長谷川眞理子著『科学の目 科学のこころ』(岩波新書)1999年7月19日 第1刷 1999.08.26購入 科学と人間と社会について考える39のエッセイ
はじめに―― 「この先はなし」から「さらに先へ」 Ⅰ 生物の不思議をさぐる………………ムシの妊娠、ムシの子育て コンコルドの誤り ハンディキャップの原理 対称性と美的感覚 抽象化された「生物」」は存在するか? 朝三暮四 ウサギはサルの親戚? Ⅱ 科学・人間・社会……………………二つの「文化」のあいだの深い溝 サイエンティフィック・リテラシー 薬害エイズ問題と科学者の倫理 生殖技術と「親子の種類」 ハロ―、ドリー― 人間の多面的理解に向けて 脳が脳の働きを理解する 科学者と科学哲学者との対話 自然史の復活 誤訳・翻訳・学術用語 HAL、R2-D2からアンドロイドへ Ⅲ 科学史の舞台裏………………………巨人の肩の上で 「エピオヒッパス」にまたがる「エオㇹモ」 デカルトの誤りとデカルトの慧眼 フェメールとレーウェンフック 恐竜のロマン ピルㇳダウンのいかさま ダ―ウィン紀行 Ⅳ ケンブリッジのキャンバスから…………地球にはどれだけの人間が住めるか? 手紙と会話 ワインとシュニッツェルと国際学会 ミツバチの労働 社会的構築としてのアヒル 日本の大学という職場 女性研究者はなぜ数がすくないか? 言語進化の学際的研究 建築物の自然観 牧場の地面に降りた虹 不思議な虹はこうしてできた(香川弘玄・村松伸二) ニュートンのネコ おわりに――天使になろうとして野獣になる 注 あとがき
☆はじめに☆
――「この先はなし」から「さらに先へ」―― 古代ギリシャの時代、人々は小宇宙と大宇宙の対応ということを考えていた。人間のからだが小宇宙であり、本当の宇宙が大宇宙である。人間のからだの真ん中に心臓があるように、大宇宙の中心にも太陽がある。人間のからだに血液が流れているように、大地には川があり水が流れている……というような対比だ。つまり、古代ギリシャの時代人々は、人体の構造や仕組みを、自然を理解する一つのモデルとして使っていたのである。 よくわからないものを理解するための助けとして、モデルが使われる。しかし、人々のイマジネ―ションは、その時代の身近な生活によって、もっとも複雑でしかも身近なイメーシできたものは、人体だったのだろう。知識が増えるとイマジネ―ションも広がる。もちろん、時代の限界を超えたイマジネ―ションをもつことのできる天才もときには出現するが、多くの人にとって、知識の限界はイマジネ―ションの限界をも規定しているだろう。 一四九二年にコロンブスが大西洋を西に航海し、カリブ海諸島に到着するまで、ヨーロッパの人々は、ジブラルタ海峡は世界の果ての門だと思っていた。ジブラルタ海峡は、地中海が大西洋に接する出口であり、その狭い切り立った崖は、ヘラクレスの二本の足にたとえられていた。その先の海はやがて無限の闇へと落ち込んでいく。それで世界は終わりであり、その先はもうない。そのジブラルタ海峡を領有するスペイン王国にとって、世界の果ての門を守っているということは、一種の誇りであった。そこで、当時のスペイン王家の紋章には、ジブラルタ海峡を象徴する二本の柱の図とともに、"Ne plus ultra" という文字が書かれていた。これは、ラテン語で「この先はなし」という意味である。ジブラルタの西で世界は終わると思われていたのだから、これは、当時としてはたいへんふさわしい言葉である。 ところが、コロンブスによる航海以来、ジブラルタは世界の果てなどではなく、その先には、思ってもみなかった新世界が開けていることがわかった。この知識のおかげで、スペインは世界の果ての門を守る国ではなく、未知の世界への入り口を守る国となった。そうなると「この先はなし」という標語は間違いである。そこで、スペイン王家は、もっとも合理的、節約的方法でこの紋章の標語を改定した。単純に、否定詞の Ne をとって"Plus ultra" にしたのである。これで「この先はなし」が「さらに先へ」という意味になった。これほど最小限の努力で、最大限の意味転換を果せたのだから、考えた人は大満足だったに違いない。 ジブラルタからの船出という図柄は、知識の地平の広がりという、象徴的な意味にも使われる。たとえば、右の図は、一六二〇年にイギリスのフランシス・ベーコンが著した『ノーヴム・オルガヌム』の表紙であが、ジブラルタ海峡の両側の崖を表わす二本の柱が描かれ、そこから船が大洋に乗り出している。ここには、新しい知識を求めて未知の大海に乗り出すという意味がうかがわれる。 と、ここまでの話は、偉大な生物学者でもあり、科学の行ないを外から眺める余裕をもっていたという意味で科学哲学者でもあった、イギリスのピーター・メダワー卿が『科学の限界』という本の中でこの話に紹介しているものである。そのメダワーも、この話を自分で発掘してきたわけではなく、マージョリー・ニコルソンという人が、ロックフェラ―大学で行った講演の中でこの話に触れているのを孫引きしているのだ。かくいう私は、この本でさらにまたそのメダワーを孫引きしている。 本当であるかどうかはともかく、私はこの話がとても好きだ。それは、科学の発見によって人々のイマジネ―ションが受けてきた影響の歴史を、この話は、非常にうまく象徴しているからである。科学の研究成果は、これまでに人々が思ってもみなかった自然の実際をつぎつぎと明らかしてきた。新しい発見が新しいイマジネ―ションを生み、それはまた、人々の人間観、世界観に革命的変化をもたらした。一度は、もうこの先はないと思っていたことに、つぎつぎとその先をみせてきたのが科学の成果である。 一九世紀の終りごろ、プロシア政府は、もうこれで科学的発明発見は底をついただろうと判断して特許局を閉鎖しようとしたらしい。しかし、また一つ新しい発見が一つあったことで、閉鎖するのはやめになった。その後の歴史が示すとおり、それ以後の科学上の発見は、まだまだうなぎのぼりの勢いである。このように科学の発展は、しかし、人々の生活に何をもたらしたのか? 二〇世紀も終わろうとする現代に生きる私たちには、ナイーヴに進歩を善と考えることは、もはやできなくなってしまった。 ところで、ジブラルタには、バーバリエイプ(Barbary ape)と呼ばれるサルが住んでいる。昔からジブラルタの港にはイギリス海軍が駐屯しており、このバーバリエイプが絶滅するときは大英帝国が滅びるときだと言い伝えられてきた。そのためか、ここのサルたちはイギリス海軍の兵士、および、群をなしてやって来る観光客によって大量の餌をもらっており、当分の間、絶滅する気配はない。このサルたちはまた、長期的な行動研究のの対象ともなっており、この地にふさわしく、科学研究の最先端を担ってもいるのである。 * 私の専門は、動物の行動の進化を研究する行動生態学という学問で、これまで、二ホンザル、チンパンジー、シカ、ヒツジ、クジャクなど、おもに大型の動物を対象にしてきた。最近は人間の行動と心理の進化の研究もはじめている。 しかし、大学の一般教養で、理学部ではない学生に対して科学とは何かを教えるという仕事をするはめになってから、科学というものを少し外からながめることができるようになった。科学と社会との関係なども、理学部にいたときよりもずっとよく考えるようになった。 本書はそのようにして、一科学者である私が、科学という人間の営みに関して思うこと、考えることを、書きつづつたものである。科学が自然や人間を見る目と心、そして社会が科学を見る目と心について、科学が好きな人にも嫌いな人にも、何か伝えられるものがあればと思う。もちろん、そして、科学の好きな人が一人でも多くなってほしいと願っている。 2019.09.30
生物の不思議をさぐる
☆コンコルドの誤り P.13~17☆
まだ乗ったことはないが、超音速機のコンコルドはニューヨークやロンドンの空港でよく見かける。首を曲げたワシのような姿で、意外に小さいのが印象的だ。先日、これが空を飛んでいるところをロンドン上空で見たが、なんとなく、おもちゃの紙飛行機かタコのようだった。このコンコルドは、イギリスとフランスの共同開発の産物だが、結局のところ採算が合わないことがわかっているので、もうこれ以上は製造されない。 コンコルド開発にまつわるエピソードをもとに、行動生態学の分野で「コンコルドの誤り」として知られている考え方がある。いま、一羽の雄の鳥が、ある雌に求愛しているとしよう。これまでに雄は、ずいぶん長い時間を費やし、たくさんの餌をプレゼントに持ってきたが、雌は一向に気に入ってくれない。雄は、このまま求愛をつづけるべきか、やめるべきか? このような状況で、動物たちがどのように行動するよう進化してきたか考えるととき、一昔前には、雄はもうこの雌に対して大量の投資をしてしまったので、いまさらやめると損失が非常に大きくなるから求愛をやめないだろう、という議論があった。ところが、これは理論的に誤りなのである。 コンコルドは、開発の最中に、たとえそれができ上がったとしても採算が取れないしろものであることが判明してしまった。つまり、これ以上努力を続けて作り上げたとしても、しょせん、それは使いものにならない。ところが、英仏両政府は、これまでにすでに大量の投資をしてしまったのだから、いまさらやめるとそれが無駄になるという理屈で開発を続行した。その結果は、やはり、使いものにならないのである。使いものにならない以上、これまでの投資にかかわらず、そんなものはやめるべきであったのだ。 このように、過去における投資の大きさこそが将来の行動を決めると考えることを、コンコルドの誤りと呼ぶ。求愛行動だけでなく、なわばりの確保や子育てなどのさまざまな状況において、どこでやめるべきかという「意思決定」が必要となるだろう。そのとき、過去にどれだけ投資したかに重点をおき、それを目安に将来の行動が決まるとするのは誤りなのである。さきほどの雄がむなしく求愛を続けている雌のとなりに、その雄はまだ一度も求愛していないが、求愛されれば十分に応える気のある雌がいたとしよう。もしそうならば、雄は、過去の投資の量にかかわらず、さっさとそちらの雄に乗り換えるだろう。将来の行動に関する意思決定は、過去の投資の大きさではなく、将来の見通しと現在のオプションによらねばならない。(こう書いても、雄の鳥がそのように意識して思考していることを意味してはいない。そのような行動に導く生理的過程が進化してきたという意味であるので念のため。) したがって、雄が相変わらず求愛をやめないとしたら、それは、過去の投資の大きさのせいであると感じるのは誤りで、現在はほかにオプションがないのかもしれないと考えなければならない。コンコルドの誤りに陥ると、動物の行動の進化の道筋をたどるとき、大きな論理的誤りにはまってしまうのだ。 コンコルドの誤りは、人間の活動にしばしばみられる。これまでにその闘いで何人もの兵隊が死んだから、その死を無駄にすることはできないといって作戦を続行するのもその例である。過去に何人が犠牲になっかにかかわらず、将来性がないとわかった作戦はすぐにやめるべきである。。 考えてみると、私たち人間の思考は、しばしばコンコルドの誤りに陥りがちなのではないだろうか? 一九九六年六月に亡くなったトーマス・クーンが、すでに古典となった『科学革命の構造』の中で、科学者にとってパラダイムの転換がいかにむずかしいものであるかを指摘していた。旧パラダイムに慣れ親しんで研究してきた学者たちは、それがすでに誤りであることを示されても、なかなか旧パラダイムを捨てようとしない。それはまさに、現在の手持ちの仮設の中でどれが一番将来性のありそうな理論であるかという検討に基づくものではなく、これまで自分が大量の投資を行なって理論を捨てたくないという、コンコルドの誤りであるように思われる。 大陸移動説を提出したウェーゲナに対し、その当時のアメリカ地質学会の人物の一人は、「大陸が安易に動くなどという考えが許されるならば、われわれの過去数十年の研究はどうなるのか?」といって反対したというが、これなどは過去の投資に固執する考えを如実に表わした言葉といえるだろう。 ところで、コンコルドの誤りは、人間が動物の行動を解釈するときに犯す過ちであって、動物自体がコンコルドの誤りを犯しているのではない。コンコルドの誤りは誤りなのであって、誤りであるような行動は進化しないはずだからである。ではなぜ人間の思考はコンコルドの誤りを犯しがちなのだろうか? この誤りには、何か人間の思考形態に深くかかわるものがあるように思われる。
☆朝三暮四 P.38~42☆
※参考:朝三暮四 クレヴァー・ハンス(「賢いハンス」)の話をご存じだろうか。ハンスは、今世紀の初頭、ドイツのヴィルヘルム・フォン・オステンという人に飼われていた賢いウマで、数字をみてその数だけ足踏みするだけでなく、いろいろな足し算もこなし、正解にあたる數だけ足を踏みならすことができた。動物にも知的な能力があることを示す例として一世を風靡したが、やがて、ハンスは本当に足し算ができるわけなのではなく、飼い主であるフォン・オステンやほかの聴衆から手がかりを得て、それに反応しているのにすぎないことがわかった。 ハンスは、3という数字を示される三回足を踏みならす。2+3という式を見せられると五回足を踏みならす。しかし、数字や足し算が理解できているわけではなく、正しい答えの数までが終わったときに、ハンスを見守っている人々が無意識のうちにみせる顔の表情や緊張の度合いを察して、そこで足踏みをやめることによって正解に達していたのである。 クレヴァー・ハンスの話は、初歩的な心理学や動物行動学の教科書によく載せられている。しかし、この話の意味するところとしては、「動物はやはり抽象的な思考能力はないのだ」ということであるか、「動物実験をするときには細心の注意を払わねばならない」ということであるか、どちらかの教訓として語られることが多い。 動物実験をする際に細心の注意を払わなければ、とんでもない結論を導くことになるのは真実である。しかし、クレヴァー・ハンスの話は、それ以上ののものも含んでいる。 第一に、ハンスが、人が無意識のうちに出している微妙な手がかりを見破ることができたというのはすばらしいことである。フォン・オステン氏自身は、いかさまをやろうとしていたわけではなく、まじめにハンスに数を教えようとしていた。ハンスは、フォン・オステン氏自身も気がつかない表情やしぐさに気づいていたのである。 ハンスの計算演技の実態を見抜いた心理学者のプングストも、ハンスが実際にどのような手がかりを用いたのかを突き止めることはできなかった。ただ、まわりでみている人間の反応を手がかりにすることができない状況では、ハンスは正解を出すことができず、まわり人々が間違った答えを知らされていたときには、ハンスも間違った答えを出すということを示しただけである。その後、この話が、「ウマは結局のところ計算ができない」という結論に落ち着いてしまった結果、ウマはどんな手がかりを利用していたのか、なぜウマはそのような手がかりを正確に利用できるのか、ほかの動物でもできるのかなどについては、残念ながら研究されていない。 第二に、動物は本当に数の概念をもっていないのだろうか。そんなことはない。さまざまな実験から、ラット、ハト、サル、オウム、チンパンジーなど多くの動物が、ある程度の数の概念をもっていることが示されている。アリゾナ大学の心理学者が訓練したオウムのアレックスは、聞いた音が何回であったかを英語で答える。犬山(いぬやま)の霊長類研究所に住んでいるチンパンジーのアイは、示された鉛筆や紙切れやお菓子の数がいくつであるかを数字で答える。ラットは、訓練すると、右のバーを四回押してから左のバーを一回押す、右のバーを八回押してから左のバーを一回押す、などの手続きを覚える。チンパンジーの言語訓練で先駆的な研究を行ったアメリカの心理学者のプレマックが訓練していたサラというチンパンジーは、チョコレートのかけらが三つのせられた小皿と四つのせられた小皿のセットと、五つのせられた小皿と一つのせられた小皿とのセットのどちらかを選ぶようにいわれたときには、三つと四つのセットの方を選んだのである。 さらに三つと四のセットと、四つと三つのセットをみせたら、これは同じだと答えるのではないだろうか。 動物たちにも数のプリミティヴな概念があることは確かだ。動物において、数情報がどのように処理されているのかは、まだよくわつていない。しかし、デジタルではなくアナログであるらしい。数が小さいほど弁別が正確で、大きくなるほどあやふやになることや、二つのセットの間の差が大きほど正確で、差が縮まるほどふ正確になることなどが、それを示している。ハトでも、たとえ数が四〇を越えるようになっても、四九と五〇の弁別はできないが、四五と五〇ならできるのである。 人でも、動物のようなアナログンの數の概念は、脳の中に組み込まれているようだ。それは、人が世界を認識する鍵となる基本要素の一つなのだろう。しかし、人間の數の概念とその処理が格段に優れているのは、それがシンボリックな記号を使ってデジタルに処理されているからである。数でも言語でも、人間は、シンボルを利用することによって認識の新たな境地を開いた。しかし、それがあまりに当然になってしまっているため、ほかの動物の世界の認識の仕方を知る上で、イマジネーションの妨げになっているのではないだろうか。 ※参考:『カンジ 言葉を持った天才ザル』。「数」とは違うが「言葉」を持った動物の例。 2019.09.27
Ⅱ 科学・人間・社会
☆生殖技術と「親子」の種類 P.65~69☆
夫婦別姓の可能性が国会で議論されたが、結局、法律は変わらなかった。夫婦がそれぞれ別の姓を持つことがはたしてよいことかどうかには、いろいろな議論がある。賛成派は、結婚後もアイデンティティの連続性が保持されていいというし、反対派は、家族というもののまとまりの崩壊を危惧する。しかし、現在の生殖技術の発展をみると、夫婦別姓で家族のまとまりがなくなるかもしれないなどという生易しいものではない。「母親」「父親」「子ども」という概念そのものが再考を迫られることになるだろう。 女性は、夫以外の男性の精子の提供を受け、自分の卵に人工授精させて子どもを得ることができる。この場合、その子の遺伝子的な子だが、父親の遺伝的な子ではない。また、女性は、自分以外の女性の卵の提供を受け、夫の精子で人工授精させ、卵提供者の女性が妊娠・出産を行うことによって、子どもを得ることができる。いわゆる代理母である。いま述べた代理母の筋書きでは、最終的に子どもを得た女性は、その子の遺伝的な母ではなく、代理母が遺伝上の母である。父は、遺伝上の父でもある。一方、女性は、自分の卵を採取し、それを夫の精子で受精したのちに、代理母に妊娠・出産を肩代わりしてもらって子どもを得ることもできる。この場合は、その夫婦の子であることは確かだが、そこに代理母が介在している。また、ほかの女性の卵の提供を受け、それをほかの男性の精子で受精し、ほかの女性に妊娠・出産してもらって、ここには登場しなかった夫婦が子どもを得ることもできる。 つまり、単に人工授精するばかりでなく、(誰かの)卵を体外に取り出して(誰かの精子で)人工授精させ、受精卵を(誰かの)体内に戻すことができるようになったし、精子を凍結保存できるようになったため、以上のような事態が可能になったのだ。卵や受精卵を凍結保存することは、現在ではまだ困難なようだが、いずれ可能になるだろう。これらの技術を活用すれば、結婚していない女性や男性が自分の遺伝的な子をもつことも可能だし、夫の死後に、凍結保存してあった精子を使って夫の子どもをもつことも可能だし、女性が若いときに採取して凍結保存してあった自分の卵を使って、仕事が一段落したあとで子どもをもつことができるようになるだろう。さらにいえば、父も母ももう死んでしまったあとで、彼らの子をつくることも可能になるかもしれない。 日本では、現在可能な技術のすべてを許可しているわけではないので、これらすべてが実行可能ではない。しかし、許可している国もあるし、潜在的には可能である。そうなると、遺伝の母、出産の母、育ての母という三種類の母が出現してしまう。これに遺伝の父と育ての父が加わって、親というものは、この五種類からの組み合わせとなる。法律上もたいへんな問題になるだろう。ところが「父親」というものを現在の法律はどう定義しているのかというと、「子を出産したのが母で、母の夫が父と推定される」というのだそうだ。なんとなく、この言い方には笑ってしまった。 それはともかく、「そういうことは自然に反する」、「自然のなりゆきにあまりにも人間が介入しようとするのはいけない」という考えがある。漠然としたレヴェルでは、私もその通りだと思うが、この考えは、そのままでは通用しない。なぜなら、なにが「自然」であるのか、自然への介入はどこまでなら許せるのかを明確にしないかぎり、意味がないからである。 「自然に反する」といえば、有史以来、人間という生き物は自然に反することばかりしてきた。広大な面積にわたって、そこに生えているしょく物がたったの一種しかないということは、自然状態ではありえない。にもかかわらず、草取りをしたり、農薬をまいたりという手段をつくして、自然に存在する生物多様性を貧弱化しようとしているのが農業である。自然に生きるのがよいのであれば、無駄なエネルギーを使ってまで夜間にしごとをするべきではないし、暑いさかりに冷房をつけるべきではない。 これに対して、農業や照明や冷房は、自然ではないが、まだ許せる範囲の自然である。などとご都合主義なことはいえない。これらのことのために、めぐりめぐって取り返しのつかない環境破壊してしまったではないか? 粘度のつぼから核兵器まで、すべての技術は道具である。そして、すべての道具とは、人間のもてる能力を延長して自然を改変するためのものだ。道具がそれ自体でころがっているとき、それは善でも悪でもありえないだろうが、実際には道具がそれ自体でころがっていられることなどありえないのである。道具は必ずや人間が使い、その使い方は、その使い手である人間の価値判断による。 生殖技術がどこまで許されるかは、家族の在り方についてなにを望ましいこととするかの私たちの判断にかかっている。誤りのない判断を下すためには、なによりも現代の技術とその可能性について十分な情報を公開し、広く議論を積み重ねることが必要だろう。 2019.10.01
☆脳が脳の働きを理解する P.80~84☆
自然科学的説明は常識に反している。ここでいう常識とは、人間が日常生活の中で自然に行なう推論をさす。たとえば、常識によれば、太陽は毎朝東から上って西に沈むのであり、物を燃やせば煙が立ち上り、何かが失われていくと感じられる。 それに対して自然科学は、太陽は動かず、われわれの乗っている地球こそが西から東に回っているのだという。また、物が燃えるときには、物から何かが失われるのではなく、物に酸素が結合するのだと教える。これらの例だけからみても、自然科学の説明は、まったく常識に反している。それなのに、人々はなぜ、これらの説明に納得するのだろうか? こんなことを問題にしているのも、現代人は、科学的知識を一応の教養として受け入れてはいるものの、人間の行動や思考、つまりわれわれ自身に対する科学的説明というものは、なかなか受け入れ難いらしい、ということを考えてみたいからである。人間性の科学的理解ということに関して、それに対する抵抗が非常に根強いことをどのように理解し、克服したらよいのかについて、苦慮しているからである。 人間は、自由意思をもち、教育や学習によって自らの行動を形成する。発達した脳は、自らの行動や動機をモニターし、自らのやっていることの意味を理解する。しかしながら、脳は万能機械ではないし、脳の活動のおかげで、人間は自分の行動に関するすべてを理解できるようになったわけでもない。 自意識といものは、脳の働きの中でもっとも高度な部分に位置する。脳の働きの非常に大きな部分は、とくに自意識の中には上らなかったり、理性的・合理的な判断や意志決定の結果としてではなく処理されている。 しかし、人間は、本当に意識的に処理したものにせよ、そのときは無意識的に行ったものにせよ、自らの行動に自らが「意味」を付与する。「私は〇〇をすることがよい思ったとからそうししている」、「私が〇〇をするのは、〇〇のためだからだ」などなど。 ところが、人間が何かの行動をする本当の理由が、自らがそれに意味づけを与えている理由そいのものであるとは限らない。それは、人間は太陽が毎朝東から上ってくると思っているにもかかわらず、本当は地球自身が動いているのと同じことだ。 人間の精神の生物学的進化という話題の根底にあるものは、人間に備わっていると考えられる行動傾向というものがあるかどうか、あるとすれば、それはどのような進化の道筋で作られてきたのだろうか、という興味である。そこで、たとえば、「人間には、現在の少ないコストで将来の利益を確保するような、互恵的利他行動に基づく行動傾向が備わっているはずである」ということをいうと、必ずといっていいほど、「でも、私たちはそういうつもりで行動してはいない」という答えが返ってくる。 しかし、ここで問題にしているのは、私たちが自らの行動をどういうつもりで行なっているのか、ということではない。私たちが意識するにせよしないにせよ、私たちの行動を無意識的に支配している脳の働きはどのようなものか、ということを探っているのである。この議論は、太陽が上るのではなく地球が回っているいるのだ、という説明に対して、「でも、私たちは地球が回っているとは感じません」というようなものである。 無意識というものがいかに重要でであるかを、最初に理論に構築したのはフロイドである。彼が、すべて抑圧された欲望で説明しようとしたことは間違いであったし、性的な欲望に固執しすぎたことは確かである。しかし、彼は、人間の行動の原理に関して、真実の一部をつかんでいたのだ。 自らが意味を付与してモニタ-できているのではない部分で、脳はどのように働いているのか、意識と無意識の境でなにが起こっているのかという、フロイドが最初に提起した問題について、現代の研究の方向は二つあると思う。一つは、実際の脳の働きを調べる認知神経科学である。この分野は日進月歩で、サブリミナルな心の働きについては、多くのことが明らかにされつつある。上の写真は、最新の方法の一つを用いて脳を三次元的に映像化したものだが、この方法を使うと、人間が計算をしたり、言葉を思い出したり、他人の顔の表情を読みとったりと、いろいろな作業をしているときに、脳のどの部分が使われているのかを知ることができる。 もう一つは、なぜ脳がこのように作られてきたのかを探る進化的研究である。こちらが、私のおもな関心事であるが、究極要因である進化の研究は、人間に関するさまざまな研究を統合するために必須であると考えられる。 それにしても、フロイドも嫌われたし、人間行動の生物学的説明が嫌われる理由は何なのだろうか? それは、自分が自らの意志の及ばない何かで支配されているかもしれないということに対すると恐れだろうか? この脳は、自分のやっていることをすべてモニターできていると感じる方が、そう感じないよりも適応度が高かったのかもしれない。 2024.06.09 記す
☆誤訳・翻訳・学術用語 P.93~99☆
もうずいぶん昔にどこかで聞いた話だが、明治時代に、初めて科学が日本に紹介されたとき、当然のことだが、「水素」だの「炭素」だのという言葉はなかった。そこで、どのような言葉に翻訳しようかと、いろいろな人が案を出した。ある人々は、現在使われているような、「水素」、「炭素」という漢語を提案したが、他の人々は、科学もすべて大和言葉で書くことを提案した。その派の人々は、なにかのもとになる最小単位のようなものを表わす大和言葉は、「ね」(根)という言葉であるということから、「水素」、「炭素」の替わりに「みずね」、「すみね」という訳語を提案したそうだ。結局のところ漢語派が勝ったので、私たちは、現在、「水素」、「炭素」という言葉を使っている。「みずね」、「すみね」が勝っていたら、いまの私たちは、どんな科学の教科書を手にすることになっていただろうか? 科学は、もともと日本が生み出したものではないので、科学で使われる言葉の多くは翻訳である。「水素」以来の伝統なのか、翻訳は漢語が多く、科学の用語は、それだけでも一般の人々にはとっつきにくい。しかし、たとえふだんは縁のないような奇妙な漢語でないとしても、学術用語には定義があり、その定義を知り、ひいてはその学問分野全体を知っていることを前提に使われている。そのような学術用語を使わずに科学を表現することは至難の技である。 そこで、科学を一般の人々に伝える書物では、さまざまな学術用語をていねいに説明し、それらの最小限は覚えてもらって、それ以後は説明なしに話を続けていくようにしながら、最後まで人々の興味を惹きつけねばならなくなる。それだけでも、科学の啓蒙書のもつ本質的なむずかしさがわかる。それに加えて、地の文がわかりにくく、日本語としておかしかったら、およそ、一般に理解を得るなどは望むべくもないだろう。 昔から、科学に限らず学術的な訳書の日本語の悪さ、誤訳の多さについては、いろいろなところで取り上げられてきた。これもずいぶん昔になるが、別宮貞徳著『こんな翻訳に誰がした』を読んで、笑いこけたり、深くうなずいたりしたものだ。そのときは、くろうとのくせにヒドイ人たちがいるものだと笑っていたが、そのうち少しは翻訳を手がけるようになり、今度は、自分自身の産物が他人からそのような目でみられる立場になってしまった。もちろん、私の訳したものにもいろいろ誤訳があるだろうし、人のことばかりいってはいられないのだが、それでも、確かに翻訳書の日本語は相変わらず読みにくい。 英語で書かれた科学の啓蒙書の中には、よいものがたくさんある。専門家からも高い評価をうけ、しかも、本当におもしろく書けているものがある。そのような本を翻訳すれば、日本の人々に科学をよりよく理解してもらうための、大きな助けとなるはずだ。ところが、翻訳書の多くは読みにくい。その理由は三つある。 一つは、明らかな英語の誤訳が決して少なくないこと。たとえば、二重否定を否定のまま訳したりするような、学術用語以前の誤りである。 二つ目は、学術用語、またはその分野で常用される日常語を知らないために起こる誤訳。先の別宮氏の著作のなかには、「放射性の」という意味で使われる"hot"という言葉を、日常的に誤訳した「できたてのホヤホヤの分子」というのが挙げられている。 三目は、意味は正しくとも日本語としては非常にまずいので、結局は意味がつたわらないもの。これも非常に多い。たとえば、「現代人乳幼児が進化による賦与の一部として有している第二の仕組み」というような文章は間違いではないだろうが、意味が素直に入ってこない。 自然科学という分野そのものが、先に述べたようなコミュニケーションのむずかしさを抱えているのに、このような翻訳上の問題が重なると、日本での科学の普及は大きな損失を被っていることになる。わかりやすく、楽しく読むことができれば、もっと多くの人々を科学に惹きつけることができるだろうとし、科学者どうし間でも他の分野の理解がもっと楽に進むだろうに、と思われる。 翻訳者だけが馬鹿だ、物知らずだ、といっているわけではない。翻訳者の責任はもちろんあるが、なぜそのまま出版されてしまうのか、ということも問題である。日本の出版社、編集者は、自分が読んで素直に理解できないものはもっとどんどん断るべきだ。よくわからない文章というものには、訳している本人にも、それを読む第三者にも、直感的に変だと感じられるものがあるはずだ。 つきつめていくと、これは、英語の問題ではなく、日本語の問題だろう。日本語に対する感覚、論理的でわかりやすい日本語と、そうでない日本語とを見分ける感性を養うことが、翻訳者にも、編集者にも、一番必要とされているのではないだろうか?
Ⅲ 科学史の舞台裏
☆巨人の肩の上で P.100~111☆
タイムマシンがあれば、歴史上、偉大な業績を残した有名な科学者たちの何人かに会って話をしてみたいと思う。業績に興味のある人も、人間的に興味のある人もいるが、私の職業柄、まず第一に会ってみたいのはチャールズ・ダ―ウインである。このような業績を成し遂げた人物に、自分の研究をどのように考えていたかを聞いてみたいと同時に、現在の状況を教えてあげて、どのような反応が返ってくるかに興味がある。むろん、タイムマシンンなどはないので、伝記を読んで想像にふけるよりほかにない。 ダ―ウイン以外では誰に会おうか? やはり、アイザック・ニュートンという人には会ってみたい。いろいろ伝記を読んでみると、議論では相手を完璧に叩き潰さずにはおかなかったとか、けっして人前で笑わなかったとか(一度だけ笑ったが、それは他人を馬鹿にした笑いだった)、講義がむずかすぎて学生が逃げ出し、教室には一人も学生がいなかったのに講義を続けたとかいう話が多いので、あまり人間的におもしろい人ではなかったかもしれない。しかし、微積分を作り上げて古典力学を完成させた、あの分析力と洞察力の素晴らしさには、科学者なら誰でもあこがれるろう。 一九九八年の八月に、ニュートンの生家を訪ねてみた。リンカンンシャーのウルソープという小さな村に立つ農家である。天井の低い一七世紀の建物で、決して華美ではなく、農場の単純な暮らしをほうふつとさせる。 幼いときのニュ*トンが壁にいたずら描きした鳥や図形模様などが今でも保たれていた。 アイザック・ニュートンの研究と生涯には、科学という営みをめぐるさまざまな興味深い問題がちりばめられている。なによりも、ニュートン力学は近代科学全体の礎(いしずえ)である。その完成によって人々の自然観を大きく変え、ごく最近まで続いてきた、機械論的・決定論的な自然観を形成するもととなった。最近、自然の持つ歴史性や、決定論的でない「複雑系」のダイナミックス、カオスなどが注目されるようになってきたのは、ニュートン的自然観だけで押していくことの終焉を意味している。このような最近の進展を聞かせてあげたら、彼はなんというだろうか? 万有引力の法則を発見し、リンゴから月までのすべての運動を記述することができたニュートンは、しかし、なぜ万有引力が存在し、なぜそれが一瞬の間に物体と物体との間を伝わることができるのかについては、説明することができなかった。そんな妙な力が存在すると考えるのは、確かに不自然ではある。同時代の学者たちからそのことを批判されたが、彼は、その問題に関しては「私は仮説を作らない」としか述べなかった。 科学は、仮説構築の連続であるはずだ。それなのに「私は仮説を作らない」というのはどういう意味であったのか? 研究の発展の過程で、どうしてもそれ以上は説明のできない、しかし、そうであるのだとしかいいようのない、一種の壁につきあたる。その壁は、その後何年もたってもっと研究が進んで解決されるものもあるが、当座はともかく、説明できないが受け入れねばならない時期があるのだ。そういうときに、なんらかの説明をしてみても、それは実証不可能な話に終始するにちがいない。検証可能なことがらについては仮説をつくるが、検証できない部分については、あえて仮説を提出することはしない、といことだろう。 ニュ―トンの時代には、まだ、科学と哲学が現在のように分離してはいなかった。彼は、物理学だけでなく、科学のほかの分野や、キリスト教の解釈や、錬金術にも興味をもって研究していた。ニュートンは学生時代からずつと、その研究生活のすべてをケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで送った。錬金術の実験で、カレッジの部屋からあやうく火事を出しそうなったこともある。一七五〇冊に及ぶ蔵書を持っていたが、その中には、アタナシウス派というキリスト教の一派の教義に関するものもあった。ニュートンという一人の人間の頭の中で、これらの多岐にわたる探求は、一つ統一した像を結ぶべく関連していたはずである。 ニュートンは、なぜそのような偉大な発見ができたのかと聞かれて、「ただ巨人の肩の上に乗ることができたから」(先人の業績があってこそ、という意味)と答えた。また、「自分は、まるで海岸にころがっている、珍しい形をした石や貝殻をみつけては喜んでいる子どものようなものだ。真理の大海は、何も手をつけられずに、その子どもの目の前に横たわっている」とも述べている。しかし、彼は、これらの言葉から表面的に想像されるような、謙遜で無私無欲な人であったわけではない。微分発見のプライオリティをめぐってライプニッツととことん争ったし、考えの合わないロバート・フックとは、フックが死ぬまでの宿敵だった。 科学に限らず、なにごとも妥協せず完璧に行う性格だったらしく、五〇歳を過ぎてから造幣局の官吏に就任すると、当時の造幣局の汚職を徹底的に洗いだし、またたくまに造幣局長に任命された。しかし、造幣局の仕事を紹介した人は、ニュ―トンにゆっくり休める閑職を紹介したつもりだったのである。このような精神の集中と一徹さと創造性とは不可分なのだろう。 科学者の伝記はおもしろい。偉大な知性が考えたこと、考えようとしたこと、それが達成したこととしなかったことをみるとき、一人の人間の達成の素晴らしさを感じるとともに、科学という創造が、すべて「巨人の肩の上に乗る」ことによって成されてきた、時間軸を越えた共同作業であることを教えられる。
自然哲学〔自然科学〕は、自然の粋とはたらきとを発見し、それを可能なかぎり一般的な規則または法則に還元すること―― これらの規則を観察と実験によって確立し、そこから事物の原因および結果をひきだすこと、のうちに存する。(王立協会設立試案)・わたしは自分が世間の眼に、どのようにみえるかは知らない。しかし、わたし自身の眼には、「真理」の大洋がわたしのまえに未発見のまま横たわっているとき、海岸でたわむれつつ、ときどき普通のより一そうなめらからな小石、または一そうきれいな貝がらを見つけて、打ち興じている少年に似ていたように思える。 この日生まれたイギリスの大科学者。万有引力、光の分析、微積分法を発見して、近代の物理・数学・天文学の基礎をきずいた。 *桑原武夫編『一日一言』―人類の知恵―(岩波新書)P.4 より 感想:1、二つの記事を読んで、本が本をつれてきてくれるものだ。2、研究している場所に偉大な人物の立像などがあると研究・勉学のはげみになると。 2019.09.25
☆デカルトの誤りとデカルトの慧眼 P.117~121☆
最近、デカルト(仏: René Descartes、1596年~1650年)は評判が悪い。脳神経科学の有名な研究者であるアントニオ・ダマシオは、一九九四年に『デカルトの誤り』という本を書いた。一九九六年には、コンピュータ言語の研究者、数学者であるキース・デヴリンが、もっとそっけない『さらば、デカルト』という題名の本を出している。 どちらの本も、精神と物体とを峻別したデカルトの二元論が、現在に至るまでの認知科学に及ぼした影響について論じている。デカルトは、精神と物体とを峻別し、自然界、物質世界一般から霊魂や精神性を排除した。そして、精神というものを、唯一、人間の理性の所有物としたのである。 デカルトがこのように考えたことは意味があったし、当時の歴史的状況からすれば、こうした二元論をもち込むことが、その後の客観的な科学の発展のためには必要であった。デカルト以前の科学が、物体に宿る意志だの、物体が本来所属したいと望んでいる場所だというあいまいな概念に惑わされていたことを考えれば、デカルトの二元論は、確かに近代科学の基礎となるべき哲学であった。 この二元論が、認知神経科学の発展にとってある種の妨げとなったのは、からだと理性、感情と理性とが、互いにまったく関係なく、独立に働いているという暗黙の了解をもたらしたからだ。最近のダマシオらの研究が示すように、理性といわれているいものも、感情やからだからの情報と連動していなければ、けっしてうまく働かない。 しかし、このような悪影響といえるようなものが、現在指摘されているとしても、デカルトが近代科学の基礎を築く上で果たした大きな役割が減ることはない。彼は、依然として、人類の英知の巨人である。 デカルトが述べたことで、もう一つ、科学の発展にとって非常に重要だったことは、世界の真実の状態と、われわれの五感で認識する世界の状態とは、必ずしも同じものでないかもしれないという指摘にある。私たちは、地面の上に空が広がり、空は青くリンゴは赤いと認識するが、そうやって私たちが認識する通りのものが、まさに世界の物質の実体であるとは限らない、と彼は指摘した。 このことも、デカルト以前の時代には、はっきり認識されてはいなかった。物体が落ちるのは、まさに「上から下」に向って落ちるのであり、色には、私たちがみるとおりの「赤」なら「赤」の本質がと思われていたのである。 事実は、万有引力の法則によって、物体が互いに引き合うのであり、「上から下」へは、たまたま地球が非常に大きいために、地上のものはみな地表に引きつけられるから起こることである。色も、じつはいろいろな波長の電磁波であり、私たちの網膜の細胞に喚起されるインパルスの違いが、異なる色として認識されるだけである。 これは、デカルトのたいへんな慧眼であったと私は思う。人間は、なかなか、自分自身にとっての現実から逃れられないものである。自分の実感と世界の真の姿との間に、なんらかのずれがあるかもしれないなどと気づくのは、なみたいていのことではないだろう。 しかし、そこでつぎつぎにまた疑問がわく。私たちの世界の認識は、世界の真の姿とは関係がなく、なんら特別な根拠のない把握の仕方なのだろうか。それとも、まったく同じものを把握しているのではないとしても、私たちの世界の認識の仕方は、まったく無作為、任意の、たまたま偶発的になされる勝手なものなのか、それとも、なんらかの真実との対応をもっているものなのか、ということである。 これは科学的知識に確かさについての、昔からの議論の題材である。さらに、最近のポストモダンの相対主義者ならば、科学も、ある個人の世界の認識も、すべては、単に一つの見方、勝手な構築にすぎないというのだろう。 しかし、私はそうは思わない。私たちが世界をどのように認知するかは、私たちという生物種が、ある特定の生態学的位置の中で生存していく上で、役に立つような仕方に作られているはずだ。私たちは、空を飛ばずに地上を歩く生物なので、三次元的なアクロバティックな運動や感覚には優れていない。一方、昼間に活動する生物なので、色や明暗の識別には長けている。その意味では、私たちの感覚世界は制限を受けている。しかし、私たちの認識は、確かに、世界の真実の一部と対応している。 ミミズは私たちとは大いに異なる生活様式をもっているから、私たちとは異なる世界の認識をしているだろう。ミミズの認識する世界を、私たちは実感することできないだろうが、ミミズの認識も、世界の一部に対応しているはずだ。 このあたりの認識世界のようすは、それぞれの生物の進化の道筋によって形成されているはずである。デカルトがダ―ウインと話す機会があったとしたら、非常におもしろい会話が発展したことだろう。
☆フェルメールとレーウェンフック P.122~126☆
タイムマシンに乗って、過去の人物をたずねるのではなく、ある時代と場所に行ってみるならば、私は、一七世紀のオランダというところには、ぜひ行ってみたい。それは、近代科学成立の主たる舞台あり、科学、芸術、哲学、宗教が渾然一体となって、画期的な段階に入った時期でもある。宗教戦争のンお嵐が吹き荒れたあと、キリスト教の絶対的な強さにかげりが出てきたのは当然のなりゆきとはいえ、この時代のオランダの精神的風土は、まれにみる革命的斬新さ、自由と自信にあふれていたように思える。 この時代の画家たちの中で、私が以前から興味を抱いている画家が何人かいる。そのうちの一人は、ピーテル・サーンレダムである。彼は、オランダの小さな町、ハーレムの人で、もっぱら教会の中ばかりを描いていた。それも、ほとんどが、ハーレムの真中の広場にある巨大なセント・パヴォ教会の中である。彼の作品で、色をつけて絵として仕上がっているものは、十数枚ぐらいしかないのではないか? 一つの作品を完成させるのに一〇年もかけるのが普通だったというのだから、それも当然であろう。 サーンレダムはあまり知られていないし、彼の教会内部の絵をみても、たいしておもしろくもない。私が興味を惹かれるのは、その数学的構図と静寂さである。事実、彼は、遠近法を始めとする立体の幾何学に関して、並々ならぬ意欲で研究を行っていた。死んだときには三〇〇冊以上もの書物を残しており、その中には、ユークリッドの幾何学や、クリスチャン。ホイエンスの先生の一人である、フランス・ファン・ショーテンの数学の本などが含まれていた。実際、そういう研究でもしていなければ、たかだか五〇センチ四方ほどの絵に一〇年もかけることなどでrきなかったに違いない。 遠近法の研究では、ルネッサンスのイタリアの画家たち、ウッチェロやピエロ・デラ・フランチェスカなどが有名で、絵もおもしろい。サーンレダムの遠近法表現の追究は、彼らよりもその度を越していて、目的が芸術というよりも建築見取り図に近いように思える。おもしろくないかもしれないが、その科学性が一七世紀オランダの哲学としての科学を表わしているように思われる。 もう一人、私が興味を惹かれる一七世オランダの画家は、フェルメールである。この人も、その幾何学性と静寂さに惹かれるのだが、フェルメールの場合は、これに色の要素もつけ加わっている。彼の絵はサーンレダムよりもずっと色がきれいである。とくに青と黄色がすばらしい。 フェルメールは、ハーレムの近くのもむ一つの小さな町であるデルフトの画家である。彼の絵も、幾何学的に緻密に構成されているが、彼の特色は光の表現にある。『デルフトの風景』、『ミルクをつぐ女』、『真珠の目方を測る女』、どの絵をみても、小さな点で描かれた光の 表現が秀逸である。 一七世紀近代科学の祖であるニュートンが『光学』という書物を著して、光りに関する物理学を集大成したことにも明らかなとおり、光というもを科学的に探究することはこの時代の科学の大きな使命の一つだった。それと同時に、この時代の芸術は、光をどう表現するかを追究することに取り組んだのである。 フェルメールは、当時はやっていたカメラ・オプスクラ(camera obscura:暗箱)という装置を通して、光りがどのように目に写るかを研究した。これは外側の箱の一つの面の真ん中にあけた小さな穴から入ってくる光が、内側の箱の面に外の世界の像を結ぶ装置である。私も、小学校のときに科学の時間で習ったような気がする。 フェルメールの絵の人物は、まるでカメラでとった写真のように、手前にいる人物が、後の人物に比べて極端に大きく描かれたりしているが、それは、このような装置を使った研究から編み出されたものである。 フェルメールの生涯については、ほとんど何も知られていないが、彼の遺言執行人は、顕微鏡を発明して微生物を初めて観察したことで有名な、アントン・ファン・レーウェンフック(1632~1723年)であった。一七世紀オランダにおける科学と芸術の密接な結びつきが、こんなところにも見受けられる。 一七世紀以後、近代科学が独自の発展を遂げるにつれて、科学と芸術と、相異なる道を歩むことになった。やがて、科学は芸術の敵だと考える人々も出てくる。作家のD・H・ロレンスは、「科学は太陽を、あばただらけのただのガスのかたまりにしてしまった」などと述べている。 2019.09.28
☆恐竜のロマン P.127~131☆
マイケル・クライトンの『ジュラシック・パーク』に続いて『ロスト・ワールド』が映画化され、恐竜たちはますます人々の注目をあびている。恐竜には、なぜかたいへんな魅力がある。 しかし、今でこそ、恐竜という巨大な爬虫類の仲間が、何億年も前の地球上に生存し、そして絶滅してしまったことは、人々の常識の一部にになっているが、このようなことがよく知られていなかった時代には、恐竜の化石は、さぞ奇妙でとんでもないものに思われたに違いない。 一六七七年に、イギリスの博物学者のロバート・プロットは、非常に大きな動物の大腿骨の膝側の関節部分と思われる化石を描写している。その化石自体はなくなってしまったが記録から、メガロザウルスの一種ではないかと考えられる。プロットはそれを、初め、ゾウの骨だと思ったが、のちに巨人の骨だと解釈した。 それから一〇〇年近くたつた一七六三年、やはりイギリスのR・ブルックスという人が、その当時の最新生物学のリンネの二名法に従って、この化石に学名をつけた。彼は、その大腿骨末端の形状が、あるものに似ていることからScrotum humanum と命名したのである(scrotumu とは、陰嚢のこと)。 その五年後、フランスの啓蒙思想家のジャン=フランソワ・ロビネという人がその化石を調べた結果、これは、正真正銘、石になった scrotumu だと結論した。彼は、その化石が、現在の人間にみられる「完璧な形」に至る前の、神様の失敗作だと考えたのである! 恐竜の化石について、今でも使われている学名を最初につけたのは、パーキンソン病を同定して命名したことで有名な、ジェイムズ・パーキンソン(イギリス)であるらしい。彼は、一八二二年に、先に出てきたメガロザウルスという名前を初めて使った。その二年後、オックスフォード大学の地質学教授であったウィリアム・バックグランドが、メガロザウルスの詳細な記述を行なった。彼は、それが肉食性の巨大な爬虫類であり、それに類似するものは現在では存在しないことを正しく理解して、メガロザウルスは初めて学会にデビューした。 参考:ジェームズ・パーキンソン(James Parkinson、1755年4月11日~1824年12月21日)はイギリスの外科医、薬剤師、地質学者、古生物学者、政治活動家であり、1817年の研究『振戦麻痺に関するエッセイ』で最もよく知られている人物。彼は、のちにフランスの医師であるジャン=マルタン・シャルコーによって「パーキンソン病」と改名されるその一大症状である「振戦麻痺」について、このとき世界で初めて書いた。 それでも、現存する爬虫類とは異なる一群の巨大な生物が過去の地球上に存在していたということが、はっきり認識されるまでには、まだ少し時間がかかる。一群の化石爬虫類をまとめて、それに「恐竜」という名前を初めて与えたのは、解剖学者のリチャード・オーウェンだった。 彼は、それまでに発掘された多くの化石を研究し、それらが、現存する爬虫類に似てはいるが、いくつかの特徴によって、現存のものとははっきりと異なり、それ自体で一つの分類郡を形成することに気づいた。そして、ギリシャ語の「恐ろしい」という意味の deinos と、「爬虫類、トカゲ」という意味の sauros とをつなげ dinosauris と命名したのが、一八四一年のことである。 一九世紀アメリカの恐竜発掘の歴史で、後世に語り継がれているのは、オズニエル・チャールズ・マーシュとエドワード・ドリンカー・コープとの「骨戦争」であろう。この二人は、一八〇〇年代の後半に、競い合って恐竜発掘をおこなったが、その競争はどんどんエスカレートし、互いに、相手のチームにみつからないように、発掘地のまわりに斥候を派遣したり、銃をもったボディガードをかためて、ときには銃撃戦を行なったりした。荒っぽい西部開拓の時代ではあるが、この競争は少し常軌を逸していた。 競争の主な舞台は、ワイオミング、モンタナ、ダコタなどで、戦利品の化石は、布につつまれて幌馬車に乗せられ、大西部を横断して東部に送られた。前にもふれたようにマーシュは、イェール大学のピーボディ博物館に所属していたので、マーシュの戦利品はすべて、いまでもボディに保管されている。数年前、イェール大学にいったとき、ピーボディで、マーシュ隊の写真や記録をみる機会があったが、テンガロンハットにカウボーイブーツ、ライフルと弾薬ベルトを肩にかけた男たちは、まさに西部劇映画そのものの雰囲気だった。 マーシュとコープがなぜ犬猿の仲になったかというと、一八七〇年に、コープが発掘したプレシオザウルスの骨を復元した絵を描いたところ、それをよくみたマーシュが、コープは恐竜の首を尻尾の方につけて復元している、と指摘したからである。それはその通り、コープの間違いだったのだが、コープはこの屈辱を根にもって、二人の確執は死ぬまで続いた。 恐竜は、いまでも新しい種類が発掘されているし、その生態や絶滅については謎も多い。マーシュとコープのような略奪競争の時代は終わったが、これからも恐竜のロマンは、多くの科学者、そして子どもたちの心をとらえて放さないだろう。そして、動物の生態や適応放散、進化と絶滅などに関して、多くの知見をもたらしてくれるに違いない。
恐竜博士になれる大学 原点はモロッコの原野 恐竜リバイバル(4) 2019/9/22 2:03 (2019/9/26 2:00更新)日本経済新聞 電子版 恐竜博士になりたい――。そんな子供たちの夢がかなう教育環境が日本でも整ってきた。専門家が奔走し、岡山理科大学は恐竜の博士号を取得できる日本初の専門コースを開講。福井県などでも研究拠点が次々とできた。 「次はあの骨を持ってきて」「そこじゃないよ」。7月上旬、岡山市立博物館「岡山シティミュージアム」の展示室に活気のある掛け声が響く。岡山理科大教授の石垣忍(64)が見守る… 2019.09.26
☆ダ―ウイン紀行 P.137~141☆
私たちの世界観、自然観に大きな変容をせまるような重大な貢献をした科学者は何人かいるが、チャールズ・ダ―ウインは、確実にそのような人々の一人である。 ダ―ウイン自身の著作を読むことは、科学史の上で興味深いばかりではない。いまだに解けていない問題に対して彼が行った考察や、さまざまな事実を組み合わせて議論を構築する彼の洞察は、一〇〇年以上を経た現在でも、私たちに新鮮な驚きとひらめきとを与えてくれるアイデアの宝庫なのである。 一九九七年から九八年にかけてイギリス滞在をよい機会に、ダ―ウインゆかりの地をいろいろ訪ねてみた。 チャールズ・ダ―ウインは、一八〇九年にシュルズベリにある、「ザー・マウント」(The Mount)と呼ばれる大邸宅で生まれた。父親のロバート・ダ―ウイン氏は、裕福な医者だった。この家はいまでも残っており、不動産の査定に関する政府のオフィスとして使われている。中を見学したい訪問者には、役所の人がついてていねいに案内してくれる。 使用人が何人も住んでいた、まるでジェーン・オースティンの小説そのもののような屋敷であるが、さらに、その窓から見渡す限りの土地が、ダ―ウイン家の庭だったということだ。いまでは、住宅がぎっしり立て込んでしまっているが、幼いチャールズ・ダ―ウインは、入れられた寄宿学校であるシュルズベリスクールの食事が気に入らず、毎日、この庭を横切って家に帰っていた。 チャールズは、父親の仕事を継ぐべくエディンバラ大学の医学部にやられたが、流血や他人の痛みをみることに耐えられず、医学部をやめる。そこで、牧師になることにしてケンブリッジ大学に入りなおした。 ケンブリッジで彼のカレッジは、クライスツ・カレッジであった。このカレッジのあるセント・アンドリュース・ストリートは、いまでは郵便局や商店がぎっしり並ぶ賑やかな通りである。しかし、カレッジの門をくぐると中は静寂で、広い芝生の庭が広がっている。ダ―ウインの部屋は右側のDという階段を上がったところであったそうだ。 彼は、ケンブリッジではおおいに遊び、昆虫採取と狩猟に明け暮れ、あまり勉強はしなかった。しかし、しょく物学のヘンズロウ教授や地質学のアダム・セジウィックと知り合い、博物学への出発点を養ったのはケンブリッジである。 クライスツ・カレッジの門を入って左側、「学寮長の庭」の奥に、小さな細長い池を前にした庵のような建物があり、そこにダ―ウインの胸像が置かれている。ここは「ダ―ウインのお宮」と呼ばれているそうだ。 八月ごろだったか、街を散歩していたとき、フィッツウィリアム博物館近くの建物の壁に、"Darwin 1836-1837" という表示をみつけた。ダ―ウインがピーグル号の航海から帰った直後から、結婚してロンドンに移り住むまでの間に住んだ家だった。ダ―ウインが航海中に集めた標本の整理を最初に行った場所である。 いとこのエマと結婚したダ―ウインが最初に住んだ家は、ロンドンのガウアー・ストリーに面していた。いまでは、ロンドン大学の一部であり、隣は王立演劇学校である。ダ―ウイン夫妻がこの家を買ったとき、家にはカーテンも家具もついていたが、それらの絵柄があまりにもけばけばしかったので、彼らはその家を"Marcaw Cottage"(コンゴウインコの家)と呼んだ。 写真説明:ダ―ウインが1842年から死ぬまでを過ごした、ケント州のダウン村にある「ダウン・ハウス」。「種の起源」を始めとする彼の主要な著作はすべてここで書かれた。(写真撮影:長谷川寿一) しかし、ロンドンは汚くてうるさかったので、夫妻は、ケント州のダウン村のダウン・ハウスに移り住む。ここが、ダ―ウインの著作の大部分が生みだされたところだ。改装されて一九九八年四月にオープンになったダウン・ハウスは、ダ―ウインの時代ととその業績、そして家族生活をうまく再現した博物館となっている。母屋だけでなく、ダ―ウインがしょく物を観察した温室、実験室、愛犬のポリーと一緒に毎日散歩したサンド・ウォークなど、こここそが、彼の広範囲な思索の舞台であった。 お隣りは、ダ―ウインの友人であり、博物学者であった、ジョン・ラボック卿の敷地である。ラボック卿は、民族誌や博物誌に関する書物を著し、進化論のよき理解者であった。緑地法その他の法律の制定者でもある。この敷地はいまでは市に寄付され、公有のゴルフ場になっている。 ダ―ウインは、一生自分が働かなくてすむ金持ちの家に生れ、自分のすべての時間を自由に使えた。のびやかな学生生活を送り、ピーグル号で五年間かけて世界をみるというすばらしい機会に恵まれた。多くの知的な友人や師にも恵まれた。しかし、後半生のうちの半分以上は、原因ふ明の病気で苦しみ、生まれた子どものうちの三人は幼くして死んだ。 科学者の伝記は、たいていおもしろい。しかしダ―ウインという人物を知ることは、ヒトを含むさまざまな生物に関して、これほど広範囲にわたる考察を行った学者の思索の過程を理解するにあたって、ことさらに深い意味をもっているように私には思われる。 関連:ダ―ウイン 参考1:『ピーグル号航海記』上・中・下 (岩波文庫)チャールズ・ダ―ウイン著 島地威雄訳 がある。 参考2:LOREN ELISELEY DARWIN AND THE MYSTERIOUS MR.X New Light on the Evolutionists 1982.12.24 購入。
Ⅳ ケンブリッジのキャンパスから
☆ワインとシュニッツェル(ドイツ語: das Schnitzel, オーストリア方言:das Schnitzerl)と国際学会 P.154~157☆
ウィーンで国際会議があり、仕事と休暇とをかねてオーストラリア旅行をする機会にめぐまれた。学会は国際人間行動学会、場所はウィーン大学で、コンラーㇳ・ローレンツを始めとする動物行動学(エソロジー: ethology)ゆかりの地である。国際学会というものの小さな学会で、参加者は一〇〇人程度。すぐに全員が顔見知りになれる。家庭的な学会だった。 ※『動物行動学入門 ソロモンの指環』コンラーㇳ・ローレンツ/日高敏隆訳(早川叢書)あり。 ただ事務はあまり手際がよいとはいえず、事務連絡先が医学研究所であるので、まずそこへ訊きに行ったら、場所は自然科学キャンパスであることがわかった。そう教えてくれたスタッフが自分の車でれわれをそこまで連れていってくれたのはうれしかった。第二に、私の登録がなされていない! もう何ヵ月も前に登録料をはらってあるのに「ない」という。こちらもいろいろと証拠をあげて応戦。結局いいことになったが、何がどう間違われたのかはわからずじまいだった。 しかし、学会が始まると、そんなささいなことはどうでもよくなって、本当に楽しい学会だったからだ。初日の夕方、参加者の登録が終わって最初の講演は、ヒューマン・エソロジーの草分けであるアイブル・アイベスフェルトによる、「ウィーン大学、行動学昔話」だった。彼は詳細なフイルム撮影によって、人間の顔面表情のいくつかは文化にかかわらず生得的であることを最初に示した研究者であるが、講演はウィーン大学にゆかりの行動研究者たちの古いエピソードをおもしろく紹介しつつ、この分野の歴史を振り返ったものだった。なかでも、第二次大戦後にロシアから帰るローレンツの逸話はよかった。シャープさには欠けるし、途中でポインターを落として壊したり、ワイヤレスマイクをひきずったりして、さすがに年を感じさせたが、学術的にどうということではなく、年寄にしかできない「味のある」講演というものはあるものだ。 ヨーロッパ大陸諸国での学会ではしばしばそうだが、食事がたいへんおいしかった。昼食は大学の学生食堂なのだが、あらかじめ学会のために席が確保されてあり、オードヴルからデザートまでのコース、おまけにワインやビールがついている。アメリカの研究者も、「アメリカでは昼食のときに酒類を飲むことはいけないことですが、ここではビールは食事の一部ですからね」といいつつ、自分もビールを飲んでいた。ワインやシュニッツェルを前に、議論はますますはずむ。これは、人間の行動を研究する学会だが、参加者の誰もが、おいしい食事と酒類がどれほど人々の精神を高揚させ、共同研究を促進させるかを確認しあったことであった。 ヨーロッパの学会に行くと、たいてい、その地の市庁舎なるところへ招かれる。市民戦争、市民革命にあけくれた土地柄のせいか、市には必ず立派な市庁舎があり、そこで市長の歓迎レセプションがあるのだ。今回のウィーン市長(の代理)の演説は、人間行動と急激な都市化とを結びつける格調高いものであった。 参考:渡部昇一『日本発見』渡部昇一 対談集 (講談社) P.111 ドイツの町というのは、その時代、町が一つの国だったわけですね。ですから、中心には広場があって泉があり、その周りに教会と市庁舎とホテル、そこに道路ができていて、外に城壁がある。戦争になると、市長さんが総指揮官になる場合が多い。 学会のあと、旧ウィーン大学の建物や、いくつおの博物館を訪ねた。ウィーン大学は一三六五年設立で、最近ではシュディンガ―、ドップラー、ボルツマンなどの物理学者、ヴィトゲンシュタイン、カール・ポバ―などの科学哲学者でも有名である。教えこそしなかったが、フロイドは長くウィーンを舞台に活躍した。大学の中庭は静寂に満ちており庭をめぐる廻廊には、これらの有名な科学者たちの彫像がはめこまれていた。 わずかの博物館のなかでも印象に残るのは、医学博物館である。ここには、ヨーゼフ二世が集めたイタリア製の人体細工模型が収められている。美しい女性の内臓が克明に見られる「トスカナの美女」消化器系、循環器系、筋肉系、リンパ系それぞれの部分模型など、おどろおどろしくも、それはみごとなさくひんだった。これらはみな一七〇〇年代にトスカナで注文製作された逸品だった。 ※:トスカーナ州(伊: Toscana)は、イタリア共和国中部に位置する州。州都はフィレンツェ。 イタリア・ルネッサンスの中心地となったフィレンツェをはじめ、ピサ、シエーナなど多くの古都を擁している。文化遺産や自然景観に恵まれ、多くの観光客が訪れる。 マリア・テレジアの像をはさんで、美術史美術館と自然史博物館とが並んでいる。美術史美術館のブリューゲル・コレクションは有名だが、自然史博物館のほうは、どちらかというと古くさい展示で地味だ。しかし、ここでは「ヴィレンドルフのヴィ―ナス」と呼ばれる三万五千年前の女性像を見ることができる。 森鴎外、北里柴三郎、寺田寅彦など、明治期の日本の科学者たちは、みなドイツに留学したらしい。ドイツも結構だが、ハッスブルグの栄光を背負ったウィーンも、文明国の一中心地であったし、ドイツ文化とはまた違った華麗な味をもったところである。 2019.10.02
☆ミツバチの労働 P.138~162☆
どういうわけか、今年(一九九八年)のケンブリッジはなかなか暖かくならないが、花々は美しく咲き、カレッジの庭は、いつもどおりのケンブリッジの雰囲気を漂わせている。 庭のベンチで本を読んでいると、おびただしい数のミツバチ、マルハナバチ、その他の昆虫が、花から花へと飛び回っているのがわかる。ミツバチがよく訪れる花もあれば、ほとんど見向きもしない花もある。蜜の量や糖分の構成に微妙な違いがあるからなのであろう。 動物行動の研究者である私はしょく物自体については、あまりよく知らないのだが、しょく物のやっていることも動物のやることと同じくらいおもしろい。植物と動物の大きな違いは、しょく物が自分では移動できないことである。それから、時間の歩みが違う。動物はせかせかと生きているが、しょく物はゆっくり成長し、ときには何千年も生きる。 自分で自由に移動できないという制約に対処するために、しょく物は驚くほど多様な戦略を編み出している。その一つの例は、受粉のために昆虫その他のさまざまな動物を利用することである。いま、私の目の前で蜜集めをしているミツバチも、いわば、しょく物に利用されている。しかし、一方的に利用されているわけではなく、花粉を他の花に運んで受粉を助けるかわりに餌として蜜をもらっているので、相互扶助関係にある。 自分で動けない動物としては、花粉をなんらかのエージェントによって他の花に運んでもらわなけでばしまいである。一つの方法は、風や水にまかせることだ。もう一つは自由に動いている動物を利用することで、そのために動員されている動物には、ハチの仲間、チョウやガの仲間、甲虫の仲間、ハエの仲間などの昆虫類、ハチドリ、ミツスイなどの鳥類、そして、小型の哺乳類がある。両生類と爬虫類は、受粉作業にリクルートされていないらしい。この二つの分類群の動物には、花の蜜を食べて暮そうという種類がいないのだろうか、花の蜜では暮らせない理由があるのだろうか。それとも、両生類の口のまわりは湿っているし、爬虫類の顔はウロコでツルツルしているから、花粉運びの仕事には向いていないのかもしれない。 花は、しょく物が受粉に利用する動物を引き寄せるための「広告塔」である。そこで、利用する相手の感覚器官によく訴えるように、相手に応じて異なる信号を出している。ハエを受粉に利用しているしょく物には、屍肉(しにく)のようないやな臭いを出しているものが多い。 鳥を受粉に使っているしょく物の花は、大きく、しっかりしていて、鮮やかな色で、昆虫よりも大きな胃袋を満たさねばならないので大量の蜜を出し、臭いがない。 哺乳類で受粉の仕事を請け負っているのは、コウモリの仲間が有名だ。コウモリが受粉者であるような花は、彼らが夜行性であるため、夜だけ大きな花を咲かせ、クリーム色系統のものが多く、大量の蜜を出す。 花の構造は、受粉者が蜜の報酬を得るためには、必ずからだが花粉だらけになるようにできている。もしもミツバチが、蜜集めを終わって飛び立つ前に、きれいに自分のからだを掃除して、からだについた花粉をすっかり落としてからつぎの花に移るようなことをすると、花としてはまったく搊をしたことになる。しかし、ミツバチは、花粉がついても気にしないで、確実に受粉の仕事をしてくれている。 ところが、ハチドリなどの鳥には顔が花粉で汚れるのを嫌うものがある。こういう鳥たちは、ときどき、花に頭を突っ込まず花の根元の蜜のあるあたりに外から嘴で穴を開けて、蜜だけ吸って帰ってしまう。これは確実に裏切りであるが、動けないしょく物の側としては対処のしようがない。 しかし、しょく物のほうも裏切りをするのだ。その典型が、 ophrys(オフリス)属をはじめとするランの仲間である。これらのランの花は、その花が利用するハチなどの昆虫の雌に似ており、雌が出すフェロモンと同じ臭いを出す。そこで、配偶の準備のできた雌がいると間違えた雄がやってきて、この「雌」と交尾しようと無駄な努力を重ねる間に、雄のからだは花粉だらけとなる。結局、相手は雌ではないので、そのうちにあきらめた雄は、また別の「雌」のところへ行って、同じ無駄な行為を繰り返すこととなり、そこでランの受精は果される。こちらは、ハチの方がまったく手玉にとられている。自然は美しいには違いないのだが、騙(だま)しに満ちているのだ。 ふつう、店でハチミツの瓶を買うと、四五〇グラム(一ポンド)である。行動生態学者のハインリッチによると、一ポンドの蜜を集めるために、ミツバチは一万七千三百三十回の蜜集め飛行せねばならない。一回の飛行は平均二五分で、およそ五〇〇個の花を回る。したがって、一瓶のミツには、およそ八七〇万個の花を回ったミツバチの七二二〇時間の労働が集約されているのである。 今度ハチミツを食べるときには、この数字を思い起こし、相互扶助の大切さとともに、騙されないことの大切さも忘れないようにしよう。 |