―ハガキ通信(2)―
POSTAL CARD COMMNICATION ーPART2 | |
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改 訂 版 2023.04.01 改訂
目 次
101 | カマキリの脱皮二号 | 102 | 『日暮硯』を読む | 103 | 失 明 | 104 | 宮尾登美子『蔵』 |
105 | 早朝散歩 | 106 | 私の推薦図書 | 107 | 加 齢 | 108 | 九三年 私の実行状況 |
109 | JANUARY | 110 | 読み始め | 111 | 甲戌に懐う | 112 | 一粒二百円 |
113 | 未成年者飲酒禁止法 | 114 | 37日間の漂流日誌 | 115 | どちらが母馬か | 116 | わたしの読書 |
117 | 英文朗読 | 118 | editorial "We" | 119 | 周梨槃特物語 | 120 | 便所掃除 |
121 | 戒 語 | 122 | 後世畏るべし | 123 | 老 師と風呂 | 124 | 土用の干梅 |
125 | さんすうとルームエアコン | 126 | 流星群 | 127 | 降水量ミリメートル | 128 | おはぎとぼたもち |
129 | よむ、とく、よむ | 130 | 新聞切り抜き | 131 | 十 戒 | 132 | パンと麦飯と脚気 |
133 | 歳の余り | 134 | 社 是・家 訓 | 135 | 宇宙の年齢 | 136 | 餅の味 |
137 | 大地震 | 138 | 香巌和尚 | 139 | ある日曜坐禅者 | 140 | ビームラオ・アンベードカル博士 |
141 | 『論語物語』下村湖人著を読む | 142 | 『あばれ天竜を恵みの流れに』を読む | 143 | 将来子供に就いてほしい職業は | 144 | 科学者の研究能力 |
145 | 生死事大、無常迅速 | 146 | 蝉のぬけ殻 | 147 | じがく | 148 | こだま「木霊」 |
149 | タンポポの根 | 150 | タンポポの根(二) | 151 | 口づくし | 152 | 天高く馬肥ゆ |
153 | 字 体 | 154 | 当用漢字音訓の困惑 | 155 | 『大漢和辞典』 | 156 | 世界でただ一冊の辞書 |
157 | 三人の作家から教えられる | 158 | 午前五時間制 | 159 | こころと体 | 160 | 禅譲かたらい回しか |
161 | ことばを拾う | 162 | 手鏡で春を見る | 163 | 書写二千日 | 164 | 『平家物語』を読む |
165 | 後引気配 | 166 | 性相近、習相遠 | 167 | 正念さんの作務 | 168 | 経験のないお母さん |
169 | こころと体―六つの教え | 170 | 立腰と椅子の形 | 171 | 献 涼 | 172 | Have a nice day ! |
173 | 教 育 | 174 | 『Lee Iacocca の自伝』 | 175 | 私のハガキ実践 | 176 | 森 信三先生『一日一語』 |
カマキリの脱皮
今年八月、実践人夏季研修大会に参加、帰った翌朝八時ころ、前脚は折り畳み、後脚と中脚の先端部を曲げ、庭木にぶら下がったカマキリが九十五%脱皮していた。殻の長さは二・五センチ、体は五センチだった。体色はうすい緑黄色。抜け出ながら成長したのか殻が収縮したのか分からなかったが多分前者だろう。抜け出ようと下腹部を膨らませたり、縮めたり。全身を半回転して上向きになり腹部を上下にくねらせて尻部に付いている殻を振り払おうとする。体を前に進めたところで抜けきった。はねは小さかったが二十分経過したころ成虫の三分の二に伸び、三十五分後、成虫の大きさになった。閉じこめられていた体は二倍に成長し、はねは爆発的な速さでのびて透きとうった。からは触ると軟らかく、胸・腹部を手で押さえると、紙風船の空気が抜けたよう凹んだ。 ▼串田孫一氏は、「ところが今日、いつも葉書ばかりをくれる友だちが、珍しく、十一円の簡易書簡をくれた。封緘葉書がいつの間にかそんな名前に変っていたのだ。上下のミシンをぴりぴりと破いてみると、用件の終りに、カマキリが脱皮したと書いてあって、ぬけがらが二つはいっていた。簡易書簡の中には何も入れてハピーズいけないんだよ、そりゃ違反だよ、という人もいた。しかしそれはもう届いてしまったし、はいっていたものは、ともかくもぬけがらなのだ。……うっかりしていると、なかなか凝ったことをする友だちのことだから、このぬけがらを僕に送ってくれたことによって、彼の思想的脱皮を伝えているのかも知れない……と。串田孫一『博 物 誌』(角川文庫)P.11 ▼研修大会での収穫をバネにして自分のからをどれだけ抜け出すかは私次第だ。 |
『日暮硯』を読む
リーダーの読むべき本(岩波文庫)として西尾 実・林 博校註『日 暮 硯』を私はすすめてきた。江戸時代の中期に、信州松代藩の家老恩田木工が、甚だしい窮乏に陥った藩政の建て直しを一任せられ、まず五カ年計画を立て、身を挺してその改革に当り、よくその功を成した事蹟に関する説話の筆録である。歴史年表によると、一七五九年、肥後・松代藩などで藩政改革が行われると記録されている。 ▼樋口清之は『逆・日本史2』(祥伝社)P.77に「彼の純粋な動機や政策とは無関係に、現実の松代藩の経済は、何一つ改善されることがなかったのだが、彼の人柄の清潔さゆえに『日暮硯』においては、日本的美学が強力に働き、事実を極端にねじ曲げ、"結果"まで逆に美化されたのである」と記述している。 ★樋口 清之(ひぐち きよゆき、1909年1月1日 - 1997年2月21日)は日本の考古学者・歴史作家。國學院大學名誉教授、國學院大學文学博士。専門は考古学・民俗学。紫綬褒章受章
『逆・日本史2』
▼奈良本辰也氏は「『図説長野県の歴史』で、古川貞雄さんが、『日暮硯』における名家老恩田木工の事蹟は、『つくられた』面が多いことを指摘されているが、それはまさにその通りであろう」「……しかし、木工在世中には、百姓一揆などおきてはいない。とすれば、やはり政治の姿勢によるものだと言うことが出来る。根本にある仁政の思想が、そのような虚構を作り出したのだ。」『日暮硯紀行』(信濃毎日新聞社) ※参考:堤 清二解説訳『日暮硯』(三笠書房) |
失 明
「いら立つな腹を立てるな目の見えぬお前に何ができるというのだ」。 「風花雪月を詠じて楽しむ風雅な心は今の私には無い。また、いわゆる写生の歌にも興味はない。私はただ、このどうにもやり場のない切ない気持ちを、何等かの形で吐き出したいのである」。 目加田誠さんは十数年来、入退院を繰り返した末、いよいよ人の顔も見えなくなった。今年八十九歳。 ▼八月、曹源寺での日曜坐禅の直日が交替した。その一人はアメリカ女性正念さん、目が不自由。渡り廊下を歩いて、三段の階段をのぼり、本堂に入る。左手に曲がり三間ほど歩く。柱に触り、右に向きを変えて同じ距離だけ歩いたところで、もう一度柱を手にして仏壇の方に向き、一歩踏み出したところが彼女の坐る場所だった。若くして苛酷にも光を失い、米国で禅宗を知り、わざわざ単身来日、臨済宗のお寺で坐禅・作務・雑巾掛けなど修行に励んでいる。 ▼悩み→諦め→受容を通って修行している様子を見せていただくだけで、ただただ頭が下がる。同時に、この人がここにとどまり、仏道に精進している状況のなかに、老師をはじめ多くの同行(外国の人が沢山いる)の慈愛を想う。 ※関連:目加田誠 |
宮尾登美子『藏』
《物語》大正八年、冬の吹雪きの夜に烈は生まれた。父の意造は新潟県亀田の地主で、清酒『冬麗』の藏元二代目。妻・加穂は、八人の子を妊り、死産、早逝ですべて亡くしている。烈という、女の子に似わぬ猛々しいなには、この子だけは逞しく生き延びてほしいという両親の深い祈りが込められていた。病弱な加穂に代わって、烈の養育は、加穂の妹、独身のまま実家にとどまっていた佐穂に委ねられる。その親身の世話で烈はすくすく成長するが、小学校入学直前に烈の目に異変が発見される。夜盲症ーいずれ失明に至る、ふ治の眼病である。烈と家族の、哀しくとも美しい物語が、ここに始まる。 ▼「もともと、仕事に自分の全人生を賭ける人間を見るとすっかり魅了されてしまうたちで、これまでにも琴を弾くひと、絵を書くひと、芝居をするひと、香を焚く人、などにのめりこんで描いてきました」この小説では眼のふ自由な女性・烈を酒造りの世界に置いている。「みなさんもどうぞ、長く長く、烈のこと、佐穂のこと、意造のこと、お胸のうちでいとしんで下さいませね」。 著者あとがき。 「火鉢の燠(おき)の尉(じょう)となってはらりと落ちる、そんな音まで聞こえそうな」(文中の表現)など、言葉の美しさに私はいつも引かれている。 参考:燠は赤くおこった炭火。尉は炭火が燃え終わって白くなったもの。 補足:平成二十七年一月八日:「吉川栄治と宮尾登美子と広辞苑」を検索すると、以上の記事が掲載されていた。 平成五年十月一五日 一〇四号 宮尾登美子『藏』 ...... 作家宮尾登美子さんは、〈広辞苑の愛読者で、美しい言葉にであうと、ノートに書き込んでいます。それが ... 吉川英治氏は、十八、九歳のころ、横浜から上京、本所のある印刷工場の住み込み職工になった。 |
八月のある日、近くの小山に登り、ご来迎を拝んだ。茜色に染まる空の美しさと、まさに動く気配を秘めた静かさに引かれて十数回出掛けた。九月中旬から毎日、五時前に散歩することにした。コースは岡山市を流れる旭川の洪水を防ぐためにつくられた百間川までと臨済宗のお寺までの二つを選んだ。往復三十分。川の土手は東の眺望が開け、明星に先導された夜明けの観覧席である。曹源寺では、本堂でのお勤め、早朝坐禅をそっと見させて戴いている。
▼実行して、第一は、一日の中で最も疲れのとれた新鮮な状態で全く自分一人、黎明の大気に包まれて歩いているからか不思議に考えが前向きである。そこで、途中で当日の誓いを立てる。帰るとヨーガ・真向法などの体操をして、すっきりしたところでしばらくの時間を読書にあてる。第二は自然物と親しめる。道々の草花、虫の声、川辺の鳥、月のみちかけ、金星、流れ星、日の出前後の暁の様子、季節の移り変わりなど。第三は自然のリズムにそって朝食までに気分も体も爽やかになる。当たり前だが朝早いから寝るのも早くなる。
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私の推薦図書
勤務先の学校の図書館が、生徒が本に親しみをもっのを願って、百冊の推薦図書のリスト作成の企画を立てた。生徒に読んで欲しい本、実際に読んで感銘をうけた本を十冊程度選び、推薦の依頼をうけた。なるべく生徒が購入しやすく、読みやすい文庫本、新書版に収められているものを中心にした選定の希望であった。 ▼基督教独立学園校長・鈴木先生から「ベストセラー等読ませる必要はありません。十年たっても尚読まれる本はよい本です。五十年たっても読まれる本は尚よい本です。百年たっても読まれる本は尚よい本です」と教えられていた。
▼私の推薦図書
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加 齢
▼杜甫の詩「曲江」の一節 「人生七十 古来 稀なり」。勤務先の学校には、古稀、喜寿の方々が元気で教えられている。今世紀初め、四十五歳を下回っていた日本人の平均寿命は、八十歳と世界一になった。 ▼東京都老人総合研究所では、長命なだけでなく、だれでもが元気で、素敵に加齢する長寿社会を目指して、老年学の研究が続けられている。毎日新聞は、十一月の初めから毎週月曜日に、研究所のスタッフによる最新情報のリポートを掲載している。 ▼人間は加齢とともに直線的に老化すると考えられていた。研究の深まりにつれ、死の直前になって、直角型かあるいは終末低下型に老化する。言語性知能は、年齢を重ねても低下しないばかりか、むしろ向上している。高齢者の人格像は、頑固で自己中心的、短気で怒りっぽく、と良くない特徴が多かった。ところが、思考や理解力の柔軟さは低下せず、発達している。心理調査によると、人格は生涯発達を続ける。人間が長生きすれば、心身の衰えた期間は短くなり、健康な期間が長くなるのである。 ▼江戸時代の儒学者佐藤一斎の「少・壮・老の三学」の教えは多くの人を励ましてきたが、これらの研究は心がけ次第では素晴らしい生き方を示唆している。 |
加 齢
★英語関係 総括して不十分。 *英文書写……三年半継続中。千日目標達成。二千日を目標。 *BBC放送……四年半継続中。聞き取り能力不十分。少しだが進歩していると慰めている。 *『天声人語英文対照』が書写の材料。 ★毎日読書……THE GRAPS OF WRATH『怒りの葡萄』に挑戦中。宮尾登美子『藏』などなど。 ★健康法……ヨーガ継続、真向法追加。体重五十八キロ保持を目標。 ★日曜坐禅会参加……継続中。一滴禅(曹源寺老師の提唱…家庭での坐禅)……継続中。 ★師友会参加……月一回第三日曜日。『三国志』輪読中。 ★『自学自得』ハガキ通信…百号達成、継続中。 ▼今年はじめた項目 ★俳句……句作を続けたい。 ★早朝散歩……九月中旬より開始。 ▼今年も昨年と同じく計画倒れ、成果が上がらなかったものもあった。 ▼わが家の庭では実生の臘梅が足掛け七年目にして堅くて小さい花芽がついた。師走の寒気に耐えて静かに初花を咲かそうとしている。 |
January
英語の一月は古代ローマの神 Janus からきている。かわった神様で二つの顔をもっている。前と後ろを同時に見ることが出来る。終わりと初めをつかさどる。私どもも一月はちょうどこの神様のようなこぞことしの顔を持っている。 ▼毎年、新年を迎えた年頭に去年を振返りながら計画を立ててきた。昨年十月ころ、「今のままで過ぎると三年後も自分の状態はすこしも変わっていないだろう。ただ体力のおもむくところは確実に予想される。年末になれば、ああ、今年も過ぎたかと繰り返しているだろう」と。「これまでは、いろいろな制約のため出来なかったことが沢山あったではないか。今は比較出来ないほど束縛から開放されている。勤めているから完全な自由とはいえないまでも自分が何かをしょうと思えばいくらでも出来るではないか。行っていないのはお前自身ではないか。来年は果たせなかったことを実行してはどうだ>と。 ▼その中の一つは、三年の計画となる。ある程度の知力と体力、とりわけ気力が要求されそうだ。立ち上がれば工夫も自ずからわき、適応するものだと信じている。あの時、よくぞ始めた。本当によかったと一人で納得してる姿をむねの中におさめている。 |
読み初め
読み初に『言志四録』(岩波文庫)の中、佐藤一斎先生、六十七歳より、七十八歳まで十二年間に出来た「言志晩録」を特に選んだ。この書名は論語公冶長篇の「顔淵・季路侍。子曰。盍各言爾志」に由ると言わている。 ▼「顔淵・季路侍す。子曰く、盍ぞ各言爾(なんじ)の志を言はざる。子路曰く、願はくは車馬衣軽裘、朋友と共にし、之を敝(や)りて憾むこと無からん。顔淵曰く、願はくは善に伐ること無く、労を施すこと無からん。子路曰く、願はくは子の志を聞かん。子曰く、老者は之を安んぜしめ、朋友は之を信ぜしめ、少者は之を懐かしめん」顔淵と子路が孔子の左右に侍っていた。孔子が二人に向かって、どうだ銘々、なんじらの志を話し合って見ては、というと、子路が早速口を開いて、次に顔淵が答えた。こうして二人がそれぞれ志を述べ終った後、子路が、最後に先生の志を伺いたい、と申し出た。これに対して孔子が答えた ▼子路は孔子より九歳の年少であり、顔回は三十歳若かった。孔子が弟子を述懐して、徳行家としての五人の最初に顔淵を、政治家としての二人の一人に子路をあげている。その日の話題は人間関係だったのだろう。他の弟子はいなくて、三人だけの静かな時間が流れていた。 |
「厳而慈」の越川春樹先生から毎年、干支に託されての述懐の賀状を戴いていた。 平成五年は「今年の干支は癸酉(みずのと・とり)。癸は、基準、原則、筋道。酉は、仕込んだ酒が醸成すること。すべて物事は筋を通して継続的に努力すればよい結果が得られる(醸成)」だった。昨年五月逝去され、いただけなくなった。 ▼新年を過去・未来を通しての一年ととらえ、今年(甲戌)を来年(乙亥)及び再来年(丙子)と関連して干支の意義を調べた。甲戌(きのえ・いぬ)……甲は、万物が符甲(種子の表皮)を剖(さ)いて出ること。戌は、万物ことごとく滅する意味で戌というのである。乙亥(きのと・い)……乙は、万物の生じて枝を伸ばすこと。亥は、該で、陽気が下にかくれるから該(被いかくれる)というのである。丙子(ひのえ・ね)……丙は、陽道が著明な意味で丙という。子は、滋(じ)であって、滋は万物が地上にしげるのを言う。『史記ー律書第三』 ▼「万物ことごとく滅した中で種子が芽生え、下にかくれた陽気で枝を伸ばし、著明な陽道に育まれしげる変化の年?。平成六年はいままでの自分をすべてふりはらった新しい種蒔きの年にしたいものだ。 |
二月十四日はバレンタイデー。二月十日、デパートの食品売り場を歩いた。チョコ売り場では若い女の人で混雑していた。大小様々な商品が陳列されていたが、三~六個入りの小箱が売れているようだった。値段は五百円から千円。一粒百五十円~二百円。なぜ、贈物がチョコレートなのだろうか。 ▼果物売り場ではどこかの国からの見なれない輸入物、味はどうだろう。山形の温室さくらんぼ、鹿児島のびわに目がとまった。さくらんぼは三〇〇〇〇の値札が貼られていた。零の数を読み違えたのではないかと確かめた。びわは五〇〇〇。個数を数えると山形は六×八、鹿児島は四×四。暗算すると、一粒が六百円と一コ三百円。買う人がいるのだろうか。そのうち旬がやってくる。 ▼我が家の食料は近所のスーパや商店で、値段を比較しながら買っている。最近、バナナ一房百十五円一本十二円、鶏卵一ダース六十円一コ五円と聞かされ驚いた。有難いが採算がとれているのだろうか。 ▼普通の本は一体どの程度の値段か一頁の価格を計算した。単行本…六~十円、ペーパーバックス……三円、新書本……二円五十銭、文庫本……二円、辞書類……一円五十銭。高いものでも煙草一本にもならない。 |
一九九〇年七月、アメリカの野球場で大リーグの試合を観戦した。近くの座席の若い観客がビールを買うとき売り子から自動車のライセンス(年齢の証明)の提示を求められた。理由が分からなかったので案内の米国人に尋ねると、未成年者にはアルコール類は売ってはならないとのことだった。 ▼午後十一時をすぎた深夜に、はたして未成年者でも酒が買えるかどうか、そのとき売る側はどんな態度をとるか、暮らしの手帖では、あえてじっさいに買ってみることにした。買ったのは、●中学生●高校生●高校生●大学生の十四歳から十八歳。四人とも男性。もちろんそれぞれ暮らしの手帖編集部員が同行した。買ったコンビニエンスストアの店の数は八八店。東京都内二二区にまたがる。結果は、予想していた通りだった。いや予想していた以上に悪かった。八八店が八八店とも、しっかり買えたのである。四人とも「何歳ですか」とも「だれが飲むのですか」「あなたが飲むのですか」ともまったく聞かれないで堂々と酒が買えたのである。(暮らしの手帖今年二・三月号) ▼ストアの経営者は未成年者飲酒禁止法に触れていないのか。少年でも自由に買える酒の自動販売機(煙草も)はどうなんだろう。 |
フィリピン近海で救助された沖繩のマグロはえ縄漁船「第一保栄」は本村船長(52)とフィリピン人乗組員八人だった。船長は漂流の日々の詳細を語った。 ▼二月九日早朝、エンジンルームから浸水。SOSブイで救難信号を送る。夕方、全員救命ボートに乗り移る。十三日ごろ……食糧が尽きる。皆次第に元気がなくなる。二十一日ごろ…飲み水がなくなる。皆、海水をすすり始めた。二十五日……ボートの近くを泳いでみた。海水に浸ると不思議にからだが楽になる。水は暖かく、北ではなく南西方向へ流されていると確信する。二十七日……夜間、タンカーを遠くに発見。懐中電灯で信号を送ると、相手もライトで確かに反応した。しかしタンカーはそのまま行き過ぎる。三月一日ごろ…雨が降り、雨水をためて飲む。今度は食べ物のことばかり考え始める。三十六日…夕方、タンカーに遭遇。五十㍍ほどの距離まで接近、皆で大声を上げて助けを求めたが、無反応のまま通り過ぎた。三十七日……近くに三隻の漁船が見えた。必死に皆で声を上げると漁船が針路を変えて近付くのが分かった。「助かった」とようやく思った。(毎日新聞三月二十日抜粋) 遠洋漁業の労働事情、海難救助にたいうる船乗り魂などについて考えさせられた。 |
遠い遠い、むかしのことです。天竺の或る国では、七十歳を越す人を海に流す国がありました。その国に、ちょうど七十歳を越える母親を持つ大臣がおりました。親孝行な大臣には、親を遠い国へ流すなどできません。家の者にも気づかれぬよう、むろを掘って母親をそこに住まわせ、こっそり養っていました。何年か過ぎた或るとき、隣の国から牝馬二頭といっしょに、国王にあてた文書が届きました。「この二頭のうちのどちらが母馬か、すみやかに回答せよ。回答なくば七日以内に攻撃を開始する」というのです。隣の国は次ぎにあたりの国を平らげた強国でした。 (そうだ。母なら、そういうことを知っているかも知れない)大臣は急いで帰宅し、母親に相談しますと「ああ、それなら、私が若い頃に聞いたことがありますよ。 二頭の馬に草を置いたときに急いで草を食べるのは子馬。子馬の好きなようにさせて、ゆっくり食べる方が親だと」母はそくざに答えました。『花園』より ▼馬にしても母馬は子馬に好きなように食べさせて後、そのあとでゆっくり食べている。先の戦争中・後、食糧難が続いたとき、私の母も先ず子供に食べさせていた。当時の母親は幼児の食べ残したものも食べていた。 ▼現代でも、多くの難民の食事がふ足している国々の人たちの親子にはこんな状況をテレビを通してみられる。なんとかしたいものです。 平成二十三年八月十六日(お盆の日)追加した。 |
最近、繰り返し読んでいる本がいくらあるだろうかと思いつくままに書き出してみた。 ☆『正法眼蔵随聞記』『仏教読本』、高神覚昇『般若心経講義』 ☆『論語』『菜根譚』『言志四録』『日暮硯』『うひやまぶみ』 ☆森信三先生『一日一語』 ☆ヒルティ『幸福論』 ▼読みたいと思って買ったがそのまま積み上げたままになっているもの、一回だけ読んだもの。時々取り出しては目を通す、すなわち参考書のような使い方をしているものなど様々。こうしてみると蔵書は相当な量だが二回以上読んでいる本は数えるほどしかない。もう一度、本全体に目を通すと改めて読み直したいものがあるだろう。 ▼読んだ回数を記録に残したものに『正法眼蔵随聞記』(岩波文庫)がある。 一九八三年に一回読了、一九八七以来今年を含めて七回、毎年一回のペース。糊綴りの装丁だから一回補修したがまだ大丈夫。よみはじめたら読み通すようにしている。以前の書き込みも参考にし、さらに書き込みを加え、線を引きながら読んでいる。いまだに意味が分からないところがある。そんな本だから何度でもよむのだろうか。 |
NHK文化セミナー 原書で読む世界の名作 四月~九月ラジオ第二放送(木)「異郷に果てたアメリカの母」パール・S・バックが放送されている。 日本人講師が翻訳、外人女性の朗読。私は、逐語訳を聴きながらテキストの文章を追いかけ、時々書き込む。センテンス・グループで読まれる流暢な声に耳を傾け、再び左から右、上段から下段へと忙しく目を走らせる。参考……新潮文庫『母の肖像』 ▼英語ヒアリング上達法の一つとして高校英語の教科書の朗読をこころがけている。黙読が習慣になっていたから声をだして読み始めてもいつのまにか口が動かないことがある。自分の耳に十分に聞こえる大きさの声で読むと頭が働いているようだ。放送の朗読に比べるとまったくギコチナイものだが、リズムをこわさないために、分からない単語に出合っても、しるしをつけてどんどん読み進むようにしている。辞書を引くのは一区切りの読みが終わってから。次にもう一度繰り返して読むと一回目よりはるかに快調、気分も好い。内容もよく理解できて、また色々な発見もある。どんな本を読むか?未知の単語が一ページ平均して二~三語くらいを目安に、それより多ければ楽しく読めないようだ。 |
『天声人語英文対照』(原書房)Nov.24,1993 を読み、対訳に“we”が使用されていたので驚かされた。 ▼まず、おわびである。しばらく前にこの欄に「英国の詩人ウィリアム・ワーズワースは湖水地方に八年半ほど住んだ」と書いたが、これは誤りだった。申し訳ない。 First, a word of apology. We wrote in this column some time ago that British poem William Words-worth lived in the Lake District for eight and a half years. ▼読者が指摘して下さったことに感謝し、勤労感謝の日、あらためてワーズワースを読んでみた。 Grateful that a reader ha written to correct us,Weread some of Wordsworth´s poem again on Labor Thanks-giving Day. ▼日本文は、主語が示されていないが英文では“we”と書かれている。なぜ“I”でないのか。 ▼「weは“I”の代用;editorial “we” 新聞・論説の中で筆者(は、が)」と。『プログレシブ英和中辞典』 ▼新聞記事は、たとえ自社の記者が書いたとしても、発行新聞社が書いたものとして扱われて“I”が“we”になるのだろうか。また、署名入りの記事では“we”ではなくて“I”が使用されるのだろうか。 |
「一日示して云く、人の利鈊と云ふは志しの到らざる時のことなり。世間の人の馬より落る時、いまだに地におちつかざる間に種種の思ひ起る。身をも損じ命ちをも失するほどの大事出で(いで)来る時は、誰人も才学念慮を廻(めぐら)すなり。其(その)時は利根も鈍根も同じものを思ひ義を案ずるなり。然かあれば今夜死ぬべしと思ひ、あさましきことに逢ふたる思ひを作して、切にはげまし志をすゝむるに、悟りをえずと云ふことなきなり。中々世智弁聡なるよりも鈊根なるやうにて切なる志しを発(ほつ)する人、速に悟りを得るなり。如来在世の周梨槃特のごときは、一偈を読誦すること難かりしかど根性切なるによりて一夏(いちげ)に証を取りき只今ばかり我が命は存ずるなり。死なざる先に悟を得んと切に思ふて仏法を学せんに、一人(いちにん)も得ざるはあるべからざるなり。『正法眼蔵随聞記』(岩波文庫)P.63 ▼物覚えの悪い彼は、時々、自分の姓名さえ忘れることがあったので、ついにはな札を背中に貼っておいた。「三業に悪を造らず、諸々の有情を傷めず、正念に空を観ずれば、無益の苦しみは免るべし」という簡単な偈が暗誦できない。ある日のこと、祇園精舎の門前に立っていた。釈迦は、静かに足を運ばれ 「おまえはそこで何をしているのか」と訊ねられました。彼は答えまして、
「私はどうしてこんなに愚かな人間でございましょうか。私はもうとても仏弟子たることはできません」釈尊はいわれた。「愚者でありながら、自分の愚者たることを知らぬのが、ほんとうの愚者である。お前はチャンとおのれの愚者であることを知っている。だからおまえは真の愚者ではない」。
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勤めている学校で担当のクラスが、一年間、便所掃除することになった。小便所三つ、大便所一つ、鏡付きの手洗いのある小さなものである。全てタイル貼りで綺麗である。始めに便所の様子を観察した。掃除用具はバケツ、水道ホース、掃除用のブラシ、洗剤が用意されていたが、大便所の片隅に乱雑に置かれていた。前年度は二~三人の生徒が清掃していた。先ず用具類は便所から離れたところに格納することにした。それだけでもさっぱりとした。人数は一人だけにした。必ず自分で黙って行うことになる。一週間交替。数人の中からはジャンケンで選んた。三週間目からは「僕がします」と希望者があらわれようになった。汚れは洗剤を使い刷毛で洗い流して除き、鏡の曇りがないまでになっている。嫌な顔もしないで掃除している。いつも清潔であれば使う者も気をつけるのか汚れないようだ。 ▼「禅宗の修行寺では、東司といって便所の掃除は最も徳を積む場として重要な者がやる」と板橋興宗禅師は書かれている。禅寺・曹源寺での小便所では、箒の柄を下にして立て、雑巾はバケツの縁にていねいに広げて掛け、きちんと整頓されていた。ホンモノの掃除は箒の置き方にいたるまで心くばりされている。 ※参考:松野宗純『人生は雨の日の托鉢』(PHP)P.84~86 「東司掃除から学ぶ」 |
一 ことばの多き 一 口のはやき 一 とわずがたり 一 さしで口 一 手がら話 一 公事の話 一 公儀のさた 一 人のもの謂いきらぬ中に物言う 一 ことばのたがう 一 能く心得ぬ事を人に教うる 一 物言ひのきわどき 一 はなしの長き 一 こうしゃくの長き 一 ついでなき話 一 自まん話 一 いさかい話 一 物言いのはてしなき 一 へらず口 一 子供をたらす 一 たやすく約束する 一 ことごとしく物言う 一 いかつがましく物言う 一 ことわりのすぎたる 一 そのことを果たさぬ中にこの事言う 一 人のはなしのじゃまする 一 しめやかなる座にて心なく物言う 一 事々に人のあいさつを聞こうとする 一 酒にえいてことわりを言う 一 さきに居た人間にことわりを言う 一 親せつらしく物言う 一 人のことを聞きとらず挨拶する 一 悪しきと知りながら言い通す 一 物知り顔に言う 一 ひき事の多き 一 あの人に言いてよきことをこの人に言う 一 へつらう事 一 あなどる事 一 人のかくすことをあからさまに言う 一 顔をみつめて物言う 一 腹立てる時にことわりを言う ことわりを言うとは理屈を言うことです。 一 はやまり過ぎたる 一 己が氏素性の高きを人に語る 一 推し量りのことを真事になして言う 一 ことばとがめ 一 さしたることもなきことをこまごまと言う 一 見ること聞くことを一つ一つ言う 一 役人のよしあし 一 子供のこしゃくなる 一 わかいもののむだ話 一 首をねじて理くつを言う 一 ひき事のたがう 一 おしのつよき 一 いきもつきあわせず物言う 一 好んでから言葉をつかう 一 くちまね 一 都言葉などをおぼえしたり顔に言う 一 ねいりたる人をあわただしくおこす 一 説法の上手下手 一 よく物のこうしゃくをしたがる 一 老人のくどき 一 しかた話 一 こわいろ 一 口をすぼめて物言う 一 めずらしき話のかさなる 一 品に似合わぬ話 一 人のことわりを聞き取らず「しておのがことを言いとおす 一 田舎者の江戸言葉 一 よく知らぬことを憚なく言う 一 きき取り話 一 人におうて都合よく取りつくらうて言う 一 わざと無ぞうさに言う 一 貴人に対してあういたしまする 一 学者くさき話 一 風雅くさき話 一 さしてもなき事を論ずる 一 人のきりょうのあるなし 一 幸の重りたる時、物多くもらう時、有難き事を言う 一 くれて後人にその事を語る 一 おれがこうしたこうした 一 あいだのきれぬように物言う 一 説法者の弁をおぼえて或はそう致しました所でなげきかなしむ 一 さとりくさき話 一 茶人くさき話 一 くわの口きく 一 ふしもなき事にふしを立つる 一 あくびと共にねん仏 一 人に物くれぬ先に何々やろうと言う 一 あう致しました、こう致しました、ましたましたのあまり重なる 一 はなであしらう
森信三『終身 教授録』(竹井出版)「良寛戒語』による。八十九条の言葉である。
「言語はことにしずかにしてすくなくし、無用の事いふべからず。是尤気を養ふ良法也」貝原益軒『養生訓』(岩波文庫)P.56
「人生は一分を減省せば、便(すな)ち一分を超脱す。如(も)し交遊減ずれば便ち紛擾を免れ、言語減ずれば便ち愆尤寡(えんゆうすく)なしく、思慮減ずれば則ち精神耗せず、聡明減ずれば則ち混沌完(まつと)すべし。彼(か)の日に減ずるを求めずして日に増すを求むる者は、真に此の生を桎梏するかな」菜根譚後集132『菜根譚』(岩波文庫)P.362
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「今時の若者は、ものを粗末にする、言われたことしかしない、苦労しない」などと年配者は非難し、愚痴をこぼす。そんな者にした責任は大人にもあるのだろうが。またその当人も同じ様に言われていたに違いない。 ▼S(鈴木:海軍兵学校76期:東北大学医学部助教授)氏とY(吉田 満:『鎮魂戦艦大和』の著者)氏のあいだで、たまたま青年たちの話題が始まった。 S氏「明るさがなくて、行動力がないから、将来の展望は暗い」。 Y氏「自分らの青春時代に比較すると自由で積極的で、将来は安心である」。
二人の若者を観る眼は全く反対である。前者は職業柄、暗い人を毎日見ていた。後者は優秀な青年を見る機会が多かった。
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七月三十一日曹源寺日曜坐禅に参加。坐禅が終わりお抹茶の接待をいただきながら原田老師のお話しを伺った。四国・高松在住オーストラリヤの人がわざわざ朝八時からの坐禅会に参加されていたので時間給水、節水の話題に発展した。 ▼曹源寺は儀山禅師いらい一滴の水さえ大事にされている。老師は一年中夏も冬も一日二回、風呂代わりに薬罐一杯のお湯ですまされいる。その方法の一端を披露された。お湯を洗面器にうつすとちょうど一杯になる。熱湯だから両足裏で水面をパタパタさせる。足をつけられる温度になると徐々に深く沈める。足首の下を温めるだけでも風呂につかるのと同じ程度に全身が暖まる。体をお湯で洗い、最後に掛け湯にする。 ▼早速こころみた。電気湯沸かし器のお湯を洗面器に一杯いれた。温度は計らなかったが、足をつけるには熱すぎてどうにもならない。お湯で掌を濡らして、顔、首周りと順次全身をこすりながら洗った。そうこうしていると温度も下がり少々熱いが両足を浸し、しばらく外に出して冷やす。二~三回繰り返すと本当に体が暖まる。洗う順序、石鹸の使用、束子・柄杓などの小道具の活用などの工夫次第で一杯のお湯で十分。今年の冬、この方法を体験してみよう。 |
土用の干梅
今年の夏は三〇度を超える暑さが続いていた。 八月二日~四日、梅の土用干。我が家には梅の木が一本、樹齢約二十年。八重の淡桃色の花を咲かせ、毎年春の到来を知らせてくれている。昨年からは臘梅が梅の開花の前に彩を添えるようになった。数年来この一本から梅干を作っているが一年分には少し足りないので買い足している。梅酒を作る年もある。 ▼昨年は雨が多かったので干せななかった。今年は猛暑続きだから申し分ない。小学二年生の孫が夏休みの泊まり込みでやってきた。 ▼このとき、干梅を見せておこうと女房は考えた。ビンの中では、塩に漬けた梅がシソで色付いた梅酢のなかに沈んでいた。孫は小さな手で長い竹箸を器用に使って一つ一つ抓み上げて小ざるにならべた。庭のよく日の当る場所に椅子を持ち出して、その上においた。この間、ときおりトンボ、蝶々が飛び交い、蝉が鳴き、庭から部屋へ干梅の甘酸っぱい香りが風にひろがり漂い、二人の弾んだ会話。ときに正午前の室温は三十二度、干している場所は四十四度、じっとしているだけで汗が噴き出る記録的暑さ。 三世代つたえる梅の土用干。 ▼広島原爆投下八月六日も、終戦の八月十五日も、江田島は朝からカンカン照りだった。 |
小学校二年生の孫が夏休み二週間ほど親もとを離れて泊まりがけでやってきた。一学期終了時、[リットルとデシリットル、ミリリットル][メートルとミリメートル][時間と分]などの換算問題。足算と引算を同時計算する文章問題など。掛算はまだ。一時間は六十分、二時間は何分かの計算は六〇に六〇をたす。その過程で六+六は十二となって安心するのか十二と答えることがある。本当?と確かめると百二十という。三時間は百二十に六〇を加える。 ▼猛暑の今年は正午から夜中二時くらいまでルームエアコンを使用した。その間、凝縮水をバケツに集め、一リットル牛乳の空パックを使って何リットル溜まったかを量らせ、終わると綺麗な水だと話して風呂に入れさせた。リットル、デシリットル、ミリリットル、時間と分の実習。夏休みの作文として書き上げていた。 ▼凝縮水のコストは一体いくらくらいになるか試算。ルームエアコン使用電気量、電力代、凝縮量(一時間当たり平均〇・六リットル)から一リットルが約五十二円となる。 ▼比較として飲料の値段を調べると、一リットル当たり、水道水〇・〇八円、市販の水二百円~三百円、低脂肪牛乳百三十円、烏龍茶百六十五円。 *追記1:平成十七年二月二十八日、双子の孫たちは大学受験。四月より大学生。 *追記2:平成二十一年三月、岡大卒業、それぞれ就職。 |
流星群
八月十一日~十二日、カシオペア座あたりに流星群が見られるとテレビ報道。十一日夜、庭からしばらく北の空を見上げたが流れ星に出会わなかった。
▼十二日朝三時三〇分、岡山市を貫流する旭川の分流の百間川の河川敷に出かけた。徒歩十二分。三時四十二分からベンチに仰向けに寝ころんで本腰の観察開始。川面を渡る風が涼しい。目標の星座は南中より少し東寄りだがほぼ真上、真北に輝く北極星に向っている。オリオン座は東の空、仰角十五度。ときおり、星を隠す雲は適当な速さで動き、観測にさわりない。はたして放送通り星が流れるのだろうかと待つこと七~八分、最初の流れ星がカシオペア座に近い南側を光の尾を引いて西へ。その後、時間間隔はまちまちに西、南、北北西へと。速い、緩やか、長い、短い、火の球、痕と飛ぶ。四時二十六分までのわずか四十四分間に七個、正に予想された“はしりぼし”の出現。
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降水量ミリメートル
八月十三日、久し振りに雨が帰ってきた。台風のおこぼれ雨。お恵みの雨量の測定を思い立ち、庭の中央にバケツを置くこと三時間。 ▼降水量の表現は、ある期間中のミリメートルが使われている。バケツが完全な円筒で底が平らであれば溜まった雨の深さをミリ単位で測ればそれで済み。あいにく、円錐台の形状のうえ底には細い溝がついていた。そこで雨の重さを秤り、バケツ上部の直径から面積を求めた。〇・九㍉の雨量だった。カンカラぼしの土地全面に約一ミリの高さの水が吸い込まれた。 ▼普通、液体の量は体積リットル。しかしダムの貯水量は重量トンを使用。降水量は長さの単位ミリを使っている。頭では理解できてもなじめないものがある。 ▼普段、大雨でないかぎりどんどん地面から吸い取られてどれだけ降ったか見当さえつかない。勿論量的に言うことはできない。だけども雨の高さを一目みれば雨量を読み取れる。だからこんな単位が経験的にうまれたのだろうと自己流に紊得。 ▼この他に、台風時に耳にする気圧のヘクト・パスカルもピンとこない。ヘクト、パスカルは一体何に。圧力さらには力などに関係ある単位ニュートになると残念ながら実感がまったくともなわない。 |
秋のお彼岸にはなぜかおはぎをいただいている。手作りかあるいはお店やさんで買っている。 ▼おはぎといったり牡丹餅といっている。もち米とうるち米をまぜて炊き、すりつぶして小さくまるめ餡・黄粉・ごまなどをつけた餅。餡が餅の外にあるか内にあるかによるのだとかいろいろな説があるだろうが辞書では、はぎのもちと牡丹餅はどちらも同じ。 参考:春は牡丹餅、秋は萩の餅というのが正しいと申します。いや、こしあんで作ったのが牡丹餅、粒あんの粒粒を萩の花に見立てて萩の餅という、などの説もございます。 桑井いね著『おばあさんの知恵袋』から ▼八月十八日、HⅡ号2号機打ち上げ失敗、固体補助ロケット点火せず、宇宙開発事業団純国産ロケット中断。これは試験衛星Ⅵ型を静止衛星軌道に乗せるのを目的としている。「軍事に転用できるのではないですか?大陸間弾道ミサイルみたいに」。事業団の理事は、韓国人記者団の質問に驚いた。軍事技術に詳しいある日本人は「日本が平和目的といっても、世界は大陸間弾道ミサイルに転用しやすいロケットを開発したとみる」と指摘する。十日後の再打上げには成功したが「きく六号」は軌道修正失敗、巨大ごみと化したといわれる。 ▼国連安保常任理事国入り問題、PKO活動での日本の貢献方法が論議されている。世界の国連であるから加盟国に受入れられるもので、日本だけの論理では通用しない。おはぎと牡丹餅の違いの話題ではない。 |
よむ、とく、よむ
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岡山県師友会では、毎月、第三日曜日朝七時から一時間半、岡山県護国神社研修会館で、岡山大学・中国文学広常教授の指導のもとで『三国志』正史訓点本の輪読会を行っている。参加者は平均して三十名程度。担当者は交替。適当な区切りごとに訓読して、語釈、通訳する。質疑が行われる。あとで読み返すと分かったはずのものが読めなかったり理解していなかったりだった。 ▼今年九月、読みと解釈が終った後、全文の訓読をお願いした。先生は「よい提案です」とさっそく取り上げられた。提案したときは、二回も聞いてからの読みは間違わず、意味も正しくつかめるようになるだろうと単純に期待していた。ところが始まると、予期しなかった状態に気付いた。従来にまして先生は細かい点まで指摘され、担当者はできるかぎり基本に忠実に読み、納得できる解釈につとめた。二度目の訓読のとき「ゆっくりと読んで下さい」と先生が担当者に言われた。朗読される漢文を追って黙読するとすっと頭にはいった。念のために時間をおいてもう一度読みを確かめると大丈夫だった。 ▼「よむ、とく」では電車に乗りながら途中の駅で下車していたようだ。「よむ、とく、よむ」でたしかに終着駅に到着する。 |
だれでもやったかやっていると思うが私も例外でない。切り抜いたものを用紙あるいはカードにはりつけてファイルする、透明ファイルに分類して入れるなど試行錯誤の結果、日記帳(大学ノート)にはりつける方法におちついた。書き忘れてはならないのは出所、日付。ここまでは誰でも同じだろう。後日、見直すとなぜこんなものをと疑問におもうことが度々あった。そこで必ず切り抜きをはつた余白にコメントを記録するようにした。 ▼最終方法の利点 一……日記だからいつも手元にあり手軽にはれる。 二……年・月・日の順序に保存しているからなにかと便利。
三……毎日、日記を書いているから利用の機会が多い。以上はどうやら資料整理の原則を示唆しているようだ。
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ある日、毎日新聞朝刊二面のキーワード欄を読んだ。「(ある調査によると)現代のイギリスの若者の三分の二までが、道徳不毛地帯に住んでいることが分かった。そこでは、善と悪との一線がひどくぼやけてしまっている。調査対象となった若者グループのほとんどが、モーゼの『十戒』のうちの三つ以上はいえなかった」。 ▼モーゼの十戒の半分は神への戒律となっている 一 唯一神の礼拝 二 偶像の禁止 三 神みょう乱称の禁止 四 安息日の厳守 五 父母への尊敬 六 不殺生 七 姦淫の禁止 八 盗みの禁止 九、偽証の禁止
十、物質欲の禁止
一 不殺生 二 不偸盗 三 不邪淫 四 不妄言 五 不綺語 六 不両舌 七 不悪口 八 不貪欲 九 不瞋恚
十 不邪見
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椅子に腰掛けて脚をブラリと下げさせて膝頭を金属棒で叩く。脚がピックと動けば脚気でない。こんな診断法が使われていた。この病気は辞書の中の過去の言葉になっている。 ▼吉村 昭『白い航跡』を読んだ。明治初年、海軍・陸軍軍人の病死の最大原因は脚気であった。その予防法を確立し、東京慈恵医科大学を創立した宮崎出身・高木兼寛は薩摩藩軍医として戊辰戦争で見聞した西洋医学に驚き、海軍に入ってからイギリスに留学し、近代医学を修め、帰国する。海軍軍医総監となった。脚気の原因説をめぐり、陸軍軍医部と対決する。実証主義に徹するイギリス医学の教育を受けた彼の提唱する白米食説と学理を重視するドイツ医学を信奉する細菌説の対決であった。この対決は日清・日露戦争を経て、高木の死後初めて決着した。南極大陸に、高木の岬となづけられた岬がある。 ▼昭和十九年、海軍兵学校の朝食はパンと味噌汁だった。パンは山がたの半斤、味噌汁はアルミニュームの食器一杯。昼飯と夜食は麦飯。パンは指先で一口の適当量をちぎって食べるようにと指導されたものだ。高橋孟『海軍めしたき物語』によると軍艦での主食も麦飯。高木の予防法は昭和の海軍全般にも生きていた。P.115《飯の炊き方》に<…あらかじめザルに洗っおいた米麦をいれ…>と書かれている。また<海軍の味噌汁はうまい、特に海兵団の味噌汁がうまい、と、当時は評判であった。> Link:吉村 昭『白い航跡』 |
董遇は、性格は素朴で口数が少なく学問好きだった。後漢末、自生の稲を採取したり行商をしたりして生活したがいつも経書をたずさえ、閑をみつけては勉強した。彼の兄はそれを笑ったが董遇は態度を変えなかった。その後、推挙されて、次第に昇進して黄門侍郎(侍従)になり、献帝の勉強相手をした。三国時代の魏になってからは明帝の時代、中央に入って侍中(天子の顧問)・大司農(大蔵大臣)となったが、数年して病没した。それより以前、董遇は『老子』をよく勉強しており『老子』の注釈を作った。また『左氏伝』に詳しく、あらためて『朱墨別異』を書いた。
▼彼のもとで学ぶ者には、董遇は無理に教えずに、「書物は必ずまず百遍読むべきだ」といい、「読書百遍義自ら見わる」といった。彼のもとで学ぶ者が「ひどい生活で閑がありません」というと、董遇は「三余をつかうべきだ」といった。ある人が三余の意味を聞くと、董遇はいった、「冬は歳の余り、夜は日の余り、陰雨は時の余りである。」このことから董遇のもとで学ぶ学生は少なく、その朱墨を伝えるものはなかった。『三国志』の魏書より。
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「満はそんを招き、謙は益を受く」儒者森田節斎の商人のための金言「謙受説」の一節である。大原孝四郎が倉敷紡績を創設(明治二十一年・一八八八年)した時、これを社是とし、社標としてその精神を表す二三のマークを定めた。現在も倉紡、クラレにおいて使用されている。『大原孫三郎伝』
▼資生堂の創業者福原有信は幕府の医学教育機関である医学所でまなび、薬学に興味をもった。明治三年新設された海軍病院に入り、薬学掛に任ぜられた。明治五年辞めて、薬種商が軒をならべる東京の本町一丁目に西洋薬舗会社資生堂を興した。資生堂の屋号は、中国の古典『易経』の一節「至哉坤元、万物資生」から資生の部分を引用した。至れるかな坤元(坤とは地である)、万物は資りて生ず。(毎日新聞ブランド物語より)
▼創業と守成のいずれが難きの故事を思った。
私は多分、大原美術館を知らない人はいないと思います。山形県のある先生が生徒を連れて美術館を見学したと。また長野県の知人は機会があれば観に行きたいものだと。このように知られている美術館は大原孫三郎が昭和五年、自邸の向かいに私費をもって設立した。そのギリシャ神殿風の偉観により、倉敷を訪れる人の眼をみはらせたが、泰西美術に関心の浅かった当時は、平日における観覧者は寥々たるもので、一名の入館者もいない日すらあった。孫三郎も自分の手がけた仕事の中で、これがいちばんの失敗作だったと述懐したこともあるという。 ▼本間家についてはその家名については新潟県を訪れた時に知らされていた。 平成24年12月に読みました本で江戸時代の豪農、豪商で、かって日本一の大地主と称(い)われた羽後酒田(山県県酒田市)の本間家の当主たちが代々守りつづけてきた「十成を忌む」冨の充溢(じゅういつ)、充満を避けるための訓(おしえ)は、大原家の「謙受説」と同じものをかんじました。 平成二十四年十二月十三日 |
米航空宇宙局の研究チームがハップル宇宙望遠鏡を使った観測データから宇宙年齢を一二〇~八〇億年だと推定した。また、宇宙膨脹の大きさは一二〇~八〇億光年であると。 ▼この望遠鏡は一九九〇年四月スペースシャトルを使って打ち上げに成功したアメリカの空飛ぶ天文台のものである。土星の姿をとらえたり大きな成果をあげている。 ▼現在、正確に測定できる距離は、最も遠い銀河の一つであるおとめ座の星までの五千六百万光年である。その銀河の後退速度が光の速度になる距離を宇宙の水平線と呼び、その距離約一二〇~八〇億光年より遠くを見ることはできない。これが宇宙の大きさになる。 ▼このニュースは私には驚きであった。宇宙は太古の昔より存在する、測定することができないひろがりの空間と思っていたからである。天文学的には宇宙はすべての天体(物質)や放射(電磁波)を含んだ空間をさし、天文学者は観測により宇宙のひろがりを推定している。地球の生成は四十五億年だといわれているからには宇宙の年齢があっても上思議ではない気もする。 ▼宇宙百億年、地球四十五億年、原人百万年、西暦二千年、昨年一年そして未来へと。日本から世界へ、宇宙へと新年の思いを膨らませた。 |
餅の味
餅は私の好物の一つである。子供のころ、餅を食べるのはお正月か祝いごとにかぎられていた。正月の三が日は雑煮でお祝い、旧正月にかけては餅が間食であった。当時の暖房は火鉢であった。灰に埋められた火を掘り出して炭をつぎたして餅網をかけ、餅をのせて、両手をかざして暖をとりながら焼いた。弟や妹と焼き具合を見詰めているとやがて狐色にこげてきて、プーと膨れ上がり、プスッと蒸気を噴き出して萎む。手でつまみあげると熱くて、左右の手にわたして、息をふきかけてひやす。砂糖で甘くした醤油をつけて食べた。腹も体も暖かくなり和やかな時間がすぎた。私にはもう一つ忘れられないものにウイロウがある。その味と歯応えにいまだ出合えない。 ▼株式会社クラレの元社長大原総一郎氏はたいこ饅頭が好きで、故郷の倉敷に帰られると、時々買われたそうである。焼きたての饅頭はくるくると古新聞に包んでくれていた。暖められている新聞の温かさにふれ、おし潰さないようにそっと抓み上げられただろと想像する。 ▼砂糖醤油をつけて焼き餅を食べるとき、どんなめい料理人もできない思い出の味を付け加えていまでも私の好物にしている。おふくろの味もこんな味だろう。 |
大地震
また、同じころかとよ、おびたゝしく大地震ふること侍りき。そのさま、よのつねならず。山はくづれて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水涌き出で、巌割れて谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波にたゞよひ、道行く馬はあしの立ちどをまどはす。都のほとりには、在々所々、堂舎塔廟、一として全からず。或はくづれ、或はたふれぬ。塵灰たちのぼりて、盛りなる雲の如し。地の動き、家のやぶるゝ音、雷にことならず。家の内にをれば、忽にひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、只地震なりけりとこそ覚え侍りしか。(中略)すべて世中のありにくゝ、我が身と栖との、はかなく、あだなるさま、またかくのごとし。いはむや、所により、身の程にしたがひつゝ、心をなやます事は、あげてふ可計。『方丈記』 ▼この地震は『理科年表』(平成7年 1995 第68冊)によると、1185 8 13(文治 1 7 9)、(M 7.4) 近江・山城・大和:京都、特に白河の被害が大きかった。社寺・家屋の倒潰破壊多く死多数。宇治橋落ち、死1.9月まで余震多く、特に8月12日の強い余震では多少の被害があった。 |
香厳和尚
我れ汝がために言わんことを辞せず恐らくは後に、汝、我れを恨みん。香厳は師匠百丈が亡くなったので、兄弟子の大潙の弟子となった。大潙が言った、「君の聡明さは、有名である。しかし、私は、お前が書き物から学んだものについてはたずねない。君の両親もまだ生まれなかった前、父母未生以前に当たって、私に何か一句を言ってみよ」。 香厳はこれに何度か答えようとしたが、何も言えなかった。これまで学んできたノートを引っくり返して調べたが、答えは出てこない。そこで大切にしてきた書物やノートを火で焼いて、「絵にかいた餅では腹はふくれない。もうこの世で悟りを開くことを望まない。ただ修行者の食事の世話をしよう」と。そこまで反省した香厳は、 「私は心が暗くて、どうしても『父母未生以前の一句』が言えません。私のためにお教えください」。 仰山は答えた、「君に教えてやることを惜しみはしないが、今私が教えたら、君はいつかきっと私をうらむだろう」。 ▼その後、香厳は悟を得た。「大潙老師が、あのとき私のために説いてくださったら、今のこの喜びはなかったろう。師の恩の深いことは父・母の恩より勝っている」。『正法眼蔵第二十五 渓声山色』。 |
この人は五十歳代の男性。三月五日、初めて参加しましたのでよろしくお願いしますと挨拶されていた。次週も坐禅をされていた。 ▼坐禅が終わり、ストーブで暖められている小方丈でお抹茶の接待。床の間には墨蹟でなくて雛人形の墨絵が掛けられ、花瓶にいけられている万作と藪椿が春めいていた。和やかな笑顔のたえない老師と参加者二、三十人が席につき、お茶とお菓子をいただく。心をしずめ、和まさせられる。 ▼世間話があちこちで交わされ、彼が話し始めた。ある日、煙草を吸っていたところ突然ぐらぐらと卒倒。気付いてから五本の指を折り曲げると動く、両足をそっと動かすとこれも動いた。ものを言おうとしたが口がきけなくなっていた。 ▼曹源寺の坐禅会をある人から聞いて参加させていただいています。倒れるまでは仏について少しも考えたことがありませんでした。周りのすべてが自分を中心に回っていると思い、振舞ってきました。いま、思いますには、いままでは地獄でしたと。この寒い季節、禅寺の坐禅に彼をかりたてているものは一体何なんだろう…。 ▼「五感に入ってくるすべての寺のたたずまいが仏の教えを説いたものであり、これを味わってもらう」と老師は云われている。 |
昨年十月、インドの修行者が「ブッダガヤを仏教徒の手に」署名運動をしていた。 聖地ブッダガヤは、お釈迦さんが悟りをひらかれた、世界の仏教徒にとって最も大事な仏跡です。しかしこの聖地は実質的に非仏教徒によって管理され、インドの仏教徒がここで祈り、学ぶことを許されていません。このことは多くの日本からの巡拝者にも知られていません。インドはカースト身分制の国です。人口の十%が被差別民として平等の権利が保証されていません。インドの歴史始まって以来初めての法務大臣となった被差別民出身のアンベードカル博士は、差別禁止のインド憲法をつくりました。また博士は一九五六年カーストを認めるヒンズー教から仏教への改宗によって、差別からの解放を呼びかけました。二十六年前インドに渡った佐々井秀嶺上人は、インド仏教活動の指導的役割を果たしていますが「仏教徒の手にブッダガヤを?と呼びかけ、全仏教徒による大行動をおこしています。一九九二年には六十万人の仏教徒がボンベイからブッダガヤへの大行進を行い、その後も運動は力強く進んでいます。(署名運動の説明書) ▼博士、佐々井秀嶺上人についての詳細は『夜明けへの道』(金の星社)、『破天』(南風社)
ビ―ムラ―オ・アン―ドカル(1891年4月14日-1956年12月6日 ) インド中部のマディヤ・プラデ―シュ州のマウ―出身。ヒンドゥ―社会のカ一スト制度の最下層、アンタッチャブルあるいはダリットとして知られる層に属する両親のもと14人兄弟の末っ子として生まれた。彼はカースト制度による身分差別の因習を打破するため、死の2か月前に約50万人の人々と共に仏教に集団改宗し、インドにおける仏教復興運動を始めたことで知られている。ナ―グプルの集団改宗の場所はディ―クシャ―ブ―ミと呼ばれ多くの巡礼者が訪れており、アンベ―ドカルは「バ―バ―・サ―ヒブ」即ち「師父」(baba は父、saheb は敬称)と支持者たちに崇敬されている。 1952年6月15日にコロンビア大学より、1953年1月12日にオスマニア大学より名誉法学博士(LL.D.)を授与されている。 アンベ―ドカルの父はマハ―ラ―シュトラ州のラトナ―ギリ―地区出身で、ある程度の正規の教育をマラ―ティ―語と英語の両方によって身につけていた。父は息子に勉強を教え、知識の獲得へと向けて励ました。1908年にアンベ―ドカルは大学入学資格試験に合格。これは、彼の所属していたコミュニティでは、不可触民としては初めてのことだった。4年後、ボンベイ大学のエルフィンスト―ン・カレッジを、政治学と経済学の学士号(B.A.)を取得して卒業。ヴァド―ダラ―藩王国から、留学終了後の10年間藩王国のために働く条件で奨学金を受けた。ヴァドーダラ―藩王サヤ―ジ―・ラ―オ・ガ―イクワ―ド3世は不可触民制の問題に深い関心を持つ開明君主として知られていた。 1913年から1916年の間、ニュ―ヨ―クのコロンビア大学で学ぶ。コロンビア大学での3年で、経済学、社会学、歴史学、哲学、人類学、政治学を研究。1915年に経済学の修士号(M.A.)を取得。1916年に論文「英領インドにおける地方財政の進展」によって博士号を取得。アメリカでの勉学を終えると、1916年6月にニュ―ヨ―クからロンドンへと移り、ロンドン・スク―ル・オブ・エコノミクス(LSE)とグレイ法曹院への入学を許可された。1年後に奨学金の期間が終了した。 ヴァド―ダラ―藩王国に仕えたものの、差別にたまりかねて辞職しボンベイに戻った。その後、コ―ルハ―プル藩王シュリ―・シャ―フ―の知遇を得て、1920年にボンベイのシドナム・カレッジで教え、マラ―ティ―語の隔週刊の新聞『ム―ク・ナ―ヤク』(『声なきものたちの指導者』)を発刊。ロンドンに戻って勉学を続けられるようになった。次の三年間の課程では学位請求論文「ルピ―の問題」でロンドン大学から科学博士(D.Sc)を取得。並行して、弁護士資格のための勉強を行い、英国の上級法廷弁護士資格を取得した。イングランドでの生活を完全に終える前に、アンベ―ドカルはドイツで3か月を過ごし、ボン大学で経済学をさらに深く学んだ。 インドに戻ると、ボンベイに落ち着き、活発な活動を開始。1923年7月には上級法廷弁護士として開業し、大学で教え、様々な公的組織に対して不可触民について証言し、新聞を発行、ボンベイ州立法参事会のメンバ―に任命され指導的な役割を担うようになった。 またロンドンで開かれた、3次にわたるインドの様々な共同体の代表と英国の三つの政党がインドの将来の憲法の草案を検討するための英印円卓会議に出席した。 インド帰国直後の時期、被抑圧者救済会(バヒシュクリット・ヒタカ―リニ―・サバ―)の組織を手助けし、その理事長に就任。この組織の目的は不可触民と低いカ―ストの人々への教育の普及と雇用の促進(「留保措置」など)、その経済的状況の改善、そして彼らの不満に声を与えることだった。 不可触民制度との戦い 1927年から1932年の間、支持者とともにヒンドゥ―寺院への立ち入り、公共の貯水池や井戸の利用についての不可触民の権利の確認を求めた非暴力運動を推進。この二つの運動は特別な重要性を持っていた。運動は、ナ―シクのカ―ラ―ラ―ム寺院からと、マハ―ド市のチャウダ―ル貯水池からの不可触民の排除に反対するものだった。 二つの運動にはどちらも数万人の上可触民のサティヤ―グラヒ―(つまり非暴力抵抗者たち)が参加した。上位カ―ストのカ―ストヒンドゥ―たちは暴力的な反応を示した。チャウダール貯水池の運動は、数年にわたる訴訟を経て、下層カ―ストの活動家たちの法的な勝利のうちに終了した。なお、ヒンドゥ―教の古来の聖典『マヌ法典』が不可触民への過酷な扱いへの大きな根拠になっていると考えていたアンベ―ドカルは、チャウダ―ル貯水池の運動の際にその場で『マヌ法典』を焼却するという挙に出ている。 政治的経歴 1935年からボンベイのロ―スク―ルに籍を置き、その傍らインド独立労働党(英語版)を結成。1937年に英国統治下の「国民議会」議員として政界入り。カ―スト制度に対し批判的ではありながらも、同じくカ―スト制度に批判的なマハ―トマ―・ガ―ンディ―に対しても更には全インド・ムスリム連盟に代表されるイスラム教の風習に対しても批判的立場を採った。 政治家としては総督府の防衛諮問委員や労働相を歴任している。 インド憲法の父 1947年8月15日にインドが独立を果たすと法相になると共に、憲法起草委員の一人としてインド憲法の制定に関わる。彼の草案には信教の自由や封建遺制の禁止などが明記されると共に、被差別カ―ストに対するアファ―マティブアクションも規定されていた。しかしジャム・カシミ―ル州への特別な地位を与える条項に対しては反対を表明し、結局彼の草案の多くを採用することによって1949年11月26日に憲法は採択された。また経済政策に於いては農業面での投資を重視し、被差別カ―ストにまで負担することになる所得税中心ではなく固定資産税と物品税中心の税制にすべきと主張。インド・ルピーの貨幣制度整備のみならず労使関係の近代化、更には避妊や家族計画など女性の地位向上にも努めた。 しかし政治的には振るわず1952年に国政の議席を失うと、大統領任命の終身上院議員として政治に関わることになった。 仏教へ改宗 ナ―グプ―ルにあるディ―クシャ―ブ―ミ(改宗広場)のストゥ―パ 1950年、アンベ―ドカルは世界仏教徒連盟の創立総会に赴くためにセイロンを訪問、これを切っ掛けとして以前から興味を持っていた仏教への関心を深める。ビルマにも2度訪問し、1954年にインド仏教徒協会を創設した。だがこの頃から以前から患っていた糖尿病が悪化し、1956年12月に死去する2ヶ月前の10月14日に三宝・五戒を授けられることで正式に仏教徒となる。これに続いて50万人もの不可触民(ダリット)も仏教へ改宗し、新仏教運動への切っ掛けとなった。 2016.09.03追加 |
『論語物語』(講談社学術文庫)下村湖人を読む
泰山に立ちて 子いわく、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)七十にして心の欲する所に従えども矩(のり)を踰えずと。――為政篇――P.267~ 孔子は泰山の頂(いただき)に立つて、ふり注ぐ光の中に、黙然(もくねん)として遠くを見つめている。彼を取りまいている門人たちも、石のように無言である。(中略) 孔子は、ひとわたりみんなを見回してから、ゆっくりと口をきった。
「今日は、わしの一生の物語をしてみたい。――物語といっても、ふつうの物語とはちがって、いわば心の物語じゃ。つまり、わしの心が泰山の心としっくり触れ合うまでに、どんな坂を登って来たか、それをみんなに話してみたいのじゃ」と。
子、川の上(ほとり)に在りていわく、逝く者はかくの如きかな。昼夜を舎(お)かずと。――子罕篇――P.263~ 偉大な沈黙を守って、夕陽はそろそろと草原の果てに沈み始めた。水の流れはゆるやかに、純(に)びた紅を底深く溶かしこんで、刻一刻と遠い狭霧の中に巻き収められていく。
孔子は、今日もただ一人童子を供につれて、広々とした河原にたたずんでいる。夕暮れの天地の中に、その姿は寒々として厳かである。(以下略)
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『あばれ天竜を恵みの流れに』は児童用の本でした金原明善さんを初めて知ったものでした。
天竜川の洪水によって多くの命や財産を奪われる悲惨な状況を何度も体験した金原明善は、やがて自己財産をなげうってまで植林と堤防工事をすすめるようになり、その熱意は政府までも動かしていく。明善は考えた。山に木を植えることは、川の水を治めることにきってもきりはなすことができないと。明善の植林は治水のためであるから瀬尻だけにはとどまらない。もっと広く木を植えようと、自分でも山林を買取り植林をはじめた。それは自分のものにしなくて、のちの金原治山治水財団のものにした。現在では静岡県磐田郡、愛知県北設楽郡、滋賀県甲賀郡に、合わせて一三三〇町歩の広さにおよび、金原林とか金原模範林とよばれ、大きく治水に貢献している。
追加:小島直記『逆境を愛する男たち』P.61~よると
浜松市に「金原明善(きんばらめいぜん)記念館」がある。彼は天竜川改修工事、山林経営、金原銀行の創設、井筒屋の商号による各種化粧品の販売、免囚保護事業、養蚕・牧畜の奨励など、多彩な活躍をして九十一年の生涯を閉じた人。
23年8月18日(木)、天竜川で川下り船転覆=2人死亡、男児ら3人上明―23人乗り、岩に衝突かのニュース報道によって、私の以上の記録を読み直し追加した。 平成二十年三月十四日初稿、平成二十三年八月十八日追加。 |
株式会社クラレ広報部が、全国の小学校一年生の父母一万人を対象に「将来子供に就いてほしい職業」についての調査結果を同社の社内報に纏めている。(クラレタイムス五月号) ▼男の子のベスト三は「公務員」「プロスポーツ選手」「医者」で、この三年間順位は不動。トップの「公務員」は、五人に一人以上の親が望んでいる。また、二位の「プロスポーツ選手」は、昨年はJリーグの影響でサッカー選手に圧倒的人気があったが、今年はイチロー人気や億円プレイヤーの続出など話題の多かったプロ野球選手も盛り返す傾向があった。三位の「医者」は十人に一人となっている。 ▼女子のベスト三は「教師」「看護婦」「保母」で、毎年この三つが首位を争っている。今年のトップは「教師」で、昨年より約三ポイント比率をあげて十六・三パーセントとなっている。このほか「スチュワーデス」が昨年の四位から七位に後退しているのがめだっている。 ▼中学一年生の子供をもつ親は、高校一年生の親ではどうだろうか。またそれぞれの学齢の子供たちの希望する職業は。子供たち成長するにつれて現実的になるが大人である親の望みは子供より大きいのではなかろうか。 追記:参考
第一生命の「大人になったら」調査
男子の2位は前年1位の「サッカー選手」(10.7%)で、3位には「学者・博士」(5.4%)が前年の7位から浮上。昨年初めてベストテン圏外になった「警察官・刑事」(2.1%)が7位に復活した一方、前年同率7位の「学校の先生」は23位と大幅にダウンした。
女子は「食べ物屋さ」(14.8%)が8年連続でトップだった。女子の2~4位は前年と同様、「保育園・幼稚園の先生」(9.6%)、「看護婦さん」(7.4%)、「学校の先生」(5.0%)の順。
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絶対的評価は不可能に近い。そこで研究能力を図る指標として、どれだけレベルの高い雑誌にどれだけ論文を書いたかが数値化、使用されている。高い評価の雑誌には、科学者がきそって投稿されてくる。こうした雑誌は読者層もひろく、掲載されれば論文も著者も格があがるからである。 ▼雑誌のレベルを維持するのが編集委員と、編集長が委嘱するレヘェリーである。レヘェリーは研究そのものの重要性と雑誌のレベルを天秤にかけて審査する。編集長はレヘェリーのコメントと審査結果を参考に最終的な判断を下し、著者に連絡するシステムである。 ▼英科学誌「ネイチャー」米科学誌「サイエンス」はあらゆる分野をあつかうので、どの分野からも均等な高い評価を得ている。「ネイチャー」は一八六九年に英国で創刊された週刊の科学論文誌。現在、世界中の科学者五万人以上が、毎週、目をとうしている。日本では六千四百部。論文投稿は年間六千、七千編あり、掲載率は十%。日本からは年間六百編が投稿され週一、二編が掲載される。 ▼昨年六月「ネイチャー」と「サイエンス」に筑波大学が「研究改革のリーダー七人の教授を募集」の全面広告を出して話題となり、世界から多数の応募があった。 |
曹源禅寺の本堂と小方丈の通路の壁に板木が吊り下げられている。横八十五㌢、縦四十㌢厚さ七㌢。中央部、直径十五㌢の部分が叩かれて、窪み、ささくれだっている。毎日曜日の坐禅会は二人の修行者が当番。八時前、木槌で板木を打ち鳴らして始まりを告げる。はじめは緩やかに、おわりは速いテンポ、三回同じリズムで約二分三十秒間。打ち終わるまでに、遅くとも、参加者は座につく。 ▼生死事大、無常迅速、光陰可惜、謹勿放逸の句が、叩かれる部分の左右に二句ずつ縦書きされている。これらの言葉は『正法眼蔵随聞記』にも見られる。修行者の覚悟の墨書だと想像していた。ところが、生死事大、無常迅速は次のように使われていた。『百丈清規によれば、修行者は師僧の前に立って質問するときは、まず焼香礼拝して「生死事大、無常迅速、伏して望むらくは、和尚、慈悲方便もて開示したまえ」というのが、禅門のきまりであったという』。(秋月龍氏の本) ▼坐禅が終わり、老師の法話のとき、参加者は趺坐のまま、老師の方に顔をむけ、お話に頷いたり、話題に引かれて笑顔を浮かべたりリラックス。当番の彼等は身じろぎしない。清規のこころがまえで聞いているように私には思える。 |
八月初、快晴の朝、七時には、わが家の庭でも、蝉が喧しく鳴いていた。柚子の木、南天の木にぬけ殻を残していた。集めると二十数こもあった。背中の部分を縦に断ち割っている以外は目、六本の足、触角、小さな羽など、そのままレプリカを残していた。木の根元のあちこちに蝉の大きさの丸い穴また穴。失敗したのか蝉が落ちていた。 ▼幹、小枝、葉に足でしがみついている。足は、つかまっていた形をとどめていた。小枝、葉に止まっているものは、必ず背中を下にぶら下がり、幹のものは少しでも背中が下向きになるような所に止まっていた。脱皮するとき、落下するおそれもあるが重力を利用してぬけ出ようとしたに違いないと私には思えた。 ▼宇宙から帰った向井千秋さんは、地球に下り立つ直後に「ひらひらした紙を手にしても重さを感じます」と語っていた。また、重さの感じが「三日ほどで分からなくなり、さみしさも感じています」と言っていた。 ▼私どもは、日頃、重力を直接感じることはほとんどない。蝉は飛び立つために、地上にはいでたばかりで、ある高さまで木をよじのぼり、だれの力もかりずに脱皮しなければならない。まさにその時、自然の力を利用しているのは不思議としか思えない |
小学校三年生の孫が、夏休みにやってきた。一週間ほどあずかった。夏休みの課題、教科書などを持ってきていた。ある朝、ますめ入りのノートに、漢字を書いたり、算数の掛け算の練習をしていた。 「なにをしているの」と、聞いた。「じがくをしている」と、いう。
「学校に行っているときはどうしているの」。「学校に持っていっている」。
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こだま[木霊]
富士山を北方に仰ぐ裾、御殿場(富士社会教育センター)での実践人夏季研修会(平成七年八月十九日~二十一日)に参加した。八月二〇日の朝、ボカシ絵のような富士を見ることができた。この時季、見えるのは珍しいそうだ。会場の職員の指導で全員が軽い体操を行ったあと、自然観察:双眼鏡野鳥観察・虫眼鏡地表観察・聴診器樹の聴音をおこなった。参加者は思い思いの観察に散らばった。 ▼樹のなかを通る液体が流れる音の話はきいていたが、一度も耳にしていなかった。数人の人と同行した。呼吸音、心臓の鼓動を確かめたりしたあと、まず、二人が、樹の音が聞こえるという。私は、耳が遠く、耳鳴りがしているので、聞き取れるかなと思いながら、径約三十センチ、高さ約二十メーターの杉に聴診器を当てた。かすかに聞こえているようだ、だが、耳鳴りかも知れない。木から離すと、どんな音もきこえない。二、三度繰り返しても同じだったので、木の音だと納得、神経を集中。新幹線が静かにトンネルの中を走っているときの変動の少ない連続音の感じだった。 ▼目に見えない地下の毛根、細根、主根を通して、いのちの水を高く、こずえまでおしあげている。ひとときも、何年も休まず。樹木に宿る精霊と考えられた木霊の音を聴いている思いがした。 参考:こだま[木霊]は『広辞苑』にも記載されています。 平成二十三年六月十五日再読。 |
タンポポの根……一……
「タンポポの根を輪切りにして茎や葉が出て大きくなるかためしてみよう」。小学校三年生の孫の夏休みの課題の一つであった。 ▼道ばたや野原に自生するタンポポは、キク科の多年草植物である。まず、根を掘り起こして観察することにした。根元に十分水をやって、土を軟らかくして、直径十センチくらい、ごっそりと堀り取った。バケツに水をはって、その中に土の付いたタンポポを入れ、土や雑草を取り除き、スケッチした。 ▼主根の一番太い部分は十ミリもあった。上部から二十ミリのところから、くびれて細くなり、さらに七十ミリくらいの長さになり全長百ミリもあった。くびれた部分から側根が四本も出ていた。様々な形をしていた。長いものは七十ミリくらいのものから、太くて短いものなど。根毛は主根、側根から、まちまちの長さのものが多数出ていた。全体としては、小型の朝鮮人参に似ていた。 ▼タンポポの根を観察して、「大樹深根」を思った。仰ぎみられる大樹になるためには根が深くなければならないという意味の言葉。道ばたに自生しているタンポポでさえ、寒暑風雨にさらされながらいつまでも生え続けるために、こんなに深く、広く根をはっているのを見ただけでも、教えられた。 |
八月中旬、道端のタンポポを掘り起こして観察した後、根を四カ所、厚さ約一ミリにスライス、輪切りにした。食品容器の発砲スチロールの皿の底にティシュペーパー二枚を重ねて敷いた上にのせ、紙全面にしみわたる程度に水を注いだ。 ▼夏のため、蒸発が盛んで、毎日、朝・晩、補給した。三~四日すると、四コのなかの三コは、円形の一部分が切れてひろがり「へ」の字になった。一週間、十日、十五日経過しても何もでてこなかった。なかば諦めながらも。給水だけは続けていた。ペーパーは蒸発を繰り返した水の鉄分でうすい褐色に染まっていった。 ▼二十四日目の朝、直径五ミリの根から新芽がでているのに気付いた。ヤシが一本、ひょっこりひょうたん島に伸びているようだ。わずか八ミリの高さのスプンーの形状。柄の部分はトコロテンの透明さ、スプンーの凹んだ部分は淡緑。他の二コも虫眼鏡でたしかめると緑色の葉を1コづつのぞかせていた。家の者にも見せると覗きこむ。夏休みに来ていた孫にみせるたらどんな顔で、なにをいっただろうか。 ▼水の補給が遅れたためか、せつかくの芽生えを萎れさせてしまった。敬老の日、再生を願い、根を鉢にかえした。還暦をとうにすぎて楽しんでいます。 |
『国語辞典』(三省堂)で、口がつく見出しを読んだ。口合いからはじまり、口開けと続き、口悪でおわっていた。一つ一つ書きながら十コで改行、写しおわると七十八コもあった。 ▼そのなかには、くちあい[口合い]、くちがき[口書き]、くちぢや[口茶]、くちまえ[口前]、くちよせ[口寄]などの意味を知らないものがあった。出合ったこともなければ、使ったこともない、廃語同然である。 ▼これら全部の見出し語のなかでほめられるものは、口堅いくらいだった。口重はよい意味にも、そうでないふうにも使われる。口うるさい、口軽、口汚い、口喧嘩、口さがない、口出し、口幅ったい、口任、口喧しい、口悪など感心できないものが随分とある。 ▼『広辞苑』で、口の見出し語の用例を読むと、口があがる、口がうるさいから口を割るまで三十四例もあった。口は禍いの門のような耳に馴染んでいるもののほかに、口では大阪の城も立つ、口に蜜あり腹に剣あり、口は口心は心、口より出せば世間、口を守る瓶の如くすなど、いちいちうなずかされた。 ▼良寛さんが心がけられた戒語は九十カ条にも及ぶ。口のはやき、さしで口、へらず口、口をすぼめて物言うなど、口のついた言葉が含まれている。 |
高校での二学期のある日、天高く、といえばどんな言葉が続くかと生徒に話しかけた。「馬肥ゆ」を期待していたが全く返ってこなかった。ことわざ辞典を読ませた。天高く馬肥ゆは、秋高く馬肥ゆともいうと説明していた。 ▼秋になれば先ずうかんだ言葉だった。つぎに「柿くえば鐘がなるなり法隆寺」など。ダイエットで何キロ痩せたいとか、カロリー半減のお菓子だとかの風潮では、こんな言葉は廃語同然かも知れない。 ▼『広辞苑』のてんの項目に、天勾践を空しうすること莫れ時に范蠡(はんれい)無きにしも非ず、天定まって亦能く人に勝つ、天知る地知る人知るの次に、天高く馬肥ゆが記載されていた。以下、天に網が被さる、天に口無し人を以て言わしむ、天の眼、天は高きに処って卑きに聴く、天は自ら助くるものを助くなど二十五の句が書き連ねらていた。 ▼天知る地知る人知るは、[十八史略](楊震がわいろをことわって王密にいった語)他人は知るまいと思っても、天地の神々も我も汝も知っている。 ▼天に網が被さるは、天網逃れがたい意。 ▼天に口無し人を以て言わしむは、天は口がないからいわないが、人の口によって天意をいわせる ▼これらの言葉に世相のあれこれを思う読書の秋のひとときでした。 |
小学校四年生の孫に、曜日の曜の字の書き方を尋ねられた。私は曜の字に羽を書いた。孫はへんな顔をしていた。新聞の曜日を調べさせると爺ちゃんの字は違うという。辞書では、私のは旧字体であった。 ▼高校生と札幌ラーメンの話をしていた。しょうゆ仕立てだったという。しょうゆの[しょう]の漢字が話題。私は醤と書いた。辞書を引かせると、醤(表外漢字)。私のは違うという。ワープロ(東芝ルポ98F)では醤。一体どう考えればよいのか。 ▼将軍の[しょう]を調べた。新字体は将、旧字体は鍮。将は常用漢字であり、もとの字体が新字体に改められた。[しょうゆ]のほうは表外だからもとのままである。ワープロの字は勝手に[しょう]の部分を新字体に改めていることになる。 ▼昭和二十四年に当用漢字字体が制定され、当用漢字一八五〇字のうち、約四〇〇字について新しい字体が定められた。新しい字体〈新字体〉と、もとの字体〈旧字体〉があることになった。表外漢字は新字体を定めていないため、まちまちに書かれているのか。 ▼漢字テストで旧字体を正答にしてよいのだろうか? 以前に実施された文部省の全国学力テストの書取問題の正誤例では、世間で慣用している旧字体も正答としている。 |
次の案内が配られた。<研究授業の御案内 拝啓 日ざしはまだ夏を残しているものの、朝夕はいくらかしのぎやすく感じられます今日この頃、皆様におかれましては、ご清祥のことと御喜び申しあげます。さてこの度、教育実習の成果の場として、研究授業ならびに反省会を、下記のとおり行います。つきましては御都合がよろしければ、お忙しい中恐縮ですが、御出席頂きたく、宜しくお願い致します。> ▼これを読んだ人から網かけの字に赤丸をつけ、「学校では用字用語は、十分に注意して。生徒は、良いか悪いかわからずまねますので」と、コメントを書いたものを渡された。 ▼「公用文における当用漢字の音訓使用及び送り仮なの付け方について」を読むと、御喜びは、お喜びとかくようになっていた。[ご]の接頭語は、その接頭語が付く語を漢字で書く場合は、原則として、漢字で書き、その接頭語が付く語を仮名で書く場合は、原則として、仮名で書く。例、御案内、ごあいさつ。 ▼御案内、御都合、御出席は問題ない。頂きたく、致しますは問題ない。宜しくは常用漢字表以外の音訓である。 ▼ややこしい。宜しくは辞書に載っており、意味も正しいと思えるから使ってもおかしくないと思うが。 |
全国師友会(安岡正篤)支部:岡山県師友会では毎月第三日曜日七時から漢文古典の輪読を行っている。現在は、『三国志』の返点、送り仮なつきの原典を読んでいる。岡山大学中国文学教授の指導のもとに、当番の人が朗読、通訳、語釈を行っている。 ▼語釈では、この語句は諸橋轍次『大漢和辞典』によるとこんな意味です、と説明すると、参加者は紊得させられている。また、『大漢和辞典』に当った。記載されていなかった。このような意味だと考える、と解説すると、もうこれ以上は調べようがないと、これまた皆さんもそうかと思ってしまう。 ▼これほどまでにも信頼されるには、つぎのような経緯があった〈昭和二年ごろに、多くの古典から語彙カードに採ることから始められ、昭和十年に原稿を作りあげることができた。出典などに欠陥があった。刊行された後、諸橋先生のところに質問や抗議が無数に届き、先生もほとほと困っていたので、修訂版を作りたいというのは先生の強い念願でもあった。昭和三十六年から六十一年に及ぶ二十五年の歳月と多数の人の協力によって修訂版が刊行され、引用文がそのまま信用されるようになった〉原田種成『漢文のすすめ』より。著者原田は、学生時代この辞典の作成に加わっていた。 補足:漢字の中国も諸橋轍次『大漢和辞典』を五百部購入したとのことである。
原田種成『漢文のすすめ』(新潮選書) 社会にふさわし学問 学者の一生というものはとくに波乱があるわけでなく、ふつうは平坦なものであろう。この書物も、いわば一人の漢学者が、自分の足跡をたんたんと記したものである。ところがそれが面白い。私はこの書物を、著者の一生として読むと同時に、その背景をなす時代の流れを讀んで、感銘が深かったのである。 漢文の勢いが衰えたことは、まったくしろうとの私にも感じられるほどである。白文(はくぶん)を読む教育など、ほとんどの学校では「許されない」であろう。そもそも白文とはなんだ。そうきかれるのがオチであろう。明治に入って、新聞の投稿欄のうち漢詩欄がまずなくなったという事実からすれば、漢文の衰えはなにも最近始まったことではない。漢文の専門家としての著者の一生は、そうしたなかで過ごされてきたのである。 諸橋徹次の『大漢和辞典』の作成に関わった著者の話は、とくに興味深い。昔の学者がいかに仕事を人任せにしたか、そのなかで、著者のような専門家がなぜいわば「自然に」育っていったか、そういうことを考えると、現代の教育に関して、いくつも考えさせられる点を発見する。真の「学者」を作るためには、お仕着せ教育は上要なのである。そのかわり、しかし、なにかがなくてはならない。それは人間に対するある種の信頼なのだが、それを醸成するのは社会である。だから、その社会にはあらゆる意味で、その社会にふさわしい学問しか生じない。 日本語に対して、漢文を「読むこと」がいかに大きな影響を与えたか。千年以上のあいだに、それは日本人の脳の使い方すら変えてしまった。その脳をわれわれは「意識せずして」毎日使い、さまざまな国際摩擦を起こしている。そのくせ漢文は忘れていまい、いまの時代にそんなものは、という。やがては漢文頭から英語頭になり、いずれまた自分の頭はどれだ、と騒ぐことになるになるのであろう。 あまり漢文に興味のない、若い人にも勧められる本である。漢文を知るためには、このへんから入門してもいいのではないか。(以上の記事はなにかに紹介きじである) 2012.04.26,追加 |
『これはと思うことを手持ちの辞書に軟らかい鉛筆で書き込むと面白い。さっきも中国の名辞典、「康煕字典」(一七一六)に、「上唇のものは髭、下唇のものは鬚、頬のものは髯」とあったので、さっそく「髭」の項に書き写した。書き込みがふえるにつれて辞書がいとおしくなり、こうして世界でただ一冊の辞書ができて行く』と、井上ひさし氏は言う。 ▼今まで思い付かなかった。これは続けられそうだ。英語の勉強では、カードに書き写したりした。継続利用することがなかった。 ▼小説の中で 「high summer」などの説明があったから、high summer の意味は分かった。summerの欄外に、high summer を書き込んだ。 ▼shaved ice。シャーベットだろうと直感。辞書には記載されていると思ったが、手持ちの辞書にはどこにもなかった。shave を丁寧に読むと「けずりくづ」にであった。「剃る」は知っていたが、シャーベットがshaved iceであるとは。 ▼辞書の中で、これはと思ったものに線を引くだけですませていたが、欄外に書きはじめた。 |
「ね、ジョンジー、あれがベアマンさんの傑作だったのよ。最後の一葉が落ちた夜、あの人があそこへ描いたのだわ」。 「Ah, darling, it's Behaman's masterpiece―he painted it there the night that the last leaf fell.」 大久保康夫訳『O・ヘンリ短編集』と、その原文である。 O・ヘンリ「最後の一葉」の結びである。何度読んだろうか。
彼は、英語の勉強も、決しておろそかにせず、つねにウエブスターの辞典をそばにおいて、ひまさえあれば、それに目を通していたという。彼にとって辞典は、たんに単語の意味を知るためではなく、思想の源泉であり、現実の世界に抽出されることを待っている言葉の宝庫であったのだ。
宮尾さんの小説を読むとハットする美しい言葉に出会います。
吉川さんは若い仲間たちに「どうせ、僕のような『他山の石』は…」とよくいった。「路傍の石」というべきを誤用していたのを友人から指摘され、発憤、百科事典と取っくみはじめた。 以上の三人の作家の勉強法を教えられます。いかにたゆまない隠れた努力をされているかをうかがい知ることができます。 |
「ゆとりがあり、しかも充実のある相反する命題を解決しようと五年前より午前五時間日課時程を始めた」青森県平賀東小学校長木村先生の実践報告を読んだ「実践人四六八号」。 ▼昼食前に五時間の授業をすませてしまう。同時にノーチャイム、中間プレータイム(十時三十五分~十一時)を導入。 ▼子どもへの効果の考察は。「教師も児童も午前と午後の顔つきが違ってきました。これは昼食を摂った後は頭をつかう難しい学習を置かないようにしているので、昼食になると、これで勉強は終わりましたとの気持ちになるからでしょう」 「個別指導や教材研究をしている姿が多くみられるようになりました」
「午前中に五時間授業する事で疲れないかの問題、これは、長い中間休みをとる事と、教科配列の配慮で解決されました〉。
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「最近身近な友人で体調の不具合を訴える人(精神的心を含め)が多く、わが身を振り返りながら……」中野忠様からのお便りの文面。 クラレタイムス(株式会社クラレの社内報)を読んでいると、ある社員が「会社研修で教えてもらった自律訓練法に感謝しています。私はストレスはまだ分からないのですが、気持ちの良い眠りに誘い込まれています」
こころと体の安定に私も関心があり、具体的になにかをしたいと思っている。最近ヨーガの完全弛緩に引かれている。
この方法を全身にわたって練習する。ドイツのシュルツ教授の自律訓練法の源となった(ヨーガ入門 佐保田鶴治池田書店)。
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村山から橋本へ。禅譲は国民を愚ろうするものだ。三党の首脳陣は政権たらい回し批判を警戒して禅譲の表現を使うことを努めて避けている。解散して国民に信を問えなどが報道のキーワードであった。 中国人は自国の文化が道徳も才能も常人とは比較にならないほど優れた聖人が皇帝となって、有用な技術を発明し、未開の人間と社会を教化し、人間の物質的精神的な生活を創造したという伝説をもっていた。 最初の聖帝は三皇であった。中国の古書では三皇に色々の数え方があるので一定していないが、これら聖人は、じつは普通の人間ではなかった。 三皇についで五帝という五人の聖人の君がつぎつぎに天下の君になった。五帝のなかに帝尭、帝舜がいた。老齢になった尭は臣下たちに民間の賢者である舜を推薦させた。試練をあたえて、その人格を見きわめると、自分の子をさしおいて、これに帝位をゆずった。
帝舜はまた自分の子にはつがせないで、治水で抜群の功をたてた禹にゆずった。これを禅譲といって、賢者から賢者へとゆずった理想的帝位相続法だとして儒学の学者が賞めたたえている。貝塚茂樹『中国の歴史 上』(岩波新書)P.22~
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「ぜんぜん、楽しいといった話し方をきくと気になる〉と、勤務先の高校、国語のN先生。辞書を参照しながら説明された。 ぜんぜん①〈打ち消しの言い方や否定的な意味のひょうげんを伴って」まつたく、まるっきり。「~読めない」「~だめだ」 ②すっかり、ことごとく。「心は~それに集中していた」▽打ち消しを伴わない②の使い方は現在文章語としてはほとんど使わない。会話などで「断然」「非常に」の意に用いることもあるが、俗な用法である。「~いいね」。 (岩波国語辞典第三版)
▼芥川龍之介「羅生門」の文章が教科書に採用されている。その中に「全然」が②の使い方をされていると指摘された。 上人は始めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されてゐると云ふ事を意識した。」「又さつきこの門の上へ上って、この老婆を捕へた時の勇気とは、全然、反対な方向に動かうとする勇気である。(大正四年九月)。 生徒たちの会話を聞いていると「ウソー」ということばが耳につく。「ああそう」の意に使っている。彼らと私が話すときも同じである。はじめは「ウソをいうはずはないよ」と言ったりしていた。いまでは、その口調にあわせたりすることもある。 |
我が家の庭に昨年にひきつづき今年も貝母が三輪咲いた。ばいも[貝母(バイモ)]はあみがさゆりともいわれる。ゆり科の多年生草木。葉は狭く先端は巻く。三、四月頃、三十センチ位高さの茎の先端の三枚の葉のつけね部分から淡黄色で内面に網状紫斑のある花をつける。あみがさの形をして地面にむいているから、自然のままにその美しい内面の模様は見られない。 内面を覗いてみるには、手鏡を使えばよいと思いついた。花の下に鏡をさしこみ、色々な角度に変えると模様ばかりでなくて、雄しべの状態から網がさのすみずみまで不思議なくらいに鮮やかに見ることができた。 これは面白いと沈丁華に鏡を近づけると薫りを帯びた小さな十字花に魅せられた。こんなに綺麗なものだったのか、蜂や蝶が花に引かれるのは無理もないと想像させられた。 虫眼鏡のように拡大したわけでもないのに、なぜ細かいところまで観察できるのだろうかと疑問がわいた。ある物を普通に観察しているときは周囲の物も目に入るから、どうしても意識が全体に及んでいる。しかし鏡を近づけると写し出される対象物は絞られるから、意識が集中して、いままで意識されなかったものが見えてくるのだろう。手鏡で庭の春を見た。 2011.04.14.:追加した。 |
書写二千日
一九九六年三月二十八日。英語書写二千日。外国放送を十分にききとれるようになりたいと始めて、千日が終わったとき、まだまだ駄目だ。もう千日つづけると必ず上達しているだろうと思った。ところが、二千日でもおなじ。次の日も、「毎日新聞」のキーワード欄の短い時事英文、『天声人語英文対照』などを書き写し、短波ラジオをきき、『ソフィーの世界』のペーパー・バックスを読んでいる。 ▼もし、書写をしていなければ、何をしていただろうか。一年前の三月二十二日は、二年前、三年前は。日記を読み直すと、どんなことをしていたか知ることはできる。しかし、まちがいなく、すぐにいえるのは「英語の書写はしていた」。 ▼写経でもない英語の書写などして、何の意味があるのか。日曜坐禅に参加していると、老師が「寒い日曜日の朝八時から坐禅をしているのは、なにがそうさせるのでしょうか」。また、ある時は「坐禅をしてなにが得られますか。なにも得られません」と言われる。
▼What are you doing here, now? Why do you do it? I do not know. Something makes me do it.
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平成八年三月、毎日新聞「本と出合うー批評と紹介」欄に杉本秀太郎『平家物語』が紹介されていた。 講談社の月刊誌「本」に一九八九年一月から九五年十二月号の七年間にわたって連載されたエッセイである。「いまこうして手のうちにある分厚い頁は、つれづれなる筆のすさびのいわゆる世事雑感の凡百のエッセイとは、いちじるしく曲を異にする。幾星霜を経た、壮大圧巻なる物語を、やんわり両の手のうちに包んだとおもえば、つれなく闇の彼方へ突きはなす。琵琶法師の弦のおののきをつたえてあまりある、妙手の語り口。選び抜かれた文字、研ぎ澄まされた表現」との紹介に引かれた。 ▼新刊書の一章を読んでは、本棚に閉じ込めていた平家物語を引き出して、拾い読むといった手順を繰り返し、読みおわった。 ▼「平家物語を八時間で読み通した」と、知人(クラレ村本さん)がかって話していた。とびとびしか読んでいなった私には、よくも退屈しないであんな本が読めたものだと感心させれたことがあった。 ▼杉本秀太郎氏は「今し方、読みおえたところなのにふたたび一からあらためて読みたい気持ちに駆られる。よく読まんがために書くという手段をえらんだ」と、結びに書いている。 文学になじみの少ない私にも、この本を読み、その筋道に刺激を受け、再度、平家物語の現代文訳を通読しました。
補足:杉本秀太朗『平家物語』(講談社)
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曹源寺日曜坐禅が終わり、小方丈での茶礼の席で抹茶を戴き、庭園を散策しながら参加者の方から聞いたお話し。 昭和天皇の侍従長だった入江相政さん(故人)は、地方の旅館の下見に出かけられることがよくあった。 天皇のお泊まりは名誉なので、どこの旅館も下におかぬもてなしで、迎える。 打ち合わせがすんで帰るときには、女将はじめ従業員が通りまで出て見送ってくれる。 走り出した車の中から、名残を惜しんで入江さんが振り返ると、一同はまだ立ったまま見送りの姿勢を崩していなかった。 「これを”後引気配”と入江さんはおっしゃっていました」表現された。 と日本HR協会理事長の山田宏さん。 客はもう帰ったのだから、さっさと玄関からなかへ戻ればよさそうなものだ。 しかし日本の伝統的な作法では、しばらく余韻を残して立ちつくす。これが、あと引き気配だ。 「あと引き気配のない旅館は印象に残らず、入江さんは宿の名さえすぐ忘れてしまったものだそうです」 サービス業に限らず庶民の間でも、あと引き気配は大事にされた。 訪ねてきた客が、夜になって帰る。 「お客さまが通りの角を曲がってしまうところまで、玄関の明かりを消してはいけませんよ」 子供たちは母親に教えられたものだった。 明かりは通りの角までは届かないから、理屈からいえば客が玄関を出てすぐ消したほうが節約にもなる。 しかし、すぐ後で、ぱちん、と消されたら、客はあまりいい気持ちはしない。歓迎されていなかったのだろうか、と思う。 だから、しばらくの間明かりをつけておくことが、よく来て下さいました、楽しかったですよ、とうな残の気持ちの表現になるのだ、 * 「アメリカ人は握手して、グッドバイ、といったら、くるっと背中を向け、もう振り返りません」 彼らには名残を惜しむ、という感情がないわけではないだろうが、振り向く必要はないと考えるのが彼らのマナーであり、文化でもある。 そこへいくと、名残を形で示したい、と思うのが日本人の作法であり、文化なのです。 どちらの文化がいい、というのではない。 しかし、せっかくそういう文化の伝統を持っているのだから、せめて日本人どうしの間では日本流にやったほうが、人間関係がぎくしゃくせずにすむのではないだろうか。 「昔の人がそうした作法を考えたのも、人間関係を円滑にする知恵だったのです。国際感覚を身につける一方で、伝統文化に学ぶことも大切だと思いますよ」:以上、上原淳一郎『読むクスリ』(17)P.67より。 ▼井伊直弼の文を思い出した。 主客とも余情残心を催し、退出の挨拶終われば、客も露地を出るに高声に咄さず、静かにあと見かへり出で行けば、亭主は猶更のこと、客の見えざるまで見送るなり、扨、中潜り猿戸その外障子など草々しめ立などいたすは不興千万。一日饗応も無になる事なれば、決して客の帰路見えずとも、取りかた付け急ぐべからず。 いかにも心静かに茶席に立戻り、此時にじり上りより這入り、炉前に独座して、今暫く御咄も有るべきに、もはや何方まで可被参哉、今日一期一会済みて、ふたたび返らざる事を観念し、或いは独朊もいたす事、是一会極意の習なり。此時、寂寞として、打語らふものとては、釜一口のみにして、外に物なし。誠に自得せざればいたりがたがたき境界なり ▼庭園では、ちる椿が一片一片の白い花びらを木の元へ、ねむり塚のもみじは寂光のなかにゆらいでいた。 |
性相近、習相遠
「子ノタマワク、性相近シ、習イ相遠シ。」『論語』第四三三章 「子ノタマワク、タダ上知ト下愚トハ移ラズ。」『論語』第四三四章 孔子様がおっしゃるよう、『人間の生まれ得た本性は大體似たり寄ったりの近いものだが、その後の習慣教養で善悪賢愚の遠いへだたりが出来る。心すべきは環境と教育じゃ』。 第四三四章、孔子様がおっしゃるよう、『人は習いによって賢とも愚かとも移り變るが、ただ最上級の賢人と最下級の愚者とだけは、かれは「生マレナガラニシテ知ル者」であり、これは「困ミテ学バザル者」であるから移りようがない』。 後章は前章と続いていたのに誤って「子曰」がはさまり別章になったのだと、という説がある。なるほどそうかも知れない。穂積重遠『新譯論語』(社会教育協會)P.三〇八、三〇九。
孔子は遠くを見やりながら弟子たちに話しかけている。「この歳になるまで多くの人をみて感じてきたのは、人間は大した違いはないものだ。心がけと、環境と教育の力が大きいな。そうだけども、なかには変わる必要がないくらい立派な人がいる。その反対に、まったく変ろうしない愚かものもいるものだ」。弟子たちは、内省しながらあの人この人に思いをいたしている。
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正念さんの作務
五月初め、曹源寺文化財の公開展示を曹源寺表書院で拝観。庭園、仏殿裏の小高い場所にある墓所を巡って石段を下っていると、目の不自由な修行中のアメリカ女性、正念さんが草を抜いてるのを目撃した。 仏殿前の石畳に座り込んで、石と石の間をてのひらでさわりながら草を探して、竹へらで抜いては籠に入れていた。掌にふれる草がなくなると、座ったまま両手肢を使って二、三十センチ移動、手探り作業を続けていた。しばらくも手を休めない。指先に顔を向けて作業している様子は、地面にお経をかいているようにも思えた。作業に集中していた。いや、こんな言い方ではもの足りない。草取りになり切っているという表現がぴったりだった。無心に草抜きをしている彼女は五月の清風、浄光のなかに溶け込んでいた。三十分ほど、じっと見ていると良寛さのイメージと累なってきた 「私は目が不自由で杖にたすけられている三足です」「本名は忘れました」という正念さん。作務とはこういうものです、行ですと語りかけてくれているようだった。作業の邪魔にならないように声もかけずそっと横を通り抜けた。籠には、手探りで一本、一本と抜いた草が湿りけを帯びた土をつけたまま積まれていた。 平成八年六月十二日 ★読んで頂いた皆さんから ◇(豊中市) 中野 忠様 六月三日 正念さんの作務、襟を正して拝読合掌 ◇(宗像市) 中村和美様 六月四日 “邪心なく事に仕える姿には 言葉はなくとも気づきあふれて” 養護学校でお世話になっていた頃、同じような気持ちを味わったことがあります。正念さんの作務から口ばかりの自分を反省します。言葉よりも行動ですね。 ◇(神戸市) 矢部和子様 六月四日 欲しい、読みたいと思っていた真川精太氏の『大聞記』。先日、本の方から私の懐に飛び込んでまいりまして丁度読了し、感動未だ覚めやらぬところへ“正念さんの作務”でした。一心に草を抜くその作業に、地面に写経してるようだと感じ入り三十分もじっとご覧になっていられた。そして邪魔にならぬようそっと通り抜けられた黒崎様のそのおこころこそが良寛さんのように思えてなりませんでした。状況が浮かんでまいりました。“気に入りの皿に並べる草の餅” ◇(高槻市) 辻 光文様 六月五日 正念さんのお話、本当にいいお話ですネ。正にこれこそ全一的いのちの世界です。 ◇(貝塚市) 田端 繁様 六月十日 「正念さんの作務」有難うございました。石と石の間をてのひらでさわりながら草を探して、地面にお経を写しているように思えたに感動いたしました。 ◇(西宮市) 濱田美治様 六月十日 ハガキ通信 169号受け取りました。「正念さんの作務」には感動いたしました。貴重な通信有難うございました。 ◇(名古屋市) 飯尾剛士様 六月十一日 拝読し正念さんの無心の境地による清風浄光のシーンを想像いたしております。作務の大切さは以前読んだことがございますが体と心の統一がむずかしくやはり正念さんの如く修行というプロセスを必要といたすものでございますね。ありがとうございました ◇(福岡県鞍手町) 梶原はつよ様 六月十七日 正念さんの作務。すてきなお話ですね。お会いしたくなりました。そして黒崎さんの文章が梅雨のあじさいのようにしっかりと胸にしみてきました。先日、ひょんなご縁でお抹茶を点てさせて頂いて「おいしい」と言われたことがとても嬉しい一日でした。 ◇(東京) 黒崎昭二様 六月十九日 「正念さん」その行の立派なこと。立派な女性ですね。感銘しました。
6月10日午後、曹源寺へ散歩。「雨が降っているのに散歩ですの」女房の言葉をあとにして。総門を入り、山門の前の放生池にかかる石の橋に立ち、境内の静寂につつまれて傘に降る雨の音を聴いていた。山門の横の道を総門に向かって歩いている人が目に入った。正念さんだ。傘を左手に、右手の白い杖で足下を探りながら総門に辿り着く。総門の間にわたされている横木を跨いで石橋を渡る。総門を出ると2車線の松並木の参道。始めは左側をあるいていたが暫くして右側に移動、そのまま、ほぼ真っ直ぐに進む。両側に溝が掘られている。落ちたりしないかと心配したがまったく無用。南北約 200メートルの道は、自動車が頻繁に走る東西の県道と交差。交差点で彼女は立ち止まった。百メートルほど離れて見守っていた私はそこから彼女を見失った。見ただけでは、杖を便りに歩いているが、どうして上手に歩けるのだろうか 一生懸命という言葉を私も使ってきた。しかし彼女の歩行を見て、これらの言葉を安易に使えない。 平成八年六月十日 |
経験のないお母さん
東井義雄先生のお話にあります。五年生の女の子が九十八点を採ってきて 「お母さん、九十八点だったよ」と言ったら、お母さんが、 「何で百点を採らなかったの」と言ったという。このお母さんは九十八点を採った経験のないお母さんですね。そうでしょう。 九十八点を採った経験のあるお母さんだと、「ああ、あの時はもうちょっと頑張れば百点になったのに……。」という気持ちを持っているので 「おお良く頑張ったね。この次も頑張んなさいよ」と言って、励ますと思うんです。僕の診察ではこのお母さんは百点満点で七点以上採った経験がないお母さんだと思います。 「お前はあわてものだからなんで九十八点を採ったのか」。その次に百点を採って持って行ったら
「今日は問題がやさしいからと言う。どのような心を相手に巻き起こしますか。私は腹が立って腹が立って、“バカバカ”とローマ字で書いて返しました。お母さんがローマ字が読めないからです。
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こころと体―六つの教え
心身相即―心と身を安定しましょう―
▼わずか三合ばかりの病に、八石五斗のもの思いをなすべからず。
『白隠禅師健康逸話』
▼心は心をもって制せられず、心は息をもって制すべし。 藤田霊斎師
▼病気は治せるものでない、治るようすることができるだけなのです。
佐保田鶴治『ヨーガ入門』
▼毎日、あらゆる面で、私はますますよくなってゆく。ある考えが精神を独占してしまった場合、その考えは実際に、肉体的もしくは精神的状態となってあらわれる。ある考えを意志の力でおさえようと努力すれば、その考えをますます強めてしまうだけである。
E・クーエ『自己暗示』
▼健康らしくすれば、健康になれるを、森田療法ではモットーにしている。
大原健士郎『生と死の心模様』
▼常に、喜心・老心・大心の三心を保持すべきものなり。 『典座教訓』 *平成二十四年七月十一日、修正 |
立腰と椅子の形
『森信三 心魂にひびく言葉』寺田清一編述によると、腰骨を立てるには、三段階を心して指導したい。 第一、まず尻をウンとうしろに引き 第二、つぎには腰骨の中心をウンと前へ突き出す 第三、そして軽くアゴを引き、下腹に心もち力を入れる 「立腰」(りつよう)の根本要領は、この三ケ条につきると思いますが、ただもう少し補足すれば、椅子もしくはタタミに正座した場合の両膝の開け具合です。男子は握りこぶし二つ位開けること、女子は、膝と膝をくっつけてまるで割箸のごとくにーというのが大事で、この要領の違いをよく力説せられました。 ▼私が試した生徒個人用椅子での立腰で気付いたことが一つあります。座る部分が平板でなくて、背もたれに近いところが低く、中央部分が幾分高くなっている。まず尻をウンとうしろに引くと腰骨を立てるのがやや難しく、中央部分に尾底骨があたるように座るときっちりした腰骨をたてることが安定にできると感じた。 ▼尾底骨が座面より十㌢位高くなると結跏趺坐、正座において、心の安定した脳波α波が多くなることが実証されていることと関連があるようだ。 |
献 涼
涼しさを皆様におくりしますといった意味でしょう。『広辞苑』にはみあたりませんでした。 七月末、真夏のわが家の庭の白柏、銀木犀、藤、南天、楓の木々の地面より三十㌢から二㍍も登ったところに大小の空蝉が飴色の原型を残していました。その数は十一個も。木の根元には直径二㌢程度の通り抜けた黒い穴がぽつぽつ。当夜、岡山市の紊涼花火大会の炸裂音が遠雷のように微かにわが家にもとどけられました。 翌日曜日、坐禅会に高校生くらいのフインランドの少年が参加していました。坐禅の後、小方丈で境内の涼風に蝉の鳴き声を耳に薄茶をいただく。 蝉の地理分布が話題になりました。デンマークでは気温のため幼虫が越冬できないので棲息してない。フインランドにもいない。毎週、参加しているスイスの青年は自分の国にはいない、イタリヤにはいます。あのやかましいゴキブリはいりませんとの感想 『おくのほそ道』立石寺の一読を私からの献涼とさせていただきます。(岩波文庫:P.87)
山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚 大師の開基にして、殊 閑さや岩にしみ入蝉の聲 スイス以北の方には味わえないですネ! 平成二十三年八月十二日 |
Have a nice day!
タクシーをよく利用する人のお話では、乗るときに心掛けているのは、先ず、運転手に挨拶することにしている。しかし、半分は返されるが半分はないと言っていた。 平成元年(一九八九年)八月、約一ケ月アメリカ旅行した。ニューヨーク市内の長男夫婦のアパート(86th St. York Ave.)に滞在した。 ある週末、現地JTB(日本交通公社)が募集していた一泊二日のルックアメリカン、ナイアガラツアーに家内と二人だけで参加することにした(なんとなくふ安と楽しみ)。朝七時、N.Y.ヒルトンホテル(53 St. 6th Ave.)に集合の計画であった。アパートからホテルにいくには、タクシーか市内バス。タクシーには長男夫婦のどちらかといつも同乗していたから、自分で行く先をつげるとか料金及びチップの計算などしたことがなかったので自信がない。そこで、それまでにどうにか、私が馴れていたバスにした。 6時20分、アパート出発。86 St.のバス停で乗つた。乗客はだれ一人いなかった。運転手から“Good Morning!” と挨拶と笑顔で迎えられた。運転席に近いところに座る。6th Ave.に到着したところで、乗換えるためにトランスファーと声を掛けると、“Have a nice day!”の爽やかな声とキップをわたされた。 気持のよい挨拶に、“Hav a nice day,you too!”と返事を返して、バスをおり、乗り換えて、目的地に無事到着することができた。 平成二十三年六月十七日、再読。 |
教育は英語で education 。能力を引き出すという意味だといわれている。 Oxford Englsh Dictionaryでは、education の本当の説明は、またいつから使われているかを調べた [educate]の説明の一つは、To train(any person) so as to develope the intellectual and moral powers generally. 1849 Kingsley Lett.In my eyes the question is not what to teach, but how to Educate. 私の考えでは、問題は何を教えるかということではなくて、いかにして知力とモラルを発展させるかであると1849年には書かれている。 『大学で何を学ぶか』(幻冬舎)の新聞紙上で紹介文を読んだ。「学生のおおよその知力は入学試験で、つまりどこの大学に合格したかで知れる。それで十分である。それ以上大学で、勉強なんかしなくてよろしい。企業でやります。なまじ大学で妙な知識やプライドを身につけてこられては迷惑である」『では企業は、なんで大学を卒業した者を採用するのか。それは、キミという個人がするのか。それは、キミという個人がほしいのではなく、キミが所属している大学ーー東大とか早稲田とかの「世間」がほしいからである』など。 これが企業の求める学生像であり、それに対応している教育をどう考えますか。 |
The teachers who molded me. 『Lee Iacocca の自伝 Iacoccaは、実は筆者の愛読書である。フォード社社長という栄光の座から一転、解雇の身となり、失意の中で、クライスラー社へ移る。ところが、同社の社長そして会長として、見事に経営危機を乗り越え、黒字経営に大転換させるという経営の持ち主が彼である。そのアイアコッカが、自身の哲学・人生哲学を語っているのが本書である。ストーリーも痛快だが、文章も英語の大和言葉を駆使して「切れる」ものばかり。読ませる。』『英英辞典マニュアル』(大修館書店)。傍線の部分にひかれて、英語とはこんなものかと教えられました。 学校時代の恩師の思い出の文章がありました。If you ask me the name of my professor in college or graduated school, I'd have trouble coming up with more than three or four. But I stil remember the teachers who molded me in elementary and high school. 九年生の Miss Raber先生の影響が大きかったようです。That's where developed my speaking skills and how to think on my feet. ペーパーバックスを読み、先生との出会いの幸運を思う。 |
私のハガキ通信実践 ハガキ通信実を始める前は、年に一度の賀状、転勤、転宅、結婚、定年などの社会的儀礼の挨拶状が主体でありました。開始後は、毎月、ハガキ通信の方々から心を温めるハガキ・手紙を戴いています。 ハガキも自分から先ず出さなければ決していただけるものではないようです。また、差し上げたからいただけるとは限りません。返信は期待してはならないと言い聞かせています。
もともと自分からはじめたものです。はじめから発信しなければ返信を期待することもないはずです。通信をいただきながら礼状さえ書かないことのある私が自分の通信に返信がないと言えるはずはないと自戒しています。
一 会社を定年退社した一九八七年十二月から開始。毎月初に一回発信。一九九一年から毎月一回の他にも作成。ただし一回のみ発信。年末に一年のものを纏めて印刷して発信したこともあります。
二 ハガキの紙面の字数…17字×30行の五百十字。ワープロを活用して定型にしています。文章作成、添削、推敲、編集、ハガキ印刷など便利。定型が溜まると後で纏めるのに都合が好い。
研修生、森信三先生、寺田様から始めました。その後、実践人、株式会社クラレの先輩、同僚、後輩、職場の人に広げました。一人でも二人でもよいと思っています。
始めたころは通信の材料に苦労することもありました。続けているうちに、読んだり、見たり、聞いたりしているとき、これは材料になるなと感じるようになります。ワープロ日記にエッセイとして打ち込んでおくようにしています。
一 裸になって書かなければ気持ちが伝わらない、交流も出来ない。 二 こんなことを書くのは恥ずかしいと思うと書けない。 三 立派なことが書けるようになってからと思えば遂に書く日は来ないだろう。 四 自分はこの程度しか書けないと思えばよいだろう。 五 自分らしい文章を書きたい。できるだけ自分の体験を書きたい。 六 読んでいただいた人がすこしでもそうだなと思っていただけるものを書きたい。 七 余韻のある書き方ができればと願っています。 八 暗いことは努めて書かないようにする。
九 添え書きはできるかぎり書く。
一 定期的発信のため生活の節度、気分のけじめになっています。 二 一年の実行項目自己宣言を書いて、中断したと笑われないように努めています。 三 同志との交流。ハガキ、封書による返信により励まされています。人のためより自分のために書いていると思えます。発信が遅れると心配のお便りを戴き、待っていただいていると実感します。通信を出せる人がいること自体有難いことです。 四 文通の人ばかりでなくて家族ともつながっているようです。 五 電話で感想を述べて下さる人もいます。 六 文章を書くのが好きにならないとしても苦にならななくなると思います。 七 字数が少ないので短文の書き方の習練になります。改行の余白をなくするために、書式は新聞のコラム様式にしました。 八 形成の功徳 纏めると功徳を実感します。自分の考え方の変遷が分かります。 九 個人誌、ハガキ通信を交換するようになりました。戴いた人の精進ぶりが自分の励みになり、中断することができなくなります。 十 明るい面を見るようになります。 十一 簡単な自分史にもなります。 十二 書き続けたものをよむと自分の性向が掴めます。継続、積み上げの効果がこんな面にも得られます。 十三 自分が得ているものが最も多い。
“Give and take.”ではなくて“Take and take.”である。
一 受信したハガキは葉書ポケットにファイルしています。添え書き役立つています。 二 継続に意味があると考えています。継続中、意義を疑ったりすることがあります。そのとき私は、<ほかに何かこれ以外にすることがあるか?>と思うことにしています。 三 剣道、柔道は剣術、柔術と言わないで道を付けて精進されている。ハガキも<ハガキ道>だと言えるのではないか思います。 「道は須鎬も離るべからず、離るべきは、道にあらず。」(中庸) 自己を見つめることの出来るものが「道」だと思ったりしています。
四 ハガキ通信の実践中、いつか製本したいものだと考えるようになっていました。
「毎月、『ふじなみレポート』を心待ちにしている。元官房長官、藤波孝生から届く政治報告だ。といっても、ハガキの裏側に小さな八百字ほど印刷しただけのつつましい定期便で、末尾に必ず一句添えられている。(中略)この四月のレポートがすでに百九十一号だから、約十六年も続いたことになる。」 |
三月十二日 ハガキを最上の武器として活用しうる人間にーかくしてハガキ活用の達人たるべし。 九月二日 一人雑誌意義 (一)各自の主体性の確立に資するところ大。
(二)さらに同志相互の生命の呼応、展開に資する光がためにー。
葉書ポケット
私の戴いたハガキ・手紙の保管法を紹介いたします。 受信したものは机の引き出しに順番に保管、一年分溜まると束ねて保管の箱に入れていました。読みかえしたいときに直ぐにはできない不便さがあります。 葉書ポケットを購入しました。クリアファイルと同じように出来ている。一ポケット、二ポケット、四ポケットの三種類ある。四ポケットが私には便利。二通のハガキの文面を外にして1つのポケットに入れるようにしている。 ▼ハガキ保管はじめてからの感想 一 ポケットに受信ハガキを紊める度にそれまでに戴いたものを読める。 二 直ぐ手に取れる所に置いておくと便利。 三 受信文を読みながら返信文を書ける。毎月『自学自得』ハガキ通信を発信している私には役立ちます。
四 絵葉書は一枚だけポケットに入れると文面と絵を同時にたのしめます。葉書ブックのなかで挿絵の効果があります。
現在は、普通のフアィルに納めるように変更しました。封筒から手紙文を取り出して一緒に綴じ込むようにしています。
ハガキをこのポケットに入れると収まるところはここだったんだと思える。 心が弱くなったとき読むと慰められ励まされる。 母からの手紙(昭和29年9月)も今までは箱の中に保管していたがフアイルした。
仏像に開眼供養があるが、大事な手紙にもそんなものがあるように思える。
ハガキ道については森 信三先生が提唱されている。
複写ハガキの元祖は徳永先生である。私はハガキの保存法についてハガキポケットの利用を提案したい。
あとがき
昭和六十二年十二月から「自学自得ハガキ通信」の名称でハガキ通信を始めました。。 昭和六十三年六月五月六日付、森先生から戴いたハガキを冒頭の手作りの小冊子のはじめに載せました。 「ハガキ通信」とは良いことをお始めですネ 求道心のある少数者が互いに 心を温るのがおたがいの求道ですからー
ハデなことを好むのは若いか、壮年期
マヒの右手もってー 森 信三
先生から戴いたハガキは「マヒの右手もってー」と書かれていました。ご不自由な右手でのおハガキ、ただただ合掌いたしています。
財団法人実践人主催の実践人夏季研修大会などで知り合いになった人たち、クラレの先輩・同僚・後輩、勤務さきの学校の人たちに発信させて戴いています。
著 者
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