★習えば遠し ハガキ通信(1) ハガキ通信(2) ハガキ通信(3) ハガキ通信(4)

 ―ハガキ通信(1)―
POSTAL CARD COMMNICATION ーPART1
改 訂 版 2023.04.01 改訂


◆◆◆自学自得ハガキ通信◆◆◆

まえがき

 昭和六十二年(一九八七年)十二月一日からはじめました。その一号に次のように動機を述べています。

 ㈱クラレ研修所において研修生の行動の指針は自学自得でありました。第一線のリーダとしての管理技術習得に励みましたが何よりも大事なのは自分で学び自分で体得する心構えを身に付けられたことであったと信じます。研修所でお互いに心の扉を開きともに学び共に育ったのはいつまでも忘れることの出来ないことです。研修所に在任当時、通信教育の期間中、皆さんにハガキを書きました。終業してからもできれば切磋琢磨したいものだと。そのためには定期的に通信、その名称として「自学自得ハガキ通信」といたしました。

 昭和六十二年の四月より高校に勤めるようになり、仕事に取り組んできました。漸く慣れてきたので、年が改まって念願の通信をとおもっていましたが即実行することにしました。退社してからも多くの研修所修業生の方々から折々のお便りを戴いてきましたのもハガキ通信を速める力になりました。この企画の原動力になっているのは森 信三先生の教えの賜物です。

 幸いにもこの夏ワープロの練習を始め、秋、東芝ルポ90Fを購入したので活用することにしました。可能な限り毎月一回は発信したいと願っています。

「ハガキ通信」の経緯については、契縁録(三)平成四年五月発行(契縁録刊行会)に寄稿いたしましものを転載させていただきます。一部加筆しました。

 森信三先生との出会いは雑誌の記事でした。「九十九才の哲人、森信三氏に聞く」(『致知』60年11月号)のインタビューです。立腰、ハガキ道などに魅了されました。先生についてさらに知りたいとの思いにかられ図書館をめぐり、倉敷市立図書館で『森信三全集』(続編第一巻~第八巻)、『不尽叢書』をさがしあて誌上再会しました。当時、私は株式会社クラレの研修所で第一線リーダーの育成を目的とした研修を担当、主体性を高める具体策を模索し教育していました。早速、『不尽叢書』を注文したところ、同年十二月、倉敷で、寺田清一様が講演の機会に私の勤務先にお立寄り下さいました。森先生をはじめご道縁の方々のお話をうかがい、先生に傾倒する端緒となりました。

 昭和六十一年二月四日 寺田様のご案内で、立花の実践人の家を訪問後、辻光文様(初対面)と同道して神戸市灘区の自宅を訪ねました。はじめてお目にかかり、心底を見透されるするどい厳しさと慈愛のこもる清話に心の共鳴するのをおぼえました。立志の日にふさわしく、ご著書を心読して、ご提唱の立腰、小自伝の作成、ハガキ道の実践を念じました。八月には、兵庫県三田市での実践人夏季研修会に初参加しました。先生は車椅子でした。終世の師とされている皆様の敬慕の情、会場にみなぎる参加者の情熱と静謐な充実感に身も心もつつまれ、先生のご講演、参加者の実践報告を拝聴しまし。

(一)「立腰教育」の実践として企業内社員研修において立腰の紹介、実践、さらに静座による筆写などをしました。状況は『実践人三五七号』に寄稿しました。現在、私は禅寺の日曜坐禅会に参加して、坐禅・静座の工夫をしています。

(二)報恩録としての「自 伝」作成については、研修生の課題の一つに「自分史」を作成させました。同時に私も始めましたが、在職中は仕上げることが出来ず、約四年後、書き上げました。昭和六十二年十二月より「ハガキ通信」を指導した研修生を対象に始め、その後、先輩・知人・実践人の一部の方に差し上げています。通信文が『実践人』に紹介され実践人会員の方々との交流を深めています。

平成八年 月

黒崎 昭二
 
目 次

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01自学自得 02年頭自警 03立 志 04今日がいちばん若い日
05基 本 06曹源寺にて―中村久子ー 07雨の日 08人生の名人
09沖縄旅行 10能 力 11通いなれた路 12日記の効用
13祭 書 14挑 戦 15曹源寺日曜坐禅 16初めに行動ありき
17私の三月のメモから 18当たり前 19善事を読む 20短波放送を聴く
21素顔のアメリカ 22価値判断 23習 慣 24うひ山ふみ
25海軍兵学校での規律 26ひとりで自得できるか 27 28自 分 史
29お弁当二話 30書写のすすめ 31 入れただけしか出てこない 32アメリカ研修旅行
33やってみよう 34形に現れた効果 35老いて学べば、即ち死して朽ちず 36書写のすすめへの所見紹介
37口誦のすすめ 38自分の顔 39得度式 40コムュニケーシヨン
41尚よい本 42期待どうりの人になる 43時代の問題提起 44『こしぼね』
45時間分析 46三分間スピーチ 47後生に道を託す二題 48独り善がり
49ヨーガ(一) 50私の読書会参加 51明日は明日の風が吹く 52二つのご縁
53自分の道 54なまえ 55千に三つ 56成り切る
57第二新卒 58社会変革と教育 59姿見の鏡 60九一年の実行状況
61相対的見方 62悪口と讃めことば 63片腕のスキー体験 64論語を読む
65啐啄 66帰巣本能 67今の君は以前と変わらないのか? 68「悱」と「憤」
69辞書二題 70求 道 71避けて通る 72転石苔を生ぜず
73理科教材 74温度目盛・華氏 第二報 75ヨーガ(二) 76 私の八月十五日
77 書き写す速さ 78能力の発見 79鐘の音 80動く……運動の法則を読んで
81感動話を宿題に 82ボディー・ランゲジ 83感動話 この一勝 84九二年 私の実行状況
85一日読まずんば、一食喰らわず 86無一物―中村久子 87無用の用 88 行くに径に由らず
89ゆずり葉「譲葉・交譲木・楪」 90地球自転・・・無意識界 91本人あてのハガキ 92ない ある
93千日書写 94非無理 95語 楽96剪定と文章推敲
97櫂の木 98『カンジ 言葉を持った天才ザル』 99黒い雨 100上杉鷹山
      


   


昭和六十二年十二月一日 一号 

自学自得


 表題は㈱クラレ研修所において研修生の行動の指針でありました。第一線のリーダとしての管理技術習得に励みましたが何よりも大事なのは自分で学び自分で体得する心構え即ち「自学自得」を身に付けられたことであったと信じます。研修所でお互いに心の扉を開きともに学び共に育ったのはいつまでも忘れることの出来ないことです。研修所に在任当時、通信教育の期間中、皆さんにハガキを書きました。終業してからもできれば切磋琢磨したいものだと考えていました。そのためには定期的に通信をしてはと思っていました。

▼今年の四月より高校に勤めるようになり、仕事に取り組んできました。漸く慣れてきたので、年が改まって念願の通信をとおもっていましたが即実行することにしました。退社してからも多くの研修所修業生の方々から折々のお便りを戴いてきましたのもハガキ通信を速める力になりました。この企画の原動力になっているのは森 信三先生の教えの賜物です。

▼幸いにもこの夏ワープロの練習を始め、秋、東芝ルポ90Fを購入したので活用することにしました。可能な限り毎月一回は発信したいと願っています。
☆補足1:「自学自得ハガキ通信」のトッページの説明文とした。
平成十八年六月七日
☆補足2:ワープロ:東芝ルポ90Fも長い期間使用していましたが、パソコンに切り替え、そのまま放置していました。平成十八年七月十二日(購入後18年)、埋め立て塵として処分した。



昭和六十三年一月一日 二号 

年頭自警


「貴方にとっては過去一年間はいかがでしたか」と周りの人に挨拶を交わしました。たいていの人はそうですねと暫く考えてご自分の仕事上での、つぎに家族での変わったことを話されます。その変動が大きければ大きいほど印象が強かったようです。この変化は、会社員であれば会社での事柄、そして家庭での喜びごとなどです。

▼しかし、よく考えると、自分の意志によるものというよりは与えられたものが多かったのではないかと思います。自分の計画をどれだけ達成したかということを考える人は希のようです。普通の生活では変化は少なくなるようです。そこで自分で変化を創造したいものです。それには具体的目標を立て、挑戦することだと思います。そうすれば計画が目標点に到達すれば喜びを感ずることが出来、たとえ達成されなかったとしても自分で納得が得られます。実行するには年頭のいま、一年間の目標を日記に書いておき、年末に振り返ってみることにすれば充実した一年を過ごすことが出来るでしょう。



昭和六十三年二月一日 三号 

立 志


 成人の日、NHKTV高校生物講座を立腰正座して視聴しました。昨年四月から学校に勤めて化学・生物・物理を教えているので欠かさずに見てきました。二〇歳になった青年の立志を励ます日が国民行事としてあるのは喜ばしいことであります。青年の主張コンクールをはじめとして記念行事が盛り上げています。

▼希望に満ち満ちている彼等が、将来に向かってその志を具体化して実行に取り組む節目にしたいものです。しかし成人になった者たちだけの日であろうか。毎日の生活に追われている我々も立志の日を活用したいものです。
▼世阿弥(室町初期の能役者)はつぎのように言っています。「初心忘るべからずこの句三か条の口伝あり。是非初心忘るべからず。時々初心忘るべからず。老後初心忘るべからず。この三よくよく口伝なすべし」。

 年代にふさわしい初心を強調しています。この考えをさらに押し進めると毎日を精一杯に生き、人事を尽くして天命を待つの気概で生きたいものです。

▼森信三先生のお言葉「人生二度なし」これ人生における最大最深の真理なり。 

       



昭和六十三年三月一日 四号 

今日がいちばん若い日


「英語の単語をすぐ忘れてしまう」、「白髪が増えてきた」、「体のあちこちの調子がおかしい」。こんな事を思ったりしているとつい「もう歳だから」と口に出したくなる。自分のいままでの体の調子が良かったときの記憶で現在を比べているからであろう。過ぎ去ったものであって取り返せるものではない。未来を見つめると今日はその出発点である。表題は新聞広告で見た書名である。「今日がいちばん若い日、いちばん若い日」と口ずさむと気分が明るくなります。

▼小沢道雄氏は右肩負傷、両足切断されて療養中、仏に祈った。しかし何事も起こらず「観音は私を裏切っているもう祈ることを止めよう」と思いつめたとき、「苦しみの原因は比べることにある。比べる心のもとは二十七年前に生まれたということだ。二十七年前に生まれたということをやめにして、今日生まれたことにするのだ。両足切断したまま今日生まれたのだ。今日生まれたものには一切がまっさらなのだ」と心の中てさけんでいた。『本日ただいま誕生』(柏樹社)より。
▼小学校時代の恩師の言葉「いまいまを本気に」を思い出す。



昭和六十三年四月一日 五号 

基 本


 学校は四月から新学期になります。学問の基礎的力は、どの様にして体得できるかについて考えてみました。高校で教えるために化学・生物・物理の教科書を丁寧に読みました。基本的なことが慎重に注意深く一字一句記述されているのに驚かされました。中国文学を教えられている大学教授と話していると、中学校と高校の教科書が基礎的なことの勉強には一番良いといわれていました。

▼徳川夢声という人を皆さんもご承知と思います。彼は話し家といえましょう。話題が極めて豊富で感心させられたものです。彼の知識の源泉は旧制中学の全ての教科の教科書を繰返し読み勉強して身に付けたとのことです。

▼教科書は普通の本に比べると無味乾燥なものです。これを読むには相当な忍耐力が必要であり、その退屈さに勝てる人だけが実力をつけることができるのでしょう。何かを為し遂げようとすればやはり障害物があり簡単ではないようです。目標をたてて、忍耐して、継続する。これしか道はないようです。                  



昭和六十三年五月一日 六号 

曹源寺にて


 私の家の近くにある臨済宗系の寺院で、外国修行者が二〇人ばかりいつもいます。
 日曜坐日禅会が休まずに行われて、誰でも参加出来ます。ここで見たことを二つ紹介します。

▼その一 この寺の修行僧の一人が岐阜の禅道場に出発された。老師と、閑栖さんが見送りをされていました。その弟子を真ん中にして本堂の前でお経を唱え終わると拝礼して、修行僧が出立。お二人がその後を少し離れて歩かれる。彼は真っ直ぐに正面を見詰め一度も振り返らず山門まで静かに歩み去る。山門を出たところでは多くの修行者が見送る。彼は、総門を出て、参道を静かに歩む。その道が尽きたところでお寺の方に向き深々とお辞儀をする。送る人、送られる人、遂に一言も無し。禅宗の別れの儀式を目の当たりに見ました。

▼その二 小方丈の床の間で一幅の掛け軸を見ました。

「無一物 久子口書」

 口書の実物を初めて見ました。久子は、中村久子さんです。

『こころの手足』(春秋社刊)に詳しく書かれています。八十六号を参照ください。

 昭和一九八八年四月十日、山田無文老師の油絵の肖像画がいつも掲げられている曹源寺の小方丈の床の間に一幅の書軸が掛けられていた。

「無一物 久子口書」

 この人について知らなかった。「口書」とかかれたいたので、両手がない不自由な人だと思った。中村久子さん著作に『こころの手足』(春秋社)があると教えられた。


山田無文老師 と中村久子

 禅宗の山田無文老師は、とても大事にして下さいました。母もとっても大好きな老師様でした。そして京都へ行った時に、雲水さんに聞かされた話があります。

 母がその時に泣きました。それは老師様は忙しい方です。一生懸命急稿か何かを書いている。そこへ中村さんからのお手紙ですよと雲水さんが持っていく。そうすると、ここをちょっと片付けなさいと言って、自分の机の上を片付けさせて、中村さんの便りだなって、母の手紙の封を切ってお読みになる。すぐに返事を書く。老師様こちらの仕事の方が忙しいです。こちらを済ませてから中村さんのお手紙をって雲水さんが言ったら、言われたそうです。中村さんは手がないんですよ。口でこのお手紙を書いて下さったんですよ。それをおろそかにして他のことが出来ますかと。そうおっしゃってすぐにお返事を下さる。

 すごい人ですね。だから私はそれを聞いた時に私も涙がこぼれました。母を大事に思ってくださる方。金子先生にしても曽我量深先生にしてもすぐにお返事を下さった。甲斐和里子先生もそうです。私はいろいろな方とお会い出来たのは母のお陰です。母は自分の体が、この体ゆえに、両手両足のない体ゆえに、これが私を救ってくれたんですと言いました。だから手足のないことを悲しんでもおりませんでした。

平成29年7月21日追加。

                                     



昭和六十三年六月一日 七号 

雨の日


「五月雨をあっめて早し最上川」五月雨は辞書によれば、「さ」は五月、「みだれ」は水垂(みだれ)の意味で、陰暦五月頃に降るなが雨。気分のすっきりしない梅雨を迎えます。こんなとき、兵庫県の小学校の米田啓祐先生が運動会の前日に生徒に言われた言葉を思い出す。

「もしも、明日、雨が降っても、天に向かってブッブッ言うな。雨の日には雨の日の生き方がある」と……。

▼私どもは悩む。自分の身の周りのこと、健康問題、家族のことなど様々で、数え切れない。自分ではどうにも出来ないことを考えつづけていたり、過ぎ去ったことをくよくよと愚痴をこぼし、また、先々のことを現在に持ち込んであれもしなければこれもしなければと気ばかり焦り、心配している。実際には何もしていない。

▼何もしないことが問題であり、またそこに解決法がある。いま、自分で何が出来るのか考えて実行に移す。その行動中に工夫も生まれ、悩みは少しずつ解きほぐされている。これさえ出来ない場合もある。私には妙案がない。時間が忘却してくれるのを待つほかない。鬱陶しい季節をうまく乗り切りたいものです。

                                       



昭和六十三年七月一日 八号 

人生の名人


 将棋・囲碁に名人がいる。また、剣道・柔道にも名人がいる。その領域に達していなくても初段、二段、三段と技能の程度で段位が決められている。世の中の名人はある特定の技能に打ち込んできて長い間に人より勝れた境地に到達した人です。彼等はまず初めに志しを立てていることは見逃すことは出来ません。そして、一日も怠ることなく、精進された方だとおもいます。

▼「人生の名人」があっても不思議ではない。その判断基準に何を選ぶかが人によって様々であろう。現在の私が選ぶとすれば「人を励ます力」を一つの目安にしたい。マラソンの沿道でゴールを目指している選手に小旗を振りながら声援を送っているような人。また、だれにも知られない一隅を照らしている人だと思う。こんな人がいるだろうか? そんな者は見当たらないと思えるかも知れません。私にはこの基準で、名人位を差し上げたい人が何人かいて、その人たちからは心からの励ましを受けている。

▼長いこと人生をやってきた。これからも続く。人生の名人位に到達したい。    

補足:皆様も考えて下さい。「ハガキ通信」をしていた時の文章です。一九八八年(いまから二十二年も経過しています)平成二十三年六月八日



昭和六十三年七月一日 九号 

沖繩旅行


 私にとっての沖繩は沖繩決戦に向かった軍艦大和の最後であり、また㈱クラレでの上司であった故前田勝信氏が沖繩戦闘中の一夜にして白髪頭になった凄まじさであり、沖繩復帰、基地の問題である。

▼七月修学旅行の引率教師として沖繩を訪問する機会に初めて恵まれた。中国地方は戻り梅雨で警戒警報が発令されていた。大阪からの二時間の飛行で那覇空港に到着した。澄みとおった青色が美しい。バスで市内に向かう道々、沖繩ならではの植物・地名・姓名に旅情をたのしむ。戦跡めぐりで同じ世代の師範学校の生徒の最後を当時海軍の生徒であった自分の生活と重ね合わせて冥福を祈る。旅行期間中に沖繩本島を見て回る。田圃がない、サトウキビ畑、海岸線の美しいところにリゾートホテル、工場らしいものは見当たらない、米軍基地の存在。

▼那覇市の見物を終わり、タクシーの運転手との話。「沖縄の産業は何ですか? 沖繩の収入で大きいのは『ちりょう』です」。何のことか分からなかった。基地の土地使用料の収入であった。現地の経済、国際関係、地理などの多角的見方の必要を痛感した旅であった。現地で自分で見て聞いて考えなければ・・・・。 

参考:沖縄・志賀高原スキー・北海道ー修学旅行ー



☆追加:沖縄戦争
1945年4月1日、米軍は沖縄本島に上陸した。
1945年4月7日、呉より沖縄に出撃の大和、九州南方で米軍機動部隊により撃沈。

1945年6月18日、沖縄島南部前線の負傷者に従事の師範女子部・第一高女の生徒49人、集団戦死。6.23にかけ多数自害(‘46.3.1現地に(ひめゆりの塔建立)。
1945年6月23日、日本軍が抵抗をやめた。この後も続いた、沖縄はこの日を<慰霊の日>として、最後の激戦地だった糸満市麿文仁(まぶに)の平和記念公園で、毎年追悼式を開いている。

戦没者の総数は約20万人、内、米軍12、520人。

『近代日本総合年表』及び2006.6.24、朝日新聞記事より。

2006.6.26                                   
   



昭和六十三年八月一日 一〇号 

能 力


『現代の覚者たち』(竹井出版)を読みました。

 鈴木鎮一の実践を通しての考えを紹介します。「まず、どんなに成績が悪いと言われている子どもでも、ちゃんと日本語を話す能力は身に付けている。この母国語の教育法こそ、どんな教育法にも優れていると言うことです。どの子もうまくしゃべる能力だけでなく、他のことだって高く育つ。その可能性を備えて生まれてきている……」。

▼以下は私が高校生に話したことです。

「自分は日本語を話す力が他の人よりないと思っているものは」「誰もいないね」

「数学の力が他のものよりないと思っているものは手を上げなさい」「いますね」

「話す力は劣らないのに数学で劣るのは何故ですか? 二つにはどんな違いがありますか?」

「日本語は赤ん坊のときから口真似してきた。数学は小学校から始めた」

「私は英語を勉強しているが英語を聞く力はアメリカの子どもよりない。しかし能力は劣っていると思いません。毎日使っていないからです。休まずに自分から進んでやってみる。つづけられないものが落ちていくのです」と。             



昭和六十三年九月一日 一一号 

通いなれた路


 通勤のみちはいつも同じである。その路をはずれて、初めての通りを歩けばそこに小さな旅がある。バス通勤で一駅前から歩けば季節を感ずる。革靴をスニーカに履き代えればリラックスして歩ける。

▼多くの人が自動車で通勤している。彼等の中には運動不足を訴えているものもいる。体を使わず神経を使っている。運転中、考えにふければ危険である。自然を観察するにはスピードが速すぎる。運動不足を補うためにスポーツにわざわざ出掛けたりしている。便利さに慣れて気がつかないうちに色々なものを失い、自然に遠ざかり神経を磨り減らしている。歩いての通勤では体を使い、四季の美しさに触れ、様々なことを考えながら心は静かに落ち着いてきます。

▼日々の仕事ではどうだろうか。同じことを、マンネリズムに陥っていないだろうか。同じ思考の繰返をしていないだろうか。仕事を見直す余裕はあるだろうか。無駄なことをしていないだろうか。いつも歩きながら考えたいものです。学校は体育祭・文化祭がたけなわです。今年も秋が益々深まろうとしています。脚下照顧したいものです。  
                                     



昭和六十三年十月一日 一二号 

日記の効用


 私は日記を書き続けている。気力が充実しているときは日記も気持ちよくかけて、内容も明るい。反対に気分が滅入っているときとか健康に不安があるときには精神状態がそのまま反映されて暗いものになっている。ひどいときは書くのを忘れることさえある。

▼ノイローゼに罹った人たちの療法のひとつに「日記指導」が取り上げられている。「生活の発見会」が森田精神療法を理論的な基礎として採用している。内容は不安・悩みに取り付かれてこの会に入った人が先輩の会員に自分の書いた日記を提出すると早速、赤ペンで書かれたコメントが戻る仕組みになっている。この会に入って不安を解消できた人がたくさんいるようである。(日本経済新聞)

▼書くことは勿論のこと何もすることもできなくなるまでに心が弱まることさえある。自分では仕方のない不安材料だけを繰り返し思って沈んでいる。こんなときこそ自分の精神状況とか毎日の生活での出来事を書き始めれば心は徐々に安定回復に向かう。自分を奮い立たせるために日記を書いている人もたくさんいると思う。ハガキ通信、一年続きました。



昭和六十三年十一月一日 一三号 

祭 書


 ことしも余すところ一か月になりました。年の瀬に関係した祭書の話しを紹介します。毎年の年末、一年中に得た書物を祭壇にそなえ、友人と詩をつくりあって祝福した人がいます。
 中国の清時代の黄丕烈(一七六三~一八二五)がその人です。彼は科挙試験合格者(現在の日本では国家公務員試験一種の行政職合格者に相当)であったが役人にならず書物きちがいとして一生を送りました。彼は中国の書物の古版をあつめるばかりでなく、そのあるものをもとの版式どおり復刻した人であり清朝の蔵書家として第一人者でありました。蔵書家である友人たちが集まり、書を祭り、詩作をし、古版をひもときながら年末のひとときを過ごした様子をおもうと最高の贅沢を楽しんでいたようににおもえてきます。できればこんな余裕を持ちたいものです。

▼私も十二月には一年間の日記を調べながらその年に買った本の書名、購入月日だけをリストアップしています。本との出会い、その本とのつき合いなど人間関係に似ているように感じられます。積極的に本に打ち込めば打ち込んだだけ応えてくれるようです。



昭和六十四年一月一日 一四号 

挑 戦


 研修生は、研修期間、仲間がおり、期間が限られていた。研修所を修業してからは自分一人でやらねばならない。自学自得は努力しなければ出来ない。自分の目標は何か?生涯学習である。いつたいどうすればよいかと思案するだろう。

▼昨年、私は英語のヒアリングに挑んだ。子供の中学校の教科書を読み、NHKラジオ英語を聴いた。始は続基礎英語の半分も聞き取れなかった。実用英語技能検定(六段階)があることを知った。二級は高校卒業程度で合格率。十五%の難関。ある人は定年退社してから英会話を勉強して英検二級を受験したが不合格。その後、発奮して英検一級に合格、国連英検特級までとっている。英語を学ぶ秘訣は「忍耐、継続そして英検受験」だという。この人の英検受験提案が参考になった。

▼英検二級を受験 一次試験はペーパーテストとヒアリングテスト。二次試験は英語による個人面接。年配の受験者は一人もいなかった。女性が六十六%であった。合格出来た。自分が求めて一年間勉強した。ラジオ英語も聞けるようになり、ペーパーバックスも楽しく読めるようになってきた。一年間勉強継続、自分なりに上達を体で実感。今年は英検準一級に挑戦したい。     


追記:準一級に挑戦したが見事に失敗。岡山市にある就実高校で受験した。その教室は板張りで、掃除用具などはボックスがなくて、一目で箒・雑巾などが見える工夫されていることに感心させられた。              



昭和六十四年二月一日 一五号 

曹源寺日曜坐禅


 私も参加している日曜坐禅会を紹介する。井山宝福寺(岡山県総社市)とともに有めいな曹源寺は私の家から徒歩十五分。二十人位修行されている。

一 毎週日曜 七時四十五分までには本堂に集まり、八時の木鐸の合図を坐禅をして待つ。静寂そのもの。線香の紫煙が漂う。四、五十名が参加。女性、子供、外国の人もいる。自動車で一時間近くの遠距離からの者、二十五年も坐禅されている常連など。直日が指導。
二 「白隠禅師坐禅和讃」斉唱。前半約三十分坐禅。中休み。大局拳体操。後半約三十分坐禅。警策、打つもの受けるもの警策前後合掌拝礼。「四弘誓願」斉唱。
三 老師法話。
四 小方丈で、老師がたてられる抹茶とお菓子の接待うける。清話。

▼日曜日には欠かされたことがない。今年は元日が日曜であったが大勢の人が参加していた。だれでも参加できる。大勢がいるから継続し易い。参加者からエネルギーを受ける。法話、接待を通してこころの問題を、布施のこころを学でいる。      



昭和六十四年三月一日 一六号 

初めに行動ありき


 後(あと)知恵が多い。なにかをすると後から思い付いて、知恵がついている。最近、比較的長い英文の暗記を始めた。物忘れが多くなっている。覚えることができない。考えることさえできればよい。本を読んで理解できればよい。もう年だから。数え上げればいくらでも自分の現状を肯定する理由づけをしている。暗記しようなど考えたこともなかった。

▼実行中に感じたことを纏めてみた。やみくもに暗記しているだけでは決してなく、記憶し易くするために文章を分析、識別、判断している。文章には筋が通った流れがあるから思ったよりは覚えやすい。前頭葉の活性化だけではなく、集中力の訓練になる。私の方法は口に出しながら覚える単純作業の繰り返しで、新規性は全くないものである。ただ、教科書一ページ程度を紙切れに書いたものをいつでも、どこででも開いて記憶を確かめる用意をしている。こんなことでも実行してみると、予想外に生活の中に空き時間、待ち時間がかなりあるものである。

▼古典・短歌などを暗記朗唱すると感性を高めると言われています。



昭和六十四年四月一日 一七号 

私の三月のメモから


「亦ある人勧めて云く、仏法興隆のために関東に下向すべしと。答えて云く、然らず。若し仏法に志しあらば、山川江海を渡りても来りて学すべし。その志し無き人に往き向ふて勧むるとも、聞き入れんこと不定なり。」『正法眼蔵随聞記』
 河合継之助(長岡藩)は山田方谷(備中松山藩)に師事。江戸時代末、新潟県から岡山へ。

▼臓器移しょく 肝臓移植でオーストリアへ出発。胆臓閉鎖症。腎臓・肝臓・心臓移植にアメリカ、英国、スウェーデン、フイリッピンへ。脳死判定が論議されているが患者は外国で治療救命。

▼神戸大学ボート転覆 大阪淀川で練習、高波、一人死亡、二人が不明。当日朝から強風波浪注意報発令中。全員救命胴衣は準備していたが、座席の下などにおいており、浸水が早すぎて着ける暇がなかったと言う。十八人の内十三人は自力で岸に辿り着き、二人だけボートに掴まっていた。ヘッドコーチは「艇が転覆したら救命胴衣をつけて艇につかまり、助けを待つのが原則だ」と言う。英国では、ヨットマンの海洋事故は新聞記事に大きく取り上げられない。気象情報は正確にだすがそれからは本人たちの問題であるとする世論。
追記:冒頭の言葉は私は何度も引用している。17.4.10               

    



昭和六十四年五月一日 一八号 

当たり前


 私は、人は誰でも成人になったら早い時期二~三日間、突然目が見えなくなり耳が聞こえなくなったら祝福すべきことだと考えることがある。暗黒は見えることに感謝させ、沈黙は音の楽しさを知らせてくれるだろう。時々目の見える友達に何を見ているかと試している。最近、森で楽しんで帰ってきた友人に何を見たかと尋ねた。「別に何も」との返事でした。若しこんな返答に慣れていなかったら信じられないことです。ずっと前から見えることと見ることは違うことを知っていますから。注目に値することを見ないで一時間も森を散歩することがどうして出来るかと自問します。自然界の多くのものを見たいと張り裂けんばかり願っています。触るだけで喜びを味わっているのだから見ることができれば美しいものが現れてくるに違いありません。だけど見ることの出来る人は余りにもみていない。多分持っているものには感謝しないで、持たないものを望むのが人間なのでしょう。

▼ヘレン・ケラーの奇跡的に三日間だけ見ることが出来て、再び暗黒の世界に舞い戻ったらとしたら、何をしたいかの冒頭の文章を翻訳しました。見る、聞く、話す、書くなど、当たり前と思い過ぎていないか? 考えさせられます。



昭和六十四年六月一日 一九号 

善事を読む


 日本経済新聞最終ページ「文化」は私の好きな欄である。最近の記事で楽しく読ませてもらったものは、『札幌の「時計台」ドクター』(五月三日)は時計を二代にわたり動かし続けている人のお話しです。「荒野は庭、羊といつまでも」(五月四日)は若い日本女性がイギリスの僻地で自分の生き方をみつけ逞しく生きている。世間的には名前を知られていない人が真剣に生きようとしている、また生きていると感じられるとたまらなく共感をおぼえる。

▼「この世界におけるただ一切の善事だけを報道して、悪だの、くだらぬ事柄には見むきもしないような新聞なり評論誌なりを、われわれは持つべきであろう。それを読めば、この世には一体どれほど多くの善事がなされており特に最初は邪悪だったものが善に転じたり、善に仕えるようになるものがどれほど多いかも、分かるであろう」カール・ヒルティ『眠られぬ夜のために』
▼これでもか、これでもかと善事も悪事も無差別に報道されている。くだらぬ事に見向きもしない勇気を持ちたいものです。



昭和六十四年七月一日 二〇号 

短波放送を聴く


 英語の練習のつもりで短波放送受信セットを購入した。VOA・BBCの英語放送をきいている。今までは外国の情報も報道機関で処理され、与えられるものに全面的に頼っていた。

▼外国放送を生で聞いての感想:ヒアリングでは、英語放送の話す速度では、話される順序にそのまま耳で受け取る以外に方法がない。十分には聞き取れないが頑張っているのが現状である。放送内容では、世界の出来事を短波にのせている。日本の出来事も取り上げられている。彼等の関心事が何であるかを具体的に知ることができる。翌日、放送で聞いたことを新聞で読むと内容の取り上げ方に違いがあり、外信部で処理されたものを読まされているとあらためて感じた。

▼「私どもの習俗を一そう健全な批判するためにも、また何事をも見聞せずに過ごした人々がおちいりがちな、私どものやりかたに反するものはすべて笑うべきもの、道理に背くものと考えてしまわぬためにも、諸国民の習俗について何ものかを知るのは善いことである」。デカルト『方法序説』



 昭和六十四年九月一日 二一号 

素顔のアメリカ


 先月約一月間、アメリカを旅行。今回の海外旅行は家内と同行。ニューヨーク市に住んでいる長男夫婦のアパートに滞在、市民生活を楽しむ。N・Y市内ではスーパーで食品を買い、テレビでニュース、天気予報を聞き、野球を観戦。時には川のほとりを散歩、有名商店街でウインドーショッピング。日本での日常生活と大差のない毎日。週末にワシントン、ナイヤガラなどN・Yを中心とした東部の限られた都市への小旅行に出かけた。私は十日間(一日四時間)アメリカの青年を先生にして英語のレッスンを受けた。こんなことでもなければ海外旅行で現地の人と話し合える機会はなかっただろう。

▼飛行機からの国土の広さ。人種の多様性と融合性。食品が安く、衣類が香港からの製品が多く、日本製カメラ・計算機など日本よりかなり廉価に売られている。消費税が八・五%かけられている。生活から米国消費構造・貿易収支を考えた。野球・演劇などでエネルギーをぶっけて忠実に個人の役割を果たしている様子から競争社会を思った。バスでの乗降マナー、順番を待つ行列に彼等の習慣・気質を思った。

 素顔のアメリカを通して実は日本を思い、考えていた旅行であった。



 昭和六十四年九月十日 二二号 

価値判断


 ニューヨーク市内を走っている普通車を見て驚かされた。バンパーは凹み、ボディーは傷だらけ、サイドミラーがぶらぶらしているものまで様々である。車検は有るのだろうかと日本の車と比較してうたがわしくなるほど車の考えが違う。六十七歳の知人がロシヤ語を勉強している。よくやるものだと感心させられる反面、年齢にふさはしいもので、楽しめるものがないのだろうかと。年配者は価値判断の違う若者を新人類と名付け愚痴り、また反対に旧人類と呼び古いと反論。

▼価値判断は民族、性別、世代、職業により、極論すれば一人一人違う。新人類の価値判断について考えてみよう。判断基準は個人の生活した環境によって形成されたものが多いだろう。若者に影響した環境は年配者も等しく経験している。新人類のそれを醸成した生活環境は良い悪いは別として旧人類が造り上げたのである。ただ違うのは年配者は若者が経験しなかった環境の洗礼を既に受けている。なぜ異なる判断を持っているのだろうか? 価値判断はある特定の期間に強く形成されてしかも継続、固定化され、変えることが難しい特性を持つようである。

 価値基準の多様性と固定化が絡み合い複雑な人間関係をつくっている。



 昭和六十四年十月一日 二三号 

習 慣


「人生の行為において習慣は主義以上の価値を持っている。何となれば習慣は生きた主義であり、肉体となった主義だからである。誰のでも主義を改造するのは何でもないことである。それは書名を変えるほどのことに過ぎぬ。新しい習慣を学ぶことが万事である」『アミエル日記
「習慣は徳性と離すことの出来ないもので、第二の天性ともいわれる」 安岡正篤

▼私は読書が好きですが、振り返ると、つぎのようなことがおもいだされる。
 一 読 書…読みたい本を出来るかぎり身近な所に積んどく。
 二 メモ帳…常時携帯していて。思いついたときすぐに要点を書きこむ。
 三 読書好きな友人がいて、あれを読んだかなどと刺激を受けていた。

▼いつでも直ぐに読み、書き、聞ける環境を作っておくこと。初めは、何もすることがないときなどに一寸やってみることから始まるだろう。次に少しずつ続くようになって、そのうちに習慣となる。

 習慣化する態度を一旦体得すると、自分は、何かをしようと決心さえすれば継続出来るものだと自分自身を信頼できるようになる。こんな素晴らしい効果は実行者だけに与えられる。       

▼岡山市の曹源寺では日曜日坐禅会がおこなわれている。元旦でもお盆でも例外はない。熱心な人はよほどのことがない限り参加されている。身近な知人(坐禅会で知り合いになった)が数人おられる。敬朊させられている。



 昭和六十四年十二月一日 二四号 

うひ山ふみ


「又いづれの書をよむとても、初心のほどは、かたはしより文義を解せんとはすべからず、まず大抵にさらさらと見て、他の書にうつり、これやかれやと読ては、又さきによみたる書へ立ちかへりつつ、幾遍もよむうちには、始に聞えざりし事も、そろそろと聞ゆるやうになりゆくもの也」。本居宣長『うひ山ふみ』

▼最近、アメリカの高校で教えているエチケットの原書を読んでいる。内容は日本人に共通するものとそうでないものがある。体験のない事柄を読むときは理解出来ないばかりでなくて、語句が分らないものが文章に含まれているときはお手上げになる。

▼読み方に二種類ある。文章を読んでいるとき未知の単語を辞書を引きながら順次読み進める方法と、頼らないで文書全体を通読する方法である。結論は後者が勝れている。全体の概略が頭に入っているから分からなかった語句をあとで辞書で調べるとき的確な用語を見付け出すことができる。

参考:本居宣長著『うひ山ふみ 鈴屋答問録』(岩波文庫)があります。
平成二十三年六月九二日再読。


                       
 平成二年一月一日 二五号 

海軍兵学校での規律


 その一 言い訳をするな 高校の先生が一生懸命に授業をしている。二~三人の生徒が話を始める。その中の一人に注意すると

「なんで僕だけ注意するの。僕が話したのではない、話しかけられたからです」と必ずといつてもよいぐらい言う。彼等は十五~十六歳である。私はこの年頃、海軍兵学校にいた。上級生徒に注意されて何かを言い返すと 「言い訳をするな!」と厳重に注意された。また、注意されるときは

「よく聞け、二度と言わない!」としつけられた。言い訳が通用するものとそうでないものとがあるだろう。自分にたいしては言い訳しない生き方をしたい。

▼その二 岡山県御津の研修センター(UAゼンセン中央教育センター友愛の丘)の書籍販売は無人になっていた。棚の隅に料金箱が置かれて、買った人が定価を見て、お金を支払う。兵学校では、生徒が利用する校内の理髪店がこの仕組みだった。また、料金(昭和19年当時、5銭)よりたかい硬貨しか持たないときはそれを箱に入れてお釣を取ることは許されなかった。決してあやまちはなかった。


                      
 平成二年二月一日 二六号 

ひとりで自得できるか


 曹源寺で修行していた人が静岡県の禅寺で修行を積んでいる。一番困っていることは参禅がないことだそうだ。曹源寺では坐禅・作務・参禅と日課に追われている。彼は徹底的に見性を願っていたので坐禅に徹するために静岡に行かせてもらった。参禅は修行者が一人ずつ師家の室にはいり、かねて授けられた公案について自分の体験した見所を師家に捧呈する。専門道場では通常朝夕二回、接心のときは一日三~四回行われる。体験者のお話では参禅は怖いほどの問答だそうだ。しかし自分の進歩の程度が確かめられる。そうでなければひとりで判断しなければならない。

▼私の自ら学ぶ案 行動の基準を作り、刺激・激励される手段をたて、進歩の程度が判定できる方策を考え、継続のために定期的に実行する。学ぶ環境作りが出来れば半分以上は自得出来る。一つでも良い、二つ以上は尚ほ良い。
 一 尊敬する師匠をもつ 
 二 ハガキ通信の実行 
 三 読書会参加    
 四 日曜坐禅会参加   
 五 ラジオ講座を聴く  
 六 検定試験受験   
 七 定期刊行物を読む 


                      
 平成二年三月一日 二七号 


▼道を歩かない人  歩いたあとが道になる人
河井寛次郎

僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る       
        
高村光太郎

画を習いたいという、何でも習わないと思うのは世の中のわるい習慣だ。それでは一番はじめに画かいた人はどうした。先生などないのである。
  
中川一政

一燈を提げて暗夜を行く 暗夜を憂ふることなかれ 只々一燈を頼め   
佐藤一斎

自灯明法灯明                    
        
釈 尊

ひとりひとり道を歩いている
 いままでは
 人の後を歩いてきた                             
 これからは                                 
 自分の道を
 のぼり道を                                 
 休まずに歩きたい                              
        
愚 作


                       
平成二年四月一日 二八号 

自分史


 定年時、私には、やり残したものの一つに自分史の途中止めがあった。ある会社の研修生の作文指導の課題を与えると同時に、私も書き始めたものだ。退社翌日、新しい職業につき三年近く過ぎ去ってしまった。何度か完成しなくてはと思い、今年も、新年の計画に取り上げたが二月末まで手をつけていなかった。

▼「人間はこの世の報謝として『自伝』を書くこと。随って自伝はその意味からは一種の『報恩録』といえよう。どうしてもやり抜かねばならぬ」 森 信三先生
「……されば先ず臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし……> 日 蓮 上人

▼知人が六十四歳で突然逝去された。一言も残さずに……。この時、いますぐに、なにをさておいても、やらなければならないのは自分史を書き上げることだと思い、三月、原稿を書きあげることができた。

▼悲しいことに、仕事一筋の人が定年を迎え、自分の方向を見出せずに、「燃え尽き症候群」、はては「アルコール症候群」に罹っている。自分史を書くことが対策の一つになると思えてならない。                           

平成二十三年六月九日、再読。


                       
平成二年五月一日 二九号 

お弁当三話


 その一 十人の中学生のお母さんが材料はまったく同じもので弁当を作り、中学生に自分のお母さんが作ったものを当てさせるテストをした。十人中九人あたった。ご飯の上にかける海苔の様子、ウインナソーセージの切り型・焼き方、おかずとご飯の間仕切り方、塩鮭の使い方などで判断していた。

 その二 高校生の昼食は大別して、学校食堂を利用するものと、家から弁当を持参するものとの二種類である。昼食時、家庭弁当の生徒は落ち着いてそれを開き和やかな顔でいただいている。授業中の態度・行動も物静かで情緒が安定して、交友関係も良い。

 その三 TさんとKさんの会話
 Tさん:「奥さんに一度もお会いしていませんが感心しています」
 Kさん:「なぜですか?」
 Tさん:「お弁当が素晴らしい…。よろしくお伝え下さい」

▼子供たちも大人に負けないくらい観察していると感心させられる。お母さんの手間をかけた弁当は愛情を反映して、子供の行動・性格、交友にまで良い影響を与えている。


                       
平成二年六月一日 三〇号 

書写のすすめ


 高校卒業して会社勤め十年の社会人に新聞のコラムの書写をすすめた。毎月一回の作文を添削指導したが、あまり上手に書けなかったからである。忠実に半年間毎日続けた。一回分は四百字詰原稿用紙約二枚である。結果は見違えるほどに文章が上達した。

▼国語が苦手な新入学の高校生に同じことを試みた。書写と同時に所要時間記録をさせた。入学した日から実行。漢字テストで優秀な成績をおさめ他の科目の好成績に繋がった。

▼ある精神科の医師はノイローゼの治療にコラムの書写を実施して治療効果をあげている。
▼何故こんな効果があるのだろうか? 自分で体験しようと思い付き即実行した。。
 手書で高校英語の教科書を大学ノートに書き始めた。一回の時間は二十分程度。腰骨を立て、静坐して書写している。はじめてから暫くすると書くことに集中する。英語の細部のことまで分かってくる。
 これこそ立腰と書写の身近な実践ではないかと思います。
※実践人 平成2年7月号  No.404 に寄稿。

★補足:18.12.18
 かってわたしは、ある先輩からこんなことを教わったことがある。昔の文学青年たちは、大文豪の作品をせっせと原稿用紙に書き写したというのだ。それが文章修業の最上の方法だそうだ。若いころ文学青年を志していたわたしに、だからお前も原稿用紙に好きな作家の文章を書き写せ、と先輩親切に忠告してくれた。わたしは夏目漱石の作品を書写しはじめた。どれくらいつづけたか、いまではすっかり忘れてしまった。もっとつづけていれば、いまごろわたしは一流の作家になっていたであろぷか……。「ひろ さちや氏」の作品から。            


                       
平成二年七月一日 三一号 

入れただけしか出てこない


 ある牧師がいました。彼の教会は山のふもとの人里離れた村にあり、報酬は、信者からのわずかな献金だけでした。ある日曜日のこと、牧師は七歳になる娘を連れて神の喜びの言葉を伝えに教会にやってきました。そして二人は、木造の小さな教会の入り口近くのテーブルの上に、目立つように置いてある献金箱の前で立ち止まりました。父親がその中に五十セントをそっといれるのを娘は不思議そうにながめていました。礼拝が終わり、村人が去った後、牧師と娘は帰り支度を終え、そして出口のところで期待を込めて、献金箱をのぞき込んだのですが、中にあったのは、朝、父親が自分で入れた五十セントだけでした。二人はしばらく黙っていました。「あのときもっと入れておけば、それだけたくさんでてきたのにね」と、女の子がこうつぶやいた。『説得力』ボブ・コンクリン著、柳平 彬訳(PHP研究所)

▼何かが自分の思うようにならないとき、他人の所為にしたり、自分がしなければならないことをやらないで他力を期待していたりする。そんなとき、この話しを思い出して自分を励ましている。


                      
平成二年八月十日 三二号 

アメリカ研修旅行


 七月中旬から八月初めにかけて三週間、勤務先の高校と関連した中学校のアメリカ研修旅行に同行した。「アメリカのバイタリティーに接し、またアメリカの方々と心からの交流をすることにより、日本では身につける事が出来ない「何か」を必ず感じ取ることが出来るはずです」との願望で行われている。今年で九回目の研修旅行。日程は提携関係のアメリカの大学の宿舎での生活並びにホームステイ一の週間と米国各地の見学の計二週間。

▼ワシントン市内のホテルの昼食では東京・埼玉の高校生男女約五十人の集団に出会った。三週間ホームステイ、二週間観光。ロスアンゼルスでは東京の高校生三十三人が西海岸の都市で英会話研修二週間、一週間の観光の予定で行動していた。又大学生の一団も同じホテルで食事をしていた。中学・高校・大学の研修旅行の多いのには驚かされた。

▼現地で活躍されている日本人H氏は「アメリカに来たいのなら、大学卒業して二~三年社会人として、日本の規律・習慣をしっかり身に付けた後に来てほしいものです」と語っていた。考えることが多かった旅行だった。

                       


                       
平成二年九月一日 三三号 

やってみよう


 これがよいあれがよいか
 どちらもしないでいる
 いまのものより立派なものがあるか
 あればのりかえたらよい
 人のためにしているのか
 自分のためにしているのだろう
 がまんしてつづけてみるか
 続てみるとわかることがあるよ

▼ワープロを速く打ち込めなかった。毎日、日記に使って打ち込んでいるうちに段々と速くなった。少しずつでも続けていればなんとかなるものだ。日本語が話せないものはいないのに英語を自由に話せる人は少ない。なぜだろう。毎日使っていないからだろう。

▼一人で続けるのは難しい。何故か?継続していれば確実に進歩しているが非常に微かなので自覚出来ないで投げ出す。一月くらい我慢した後、始めた頃のものと同じことを再度試してみればよい。確かに向上しているものだ。この期間が短すぎては感じられない、長ければその間、続けるのが大変である。進歩を実感さえ出来ればもう大丈夫。

▼「根気・根性・性根(しょうこん)、それが人間を決定する。ほんものはつづく、つづけるとほんものになる。」 東井義雄先生。先生の著作『根を養えば樹は自ら育つ』(柏樹社)、『拝まない者もおがまれている』(光雲社)、『家にこころの灯を』(探求者)などがある。


                       
平成二年一〇月一日 三四号 

形に現れた効果


 永易先生が五千ピースを嵌めこんだジグソーパズルを二年半かけて完成された。百号の絵面と同じ大きさの一〇〇×一四六センチの大作。これを見た皆さんは感心していた。非常に根気のいることはそのかけた日数からでも容易に想像できよう。途中何度か中断しながら漸く仕上げたそうだ。

▼こんなものを見るににつけ、よくも作られたものだと思うと同時に二年半の間、私自身は何か残せるものをなし遂げたかと反省させられる。ただただ時間を無駄に失ってきたのではないかと。

▼長時間努力してきたことを形に現してその成果を全身で感じ取り、さらに精進の活力を得るようにしたい。具体的な形にするには
 一 研究者は研究成果を学会誌に投稿する。
 二 会社員は職場の体験発表会で業績を公表する。
 三 何かを勉強しているものは検定試験を受験、成果を確かめる。
 四 日記を書いている人は適当な時期に製本する。
 五 毎日書写している人は適宜製本する。
 方法は幾らでもあるようだ。


追加:本文の知人から平成十九年五月、嬉しい便りを頂きました。

 加計グループで広島県福山市にある英数学館小学校・中学校・高等学校のそれぞれの校長に着任された挨拶状でした。T.N.先生です。早速お祝いの便りをいたしました。


                      
平成二年十一月一日 三五号 

老いて学べば、即ち死して朽ちず


「少にして学べば、即ち壮にして為すこと有り、壮にして学べば、即ち老いて衰えず。老いて学べば、即ち死して朽ちず」

 江戸時代の儒学者・佐藤一齋、六十七歳~七十八歳の間の言葉である。少・壮・時代は目標が具体的であるが、老は、いまひとつ目標が立てられないようである。若いときは、未来を指向して今を生きている。老いては、過去にとらわれがちで、いまに生きるのは難しい。

▼ある人は「もう六十歳だから、今更研究することもない、食べることしかない。若いものが羨ましい」と。

 ある画家は「六十代のころの絵と、今の絵をくらべると全然違う。七十過ぎて深く深く見えてきたのだ。八十歳も間近な今の方がずっと細かく描けるようになった」と。

▼それぞれの価値判断に従って、優位に立とうと絶えず比較に生きている。比較している限り、老いは受容出来ないだろう。自分の過去、他者との比較を抜け出して、充実した今を生きれるのだろう。


                      
平成二年十二月一日 三六号 

「書写のすすめ」へのご所見紹介

 ○六月六日 寺田清一様 書写のすすめ誠にありがいお説、これこそ実力形成の方法論の一つとして深めていただきたい。現代の写経と思われる。

 ○六月九日 片山樹徳様 私の小学校時代、四年の担任・山根平三郎先生が教科書の書写をさかんに宿題にしておられました。子供心に範囲を超えて二倍~三倍も書いていくと先生に誉めてもらえるのが嬉しくて朝早く起きて書いた記憶がよみがえりました。今も仕事で必要な知識を書き写している。小・中学生への効果が期待されます。

 ○七月十三日 飯尾剛士先生 書写のすすめ拝読。感銘を深く受けます。筆先で読むとも言われる書写について私も関心がございますがなかなか実行までにはいかないのが実情です。「書写」を始めたくなるような事例紹介ありがとうございました。

 ○八月三〇日 西山啓子先生 第三十号の「書写のすすめ」より、今の私には教科書の「書写」からと気づかされました。

 ○十一月十日 中野 忠様 近くの友人が毎日般若心経を書写しており二千以上になる、やれと言われている。

 お陰様で三年間、継続できました。           


                      
平成三年一月一日 三七号 

口誦のすすめ


 私たちは自分を励ます言葉を持っている。心が挫けたときなどには思い出す。立派な人はそんな言葉を確かに沢山持ち合わせているようだ。

▼日曜坐禅会で、一般参加者も、直日の指導で坐禅の始めに「白隠禅師坐禅和讃」、一時間の坐禅の終わりに「四弘誓願」を斉唱している。ある禅道場では「『趙州無字』の無門和尚の一文をお経のように訓読で読誦して、そのとうりに修行することに努めています>と。ある読書会では漢文古典の月例輪読で時折、参加者全員が朗読味読している。読書では、普通黙って読み、声を出しているのは希である。

▼口誦の方法について提案したい。先ず、自分の口誦文を持たなければならない。捜す目安としては、口誦し易くて口調が良くて、あまり長くないものが望ましい。手帳に記録追加して、常時、準備する。その後、繰り返して朗読しているうちに暗唱できる。出来れば一日に一回決めた時刻、例えば寝るまえ、または起床後に声を出して数回唱え、口誦そのものになりきるように心掛ける。効果の程を数ヵ月後確認されては。


                       
平成三年一月十五日 三八号

自分の顔


 佐々木喜一君、今年四〇歳。賀状に「自分の顔に責任を持つ年齢になりました」と。紀子さんに国民ひとしく素晴らしいものを感じた。私が美しいと思った人たちは、一九九〇年紅白合戦に参加していたモンゴールからの少女の顔の素直さ、曹源寺で修行されている人たち、アメリカのプリンストン大学生の勉学意欲の溢れた顔。顔をとうして心の美しさを見ている。体全体から受け取っている。洋の東西も時代も関係ない。

▼年齢と自得

「子の曰わく、後生畏るべし。いずくんぞ来者の今に如かざざるを知らんや。四十五十にして聞こゆるなくんば、斯れ亦た畏るに足らざるのみ」

「子の曰わく、吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」

 孔子は志学より七十に至まで、十年毎に志学・而立・不惑・知命・耳順・従心と自ら体得して、老いの至らんとするを知らなかった。

▼自分の顔を作りあげる具体的で最も確実な方法は心から尊敬する人と絶えず接触するか思慕することであろう。       
☆補足
 平成十八年八月十日 佐々木喜一君、新潟県胎内市中条町から倉敷市に出張の時、時間をさいて、わざわざ来訪してくれました。今年56歳になったとのこと。26年間の交流になります。


                       
平成三年二月一日 三九号

得度式


 アメリカ青年の得度式が行われた。来日前、小児麻痺の兄さんが家族の手厚い看護も空しく亡くなられた。社会に何ひとつ貢献出来なかった兄の思いを含めて社会に役立ちたいと思った。二年半、曹源寺で修行。日本での僧侶の生活や仕来りを見ていると、出家へ踏み切る決断出来なかった。

「ただ修行しておればよい。そうすれば周りの人は感化を受けるものだ」との老師の指導で、一生涯を仏道へと決意した。僧侶としての修行、漢字仏典を読む本格的な勉強、十年は修行しなさいと言われている。

▼このお寺には、世界各国からの人が修行している。彼等が帰国するとき、老師は「只修行して、黙っていなさい。達磨大師は、九年間も面壁して坐禅していました。大法を伝えるに足りる人物の出現をひたすら待っていられたのである」と訓(さと)されている。

▼この青年に感心させられた。異国で厳しい修行に励むばかりでなく、日本語・漢字・仏典の研究は大変なことであろう。見落としてならないのは老師の「化して教える力」の素晴らしさである。外人修行者をここまで踏み切らせ、そのうえ、十年間の指導を。

 「梅 寒苦をへて 清香を放つ」         


                      
平成三年二月十五日 四〇号

コミュニケーシヨン


 人と人とのコミュニケーシヨンは、言語から七%、顔から四八%、その人の雰囲気から四五%伝わると言われる。声の高低、抑揚などにより伝わり方が異なり、落ち着いた話し方、体の動かし方、姿勢なども影響を与えている。非言語的コミュニケーシヨン(ボディー・ランゲージ)が九三%もある。

▼日曜坐禅参加者の一人が、「老師が一緒に坐禅されると身が引き締まります。どうしてでしょうか」と言う。こんな経験は私たちも持ち合わせている。外人が曹源寺に参り、客殿に案内され庭をなげめ「ここに座っていれば全てのことが一度に伝えられるものがある」と話したそうである。彼の仕事は米国でコンピュータ関係。仏教の専門家から悟りを開いた人(見性した人)と認められている。

▼静寂な雰囲気に接し、厳かさなもの偉大なものに触れると自然に頭が下がる。コミュニケーシヨンは人とばかりでなくて万物との間でもおこなわれている。感性を磨いておかなければならない。

▼「声もなく香もなく常に天地は書かざる経をくりかえしつつ」二宮尊徳


                      
平成三年三月一日 四一号

尚よい本


 拝復 年をとって書くのが遅くなって返事が遅れ失礼しました。お説のとおり読書が出来るようになれば半分教育が出来たことになります。読書によりいくらでも勉強できます。読む本ですがベストセラー等読ませる必要はありません。十年たっても尚読まれる本はよい本です。五十年たっても読まれる本は尚よい本です。百年たっても読まれる本は尚よい本です。それで古典を読むのがよいです。当方では一年の時に岩波文庫の内村鑑三著『後世への最大遺物』、三年の時にはやはり岩波文庫にあるプラトン著『ソクラテスの弁明』を読みます。二年のときはダンテ『神曲』を読んだり定まっていません。聖書も同じようにして読んでいます一年二年三年とも。今日の学生は善い本を読んで感激するといったことをしないで可哀そうです。基督教独立学園校長:鈴木弼美先生からいただいたハガキの文面。

▼具体的によい本を選ぶ方法の一つとして版数を調べるのがよい。十年間に何回出版を重ねているかなど。最近、私は一九七〇年に第一刷発行されて一九九〇年に三〇刷発行の本を読んだ。さすがに内容も充実していて読み応えがある。
追記:「習えば遠し」ホームページに基督教独立学園を訪ねてに掲載しています。17.4.11


                      
平成三年三月十五日 四二号

期待どおりの人になる


 今年も大学入試が終わった。新聞では、東京大学合格者数ベストテン高校名が発表されている。毎年同じ学校が並び不思議なくらいである。

▼ある学校で、数学のクラスを五つ作り、百人の新入生を、無作為に組み入れた。そして先生たちには、学生たちは能力別に分けたと説明した。水準が一番高いとされたクラスの学生たちは、ほかのクラスの学生たちと比べ、かなり良い成績をあげた。先生が寄せた期待にこたえたからだと説明されている。期待通りの人になろうとするからだろう。

▼自分が自分に期待すれば同じ効果が起こらないだろうか。自分のことだから目標が明確であり、対策も具体的となり、毎日積み上げれば、いつの間にか成果が現れるのでないだろうか。しかしそれには並々ならない努力をしなければならないだろう。

▼ある管理者は部署の従業員に絶えず話しかけている。仕事のこと、健康の問題、家族の状態など、出会った時に一言声を掛けている。反対に、全然声も掛けず、挨拶さえもしない指導者がいる。成果の違いは明らかだ。

▼私が現役時代、会社の教育を担当したことがありました。全社の工場・事務所・研究所から選抜した高校卒業後十年前後の中堅社員が対象でした。
 その中に一人だけ中学卒業後、自動車会社に入り、途中から私の勤めていた会社に入ったものがいました。
 初めはついていけるかと心配していましたが、非常な勉強家であるあることがわかり、私は彼に期待していました。
 その期待が伝わったのか、はかりかねますが、見事に優秀な成績で研修を終えて、職場でもめきめき認められて活躍しています。私には忘れがたい人物です。私が会社をやめてから二十年少々になりますが、時々電話をしてくれています。そのなは佐々木喜一。
平成二十三年六月九日再読、二十三年九月十一日再々読、追加。


                      
平成三年四月一日 四三号

こころの時代の問題提起


 弁論大会の一形式として即席弁論がある。テーマは参加者に予め呈示されず、会場で即席に与えられる。構想の時間は五分程度許容され、発表時間は三分である。わずか三分間で的確な弁論発表する力の他に、短時間で自分一人で考えをまとめ、文章を作るなど個人の総合的能力が試されるものである。社会は目まぐるしく変化していて、仕事に追われて考える暇もないと思っている私たちであるが、「こころの時代」が即席弁論のテーマに与えられたらどんな話に纏めることが出来るだろうか。

▼経済が向上し、食糧事情も豊かになり、住宅も良くなっている。生活の余裕ができて、ふと振り返るとこんな筈ではなかった。何か忘れ物をしてきたのではないだろうか? 身近な問題に限ってみても、例えば環境では、日常生活作法は、消費生活は、余暇の活用は、生産活動は、情報社会の状態は。

▼日本は経済は一流だが、政治は三流だと批判されているが、こころの問題はどうなんだろうか。自分は一体何をすれば良いのだろうか。季節は移り変わり、人との出会い別れの中で思う。


                      
平成三年四月十五日 四四号

『こしぼね』


 四月十日、西山啓子先生(兵庫県の小学校、六年生担任)から平成二年度学級通信『こしぼね』を戴いた。年間四十号の通信は手書きB四判で平均毎週一号、その上、最終的に全号の編集製本のお仕事は大変な労力と拝察しました。私は月一度のハガキ通信を書くにも筆が進まないことさえあります。

▼内容の一部を紹介します

 一 構成は東井義雄先生の詩、西山先生のお考え、四人の生徒について励ます欄、森信三先生の教訓の四部編成。

 二 漢字ノート、自主学習ノート、ルンルン清掃優良賞、自主学習優良賞などの先生のアイディアの創設。

 三 先生・生徒・家庭の三位一体の共育の実践。生徒の手で家庭に持ちかえさせて家庭とも交流されている。

参考:一九七九年から継続されている。

▼先ず思い出されたのは、私の小学校の恩師、特に四年生のとき勉学の基礎を作っていただいた担任の亀田先生でした。「いまいまを本気に」と、当時の教訓は今でも私の行動の指針になっている。

 教え子たちは『こしぼね』の教えを生涯を貫くでしょう。


☆追加:平成十八年四月二十日、先生からうれしいハガキを受信しました。

 『……明日から「全校立腰タイム」(一校時初め一分間 三呼吸)を実施する運びとなりました。とうとうやれることになりました。次にその成果の報告をします。楽しみにしてくださいね』

 すごいことです。次の報告が楽しみです。こんな先生に出会った生徒さんたちは幸せです。


                      
平成三年五月一日 四五号

時間分析

 もう五月、初夏!つい先日、新年を迎えたような気がする。何か時間を遅くする手立てはないものだろうか? 物理的には絶対に有り得ない。感覚時間を長くする以外にはない。それには生活を充実する。そこで先ず、日常生活ではどんな時間の使い方をしているか数量的に掴んでみることにした。

▼四月のある一週間のウイークデーをえらび、一日の行動時間の測定結果をまとめた。
 一 時間帯が朝型の早起早寝である。          
 二 睡眠七時間、行動時間十七時間        
 (家庭外十時間、家庭内七時間)        
 三 作業時間………八時間(四七%)  
 非作業時間……九時間(五三%)    
 (行動時間に対する割合)          
 四 家庭内での作業
 出勤前…………二・五時間
 帰宅後…………一・五時間
 五 作業の主なもの(仕事を除くと)
 ラジオで英語を聴く、書写、読書
 ワープロ日記打ち込みなど。

▼人により、置かれた立場により時間分析は様々であろう。私には、非作業時間(通勤、食事、待ち時間など)が行動時間の五三%も占めているには驚かされた。この時間活用が課題だ。                  


                      

三分間スピーチ


 職場のリーダーは人前で話す機会が多い。話す訓練として三十歳前後の会社員約五十人を対象に三分間スピーチを実施したことがある。

 方法は、一分間スピーチから始めた。話題は自由選択として、順番に話しさせた。指導者は三回までは全く批判しない。その次から話す態度について改善点を指摘。話すことに慣れたと思われる頃から三分間スピーチにした。肝要なのは訓練中内容には触れないで自分で考えさせたことである。また、話し終わった時、聞いていた仲間から「どの点はもう少しかんがえたほうがよいのでは」とか、「全体としては上手になっている」とか、ほめてあげることは本人の話し方について自信につながるようであった。

▼数回の練習で話す態度に自信が見られ、時間内で話せるようになった。中でも驚くことは話の内容の変化であった。初めは個人的な感想が多かったが徐々に全体に関係する話題が増えてきた。さらに誰にも受け入れられる正しい内容になり、提案へと変わり、自分の話したことを積極的に行動に現した。

▼私は、毎月一度ハガキ通信を先輩知人に発信しているが同じ効果がある。人前で話すのと、同志に書くのでは、確かに表現手段は異なるが、自分を表明するのは同じである。自分の日常のことや考えを定期的に発表すれば当然書いたことに責任を負い恥をかかないよう心掛けるようになる。

 約10年前、私が実行した記録です。今日もその様子が思い出される。訓練すればだれでも、3分間で立派に話せるようになることを実感したものです。

▼3分間スピーチの訓練開始の前に、当時、岡山県立倉敷中央高等学校に弁論部があり、全国大会にも優勝する実力校であった。

 昭和62年2月23日(月)、指導されていた久保田修先生にお目にかかり、弁論部の数人を先生とご一緒に研修所にお招きして、実際に弁論を行っていただきまして、5分間弁論(弁論大会で弁論主題は予告されずに行う形式のもの)を聞かせていただき、即座の話はどんなものかを自覚させる下準備を行ってから、社員の練習を始めました。

お礼の手紙

 拝啓 去る二月二十三日は私どもの研修所にご来所いただき、即席弁論をご披露くださり、ありがとうございました。

 高等学校の卒業式も一斉に行われ、みなさまもそれぞれ進級され学業に部活に励まれることでしょう。

 みなさんの弁論に精進される様子は私どもの研修生に深い感銘をあたえました。久保田先生のご指導のもと伝統をより高めるよう頑張られますよう祈念いたします

                                          黒 崎 昭 二

 谷本友理恵 様

 岡田美由紀 様

 佐藤 智子 様

   昭和六十二年三月三日

平成二十三年十二月五日補足。平成三十年年八月十日追加。


参考:昭和61年6月27日(金)日経コラム「春秋」に「弁論の全国大会で優勝57回という女子高校がある」という書き出しのコラムがあった。

 弁論の全国大会で優勝57回という女子高校がある。倉敷の旧市街地と水島工業地帯のほぼ中間にある岡山県立倉敷中央高校がそれだ。優勝の副賞で海外旅行に招待された先輩は延べ二十五人。各大陸に足跡を残そうと、現在の弁論部のスローガンは「めざせ南極大陸」。

▼戦後創立の同校には看護科もある。部活動履歴は二十三年。大学の弁論部で活躍した「ボク先生」こと、商業の教官、久保田修先生(58)が弁論部を指導してきた。部誌「黄金の釘」はすでに二十四号を数える。その表紙に学生弁論で東大・早慶戦を連破とある。併設の衛生看護科に進んだ先輩が、大学生の弁論大会に初挑戦して、二度優勝したことの記念だ。

▼弁論大会はなかなかすさまじい。「あなたは何が言いたいのですか」など、間断なくヤジが飛ぶ。「あなたの論理は矛盾している。次の三点質問したい」と、イジワル質問も出る。即時に対応するには練習しかない。毎日、授業前の小一時間、放課後は日暮れまで練習が続く。一年生は先輩の残した論文をよどみなく話す訓練から始める。自分で論文をかくというのがボタ先生の方針である。

▼弁論を離れた約二十人の部員は礼儀正しく、物静かな女学生であった。男子高校との交流弁論で、男子側を激しくヤジり、「女の子なのに」と苦言をもらした相手と口論したと聞いても信じぬく。見送られて出た街は衆参同日選挙というのに静か。彼女らのヤジの中で候補者の演説を聞いて見たいと、フト思った。

 平成二十八年九月、岡山県立倉敷中央高校を検索したところ、部活に弁論部が見当たらなかった。個人的には、残念だ!

平成二十八年九月一日追加。


                      
平成三年六月一日 四七号

後生に道を託す二題


▼その一 瑞厳寺というお寺は宮城県「松島」、岐阜県「おじま」、徳島県の「徳島」の三カ所にある。禅僧快川は、甲斐の慧林寺で火刑に処せられ、端坐焼死せんとする際に「心頭を滅却すれば火も亦涼し」と言った。処刑される前に三人の弟子を逃れさせ、その一人は徳島の瑞厳寺、他の二人は和歌山と京都のお寺に生き延びさせることで後生に道を託した。

▼その二 戦艦大和が沖繩へ最後の出撃の際、海軍兵学校七十四期(私の二期先輩)少尉候補生を退艦させた。

 昭和二ア十年四月三日 カカル非常ノ時、数日前兵学校ヲ卒業セル新候補生五十余名、大発(木造艇)ヲ横付ケテ乗艦シキタル 

「大和」乗組ノ栄光ノ故カ、紅顔、夜目ニモ鮮カナリ 数組ニ分レ直チニ艦内見学ヲ始ム 艦内ニ清新ノ気香ル 彼等ガ真二戦力トナルハイツノ日カ。

四月五日 一七三〇(五時半) 艦内スピーカ 

「候補生総員退艦用意

「各分隊酒ヲ受取レ」

「酒保開ケ」無礼講開始ノ下命ナリ

候補生ノ退艦用意極メテ迅速 終ッテ一次室(ガンルーム)ニ招ジ入レ別ㇾノ盃ヲカワス

負ッテ赴任シキタリシヨリ僅カニ二日ナルモ、彼ラナオ春秋二富ム 決死行ニ拉致スルニ忍ビズ

マタ新乗艦者五十名ノ戦闘参加ハ、ムシロ戦力ヲ減殺セン

コノ際退艦ハヤムナシ「大和」乗組ハ彼ラ多年ノ宿願タりシモノヲ

挙ッテ残留ヲ懇願セルモ、副長ノ説得二ヨウヤク承服セリ

「シッカリヤッテ下サイ 私達ノ分マデドウカオ願イシマス」口々二叫ビッッ酒ヲ注グ 

何ヲモッテコノ懇願二応エンヤ P.306

艦長有賀幸作大佐御最期

艦橋最上部ノ防空指揮所二アりテ、鉄兜、防弾「チョッキ」ソノママ、身三箇所ヲ羅針盤ニ固縛ス

暗号書、総員上甲板ノ下命等、最後の処置完了、万歳三唱シ、コレヲ了ルヤ傍ラノ見張員四名ヲ顧ミル(中略)艦トトモニ渦ニ呑マレタリトイウ 『鎮魂戦艦大和』P.392

追加:インターネットで「慧林寺 快川」を検索しますと、詳しく知ることができます。このお話は、岡山市曹源寺の原田老師からうかがったものです。22.12.09 


                      
平成三年六月一五日 四八号

独り善がり


 生の外国語を自由に聴けるようになりたいの思いが願望となった。八九年六月から短波放送を聞き始めた。NHKラジオ講座・二元放送(ニュース)を聞き、英語教科書の勉強・英語書写なども並行した。少し聞き取れるとヒアリングの力がついたと思いたがり、直ぐにそれほどでもないことが分かり落胆する繰返であった。ときには投出したくなる。また英語原書もある程度読んできたのだから自分の英語の語彙はある程度はあると思っていた。それが全くの独り善がりであった。

▼NHK「原作で読む世界の名作」で百二十ページのテキストを読むと多くの未知の語句にであい、その上、辞書で調べたものが数日もすれば記憶歩留まりが〇%に近かった。こんな語彙の量では外国放送を聴くなんて夢のようなものである。何時のことやら。 

▼今回考えた勉強法 時事問題の英語表現、全般的な語彙を殖やすには、英字新聞・英文を読み込む。その英文を切り取りノートに貼り、辞書で調べた意味を書き込み、十読を目安として繰返し読み反射的に言えるまで覚える。名人・達人は我慢の代名詞なり。

                  


                      
平成三年七月一日 四九号

ヨーガ(一)


 友人の一人が、三年前からバイオリンを習い初め、その苦心談やら将来は演奏会に出たい、またヨーガも行っていると話していた。若々しさを保っているように見えた。彼の年齢でのバイオリン練習に気を取られ、ヨーガは聞き流していた。

▼六月初め、佐保田鶴治著『ヨーガ入門』(池田書店)を読んでみた。

7「ヨーガをやれば……日々の健康感が得られる。したがって若さとバイタリティを取りもどすことができる。」

「ヨーガをやれば……ココロが安定する。したがって温和で、しかも強い性格と明快な判断力、鋭敏な直観力が獲得できる。」

「ヨーガをやれば……タマシイが救われる。したがって生きるよろこびがわいてくる。」

と紹介されている。

 平素から体と心の調和には関心を持っていたので参考にしながらヨーガ体操を少し始めた。脚はある程度通勤途中の坂道できたえられていたが背筋・肩・首筋はかたくなりヒップエレキバンに頼っていた。朝起きた直後と夜寝る前に約三十分程度の体操と五分間坐禅を実行したところ一週間でエレキバンは取り除くことが出来、出来なかった結跏趺坐が短時間可能になり、何より健康感がえられた。

▼ヨーガは体と心の調和をはかる身心相即法であると私には思える。私の周りには年齢による体の不調を訴える人が沢山いるが根本的な対策を見出だせないでいる。伝統的なものに捨てがたいものがあることを体験した。


                      
平成三年七月十五日 五〇号

私の読書会参加


 岡山県師友会に参加している。私が参加する少し前から浅見絅斎(江戸時代前期の朱子学者、山崎闇斎門下の三傑の一人)の『靖獻遺言』(漢文)の輪読を始めていた。六年間約六十回の読書会に参加した体験を反省を含めて纏めた。

 一 日 時…毎月、第三日曜日七時~九時  
 二 場 所…岡山県護国神社 研修所 講義、自由討議     
 三 参加者…会員、常時参加数約二十人    
 四 資 料…漢文。返点、送りがな付
 五 方 法…輪読形式 参加者の輪番で          
 六 その他…岡山大学中国文学教授廣常 人世 指導 読書後、朝食・談話  

▼『靖獻遺言』:八人物、屈平・諸葛亮・陶潜・顔真卿・文天祥・謝枋得・劉因・方孝孺など中国人の行動を通して国家・時代背景が人に与える影響、日本人の在り方、政治の在り方などを考えた。漢文を読む抵抗は少なくなり、訓詁学的な表現に少し慣れてきた。内容は知識として殆ど残らなかった。予習復習はやはり大事である。受け身の参加では勉学効果は少ない。

▼会運営内容 参加メンバーの数、回数、日時、場所、読書材料などは継続の過程で洗練淘汰されるようだ。

参考:『靖献遺言』を読むインタネットより

『靖献遺言』は山崎闇齊先生の高弟である浅見絅齊先生の主著ともいうべき作品であり、貞享元年(西暦1684年)、絅齊先生が33歳の時に編修を始め、貞享四年に完成をみました。四年の歳月を費やしていることからも、先生の辛苦の程が伺えます。一時は闇齊先生と師弟の葛藤を生じた絅齊先生でありましたが、本作は絅齊先生が闇齊先生から受けた講義を基にしてそれを発展させたものです。これは後年、絅齊先生が<(闇齊先生ハ)学問ハめい分ガタタネバ、君臣ノ大義ヲ失フトノ玉フゾ。此ノ意ヲ世人ニシラセント思フテ、ヲレガ靖献遺言ノ書ヲアラハシ出シタゾ。コノ書ヲヨクミヨ。聖人ノ大道、嘉右衛門殿ノ心、コノ書ニアリ>(多田亀運『浅見先生学談』、近藤啓吾先生『崎門三先生の学問』より孫引)と述べておられることからも知られます。引用中、嘉右衛門殿とは闇齊先生のことです。そして絅齊先生が申された通り、『靖献遺言』は<君臣ノ大義>を貫いて国家に身を殉じた屈平、諸葛亮、陶潜、顔真卿、文天祥、謝枋得、劉因、方孝孺等、八人の忠臣義士の生涯、並びにそれに関係付随する故事が、厳格な学問的考証に基づいて編述されております。書めいにある<靖献>の字は、『書経』微子篇において、微子、比干と併せて殷の三仁の一人とされる箕子が微子に言ったとされる<みずからや靖んじみずから先王に献ず>(人々おのおのみずから靖んじて己の志す道を進み、それぞれその身命を捧げて先王に報いるべきである、の意)という言葉によります(近藤啓吾先生『靖献遺言講義』)。また<遺言>(イゲンと読む)とあるのは、本書が各篇の冒頭に上述した八人それぞれの遺言を掲げていることによります。

 絅齊先生は、本書に登場する八人の忠臣義士に仮託して君臣の大義名分を闡明することによって婉曲に幕府による武家政治を批判したのですが、こうした性格を持つ本書は、その後、王政復古を目指す尊皇討幕運動のバイブルとして志士たちの間で愛読されました。なかでも、越前の藩儒、吉田東篁を通じて崎門の学統を継いだ橋本左内などは、常時この『靖献遺言』を懐中に忍ばせていたと言われます。

平成29(2017)年4月21日追加。


                      
平成三年八月一日 五一号

明日は明日の風が吹く


 海軍兵学校三号生徒(一年生、十七歳)のときに訓練が辛くて落ち込んだときに指導二号生徒から「明日は明日の風が吹く。今日の事は忘れて明日に向かって頑張れ」と激励された。行動・気持ちのスマートな転換も訓えられた。一日の日課が終わり就寝前の一刻、上級生徒と親しく話し合えるが、翌日、平常の課業となれば先輩として毅然たる態度で後輩の指導に「けじめ」を示された。船が一度海に出れば、気象の変化に即応した最適判断と操船能力が要求される船乗りの心構えを日常生活の中でしつけられた。

▼私共の悩みは現在の問題についての悩みもあるが、過去の事柄をくよくよ後悔したり、或いは将来のことを取り越し苦労している。過去・未来の縦系列の事項を現時点に横一列に並べて悩んでいるのが実状である。悩みごとの大部分は自分ではどうしようもないことが多い。対策を立てて行動しているのであれば解決されるだろうが実際は目前のことをおろそかにして、すんだことあるいはさきの事を考えている。今日のことは今日だけで十分だ。

▼「アフター・マンテン・フィールド(後は野となれ山となれ)」。これもまた海軍で教えていた言葉だそうだ。       


                      
平成三年八月十五日 五二号

二つのご縁


▼その一 七月中旬、東京から同姓同名の手紙が舞い込んだ。夢にも思わなかった。もうひとりの黒崎 昭二氏は海軍兵学校の写真アルバムで同じ名前を見付けて「何か嬉しいような不思議な気がした」そうである。昭和二年生まれで私より二月早生まれ。中学時代、身長がやや足りなくて海軍志望を諦めて旧制高校から東京大学卒業、新日鉄に勤め、現在は関係会社に勤務。彼の父は海軍兵学校の三十七期(井上成美海兵校長と同期)、昭和十九年、三月トラック島で戦死された。

参考:成蹊会

▼その二 昨年、勤務している学園の関連中学校のアメリカ研修旅行に同行してオハイオ州の姉妹大学に出掛けた。そのときのホスト・ファミリーのご主人が、今年七月、同大学の日本研修旅行の引率者として岡山理科大学に参りました。一年ぶりの再開、私の家で手作り料理を食べながら歓談した。今秋、一人娘が大学へ進学するので、明後年、来日するだろうとのことである。ご縁がさらに続く。いまから楽しみにしている。

▼今年の七月は東京、米国の人たちと思いがけないご縁に恵まれました。


                      
平成三年九月一日 五三号

自分の道


 今年八月「実践人」夏季研修大会が兵庫県の丹波篠山町で二泊三日の日程で行われ、参加した。メインテーマは「五年計画の自己啓発を」であった。

▼「道なる者は、須臾も離る可からず、離る可きは道に非ざるなり」『中庸』
「日常の実践、事物との接触がまさに通って行かなくてはならぬところの道…理であり、性の徳として心に具有せられているものに他ならない」と説かれている。倫理的なものから離れ、片時も離れることのできない自分の道があると考えると生涯を通したものになる。この道は具体的な行動に現せるものでなければ継続は不可能である。継続の手立ては幾らでもあるだろうが同志との相互啓発は有効である。

▼「守・破・離」は武道、茶道などでも同じだと言われている。
 守は基本習得 
 破は応用展開
 離は独自確立 道はきわまりなくつづく。

▼本大会のテーマは実に重く、時分が試されている。「いましないでいつするか。ここでしないでどこでするか。われがしないでだれがするか」

★辻 公文さん、西山恵子さんたちと出会った。


                      
平成三年九月十五日 五四号

なまえ


 小学校入学前の幼稚園児が自分の名前の書き方を練習ノートに何度も何度も平仮名で書いているのを見てふと名前について思った。

▼海軍兵学校に期待と不安の交錯した気持ちで入校した。当日、配属された分隊の上級生徒から名前をいきなり呼ばれ話し掛けられて感激した。同時に初対面の人に知られているのが不思議だった。二年生になって新入生徒を迎えて理由が分かった。分隊に配属される生徒の姓名・出身中学校名が記載されたキャビネット版の写真が配布されて名前と顔を覚えてしまうのである。

▼厄落しの祈念に小学校の同級生が企画して故郷の氏神様境内に身長大の石碑を建立、われわれ全員の氏名を刻んだ。時折、帰郷すればお参りして自分の名前を見るのも楽しみの一つである。

▼会社でも毎年四月になると新人が入社してくる。初々しい姿を見ると冬から春を迎える気分がさらに明るくなった。私の場合、新しく配属される者の名前は大体知っていたが顔と一致するまで準備することは残念ながらなかった。

▼な前は符牒にすぎないと割り切る人もいる。そんなものではないようだ。


                      
平成三年十月一日 五五号

千に三つ


 健康のためにヨーガを見ようみまねで行っている。最近突然、仰臥の姿勢から両手を使わないで起き上がれた。予想では出来そうもなかった。千に三つである。原因は腹筋が強くなったのだろうかと推定する程度で明解はない。翌朝は出来なかった。しかしきっと近いうちにいつも出来るようになれると思って練習を続けている。

▼ゴルフのハンディは聞くところによると、所属するクラブでの公式ゲームで得られた最高のスコアーで決められる。たまたまであったとしてもそれに決められ、数ゲームの平均ではない。ゴルファーは自分のハンディに向かって努力している。

▼K君は高校一年生の時から理科が苦手であった。二年生になり物理のテストでかなりの得点を取った。こんなことは初めてだと目を輝かせていた。これからは、勉強するぞとの意欲が感じられた。

▼「千に三つ」だけでも自分は出来たのだ。「百パーセント必ず出来るようになれる」「まぐれだからこれから出来るはずがない」と思うか大事な分かれ道である。

▼名人・達人と呼ばれる人も初めからではない。「千に三つ」をものにした人だ。


                      
平成三年十月十五日 五六号

成り切る


 松野宗純『人生は雨の日の托鉢』の一節「高僧と修行者の問答」

「禅の道を修行するにあたって、工夫をされていますか」
「工夫をもちいておる」
「どんな工夫をでしょうか」
「それは腹がへったら飯を喰え、眠くなったら眠るということである」
「そんなことなら誰でもしています」
「それは違う。世の中の連中は飯を喰う時も、実は飯を喰っていない。あれこれつまらぬことを考えている。眠るときも本当に眠っていない。そこがわしと違っておる」

▼良寛さんは何かに「成り切る」ことのできた人でした。に「成り切る」ことのできることは禅の修行でいちばん根本的なことだと言われています。『NHKこころをよむ 良寛を語る』

▼ある若い修業僧のお話。「たまに“うどん”をどれだけたくさん食べられるとか仲間と馬鹿なと思われることをしている。しかし、どれだけその事になり切れるかという修行をしているのだと思う」と。

▼坐禅をしていても無想になれない。あれこれ思い自分のしていることにうちこめないばかりか物足りなささえ感じたりしている。


                       
平成三年十一月一日 五七号

第二新卒


 就職して三年もたたないうちに辞めてしまい、新しい仕事を探す若者が増えている。通称第二新卒。人材の流動化現象は以前から指摘されていたが、彼等のうねりが加わった。豊かな社会で試練を経ないままに自分自身の適性をつかみかねている若者が不適合を理由として、人手不足で就職に困らない社会環境のなかで一気に離職へつながっている。会社の対応として、就職希望者に自分が働く姿を描ける説明をして社員に多様な仕事の選択肢を用意して自主性を尊重した指導が求められる。日本経済新聞社説要約

▼私の周りにもこんな若者がいる。大学を卒業して就職、辞めた。三十歳になっても定職についていない。まったくあせっている様子もなく就職のために準備している気配もない。私は三十七年間企業に勤めた後、高校教員になった。始めの半年は、未経験なことが多く、仕事の進め方の違いなどで手探りの状態が半年間続いた。時間の経つのも非常に遅く感じた。その後、すこしずつ慣れてきて高校生の実状も少し分かり指導の方向も自分なりに考え工夫しながら勤め、今年で五年目になった。

▼自分の適性は自分でもそう簡単には分からない。三年はやってみなければ。
追記:近年NEETが社会問題になっている。17.4.11     

                 


                      
平成三年十一月十五日 五八号

社会変革と教育


 ドイツ統一から一年。旧東独社会の変化。「教育現場に戸惑いと期待」の新聞記事。「昨年秋の新学期は教育改革が間に合わず、とりあえず七年生から必須だった『公民』の授業を廃止。代わりに旧西独地域の学校で教えている現代政治や社会問題を扱う『社会科』を時間割りに入れた。生徒が共産主義を耳にする機会はぐっと減った。(中略)授業は混乱した。先生たちが何を教えたらいいか戸惑ったり、急に授業がなくなったり。学校は、この一年間むちゃくちゃでした>。(記事抜粋)

▼私は戦時中、他の教師たちと同様に、徒に熱心な教師だった。その七年目に敗戦に遭った。日本はアメリカ軍の占領下に入った。アメリカ軍の指令で、教科書はかなりのページを墨でぬりつぶさなければならなかった。そうした作業を、生徒に指示しながら、まだ若かった私の胸は、耐たえがたい屈辱感にさいなまされた。昨日まで胸を張って教えていた教科書に、墨をぬらせるという、この異様な体験の中で、私は坂をまっすぐに転がり落ちるような速さで、虚無の淵に落ちこんだのである。三浦綾子『道ありき』

▼教育を考える問題が提起されている。

                 


                      
平成三年十二月一日 五九号

姿見の鏡


 海軍兵学校では生徒の自習室や寝室のある生徒館の中央廊下などの要所には身体全体を写す姿見の鏡があって、生徒は常に姿勢を正しくするようしつけられていた。

▼天津市内にある故周恩来の記念館の入り口に姿見の鏡がある。そしてその上に掲示がある。上村 嵐『如何に怒濤は逆まくとも』

 面必浄(顔を必ず浄くしなさい

 髪必理(髪を必ずキチンとしなさい)

 衣必整(衣を必ず整えなさい)

 紐必結 (紐を必ず結びなさい)

 頭容平(頭を正しく保ちなさい)

 胸容寛(胸を寛かに保ちなさい)

 背容直(背をまつすぐに保ちなさい)

 気象(気分のもち方について)   

  勿傲(おごってはいけない)

  勿暴(暴れてはいけない)

  勿怠(怠ってはいけない)

  顔色(顔色のあり方について)

  宜和(宜しく静かに保ちなさい)

  宜静(宜しく静かに保ちなさい) 

  宜莊(宜しく元気をいよく保ちなさい)

▼顔、髪、服装、姿勢さらに心構えについての掲示である。私たちの周りにはどこでも顔を写す鏡は取り付けられているが全身の姿見は見当たらない。これが学校、職場にあれば腰骨を立てるのに良い影響を与えないだろうか。

補足:17.07.17、日曜坐禅会の茶礼の席で老師が申された。

 鏡の発見はいだいなものであると。それに面するのは姿形ばかりを正すだけではなくて、心をみつめるものである。

「胸容寛 宜和」につうずるものを私は感じました

参考1:海軍の姿勢

参考2:七年前からでしょうか「クールビズ(COOL BIZ)」が行われてからか、夏季の服装から始まり、少しずつ平常のみなりが自由になりさまざまになってきた。平成二十四年四月、多くの会社が入社式を迎えているが、ネクタイに背広あるいは服装を自由にして迎えているものとみられた。経営者の考え方によるものだろうが、私個人としては服装はきっちりとしたほうが良いとおもっている。

 また、会社にもよるが、日本人だけを採用せず、海外への進出している会社では即戦力として現地の人を採用している事情もあり、グローバル化していることもあり、服装・姿も多様化するのだろう。

24.04.05


                       
平成三年十二月十五日 六〇号

平成三年 私の実行状況


★英語関係…向上は総括して今一歩。

*英文書写…一年半継続している。*BBC放送などを聴く…二年半継続。*原書で読む世界の名作…NHKラジオ第二放送。バーナード・ショウ、カーソン・マッカラーズ、ウイリアム・シェイクスピア、ウイリアム・フォークナなど初めて聴き、読んだ

★毎日読書(読書日誌作成)…読書の範囲・種類広がった、『正法眼蔵』中断(力不足、将来是非読みたい)。
★森 信三先生『一日一語』…毎日ワープロ・インプット、感想を書く。
★ヨーガ体操(ヨーガ日誌作成)…半年継続、健康を感じている、体操の終わりに端坐を行う(ヨーガ開始前 毎日端坐計画挫折)(実行項目の日誌化は継続に有効)。
★日曜坐禅…毎週、曹源寺。老師、修行者、日曜参禅者の姿に励まされている。
★師友会参加…第三日曜日。浅見絅斎氏『靖獻遺言』読了。『三国志』輪読開始。
★『自学自得』ハガキ通信…月二回原稿作成、発信は一回(今年から)。
▼残念ながら中断したもの。継続はしているが成果が上がらないもの、上がったものなど様々だった。            


                      
平成四年一月一日 六一号

相対的見方


一 運動している二つの物体A、BのAから見たBの速度のことを、Aに対するBの相対速度という。進行中の列車内の人から見ると、列車の外の静止している人は、列車の進行方向と反対方向に、列車と同じ速さで運動しており、鉛直方向に降っている雨は斜めに降っているように見える。『高校理科Ⅰ』

二 加速度aで運動しているバスに質量mの乗客Cが乗っているとする。これを地上の人Aが観測すると、Cは座席から前向きの力Fを受けてバスと同じ加速度aで運動している。一方、同じバスの中にいる人Bが観測すると、乗客Cは、座席から前向きの力Fを受けているにもかかわらず静止している。そこでBはCには逆向きの力Fが働いてつりあっていると考える。実際に働いている力Fはm×aに等しいのでFはマイナス m×aとなる。この力を慣性力という。『高校物理』

▼自分の位置、立場で見方・考えも変わる。時間の船に乗っていると自分は静止していると思う。

▼生死事大 無常迅速 光陰可惜 謹勿放逸


                       
平成四年一月十五日 六二号 悪口と譛(ほ)めことば


▼むかし、天竺の長者とバラモンが牛ずもうをすることになりました。長者はバラモンの牛が強そうなのを見て自分の牛をふりかえり「わたしの牛は何て見ばえがしないのだろう。試合の前から勝負はきまっているようなものだ」と、いまいましそうに舌打ちしました。

▼牛は長者の言葉をだまって聞き、「わたしはそんなに駄目なのか。それではこの勝負には、勝ちめはないんだ」と、しょげてしまいました。

▼一方、バラモンが連れてきた牛は、相手の牛のようすをじろりと見て、「なんだ。今からおじけづいている」と、すっかりばかにしました。

▼いよいよ試合開始です。長者の牛は戦う気力がないらしく、初めから逃げまわりました。長者はかんかんになり激しくののしりました。牛は長者に「わたしが今日の試合に負けたのは、わたしのせいではありません。あなたのせいです。あんまりわたしを謗るので、わたしのからだの中の力か全く、消えてしまいました。もう一度、試合をさせてください。そのかわり、試合前には私をほめて励ましてください」

 長者の牛はほめるたびに、勝ち続けたということです。『花園』要約

▼非常に示唆を与えてくれるお話です。私の知っている神戸の中学校の先生から聞きましたお話を紹介します。
 ある生徒のお父さんは寝たきりでした。その生徒は毎日、学校から帰りますと、お父さんの枕元に坐り、その日、学校でならったことをお父さんに話しました。お父さんは最後まで聴いて「ほほ、難しいことをならっているんだな!」と言ってやっていたそうです。
 お父さんは、子供にほんのわずかな声をかけているだけのようですが、無上の愛語になっているのではないでしょうか。この生徒は優秀な成績で卒業したとのことです。
 私には、冒頭の話と共通するものをかんじます。

参考:バラモンとは、インドのカースト制度の頂点に位置するバラモン教やヒンドゥー教の司祭階級の総称。

平成二十三年九月十日、追加補足。


平成四年二月一日 六三号 

片腕のスキー体験


 勤務高校のスキー修学旅行(参加生徒数三百六十二名)に教員として参加。

 平成四年一月二十三日~二十七日、長野県志賀高原熊の湯・横手山スキー場。

▼参加に躊躇していた。私は左手の肘から先、約十㌢あたりから切断、義手である。知っている人は誰かに代わってもらったらと言ってくれた。またスキーの経験・知識は皆無に近くその上この年齢である。スキーは別として生徒の世話の傍ら志賀高原の冬景色、雪に親しもうと思い参加した。

▼三日間のスキー講習開始。全員スキー学校に入校。生徒十一人が一人のインストラクターから指導を受けた。ホテルの部屋には、服、帽子、ゴーグル、手袋、靴、スキー板、ストックが完全に準備されていた。二度とない機会だ、やってみなければなにも得られないと思い、指導を受けることにした。

▼片足だけにスキーを着用して歩く練習から始まり、直滑降、制動回転などのスキー練習。利き腕にスキー板、ストックを抱えてリフトに乗る不安、転倒したら立ち上がれるかと不安など克朊して、緩斜面では人と衝突しないで滑降出来るようになった。終わる頃はもう一度こんな機会を願うまでになった。片腕の私でもスキーが出来たのだ!!

▼片腕では不自由だろうと思うのは当然でしょう。だが、マイナスばかりでは無いのです。
 私のプラスの点を一つだけあげますと、右の手のひらが汚れた時、石鹸を塗りつけて、洗面所の洗面器を洗う作業をしますと、手も洗面器も綺麗になります。
 片手、両足、口を総動員すればほぼ何事も出来る。ただ細い紐を結びつけることができないことなどあります。いまの私には以前の両方の腕のあったのは取り戻せないのです。そうすれば、この状態でできる工夫をして行くことしかないのです。さらに、体は五体満足でも、こころの不自由な人についても、工夫して生きていって欲しいものだと念願します。

2011.04.12追加

参考1:長野県志賀高原熊の湯・横手山スキー場

参考1:沖縄・志賀高原スキー・北海道―修学旅行―


                       
平成四年二月十五日 六四号 

論語を読む


 時折、論語から一章を選び、思ったことを書くことにした。読み下しは岩波文庫を使う。

▼学びて時に之れを習う 『学而第一』 
 子の曰わく、学びて時に之を習う亦説ばしからずや。朋(とも)有(あ)り遠方(えんぽう)より来(きた)る、亦た楽しからずや。人知らずして慍うらみず、亦た君子ならずや。

▼学んだところを機会あるごとに復習練習して我が身に体得されると愉快であろう。修養が積むと自然に同志の者が遠い所から慕い訪ねてくるようになるだろう。これまた楽しいだろう。自己の修養が出来ても、世人がこれを認めずとも怨まず、とがめない人であれば君子人というべきでなかろうか。孔子の一生がこの通りだとされている。

▼「朋あり、遠方より来る、亦た楽しからずや」とは、現在では用のないのに同志のハガキが届くことではあるまいか。今日では、友の代わりにハガキの来る方が遥かに多いわけです。森 信三先生『一日一語』

▼こんな関係の人にお目にかかっていないだろうか。皆さんの身近にもいることでしょう。                 


                    
平成四年三月一日 六五号 

啐啄


「逸すべからざる好い時期。禅道で機鋒の両者相応ずること。鶏卵が孵化しようとする時、殻内で小鶏が嘴で啼く声を出し、母鶏は小鶏を出そうと憶い外から嘴で殻を噛む」 諸橋轍次『大漢和辞典』抄出

▼母鶏と小鶏の相応関係、小鶏及び母鶏の立場の三点が考えられる。

 第一点に関連した体験が私に二つある。英語が好きで文章を読み、ヒアリングをしていたが不確実で納得できないもやもやが続いていた。「英文のセンテンスは多くが名詞でしめくくられ[名詞+動詞+名詞]の繰り返しで構成されている。したがって関係代名詞・関係副詞で文章を繋ぐことが出来る」との解説が機縁となり、もやもやを払いのけられた。

 二つ目は、中学生時代、幾何の勉強で分からなくて苦労している時、「幾何は図を正確に書いて眺めていると解決法が自ずと分かる」と、徳田先生のお話がヒントになり、以後好きになり壁を通り抜けた。

▼第二の小鶏の殻を破る不断の努力は画期的飛躍の必至を約束している。

▼第三の母鶏は子供・弟子・部下の成長を念願している親であり、師匠、リーダーである。絶えず高いところから細かく観察して啐啄の好機を逃さない人たちである。


                       
平成四年三月十五日 六六号 

帰巣本能


 三月と四月は別れと出会いがある。学校は卒業式が終わり入学式を迎える。
 友人、岡山大学教授・児玉昭人君が定年、郷里広島県の大学の先生で帰る。

▼サケは生まれ育った川の香を離れ四年間も記憶にとどめて、産卵時の遡河の目標に役立てていることは疑えない。最近は、故郷の川の香りをかがすと、サケの脳から特別な脳波がとれるといった事実も報告されている。写真の本のP.187の記事 桑原萬寿太郎『帰巣本能』(NHKブックス)抄出 

▼我が家の庭にもジョウビタキが訪れていた。翼に白い斑が特徴的なこの鳥は、秋から冬にかけて河原や市街地などに渡来し、主に積雪の少ない地方で越冬する。やがて春になると、繁殖地の中国などに帰り、餌がなくなる晩秋になると若鳥を伴い、再び日本各地へ渡って来る。なぜ中国に帰るのだろうか? 日本とあまり気候も違わないと思うのに。またガンの子マルティナのように鳥は生まれたときに餌づけされた鳥を親としてインプリットされる。

▼私達にはおふくろの味がサケと同じように脳髄に潜在している。三年前からずっと優勝したいと思い稽古をつづけてきた故郷の同郡の出身力士・安芸島に望郷のおもいを託して応援した春場所。

★人間には、蜂・鳩・鮭に備わっている「帰巣本能」はない、とのことである。2017.09.14追加。


児玉昭人君死去

平成二十九年(2017)十月六日深夜、親戚の方々に看取られて永眠されました。

 添付の写真の本が送られてきた。岸本雅之様から。

 本人とは中学以来の友人、そしてご両親にもお世話になったあの日・この日がよみがえる。お母さんは岡山市で逝去され、お見舞いにも行かなかったことが悔やまれる。

 児玉君が永眠されたことも知らなかった。岡大岸本先生のお話では、故郷の家にはどなたもおられないで、妹さん?が、時々、風通しされていることだった。

 故郷で薔薇や菊の香りに包まれて楽しんでください。合掌。

 平成二十九年十一月五日 哀悼の誠を捧げます。


                       
平成四年四月一日 六七号
 

今女(なんじ)は画(かぎ)れり 今の君は以前と変わらないのか?


 冉求(ぜんきゅう)が曰わく、子の道を説(よろ)ばざるには非ず、力足(た)らざればなり。子の曰わく力足らざる者は中道にして廃す。今女(なんじ)は画(かぎ)れり。『論語=雍也第六』

▼冉求(ぜんきゅう)が「先生の道を〔学ぶことを〕うれしく思わないわけではありませんが、力が足りないのです。」といったので、先生はいわれた、「力が足りないものは〔進めるだけ進んで〕中途でやめることになるが、今お前は自分から見きりをつけている。」

▼力が足りないと思うとき、画(かぎ)るのはある程度仕方ないと思われるが孔子は愛弟子をこのようにいって励ましている。自分で意識しないで画る人が問題だ。頭の回転の速い人は往々にして目先が見えるから陥りやすい。

▼合成繊維の生産工場に勤めていた当時、生産部長河村喜一さんが、私の職場に来られて、技術の話をしているとき

「黒崎君、熱水中でビニロン繊維(日本で製造した唯一の合成繊維)に羊毛のようなカールをつけてみないか」と言われた。

「部長!それは以前に実験しました。出来ませんでした。」

 そう答えると、

「今の君は以前と変わらないのか?」と。

 この言葉の重みは私の心をとらえた。

 工夫して改めて行つてみますと申し上げた。

▼熱水の温度・繊維の塊をほぐしての実験を注意深く行いました。結果は同じく、部長の期待されるものはできなかった。

 以上の経過を報告すると、部長も納得してくださった。

 思うに、部長はレイヨンの生産に従事してこられた。レイヨンステープルは、その生産工程の「紡糸」で糸の両側面での歪が異なっているので、そのままお湯の中にいれるとカールができたのである。このことから推定された思われる。この事実は、当時、京都大学の掘尾教授が報告を出されている。

▼一回りしても、進歩しないで元の位置に返る円運動の人がいるが、絶えず識見を磨いて高い位置に登っている螺旋運動している者もいる。私は、後者になりたいものだと……。

余談:部長のお考えを実験という事実で証明したことから、技術者として認めていただいたのか、その後、信頼して下さり、ご指導をいただきました。終身までご高配いただきました。


                       
平成四年四月十五日 六八号 

「悱」と「憤」


 葉公、孔子を子路に問う。子路対えず。子の曰わく、女奚んぞ曰わざる、其の人と為りや、憤を発して食を忘れ楽しみて以て憂いを忘れ、老の将に至らんとするを知らざるのみと。
「子の曰わく、憤せずんば啓せず。悱せずんば発せず。一隅を挙げてこれを示し、三隅を以て反えらざれば、則ち復たせざるなり」 『論語ー述而第七』
 憤は心に通ぜんことを求めて未だ得ざるなり。悱は口に言はんと欲して未だ能はざるなり。

▼「憤を発して食を忘る」とは、志気是くの如し。「楽しみて以て憂いを忘る」とは、心体是く如し。「老の将に至らんとするを知らず」とは、命を知り天を楽しむこと是くの如し。聖人は人と同じからず。又人と異ならず。 佐藤一斎『言志四録』

▼憤が学ぶための原動力である。具体的にどうするか?
 孔子の高弟・顔淵は「舜何人ぞ、予れ何人ぞや」
 佐藤一斎は「憤の一字は、是れ進学の機関なり。『舜何人ぞ、予れ何人ぞや』とは、方に是れ憤なりと」

▼尊敬できる人を持ち、近づこうとすることから始まる。


                       
平成四年五月一日 六九号 

辞書二題


 英英辞典 海軍兵学校長・井上成美は英語教育について自分の体験に基づく考えを英語の教官たちに詳しく説いた。

 一 兵学校の英語教育ハ、文法ヲ骨幹トスベシ

 二 英語ハ頭ヨリ読ミ意味ノ分カルコトヲ目標トスベシ。英文ヲ和訳セシムルハ英語ノ「センス」ヲ養フニ害アリ、(中略)和訳ハ英語ヲ読ミナガラ英語ニテ考フルコトヲ妨ゲ、反対ニ日本語ニテ考フルコトヲ強フルヲ以テナリ

 生徒に長年親しんできた英和辞典の代わりに英英辞典を使用させるよう要望したのもこうした井上の考えによるものであった。『井上成美』(井上成美伝記刊行会)

▼支那文を読む為の漢字典(研文出版)
 今日漢和辞典とよばれる辞書は、漢字漢語と国語の対訳辞書とはいひきれない。程度の低いものほど漢字引きの国語辞書の性質に近い。諸橋博士の大漢和さへそうである。この辞書は、英和仏和のような対訳の漢和辞書としてほとんど唯一のものである。大正四年上海商務省印書館で発行した学生字典を邦文に翻訳したものである。

▼英語、漢文を読むにはその国の辞書を使って初めてその意味が掴める。


                      
平成四年五月十五日 七〇号 

求 道


▼仁遠からんや 「子の曰わく、仁遠からんや。我れ仁を欲すれば、ここに仁至る。」先生がいわれた、仁は遠いものだろうか。わたしたちが仁を求めると、仁はすぐにやってくるよ。『論語―述而第七』

▼己による 「顔淵、仁を問う。子の曰わく、己をせめて礼にかえるを仁となす。一日己をせめて礼に復れば、天下仁に帰す。仁をなすこと己による。而して人によらんや。」 顔淵が仁のことをおたずねした。先生はいわれた、仁を行うのは自分次第だ。どうして人だのみできようか。『論語ー顔淵第十二』

▼道はちかきにあり 「孟子曰く、道はちかきにあり。しかるにこれを遠きに求む。事は易きにあり。しかるにこれを難きに求む。」人が行うべき道は、ごく手近な所にある。それだのに、わざわざそれを遠いところに求めている。『孟子』

▼遠く求るはかなさよ 「衆生本来仏なり。水と氷のごとくにて。水をはなれて氷なく。衆生の外に仏なし。衆生近きを知らずして遠く求るはかなさよ。」 『白隠禅師坐禅和讃』


                      
平成四年六月一日 七一号 

避けて通る


 『言志四録』は、私の愛読書の一つである。

 一と積の字 「一の字、積の字、甚だ畏る可べし。善悪の幾も初一念に在り。善悪の熟するも積累の後に在り。」「言志後録」三八 岩波文庫 P.87
 未見の心友、日見の疎交 「世には、未だ見ざるの心友あり。日に見るの疎交あり。物のけいごうは、感応の厚薄に帰す。」「言志耋録」二一七 岩波文庫 P.270
 読むたびに励まされる。この本は、四書・五経はいうまでもないが、易経からの引用が最も多い。易は先生が最も悟得せられたところで宇宙観も人生観も皆ここから割り出された様で味うべきものがある、と言われている。何度も繰り返して読んでいるのだがその味うべき『易経』の部分を避けて通ってきた。

▼「子の曰わく、我に数年を加え、五十にして以て易を学べば、大いなる過ち無かるべし」『論語』
 思い立って、易の入門書を購入して更に岩波文庫『易経』を少し読んだ。「乾坤一擲」「蛟龍地に潜む」は易を出典とする言葉だった。

▼私の場合、避けて通るのは、力が足りないからでもあり、画っているからでもあるようだ。もう一つ見逃せないのは安易な妥協と努力不足がある。


                       
平成四年六月十五日 七二号  転石苔を生ぜず


「活発に活動しているものはいつまでも古くならないというたとえ。安定した位置に甘んじていると、いつのまにか古めかしく時代遅れになるということ。また、一説に、転居や転職をしばしば行うような者には財産も地位も身につかないというたとえとする」『古事俗信ことわざ大辞典』(小学館)

▼A rolling stone gathers no moss.

 もともとイギリスで生まれたもの。商売変えやひんぱんな引っ越しをしていてはお金がたまらない、という意味である。ここの moss は money なりと割り切っている辞書もあるほど。伝統を重んじ、安定を大切にしたイギリス人の考え方をあらわしている。

 わが国の「石の上にも三年」がこれに近い。ところが、このことわざが大西洋を渡り、同じ英語国のアメリカで、新しい意味が生まれた。アメリカ人には、苔はカビとかサビと同じように感心できないものに思われたのであろう。そんなものがつかないのは結構なことだと考えた。               岩波ジュニア新書『英語ことわざ集』

▼アメリカ人の一人に尋ねると同じ感覚で、少しでも総合力がつけば、新しい職場に変わって行くようである。できる人はヘッドハンターされる。だから一生懸命に勉強している。

▼私はかって、中学三年生とアメリカでのホームスティに同行したことがある。その家庭ではご夫婦が州立大学につとめられていた。奥様が勤めながらドクターコースの過程を習得中であった。ご夫妻と話しているとき、ご主人が奥様の勉強の手助けをしているとおっしゃっていた。そのとき私が感じてのは、競争社会に生き抜くためのきびしさでありました。


   この「ことわざ」は、習いを継続すすることに通ずるものであると思う。

▼「習えば遠し」(私のホームページの題名である)は論語の「性相い近し。習えば、相遠し」によるものである。その意味は「だれでも習いによって善くも悪くもなるものだが〕ただとびきりの賢い者とどん尻の愚かな者とは変わらない。」と説明されているが、習いを継続することにより立派な人になり社会に役立つと理解できるのではないかとおもう。

▼最近の経済の不況により、就活(就職活動の短縮形)は四年制の大学では三年生から就活している。三年生と四年生では学生としての學問に打ち込んでいるのだろうかと疑問に感じます(学部による違いはあるだろう)。大学の先生たちに、実状を聞いてみたいと思います。さらに二年間の勉強では、実績として二年制の「短期大学」と変わらないのではないかと思えてくる……。  

平成二十二年十二月十七日、平成二十三年九月十三日再読、補足。


                       
平成四年七月一日 七三号 

理科教材


 年輪年代測定法 各年の気象条件により樹木の年輪幅が変わるのを利用して木材の伐採年を特定する方法。東大寺南大門の金剛力士(仁王)像二体(寄せ木造り)のうち、阿形(あぎょう)は一一九九年冬から翌年の晩春にかけて山口県で伐採したヒノキで造られたことが、この測定法による調査で分かった。吽形(うんぎょう)も同法による調査で、同じ場所で一一九六年から一二〇二年の間に伐採されたヒノキと判明している。

▼温度目盛・華氏 一七二四年に、ポーランドのファーレンハイト氏が摂氏目盛に先立って提唱したものである。この目盛では水の氷点を三十二度F、沸騰点を二百十二度Fにしている。これは当時得られた氷と食塩による最低温度を〇度とし、健康人の体温を九十六度として定められたものである。

▼クロアシアホウドリの子育てアホウドリの仲間は子育てに時間をかける。クロアシアホウドリの親も半年間ほどひなの面倒を見る。せっせとえさになる魚をとり、腹の中で半ば消化したものをもどしてひなに与える。

▼切抜いた新聞からの理科教材 
 一 ヒノキが約八百年も耐えている。
 二 約二百七十年前に考えた最低温度。
 三 鳥の子育て期間、哺育食など。


                       
平成三年七月十五日 七四号 

温度目盛・華氏 第二報


 ハガキ通信七十三号でポランドの人と紹介した。読まれた方から「華氏というものがどうも分かりにくいのです……」とハガキを戴いた。私は、平素何気なく使っているから疑問に思わなかったが、華氏は何故だろうか?

▼辞書を調べることにした。
☆Fahrenheit(1686~1763ドイツ物理学者)。支那語で華倫海の当字を用いた。『医学 英和辞典』(南山堂)
☆中国で華倫海を当てたことによる。ドイツの物理学者で Danzig の生まれ。*ダンチヒーグダニスクー現在ポランド領土内。『岩波理化学辞典』
☆Fahrenheit The name of a Perussian physicist 『THE OXFORD DICTIONARY』
☆華倫海の発音。華…hua、倫…lun、海…hai。『岩波中国辞典』

▼華倫海がフアレンハイトと発音されて日本では華氏[かし]と読まれているのだと分かった。国籍もドイツ、ポランドと書かれているが、彼の生存期間中はプロイセンとロシアの興隆の時期と重なり、生地はプロイセン(ドイツ)に属した。オクスフォド辞典がa Perussian physicist と記載。歴史的記述の原則によるのが納得出来た。


                       
平成四年七月十一日 七五号 

ヨーガ(二)


 平成三年六月から一年二カ月間の私の体験を纏めた。第四十九号で「ヨーガ(一)」について第一回目を書いた

▼現在の感想 続けていなかつたら体の不調を口にし、心も不安定だっただろう。継続の効果は短期間では分からないが、必ず現れる。

▼実施状況                             
 一 ヨーガ体操…簡易体操・体位体操は佐保田鶴治『ヨーガ入門』(池田書店)を読み挿絵を参考に行う。                  
 二 起床後と寝る前に行っている。    
 三 体操の後に端坐を行う。                 
 四 ワープロ日記に、ヨーガの項目を予め設け、何を行い、感じたかを打ち込み、今年七月に編集した。                

▼その効果
 一 健康感が得らている。
 二 ヒップエレキバン使わなくなった。
 三 安眠が得られている。
 四 体重が六十三キロから五十八キロになった。
 五 結跏趺坐がくめるようになった。家での端坐が初めて定着した。
 六 自律神経が調和したのか、のんきになった。酒も遠のいた。


                       
平成四年八月十五日 七六号 

私の八月十五日


 一九九二年の八月十五日はアメリカに在住している長男夫婦のアパートにいた。この日になると、昭和二十年の当日を必ず思い出す。海軍兵学校の二年生だった。一点の雲のない夏の快晴、じりじりと暑い江田島であった。

 正午、分隊の自習室で雑音で聞き取れなかった終戦の放送を聞いた。それからの虚脱した生活……。二、三日後、海軍の戦闘機一機が上空にあらわれ、ビラを撒いて飛び去った。その内容は、われわれは決起するのだと。

▼八月十五日 大分基地、午後五時、第五航空隊宇垣指令長官と二十二人の搭乗員を乗せた特別攻撃機十一機の彗星(艦上爆撃機)が最後の出撃。大分の空から沖繩へ。午後七時二十四分、機上より訣別の電報を発信、約一時間後に宇垣長官機は突入した。十一機中、八機突入。

 八月十八日 大分基地に各航空部隊の指揮官は集まるように命令された。連合艦隊参謀長から、すべての作戦計画の中止は聖断によると説明された。海軍大将井上成美が勅使としてきていた。『プレジデント今年8月号』

▼岡山護国神社の参道の傍に宇垣纏中将と十七人の記念塔がある。私も迎えた終戦の日にこんなことが……。

参考:宇垣一成陸軍大将と宇垣纏海軍中将と姓が同じですので関係があるといわれる人も居ます。インターネットで調べますと親戚ではないが同じ集落の出身である。また遠い縁戚であるとの説明されている。


                      
平成四年九月一日 七七号 

書き写す速さ


 三十号で「書写のすすめ」を書いた。新聞のコラム一回分の書写の負担の程度を知るために、当時、時間を測定した。今回は、英語の書写を続けているのでその速さを計測した。シドニー・シェルダン『血族』のペーパーバックス、比較的易しい小説。

▼計測の結果

 一 一頁写す時間は、始めた時、十八分、十日後、約七〇%になった。
 二 同じ文章の書写時間と朗読時間を測定した。書写は朗読の六倊。
 三 アルファベット一字を書く時間は約〇・六秒。
 四 二頁連続書写したときの一頁のラップタイムはほぼ同じ。

▼考察と感想 書写、二年間継続後だから、写す時間が変動しないはずだが、なぜ変化したのだろうか。速く書こうとしなかったからだ。具体的に習得項目を決めて行えば工夫も生まれて、能力も向上するものだ。
☆写す速さは一回の読取る単語の数と速さ、書く速さ、内容理解と単語の意味・綴りの記憶度による。
☆書写所要時間は朗読の六倍。読書では何回読めばよいか示唆している。
☆書写中、英文を日本語に翻訳していない。ヒアリングに役立つ。


                       
平成四年九月十五日 七八号 

能力の発見


 自分の能力は自覚、発見しにくいものだ。企業内教育の一つとして人前での三分間スピーチの訓練を繰返継続して行った。方法は指導者と研修生四十人の前で時間内に話す。スピーチが終わると本人が感想を述べた後、聞いていた研修生が感じたことを話し、指導者が批評することにより向上を計った。

▼A君(二十歳)の場合 数回の訓練の後、本人はまだまだ未熟だと思っていた。話し方、態度、内容も相当上手だと、指導者、ほかの人から言われた。そう言われても自分では本当にそうなのかよく分からない、しかしほめられると嬉しいもので、多少なりとも自信がでてきたと彼は感じた。それからは目に見えて向上した。

▼外国に旅行して、問題となるものに会話がある。現地の人と向き合えば英語の力が低くても手振りで何とか思いを伝えられる。電話になると話しは別だ。ある人は二年くらい住んで漸く話しがで出来るようになったとのことである。私の場合、電話でタクシーを呼んで乗るような日常の簡単なことが出来て嬉しくなった。

▼自分の能力を向上するには、先ずどの程度か知らなければならない。判定方法が意外と分からないものだ。



平成四年十月一日 七九号 

鐘の音


 朝方、曹源寺の梵鐘の音が私の家まで聞こえることがある。静かに心にしみわたる。外気が冷えると冴えてくる。夕方は日の入りの空に音がわたる。お寺が谷間にあるので広い範囲にとどかないためか聞こえない日もある。修行者が「延命十句観音経」を唱えながら撞いているのだそうだ。

▼今夏、スイスで数日過ごした。首都ベルンには市内の中心部に時計台があり、鐘が時を告げていた。アルプスの名峰マッターホルンの麓の村ツェルマットでは教会の鐘が朝の冷気を震わせていた。これらの都市や村にはなんともいえない落ちついた雰囲気があり、人々の様子にも親しみを覚えた。長い歳月の鐘の音に育まれてきたのだろう。

▼お寺の晨鐘は目覚めになり、昏鐘の響きにはだれもなにかを思い、心の安らぎとなって内観させられる。朝夕のいんいんと響く鐘の音ははかりしれない安らぎを人に与えている。

▼毎日、梵鐘の音を聞いているところでは、そうでないところと比べると悪事の発生件数が少ないのでは無かろうか。そこに住む人たちは心豊かなゆとりある日々を送っているだろう。こんな町や村にしてほしいものだと願う。

 「山寺の鐘つく僧の起き臥しは、知らでしりなむ四方の里人」(二宮尊徳)


参考1:NHKのニュースで、「国連 各国に原発安全強化促す」式典が国連で日本から贈られた鐘を事務総長が撞いてから行われていた。

 祈念を行うに当り、鐘が撞かれるのは、なぜでしょうか。その響く音にのせて犠牲者へと私達のお祈りを捧げるのではないかと、そしてそれを聞き取っていただいて音が消えて行くのではと思います。

参考2、【モスクワ支局】チェルノブイリ原発事故の発生から25年を迎えた26日未明(日本時間同日朝)、ウクライナ各地で犠牲者の追悼行事が行われた。
 インターファクス通信によると、キエフの教会では、ロシア正教会のキリル総主教による祈祷式が行われ、原発の事故処理に当たった関係者ら700人が出席、同原発4号機で爆発が起きた時刻の午前1時23分に合わせて鐘を25回鳴らした。
 ロシアのメドベージェフ大統領も26日、ウクライナのヤヌコビッチ大統領とともに現地を訪問する予定。
(2011年4月26日11時07分 読売新聞)



平成四年十月十五日 八〇号

動く……運動の法則を読んで


▼運動の第一法則……慣性の法則 「物体に外から力がはたらかないか、いくつかの力がはたらいても、それらの力がつりあっているとき、静止している物体はいつまでも静止し、運動している物体はその速さを保つて直線運動を続ける」。
 静止の状態から動くには外から力を加えないかぎりいつまでも静止している。動くには思いきってやってみることだ。一度動き始めると力を加えないでもそのままの速さで動き続ける。

▼運動の第二法則……運動の法則 「物体に力を加えると、力と同じ向きに加速度を生じ、その大きさは加えた力の大きさに比例し、物体の質量に反比例する」。
 いままでより速く動くには、まず自分の身を軽くして、力を加えること。次に力を加えるとその力に応じて速くなり、力の方向に動く。

▼運動の第三法則……作用反作用の法則 「物体Aが物体Bに力Fをおよぼすとき、AがBから受ける力は、力Fと同じ大きさで逆向きである」。
 確かなことは、作用しなければ反作用は決してない。実行すれば、やっただけの成果が与えられる。
 以上三法則から仕事の進め方を教えられた。



平成四年十一月一日 八一号

感動話を宿題に

 K氏からのハガキ。「年をとると過去の経験と勘のみにたより勉強もしないで向う意気ばかり強くなって困る!」と。感動も少なくなっていると思う。
▼勤務先の学校のHさんの話し。今年暑くなった七月二〇日頃から、一日六回、生徒のために十㍑のタンクに冷たい麦茶を作り始めた。二台の冷蔵庫の製氷機を使ってお茶を冷たくした。タンクの横に網棚を取り付けてガラスコップを七コ準備した。生徒たちは非常に喜んでいる。
 私:「Hさん、また素晴らしいことを始めたのですね」
 Hさん:「七コのコップが最近四コになったんですよ」
 私:「アルミのコップにしたら」
 Hさん:「それはだめなんです。三コなくなったのは九月になってからなんです。これだけ多くの生徒が利用して、たった三コしかなくならなかったんですよ。素晴らしい生徒たちですよね。アルミではこんなことは分からなかったでしょう」 

▼胸に響くものに出合いたい。読書会などで感動話の紹介を参加者の宿題にして持寄り話し合い、共有されてはいかがでしょうか



平成四年十一月十五日 八二号

ボディー・ランゲージ


▼その一 この秋、私たち五人の兄・弟・妹の夫婦十人が山陰へ旅行。男と女がそれぞれ別れて向き合って旅館での夕食の膳についた。食事の世話をしていただいた人にどのカップルが夫婦かを質問。結果は三組み正解、二組み入れ代わった。夫婦は似てくると言われるが、初対面の見も知らない人にでも感じ取れたようだ。

▼その二 林家屯田平(落語家・林三平師匠の弟子)が手話落語の普及のために全国を歩いて回っている途中、岡山市の禅寺曹源寺に一泊。「ミニ国連」というほど世界の多国籍の人たちが修行に励んでいる。

 お礼のために机を即席の高座にして落語二席語った。老師をはじめ日本語の分からない外人も聞いた。手話を交えての身振りの話し方から内容、面白さは正確に掴んだそうだ。「オペラのようだ」と感じたものもいた。翌日、一人のアメリカ人に直接感想を聞いた「落語はどうでしたか?」「初めての落語だったが素晴らしい>

▼語りは言葉だけではない。心のこもった語りかけをしたい。



平成四年十二月一日 八三号

感動話 この一勝


 永易先生のお話し:岡山県に昨年度新設された高校の教頭であり野球部の監督もされている。今年二年目、部員は十八名。昨年度、一年生だけのチームで夏の甲子園大会岡山県予選大会に初参加。中学時代に野球部員の経験者は一人もいなかった。当然、コルドゲームで敗退。

▼今年も大会に参加 昨年に比べて内容は良かったが一回戦で負けた。問題は野球技術よりも精神的なもろさにあると先生は読み取り、徹底的な練習しかないと判断。練習に練習を重ねると疲労困憊して、開き直り上達のチャンスが選手たちにやってきた。
 四国に練習試合に遠征。そこで初めて一勝。すると不思議なもので秋の公式戦で一回戦を勝つことが出来た。二回戦では惜しくも敗れたが、その後の交流試合では勝つたり負けたりの成績を残すようになった。四国での一勝が壁を破って一気に実を結んだ。

▼相撲の世界では、自信がつくと「化ける」と言われるほど強くなる。野球部員たちは「化け」たのだ。野球を通しての体験が彼等に与えたものははかりしれない。



平成四年十二月十五日 八四号

平成四年 私の実行状況


★英語関係 総括して不十分。※英文書写…二年半継続中。千日目標 ※BBC放送…三年半継続中。聞き取り能力不十分。※『天声人語英文対照』を読む。
☆毎日読書…読んだ主な本 ヒルティ『眠られぬ夜のために』、『幸福論』、三浦綾子『新約聖書入門』、『旧約聖書入門』、『正法眼蔵』、『論語』、『仏教読本』(仏教系高校教科書)。
★森信三先生『一日一語』……ワープロインプット完了。
★ヨーガ継続……体重五九キロ保持。
★日曜坐禅……継続中。一滴禅(曹源寺老師の提唱……家庭での坐禅)……継続中。
★師友会参加……月一回日曜日。『三国志』輪読中。中華書局出版『三国志』標点本購入。
★『自学自得』ハガキ通信……継続。
★健康法……ヨーガ体操以外工夫。
★特記……スキーが出来るようになった。

★反省点…今年も昨年と同じく計画倒れ、成果が上がらなかったものが多かった。

▼来年は、ハガキ通信百号の目標がお陰様で達成されます。書き続けたいと念願しています。



平成五年一月一日 八五号

一日読まずんば、一食喰わず


 昨年末、実践人手帖『いのちの呼応』を戴いた。表題は森信三先生語録の一つである。

▼計画を作るのは比較的容易。実行はむずかしく、数日して止める。また繰り返し、遂には計画さえ立てなくなる。ある期間継続していても「こんなことを続けて何になる?」「他にやることが幾らでもある」と思い、中断して再開しない。

▼「一食飛ばすことがあるだろうか?」「寝ない日があるだろうか?」「何のために食べているか?」「食べる以外にやることがある」「今日は忙しかったから食べるのを忘れていた」。むしろ忙しくて疲れたからと栄養補給のためにご馳走を食べたりする。空腹になれば必ず一日二食乃至三食は食べる、疲れば寝るのは本能である。
「一日読まずんば、一食喰わず」。
 実行能力も本能的になって本物。

▼森信三先生を懐う。合掌。

 〽うたたねも叱り手のなき寒さかな 一茶



平成五年一月十五日 八六号

無一物―中村久子


 昭和一九八八年四月十日、山田無文老師の油絵の肖像画がいつも掲げられている曹源寺の小方丈の床の間に一幅の書軸が掛けられていた。

 <「無一物 久子口書」

 この人は両手がないか、不自由だと思った。中村久子さんの著作に『こころの手足』(春秋社)があると教えられた。

▼明治三〇年十一月二五日、飛騨高山市に生まれる。三歳の時、足の霜焼けがもとで突発性脱疽となり、両手両足を失う。七歳の夏、父の死に遭う。八歳の秋、母の再婚により、藤田家の一員となる。大正五年十一月、自ら見世物小屋に売られ、荷車に乗せられて郷里高山を出る。名古屋「宝座」で「だるま娘」の看板で見世物芸人の生活。昭和四三年、高山市の自宅で永眠。


 同書の「中村久子女子年譜」によると

▼明治三十一年十一月二十五日、飛騨高山市に生まれる。三歳の時、足の霜焼けがもとで突発性脱疽となり、両手両足を失う。

 七歳の夏、父の死に遭う。八歳の秋、母の再婚により、藤田家の一員となる。
 大正五年十一月、自ら見世物小屋に売られ、荷車に乗せられて郷里高山を出る。名古屋「宝座」で「だるま娘」の看板で見世物芸人の生活。
 大正九年五月、弟、八月、母あやと相次いで肉親の死に遭う。
 大正十年、中谷雄三と結婚。翌年八月、長女美智子生まれる。
 大正十二年、夫雄三逝く。
 大正十二年十一月頃、進士由太と結婚、翌年富士子生まれる。
 大正十四年十月、夫由太と死別。
 大正十五年、定兼俊夫と結婚。
 昭和八年秋、離婚。
 昭和九年、中村敏雄と結婚。
 昭和十二年四月十七、東京日比谷公会堂において、世界の聖女ヘレン・ケラー女史と会見、口で縫った日本人形を送る。この頃から、頼まれて講演に出るようになる。
 昭和十七年一月、津市の観音祭の興行を最後に、二十二年間の見世物芸人の生活に決別する。
 (省略)
 昭和四十二年八月六日、座古愛子女子の二十三年忌の法要を、神戸祥福寺と神戸女学院でつとめ、『座古愛子女子の一生』を編集刊行。
 昭和四十三年三月十九日、高山市の自宅において永眠、七十二歳、普行院釈尼妙信。

▼同書の解説の一部を紹介します。

 姫路で興行を続けている時、久子さんは暗黒の日々を送っていた。三度目の主人の道楽に悶えつづけていた久子さんは、小屋がはねると修羅のようになって、女のいるところに主人を探し、飲屋を一軒一軒歩いた。

「ねえさんの目は、ふくろうの目のようでこわい」

と若い衆にいわれるほどであった。そんなある日、購い求めた雑誌『キング』に出ていた「座古愛子女子」の記事は、久子さんにとって晴天に霹靂の思いであった。

▼座古愛子女史は、十六のときに発病したリウマチがもとで、昇天されるまでの約五十年間を、ベッドに寝たきりで寝返りを打てなかった人である。クリスチャンであった女子は、この悲惨な人生に耐え、むしろ神の恩寵として受け取られて、柔和な笑顔を忘れずに、神の愛を説かれた。動かぬ指にペンを握って書面伝道に励まれ、ベッドに寝たままで神戸女学院の購買部の仕事をされて、人々の灯となられた人である。

 久子さんは座古女史の記事を読み、「ああ、わたしは手足の動く有難さを知らなかった」と思った。自分には切断されて短い動く手足がある。義足をつければ自由に動ける体がある。貧しくとも夫も子供もある。浮草の身とはいえ自分の家庭がある。それなのに自分は修羅の日々を送り、自分より不幸な座古女史は観音様のように柔和な顔をしておられる。勿体ない、恥ずかしい、と久子さんは気がつくと矢も楯もたまらず、一人神戸女学院へ座古女史を訪ねた。ドアを開け、ベッドに横臥されている座古女史と、目と目と合った刹那、二人は言葉なく、ただ涙が堰を切ってながれた。生涯を寝たままの座古女史と、無手無足の久子さん。人生においてこのような苦難にみちた人の出会いを、わたしは知らない。久子さんが「業のある間、仏様がやめろとおっしゃる時まで芸人でいよう」と決心されたのは恐らくこの日からでなかったか、と思う。

 座古女史は昭和十九年、最後まで不遇のまま世を去られたが、久子さんはそれからも、心の底に座古女史からから受けた無形の恩を忘れたことがなかった。あの時、女史にお合いしなかったら、今日のわたしはない。女史はこころの眼を開いて下さった偉大な恩人、と女史逝いて二十年間思い続けられた。

 昭和四十二年、つまり久子さんの亡くなる前年、久子さんからの手紙で、座古女史の著「伏屋の曙」を芯に女史の生涯を綴った本を出したいと、相談を受け、わたしは急遽その編纂に当たった。その年の八月六日、山田無文導師のもとに座古女史の遺族、関係者を招き、神戸祥福寺と、神戸女学院において、座古女史の法要が営まれた。その法要の記念品として、『座古愛子女史野一生』の本が参詣者に送られたのである。

▼四肢のない中村さんが好きな詩は、何でもある、ある、あるですね。母はそれを思ったんでしょうね。ないのではない、あるんです。ないと言って泣くよりも、あると思って明るく生きた方がいいですよね。この詩が大好きなんです。それを朗読させて頂きます。

「ある ある ある」

さわやかな 秋の朝

“タオル取ってちょうだい”
“おーい”と答える良人がある
“ハーイ”とゆう娘がおる

歯をみがく
義歯の取り外し
かおを洗う
短いけれど
指のない
まるい
つよい手が
何でもしてくれる

断端に骨のない
やわらかい腕もある
何でもしてくれる
短い手もある

ある ある ある

みんなある

さわやかな
秋の朝

▼ご自身の身体障害・肉親の死亡・夫婦縁の不幸を背負ってきた中村久子さん。「無一物」だと自覚したこの人にはすべての存在がありがたい。私のような凡人は、「なぜ自分がこんな目に遭わねばならぬか」と天を呪うであろう。「耐えられるだろう」かと自問自答することしきり……。

平成二十四年七月十五日追加


 禅宗の山田無文老師は、とても大事にして下さいました。母もとっても大好きな老師様でした。

 そして京都へ行った時に、雲水さんに聞かされた話があります。母がその時に泣きました。

 それは老師様は忙しい方です。一生懸命急稿か何かを書いている。そこへ中村さんからのお手紙ですよと雲水さんが持っていく。そうすると、ここをちょっと片付けなさいと言って、自分の机の上を片付けさせて、中村さんの便りだなって、母の手紙の封を切ってお読みになる。すぐに返事を書く。老師様こちらの仕事の方が忙しいです。こちらを済ませてから中村さんのお手紙をって雲水さんが言ったら、言われたそうです。中村さんは手がないんですよ。口でこのお手紙を書いて下さったんですよ。それをおろそかにして他のことが出来ますかと。そうおっしゃってすぐにお返事を下さる。すごい人ですね。だから私はそれを聞いた時に私も涙がこぼれました。母を大事に思ってくださる方。金子先生にしても曽我量深先生にしてもすぐにお返事を下さった。甲斐和里子先生もそうです。私はいろいろな方とお会い出来たのは母のお陰です。母は自分の体が、この体ゆえに、両手両足のない体ゆえに、これが私を救ってくれたんですと言いました。だから手足のないことを悲しんでもおりませんでした。

平成29年7月21日追加。



平成五年二月一日 八七号

無用の用


「道は足の裏の幅さえあれば十分だ」

 中学生のとき習ったか、『徒然草』か『荘子』で読んだか……。多分、中学校のときだろう。

▼歩行者を支えている道が十センチの幅で続いていたらどうだろう。もし平均台のように地面より高くなっていたとしたら歩けたものでない。また少しでも凸凹があればつまずいたりする。十センチの道に接した土地は、いつ歩かれるか分からない。しかしなくてはならない。無用の用を果たしている。

▼足の裏の幅さえあれば十分だと考えるのは効率優先の考えに似ている。即効性がなければ行わない。効果の期待できないものは後回し。私達の仕事の進め方の判断基準にこんなことが多い。自分の職業との関連知識・技能の習得が不可欠なことは言うまでもない。関係の程度が離れれば離れるほど力をいれなくなる。製造のひとは研究、販売に関心を持つが、社会とのかかりあいになると段々と縁遠くなり、世界のことなると人ごとになる。

▼無用の用を知っている人、なんとなく一味違う。そんな人に魅かれる。

顔 之 推の言葉であった。表題は記憶していた。だが、どなたの言葉でであったかの推定記憶はまちがつていた。



平成五年二月十五日 八八号 行くに径に由らず


 孔子の門人に子游(しゆう)という人がありました。この子游という人が、武城(ぶじょう)という小さな村里の役人になったことがあります。そのとき孔子は子游を呼んで「そなたも今度は役人になったから、人材を得なければならぬ。何か人材を得たか」と言いましたところ、子游は澹台滅明(たんだいめつめい)という男を得た。それがどいう人かというと、行くに径(こみち)に由らず、歩く場合には小道を歩いたことがない。それから「公事にあらざれば、未だかって偃が室に至らず」偃(えん)というのは子游の名前でありますが、公の用事でなければ長官である私のうちにもやってきたことがない。これが人材だと思いますとこうお答えしたのであります。諸橋轍次『古典の叡知』

▼新聞を読み、テレビを見ていると、過剰反応、付和雷同、受動態、総批評家、経済優先、世襲、外圧利用、軽薄短少、アイドル氾濫などの言葉が矢継ぎばやに浮かんでくる。その対極には黙って見守る親切、愚直、能動態、主体性、不言実行、無用の用、大道、回り道、行不由径、重厚長大など。

▼だれもが通りたい道の裏通りに本物が隠れていると思えてしかたない。



平成五年三月一日 八九号

ゆづり葉「譲葉・交譲木・楪」


 三月、四月は卒業、転勤、定年、入学、入社など様々な別れと出会が待っている。年来、この時期には「新葉が成長して旧葉が落ち譲るので名付けられている楪」を見たい願がよみがえっていた。二月末、身近なところで出合えた。岡山市で一番賑かな商店街に三本も植えられて、木札も付けられていた。二日後、市内の緑道公園で「ひめゆづりは」をさらに見つけた。

▼『枕草子』には「ゆづり葉の、いみじうさやかにつやめき、茎はいとあかくきらきらしく見えたるこそ、あやしけれどをかし。なべての月には見えぬ物の、師走のつごもりのみ時めきて、亡き人のくひものに敷く物にやとあはれなるに、また、よはひを延ぶる歯固めの具にももてつかひたるは」と。

▼清少な言の観察は美しい。当時以前から、十二月には魂祭り、新年には歯固(正月三個日の間、歯をかためるといって、鏡餅・猪・鹿・押鮎・大根・瓜などを食べて長命を祝う儀)に使っている。譲る黙のすがたに出会いと別れを重ね合わせ、生の永続を願い、去年今年を祖先と共に祝う昔の人の願いは私にも共感される。来年はこの葉を飾り物の一つに加えたい。〈交譲木に葉守りの神のおわすらむ〉


追加:2009.04.08

  ■ゆずりは Daphniphyllummacropodum

 ゆずりは Daphniphyllum macropodumゆずりは(譲葉)Daphniphyllum macropodum

 【ゆずりは科ゆずりは属】 分布 本州以南沖縄まで 

 4~5月古い葉の付け根に茶色の小花を咲かせる
 春の新葉を見とどけて古い葉が散るので譲り葉と呼ばれる
 円形の実は秋には藍色に熟す 政治家や企業人もかくありたい
 いつまでも権威にしがみついていては若い力が育たない
 目出度い椊物として正月の鏡餅の飾りに使われる 雄雌異株
 葉の茎が赤い特徴がある 葉の表面は光沢がある
 日当たりの良い暖かい山に生える
 海岸には姫譲葉がある 寒い地方に蝦夷譲葉がある
 常緑の中木で樹高10mになる 有毒植物なので注意
 画像の上にMPを載せると、みごとな全体写真に変わる
 用途:庭木に利用(円形に大きくなるので広い場所用とする)
 花図鑑TOPに戻る


追加:2009.04.08

 



平成五年三月十五日 九〇号
地球自転…無意識界


 一八五一年、フランスのフーコーは「自由に振動している振り子は、外から力が加わらない限り、いつまでもその振動方向を変えない」(慣性の法則)という性質を利用して次のような実験を行った。パリ(北緯約四八度五〇分)のパンテオン寺院のドームの天井から長い針金で重さ二十八キ㎏もある鉄の球をつるし、どの方向にも自由に振れる振り子をつくった。この振り子を寺院内につけた目印に向けて振らせた。すると時間がたつにつれて、変わらないはずの振り子の振動面が一定の速さで右まわり(時計まわり)にずれていった。これは寺院の床が、地球とともに左まわりに回転したことを示したもので、これによってはじめて地球の自転が証明された。『高校理科Ⅰ』

▼「太陽や恒星が毎日東から西に動くのは地球が自転していることだ」と言われても太陽が地球のまわりを動いているようにしか思えない。国立科学博物館にはフーコーの振り子がある。一時間そばに立って自転を実感したい。

▼知っている、分かっていると思っていたのは、実は教えられて信じていたに過ぎなかったものが多い。たしかに自分では意識できない存在がある。

▼〽花咲けば花守りあらまほしきかな 



平成五年四月一日 九一号

本人あてのハガキ


 同姓同名の人からのハガキが職場に配達された。
「同じな前の人から来ていますよ! 自分で書かれたのですか?」
「同じな前の人がいるんですよ」こんなやり取りが本人あてに書くヒントになった。手紙や葉書は人さまに書くもので、自分あてに書くことは思い付きもしなかった。もちろん経験もない。

▼旅の楽しみは見物のほかに写真撮影土産物などを買ったり。外国旅行したりすると知人に絵葉書を発信することがある。知らない名所からのものを戴いたりすると有難い。行く先々から本人様へこんな便りを書き送るとどうだろう。
 その日の行動、感じたこと、翌日の計画など、旅先の住所も正確に調べて書きとめる。郵便局名と日時の消印はこれ以上ない正確な記念スタンプとなる。毎日書けば日記の代わりになる。一泊二日の日程であれば配送されるより早く帰宅して受け取るだろう。旅行を二倍も三倍も楽しめる。

▼さらにこんなことはどうだろう嬉しいとき、気力の弱ったとき。だれよりもよく知っている当人がみずからへ喜を、励ましをしたためるのは。



平成五年四月一五日 九二号

ない ある

ない


 左上膊の一部がない
 借金もない
 金も十分でない 
 地位もない 
 だけどテニスもスキーも
 健康感もある だけど食うに困らない
 だけどまじめに働いている

 ある

 見る目もある
 本も読んでいる 
 聞く耳もある
 話も聴いている 
 書く手もある ワープロもたたいている
   歩く脚もある
 ひとりでいつでもどこえもで 
 考える力も自然を愛する情も 
 意欲も時間もゆとりもある

 かりもの ほんもの

 かりもののあるは 
 多いとか少ないとか
 ほんもののあるは 
 自分だけのもの 
 いっぱいある
 使い尽くせない
 ほんもののないのは 
 満足することがない 
 ないというひとは
 こころがないと言はない

  



平成五年五月一日 九三号

千日書写


 英語を写しはじめて千日過ぎた。やり遂げたらすごく上達しているだろうと期待していたのであるが、外国語の山は高かった。なんとかして短波放送を自由に聞き取れるようになりたいものだと願っていた。手初めに高校教科書を取り上げた。次はペーパーバックスの易しくて面白い小説を、今は『天声人語英文対照』を書きながら時事問題を学んでいる。力に適ったものが自然と分かるようになっている。期間中、書き溜めた大学ノートは四十冊。並行して僅かな進歩でも感じられるようにヒアリングを習慣にした。NHK二元放送などは好都合。書写の時間帯は、仕事を始める前の三十分を当て、たいぎなときは五分でも一行でもむりにつとめた。日常生活では一日のうちに何がおこるか予測できないうえに、中断する言い訳はいくらでもあつたものである。

▼千日は三、四日ではなかった。堅いはずの意志を動揺、破ろうと待ち伏せがいた。「こんなことを続けて意味があるのか、何かましなものが他にあるのではないか?」との自問。直接にはなにも関係ない好きなものを選び、愚直に続け、自分を試した日々だった。千二日目は、若葉輝く緑の日だった。

〽春落葉かき本尺余三歳かな

参考:実践人 平成5年 8月号 No.441 寄稿文



平成五年五月十五日 九四号

非無理


 「無理」は辞典では[①道理のないこと。②強いて行うこと。③行いにくいこと。なすに困難なこと]などと説明されている。無理圧状[むりおうじょう]、無理押、無理からぬ、無理算段、無理無体、無理矢理などの言葉から無理をすると言えば避けたい、避けるべきだと結び付く。また何か理由がなければ、中には自分に有利でなければ行動しない感覚と連想する。自分では理に適った行いだと考えて実行して十分でなかったと気付き浅はかさをしばしば思い知らされるものである]

▼自分には無理でも人には非無理であるかもしれない。あれこれと理屈を並べ立てているうちは本当は行う気持の無いことを隠すためで、更に悪いのは環境が整わないことなどを理由にすることだ。黙ってやってみろと、言われることも少ない。無理を承知でやってみると意外にそうでなかったと覚る。無理にあらざる「非無理」と無理とは自己判断にしか過ぎない。個人の判断はその人の器量の大きさに左右される。大きくするには非無理化そしてその先の有理化を前提としている。

▼行いにくいこと、なすに困難なことを強いて行うことのようだ。



平成五年六月一日 九五号

語 楽


 俳句・季語・季寄せを読んでいると、つぎのような知らなかった単語、また美しい表現に出合った。『広辞苑』『国語大辞典』、古語辞典を調べながら読むと結構楽しめる。「ごらく」とな付けた。ワープロ日誌に打ち込み保存することにした。

▼しゅうせん[鞦韆]……ぶらんこ。がたびし[我他彼此]…我と他と対立して葛藤の絶えぬこと。しんしゅく[信宿]……二晩どまり。ふうたく[風鐸]……ふうりん。そうず[添水]……鹿威し(ししおどし)。さんさん[珊珊]……鈴の澄んだ音。もだす[黙す・黙止す]。めかる[目離る]…目を離す。会うことが遠ざかる。

▼語楽中の感想

 一つには
 私の語彙はつぎの三つに分類され、使っているものは少なく、定型化されている。
 一 読める 書ける 使える。
 二 読める 書ける 使えない。
 三 読めない 書けない 使えない。

 二つには
 言葉の変遷について。まず、廃語。生活様式の変化が消滅・生成をもたらし、残しておきたいものが次々と消えている。次にカタカナ語の氾濫。ある新聞のコラムでは八百字の文章中に二十五も使われているなど。



平成五年六月一五日 九六号

剪定と文章推敲


 腕の勝れた庭師の剪定を見ているとあんなに剪ってもよいのだろうかと疑うほどばさっばさっと鋏を入れる。仕事が終わると、さっぱりとした幹枝葉がそれぞれところを得た見事な出来ばえに感心させられる。素人はおそるおそる植木のそと周りから少しずつ切り取り、小枝が残り密生した様子は手を加える前とあまりかわりばえしない。

▼一度書いたものは消したくない。たとえ冗長であっても、自分の気分にとらわれている。文中の言葉を削っても意味が通ずるとそれは余分だったといえる。個人のメモまたは日記は一人だけのものだが、人が読む書き物は読者の気持ちになって作らなければ退屈極まりないものである。

▼私が心掛けていることは
 その一……同じ語句は出来るかぎり二度使わない。清書して確かめている。これだけでも守れたら十分に簡潔になる。
 その二……原稿は最低一日寝かせて読み直す。書き上げた当日はこれでよしと思っても、翌日は別人の立場であらためて手を加えられるものである。

▼いい作文にはリズムがある。すらすらと気持ち良く読めるとまずまずだ。



平成五年七月一日 九七号

楷の木


 株式会社クラレ研修所は、二千五百本、種類も百数十に及ぶ樹木に取り囲まれ、四季を楽しめる環境にある。ここで学び自学自得したものに亭亭として語りかける楷の木を選び、一九八七年一月、岡山県和気の閑谷学校から苗木をいただき前庭に植樹しました。

▼楷樹は中国原産の木で、黄蓮樹ともいう。学名はピスタチア・シネンシス・ブンゲ。うるし科の落葉高木で、葉は対生複葉、高さは二十米以上に達するものもある。雌雄異株のうえ、花がつくまで数十年を要する珍木である。中国では孔子の生誕の地、曲阜の孔林に多数の巨木がある。この地は中国山東省の南西部にある小邑。春秋時代に魯の都であった。 ]

▼日本においては、牧野富太郎博士が特に「孔子木」と命名した。孔子との関係で「学問の木」という人もいる。孔子聖廟の数箇所に見られる珍しい木である。東京の湯島の聖堂の木は孔林で採取された種子から苗に育てた後、ここに植えられた。会津若松市の会津藩校「日新館」、佐賀県「多久聖廟」、岡山県では「閑谷学校」、関西では関西師友協会成人研修所にある。

三樹の教え 一年の計は穀を樹うるに如くはなし。十年の計は木を樹うるに如くはなし。終身の計は人を樹うるに如くはなし。


☆追記1:「習えば遠し」の冒頭の写真参照ください。17.4.12
☆追記2:元岡山工場ビニロン部長小林成一さんが平成18年5月末に撮影された写真をこの号に載せました。ありがとうございます。19年経過後、見事になっている姿に子供の成長の喜びに似たものを感じています。現在、当時の研修生たちもこの木(樹)のように会社で活躍していると思います。がんばってください。私の願いは、この木がいついつまでも保存されて会社の発展を見守ってくれることです!!
18.5.28



平成五年七月十五日 九八号

『カンジ 言葉を持った天才ザル』


 アメリカのアトランタに、ジョージア州立大学言語研究センターには、チンパンジーの学習能力を、言語に障害がある子供たちの治療に役立てようとしている、世界でも数少ない研究機関があり、ここのスー・サベジーランボー博士がサルの言語能力の実験を続けている。「サルはヒトの言葉を理解できない」これが世界の科学者たちの見解でした。ところが英文法を理解し、ヒトと対話するサルが出現したのです。彼はボノボ(ピグミチンパンジー)のカンジ(愛称)。覚えた英単語は約千語。日常生活はほとんど不自由しません。ボノボは私たちが動物園で見かけるふつうのチンパンジーとは違い、アフリカのごくかぎられた密林で生きつづけ、数十年前に発見されて「最後の類人猿と称されました。生後六カ月の彼と博士との出会いから現在までの四五〇〇日を綴った手記です。(NHK出版)

▼「カンジと付き合っていると、彼が人なのかサルなのか、わからなくなってしまうときがある」「ごく早い時期に言葉にさらされると、人間以外でも言葉を習得できるということをカンジは私たちに教えてくれた」などと、博士はいう。人間について考えさせられるものがある。



平成五年八月一日 九九号

黒い雨


 八月のカッとした暑さになると昭和二十年八月がよみがえる。

 八月六日。江田島は、朝から好天気。測量実習で海岸線を実測中、夏の陽射しにあてられたので、海軍兵学校西生徒館内の湯飲み場でお茶を飲んでいた。まさにそのとき。ピカッと閃光。ドーン。ガタガタと窓ガラス震動。火薬庫の爆発だ! 安全地帯に逃げなくては、海岸線に向かって飛び出した。学校の裏、古鷹山の方を見たが、それらしい形跡はなかった。北西に視線を転ずると広島市の上空あたりに、きのこ雲。私の目に焼きついた。

▼エノラ・ゲイは旋回をつづけた。

 原爆担当ビーゼル中尉は「眼下に見えたのは火の海と荒廃の地だけで、ヒロシマの街はほとんど見ることができなかった」。見ることができなかったのは街だけではない。ヒロシマの人たちのことを、エノラ・ゲイのクルーは一顧だにしなかった。通信士ネルソンはチベッツ大佐の用意した短い爆撃報告を送った。

「主目標を目測爆撃。結果は良好。雲量十分の一。戦闘機および高射砲による攻撃なし」。

 つづいてパーソンズ大佐が用意した、上司ファーレル将軍(そしてグローブス将軍)あての報告書を暗号で送った。大勝利を伝えるものである。

 彼らは任務を終え、帰途人についた。彼らに課せられた仕事をすべてなしとげたが、ほっとすることはなったという。ヒロシマをはなれて一時間一五分ちかくたっても、一〇マイルから一二マイルもの高さに立ちのぼった巨大なきのこ雲が見えていたからである。彼らの殺戮を象徴するかのように、雲の墓標は消えなかった。『幻の声』P.122~

 放送局は炎上していた。広島中央放送局(NHK)は空襲の警戒警報発令を発信できないまでに瞬間に爆破されたのである。白井久夫『幻の声』(岩波新書)

▼きのこ雲は黒い雨を降らせていた。井伏鱒二『黒い雨』を読むと息をのむばかり。


 春秋 「2016.12/30付」

 こりゃよい眺めだ。暮れの30日の屋根の上。瓦にまたがって大胆いっぷくしていれば、借金取りは今日も留守だねと帰って行く。のろのろと降りる。長いはしごを窓の敷居にのせ「子供を相手に拙者シーソーをする」。作家・井伏鱒二が詩「歳末閑居」で描いた情景だ。

▼大正末から昭和初期のことである。なかなか世に出られない。いつも懐が寒い。だまされて負債がふくらむ。年末も金策に走る。不況と左翼運動で社会は騒がしい。軍靴の響きも高くなってきた。八方ふさがりの屈託をふるい落とすように、とぼけた味の詩に書いた。「厄除札(やくよけふだ)」代わりのつもりで「厄除け詩集」を作った。

▼年の瀬は厄払いの時節でもある。江戸時代には専門家がいた。「どんな悪魔が来ても西の海にさらりと払いましょう。街角で声をかけ、口上でご祝儀をかせいでいたそうだ。あまり効かなかったのか、いまではとんと見かけない。今年は地震、台風、大火、疫病の被害が相次いだ。まとめて吹き飛ばしたいところである。

▼今風にいうと厄はリスクである。備えて防ぎたい。それでも遭えば、最後はくじけぬ心が大切だ。「詩集」の御利益か、作家は95歳で亡くなるまで書き続け「黒い雨」などの名作を残した。気持ちの切り替えもうまかったのだろう。やがて果報を呼び寄せた。井伏にならい列島の厄が福に変わるのをじっくり待つとしよう。

2017.01.03



平成五年八月十五日 一〇〇号

上杉鷹山


 山形県小国町は磐梯朝日国立公園のなかの飯豊山の麓にある。一九二四年、内村鑑三はかって上杉鷹山が治めたこの純朴の地に学生二名を派遣して「小国伝道」をはじめた。一九三四年、内村の教えをうけた鈴木弼美校長は遺志をついで基督教独立学園を創設した。私は一度訪問した。一八九四年、内村は、 Presentative Men of Japan を発行。全訳『代表的日本人』岩波文庫。西郷、鷹三、尊徳、藤樹、日蓮を取り上げている。「英文『代表的日本人』の改版が出ました。英文の読める方には読んで戴きたい。日本を世界に向って紹介し日本人を西洋人に対して弁護するには、如何しても欧文を以てしなければなりません、私は一生の事業の一としてこの事を為し得た事を感謝します。

▼海外においての反響 

 その一 後年の彼の日記には、この書が、フランスの元首相クレマンソーによって読まれたことを知り、感激している。

 その二 アメリカのジョン・F・ケネディが大統領のころ、日本人記者団と会見して、「あなたがもっとも尊敬する日本人は誰ですか」と質問されたことがある。そのとき、ケネディは即座に、「それはウエスギヨウザン」と答えたと言う。*童門冬二『小説上杉鷹三』