★習えば遠し | 第1章 生活の中で学ぶ | 第2章 生きる | 第3章 養生ー心身 | 第4章 読 書 | 第5章 書 物 |
第6章 ことば 言葉 その意味は | 第7章 家族・親のこころ | 第8章 IT技術 | 第9章 第2次世界戦争 | 第10章 もろもろ:水泳の思い出・日航機墜落 |
改 訂 版2022.02.26改訂
新田次郎さんの著作は、私の本棚に『八甲田山死の彷徨』『チンネの裁き・消えたシュープル』『アラスカ物語』『協力伝・孤島』『小説に書けなかった自伝』(すべて新潮社刊)が並んでいる。 ▼ほとんど、その内容は忘れていますが、『八甲田山死の彷徨』は、青森の歩兵第五連隊と、弘前の歩兵第三十一連隊の厳寒の訓練である。その指導者の判断がいかに大事であるか、その結果は隊員を死に追いやるまでにいたること肝に銘ずる物語であることを読み取ることが出来ます。 NHKテレビドラマで2回目、3回目の放映をみました。今後の展開を楽しみにしています。 インタネットによれば、下記の記述があり、また、また、これまでテレビでも何度も放映されていたことを知った。 明治28年、富士山頂観測所建設の礎となった、野中夫妻による富土山頂での冬期気象観測の死闘を描いたものである。書名は、壮絶をきわめた富士山頂での観測生活を綴った千代子夫人の芙蓉日記からとったものである。芙蓉とは、富士山が「芙蓉の高嶺」或いは「芙蓉峯」とも呼ばれていたからであろう。著者は「日本で最も高く評価されるべき女性野中千代子を書いた」と言い切っているように、周囲の反対を押し切って己の信念を貫いた明治の女性を描いたものである。 ▼世界でも類のない冬季高層気象観測を行うため野中到は、未だ厳冬季に頂上に立った人はいないという富士山頂での気象観測を行うという壮大な夢を抱く。千代子夫人は、夫の夢の実現がひとりでは無理なことを直感的に悟り、ひそかに夫を支える決意をする。男尊女卑の風潮が強く、理不尽な男女差別が続いていた明治時代、女性はおろか男でも山に登る人はまれ、世間の目はもちろん、夫や姑、中央気象台などの批判や反対を押し切って富士山頂に向かう。 ▼富士山観測所に勤務し、通算400日以上富士山頂に滞在した著者によって、過酷を極める観測生活が臨場感たっぷりに描かれる。案の定、夫が設計した観測所や観測計画には、無理があった。食事、栄養、睡眠時間、暖房、トイレ等々、観測する「人間」を守る配慮が乏しかったのである。千代子夫人は語っている。「夫は科学的にすべてを取り運んでいるつもりでいて、自分の身体に対しては、もっとも非科学的な考え方をしているのです。そして、その自分の身体が、今度の場合、一番大事なものであるということを忘れているのです」と。 ▼千代子の笑いがなくなった。それまで千代子は一日に何度か声を上げて笑った。その笑い声を聞いているだけで到は、富土山頂にひとりでいるのではないという気持に……、その笑いがぷっつり切れてしまうと、心の中のストーブの火が消されたようにもの淋しく感じるのであった。 ▼女性の笑顔、生き生きとした声の響きは男の活力源、いかなる逆境も乗り切ろうとの意欲を掻き立ててくれる。千代子夫人なくして観測を続けることは不可能だったのである。
▼『芙蓉の人〜富士山頂の妻』(ふようのひと・ふじさんちょうのつま)は、新田次郎の小説、並びにそれを原作としたテレビドラマの作品である。 ▼明治25年(1892年)、日本の気象予報を正確に把握するために、富士山の山頂に観測所を設置しようと、野中到は厳しい冬も耐えながら富士山の登頂を試み、そしてそこで冬の気象観測に尽力を尽くした。この物語は到と、それを献身的に支え、行動を共にした夫人・千代子との夫婦愛と、気象観測に情熱を傾ける人生を描いたノンフィクションである。
1、1973年1月24日、同年1月31日にNHK総合テレビジョンで放送。全2回。
参考
1、新田次郎
平成二十六年八月十八日 |
父方のルーツ 父は4人兄弟姉妹であった。りな:明治15年、市次郎:明治24年、政代:明治28年、九八:明治31年。男2人、女2人。 父(市次郎)→母(テイ)。祖母テイは久津(ひさつ)の出身。「くづ」と呼称していた。昭和3年逝去。のぼり町に住んでいた。兄弟姉妹は結婚後もみんな忠海で生活していた。 母方のルーツ 平成27年8月19日、母の関係の「いとこ会」が岡山県で行われた。 準備として伯父:前田達治が遺していた『生きるー前田達治自伝ー』を再読した。 私のルーツをこの自伝から読み取ろうとした。 伯父の本から、母(梅野)→母(千代)→祖父母(氏名は書かれていなかった)までの3代までたどりついた。おばあさん千代には小学校4年生のときお合いした。 母の兄弟姉妹は8人である。男3人、女5人。 その家系図を大体書いて、いとこの一人に私ども世代の氏名を追加作成して、持参した。 おじ、おばさんたちがが生存中「いとこ会」が2回行われて、写真が残っているが、なぜか私の母は参加していない。 ▲生前にはほとんど関心をもたなかった。年配になって関心が起こり、生前にできる限り聞いておけばよかったと残念である。 今回は3回目であったが、私の兄が最長老(平成28年逝去)であり、その次が私になっていた。完全に世代交代したことになる。 ▲今回作成したものを使って、それぞれ「いとこ」の子供・孫たちの氏名を書き込み家系図を作ると代・5代となる。 ※前田家の墓は、御津郡横井村小幸田(現岡山市北区津高)にある。お寺の住職に一度お会いした。母(梅野)が弟(金夫)に水晶の数珠を与えていたことを知らされたことがある。お寺の過去帳を調べればまたわかることがあるかも知れない。私はそれを望んでいる。 自分の両親・その両親を知るには、両親の誕生住所は、そこにあるお墓のお寺を調べる。そして過去帳を調べる。それから関係が段々と広がる。 参考:ルーツについては、アレックス・ヘイリー著【ルーツ㊤㊦】安岡章太郎 松田銑 共訳(社会思想社)一九七七年九月一五日 初版第一刷発行がある。それには、5代までたどっていた。 平成二十七年八月二十五日 |
「いまどき、なんと古風なまんとうが!」一九八五年六月の朝、クラレ西条工場(四国)の寮で、南海放送「せんせいの人間歳時記━夜学校の思い出」を見ていた。関岡武太郎先生の松山夜学校(現松山城南高等学校)時代の思い出から始まり、その教育理念、そして教育者、校長としての幾歳月にわたるご活動についてのものであった。 このお話の中で、労研饅頭が松山市で売られていることを聞いておどろいた。昭和六年十月、先生が夜学校を卒業して、母校の書記になられたとき、学校の村瀬宝一さんが労研(当時の倉敷労働科学研究所参考1━大原孫三郎氏創設、現在、財団法人労働科学研究所)で饅頭の作り方を習得して、製造販売をはじめたとのことである。 ▼昭和六年といえば、クラレ創立五年目の草創期である。昭和八年新居浜工場で、昭和十一年には西条工場で、それぞれレーヨン糸の操業を始めている。レーヨン糸が四国の地で生産される二年前、労研所長の作った饅頭が松山市で製造、売られていたのである。 労研饅頭について江口 保さんにはなしたところ、多分、同じものと思うが、「ろうまん」という名前の饅頭が岡山市でも売られているとのことであった。早速、お店に案内していただき試食した。年配の方は、食量不足のころ、おいしくたべたものだと懐かしく味まで思い出されることでしょう。 ▼表題との出会いをもう少し深めたくて調べることにした。 「ろうまん」は岡山市の三笠屋で製造販売されている。 昭和二十六年ごろ、三笠屋の親戚が饅頭製造用「菌」を松山から分けてもらい作りはじめ、現在に至っている。食品添加物を入れていないので、自然な食品として喜ばれているとのことでである。 労研饅頭については、一九八五年十一月、関岡先生にうかがう機会に恵まれた。 先生によると、向学心に燃える夜学性に学資を与えるための事業を考えていたとき、たまたま伝道のために松山にきた倉敷教会参考2(現在、日本キリスト教団倉敷教会)田崎健作牧師から示唆を受け、これをとりいれることにしたとのことである。 当時の倉敷労働科学研究所所長暉峻義等(てるおか・ぎとう)は、「労研饅頭参考3」となづけて、すでに京阪神で売り出していた。奨学会では、数学教師竹内成一(のちの六時屋タルト参考5社長)を倉敷に派遣して製法を学ばせ、その酵母菌を譲りうけて持ちかえり、さらに中国人の林樹宝を招いて製造技術を学んだ。「労研饅頭」は、安価で栄養価が高く好評を博し、松山市内諸中学校の売店、歩兵第二十二連隊の酒保にも販路が開かれるようになった。のち、この事業は竹内の個人経営に移るが、今も素朴な伝統の味を二代目竹内眞氏が松山市勝山のお店で伝えている。 関岡先生の人間歳時記がクラレの歴史の周辺に私を運んでくれた。 ▼知らない人と話していて、共通の友人がいることを知っておどろかされたり、よくよく調べると、縁もゆかりもないと思っていた人が遠いつながりがあったりするものである。 ▼以上の記事は、クラレタイムス一九八七年二月号に掲載されたもので、私がまとめたものです。当時は下記の参考のような事項を調べる方法があったのかも知らない私でした。 二〇一六年にこの記事を記録するにあたり、PCで多くの参考記事をみることができたのは、望外の幸いでした。
参考1:大原記念労働科学研究所
参考5を開いて、「こだわり」の項目を開くと、『時計で六時は長針と短針がまっすぐになることから、「まっすぐ正直な心で商売をしよう」と命名されました。 この考え方は、創業以来、受け継がれています。』とあります。是非お読みください。 二〇一六年(平成二十八年)八月三十日 |
今年で33年連続で東大合格者1位の開成中学・高等学校。とかく合格実績に注目が集まりがちだが、私学ならではの質の高い教育、および指導内容への評価も高い。同校のOBでもある柳沢幸雄校長に、「開成の素顔」のついて語っていただく。 1クラス55人…厳し過ぎず、緩め過ぎず 灘の和田校長との共著「『開成×灘式』思春期男子を伸ばすコツ」を上梓されました。東西の私学の雄である両校の共通点、異なる点とは? 「開成の先生方は皆さん運転士型です」と柳沢校長 教育で重要なことは、生徒の自主性を育てることで、そのために必要なことは生徒を信頼することです。生徒が何かにチャレンジしようとするときに、私たち教員は見守りはしますが、基本的に生徒にすべてをゆだねます。そこで困難な状況になり、生徒が求めてくれば、いろいろとアドバイスをする。そういう姿勢は、非常に似ていると思います。 私は、開成の中学生によくこう言います。「10年後、君たちには先生はいないのだよ」と。大学を卒業すると、常日頃、生き方を指導してくれる、学校の先生のような存在はいないわけですよ。教育の時期が終われば、もう自分でなんでも判断して行動しなければならない。そのための練習の時期が、中学高校時代なのです。そういうことを強く意識した教育を行っているのが開成であり、灘だと思うのです。 1クラスの生徒数が多いのも共通していますね。高校だと、灘は55人で、開成は50人。他の学校の方が聞くと、ぎょっとするような多さでしょう。 目に見えて違う点はありませんが、強いて言うならば出口の部分での生徒の選択の違いでしょうか。灘の場合は、医学部進学志向が強いと聞きますが、開成の場合は灘ほど強くはありません 灘の教育システムで参考になった点は? 灘といえば、責任担任制ですよね。中学は1学年に4クラスあり、各教科の先生が中学1年生から高校3年生まで、そのまま上に持ち上がる制度です。学校の中に6つの独立国があるような雰囲気があり、教員の育成にも非常に寄与していると思います。灘が先鞭をつけたシステムです。 開成の場合も、ほぼこれと同じようなシステムがあるのですが、クラス担任の負担の大きさや役割分担の平準化などを考慮して、灘ほどは徹底させていません。ただ、英語や数学、国語といった積み重ねの教科では、その学年にどういう教科指導を行ったのか把握しておく必要がありますので、だれか一人は持ち上がるようにしています。 灘もそうでしょうが、開成でも各学年によって雰囲気がそれぞれ違います。担任教員としては、その学年のモラルのレベルをどのように維持していくかに腐心します。あまり厳しくし過ぎると自主性が育ちません。逆にたがを緩めすぎてもいけません。そこのバランスのとり方が、腕の見せどころでもあります 柳沢校長は開成のOBでもあります。 在校時代に授業を受けた先生が、校長として赴任したときに、まだ在籍していたというエピソードには驚かされました。 そこが私立校のよいところの一つです。その方は地学の先生で、私が高3のときに開成に着任され、初めて担当したのが私たちでした。そして先生の最後の1年間、私は校長として同じ学校に戻ってきました。こういうことは公立校ではないでしょうね。 このように自分たちが教わった教員が長く学校にいるので、卒業したあとも、よくOBが母校を訪ねてきますね。教員室に行くと必ず知った顔がいるので、訪ねやすいのでしょう。このようにOBが訪ねてくれることで、よい循環も生まれています。OBの動向がよくわかるので、彼らに頼んで『ようこそ先輩』という、OBの講演会を開催しています。OBのいまの仕事の話や、開成の在校当時の話などをしてもらい、生徒のキャリア形成に活かしています。生徒の関心も高く、今月の会では日曜日の開催にも関わらず約400人の生徒が参加し、話に聞き入っていました> よい先生の条件とは? 基本的には二つの条件が必要だと思います。内容は担当教科によって、それぞれ違うわけですが、教科についての深い学問的な知識です。すべての教科に共通して大切な伝達力が二つ目です。自分が考えていることを、どうやって生徒の頭の中に伝えこむか。言葉であったり、ゼスチャーであったり、板書やスライド、プリントなど、いろいろな手段を使って、うまく生徒に伝えなくてはなりません。 さらに授業をマンネリ化させないことです。私は、先生というのは駅長型と運転士型の二つのタイプがあると思っています。たとえば、数学の先生が因数分解を教える場合、ベテランの先生だと、何回も何回も教えているわけです。 駅長型の先生の場合は駅に立ち、担当学年の列車が駅ホームに入ってきて、止まっている間だけ教えて、次の学年になり自分の目の前を通り過ぎて、ホームから出ていくのを見送るのが駅長型の先生です。 一方、運転士型の先生は、生徒と一緒に電車に乗って、教科を教えます。先生にとっては毎年同じことをしているだけかもしれませんが、生徒にとっては新しい体験なわけです。ですから、同じ電車に乗って生徒をよく見ることが肝要です。そうした生徒のために授業をマンネリ化させないことが大事だと思います。教えることは一緒でも、生徒は毎年違いますから 生徒にとっては運転士型の先生が新鮮ですよね。開成の先生方は皆さん運転士型です。 「開成×灘式」思春期男子を伸ばすコツ 「いまの時代こそ男子校が求められている」と語る柳沢校長 「それを言葉通りに受け止められると誤解の元になります。生徒の先回りをして、手取り足取り教えませんよ、という意味です。なぜなら10年後、大学を卒業すると生徒には先生がいないわけです。自分で判断しなければいけない社会人になる。ですから、中高時代に自主性を育てて大人になるための準備をする必要があります。生徒の自主性を育てるためには、まず生徒に自分で考えさせ、行動してもらいます。そして生徒が壁に突き当たり、どうすればよいかアドバイスを求めてくれば、手助けをします。自分からアドバイスを求めるということは、自主性の発露ですか」 「いまの中学、高校生が育っている環境をみますと、家庭の中では母親が関わる部分が非常に大きいように感じます。そうなると男の子の場合は、異性である母親がその教育を担うことになります。そうした中で私は、同性の子どもと異性の子どもとでは、親の対処の仕方が違うように強く感じています。親は無意識かもしれませんが、おそらく本能的に違うのです。同性の子どもに対しては、親は自分も同じ成長過程を経験をしているので、共感できる部分があり、それゆえに厳しく接しがちです。それに対して、異性の子どもに対しては、わからないことだらけで、その分、どうしてもかわいく思う気持ちが先に立ってしまう。主たる教育の担い手が母親だと、どうしても男の子に対して甘くなってしまいます。 さらに、中学・高校の時期では、男子と女子とを比べると、女子の方の発達が早い。男の子が共学に通った場合、家庭では母親に甘い扱いを受け、学校では女子生徒のリーダーシップのもとで、補佐役をつとめるということになります。そうすると本来そうしたリーダーシップをとる潜在能力を持った男の子が、経験する場がないためそれを十分発揮できなくなってしまうかもしれません。もちろん全員がリーダーシップを発揮する必要はないのですが、男子校の場合はそうした潜在能力を持った男の子が実力を発揮することができる。いまの時代こそ男子校が求められていると思っています」 クラスごとで引き継ぐ運動会の戦術 とかく東大合格実績のような勉強面での実績に注目が集まりがちですが、決して勉強一本やりの学校ではないと聞きます。 部活や委員会活動といった課外活動は、大部分が高3になると終わりますが、中1から高2まで約1700人の生徒が、なんらかの形で、課外活動に参加しています。 つい最近、中学1年生の2学期に調査したところ、その学年の生徒300人が、のべで約600人、課外活動に参加していました。つまり、生徒1人がだいたい二つの課外活動を掛け持ちしているということです。 高校3年生の課外活動は5月の運動会で終わりとなり、そのあとは一気に勉強モードに入ります。下級生にとって先輩の面々は、よきお手本であり、自らの将来の道しるべ的な存在でもあります。先輩たちは高3の運動会まで課外活動をめいっぱいやるわけですよ。とことん打ち込むので、最後は燃焼し尽くし、達成感を得て課外活動を終える。そこから受験に向けて猛勉強し、志望の大学に合格する姿を下級生たちが見て、自分たちも高3の運動会まで課外活動に打ち込むことができると安心するわけです。そうでないと不安になるでしょうね。 ちなみに開成では、中1から毎年クラス替えが行われますが、それは高2までで、高校2年と3年は同じ顔ぶれで2年間過ごすことになります。それはなぜかと言いますと、運動会のノウハウを次の世代に引き継ぐためです。クラスごとに伝統的な戦法があって、最近はビデオで分析するなど、さらに緻密なものになっています。その戦術を引き継ぐために、クラス替えをしないのです。クラスごとに8色に色分けされ、OBはそれぞれその色に誇りを持っています> 私学を始め、中等教育の段階での国際化対応については、どのように見ていらっしゃいますか? 生徒以上に、その保護者がそれをより強く意識しているように感じます。いまの中学、高校生の保護者は、だいたい40代から50代と、いままさに日本の社会の中の中核として、企業活動などの分野で世界を相手に仕事をしている世代です。そうした中、過去に自分が受けてきた教育を振り返り、そして自分の息子が同じような教育を受けたと考えたときに、いま自分たちが得ているような満足感、豊かさにまで彼らは達することができるのだろうかと、漠然たる不安を感じているように思います。 とくに日本人の表現力の弱さに危惧を抱かざるをえない。日本は、『沈黙は金なり』の国であり、あからさまに話すことはしない。暗黙の了解の文化は、日本人にとってはとても居心地の良いものです。ただ、文化的・歴史的背景が異なる外国人とビジネスの交渉をするときに、暗黙の了解は通じないわけです。やはり自分の考えていることを、相手にうまく伝えないといけない。そういった背景の異なる外国人と合意を形成できるようになるには、海外経験が必要と考える保護者が増えているようです。 海外の大学で学びたいという希望を強く表明する生徒も継続的に出てきました。そのような生徒の希望に応えるのが開成の伝統ですから、学校側としていろいろな受け皿づくりを進めています。海外大学のアドミッション・オフィス(AO)の担当者との会合を持つツアーに英語科の教員を派遣したり、在校生と保護者を対象にした海外受験フェアを催すなどして、海外大学進学志望者のサポートを行っています。 一人立ちのスキルが身に付く教育を… 平成二十六年八月二十一日 |
私がいつも買い物をしているスパーマケットに近いところに、参考1に見られる写真(リホーム後)のようなお宅があった。 2~3月前、改造工事が始まっていた。何か家庭の事情でもあるのだろうかと、思っていた。 工事が終わって、ある日、お宅の前で年配の女性が男性の散髪をされていました。そちらをチラッと見ますと女性の方が微笑されて頭をさげられました。ほほえましい様子で老後を温和に過ごされれいらっしゃるなあと、以前の私たち夫婦が我が家のサンルームで話しながハサミでチョキチョキと切り取っていたのを思い出しました。 11月に入り、通りがかると「こころの里━小規模多機能型居宅介護━」の小さな看板が張り付けられていました。 なるほど、この為に改造されていたのだと紊得できました。 透明な窓を通して、そうですね7~8人の方が前掛けをきて、キッチンと大きな食卓のある広間で楽しそうに料理をされていました。自動車が玄関前に数台ありました。 ご年配の方々が集まって食事をしたり、話し合っているのだと思いました。また大きな部屋の隣に小さな部屋があり、やわらかい椅子が数脚ありました。たぶんお互いが静かにお話しされるためのものだろうと。 だが、「小規模多機能型居宅介護」とは? 知りませんでした。さっそくP.C.で調べると参考2の記事がありましたので記載しておきました。 また、私のホームページ「私の生活圏は狭い だが広い」(参考1)に、この家を追加しましたのでご覧ください。 高齢化がますます進み、対処するためのいろいろな政策が打たれています。また、地域の人々もさまざまな方法で立ち上がっています。それに対応する「少子化」も問題になり、人々の意識は急速に変化しています。家族体制も変化しています。 日本人は変化に強い国民性があるものと信じています。きっとこんな情況にも柔軟に受け止め進歩してゆくだろう……。 社会の変化のほんの一例をかいまみせていただきました。
参考1:私の生活圏は狭い だが広い
平成二十七年十一月十五日 |
いつの頃からか映画を観ることは殆どなくなっていた。若い頃は友人たちとまた一人で映画をみたものである。 平成28年、私たちの公民館便りで、下記の案内があった。 その案内では定員50人、それに達すれば打ち切りだと書かれていた。私は、是非見たいものだと、公民館にゆき、定員になっても立ち見は出来ないのかと聞くと、それはないですと。9時30分には公民館を開きますと、言われた。 そこで、当日の9時15分ころ公民館へ向かった。しかし集まったのは20人であった。 私は約1時間半の上映を楽しむことができた。終わって近くのらーめんの店で昼食。楽しいごぜんでした。 感想:アメリカ映画は沢山みていた。今回の映画鑑賞で、特に感じたことは、参考:「ユタ州とモルモン教について」の中に記載されていた、Go West ということばである。この言葉には、Gold Rush であり、今回のようにモルモン教における布教の新天地を開拓する意味に使われていることを教わったのは収穫であった。 平成28年度 富山公民館主催講座 冨山映画会 毎月上映
12月22日(木)10時~12時
監督;ジョン・フォード 主演;ベン。ジョンソン、ハリー。ケリー・ジュニア、ジョアン・ドールほか モルモン教徒の開拓者隊が、ユタとアリゾナの境、サン・フワンに新しい土地を求めて出発した。トレヴィスとサンディの護衛で、一隊は自然の障害そものともせず進んだ。途中一行は飢えた見世物師の一団を拾い上げた。一団中の踊り子デンヴァアはトレヴィスにほのかな好意を寄せた…。 参考:幌馬車(1950)アメリカこんな日は映画を観よう/ウェブリブブログ 参考:ユタ州とモルモン教について アメリカの国立公園を多く保有する州のひとつであるユタ州は、合衆国内でも少々変わった州であり、ただ単に国立公園を観光するだけでない一風変わった見方をすることができる。 ユタ州は人口223万人のうち約70%がモルモン教徒である。2000年の国勢調査では、ユタ州人口の68%がモルモン教徒であると答えていた(現在ニューヨークから西海岸にかけて全米約800の宗教がある)。モルモンの正式名は"CHURCH OF JESUS CHRIST LATERDAYS SAINT(末日聖徒キリスト教会)"で、モルモンはニックネーム。 キリスト教会でありながら変わっていると言われる所以は、最近まで一夫多妻制を奨励していた事、お茶、コーヒーなどの刺激物は一切摂取しない、起きている間は原則的に働き、収入の十分の一を教会に紊める…などの厳しい教えからきている。 日本でも世界でも実にいろいろな形の宗教が今日存在しているが、モルモンは、1830年アメリカ合衆国にてジョセフ・スミス・ジュニアによって創始されたキリスト教である。日本における信者は約12万人。バーモント州出身のジョーゼフ・スミスが ニューヨークにいた頃、モローニの天使が金の板に教条を書いて彼に手渡ししてきたのが始まり。 1820年代はGREAT AWAKENING(グレート・アウエークニング)時代と呼ばれた宗教ブームであり、どんな宗教でも多くの信者を寄せ付け、新大陸では各種のキリスト教宗派が対立抗争を繰り広げていた。 「赤毛のアン」シリーズを読んだ人なら、「長老派教会」「メソジスト派」という言葉が何度も出てきたのを覚えているかもしれない。赤毛のアンとその周辺人物たちはみんな長老派で、露骨にメソジストをバカにした発言を繰り返し、当時の人々は本当に正しい教えはどれなのだろうと疑問を抱き出していた。 信仰厚きジョセフ・スミスは、どの宗派が正しいのだろう、と悩んで、結局どれにも属さずにひたすら祈りを行っていた。そこへ神さまの啓示が下り始める。 あるとき神様は、モルモン経のありかをジョゼフ・スミスに告げる。モルモン経の神様は少々変わっており、何度もしつこく三回繰り返すという癖があり、今でもモルモンの人には何回か言葉を繰り返す人が多いそうだ。啓示を受けたジョーゼフが山の中に行き、モルモン経のヘブライ語版を書いた金版を掘り出して、さらに一緒に埋めてあった翻訳胸当て(ウリムとトリム)をつけると、ヘブライ語なんて見た事もない彼でもすらすら読める事ができたと言う。残念ながらこの金版も翻訳機も神様に返却されてしまった。 モルモンの「起きている間は働き続ける」という教えはジョーセフ・スミスが説いたが、そうして働き続けるうちにモルモン教徒は富んでくる。富んでくると周りからやっかみが起き、迫害が始り、東海岸にいられなくなり、イリノイ州へと移って行く。当時信者4万人。ちなみに当時の州の平均人口は6万人というから巨大な集団であった。スミスは大勢の信者に支えられ、1844年の大統領選に立候補するが、選挙運動中暴徒に教われ死亡。これを期に教団は、ブリガム・ヤング指揮のもとにユタ州(当時は州ではない)へ向かう。ヤングはスミスと異なり、宗教的な人間というよりも教団の代表としてモルモンの普及活動を積極的に行った。ヤングがいなければ今のモルモン教団はありえないとも言われている。 アメリカの州について 1789年に西部開拓法にて定められた区画整理法で6マイル四方ごとに区画整理をして行き、1マイル四方(640エーカー)を$640で払い下げるという大雑把なもので、人口密度は大体平均で1マイル四方に3~4人。この料金は後100年間据え置き。一定の区画内に6千人集まったら準州、6万人集まったら州として認められた。そもそもフロンティア精神、西へ行く(Go West)という言葉はアメリカでは単に西に向かうだけはなく、夢や希望を持つ事を意味する。今に残るモルモン・トレイルを、迫害されながらも希望を新天地につなぎ、教団は西へむかった。 ロッキー山脈越えは厳しく、ジョーゼフ・スミス亡き後、途中で大半が挫折、離団したが、1847年に数百人のモルモン教徒が現在のユタ州、ソルトレークシティに到着する。 当時の教祖ブリガム・ヤングが小高い丘の上からソルトレークシティのあたりの台地を指差し"ここは我々の地である"と宣言し、定着をはじめる。なにもないユタで数百人の小集団が生き延びるのはとてもきつかった。 折りしも西部開拓時代。モルモン教団の中にはダニテ団という過激的な集団が結成したり、教徒を増やすためにかなり残虐な行為を行った事もあるという。 そして、子孫を増やすためにブリガム・ヤングが行った政策は一夫多妻制の導入。 ブリガム・ヤングは前からジョセフ・スミスに「一夫多妻制」を提案していたのだが、スミスはそれを受け入れなかった。ところがスミスが死んで、教団がユタに入ってしばらくすると、ブリガム・ヤングはジョセフ・スミスから受けた啓示ということで一夫多妻制を開始させた。 (追記:ただし、一部の資料では、そうではないという話もある。ジョセフ・スミスも一夫多妻を希望しており、あるとき神様からそういうお告げを受けて妻に相談したところ、妻はスミスの目の前で黙って結婚誓約書なるものを破り捨てたという。) 長い間、ユタ自治区はアメリカから半ば独立した存在になっており、税金を収めず、それを治めさせようとアメリカ政府が裁判官等を送り込むと殺戮を繰り返し、アメリカで州と認められたのはかなり長期に軍事的な対立をしてから。騎兵隊つきで裁判官派遣、さらに一夫多妻の廃止という条件付きで、ついに1896年米国内で45番目の州となった。 2016.12.23 89歳 |
2016年、リオデジャネイロオリンピックが開催された。次は2020年、東京で第二回目が行われる。東京オリンピック(第一回目)では新幹線も開通した。昨日のように思われる。 私は会社勤めをしていた。岡山からの東京への出張も日帰りで出来るようになった。 世界各国からアスリートたちが集まり、素晴らしい成果をあげられた。その中の一人にベラ・チャスラフスカさんもいた。 彼女は、金メダル7個という輝かしい業績を上げました。しかも、祖国の真の英雄であり、日本では「東京の恋人」と呼ばれています。 「プラハの春」で「二千語宣言」に署名し、祖国の自由・平和・民主主義を貫きました。 栄光とどん底(身分を隠し掃除婦としての生活)、人々の賞賛と裏切りに翻弄されながらも、また家庭的にも筆舌に尽くしがたい事に耐え、自分の信じる道を曲げず、歩み続けました。ごく最近、NHKBS1で放映されました。 ベラ・チャスラフスカさん元体操選手[チェコ] 2016年8月30日死去膵臓がん享年75歳 ベラ・チャスラフスカ(1942年5月3日 - 2016年8月30日)はチェコスロバキア、プラハ出身の体操選手。 1964年の東京オリンピックで、ベラは人気選手となる。 東京大会(1964)で、女子体操個人総合、平均台、跳馬で金メダルに輝いたベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア・現チェコ)は、その端正な美貌と優雅でダイナミックな演技で日本中を魅了し、「東京の恋人」と呼ばれました。次のメキシコシティー大会(1968)でもその美しさは健在で、個人総合連覇を達成し、床、段違い平行棒、跳馬でも優勝を果たしました。 彼女の運命はしかし、その後大きく変化します。平均台、跳馬と個人総合の金メダルに加え、団体でも銀メダルを手にした。 優美な演技は日本において「オリンピックの名花」「体操の名花」と讃えられた。 しかし、彼女のメキシコオリンピック参加は、政治的事情のため非常に危ぶまれていた。 彼女は1968年のチェコスロバキアの民主化運動(「プラハの春」)の支持を表明して「二千語宣言」に署名しており、同年8月のワルシャワ条約機構による軍事介入プラハ侵攻によって身を隠さざるを得なかったのである。 冷戦期の1955年、ワルシャワ条約に基づきソビエト社会主義共和国連邦を盟主とした東ヨーロッパ諸国が結成した軍事同盟 1968年のメキシコ五輪はプラハ侵攻の直後であり、彼女はオリンピック直前にようやく出国を許可された。 彼女はこのとき、祖国の屈辱をはね返すために、最高の演技を誓い競技に臨んだと後に語っている。 五輪本番は、抗議の意を示すため濃紺のレオタードで競技を行った。 不十分な準備の中、圧倒的な強さを見せるが、ゆか競技の判定において、この政治的事情の影響か、金メダルは微妙な判定によってソビエトの選手とダブル受賞となった。 国際政治に翻弄された 「東京の恋人」 当局に連行されて訊問を受けることもしばしばで、所属していた体操クラブからも追われてしまいます。しかし、署名の撤回を求められても、彼女は頑として拒否し続けました。本来は政治的主張の強い人ではなかったといいますが、自らの信念に正直であり、苦境にあってもその姿勢を貫き通したのです。 1989年、東欧に民主化の波が押し寄せると、無血革命として知られる「ビロード革命」により、チェコは共産党の一党独裁統治を覆して真の民主化を達成します。彼女と同様に迫害を受け続けた、劇作家でありビロード革命の中心人物であったハヴェルが大統領に選ばれると、彼に請われてチャスラフスカは大統領顧問に就任。92年にはチェコ・オリンピック委員会の会長も務めました。ようやく彼女の復権が認められたのです。 二〇一六年(平成二十八年)十月十七日 |
略歴 1900年1月1日 岐阜県加茂郡八百津町に父好水、母やつの次男として生まれる。 1919年 早稲田大学高等師範部英語科中退、外務省留学生としてハルピンでロシア語を学ぶ。 1924年 外務省に奉職。満州、フィンランド、リトアニア、ドイツ、チェコ、東プロセイン、ルーマニアの日本領事館に勤務。 1940年夏、リトアニア共和国首都カウナスの日本領事館領事代理時代に、ナチスドイツの迫害をのがれようとするユダヤ人にビザを発給し、約6000人の尊い人命を救う。 1947年 帰国。外務省を退職。東京PX、米国APONJE商会、ニコライ学院教授、NHK国際局、国際交易(株)等に勤務。1985年1月イスラエル政府より「ヤド・バシェム賞」(諸国民の中の正義の人賞)を受賞 1986年7月31日 逝去(86歳) 幼年期~旧制中学校 千畝は1900年1月1日、父好水、母やつの次男として岐阜県加茂郡八百津町に生まれた。 父は税務署勤務で転勤が多く、千畝は小学校を三重県、岐阜県、愛知県と転校しているが成績はよく、「全甲」の通知表も残されている。千畝が小学校を卒業する前に、父は単身で朝鮮総督府財務部に赴任していった。その後、父は朝鮮の京城(現ソウル)で旅館業をはじめかなりの盛況だったようだ。1916年に家族は、朝鮮に引っ越したが、愛知県立第五中学校(現愛知県立瑞陵高校)へ進学していた千畝はひとり日本に残り、1917年に中学を卒業してから家族の住む京城に行った。成績の良い千畝が医者になることを期待していた父は、京城医学専門学校の受験手続きをして待っていた。だが、千畝には医者になる気は全くなく、入学試験の当日、母が作ってくれた特別の弁当を食べただけで、受験はせず帰宅してしまった。 「母やつが当日のために、わざわざ特別の弁当まで作って、家から送り出してくれた。ところが、医者になることは私はイヤで、結局この入学試験は受験しないで、弁当だけ食べて帰宅した訳でしたが、父はそのことを大変に怒り、それならば家を出て働けと言いました」(千畝の手記より) 他に流されない、千畝の意志の確かさが伺えるエピソードといえるだろう。 大学を中退し外交官へ ハルピン時代 ロシアの専門家として頭角を現す 一年の浪人生活の後、1918年早稲田大学高等師範部英語科予科に入学した。語学の得意な千畝は英語の教師になることを夢見ていたが、父の意志に反しての入学だったため、学費・生活費の一切をアルバイトで賄わなければならず、苦しい生活を送っていた。大学2年生の時、偶然、大学図書館で外務省の官費留学生の募集広告をみたことが、人生の転機となる。官費で3年間留学して語学を身につけ、のちに外交官に採用されるというものであった。「アルバイトをしなくても勉強ができる!」 願ってもないチャンスだが、受験までの期間はわずか一か月。必死の勉強が身を結び、みごと合格した。 1919年10月、外務省のロシア語留学生としてハルビンに渡った千畝は、生来の語学の才能で4か月後には日常会話に困らない程に上達したという。 1924年に外務省書記生に採用され、ハルビンの日本領事館ロシア係に就任する。1932年には満州国の建国が宣言され、満州外交部に派遣された。千畝は外交部時代に北満鉄道譲渡交渉に関わり歴史に残る成果を上げたが、1935年あっさりと満州外交部を退任し外務省に復帰する。この時のことを手記に「若い職業軍人が狭い了見で事を運び、無理強いしているのを見ていやになったので、本家の外務省へのカムバックを希望して東京に戻りました」と記している。 ヨーロッパへ赴任 各国外交官を招いて華やかなパーティー 1936年、モスクワ大使館への赴任の辞令があったが、ソ連は千畝のビザの発行を拒否。外交官の入国ビザが拒否されるということは、異例のことであり、北満鉄道譲渡交渉で見せた千畝の手腕をソ連側が警戒したためとも推察されている。ソ連への赴任が不可能となったため、翌年、フィンランドのヘルシンキの日本大使館への赴任が発令された。杉原一家の10年にもわたる海外勤務の始まりだった。2年後の1939年、リトアニアの首都カウナスの日本領事館領事代理に任命された。もともとカウナスには1人の日本人もおらず、本来の領事館としてではなく、国際情報収集として領事館が開設されたようである。カウナス赴任にあたっては、危険がともなうとして氏名を変えていくように示唆されたが、千畝はこれを拒んだという。 6000人の命のビザ 領事館前でビザ発給を訴えるユダヤ人たち 1940年 1940年7月、ナチスドイツに迫害されていたユダヤ人たちは、日本通過ビザを求めカウナスの日本領事館に押し寄せた。オランダやフランスもナチスに占領され、ソ連から日本を通って他の国に逃げる他、もはや助かる道がなくなっていたためだ。千畝は5人のユダヤ人代表を選び話を聞いた。数人のビザなら領事の権限で発行できるが、数千人のビザとなると本国の許可がいる。電報を打って問い合わせたが、日本政府は再々にわたり「ユダヤ人難民にはビザを発行しないよ」回訓を与えてきた。 一晩中考えぬいた末、千畝は外務省の意向に背き自らの判断でビザを発行することを決断した。それからおよそ1か月の間、千畝はビザを書き続け、これにより6000人とも8000人ともいわれるユダヤ人の命が救われた。 リトアニアがソ連に併合された後、千畝はドイツ、チェコ、東プロセイン、ルーマニア領事館に赴任。第二次大戦が終結し収容所生活を送った後、1947年4月やっとの思いで杉原一家は日本に戻った。 帰国後2か月が経った6月、外務省から突然依願免官を求められた。外務省きってのロシア通といわれた千畝、47歳にして外務省を去ることとなった。 後半生 外務省を辞めたのち勤務した東京PXの新年会 1951年 退官後は生活のために職を転々としたが、語学力を活かし東京PXの日本総支配人や貿易商社、ニコライ学院教授、NHK国際局などに勤務した。 1960年からは川上貿易(株)モスクワ事務所長として再び海外での生活を送ることになり、国際交易(株)モスクワ支店代表を最後に退職し日本に帰国したのは、75歳の時であった。 1985年イスラエル政府よりユダヤ人の命を救出した功績で、「ヤド・バシェム賞」(諸国民の中の正義の人賞)を受賞。 翌年7月31日、静かにその激動の人生の幕を下ろした。享年86歳。 『決断・命のビザ』より 渡辺勝正編著・大正出版刊より
平成30年1月13日(現地時間)、安倍総理(1954年9月21日:年齢 63歳)は、ラトビア共和国のリガを訪問しました。 総理は、マーリス・クチンスキス首相と会談を行った後、共同記者発表を行いました。 続いて、自由の記念碑を訪れ、献花を行った後、クチンスキス首相主催昼食会に出席しました。 |
1985年(昭和60年)8月12日、ボーイング747SR*100型機のJA81119号機は、日航の定期便として羽田~千歳503便、504便、羽田~福岡363便を経て、366便として福岡から17時12分に東京・羽田空港に到着している。18番スポットでその後の123便として大阪への飛行準備をしていた。 乗客は夏休みを利用した家族連れやビジネスマンが目立ち、509人が搭乗していた。この中には元マネージャーの選挙応援で大阪に向かう歌手の坂本九さんや、21年ぶりのリーグ優勝を目前に控えた阪神タイガース球団社長・中埜肇さん、ハウス食品社長・浦上郁夫さん、元宝塚歌劇団の娘役で女優の北原遥子さんなどの著人も乗り合わせていた。 操縦席では左側の機長席には機長になるために訓練中の佐々木祐副操縦士が座り、教官の高濱雅己機長が右席に着いた。福田博航空機関士は、副操縦士席後方の定位置に着席していた。客室では12人の客室乗務員が職務についていた。 日航123便は18時4分にスポット18から移動を開始し、滑走路15に入った。 524人の乗客・乗員を乗せた123便は、燃料3時間15分ぶんを搭載して18時12分に羽田空港を離陸した。123便は離陸後、機首を180度(真南)に向け、1万3000フィート(39600m)まで上昇が許可された。このあと、2万4000フィート(7315m)への上昇が承認された。管制は羽田空港進入管制部から所沢にある東京航空交通管制部に移管され、大島の北を伊豆半島の下田市方面をめざして上昇していった。 18時24分35秒。123便は伊豆稲取港の東約4Km沖の上空にあった。事故調は「ドーンというような音」としているが、ボイスレコーダーを聞いてみると「ドドーンドンドン」と聞こえる。近くにいた生存者(落合由美さん)は「パーン」という乾いた高めの音だったと証言している。破壊音はジャンボ機の60mの胴体内を伝わっていく過程で、高音が減衰し、エコーも混じってコックピットのボイスレコーダー用のマイクに収録されていた。衝撃音に続いて「ビー、ビー、ビー」と3回ブザーが1秒間鳴っている。この警報音は客室内の気圧が1万フィート(3000m)の高さの気圧以下になったか、離陸警報が作動したかのいずれかだと考えられている。 操縦室では機長が「ギアみてギア」といい、続いて「スコーク77(セブンセブン)」と緊急事態を意味する信号の発信を指示している。通常の訓練なら異常事態を把握して、そのときの状況で必要なら「スコーク77」を発信することになっている。それがいきなり「スコーク77」の発信指示したことは、よほど危険を感じるような振動であった可能性が高い。 123便は相模湾上空で垂直尾翼の大半を失い、同時に油圧4系統全ても切断されて徐々に操縦ができなくなっていった。もちろん、乗員は原因について知るよしもない。焼津市上空を通過したあたりから次第にダッチロール(機首の横揺れと左右の傾き)が激しくなり、右に60度、ついで左に50度も傾いた機長は「バンクそんなにとるな」と注意するが、このときはすでにパイロットの思い通りの操縦ができなかったと推察される。 ダッチロールによる機体の揺れで、風切り音が笛の音のようにぶ気味に聞こえてくる。フゴイド運動(機首の上下運動)も加わり、15度から20度も機首が上向き、今度は10度から15度も機首下げの状態を繰り返した。運行乗務員の思うように上昇、降下、旋回もできず、当初、東京航空交通管制部に要求した大島経由で羽田空港に引き返すこともできない状態になっていた。123便は右に大きく旋回し、北の富士山の方向へと飛行を続けていく。 客室では18時30分に乗客で大阪・箕面市の谷口正勝さんが「まち子 子供よろしく」と機内に備えてある紙袋に遺書を書いている。その他にも横浜市の吉村一男さん、神奈川県・藤沢市の河口博次さんも遺書を書いている。123便はこのころダッチロールと激しいフゴイド運動を繰り返している。 操縦室では機体の操縦に次第に慣れ、左右のエンジンの操作がスムースになり、機体も安定し始めていく。このころ、乗員同士の会話では酸素マスクをつけるかどうかのやりとりがあるが、酸素マスクをつけないまま最後まで操縦を行う。乗員が酸素マスクをつけていなかったと考えられる理由は、酸素マスクをつければくぐもった声になるが、そうなっていないからである。航空機関士と客室乗務員のやりとりでは、壊れた場所の確認と酸素マスクの話に移っていく。航空機関士は日航との会社無線(カンパニー)で「アールファイブ(R5=右側5番目)のドア、ブロークン」と報告している。これが当初、事故原因だとして発表された。 機体の調整は左右のエンジンを噴かしたり、絞ったりしながら失速しないように飛行を続けるが、機体のダッチロール、フゴイド運動に対しては、車輪を下ろすことで安定させようと試みている。一度、車輪を下ろせば油圧がないため、二度と上げることはできない。車輪が下ろされると空気抵抗が強くなり、速度が下がり、失速につながる可能性がある。それでも機体を安定させることが大事であったのだろう。失速を防ぐためにはエンジンの推力を増加させる必要がある。大きな推力を出すと、左右のエンジンのバランスが難しくなり、山梨・大月市付近では大きな旋回をすることになる。 7000フィート(2100m)あたりまで降下すると、今度は周辺の山に気をつけねばならない。周辺には雲取山(2017m)、甲武信ヶ岳(24755m)、八ヶ岳(2899m)がそびえている。山にぶつかるぞ「ライトターン」と指示を出し、「マックスパワー」と最大限に推力を上げて危機を乗り越えていく。 操縦室からは東京航空交通管制部に何度も「操縦不能」を伝えている。羽田空港の管制も加わって123便に周波数の変更を指示するが、123便は操縦操作に追われて自分自身の位置が分らなくなっていた。羽田管制は「熊谷(埼玉県)の西、25マイルだ」と伝える。秩父山系の埼玉県大滝村あたりを飛行していた。 123便には最期が刻一刻と近づいていた。長野県の川上村、南相木村に少し入ったところで右に旋回し、御座山をかすめて御巣鷹山方面へと向かっていく。川上村の梓山地区では農作業中の人たちが、頭上をゆっくり旋回していく123便を目撃していた。目撃者は「何か変な感じだった」と123便の飛行状況について証言している。ただ、垂直尾翼を半分以上失い、車輪を出して飛んでいるところまでは、目撃者の多くは確認していない。 機体は速度が変動し、エンジン推力も大きく変動している。もはや、乗員による操縦操作は不可能となっていた。墜落時には速度265ノット(時速490km)で、後に「U字溝」とな付けられた尾根の木々に翼端やエンジンが接触し、水平尾翼は脱落した。この時点でボイスレコーダーの録音は終わっている。時間は「18時56分28秒」であった。 残された機体は、北西に570m離れた谷向こうの蟻ヶ峰(神立山)の北北東にあたる無名の尾根に裏返しの状態で激突する。胴体後部が折れ、スゲノ沢に滑り落ちて行く。4人の生存者(落合由美さん、川上慶子さん、吉崎博子さん、吉崎美紀子さん母娘)はこの胴体後部の座席だった。事故調の認定した墜落時間は「18時56分ごろ」としている。位置は北緯35度59分54秒、東経138度41分49秒で、群馬県多野郡上野村大字楢原字本谷3577番地国有林76林班内であった。 墜落現場は黒沢丈夫上野村村長によって「御巣鷹の尾根」と命名される。御巣鷹山の南東2Kmの地点に当たる。 *黒澤 丈夫(くろさわ たけお、1913年(大正2年)12月23日~2011年(平成23年)12月22日)は、日本海軍士官(海兵63期)・操縦士。政治家。戦後群馬県多野郡上野村村長を10期連続で務めた。日本航空123便墜落事故の際に事故処理に尽力したことで知られる。称号は上野村名誉村民。 墜落時の猛烈な衝撃と火災によって、520人の犠牲者の遺体の大半は激しく損傷していた上に、猛暑という季節的な悪条件も加わって腐敗の進行も早いので、身元の特定は困難の連続だった。また、この当時はDNA鑑定技術もまだ十分には確立されていなく、地元・群馬県の医師のほか、法医学者や法歯学者などが全国から駆けつけ、冷房施設のない体育館での猛暑と腐敗臭や遺体保存用のホルマリン臭など、劣悪な環境の中、多数の人々が協力しあって人海戦術で判別作業を進めた。最終的な身元確認作業の終了にはおよそ4ヶ月間という時間と、膨大な人手を必要とした。しかし2人の乗客(うち1人はアメリカ人)の身元は遂に判明しなかった。 事故調は、2年後の6月19日、事故報告書を当時の橋本運輸大臣に提出。事故原因について、1978年(昭和53年)6月、伊丹空港での「しりもち事故」で損傷した後部圧力隔壁のボーイング社修理チームによる修理がずさんだったため、圧力隔壁が金属疲労を起こして破壊され、急激な減圧とその時発生した衝撃波が垂直尾翼に流れ込み、JA8119号機は垂直尾翼の2/3とテールコーン(補助動力装置などが入っている)を失ってしまったとしている。 しかし、この「圧力隔壁破壊説」には多くの矛盾が指摘され、事故から20年経っても本が出版され、航空機専門家、パイロットなど乗務員関係者、マスコミ関係者、そして遺族の方々らが真の事故原因解明を求めている。 以上、本文は主に米田憲司著「御巣鷹の謎を追う」(宝島社刊)から引用。 ★2017年08月12日 御巣鷹の麓 鎮魂の灯籠流し 日航ジャンボ機墜落 追悼慰霊式 上毛新聞 犠牲者の冥福と空の安全を祈り灯籠を流す人たち=上野村 520人が犠牲となった日航ジャンボ機墜落事故から12日で32年を迎えるのを前に、墜落現場「御巣鷹の尾根」の麓を流れる群馬県上野村の神流川で11日夕、遺族らが慰霊の灯籠流しを行った。雨の降る中、「空の安全を祈ります」「安らかに」などとそれぞれの思いを書き込んだ大小300個の灯籠を流し、犠牲者の冥福を祈った。 全員で黙とうした後、村長として初めて参加した黒沢八郎村長があいさつし、「あの悲しい事故から32年。あの日の記憶が薄まることはない。慰霊の園の理事長という重責を果たしていきたい」と述べた。 来賓のあいさつで、慰霊登山を続ける作家の柳田邦男さん(81)=東京都杉並区=は遺族らを前に「事故で奪われた多くの命は消滅したわけではない。支え合い、助け合って明日も生きていこうと語りかけてくれている」と話した。 遺族らでつくる「8・12連絡会」や県内のボランティア団体でつくる実行委員会が主催。JR福知山線脱線事故や東日本大震災、御嶽山噴火など大きな事故や災害の犠牲者遺族も参加し、悲しみを分かち合った。高崎アコーディオンサークルとアマービレ・オカリナ会が慰霊の音色を奏でた。 ※余談:2060年8月23日:日経コラム春秋は、その前の日本経済のコラム記事に対して「上野村の人たちがはゕり知れない貢献をされたことに対して配慮がたりない」と投稿したことに対して、「読者の一人から思いやりがたりないと」指摘された内容の記事を書かれていた。読者の一人は黒崎であった。 |
昭和文学全集 第三十七巻 (角川書店) 昭和二十九年五月十日 初版発行 大内兵衛集 P.105 六月十四日、倉敷レーヨンの創立二十五年の祝賀会が旧高松宮邸で開かれた。旧高松宮邸は芝高輪泉岳寺の上の高台にある。昔の大みょう屋敷の門をはいると、堂々たる洋式の二階建。宮さんが新婚当時に建造されたものかと思われるが、様式はモダーンであり、内部の設計調度至れりつくせりである、今日はむろん宮さんのものではなく、クラブ組織のレストランㇳである。今日の客は数百人で玄関には自動車は数十台並んでいる。客間をぬけてポーチから庭に出る。何百坪かの芝生が青々としてジュウタンのようである。向うの森はウッソウとして、その盛り上っている青葉若葉が空を切るところ、一点の雲もなく紺碧の五月晴れである。お客さんのたれかれ、皆うれしそうにカクテルの杯、ビールのコップを手にして芝生の上でまるくなっている。大多数は実業界の人々であるから私の見知った顔は数えるほどしかない。が安倊能成さん、上野直昭さん、田中耕太郎さんなども見えている。 しばらくにして社長大原總一郎君がマイクを通じてアイサツをした。かれの話によれば倉敷レーヨンも二十五年、先輩の努力によつて社礎ようやくかたいが、時局はいろいろの問題をふくんでおり、むしろこれからがその製品ビニロンの試練の時代である、と。 大原君のアイサツがすんだら、何とか團のバレエだという。いままで木陰にかくれていた三十人ほどの若い娘さんが、白い洋朊をきて一人の男を真中にして青い芝生の上に躍り出て来た。躍るといつても、何だかダンマリ劇のような仕草をしたり、つまさきで立ち上つてクルクルとまわつたりするのである。バンドは近衛秀麿の指揮。私は、もとの大原労働研究所所長暉峻義等(てるおか ぎとう)君と、今は法政大学のものとなついている大原社会問題研究所長久留間鮫造君と三人で、同じパラソルの下でサンドイッチをほおばりながらこのバレエを見物した。以下はこの口の悪い三人の老学者の話である。 「バレエとは妙なものだね。日本の女の子が眼のまわりを青くぬつているね。あの男は、赤いカツラをかぶつているが、男にまちがいはないだろう」 「こうして廣いところで見ると、日本の女て、体格の悪いもんだね。ろッ骨が見えてるんじゃないんか。腕が折れそうじゃないか」 「バレエはやはりロシア人のように肉体が立派でなくちゃダメだよ。日本の女は平均十二貫四百匁だ。まあ西洋人の半分だよ」 「あんなからだをもつた日本人では、日本の経済復興も無理だよ。まず肉体を作れだ。それが労働科学第一の要請だね」 「時に、あの着ている着物はビニロンかね」 このとき大原社長がニコニコとわれわれのそばにきた。そこでその着物の問題を提出した。社長いわく「そうではないのですよビニロンはもつと美しいですよ」と。そういつて彼はポケットから宝塚の女優さんをモデルにした十何枚かのビニロン製洋服の見本の写真をとりだした。なるほど、どれもきれいである。それはろッ骨を出していないからであろうか。それともこの女優さんたちが美しいからであろうか。
大原總一郎年譜 昭和26年(1951 41歳) 6月9日 倉敷レイヨン(株)創立25周年記念式典を企画、開催(大阪地区 宝塚大劇場、東京地区6月14日光輪閣)。6月24日大原美術館において諏訪根自子バイオリン独奏会を開催。また本年より25年勤続表彰制度を設ける(表彰状デザイン 芹沢銈介)。 ※黒崎もこの表彰状を頂いた。 2019.06.06記す。 |