝、首都ベルンに行ったとき、私たちと長男夫婦が、スイスの知人から朝食を招待された。何か手土産にと、朝の市場で花束を買って持参すると、非常によろこばれた。早速、花瓶に生けられて、朝食のテーブルに飾られた。

▼そのときのプレゼントの花束の悦ばれかたが、日本では感じられないほどであったのが、深く印象に刻まれていた。

 最近、日本に在住しているスイスの青年に、
 「何故、花束の贈り物が悦ばれるのか」と尋ねてみた。
 「日本では品物を持参するが、スイスではそんなことは少ない。ワインなどを持参することはある」
 「チューリヒの冬は長くて、ガスがかかって、直ぐ前方が見えなくなることがしばしばある。当然外部の景色などはみられない。そこで家のなかに花を飾るのは彩りもなり、慰めになる。また家の外側に花をおくのは、同時に家のかざりになる」
「日本では、春には花見をしているが、桜の花を見ているのか、酒を呑んでいるのか分からない。そんなことはスイスではしない」と。

▼日本では華道もあり、一般の家庭でも、庭に花をうえたり、生け花をしたり、様々な形で楽しんでいる。しかし、贈り物としては、花より、なにか品物のほうが多いとおもう。
 国によって贈り物の悦ばれるものの違いがあるものですネ。



平成九年四月 二四二号

02 道元と二人の弟子


 曹洞宗の開祖、道元禅師に懐奨と義价の二人の高弟がいました。二人とも才長けた立派な人材で、当然、師の印可を受けるべき人であったが、どういうわけか、禅師は義价にそれを与えられなかった。

 懐奨は情義のあつい人でしたので弟分に印可が下らないのを大変苦にしまして、ある時、禅師に、『なぜお師匠様は、義价に印可を与えられないのですか』と訊ねますと、『あれはよくできる。けれども老婆心が足りない』とおっしゃった。しかも亡くなる時も枕元に駆けつけた義价に『お前はよくできるが、どうも老婆心が足りない。これから先も常にこの老婆心を心がけよ』と遺言しておられる。

才能、技能にすぐれているのは望ましいことですが、それだけでは人間として失格です。やはり、人間として至るためには、人に真心をつくす。世間からいうなればうるさがられるほど思いやるということが大切です。老婆心は人に対してだけではありません。学問の場合でも、まあ、これぐらいにしておこうというのが一番いけないので、これでも足りない。もう少しこうしてみたら、どうだろうという、つまり老婆心がなければ進歩しません。安岡先生が『東洋思想十講』の書かれているものとして、伊藤 肇著『帝王学ノート』(PHP文庫)の「老婆心」の項に引用していた。P.241

▼これを読んだとき、弟子二人とも才長けた立派な人材であるから、義价は自分も印可が与えられて当然だと思っていたのではかろうか。師匠から老婆心が足りないから、これからも心がけよと、言われて素直に受け入れられただろうか、割り切れないものを感じていたのではなかろうか、と。また、老婆心の意味を教えられました。

▼伊藤 肇は『人間的魅力の研究』(日本経済新聞)では、『「老婆心の欠如」ゆえに印可せず』の項目(P.120)に、以上の記述とほぼ同じ内容に、次の記述を追加している。
「その老婆心を死ぬ間際まで義价に叱咤激励したのである。それは道元流の老婆心でもあった」と。私には、道元のがわの見方を伊藤 肇は加えていると感じた。

▼一二五三年、道元は、永平寺の職を懐奨に委ねた。二十七年後、懐奨は、第三代徹通和尚となった義介を法嗣としていることを知って、私は、義介は老婆心の人になられた人とおもうに至った。第三代徹通和尚となられた義介と義价が同じ人物だと、この通信を書いたときにはあつかっている。

▼義介は生年: 承久1.2.2 (1219.2.18)没年:延慶2.9.14 (1309.10.18)
鎌倉時代の曹洞宗の禅僧。永平寺の第3世。義鑑,義价ともいう。(インタネットによる)

2011.07.27,再読。



平成九年四月 二四三号

03 英々辞典(COUBUILD)


 Monday Nikkei に「English Conversation 禁じ手 奥の手」のコラムがある。その名称の通り、英会話で日本人が使って欲しくない言葉をとりあげている。四月十四日の記事では、 No comment についてであった。

▼「ドイツ系アメリカ人のAさんは、ある企業の米国子会社の Chief Executive Officer だった。ある日、Aさんは現地の幹部社員を従えて、日本から来た親会社の社長に業務報告の presentation をした。業務は良かったし、説明にも自信があった。終わると、社長は二、三度うなずいた。つい Any comment, Sir?” と催促した、返ってきたのは ”No comment” の一言だったと、あきれ返っていた。>
 「ちなみに、最近好評の英々辞典 COBUILD には People say no comment as a way of refusing to answer to a question, usually when it is asked by a journalist. とある。用例として、“No comment, I don't know anything” が載っている。」と、筆者は書いている。
 この社長は、報告を聞いて、「なにも知らない」といっていたことになる。Aさんがあきれ返るのも無理がない。

▼英々辞典 COBUILD は、私も好きなものである。理由は二つある。
 単語の Definitions が、以下の説明のように記述されているから、やさしく書かれた英語文章を読んでいるようで英語の勉強に役立つ。
 Most books are written in sentences, not phrases. This book is no exception, it is a feature of all COBULD dictionaries that the definitions (or explanations, as we often call them) are written in full sentences, using vocabulary and grammatical structures that occur naturally with the word being explained. The definition are written in the sort of direct and informal style that teachers use when explaining words, or that friends use with each other.
 もう一つの理由は、この辞書には、単語に よってはPRAGMATICS の項目がきさいされている。話し手の心理・感情を描く。最近の言葉の運用に関する分野の研究を受けて、話者がある特定の言い回しや言葉の選択をするときの気持ち、心理を語義と一緒に記述しているからである。

*補足:【毎日1分!英字新聞 週末号 14】 2008_10_25 メールマガジンを紹介します。

★英英辞典を活用しよう。

 英語学習するとき皆さん、英英辞典使ってますか?英英辞典って日本語の世界でいえば国語辞典のようなものです。

 ある言葉を別な言葉で表現するとどうなるか?
 これって言葉を習得するときの脳の中身の働きと密接に関連していると思います。

 基本的に僕らは、すでに習得している言葉を別の言葉に置き換えることができます。興味という言葉を聴いた瞬間、この脳の中での概念の関連付けが瞬時に行われて、その意味を理解します。

 だから、英語の習得が進んでいればいる人ほど、ある単語を別の単語の組み合わせで表現することが上手いです。
 概念の複雑な関連付けが進んでいるからですね。

 英和辞典ですと、英語:日本語の1対1の世界です。これだと概念の複雑な関連付けは進みません。
 だから僕は英英辞典を薦めています。
 英英辞典を持ってない人はぜひ一冊買って下さい。英語学習が飛躍的に加速しますよ。

2008.10.26

追加:

 上の文章をかきましてからの私は英語勉強から遠ざかっていました。

 最近、ペーパブックスを読んでみますと、読む力が落ちているのに愕然としました。「三つ読んで二つは忘れる」といった状況でした。

 こんな状態ですが英々辞典を普通の本を読むのと同じように読んでみたらとおもい、実行してみました。

 「with」を COBUILD で読んで見ました。そこにはつぎのように記載されていました。

In addition to the uses shown below, with is used after some verbs, nouns and adjectives in order to introduce extra information. With is also used in most reciprocal verbs, such as 'agree' or 'fight', and in some phrasal verbs, such as 'deal with' and 'dispense with'.

この説明のしたに、21の説明がつづいています。中でも私の参考になりましたのは

 8 Someone with with an illness. I spent a week in bed with flu.

10 If you are, for example, pleased or cross with someone or something, you have that feeling towards them. He was still a little agree with her…After sixteen years of marriage they have grown bored with each other…I am happy with that decision.

 難しい単語もなく英語を楽しめるものだとかんじました。付け加えると私には、 with は苦手の単語でした。

2009.2.19



平成九年四月 二四四号

04 オンブズマンと(ombudsman)梵語


 カタカナ語が文章中に多く使われている。その一つに、公金の不正支出などの記事にオンブズマンがよく使われている。正確な定義を知らなかったので調べてみた。

▼『imidas 1997』(集英社)によると、「国民に代わって行政苦情の解決や行政の適正運用の保護を図るために行動する人。(中略)わが国でも、一九七〇年代から注目されはじめ、第二次臨調の勧告に基づき既存の行政監視・救済制度の活性化を図りつつ、それでも十分になし得ない役割を行政部(国)に設けられる行政型オンズマンの導入の検討が行なわれたが、実施にはいたっていない」。

▼オンブズマンのもとの定義を英語辞書にあたってみた。
 英々辞典『COBUILD』では、
 The ombudsman is an independent official who has been appointed to investigate complaints that people make against the government or public organizations.

 『プログレシブ英和中辞典』では
 1(市民の権利を守る)苦情調査官。([英]Parliamentary Comissioner).
 2(個人の権利の)擁護者。[スウェーデン語で comissioner(民意調査官)の意]と、記載されている。これらを読む限りでは調査官であるはずであるが、日本の現状は、いわゆる民間人が行動しており、行動する人が拡大されていることも分かった。しかも英語そのものの音が使われている。

▼外国語を自国語に使っているのは日本だけではない。仏教語の中に梵語(サンスクリット語)を中国で音訳したものが沢山ある。菩提は Bodhi の音訳、般若はパンヤー、娑婆はサハーの音訳など。

▼日本の現状では主として英語をカタカナ語にして、英語の意味どおりのもの、意味を拡大したもの、日本でしか通用しない和製英語といわれるものまである。カタカナ語にして使うのであれば世界に通用する用語に限定したいものである。。



平成九年四月 二四五号

05 せいざ 其の一


 最近のことである、十五歳の子供にせいざさせたところ、できないというので、脚でも 悪いのかと聞いたが明瞭な返答がなかった。習慣によるものか、身体的な理由なのか、聞くのもためらわれたので、脚を伸ばした状態ですわらせたままにさせた。

▼家の造りも和室と洋間の和洋折衷となり、テレビは洋間に置かれており、ソファーなどに腰掛けるか寝転ぶかして見て、その部屋におる時間が長くなっている。また、机もすわり机は少なくなり、椅子にすわってのものになっている。生活様式が変わり、正坐を長く続けるのが苦痛になってきているといえる。冒頭のような子供もいるのは成り行きだとも思える。

▼中野孝次著『現代人の作法』を読んでいると、

「テレビドラマの中の作法」についてかいている

 藤沢周平の著『三屋清左衛門残日録』(私の手持ちは:文春文庫)がNHKでテレビドラマになるというので、テレビ嫌いのわたしもそれを見たが、見るたびに腹が立ったので数回で止めてしまつた。

 「老父清左衛門が畳に正坐して話しているのに、三十にもなる伜が刀を持ったままでつつ立って聞いているなんてシーンが、平気でながなが放映される。こんなのは、ディレクター氏がほんの僅かでも想像力があれば、ありうべからざる行為であるぐらいすぐわかるはずだ。武士の子供は幼児から親の話しを聞くときはきちんと正坐し、両手を膝にのせて、親の目をしっかり見つめながら聞くように躾られている。そのごく当り前のことさえわからないのは、つまり彼は親からその常識的作法を教えられたこともなく、ふだん自分もつつ立ったままやりとりしているからであろう」 

 一事が万事、当然心得ているべき作法の一つ一つがなっていないから、見るだけで腹が立つのである。

 しかし顧みるに、作法のこの当然の常識と非常識のあいだの落差にこそ、戦後五十年の日本社会があるのだろう。

 結局すべての原因は、一九四五年の敗戦で自信喪失し、価値基準を見失った親の世代が、権威と自信を持てなくなったのだから仕方がないが。そしてその親から何も教えられなかった子が親になっても、結局は親と同じく真の自信と権威をもって人間はこうふるまうべしという基準を子らに伝えられず、その繰り返しが、今日のこの無作法の時代を将来してしまったのだと思われる。P.176~177

平成十三年四月一日 二九一号―三

高齢がうかがわせる側面

▼目上の人が正坐して話しているとき、たったままに聞くようなことは、著者に限らず腹が立つか不愉快である。マナーの乱れとともに、職業上の上司という存在はあるが、尊敬を含めた感覚の言葉「目上」は廃語になってきているようでもある。これ以外にもまだあるに違いありません。



平成九年四月 二四六号

06 せいざ 其の二


 この言葉を漢字で書くとき、正座か静座か正坐か静坐か迷い、適当に使っていた。ざぜんも座禅か坐禅か明確に区別していなかった。

▼『広辞苑』「せいざ」の見出し語が二つあった(星座を除く)。
 第一版(昭和三十九年八月一日発行)には、
☆せいざ[正坐]は行儀正しく坐ること。☆せいざ[静坐]は心を落ち着けて端坐すること。心身をしずかにおちつけること。いずれも坐の字のみがつかわれていた。
 第四版(昭和一九九六年十月十五日発行)では、次のように変更されていた。
☆せいざ[正座・正坐]姿勢正しくすわること。(ショウザは別)☆せいざ[静座・静坐]心をおちつけてしずかにすわること。すわって心身をしずかにおちつけること。座と坐の二つが使われて併記されていた。

▼岩波国語辞典 第三版(一九八三年十月二十日発行)では、
☆せいざ[正座・正坐x姿勢正しく足をくずさないですわること。
☆せいざ[静座・静坐x心を落ち着けて静かにすわること。上付きの×は常用漢字以外の漢字。これでは、併記していた。  
▼国語大辞典(小学館)(昭和五十六年十二月十六日発行)
☆せいざ[正座・正坐]・礼儀正しくきちんとすわること。端座。☆せいざ[静座・静坐]・心をしずめてすわること。・儒家で、座禅のように心をおちつけて端座する。

▼せいざ[正座・正坐]はすわる動作に関連する言葉であり、せいざ[静座・静坐]は心に関することがわかった。次に、「ざ」の字については、坐か座のいずれを書くのがふさわしいかという疑問点がある。常用漢字表が国語審議会によって作成された、昭和五十六年十月一日内閣告示による常用漢字の音訓では、ザの項でも、すわるの項でも「座」になっている。坐は表外字になっているのである。

▼坐と座の漢字について『漢語林』では、
 坐は・すわる。いる。とどまる。・すわる所。
 座は・すわる所。いどころ。席。「座席」・敷物。国訓・くら。・ザ。・すわる。・います。参考 坐の書きかえ字。「坐禅→座禅」もと坐が「すわる」、座は「すわる場所」の意。

▼坐は、すわる動作を表わし、座は、すわる所をあらわす漢字であるようだ。
 せいざの用語では、動作にしか使われなくて、名詞でつかわれることは思いつかない。
 今後は、冒頭に述べたような迷いなく正坐か静坐を使おうと思う。 
 「ざしき」は座敷と書き、日曜坐禅会で「ざぜんに参加する」場合の用語としては座禅より坐禅を使うことにする。



平成九年四月 二四七号

07 楽しい人生を送るコツ


 先日、七十歳で薬草研究家の方と山歩きをしました。とてもお元気で身のこなしも軽く考え方も前向き…。其の方から楽しい人生を送るコツは
 (一)恥をかく 
 (二)汗をかく 
 (三)文をかく
 
 ことだとおしえていただきました。

 最近、いただいた中村和美様からご芳信のお話しです。大変参考になりました。

▼「恥をかく」のが、なぜ楽しい人生を送るコツか理解しにくい。恥をかくのが好きなものは少ないだろうとおもうのだが。この人は薬草研究家だから、薬草についてたずねられたりして、知らないと恥ずかしく思い、自分でさらに調査などをする。其の中に楽しみを見出しているということだろうか。この人の考え方をうかがってみたい。きっとなにか教えられるにちがいない。 

▼「汗をかく」は普通に考えても、体を動かすことにつながり、健康に生活できれば楽しい生活に結び付くといえる。

▼「文をかく」は私にも理解できる。書くためには、素材を集める。「よむ、きく、みる」ことをしなければならない。「よむ」では、書くためによむのであるから、本、新聞、雑誌を読んでもただ漠然と読むのと違ってくる。「きく」では人から直接お話しを聞く、ラジオ・テレビなどから視聴(みるもふくまれている)する方法があるだろう。また、経験豊富な人からのお話しをきくのはたのしいものであり、役立つ。「みる」では、細かく観察すると今まで気付かなかったことに発見の喜びがある。書き続けると、上述のような楽しみが深まるに違いありません。



平成九年四月 二四八号

08 『ヘレン・ケラー自伝 』原書勉強会 其の一

 三月末、曹源寺での外国からの修行者を先生として『ヘレン・ケラー自伝 』の原書の勉強会を原田老師にお願いして、快く許可を頂くことができた。日曜坐禅会が終って一時間程度の読書会の予定である。

▼四月二十七日、第一回目開始 事前の準備として、テキスト(Dell Books 版)をパソコンで数部のコピーを私が作成、配布。当日の先生は、ハガキ通信で紹介したことのある道祐さん(得度名。アメリカの青年)と目が不自由な道念さん(得度名。アメリカの婦人)。生徒は、山本正夫さんと宮本先生と私の三人だけ。山本さんの奥様は、四十二歳から耳が悪くなり、約一年後、完全に聞こえなくなられた。五十九歳で逝去された。その間のコムニケーションは、手で空間にかくとか、「行く」と、いえば、ご主人の唇の動きで読み取るとか、筆談されたとのことである。『こころは大丈夫よ』『失ったもの 得たもの』など自費出版され、「良寛賞」を受賞されている。宮本先生は中学校の理科の先生。クラブ活動に坐禅を指導されたりしておられる。

▼当日の様子を簡単に描写すると、日曜坐禅が終わり、小方丈でのお茶の接待が終わってから、予定を大幅に超過して十二時過ぎまで行なつた。四ページ半読んだ。先ず、道祐さんがテキスト朗読。英語の発音と読みの区切りに感心させられた。朗読中に、私が作成したコピーに五ケ所もミスがあった。恥ずかしいことである。次いで、解釈を全員で英語と日本語を交えて行なう。

一、道祐さんは、英語の日本語表現を我々から聞いて、熱心にノートにローマ字で書いていた。この本の introduction の文章は古い。今は他の人に分かりやすい文章にすると評価していた。約百年前にかかれたものであるから当然かもしれない。

二、英語の意義の勉強
 The first lesson was vagrant the lesson of obedience, which required that Hellen' vagant and stubborn impulses ("little bronco," she has been called)  be firmly controlled.の文章では、
「vagrant」は、英語の先生である彼と彼女は禅の修行者であるから、英文の解釈に禅の体験談が含まれて、非常に参考になる。例えば、「vagrant」は「雲水」のようなものであると。
 「obedince」は自分より上のものに従うことを意味するのだと教えられた。さらに宗教的な意義を教えられた。詳細な意味がわからなかったので『ランダムハウス英和大辞典』を参考にすると、『[おもに教会](1) 朊従、従順;特に修道誓願(清貧・貞潔・従順)を立てた人の修道会則の遵守または修院長職権に対する順応。』とあり、理解できた。
 また、「gesticulation」と「pantomine」の相違。前者は手だけを使う、後者は体全体で表現することだと。目の不自由な道念さんが動作をしながら教えられた。
[aesthetic]について、最近、美容で「エステエティク」という言葉がつかわれている。これを語源としているのだろうか?

三、目が不自由な道念さんは、盲人の感覚について話された。


平成九年五月 二四九号

09 『ヘレン・ケラー自伝 』原書勉強会 其の二


 第二回目 平成九年五月四日(日曜日)

 勉強会の要領は第一回目と同じ。小方丈に机を並べ行なつた。

▼本日は、岡山の聖心女学院で英語の教師をした後、今は曹源寺で修行しているオーストラリアの人「正聖さん」を頼って来日、曹源寺に宿泊しているオーストラリアからの年配の男性と女性の二人と勉強会。山本正夫様と岡山理科大学大学院生と私の三人が参加。宮本先生は来られなかった。

▼本日、読んだ「前書き」の文章は古い形だと、先週、道祐さんが言ったと同じく、彼等も言う。二十世紀の始めに書かれた文章であるから当然かもしれない。この二人は日本語が話せないので英語だけの勉強会になった。彼等が交代に朗読。次に内容を細かく解釈するには私たちの英語の力が足りないのを加えて困難があつた。分からない単語について前日(土曜日)、質問も英語でできるだろうと英々辞典で調べたものを私が読むと通じて理解された。英語だけのやりとりのため、意味の解釈での疎通が十分出来なかつたが、勉強会の合間に彼等の職業など尋ねたりして楽しい時間が過ぎ去った。彼等の英語はオーストラリアの発音であった。英語は幅が広いと実感。私たちも使っている英語がブロクン・ジャパンニズ・イングリッシュと考えたりすることもないだろう。意思が通ずるものを身に着けたいものだと思った。

▼私がパソコンでコピーしたものにミスインプットが随分多かった。他の人に読んでもらっているから、ミスが浮かび上がってきた。単数と複数に関連したものから脱落もあった。コピーのミスを少なくする工夫をしなければならない。



平成九年五月 二五〇号

10 もの言えぬ子供


 其の一 四月三〇日朝、通勤バスでのこと。女子高校生が足を組んで窓側に坐っていた。私はその隣の通路側に坐った。高校近くのバス停留所に近づいたとき、定期券をポケットから取り出して下車する様子を見せた。彼女が降りるときどんな挨拶をするか、私は黙って坐ったままにしていた。じろっと私の顔をにらみつけるようにみて、やっと「ごめんなさい」といつた。 

 其の二 五月七日、同じ通勤バスでのこと。今回は、男子高校生であった。彼はやはり窓側に坐っていて、私は通路側に坐った。彼は数学の微分の参考書を読んでいた。明らかに大学進学校の高校生である。この高校生が下車するとき、なんらかのあいさつをするかと、今回も同じように黙って坐っていると、彼は立ち上がって、何も言わない。それでも私は坐ったままにしていた。ついに彼は何かを言った。私には何を言っているのかわからなかった。

▼隣の人を座席から立たせて通路をあけてもらうために「すみません、降りますので」と、何故、言えないのだろうか。
 女子高校生は短いスカートで足を組んで坐り、降りるしぐささえすれば、自分の通る通路は黙っていてもあけてくれるとでもおもっているのか?
 大学進学校の高校生は勉強さえできればよいと思っているのだろうか?
 それぞれの状況に応じたあいさつが出来ないのである。
子供ばかりでないようだ、社員研修などを手掛ける人の話しでは「最近の新人OLは自分で状況判断できない」といっている。



平成九年五月 二五一号

11 「あなたは今、なにをしていますいか」


 森信三先生の教え子であった田島修治郎氏が、「実践人」四三七号に書かれていた。『満州から届く先生のお葉書。「今、どうしていますか」と書かれていました。先生は私のことを心配してくださっているのだなあと思いました』。

 満州から帰られて田島様が勤めている教育研究所や学校に来られて、そこでも「今なにをしていますか」とおききになり、たよりないことしかいえぬ私を「そんなことでどうしますか」と、語気鋭く一喝されました。(後略)。

▼米国で研究していた人の話。恩師の大学教授(京都大学沼 教授)が学会での出張で米国にこられるので空港まで出迎えに行き、宿泊のホテルにタクシーで案内するあいだ、道中、あいさつも抜きで、弟子の研究の内容についての話しに終始して、其のほかの話しは一切ないので、非常に疲れるといっていた。研究が順調にすすんでいれば気分も違うだろうが、それでも、教授は何を考えておられるか、はかりしれないので大変だろうと思う。

▼「道ニ剣客ニ逢ワバ即チ剣ヲ談ズベシ」と禅語にあるが、読書人は、「今日は」という挨拶のかわりに「近ごろ、読んだ本で面白いのがあったか」ときく。「剣」の変わりに「本」を談ずるのであると、伊藤 肇は著書『人間的魅力の研究』のまえがきに書いている。私にもこんな人がいる(小林秀三郎さん)。逢えばもちろんだが、ときに、電話で連絡して下さる。『複雑系とは何か』をよんだか? 「岩波新書を全部買いなさ」「どの本の後ろの三分の一が役にたつた」「中野孝次著『現代人の作法』は君が言っていることを書いている」など本のはなしになる。ありがたいことである。



平成九年五月 二五二号

12 『ヘレン・ケラー自伝』原書勉強会 其の三


 原書コピー、勉強会でのコピー作りを私にやらせてもらった。はじめに作成したものにパソコンでのミスインプットが沢山あった。恥ずかしい思いをした。

▼参加者に事前に配布したものであつたから、予習などで迷惑をかけました。
ミスをなくするために、二つの方法を考え実行した。

 其の一 自分一人で、パソコンにインプットしたものが正しいかテキストを参考にする。訂正を正しく、早くするには、テキストでの短い文章の区切りをできるだけ正しく読み取る。そのとき、例えば文書中の単語が単数であるか複数であるか、動詞は現在形か過去形であるかなどに注意しなければならない。実際に作業してみると、神経をつかう作業である。テキストから読み取り、パソコンの画面を見て間違いがないかの作業の繰り返しである。この作業は英語書写そのものより大変である。大部分が正しくインプットされていて、ミスはわずかである。それを訂正するのであるから気分もだれてきて、案外に疲れる作業であり、つい見逃してしまう。しかし、勉強になることは間違いない。

 其の二 読み合わせる方法である。これは誰か相手が必要になる。幸い、勤めている学校で親しくしている人に頼むことができた。本当に短時間に訂正できる。その際、原書は自分で読み相手にコピーを見て頂くようにした。読み合わせもやはり勉強になっている。

▼書写するときに細心の注意をして校正しなくてもよいようにすめば、これに勝るものはない。しかし、絶対にミスが無いという保証はないから、必ず訂正の作業を行なわなければならない。英語書写だけで終ってしまうのと、もう一度、手間をかけて訂正するのとでは作業は一回と二回、すなわち二倍の違いにすぎないようであるが、効果はそれ以上だと感じられる。こんなことにも勉学の向上の秘訣があるのかもしれない。

※遥か後年、校正にはOutlokを使って行うことが出来ることを見つけた。(2023.04.02):英文のスペルチェック



平成九年五月 二五三号

13 『ヘレン・ケラー自伝』原書勉強会 其の四


 ヘレン・ケラーが二十二歳、ラドクリフ・カレッジの二年生のとき、今から九十五年前の一九〇二年にこの自伝はかかれたものです。  

▼「私の生涯を書くには何となく恐れがあります。金色の靄のような子供時代にまつわりつくヴェールをもちあげるのに事実に基づかないためらいを感じています。自伝を書くのは困難なことです」と書き始め、
 「このようにして。私の友達たちが私の生涯の記録を書かせてくれたのです。あらゆる方法で、この友達たちは私のもつている制約を美しい特権にふり向けてくれ、身体の傷害に投げかけられている影の中でこころ静かに幸福に歩むことを可能にしてくださったのです。」で結んでいます。

▼森信三先生は『一日一語』のなかで次のようにいわれている。
 人間は(一)職業として、後進のために実践録記録を残すこと。
  (二)世への報謝として(自伝)を書くこと。随って自伝はその意味から一種の「報恩録」ともいえよう。
 (三)そして余生を奉仕に生きること。
 これ人間として最低の基本線であって、お互いにこれだけはどうしてもやりぬかねばならぬ。 

▼ヘレンの自伝、彼女の先生であったサリバンの書いたものなど、子供向け、青少年向けを含めて四十種類以上の著作が日本でも出版されています。私はこれまで、彼女が語った話しや、断片的な話しを紹介したものしか読んでいませんでした。今回、英語を母国語とする人たちから原書を通読する勉強会を始めたばかりです。そのために、原書のコピーの準備にパソコンにインプットする作業を通して読んでいます。彼女は三重苦をうけながら、幸いにも頭脳に影響を受けず、私が想像もできなかつた努力を積み重ねて成長する様子を読み、励まされています。




平成九年五月 二五四号

14 『ヘレン・ケラー自伝』原書勉強会 其の五


 第三回目 平成九年五月十八日(日曜日)

日曜坐禅が終了して、本堂の明り障子を開け放ち、窓際に机を置いて、新緑の光りと風を十分に受けて勉強会を始めた。英語の寺小屋勉強といえそうだ。

▼本日の先生は、道祐さん一人。生徒は、山本正夫さんと宮本先生と私の三人だけ。毎度のように彼の朗読からはじまった。道祐さんは、かなり日本語が話せるので、解釈も彼なりの日本語で説明して下さる。日本語として不十分なとき、英語と日本語をまじえながら私たちが説明してお互いに理解する。

▼本日は、わずか二ページだけだったが歴史、教育、習慣など色々教えられた。ヘレンの自伝の歴史的背景は、南北戦争が一八六一年に始まり、明治が始まる三年前の一八六五年に終っている。ヘレンは一八八十年に生まれ、二十二歳の一九〇二年に発行されたものである。自伝に書かれている単語も歴史的背景を踏まえて説明された。
Servantという言葉が使われているが、自伝が書かれたときは南北戦争も終っているのでSlaveの単語は使っていないのだと。日本語で考えるとSlaveは、南北戦争後、死語となったといえるようだ。

▼自伝のなかに書かれていた、“The beginning of my life was simple and much like every other little life. I came, I saw, I conqured, as the first baby in the family always does. ”の中の”I came, I saw, I conqured.”は、シーザーが言った言葉であると。道祐さんたち、アメリカの学校ではギリシャ・ローマの古典の教科がる。ヘレンも学生時代これらの古典を読んでいたからこのようなイデイオムが使われているのだろう。日本でも、論語などの素読が行なわれていたとのことを思い出した。

▼maiden name について教えられた。ヘレンの maiden name は Helen Everett にするはずであったが、お父さんがヘレンを教会に連れていくとき、名前を書いたものをなくして、ヘレンのお婆さんの名前を受け継いだものにすることを思い出して、お婆さんの結婚後の名前の Helen Adams にした。



平成九年五月 二五五号

15 飛び入学


 中央教育審議会の答申案が明らかになった。

 其の一 数学と物理の分野で特別な才能のある生徒に高校二年終了時(十七歳)で大学進学を認める「飛び入学」の導入を提言。

 飛び入学の分野は、才能を発見しやすいなどの理由で「当面、数学や物理の分野」に限る。あまり早期に入学させると全人格的成長に懸念があるために十七歳とする。

 其の二 同じ学校の中で学年を飛び越す「飛び級」については「社会的合意を得るのは困難」で導入は適当でないと述べている。

其の三 「進度の遅い子供」への配慮にも触れ、選択授業で繰り返し学ぶなどの取組が必要だとした。

旧制度の五年制の中学校では旧制高校への飛び入学が文系、理系を問わずに四年生からおこなわれていた。物理や数学の分野に限定されたものではなかった。今回の答申案では「当面、数学や物理の分野」に限っている。其の説明として、この分野は才能を発見しやすいことを理由にあげているが疑問を感じる。現在、生物学の分野での進歩は目覚ましいものがあり若い頭脳が貢献していることなどを考えると制限など設ける理由はない。才能のある子供を出来る限り伸ばすのが学問の進歩につながると思う。

▼中高一貫学校では、六年間の教科を五年間で終えて、一年間は大学受験のための授業にあてている。全員を飛び級にして、実質的には同じ学校での中での学年を飛び越すことを行なっていることになる。

▼高校進学率の平均は九五%を超えているのであれば「進度の遅い子供」がいることは事実である。九五年度の高校の中退率二・一%である。選択授業で繰り返して進歩できると考えているのだろうかとこれまた疑問に感じる。化学、物理を高校で教えた経験から、教科書の読解力、数学の力で、これが高校生といえるのかとおもえる子供がいる。小学校六年、中学校三年で基礎は殆どでき上がっているはずである。その九年間を通しての進歩の遅い子供がはたして高校三年間でどの程度の進歩を期待しているというのだろうか。

▼中央教育審議会の答申案を読む限りでは現状の追認のように思えてしかたない。



平成九年五月 二五六号

16 長崎県諌早の国営干拓事業について


 諌早湾国営干拓の衆議院水産委員会における民主党の代表と政府討議の様子は多くの問題を提供してくれた。予算は二千三百七十億である。日本経済新聞、平成九年五月二三日の記事から抜粋。

▼「国民に負担を押し付けるものだ」と、民主党の代表は政府に見直しを強く迫った。
「見直しには値しない」の一点張り。のらりくらりと質問をかわす大臣に質問者がいらだつ場面が目だった。
「食料自給率が低いから農地が必要というが、今は耕す人が減っている。なぜ諌早湾の干拓事業を見直せないのか」と追及。
 局長が答弁にたとうとするのを
 「大臣が答えるべきだ」と制し、農相自身の見解をただした。
 「災害対策の上からも干拓事業は必要だ。地元は喜んでいるはず」と繰り返した。

▼質疑終了後、質問者は「大臣の答弁は全く理由になっていない。税金を自分のカネだと思っているのではないか」と述べ、いら立ちを隠しきれない様子だった。

▼「周年で作付けできる九州の農地は、冬場は雪に覆われる北海道や東北に比べ価値が高い」などと反論して、事業の必要性を九州農政局長は強調した。

▼最初の計画は戦後間もない五二年、米の増産を目的に一万の干拓が必要と提案された。長崎県は平野が少ないため、農地の確保が必要だった。その後、減反政策や漁民の反対で、八二年の提案では規模が三分の一に縮小された。事業目的は防災重視に切り替わり、諌早湾奥部を堤防で閉め切り、かんがい用水や洪水対策用の調整池と農地を造成することになった。事業費は二千三百七十億で、二〇〇〇年度に完成するよていだ。(毎日新聞記事より)

▼事業目的も変化しているのだから当然再検討が十分に行なわれるのが当然だと思う。一旦、国が決めれば見直しをしようとしないかたくなさ。短期間で代わる大臣は官僚まかせになっていて、国務大臣としての役目を果たしているのか。都市郊外の土地はどんどん宅地化しておいて、干拓により農地を造成しようとするのか。などなど素朴な疑問がもたれた。



平成九年五月 二五七号

17 有源水

 話し合っていても何時までも話し続けたい人がいる。なぜだろうか?


 ふと『言志四録』耋録一六の言葉を思い出した。 
 「源有るの活水は、浮萊も自ら潔く、源無きの濁沼は、蕁菜も亦汚る。」
 大意は─源のある活きた水があれば、浮萊(うき草)も自然と潔く保つことができる。水源の無い沼は濁り、蕁菜も亦汚れてしまう。
 前述した人は源有るの活水の人ではないかと思う。

▼いつまでも絶えずに栄養分を含んだ水が流れていれば、うきくさも自然に潔く生育することができる。しかし水が流れ込まない沼は濁り、そのなかの蕁菜も汚れに染まってしまう。極端になれば干上がってしまうであろう。

▼源有るの活水になるには、人から与えられるものではなくて、自らを深く掘り下げていく過程で活水は作られて浮草のごとき自分が洗い潔くなるのでなかろうか。活水を絶やさないのは若い時代、壮年の時代、老年の時代を通しての工夫であるとおもえる。



平成九年五月 二五八号

18 会津藩と萩


 「会津藩は一八六九年の戊辰戦争で敗れ、白虎隊自刃などの悲劇を生んでいる。賊軍とされてから、明治、大正、昭和と続いた冷遇も、会津人の薩長への怨念、こだわりを増幅した、といわている。過去二度、一九六七年と八五年に萩側が姉妹提携や和解を申し入れたが、『時期尚早』とする会津側の反発で破談になった。会津市が昨年実施した市民意識調査でも、なお三割の市民が『長州人にたいしてわだかまりがあると』と答えている」日本経済新聞の五月二六日の記事より。

▼戊辰戦争が終って約一三〇年、人の一世代を三〇年とすると四世代も経過している今でも、このように会津側の人達の三割も感情的なわだかまりが後遺症を残していることに、なんとなく人間の業のようなものを感じさせられる。

▼世界的な冷戦が終った現在でも、地域の争いは根絶されていない。歴史的な経緯、民族的、宗教などが複雑に絡みあって、ことあるごとに諸問題が発生している。あるときは解決安定の方向に向かっているように見えるが、何年かすると再燃したりしている。その度毎に政治的な解決努力は続けられているが、氷が暖められて水になるように融合するものではなさそうである。



平成九年五月 二五九号

19 ☆スターの発掘


 高浪喜代子という生徒がいた。可愛い子であったが、背が高くなく、おきゃんな所があるかと思うと、また静かな所もある、というタイプだったらし。その生徒から、
「私はスターになりたいけれども、いっこうにスターになれない、しかし、スターになる方法があったら教えてほしい>
 という相談をうけた著者は、机上の本をさして、

▼「この『ボヴァリー婦人』を読んだら、きっとスターになる」
 と、とっさにいった。フロベル原作のこの小説の当時の訳本は訳が下手で、読みづらいものだった。しかし、彼女がより知的になったら、そのときにチャンスをつかむ女だと思って、あえてすすめたのだ。

▼「そんなら読んできます」
 といって、彼女はその本をもって帰った。
 いっぺん読んできた、が、スターにならない。
 二度読んだ。まだスターにならない。著者の目には、まだ輝きが感じられなかった。
 三度読んできた。それでも、まだダメ。しかしながら、なんとなく知的な面が感じられるようになった。
 「三度読んだけれども、スターにならないじゃないの」
 という。

▼「じゃ、もう一度だけ読んできてください。もう一度読めば、かならずスターになる。ならなかったら、私が切腹してみせる」
 彼女はそういわれて、真剣に四度読んできた。そして、四度読んできたときにいったのである。

「スターになろうと思って、四度も読んだ。だけれども、もう私はスターにならなくてもよろしい。この本を四度読んで感じたことは、人間の感情というものが、こんなにデリケートなものである、ということを知った。だから、丸尾さんにダマされてもいい。もうスターにならなくてもいい。この本を四度読んで、そういうことを理解しただけで、私は満足することにする。あなたにダマされたけども、得はとった」

 ところが、スターにならなくてもてもいい、と言った途端に、彼女はスターになったのである。なぜか?

▼「それはそうである。彼女はもう以前の高浪喜代子ではなかった。知的に輝きを増した目をしていた。そして鋭くなってきた。それを作者は捨てておくはずはない。すぐ役がついた。目も輝いてきた。肩の力も抜けてきた。それを作者は捨てておくはずはない。すぐ役がついた。目も輝いてきた。肩の力も抜けてきた。こうして高浪喜代子は、大スターにのし上がった>

 丸尾長顕著『回想小林一三 素顔の人現像』のなかの「スターの発掘」という一節がある。小島直記著『逆境を愛する男たち』(新潮社)P37~39に引用されたものである。

 私はなんど読んでも読んでも味わいつくせない。平成二十三年四月二日にも読んだ。

▼高浪喜代子は宝塚歌劇団11期生。インターネットによると多くの記事がありますから参考にして下さい。

参考:『ボヴァリー婦人』はフランスのフロベールの著作。


 平成二十四年四月、よみました。

 丸尾さんは『ボヴァリー婦人』を何故読ませたのでしょうか? ほかの本でも良かったのではなかったのではないか、私にはわかりません。ただ四度も同じ本をよむことは並大抵ではないと私には思える。読書は知的進歩の原動力だと思う。ただそれだけではなくて目の輝き(意識の表現)まで変える力にまでなるものだと確信しています。

   次に彼女は「スターにならなくてもてもいい」と言っている。そこに私は無心に芸に励む心ができあがってきて、それが芸に表れて、観る人に伝わり感動を呼ぶ力になったのではないかと思います。



平成九年六月 二六〇号

20 ☆詩について


『論語』のなかに「詩」についての言葉が多く見られる。普通の詩のように思っていた。ところが、一海知義著『陶淵明』を読んでいると、中国の古典では「詩は志を言う」という伝統的な考えがあることを知った。      

▼『論語』のなか「季氏十六」にも詩についての記述がある。
「陳亢、伯魚に問うて曰く、子も亦異聞ありや。
 対えて曰く、未だし。嘗て独り立つ。鯉趨りて庭を過ぐ。
 曰く、詩を学びたるか。対えて曰く、未だし。
 (曰く)詩を学ばざれば、以って言うことなし。鯉退いて詩を学ぶ。他日又た独り立つ。鯉趨りて庭を過ぐ。
 曰く礼を学びたるか。
 対えて曰く、未だし。
 (曰く)礼を学ばざれば、以って立つことなし、と。鯉退いて礼を学べり。斯の二者を聞く。
 陳亢退き喜んで曰く、一を問うて三を得たり。詩を聞き、礼を聞き、又た君子の其の子を遠ざくるを聞けり。」
 陳亢が孔子の子の伯魚(鯉)に尋ねた。先生について何か珍しい話題をお持ちですか。
 対えて曰く、それほどのことでありませんが、先日父がひとりぼんやり立つていました。私がその前の庭を小走りで通り過ぎました。詩を勉強したか、と聞かれたので、まだです、と答えますと、詩を習わねば、物いうすべを知らぬぞ、といわれました。そこで私は自分で詩の勉強をしました。その後又父がひとりぼんやり立っていました。私がその前の庭を小走りで通り過ぎました。礼を勉強したか、と聞かれたので、まだです、と答えますと、礼を習わねば世間で一人前とされぬぞ、と言われました。そこで私は自分で礼の勉強をしました。このくらいのことです。陳亢は退出して大喜びで話した。一つの質問で三つの知識を得た、詩のことを知り、礼のことを知り、先生は自分の子に手をとって教えないことを知った。宮崎市定『論語の研究』による。

▼孔子は十有五にして学に志している。子の伯魚が詩を学ぶことにより自分の志をのべることが出来ることを父としての親心の様子が伺える。しかも、父みずからが教えていないことに孔子の子息にたいする教育の考え方が読み取れる。



平成九年七月二〇日 二六一号

21 パソコンの印刷機


六月下旬にパソコンで受信したフアックスがそのまま印刷できない不調が発見されて、調整を販売店に依頼した。原因不明、パソコンと印刷器との相性が良くないのでしょう。今のところどうしようもないとの決論。その間、何度か督促したが十三日間もパソコン使うことができなかった。

▼『自学自得ハガキ通信』を始めとして、日誌などにも使っている。したがって七月の通信を発信出来なかった。また、パソコンでの日誌では定常的な項目は予め打ち込んでおき、その日の出来事を思い出しながら打ち込むようにしている。その一つに英語書写がある。十三日間もパソコン打ち込みをしなかったのが影響してか、パソコンが戻ってきた日から、すぐに始めればよいのに三日も経過した後やっと再開した。いったん始めれば習慣的に続けることが出来ている。パソコンのあるところに英語のテキストを持ってきて開いて打ち込みさえすればよいのである。こんな簡単なことが出来なかった。

▼「われわれが習慣的な勤勉を身につけるのを容易にする二三の、ちょっとしたこつがある。それは次のようなものである。まず何よりも肝心なのは、思いきってやりはじめることである。仕事の机にすわって、心を仕事に向けるという決心が、結局一番むずかしことなのだ」        

 ヒルテイ『幸福論』第一部は何度も読み、かくあらねばと思っていても実行力が身についていないことをあらためて痛感させられた。



平成九年八月一日 二六二号

22 プロの店員


 岡山市にも多くの本屋がある。私が立ち寄り、購入する本屋は、昔からの地元の細謹舎と紀伊国屋書店、丸善の三つである。通勤のバスターミナルからいずれも歩いて五分ないし十分の位置にあるので便利なことによる。

細謹舎には何人かの働いている人がいる。その一人の女性店員は店員のプロではないかと感心させられる。たとえば、「最近出版された新潮文庫の藤原さんの本」といえば直ぐに選びだして持ってきてくれる。店内にどの種類の本がどこにあるか完全に知り尽くしているようだ。また、来客の人間関係などもある程度知っている。先輩のKさんから推薦された本を求めに行くと、Kさんも先日買われましたよと話してくれる。またこんなこともあった。注文した本がなかなか手に入らなかったときなど、そっと小声でもう要らないなら店頭に並べておきますよと心くばりまでしてくれる。

▼ニューヨークでの本屋の店員を思い出す。あるとき、ある店で買いたい本の書名を紙に書いて見せると、探してくれたが、あいにくその本がなかった。しばらく考えて、その種類の本は〇〇アヴェニューの〇〇ストリートの本屋にあると教えられた。自分の勤めている店の本に限らず他の店がどんな本を置いているかも知っていて、お客に知らせてくれるとは想像もしなかった。
*追記:この本屋さんも遂に倒産。



平成十年一月十五日 二六三号

23 一期一会のみんな かなしくなつかしく


とんでもない病気にかかったのですネ 人生無常」
「一期一会のみんな かなしくなつかしく」
正にこの木村無相さんの句をしみじみ思う日です
ご自愛下さい


 辻 光文様からの年賀状の記述です。村の字が読めなかった。木村無相さんとは?どんな人だろうか。



平成十年一月二十日 二六四号

24 きまもり「木守」


「木守の花梨二つ氷雨降る」

 曹源寺の本堂は小方丈、書院、庫裡、東司が集まっている建物と廊下でむすばれている。小方丈は日当たりがよい。その南側に瓦をのせた白い土壁の塀に三方を囲んでいる五十坪くらいの庭がある。沙羅双樹、菩提樹、花梨の樹(張り付けている写真)がうえられていて、いずれも大樹である。なかでも花梨は樹齢三百年の老木である。高さは屋根にまでのびて枝を広くひろげている。幹の根元は広く開いていて支え棒をしている。
 昨年の秋は、この花梨は、なり年で沢山の林檎大の実をつけ、日曜坐禅参加者も頂戴していた。

▼一月の中旬、曹源寺の東司のまどから、経堂、本堂、庭と遠方から近くへと眺めていた。一番手前の庭のすべての樹木は落葉し尽くして幹と枝は裸になっていた。そんななかで花梨の老樹のてっぺんあたりに、まだ黄色をとどめていた二コの実が雨あしのみえる氷雨に打たれていた。
 木の実を残す昔からの知恵が今も生きていた!
 「きまもり」の言葉を思った。私どもはいただくばかりでなくて、実りの秋が終わり、山も眠り、木の実もなくなる時節、鳥たちに残しているのだと聞いたように思う。また果実を沢山いただいたことに感謝すると同時につぎもお願いしますと、全部を頂くのでなくて自然の神へのお供えものとして、お祈りしているようでもある。

「木守」は木を守ると言った言葉通りにとらえても美しいものである。   

参考:[木守柿]という季語がある。来年もよく実るようにとのまじないで、木の先端に一つ二つ取り残しておく柿の実。こもりがき。きまもりがき。《季 冬》

 調べると、こんな句が載せてありました。

 〽富士見ゆる村は寧(やす)しや木守柿    角川源義

 〽木守柿来る年のこと誰(た)も知らず    川島万千代



平成十年二月一日 二六五号

25 自分と話す


 作家の埴谷さんはハンガリーの「甘口」のワイン、トカイ・アスズ・三プットが大好きで、深夜にそれを飲み飲み原稿を書いておられるらしい。

 トカイには級があって、トカイ・四プットは三プットの倍近い価格、五プットは四倍近い高価格とか。それらの三種類をそなえ、埴谷さんは、「『死霊』の一章ができあがったときは四プット、山場の一章ができあがったときは五プットを飲んで自ら孤独の祝杯をあげる」とのことである。
 つまり、埴谷さんは自ら「ごほうび」を準備し自らに与える演出をうまくやることによって、創作欲を高めているのである。

河合隼雄『「老いる」とはどういうことか』(講談社α文庫)P.34~35より

▼瑞巌彦(ずいがんげん)和尚は、毎日自分に向かって「おい主人公」と喚びかけ、自分で「はい、はい」と応えられたのであった。「しっかりしなされや」。「はい」。「どんな時も他人に騙されてはなりませんぞ」。「はいはい」。と自問自答されるのが常であった。

 無門は言う、「瑞巌親爺は自分で自分を買ったり売ったりして胡散臭い一人芝居をなさったものだが、一体何が言いたいんだろう。さあ此処だぞ。一人は喚ぶ者、一人は応える者。一人ははっきり目覚めている者、一人は他人に騙されたりはせぬ者。しかしどの一人を肯(うけ)がっても駄目だ。そうかといって瑞巌和尚の真似をして一人二役でもしたならば、野狐禅もいいところだ」。 

  頌って言う、

 行者が真実識らぬのは、

 意識に幻惑されるゆえ。

 過去より積もる苦の種を、

 愚かに本来人と呼ぶ。

『無門漢』(岩波文庫)P.63~65より

▼埴谷さんの話しを読んでいるとき、すぐさま『無門漢』の「巌、主人を喚ぶ」がひらめいた。そこで岩波文庫の文章をそのまま書き写した。無門はこれに対していろいろ言っているが自分で考えなさいと言われているように思う。

▼この話しが松原泰道『禅語百選』P.152~153に取り上げられていますので、紹介します。

 師彦(しげん)は、石上で坐禅をしました。普通はただ黙って坐るか、あるいは心中に公案(禅の命題)を黙想するのが普通で、声を出す者などありません。

 ところが師彦はときどき大声で独語のように"主人公"と呼び、かつ自分で返事するのです。さらに "目ざめていなさい" "はい"将来ともに、だまされるなよ" "はい、はい"と一連の自問自答をくり返したのです。この話題について無門和尚が、高次の禅の心境で、冷ややかすような言葉で、実は感服して言います。

 「瑞巌爺(ずいがんじ)! 自分一人で売買をしておるなあ。主人公と呼ぶ一人、それに答える一人。目ざめよと呼ぶ一人、だまされないと答える一人」

 人間は、だれでもA・Bの二人の上に乗っかっているのです。

 Aは、常識的にいう説明を要しないこの自分で、これを「日常的自我」といいます。

 Bは、Aに呼びかける自分で、これを「本質(本来)的自己」といいます。

 Aは外的存在ですぐわかりますが、Bは内的存在で、Aの底に深く埋もれているので、外からはわかりません。

 人間とは、要するにAとBの『同行二人(どうぎょうににん)』で歩み続ける旅人です。

 この二人の話しあいが多いほど、その人柄は豊かになり、少ないほど貧しくなります。

 しかも、AとBはときに並び、ときには前後して歩くことが考えられます。

 さらに、AとBとが重なりあって、あたかも同一人のようになるのが望ましいのです。「主人公」と呼ぶAと、「はい」と答えるBとが一つにとけあうと「主人公」がそのまま「はい」の答えに生まれます。

 さらに、いつもAから呼ばれているBが、感情に走ろうとするAを逆に自分の名の「主人公」と呼ぶことによって自分のところへ引きもどすのです。

 つまり、一如になって、はじめて主人公が主人公たり得るものです。

 このように、「主人公」とは、自分の中のもう一人の自分呼び、あこがれる尊い呼び名なのです。

▼禅語の解釈はいろいろと参考になります。坐禅をしないでも、自分で工夫をして、自分なりに「自分を問い直す、自分の内心に話しかけることは」したいものです。 ]

平成十年二月一日、平成二十四年一月三日再読、平成二十九年十一月十日追加。



平成十年二月四日 二六六号

26 二の矢をつげず


 「寝つけない夜がある。夜中になってもさっぱり眠れない。眠ろう、眠ろうと思えばますます眠れなくなる。しかもそのあいだ、つぎつぎとあれこれと思いが続く。どうすればよいだろうか?」

▼「人間は一日や二日、眠らなくても死んだりはしはしませんよ。そのうち疲れて眠れるようになりますよ」
 こんなやりとりをしてもなんの効果はなそうである。

 「もう少し具体的な名案はないものか?」
 「二の矢をつげないことですよ」
 「それはいったいどう言うことか?」
「あることが頭に浮かんでもそれに関連して次の考えをつがないことです。ある考えが浮かんだところでおしまいにすることです」
 「そんなことはできないよ」

 「それは、そのとおりです。二の矢をつげないために自分の好きな言葉を無心に唱えるとよいです」
 「そんなものかな?」
「やってみて効果を知らせてください」

▼現在は、軽い催眠剤を服用していますので、早く寝つけます。「快食・快眠・快便」は私達の願いです。色々と工夫をされている方に教えていただきたいものです。上の方法はその一つだと思います。

参考:C.H.ブルックス.E.クーエの「自己暗示」の言葉なども役にたつのではなかろうか。

平成二十三六月十一日再読。



平成十年二月二〇日 二六七号

27 われ・吾と我


 「われ」という言葉は、自分で使うことはほとんどない。本や漢文で読むくらいである。我はよくみかけるが吾のほうは稀であるとおもっていた。吾がつかわれている本には夏目漱石の『吾が輩は猫である』がある。

▼般若心経の「是無等等呪」の「等」の意味を知るために漢和辞典をひくと「はかる。はかりくらべる。比較する。」とあった。
 ひとしいの語意では、なんのことかわからないが、比較する意味で読むと、「このうえ比較することのできない真言」であると納得できた。
 お教は梵語から漢訳されているので、中国でもこの意味があるだろうかと興味がわく。そこで、『支那文を読む為の 漢字典』で調べると
 【等】●比較なり。等而上之」「等而下之」と言うが如し。P.378 漢和字典とおなじだとわかった。

▼この字典をパラパラめくつていると、吾の字が目に止まり、おもいもよらないことが書かれていた。

 【吾】●我なり。己に就いて言うとき吾といひ、人に因りて言うとき我という。P.68
 孟子、「我善養吾浩然之気。」
 いままで、漢文を読んできたがこんな違いがあるとは知らなかった。

 『論語』では使いわけされているか岩波文庫であたると
 吾が使われている語句:「吾が憂いなり」「吾が徒に非ざるなり」「吾が道は一以て貫く」「吾れ老いたり」「吾れは周に従わん」「吾れ十有五にして」「吾を以いずと雖ども」     
 我が使われている語句:「我に数年を加え」「我を知る者は其れ天か」「我を用いる者あらば」と、数多く示されていた。 
 意味を比較しながらよむと字典の説明のように使われているようだ。
 『論語』も中国の本であるから日本人とでは読み方が異なっているだろう。

一つかしこくなったようである…?



平成十年三月一日 二六八号

28 いただきます


二月二十二日 日曜坐禅参加。坐禅が終わると、直日が「ご苦労さま、小方丈でお茶をどうぞ」と挨拶される。雑布でふき清められた渡り廊下をとおり、ストーブで暖められ、座布団も敷かれている小方丈に入る。お茶碗などの道具とお湯も準備されている。修行者たちの心づかいがあたたかい。

 老師が入室されると、「おはようございます」と全員で挨拶。いつもの和顔であいさつが返される。みなさんがお茶をいただくひと時につつまれる。

 原田老師もお茶を飲まれる。当日のお茶請けは煎餅だった。

 老師は食べられるとき茶碗の上で煎餅を小さく手で割られて口に運ばれていた。割ったときにこぼれる粉をお茶碗のなかに落ちるようにされていた。また机の上にこぼれたものは指先でつまみあげてお茶碗の中に入れられていた。食べ物を少しも粗末にされないのだと見させていただいた。お茶の作法にあうのかどうか私にはわからないが食べ物にたいする気持ちを大事にしたいものだと教えられた。

 私は思った。こんな老師のもとでの修行者は薫習される、と。

 ドイツからの女性修行者の汁粉をいただいている様子をみたときのことが思い出させられた。彼女は汁粉を食べ終わると、お碗のうちがわを沢庵できれいに拭きとって、食べていた。 

 食事のとき「いただきます」と、なにげなく言っている。

「いただきます」を日頃の生活のなかでいかせたいものだと……。



平成十年三月十日 二七〇号

29 辞書を読む


 何もする気分になれぬある日、手近にあった『岩波 国語辞典 第三版』を適当に開き読みはじめた。そのとき思い浮かんだことを書くと

 一 ちゃうけ【茶請け】を「茶受け」と使っていた。ハガキ通信に「茶受け」と書いた。正しく使っていなかったことにきづき、直ちにパソコンに保存している原稿を訂正した。

 二 ちし【致仕】・官職を辞して隠居すること。・七十歳。▽中国の官吏の停年が七十歳だったことから。
中国ではいつのころから停年が七十歳であったのだろうか、この記述ではわからない。五十五歳や六十歳でなかったのだ。
また、「仕えを致す」のだから、役につくと思っていた。まつたく、何ともいえないくらい勉強不足だった。

 三 たん【嘆】・なげく。ため息をつく。・物に感じて長くため息をつく。ほめる。【歎】・ほめたたえる。・ため息をつく。なげく。
 一つの字に二つのあい反する意味を持っているのは、どんなわけだろうか?

 四 たもとくそ【袂糞】たもとのそこにたまる、ごみ。
和服を着る機会がほとんどない現状では使われることのない言葉だ。

▼たいていの人は「辞書を引く」ことはしている。分からない語句に出合ったとき、その意味を知るため、あるいは確かめるために。
ああ!分かった、と辞書は片隅に追いやられる。
宮尾登美子さんのように『広辞苑』を愛読書にしている人もいる。しかし、辞書を読む人はすくないのではないだろうか。 

 少し読んだだけでも自分の知識のいいかげんさや字の意味の多様性、生活様式の変化が言葉の変遷につながっているなどの発見がありました。



平成十年五月十日 二七二号

30 科学者に要求されるもの


ある人から次のようなことをきいた。
 「科学者に必要なものは情熱と知力と技術力である。いかに知力と技術力があっても情熱がなければ業績はあがらない」。 

 ほんとうにそうだと思う。いくら知力があっても実験、技術力がなくては、科学的結果はえられない。また知力、技術力があっても、情熱がなければありふれた平凡な結果しかえられないだろう。
 科学的業績とこれらのものを式にあらわせばどんな関係式になるだろうか。

 科学的業績=情熱×(知力+技術力)

 知力、技術力がそれぞれ一で、情熱が一だとすれば、業績は二である。情熱が二であれば、業績は四となる。
 情熱が大きい人は、知力までと言えないまでも知識、技術力は進歩するであろう。したがって業績もだんだんとあらわれてくることになり、五年、十年と時間がたつて比較すると格段の差がだれにもみえてくるのではなかろうか。

 情熱をもってことにあたるのは科学者に限らないものだと思う。教育にしてもそうだと思う。後進を育てあげた人に共通してみられるのではないか。教育者の情熱はそれを受ける人に伝わり体得されて血となり肉となるってゆてのだ。



平成十年六月一日 二七三号

31 ☆二ページ読書


 毎日本を読む 簡単そうで、できない。毎日、新聞は読んでいるが本はそうでもない。読めるときとそうでないときがある。気分よく毎日つづけてよめる、時折読める、読書しない日がつづくなどがある。どうしても読む気分になれないときもある。仕事の都合とか体の調子とかによるのであろう。読もうとする気分に切り替えができない。
 毎日読む方法はないものか? なかなかいい方法はないようだ。

▼いつ、どこででも、ともかく本を開く。開いた二ページだけでも読みとおす。その間、読む気がしなくなれば二ページで止めてしまう。自分でおもしろければさらに次のページへと進めるといつのまにか数ページ読んでいる。
 この方法を続けると、毎日読み続けることはそんなに難しくはないようだ。

▼最近のある日、三十年来、本棚の奥にしまっていた箱入りの五巻の本を引き出した。箱についている埃を払い、本を引き抜くとカバーのセロフアンは変色していた。以前、なんの理由で買ったのか、書き込みもなくまったく読んだ跡もみられなかった。 
 二ページ読書を始めた。第一巻の第一ページをひらき読みはじめた。あまり気が乗らなかった。ところが毎日繰り返していると、これはと思う内容に出会う、そうなると五十ページも読む日さえあるようになった。今はどんどん読みすすみ、四巻もほぼ終わりに近づき、最後の五巻にはいろうとしている。

追加:十五年の記事である。最近は読書にも眼鏡をかけて、努めて実行しようといるが目が疲れるので、難しいことになっている。平成25年5月8日



平成十年十月一日 二七四号

32 ☆親切と布施


 ひろさちやさんが書いていた。数年前、インドでこんな体験をした。
 道に迷って、行きずりのインド人に尋ねた。すると彼は「じゃあ、わたしが案内してあげよう」と、わたしを連れて行ってくれた。すぐ近くかと思っていたら、それがなんと三十分もかかったのである。三十分間、彼はわたしのために貴重な時間を割いてくれたわけである。
 わたしは、お金でお礼をしようとした。
 だが、インド人はそれを受け取らず、こう言った。
「わたしはあなたに親切にした。あなたはだれかに親切にしてやってくれ。それが、わたしに対するお礼だ」
 わたしは、涙が出るほどうれしくなった。
「情けは人のため」である。それが、本当の意味である。そのとき、わたしはそのように確信した。

▼中学校の先生と奥さんが協力して公民館クラブ活動としてやさしい坐禅クラブを始められた。その方は現職の教職三十四年のM先生。平成十年四月十一日(土曜日)スタート。
 現在の勤務地に何かをお還ししたい。それでは一体、自分で何ができるかとおもったところ、かって、岡山市内の中学校でクラブ活動として坐禅の会を指導したこともあり、これだと思われた。
 カオスの時代、静かに坐ることの必要性を平素から感じていました。なんとなく機が熟したのではないかと感じ、数人集まって坐ることを味わい、その人たちがそれぞれ自分で坐るようになって欲しいと思うようになったからです。

▼参加者は六人と先生と奥さんの坐禅会。公民館の十二畳の部屋で行う。
 十五分坐禅、五分休憩を三回繰り返す。休憩に立って場内を歩く。坐禅が終わると、奥さんのたてられたお抹茶とお菓子をいただきながらお話をする。

▼参加者が会費のことを心配して口にされた。今どき、“ただ”ということを想像するのは難しい世相。こんな心配をするのも無理はない。
「もしお金を払いたいと思われるならどこかでお布施に使ってください」と。
 曹源寺で無料の接待をうけていることから、ミニ曹源寺日曜坐禅をしていますと、先生は謙虚につけ加えられました。



平成十年十二月一日 二七六号

33 ☆禅寺の菩提樹


 釈尊の生涯を読むと、三十五歳のとき、ガヤーの町の郊外に入り、そこに一本の大木を見つけた。インド名でアッサッタ樹のもとに結跏趺坐をした。
「われは正覚を得るまで、この坐をたたず」と決意したという。大いなる悟りに向かっての、それは最後の禅定であった。
 それから十二月八日、釈尊は悟りを開かれたのである。
 釈尊がその大樹のもとで悟り(菩提)をひらかれたが故に、その木は菩提樹と呼ばれるにいたったのである。

▼釈尊とゆかりのある菩提樹は、岡山市の曹源の浴室の前に、そして、小方丈の前庭に沙羅樹がうえられている。
 菩提樹はインド、ビルマなどの産であるクワ科の常緑高木。釈迦がこの樹下に座して正覚を成道したと伝え、神聖視される。インドボダイジュ。

 中国原産のシナノキ科の落葉高木もある。(『広辞苑 第五版』)。

▼「禅は、伝説では、インドに起こり、六世紀のはじめに菩提達磨によって完成した形で中国にもたらされたと考えられている。しかし、事実上の起源は中国にあり、中国禅宗の第六祖と称せられる慧能(六三八ー七一三)に始まる。ディヤーナ(禅那、禅定)をのみ重んずる考えに対し、強くプラジュニャー(般若、智恵)の喚起を主張したのはかれ慧能であって、この事実が、それ以来禅として知られてきたものの起源をなすものである。」(鈴木大拙『禅』)

▼十一月の下旬、曹源寺の樹は黄葉、落葉してきた。インド、ビルマの産ではなくて中国原産のもののようである。

 一九九八年も十二月を迎えました。十二月八日は釈尊成道の日、同時に太平洋戦争開戦の日を思い出させられます。あれこれと忙しく過ごされていることでしょう。閑話提供。ちょっと手足を休めて下さい。。

*禅寺の植木はそれぞれ深い意味が含まれている。その意味を味わうまでになりたいものである。



平成十年十二月十五日 二七七号

34 ☆ひつじぐさの観察


 一九九八年も十二月を迎えました。あれこれとお忙しくお過ごしでしょう。閑話を提供いたします。ちょっと手足を休めて、目を通して下さい。

 ひつじぐさと睡蓮―開花と閉じる時刻―
 睡蓮については「モネ 睡蓮」を知っている人は多いでしょう。
 私も大原美術館蔵「モネ 睡蓮 1906年頃」の絵画を見て知った一人です。
 モネはほとんど作品を売らぬことにしていたが、日本の牡丹の苗木と交換する条件で「睡蓮」の売却を承諾したという。
 睡蓮と蓮(ハス)の区別もはっきりとは知りませんでした。
 今年6月中旬、植物の知識が豊富な人と話しているとき睡蓮の話しが出た。この花を「ひつじぐさ」ということも教えられた。未の刻に咲くからこの名前がつけられているのだとも。そこで、未の刻は現在の何時に相当するのかに話題が発展、調べると午後2時(午後1時から3時の間)だと。
 岡山の後楽園では観蓮会が開かれている。それは大賀ハスの開花するのを朝4時ころから待って行われています。

 ハスは朝に咲き、ひつじぐさは未の刻に咲く、何だか変だと直感しました。
 そこでひつじぐさ、睡蓮について調べることにしました。
 まず辞書・事典・その他にあたりました。同時にこの水草の開花と閉じる時刻を観察することにしました。思わなかったとがわかりました。

◆わたしの観察

 1、年月日:98年8月23日~9月4日

 2、場所:岡山市、曹源寺(臨済宗系)の庭の池。
 3、種類:水面で咲いているものと、10センチくらい伸びた花茎の先に花がついているものもある。ピンク系のもの。
 4、時刻と開花状態
 5時前には咲き始めていると思う。
 ひつじぐさの種類が多くて昔は未の時刻に咲いていたのかもしれない。また、現在でも、未の時刻に咲く花もあるのかもしれない?
 今までは、心字池の西側のあたりに比較的たくさん集合して咲いていたピンクの種類であったが、白色のものは東側の少し日当りの悪いところに少しあった。
 種類によりあるいは光りの当たるわずかな違いが開花時刻を左右するのかもしれない。勉強になった。

◆参考辞書・事典・その他
1、『広辞苑』昭和三十九年八月一日 第一版第十三刷発行
2、『広辞苑 第四版』
3、『岩波 国語辞典 第三版』1983年10月20日 第3版第7刷発行
4、『岩波 国語辞典 第五版』1997年2月16日 第5版第3刷発行
5、『広辞林 第五版』(三省堂)第8刷
6、『大辞林 第二版』(三省堂)
7、『新明解国語辞典 第五版』(三省堂)
8、『古語辞典』改訂新版(旺文社)1990年 重版発行
9、『字源』(角川書店)昭和三十五年三日増補発行
10、『国民百科事典』(平凡社)1961年11月15日発行。
11、『週刊花百科 15 Fleur フルール はす 睡蓮』(講談社)


 広辞苑の説明と観察の結果によるひつじの時刻と「ひつじぐさ」の開花との関係に疑問を持つたので、岩波書店に手紙で連絡した。 広辞苑編集部から下記の返信を頂いた。

拝啓 日ごろ御愛顧を賜り深く感謝しております。このたびは小社刊行の広辞苑について御懇篤な御指摘をいただきありがとうございました。今後ともよろしく御指導下さいますようお願い申し上げます。    

敬 具

   98年9月8日

「ひつじぐさ」についてご指摘ありがとうございました。ご観察のとおりだと思います。

「ひつじぐさ」の語源は広辞苑に書いてあるとおりなので、事実とは異なっています。その点、困ることのないよう、どう記述するか考えていきたいと思います。

広辞苑編集部


謹 啓

弊社の辞書をご利用いただき、厚く御礼申上げます。
また、ご丁寧なお便りをいただき、誠に有難うございます。
『広辞林』『新明解国語辞典』編集部とも相談いたし、『大辞林』編集部よりお返事を差し上げます。

 さて、「ひつじぐさ」は未の刻に花が咲くから「ひつじぐさ」と、名付けられという語源説が広く知られており、多くの辞典類もこの説に何らかの形でふれています。しかし、この説の典拠は明らかでありません。

「ひつじぐさ」が文献にあらわれるのは江戸時代からとされていますので「それ以前はハスと呼ばれていたようです」、かなり早い例と思われる貝原益軒の『大和本草』には「此花ひつじの時よりつぼむ」とあります。

 江戸時代の『ひつじぐさ』がどの種類のものかーー日本の野生種か否か、朝開性か夜開性かなどーー分かりませんし、益軒説がどの程度支持されたのも不明です。

 従って現代の辞典類は“未の刻に開くまたは閉じる”とする説を否定することもできず、俗説として紹介しながら植物の実態にも触れるというどっちつかずの解説になっておます。

 次回の改訂の際には、お送りいただきました御観察も参考にさせていただき、改めて検討させていただきます。

 今後ともお気付きの点などお教え下されば幸いに存じます。
 先ずはお礼まで。

 なお、御参考までに牧野富太郎博士の『新日本しょく物図鑑』と『世界有用しょく物事典』(平凡社)のコピーを同封いたしました。

  平成十年九月九日

     『大辞林』編集部
黒崎 昭二様

 2社から回答をいただいた。事実だけにとどめる。

 平成二十八年九月十七日



平成十一年一月一日 二七八号

35 読書法

「初心のほどは、かたはしより文義を解せんとはすべからず、まず大抵にさらさらと見て、他の書にうつり、これやかれやと読ては、又さきによみたる書へ立かへりつつ、幾遍も読むうちには、始に聞えざりし事も、そろそろと聞ゆるやうになりゆくもの也」<本居宣長『うひ山ふみ』

▼『正法眼蔵随聞記』を読み始めたのは、十五年前でした。しかし当時の私にはなかなよみずらくて、本居宣長『うひ山ふみ』にいわれているように「まず大抵にさらさらと見て」を行わず、一回目をよみ終わったのは三年半後でありました。以後、これやかれやと読み、他の本を参考にして書き込みをしてきました。昨年までの十二年間、平均して年に一回の割合で十二回読んだことになります。
 ここまで読み古された岩波文庫本は表紙がとれて和紙で修理していますが、愛着といいますのか新しく買い換えずにいます。

▼昨年十一月、鈴木大拙『禅』を読んだ後、十二回目を読んでみますと、自分なりに何となく「幾遍も読むうちには、始に聞えざりし事も、そろそろと聞ゆるやうになりゆくもの也」と、いわれていることはその通りだと思えてきています。
 千九百年代の終り、卯の年を迎えました。「卯(ボウ)の本来の意味は草木の茂ること言う」と説明されています。

 年頭にあたり皆様のご多幸と草木の茂るときの活力ある年でありますようお祈りいたします。



平成十一年二月一日 二七九号

36 ☆自己を離れる


 自己とは一体何んだろう、と考えることはほとんど無いのではなかろか。

▼一九七〇年四月十一日、アポロ十三号は打ち上げられた。十三日に機械船が爆発を起し、月着陸を中止。十七日に三人の飛行士が無事帰還。

 彼らは疲労困憊の極に達していた。救出されたときは、ほとんど口もきけないありさまだった。船長のジェームズ・ラベルの地球帰還の最初の感想はこうだった。

"We do not realize what we have on earth until we leave it."「地球を離れてみないと、我々が地球で持っているものが何であるのか、ほんとうのところわからないものだ」

 ラベルが宇宙で死地におちるという特別の経験を持った宇宙飛行士だから、こういう認識を持ったというのではない。安全無事に宇宙飛行を終えて帰ってきた宇宙飛行士たちにしても、聞いてみると、例外なく、地球に対する認識が驚くほどふくらんだというのである。それは単に、地球環境がいかに人間の生命維持に不可欠かがわかった、といった単純な感想ではない。地球と人間のトータルなかかわりに関する認識とでもいったらよいだろう。具体的には、また先にいって述べることにするが、全人類が現にその上に乗っており、すべての営みをそこで展開しつつある地球を、目の前に、一つのトータルなものとして見た経験がある人間だけが持ちうる認識とでもいったらよいだろうか。『宇宙からの帰還』立花 隆 (中央公論社)昭和五十八年十二月十日二十一版 P.57

▼岡山市の旧市内を東西に分けるように流れている旭川の東側に小高い操山が東西に横たわっている。その山を少し登ったところにある小道を私は散歩道にしている。雑木や竹薮などがあり、人には滅多に出会わない。この山の南部は開拓された新田であった。まだ田んぼは残っている。しかしながら、住宅が増えている。はるか彼方に児島半島まで眺められる。わずか五十メートルくらい登った岡に立つだけでも視界がグンと開けて、気分が変わる。
 地球を離れて見たとき、船長が持った感想はなんとなく理解できる。もっと地球を離れて行くほど体で感じるものが深まるだろう。私も体験したいものである。

▼彼の感想中の言葉・地球・を自己におきかえてみた。
「自己を離れてみないと自己の中に持っているものが何であるのか、ほんとうのところわからないものだ」ということになる……

 自己を離れれば離れるほど自己の正体がわかってくるのだろう。



平成十一年三月一日 二八〇号

37 ☆天地返し


 冬は土づくりに最適な季節だ。植えてある植物も少なく、また土を掘り起こし寒さにさらすことによって塊が風化されて土質がよくなり害虫やその卵なども寒さで死んでしまう。花壇であれば「天地返し」といって、表とその下の土を入れ替えることだそうだ。

▼わが家の庭の周囲は植木、内側は芝生にしている。夏時分は一週間に一度ていど刈るくらい伸びる。昨夏は、なんとか刈っていたが来年はしんどいから、剪定をして貰っている植木屋に芝を剥がしてもらうよう依頼していた。

▼ところが、梅の蕾がまだ堅い大寒が過ぎて、運動をかねて無理しないで、二週間くらいで芝を剥がし終われば上出来だと掘り返しはじめた。シャベルに足をかけて地面に押し込んでこねると、表面から約5cmしたに、啓蟄(三月六日)を待っていたチーズの固まりのような冬眠していた幼虫。拡大鏡でみると頭、目、足ができ上がっていた。レンズで光を集めて暖かくすると頭、足を動かして体全体をモゴモゴさせる。

▼また、表面から5cmくらいの深さまでは芝の根が錯綜して絡み合い、ほぐすのが難しい。しかし、その下は黄土色の真新しい土。

 ふと、自分も自己の考えにからみつかれて抜け出せないで、見るべきものも見ていないのではなかろうか。「天地返し」をして、自分の考えの中にいままでヌクヌクと住み込んでいた古い虫を追い出し、寒にさらして新しい地に足元を固めて新鮮な目で、いやそれ以上に目覚めた人の目でみたいものだ……


参考:天地返し(てんちがえし) [日本大百科全書(小学館)] 深耕により下層の土を表層の土と入れ替えることをいう。土壌改良の一方法で、客土に匹敵する効果がみられる場合がある。植物を長く栽培していると、表層部分の土は養分の不足や微量元素が欠乏したり、逆に塩類が集積して成育に障害を及ぼすことがある。また、下層が表層より肥沃(ひよく)な土壌の場合や、老朽化水田のように鉄やマンガンその他の成分が作土から溶脱して下層の鋤床(すきどこ)層、さらに心土に集積している場合に、下層土を作土に掘り上げて混和すれば土壌が改良される。ただし天地返しによって漏水を助長する場合もあるので、注意が必要である。[執筆者:小山雄生 ]25.05.09



平成十一年四月一日 二八一号

38 ☆ひとりハガキ―自分宛


 学生時代、先生に注意されるときよく言われていたことの一つに「大人になり、社会に入ると、他の人から注意されることは滅多にないよ!」と。本当にそのようである。自分の行動は自分自身で注意しなくてはならない。
その方法は、人によって様々でいくらでもあるだろう。

▼・ひとりハガキ・を書くことも工夫の一つにならないかと思い、「自分はかくありたい」と思った時にはじめた。一回目、二回目にはすらすらと書けました、ところが三回目くらいから書くことがなくなり、パソコンの前にしばらく坐り込んでいますと、自然に自分の内部に目を向けるー内観?するようになり、今回はなんとか一週間続けました。予想もしなかった心の塵がとりのぞかれそうな気持ちになっていました。
 人に読まれる心配もないから軽い気持ちで何でも自分に書いてみる。こころが弱っているな~、孤独だな~と感じた時などに思いのたけを。

▼アルバムに写真を貼り付けておくのとおなじように・ひとりハガキ・をファイルしておくと、姿形の記念ではなく、こころの文章アルバムになる。公証人の日付の役目を果たしてくれるスタンプの消印が押されて翌日には確実に、考えた人(自分)からのハガキが配達される。読むとまた何かに気付く。

 日記との違いは今のところよく分からない…。



平成十一年五月一日 二八二号

39 銀 杏


 岡山大学医学部の正門の東西に銀杏の大樹が十四~五本ある。昨年の十一月、西側の二本が雌株で枝もたわわに実がなっていた。雄株より雌株のほうが黄葉していた。根元には実がたくさん散乱。

『ことばの道草』(岩波新書)によると、銀杏は、与謝野晶子が「金色の小さき鳥の形」とうたったいちょう。中国が原産といわれるが、漢語の「鴨脚樹」はその中国で銀杏の葉を鴨の脚に見立てたな。「鴨脚」の近世中国音ヤーチャオが転訛して「いちょう」になったという。もう一つの漢名「公孫樹」は、銀杏が老木でないと実が実らないところから、孫の代に実る樹の意。やっと実ったその実が、おなじみ銀杏。
 大学の銀杏も植えられてから孫の代になっているのだ……。

▼臘梅は五~六年。桃栗三年、柿八年。柚子も五~六年か? 

 実を結ぶ適齢期がそれぞれあるようだ。竹は五十~六十年に一度だけ花を咲かせて枯れるという。人間の一世代は三十年といわれているから約二世代、孫の世代に。公孫樹とほぼ同じ年齢で花を咲かせるが精根を尽くすのだろう。

▼人が花を咲かせて実をつけるのは生後何年くらいだろうか。

 自分の花はいつだったのだろうか? 

 咲かないままだったのだろうか? これから咲くのだろうか? いま咲いているのだろうか? 

 若くて実をつける人、公孫樹のように年輩になって実るような人、さまざま。

 若竹の伸びている五月晴れの空を仰ぎみる。 


 宮本 進 先生よりのメール(2014.10.24)

〽境内に 銀杏聳え 鐘の音 黄色き玉が 青き宝珠
〽天高く 稲架掛けに 夕日映え 津高の郷に 天地の恵み

 上の句は、真福禅寺の銀杏の大木のことで、住職さんの奥さんがギンナンをくださり、電子レンジで焼く方法(ギンナンの種を封筒に入れて暖める)を教えて下さいました。

 実際この方法ですると、2分程度で銀杏の種が弾け、中から青く透きとおったサファイヤーの宝石のような美しい実が顔を見せてくれます。食べると、実においしいです。

 下の句は、津高の郷、家のまわりの長閑な田園風景を詠んで見ました。



平成十一年六月一日 二八三号

40 柿の花


 雌の花と雄の花が同じ木になるのを知ったのは昨年の秋でした。イチョウ、クチナシなどのような雌雄異株があるのであれば雌雄同株があっても不思議ではないと思ったのがきっかけ。カキ、クリ、キュウリ、マツの類。そこで来春(今年の春になります)はどんな花かみたいものだと期待していました。

▼今年五月、私の家に植えられている柿の花を初めて観察。四弁で壷状の中におしべをもっているものと花弁の中心部に四角錐形(ピラミッド状)のものがあって、その先端から花柱のようなものを出しているものがありました。ほぼ半分半分でした。植物にうとい私にでもすぐに見分けられました。

▼ある日、散歩していると、柿の花が路上に沢山落ちていました。それらをつぶさに見ると殆ど全部が壷状の花でした。不思議な気がしました。偶然だろうか? その後、庭の木の花の観察を続けていますと両方の花が膨らんでいるのでまたまた不思議。

▼ある事典によると、雌花のみを生ずる品種と雄花と雌花を生ずる品種があると説明されていました。実際にみた木でも雌雄同株ばかりでないことは知ることができましたが、なぜ壷状の雄花が膨らんできているのか理解できないでいます。

▼ちょうどいまごろ、クリが開花していますので、里山にでかけ雌雄の花をみています。キュウリの花も手にとっています。

「見る目を観(み)る目に変える」とみえなかったものがみえてくるようです。しかし疑問も増えています。



平成十一年六月十五日 二八四号

41 ☆誕生日の花と花言葉


 NHKラジオ番組:深夜便、朝の四時から五時に「心の時代」があります。その終わりに今日の誕生日の花と花言葉が紹介されています。心の時代のお話も大変勉強させてもらっています。近ごろは個人的に花や樹木にも興味あり、誕生日の花と花言葉を知るのも楽しみの一つになっています。

▼五月一日スズラン・花言葉は純愛、希望。五月十日カーネーション・花言葉はあなたを熱愛する。五月二十日シラネアオイ・花言葉は優美でした。言葉には、明・暗、清・濁、喜・悲、希望・絶望、前進・後退、美・醜、生・死、プラス・マイナスなど相反する言葉があります。その中で花言葉は明るくて、清らか、喜び、希望をあたえる言葉が選択されているところに心を引かれているように憶えます。

▼紹介される花には見たものやそうでないものがありますので、もう少し花のイメージと花言葉の印象を自分なりに深めたいと想い、五月下旬、地元の放送局に電話で問い合わせました。

「誕生日の花と花言葉に関連した本か何かあるでしょうか?」

「毎年十一月ころ翌年の誕生日の花と花言葉の写真つきのカレンダーを発売しています。来年のものを注文されてはいかがですか」

「誕生日は月日が変更することはないのだから誕生日の花はかわらないのでしょう、今年のでもよいから、あれば購入したいのですが」

「電話番号とお名前を教えて下さい。在庫があるか問い合わせて、折り返しご返事します」。三分くらいして返事の電話がありました。

「あります。どうされますか?」

「いただきますから、手配してください」

▼「花ごよみ」は誕生日の花・日本の花世界の花の名前とイラストレト、植物科、花言葉が書かれています。花の印象と花言葉を自分なりにあれこれ想うのは結構楽しいものです。 

★〚ステラ 花ごよみ〛1999/平成11年 カレンダー NHK「ラジオ深夜便」で放送中の「誕生日の花」より

▼私の誕生日の花:ヒガンバナ:再会。家内の誕生日の花:ハマギク:友愛



平成十一年七月一日 二八五号

42 痛 棒


 五月末の日曜坐禅会が終わり、曹源寺の総門の前の掘でボディーさん(インドからの修行者)がギリシャ出身の修行者と二人で溝掃除をしているのに出会いました。
 そこで、「佛道とは何ですか?」と、ボディーさんに聞きました。

「黄檗老師に一人の弟子があなたと同じ事を聞きましたところ、老師は弟子に棒を喰らわした。また聞くと更に棒を喰らわした。三度続きました。」と話してくれました。
 そして、ギリシャの人が笑いながら掃除していた箒の柄で私の肩を軽く叩きました。
「分かりましたか?」と、ボディーさんか言われました。
「分かりません」といったところ、ボディーさんは、溝のごみを何度もかきあげながらこれが佛道ですと。
 わが家への帰り道、ふと、「箒の柄で叩かれたおまえ自身が毎日毎日行っていることそのものが佛道なのだ。お前だよ、お前だよ、気付けよと棒でたたかれたのだ」と。
 長く修行している人に問いかけたのは初めてでした。しかも実際に肩を軽くではあったがたたかれてみると痛い棒を食らわされた想いがしました。

▼『正法眼蔵随聞記』には
古人の云く、聞くべし、見るべし、得るべし。亦云く、得ずんば見るべし、未だ見ずんば聞くべしとなり」と、書かれていました。



平成十一年七月一日 二八六号

43 ☆大学が株式会社


「身に付けた技術をきちんと説明できる学生が欲しい」。今年一月、米シカゴ。IBMやモトローラの採用担当幹部がデプライ工科大学で、大学側に次々と注文をぶっけた。卒業生の評価に聞き入るデニス・ケラーの肩書きは「会長兼最高経営責任者(CEO)」。デプライはニューヨーク証券取引所に上場する「株式会社」なのだ。

 ケラーの反応は早かった。教育過程を直ちに変え、コミュニケーション論などの講座を学期の途中で新設した。卒業生の評価が株価や業績に直結するからだ。最大の特徴は優秀な技術者のスピード育成。三年間で電子工学やコンピューターの学士号を取らせるコースもある。運動施設も課外活動もない。一年間休みなく開校し、朝七時から夜十時まで授業がある。
 卒業できる学生は三分の一。厳選した「頭脳」をインテルやAT&Tなどの有力企業に送り込む。株価は五年間で七倍に上昇、時価総額も十四億ドルに膨らんだ。ケラーは「大学に競争原理を持ち込むことで教育の質も向上する」と強調する。
 米国に広がる教育の大競争―。新資本主義のうねりが生みだしたものだ。情報やアイデアを持つ者がビジネスを担い、経済全体を引っ張る時代には、「知的資本」をいかに育てるかが勝敗の決め手になる。

▼これは、一九九九年六月十八(金曜日)の日本経済新聞の連載記事
二一世紀 勝者の条件(五一) 第六部 
再生への号砲 国の枠超えて連結 「知的資本を育てる」の出だしの部分を写したものです。

▼私は読んでいて工科大学が株式会社とは。これを読み日本の大学と比較、また大学はいかにあるべきか、将来の大学はなどなど、貴方はどんなことを考えますか…。



平成十一年七月十五日 二八七号

44 ☆合掌二題


 其の一 原田老師から日曜坐禅会で警策の受けかたと、それにまつわる逸話をうかがった。

 坐禅中、肩を打たれる警策は、打つ直日も受ける方も合掌して行われる。これは、直日は無心で打たせていただきありがとう、打たれる方も無心に打って頂いてありがとうございますといった心を込めて警策の前後に合掌しておこなわれるものです。打たれるときの心得として打たれる瞬間に息をはきだすようにするとお腹に力がこもり全身が温かくほぐれる。打たれるぞと思い体をかたくすると効果がすくないものですと。
 警策にまつわる逸話
 ある未成年の少年が罪を犯して、山田無文老師が居られたお寺に預かっていただけるかとたのまれました。老師は「よろしかろう」とひきうけられました。当然、その少年は坐禅をさせられ、警策も受けた。
 直日が警策を両手に挟んで少年に向かって合掌。そのあいだ、少年は直日の顔をじっとみつづけていました。褒められることもなく、叱られてばかりいたのでしょう。拝まれた経験などはまったくなかったでしょう。
 自分にも手を合わせてくれる人がいることに驚いて直日の顔を見続けていたのでした。それから生活態度が目に見えてよくなったとのことです。

 其の二 修行者が私の家のあたりにも托鉢にこられる。

 朝八時前後、遠くから托鉢のお経の声が聞こえてくる。
 ああ今日は托鉢の日だと知らされ、小銭を用意して玄関で待つ。やがて、来られた修行者にお布施。合掌礼拝、短いが朗々とした声でお経を唱えられる。私は合掌と合掌で結ばれたものの流れを感じる。お互いに礼拝、次の家へと向かわれるのを静かに見送る。



平平成十一年八月二日 二八八号

45 ☆無駄花(其の一)


 今年、初めて庭の一部を菜園にして知人から頂いた「にがうりの苗を植えました。ところが朝、花が咲いていても夕方にはしぼんで枝から落ちてしまっていました。
 そこで夕方の散歩の途中に出会った農家のおばさんに「胡瓜や茄子の花はどうして無駄花があるのでしょうか?」と尋ねました。
・茄子の花と親の意見千に一つも無駄がない・と言われているではありませんか。胡瓜は無駄花がありますが茄子はほとんどありませんよ、無駄花がどうして起こるのか分かりませんが。

▼しまった! 胡瓜や茄子の観察を十分にしないで、最近見たばかりの・にがうり・のことを茄子や胡瓜までにひろげてしゃべってしまって、野菜作りに全く無知であることをさらけ出して。ましてやこんな諺があることも知らなかったのだから…。
 肥料のことやらなにかと教えて下さいました。
 知人にこの話をすると、茄子でも無駄になる花があります、ただその数が少ないのでしょうと教えられました。

▼「経験こそがわが師」「われ以外皆わが師」などを思い出させられる日々。真紅、黄色、黄色の綾目模様のカンナが帰り道を色鮮やかに飾っていました。
追伸・パソコンのメールアドレスをお持ちの方は差し支えなければお知らせ願います。



平成十一年八月二日 二八九号

46 ☆無駄花(其の二)


 本通信の二六七号でニガウリの無駄花について書きました。

 雌雄同株であるクリの観察を行ってきていましたところ、梅雨明けから生理落果が目立ち、その数を数えていました。
 八月二日午後、その日の数は六十四コもあり、一日平均四十コの落果が続いている。何時おわるのだろうかと思いながら帰った。ひと汗を拭いている時、ニガウリは、ひょっとしたらキュウリと同じ雌雄同株のため雄花がドンドン落花していて、私には無駄花と想えていたのではないだろうかと気付いて、『広辞苑 第一版』を引いた。にがうり→つるれいし、と記載されていた。その項目をみると雌雄同株と明示されていました。そうだったのか、だから雄花が役目を終わってシボンで散っていたのであろう。無駄花であるどころかちゃんと役目をはたしていたものもあったのだな。
 そこで、雌雄同株であるからには雄花と雌花がカキ、クリの様にはっきりと区別できるはずだと思い翌日、観察すると私の目には同じ花としか見えなかった。辞書にも雌雄同株と書かれているのにこれは不思議だ。

▼次は生物の参考書を調べることにした。
 植物では、雌雄の区別のある場合とない場合とがある。
 (一)雌雄異株 雄花をつける雄株と雌花をつける雌株が異なる場合で、スイバ・ホウレンソウ・シュロ・イチョウ・ソテツなど。
 (二)雌雄同株
 (1)単性花をつけるもの 同じ株に雄花と雌花がつく、キュウリ・クリ・マツなど。
 (2)両性花をつけるもの 1つの花におしべとめしべとがある。大多数の種子植物。 
 雌雄同株には二種類があることが示されていた。調べるまでは、前者しかないものと思っていた。

▼私にはいまのところ、ニガウリは雌雄同株の両性花であるように思える。したがって二六七号の無駄花の思いは今も同じである。

 『広辞苑 第一版』では、ニガウリは雌雄同株となぜ書き、ナスについては雌雄同株と書かれていないのだろうか?



平成十一年九月一日 二九〇号

47 ☆Hearsay


 本を読む気がなんとなくしなかったある日、『コウビルド英々辞典』を繰りながら拾い読みしていた時、この言葉にであいました。
 hearsay:Hearsay is information which you have been told indirectly, but you do not personally know to be true.

▼この言葉から二つのことを思いました。

一つは耳学問について。人からいろいろ話を聞いて何かを学びとること。その聞いたことが直接本人からの話でなくて第三者からの又聞きであったりすることがおおい。したがって、真実であるかどうかは自分ではわからないのであるが、それを知りたければ調査をすればある程度わかってくるでしょう。仮に事実でないとしても自分の参考になると思えば、事実であるとかそうでないとかはフッ飛んでしまうでしょう。

 二つ目はこの単語の配列が面白い。“hear”が“say”の前に配置されていて、hear and say に解釈すると自戒の言葉になります。

 人と話をしている時、ついつい言いたいことが先になり、聴くのがあとになることが多い。さらに、次はどんなことを言おうかなどと考え、相手の話を十分にきいていないことがあります。聴くことに専念していると相手の言われている内容がよく理解できると同時に自分の気持ちが落ち着いてくる(いる)ようです。

▼この辞書を読むのが好きです。hearsay の意味の説明文でもわかりますように、難しい単語は使われていないのと完成した文章体で書かれているから英会話、英語作文に役立つと思います。



平成十一年九月一日 二九一号

48 ☆自 殺


 日経新聞(七月二日)は「経済・生活苦の自殺7割増 昨年一年の自殺者は三万二千八百六十三人 経済・生活苦の自殺六千五十八人」と報道していた。自殺者と交通事故の死者約一万人を合わせると年間に四万人以上の人がなくなっている。少ない人口の市が一つ消えた計算になる。

▼八月十五日朝、敗戦の日。日曜坐禅会がおわった後の茶礼の席で
 原田老師から次のような話を伺ました。
 フランスから修行にきていた者が独りで関釜連絡船に乗って韓国に渡っていた。 
 夜、何もすることがないので暗闇の上甲板で坐禅をしていた。
 一人の婦人が誰もいないと思われる甲板に上ってきた。何か動かないものがあると気付いて、よくよく見ていると坐禅をしている人であった。それをずっと見ていたそうである。

 明け方、修行者に話しました。「実は船から身投げしようと思っていました。あなたの坐っている様子を見ていまして、自殺を思いとどまりました」と。
 坐禅をしている姿にこの婦人は何をみたのでしょうか?

▼扇谷正造『経験こそわが師』(昭和四六年三月二○日発行。二十八年前の本)をたまたま読んでいると
 生きがい論はしょせんは『余裕の産物』であった。
 早い話、終戦直後には、餓死はあった、凍死はあったが、自殺はなかった。私の記憶によれば、何となく世の中が、いやになっての自殺は昭和二十四年ころだったと思う。P.14

▼「余裕の産物」が自殺へと、経済・生活苦が自殺へとそれぞれ理由づけられている。一人一人誰もとめることのできない自殺の動機はあるのだろう。
 関釜連絡船上の婦人のような方もいることを思うと、救いの道はないものだろうか?



平成十一年九月十五日 二九二号

49 I'm all ears.


 I'm all ears. の言葉に出合い、『コウビル英々辞典』を読むと
 ear:If someone says that they are all ears, they mean that they are ready and eager to listen. とあった。
 上の例文のthey をI に置き換えて読んで日本語に直訳しますと「私はすべて耳です」となります。少し私見を加えて解釈しますと「私の意見を加えないでお話を聞きます」という謙虚なききかたになるのではないかと思います。そうすれば本当に自分のためになる活きたお話が聞こえてくるのでは。
 I'm all ears.は単語の<ear>だけでは味わえない文章ですね。

▼何気なくあまり区別しなくて使っている、「きく」の英語に、hear とlisten があります。どんな違いがあるか、しらべてみた

hear
 1、 When you hear a sound, you become aware at it through your ears.
 2、 If you hear something such as lecture or a piece of music, you listen to it.
 1では生理的に耳に「きこえる」ことであり、2では講義や音楽を「きく」ことを意味している。

 listen
 1、 If you listen to some one who is talking or to a sound, you give your attention to them or it.
 注意して「きく」ことのようである。
 両方の説明を読む限りでは大差ないようでもある。
 生理的に何となく「きく」場合は hear を、注意して耳を傾ける場合は listen を使うのが良いように思える。
「鳥が鳴いているのがきこえます」。「鳥の鳴く声をきいてみなさい」。
 この二つでは前の文章は hear であり、後の文では listen である。

▼日本語でも「きく」には漢字では「聞く」と「聴く」の二つがある。これまた、私はいいかげんに使っている。
 「漢語林」の解字をむと
 [聞] 形声。音符の門は、とうの意味。たずね「きく」の意味を表わす。
 [聴] 形声。耳をつきだし、まつ直ぐな心で、よく「きく」の意味。 
 以上のことから、訪ねてゆく家への道などをたずねてきく時は「聞」を、耳を傾けるようにしてよくきく場合は「聴」を自分なりにきっちりした使い分けしたいと思う。



平成十一年十月一日 二九三号

50 ☆トニーの仏鈴(おりん)道 顕


 トニーはエイズで死の床にありました。三○歳の仏教徒。仏教の僧侶と話したがっていました。ホスピスが、できれば彼と話してくれないかと私にたずねました。私は僧侶ではないが、修行者として、トニーに話すことに同意しました。しかし私は心配でした。何を話したらと。

 清潔な作務衣を着て、白い足袋を履きました。トニーのお母さんと玄関で逢い、たいへん慶ばれ、トニーの部屋の方へ案内されました。ドアへの通路に立ち、一体何をしたらよいか?と想いました。
 トニーの寝室に入ると、壁際に仏壇がありました。それを見るとすぐに、数ヵ月前に見た仏壇を思い出しました。
 原田正道老師とシアトルを旅行した時、仏教の尼さんの家を訪問しました。
 老師はその家に入るやいなや仏壇に参り、お経を唱え始められました。老師の作法に感動をうけました。トニーの仏壇を見たとき、何をなすべきかわかりました。
 寝室に入ると仏壇の前に坐り、線香に火をつけ、小さな仏鈴を三回たたき、般若心経を唱えました。終わって、トニーの方に向くと、彼の顔は輝き、微笑んでいました。お互いにとってよい訪問でした。トニーは数週間後、亡くなりました。
 ある日、トニーのお母さんから、逢いに来てくれませんかと電話がありました。到着して家に入ると、テーブルに仏鈴が置かれていて、これを貴方に贈りたいと言われました。援助した家族からの贈り物は決して頂かないことにしているのですと話しましたが、今回は例外にしました。この仏鈴はお経を唱えるために使うものであると説明して、毎日、私はそれをたたきましょう、この仏鈴の音はトニーの声ですよ、と伝えました。トニーの声がその仏鈴の音とともに毎日、聞かれます。この出来事は二年前のことでした。トニーの声は、いまなお、毎朝聴かれます。 

★註 道顕さんはアメリカ人。得度名。シカゴで働いている。九十九年九月、日曜坐禅の茶礼に「トニーの仏鈴」を持参され、三度うたれました。本当に余韻のあるよい音でした。聴いていた皆さん合掌されていました…。



October 15, 1999 No. 294

51 ☆Diary in English


 My granddaughters are twins who has became first year student in middle school this year. When they came to my home last summer vacation, I bought them diary. Thereafter my wife made sure that they kept diary. Their answers were no. Keeping it is hard to continue for them as well as I do it in English. Having been stimulating when I read a book "Nihonzin ha naze eigo ga dekinaika", I made up my mind to keep dairy in English. As I did it, I found my vocabulary used in daily life was very poor and my spell was incorrect. Often I looked up words in the dictionary, Japanese-English or English-Japanese, because I would like to use correct words in the sentence. In that case I should not only keep the words in mind but also phrase together. For examples, "Tori ga naku" is "Bird is clicking", "Mushi ga naku" is "Insects is chirping".
 I hoped if I continued to keep the dairy, I would be good at English. When I wrote my diary I check the spell of English by my personnel computer ' check system.
 It is very interesting to write my diary, because it makes me my brain active. Since I began writing my diary, I got accustomed. After three days I took notes in English unconsciously. I was believed what Yoshio Toi said "If something you are doing was real, it would continue. If you continue to do it, you would get real something ."



平成十一年十一月一日 二九五号

52 ☆ノーベル学者(野口英世と利根川進)と二つの研究所


 九九年のノーベル生理・医学賞は細胞・分子生理学者のギュンター・ブローベル米ロックフェラー大学教授(六三、ドイツ出身)に授与されます。
 ロックフェラー大学の研究所は野口英世博士が研究したところであります。この大学に博士の胸像があることは知っていましたので、一度拝見したいと思っていました。文化賞を受賞された花房秀三郎先生もこの大学の教授でした。
 大学のキャンパスでは自由に出入りできて、胸像も屋外にあるのだろうと思い、ニュヨ-クへ旅行したとき研究所に一人で出かけました。

 先ず、驚かされたのは門にいたガードマンがニュヨカーの早口の英語でIDカードを見せなさいといわれたのでした。当然外国で通用するそんなものは持っていないので当日はすごすご宿泊先に帰った。その後、その大学院学生の紹介がえられたので入ることができました。野口英世の胸像は研究所の二階への階段を登った真正面にたてられていました。見学が終わり、研究室のカフテリアで家内・長男(スロンケタリング研究所に留学中)の三人だけで、夏の終わりが近いイースト河を眺めながら、同じ日本人として誇らしさを味わっていました。

▼利根川進博士はスイスのバーゼルの免疫学研究所で研究した成果でノーベル生理・医学賞を受賞。その研究室は地下一階にありました。訪問したとき、利根川さんが研究していた部屋で京都大学からの人が研究されていました。利根川さんが使用していた当時のままの机、椅子にすわらせていただき、コーヒを飲みながら研究の雰囲気にしばらくひたりました。

 二つの研究所を訪問する機会に恵まれて、私にも想像できる研究の雰囲気がありました。

「立派な研究者はすぐれた研究室から育つ」といわれています。

 私たちが二つの研究所を訪問した時の写真を掲載しました。

平成十九年五月七日


 野口英世博士をはじめ花房秀三郎博士(文化章受章)のかたがた、多くの日本からの研究者がいます。

ロックフェラー医学研究所

ロックフェラーは初期の科学的な医学研究への最大の個人的後援者として著名である。

彼は1890年にシカゴ大学を創立し1901年にはニューヨークにロックフェラー医学研究所(現在のロックフェラー大学)を創立した。

▼野口英世とロックフェラー医学研究所の結びつき

 野口英世(1876年11月~1928年5月21日)は

 1898年、北里伝染病研究所に勤め始める。

 研究所には御多聞に漏れず東京帝国大学医学部の学閥が存在した。

 (北里の冷遇説があるが、北里柴三郎は以後も野口に対して便宜を図っており、また野口も米国より北里に多くの論文を送っていることからこれに疑問を抱く意見もある。)また来日していたサイモン・フレクスナーの案内役を務めていた際、フレクスナーに自分の渡米留学の可能性を打診、フレクスナーは半分社交辞令で応じる。1900年、渡米を決意、北里柴三郎の紹介状を手に(北里は渡米時に幾通も野口の紹介状を書いており、北里に対する野口の礼状が現存する)フレクスナーのもとペンシルバニア大学で助手の職を得て、蛇毒の研究を始める。1904年、ロックフェラー医学研究所に職を得る。この研究所で研究した野口英世(1928年5月21日)アフリカガーナのアクラに研究施設を建築。アクラの病室で死亡。

 日本人で知らない人はいないと思います。

▼アレキシス・カレル(Alexis Carrel、1873~1944)については一般の人はほとんどご存知ないかも知れません。彼については、アレキシス・カレル 渡部昇一氏訳『人間この未知なるもの』(三笠書房)1980年10月25日 第1刷発行 本が手元にある。

 それによると,P.10 ~

 彼はフランスに生まれ、ディジョン(Dijon)及びリヨン(Lyon)の大学に学び、1900年(明治三十三年)にリヨン大学で医学の学位を取得、そこで二年間、講義用の死体解剖助手をしながら自分の研究をはじめた。しかし、当時の唯物論的医学の風潮が強かったフランスの大学においては、神秘家的な素質のあるカレルの学者としての前途は明るいものではなかったようである。それに幻滅を感じたカレルは三十二歳の時(一九〇五年、明治三十八年)にカナダに渡り、牧畜業をやろうとする。幸いにシカゴ大学のハル生理学研究所(the Hull Laboratory of the University of Chicago) から声がかかってそこに勤務することになり、牛の牧場を作ることを断念した。更に幸いなことには、彼の才能がフレクスナー(Simon Flexner, 1863-1946 )の目にとまり、ニューヨークにあるロックフェラー医学研究所(the Rockfeller Institute for Medical Research)にスタッフとして招かれることになった。フレクスナーは赤痢菌を分離したり、脳脊髄膜炎の治療血清を発展させたすぐれた細菌学者・病理学者であると共に、他人の才能を見出してその業績を伸ばしてやるという研究組織のリーダーとして稀なる素質をもっていた。ロックフェラー医学研究所の設立に彼が参加し、そこで指導者の地位にあったことは、カレルのためにも、また日本の野口英世にとっても、いな医学の進歩そのものにとっても極めて幸いなことであった。フレクスナーなかりせば、カレルも野口英世もなかったことは、ほとんど確かなことであるから。

 フレクスナーの下でロックフェラー医学研究所で研究するようになってからのカレルは、魚が水を得たように生き生きとし、次から次へと大きな業績をあげた。そして六年後の一九一二年には同研究所の正会員になった。この年に彼は、血管縫合と内臓移しょくの新方法の開発によってノーベル生理学・医学賞を授けられた。

平成十九年十月三日、追加した。

追加:1
 「バーゼル 免疫研究所」 (1968年 創立、2000年 閉鎖)バーゼル(スイス)免疫学研究所が閉鎖された。

追加:2

 朝日新聞(2009.3.13)に「ニッポン 人■脈■記」感染症ウオーズ⑥ 大陸奥地にノグチのなの記事

 おそらく日本で最も知られた医学者であり、千円札の顔でもある、しかし野口英世(のぐちひでよ)の業績が、現代医学の中で顧みられることはまれだ。

 その名を冠した野口記念医学研究所がアクラにある。できるきっかけは68年ガーナ政府が日本政府に「かつて我が国のために命をかけて尽くした野口英世を縁に、医療援助をお願いしたい」と要請したことだった。
 野口の故郷・福島の県立医大がこの要請に応じた。外科教授だった本多憲治(90)が、研究、診療、教育の中心役になった。(中略)
 今、野口研は日本の手を離れ、アフリカ屈指の基礎医学研究所に育っている。(中略)
 没後すでに80年を過ぎて、野口の業績は医学の進歩のなかに埋もれている。しかし、ノグチという名は、感染症と闘う象徴として、アフリカの地で輝き続けている。

2009.3.13、2011.07.12、再読。

写真をクリックしますと少し大きい画面になります。


野口英世胸像前  

INSTITUT FUR
IMMNULOGIE BASEL



平成十一年十二月一日 二九六号

53 後楽園・曹源寺の投老軒・倉敷市の有隣荘


 私が住んでいる岡山市と倉敷市で有名なところと見落とし勝ちの隠れた場所を案内します。

▼その一は岡山市の後楽園
 この庭園のな前は全国に知られています。その名前の由来も<先憂後楽>からだといわれ、指導者の心構えを説かれています。「先楽後憂」に走っていることはないかと反省させられます。岡山城がみえます。 

▼その二は「投 老 軒」について
 岡山市の曹源寺の開山・絶外和尚の遺偈を拝観させて頂いていますと


「投老翁書之」と書かれていました。またこの寺院の池泉回遊式庭園と山を借景にしている茶室の軒下に「投老軒」とわずかに判読できるまでに古びた板木に墨書されていました。
「投老」の字句は聞いたこともありませんでした。老を投げすててしまうのか、老になりきるのか。どのように考えるのか皆様もどうぞ。

▼その三は倉敷市の有隣荘

 倉敷の美観地区を訪れた方は大原美術館と川をはさんで柳の街並に景観を添えている黄緑の屋根の美しい建物をみられたことでしょう。美術館の迎賓館として、第六高等学校(旧制)教授によって「有隣荘」と呼ばれることになりました。
 『論語』に「子曰、徳孤ならず、必有鄰」子の曰わく、徳は孤ならず、必ず鄰あり。この一章からな付けられたものだと思います。
 大原孫三郎氏の想いが伝わってくるようです。
 『論語』では「となり」の字・鄰がつかわれています。隣の本字であります。

▼皆さんの近隣の建物などにもこんなものがあることでしょう。名前の由来などを知ることも勉強になります。

平成二十五年七月十四:追加



平成十二年一月一日 二九七号

54 ☆筆まめにござ候


 一九九九年十二月十四日、日本経済新聞、文化欄「福翁は筆まめにござ候」の見出しで慶応義塾福沢研究センター所長の寄稿があった。「今残っている福沢の手紙は二千五百通以上。天災などで失われたものを合わせると、六十六年の生涯に一万通は書いただろうと言われている。残っている書簡の大部分は三十歳を過ぎてからのもの。しかも代筆はほとんどない。三日に二通以上書いた割合になる。まれにみる筆まめだった」

「JAPAN TIMES」創刊についての福沢が岩崎(弥之助)にあてた毛筆の手紙が掲載されていた。その書体を見ただけでも筆まめであったことが想像されました。現在のように通信手段が多様化している時代に福翁が生きていられたらどうされただろうか。

▼パソコン・携帯電話による電子メール、ファックスなど通信の方法の多様化に適応しかねています。ある人はパソコンで原稿を作り、それを手書きにしているそうです。手書きの文通にも親しみを捨て切れないでいられるのでしょう。私も手書きに愛着を感じています。その私がワープロで月に一度のハガキ通信を書かせていただいていますが、できるかぎり添書を書くことにより手書きへの思いを自分なりに満足させています。
「筆まめにござ候」にあやかり今年度も通信を続けたいものだとねがっています。

▼「龍吟(うな)りて霧起り 虎嘯(ほ)えて風生ず」のような節目の年でございますように祈念いたします。



平成十二年二月一日 二九八号

55 ☆うるうどし


 立春もそこにきました。今年は閏年、オリンピックの年でもある。

 閏年を念のために『広辞苑 第一版』、『漢語林』、英々辞典で調べてみた。
 1、『広辞苑 第一版』によると
 【閏年】閏のある年。
 うるう【閏】平年より暦日数・暦月数の多いこと。
 2、『漢語林』
 【閏】の解字:門+王。王は実は玉であり、財貨の意味。門内に財貨あふれて、家がうるおうの意味から、うるおう月日、うるうの意味を表す
 3、英々辞典
 leap year, leap years. A leap year is a year which has 366 days. The extra day is the 29th February. There is a leap year every four years.
leapを読むと次ぎのようなものが見られた。
leap: A leap is a large important change, increasing, or advance.

▼閏年の言葉とその英語を読み比べると似た意味があることに気付く。
 一月中旬、縁側で冬の陽を浴びながら、庭の柚子の実の鮮やかな黄色を眺めながら、特に今年は日本も景気回復して、「家がうるおう」と同時に個人ももちろん大きく変化して進歩したいものであると。



平成十二年三月一日 二九九号

56 ☆耐える


 岡山では二月中旬ころから梅が咲きはじめました。
 「梅寒苦をへて清香を放つ」といわれています。
 春は空からやってくると詠まれていますが、春の色になってきています。

▼二月中旬、曹源寺まで散歩にでかけたところ、総門の両側の土塀の修理、瓦の葺き代えをしていました。三人の方々が仕事をしていたのでその様子を立ち止まって見ながら、親方と話をしました。
 「いい瓦ですね!」
 「淡路産では二千二百度くらいで焼いている耐寒性のものだよ」
 「ほほ、そうですか」
 素人の私にも瓦の締まり具合、いぶした光り具合にひかれた。
 曹源寺は一六九八年に創建されている。門の瓦は約三百年以上も雨風にさらされてきたのだろうか?

▼かたいものの例えに「金鉄の如し」と言われますが、金の融ける温度は一○六三度、鉄は一五三五度。これらの金属が融ける温度より遥かに高い温度で焼かれているのには驚かされた。

 梅は寒さで香を放ち、瓦は高い温度で寒さに耐えるものを作りだしている。さて人間はどうだろうかと……。



平成十二年四月一日 三〇〇号

57 ☆ウグイスの初 鳴 日


 三月十二日の日曜坐禅会の茶礼の席のことでした。
 老師が手紙の時候の挨拶にウグイスが鳴き初めたと書こうとされたところ、今年はその声を聴いていないので困りましたと話されていました。

  ▼「ウグイスの初鳴き」は『理科年表』の中の生物気象にウグイス初 鳴 日が記載されています。広島・三月九日、神戸・三月十二日など各地の初鳴き日。そこで岡山ではその中間の三月十日から三月十一日ころだろう。

 三月十三日、岡山気象台に問い合わせたところ、岡山では今年は三月二日に初鳴きがありましたとのことでありました。

 ついでに

「理科年表に記載されている『ソメイヨシノ開花日、満開日』は何を規準で決められるのですか?」と、尋ねました。

「数輪咲いた日を開花日とします」

「満開日はどうですか」

「八割咲いたころをその日とします」との回答。この電話によっていつか聞いていながら忘れていた記憶がよびもどりました。

 長期にわたっての開花日などの観測の記録が気温・降雨・日照時間・風などの気象と関連して役にたっているのだろうと・・。

補足:生物気象には:ウメ開花日・ウグイス初鳴日・ツバメ初見日・ソメイヨシノ開花日・ソメイヨシノ満開日・モンシロチョウ初見日・ヤマツツジ開花日・ノダフジ開花日・ホタル初見日・サルスベリ開花日・アブラゼミ初鳴日・ススキ開花日・イチョウ黄葉日。イロハカエデ紅葉日が掲載されている。

▼記録の継続を私どもにあてはめて考えると、例えば毎日、どんな本を読んだかを記録しておくと、自分の読書の傾向を知ることができる。また、風呂上がりに体重を測定記録しておけば健康についての目安となるのでは。

 豊中市にお住まいの尊敬している先輩は「失敗の記録」を始められたそうです。「自らの失敗を客観視することができ、また失敗のストレスも消えやすく面白そうです」と書かれていました。

 東京のK氏は自宅の庭の草花について記録を続けています。一昨年、昨年と比べて今年の春の庭の花にきっと何かを感じられていることでしょう。



平成十二年五月一日 三〇一号

58 ☆世界地図と地球儀


 知人がヨーロッパに出張しているのでその行き先を調べるために、世界地図『新詳高等社会科地図』(帝国書院編集部)をみると面白いことが書かれていた。表紙を開くと・世界の国々の地図がある。日本をほぼ中央にしたものである。

▼その地図の下部に、・マッカーサーの世界地図(オーストラリ人の考えた地図をもとに作成)が記載されていた。
「北半球を上にし、ヨーロッパを中心にして世界地図を描くと、オーストラリアは地の果てにあるように(P4「海上交通と鉄道網《図参照)。しかしこの図では、オーストラリアは世界の中心にあるように見える。このように、世界地図の描き方は、世界の見方に影響を与える。」と説明されていた。
 この図は南極を上にして、オーストラリアを中央にしている。 
「海上交通と鉄道網」の図を見ると確かに南の地の果てにあるように描かれ、極東といわれている位置にある。

▼アメリカで買った「THE WORLD」の地図ではNORTH AMERICAが中央に配置されている。
 地球儀ではどうだろうか。球体であるから球面上のどこでも見るところを正面にすれば、その点が中心になり左右に世界の国々が見られる。世界のある国で何かが起これば、そこを眼の前に回して日本とどんな関係位置にあるかもつかめる。

▼グローバル化が各方面で行われている。IT革命とも関連して情報が二十四時間休みなく、瞬時に駆け巡っている。こんな状況で大局的に世界をみるには、地図帖ではなくて少し大きな地球儀を回転させながら考えなければならないのではとおもったりした。しかし細部を知りたいときには地図帖の役目がある。人工衛星での観察に思いが飛んだりもさせられた。

 不易なものと変化すべきものとのと区別がしっかりできないかぎり混迷のなかに埋没させられるのだろう。



平成十二年六月一日 三〇二号

59 ☆今日は何の日


 五月二十五日、あるテレビ番組が「今日は何の日」として、『広辞苑』の発行日を取り上げていた。

 現在の第五版は二十三万語が掲載され、第一版から五版までの発行部数は一千百万冊となるそうだ。

▼『広辞苑 第一版』以前は『辭苑』として発行されていたとのこと。
 私の手許には『広辞苑 第一版』のみである。
 昭和三十年五月二十五日 第一版第一刷発行 広辞苑
 昭和三十九年八月一日  第一版第十三刷発行 定価二三00円
と書かれている。購入したのは、昭和四十年一月十七日(三十五年昔)。
 たしかに『広辞苑 第一版』が発行された日は五月二十五日である。

▼発行担当者の話では、辞書の厚さはいまのものが限度で、語彙の数を増やすにもいろいろ工夫をこらしている。使用の紙を薄くしてページ数を増やす。さらに新しい言葉を採用すれば、誰でも分かる言葉は割愛するなど。

▼最近、私は『広辞苑』でその採用の一語に出合った。
 ワープロ文章の中で「たいきょくけん」を「大局拳」と使っていた。
 知人から「太極拳」だと指摘された。
 早速、その確認と解説を知りたくて『広辞苑 第一版』をひくと見当たらない。そこで近くの本屋に立ち寄り、最新の第五版(一九九八年十一月十一日)を開くと載っていた。
「中国の拳法の一。陰陽極の理に則ったもの。ゆるやかに円を描く動作が主。陳式・楊式などの派がある。現代では身体鍛練・精神修養のため盛行」
 この説明で、「太極拳」を「大局拳」と書くことは今後ないだろう。陰陽極の理の言葉が頭に叩き込まれたから。

▼十年一昔といわれる、『広辞苑』も約十年で版を改め、時代に対応しているようだ。



平成十二年七月一日 三〇三号

60 ☆遊 び…パソコンのキーボードの打ち込み方


 パソコンのキーボード打ち込みは、多くの人が両手打ちをすすめている。
 私は右手しか使えない。その上、中指一本だけでの打法であった。

▼パソコンでのワープロの打ち込みの場合、職場での文章の打ち込みなどを頼まれたときにはその速さと正確さが要求されるだろう。私は自分で文章を作り、推敲添削をくりかえすので打ち込む速さはまったく気にしていなかった。ところが、その指の節が痛くなり、その他の指も使えば負担も軽くなり速くなれば一挙両得ではないかと思うようになった。

▼楽器などで指の運動を練習したこともないので五本全部を動かすことは簡単にはできない。とりあえず人差し指と中指の二本にした。 
 ともかくも自分でためしてみよう。そのうちに指の運びにもあるパタンができ上がり、経験則らしきものを見つけるだろう。約二週間の試行では、中指の負担も軽く、打ち込みも楽で、速くなったようだ。画面だけをみての打ち込みは出来ない。その訳は片手であるために両手打ちのように両手の位置をある程度固定して指だけの打ち込みができないから。

▼私はローマ字打ち込みをしている。ア行を除くka・ki・ku・ke・koなどと二字目のうちこみはア行であることにヒントがあるのでは。
 私の場合、a・i・u・e・oの各々の始めのローマ字がキーボード上でその右にあるか左にあるかにより、それぞれ右指(中指)から、あるいは左指(人指し指)から使い始めている。例えば、「か《であればkがaの右にあるから右指から。なんだ、そんな、たわいのない! と人様からみればなんでもないことでも、やっている本人はそうでない。無駄のない指の使い方をしているものだと気付く。おおげさにいえば頭脳の働きは自分では考えもしないことをしているものだと。だと。いことをしているものだと。



平成十二年八月一日 三〇四号

61 ☆岩清水


 岡山駅から西大寺への県道にある私が乗降するバス停の直ぐ北側は、操山の東の端に近い、里山になっている。その山道は私の好きな散歩の道である。

 里山へ上り始めると、少し急な坂道がある。左右は竹林や雑木で囲まれている。七分間も上れば、南側には展望の開けた花畑があり、その遥か彼方には児島半島の峰々が連なっている。天気によって多彩な姿を見せてくれる。背後は、お瀧山のな前のように岩盤があらわになった部分があり、古くからのお話ではその岩の面を水がながれていたそうだ。今でもわずかであるが水がにじみでている所がある。現在はその岩盤の下部に十五・位の鉄棒を差し込んで、その下に瓶でうけている。

 私は散歩の途中に何度もそこに立ちよっていたが夏の早朝の散歩中にこの清水の流れ出ている量を測ろうと思いついた。
 測定のための道具はプラックス製のコップとストップウォッチ。期間中の気象条件は新聞記事によることにした。

▼七月二十日から三十一日の平均の量は約1・/1秒。二・のペットボトルで約四十三本も一日に流れ出ていることがわかった。思ったより多い。外気の温度と流れ出す量の関係は測定開始してから短いからまだわからない。

▼今回、測定したものは小さい森の山の保水量のほんの一部の漏れ出した量だろう。測定期間中、ものすごい夕立があったが短時間のうちに山道での水の流れは止まった。こんな小さな山の森でも腐葉土に覆われ雨水を保水して木々を育て水の貯水タンクの役目をしていて、山全体として水の浄化をしているようだ。都市の街路は舗装され、大雨が降れば洪水が多くみられる。山の樹は倒され、崩れていることがどれだけ私たちの日常環境を悪化させているかこの簡単な測定だけででも私には考えるきっかけになったようだ。

 子供たちの夏休みの宿題のようであるが自然環境と生活の関係の一端をしることができた。



平成十二年九月一日 三〇五号

62 ☆倉安川―くらやすがわ


写真をクリックしてください。

 私が住んでいる近くに小さい倉安川が流れている。田圃の用水路としか考えていなかった。最近、その歴史の写真の掲示板が川のほとりに建てられた。

▼倉安川は延宝七年(一六七九)池田光政が津田永忠に命じ、岡山県の吉井川と旭川を結んで開削させた延長約二十Km、幅約七mの水路です。倉安川には大きく灌漑用水路としての機能と舟運のための運河としての機能の二つがありました。
 灌漑用水路としての役割は、新たに開発された倉田新田及び沖新田への用水供給という役割を担ってきました。用水の配分は番水制によって管理され、現在においても継承されています。
 倉安川の運河としての役割は、岡山の城下町への年貢米等の運搬路として高瀬船などの航行に供されていました。また、池田光政が江戸からの帰途和気郡坂根村から船に乗り岡山の城へ帰ったこともあるそうです。
 この川は、はじめ新川とも称されていましたが、津田永忠の意見により、倉安川と命名されました。
 倉安川沿いには、常夜灯、高瀬廻し、かわいち(川へ降りる階段)、船頭道(船を引くために設けられて通路)、休憩のための日陰の役を果たしていた栴檀の木など往時の面影を偲ばせるものも所々に残されています。
 私達の祖先の生活を育んできた倉安川の三百年の歴史を大切にしながら、守り育てていく必要があります。
 岡山県・岡山市

▼秋にもなり涼しくなれば、古老に案内してもらって現状を確かめてみたい。幕藩時代、民主制時代の歴史的背景の相違があるにしても政治担当者の実行力などについてかんがえさせられる。十年後評価される事業はよい企画であろう。二十年たっても評価されるのはさらによい計画であろう、ましてや三百年以上活用されているのは凄いといわなければならない。

追加:旭川から倉安川への取水口から私が住んでいる町まで、古老のお話を聞きながら自転車でみてまわることができました。



平成十二年十月一日 三〇六号

63 ☆ドップラー効果


 ある日、公民館で若い人たちと雑談していると、高校の物理が話題になった。その一人が、覚えているのは「ドップラー効果」であると。

▼遠くの方から救急車のサイレンの鳴る音が聞こえ、近くなると大きな音になり、遠ざかると小さくなる。
『音源や観測者が近づいたり、遠ざかったりすると、振動数が異なって聞こえます。この現象を「ドップラー効果」といいます』と教科書には述べられている。

▼この物理的現象を自分の学習活動にあてはめて考えてみても同じことがいえるようだ。

 一 たとえば講演会が開催されるとすれば、参加すれば音源が近づいてきているのだからより振動数が異なった印象に残るお話を聞くことができるのではないか。

 二 自分の尊敬する人にできるだけすすんで近づけばきっと立派な音源をもっているに違いないから、その人に接すればこれまた振動数が異なったことを聞くことができるではないか。

「ドップラー効果」も物理で音速・波長・振動数などで計算して説明されてもなかなか理解できないものだが、以上のように考えられないだろうか。

▼日曜坐禅会への参加は私の「ドップラー効果」の応用だと感じている。
   季節は秋 みなさん十分にお楽しみください 



平成十二年十一月一日 三〇七号

64 ☆花 托


 初めて知った言葉でした。
 今年の夏、曹源寺の総門を入ると山門までの間に放生池がある。その中央に石橋が架かっている。右側には毎葉蓮(紅蓮系の普通種)、左側には太白蓮(白蓮系の大形種)が植えられて、葉、蕾、花、花托へと移り変わるのを毎日、朝と夕方に見ていました。

 蓮は種から成長して根茎になり、一節、二節と、伸びながら節のところに髭の様な根を作り成長する。はじめの一節、二節から出てくる葉は水面に浮かぶ浮葉になり、三節目から背の高い立葉になるのだそうだ。
 蕾の期間は約一週間前後で、開花は約三日であった。二日目が全開で見栄えがします。そして三日目くらいから花びらが散っていきます。そのあとには薄緑色のシャワーの先端の逆三角錐型のものがながい柄の先に残ります。これが花托です。

▼花托:「花梗の頂端にあって花の諸部分を着生する部分。花床」と説明されています。
 この言葉は、なんとよい言葉でしょう。素直に読んでも「はな托す」。
 蓮の花を見ていると開花時には長い花梗の頂端にあって、花托は花の中心にあります。周囲に雄蕊が取り囲み、そのさらに外側に蓮の美しい花びらが取り囲んで花の世界を作っています。開花が終わると、花びらが散り、薄緑から黄色へ、さらに褐色へと。花梗も同じ色に移り変わります。
 ありのままの姿、次ぎの世代の花に托す変遷をあますことなく、人間の考えを超えた力を感じさせられます。

「かたく! かたく! かたく!」と唱えると聴こえてくるものがあるようです。



平成十二年十二月一日 三〇八号

65 ☆日曜坐禅会―年末の行事


 曹源寺での日曜坐禅会の年末の行事として普段の坐禅に大掃除が加わる。
 平常通り、朝八時から九時まで、本堂で坐禅。その後、当日の参加者全員と修行者たちが数班に分かれて、修行者(ほとんど外国の人)の指示のもとに三門、本堂、開山堂、経堂、鐘楼、鼓楼、書院などの建物の掃除。本堂の裏の丘には池田家のお墓がある。多くの木々に囲まれ、また植木もあるから落葉、枯枝などの掃除片付けを行う。約五十人の大掃除。

▼一時間半程度で掃除が終わると、準備されたお湯で手を洗い、一同、小方丈に集まる。普段であれば座布団も並べらた、小方丈での茶礼に抹茶とお菓子を頂いていますが、特別に善哉と漬物、蜜柑の接待を受ける。昨年はドイツからの修行者の一人(正恵さん ShoEさん)のお母さんから送ってこられた小豆によるもので、まさに国際的。

▼日常は修行者たちにより、総門からの境内の掃除が行き届いている。竹箒の目がたっ歩道を歩かせていただいているのであるから、年間ただ一回の掃除作務くらいは、日曜坐禅の私にはせめてと思う。
 今年の年末の日曜坐禅会は大晦日である。
 どこの家庭でも大掃除と同時に正月の準備もあり忙しいことでしよう。ともかくも、こころの掃除もして新しい年を迎えたいものです。

 ハガキ通信を読んで下さりありがとうございました。



平成十三年一月一日 三〇九号

66 ☆新世紀初年と十干・十二支


 二〇〇一年 新世紀を迎える。
 日本の年号では平成十三年。十干・十二支では辛巳(かのとみ)。
 一月一は甲子(十干・十二支の最初の日)である。

▼今年、生まれた人は「巳どし生まれ」だと、私どもは、十二支を使っている。歴史では「戊申の役」などを教わった。そのほかには日常的にはあまり使われない。
 これ等は、中国で、一般に順序を示す記号として用いる(現在ではどうか知らない)。この組み合わせで、年や月や日を表わした。

▼十干・十二支のような古いことを持ち出すのはどうかとも想えるが
 今年の辛巳について司馬遷の『史書』を読むと、
「辛」は万物が新生する意味で辛という。
「巳」は十二支において巳にあたり、巳とは陽気が巳(みな)つきはてる意味である。
「万物が新生する」と「陽気がみなつきはてる」の説明を組み合わせは一体どう考えればよいのだろうか。まったく矛盾した説明であるようだ。

▼陽気がみなつきはてると極陰といえる。やがて陰の極は陽に転じ万物が新生して将来の発展につながるのだろうか。万物は流転してとどまるところを知らずといわれている。浮き沈みは人の世の常であると自覚して自分自身がそのときその場での最良の対処を教える年であるのだろうか。あるいは、節目の年を表わしていると考えるのだろうか。

 皆様には「辛」の年であることを祈念いたします。



平成十三年二月一日 三一〇号

67 ☆自分の話し方を聞く


 自分の表情は鏡で見ることができる。人と対話しているときはどんな様子なのか。明るいか、それとも暗いものなのか。話す速さは、受け応えなどは。

 対面しているときと電話での話す聲の様子は違いがあるかも知れない。いずれも、自分の話す聲は耳に入っているからこんなものだろうと、自分なりの見当をつけている。電話でのやりとりを録音して聞くと、どんな話し方をしているか意外な発見がある。

▼まず、自分の聲が自分の聲ではなくて、他人のもののようである。妻に聞いてもらうとそっくりだという。録音する機器によって少しくらいの変化があるとしても自分で想っている聲と受手が聞いている聲に違いがあるのはどうも事実のようだ。

▼ある日の電話で録音を聞くと、相手の言われたことを何度も聞き直している。耳が遠くなっているためか聞き取りにくくなっているようだ。また、問われもしないことをこちらから話している。そのうえ、話しがくどくなっている。自分の欠点に気付かせられる。
 こんな自覚ができるうちはボケは大丈夫だろうと自分で慰めているが、恥ずかしいことである。
 電話でのやりとりに限らず、対話には自分から話すのは少なめにして、相手が話し終わってから、手短に要領よく的確に話すようにこころがけたいものだ。相手が話すのが七割、自分は三割くらいが適当かもしれない。

 時には、良寛さんの「戒語」をよんで反省しなければと。



平成十三年三月一日 三一一号

68 ☆心配と心労


 ある日曜坐禅会の定刻(朝八時)より少し前、私の座のすぐ前に女性が坐る。坐禅の姿から初めての体験だとお見受けしました。
 坐禅会が終わり、なんとなく話したい様子なので、庭園で話しましょうと、親しくしていただいいる先生とごいっしょに。

 貴方が「こられた動機はなんですか」とききますと

「中学で教えていますが、悩みがありまして、坐禅でえられるものがありはしないか」と。

「中学ですか、担当教科は?」

「H中学校で国語を教えています。三年になります」と。

▼(こころくばり)をしても心労はしないようにとのお話を曹源寺での毘沙門天祭で老師から祖母が聞いて参りましたの。私は心配は不安と同じ意味にしか思っていませんでしたので、もう少し詳しく老師から伺いたいと思っているのです。

 「こころくばり」は、人様からうけているものにはなかなか気付かないものです。たとえば親の苦労は自分が子供をもって初めて気付くなどと耳にします。自分で人に何かをする時には、これほど気をつかっているのになぜ応えてくれないのかと愚痴がでてきます。自分が誰かにしていることにたいして、求めるものがあるものです。相手からなにも求めないこころくばりはできないものか……。

 禅にこられた人から「こころくばり」について考えさせられた日曜日でした。


▼補足1:17年7月にH.A.さんからのたよりのなかに、斉藤茂太さんがかかれた『「心のハードル」を低くしてみよう』のコピーを送られた。参考までに抜書きします。

 努力をするのは「良い心配性」。心配をしても仕方ないないことを、クヨクヨと思い悩むのは「悪い心配性」です。「もし○○だったら……」と先のことを考え、最悪の事態に備えることは大切ですが、心配が頭から離れなければ気持ちが暗くなるだけです。

 今年、私は九十歳になります。この歳になると、さすがに体に不具合がいろいろと出てきます。前立腺肥大の手術を二回、膝にもガタがきています。この先も、老化によってさまざまな症状が出てくるでしょう。だからと言って心配をしすぎるのは、よけいなストレスを溜め込むモトです。歳を取れば、体が思うように動かなくのは当たり前。クヨクヨと悩んでばかりいては、一度きりの人生を楽しく生きられません。(中略)

 【人間は心配する動物】
 クヨクヨ悩んでいる人に効くクスリをもう一つご紹介します。それは「ありがとう」と声に出すことです。感謝の気持ちは、心を穏やかにし、自分も周りも幸せな気持ちで包んでくれます。私自身、いまだに心配事はたくさんあります。ですが、「心配をありがとう」と思うと、不幸な気持ちから抜け出せ、うまくいく方法を考える力が湧いてきます。

 もともと、人間は心配をする動物です。どうせ逃れられないのですから、「心配」を「心配り」に変え、人生をより良くするためのエネルギーにしてしまいましょう。そうすれば、気持ちも楽になつて、毎日楽しくなります。
平成十七年七月十一日記す。 
▼補足2:参考
 松原泰道『禅語百選』(祥伝社)P.170 を見ますと
 72 心配  心を配る


 三島市竜沢寺に住した山本玄峰師(一九六一年没)は、近代の高僧の一人です。逸話の多い禅僧ですが、人生の神髄をうがった多くの発言があります。「心配」もその一つです。「心痛はしてならぬ。が、心配は大いにせよ!」と。「心痛」は心を痛めることだから、益のないことです。しかし「心配」は心を配ることだから千々(ちぢ)に砕いて配らなければならぬ、と言われるのです。つまり、知恵と慈悲とが一つに溶けた行為の実行をすすめるものです。

 師はまた「人には親切・自分には辛切(しんせつ)・法(仏法・真理)には深切(しんせつ)であれ」と、心配を展開されます。徳川後期の儒者佐藤一斎の「春風をもって人に接し、己を律するには秋霜もって自からつつしむ」(言志晩録)の言に相応します。しかし、「法に深切」は、師にしてはじめて言える至言です。真理に接するには、できるだけ深く心を配ることです。心は痛めてはいけない、心は執(とら)われてはならない。ころころと流れるように配らなければいけない。(後略)

▼山本玄峰師と松原泰道師についてのインターネットの記事より

 山本 玄峰(やまもと げんぽう)1866年(慶応2年)~1961年(昭和36年)本宮町 生まれ

 象徴天皇を鋭く示唆した高僧

   湯峰温泉の芳野屋(現:あづまや旅館)に生誕、遺棄されていたのを岡本夫妻に救われ、芳吉と命名され養育される。13歳から、家業である農林業を手伝い始め、16歳で筏(いかだ)流しとなって熊野本宮と新宮の間を往復。17歳の頃、岡本家を継ぎ、結婚する。
   19歳の時、目を患い闘病生活を続けるが、失明を宣告される。失意の中、弟に家督を譲り、妻と離婚して僅かな旅費を持って新潟・北陸と流浪の旅へ出る。7回目の四国遍路88カ所の霊場巡りの時、33番臨済宗のお寺「雪渓寺」の門前で行き倒れとなったところを山本太玄和尚に助けられ、その弟子となり厳しい修行の道に入る。25歳で出家し、玄峰の号を受け、明治34年、太玄和尚の養子となり、「雪渓寺」の住職となる。

 再度、京都の圓福寺で宗般老師のもとで7年間の厳しい修行を受ける。翌年、龍沢寺の住職となり復旧に着手。さらに松蔭寺の住職を兼務した後は、アメリカ、イギリス、ドイツ、インドなどを歴訪。他にも様々な寺の復興に力を注ぎ、昭和11年旧満州国の新京(現在中国の長春)に妙心寺を開創する。

 昭和20年、「終戦の詔勅」にある「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の文言を進言。また、新憲法における天皇の地位については、「天皇は空に輝く象徴みたいなもの」と、天皇の権力で派閥の抗争を始めることを戒められたという。亡くなる直前の昭和36年、「玄峰塔」の大字を揮毫(きごう)する。

参考:明治24年 26歳 初めて雲水として修行に出る。滋賀県・永源寺、神戸・祥福寺岡山・宝福寺、岐阜・虎渓山に掛錫、あわせて11年間修行する。

補足3:参考
『松原泰道の説法人生』~はじめにから~

 七十年間の布教の旅には、じつにさまざまな出来事や出会いがありました。なかでも、私に仏道のなんたるかを知らしめてくださった「生涯の師」と仰ぐ七人の恩師を忘れることができません。今はすべて故人になられました。まず第一の師父(師であり父である)実父の松原祖来、次に得度の縁をいただいた松原盤龍老師、それから僧堂修行の師であった浜村精道老師、布教の心を教えていただいた後藤瑞厳老師と柴田全慶老師、そして、「心の師」と仰ぐ山本玄峰老師の六師、そして私を世間にデビューさせてくださった、奈良の薬師寺の高田好胤和上の七師です。

 特に、私の“布教人生”に大きな影響を与えていただいたのは臨済宗妙心寺派管長を務められた三島龍澤寺の山本玄峰老師です。「法は人のためではなく、自分のために説くのだ」と常に教えられました。「たとえ聴く人が一人もいなくても、壁や柱が聴いている。そして自分自身、松原自身が聴いておるではないか」と厳しく諭されました。この老師の言葉は布教する上で非常に大きな心構えになりました。

 私は今、『生涯現役、臨終定年』を、“人生の杖”ことばとしています。生かされて生きるこの「いのち」を、いかに使い切るか、それが修行であると、信じております。
平成十八年四月十二日、平成二十三年三月十九、平成二十四年六月十五読む。



願はくは われ春風に身をなして 憂いある人の門をとはばや
平成十三年四月一日 三一二号

69 ☆早春に想う


〽願はくは われ春風に身をなして 憂いある人の門をとはばや:この一首は、明治・大正・昭和を通じて和歌の大家とたたえられています佐々木信綱(一八七二~一九六三)の第一歌集『思草』に収録されています。信綱の三十二歳のときの作品です。

 一首の意味は、『(信綱は)春風の陽に憂いを抱く人の胸を訪れて、歌を作ること、楽しむことの慰安を差し上げたい―』というのです。信綱が歌うように、古来彼ほど和歌を広めた人は居ないといわれます。

 しかし私はこの一首を和歌だけでなく心に憂いを持つ人を慰める、広い布施行とくに『無財施(資材がなくてもできる布施であり、しかもその功徳は金銭では評価できない布施)に拡大して学びます。一言でいえば『和顔愛語(なごやかな笑顔と慈愛に満ちた言葉)』を、身近かに出会う人たちに差し上げる実践です。と松原泰道さんは述べられています。

▼だれが、いつ、どこで、どのような状況で和歌が作られたかを知っている人とそうでない者とでは歌の味わいは変わることが推しはかれます。また、鑑賞する人の立場でも受け取り方は様々です。 〽願はくは 花のしたに春死なん その如月の望月のころ
 この和歌の作者が誰であるか関係なく想いをめぐらしてはいかがでしょう。



平成十三年四月一日 三一三号

70 ☆老いと人との交わり


 佐藤一斎は、四十二歳の時に『言志四録』の中の「言志録」五三に次のように述べている。

▼口語訳にすると

 自分の父、今年、齢八十六、側に人が多い時は、気分がよいのか壮健で生き生きしているが、人が少ない時は、気分が落ち込んでいる。私が思うには、子や孫、男も女も同じ体と気力であるから、それによって心を安らかにしているものは同じである。ただしこれだけではない。老人は気力が乏しい。人の気力を得て自分の気力を助けると、一時、気力と体が調うのは、ゆたんぽ、薬味を飲んだのと同じである。以上のことは、人が多いのを愛して人が少ないのを愛しない理由である。悟ったことは、王制に「八十、人に非ざれば煖ならず」とは、蓋し人の気を以て之を煖むるを謂うなり。あたためていることになる。体のふれあいによるのではないと。

▼かって、私は伯母(恒松政代:父の妹)にいわれたことがある。

「時々は、家に帰ってやれよ。お母さんが淋しがっているよ」

当時は私も若くて、母親の気持ちを察することができなかった。しかしそのころはいまほど核家族化していなかったから数人が家にいて、ある程度の家族のだんらんが老人の気分を明るくしていただろう。それでも親元を離れている子供のことにこころを配ってくれていたであろう。

▼現状は核家族が多い。老夫婦二人の世帯が多い。したがってテレビ、ラジオ、新聞を見たり聞いたり読んだりしている。また、自分の趣味に励んだりしている。これでは気力が充実できないのではないだろうか。 

 人との接触に努める方法には様々あろう。親しい人と文通により慰めあうこともその一つであろう。

※平成23年、妻に先立たれて以来、一人暮らしである。以上の記事を読み身につまされて、故郷のある西を見る。平成28年9月18日



平成十三年五月一日 三一四号

71 ☆あなたの心に残っている人は


 どなたもこれまで家族、親戚、学友、職場での人々など数え切れない人たちと出会ってきたでしょう。この人たちのなかで自分のこころに深く残っている人は、はたして何人いるだろうか、書きあげてみてください。あの人、この人と多くの人がいる方、また数少ないが本当にあの人は忘れることの出来ない人だと想われている方、様々でしょう。

▼次は、現在の自分の心に残っている人のなかから選ぶのは難しいことでしょうがあえて三人ないし五人に限定してみて下さい。
 その次はその選んだ一人一人について、なぜ私の心に残っているのだろうかと考えられるだけの事柄を羅列してみて下さい。たとえば、自分が困っていたとき助けてくれた、自分の悩みをよく聞いて相談にのってくれたなどと。
 この作業が終わると、羅列した事柄に共通するものはなにか整理すると其の人たちには必ずなにか素晴しいものを持っていることに気付かされるとおもいます。

▼「あなたの心にのこっている人」になられた人の人柄・行動は何だったのか、また、この手順を通して何を感じられたか、お手数をかけますが、お暇があったらお知らせいただければありがたいことです。



平成十三年六月一日 三一五号

72 ☆『論語』を読んで-――後生への期待

 『論語』巻第五 子罕第九」に次の四章が続けて書かれていた。

子の曰わく、これに語(つ)げて惰(おこた)らざる者は、其れ回なるか」 

「子、顔淵を謂いて曰わく、惜しいかな。吾れ其の進を見るも、未だその止(や)むを見ざるなり」

子の曰わく、苗にして秀でざる者あり。秀でて実らざる者あり

子の曰わく、後世畏るべし、焉(いずく)んぞ来者の今に如(し)かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯(こ)れ亦た畏るるに足らざるのみ

▼『論語』の読み方は人様々であり、それぞれの読み方でよいと思っている。私は一章ずつを箴言として読んでいた。今回、たまたま子罕第九」」の上述の四つの章は続けられていて、筋道の通ったひと続の短いまとまった文章のように思えた。

 全体として起承転結の文章になっているからではないかと気付いた。まず、<起>として回(顔淵)を取り上げ、<承>にその人物はいかなる者であったか。<転>に苗の優劣と成育をとりあげ、<結>として四十五十歳までの生き様を説いていると。

 孔子の優秀な弟子にたいする期待がひしひしと伝わってくるものが体内にながれているようだ。



平成十三年七月一日 三一六号

73 ☆ハス―其の―ハスの名称


 ハスには大賀蓮をはじめとしてその品種がたくさんあり、その品種に名前がつけられています。

▼ハスといえば仏様の花と感じるでしょう。ある資料では約百種のものがある。その名前の一部を紹介すると、瑞光蓮、妙蓮、輪王蓮、一天四海、真如蓮、天竺斑蓮、天上蓮、天女蓮、仏足蓮、白光蓮、法華蓮、香炉蓮などがある。その他には招提寺蓮などお寺のな前のものなどもあり、ほかには王子蓮、皇妃蓮、アメリカ蓮などもあります。

 近所のお寺にうえられていた瑞光蓮は六月末に咲いて三日の花の生涯をおえました。風に吹かれて花びらが一枚、一枚と散る様はかっての若い純粋な先輩パイロットたちの散華をおもわせらる。

▼ハスに限らず、バラにしても種類が多くて、それぞれの名前がつけられている。私どもにも名前がある。子供が生まれると両親をはじめ関係者が赤ん坊の将来の健康、幸福、知恵を願って子供の未来に思いをはせてああでもない、こうでもないと考えに考えて名付けている。

▼国には国の花がある。日本はヤマザクラである。英国はバラ、インドはハスだそうだ。お釈迦様生誕、仏教を説かれた国であることも関連してか、ハスの品種の名前にその教に結びついたものがつけられているのが多いのも納得ができるようだ
 来月はお盆になりますので、次号もハスについて書きます。

Link:花 托



平成十三年八月一日 三一七号

74 ☆ハス―その二―ハスの葉が水を弾く理由


 栗田 勇著『花を旅する』(岩波新書)に、
「蓮への思いの源流」の表題のなかに、
「では、古代から人々の蓮への深い思いの源流はどこからきたのでしょうか。それには三つあると思います」。

▼一つは、泥、汚れた水の中から、非常に清らかな花が咲く。つまり汚れることがない。

 もう一つは、葉が水をはじく、つまりとらわれることがない。この二つのシンボルがあります。

 もう一つのシンボルが、連根でも種子からも繁殖する力、生命力の強いエネルギーです。蕾と花は男性的とも女性的シンボルともされている。 

 昔からこんな想いをもって、花が観賞されていたようでした。


 私は「蓮の葉が水をはじく」現象に理科的な興味にひかれた。知人が「蓮の葉の表面には短い毛が密生しているから、葉の上に水がかかっても転がり落ちるのだ」と教えてくれた。

▼葉の表面の実際の様子を目で見たくなる。肉眼でも、手で表面をさわっても、そのからくりを想像することさえできない。そこで電子顕微鏡でみたらどうかと思いつき、クラレ株式会社の研究者村上修一君に依頼すると(2001.05.21)、こころよく引き受けてくれました。

▼さすがに走査電子顕微鏡だ。たしかに葉の表面に小さい突起物が約0.015ミリの高さのものが同じ約0.015ミリ間隔で無数にあり、さらに、短い針状結晶様の物が全表面を覆っている。溶剤のアセトンで表面を洗うと結晶物はなくなり、濡れるようになる。その物質はワックスだそうだ。

▼ワックスで覆われた無数の突起物の上に水が乗っても水の表面張力のために真球状になって水滴がボール球がなり弾けて流れおちることがわかった。         

★村上修一君の手紙(2001年07月01日):蓮の葉の電子顕微鏡観察について:さて、蓮の葉(表面)の走査電子顕微鏡写真を撮りましたので郵送させていただきます。ご査収ください。

 葉の表面には写真のような突起構造があります(気孔もみえます)。その突起構造は、太さ約8μm(5~10μm)、高さ約15μm(10~20μm)、間隔も約15μm(10~20μm)と、比較的高く、等間隔に配列したものです。電顕で観察するには乾燥しなくてはならず、このときに組織が多少収縮しますので正確な寸法ではありません(固定処理などを行っておりますのでかなり収縮は抑えているつもりです)。葉の表面を拡大してみると短い線状のものが全面を覆っています。これがワックス成分だと思われます。アセトン中に浸漬しますとこの線状のものは溶けて消失し、撥水効果もほとんどなくなります。

 しかし、蓮葉のうえの水滴は真球状となって非常にころがりやすいのが特徴です。この高い撥水効果は、このワックス成分と表面の突起構造による相乗効果と思われます。すなわち、水滴はその表面張力によって突起構造のうえで真球になりやすいのではないかと考えられます(添付図のようになっていると思われます)。

 睡蓮と比較するとおもしろいと思いますが、まだ採取しておらず観察しておりません。時間の合間をみて観察していますので、もうしばらくお待ちください。大変おもしろい観察試料の提案ありがたく思っています。


睡蓮の葉の表面 45度 傾斜して撮影

睡蓮の葉の表面

里芋の葉の表面 45度 傾斜して撮影
                
里芋の葉の表面

★村上修一君の手紙(2001年08月06日):睡蓮の葉と里芋の葉を観察しましたので写真をお送り致します。里芋の葉には蓮の葉と同じように板状のワックスが非常に蜜に存在しています。突起物はなだらかで低く間隔もも広いようです(乾燥で潰れているところがあります)。睡蓮の葉の突起物には蓮や里芋の葉にみられるたような板状ワックスはありませんし、突起物の間隔も広くなっています。実際、撥水作用は蓮や里芋の葉に比べるとかなり劣ります。

 何時か、これら一連の観察結果が研究開発のヒントになったらよいなと思っています。

 高松城跡の蓮を見に行きました。ハガキを読ませていただき蓮への愛着を感じるようになりました。ありがとうございました。

 栗田氏のエピソードでは、

「蓮の蕾が開く時、ポンと音がするか」ということで「明け方近くまで飲んでいたあと、忍ばず池まで行き、そこで一杯やりながら待っていた。

 いつの間にか夜が白み始め、気が付いたら蓮の蕾が開いて池の水面をうずめていた。」とあるのが面白い。

 結局いつ開いたのか、音がしたのか解らなかったということらしい。

平成二十八年九月十九日。


 いつからかハスは神秘的な音を立てて咲くものと思い込んでいた。石川啄木に「しづけき朝に音立てゝ白き蓮(はちす)の花さきぬ」という断定調の詩がある。博物学者南方熊楠(みなかたくまぐす)も、ハスの開く音を聞きに出る習俗について論考を残した

「本当に音がしますか、何時ごろ鳴りますかという問い合わせをいただく。でも私ら職員は一度も聞いたことがありません」。埼玉県行田(ぎょうだ)市にある公園「古代蓮(はす)の里」で働く山子(やまね)学さん(47)は話す。実際に聞くのは「花が散って葉に落ちた時のドサッという音」。風情の乏しい音らしい。

 山子さんの実感によれば、ハスの名所とレンコンの産地はあまり重ならない。花で名高い地のレンコンは食感がいまひとつ。レンコン産地で花の群舞を見る機会も多くないという。天が二物を与えなかったのは人だけではないようだ

 行田市では1973年、ゴミ焼却場の建設地で桃色の大輪が見つかった。埼玉大の研究者らが調べ、推定1400~3千年前の地層に眠っていた種子が掘削で目を覚ましたと推定した。

 主産業の足袋作りが下り坂にあった市は1995年、ハスを核にした公園を開く。「ふるさと創生」をうたって全国の市町村に交付された1億円をいかした。街はにぎわいを取り戻す。

 ふるさと創生と聞くと金塊や純金のこけしが浮かぶ。盗まれたり売られたり、哀れな結末も見た。ばらまき政治の見本のごとく語られることが多いけれど、将来を見すえて種をまいた自治体も少なからずあったようである。
(天声人語)ハスの花咲く季節に2017年7月17日05時00分

平成二十九年八月十七日、追加。



平成十三年九月一日 三一八号

75 ☆孤を託す


 外国の男女の独身のかたがたが曹源寺で修行している。ドイツ、オーストラリヤ、アメリカ、インド、イギリスなどからの方々たちである。おおげさに言えば国連の小型ともいえそうだ。

 時々その両親、母親、兄弟姉妹が来られるのを見かける。

 曹源寺には寺院から少し離れた丘に修行者たちが作った木製のゲストハウスがある。そこに数日間、宿泊されて、息子や娘の生活、修行ぶり、修行者たちの精進、曹源寺の全体の環境を自分の目で確かめ、老師と対話して、一様にわが子供を託しうることを確信して帰られているように私には想える。

「六尺(りくせき)の孤を託す」という言葉がある。外国から自分の子供を自国から離れて仏道を修行をしている者たちはまさに「六尺の孤」ということができるだろう。それを何日かの曹源寺訪問により、「六尺の孤を老師に託し」安心できることは、人間として素晴しいことではないでしょうか。

 また、このような世界からの人たちが、わざわざ日本の岡山の寺院へ訪れている事実は、「徳は孤ならず。必ず鄰あり」の言葉は世界の東西を問わない名言であると実感させられる



平成十三年十月一日 三一九号

76 「日日是好日」


 松原泰道禅師著『人生を支える言葉』中で「日日是好日」・「今日なすべきことを明日にのばすな」。この文句は禅語で日日は「ひび」ではなく「にちにち」と読みますとある。(中略)なおこの句に白隠禅師が「実に容易ならぬ一語」と嘆じたほどの奥深い内容を秘めていますとある。

 先輩からのお便りの一部です。勉強になりました。

▼私も「ひび」と読み、なにも疑問を感じていませんでした。

「にちにち」と読む理由はと、自分なりに考えてみました。

「日」は「ジツ・ニチ ひ・か」の読み方がある。漢音と呉音を調べると漢音は「じつ」、呉音は「にち」であった。お経は呉音で読まれているから禅語も呉音であると思う。したがっ「にちにち」と読むのがよいのだろう。

 次「にちにち」を「にち」・「にち」と間を置いて読むのが泰道禅師の言われるこの禅語の本質ではないだろうかと。

▼「歩歩是道場」の禅語もある。「歩」は象形文字で左右の足あとをしめす。一歩一歩が道を行う場であると考えるとこれまた「実に容易ならぬ一語」であると言えるのでしょう。

▼私が小学校四年生のとき、担任の先生が色紙に「いまいまをほんきに」と黒板の上の縁に掲げて、文字どおりのご指導下さいました。わずか一年で転勤されて以来一度もお目にかかっていません、しかしこの言葉と先生の当時の授業の姿が六十年以上の今も私の心の奥底に刻みこまれています。

補足:17年7月3日、曹源寺の老師が、雨安居、雪安居に関連して、雲門和尚のお話がありましたのでインターネットでの釋昇空法話集・第22話より抜書きしました。

日々是好日
 よろこびのひぐらし
 (2002年9月23日 永代経法話)

▼さて、本日は、ご案内申し上げておりますように、「日々是好日」(ひびこれこうじつ)という題で、お話申し上げます。「日々是好日」というのは、「毎日が素晴らしい日だ」という意味です。

 この「日々是好日」というのは、何となく気持ちのよい言葉ですので、あちこちで使われておりますけれど、元々は禅宗の公案を集めた『碧巌録』:(岩波文庫)(うえ)P.104:という書物に出てくる言葉です。そこに出てまいりますのは、おおよそ、こういう話です。

 雲門文偃(うんもんぶんえん)という和尚さんが、ある日、お弟子さんたちに、こうおっしゃった。「十五日以前のことは問わない。十五日以後について自分の心中のほどを言ってみよ」と。ところが、誰も答えられない。そこで、雲門和尚は、弟子に代わって、自ら、こう答えた。「日々是好日」(にちにち・これ・こうにち)と。

 禅宗では、「ひびこれこうじつ」ではなくて、「にちにち・これ・こうにち」と読むようですけれど、いささか堅苦しいものですから、ここでは普通に「ひびこれこうじつ」と読むことにいたします。この雲門和尚の言葉を手掛かりに、今日は、話を始めようと思います。

 先ほども申しましたように、「日々是好日」というのは、「毎日毎日が素晴らしい日だ」という意味です。なるほど、私たちは、何十年も生きているあいだには、「素晴らしい日」だと言える日を、何回かは経験するでしょうけれども、毎日が素晴らしい日、「日々是好日」ということになると、これはなかなか難しい。難しいと言うより、あり得ないことのようにも思えますね。

 誰でも知っていることですが、人生には、晴れの日ばかりがあるわけではない。曇りの日もあれば、雨の日もある。というよりも、むしろ、私たちの人生の空模様は、たいていは、ことさら嬉しくも悲しくもない、マンネリになった薄曇りです。その薄曇りの空に、時おり雲間から陽が射し込んで喜んだり、雨が降って悲しんだりというのが、私たちの人生ではないでしょうか。

「若いときはよかった」と言いますけれど、若いときには若いときの苦労があるものです。また、しっかり働いて、年をとったら楽隠居と言っても、縁側に座って、猫の背中をなぜながら、お茶を啜っていたら、文句がないかと言えば、そうではないですね。

 まあ、それだからこそ、と申しますか、この「日々是好日」という言葉が、一種の憧れを持って語られるのだと思います。ですが、「日々是好日」というのは、決して、絵に描いた餅ではありません。そういう人生を、私たちは生きることができる。そのことを教えているのが、仏教なのです。

 仏の教えを学び、仏の教えに従って生きれば、<日々是好日>と言える日がやってくる。<毎日が素晴らしい>と言えたら、いいですね。それこそ、最高の人生でしょうね。しかし、そんな日は、何時になったらやってくるのでしょうか。雲門和尚は言っています。それは、<十五日以後のことだ>と。

 まさに禅問答ですが、これはこういうことでしょう。一生を一ヶ月にたとえれば、「十五日以後」は「日々是好日」だという。しかし、「十五日以後」になるためには、まずは、「十五日以前」を生きてこなければなりません。

「十五日以前」とは何かと言えば、これは、暗闇の新月から始まって、明るい満月になるまでの間のことです。明るい満月になると言うのは、悟りを得るということです。つまりは、悟りを得ると、「日々是好日」と言えるようになる。仏教は、そこをめざしているのです。



平成十三年十月一日 三二〇号

77 ☆三学・三樹の教え


 平成七年(一九九五)八月十九日~二十一日実践人夏季研修会に前後したある日。駿河銀行研修所を訪問した。駿河台の丘陵にあり、北東には富士山がそびえ、南には駿河湾の眺望が広がっている。

 研修所の周囲には、社史図書館、企業経営研究所、ベルナール・ビュフエ美術館、小島伝記文学館(伝記作家・小島直記)、井上文学館(井上靖)が配置されていました。副所長から研修内容、研修所利用状況などをうかがい、所内の見学をさせていただきました。玄関をはいると、二カ所に取り付けられていた鋳物板に書かれていた言葉に私は引きつけられ、当銀行の教育理念と所訓ではないかと受け取らせていただきました。

▼その一つは 

 幕末の儒学者佐藤一斎の『言志四録』を、筆者の生涯の本と考えている。年をとり、噛めば噛むほど味がでる。

 「少にして学べば、則ち壮にして為すことあり。

 壮にして学べば、則ち老いて衰えず。

 老いて学べば、則ち死して朽ちず」

 三学の言葉は幕末の大儒、佐藤一斎『言志四録』の中の一章です。

 小島直記は「なんといういい言葉であろうか。六十歳を過ぎて、この言葉によって励まされたお方も少なくないであろう」。

 今夏あるトップ・セミナーにおいて、この言葉を引用した。話のあとの質問で、この言葉をもう一度くり返してほしい、というのがあった。その人は、ノートに書かれた。

 今後、折にふれ、その人の心の糧となるにちがいない。『逆境を愛する男たち』P.26

★小島伝記文学館を訪問して、お話をうかがいました。

 写真の本は私(黒崎)が駿河銀行、井出金夫さんに送って、小島伝記文学館の来館の記念に井出さんが小島直記先生に署名(黒崎昭二様 児島直記 ペン書)をしていただいたものである。昭和61年4月21日(日)井出金夫さんからの書簡に書かれている。

※昭和61年03月14日(金)

 小島伝記文学館訪問。小嶋直記先生不在。

 社史図書館長井出金夫氏案内していただいた。企業経営研究所、駿河銀行研修所(三樹の教え、三学が掲示されている)、ベルナール。ビュフェ美術館、井上文学館案内いただく。研修所のお話を伺う。

※参考:小島文学には、いろんな階層の人たちがバイブレートするのだ。”文人バンカー”として知られる駿河銀行会長の岡野喜一郎さんは、五十八年三月、小島さんの業績を顕彰し、駿河平(静岡県駿東郡長泉町)に、「小島伝記文学館」をオープンさせた。小島さんが集めた貴重な伝記資料や作品が収められ、西出義宗撮影の写真も掲示してある。口をへの字に結び、一点を凝視する、まさに男の顔。小島直記『三井物産初代社長』(中公文庫)P.309より。

▼その二は

 一年の計は穀を樹うるに()くはなし。

 十年の計は木を樹うるに()くはなし。

 終身の計は人を樹うるに()くはなし。

 三樹のことばは『管子』の名言です。

 それぞれの立場で読んでも味わい深いことばです。


▼植樹に関連したものには、

☆1:『あばれ天竜を恵みの流れに』を読む

☆2:デンマル国の話

 1884年にドイツ、オースリアと開戦して破れ南部の二州を割譲して終戦になりました。ダルガス親子二代が樅の林を作り見事に復興を成し遂げました。

関連:内村鑑三後世最大の遺物。
 現在の日本の里山の崩壊の状態は無残です。

岩波文庫:内村鑑三『デンマルク国の話』より。

平成十八年七月二日

▼「三 樹」に関連したものは、以下の説明がある。

 太宰春臺の産語は今日の經濟思想の失ってをる根本を説いた好書であるが、その中に衛国の君が蒲という処に出かけて、松の木の苗をうゑをてをる老人に教えられたおもしろい話を引いてをる。衛の君・蒲の野に観る。一老父の多く苗松を栽うる者有るを見る。喘息して拮据す。衛君従つて之に問ひて曰く、老夫罷めよ。女奚(なんじなん)ぞ以て苗松を栽うるを為すか。対へて曰く、将に以て棟梁と為さんとす。衛君曰く、老夫の年幾何か。曰く、八十有五。衛君笑うて曰く、此の松、材と成るべきも、老夫能く之を用ひんか。老夫栽うるを()め、仰いで衛君を視て曰く、樹木は用を百年の後に待つなり。君以て必ず其の世に於て之を用ひんと為すや。噫、君の言何ぞ国を有(も)つ者に似ざるの甚だしき。小人老耄して死に(ちか)しと雖も、独り子孫の計を為さざらんやと。衛君大いに慙ぢ、謝して曰く、寡人(われ)過てり。請ふ善言を師とせんと。因つて之を労ふに酒食を以てす。詩に云はく、()の孫謀を胎(のこ)し、以て翼子を燕(やす)んずと。

 善い後継者を用意して置くということが何によらず一番賢明な長久の計であるが、近来はさういう心がけが著しく薄れて、個人主義・刹那主義・其場塞ぎになってをるやうである。自分が苦労して築き上げた存在といふより、寄合世帯の集団組織が多くなった所為もあらうが、それは存在を最も不安定にし、脆弱にする。かういふ教訓も事業家など特に真剣に考慮し反省せねばならぬ問題である。安岡正篤著『百 朝 集』P.80~81より

平成十九年十二月二十七日、平成二十三年四月十日追加。



平成十三年十一月一日 三二一号

78 ☆木村無相さん


▼正月も半分過ぎて、曹源寺で修業中の方から頂いた絵ハガキ(曹源寺の小方丈の前の庭の坐禅石に達磨大師の像が立っている写真を貼り付けた)を辻さんへ送ろうと思い、年賀状を読み直していると、◯が村であると判読できた。 
 木村無相さん、聞いたことのある名前だが? 本棚を探すと木村無相著『歎異抄を味わう 信の交流』(光雲社)があった。
 明治三七年二月二〇日、熊本県に生まれる。若き日、山頭火と親交を持つ。松原致遠に師事。求道一筋の人生を送る。昭和五九年一月六日、福井県武生市にて往生。関係図書『求道六十年歎異抄を生きて』。

▼木村無相さんの『歎異抄を味わう 信の交流』からの一つの詩で結びとします。
 ありがたき
 “生は偶然 死は必然 ホンによいこと ききました
  偶然の生 ありがたき 必然の死 ありがたき
     生死を容れて ナムアミダブツ ナムアミダブツ ありがたき”



平成十三年十二月一日 三二一号

79 ☆「徐福」の謎


 七十五歳の人が知人からパソコンを習い始めた。熱意は非常に高くて操作法などの本を買いこんで学ぼうとするほどである。
 知人は手始めにマウスの操作を教え、練習をするように言ってかえった。
 一週間後、「マウスはどれでしたか」と聞かれて、友人はほとほと困らされた。
 私も出先で帽子や眼鏡を忘れたり、家の中で書類の置き場所を探すことが増えてきている。確かに生理的なものを感じる。

▼「徐福」の謎(新刊書の書名) 

「秦の始皇帝の命を受け、徐福は不老不死の霊薬を求めて、蓬来の国、日本へ出発した。……」。

 人は「初めに老いありき」の存在であるのは否定できない。
 不老不死は考えると意味のわからない語句である。

 辞書によると「いつまでもとしよらぬこと。年よりじみないこと」と説明されている。前の解釈はどう考えてもありえない。後者は人の心がけとしても生活態度として大事なことだろう。 

▼徐福が不老不死の霊薬を求めて、日本へ出発したといわれるその国は少子・高齢化社会を迎えている。その反面、医学は再生医療への研究がすすんでいる。

不老に反して老人対策(病気の問題ー経済にも影響、動作の反応速度が遅くなる、物忘れが増える、記憶力の低下など)が実行されている。



平成十四年一月一日 三二一号

80 ☆本卦帰(ほんけがえり)


 生まれた年の干支と同一の干支が再び回り来ること即ち六十一歳になることになります。昔は人生五十年といわれ、六十歳は長寿で還暦祝をされたのでしょうか。
 本卦帰をタイムスリップすると、昭和十六年、太平洋戦争が始まった年でした。それからの六十年後には「テロの戦争」と米大統領をしていわせしめた米同時多発事件、アフガニスタンへの爆撃が勃発しました。偶然かも知れませんが。人には道徳の進歩があるのかと疑問に思われます。

▼昨年は辛巳(かのとみ)でした。

 「辛」は万物が新生する意味で辛という。

 「巳」は十二支において巳にあたり、巳とは陽気が巳(みな)つきはてる意味である。

 「万物が新生す」と「陽気がみなつきはてる」の説明の組み合わせは一体どう考えればよいのだろうか、まったく矛盾した説明であるようだと述べました。

▼今年は壬午(みずのえうま)になります。『史記』によりますと

 「壬」は任であって、陽気が万物を地上に養うに任(たえ・)意味である。

 「午」(ご)は陰陽がまじれる意味で午というのである。

 どんな年になるのでしょうか。

▼本卦帰で六十歳を限りに零歳から始まると考えるとどうでしょう。

 だれもかれも「無一物」でしたはずです。その上に何を積み上げるかが私たちの課題だと考えてみたいものです。

   皆様よい新年をお迎え下さい。



平成十四年二月一日 三二二号

81 ☆羊頭狗肉・選良


 二〇〇二年一月二十九日、新聞を読んで 

 牛肉買い取り制度を悪用した雪印の行為が業界への不信を増幅。
 海外牛肉を国産と偽装していた雪印食品が、北海道牛肉を熊本産として偽装出荷していたことが二十八日発覚した。これを受けて同社は鶏や豚肉を含む食肉から全面撤退する方針を決めた。その後の調査で次々と不正が明らかにされている。 

▼徳島大学教授ら逮捕 調べでは厚生省に「厚生科学補助金」の申請した際、実際に購入する予定のない文房具などの消耗品を計上し、一九九九年十二月に一千万円余の補助金を不正に受け取った疑い。
以上の二件から、羊の頭を看板にかけて、実は狗(いぬ)の肉を売る。広告と実質との一致しないこと。「羊頭狗肉」ともいう。古典の言葉を思い出させられた。

▼外務省が一部のNGOのアフガン復興会議への参加を拒否した際に、鈴木氏が外務省に参加させないよう「圧力」を掛けたのかどうかという問題をめぐり国会冒頭から全面対決。一月三十日には首相、田中外相を更迭、野上次官も更迭、鈴木議運委員長引責辞任に発展。
 代議士とその人達から選ばれた大臣のあいだで、しかも国会冒頭から全面対決とはどうもいやはやと言いたいのは私だけだろうか。「選良(せんりょう)」と言う言葉があった。選び出された立派な人物の意で、代議士のことと、国語辞典に説明されている。こんな言葉があったのかと過去形でいいたくなる。




平成十四年三月一日 三二三号

82 ☆つれづれ草


 一月のある日、NHKの視点・論点で、東京工業大学名誉教授の方が、芥川龍之介と小林秀雄との『徒然草』についての評価について語っていた。

▼芥川龍之介は、わたしはたびたびかう言われてゐる。「つれづれ草などは定めしお好きでせう?」しかし不幸にも「つれづれ草」などは未嘗愛讀したことはない。正直な所を白状すれば「つれづれ草」の名高いのもわたしには殆ど不可解である。中學程度の教科書に便利であることは認めるにしろ。P.91  
『侏儒の言葉』(大正十二年-昭和二年)に書いている。彼は昭和二年(一九二七)三十六歳、自殺している。私は昭和25年3月2日(会社に入る寸前)に、買った。

▼小林秀雄の書いたものの一部

徒然草  

 「徒然(つれづれ)なるままに、日ぐらし、硯に向ひて、心に映り行くよしなしごとを、そこはかと無く書きつくれば、怪しうこそ物狂ほしけれ」徒然草のなはこの有名な書出しから、後人の思いついたものとするのが通説だが、どうも思いつきはうま過ぎたようである。兼好の苦い心が、洒落た名前の後ろに隠れた。一片の洒落もずいぶんいろいろなものを隠す。一枚の木の葉も、月を隠すに足りるようなものか。今さら、名前のことなぞ言っても始まらぬが、徒然草という文章を、遠近法を誤らずに眺めるのは、思いのほかの難事である所以に留意するのはよいことだと思う。

 「つれづれ」という言葉は、平安時代の詩人らが好んだ言葉の一つであったが、誰も兼好のように辛辣な意味を、この言葉に見つけ出した者はなかった。彼以後もない。「徒然わぶる人は、いかなる心ならむ。紛(まぎ)るる方(かた)無く、ただ独り在るのみこそよけれ」兼好にとって徒然とは「紛るる方無く、ただ独り在る」幸福並びに不幸を言うのである。「徒然わぶる人」は徒然を知らない、やがて何かで紛れるだろうから。やがて「惑いの上に酔ひ、酔の中に夢をなす」だろうから、兼好は、徒然なるままに、徒然草を書いたのであって、徒然わぶるままに書いたのではないのだから、書いたところで彼の心が紛れたわけではない。紛れるどころか、眼が冴えかえって、いよいよ物が見え過ぎ、物が解かり過ぎる辛さを、「怪しうこそ物狂ほしけれ」と言ったのである。この言葉は、書いた文章を自ら評したとも、書いて行く自分の心持を形容したとも取れるが、彼のような文章の達人では、どちらにしても同じことだ。

 兼好の家集は、徒然草について何事も教えない。逆である。彼は批評家であつて、詩人ではない。徒然草が書かれたということは、新しい形式の随筆文学が書かれたということではない。純粋で鋭敏な点で、空前の批評家の魂が出現した文学史上の大きな事件なのである。僕は絶後とさえ言いたい。彼の死後、徒然草は、俗文学の手本として非常な成功を得たが、この物狂おしい批評精神の毒を呑んだ文学者は一人もなかったと思う。西洋の文学が輸入され、批評家が氾濫し、批評文の精緻を競う有様となったが、彼らの性根を見れば、皆おめでたいのである。「万事頼むべからず」そんなことがしっかりと言えている人がない。批評家は批評家らしい偶像を作るのに忙しい。『日本の文学』小林秀雄(中央公論社)P.246 より
 この評論は、小林秀雄(一九四二年八月)四十歳の時のものである。

参考:吉田 兼好(よしだ けんこう)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家。治部少輔・卜部兼顕の子。本めいは卜部兼好(うらべ かねよし/うらべ の かねよし)。卜部氏の嫡流は兼好より後の時代に吉田家と称するようになり、江戸時代以降は吉田兼好と通称されるようになった。また出家したことから兼好法師(けんこうほうし)とも呼ばれ、中学校国語の検定済み教科書ではすべて<兼好法師>と表している。また、兼好と呼ぶこともある。日本三大随筆の一つとされる『徒然草』の作者であり、また私家集に『兼好法師家集』がある。

▼同じ「つれづれ草」、あるいは「徒然草」でもこのように評価が分かれている。しかし、約六七〇年まえに書かれたものが、今日までだれかに、その人なりに読みつがれてきていることに古典としての価値をみとめたい。
古典に自分を投映して読むと、鏡の上にじぶんのありかたが写しだされるようである。そうすると妙に古典を読むたのしさを感じる。自分のなかに隠れていたものを引き出してくれ、共感するからだと思っている。一、二年間に一度くらいくりかえして読むと自分の糧になるのではないだろうか。



平成十四年四月一日 三二四号

83 ☆西行の願心


 今年はさくらの開花が早くて、三月十七日の日曜坐禅会が終わり、曹源寺の書院での茶礼の席から庭園の垂れ桜のほころび始めているのをみせて頂くことができました。
 「願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの望月のころ」
 有名な西行の和歌である。
 参加者の一人から、西行のこの和歌の「きさら」はどんな意味があるのでしょうかと疑問が投げかけられた。
 老師のお話では「お釈迦様が入滅したのが陰暦二月十五日である。そのころに西行は死にたいとねがったのであろう」と。

▼歳時記には「西行忌」の季語がある。陰暦二月十五日は西行法師の忌日とされている。彼は建久元年(一一九○年)の陰暦二月十六日、七十三歳で河内国南葛城の弘川寺に円寂した。

▼いままで、この和歌の「きさらぎの望月のころ」に私は全く疑問を感じたことはありませんでした。きさらぎ(如月)については単に現代の感覚の二月であるとすれば梅は咲くとしても桜の花は見られない。この歌が作られた時代は旧暦の二月であり、その望月のころは、新暦に計算するとすれば一カ月と十四日ずれているから、陰暦二月十五日は三月末か四月の初めころにあたり例年ではちょうど桜の花の時期に相当する。望月については、私が見せて頂いた「涅槃図」では婆羅双樹の下で涅槃に入っているお釈迦様に望月の静寂な光りが降り注いでいる。
 「きさらぎの望月のころ」の言葉に西行の願心のほどが伝わってきませんか。



平成十四年四月一日  三二六号

84 ☆中野 忠様からのハガキ通信三二四号への返信


自学自得 感謝拝読

 妻の看病に心身共につかれておるときこのお葉書をいただきホット己をとり返しました。よみ返しております。

 この頃歌人吉野秀雄の歌にこころ引かれております

 〽新雪の 穂高の遭難もいのちなり よたよた生きるわれも命なり

 〽若きより血をはきて堪え来しが 在るに値するや目の前の老

 我と妻の一日一日をつくづくとみつめつつ過ごしております 岡山のOBの会たのしかったことと存じます  合掌



平成十四年五月一日 三二五号

85 ☆先人の言葉


 時にふれ、感銘を受けた先人の言葉のなかから、自省をふくめたキーワードで取りあげました。       

 ○どんな小さい行でもいい 積み重ねられたものは 木の実のようにいつか その人を円熟させる。                      

(坂村真民)
     
 ○平凡も続ければ非凡になる。   
(板橋興宗)

 ○自分は主人公 世界でただ一人の自分を創っていく責任者 ほんものはつづく つづけるとほんものになる。                  
(東井義雄先生)

 ○小積りて大となる。
(二宮尊徳)
                    
 ○千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす。能々吟味有るべき也。
(宮本武蔵)

 ○手習ひは坂に車を押す如く油断すればあとに戻るぞ
『徒然草』
                 
 ○一事を必ずなさんと思はば、他の事の破るゝをもいたむべからず。人の嘲りをも恥ずべからず。
 ○子の日わく、性、相い近し。習えば、相い遠し。
『論語』

 ○汝ら比丘(びく、若し勤めて精進すれば則ち事として難き者なし、この故に汝等まさに勤めて精進すべし。譬えば、少々の常に流れて則ち能く石を穿つが如し。行者の心しばしば懈廃(げはい)すれば、譬えば、火を鑽(き)るに未だ熱からずして、而息(や)めば、火を得んと欲すると雖も火を得べきこと難きが如し、これを精進とな付。
『仏遺教経』



平成十四年六月一日 三二七号

86 ☆芝生の縁(ふち)を踏むな


 五月末の晴天の夕暮れ、Kの字に型どった小さな芝生に坐り込んで、勢いよく伸びている芝を剪定鋏で切り取っていた。まことに原始的。陽もだんだんとやわらくなり、チョキ・チョキと鋏を動かしていると、江田島の兵学校の生徒たちが居住、自習していた三階建ての「生徒館」の前の広い芝生のグラウンド(私が生徒の時は、練兵場といっていた)が思い出された。

 その芝の縁がきわだつていて、同時に、先輩から「芝生の縁を踏むな!」とおしえられた。手を動かし続けていると、時々「生徒館」の屋上で同期の友人と周囲の景色をながめながら話をしていた。高さ七十センチくらいの防護壁でかこまれていた。「防護壁には決してよりかかってはならない!」。また「自習室の扉の敷居は踏むな!」と指導されていた追想が次々とー。

▼なぜ?こんなことが習慣になるまで口やかましくしつけられたのだろうか? 今から思うと厳しい学校であった。それらのしつけの理由はともかくも、現在の私にはその意味をかんじている。

▼森 信三先生は、しつけの三大原則

 一、朝のあいさつをする子にー。それには親の方からさそい水を出す。

 二、「ハイ」とはっきり返事のできる子にー。主人に呼ばれたら必ず「ハイ」と返事するこ と。

 三、席を立つたら必ずイスを入れ、ハキモノを脱いだら必ずそろえる子に。

 とおしえられている。

▼時は流れ、生活様式もさまざまになり、しつけも変っている。変化してよいものと、あくまでも伝承したいしつけがあると思う。例えば、日本間の上座と下座は知っておき、多くの人と同席するとき、自分はどこに坐ればよいかぐらいのしつけは忘れて欲しくないものの一つだ。



平成十四年七月一日 三二六号

87 ☆ベェツロバーツさん(Betsyroberts)の坐禅参加


 六月九日(日曜日)、曹源寺日曜坐禅会の小方丈での茶礼の席に列席されていたシアトルフリーランドにある〈一滴禅堂〉タホーマの坐禅会に参加されているベェツロバーツさんの紹介があった。その席でお聞きしたことである。

▼彼女は、八十歳の米国女性である。彼女が一滴坐禅会に参加されだした動機は、数年前に原田正道老師(曹源寺)と出会ったことにある。当時、彼女はがんの手術を受け、薬などの併用もあって、肉体的にも精神的にも大変苦しんでおり、心が動揺していた。その時期に老師の講演を聞く機会があり、当日は一滴禅堂での前列から三列目の中央に席をとっていた。

▼老師のお姿に何か感じるものがあり、お話を聞いているとき、老師の両眼から光が発せられ、その光が自分の体の中に吸い込まれるように入ってきました。それから、急に心が安らかになり、体が楽になり以来、毎朝四時半に起床、五時からの一滴坐禅会に参加していますとのことであった。

▼今は、がんも消え、遠く岡山の曹源寺の接心にも参加されるまでになったとのことであった。彼女は、数ページの新聞を毎週、ご自分で発行されておられる。部数は二万部。風評によれば、内容も読み応えのある立派なものである。そのうち読ませていただくようにお願いしている。

 彼女から受けた印象は、穏やかで八十歳とは思えない爽やかさであった。



平成十四年八月一日 三二八号

88 ☆私はどこに居るのでしょうか?


 七月なかば、午後三時過ぎ、いつものとおり散歩していた。するとおばあさんが近づいて来られた。「私はどこにいるのでしょうか?」と。

「おばあさん、どこからこられたのですか」と。

 日傘をさし、右手には雨傘を持っておられた。ふとその柄をみると住所が書かれていた。それが岡山市内であることは知っていたが何処か見当もつかなかった。自宅の電話番号を聞くと、はっきりといわれたので、これでなんとかなるとおもった。たまたま、近くに電気工事をしていた人がいたので、携帯電話してみてくださいと頼んだ。気持ちよく引き受けて下さり、電話すると、長男さんがおられて、「◯◯銀行の支店の入り口で待っています」と伝えると、すぐに迎えに行きますとの返事であった。

▼散歩みちから◯◯銀行へのみちすがら、おばあさんとはなす……

「私は八十五歳で少しボケがきているのではないかと思うんです。朝、七時すぎから家をでて歩いているんです。家族は今年、定年になった長男の夫婦とそのこども二人の五人で生活しています」と。

▼三十分ほどすると、迎えの自動車が来て、白髪まじりの長男さんが

「朝食に呼びに行くと居なかった。おばさん、外に出るなと何度もいっているではないですか」となじって、おばあさんを乗せ、さっと立ちさった。

▼老齢社会化はいろいろな生理的、社会的はかり知れない問題をもたらしている。また、その家族は大変な心痛と負担でしょう。

「私はどこに居るのでしょうか?」「私は少しボケがきているのではないかと思うんです」の「私」を「日本」に置き代えてみると、私ども一人一人の肩にその重みをずっしりと背負わなわなければならないのではと考えさせられた。私はどこに居るのでしょうか?



平成十四年九月一日 三二九号

89 ☆楕円と円


 円の中心点は一コであり、半径の大小がある。円周上の点の中心点からの長さはすべて同じである。楕円は焦点が二コあり、楕円軌道上の点は座標軸0点からの長さは大きくなり、また小さくなる。

▼最近の「政府の道路関係四公団民営化推進委員会」と与党の一部議員の「高速道路推進議員連盟」、あるいは「第二東建設促進議員連盟」の動きをみるかぎりでは、
「政府の道路関係四公団民営化推進委員会」と与党議員の二つの焦点のある楕円以上であり、いかにもバラバラにおもえる。

▼文科省が今春から実施した新学習指導要領が、ゆとり教育を目指して教科の学習内容を約三割削減したため「子どもの学力が低下する」との懸念が強まっていることに対応した、授業の理解が進んでいる子どもに対し、学習指導要領の基準を超えた「発展的な学習」を作成、八月二十二日に公表した。わずか一学期の短期で、長年検討されてきた新学習指導要領を超えたものを作成した。

 文科省の仕事振りもこれまた、二コの焦点の楕円にみえる。

▼もしも、どんな組織体でも基本方針と方向が明確で円の中心点のように一定しないと、働く人はどんな行動をするだろうか。どうせまたそのうちに方針がかわるだろうから、いい加減に仕事をしておこうと言った気分になり意欲の向上は期待できるだろうか。



平成十四年十月一日 三三〇号

90 ☆給食の時に合掌を禁ずる


 最近、富山の教育委員会でこんな決定が下されたという。給食の際に生徒が合掌して「いただきます」と言う慣わしとなっていたが、これに文句をつけるものがあったらしい。問題は教育委員会の判断だ。法律は特定の宗教活動を公立学校で行うことを禁じているとして、合掌を禁ずる通達を出したという。(『実践人』平成十四年九月号)

▼「合掌」は仏を拝む時、両方の掌を合わせて拝することで、インドの礼法のつたえられたもの。(広辞苑)

 たしかに日本でも仏教関連行事には「合掌」はつきものである。キリスト教、イスラム教などいずれの宗教でも、定まった礼拝の形式のものが行われている。それはそれで認められる。しかし給食の際に生徒が合掌して「いただきます」と言う慣わしとなっていたことが特定の宗教活動と考えられますか。多くの家庭での食事前の習わしがそのまま給食をいただく時に表現されているのではないだろうか。

 貴方たちの家庭では食事の時にはどんなにしていただいているのでしょうか。 

 養老孟司は『人間科学』(筑摩書房)で次のように述べている。

 戦後、教育勅語は徹底的に消された。私の持っている百科事典には、教育勅語の項目はあるが、原文は載っていない。にもかかわらず、リンカーンのゲティスバーグの演説は、この事典では全文を英語で載せてある。いまでも日本の公教育では、宗教と哲学を教えない。「そんなものは、教えるべきでない」というのが、先生方の暗黙の了解であろう。その精神そのものの由来は教育勅語である。形に表れた勅語という文章を消したために、宗教と哲学を教えないという基本方針は暗黙のうちに残った。これ自体が「和魂洋才そのもの」であることは、考えてみればわかるはずである。



平成十四年十一月一日 三三一号                       

91 ☆がんの告知


 友人の一人は、現在「肺がん」で治療を受けている。また一人は「前立腺がん」の手術後、三年半経過している。五年たてば生存率は七十%だといっていた。

 日本経済新聞の春秋によると
「がんと闘ってねじ伏せるにせよ、共存するにせよ、相手を知り、自分自身を知ることからスタートする。そんな考え方が次第に広まっている。各種の世論調査では、自身のがんの告知を希望する人が、しない人を大きく上回るケースが多い。先には、末期がん患者の家族に告知しなかったのは医師の義務に反すると訴えた裁判で、最高裁が遺族への賠償を認める判断を示した。そうかと思うと、がん告知直後に患者が自殺したのは、医師の告知法に問題があったのでは、とする訴訟も起きている。告知の是非だけでなく、どう告知すべきなど幅広い議論が必要になったといえよう。」

▼アメリカのジャナリスト:スチュアト・オルソップが、手術不可能で不治のがんに冒されて国立衛生研究所(NHI)で治療を受け、その十四階で出くわした入院規則では、

 (一)積極的な治療を行うこと━患者が最後の息をひきとるかぎりぎりの瞬間まで。

 (二)患者には真実を包み隠さず知らせること。(『最後のコラム』文藝春秋社より)

▼日本の医師法には「がん告知《に関連した法があるのだろうか。あるならば、家族と本人の両方にか、あるいはいずれにか。医師が告知する方法までマニュアルが詳細に定められているのだろうか、あるいは病院または医師個人の判断によるものであろうか。



平成十四年十二月一日 三三二号                        

92 ☆放射熱と人格


 ストーブから離れたくない季節になりました。近づけば温かく、離れるとそれほどではなくなる。何故でしょうか? ストーブから熱が体につたわるからであるといえば、あたりまえのことをいまさらと言われるでしょう。ご承知の通り熱伝達について大別すると、熱伝導、対流伝熱、放射伝熱およびこれらの組み合わせとなる。熱放射としては放出される赤外線が熱効果だけが認められる。空気を温め、対流により部屋の温度を高くして体に伝わる。また、直接に放射伝熱される。放射伝熱は熱源からの距離の二乗に反比例して伝わる。自分のいる所からの距離がはじめの位置から二ばい離れると四分の一、三ばいになれば九分の一になる。

▼ある人のそばにいるだけで安らぎを覚える。こんな人に会った場合、なにかしら不思議な感化力を感ずるものがあることを経験されるでしょう。心理的なことがらでしようが、その人から何かが放射されていると考え、強引に放射熱にたとえると、その人に近づけば近づくほど多くの影響を受け人格の向上につながると思う。この人はと自分で思える方々にはなるべく親しくして頂く工夫をするように心がけたいです。

    二〇〇二年も走り去ってしまった感じです。ともかくも健康に留意されて目標に意欲をかき立ててください。



平成十五年一月一日 三三三号                         

93 ☆自分の中にカンセラを


 少年が何か悪いことをしようとした、その瞬間「自分のお母さんの悲しそうな顔が脳裏に浮かんだから、思いとどまった」と。この少年以外には知ることのできない平素の親子の関係の結びつきがあって、悪事をする事をおしとどめたのだろうと思う人でもあるかも知れない。

▼誰でもふとしたできこころがおこることがあるだろう。困難にぶっかり、失敗することもある。誰にも相談することが出来ない。自分一人で判断して誤ったりする。こんな人が多いだろう。こんな時に相談する人がいたら自分の行動はまた変ったことになるかもしれない。その変化の善し悪しはその時にはわからない。

「自分の中にカンセラ」を持っているとどうでしょう。自分の両親あるいは、尊敬するひと、先生であれ、自分でこの人こそはと信頼している人を。右すべきか左すべきか思い悩んだとき、その人ならどんなことをされるだろうか?どんなふうに考えるだろうか?

 何一つも言われないだろう、しかしその人を思いだすだけで自分で反省することになる。そうすれば、自分の行動にも自信がつき、納得する気持ちになれるのではないだろうか?
 今年も皆さまにはよい年でありますように。



平成十五年二月一日 三三四号                         

94 ☆イーメールとハガキ通信


 平成十四年十二月初旬、近所にある、一階が本屋と電気器具、二階がパソコンの売り場の店に行きますと、入り口で YahooBBが宣伝していた。無料お試し期間が二カ月だというので、いままではパソコンは使っていましたが、インターネットには加入していなかったので、つい試してみようと申し込み今年一月末まで使ってみました。

▼インターネットを使用されている人の感想は各人各様だろうが、イーメールの便利さを活用出来ないかと思いました。『自学自得ハガキ通信』に使ってはと、友人の一人に一月に使いました。彼はホームページを作っていましてその中に私の『自学自得ハガキ通信』を毎月追加し続けて下さっていました。そのために、私はフロッピーに原稿をコピーして、それを郵送していました。

▼イーメールのアドレスをもっておられる方には二月から利用させていただきたいと思います。そして、厚かましい願いですが受信されたらイーメールで返信していただければ非常に迅速に交流できるのではないかと。ハガキに比べると味気ないと思われる方もいらっしゃると思いますがご容赦願います。さらに月に一度だけでなくて、「朋有り遠方より電子に乗って遠方より来る。また楽しからずや」と考えていただければ幸いです。すでに、私がアドレスを知っている方は結構ですが、すでにおもちの方でよろしければアドレスをお知らせ願えれば幸いです。当然ですがつい昨年まで私も加入していなかったのですから。おもちでない方には従来どおりにさせていただきます。



平成十五年三月一日 三三五号                         

95 ☆パソコンと付き合う


 長年付き合っていたパソコンはアップル社のものであった。最近、故障のために廃棄した。その理由は周りの人たちがほとんどウインドウズであるためで操作法がわからないときに質問しても会話が通じないことであった。ところがウインドウズはまったくの初めての使用であるためこれまた面倒が起こり使いきれない。機器に私は使われている。他の人間が作ったものの考えのとおりにマネしなければならない。なんと主体性がないのだろうかと思わせられた。科学の進歩とともに文明の利器があらゆる面で発達してきていて同じことがいえる。

▼情報機器に限らずロケット、医学でのクーロン人間など数限りない。しかしこれが二面性を持っている。有用される場合と悪用される面である。そのもとは何かと考えると人間のもつ二面性であるのではないかと思う。科学の進歩と同時にたしかに利便性はよくなっているが、いまだに世界の国のあちこちで戦争が絶えていないのはよくよく考えみなければならない。そのためにはどうすればよいのでしょうか。



平成十五年四月一日 三三五号                          

96 ☆いまを生きる


 最近、ひさしぶりに佐藤一斎先生『言志四録』(岩波文庫)を読む

心は現在なるを要す。事未だ来らざるに、邀(むか)ふ可からず。事己に往けるに、追ふ可からず纔(わずか)に邀ふとも、便ち是れ放心なり

 その下註に(放心)孟子告子篇に、「(前略)学問の道は他無し。其の放心を求むるのみ。」

 「事」には過去、未来のことに尽きない煩悩にとらわれことがあってはならない。そして孟子の言葉を強調されている。放心につい、明治書院の『孟子』で調べると、「人がその本心を放失してしまうこと。本心とは仁義礼智を具えた良心を言う」と。

▼「いまいまを本気に」と先生が書かれた額を教室の教壇の後ろの壁に掲げられてご指導していただいた小学校四年生の担任の先生、いまでもわすれることができないものです。しかしこんな意味の深いことにはおもいたりませんでした。

 いまを生きるに誠心誠意で生きよと私ども子供にわかりやすい言葉で「本気に」と教えていただいていたことにきづかさせられました。



平成十五年五月一日 三三六号                         

97 ☆待ち時間


 バスや電車に乗る前、商店や銀行・官庁の開始前、面会予定の人に会う前など私たちは意外に待ち時間が多い。待つ状況によっては、ただ漠然としているか、何か考えているかしている。時には時間を気にして、いらいらしていることもある。こんな時を積極的に周囲を観察するチャンスにすると平素思ってもみなかったことがみえてくる。自分がいる場所により違いがありましょうが、新緑の里山の様子でもその緑色の多様性、また樹木による配色の絵模様。俳句の好きな人は作句したくなるのでは。また往来する人々の服装のスタイルは若い人たちとサラリーマン、定年後の人によりそれぞれ適当なものを着ている、登校中の幼稚園児から高校生にいたるまでの生徒たちの動きなど、携帯電話の使用、自転車の二人乗りなど。

▼バスを待っている人達は関西から西の人はバスが来るほうを向いて待っている、関東ではその逆であると話では聞いているが、私のところでは今か今かとバスの来る方向に向いている人が多いようである。待ち時間を忘れて落ち着いた時間をもてるのではないでしょうか。



平成十五年六月一日 三三七号                         

98 ☆私の唯一の本


 『自学自得ハガキ通信』一号から一七二号までをB5に印刷して半分に折り、厚い紙にはさんでクリップでとめて保存していた。  

 日曜坐禅会での知人の一人に南宋画、写仏など非常に上手でしかも表装まで習得され、趣味の域を超えている方、武野篤さんがおられる。掛け軸の表装の布地に和紙の裏張りをしたもので裏表を和綴じの本当に美しい初めての私の唯一の本を作っていただきました。通信を始めたのは森 信三先生の感化によるものでしたから、表紙を開いたページに先生の肖像を載せました。クリップでとめただけのものは書類のファイルであるようで、ほとんど読むこともありませんでした。 しかし製本されたものはなんとなくただの印刷物でなくて<本>に変化してふ思議にも読む気になり、実際に読んでみると、またいろいろなことに気づく。よくもこんなものを読んでいただいたものだ。其の上、返信で励まされたりしたものだ。また現在までに差し上げているものの内容に繰り返しがあり、お前の考えはかなり固定しているようだぞ、少しは「呉下の旧阿(あ)蒙(もう)に非ず」といえるようになれないのかと自省する。
 「成形の功徳」を私なりに感じました。



平成十五年七月一日 三三八号                         

99 ☆日記を読む


 ドナルド・キーン氏は『「百代のか過客」 日記にみる日本人』を著している。

▼アメリカ人である彼が、<日記に見る日本人>を考察しているように、出来る限り他人の目で自分の日記を読むとしたら、私は一体、どんな者なのだろうか。

▼ワープロ専用機がでるまでは大学ノートに自由に書いていた。昭和六十三年、ワープロを購入、練習を兼ねてワープロ日記にした。その後アップル・パソコンなどを使い続けていた。だが印刷してはいなかった。昨年末、機器が故障してパソコン(ウィンドウズ)を購入した。すると以前の機器に打ち込んでいた日記を読み取ることが出来ず、何とかしたいと思っていましたところ、ウインドウズに転換読み取ることができるソフトがあるのを教えていただき、自分の日記に再見がかないました。

▼この転換作業の中で、日々の些細な日記記事はジグソーパズルのピースに過ぎないようであるが、全体として組み立てると正体が出来上がるように一年、三年、五年と書き続けられていたものを拾い読みしていると、自分の姿が浮かび上がってくる。鏡では自分の外形しかみえません。しかし自分がどんな考えをしていたか、行動をしていたかを日記である程度読み取ることが出来るものだと感じました。



平成十五年八月一日 三三九号             

100 ☆ハス―其の三―ハスの開花時の


 日曜座禅会が行われている曹源寺では今年もいろいろなハスが咲いています。総門を入ると山門までの中ほどに放生池があり、その中央に石橋が架かっている。右側に赤系統、左に白系統と水引の紅白の色にうえつけらている。そのほかにも境内の各所に鉢うえ約十数種類あります。老師をはじめ修行者たちはもちろん坐禅会参加者も花をめでています。このハスの花をうえつけられた人は禅寺の隣に住んでいるT.A.さんのご尽力によるものです。

▼花が開花するとき音がするかどうか昔からの話題になっている。

栗田 勇著『花を旅する』(岩波新書)の中に、

徹夜して調べたところ、音はしなかったと書かれています。

▼曹源寺日曜座禅会参加者の一人は、坐禅をし、老師のお話を聞いていて、また清純なハスと向き合っていて「自分の心にハットするものがあれば、それがハスの開花音だと思います」といわれる。

▼私も同感。<ハスの開花音は自分の心の扉を開いたときに、自然に発す音では>と思います。二九四号、二九五号についで花ハスについて三回書きました。

平成二十五年七月二十日:体裁を整えました。



平成十五年九月一日 三四〇号             

101 ☆回遊魚 マグロ


 一、大型魚類 マグロやカツオやブリといった、大型回遊魚は、なんと、一時も休まず泳ぎ続けて一生を暮します。回遊魚は、ものすごいスピードで泳いでいるためかなり速いスピードで、口からエラに水を送り込まなければ必要な酸素を取り入れることができないからです。もう1つは体が沈まないようにするためです。マグロやカツオは比重が重いため止まると沈んでしまい、浮き上がることが不可能だそうです。

 二、深夜に海に潜るとたくさんの魚が眠っている。気の毒であるが時々触ったり懐中電灯を当てたりして安眠を妨害するとキョトンとしている。いつもフルスピードで泳いでいないとエラ呼吸が出来ないマグロやカツオのような回遊魚は泳ぎながら眠るそうである。例外的に色彩の豊かでない海を泳ぐカツオなどは色彩に鈍感と言うがサンマの見る海は一体どんな色でどうやって眠っているのだろう。

▼私は以上の二つの記事をインターネットで初めて知りました。 一の記事で「一時も休まず泳ぎ続けて一生を暮らします。」に驚かされ、眠らないのかと疑問におもいました。ところが二の記事でマグロなど回遊魚は泳ぎながら眠るそうだの説明で納得しました。

▼人間はどんな人でも睡眠をとります。長い短いの個人差はあるとしても。その睡眠時間を除いて人の動きには大きく分けて三種類あるように私は思います。

 其の一 たえずあれもこれもと何かをしている

 其の二 ひとつのことをじっくりと時間をかけて続けている

 其の三 まったく何もしない。ただし、きまったことはしている 

 この分類で自分の行動を診断すると、どれに属するのだろうか。自己の分析と他人からの評価では食い違いがあるようですが。



 平成十五年十月一日 三四一号             

102 ☆私のワープロ日記


 一九八七年に初めてワープロ専用機を購入した。約十年後の一九九六年、パソコン(アップル)を購入した。二〇〇二年二月、にWindowsに買い替えた。故障したためと容量が小さいのと利用者が比較的すくないので使い方に困ったときなどに指導してくださる人が少ないので。

▼ワープロを購入したときに考えました。速く慣れるにはどうすればよいかと。まずキーボードの配置を通勤のバスの中で覚えるようにした。次は、日記をノートからワープロに変更して毎日の練習することで使い方を覚える最も良いのではないかと。

▼ところが爾来六年間、パソコンでのワープロに変更して使い続けているうちに、ワープロ専用機の部品が消耗してメーカに保存していない事態に至った。その間にたまったフロッピーがものすごく多くなっていた。しかも専用機のものはパソコンにすぐに変換読み取ることが出来ないでどうにも仕方ない。印刷保存していなかったので完全に日記が消え去ってしまった。何とかしたく思い、いろいろあたっていると、ワープロに書きこんだ文章をパソコンで読めるソフトがあるのを知り、十六年間の日記を読み取ることができた。

▼十六年の年月は日記の内容まで変わっている。当初はワープロの使い方の記事が多く、それぞれの年次の自分の興味の中身を知ることができて、過ぎ去った自分の生活を読み取ることができました。ノートに記載した日記はたくさんあるが、これまでほとんど私は読み返してはいない。ワープロのおかげで日記を再読できたのは故障や部品がなくなったおかげである。

 「昨日の我は今日の我にあらず。今日の我は明日の我にあらず」ですね。



平成十五年十一月一日 三四二号             

103 ☆道元の関東下向


 『正法眼蔵随聞記』の中に心構えの一つとも言える文章がある。

 「亦ある人勧めて云く、仏法興隆のために関東に下向すべしと。」

「答て云く、然らず。若し仏法に志しあらば、山川江海を渡りても学すべし。その志ざし無らん人に往き向ふて勧むるとも、聞き入れんこと不定(ふじょう)なり。只我が資(し)縁(えん)のために人を誑惑(わうわく)せんか、亦財宝を貪らんがためか。其れは身の苦しみなればいかでもありなんと覚ゆるなり。

▼一二四七年八月三日、「倉の執権:北條時頼の招聘をうけて、永平寺を離れて鎌倉に赴いたのである。時頼の要請で十首の和歌をよんでいる。
有名な 〽春は花夏ほととぎす秋は月 冬雪さえて冷しかりけり など。やがて一二四八年二月十三日、半年ぶりで、道元は永平寺に帰山した。

▼以上の文章は、鎌倉から帰ってからのものであるのは明らかであろう。何故、鎌倉に向かわない気持ちになったのであろうか? 
 私の読んだ今枝愛真『道元―その行動と思想―』には、実際に道元が鎌倉に下向してみると、時頼はじめ鎌倉武士たちは、祈祷や、せいぜい密教的色彩の濃い黄龍派の兼密禅にとどまっていた。このため道元は、かれ一流の純粋禅による鎌倉武士の教化には、限界を認めざるを得なかったのであろう。道元は当惑し、時頼らの引止策をいっさい断り、永平寺に帰ってしまったのである、と。

▼当時の経緯はともかくも、上述の文章は仏法に限らずいかなる学問についても同じだと思う。道を求める人はいかなる方途もつくすべきであることである。幕末の時代、長岡(新潟県)の家老、河合継之助は教えを受けるために備中(岡山県)の松山藩の山田方谷に来ている史実がある。



平成十五年十二月一日 三四三号             

104 ☆色 読


 愛読、未読、素読など読む字のつくものは平素よくきく言葉である。色読は知らなかった。近所の日蓮宗のお寺での「日蓮・なぐさめの手紙」について講演を聴いたときである。講演者は最近、日蓮の手紙を読み始めた。私の手紙の読み方は、通り一遍の、皮相な読み方なのであるが、日蓮の手紙は、襟を正し、本気で読まないと、理解できないことを知った。色読の必要である。そのとき、全身で読み、行動実践で読むことを意味するでしょう(後略)とある歴史家の解釈を紹介された。

▼愛読書を持っているだけで幸せである。愛読書にもいろいろあるだろうが、行動実践で読めるものを持っているだろうか? 一つでも持っている者は幸せである。二つ持てば、なお幸せである。現在は価値観の多様化によって自分で色読する読み物を持っているひとは多様化しているのではないだろうか。

▼色読できるために、まず問われるのは、過去・現在を問わず、この人ならば、実践で尊敬できる人を自分が持っているかどうか。そのためには生存されている尊敬できる人がいる者。また、それがない人には、現在にいたるまで読み続けられた古典と呼ばれる著作とその人物の研究がよいのではないだろう。そして、その人たちの言動を真似ること。少しも恥ずかしいことではない。



平成十六年一月一日 三四四号              

105 万 福


 人々は円仁に会うと、「今日は冬至節、和尚万福(おめでとう)」と賀を述べたという。慈覚大師円仁の『入唐求法巡礼記』によれば、当時(九世紀)では冬至の方が新年よりもにぎやかだったようだ。

 八三八年七月、円仁一行の遣唐使は、長江に入り、揚州の開元寺に止宿し冬至を迎えたのである。「この節はすべて本国(日本)正月一日の節と同じなりき。俗家も寺家も祝膳をもうけて百味すべて集まる。道俗は同じく三日を期となして、冬至節を賀す」と円仁はしるしている。
 冬至の日から一年を二十四に割ったのが二十四節季である。陳瞬臣「六甲随筆」より抜粋。

▼昨年、十二月二十二日、我が家は留守にしていた。私が帰って見ると玄関の前に、数個の柚子を袋にいれ、大根と、万両の鉢うえ(正月飾りもの)がおかれていた。どなたからものであるかすぐに想像出来ましたので(笠井さん)、お礼の電話をしました。「今日は冬至ですよ!(私は全く忘れていた)、今夜の風呂に入れて、風邪などひかないで、佳い正月を迎えてください」とのご挨拶。我が家の湯船に投げ込み、匂いをかぎ、感謝の気持ちがいっそう温めてくれました。

▼国により、年代により正月の祝い方も多様であり、変化している。皆様も正月をお祝いしてください。私は無学にして分からないことがあります。冬至は昼が最も短く、日の出と日の入りの時間は約九時間(理科年表)しかなく、陰の極にあるといわれています。当然、太陽からの熱量がもっとも少ない。しかし冬至をすぎて、その時間は長くなりますから、その日から少しずつ暖かくなってもよいとおもうが、それまでの余寒がのこっているのでしょうか。小寒(一月六日)、大寒(一月二十日)を経て立春(二月四日)となる。括弧の日付は太陽暦相当月日。どなたか説明していただけませんか。
 今年も宜しく願います。



平成十六年三月一日 三四六号             

106 ☆春こそ空に


 春先のある会合で、会社の重役の方が最初の挨拶の冒頭に使われたのが、
 新古今和歌集の巻第一「春歌上」の二の太上天皇 〽ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山かすみたなびく であった。

▼この歌集を拾い読みしていると、西行法師(七十三歳で一一九〇年に円寂)の「わが往生祈願」と言われているほどの有名な歌
 〽ねがはくは花のもとにて春死なんその如月の望月のころ
 が選定されていた。さらに最後の巻第二十「繹教歌」の最終に
 〽闇晴れてこころのそらにすむ月は西の山や近くなるらん
 の法師の歌で結ばれている。法師の仏門への帰依と涅槃への修行のほどが生涯続いたと伺われる。ちなみにこの歌集一九七九首のなか、彼の歌は九四首も取り上げられている。

▼選定されている歌は「春歌上」「春歌下」「夏歌」「秋歌上」「秋歌下」「冬歌」「賀歌」・・・・「繹教歌」の順序に分類されている。例えば「繹教歌」のなかに、蓮華初開楽「〽これやこのうき世の外の春ならん花のとぼそのあけぼのの空」の和歌がある。
 私には四季の移り変わりに人間一生の変化を示す配列になっているように思えた。



平成十六年四月一日 三四七号                    

107 ☆三世代あるいは二世代同居 


 最近、年老いた両親と同居していたらよかったのにとしきりに思う。年配者の体調、考え方の変化、日々の行動などを見ているだけでおしえられただろう、また智慧を借りることができただろうと。

 日曜坐禅会で親しくしていただいている宮本 進先生との話で、中学のクラブ活動で「静座の会」を行っていたとき、お爺さんと同居している生徒は、一言で言えば、やさしいとのこと。例えば先生が出張したりするときには「先生!用心してください」などと声をかけてくれたりしていた。
 現在、先生がお勤めの学校で三世代家族調査に関するアンケートで調べてくださった。その骨子の一部を紹介します。

▼黒崎さんから、「同居家族の生徒の様子を短い文にまとめて下さい」と、ご依頼を頂くまでは、漠然と三世代家族の生徒は、優しい生徒が、多いと感じていました。しかし、その理由を、深く考えることは、ありませんでした。この度、アンケートから、分かったことを、箇条書きに、まとめてみました。
・親子のあり方を、見つめている。 (人間関係を、学んでいる)
・親に叱られたとき、優しく慰め、励まされている。(情緒が安定してくる)
・少し距離を置いて、愛されている。(精神的に安定してくる)
・無償の愛を、受けている。(忍耐力や優しさを身につけ、愛が育まれてくる)
・生活をともにして、生き方を、学んでいる。(物の見方、感じ方、行いなどが、刷り込まれている)
・自分と対比しながら、祖父母の老の現実を、見つめている。(自分の未来を、的確に見つめている)
 日々、無意識に生病老死を感じ、見つめている。(一日生涯の心境が、刷り込まれている)
 今更ながら、祖父母の孫に対する、熱き思い(叡智)に胸を打たれるものがありました。また、生徒の伸びゆく、無限のエネルギーに接し、そのすばらしい可能性に、驚嘆せざるを得ませんでした。教育とは何か、深く考え、悩みます。と。

▼私ども夫婦は二人の生活ですが、たまに休暇に遊びに来る孫たちはよく観察しているものだと感心することがあります。こころして接したいと思います。



平成十六年五月一日 三四八号  

108 ☆ONE DROP NOTE BOOK


 新聞への折り込み広告が始まったのは何時のころからは知らないが、主婦(我が家も含めて)は、近所のスーパーの一・二店の広告を細かく見てはどこでは何の買い物をと参考にしている。

 日曜日の坐禅会(私も参加している曹源寺)でいただいたものがある。修行者のどなたかが新聞の折り込広告の裏が白紙の面を折りたたんで、パンチで二個の穴を開けて、タコ糸で綴じた二十二枚程度のものである。白紙の面から広告の文字や絵がすかして見える。その一番表面にサインペンで表題の英文が書かれていました。

▼管長 由利滴水(一八二二年生まれ)は十九歳のとき、当時、儀山老師の岡山の曹源寺に入った。たまたま手桶の余り水を何の気なしに棄てたところ、儀山老師の一喝をくらった。「一滴の水をも活かせ、一滴の水、一分の時間も無駄にするこそ殺傷なり」の叱責と垂訓とが滴水を養う機縁となった。

 「一滴 七十餘年 受用不盡 蓋天蓋地>が滴水老師の遺偈である。
 「ONE DROP」の意義について、外国修行者にあらためて教えられた。



平成十六年六月一日 三四九号  

109 ☆時事英語の勉強法―インターネットによるー


 【毎日一分!英字新聞】(英語学習、英会話学習のための無料メールマガジン。)をいただいている。時事関連のニュースを数行取り上げ、日本語に翻訳、単語、熟語を解説されていて参考

▼読む以外には何もしていなかった。せっかくだから、何かこの資料を使って自分の英語の力になる方法はないかと考えた。其の一つとして、メールマガジンの英文のすぐ下へ、文章を朗読しながら模写すれば好いのではないかと。読むことで目を使い、声を出すことで口を動かし・耳で聴いている、模写―in putすることで手を動かしている。単語のスペルなどを正確に記憶しているかがわかると予想していた。

▼早速、実行すると、原文の大文字を小文字に、スペルの違い、助動詞を抜かしているなどなど。しかも時間が意外にかかった。しかし、この模写により、一度だけで読み流していたものが少なくとも丁寧に二回は読み、チェックを含むと三回になる。

▼毎日、繰り返すことにより、改善、期待の方向に進めばと願っている。ついでに間違いの数を記録しておけば注意力などの進歩の目安が得られるだろう。

▼英語を「聴く・話す」の上達は、多くの人が提案されていますので参考にしてください。



平成十六年七月一日 三五十号  

110 ☆徳川家康「御遺訓」


人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し

 私も徳川家康の言葉だと思っていた。ところが朝日新聞(平成十六年六月五日)の出典によると、そうでないと説明されていた。

▼更に御遺訓は、こう続く。「急ぐべからず。不自由を常と思へば不足なし。心にのぞみおこらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基(もとい)。怒は敵と思へ。勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば、害其の身に至る。己を責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるにまされり>

 江戸時代から武士階級の間に伝わり、書き写されてきたが、家康がこのことばを書き残したという記録はない。しかし、多くの人々が御遺訓に自分の人生を重ね合わせ、共感したのだろう。やがて人々の間に広がり、定着していく、と掲載されていた。

▼私も共感する一人である。「不自由を常と思へば不足なし」を、「自由を常と思へば不足あり」と読み替えるとどうなるのか。自由が当たり前とのみ考えると、あれもこれもと願望が次から次と広がり大きくなり止まることなく、わずかな制約でさえも不自由と感じ、自制心はどこかに押しやられ、自分の思いのままの勝手なことをするようになるのではなかろうか。

徳川家康が今川義元のもとに人質になっていたとき、今川が家康の教育について、
一番むごい教育をせよ

好きなようにしてやれ、そうすれば必ず駄目になる」と。


 子弟は大人の胚胎(はいたい)なり、秀才は士夫の胚胎なり。此時若し、火力到らず、陶鋳(とうちゅう)純ならざれば、他日、世を度(わた)り朝に立つとき、終(つい)に個の令器(れいき)と成り難し。『菜根譚』の一節
 今川義元は家康をだめにするために、『菜根譚』でいう、まったく反対の教育をしている。


★参考:2

 昔、会津藩主、保科(ほしな)侯が山崎闇斎に向かって、先生の楽しみは何ですかと質問した。

 闇斎は、「私に三つの楽しみががある。万物の霊長である人間に生まれたことことがその一、有文の世に生まれて書を読み道を学ぶことができることがその二、そして第三の楽しみは、楽しみの最大なもので、卑賤に生まれて大名に生まれなかったことである」と答えた。

 侯がその理由を問うと、「大名は城の奥深くに生まれ、婦人たちの手で育ち、お側近侍の者どもからは、何もかもごもっともと意にかなうようにつとめられて、ついに立派な馬鹿殿にされてしまうのに反し、われらのような卑賤の者になると上役からも同僚からも、しじゅう叱言や忠告の受け通し、自然に徳行を修め才能を磨くことになる」と言ったという。まことにその通りである。

 世間で、みだりに自由を唱え、放任を叫ぶ連中は、自ら強い毒の中に一生を埋没しようとする愚か者である。釈 宗演『菜根譚』(三笠書房)の一節の所見より。

平成二十三年四月十七再読。



平成十六年八月一日 三五一号 

111 ☆一生担板(いっしょうたんばん)
横井一保和尚


 日曜坐禅会に参加させていただいている曹源寺の閑栖さん(前住職)―横井一保和尚が四月十五日未明九七歳の生涯を終わられました。一九五九(昭和三四年)曹源寺に入寺、四五年の間、禅僧としての姿勢を貫き、孤貧に甘じ、曹源寺をよく守り続けて来られました。毎日掃除三昧、日曜坐禅会も当初は一人でも二人でも、雨で誰も来なくても変わりなく、掃除から坐禅の準備まで全て一人でされ、坐禅の後は自ら茶を点て、人生経験をお話されたと聞きます。

▼四月十四日の朝弟子や修行者に囲まれ、ご自分でご自分の枕経を唱え終わって昏睡状態に入られ、十五日の午前零時三五分遷化されました。

▼生前より“師の大嶺(たいれい)さんの命令じゃ、仏弟子たる者、世礼にならって葬儀をすること莫れ、事後の報告に止むべし”と、遺言をしておられましたので弟子たち、修行者のみでお見送りをさせて頂きました。

▼末筆に「一生担板」とは、中国の庶民の言葉です。大きな板を担いでゆく者は板の向こうが見えない、これにより周りの見えない自分勝手な奴という意味です。しかし禅語となる時は念仏三昧、題目三昧、坐禅三昧、茶三昧、碁三昧、料理三昧、掃除三昧、子育て三昧、仕事三昧、スポーツも武道も三昧なくしては成り立ちません。内容のある充実した生活は全て三昧によってのみ活気づきます。担板漢と迷わずに一筋に生きる姿勢として珍重いたします。

▼以上は、現住職 原田老師の文章から無断で抜粋させて頂きましたことをお許しいただきます。閑栖さんの「一生担板」の墨蹟を日曜坐禅参加者の一人として頂いています。



平成十六年九月一日 三五二号   

112 ☆一人前の医師


 「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」発病の医師が闘病中に自問自答された。

▼朝日新聞八月二九日の記事によると、渡辺先生は眼科医として国際的に知られる。東北大学卒業後に渡米して技術を認められ、患者から信頼された。末期がんの母の看病のため帰国。仙台で開業。九十八年にこの病気発病。大学図書館で数ヶ月をかけALSの文献を調べたが、治療法はなかった。「ああ、だめか・・・・」自分で驚くほど冷静だった。その間にもマヒは進む。棚の本をおろせなくなった。書類に署名することも出来なくなった。〇一年に気管を切開し、人工呼吸器につながれた。

▼渡辺さんは「ALSの闘病がこれほどきついとは、専門医でもわからないだろう」と記す。振り返り、自分はこれまで本当に患者の側に立つ医療をしてきたのか、問いかけざるを得なかった。不治の病になり、やっと一人前の医師になれた気がした。

▼ホーキング博士はご存知のように、世界的な理論物理学者であると同時に、世界で最も有名なALS患者さんの一人です。一九四二年一月八日生まれで、現在六十二才です。発病が二〇才前と考えられていますから、ALSとの付き合いは約三五年以上にもなります。博士は発語や書字によるコミュニケーションがとれないことから、コンピューターを利用して、意思伝達を行なっておられます。以上はインターネットによる。

▼私も医師のお世話になることが多くなっている。一寸した病気でも「三合の病いに八石五斗の物思い」にかられる。先生のお考えのように本当に患者の側に立って治療していただきたいものです。
*参考『モリー先生との火曜日』(NHK出版)、『モリー先生との最終講義』(飛鳥新社)。この本もアメリカ人のモリー先生がALSにかかり、終末に教え子との対話の記録です。

平成二十四年六月十一日再読。



平成十六年十月一日 三五三号  

113 ☆視覚障害者の伴走


 今年はアテネでのオリンピックについでパラリンピックで日本の選手達がすばらしい成績を上げました。平成十六年の正月に友人からのメールの賀状を紹介します。

▼明けましておめでとうございます。早速のメールを頂き恐縮です。スポーツは水泳とソフトボール、しかも我流の私がなぜ視覚障害者の伴走を。理解していただけないかと思います。もともと走るのは苦手。四十五歳位から中年太りになり、子供を通わせていたスイミングスクールで私も週二回くらい泳いでいましたが益々太り、走ったらよいとの助言で夜こっそりと家の周りを走り始め、10km走れるようになったら市民マラソンに参加、10kmがハーフマラソンになり、さらに42kmのフルマラソン参加するまでになりました。しかし六十歳にもなると体力も低下し、大会の制限タイムにおわれることもあって走れる事を何かに役立てたいと思い兵庫県の伴走者協会に入会し月二回の練習をしています。しかし、私の参加している尼崎の練習会では視覚障害の走者(ブラインドランナー)三~四人はいずれも凄いランナーでフルマラソンを4時間台で走れるような人たちです。私が一緒に走れるのはせいぜい5kmです。それでも彼らは伴走に協力してくれるだけで、スピードは関係ない、一緒に走ってもらえるだけで十分と言ってくれます。彼らに対するボランティアのつもりが私自身の練習になっており、走力を維持する事が出来、感謝しております。とりとめのない話になりましたが、新年早々のメールの御礼まで。 河本晋一

▼こんな陰の人が居ることに想いを馳せて、世界の障害者たちのオリンピックの競技をテレビ観戦させてもらいました。


 平成28年9月18日最終日、男女マラソンでそろってメダル獲得! 道下美里が銀、岡村正広が銅メダル

 リオデジャネイロ・パラリンピック最終日の平成28年9月18日、陸上は初実施の女子マラソン(視覚障害)で道下美里(三井住友海上)が銀メダル、男子マラソン(同)で岡村正広(RUNWEB)が銅メダルを獲得した。

 リタイアする選手が相次いだ男女マラソンで、金メダルが期待された道下はレース後半、3位から2位に順位を上げたが、1位のスペイン選手に大差を付けられ、日本人金メダル第1号はならなかった。

 素晴らしい走りだった。よく頑張られたものだと思う。



平成十六年十一月一日 三五四号 

114 ☆外来語


 「現役副社長によるコンプライアンス(法令遵守)推進会議への内部告発が解決の発端になり(以下略)」最近の新聞紙上の文章である。

▼若し括弧の言い換え語がなければ私は意味を理解できなかったと思います。国立国語研究所のホームページで、第3回「外来語」言い換え提案に以下の外来語の記事が掲載されていました。

▼アカウンタビリティー、イニシアチブ、カウンターパート、ガバナンス、コンファレンス、コンプライアンス、サプライサイド、スキル、スタンス、ステレオタイプ、セーフガード、セットバック、ソリューション、ツール、デジタルデバイド、デフォルト、ドクトリン、ハザードマップ、パブリックインボルブメント、パブリックコメント、プライオリティー、ブレークスルー、プレゼンス、フロンティア、ポートフォリオ、ボトルネック、マンパワー、ミッション、モビリティー、ユニバーサルデザイン、リテラシー、ロードプライシング

▼言い換え語

説明責任 、(1)主導 (2)発議 、対応相手 、統治 、会議 、法令遵守 、供給側 、技能 、立場 、紋切り型 、緊急輸入制限 、壁面後退 、問題解決 、道具 、情報格差 、(1)債務ふ履行 (2)初期設定 、原則 、災害予測地図 防災地図 、住民参画 、意見公募 、優先順位 、突破 、存在感 、新分野 、(1)資産構成 (2)作品集 、支障 、人的資源 、使節団 使命 、移動性 、万人向け設計 、読み書き能力 活用能力 、道路課金。

▼33の外来語について理解度を調査しています。全体の人で8の言葉で25%以上50%未満、そのほかは25%未満であります。60才以上ではすべての言葉の理解度は25%未満。素直に言って、ここまで外来語をつかわなければならないのかと感じました。



平成十六年十二月一日 三五五号 

115 ☆一事完了


 加齢化に伴い、体調の変化する人が多い。先ず、自筆のハガキなどの字の乱れ、文章の内容がおかしい。会話で同じ話の繰り返しがおおくなる、足取りがおかしくなるなど。しかし、このお年で言語明晰で矍鑠とされている方にもおられるので個人差がある。平均してよくない人たちが多いようだ。

▼私もその例外ではないと思う。最近、物忘れ、パソコンの操作法を人から教えられても暫くすると正確にできない。またハガキ通信など書いてそのまま発信(ワープロを使っている)してから誤字・脱字に気づくことがある。

▼生理的なものでしかたのない問題かも知れないと思う。ただ私の場合、ある一つのことを十分に終わらないで、途中でやめているのがその原因の一つのように思える。一事未完了で他事に移っている。

▼対策は一つのことが百%(自分の考えで)終わってから次のことにかかる。また、ハガキ類は必ず読み直してみるか、すぐに投函しないで一晩寝かせて翌日読み直してからにする。

▼駅などでよく見かける「指差し運動」などがある。例えば「右よし!」「左よし!」などと、いちいち指で左右を指差しながら確認してから移動している。結局は一事を完全に行い、その後に間違いないか点検することで少しでもカバーできるのではないかと。自分の状態を判断して具体案を編み出すしか妙案はないのであろう。



平成十七年一月一日 三五六号 

116 ☆心のたけ

 「……先達の心中のたけ今の学人も思ふべし、忘るゝこと莫れ」

 「……、存ぜられたる心のたけ、寔(まこと)に是れを思ふべし」

 なんともいえない、美しい言葉である。

▼曹源寺の本堂には十三面観音像が祀られている。その仏間の前の二本の柱に元住職のお軸が掲げられている。向って右側に「歩々是道場」と、「煉出人間大丈夫」

 大丈夫をただ立派な人くらいの意味にしか思っていなかった。

 「煉出人間大丈夫」。火の中で(死んだ気持ちになって)きたえにきたえて大きな心のたけの人になれ、そのためには「歩々是道場」と心がけて日常の言行をおろそかにしてはならないと示されているのだろう。

▼「貴方の身の丈はいくらですか?」「165センチです」と、即答される。

 次に、「貴方の心のたけはいくらですか?」。まず応えられることは少ないでしょう。実は私にも出来ない。

▼身の丈は若い人はある程度伸びるが限界があります。心のたけは人によっては無限に伸びるものもあれば小さくなり、中にはマイナスの人も出てくることでしょう。心のたけの尺度計はどこにあるのでしょうか。私は思う。自分自身のこころのなかにあると。
 最近の日本では、心のたけがのびるどころかひくくなっている人が多くなっているとさえ感じられるのは私だけでしょうか。

平成十七年一月一日、平成二十四年一月六日再読。 



平成十七年二月一日 三五七号 

117 ☆不自由者の工夫

 朝、寒い日であった。私は右手にだけ黒色の手袋、左手は義手のままでバス停に立っていた。

背広姿の青年がやってきた。右手に軍手をつけ、左手は手袋をつけていなかった。すぐにこの人も義手を付けていると思った。

 なんとなく話したくなり

 「お尋ねしていいですか? 右手は不自由なのですか」

 その人は素直に

 「子供のころからです」と、言って、手袋をはずしてみせてくださった。私と同じ色、形の義手であった。私のもみせると黙ってみていた。

 「何かスポーツをしていますか」

 「私は野球が好きでやっています」

 「それは……、どんなにして」

 「左手にグローブをはめて、ボールを受けて、そのまま右脇下に抱え込むようにして、左手でボールを取り、その手でなげます」

 「義手はどこで作ってもらっているのですか」

 「○○義肢会社です」

 「それだったら私と同じ会社ですね」

 そこまでの話しでバスに乗り込む。

▼私の場合は公傷であったから厚生年金保険の関係で、二年に一度、無償で製作してくれているが、彼の場合はどうなるのだろうか。

 私が目的地で降りると彼もおりてきた。

 「どこに勤めているのですか」

 「臨時で市役所に勤めています」

 「私も義手だから君も頑張ってください」と。彼は明るい顔で役所へと向った。

▼子供の頃からの義手。今日までいじめられたりしなかったのだろうか。もしも不自由でなければあれもできただろう、これも出来ただろうと思ったに違いない。右手が不自由でも野球を工夫しているように生活の中で人知れぬ工夫して生きている、生きている。




平成十七年三月一日 三五八号 

118 ☆後指(うしろゆび)を指(さ)されるな!


 近頃、こんな言葉を聞いたことがないので、すでに廃語になっているかもしれない。

 広辞苑に記載されていた。「後指を指さる」の項目で、「かげでそしられる」と説明されていた。

▼私は小学生のころ、母親から「お前はあそこの子供だからと後指を指されるようなことだけはしてくれるな!」とくちぐせのように言われていた。全ての子供はどこそこの長男だとか次男坊だとか知られているほどの小さい瀬戸内海にそった町で育てられた。地域密着型の町だった。だから良いことも悪いこともすぐに知れわたるので、町全体の人がいい意味では子供は見守られたといえる。

▼現在、住んでいるところは岡山市であるが、昭和二十二年までは市につながっていた上道郡であった。昔からの人たちの家の集団とその後の団地とがそれぞれかたまりになり混在している。お互いの交流はすくないようである。現在のような工業社会と自動車の発達はその交際をさらに妨げているようである。団地の人はほとんど自動車での通勤で町内から離れたところで働いている。

▼非常に身近な、例えば幼稚園・小学校で同級生の家族というより母親の間では関係があるようだが、その他の人たちはどこの子供であるかなど、知ることもない。だから「後指を指されるな」と言ったしつけなど行われないと思う。

▼時代とともに社会の構造があらゆる面で変化しているのだからそれ相応の規律を確立しなければ、犯罪の増加などに対処しようがない。子供たちも、青年も、大人も地域との関係が希薄であるから工夫が要求されている。各地で立ち上がり始めている、ますます広がるのを期待したいものです。


★参考

守屋 洋『新釈 菜根譚』(PHP)を引用すれば、P.25moriyasaikontan1.JPG

 道徳を棲守(せいしゅ)する者は、寂寞たること一時、権勢に依阿(いあ)する者は凄涼(せいりょう)たること万古。達人は物外の物を観、身後の身を思う。むしろ一時の寂寞を受くるも、万古の凄涼を取ることなかれ。

 人としての道は、原文では「道徳」となっている。ふつう、道徳といった場合、社会により時代によって変化していくものとされていていくものとされているが、ここでいう「道徳」とは、それとはちがっていて、一定不変のものとして前提されている。人間が人間であるための条件と言ってよいかもしれない。それを守るとは、要するに、後指をさされないような生き方をすることであろう。と解釈している。

▼守屋 洋氏の本など読んだことはなく、明治生まれの母は私には厳しい言葉でありました。今にして思えば明治生まれの母がこのような「後指をさされるな」の言葉を使っていたとは……。

平成十八年七月十六日、平成二十三年四月十九日再読。



平成十七年四月一日 三五九号   

119 ☆雲 水―師を求めて


 坐禅会で、参加者の一人が
 「修行者が師を探し求めて、求め続けるのが雲水さんですか」と、質問した。
修行者のなかにはこんな僧侶もおられることだろう。普通の町の日常生活で、お坊さんの姿を見かけることはきわめて少ないので、質問のような人を実感することはないようです。
 『広辞苑』によると
 「行雲・流水のようにゆくえのさだまらぬこと。転じて、所定めず遊歴する行脚僧(あんぎゃそう)。」
 この言葉では「行く雲の如く、流れる水のごとく」、去り行く状況を推察す

▼曹源寺原田老師は「もともと、雲水とは、雲のごとく集まり、水のごとくあつまることである」と説明された。

 「……好き長老の住したる故へに、諸方の僧雲集して堂中千人なり。其外に五六百人あるなり、・・・。」『正法眼蔵随聞』

老師のおっしゃるご説明は私の思っていたこととは違いがありましたが、言葉の意味の変化、解釈の違いを感じた。

▼行者は師として求める人とはどんなひとだろうか。徳のある人だと私は思う。徳のある人はおのずと表れるものである。

 「徳のあらはるゝと云も、財宝にゆたかに供養にほこるを云にあらず。徳の顕はるゝに三重あるべし。先づは其の人其の道を修するなりと知らるゝなり。次にはその道慕ふ者いで来る。後には其の道をおなじく学し同じく行ずる、是を道徳のあらはるゝと云ふなり。」『正法眼蔵随聞』

▼僧侶でない者が現代的に「雲 水」として、師を求めるにはどうすればよいだろうか。身近に尊敬する人がいれば教えを請うのがよい。それがなければ内外の偉人伝を読み、少しでもその人の徳に近づく努力するこのがよい方法であると思う。

 *一通の返信
 「……この度は雲水についての事について色々書かれていましたが、僧侶の身でない山頭火などの俳人の部類に入る人なども自然と一体となりたいと念じて歩きまわったようです。各地で「雲水」と思われていたようです。仏道に精進する人々が寺を持たず各地の有徳の僧を訪ねて教えを乞うて歩き回ったようです。ヨーロッパでもキリスト教で教会に属さず歩き回った人々もいます。悟りを求めて歩く人は洋の東西を問わずいたようなです。……

 返信ありがとう御座います。17.4.5



平成十七年五月一日 三六〇号   

120  ☆落想から落想へ


 いただいた本の「あとがき」を読んでいますと「内容も日常書きためたメモをかき集めて構築した、随想、落想の数々。>と書かれていた。

▼「落想」の言葉は私の語彙になかった。早速、『広辞苑』のお世話になる。らくそう【落想】おもいつき。かんがえつき。着想。とあった。今後、私もつかっみたい言葉である。

▼辞書のページを拾い読みすると、同じ漢字の「落書」でも、読みかたに「らくしょ」と「らくがき」があった。

 其の一 「らくしょ」①らくがき。②時事または当時の人物について、風刺・嘲弄の意をあらわした匿名の文書。衆目に触れや易い場所や権勢家の門・壁などに貼り付け、また道路に落として置くもの。③中世における匿名の投書。また、それが社寺によって制度化されたもの。犯罪者摘発のためにとられた。

 其の二 「らくがき」は門・壁などにいたずら書きをすること。また、その書画。らくしょ。

▼「らくしょ」の意味は、現代版で大まかに思えばインターネットでの書き込みなどに似ているところがある。

▼「らくがき」は、市内のあちこちに見られる、スプレーによるらくがき。どこの国の文字か、イラストといえるのか、なんとも表現できない。何時、誰が、何のために、わからない。

▼らくがきと同じように街路の美観をこわしているものの一つは電柱。宣伝用の貼り紙は「どうにかなりませんか」といいたくなる。破れたもの、新しく貼り付けられているもの、パッチワークの作品の展示の柱のようだ。トーテムポールではあるまいし。岡山市でも地下に埋められたところもあるが、ちょっと足を止めて空を見上げると、そこにはひろびろとした空!が、空があります。こんな想いが落想かと……。

追記:いただいた本は、村山正則先生(医師)。四冊目の著作。挿絵もご自身のもので、インターネットで拝見できます。是非ご覧ください。

*四通の返信

 其の一

 「落想は私も、はじめて聞く言葉です。落書は、らくしょ・らくがきの二通りの読みは知っていました。建武親政の頃、京都二条河原に「此の頃、都にはやるも……という書き出して世の中の様子をうまくまとめた文がありますが、これは落書(らくしょ)と呼んで有名です。国体が近いせいでしょうか、町内のみにくい、落書(らくがき)がどこにあるか報告せよとの指令を受けています」

 其の二 

「落想という言葉、初めて出逢いました。言葉から広がる世界も無限ですね。出逢ったものから何を感じ、気づき、学ぶは、こうしてヒントをいただくことでワクワクしてきます。喜びにつながったり、元気になれたり、人々がハッピになれる落想があちこちに飛びかっていると想像するとうれしさふくらみますね。」
以上17.5.4受信。

 其の三

 「諸君! 雲を眺めるということは。じつにいいですナァ。これほど手軽で、これほど、面白いことは外にないでしょう。
 落想から落想の感慨を承りました。先述の森 信三先生の(いかにも先生らしい)お言葉を思いうかべました。」
17.5.7受信。

 其の四

 確かにね、いつもハット気づかされることがありありがたく思っています。人生も七十二・三までは五・六十と余り変わらない思いで生きていましたが流石に五を過ぎ、ボチゞ墓地と残り少ない人生思うこと切です。
17.5.13受信。

 皆さん返信ありがとう御座います。



平成十七年六月一日 三六一号   

121 ☆歌は腹からへ


 歌は腹からのものであるのを見せていただいた。
平成十七年五月三日、NHKの歌謡チャリティーコンサートで女性歌手:藤さん?の歌を視聴しているときであった。私はその歌に吸い込まれる思いでした。これは本物だ!彼女の歌っているときの衣装が比較的薄物であったので、体の中心の部分から横隔膜あたりの動きがかすかに透けて見えた。其の様子はまさに複式呼吸そのものであった。喉からの声には耳にはきこえるただの音である。腹からの音声には聞く人の心にゆさぶりを与えるものだと。この人の歌唱を初めて視聴したのですが、CDを買いたいと思ったほどでした。

▼坐禅では「調身」「調息」「調心」が基本である。其の「調息」では丹田呼吸が勧められている。ここで私は「呼吸」の言葉で「吸」の字は息を吸うことで、その意味には全く抵抗がなかった。しかし「呼」が「いきをはく」には、私の語感ではそのように思えないでいました。

▼ある漢字典では嘘気の外に出ずるなり。吸の反。出息を呼といひ、入息を吸というなり。また他の字典の解字を読むと【呼】:形声。口+乎(音)。音符の乎は、呼の原字で、呼ぶの意味。乎が助字に用いられるようになつたので口を付して区別した。

▼これまで「呼」は呼ぶの意味が強く頭にたたみ込まれていて、口から気を呼びこむと思い込んで納得できないでいたのだろう。呼ぶとき、息が出るか入るかをやってみれば納得ができました。

▼歌唱と呼吸、さらには坐禅の調息について、呼吸の意味などの結びつきの思いを独り楽しみました。

*返信

 其の一

 「歌によって魂をゆさぶられ、涙が自然にこぼれたり、感動したり。声も気に通ずるのでしょうか。音楽療法も最近よく耳にします。
 呼吸の奥深さ。ふだんゆっくりと複式呼吸をすることを忘れていますが、長い息は長生きににもなりますね」
17.6.04受信。

 皆さん返信ありがとう御座います。



平成十七年七月一日 三六二号  

122 ☆太平洋戦争での私の体験


 朝日新聞の世論調査(17.6.28)の1項目がありました。

◆あなたはこの戦争について自分はどの程度知っていると思いますか(択一)
 よく知っている 13
 ある程度知っている 49
 あまり知らない 35
 全く知らない 5

▼国勢調査(平成16年10月1日)によると総人口1億2768万7千人の中、65歳以上(19.5%)、65歳未満は(80.5%)である65歳の人は終戦のとき5歳であるから、戦後の食糧難の記憶があるひともいるでしょう。しかし、65歳未満の分類に入れると、概略あまり知らないか、全く知らない人が約半数いることになる。

▼戦争について知っているのかとの設問はあまりにも範囲が広すぎる。なぜ戦争に入ったかまで知る人は少ないのではないでしょうか。私は65歳前後のひとに質問されて、その理由またその経緯についてこれだと正確に説明できない。歴史の専門家に任せるしかない。

▼ここで当時の雰囲気を私の例を参考にあげます。太平洋戦争が勃発したのは1941年、中学2年生だった。4年生(現在高校2年)のとき、5年生が全校生集会を校庭で開き、代表者が「われわれはみんな陸・海軍の学校に志願して、国のために尽くそうではないか」と、大声で演説して全員の賛成を求めた。中学生さへこんな雰囲気であったことを60歳未満の人たちは想像できないでしょう。

▼当時の戦争意識高揚は中学生まで浸透していた。全国民(中には反対したものがいただろうが、中止するまでの力はなかった)が巻き込まれたものだと思います。現在、皆さんはこんな情勢を想像できますか。

補足:

 皆さま方ご存知の浅原彰晃、この方は信者さんを集めていったが、結局は人の命を奪うというような教えを人々に信奉させ、その道を進ませてしまった。
 いわゆるマインドコントロール。そのマインドコントロールを私たちはされてはいないか。これが確かに自分の思いだと思いながら、あるいは何かに思わされているのではないのか。それを自分の思いだと、そう錯覚しておることがないのか。
 私は錯覚しておったということに気がついた。それは戦争中、私は純真な軍国少年だった。この純真なこころというものは、まさに純真だと思っていたけれども、それはある人たちにそう思い込まされておったのをを、自分の純真なこころだった思っていたことに戦後、思いいたった。それで、私は今こういう坊さんの姿になっているが、私は寺の子でも何でもない。迷った揚げ句の果てに僧籍に入った。
 その僧籍に入ったその宗門が、人の命を奪う道具を、献金してお金を集めて献納していたというのだから、私が坊さんになったという意味がなくなってしまった。あれは間違いだったということを言ってもらわないと私の人生の、坊さんになった意義がなくなる。だからしっこいけれども、私はこのことにこだわってきた。
 マインドコントロールというものの正体、その元は何か。それから脱却するにはどうあればいいのかというと、あらゆる束縛を離れるということが、無になるということ、これが六波羅密の根本。いろいろな徳目があるが、根本はこの無のこころ。布施をするのも、無のこころ。精進努力して潔斎するのも、無のこころがなければ本当の布施にも精進にもならない。だから、この無になるなるということが大切なこと。『花園』平成17年8月号:平和へのみち15:河野大通老師


春秋 2018/7/7付

 屋上にヘリポートを備えた中央の管理棟から、放射状に収容棟がのびる。高さ50メートル、周囲を圧する東京拘置所の威容だ。毎朝、通勤の車窓から見え、きのうも午前9時前、近くを通り過ぎた。むろん、刑場で3人の死刑囚の執行が粛々と進んでいたなど思いもよらない。

▼一連のオウム真理教事件で、元代表、松本智津夫死刑囚ら7人への死刑執行が東京など4カ所であった。結局、教団が起こしたあまたの凶行の真相は本人の口から語られぬままだった。公判では英語や意味不明の言葉を口にすることが多かったのは、自らに帰依していたはずの弟子らに次々裏切られた衝撃もあったろうか。

▼教団は1980年代半ば、ヨガサークルから出発、次第にゆがんだ教義に入り込み、衆院選への集団立候補と落選で謀略論に傾斜した。薬物や暴力を用いて内部への統制を強め、国家転覆の計画に行き着く。サリンを使った凄惨な犯行への反省の言葉は、教祖から聞くことがかなわない。被害者や遺族らはさぞ無念だろう。

▼加えて医師や科学者らをはじめとする有為な若者が、なにゆえ殺人も是とするカルト的教えから離れられなかったのか疑問が残る。検証を尽くし、知見が共有されたとはいいがたい。勧誘や洗脳、行動の操作などはネット上で完結する時代である。執行を区切りとせず、新たな、そして見えにくい脅威への備えを固めたい。



平成十七年八月一日 三六三号

123 ☆庭園曹源水のしゅんせつ


 毎年8月になると必ず思うことは、原爆であり終戦のことでした。今年は話題を変えまして曹源寺の庭園について述べます。

▼同寺の庭園は、江戸時代の庭園に禅院庭園としての形式が加えられての心字形池である。庭園は背後の山をいかした回遊式のものである。回遊すると、庭をはじめとして書院・本堂など眺望できる。

▼この池には白・ピンクの睡蓮が群生しており、色さまざまな鯉も泳いでいた。私どもはその周辺の四季の変化と静寂を楽しんでいました。水が汚れてきたから7月からしゅんせつされています。40年ぶりとのこと。

▼鯉を掬い上げて仮設の生簀に移す作業から始まり、40年間に山から流れ込んだ土、落葉などによるヘドロが深いところでは1メートルほどにまでたまっていた。ショベルカーが入ってヘドロ除去の作業道作りからの段取りは大変なものである。

▼眺めていると、全面のヘドロ、落葉と枯木片の塊があちこちに見られる、貝の死骸、うなぎがあえいでいたりしていた。ふと、気づいた。私の体はこの池と同じで水の代りになるもので表面を蔽っているがその内部には過去から現在までに蓄積されたヘドロでみたされているのではないかと。
★声を出して『正法眼蔵』を読みたくなる……。

 右側写真(武野 篤さん撮影)の文章

 「庭園曹源水」
 此の庭は元禄十四年に津田永忠(後楽園創作奉行)が築造した江戸時代庭園に禅院庭園としての形式を取り入れた。池泉回遊式の庭園である。後山を背形とした心字形池には亀島があり、山畔中央に出島と瀧組を配し、これは鶴島を代表している。此の瀧組は枯山水の瀧組手法を踏襲したもので、三段形式を採り、実に見事な技倆を見せている。
 本庭の池泉はその手前が弓形の池泉形式である。石組みは船着きであって、池泉に護岸を用いない点は京の修学院離宮の茶庵の池泉と共通するものである。
 当寺は境内広潤にして幽玄。堂宇亦た宏壮にして雅致に富み、伽藍の結構の美と相俟って他に比類なき巨刹である。
*平成17年7月26日、写之。



平成17年9月1日 三六四号

124 ☆2005年の8月


 今年の8月は特別に暑い日々でした。お天気もさることながら、新聞にテレビに太平洋戦争終結60周年に関連した記事の満載でした。これまで胸の奥底にとどめていた戦中、終戦前後の秘話が語られていました。私も例外でなく、60年前の体験をホームページ< 「習えば通し」にかきこみました。また、考えさせられたことが多い月でした。

▼60年といえば、終戦直後に生まれた方々が60歳。定年を迎えられる方もいるでしょう。この戦争の歴史的事実から何を教えられたか、痛ましい経験は伝承されるものだろうか。徐々に忘れられ変化するのは間違いないことでしょう。

▼9月になります。通常なら季節は涼しくなるが今年は政治問題で異常です。衆議院議員選挙が行われますので、8月の解散以来、連日選挙関連の報道で満ち溢れています。郵政民営化法案に反対した議員は自民党公認にしない、その人たちの選挙区に対立候補者:「刺客」を送るなど物騒なことばがまかり通る状況が展開されています。議員たちの行動の底に流れる人間性を赤裸々

▼政治から自然に目を向けると、すべてを包んで実りの秋を迎えています。



平成25年9月1日 三六五号

125 ☆思いがけない一通のハガキ


 平成25年5月13日、一通の葉書が我が家の郵便受けに入っていた。兵庫県の西山啓子先生からのものでした。あまりにも懐かしくて何度も何度も読み、私のパソコンの日記に書き写しました。

▼私は自学自得ハガキ通信を昭和62年12月1日(1987年)から初めました。研修所終了者を対象にしていました。

 その後、森 信三先生の主催されていた「実践人」の夏期講習会に三回参加させていただきました。それからは、その参加者の方々の数人にもハガキ通信を差し上げるようにしました。

▼その講習会で西山先生としりあいになりました。先生は苦学されて先生となられ、さらに兵庫教育大学の修士課程に推薦されて国語の研究をされました。その立派な研究成果の論文も頂きました。

 また、学校に勤務中では、担任のクラスでの指導にこしぼねに読まれるように、腰骨を立てること(立腰教育となずける)を行われていました。ある年、お勤めの学校で全校で行うよう提案されて、認められましたとのお便りをいただきました。

▼平成18年4月4日(2006年)ハガキ通信:最後の一葉で終了しました。

 記憶があいまいですので正確に言えませんが、かりに2006年からハガキの交流をやめたとしても現在(2013年)まで7年もごぶさたしていた計算になります。

▼先生のおハガキの内容に今年四月に定年退職されて主婦になりましたとかかれており、また文面に私の家内が雲の人となっていることにお悔やみのご挨拶と、私の生活にこころくばりをしてくださっていた。

 私は人と人とのネット網は想像の範囲を超えていることをを体験いたしました。

 ハガキ通信:最後の一葉に追加することにしました。



平成25年9月1日 三六七号

126 ☆ハガキ通信:最後の一葉


ハガキ通信:最後の一葉

 344号 「平成17年9月1日」で中断していました 私の想いはつきません。このハガキで終わらせていただきます。

  「……朋(とも)‐〈便り〉‐あり、遠方より来たる。亦た楽しからずや

川の上(ほとり)に在りて曰わく、逝(ゆ)く者は斯くの如きか。昼夜を舎(や)めず

 私は文章を書くのは好きです。上手、下手は思ったりしたこともありません。しかし考えますと読んでいただいた人には時間をつぶしていただくことがあったのでは、またお便りくださり、お手数をおかけしたことにたいしてはお礼申し上げます。

 インターネットのホームページに「習えば遠し」(自学自得ハガキ通信の過去のものが全部含まれています)の題目で掲載させていただいています。もしお暇がございましたら是非みてください。

 森 信三先生には言い訳ができませんのでこれくらいで、最後一葉のあいさつにさせていただきます。

 皆様! 本当に長い間のご愛顧ありがとうございました。ご自愛ください。

終わり