★随 想(2)★随 想(1)

目 次

1忘れの効用 2主婦の生活の知恵 3ハガキの内容
パソコンに写す
4朝の天空 5バナナの保存法
6また年末が来て、正月へ! 7絵入りハガキと万年筆 8老いて生き方の工夫
━1━
9老いて生き方の工夫
━2━
10鉄道古書の聖地
さよならセール
11私と風呂(銭湯~内風呂) 12柚 子 湯 13昭和 次郎の食事 14剃刀の切れ味 15お粥さん
16平成29年七草粥の日 17年の瀬とはー節季ー 18スイカについてのかずかず 19わたしの御馳走 餠 20確率:気象庁予報・サイコロの目
2111月3日(明治節・文化の日) 22牡蠣の話し 23習慣と生活態度
笑うから幸福なのだ
24洗濯機故障――排水管が切れる
床水浸し

忘れる効用


 私も読書が好きな者の一人である。「ある年齢まで本の購入も普通程度であった」といえば、今はどうですかと聞かれると本当に買うことが少なくなっている。

 勤めていた会社の人が「煙草をやめて、そのお金で本を買った」ということを聞いたとき、こんな人もいるものだと感心したものである。

▼本論に戻ろう。少ない蔵書の中で好きな本は手の届くところにおいている。

 その本をパラパラと開くと、鉛筆で傍線がひかれている。「なるほど、いいことを書いているなあ」と、忘れていたので、前後の文章を読むと、別の語句にひかれたりする。

 しかし、同じ文章を読んでも、異なる読み方をしている。これは誰にでもあることであるようだ。そのわけを考えるのも頭の体操になる。

 以前に買ったとき読んだことを忘れて、まるで新刊書を読むようだと、一人で苦笑している。

▼次に、私たちは、「禍福はあざなえる縄のごとし」の中にいます。幸せや禍は避けることはできません。何時、やってくるかはわかりません。

 幸せは、大いに享受すればよい。その反面の「悲しいこと」は、その事柄があった時、そののちのある期間は、記憶が鮮明で悲しみはつづきます。それが永続したら必ず体に悪い影響がジワリとしのびこまれるでしょう。

 よくしたもので、人には「忘却の力」が備わっているいるようで、時が解決してくれるようである。その期間を耐えることが唯一の悲しみを思い出の一コマに転化させるものだと思います。

▼忘れることにも、記憶がよいことにもそれぞれ効用があります。

 「何事も両面がある」ことだけは記憶しておきたいものです。

平成二十六年一月二十八日

2

主婦の生活の知恵


  主婦の生活の知恵の一端を介護保険で派遣されている方々からおしえられました。

 その例を三題述べます。

 第一は冷凍うどんの解凍法について

 私は冷凍うどんの解凍を沸騰したお湯の中に数分間浸して解凍して、笊に入れ、水洗いして、汁の中に入れ、煮るやり方でした。

 ところが、電子レンジでの方法を教えられた。500Wで3分30秒、処理して、汁に入れるだけである。

 教えられた方法での食感はレンジによるものが、ぬめり感が少なくて私には美味である。現在はこの法を使っている。

 第二はマヨネーズの使用法について

 マヨネーズをほぼ使い切ったころ、容器の内面に付着している。どうしたものかと、わからず捨てなければならないと思っていた。しかし、派遣されて来て下さっている方の一人が、容器の真ん中を切り半分にして、スプンでこさげとって使用されたので、完全に使いきられました。私には思いもつかなかった。

 第三は歯磨きチュウブの使用法について

 チュウブの中身が使い切ったので新しいものを買わなければと思っていた。これまた、派遣されて来て下さっている別の方の一人が、チュウブの頭を下にして強く数回、強く振ってみなさいと。そこで試してみた。なくなっていたと思っていたが残っていました。その後数回、使えました。また、平素、チュウブは頭を下にして立てておいたらいいですよと、教えられた。

▼私が教えられたことで記憶に残っているのは以上ですが。主婦の皆様は、男性では気付かない生活の中で無数の知恵を体得さていると推察できました。 

平成二十六年二月四日

3

ハガキの内容をパソコンに写す


 知人二人にハガキをそれぞれに書きました。一人には万年筆、もう一通はボールペンで、自分なりに丁寧にかき終わり、それを見ながらパソコンに書き写しました。

 写しているとハガキの文面がおかしいところがあり修正しました。

▼このたびのようにハガキを書き、パソコンに写すのは二重手間であるのは当たり前で。そんな無理をしなくてもと、ささやく声が聞こえてくるようだ。しかし文章を写していると、修正箇所に気づく効果があった。それだけでも十分だ。

 ハガキの内容の記録がのこるので、後日、読み「ああ、こんなことをかいたのだなあ!」と思い出せるのも楽しいものだろう。

▼書簡を頂いたものを丁寧にみると、年月日が書かれていないものが多い。ハガキにしても表の切手に押された消印を見ると、日付が読み取れるものと、そうでないものがある。

 私は受信した書簡の表の上に年月日を書き込むことにしている。また、今回のように内容を書き、読んだ後、パソコンの日記の当日に打ち込むことにしましたから受信月日も間違いなく知ることができます。

▼書き送ったもの、また送られたもの、それぞれ最低でも二回は読むことになるから、たとえばおくられものの書体が行書で書かれていてもなんとか読むことができる。草書で書かれる人は、私が文通させていただいている方々にはいない。

▼最近、「書体の変化と体調」をホームページにも掲載したように自分の体調も判断できる。

▼写真のような複写ハガキ(現在もあります)による文通を続けたことがあります。私製ハガキ用紙と薄い紙との間にカーボン用紙を入れてボールペンで書き込みます。宛先のお名前・年月日の記入欄もあります。そして。私製ハガキ用紙を切り取り投函する手順になります。従って、記録が残りますので、自分が人様に書いたものは、表題の「ハガキの内容とパソコンに写す」と同じ効果があります。実物は下の絵のようなものです。ご参考に見てください。

 今回だけでは終わるのは禁物である。これからも続けたい。

写真をクリックしますと少し大きい画面になります。Please click on each photo, so you can look at a little wider photo.

平成二十六年二月八日


複写ハガキ

故中野様への文面

4

朝の天空


 4月2日朝(6時30分~)、隣の町内のラジオ体操に参加した。

 体操していると、一人の方が「空が青い」と言われた。それにつれて「秋はさらに青いですよ!」と言われた方がいた。

 私たちは「空」を滅多に、いやほとんど、見ていないようだ。

▼かって、愚息がニューヨーク市内のアパートに住んでいた。窓はあったが、高いアパートが林立ししていたから、空はわずかの空間しか見えなかった。

 「空が青い」から連想して、さらに、次のことを思い出した。

其の一:高村光太郎詩集「風にのる智恵子」をおもいだして、岩波文庫をひもとく

 狂った智恵子は口をきかない
 ただ尾長や千鳥と相図する
 防風林の丘つづき
 いちめんの松の花粉は黄色く流れ
 五月晴れの風に九十九里の浜はけむる
 智恵子の浴衣(ゆかた)が松にかくれ又あらわれ
 白い砂には松露(しょうろ)がある
 わたしは松露をひろひながら
 ゆっくり智恵子のあとをおふ
 尾長や千鳥が智恵子の友だち
 もう人間であることをやめた智恵子に
 恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場
 智恵子飛ぶ

参考:十和田湖 乙女の像

其の二:私の家内が好きであった坂本 九「上を向いて歩こ」を思い出す。

 生前、本人が歌うのを聞いたことはなかった。子供たちが「お母さんはこの歌が好きだっ」という。

 上を向けば青い空があり希望が満ち溢れている。私は口ずさんで雲のうえの人になった妻を想う……。 

平成二十六年四月三日

5

バナナの保存法


 毎週3回、スーパーで食品を買っている。素人判断で食品を買ってきては、冷蔵庫に保存している。

 その基準は長期に保存したいものは、冷凍保存、短期のものは冷蔵保存に決めていた。

▼この基準でバナナを冷蔵保存したのは失敗であった。一袋で4本のバナナを買ってきたままで入れておくと2日くらいで皮に黒い斑点がつき始め、3日目には部分的に腐ってきた。

 これはわからないと思い、スーパーのレジのかかりに「バナナの保存はどうすればいいですか」と尋ねた。

 すると、冷蔵庫にいれないで、台所に置いておけば長持ちすると教えてくれた。

 確かに効果があった。それでも4日目位で、一部腐ってきた。

▼次に、この人に「どうも完全ではないようです」と言いますと、「沖縄に行きましたときに、一房(12本くらい)を棒にぶら下げていましたので、室内でぶら下げたらいいのではないでしょうか」と教えられた。

 早速、下の写真のようにして実験開始。3日でも皮にはわずか黒い斑点ができていたが、おいしく食べることができた。6日目でも腐っていなかった。そこで6本のものを買ってぶらさげることにした。

 どうやら、この方法は保存に役立つようである。試してみてください。

▼ある人は、バナナを新聞紙に包んで冷蔵したら良いともいわれる。

 また、皮をむいてこま切れにして冷凍保存すればおいしく食べられますよと言われる。これは冷たくて、気候が暑くなってから行えばよい(これは実験済)。バナナのシャベットのようである。

▼冷蔵庫で保管してはダメな生ものがあるのだろうか。教えてほしいものだ。

 大根は新聞紙に包んで冷蔵すれば、結構長持ちすると、八百屋のおばさんが教えてくれた。

 食品の冷蔵庫の保管も意外にむつかしいものである。それを家庭の主婦は行っているのだから……。

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バナナの保存法

平成二十六年四月六日

6

また年末が来て、正月へ!
━━年配者のつぶやき


 平成26年の年末がきた。スーパーではお正月の品物がずらり……

 子供の頃には、正月をまつ年末の楽しさがあった。

 それ相当な年になると、一年は早くすぎ去り、また年末が来たと!

 昔の年齢の数え方は正月に一つ年を加えうる数え歳(対:満年齢)であったから、もういいんだがとつい思ってしまう。

 何か自分や家族によいことでもあれば「正月とお盆がいっしょにきたよう」といっていたものであるのだが……。この一年、これぞと変わったことこともない「なにもなかったのはありがたいことだ」との声が聞こえてくる。

▲平成26年末、働いている若い主婦と話した。

 「正月はどうするの?」と聞くと、「御節料理は作りません。雑煮ぐらいだけですませます」との答え。

 なんとなく、わびしくて味気ない話。時代の変遷で核家族化などが、彼女のことばにひびく。

▲今年も、11月末ころからお節料理の注文の電話が食品を扱っている店から予約受付の電話がきた。

 思い出せば、年末になると、大掃除をして、手料理作りが好きであった家内は、ある年まではせっせと家族のために、あれこれ料理を作り、私は正月用のお飾りの準備をして、子供たちの帰るのを楽しみにしていた。

 数年年前から、同じ店でお節料理をとどけてもらうようになった。

 正月2日までは、家族全員で頂いていたが、3日目には、それぞれが我が家を去り、夕食には二人だけで、残り物を温め、「やれやれつかれたね!」と話していたものだった。

 二年まえからは、外食することになった。

 外食では、もう一つピンとこない。

 私が思うには、「料理は愛情だ」ではないか。

▲「また年末が来て、正月へ!」の題目も、365日の一日と一日であり、過去・現在・未来の流れに過ぎない。

 どうやら、年配者のつぶやきのようだ。

 ふと、高浜 虚子 の「去年今年(こぞことし) 貫く棒の 如(ごとき)もの」 を思い出した。

 昭和二十五年十二月二十日、新春放送用に作った句という。当時七十六歳。「去年今年」は、昨日が去年で今日は今年という一年の変わり目をとらえ、ぐんと大きく表現した新年の季語。虚子の句はこの季語の力を最大限に利用して、新春だけに限らず、去年をも今年をも丸抱えにして貫流する天地自然の理への思いをうたう。「貫く棒の如きもの」の強さは大したもので、快作にして怪作というべきか。と、大岡 信氏の説明があった。

平成二十六年十二月三十日


余録 年末の家の大掃除をすす払いと呼ぶ人が…毎日新聞2017年12月10日 東京朝刊

 年末の家の大掃除をすす払いと呼ぶ人が少なくなって久しい。かまどやいろりがなくなったから仕方のないことかもしれない。大掃除をするにしても、最近では大みそかが近づいて行う家もある。だが、すす払いはかつて12月13日に決められていた地域が多かった

▲13日はその年の厄を払い、新年の準備を始める日でもあった。1年の感謝の気持ちを込めるお歳暮も13日から20日ごろまでに贈るのがマナーとされていた。すす払いの習慣が廃れたため、贈る時期も前倒しになったようだ。年末の風景は時代とともに様変わりしていく

▲この時期、新聞は今年の重大ニュースを掲載し、1年を振り返る。政治の分野で誰もが思い浮かべるのは、やはり森友・加計学園問題であろう。いずれも疑惑がすっきりと解明されてはいない。政官界の大掃除、すす払いが済んだとはとても言えない

▲年末、1年を振り返る行事は各地に残っている。鳥取県では12月8日に豆腐を食べる習慣がある。地元の人たちが集まり、いろりの火で焼き目を付けて食べる地域もある。「うそつき豆腐」という

▲豆腐を食べれば、その年についたうそが帳消しになるといわれる。古くは、うそをついて商いをした商人が豆腐汁を作ったという。

▲ついたうその数だけ豆腐を食べなければならない地域もあるらしい。記憶にない、と言ったものの、腹いっぱい食べなければいけない人がいるだろう。いや、年の瀬の変わらぬ行事だからといって帳消しにしてはならないうそもある。

新聞社の人も、少しは政治などから離れられては、いかがなものですか……。

7

絵入りハガキと万年筆


 外科医のM.M.先生から写真のような絵入りの万年筆で書かれたハガキを頂いている。
 平均して毎月一度くらい。万年筆で書かれているから、私も手持ちの万年筆で返信をしています。
 書きながら感じたことは、ペン先から文字が流れ出してきて文章になる、その動きしかないのだが、なんとなく気分が落ち着いていることである。

▼私達は通信にハガキをどのくらいの頻度で使っているだろうか。年賀状として年に1回。それも多くは印刷である。平素はメールではなかろうか。

▼筆記具としては、毛筆・ボールペン・鉛筆などががあるが、ボールペンが主流だろう。
 現在、私の手持ちは、万年筆はパイロット製のもの一本だけになっている。
 以前は、シャープ、モンブラン(ドイツ製)のものも所持していた。モンブランは現役時代、出張先で購入したのであるが、キャップの部分が壊れたので廃棄した。現在の値段はいくらかを調べると、4,000円~100,000円と幅が広い。

▼先月末、返信しようと万年筆を取り出し、いざ書きはじめようとすると、書けない。キャップを外して、差し込まれれているカートリッジを見ると、インクが空になっていた。めったに使わないから消散してしまったのだろうか?
 机の引き出しの中を見ると1本だけ残っていた。それを差し込み、用をたすことができた。
 次からはインクがないから万年筆も無用となる。

▼インクを捜さなければならない。知人に「どこで手に入るだろうか?」と尋ねた。

「スーパーでは?」との返事。
 スーパーには文房具が準備されていた。売り子に「万年筆のインクはありませんか」と聞くと、捜していたがなかった。
 あきらめているとき、ふと小学校の裏門の前に文房具屋がある。ひょっとしたらあるかもしれないと感じた。

 店の扉を開き「今日は!」と声をかけ、店の中に入ってみると古くて色が変色したものばかりであった。
 奥の部屋からお婆さんが出てこられた。
「万年筆のインクがありますか」と。
 さあ、と言いながら、店の棚を捜して、ありましたと、パイロットのカートリッジがあった。
 「青色はありませんか」と聞くと、あいにく黒色のものしかない。それもわずかであった。
 色を選択しても仕方ないと思い、それを買った。一箱に12本(1ダースが単位か)あり、420円であった。

 これがきっかけになり、子供の頃の文房具店を回想した。私の住んでいた家の近くに一軒あった。中学校では校内に売店があり文房具が売られていたから、休憩時間に用をたしていたから便利であったものだと……。
 現在はスーパーに大抵のものがある。時代の変遷は文房具にも及んでいるのだなあ。

平成二十七年六月三日

8

老いて生き方の工夫━1━


 私はこれから先の人生は日々が新しい経験の連続だと考えると同時に明日のことは分からず、何が起こるかもしれない。従って「ここ・いま」を大事に生きたいと願っている。そのためには健康でありたいと。

▼毎月一度の絵入ハガキ(写真のような)を頂きました。その内容の要点を紹介します。

1:「毎日五千歩は歩く」
2:「おいしいものではなく、何でもおいしく食べる」
3:「読む」
4:「書く」
など模索しながら生きていると、先輩のかたから絵入りハガキ(万年筆で書かれていた)を頂いた。

▼私に当てはめてみますと、

1:「毎日五千歩は歩く」はできていない。3日に一度はスパーへ買物のため約六千歩は歩いている。
2:「おいしいものではなく、何でもおいしく食べる」については思ってみたことがなかった。
 せめて「いただきます」「ご馳走さまでした」の感謝の言葉は忘れたくない。
 私は、足腰が弱ってきている。そのためには、肢への負担を軽減するために体重のコントロールに気をつけている。
 ある年配までは、62Kgを維持していたが、遺伝によるものか、運動不足によるかさだかでない。66Kgになっていた。
 減量の対策として,節食につとめて64Kgになり、少しだが効果が出始めた。
3:「読む」を本に限ればほとんど読んでいない。また最近の本などを買ったりすることは珍しい。
 以前は私の家の近くに本屋があったが、廃業したので、市内まで行かなければならない。「丸善」「紀伊國屋書店 岡山」があるからどんな本でも買えるのだが。
 また、岡山県立図書館がある。その蔵書、貸出しなど日本一になっていて、ネットワークがよくて、保存していない本も取り寄せてくれる。
 その気になれば環境は整っている。ただ、自動車を持たないためバスででかけなければなないので、ついつい……。
 しかし、パソコンで朝日・毎日・日経の電子版は毎日拾い読みしている。
 だが、私には一つの楽しみがある。書き続けたホームページを時折、再読することだ。
4:「書く」は、ほとんどしていない。これまたパソコンを利用している。この原稿もそうだ。先輩にハガキを書く時は万年筆を使って書いている。

▼要点は、健康年齢を保持する。頭の体操を欠かさないことだと思う。自分の体をはじめ頭の働きは、自分が一番よくわかっていますので、それぞれ、自分で計画をたてて実行するに尽きると。

※次はまたある方の老いて生き方工夫━2━を書きます。

平成二十七年七月十六日

9

老いて生き方の工夫━2━


 今回は岡山市曹源寺で毎日曜日に行われている坐禅会参加者のかたから伺ったお話を紹介します。

 現在の住職は原田正道老師です。前職は故横山一保様(閑栖さんと呼ばれていた)でした。引退されて、同寺院の中の別邸に住まれていた時のお話です。

 まず閑栖さんを紹介します

▼その一

 原田老師が朝3時過ぎのお勤めをすまされて、毎朝6時、別邸の閑栖さんに朝のあいさつにゆかれました。その時、きちっと服装を整えて坐って居られたそうです。

 老師が「横になっていらっしゃっても、よろしいのですが」と、いわれました。

 閑栖さんは「これは貴方を迎えるためではないのです。私の一日の生活のけじめをつけるためです」とおっしゃったそうです。

▼その二

 そのころ、眼が弱り、普通の本は読めないくらいになられていた。そこで、弟子に大活字本を数冊借りてこさせて読書を続けられた。

▼その三

 漢字の練習をするため、広告用紙の裏の白紙を用いて、例えばにんべん、さんずい、きへんなどを書き、その漢字を思い出して書く。思い出せない時は、辞書を引かれる。

▼その四

 部屋の中で、時々居場所を変えられる。そうすることにより、景色が変わって見えるからだそうです。また、必要な物は座しても、手の届くところに集めていておらる。

▼その五

 最晩年、病魔に侵されて市内の病院に入られた。その時、小さな手鏡をもってこさせた。

 必要があるのでしょうかと思われたそうです。

 閑栖さんは「朝、眼が覚めたら、自分の顔を眺められて、どんな顔をしているのかと。看護婦さんが来られた時に笑顔で迎えられるようにしたいからだ」とおっしゃった。

 一生を禅の修行に尽くされて方にして、上に述べていたように「工夫」されていることを教えられました。

 わずかな話しか、お聞きしませんでしたが、その時々の生き方の工夫をされていらっしゃったことでしょう。

参考1:一生担板 

参考2:曹源寺の開山諱・閑栖様13回忌

平成二十七年七月二十一日


(天声人語)だれにでもやさしい文字 2017年3月7日

 いま紙面でお読みいただいているこの活字は縦3・3ミリ、横3・ミリほど。読みやすい大きさと思われるだろうか、それとも小さすぎるとお感じだろうか。

▼読者の方々の要望を受け、本紙は何度か文字を大きくしてきた。書き手としては正直なところ、載せられる記事量が減ることにさびしさを覚えた。ところが自分も老眼にな ると、「なぜこんなに小さいのか」としみじみ思う。

▼「弱視のため新聞や本を読むと鼻先が黒くなる人もいる。ルーペを手に、顔をこすりつけるほど近づけて読むんです」。NPO大活字文化普及協会の事務局長を務める市橋正光(いちはしまさみつ)さん(43)は話す。読書に困難のある人々のために、一般の本よりも数ばい大きい活字の本を刊行してきた。

▼4年前には、本の街として知られる東京・神保町に大活字専門の書店を開いた。村上春樹、東野圭吾、浅田次郎といった作家の作品を刊行してきた。高齢化が進んで目に悩む人が多くなり、引き合いが徐々に増えたという

▼とはいえ、大活字本を取りまく環境は甘くない。1点ごとに出版社や著作者と契約交渉が欠かせない。文字が大きい分、ページが増えて割高になってしまう。

▼市橋さんの話を聞き、ふいにわが祖父のことを思い出した。晩年に視力が衰え、唯一の趣味だった読書がかなわないことを嘆きつつ亡くなった。老いも若きも目を酷使している現代社会である。いまから100年後、200年後の私たちは、どんなサイズの文字に囲まれて暮らしているのだろうか。

参考:神保町に大活字専門書店 弱視、高齢者に配慮

2013/11/12付

 文字を読むのが不自由な弱視者や高齢者が気軽に読書を楽しめるよう、普通の本より文字を大きくした「大活字本」を扱う専門書店「Viva神保町」が東京・神保町にオープンし、話題になっている。同店によると、専門店は全国初という。

 通常の書籍の文字は3ミリ角程度だが、大活字本では7.5ミリ角程度に拡大。出版社や著作者と契約を結び、少部数を発行している。弱視者でも読みやすいよう白黒を反転させた本や、開いたままにしやすいようリングでとじた本もある。

 約50平方メートルの店内には、人気作家の村上春樹さんや池井戸潤さんらの大活字本が約2千冊並ぶほか、拡大読書器やルーペも販売している。本を買う場合は会員(会費年1200円)になる仕組みだ。

 文字を大きくするため、1冊の内容を2~3冊に分けて印刷しなくてはならず、1冊1890円と割高だ。それでも店には「祖父母に薦めたい」との声が寄せられる。

 弱視の当事者でつくる弱視者問題研究会の新井愛一郎さん(62)「楽しい読書は、苦しみでもあった」と話す。普通の本を読む時は、ルーペを手に顔が本に触れるまで近づき、読み終えると鼻の頭が真っ黒になるほど。

 開店に向け助言をしてきた新井さんは「まだ点数が少なく弱視者の本との出合いは貧弱だ。この店をきっかけに、いつか全ての本が大きな文字で楽しめるようになってほしい」と期待を寄せた。

 店を運営する大活字文化普及協会の相賀昌宏理事長は「今はベストセラー優先だが、少部数の本も置き、古本の売買や貸本もできるようにしたい」と意気込んでいる。

 問い合わせはViva神保町((電)03・3259・2200)。〔共同〕

平成二十九(2017)年三月三十日:追加。

10

鉄道古書の聖地、さよならセール


 90歳店主が決意 2016年1月13日

 「鉄道古書の聖地」の一つとしてファンに愛された東京・神田神保町2丁目の篠村書店が今月、店を閉じる。すでに仕入れを止め、書架には空きスペースが目立ち始めた。夫、息子、養子と死別し、バブル期の地上げも乗り越えた店主の篠村嘉代子さん(90)は「最後までお客さんに喜んでもらいたい」と話す。

 靖国通りに面した店の入り口には「全品3割引き」と書かれた紙が張られていた。昨年12月中旬の夕方、10坪ほどの店内は10人の客でいっぱいだった。

 書棚には「鉄道ピクトリアル」「鉄道模型趣味」「鉄道ファン」などの雑誌や、70年代や80年代の国鉄時代の時刻表が並ぶ。もともとは社会科学分野の書籍を中心に扱っていたが、鉄道人気が高まるのに合わせて、次第に鉄道古書を主力にした。

「閉店は残念」と惜しむのは、千葉市から週に1度は通うという常連客の男性(68)。20年近く探し続けていた鉄道雑誌を、篠村書店で見つけたこともある。「資料性の高い古い本がそろっていて、私には聖地のような店です」。10年以上店に通う公務員男性(64)も「インターネットで手に入らない掘り出し物が安く見つかる。閉店までに倉庫から新たに良い本が出てこないか楽しみ」と話す。

 店を1人で切り盛りする篠村さんは、最奥の木製机に陣取り、店内に気を配る。客が本を買おうとすると、ほこりをかぶったレジは使わず、使い込まれたそろばんをパチパチパチ。小気味よい珠(たま)の音を響かせて2度計算すると、「また来て下さいね」と笑顔で本を手渡した。

 終戦後。夫の孝治さんが神保町で露店を開き、自分の書物を売ったのが店の始まりという。篠村さんが嫁いだのは1950年ごろ。孝治さんが本を仕入れて売値を決め、篠村さんが接客を担当。以来、60年以上、店頭に立ってきた。

 多い時は店番や経理などで店員4人とアルバイト2人を雇うほど繁盛した。しかし、閉店の危機も何度もあった。孝治さんが病気で亡くなり、後を継いだ長男も十数年ほどで病死。閉店を覚悟したが、かつて従業員だった男性から「手伝うから続けて下さい」と促され、自ら店主になった。

 80年代のバブル期には、ヤクザ風の地上げ屋が連日来て「いつ出て行くんだ」とすごまれた。怖かったが、夫と築き上げた店を譲る気はなかった。数カ月間耐えていると、そのうち来なくなったという。

 数年前、篠村さんは手伝ってくれていた男性と養子縁組をした。店を譲り、引退しようと考えたからだ。だが、一昨年12月、その男性も亡くなってしまった。「90歳近くなり、後継ぎもいなくなった。もうこれ以上は続けられない」。閉店を決意した。

 在庫をまとめて市場で売って店じまいすることもできた。ただ、最後にもうひと踏ん張りし、出来る限り店で売ってから閉店しようと決めた。「1月いっぱいでやめるつもり。それまではお客さんに来て頂いて、欲しい本を見つけてもらえたらうれしい」

 営業は午前10時~午後6時。日曜は休み。(遠藤雄司)

▼以上のニュースを読んで、我が家の長男が子供の時、国鉄の時間表を見るのが好きであったのを思い出した。自分の勉強机の上に、国鉄の大判の時刻表を開いて読んでいた。勉強する様子はあまり見かけなかった。

 少し気になったので、どのくらいの学力があるかためしに「1から10まで足すといくらになるか?」とたずねると、即座に「55」と答えた。これで私が教えるまでもなく、教育環境だけを整えてやればよいと心に決めた。

▼ある日、息子が朝からいないのだがと、家内が心配していた。クラレ岡山工場の社宅から引っ越しをして、倉敷にはあまり馴染みがいるわけでないので少し心配していた。夕方、ヒョッコリと帰ってきた。「どこに行っていたのだ」と問いただすと。「伯備線に乗って米子まで汽車に乗って行ってきた」と。時間表を見て計算して出かけたのだろう。小遣いはどうしたのだろうか。

▼友人の家族と、会社の保養所に旅行することになった。

 すると鉄道時間表のマニアの長男が、私鉄の南海線の尾崎までの計画を立てて、その時間通りで動けばよかった。大阪駅から難波に出て、南海線に乗っての旅であった。私は時々、その町に会社の工場があったので出張していたので経路は知っていたので安心していたが、ここまで計画を立てるとは。長男はその後、研究者になって今日にいたっている。
平成二十八年一月十四日

11

私と風呂ー銭湯・もらい風呂・内風呂などなどー


 銭湯について:私の故郷では銭湯が2軒あった。午後4時から開かれて、夜は10頃まで利用できて多くの人が利用していた。男湯・女湯と書かれた暖簾をくぐって入ると、番台があり入浴料を受けとっていた。左右に仕切りがあって脱衣場には更衣箱が並んでいた。そこから浴場に入る。浴場の壁に大きな富士山の絵などが描かれていた。小さい町であったから常連はお互いをよく知っていたから話しながら湯船に首までつかって温まっていた。私の弟は帰ってくるとき好きな歌をうたいながらかえってきていた。

参考:現在は、こんな銭湯は殆ど姿を消している。170年昔の江戸時代に銭湯に集まっていた庶民の様子浮世風呂に記載されていた。

 もらい風呂について:我が家のまえに法務局の官舎?とその隣の時計屋さんの家には内風呂があり、時々風呂に入りませんかと声をかけられて、有難く使わせてもらっていた。現在では想像もできない隣近所の親しさを思わされます。

 内風呂について:我が家には五右衛門風呂(鉄製で、木製の底板を浮かせていて、それを足をつかつて底に沈めて入浴)であった。焚口に薪を入れて燃やしていたものであった。めったに使わなかった。

 戦後、栄養失調が原因?と言われていた「疥癬(かいせん)(両脚の付け根から下がただれる)にかかり、近所の病院だけでなくて、忠海から広島市の方向に三つはなれた吉名村(当時は村:池田勇人元総理大臣出身地)に皮膚科のよい医院があると聞き、通院治療を受けたが、治癒する気配もなかった。

 そこで、最後の手段として、我が家の風呂で「湯の華:硫黄成分」を入れて、一日二回入ってみたところ、10日ほどするとただれがとれた。そしてついに完治した。

 以上が故郷での風呂について。

参考:母・橘三千代の感化をうけて熱心な仏教信者だった光明皇后

■ 安宿媛の実母だった県犬養三千代は、和銅元年(708)の元明天皇の大嘗祭のとき、天武天皇の時代から後宮に仕えていてきた功績を称えられ、杯に浮かぶ橘とともに橘宿禰(たちばなのすくね)の姓を賜わった。橘三千代は熱心な仏教徒だった。養老5年(721)、元明太上天皇の病気平癒を祈って出家し、天平5年(733)に死去するまで尼として仏門に仕えた。法隆寺には彼女の念持仏と伝えられる橘婦人念持仏が所蔵されている。

■ 幼い頃から彼女の感化を受けて、光明皇后もまた熱心な仏教信者だったようだ。そのことは『続日本紀』などの史書に記された様々な事績から垣間見ることができる。

■ まず、天平元年(729)8月、臣下として異例の立后を果たした光明皇后は、奈良・興福寺に施薬院と悲田院を設置すると、皇后直属の「皇后宮職(こうぐうしき)」をその管轄官庁として、病人や孤児・難民救済などの社会福祉事業を推し進めた。この悲田院・施薬院の設置は、彼女の仏教帰依を示す伝説としてよく知られ、後世には次のような伝承を生んでいる。

法華寺のから風呂

■ 伝承の舞台となっているのは、現在の法華寺に残るカラ風呂である。仏の慈悲を実践するために、光明皇后は千人の病人の体を洗ってやりたいと発願されて、浴場を建てられた。そして999人の病人を洗い終えたとき、彼女の前に、全身に膿を持ち紫色に膨れた癩病(らいびょう)患者が来て、体中の膿を唇で吸い出して欲しいと申し出た。

 皇后が口で膿を吸い出していると、みるみるその体は黄金色に輝き、阿閃如来(あしゅくにょらい)となって飛び去ったという。まるで「天平のマリアテレサ」と評して良いほどの美談だが、事実ではあるまい。


参考2:大浴場付きマンションは高齢化時代の新たな湯治場

2016年3月31日 櫻井幸雄 / 住宅ジャーナリスト

 以前は盛んにつくられたのに、最近見なくなったのが「温泉」や「共同浴場」付きのマンション。自宅につけられた浴室とは別に、マンション全体の共用施設として大きな浴場をつくり、ゆったり入浴を楽しむ。「気持ちよさそうだ」とあこがれる人が多いのだが、一方で敬遠する人もいる。

 敬遠する理由は、ご近所さんと裸のつきあいをするのは苦手、そもそも人に裸を見られたくない、他人と同じ湯に入るのは嫌??というものだ。人によって大歓迎されることもあるが、そっぽを向かれる可能性もある。好き嫌いがある施設なら設置しないほうがよいだろう、と採用例が減ってきたのだ。

 利用する人が維持費用を負担する仕組み

 大浴場は清掃や維持のための費用が大きくなる、という問題もある。

 マンション居住者全員が毎日活用するなら、その維持費を出し合うことはできる。しかし、人によって利用度が異なると、利用しない人から不満の声が出る。「利用していないのに毎月お金を負担するのはいやだ」というわけだ。

 それで、マンションの温泉や共同浴場施設は徐々に姿を消していった。

 ところが、今、大浴場付きのマンションを訪ねると、意外に評判がよいのだ。それは、不公平が出ない工夫と合理的な活用法が生み出されているからだ。

 たとえば、埼玉県のあるマンションでは、「大浴場を利用したい世帯は、1戸あたり月額2000円のパスを発行する」というシステムが採用されている。

 大浴場を利用するか、しないかは居住者の自由。「利用したい>という人だけから維持費用を集め、利用しない人には負担をかけないわけだ。この方式なら、不公平感は出ない。

 利用者は毎月2000円を払うことになるのだが、これは「1人2000円」ではなく、「1戸あたり2000円」。つまり、月額2000円でパスを手に入れれば、毎日家族で順番に利用できるわけだ。そうすると、新たな長所が生まれる。

高齢者の新たなコミュニティーとして機能

 それは、自宅のお風呂を使わずに済むので、水道代や光熱費が節約できること。加えて、風呂掃除の手間も省ける。だから、家族4人ならばお得度が増すし、高齢の夫婦2人暮らしや1人暮らし世帯では、風呂掃除しなくてよいことが喜ばれている。これなら月額2000円も搊ではない。

 1カ月2000円の利用パスは、途中解約も途中契約も可能。さらに、長期不在が生じるときは、不在期間中解約も可能になる。非常によく考えられているわけだ。

 日本は少子化とともに高齢化が進み、高齢の夫婦2人暮らしや1人暮らしが増えてくると考えられている。その高齢者は一戸建てからマンションに住み替える人たちが多い。マンションのほうが段差のない生活ができるし、冬暖かく、夏は涼しい。自宅まわりの掃除やゴミ当番をしなくてよい。北国ならば雪下ろしをしなくてよいなど、多くの便利さがあるからだ。

 分譲中のルネ蘇我ディアパーク(千葉市中央区)のサウナ付き大浴場。利用料は1戸あたり月額10000円だ

 その高齢者にとって、大浴場付きのマンションは都合のよい住まいとなる。1人暮らしになっても、楽にお風呂に入ることができる。万一、風呂場で倒れても、まわりの人が助けてくれる。大浴場でコミュニケーションが生まれる利点もあるだろう。

 最近、姿を消している温泉や大浴場付きのマンション、価値をもう一度見直してもよいのではないだろうか。

平成二十八年三月三十一日


春秋 2016/5/4付

 夏目漱石は風呂好きだったらしく、小説の人物が銭湯や温泉に赴く描写は活気に満ちる。

 「吾が輩は猫である」で苦沙弥(くしゃみ)先生は混み合う湯船で身動きならず、洗い場の場所取りで若者と口論になった。「坊っちゃん」は温泉でしばしば水泳に興じ、禁札を出されている。

▼重い事典を開くと、意外にも古代から中世で風呂と言えば、密閉した空間で蒸気を浴びる形式が主流だった。浴槽にお湯を満たしての入浴は近世以降、さかんになったという。薪水は高価で、かつ火災への恐れもあって内風呂は普及せず、1808年には江戸に520もの銭湯が建ち、様々な情報の発信源ともなっていた。

▼これも風呂を巡る歴史の一断面か、大阪府吹田市立博物館にバスオールなる小型ユニットバスが収蔵されている。同市などに広がる千里ニュータウンは54年前の入居開始時は風呂なしの部屋も多く、半畳のユニットは昭和40年代にかけ、各戸のベランダに並ぶほどに普及したという。来館者から「懐かしい」の声が漏れる。

▼古代ローマ人がワープし、現代日本の銭湯や温泉に学んでいく漫「テルマエ・ロマエ」は日本の入浴文化の豊かな姿を照らし出す。熊本地震の被災者の方々にとって、一風呂は大きな慰めとなるだろう。年間十大ニュースが次々に埋まった感のある4カ月余を振り返り、連休の真ん中、湯の恵みにゆるりと身を浸したい。

平成二十八年五月四日追加


★海軍兵学校での風呂――バスと呼んでいた――

  西生徒館で私も利用していた。脱衣場で衣服・越中ふんどし(今は全く見られない。私たちは使用していた)を脱いで、前をタオルで隠すこなく浴場に入っていた。浴槽ではタオルは使うことはゆるされず、頭の上においていた。まさにすっぱだかの付き合いであった。

 写真のバスの様子は私が入校した時のそれとかなりかわっていて、ゆったりとしている。生徒たちは前を隠している。私たち76期は多くの生徒がいたので、風呂に入ると後ろから押されるようにして出てゆかねばならないほどであった。更に思い出せば、S.19年10月に入校して、秋から冬になったが、バスは体を温める唯一の手段であった。自習室・寝室でも暖房はなかった。20歳以下の若者であったから堪えられたのであろう。


★会社の社宅の風呂

 昭和25年4月に入社して、同年8月に岡山工場に勤めることになった。

 昭和29年10月、結婚して、社宅(アパート)に入った。全くの新築の鉄筋コンクリート三階建て、18所帯であった。

 ここでは、写真のアパートに向って左側に、3つに仕切られていた風呂があった。管理人が湯を沸かしてくれていた。17時~20時の間に全所帯が使用していた。

 1つの風呂を6所帯が使っていた。従って一所帯当り30分しか割りあて時間がなかった。そこで家族全員が一緒に入らなければならなかった。

 その後、下の写真のような五階建てアパートに移る。ここでは内風呂になっていた。

 さらにその後、工場から離れた社宅(北社宅と呼んでいた)に移る。一戸建ての古びた平屋で、内風呂だった。

 倉敷の研究所に転勤した。そこでは、倉敷工場の北側の酒津社宅(酒津には入社した時に入った藍風寮があった)に入った。当時桜の名所の酒津公園にちかかった。また蛍も飛んでいる地域であった。

 この社宅は古いものばかりであった。森の中の工場だと思える工場の社宅であっただけに、この社宅のある所も大きな樹木がいたる所にあり、閑静なところだった。

 私たち家族が住んだ社宅は、倉敷市市長:高橋さんが住まれていた住宅の前で一戸建て平屋、広い庭もあった。五右衛門風呂で、家のそとに、焚口があり、入浴していると、家内が「たきましょうか」など声を掛けていた。その横に大きな桜の樹があった。風呂からでる煙が虫よけになっていたが、ある年に風で倒れた。

 以上のように4度も転々と社宅を移った家内と二人で、子供ができて四人で渡り歩いた生活史の一側面でした。。


★持ち家を岡山の現在地の風呂

 家をたてからある時期に浴槽が不具合になった。

 兄弟夫婦の旅行で、妻が「私は今、家の風呂には、困らされているんですよ。浴槽がこわれ、水道も思わしくなく、水を一滴ずつ一日かけて浴槽一杯にはるのだから、これにはとまどっています」

 私もわかっていましたので、その後、浴槽をごっそり取り換え新品にしまして、現在にいたっています。

 体がかゆくなったり皮膚に異常を感じたりしますと「湯の華」をつかっていました。乳白色のお湯にはいると温泉につかっている感じがするのも楽しいものした。

 何でもない風呂にでさえも懐かしい思い出があるものだなあー。

平成二十九年五月三日追加


 平成二十九年十一月二十八日、気温が低下して体が冷えてきたので、温めるために、張り付けている写真のような薬用入浴剤「日本の温泉」を使用した。

 草津・別府・登別・道後・熱海 詰め合わせ。当日は、「草津」を使用。若草色の湯【森林乎の香り】と説明されている。香りは説明のとおりであった。肌もすべすべするようだった。

 この冬は、薬用入浴剤を使用して、風邪をひかないで過ごしたいと思っている。

★効能書き:疲労回復、肩のこり、冷え性、腰痛、神経痛、リウマチ、痔、荒れ性、あせも、しっしん、にきび、ひび、あかぎれ、しもやけ、うちみ、くじき

平成二十九年十一月追加


 私の消夏法

 2018年7月15日:11:45~12:45 水風呂で遊ぶ。10日ころから、最高気温34~35℃が続いている。ある報道機関は,「3連休中日の15日、日本列島は東北から九州にかけて高気圧に覆われて気温が上がり、35度以上の猛暑日になる地域が相次いだ」と。また、テレビは猛暑が続いているので、こまめに水分と食塩を取って下さい。熱中症にはくれぐれも対処してください、と繰り返し繰り返し注意を喚起している。

 消夏法の一つとして私は、水風呂で遊んでいる? 

 具体的表現すれば、「風呂桶を 水に浮かべて 夏消えぬ」である。約30分~60分。一日2回にしている。

 水風呂からあがると、タオルで拭わないで、自然に乾かす方法が体温を冷やすに好都合のようである。

 暑くて長い夏をこのようにして乗り切りたい。


 「摂(セ)氏五十度というのはざらにあることで、ときにはそれ以上のことすらある。日本人が風呂から出るところを見ると、ちょうどゆでた蝦(えび)のようである。日本人はこのお湯の中に十五分から三十分くらい入っている」

▼幕末にオランダから来日した軍医ポンペがつづった「日本滞在見聞記」には当時の入浴の様子がそう描かれている。やや大げさな部分もあろうが、日本人の風呂好きは、異国人の目に興味深く映ったに違いない

▼そんな風呂好きにとってはうれしいニュースではないか。1週間に7回以上湯船に漬かって入浴する高齢者は、週2回以下の人に比べて要介護認定のリスクが約3割減少する。そんな調査結果を千葉大などの研究グループがまとめた

▼北海道、愛知県などで要介護認定を受けていない65歳以上の約1万4千人を対象に約3年間の追跡調査をした結果である。入浴のリラックス効果が認知機能低下などの予防につながっている可能性があるという

▼国際的に見て日本人が長寿を誇る要因の一つに入浴の文化があるとも考えられるそうだ。シャワーだけでは得られない効果があるらしい

▼〈湯の中にカラダ沈めてココロ浮く〉。キッチン・バス工業会が募った川柳の本年度入賞作品の一つだ。温かな風呂は体だけでなく、心も癒やしてくれる。長寿の秘湯は案外、身近にある。(2018年11月17日 08時30分 更新)山陽新聞


 平成三十一年十二月二十二日、冬至。実践倫理 朝起会参加者の一人から柚子をいただいた。そこで、柚子をそのまま湯船に浮かべた柚子湯に入つた。


13 銭 湯 '92 夏の号(朝日新論説委員室)+株式会社英文朝日 1992年10月12日 第1刷 P.12 (1992.4.6)

 温泉へ行きたしと思えども温泉はあまりに遠し。第一、費用もかなりかかるから、そうたびたびとはゆかぬ。

 だが、手軽に温泉気分に浸れる手がある。銭湯だ。家の中の狭い風呂とは違い、思い切り手足を伸ばせる。近所の人たちとの世間話も楽しい。これからの季節なら、帰りに寄り道をして、ビールに枝豆でもつまめば、ちょっとした極楽である。

 入浴料金も、いちばん高い東京、千葉、神奈川で大人が二百二十円、最低の沖縄が二百円。他の物価に比べれば格段に安い。髪を洗う女性なら、さらに数十円の追加料金がつく所もある。湯の使用量が多い、という理由だが、男性は長髪でも追加料金はとらぬというのがふしぎといえばふしぎだ。

 その銭湯が年々、消えてゆく。一九六四年の二万二千軒を最高に、九〇には一万二千軒を割ってしまった。風呂を備える家やアパートが増えたことも大きいが、何せ朝から夜中までという今どき少ない長時間労働の職場だ。後継ぎの確保が難しい。低料金で、売り上げが少ないという事情も響く。この数年のバブル経済の進行で、地上げ攻勢にさらされたり、確実な収入が見込める貸しビル、賃貸住宅へと転業した例も多い。

 料金を上げたくとも、一日に百人から二百人という客ではたかがしれている。上げれば客は減るだろう。改築しようにも、一軒当たり一億五千万から二億円もかかる費用の手当では、容易ではない。

 銭湯の廃業が増えるのは、地域の人にとっては、かなり切実な問題だ。風呂のないアパートに住む人たちは大都市に集中している。銭湯も休業日が重ならないように、隣接の銭湯と相談して日を決めている。休業日がぶっかると、一日の仕事の汗が流せない人が出てくるからだ。「もう限界だが、これから先は意地ずく」と銭湯の経営社が言う。その意地を、何とか支援する道はないものか。

2021.10.07


 5 HELP PUBLIC BATHS STAY IN PUBLIC

I would fain go to a hot spring, but even the nearest lies many leagues away. Since the journey costs me dearly, to begin with, I seldom go there.

However, there is an inexpensive way to steep in the same mood as in a hot spring: to visit a "sento" (Japanese public bath). Unlike in your cramped bathtub at home, you stretch your arms and legs out to the fullest. You can also enjoy conversation with people from neighborhood. In the upcoming season, making a small detour on the way home from the bath for a bottle of beer and some boiled green soybeans, we could put ourselves in a state of nirvana.

Bathing fees for adults range from ¥320 in the highest areas, Tokyo, Chiba and Kanagawa, to ¥200 in the cheapest area, Okinawa. They are by far the lowest compared to other commodity prices. Some public baths charge an additional ¥20 or ¥30 or so for women who wash their hair. This is claimed to be the extra hot water they use, but somewhat strange is that a man with long hair is not charged extra.

Public baths are disappearing one after another, The year of 1964 saw the greatest number, with 23,000 across the nation; this was halved to under 12,000 by 1990. Part of the reason must be the increasing number of houses and apartments with their own baths, but what makes it difficult to secure prospective successor is anachronistical nature of the job which requires long working hours from morning until late at night. Another factor contributing to the decrease in the number of public baths is the small turnover that comes out of the low fees. Several exposed public baths to the effects of land speculation, and many of them have been replaced with rental buildings and apartments which promise are more dependable income.

It is tempting to rate fees, but at 100 or 200 customers per day, not much can be expected. And a fee raise would probably alienate customers. Remodeling is no easy task considering what would be needed to cover such an expense, which would cost from ¥150 million to ¥200 million a building.

The increasing number of public baths going out of business is a serious blow to people in many neighborhoods. The big cities have concentrations of apartments which are not equipped with baths. The owners of public baths that are located in the same neighborhood try not to have their regular days off coincide with each other so that any worker may have access to a bath to wash off of a day’s labor on any day. "We're stretched to the limit as it is, but we're going to stic to our obstinacy in the future, "one owner says. Surely there must be some way to support such obstinacy.

Copy on 2012.10.07

12
柚 子 湯


 平成二十九年十一月二十二日夕方、知人が「今日は冬至ですよ」と言って、柚子を袋に入れて持って来て下さった。

 そこで早速、柚子湯に入ることにした。

 湯船に八個の柚子を丸ごと入れた。お湯の中に体を浸して温まること約5分で柚子をつかみ香をかぐと、かすかに匂う。齧ってみると、柚子独特の味。独りで湯船でリラックス。

 平成三十年十一月十五日、冬至二十二には、まだ早い。ラジオ体操参加者の一人から柚子をいただいていた。そこで、柚子を輪切りにして柚子湯に入つた。

★柚子湯に入った。冬至は11/22

【ユズ】ミカン科の常緑椊物。耐寒性に優れているので東北地方でも栽培。表面がでこぼこしていて大きなオオユズ、小ぶりのハナユズがある。

 柚子(ゆず)=「融通」がきく、冬至=「湯治」。こうした語呂合せから柚子湯に入ると思われていますが、もともとは運を呼びこむ前に厄払いするための禊(みそぎ)だと考えられています。昔は毎日入浴しませんから一陽来復のために身を清めるのも道理で、現代でも新年や大切な儀式に際して入浴する風習があります。冬が旬の柚子は香りも強く、強い香りのもとには邪気がおこらないという考えもありました。端午の節句の菖蒲湯も同様です。

 また、柚子は実るまでに長い年月がかかるので、長年の苦労が実りますようにとの願いも込められています。

 もちろん、柚子湯には血行を促進して冷え性を緩和したり、体を温めて風邪を予防したり、果皮に含まれるクエン酸やビタミンCによる美肌効果があります。さらに、芳香によるリラックス効果もありますから、元気に冬を越すためにも大いに役立ちます。


73 一 陽 来 復 '92 冬の号(朝日新論説委員室)+株式会社英文朝日 1993年3月25日 第1刷 P.100 (1992.12.21)

 「机上なる冬至うす日に手を伸ぶる」皆吉爽雨。

 このところ日の光がめっきり弱まったような気がする。それも道理、北半球では、正午の太陽の高度が、冬至の日に最も低くなる。昼の長さが一年で最も短い日だ。

 とろによって違うだろうが、この日に特別に何かを食べる習慣がある、という人は多かろう。冬至がゆ、カボチャ、こんにゃく、もち……。忘れられないのが柚子湯だ。「白々と女沈める柚子湯かな」日野草城。

※句の説明:白々と女沈める柚湯かな:日野草城

 冬至には柚子湯を湧かす習慣である。一年の苦労の垢を洗い流して新しい年へ向かってゆく。今一人の女が身を沈めて寛いでいる。湯の中に白々とゆらめく姿は妙に艶めかしい。当人は今年の苦労一切合切をすっかり洗い流して無の状態になっている。クリスマス大晦日新年と時の流れの音が聞こえる。まずは斯く在る今年に感謝である。来年も家内安全一病息災で迎えたし。「母様の胎内記憶ありて柚子湯」:日野草城句集「花氷」所載。

 豊かな湯から、温かみのある芳香が立ちのぼり、湯殿にこもる。ゆったりと手足を伸ばし、快い放心の境にひたる。ひとりしずかに湯を使うのもいいが、家族で柚子湯に入るのも、たいせつで楽しい歳時記である。

 「子の臀を掌に受け沈む冬至の湯」田川飛旅子。おさなごの肌の弾力とつやが、生命力を感じさせる。冬至という日の独特の面白さは日の力が衰えたということから、逆転、むしろ新しい生命力を待望し、感得するというところこにある。

 何しろ、いちばん日の短い日だ。これ以上に悪くなろうはずがない。太陽が最も衰弱し、農耕の行く手が心配な時こそが、考えてみれば、すべてが上向きになる出発点なのだ。衰弱から再生へ、死から復活へ、だ。

 いろいろな民族がこの季節を再生への希望の節目と考えて祝うのも、このすばらしい逆転の思想のゆえだろう。この日を「一陽来復」と表現することがある。中国の周の時代の易によれば「陰が極まって陽が生じる」ことをさすのだという。

 冬至のころから寒さは本格的になる。年が押し詰まり、何となくせわしない、追い立てられるような気分にもなる。風邪をひかないように気をつけよう。なべを囲む機会も増える時期だ。

 上の句はどんな五文字でもよい、下に「湯気の向うの友の顔」と続ければ形になる。これは駄句の見本だそうな。

2021.10.11記す。


73. IT'S TIME FOR CITRON BATH

Holding out my palm/ The sun's pale rays at winter solstice/ Fade upon my desk.(Sou Minayoshi)

The sunlight seemed to lose most of its warmth these days. That is not too far the truth; on Dec. 21. the winter solstice, the sun reaches the lowest angle at the zenith that it reaches all year. This is the shortest day of the year.

Not at the regions are the same in this respect, but as many people would tell you, some have the custom of eating certain foods on this day. These include foods like "tojigayu"(winter solstice rice gruel), pumpkin, "konnyaku"(devil's tongue paste) and rice cakes. But the custom I enjoy the most is taking a citron bath, where citrons or Chinese lemons are set afloat in the bathtub.

White, white bodies drawn in/ Women in the steaming citron bath(Sojo Hino)

A delicious, warm aroma rises from the ample water. I take my time in the bath. I spread my arms and legs out as far as they will go in a kind of catharsis

It is all very well to enjoy the citron bath alone, but winter solstice is a special chance for the family to enjoy the bath together.

I take the baby's bottom in my hand/ And lower her in/The Winter Solstice bath.(Hiryoshi Tagawa)

The spring and smoothness of a baby's skin remind us of the energy of life. One of the interesting things about winter solstice is that, exactly because it is the time when the sun is at its weakest, we have the most expectations for and are the most sensitive to the beginnings of new life. After all, it is the shortest day of the year. Conditions can't get any more severe than this. The sun is at the most feeble, but the time when farmers are the most anxious about the success of the new season is, when you think about it, the time when things begin to get better. The world begins to return from feebleness to rejuvenation, from death to revival.

This same, wonderful concept of rejuvenation must be why many cultures share in considering this day the beginning of hope of a return to life. Some have called this day "ichiyo-raifuku" (revival of the "yang"). According to a famous prophecy of the Chou Dynasty, this is the day on which "yin" reaches its most extreme, and from which "yang" begins to reappear.

The temperature drops to its lowest mark after winter solstice. We are approaching the end of the year, and tend to feel nervous and pursued by our tasks. Let us take care not to catch cold. It is the season for groups to gather around the stew-pot.

The words "Yuge no mukou no/Tomo no kao"(On the other side of the rising steam/My friends' faces) make an ideal second and third line to a haiku. The first line is up to you. Anyone for a bit of home-made doggerel?

On 2012.10.15

13
昭和 次郎の食事


 昭和次郎さんという年配の方。独りで食事を準備して食べるはめになりました。昭和一桁生まれで、「男子七歳にして厨房に入らず」の考えで、これまで生活してこられましたとのことです。

 彼が生まれた家では兄弟姉妹がいた。

 母親(明治生まれ)は姉妹たちには将来を考えて食事の作り方をはじめ女の務めのしつけをしていて、男兄弟には台所の仕事などはさせていなかった。かまどでのご飯焚きの落ち松葉や枯れ枝などは裏山に拾いに行かせるなどはさせられていた。

 学校を卒業して結婚しても、彼は会社での仕事一筋、家庭内での一切の事・子供の教育は奥様に任せての分業生活?を続けられた。夫婦には長男・長女の二人の子供がいましたが、今は、長男は、結婚、就職して遠方に勤務している。長女も結婚して、手元から離れている。したがって、今は奥様と二人だけのひっそりとした、定年退職後の生活をしておられる。

▼最近突然、奥様が病気のため数日の検査入院をすることになられた。さあ、なかでも一番困ったことには、彼一人で食事をしなくてはならなくなったことである。これまで一度も食事の調理をしたことがない(そんな男は珍しいとおもわれるだろうが事実である)。 例えば、電子レンジ、冷蔵庫の冷凍などの使い方をはじめとして、どんな食品を冷蔵にするか、冷凍にするか、解凍の時期はなど知らないことばかり。少しも家事を手伝うことはしていなかったから炊事道具はどこに収めているかもわからないほど。そこで、外食かスーパーマーケットで弁当やおソウサイを買って食べるはめになった。弁当は電子レンジでそのまま温めることが出来るかどうかをたずねて買うなど。さぞ、聞かれた人は驚かれたのではではなかろうか。また、食べかすの処理なども始末におえない。ところが、彼は外食を好まないので自分で何とかしたいと、手探りで挑戦する。マーケットの中には意外に年配の男一人で買い物をしているのを見かける。

▼しかし、次郎さんは左手が不自由で、包丁は使えない、紐など結べない状態であるから限界がある。りんごを食べるにも、皮は剥けないのでまるかじりして、口の中で剥ぎ取るようにするなど。町内会では、年配の人たちの料理教室が何度かひらかれているが、一度も参加したことがないそうです。

▼こんな状況だから、二人で旅行できるとしても奥様ひとりでは日帰りの旅行しかしていない。奥様が数日の不在ははじめてなので、妻のありがたさをつくづく感じさせられ、感謝させられたのも妻の病気のおかげであると申されていた。本当に「家内がいてくれないと満足に料理さえ出来ない」といわざるを得ない。これから自分なりに対策を考えなければならないといわれていた。

 「独りで食べる」のも、難しいが、二人で黙って食事をしていても、そこには安らぎがあります。食卓に妻が居ないのは、孤独感が迫ってきます。

▼橘曙覧(一八一二~一八六八)の歌は遠い思い出の中へ・・・・

「たのしみは妻子(めこ)むつまじくうちつどひ頭ならべて物をくふ時」

「たのしみはまれに魚煮て児(こ)等(ら)皆がうましうましといひて食ふ時」

平成十八年十一月十六日


 昭和次郎さんの食事―2―

 つごうにより、二人だけの生活で妻がふざいになり、次郎氏はやむなく一人での食事。外食嫌いのため自分で炊事しなければならない。

 上の記事と重なるかも知れないが、今回はその続編である。

 まず、自分で献立を考える。調理のちからが弱いのでメニューは少なく、簡単なものばかりであるが意外に時間がかかるのを実感(知人の言うには頭がボケなくてよい)。

 第二に食材を買いに出かけねばならない。スーパーまで遠く、2日分は買っておきたいから、キャリーバッグでの買い物。冷蔵庫にあるものを計算して買い物の選択しなくてはならない。あらかじめメモをして出かける。これがまた妻が買い置いたものと重複したり、長期保管しているものなどがあり、冷蔵庫保管の管理などに注意しなければならない。今まで一言の愚痴もこぼさずによくやってくれていた苦労を実感する。ともかくも運動を兼ねてとの思いで。

 次は調理、冷蔵庫・レンジ・炊飯器・グリルの使いかたに少しずつ馴れてくる。知人・その他の人に教えていただきながらである、失敗も度々したけれど、調理実習と思い繰り返していると段々と工夫もし、要領を覚える。でも、メニューに限定があり、残念ながら保健のための栄養など考えることはまったく出来ない。

 上げ膳・下げ膳では気につかなかったのだが、食事が終わり、後片付けをしなければならない。これもやってみて、鍋、その他の調理道具の後始末、油ものの食品を乗せた食器、茶碗・お椀の洗いなど手間と、また時間がかかるものである。

 妻の不在がこれから増えてくるだろうと覚悟しなければならない。

▼以上のような状態に追い込まれて反省している。現時点で彼が後悔しているのは、定年後、妻と二人で調理に関して話し合い、男性たりとも実際におこなっておくようにしておけば良かったと。

 今、次郎氏は妻に感謝をしている。禅寺では修行者の典座が食事を作っている、食事中は無言。また食事の前後に感謝の言葉を述べている。

▼これまでは、食事について述べましたが、二人での食事中の談話が少しでも、そこには暖かい雰囲気がある。一人での食事は味気ないものである。「美味しい、まずい」といっていたのはわがままであった。  

平成二十二年五月十三日


 昭和次郎の食事━3━納 豆

 両親も次郎さんも中国地方の生まれで、この歳になるまで、ほとんど納豆を食べることもなかった。

 そのうえ、家内も同じく廣島県出身であったので、結婚しても食卓に納豆を準備することはなかった。

▼最近、広島県のある市に所要で出かけたとき、年配の人たちと話した時、「私ども子供のころは、売られていなかった」、また、ある人は学校を卒業して横浜の会社に就職した時、納豆が食事に出されたとき、「その臭いで食べることができなかった」と。

 納豆についてパソコンで調べました

 大豆を納豆菌で細菌発酵させた発酵食品である。日本全国の食品売り場で容易に手に入れることができる。日本でも昭和時代までは、関西(京都を除く)・北九州・沖縄ではあまり一般的ではなかったが、平成に入ってからこれらの地域にも普及が始まり、現在では日本全土で多くの日本人に食べられている。

 総務省統計局の全国物価統計調査の調査品目にも採用されている。茨城県・福島県を中心とした関東地方・東北地方では郷土料理としても親しまれている。製法や菌の改良などで匂いを少なくしたり、含まれる成分の内「ナットウキナーゼ」の健康増進効果がテレビなどのメディアで伝えられるようになり、2000年以降は西日本においても消費量が急増し、この40年間を見ても国内各地域での消費量の差(一番少ない近畿・中国・四国と福島・水戸など一番多い地域との差)は大きく縮まっている。

 「納豆」「納豆汁」などが冬の季語である事や、「納豆時に医者要らず」という諺があったように、納豆の時期は冬である。一方、7月10日が「納豆の日」とされている。これは1981年、関西での納豆消費拡大のため、関西納豆工業協同組合がなっとうの語呂合わせで制定したものであり、1992年、全国納豆工業協同組合連合会が改めて「納豆の日」として制定した。

▼現在は岡山市でも、スーパーマケットにはいろいろな形で売られています。

 彼は、納豆を初めて食べてみた。意外においしかったので、今では植物性蛋白として一日に一度は納豆のパック詰め一個をご飯にのせて食べることにしている。どうやら体調を保持するにはよいものであるようだ。

 丸元俶生『悪い食事とよい食事』(新潮文庫)P.108によると、「日本人は大豆をよく食べてきた民族だが、いま世界中でこの豆に対する評価が高まっている」。(中略)「大豆食品の代表といえばまず豆腐だが、納豆、みそ、湯葉など、大豆食品の数が多く、わが国は食の環境としては非常に恵まれている」。

*その後、あまり納豆を食べていない。

平成二十七年一月二十七日 

訂正:下記の記事を日記で見つけ、納豆は食べていた。

★1997.12.25(木曜日)

☆健 康

1、昨夜から今朝にかけ2時過ぎまで眠れた。それからはウトウト。

2、朝:起床後、水を一杯。リンゴ二切れ。納豆ご飯、ヨーグルトとプルーン。

  昼:プルーンと薩摩藷。牛乳。

  夜:カレライスにヨーグルトをかけると辛味が薄らぐ。牛乳。酢大豆を少し食べた。

平成二十八年五月十六日


 食パン三題

其の一

 子どものころ、軽い病気すると、母親がつくってくれていた食事は大抵「お粥さん」だった。ときに、食パンを牛乳に浸して食べさせてくれた。近所に乳牛一頭を飼って、朝、生牛乳を配達している家があったので、買って来てくれたものである。その味は現在の私の感覚に残っている。病気をすれば適当に判断して普通は「正露丸」で治っていた。町内の医院で診てもらうことは殆どなかった。

其の二

 食パンのアーマ―  最近、スーパーマーケツトでの食パンはアーマーはのぞき、真っ白い一斤(四角の周囲はこげた部分がある)の5~6枚切りを包装したものが大部分である。それをトースターで焼き、ジャムなどをつけて、副食に野菜サラダーとかおこのみのものを、そしてコーヒーか紅茶を飲みながらかぶりついて食べている。

 あるお菓子屋さんでは、食パンの外側の茶色い部分だけを袋に詰めて売っている。たとえばサンドイッチを作るときに白い部分のみ切りとって、残った部分であろう。こんな店は少ないので、他の多くの店はその処分をどうしているのだろうか。

 余談ですが、パンは小麦粉を使っているのが主流ですが、米を粉にしてのパンの材料にしている試みもなされているようです。

 「パンの耳」という言葉がある。

 パソコンで検索すると、食パンの焼かれて茶色く固く変質した周辺部分を「表皮」という。また、俗に「パンの耳」あるいは「ヘタ」と呼ばれる。耳まで柔らかいソフトタイプの製品も販売されている。食パンにも角型食パン(プルマンブレッド)、山型食パン(ラウンドトップ)がある。

▼私が海軍の学校にいるとき、朝食は必ずといっていいほど食パン半斤とアルミ食器八分目の味噌汁が出る。

 これに大さじ一杯の白砂糖と少しのバターがついている。洋食のパンと和食の味噌汁というのは妙な組み合わせだ。バターはいいとしても、パンに砂糖をつけて食べるというのも変な感じもするが、とても美味しかったと。

 たまに片側が焼かれた、いわゆる耳がついた食パンが、誰かの更に載ることがある。焼かれて固くなったところは、白い柔らかな部分より身が締まって食べ応えがある。その耳のことを生徒たちはアーマ―(軍艦の舷側に張られた砲弾防護用の厚い甲板)と称して、内心しめたと喜んだ。

 そのわけは、当時は、現在の高校生3年生の年頃であったので、食欲が旺盛であったので、このアーマーは固くて腹もちが良かったから。

▼「アーマー」という言葉は知る人は多くはいないでしょう。パソコンで検索すると下記の説明があった。

 アーマー あーまー 【名詞】 《下士官兵俗》

 兵には「腹にたまらない」として不評だったが、脚気防止のためにパン食が行われていた。食パンの両端の耳の部分を「アーマー」(armour)と称した。中間部分に比べて「食べで」があるとして人気があった。

 下士官に限らず私たち海軍の学校の生徒もおなじであった。まさにこの言葉の通りであった。

海軍では麦飯が主食にされていた。脚気防止の対策であった。

▼脚気は現在では問題にされませんが、私たちの世代が子供のころは、病院にゆくと、まず先生がこころみることは、金属の棒によって膝頭を軽く叩くことだった。膝が軽く反応すればよし、さもなければ脚気とみなされたが、これは聴診器に応対と同じ医師の挨拶のようなものだった。

▼海軍では麦飯を主食にした経緯については、吉村昭『白い航跡』(講談社文庫)をお読みください。

 現在は、米食でしかも白米を主食としていますが、朝食に小麦からできている食パンを食べていますので脚気は廃語に近いかもしれません。

参考: Bread crust is formed when the protein and sugar in flour react chemically with heat.

 パンの耳は、小麦粉に含まれるタンパク質や糖質が熱で化学反応を起こして作られます。

平成二十五年七月十日

参考:パンのメーカーは沢山ある。

 山崎製パン、フジパン、タカキベーカリー、木村屋、第一屋製パン、敷島製パンなど。各メーカには多種多様の商品がある。値段もまちまちである。いろいろものを食べ比べて自分の好みを見つけるとよい。

 木村屋の食パン、ヤマザキ 塩バターフランスパンなどが好みになっている。

 また、食パンに欠かせない物に、ジャム・一緒に挟むハム、ソーセジ、果物などもいろいろと試しながら食べるのも楽しいものになる。飲み物も選ぶことだ。

平成二十二年四月十日

14

剃刀の切れ味


 剃刀には電動式、日本式(理髪店がよくつかっている)、使い捨て安全カミソリ、刃を交換するものなど各種ある。

 私はシックの交換式を使っている。替刃の交換目安2週間とかかれていまる。しかし、実際はそんなに長くはないようだ。もう少し長く使えないものかと思いながらも、こんなものだろうと思い込まされていた。  そこで、捨て箱に入れていたものをためしに使ってみると切れ味は良いのに驚かされた。使い捨て安全カミソリは1回使用だとの私の思い込みが覆された。

 品質管理では器具の使用期間が明示している場合、その期間が来ると使えなくなるのが品質管理の最高の技術だと教えられていた。

 長期に使用していて故障すると、この機種の部品が残っていませんから修理できません。悪しからず新しいものにしていただけませんかと言われる、今日この頃……。

 こんなことを考えていると、「自分の思い込みは時に疑え!」と……。
平成二十八年四月九日

15

お粥さん


 私は時々お粥を炊いてたべている。始めは土鍋に冷たいご飯をいれて、目分量の水を入れ、ガスの上において炊いた。沸騰する水を少したして、ともかくも柔らかくなるまで度々蓋をあけて、底に焦げ付かないようにかき混ぜていた。こうして炊き上げたお粥はあまりおいしくなかった。

 あるとき、知人から炊飯器で炊けると教えられた。炊飯器にはコースのボタンがあります。2段にかかれている。上段は左から白米、小量、早炊き 無洗米。下段はすし、おかゆ、玄米、お手入れと8種類が選べるようになっている。お釜の中には「全」と「5分」の記入がある。そしてご飯またはお米の分量が刻まれている。

 私はこのボタンでおかゆに指示して、ごはんの量を5分の5勺の目盛りに水を入れて炊いている。約45分~60分で炊きあがる。一度も炊飯器の蓋を開けたりはしない。

 こうして出来上がったお粥はどんぶり茶碗に一杯になる。茶碗に入れて、お塩を少しずつふりかけて、ちりれんげで表面を一回りしながらすくい食べている。結構おいしくいただける。


 以前、買っていた『おばあさんの知恵袋』 ~桑井いね~ 昭和五十一年十二月十日第一刷発行、発行所:文化出版局:発行者*大沼 淳に次のような記事があった。大変参考になりましたので、記録にのこしました。

 大和の代表的な食べのといいましたら、お粥ではないかと思います。わたしどもではおかいさんといいまして、さんづけでよんでおりました。白粥、いも粥、茶粥などや、七草粥に小豆粥のほか、里でははとんど毎日おかいさんを炊いており、主人もわたしもお粥で育ったようなもので、東京にまいりましてからもなんだかんだとよくお粥を炊きました。

 そもそも奈良のお粥は、大仏さんをこしらえるときに、ごはんをお粥にかえて節約をしたのが始まりともうします。

 お粥にも、冷やごはんから作る「入れお粥」とお米から炊く「炊きお粥」の二種類があり、お味は炊きお粥のほうがずっとおいしゅうございます。

 おいしいお粥は、もちろんお米の選定から始まります。お米はよくよく洗って一晩水に漬け、お米の量の五から七倍の水を加えて火にかけます。お粥は大きなお釜より小さめの鉄釜か土鍋(行平:ゆきひら)で炊きます。

 わりに強い火にかけ、沸騰したらすぐに火を引き、煮こぼれない程度に、米粒が一粒一粒上から下へグルグルと対流するような火加減にします。少し火が強いとふきこぼれますし、少し火が弱いと米粒の回転が止まり、お粥が焦げるというたいそう恥ずかしいことになってしまいます。ふきこぼれるから、と蓋をあけたりしてはいけません。全く同じスピードで米粒をグルグルと四十分ほど回転させ、火を消してさらに五分ほど蒸らします。

 この火加減は、それはそれは難しいもので、「大和に嫁入るとおかいさんの火加減で泣くでえ」といわれるほど大変なものでございます。

 こうしてできたお粥は、さらっとしていて口に含むとさっとつぶれます。途中でかきまわすと粘りが出て、すぐにわかってしまいます。

 お粥はできたてをたべるもので、さめると粘りが出てしまいます。塩味をつけるときは塩を火を止める直前に入れ、これも初めから入れるとお米はかたく、おねばはネトネトになってしまうのでございます。

 お粥のおかずは、梅干しやじゃこ、卵焼きなど柔らかいものが合います。わたじゅしの里では前日の冷やごはの上に、熱々のお粥をかけ、おたくあんで朝食にしておりました。冷やごはんに熱々のお粥、というのは召し上がったことのないおかたには奇異にお思いでしょうが、とてもおいしいものなのでございます。

 白粥は、このようにお米を選び、炊き方をも難しいものですが、茶粥のほうは、ごまかしがきくと申しましょうか、ずっとやさしく炊くことができます。

 お茶は、番茶やほうじ茶を使います。どこの家にも茶袋という木綿の袋がありまして、この中にお茶を入れ、お釜のお湯で煮出し、お茶が出たら茶袋を引き上げて、洗って水に漬けておいたお米や冷ごはんを入れて炊きます。お茶が炊くと、火加減がどうのこうのこうといわなくてもごはんがお茶でしまって、さらりとした茶粥ができ上るのでございます。

 お粥は、いずれも熱々を食べるもので、そのために奈良県人は胃ガンが多いともいわれています。

 粥という字は、ごはん茶碗にお箸を並べ、とくと眺めていたら、はしの両側が弓形になり、弓と弓との間に米粒が見えた、というのがもとであると、祖母が話しててくれたのを思い出します。

 関東のおかたは、お粥は病気のときに食べるもの、とお思いのようですが、瀬戸引き(ほうろう)のお鍋をガスの火にかけて、ひとっ作ってごらんになるとよいと思います。ササニシキなどでさらり」として芯まで柔らかいお粥は、おすしなどと同じように、お米の味を楽しむ、本当においしいものなんでございますよ。

参考:『おばあさんの知恵袋』昭和五十一年十二月十日第一刷発行、発行所:文化出版局:発行者*大沼 淳

 冒頭はこんな言葉から始まります。

 ひとりのおばあさんをご紹介します。

 主婦としてつつましく生きてきた、

 典型的な明治の女、いねさん。

 むかしの生活、家事の工夫を振り返る、

 おばあさんの思い出話に、

 しばらくお付き合いください。

 それで、ごく普通のおばあさんの話かと思いきやなかなかハイレベルな話もいっぱいで普通の家庭というよりはかなりハイソな家庭の様子が描かれているのです。それもそのはず、著者は家事評論家の「西川勢津子」さんで「桑井いね」は、ペンネーム。それも、苗字は野菜、名は主食からとったというユーモアのある名前なのです。

 この本の帯紙に、磯村尚徳(NHK)、池内淳子(女優)が書かれている。

 今や「語り部」となった私が申し上げるのもへんですが、このおばあさんはすてきな語り部でいらっしゃいます。核家族化した日本では本当の意味の教育ママやおばあさん消滅しつつあるのを残念に思っていましたが、洋の東西の事情に通じたこのおばあさんの知恵袋をみて、私の不満も解消しました。母を早く亡くした女房にも是非読ませたいと思います。磯村

 昔のことを本当によく覚えていらっしゃいますね。日本の女って何とすばらしいのだろうと、かんしんしてしまいました。人生、それがドラマだと申しますが、私もいねおばあさんのような利発で働き者の女を、お芝居で演じてみたいなぁ、と思いました。池内

平成二十九年三月二十八日


こだま七草がゆ

 おかゆと七草のセットである。値段298円。

①おかゆの袋を開封し、茶碗に移します。

②乾燥七草を①に加え、軽く混ぜます。

③ラップをし、約2分間(600W)で加熱すれば出来上がりです。

*加熱時間は機種により異なりますので加減してください。

「湯煎の場合」の方法は略。

▼簡単で便利である。米飯がゆの量250g/袋。

平成三十一年一月五日


16

平成29年七草粥の日


 春秋 2017/1/7付

 コンビニのおにぎりや弁当が並ぶ棚に、見慣れぬ黒い容器を見かけ手に取った。「七草がゆ」とある。小袋の塩もついていた。店員さんによると「お昼時にはバーッとはけますよ」とのことだ。大きく変わった社会の中でも、古くからの風習はしっかり根を張っている。

▼「正月七日、雪のない所から菜を摘む」と枕草子にある。7種の菜を吸い物にする習わしがあったようだ。おかゆにし始めたのは室町時代から。江戸期には害鳥を追い払う「鳥追い」の行事と結び付き、「鳥が渡ってくる前に」などとはやしながら、まな板をたたいたという。災いを遠ざけ、豊作を祈る意味があったのだ。

▼「かゆには十の利益あり」。福井県の永平寺で修行する僧は、食事の前にこんな経文を唱える。「色つやがよくなる」「気力が増す」など主に体への効用が続くが、かゆが出てくる中国の故事には「栄華のはかなさ」を説くものもある。「邯鄲(かんたん)の夢」だ。貧乏書生が邯鄲の町の茶店で、仙人に身の不幸を嘆く所から始まる。

▼仙人は書生に青磁の枕を授けた。書生は夢の世界で50年間、人生の絶頂とどん底を味わい尽くす。目覚めれば、仙人と会った同じ日で、眠る前に作りかけのかゆは、煮上がってもいなかった、というものだ。いま、トランプ次期米大統領が「わが世の春」とばかりつぶやきを続けている。故事への感想をぜひ聞いてみたい。

★七草粥ならぬ私のおかゆ:お粥を一人で作ったのは2回目であった。今回は5勺の生米のお水を一人用の土鍋に一杯にいれて、約30分ひたしておいて、炊き始めた。弱火にして10分もすると吹き上がる。しかし米粒は堅いうえに底に焦げ付きそうになる。柄杓でかきまぜながら注意してかき混ぜる。出来上がったころを見計らって、ほうれん草を少し加えて、塩を加える。人さまには食べていただけるようなものでないな!と思いながら正月のささやかな朝食。

平成二十八年一月七日


23 お か ゆ '92 夏の号(朝日新論説委員室)+株式会社英文朝日 1992年10月12日 第1刷 P.114 (1992.4.26)

 おかゆ、と聞くと何を連想するだろう。病気で寝込んだ時のことだろうか。初めはおもゆ、次に三分がゆ、それが何日か続くと五分がゆ、そしてやがて固かゆが許される。回復に向かううれしさを思い出す人もいる。

 といっても、連想は地域によって違うはずだ。例えば関西の人にとっては、おかゆは関東でよりも日常的な食べ物だろう。食習慣が違うからだが、これを、ご飯をいつ炊くかの違いで説明することがある。いわく、関東では朝、炊く。そして朝と昼はそのまま食べ、夜もそのまま茶漬けで食べた。

 関西では昼に炊く。昼と夜はそのまま食べ、翌朝、残ったものをおかゆにする……。こいう風習が長い間続いたというのである。かつてはそうだったかも知れぬが、いま、例えば関東でご飯を朝炊く家庭はどのくらいあるのだろう。関西で、朝がゆの習慣はどれほど守られているのだろう。 

 おかゆにしても、いもがゆ、茶がゆと各地にいろいろな味がある。日本を離れ、広州、北京、台北などで肉や魚など様々な具を入れて食べる朝がゆも、なかなかうまい。韓国では酒をのむ前に進められて少量のおかゆを食べたことがある。日本では、しかし、おかゆは本来、日常食というよより特別の日のためのものだったらしい。 

 年中行事、人生儀礼の折りの食べ物だ。七草がゆ、小正月のあずきがゆ……。いまだに残っている。新潟県には、新築の祝いの時に振る舞う家移(やうつ)りがゆの習俗もあるそうだ。最近、どうしたことか、おかゆの売れ行きが極めてよいのだそうだ。話題になっている。 

 缶詰など即席食品としてのおかゆの生産量は、この五年間で十ばい以上。東京の街では、昼飯時に、おかゆの移動販売車に人々が群がっている。この現象、健康志向なのか。毎日を特別の感慨で迎えようとの、日常からの脱出願望か。病気や疲れなどの表われでなければよいが。

2021.10.04記す。


17

年の瀬とは


 文研NHK放送文化研究所

 「年の瀬」は、いつぐらいから使えるのでしょうか?

 明確にいつぐらい、とは言えません。しかし、12月に入ったばかりの時期に使うと、「年の瀬」というには早いと感じられる場合も多いようです。12月の初め、上旬の場合は、「年の瀬」を使わず、「早くも師走」「12月に入り」などほかの言い方を工夫したほうがいいかもしれません。

「解説」

 国語辞典では「年の瀬」の意味を「年の暮れ」「年末」「歳末」と説明するものが多くあります。「年の暮れ」「末」「歳末」は、1年の終わりのことを言いますが、いずれも、いつからいつまでを指す、とは言いにくいことばです。

 ただし、次のように、やや日にちを限定して示すものもあります。

 『日本大歳時記』(講談社・1983)では、「年の暮れ」について

 12月になってからを言うが、また12月も押しつまってからをも言う。また、13日に正月の準備にかかる地方は全国的に多く、その頃から年の暮の実感が生まれてくる。たんに暮とも言う。(原文ママ)

と、時期を限定して説明しています。

 また、国語辞典の中には「年の瀬」の意味を詳しく書いているものもあり、それを見ると「年の瀬」が具体的にどのぐらいの時期を指すのかがわかってきます。例えば、『新明解国語辞典第7版』(三省堂・2012)では(それをうまく越せるかどうかが問題である)清算期としての年末と説明しています。

 江戸時代は、商品を買う場合に代金を後払いにす「掛け売り」が多く行われていました。「掛け売り」の支払いは、盆と暮れにまとめて払うことが多かったようです。『新明解』は「年の瀬」を、「掛け売り」の支払いをちゃんと清算して、無事に年を越せるかどうかが問題になる「年末」のことだと説明しています。

 『岩波国語辞典第7版新版』(岩波・2011)には、あわただしい年の暮れ(年越しをするのを川の瀬に見立てて言う)と説明されています。

 こうした辞書の説明などから考えると、「年の瀬」は「年越し」の時期を限定して使う場合もあり、12月の終わりに近い時期に使ったほうが、違和感がない、と言えそうです。

 このほか、年末によく使われることばに、「押し迫る」「押し詰まる」があります。どちらも近くなるという意味合いです。辞書によりますが、次のような意味の違いがあるようです。

 「押し迫る」は「間近に迫ってくる」という意味です。「年の瀬も押し迫る」など、「年の瀬の時期(年末の最後の数日間)が間近に迫ってくる」という意味で使われます。

 一方、「押し詰まる」は、「年の暮れが近づく」という意味で、「ことしも押し詰まる」などと使われます。この場合は「年の暮れが近づいてゆとりがなくなってきた」というような意味になります。

 「年の瀬も押し迫る」という使われ方から考えても、「年の瀬」は年末の最後の時期に使ったほうがしっくりくると言えそうです。

★昭和10年(私の幼少時代)ころ、「掛け売り」の支払いは、盆と暮れにまとめて払つていた。掛け売りの回収に店屋の人がきていた。対応には母と妹が当たっていた。

2018.12.15


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スイカについてのかずかず


raizouko.jpg  スイカを縁側で兄弟妹たちと、大きな西瓜を包丁で切って。種を吹き飛ばしながら。冷蔵庫(箱モノに氷を入れたものであった)は使われている家庭は少なかったものであった。

 現在は電器冷蔵庫でどの家庭でも使われていて、便利に冷やすことができる。

 スイカを網袋戸にいれて、井戸に紐を結び付け、つりさげて冷やしていた。

 わたしの故郷では、西瓜畑の広いものは四百坪くらいの畑に植えられていた。そして、スイカ泥棒を監視する番人が夏の日差しを避けて、仮小屋で見張っていた。それでも盗まれていたようである。

turube.jpg  夏、海水浴の海辺でスイカ割りの遊びをしていた。

 スイカ割りとは、用意したスイカの果実を、目隠しをした挑戦者が周囲の声だけを頼りに、手にした棒で割る遊びである。前もって挑戦者の体を回転させ、平衡感覚を狂わせてから開始することもある。

 昭和十九年(一九四四年)一月二十四日 スイカ・メロンなどの不急作物の作付禁止 青木雨彦監修『中年博物館』(発行者:大正海上火災保険株式会社) 発行 昭和五十六年十一月二十日

 年表で見る戦争と空襲 昭和19年1月(1944年1月)の主なできごと

•日本放送協会、「前線へ送る夕」の放送を開始(7日)

•緊急学徒勤労動員方策要綱を閣議決定(8日):私は昭和十九年四月、中学校五年生に進むとすぐ、広(広島県)の海軍工廠に動員されて2階木造建ての安永寮に入り、先生も一緒だった。工廠の職場までは二キロくらいもあった。十二時間勤務の二交替制で働いていた。海軍工廠の補機という部門でネジ切旋盤を使ってネジを切っていた。

•防空法施行令実施(9日)

•女子挺身隊結成(14~25歳までの未婚女性を軍需工場などに動員)(19日)

•スイカ、メロンなどの不急作物の作付けを禁止(24日):こんなこともあったのである。

•内務省、東京、な古屋に(改正防空法による)初の疎開命令(指定区域内の建築物の強制取壊し)(26日)

 2012.07.下旬、西瓜をたべながら思い出などを記録した。

2012.07.27


46 西 瓜 '92 夏の号(朝日新論説委員室)+株式会社英文朝日 1992年10月12日 第1刷 P.114 (1992.5.25)

 西瓜を、今年初めて食べた。ひと汗流した後すすめられた。ひと切れの西瓜で汗がひく。夏が来る、というという気分。上品ぶってはいられず、車座でかぶりつくところがいい。「西瓜赤いき三角童女の胸隠る」野澤節子。

 夏の味の代表格である。果実が大きいせいか、いつも、何人かの人々と一緒に食べた。という記憶が伴う食べ物だ。食べ物が乏しかった時代、重い、立派な西瓜を真中に置く。包丁を入れる前から期待で歓声がわいた。「両断の西瓜たふる」東西に」日野草城。

 ずいぶん昔からある作物らしいが、日本での歴史はそう古くない。アフリカ南部のカラハリ砂漠に生まれ、エジプトでは四千年も前に栽培していたことが絵に残されているという。ギリシャに三千年前、ローマには紀元初期にはいる。

 中国には、中東からシルクロードを経て十二世紀に西域に達した。西瓜と呼ばれるゆえんだろう。遅れて日本にも来たが、あまり普及しなかった。明治初期になり、米国経由で優良品種がはいり、栽培されるようになる。

 日本では、富山県の黒部西瓜などを除けば球形がほとんどだが、米国には長円形の西瓜が多い。半分に切り、中をくりぬいて鉢の形にし、細かく切った実をほかの果物とまぜ、フル―ツカクテルにして食べることがある。

 「水中に水より冷えし瓜つかむ」(上田五千石)。甘さと歯触りが身上だが、冷たさも大切な要素だ。深い井戸や清流に入れて冷やしておくなど、最近ではかなわぬぜいたくだろう。栄養の面でもなかなかの食品だそうだ。

 これからの季節、盛夏炎天のもとで汗をとめ、のどの渇きをいやすには西瓜が一番。家族の人数が少なくなったためか、近頃「小玉」と称する小さな西瓜が目につく。だが、西瓜は、大きいのを、やや騒々しく食べる時が最も楽しい気がする・「西瓜切る→家に水気と色あふれる」西東三鬼。

2021.10.04記す。


 46. WATERMELON SEASON

I have just eaten my first watermelon of this year. It was offered to me after I had worked up a good sweat. That slice of watermelon brought my sweat to a quick halt. Watermelon puts me in the mood that summer is coming. I don't like to waste time acting in an elegant manner while eating watermelon. What I like is biting into a slice on the spot. "The young girl's breath is hidden/ behind the red triangular pyramid of the watermelon"(Setsuko Nozawa).

Watermelon has a typical summer flavor. Perhaps because it is big, in my memory, I associated it with being eaten together with several other people.

When food was in short supply, We would place in the center of the circle. Our voices became louder in anticipation of the feast long before the first cut was made. "As the watermelons is cut/the two halves collapse/ eaten to west"(Sojo Hino).

It is said that watermelon is one of the crops of the ancients, but its history in Japan is rather short. According to a pictorial record, the watermelon originated in the Kalahari Desert in the southern part of Africa and was already being cultivated in Egypt as long as 4.,000 years ago. It had spread to Greece by 3,000 years ago, and to Rome at the beginning of the Christian era.

It traveled the Silk Road from the Middle East and reached Hsiyu in the 12th century. This is probably the reason a combination of two Chinese characters meaning "western arc" is attached to the name of the fruit. Watermelon was introduced into Japan late, but it did not spread widely. It was not until a watermelon of superior quality came to Japan from the United States that the fruit began to be cultivated.

Nearly all the varieties of watermelon in Japan are spherical in shape, except for the Kurobe watermelon and a few others of Toyama Prefecture, but most American watermelon are elongated in shape. Americans often cut their watermelons in half, scope out the center to create a bowl out of the rind and mix the diced center with slices of other fruit to make fruit cocktail.

"Under the water/ I hold a melon/ cooler than the water"(Gosengoku Ueda). The quality of a watermelon is revealed by its sweetness and feel in the mouth, but coolness is no less a sine qua non. The old ways of cooling the melon in the water of seep well or in a stream probably sound like untold luxuries to the people of this generation. Watermelons are also said to be quite nutritious.

The watermelon is unmatched for stopping for the sweat of the coming hot season and soothing the dryness of the throat. A small species called "Kodama" (small ball) hss caught our eyes in recent years, perhaps because of the shrinking size of the family. Still, I feel the watermelon is best enjoyed in large, noisy slice. "When the watermelon is cut/the house fills/with its scent and color"(Sanki Saito).

Copy on 2012.10.5


2019年07月26日(金)の日記より。

ラジオ体操参者:男4人、女6人、小学生3人, 計13人。

▲岡山暦情報 日の出~日の入り時間 14:03

  常用薄明:4時41分 日の出時刻:5時09分 薄明時間=29分 
  常用薄明:19時40分 日の入り:19時12分 薄明時間=28分 

★岡山市中区の天気 真夏日 熱帯夜  

0時 晴れ 27℃ 3時 曇り 26℃ 6時 曇り 26℃ 9時 晴れ 28℃

12時 晴れ 31℃ 15時 晴れ 32℃ 18時 晴れ 31℃ 21時 曇り 28℃

余録 あんどんで真っ赤なうそを…毎日新聞2019年7月27日 東京朝刊

 「あんどんで真っ赤なうそを売っている」。江戸のスイカ売りは赤いあんどんを掲げて商売をした。夜、切り売りのスイカを少しでも赤く見せたのだ。スイカを切ると赤くも甘くもないことのあった時代だ

▲だから昼間に切り売りすれば、「たち割って赤心(せきしん)見せる西瓜(すいか)売り」ということになる。赤心とはうそのない真心である。丸ごと買っても中身を心配しないでよくなったのは、明治以降に米国や中国の改良品種を輸入してからだという

▲アフリカ原産で、もともと赤くも甘くもなかったスイカという。古代エジプトでは水分だけを目的に栽培され、欧州やアジアに広がるうちに赤いスイカになった。スイカを切った時の江戸っ子の一喜一憂は人類の多くが経験したのだ

▲気象キャスターの田代大輔(たしろ・だいすけ)さんによれば、スイカがよく売れるのは気温が30度前後の時季だそうだ。27度以下だとメロンなど糖度の高いものが売れ、35度を超える猛暑となると水分摂取優先の清涼飲料水 になる(「お天気歳時記」)

▲暑さといえば今夏の欧州がすごい。先日はパリで42・6度の観測史上最高気温を記録、ドイツやベルギーなどでも高温記録を 更新した。先の説によればスイカには暑すぎるが、ミネラルも豊富なその水分で熱中症を免れた人もいよう

▲「水は毒でござりますると西瓜売り」。食あたりのない水分補給も売り込んだ江戸のスイカ売りだった。川柳子に何度も舌を巻 かせた商魂に敬意を表すのも良し、列島はちょうどスイカのおいしい暑さである

2021.10.22記す。


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わたしの御馳走 餠


hibati.jpg  餅は私の好物の一つである。子供のころ、餅を食べるのはお正月か祝いごとに限られていた。

 餠は糯米だけのもの、黍餠、あんころ餠、豆餠などがあった。師走の二十五日ごろから大晦日の前日までに餠をつく。沢山ついて保存する。水に漬けて水餠にして保存したりしていた。

 正月の三が日は雑煮でのお祝、旧正月にかけては焼餅が間食であった。

 当時は暖房は火鉢であった。灰に埋められていた火を掘り起して炭をつぎたして、五徳に金網をかけ、餅をのせて、両手をかざし暖をとりながら焼いた。兄弟姉妹と焼き具合を見詰めているとやがて狐色にこげてきて、プーと膨れ上がり、蒸気を噴き出し、はじける。手で抓み上げると熱くて、左右の手にわたして、息を吹きかけてひやす。

 砂糖醤油をつけて食べた。また、砂糖を混ぜた黄な粉をまぶして食べた。腹も体も暖かくなり和やかな時間がすぎた。どんな料理人も味付けできない思い出の味を付け加えて、いまでも私のご馳走にしている

 餠を搗くのは上述のように師走であった。私の家でも、おくどさんに薪をくべてせいろで蒸す。そして、それを石臼に移して杵でつくのだが搗いてる蒸した米をひっくりかえす母の手とまあいを合わせての作業になる。搗き上がると、とり粉を撒いている箱板の上に移して餠の塊を適当な大きさに切りとり両てのひらで丸めて形を整える。

 株式会社クラレの社長大原總一郎氏は太鼓饅頭が好きだったそうである。故郷の倉敷に帰られたとき時々食べられたそうだ。焼きたての饅頭は古新聞に包まれていた。饅頭のぬくもりで暖められている新聞紙から伝わる温かさを手で確かめられてたべられただろうと想像する。

 “おふくろの味”が話題になると本当に和やかな話振りになる。料理してくれたおふくろのこころを思うからだろう。また年に一度の餠だったからたのしみにし、待つことがより美味しい餠にしているのではなかったのだろうか……。

2021.08.17記す。


 餠の文化 天声人語 '93 春の号(朝日新論説委員室)+株式会社英文朝日[訳]1993年6月3日 第1刷 P. (1993.1.1)

 あらたまの春である。一九九三年が明けた。「元日や鷹がつらぬく丘の空」水原秋櫻子。

 時の流れは絶え間なく、目に見える区切りがない。それでも不思議なもので、この朝、きのうまでと打って変わり、あたりに淑気がただよっている。万物、よそおいをあらため、人々の気分も一新。この雰囲気は、元旦に独特のものだ。

 各地に様々な風習があることだろう。餠を食べる習慣は全国に共通なのではなかろうか。餠の文化は東南アジアから稲作の文化とともに伝わったものだという。祝い事には欠かせない。

 四角く切るか、丸餅を食べるか。地域によって異なる。雑煮の具も家庭によって多種多様なはずだ。家ごとに独自の作法を守り続けている。何代も何十代も同じように餠を食べ継いできたかと考えると、面白い。

 祝い事でない場面にも、餠が登場することがあるそうだ。同年の人が死んだと聞くと、餠をついて、その餠で耳をふさぐ。耳ふさぎ餠と呼ばれる習慣だ。餠に霊的、神秘的な力があると考えられていたのだろう。

 昔は正月に各人が自分の霊になぞられた餠を出して並べ、霊力を新たにしようとしたと、ものの本にある。目上の者が目下の者に与える餠などを年玉といった。それが、しだいに、金銭の形に統一されたそうだ。

 峠の茶屋んどで餠を売っている。ずいぶん古くからのことらしい。力持ちという。餠を食べると力がつく、と考えるのは、餠の持っているある種の力への信仰のようなものだろう。生後一年の子どもに餠を背負わせる風習も同様の考え方か。

 餠を一つ食べても、様々なことに思いが及ぶ。先人が、正月や節句にこの食べ物を口に運びながら考えていたこと、祈っていたことは何だろうと想像してみる。現代の私たちにも、各人、年頭のねぎごとがある。

 今年も充実した一年を、「鷲下りて雪原の年あらたなり」山口草堂。

※皇太子妃決まる――初恋が実って晴れやかにご婚約――上の写真

2021.10.18記す。


 1. NEW YEARS AND RICE CAKES

It is a new year; 1993 has dawned. New Year's Day/A hawk cuts across/The sky above the hill.(Shuoushi. Mizuhara)

Time flows without interruption, and there is no visible cut-off place. Still the strange thing is that there is a tranquil feeling all around, completely different from that which prevailed until yesterday. Everything has changed in appearance, and the feeling of the people have been completely refreshed. This atmosphere is peculiar to the New Year's Day.

There must be all kinds of customs in various parts of the country. The custom of eating rice cakes must be common through-out the nation. It is said that the rice cake culture was transmitted to Japan from Southeast Asia along with the rice paddy culture. Rice cakes are indispensable on auspicious occasions.

Is it cut into squares? Or is it made round? It differs according to the district. "Zoni," a soup that contains rice cakes, varies depending on the family, with each adding different ingredients such as vegetables. Each family sticks to its customs. It is interesting when you surmise that rice cakes have been eaten in the same way for several or dozens of generations.

Rice cakes also appear on occasions which are not auspicious, When you hear that someone of the same age has died, you pound rice cakes and stop up your ears with the rice cakes. This is the custom called "mimi fusagi mochi," or rice cakes to plug the ears. People must have thought that rice cakes have spiritual, mysterious powers.

According to one book, people in ancient times lined up rice cakes made in the image of their souls and tried to refresh their spiritual power. Rice cakes given by superiors to those under them were called "toshidama", or New Year's gift. This gradually became unified into the cash form of "otoshidama" given to children at New Year's.

Tea shops on high peaks sell rice cakes. They apparently have been doing so since ancient times. The rice cakes are called "chikaramochi," or energy rice cake. The thinking that you will gain strength if you eat rice cakes is probably a sort of belief in the power that rice cakes possess. Is it the same thinking that is behind the custom of making a 1-year-old child carry rice cakes on his or her back?

If you eat rice cake, you think about various things. You wonder what your predecessors thought and what kind of prayers they offered as they ate rice cakes at New Year's and Boys' Festival. We today each have our own prayers at the beginning of the year.

Let's pray that this year will be a rich year, too. An eagle comes down/This year of snowfields/Is new.(Sodo Yamaguchi)

Copy on 2.021.10.18

20

確率:気象庁予報・サイコロの目



 長期予報の的中率は五割未満。気象庁も三カ月以上は統計的確立予報で発表しているわけだが、この場合の予報の実態は、とても科学的とは呼べないものだ。長期予報の成績は六十%ぐらとされているが、純粋に当たるか当たらないかで見れば的中率は五割に満たない。つまり半分以上ははずれである。      『選択 九年十二月号』

▼確率五十パーセントは二分の一である。何度もコインを投げるのを繰り返して、コインの裏か表が出る確率である。コインを投げるたびごとに「おもて、おもて…」といっても当たるのは半分である。また反対に「うら、うら…」でも当たるのも半分である。そうすると「おもて、うら、おもて、うら…」と、でたらめにいってもあたるのは半分になる。

▼自分の行動を決めるとき色々な道があるものである。ある者は悩み、あるものはエイと決断する人もいる。自分の進路を決めるのに最終的にかりに二つにしぼつて、右か左かになったとすると。

 われわれはいくつかの転機を経験してきた。そのたびごとに方向を選択してきた。例えば旧制高校へ進学するかどうか、大学に進むか就職するか、就職するときA社にするかB社にするかなど。そうすると自分の進路は二の転機の回数の階乗になる。たとえば、三回であれば二の三乗すなわち二×二×二=八ということになる。現在の状態は八つの選択肢のうちの一つである。現在の状態に満足している人はともかくも、すこし不満におもっているひとは、今より変わったよい道があったのではないかとおもったりする。実際はこれ以上に複雑な多数な道があったはずである。人の経歴は様々であることが容易にそうぞうできる。なにか必然であるような気もする。

感想1:雑誌『選択』(選択出版株式会社)設立 1974年4月:『選択』(せんたく)は、選択出版株式会社の発行する月刊の雑誌(総合雑誌)。毎月1日発行。完全宅配制度を採り、書店での販売は行っていない。発行部数は6万部。2008年6月号で400号を迎えた。

 July 2018号は、「外交の安倍」という虚名の記事がある。

感想2:「確率五十パーセントは二分の一である」記事に関連して、「クジを先にひても後に引いても同じであることを証明しなさい」

 私が受験した学校の数学入試問題のひとつだった。

感想3:たしかにそうだ。ある時、「ああすればよかった」また、ある時は「こうすればよかった」と思うのは常人の私にもあった。だが、私は転機の節目には、「私が決めたのだと思っている。

平成30年7月16日:猛暑日:90歳


サイコロの目 深代惇郎の天声人語(朝日新聞社)昭和五十一年十一月十日第六刷 P.268

 原勝さんという見知らぬ方から『葵の日記と書簡集』という豪華な本の贈呈にあずかった。ページをめくると、一昨年のモスクワの日航機事故で、葵さんという娘を失った父親が丹精こめて作った本だった。

 日本の大学、アメリカ留学と、恵まれた環境で成長してゆく娘の遺稿を紹介する紙背に、父親の悔恨が痛々しいばかりだ。その悲しみには、娘が事故で死んだということ以上の何かがあった。その事情を、父親の一文を読んで察することができたと思った。

 この娘さんはアメリカの大学を卒業し、ヨーロッパ回りで帰国することになり、外国の飛行機を選んでいた。それを父親が日航機に変えるよう手紙を出し、娘さんは素直に従った。ところが日航機に変えるよう手紙を出した直後、ニューデリーで日航の墜落事故があった。これを気にした母親は、他に変えるよう意見を述べたが、父親はゆずらなかった。父の言葉通りにした娘さんは、そのために遭難するのである。娘に対し、妻に対し、父親の申し訳なさはいかばかりであったろうか。その思いが、娘の本を作らせずにおかなかったのだろう。

 父親は「事故を起こしたばかりだから、立て続けには起こるまい」と考えた。母親は「事故が起ったから不安がある」と思った。サイコロを振って、偶数が三度続いたとき、四回目は「三度も続いたのだからまた偶数だ」と考える人と、「三度も続いたからこんどは奇数だろう」と考える人がいる。

 数学の確率でいえば、四度目のサイコロの偶数、奇数の出る確率はそれぞれ二分一だ。三回分の結果が、四回目の確率に影響を与えることはない。こうした抽象的な確率論を離れても、事故は偶然ではなく、本質的な原因があるはずだからその会社は見合わせようという人もいる。逆に、事故直後は点検や操縦にひときわ慎重だからかえって安全だ、と考える人もいる。

 推理はいつも二つに分れ、答えはない。やはり運命だったと思うほかはないのではあるまいか。(49.7.29)

参考:1972年11月28日、日本航空のコペンハーゲン発モスクワ経由羽田行きのDC8型機がモスクワのシェレメチェボ空港を離陸直後に失速して墜落・炎上、日本人53人を含む、62人が死亡した。人為的な操縦ミスによるものとみられている。

2021.09.20記す。

21

11月3日



★昭和9(1934年)4月~昭和15(1940)年3月、小学生だった。所謂明治節じだいだった。明治節当日は学校に登校して式典が行われた。唱歌明治節を歌って終り、下校。授業はなかった。町の家々に国旗が掲げられて、静かな日だった。

 堀内敬三 井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫)を調べると、紀元節、天長節の歌の歌詞は記載されている。明治節の記載はない。

 明治節の由来を調べると、昭和前期の祝日の一つ。明治天皇の遺徳をしのび、明治時代を追慕する目的で制定した。明治天皇の誕生日の11月3日をこれにあてた。祝祭日には、国家の祝日と、皇室の祭祀を行う祭日とがあったが、明治節は新年節(1月1日)、新年宴会(1月5日)、紀元節(2月11日)、天長節(4月29日)と並んで祝日とされた。また祝日のうち新年節、紀元節、天長節、明治節は四大節として、学校や軍隊で祝賀式が行われた。宮中では祭祀や宴会が行われた。

 戦後の1948年(昭和23年)に廃止されたが、11月3日は文化の日として現在も継承されている。明治神宮では毎年この日に宮中より勅使の差遣を受けて、例祭(秋の大祭)を執り行う。

▼明治節 文部省唱歌

   一、 アジアの東、日いずるところ
        ひじりの君の 現れまして
        ふるき天地あめつち とざせる霧を
        おおみ光に 隈なくはらい
        教えあまねく 道あきらけく
        治めたまえる み代とうと  

   二、  恵みの波は 八州やしまにあまり
        御稜威の風は 海原越えて
        神の依っせる 御業みわざをひろめ    
        民のさかゆく 力をのばし
        とつ国々の ふみにもしる
        留めたまえる 御名みなかしこ

   三、   秋の空すみ 菊の香たかき
        今日の佳き日を 皆ことほぎて
        定めましける 御憲みのりを崇め
        諭さと)しましける詔勅みことを守り
        代々木の森の代々とこしえに
        仰ぎまつらん おおみかど

★天長節変遷:昭和前半は「天長節」(1927〜1947年)、その後は「天皇誕生日」(1948〜1988年)、昭和天皇崩御後は自然の恩恵に感謝する「みどりの日」(1989〜2006年)になり、さらに「昭和の日」(2007年〜)と変わりました。 4月29日は変遷を繰り返しました。

★昭和15(1940年)4月~昭和19(1944年)年9月、中学生だった。所謂天長節時代だった。

 11月3日は、運動会が行われていた。清冽な気で身の引き締まる思いがした。朝8時から午後4時ころまでであった。

 岡野さんの名前は、中学三年生の二学期の運動会:昭和十七年十一月三日(明治節)で、校内放送のマイクが「岡野君が海軍兵学校に合格しました」と知らせた。すると、歓声がわきあがった。海軍兵学校74期生である。

 運動会には父兄も見物にきていなかった。1年生~5年生が一同に体育をしているといった雰囲気であった。 文化の日

★文化勲章は、日本の勲章の一つ。科学技術や芸術などの文化の発展や向上にめざましい功績を挙げた者に授与される、単一級の勲章である。

当時の内閣総理大臣・廣田弘毅の発案により、1937年の文化勲章令(昭和12年2月11日勅令第9号)により制定された。

 文化勲章辞退者4人いる
河井寛次郎(陶芸)- 1955年(昭和30年) 名利を求めない信条を貫いて辞退。河井は自身の作品にも銘を入れないほどこの姿勢に徹底しており、人間国宝や芸術院会員への推薦も同様に辞退している。熊谷守一(洋画)- 1968年(昭和43年) 「これ以上人が来てくれては困る」と辞退。熊谷は孤高の画家として有名で、来客を一貫して避けていた。
大江健三郎(小説)- 1994年(平成6年) ノーベル文学賞の受賞発表を受けて文化勲章の授与と文化功労者としての顕彰が決定したが、「民主主義に勝る権威と価値観を認めない」と文化勲章そのものを否定して受章を拒否。
杉村春子(舞台演劇)- 1995年(平成7年) 「自分には大きすぎる」「戦争中に亡くなった俳優を差し置いてもらうことはできない」と辞退。

参考:文化勲章以外に
勲章辞退 '92 冬の号(朝日新論説委員室)+株式会社英文朝日 1993年3月25日 第1刷 P.70 (1992.11.1)の「天声人語」は下記のような記事である。   
 作家の城山三郎さんが四十年にわたって書きためたという詩の本『支店長の曲がり角』を読んだ。「勲章について」という一編に、勲章をめぐる詩人と妻とのやりとりが巧みに描かれている 
▼勲章を授けたい、と役所が言ってくる。受けたくない。断るつもりだ。妻に理由を説明する。その有り様が活写される。「あなたの言い分を聞いていると、もらった方に失礼じゃないかしら」などと妻が言い、詩人はあわてる。結局「読者とおまえと子供たち、それこそおれの勲章だ。それ以上のもの、おれには要らんのだ」 
▼「われながらのせりふ、本音でもある」と……続く。読みながら、いろいろな人の顔やせりふを思い出した。「人間に等級をつける勲章は好まない」と受勲を固辞し、死後の叙位叙勲も「辞退」と遺書に書き残したという前川春雄・元日銀総裁。同様に叙勲を受けない主義を貫いた桜田武・元日経連会長 
▼桜田さんが師と仰いだ日清紡の元社長、宮島清次郎さんも、「在野のものが一生をかけてやった仕事に役所が一等だ二等だと格づけするのはおかしい」と叙勲の話を断った。清廉を通した宮島さんは「おれたちの先祖はみな、百姓か漁夫だった。たまたま運がよくて資本家になったにすぎない」と言っていた 
▼「わたしゃ百姓の娘でしてね。勲章をつける人なんか嫌いだな」と言って叙勲を断ったのは元参院議員の市川房江さんだ。小学校の校長をつとめ、のちに子供たちの詩や作文の選者をしていた久米井束さんは「日本国憲法の精神に照らして、勲章制度は弊害と危険性を含んでいます」という辞退願を区役所に出して高齢者叙勲を断った
▼様々な勲章のはやる世の中だ。政府自らの人気とりのような授賞もある。相対的な価値判断による授受。それらをわらうかのように戦後のやみ市で勲章が売られていた情景をも、城山さんは描いている。

★国民の祝日年間16日

元日1月1日,成人の日1月11日
建国記念の日2月11日,天皇誕生日2月23日
春分の日3月20日
昭和の日4月29日
憲法記念日5月3日,みどりの日5月4日,こどもの日5月5日
海の日7月22日,スポーツの日7月23日
山の日8月8日
敬老の日9月20日,秋分の日9月23日
文化の日11月3日,勤労感謝の日11月23日

2021.11.03 文化の日記す。

22

牡蠣の話し


★2021.12月6日(月)晴れ 

 夕食:牡蠣ご飯(自作)・おでん・豊水1/4個。

★岡山県虫明かきチューブ150g(378円)購入。

★インタネットで[牡蠣混ぜご飯の作り方]を調べると

1、牡蠣は下処理しておく。(冷凍=流水で半解凍、加熱用=塩と片栗粉で汚れを落として2-3回水で洗う)
2、鍋に出汁昆布と水を入れて、沸騰してきたら昆布を取り出し、千切りした生姜とを入れ、牡蠣を入れて沸騰させ、
3、出てきた灰汁を取りながら3分煮て牡蠣に火が通りふっくらしたら、牡蠣は取り出す。 煮汁は粗熱を取る。
4、洗ったお米に煮汁(生姜ごと)を入れ、足りなければ水で量を調節。(一合=180cc)。炊飯器で炊く
5、ご飯が炊けたら、牡蠣と青ネギを入れて10分蒸らす。10分したら牡蠣を潰さない様にしゃもじで解してお茶碗に盛って出来上がり。

*結果:さっぱりしていた。醤油味にした方がよかったように思った。一週間後、醤油味にした。醤油・味醂・酒などを加えてつくった。この方がよかった。牡蠣混ぜご飯に次いで牡蠣フライを食べることにした。

★2021.12月27日(月)晴れ

夕食:牡蠣フライ 季節にふさわしフライであった。


★広島県豊田郡忠海町(現在:広島県竹原市忠海町)では入り江に牡蠣船があった。

※参考:牡蠣船

 牡蠣専門の料理を提供していた。船に座敷をしつらえていた。  

★中学三年生夏のころ、寄宿舎にいた同級生はヤス(魚突き)で魚をとったりしていた。私は岩牡蠣をこじあけて、実を取出して、塩水であらってそのまま食べたりしていた。美味であった。

★広島の学校の学生のころ、中学同級生有本照夫君(旧制広島高等学校生徒)と彼が下宿していた広島県竹原町で、味噌仕立ての牡蠣の[どて焼]を食べた。ことがある。

※参考:『湖の伝説』を読みて

★結婚してから、冬になると広島県福山市松永町から牡蠣を送っていただいたことがある。

 鍋に昆布を敷いてその上に牡蠣をのせて焼いてたべたものである。

 以上牡蠣の思い出を書き連ねました。


★牡蠣について読んだ記事を書いてみると

1、上前淳一郎著『読むクスリ』17(文春文庫)1,995年6月10日 第1刷

☆Rの月 Ⅰ☆ P.244~247 (Oysters are only in season in the ‘r' months. :カキの季節は r の月だけ (⇒R months).)

 十二月のうち、スペルにRの入った月がカキ(牡蠣)のシーズン、と欧米ではいう。

 とろが、Rのつく月だけではなく、一年中食べられる養殖カキの研究をしておられるのが、石巻専修大学教授の菅原義雄さん。

 このおいしい話に入るには、まずカキの栄養についての講義から聴いていただかなくてhあならない。

 「カキには栄養がある、と昔からいわれてきました。それは、食べるとすぐエネルギーになる多糖類のグリコーゲンが豊富だからです」

 消化に手間どる蛋白質や脂肪と違って、グリコーゲンはただちにエネルギーに変わり、もりもり元気が出る。

 シーザーやナポレオンなど"色好み"の英雄たちがカキを愛したといわれるのも、そのためだ。

 日本ではさきの大戦前後の食糧難の時代に、栄養不足から肺結核になる人が多かったが、

 「肺病にカキが効く、といったものです。グリコーゲンのこの特徴からすると、それは理にかなっていたといえます」

 カキの中心には黒っぽい部分があるが、これは消化器官などの内臓だ。

 その外側の白い部分、つまり私たちが舌鼓を打つ肉質全体が、豊富なグリコーゲンの貯蔵庫になっている。

      *

 「ところで、この白い肉質の部分は、カキがおいしいRのつく月にはグリコーゲンの貯蔵庫ですが、Rがつかない月、すなわち春から夏にかけては(April,May,June,July,Augusut)、卵子や精子をつくる場所になるのです」

 西欧の英雄たちが好んだヨーロッパカキは雌雄同体。

 これに対して日本のマガキは雌雄異体だが、どちらにしても変ったやつで、生殖器官がはっきり存在していない。

 春先になると貯蔵庫のグリコーゲンが減りはじめ、代わってそこが卵巣、あるいは精巣になる。

 「ですから、春から夏にかけてはグリコーゲンがなくて、おいしくありません。Rがつく月に食べろ、というヨーロッパの古くからの言い習わしは、ここから来ています」

 水温が上がる七、八月になると、体内でつくられた卵子と精子は水中に放出され、そこで受精する。

 子供は岩などにくっつき、しょく物プランクトンを食べて成長していく。

 「親の体内では、秋になって水温が下がるにつれて卵巣や精巣が消滅し、再びグリコーゲンの貯蔵庫が復活してくるのです」

      *

 それなら、カキに卵巣や精巣をつくるのをやめさせれば、体内はいつもグリコーゲンの貯蔵庫になっていて、一年中食べられることになる。

 そこに着目して菅原先生が始めたのが、染色体をふやすことで受精能力をなくさせる三ばい体カキの研究だ。

 「カキには染色体が二十本ありますが、これを三十本にしてやるのです。すると、遺伝子に混乱が起きて卵子や精子がつくれず、子供ができなくなってしまいます。種なしスイカのようなものです」

 この三倍体カキを、水温摂氏五~七度の冬と同じ環境で飼育する。

 生殖を忘れたカキは、せっせとグリコーゲンを貯えて白い肉質をまるまると太らせ、一年中が旬(しゅん)になるというわけです。

 「私は真夏に試食してみていますが、なかなかいけますよ」

 むろん菅原先生は、グルメの舌を満足させるためだけに研究していらっしゃるのではない。

 いずれ、人口爆発とともに世界的な食糧難の時代がやってくるかも知れない。

 「その日に、養殖しやすく、栄養豊富で、しかもおいしい三倍体カキは、まさに理想の食べ物になると思っているのですがね」

 今でも夏に近海で獲れる天然ものがないわけではなく、高い値段で売られているけれど、話のスケールが違う。

2020.01.04


2、橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.143

〔138〕 He was a very valiant man who first adventured on eating oysters.

                                Thomas Fuller
 《訳》 思い切って最初にカキを食べてみた人は、実に勇敢な人物であった。
                                トマス・フラー 

 トマス・フラー(1608~61)はイギリスの聖職者、歴史家、ユーモア作家。彼には次の警句もある。A fool's paradise is a wise man's hell!(愚か者にとっての天国は賢い人には地獄だ!) 普通 a fool's paradise は[ぬか喜び]であるが、ここでは本来の意味、賢い人にはこの世の中はさぞかし住みにくいだろう。なにしろ愚か者が大勢(たいせい)を占めて、主導権を握っているのだから。

2021.12.16 記す。

23

習慣と生活態度
笑うから幸福なのだ


Ⅰ 習慣と生活態度の関係

アミエル(ジュネーヴで生まれた)(1,821~1,881年)

 習 慣          

 生きてゆくためには、習慣は格言以上の働きをするものである。習慣は本能となり肉となって生きた格言であるからだ。自分の格言を改めるだけでは何にもならない。それは本の表題を変えるようなものだ。新しい習慣をつけるとういうことがすべてである。なぜならばそれではじめてほんとうの生活へと到達することになるからだ。人生は習慣の織物にほかならない。

原本:アミエル『人生について』――日記抄―― 土井寛之 訳(白水社)(一九九七年一〇月一〇日発行)(1998.08.31購入)P.61

参考1:安岡正篤やすおか まさひろ(1,898~ 1,983年)は次のように説明されている。伊藤 肇『帝王学ノート』(PHP文庫)P.211

 心が変われば、態度が変わる

 態度が変われば、習慣が変わる。

 人格が変われば、人生が変わる。

 この本の名前は伊藤肇の本で知ったが、もとは安岡正篤がその著書『百朝集』(関西師友協会)P.64 などで紹介してからだ。アミエルは1880年代後半スイス大学の哲学の教授をつとめた。死後フランスの批評家エドモン・シェレル の序を付した日記抄が出版されて一躍そのなは有名になった。トルストイはロシア語訳の本の序文で彼を賞賛した。

 アミエルは内省的な人でこの日記を貫くものは人生の苦悩や反省失望などで埋められている。正直読んでいて疲れる。文学者や哲学者はこの日記に記された彼の思索の深さに感銘を覚えるかもしれないが、私のようなふつうの人間には重い。ギッシングの「ヘンリー・ライクロフトの私記」よりも重い。そういう意味で、この本が一般的にポピュラーになるかというとかなり疑問である。しかし次のフレーズ一つで彼の名前は後世に残るであろう。

 "人生は習慣の織物にほかならない"

 この一節の訳は、訳者土井のものより、安岡正篤の訳(意訳)の方が正しく真意を伝えるように思われる。

 "人生の行為において習慣は主義以上の価値を持っている。

 なんとなれば習慣は生きた主義であり、肉体となり本能となった主義だから。誰でも主義を改造するのは何でもないことである。

 それは書名を変えるほどの事にすぎぬ。新しい習慣を学ぶことが万事である。それは生活の核心に到達するゆえんである。

 人生とは習慣の織物にほかならない"

 "運命とは性格なり。性格とは心理なり"とは、芥川龍之介のことばだがこの他にもアメリカの心理学者マズローの言に"人間の哲学が変わるとき、あらゆるものが変わる"というのがある。これらをうまく綜合して安岡は云う。

 「心が変われば態度が変わる 態度が変われば習慣がが変わる
 習慣が変われば人格が変わる 人格が変われば人生が変わる」

 忘れることのできない一文である。

 余談であるが、この――日記抄――の後半に、「幸福について」という一節がある。ここのエッセイを読むと、悲観的・内省的な話を読んだあとで、ほっとするのである。

 "快い、涼しい、澄んだ天気。朝のうちの長い散歩。さんざしと野ばらに花がついているのを見つけた。野原の、ばくぜんとした健康な香気。まぶしいような靄の線によって縁取られているヴォワロンの山々、ビロードのような美しいい色調のサレーヴ山。野良で人々が働いている。二匹の可愛いろば。その一匹は、ひろはへびのぼらずの生垣をがつがつと食べていた。三人の小さな子どもたち。子どもたちに接吻してやりたくてたまらなかった。のどかな時間、野原ののどけさ、晴れた天気、気楽な気持ちを味わう。ふたりの妹も一緒にやってくる。香りの良い牧場と花の咲いている果樹園に目をやすめるる。草木の上に生命の歌が聞こえる。こんなにも穏やかな幸福の中にいるのは、幸福すぎることではないのか?それだけの値打ちが自分にあるのだろうか? いや、天の好意をとがめずに、この幸福を楽しもう。感謝の心を持って、それを楽しもう。不幸な日々はすぐにやって来るし、しかもその数は多いのだ。私には幸福の予感はない。だからいっそう現在を役にたてよう。愛する自然よ、やって来い。ほほえんでくれ。そして私の心をうっとりさせてくれ。しばらくの間でも私の悲しみとほ かの人の悲しみを包み隠してくれ、おまえの着ている女王のマントのひだだけが見えるようにしてくれ。そしてさまざな華麗なものの下にみじめなものを隠してくれ。" (「自然の中の幸福感」(P.117)

「習慣は第二の天性」

 19世紀スイスの哲学者アンリ・フレデリク・アミエルの箴言に、次のようなものがあります。     

 心が変われば態度が変わる

 態度が変われば行動が変わる

 行動が変われば習慣が変わる

 習慣が変われば人格が変わる

 人格が変われば運命が変わる

 運命が変われば人生が変わる

 これの前後を逆にして言うならば、「人生(運命)を変えたければ、人格を変えなさい。人格を変えたければ習慣を変えなさい。習慣を変えたければ、態度を変えなさい。態度を変えたければ心(思い)を変えなさい!」となります。

 ところで、親の子に対する贈り物の中で、最良最大のものは一体何でしょうか?

 財産でしょうか? 学歴でしょうか? 地位や名誉でしょうか?

 私は、子供に「良き習慣を身に付けさせること」ではないかと思います。

 「習慣は第二の天性」と云われておりますが、良き人生は良き習慣に宿り、 悪しき人生は悪しき習慣に宿っているようです。習慣には、行為の習慣や言葉の習慣だけではなく、思いの習慣(ものごとの捉え方や考え方の習慣)もありますから、大変です。

 子供の幸せを願わぬ親など一人もいないと思いますが、通常は親の方が子供よりも先に亡くなりますから、子供の一生の面倒を親が、見ると言う訳には参りません。子供は子供自らの力で、良き人生を切り拓いて行ってもらう他はありません。良き人生も悪しき人生も、総ては習慣の善し悪しで決まると思います。

 心も頭も体も柔らかい小学生のうちから、良き習慣を身に付けさせたいものですね。大人になってから直すのは、大変に骨が折れます。良き習慣を身に付けさせる「躾」を、きちんと躾ることが、親の子に対する一大使命だと思います。

 小学生のうちにきちんと躾ておくべきものとしては、

 一、時間を守る習慣を身に付けさせる。

 二、整理整頓の習慣を身に付けさせる。

  三、ちゃんと挨拶できる習慣を身に付けさせる。  

の三つでしょう。

 1.朝起きたら家族全員で「オハヨー!」の挨拶。

 2.決められた時間の5分前にスタンバイ完了。

 3.履物を脱いだらきちんと揃える。

 4.呼ばれたら「ハイ!」と素直な返事。

 5.好意に対して「ありがとう!」の感謝の言葉。

 まず親からの実践が、臨まれます。子は親の後ろ姿を見て育ちます。

2017.09.17追加

☆ウィリアム・ジェームズ(William James)(アメリカの思想家)(1,842~1,910年) は、アメリカを代表する哲学者・心理学者の一人。チャールズ・サンダース・パースやジョン・デューイと並び、「プラグマティスト(物事の真理は実際の経験の結果により判断するという思想)」の第一人者としても著名。 弟は小説家「ヘンリー・ジェームズ」。(参考文献:ウィキペディア+Amazon.co.jp)

 主な著書(邦訳書)に「プラグマティズム」「心理学(上下)」「宗教的経験の諸相(上下)」「ウィリアム・ジェイムズ入門 賢く生きる哲学」「純粋経験の哲学」などがある。ウィリアム・ジェームズ(1,842~1,910年)の名言集

 心が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。

 習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。

※ウィリアム・ジェームズ(1,842~1,910年)の名言はアミエル(1,821~1,881年)と同じである。


Ⅱ 「笑う」と「幸福」の関係

☆ウィリアム・ジェームズ

 人生をもっとも偉大に使う使い方というのは、人生が終わってもまだ続くような何ものかのために、人生を使うことである。

 人間は幸せだから歌うのではない。歌うから幸せになるのだ。

☆アランエミール=オーギュスト・シャルティエ(ペンネーム:アラン(Alain)(1,868~1,951年)

▼『幸福論』(集英社文庫)(1,993年6月5日)

一 もしどこかの暴君が権力を尊重することを教えようとして、わたしを投獄したとすれば、わたしは毎日たったひとりで笑うことを健康法とするだろう。足を訓練させると同じように、わたしは自分のよろこびを訓練させるだろう。(77 友情P.239)
 幸福だから笑ふわけではない。むしろ笑ふから幸福なのだと言いたい。(77 友情P.240)

二 小雨が降っているとする。あなたは表に出たら、傘をひろげる。それだけでじゅうぶんだ。(63 雨のなか P.200)

 「またいやな雨だ!」などと言ったところで、なんの役に立とう。雨のしずくも、雲も、風も、どうなるわけでもない。
 「ああ、結構なおしめりだ」と、なぜ言わないのか。もちろん、こうあなたが言うのをわたしが聞いたからといって、雨のしずくがどうなるわけでもない。それは事実だ。しかし、そのほうがあなたにとってよいことだろう。あなたのからだ全体がふるいたち、ほんとうに暖まることだろう。ほんのちょっとした喜びの衝動でも、こういう効果があるのだ。雨にあたっても風邪をひかいためには、こうふうにすべきである。(63 雨のなか P.200)

 もしどこかの暴君が権力を尊重することを教えようとして、わたしを投獄したとすれば、わたしは毎日たったひとりで笑うことを健康法とするだろう。足を訓練させると同じように、わたしは自分のよろこびを訓練させるだろう。(77 友情P.239)


 幸せだから笑うわけではない。むしろ、笑うから幸せなのだと言いたい。(77 友情P.240)

 笑うことで免疫力や自然治癒力が高まるそうです。また、笑うことはストレス解消にもつながります。笑いは心身の健康にいいのです。

 他にも笑いの効用はいろいろあるようです。

 笑うことは、いろんな時に、いろんな場所で、簡単にできる、有効な健康法と言えるでしょう。

 笑うことで、よろこぶ能力(幸福を感じる能力の一部)を活性化できるのでしょう。

 たいていの能力は、使えば維持でき、使わなければ衰えます。そして、工夫して使えば向上させることができると思います。

 笑うことを日課のトレーニングとして、よろこぶ能力を強化できるといいのでしょう。

 幸福を感じることも練習(たとえば、ハッピー・ウォーキング)から始めてみるといいでしょう。幸福を感じる能力が高まれば、それだけ幸福に暮らせるようになれるでしょう。

 心から笑えている時には幸福な気もちになれます(笑う形だけでも少しは明るく元気になれるでしょう)。

 また、自分が笑っているとまわりの人にも伝わります。それが少しは自分に返ってきて、また自分も少し幸福な気もちになれます(幸福は伝染・反射する)。

 笑うことは、上機嫌の実践方法であり、幸福になる方法でもあると思います。

 「私は永久に自分を束縛した。私は選択した。今後の私の目的は最早自分に気に入る者を探すのではなくて、自分が選んだ者の気に入ることであろう」。1954年4月19日の日記に記載していた。3月26日婚約決定していた。

 エミール=オーギュスト・シャルティエ:ペンネーム アラン(Alain) 誕生:(1,868~1951年)職業:教師、哲学者、評論家、モラリスト。代表作:『幸福論 (アラン)(フランス語版)』(1925年)。アランの影響を受けたアンドレ・モーロワ

2017.08.23 追加。

※ウィリアム・ジェームズ(1,842~1,910年)とアミエル(1,821~1,881年)とは似た記録を残している。
 生存期間が違い、アメリカとフランスと生まれた国も違うのに。


橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.60

〔55〕 Books serve to show a man that thoes original thoughts of his aren't very new after all.
                                Abraham Lincoln
 《訳》 自分の独創だと思っている思想も結局は決して新しいものでない、と書物はわれわれに教えてくれる効用がある。
                                アブラハム・リンカーン

 この言葉は訳例を見る前に自分で訳文を工夫してみる価値がある。訳例もあまり上手でないが、ピンとした日本語で直ぐわかる訳文が実に作りにくい文章である。

 《別訳》本は何を教えてくれるかといえば、われわれが自分の独創のつもりでいるさまざまの思想も、結局はあまり新しいものでない、と教えてくれるのだ

 リンカーンは、巧まずして自然とユーモアを生む言葉をいくつも残している。この文もその一つ。リンカンという大人物の持ち味の一つといえるだろう。([15][97][98][99][141][152]参照)  

2017.2.19

※ウィリアム・ジェームズ(1,842~1,910年)とアミエル(1,821~1,881年)、アラン(1,868~1,951年)の記録を読んでいると、アブラハム・リンカーン が述べている「それぞれが独創だと思っている」との記録を思わざるをえない。 

2022.01.06 記す。

※引用図書:

1、アミエル『人生について』――日記抄―― 土井寛之 訳(白水社)(一九九七年一〇月一〇日発行)
2、伊藤 肇『帝王学ノート』(PHP文庫)
3、安岡正篤がその著書『百朝集』(関西師友協会)
4、アラン『幸福論』(集英社文庫)(1,993年6月5日)
5、ウィリアム・ジェームズ(ウイキペディア:(英: Wikipedia))
6、橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)

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洗濯機故障――排水管が切れる


 洗濯機から洗濯場での水漏れがはげしくなったのは今年(2024年)の二月であった。

洗濯場の床がみずびたしになり、それを拭き取るに手間がかった。さらに床に貼っていた化粧板がはがれてきた。

★2024年03月28日(木) 

 洗濯機の水漏れを調べた。洗濯機に接続している排水ホースが切れていることがわかった。ヘルパーさんが手伝って下さった。

★2024年03月29(金)                      

 へるぱーさんが、洗濯機の水漏れしていた排水管をDCMに持つて行き同じものがあることを確認してくださった。                      

★2024.03.30(土):M先生、Yさん来訪。水漏れを修理していただいたが直らなかった。

★2024.03.31(日)

 今後は、いままでり利用したこともなかったコインランドリを使わなければならないかと思い、その使い方、使用料金を調べた。普通の量で500円/回。また新品を買うとすればいくらになるかもインタネットで調べた。

★2024.04.08(月):修理

 ふと玄関などに手すりをつけていただいた株式会社ヤマサキを思い出して修理を依頼してた。

 ホースと本体接続部に接着器具を使って接着剤を塗りテープを巻く、さらに接続部分より少し離れている部分が切れていた。テープを巻き付けて完了。修理費500円(コインランドリ1回分に相当)。

★2024.04.09(火)

 洗濯機の排水管を下水道口にさしこんでいるが、洗濯の脱水排水の振動が激しくて排水管が下水道口から外れないようにした。洗濯場に漏れないようになった。一応修理完了を確認。

★洗濯機は、20年以上の昔のある年に購入したものである。その年月日は記憶にない。製造会社、機種は本体に記録されている。

★今回の洗濯機は全自動一層式であるがかなりむかしのものであった。

 洗濯機のほんたいである電気関係ではない排水管がきれたということであった。消耗品ともいえるようなものに問題であった。

2024.04.23 記録