研究所勤務
1966年(昭和41年)11月~1982年(57年)


 昭和四十一年十一月

 研究所転勤にあたり、私が使用している机が贈られた思い出とどのようにして使かわれてきたかを述べてみます。

 昭和四十一年(クラレ入社十七年目)に岡山工場製造課工務部に転部したのは五月であった。 

 転部挨拶

 昭和二十五年以来満十六年、後部でビニロン建設以来働かせていただきました。ともに考え、働きご指導いただきましたことに感謝いたします。

 仕事、労務、標準化、安全など走馬燈の如く思いが浮かび消えますが転部にあたり二、三のお願いをしてご挨拶に代えさせていただきます。

 第一は安全です。五月一日で無災害記録を樹立しましたが休業災害が四年以上もないと言っても過言ではありません。これは「安全は自分で作り出すんだ」と言う心構えによるものであったと確信しています。安全は与えられるものではありません、作り出して戴きたいと思います。

 第二はQC活動にも通じますが、プラン・ドゥ・チェック・アクションと言われている。しかしこれらの前によく現場を見ることが先行します。見た上で考える。あらゆる角度より考えて自分の考えを持つように心掛けて下さい。そうすれば必ずや自己の進歩と同時に部署の発展が約束されます。後任の石山主任を中心に皆さんの一層の発展を期待します。ご挨拶を終わります。

 十六年間を振りかぇつて見ました。私はわずかの期間ではあったが海軍の学校で学んだことの大事な点は「軍艦にしろ、潜水艦にしろ乗組員は運命共同体である」ということであった。職場でも同じような考え方をしていた。すなわち「職制上の上下関係はあったとしても、ひとりひとりが職場の運命共同体のメンバーである」という考えであった。

 昭和四十一年十一月

 研究所転勤。岡山工場北社宅より倉敷市酒津1652-2 北社宅に転宅。藤高君、浜本、井上、坪井、藤本の諸氏がよく手伝ってくれた。有難い事だ。子供たちは倉敷市立中洲(なかす)小学校に転校。


 藤高君(徳島県三好町の出身:戦時中は陸軍軍曹であった:ビニロンプラントを中国に輸出した時はその要員として中国に派遣)。彼は部署全体をよくまとめてくれ、仲間から信頼されていた。

 四十三年十二月十九日(木)

 藤高勝君(岡山工場)、退社の挨拶にくる。美術館周辺を案内して、信州手打ち蕎麦屋『あずみ』の蕎麦を御馳走する。立派な人であった、将来を考えれば致し方ない。りこうな男だけに将来を考えたのであろう。

 「あずみ」について、大原さんは酒もタバコも飲まないまじめな学者はだの人だったが、ソバが大好きだった。民芸関係の仕事で信州松本市に行ったとき、同地で食べたソバの味が忘れられず、二年がかりでソバ屋の店主をくどき落し、美術館のそばに店を“誘致”、郷里に帰るとよく同店のソバを楽しんでいたという。(山陽新聞記事による)

参考:信州手打ち蕎麦屋『あずみ』

 五十年十一月一日(土)

 藤高君の死亡の訃報あり。脳溢血で死亡したとのこと。誠に、お悔やみ申し上げたい。ビニロン仕上げで本当に苦労してくれた。部下の指導もよく最後まで人に心配させないで、迷惑かけない死に方。冥福を祈る 安らかな旅路につき、こんどこそこそよい後世を。


★北社宅には課長以上の方々:矢部、今井、福島、中保、小林成一、熊井さんたちがいた。

 中保さん。広島一中→海軍機関学校56期(同期に京大総長21代西島安則がいた)→京都大学→クラレ。在職中、外国研究所へ留学。彼の弟さんは忠海中学校の後輩だった。

 また、同期入社今井清和さん(広島工専→京大工学部)は長岡科学技術大学転出。

★参考1;北社宅風呂

★参考2;鉄道時間表マニア

 この時、岡山工場でともに働いた仲間たちから餞別にいただいたのが写真の机です。倉敷市酒津の北社宅に移動するときに、家具全部とこの机を運んでいただいた。

 この机は、社宅での長男の勉強机になり、昭和四十八年、岡山市に建てた我が家に移動したときは、二階での勉強机として大学卒業までつかっていた。

 その後の何時からか記憶が定かでないが、私の書斎に移り、毎朝、家内が新聞を持ってきて、その日が始まった。机は思い出を一杯載せて現在にいたっている。

▼研究所転勤にあたりアドバイスを受けた方々

 河村喜一本部長、吉本幸夫製造部長、大阪本社の菱田正則さん(人事課長)に、励まされた。

※昭和四十二年は私の厄年であった。厄落しが研究所勤務になっていたのだ。


1、「変至らざるなし、応当らざるなし」

 私の「変至らざるなし」について

 岡山工場合成第一部製造課より昭和41年11月1日研究所第四研究室勤務に異動。

※製造現場⇔研究所の異動は皆無であったのである。

 岡山工場ビニロン部長より 昭和58年6月13日 総務労務本部研修所長に異動

 ※技術部門から教育担当になる。手作りの研修所を構築するよう命ぜられた。

2、「応当らざるなし」はどうだったか

 製造現場ではビニロンの工業化開始から勤務していたから、その製造技術の開発、進歩を経験していたから、研究所での開発について違和感はなかった。

 教育については岡山工場での勤務で部署の人々を指導しながら仕事であったから。また、私自身学校で学校教育を受けた体験を参考にしながらの試行錯誤の教育を担当した。

 いずれの異動も予想もしなかった突然のものであった。いつどのようなことが起こるかもしれないこと私自身体験した。私自身が異動させられた経緯はしるよしもなかった。

2023.01.30記す。


昭和四十二年(十八年目) 

 研究所に転勤した時EY研究開発の担当になった。そのEYプロジェクト担当者

 本社:上野次長、松原課長。研究所:黒崎、川瀬、川口、瀬川、矢野、日置。

▼EY実験課

 EYは Elastic Yarn の略号。ウレタンを主成分とする弾性糸である。

 松林寛治氏さん(京大出身)が研究していた。

 研究担当の彼が病気で倒れたのと開発段階になったので現場の経験者が必要になり小生が担当させられることになった。

 「クラリーノ」で使われている樹脂の用途拡大を目的として、弾性糸への応用を取り上げて開発されてきたとのことであった。

 私は、このプロジェクトの工業化の役目を与えられていた。

 繊維を延伸して、軽い熱加工すると、一時的に弾性が抑えられて、普通の糸と合撚するのが容易であるとの考えで開発を進めていた。

 担当の研究者・従業員と協力して、パイロットプラントで弾性糸の製造はほぼ出来上がった。

 さらに、織物への利用として、この弾性糸を普通の糸に合撚する技術(合撚糸)を担当していた松原さんと協力して、ある程度のものが出来上がった。

 その合撚糸を使って背広生地・水着などの試作まで進歩していた。

※昭和四十二年度安全衛生委員。

昭和四十三年五月二十四日

研究所の開発の評価:上野次長の評価では、研究所は遅れていない。本社がおくれていると

 写真のノートは昭和45年4月27日~6月18日のものである。

昭和四十三年(十九年目)

 社長大原総一郎逝去(享年五十九歳)。副社長仙石襄、社長就任。

 岡山工場ビニロンステープル設備増設完了百九トン。中央研究所完成(倉敷市青江) .

※昭和四十三年度安全衛生委員。

 昭和四十五年三月十一日

会議報告:第一開発室 来期計画。場所:重役小会議室。出席者:大杉常務・矢部室長・松原・浜田・森本・田辺所長・福田・黒崎。

大杉常務
1、EYプロジェクトの評価にあたっての正念場にきている。
2、評価のための材料はでている。
3、B型の魔力がへってきているのではないか。
4、販売にあいさつ出来る材料でワークする必要がある。
5、販売とのかかりがないと進めないのではないか。

 後日の話し:研究所はよくやっていると、技術管理室の渡辺郁氏も認めている。用途開発が遅れ、気の毒な結果になるかも知れない。

昭和四十五年六月九日

 矢部室長より大杉常務に説明し了承を得た資料を渡された。
 方針として現在の情報のもとでは企業化に進むメリットが見いだせないので研究開発作業中止の方針とした。ただし7月末までに有力な情報が見いださればその時点で再考したい。
大杉常務が六月二十二日以降に常務会でスパンボンドの話を提案される。海外技術情報室より話がでている。
 岡林専務に報告した後、EY中止の発表になる。

 矢部室長より開発業務をやってはどうかと意向打診あり。明確な返事はしなかった。スパンボンドの話を聞く。
 担任者についてはひっぱりだこである。西条工場のエステル部よりも要求されている。 

 昭和四十五年:EYプロジェクト開発中断(三十八年四月研究提案より四十五年七月の八年間、小生の担当約四年弱)、実質停止。

 私が思うに、後からではあったが、中止の要因は三つあると判断した。

 一つには、クラレは織物に使われる原糸まではできるが、その先の織物と製品を販売する体制が整っていなかった。

 二つには、「普通の糸と合撚するのが容易である」というのは、全く意味をなさない。こんなことは、容易に乗り越えられるものである。

 三つには、使用している樹脂の化学的構造による主要性質が劣れば原則的に競争に負ける。弾性回復率が他社の弾性糸のそれに比べて見劣りしていた。これは、弾性糸としては致命的であった。

▼当時本社開発部長は中条さんの担当で、研究所では、二つのプロジェクトが行われていた。エバールフィルムの工業化(岩崎さんが担当)と弾性糸(黒崎が担当)であった。

 エバールフィルムの特性は他のフィルムに見られないガスバリアがあり、追随を許さないものであると分かり、工業化されて、現在まで使われている。

★七月三十一日、倉敷レイヨン(株)中央研究所着工 新研究所地鎮祭の日に

昭和四十五年(二十一年目)

 スパンボンド(連続繊維の不織布)の研究開発の担当になる。黒崎、日置、金平。

 本社:矢部、山本が担当。西独ルルギー社とDOCANプロセスのオプション契約。

昭和四十六年(二十二年目) 西ドイツ出張一回目

 二月十四日~三月八日 二十三日間。矢部、山本、黒崎。

 大阪~東京~アンカレッジ~ハンブルグ~フランクフルト

 ルルギー社(西ドイツ)、ヘキスト(西ドイツ)、ホルツ・ストフ(スイス)、チコピ ー(オランダー)、ベネッケー(西ドイツ)、ICI(英国)、スミス・ネヒュー(英 国)、フランクフルト、デュセルドルフ、バーゼル、チューリッヒ、デン・ハーグ、ハノバー、リーズ、ロンドン、パリーなど。

※NWS委員会委員長に指名された。

昭和四十七年(二十三年目) 西ドイツ出張二回目 

 四月二十二日~五月八日 十七日間。黒崎、熊井。

 大阪~東京~アンカレッジ~ハンブルグ~フランクフルト、ローマー、コペンハゲン、ハノーバー、バーゼル、ベルン、ジュネブ、パリーなど。

★創立:1926年(大正15年)、1971年:第二十五周年記念:関西交響楽団演奏会 倉敷工場 5月20日、岡山工場 5月21日、西条工場 5月22日 

 十二月一日 繊維研究所第三研究室主任研究員(組織改正)

昭和四十八年(二十四年目)

昭和四十八年七月十日(月)

 大阪で会議 本社:満谷・山本・本郷・矢野・高木 研究所と関係者:浜田、黒崎、福田、熊井、笠松

 NW-S開発方針

 松田:NW-S企業化意思なし。

 インテリアで face yarn 等を含めて積極的にやるつもりはない。従って carpet backing ねらってもスポット的になる。

 不織布という考え方で取り上げるつもりはない。

 NW-Sの技術は向上したことは認めるが、その技術をクラリーノ系統への応用を考えたい。

 NW-Sの設備・人員を開発室がしないのであればそれ相応の対価を払って引き取ってもよい。

 開発室はクラリーノとタイアップしてやってゆきたい。

 平野研ではなくて繊研3研(黒崎研)でやって欲しい。

 NWS クラリーノ研究開発室に移管。

昭和四十九年(二十五年目)

 昭和四十九年:守谷常務(大阪大学から迎えた)。専門学校出身者が不遇である。黒崎を代表にしてポストに付けよう。

※常務の目でも専門学校出身者は大学卒と学歴差別があった。クラレに限らず他社でももそうだった。

★専門誌『化学工業』 1977年5月号人工皮革の現状 黒崎昭二

昭和五十年(二十六年目) 二十五年勤続

 副社長岡林次男が社長に、社長仙石襄が会長にそれぞれ就任 株式会社クラレ決算期を年一回に変更 中間決算(四月~九月)赤字になる

 4月週休二日制実施。土曜日が休日になる。

※参考:松下電器:週休二日制

1、昭和五十年一月十日(金)

1-1:業績発表会 浅野正司君発表
1-2:途中で守谷常務、林取締役、浜田、安井と中研所長室で話しをする。
1-3:不織布に関して雑談。
1-4:黒崎君はなんぼ仕事をさせてもよい。守谷常務。

2、昭和五十年二月七日(金)

守谷常務来所:昼食を供にする。浜田・坪井・黒崎

クラリーノ研究開発室の工程を見学。案内したり会話したりする中に下記の話しあり。要点のみ
1、ロテ―ションシステムを取り上げている。
2、二月末出来る新規人工皮革のサンプルに期待している。
3、くたびれたら本社にとって遊ばせてやる。黒崎は本社でも充分やっていけるであろう。

 テニス同好会について

昭和五十年五月十七日(土)

 テニスコートオープン:工場の外に作った。工場の近くの人から土地をあそばしているのなら貸してくれとの話があり、その対策としてクレーコートを作った。中西工場長の代わりに青山事務部長が挨拶。次いで、小生挨拶。

昭和五十年七月十六日(水)

 中西工場長には、黒崎がテニス同好会の会長として倉敷工場内テニスコートにフェンスを取り付けて頂いた。

昭和五十年九月十六日

 倉敷工場クラリーノ研究開発室次長兼中央研究所繊維開発室主任研究員

昭和五十年九月二十四日(水)

 中央研究所のコートで法曹ローンテニスクラブとの交歓試合。弁護士波多野二三彦君(海軍兵学校76期:黒崎と同期)が世話人。

 17:00より、クラレクラブハウスでビールパーティ。料理は成田屋よりとっていた。

 嘉松氏(弁護士)が電話をかけてきた。河原氏(弁護士)の家で反省会をしていると。

昭和五十年九月二十六日

 守谷常務より直接電話あり。今回、次長昇格を第一声で祝いを言われる。

昭和五十一年(二十七年目)

 ビニロン研究開発室・エステル研究開発室閉鎖(五十一年)。エンジニアリング会社設立発表

昭和五十一年五月三十一日

1、組織 新聞発表
常務→専務 守谷
取締→常務:菱田、北村ら。
取締に昇格:松山、若杉、矢吹、矢竹、安井、大原、関藤ら。

昭和五十二年(二十八年目)

 株式会社クラレ無配に転落

 十月一日 中央研究所化成品開発室次長

※中央研究所室長での異動だと多くの人から聞かされていたが、最終的には化成品開発室次長。

 研修所中止 人員削減計画 二年半で二千人(八千六百→六千六百) 尾崎工場・倉敷市水島の土地売却。

昭和五十三年(二十九年目)

 七月一日 倉敷工場プロジェクト部長

 鹿島工場合成ゴム分離。富山工場生産中止。興銀クラレへ役員(上野氏)派遣。クラリーノプラント中国輸出。

昭和五十四年(三十年目)

 プロジェクト部のテーマー:本社、井本三郎氏担当。プロジェクト部、黒崎担当。

一 PVAホローフアイバー(医療用、工業用)

 EVALホローフアイバー(人工腎臓)

二 マイカーの複合材への応用 ミルクミート(カゼイン利用、牛肉代用)

 KG(石膏利用建築材、西条工場にテストプラント設置)

 一は発展したが二は中止した。

昭和五十六年(三十二年目)  

 プロジェクト部開発者開発態度の例

 末岡君(北大)に中空繊維の膜の材料に物性の最高のポリマーを捜して研究することをやらせた。ポリスルホンを開発。PVAにこだわるのをやめさせた効果があった。研究者としての基本的心構えである。

昭和五十七年(三十三年目) 定年(満年齢五十五歳) 

 岡林社長逝去 上野社長就任(興銀出身)大原謙一郎氏副社長就任

 十月一日 岡山工場ビニロン部長に転出 倉敷勤務十五年十一カ月(四十一年十一月~五十七年九月)

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