日本の本より (享保17年~安政3年) |
日本の本より (明治時代:1) |
日本の本より (明治時代:2) |
日本の本より (明治時代:3) |
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日本の本より (明治時代:4) |
★★★★★★ | ★★★★★★ | ★★★★★★ | 日本の本より (大正時代) |
日本の本より (昭和時代) |
★★★★★★ | ★★★★★★ |
外国の人々(1868年以前) | 外国の人々(1868年以後) | ★★★★★★ | ★★★★★★ |
外国の人々(1,868年以前) |
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雇鵲が斉の桓侯にお目通りした時にいった。「御病気が筋にあります。早く治療しなさい。」 五日たった。「御病気が血脈にあります。」 また五日たった。「御病気が胃腸にあります。」 桓侯はこの忠告をすべて聞き入れなかった。 それから五日の後、雇鵲は桓侯を遠く見ただけでで、退出してしまった。「病気が筋にある時は貼り薬でなおせる。血脈にある時はハリでなおせる。胃腸にある時は飲み薬でなおせる。骨髄に来ては、生命をつかさどる神さまでも手の下しようがない。それ故に、私は何も申し上げなかったのである。」
(『史記』扁鵲伝)
*中国では古来、名医をつねに雇鵲とよぶ。『史記』にしるす雇鵲は、戦国時代の鄭国の人。名医の中の名医として神格化されている。 桑原武夫編『一日一言』―人類の知恵― P.211 |
ヒポクラテスは紀元前5世紀にエーゲ海のコス島に生まれたギリシャの医師で、それまでの呪術的医療と異なり、健康・病気を自然の現象と考え、科学に基づく医学の基礎を作ったことで「医学の祖」と称されている。彼の弟子たちによって編纂された「ヒポクラテス全集」には当時の最高峰であるギリシャ医学の姿が書き残されている。その中で、医師の職業倫理について書かれた宣誓文が「ヒポクラテスの誓い」であり、世界中の西洋医学教育において現代に至るまで語り継がれている。 ヒポクラテスの誓い(訳:小川鼎三) 医神アポロン、アスクレピオス、ヒギエイア、パナケイアおよびすべての男神と女神に誓う。私の能力と判断にしたがってこの誓いと約束を守ることを。 1.この術を私に教えた人をわが親のごとく敬い、わが財を分かって、その必要あるとき助ける。 2.その子孫を私自身の兄弟のごとくみて、彼らが学ぶことを欲すれば報酬なしにこの術を教える。そして書きものや講義その他あらゆる方法で私の持つ医術の知識をわが息子、わが師の息子、また医の規則にもとずき約束と誓いで結ばれている弟子どもに分かち与え、それ以外の誰にも与えない。 3.私は能力と判断の限り患者に利益すると思う養生法をとり、悪くて有害と知る方法を決してとらない。 4.頼まれても死に導くような薬を与えない。それを覚らせることもしない。同様に婦人を流産に導く道具を与えない。 5.純粋と神聖をもってわが生涯を貫き、わが術を行う。 6.結石を切りだすことは神かけてしない。それを業とするものに委せる。 7.いかなる患家を訪れる時もそれはただ病者を益するためであり、あらゆる勝手な戯れや堕落の行いを避ける。女と男、自由人と奴隷の違いを考慮しない。 8.医に関すると否とにかかわらず他人の生活について秘密を守る。 9.この誓いを守りつづける限り、私は、いつも医術の実施を楽しみつつ生きてすべての人から尊敬されるであろう。もしこの誓いを破るならばその反対の運命をたまわりたい。 この「誓い」は、二千年以上前の医療状況下で書かれたものであるので、一部の内容は現代に適さないものもあるが、多くは現在でも医療倫理の根幹を成している。患者の生命と健康保持のための医療を要とし、患者のプライバシー保護、医学教育における徒弟制度の重要性、専門職としての医師の尊厳など多岐にわたっている。「誓い」は弟子たちによって確実に継承され、日本でも江戸時代の蘭方医によって伝えられている。また医の倫理については緒方洪庵の「扶氏醫戒之略」、貝原益軒の「醫箴」や杉田玄白の「形影夜話」などには現代でも十分に通用する重みのある言葉で、医師としてのあるべき姿が明確に述べられている。 ヒポクラテスの誓いを現代的な言葉で表したのが WMA(世界医師会)のジュネーブ宣言(1948年)である。 ジュネーブ宣言 医師として、生涯かけて、人類への奉仕の為にささげる、師に対して尊敬と感謝の気持ちを持ち続ける、良心と尊厳をもって医療に従事する、患者の健康を最優先のこととする、患者の秘密を厳守する、同僚の医師を兄弟とみなす、そして力の及ぶ限り、医師という職業の名誉と高潔な伝統を守り続けることを誓う 近年、医学の発展とともに医療は高度に専門化、複雑化され、同時に患者主体の医療が提唱されるようになり、患者は自分の診断・治療・予後について完全で新しい情報を得る権利が生じた。患者側にも医療を受けるリスクが求められるが、医療側は患者に紊得してもらうためには十分な情報提供が必要である。即ち、患者の人権、自己決定権の尊重、インフォームド・コンセントであり、時代の変遷とともに新しい倫理も生まれてきた。ヒトを対象にした医学研究の倫理的原則を示したヘルシンキ宣言(1964年)や、患者の権利に関するリスボン宣言(1981年)などである。 関連:ヒポクラテス 2016.03.16 |
エピクロスは、快楽主義などで知られる古代ギリシアのヘレニズム期の哲学者。エピクロス派の始祖である。 現実の煩わしさから解放された状態を[快]として、人生をその追求のみに費やすことを主張した。後世、エピキュリアン=快楽主義者という意味に転化してしまうが、エピクロス自身は肉体的な快楽とは異なる精神的快楽を重視しており、肉体的快楽をむしろ[苦]と考えた。
人が自分で得ることができることを、神にたのんだとて、無駄である。 哲学しているように見せてはならず、実際に哲学しなければならない。なぜなら、必要なのは、健康らしい外見ではなく、健康自身だからだ。 むなしいのは、人間の苦しみをなおすことのできない哲学者の言葉である。なぜなら身体から病気を追いだすことのできない医学にはなんのとりえもないように、精神の苦しみを追いだすことのない哲学にはなんのとりえもない。(断 片) *古代ギリシャの哲学者。唯物論者として快楽主義をとった。彼の主義は卑俗な道楽主義ではなく、感覚の哲学上での解放であり、その目的は人間の幸福な生活にある。 *桑原武夫編『一日一言』―人類の知恵― P.96 2021.12.24 |
『老年の豊かさについて』キケロ著 八木誠一・八木綾子訳 (法蔵館)1995年5月30日 初版第1刷発行 はしがき 気がついたら老境に入っていた。気の早い友人はぼつぼつ旅立ちはじめ、からだの故障にいたつては、無いという人のほうが珍しい。かくいう私ども夫婦も、共に癌の経験者、いつまで二本足で歩いていられるか定かでない。よつて人並みに働けるうちに、なにか老境にふさわしい仕事をしてみようかと思い立ったのが、キケロ『老年論』の翻訳である。わが国はやがて世界有数の老人国になることだし、老年もさまざまに論じられている状況だから、この分野での古典の訳も、本邦初訳というわけではないけれど、まんざら無駄ではあるまいと考えたわけで、幸い法蔵館が出版を引き受けてくれた。 キケロの『老年論』は、冒頭部分は別として、大変読みやすい著作だが、とにかく古典だから、現代への橋渡しが必要だし、編集部も、ほんとうに老年もなかなか捨てたものでないと思うなら、自分の老年論を書いてみろというから、それならばと乗ったのが「私の老年論」である。こんにちキケロを読む上で、なにかの参考になろうか。 訳は、原意をそこわない範囲で、読みやすさ第一を心がけたが、説明もあった方がよかろうと、解説を巻頭に、簡単な注を章ごとに、人名・地名解説その他をまとめて巻末に、つけておいた。これらはいちいち参照しなくても十分通読可能だが、特に興味のある方はそのつど見ていただきたい。 老年のたのしみなどとっくに知っているとおっしゃる方も多かろうが、暇な午後などの一時を、この訳で娯しんでいただけたら望外の幸せだし、またこの本は、若者によき老年を迎える準備をはやばやと説く面もあるので、奇特な若い人のためになればと願う次第である。
八木誠一(1932年生まれ)
綾子(1930年生まれ)
老年論 献辞 スキピオとラエリウス 幸福な老年の実例をあげる 老人はすることがないという通念に反論する 老人には体力がないという通念に反論する 老人には何の楽しみもないという通念に反論する 老人には死が近いということについて キケロについて 登場人物について 人名・地名解説
私の老年論 あとがき ラテン文学は、ギリシャ文学とは違い、あまり青年向きでないように思われる。情熱と冒険というよりは、経験と常識の産物で、華麗ではないが滋味があり、年配の人の静かな共感を呼ぶのである。本書もそういう意味で現代に語りかけ、読者を人生についての省察に誘うだろう。本書の出版については法蔵館社長の西村七兵衛氏、編集部の中嶋廣氏に大変お世話になり、感謝である。
パウロはいう・コリント 4.16 「外なる人は朽ちてゆくが、内なる人は日々に新しい。」道元はこれを「ほとけのいのち」といった。『正法眼蔵』生死の巻。
余録 毎日新聞2016年2月2日 東京朝刊 古代共和制ローマの政治家で雄弁家のキケロは、近代の啓蒙(けいもう)思想家に民主主義を象徴する人物のようにあがめられた。ただしこの古代の共和制は、票や役職が半ば公然と売買される金権政治であった ▲イタリアのジャーナリスト、モンタネッリの「ローマの歴史」によると、かのキケロも属州の役人になって今の6000万円に相当する私財を増やしている。だが当時の人々はその蓄財額が少ないとして彼を「清廉(せいれん)の士」と呼び、当人もそれを吹(ふい)聴(ちょう)して歩いたという ▲キケロの執政官選挙では参謀の弟から「あらゆるつながりを動員せよ」と指南された。支持者には当選したら必ず報いると訴え、恩恵を与えた人には貸しを返せと迫る。貴族には大衆迎合を否定し、大衆には愛想よく振る舞った。なりふり構わぬ売り込みで当選した ▲こんな故事を引いたのも、先日の甘利(あまり)明(あきら)氏の閣僚辞任記者会見で「いい人とだけつきあってては選挙に落ちる。来るものは拒まずじゃないと当選しない」との発言を聞いたからだ。自らが怪しげな金を受け取っておき、相手と選挙が悪いような物言いはいただけない ▲小紙の世論調査で甘利氏の金銭問題について「説明は不十分」という人が6割を超えたのは当然だろう。だが首相の任命責任は「重くない」が「重い」を上回り、内閣支持率はむしろ上昇した。くり返される政治とカネによる閣僚辞任にはもう慣れっこということか ▲共和制末期のローマの「清廉」を持ち出さずとも、「政治家なんてどだいそんなもの」と見くびられては先行きが危うい。国民の政治不信も底が抜ける時があるのを政治家は心底恐れてほしい。 河盛好蔵著『人とつき合う法』(新潮文庫)(昭和四十九年十二月十日 十八刷) P.71 キケロの『友情論』のなかに、次のような言葉がある。「友情に関しては、他の事物のように飽きるなどということがあってはならぬ。古ければ古いほど、あたかもブドウ酒の年代を経たものと同様にますます甘美となるのが理の当然で、世間でいうように、友情のつとめが果されるためには、一緒に何斗もの塩を食わねばならない、というのは本当である。」
マルクス・トゥッリウス・キケロ(ラテン語: Marcus Tullius Cicero)(紀元前106~紀元前43年)は、共和政ローマ末期の政治家、弁護士、文筆家、哲学者である。名前はキケローとも表記される。カティリーナの陰謀から国家を救うなど活躍し、入ることを熱望していたオプティマテス寄りの論陣を張って、ガイウス・ユリウス・カエサルやオクタウィアヌスらを食い止めようと試みたが叶わなかった。 哲学者としてはラテン語でギリシア哲学を紹介し、プラトンの教えに従う懐疑主義的な新アカデメイア学派から出発しつつ、アリストテレスの教えに従う古アカデメイア学派の弁論術、修辞学を評価して自身が最も真実に近いと考える論証や学説を述べ、その著作『義務について』はラテン語の教科書として採用され広まり、ルネサンス期にはペトラルカに称賛され、エラスムス、モンテスキュー、カントなどに多大な影響を与えた。又、アリストテレスのトピックスに関して『構想論』『弁論家について』『トピカ』の三書を著し, 後のボエティウスによるその概念の確立に大きく貢献している(例えばトピック (論理学)参照)。 キケロのな名前に由来するイタリア語の〔チチェローネ〕という言葉は〔案内人〕を意味するが、ギリシア哲学の西洋世界への案内人として果たした多大な影響をよく物語っている。 ※参考図書:I・モンタネット/藤沢道郎訳『ローマの歴史』(中公文庫)P.191 |
ガイウス・ユリウス・カエサル(古典ラテン語:Gaius Iulius Caesar)(B.C.100~44年)は、共和政ローマ末期の政治家、軍人であり、文筆家。〔賽は投げられ〕(alea jacta est)、〔来た、見た、勝った〕(veni, vidi, vici) 〔ブルータス、お前もか 〕(et tu, Brute?)などの特徴的な引用句でも知られる。また彼が布告し彼のなが冠された暦(ユリウス暦)は、紀元前45年から1582年まで1600年間以上に渡り欧州のほぼ全域で使用され続けた。 古代ローマで最大の野心家と言われ、マルクス・リキニウス・クラッスス及びグナエウス・ポンペイウスとの第一回三頭政治と内戦を経て、永久独裁官(英語版)(ディクタトル・ペルペトゥオ)となった。
賽は投げられ。
来た、見た、勝った。
わが子よ、お前もか。
この日(3月15日)ローマの元老院で殺された。第一次三頭政治をへて、独裁者となった。その間ガリアやエジプトに戦った。文筆にもすぐれた。 *桑原武夫編『一日一言』―人類の知恵― P.46 2022.01.09記す。 ※参考図書:I・モンタネット/藤沢道郎訳『ローマの歴史』(中公文庫)P.198 |
(Publius Ovidius Naso, は古代ローマ、いわゆる「アウグストゥスの世紀」に生きた詩人。オヴィディウス、オーヴィッドとも呼ばれる。 一 もし一年を通して太陽の日と雲の日とを数えてみれば、晴れた日の方が多かったということが分かるだろう。 ※参考図書:I・モンタネット/藤沢道郎訳『ローマの歴史』(中公文庫)P.249 |
こころの貧しい人たちは、さいわいである、 天国は彼らのものである。 悲しんでいる人たちは、さいわいである、 彼らは慰められるであろう。 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、 彼らは飽き足りるようになるであろう。 平和をつくり出す人たちは、さいわいである。 彼らは神の子と呼ばれるであろう。 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである。
天国は彼らのものである。(山上の垂訓)
12月25日ユダのベツレヘムに生まれる。三十歳頃から福音を説き、三年後十字架にかかったが、復活したとされる。キリスト教の始祖。図はルオ―作。 *桑原武夫編『一 日 一 言』―人類の知恵―(岩波新書)P.213 ※『聖書』新共同訳 発行所 日本聖書協会 1991 P.(新)6 山上の垂訓(五ー七章)を始める 2020.08.28 |
▼『人生の短さについて』(岩波文庫) 一 われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。われわれは人生に不足しているのではなく濫費しているのである。P.10 二 「私は五十歳から暇な生活に退こう。六十歳になれば公務から解放されるだろう。」では、おたずねしたいが、君は長生きするという保証でも得ているのか。君の計画どおり事が運ぶのを一体誰が許してくれるのか。P.15 三 生きることは生涯をかけて学ぶべきことである。そして、おそらくそれ以上に不思議に思われるのであろうが、生涯をかけて学ぶべきは死ぬことである。P.22 四 毎日毎日を最後の一日と決める人、このような人は明日を望むこともないし恐れることもない。P.24 五 髪が白いとか皺が寄っているといっても、その人が長く生きたと考える理由にはならない。長く生きたのではながく、長く有ったに過ぎない。P.25 六 万人のうちで、英知に専念する者のみが暇のある人であり、このような者のみが生きていると言うべきである。P.42 七 偶然に生じたものはすべて安定を欠き、また高く上ったものほど落ち易いからである。P.49 ☆セネカ『わが死生観』 参考:この本は『人生の短さについて』(岩波文庫)と別の本である。 「老人の中には、自分の年齢以外には長生きをしたことを証明できる証拠を何ひとつ持っていない者をしばしば見かける。」 「Often a man who is very old in years has no evidence to prove that he has lived a long time more than his age.」 「読書の楽しみのひとつは、感動した言葉や気に入った詩歌を『抜き書き』して、知的宝石箱を作ることにある。」 「あなたのことを知りつくしていてもそのことを恐れる必要のない人。こんな人になりたい。」 「自分は自分一人の占有物でないことを知っている者の目には、自分が貴重なものとして映るから、自分に課せられたすべての義務を誠実慎重に履行する。」 「たいていの峰は遠くから見れば、とうてい登ることも越えることもできないほど険しく困難な道の果てにあるように思われる。ところがその同じ峰に少しずつ近づいていくと、次第に目が慣れ、いくつもの峰々が次第にひとつに見えてきて、遠目には絶壁と見えた峰がなだらかな斜面に思えてくるものだ。」 「最初に踏ん張っておけば、あとは余勢で進んでいく。」 「本当に無敵なものは、攻撃されないということではなくて、攻撃されても傷つかないということだ。」
☆セネカの言葉 「出来るなら君は君のその職務からただちに引退したまえ。出来るなら、強引に身を引きはがせ! すでに十分以上の時を我々は浪費してきた。老年を迎えた今こそ、いつでも旅立てる用意を始めようではないか」 *平成15年10月16日(木)の朝日新聞の〈天声人語〉の一部より。 |
悪人は皆、悪人であるかぎり憎まれ、人間であるかぎり愛されるべきである。私たちが悪人において正当に愛するも、すなわち人間の本性そのものを、罪悪からきよめ、解放するために、私たちが彼において正当に憎むもの、すなわち罪悪を、責めなければならない。それゆえ、敵を、彼における悪しきもの、すなわち不義のために憎み、彼における善なるもの、すなわち社会的、理性的存在者としての彼の本性のために愛することこそ、私たちが支持する主義なのである。(マニ教徒ファウストゥスにたいする駁論) この日(11月13日)北アフリカに生まれたキリスト教会最大の教父。彼の完成した正統的信仰は、中世哲学に決定的な影響を与えた。 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.188
小林司著『出会いについて』精神科医のノートから (NHKブックス)P.21 から 一冊の本との出会いでもっとも古くかつ有名な例は、アウグスティヌス(Aurelius Augustinus)の『告白』に書かれている。ローマのカトリック教司教だったアウレリウス・アウグスティヌス(三五四~四三〇)はキケロの哲学的対話篇『ホルテンシウス』に出会ったことによつて魂の底からゆさぶりをかけられる。 「の書物こそ、じつさいに、わたしの情念を一変し、わたしの祈りをあなた自身にむけ、わたしの願いと望みとをまったく新しいものとしてしまった。すべての苦しい希望は、私にとって突然いやしいものとなった。わたしは信じがたいほどの熱情をもって、知恵の不滅をしたい、あなたのもとに帰ろうと立ち上がりはじめた。」(『告白』上巻七一頁) さらに、のちに新プラトン派の本(たぶんプロティノス『エネアデス』)に出会って、アウグスティヌスは非物体的な存在――純粋な霊の存在という考えを教えられる。自己自身の内側に目覚め、真の意味で存在するもの、つまり神について明確な知を得たのである。 2010.11.13:写之 |
朝早く門を叩く音。あわててあけてみれば、これはこれは百姓のお爺さん、遠路、酒をたずさえての御入来、そのいうことに―― 「なぜあなたは世に背きなさる。ボロをまとうて茅の家に住むのが、なにも清い暮らしとは限りませぬ。調子を合すのがこの世の習い。濁り世の同じ泥田にお立ちなされ。」
いやもっともの御意見なれど、世に交わり難きはわしの性(さが)。この性を直せばよいものの、己れを曲ぐることは過ちじゃ。まあここへござれ、そいつを景気よく飲(や)りましょう。わしの道は曲げられねども。(飲酒の時)
六朝時代の詩人。官途についたが、すぐにやめ田園に帰った。自己に誠実かつ純粋な人間で、その詩はすべて彼の信仰告白であった。 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.27 |
人間の足がふむ広さは、わずか数寸にすぎないのに、一尺ほどもある路で、きまって崖からつまずいて落ちるし、ひとかかえもある丸木橋で、かならず川に落ちておぼれるというのは、なぜか。そのかたわらに余地がないからである。君子が世に立って行く場合も、まったく同じこと。真実のこもったことばも、人に信用してもらえず、天地に恥じぬ行いも、人から疑われることもある。みな、自己の言行・名声に余地ががないためである。私は人からそしりを受けたとき、いつも、この点について自己反省した。(『顔氏家訓』吊実篇) *南北朝時代の学者。儒教と仏教との調和をこころみた。『顔氏家訓』は、人間いかにいくべきかを家族を中心の立場から述べた。 *桑原武夫編『一 日 一 言』―人類の知恵―(岩波新書)P.3 ★この文章は記憶していた。 2010.07.01 |
顔 真卿 P.97~108 顔真卿(七〇九~七八五)、字は清臣、唐の瑯邪臨沂の人。時代はちがうが王義子と同郷である。 顔真卿の五代前の祖じゃ『顔氏家訓』の著者として有名な顔之推(五三一~六〇〇頃)であり、三代前の祖(曾祖父)顔勤礼の兄の顔師古(五八一~六四五)は『五経』の校勘者として、また『漢書』の注釈者として著名な学者である。顔真卿自らがその「顔勤礼碑」や「顔氏家廟碑」に記しているところによれば、この種の碑文の常套的修辞とはいえ、曾祖父顔勤礼、祖父顔昭甫(顕甫)、父顔惟貞、伯父顔元孫、すべて能書家だったといいう。 顔真卿の伝記は、『旧唐書』(五代の後晋劉昫らの奉勅書)の巻一二八、『新唐書』(宋の欧陽脩らの奉勅書)の巻一五三にあり、年譜には宋の留元剛の「顔魯公年譜」がある。 顔真卿が歴史に登場するのは、天宝十四年(七五五)十一月、安禄山が范陽に反乱の兵を挙げたときである。従兄(顔元孫の子)の顔杲卿と同時に登場する。 安禄山の二十万の大軍がたちのうち河北の地を席巻してしまったとき、玄宗は狼狽し、「河北二十四郡に一人の義士もおらぬのか」となげいたとという。そのとき玄宗のもとに朗報がはいったのである。平原の太守顔真卿が安禄山軍を撃退したと、玄宗それを聞くと感激して「自分は顔真卿がどんな顔をした人物だったかも覚えていないほどなのに、顔真卿のほうはそんなにも自分に忠節をつくしてくれたのか」といった。 顔杲卿の方は常山の大夫だったが、彼は安禄山の大軍を防ぐとができないと見ると、長史の袁履謙と謀り、常山の城をすてて道に安禄山の軍を出迎え、降伏を請うたのである。かねてから顔杲卿の勇才をみとめていた安禄山は、よろこんで彼をゆるし、そのまま常山を守ることを命じた。そして、武将の李鈞湊井脛にとどめてその地を守らせ、同じく高貌を幽州へつかわして兵を集めさせて、自らは本軍をひきいて洛陽へむかったのである。 常山へ戻った顔杲卿は、おもては安禄山に従っているように見せかけながら、ひそかに義兵を集めて安禄山を討つことを謀るとともに、使者を井脛へやり、李鈞湊の軍一同に対して安禄山から恩賞があったとあざむいて、彼を常山に招いた。部下をひきつれて常山に来た李鈞湊は恩賞の酒宴と信じて前後をわすれて酔いつぶれたところを、部下ともども、殺されてしまったのである。高貌も同じ計略にかかり、幽州からの道に酒宴を設けて待ちうけていた顔杲卿の部下によって、宴たけなわのとき殺されてしまった。 顔杲卿のこの挙兵は、顔真卿の平原における挙兵と相俟って、河北二十四郡のうち十四郡を朝廷に帰服させる力になったのである。 その翌年の正月、洛陽で大燕皇帝を僭称した安禄山は、史思明と蔡希徳を将とする数万騎をつかわして常山を攻めた。顔杲卿は死力をつくして防戦したが、兵をおこして間もなかったため兵器や糧食の備えがうすく、ついに落城して、捕えられ袁履謙とともに洛陽へ送られた。 安禄山の前に引き出された顔杲卿と袁履謙は、安禄山を指して逆賊といい、営州の羯奴(羊飼い)と呼び、罵倒してやまなかった。安禄山は怒って二人を咼刑(口切の刑)に処したが、二人は死にいたるまで声にならぬ声をふりしぼって安禄山を罵ることをやめなかったという。 顔杲卿のことを長く語ったのは、顔真卿の生涯の縮図と見ることもできると思ってである。顔真卿と同じく顔杲卿も書を好くした。その生き方の剛直さにおいても二人は同じである。その忠誠心においても同じである。一方は短く生き、一方は長く生きたちがいがあるものの、非業の死をとげた点においても二人は同じである。 玄宗が、首都長安を捨てて楊氏一族とともに西へ逃れ、楊氏一族が馬嵬で殺された後、蜀にたどりついたのは、天宝十五年(七五六)六月である。当然、安禄山軍の勢いはさらに強大になり、顔真卿と顔杲卿の挙兵によって義軍をおこして安禄山に抵抗していた郭子儀や李光弼らも、河北から兵を引きあげざるを得なくなっていたが、しかし、顔真卿だけはあくまでも平原を守りとおしていたのだった。 顔真卿が平原を捨てる決心をしたのは、馬嵬で玄宗の一行と別れた太子享(粛宗)が、かつて朔方節度使であった縁故で霊州(今の寧夏州回族自治区霊武県)へ行き、この地で即位したことを知ったときでであった。至徳二年(七五七)四月、顔真卿は霊州へ行って粛宗に謁し、憲部尚書に任ぜられる。 安禄山がその子の安慶緒に殺されたのは、至徳二年一月である。その年の九月、唐軍は長安を奪回し、十月、洛陽を奪回した。 史思明が安慶緒を殺して大燕皇帝と称したのは乾元二年(七五九)三月である。翌年四月、史思明は洛陽を占領する。 史思明がその子の史朝義に殺されたのは、上元二年(七六一)一月である。 その翌年の四月、玄宗と粛宗が死に代宗が即位する。代宗の宝応二年(七六三)、史朝義が殺されて、ここにようやく、いわゆる「安史の乱」が終るのである。 この間、顔真卿は、至徳二年十月、憲部尚書として粛宗に従って長安に帰るが、二年後の乾元元年三月には左遷されて蒲州の刺史に転出するのである。以後、各地の刺史を転々とし、あるいはさらに長史に貶されたりした後、代宗の宝応元年年(七六二)十二月、中央に呼びもどされて戸部侍郎に任ぜられる。不遇の時代が五年間つづいたのである。 戸部侍郎から吏部侍郎、尚書右丞、検行刑部尚書を歴任し、広徳二年(七六四)三月には魯郡開国公に封ぜられる。顔真卿のことを元魯公とよぶのはこのためである。 だが、中央にいた時機はわずか三年間で、大暦元年(七六六)三月にはまた左遷され、峡州の別駕に流される。以来、別駕あるいは刺史として各地を転々とした末、再び中央に呼びもどされるのは大暦十二年(七七七)の三月である。まる十一年間も、いわば流されていたのである。 この時代は権臣が私利私権を争って政治が腐敗の極に達していた。権臣はみな、奸臣や佞臣たちだった。顔真卿の剛直さが彼らとの共存をゆるさなかったのである。不正は不正として、不義は不義として直言せずにはおれなかったのである。権臣たちにとってはそういう顔真卿の存在が邪魔でならなかったのであろう。十一年間にわたる長い流謫時代のきっかけとなったのは、宰相元載に憎まれたからだといわれている。元載が失脚して殺されたのが大暦十二年三月である。そのとき顔真卿は都に呼びもどされたのだった。そして刑部尚書に任ぜられ、吏部尚書に転じた。顔真卿の得た最高の官である。だが、吏部尚書になった翌年の大暦十四年(七七九)の五月、代宗が死んで徳宗が即位し、楊炎が宰相になると、翌建中元年、顔真卿は太子少師という役に移される。左遷こそされなかったが、政治の局面から退けられたのである。 楊炎にとっても顔真卿の剛直さは邪魔だったのであろう。顔真卿を遠ざけておいて楊炎は権力を専らにし、翌年、権臣劉晏を追いつめて死に至らしめる。だがその翌年、楊炎は失脚し、代って宰相の地位を奪った蘆杞によって死に追いやられるのである。顔真卿が再三流されたり退けられしたのは、あくまでも正義をつらぬこうとするその剛直な姿勢のためであった。迎えられたのもまたそのためであったが、死に追いやられることがなかったのは、権力を握ろうとするような野望とは無縁だったからである。 建中二年(七八一)六月、将軍郭子儀が死んだ。内が乱れているとき、外を鎮めていたのは郭子儀であった。郭子儀の死とともに辺地に反乱がおこりはじめる。 建中三年、河朔三鎮と平盧節度使とが自立してそれぞれ王と称し、つづいて淮西節度使李希烈が叛旗をひるがえすに至る。李希烈も自ら王と称し、建中四年正月、その根拠地蔡州から軍をおこして北上し、先ず汝州を陥れた。唐朝は、権臣たちが政争にあけくれているうちに、安禄山の乱以来の難局を迎えることになったのである。 このとき顔真卿がまた歴史の表面に姿をあらわすのである。 宰相蘆杞が、そのとき太子太師だった顔真卿を淮寧宣慰使に推したのである。李希烈を説伏して帰順させるための使節である。顔真卿は忠誠剛直、必ずや李希烈に順逆の理を説いて屈朊させることができるでしょう。――蘆杞は徳宗にそう進言したのである。蘆杞が、顔真卿ならその任を全うすると信じていたとは考えらない。もしそうならば、宰相になったとき用いたはずである。蘆杞はあるいは顔真卿を、李希烈を説伏に行かせることによって葬り去ろうとしたのかもしれない。 動機が何であれ、顔真卿にとっては勅命がくだったのである。淮寧宣慰使という任を遂行するために最善の努力をすることよりほかに道はない。 顔真卿は長安を出発して汝州へ向かった。汝州城内で抜刀した叛乱軍の兵士のとりかこむ中で李希烈に会い、勅使として、帰順すべきことを説いた。李希烈はそれを聞いて冷笑した。 「あなたは、あなたの説く順逆の理によって、わたしが帰順するとでも想おもっているのか」 と彼はいった。 「思わない」 と顔真卿は答えた。 「だがわたしはあくまでも説かなければならかないのだ」 「あなたは、徳宗や宰相蘆杞が、あなたがわたしを説伏することを信じていると思うのか」 「思わない。だが、わたしはあなたを説伏することを命ぜられたのだ。わたしはあくまでも説かねばならないのだ」 「そうか。つまりあなたはここへ死にに来たのだ。死ねば無である。それよりも宰相としてわたしに仕える気はないか」 「あるはずがない。順逆の理を説いて死ぬことがどうして無であろうか」 「まあよい。しばらくここにとどまって頭を冷やすがよかろう」 李希烈は顔真卿を軟禁し、その後もしばしば会って自分に仕えるようにすすめたが、顔真卿はきかなかった。死を覚悟している顔真卿にはまた、どんな嚇しも通じないのだった。 顔真卿が汝州に捕えられているあいだに、李希烈は一時汝州から退いて蔡州へ戻った。顔真卿はそのとき蔡州へつれて行かれ、龍興寺の一室に幽閉された。 貞元元年(七八五)八月、李希烈は戦線から龍興寺へ使者を送った。使者は顔真卿に会って、 「勅命です」 といった。すると顔真卿は恭しく頭を垂れた。使者はつづけて、 「卿に死を賜う」 といった、すると顔真卿は、 「わたしは何もすることができませんでした。その罪は死にあたります」 と答えた。そのとき、顔真卿は首都長安のことを思った。かつて長安を追われて地方を転々としていたときにも、いつも長安を思っていたが、そのときとはちがって、今後はもう絶対に長安の土を踏むことができなくなったのだな。と思ったのである。そして使者に対してたずねた。 「いつ長安をお立 になったのですか」 すると使者はいった。 「何を血迷っておられる。大梁から来たのです。長安から来たのではない」 「おお、そうだったのか。逆賊の使いか」 と顔真卿ははじめて声をはげましていった。 「逆賊のくせに勅命とは何ごとか!」 それから間もなく顔真卿は殺された。行年七十七歳であった。汝州に来てから殺されるまでの顔真卿の心中は苦しかったにちがいない。早く死んだ従兄の顔杲卿の方が、むしろ胸を張って死ぬことができたのではなかろうか。だが、彼は顔杲卿よりも従容として死についたともいえよう。胸を張ることの空しさを顔真卿は再三の地方生活での道士や僧侶たちとの交わりの中で知ったはずである。それは老荘思想への親近である。彼は儒家的な姿勢で生涯をつらぬきとおしたが、同時に道家的思想も身につけていたのである。書人としての顔真卿が多くのすぐれた書を残したそのこととは無縁でははない。 顔真卿が殺された翌年の貞元二年四月、李希烈もその部下の将に殺される。そして乱が鎮まったあと、顔真卿の遺骨は長安へ送られ、万年県鳳棲原の祖先の墓に合葬されたのである。 顔真卿の祖先は、顔之推以来北朝に仕えた。当然、彼には北方の血がまじっていると見てよかろう。その剛直な性格から、色濃く北方の血がまじっているとみなしてもよいかもしれない。 唐の太宗は自らの北方的な荒々しさを、南方の文化を吸収することによって和らげることに努めた人であった。王羲之の書に対する太宗の熱烈な心酔には、南方的な優美へのあこがれが多分に作用していたといってよかろう。 太宗とはちがって、北方的な剛直を以て南方的な典雅に反発したのが顔真卿である。あるいは顔真卿は、王羲之の書法の優美典雅なところに、自分の周辺の権臣たちが身につけている便寧の部分を見て反撥を覚えたかもしれない。そして自らは、『論語』の言葉を借りていえば、「剛毅朴訥」な書法をつくり出したのである。 千福寺多宝塔感応碑(天宝十一年・七五二) 東方朔画賛碑(天宝十三年・七五四) 謁金天王神祠題記(乾元元年・七五八) 麻姑仙壇記(大暦六年・七七一) 大唐中興憲頌(大暦六年・七七一) 八関斎会報徳記(大暦七年・七七二) 顔勤礼碑(大暦十四年・七七九) 顔氏家廟碑(建中元年・七八〇) 以上の諸碑の拓本を私はこの数日間眺めつづけてきたが、見れば見るほど心を惹かれていったことは確かである。結局、最も心を惹き込まれたのは、「顔氏家廟碑」に見える朴訥といえるかもしれないほどの力強さであった。年代の早いものには、なお優美典雅といえる部分がないとはいえないような気もする。概していえば、後になるに従ってそれが薄れて、厳しさが内にこもってくるように思われてならなかった。 だが、どこに魅力があるのかと問われても答えることができないのである。あるいは王羲之の書よりも眺めていても倦きないといえるかもしれぬ、とも思った。風景にたとえるなら王羲之の書は美しいといえよう。だが顔真卿の書は風景として特に美しいとはいえない。しかしそこにほんとうの美しさが、庭園的な美しさではない自然な美しさがあって、そのために倦きないといえるのかもしれない、とも思った。 また、顔真卿の書に接するときには、顔真卿の歩んだ道がその書と重なって思いうかんでくることで、その一つ一つの文字に生命を与えているような気もしないではなかった。 そういうとき、外山軍治氏の『解説』を読んだ。そして、ああそうなのかと思った。 顔真卿の楷書の形態上の特色は、どの文字も方形にまとめられていることである。とくに碑に刻せられた文字は、画数の多いものも少ないものも、どれもみな同じように方形の中に書かれているのである。これは王羲之など晋人の書が、一字一字を、長短、大小、斜正、祖蜜など、変化をもたせて書き、その中に美的調和をもとめているのと大いに趣を異にしている。欧陽侚、虞世南、褚遂良など唐人の書は、これに比べるとよほど変化が乏しくなっているが、顔真卿はとくに極端である。 そしてまた、顔真卿の楷書には、同じ筆法の反覆がみられる。「点は墜石のごとく、画は夏雲のごとく、鉤は屈金のごとく、戈は発弩のごとく、縦横、象あり、低昻、態あり>という古人の評があるが、その点も、画も、鉤も、戈も、同じ筆法がくりかえされている。これは筆法の定型化といってよかろう。このことが文字の方形と相まって、現代の活版印刷における活字の羅列を思わせるものがある。これは、比較的早く書かれた「千福寺多宝塔感応碑」からはじまり、「顔氏家廟碑」にいたるまで一貫して変わらない。方形であることも、もちろん正鋒(直筆)の採用も、これほど徹底的にやってのけた書人は他に例がない」(『書道藝術』第四巻、中央公論社) これは意図的なものであったのであろうか。それとも、顔真卿の性格が自然にそのような筆法を生んでいったのだろうか。私は後者であればよいと思う。庭園的な美しさではない自然な美しさ、という私の受けとり方は、後者であれば納得されるような気がするのである。 顔真卿の楷書の書法は北宋時代、大いに流行した。特に賞讃したのは蘇軾(号は東坡。一〇三六―一一〇一)である。蘇軾は唐宋八大家の一人に数えられる古文派の吊手である。六朝時代の形式的な美文から、内容を重んじる散文への改革を志した一人である。その点、顔真卿の、王羲之の典雅から、修飾を排して主体性を重んじようとする改革に通じるところがなくはない。蘇軾はまた、司馬光を領袖とする旧法党に属していたため、王安石を領袖とする新法党のために二度流罪になり、その流罪の期間は前後あわせて十四年におよぶ。という点でも顔真卿に似ていなくはない。さらにまた、流罪の間に仏教思想(特に禅の思想)と老荘思想に親しみ、それによって儒家的な思想を突き破っていったことによって、その文章や詩に人間的な深みが加わっていったのであるが、顔真卿の場合も、いくらかは禅や老荘の思想を地方での長い不遇の期間に身につけ、それによってその書が深められていったということもいえなくはないようである。 蘇軾が顔真卿の書に共感を覚えたことは納得できるのである。彼は王羲之の書を「俗書」といい、その理由を「姿媚を趁」っているからだとした。姿媚を趁うとは、容姿をかざるということである。顔真卿が王羲之の書に反撥したのも、同じくその点においてであった。蘇軾が六朝の美文を排して北朝の淳朴な書に、もどそうとしたのであろう。そう思いながら顔真卿の楷書を見なおすと、その書の向うに浮んで来るようにも思えるのである。 ※著者「あとがき」に『中国書人伝』で私が志したことは、二十三人の書人それぞれの書についての論評ではなく、書人それぞれの生き方をその書を通してさぐってみるということであった。「書は人なり」といわれるその「人」に、その書を通して出来るだけ近寄っ上で、その「伝」を書きたかったのである、と記載している。 ※駒田信二著『中国書人伝』(芸術新聞社刊)一九八五年十二月二十五日 初版第一刷発行 による。 2020.02.29記す。
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真理を伝え、学を授け、疑を解くもの、それが師である。人間は生まれながら知るものでないから、師につくことが、絶対に必要である。その場合、問題は真理にあって、年齢や身分に関係しない。工人たちはたがいに師とし合うことを恥じないのに、士大夫たちは、年齢がどうの、学業がどうの、といって、師である弟子であるといえば、みなが笑う。相手の官位が低いと、かっこうが悪いと思い、高ければ高いで、へつらっているように思う。君子は工人たちを眼中においていないけれども、現状では、その智はかえって工人に及ばない。奇妙なことである。
(師説)
12月1日晶黎県(河北省通洲の東)に生まれた。唐宋八大家の一人。唐代の代表的な文学者。前代の技巧派の宿弊を打破し、古文の復興に努力した。 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.200 2010.11.29 |
なにもせずにじっとしておれば、一日が二日みたいな気になるものだ。もし一生涯を全部こんな気分に切りかえることができれば、七十まで生きたとしても、それは百四十歳の寿を得たことになる。こんなすばらしい長生きの薬は、めったに有るものではない。副作用もなければ、金もかからぬ。人間だれでも、この処方をそなえておるのに、困ったことには、よい白湯がないために、せっかくの薬がのめぬという始末だ。(魚隠叢話) ふざけたような言葉ながら、ふかい感慨がこめられている。彼の生涯こそは、烈しい政争をくぐって波瀾にみちたものであった。 12月19日 この日四川省眉山に生まれる。宋代の文豪。あけっぱなしの放胆さ、しかも志を曲げぬ強靭さがある。作品の幅は広く、かつ爽快。 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.209 2020.03.01記す。 ※参考:蘇東坡の詩 春夜 制作年不明 松枝茂夫編『中国名詩選(下)』(岩波文庫)P,284
春宵一刻 値千金、
松枝茂夫編『中国名詩選(下)』(岩波文庫)に、他12の詞が記載されている。 2020.03.01記す。 |
ウマル・ハイヤーム (ペルシア語: عمر خیام, Omar Khayyám)(1,048~1131年)は、セルジューク朝期ペルシアの学者・詩人。ニーシャープール(現イラン・ラザヴィー・ホラーサーン州ネイシャーブール)出身。イラン・イスラーム文化の代表者。ウマルのを現代ペルシア語風に読んでオマル・ハイヤームともいう。全名アブー・ハフス・ウマル・イブン・イブラーヒーム・ハイヤーミー・ニーシャーブーリー。「ハイヤーム」は[天幕造り]の意味であり、ハイヤームの父親の職業が天幕造りであったことから、このように呼ばれている。 数学・天文学に通じた学者としてセルジューク朝のスルターンであるマリク・シャーに招聘され、メルヴの天文台で暦法改正にたずさわり、現在のイラン暦の元となるジャラーリー暦を作成した。33年に8回の閏年を置くもので、グレゴリウス暦よりも正確なものであった。 また、無常観が言葉の端々に表れるペルシア語によるルバーイイ(四行詩)を多数うたい、詩人としても高い評価を得ていた。彼のルバーイイを集めた作品集は『ルバイヤート』として、故地イランのみならず、各国で翻訳され出版されている。
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.46 〔43〕
Myself when young did eagerly frequent
《訳》 われ若かりし頃、
オマル・ハイヤーム(1050?~1123)は古代ペルシャの詩人、数学者、天文学者、彼の詩集『ルバイヤーㇳ』(Rubaiyat)は 神秘哲学的な抒情詩で、全編に無常観が漂う。イギリス詩人エドワード・フィッツジェラルド(Edward Fitzgerald, 1809-83)の 英訳(1859)により世界に広まった。 人生の奥義を見出そうと、聖者の門を叩き、必死に彼らの議論に耳を傾けるが、その努力も徒労に終わる。引用の詩の直後に、 自ら英知の種を蒔き、育て、刈り取った収穫は[われ水のごとくに現れ、風のごとくに去り行く](I came like Water, and like Wind I go.)という有為転変の人生に対する悟りであった。筆者は若い頃この部分に特に感動したものだ。 2021.12.12 |
わが姉妹、鳥たちよ、神は汝らに好むがままにあらゆるところへ飛びゆく自由をあたえたまい……汝らは播かずまた刈らざれども、神は汝らに食をを与え、泉と流れを汝らの飲みものとしてあたえたまう。彼は汝らに山と谷をかくれ家としてあたえたまい、高き木々を汝らが巣くうためにあたえたまい、汝らは紡ぐことも縫うことも知らざるを見たまいて、神は汝らと汝らの幼きものたちに衣をきせたまう。それ故に、わが姉妹よ、心して忘恩の罪を犯さず、つねに神をたたえまつれ。(小さき花―小鳥への説教) この日(1226年10月3日)死んだ中世イタリアの修道僧。若いころ放蕩したが、宗教的回心をへて、愛と清貧を旨とする托鉢僧団を創始した。 *桑原武夫編『一 日 一 言』―人類の知恵―(岩波新書)P.165 2010.11.04:写之 |
▼『神曲』 まわれ、山腹の高さ、私の目路(めじ)をはるかに越えておりまする。 答えて、師、私に。この山は、裾の登りはじめこそ難儀なれど、登るにつれて、苦労が減るようになっている。 されば、身も心もうらうらと楽しく、登るのが、船で流れを下るほど気楽に思われてくる時が、すなわちこの難路の終わりぞ、そこへ着けば、君の疲れも存分に癒されよう。これ以上、私は答えぬ。このこと、偽りでない。 *「集英社」出版:寿岳文章訳「煉獄篇、第四歌」P.203より |
フランソワ・ラブレー(フランス語: François Rabelais フランス語: [fʁɑ̃swa ʁablɛ]、(1483年? ~1553年)は、フランス・ルネサンスを代表する人文主義者、作家、医師。ヒポクラテスの医書を研究したことで著名となり、次いで中世の巨人伝説に題材を取った騎士道物語のパロディー『ガルガンチュワ物語』と『パンタグリュエル物語』(『ガルガンチュワとパンタグリュエル』)で知られる。これらは糞尿譚から古典の膨大な知識までを散りばめ、ソルボンヌや教会など既成の権威を風刺した内容を含んでいたため禁書とされた。
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.7
〔6〕
《訳》ばかの顔を見たくなかったら、まず自分の鏡をこわせ。
つまり、自分こそばか者の手近な見本だぞ。それを忘れるな――という手ごわい教訓である。 ラブレー(1494?~1553?)はフランスの人文学者、諷刺文学者、医師で、ユーモラスな大作『ガルガンチュア物語』(Gargantua, 1534)その他で有名。ルネッサンスを体現したような大人物であったた。この言葉は、人間はまず自己の愚かさの自覚からスタートするべし、という教えである。 Let down the curtain: the farce is done.(幕を下ろせ。茶番はおしまいだ)が彼の臨終の言葉と伝えられている。要するに人生は茶番にすぎない、と評価を下して引き上げて行くとは大人物らしく立派だが、生きていくにはいろいろ面倒もあったろう。どうせ茶番と知りながら、死ぬまでその面倒を我慢したとすると、彼の生涯はやはり悲劇ではなかったか。 2021.11.17 |
一 各人はその考え次第で幸福にもなり、不幸にもなる。他人が見てそう思う人ではなく、自分がそう思う人が満足なのである。 二 自説に固執し、夢中になることは、愚どんさの最も確かな証拠である。
橋本 宏『英文で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.66~ 〔60〕
Man is certainly stark mad: he cannot make a worm, and yet he makes gods by the dozen.
《訳》 人間は確かに全く気が狂っている。ミミズ一匹こしられないのに、そのくせ神さまは何十もこしらえる。
原文はもちろんフランス語であるので、参考までに別の英訳をを紹介しておく:(Oh senseless man, who cannot possibly make a worm and yet will make Gods by dozens.)([85]参照) 2021.12.01
〔85〕
When I play with my cat, who knows whether she is not amusing herself with me more than I with he ?
《訳》 私がネコと遊ぶとき、私がネコと遊んで楽しんいる以上に、ネコが私と遊んで楽しんではいないかどうかは、誰にもわ
からない。
2021.12.01 |
大原美術館所蔵:エル・グレコ「受胎告知」が見られます。
Googleから「エル・グレコ」を検索。その項目の画像を見ると、エル・グレコの多くの作品並びに大原美術館を見ることができます。
▼珠玉の名品一挙公開 特別展「大原BEST」開幕 倉敷 倉敷市中央、大原美術館の創立80周年を記念した特別展「大原BEST」(同美術館主催、山陽新聞社共催)が14日、同美術館で開幕した。12月5日まで。 来歴(大原美術館の受胎告知) 本作は日本のエル・グレコの知名度の上昇と強い関係性がある。1914年、雑誌『白樺』第5年9月特集号に『オルガス伯の埋葬』他10点の図版と小泉鉄によるグレコの小伝が紹介された。それ以降『白樺』第11号4月までさらに9点の図版が紹介された。1916年、白樺派の準同人の木村荘八による小冊『エル・グレコ』が刊行された。1910年代に表現主義の先駆者としてドイツを中心にグレコは再評価されていた。その中で当時近代美術批評の先駆者であったマイヤー・グレーフェの所見を、当時の白樺派は吸収していた可能性を松井は指摘している。さらに西欧の再評価運動が数年後の受胎告知の招来に影響したとしている[6]。1922年当時フランスに滞在していた児島虎次郎は、とあるパリの画廊でエル・グレコの『受胎告知』という作品が売りに出されていたのを眼にした。この作品の素晴しさを見抜いた児島ではあったが手持ちがなかったため、自身の出資者である大原孫三郎に送金を依頼、大原も送られてきた写真を見て了承し、児島は『受胎告知』を購入すると日本へ持ち帰った。結果的にこの二人の判断は的中し、現在では『受胎告知』が日本にあることは奇跡とまで言われている。なおこの作品の選定に当たって、当時のパリ画壇における重鎮であったアマン・ジャンが関与した。日本にあるエル・グレコの作品は、これと国立西洋美術館にある『十字架のキリスト』(制作年不明)の2点のみである。その後1930年に大原美術館にて展示された。 平成二十二年十月二十六日
スペインの代表的画家。本名 Doménikos Theotokópoulos。ベネチア,ローマで修業し,ベネチア派,特にティントレットとヤコポ・バッサーノの影響を受けた。のちにスペインに渡り,1577年以降はトレドに定住し,スペイン美術の伝統を吸収しながら独自の画風を確立し,優れた宗教画,肖像画を数多く残した。1586年,サント・トメ聖堂の『オルガス伯爵の埋葬』で不動の名声を確立。これは下半部の埋葬場面では先鋭な写実力を示し,上半部の天上界の描写では奔放な幻想性をみせる神秘的な宗教画である。その他の作品には『聖衣剥奪』(1577~79,トレド大聖堂),『聖マウリティウスの殉教』(1580~82,エルエスコリアル修道院),『ラオコーン』(1610~14,ワシントンD.C.,ナショナル・ギャラリー)などがある。
※写真:黙示録の幻想(部分) *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.59 2022.01.15記す。 |
シドニー(Sir Philip Sidney)(1,554~1,586) イギリスの詩人。ルネサンスの理想的宮廷人の典型。エリザベス女王の寵臣(ちょうしん)レスター伯Robert Dudley, 1st Earl of Leicester(1532/1533~1588)の甥(おい)として生まれる。オックスフォード大学に学び、ヨーロッパに遊学、ルネサンス文化に触れる。帰国後、新教徒の理想に忠実な政治家として活躍、宮廷の寵児となる。新教徒への援軍を率いてオランダに出征し戦死。このとき、瀕死(ひんし)の重傷を負いながら、水筒の水を傷ついた兵卒に譲るという逸話を残している。文学者としては、牧歌風の物語『アーケイディア』(1590)、初代エセックス伯の娘ペネロペ・デベルーPenelope Devereux(1562/1563~1607)への恋情を素材としたソネット集『アストロフェルとステラ』(1591)、道徳的見地から文学を批判するゴッソンStephen Gosson(1554~1624)の書物が機縁となって執筆され、英文学史上最初の重要な詩論と認められる『詩の弁護』(1595)などの著作を残す。[藤井治彦]。『大塚定徳他訳『アストロフェルとステラ』(1979・篠崎書林)』
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.93~ 〔89〕
Your need is greater than mine.
《訳》君の必要(とする程度)は私の必要(とする程度)よりも大きい→君の方が私以上に(それが)必要だ。
イギリスの政治家・軍人・詩人フィㇼッピ・シドニー(1554~86)が戦場で重傷を受け、部下に水を持ってこいと命じた。水の瓶を受け取ったとたん、やはり負傷した一兵卒がその水をじっと見詰めているのに気付くと、彼はこの言葉とともpにその兵卒に水をゆずって飲ませたという。この美談から、自分を犠牲にして人を助けるときの心持を指すようになった。。シドニーは、その負傷がもとでまもなく死んだが、最もよく騎士道精神を体現した人物として讃えられ、イギリスの人々に大きな影響を与えたといわれる。新約聖書ヨハネ伝に Greater love hath no man than this, that a man lay down his life for his friends.(友のために己が命を捨てるより大いなる愛なし)とある。身をもってそれを実践した人物であった。 2021.12.18 |
シェイクスピア ジュリアス・シーザー(シェイクスピア)のあらすじ The Tragedy of Julius Caesar ジュリアス・シーザーは1599年頃に発表されたシェイクスピアの悲劇です。 古代ローマの政治家たちが皇帝誕生を阻止するためにシーザーを暗殺した前後を劇にしたものですね。 題名のジュリアス・シーザーは英語読みの発音で、日本においてはラテン語読みのユリウス・カエサルの方が通りが良いかもしれません。 ローマの伝承を基にした劇であり、大よそ史実通りに物事が進行していきます。 ジュリアス・シーザーはポンペイを打ち破りローマへと凱旋し、ローマ市民は歓喜してシーザーを迎えました。 そんな折に占い師が急にシーザーに呼びかけ[3月15日に気を付けろ]と言って立ち去りましたが、狂人の類だと思ったシーザーは特に相手にしませんでした。 シーザーは民衆に称えられ、執政官からローマ初の皇帝となるよう王冠を三度捧げられるも、三度ともそれを拒否しました。 民衆はシーザーの謙虚さを称えましたが、しかし王冠を退けたシーザーにはどこか未練があるようにも見えました。 ローマは共和制であり、皇帝が誕生することを快く思わない政治勢力がありました。 シーザーは優れた人物ですが、もし皇帝になればやがてタガが外れて暴政を敷くようになるだろうと話し合います。 そしてシーザーはこのままでは王になってしまう、王を誕生させるべきではないと考えた議員たちは、シーザーの暗殺を計画します。 暗殺を企てる議員たちはシーザーの側近であり民衆の指導者であるブルータスを仲間に加えようとします。ブルータスは私人としてシーザーを恨む理由は何もありませんが、公人として王を誕生させてはいけないと考えていました。人は権力の座に就けば力におぼれて情けを失うものです。議員たちの説得もあり、ブルータスはローマのためにシーザーの暗殺を決意します。 そして夜が明けた3月15日、シーザーの妻は恐ろしい夢を見たと言い、それを聞いたシーザーは上吉なものを感じて一旦は外出を取りやめます。しかし暗殺を企てた議員はその夢は吉兆であるとシーザーを言いくるめ、シーザーを議事堂へとおびき寄せました。 シーザーは議事堂にやってきて会議を始めようとしましたが、議員たちはシーザーを取り囲んで滅多切りにしてしまいます。シーザーはしばらく立ち尽くしていましたが、ブルータスが襲い掛かってくるのを見ると[お前もか、ブルータス?]と顔を覆い、シーザーは死にました。 やがてシーザーの腹心だったアントニーがやって来て自分も殺すよう言いますが、議員たちの目的は王を誕生させないことで、標的はシーザーのみであることを説明します。 両者は和解し、アントニーは広場で演壇にてシーザーの追悼を行いたいと言い、議員たちも了承しました。しかしこのアントニーの態度は偽りであり、民衆に暗殺者たちの悪行を広く知らしめようとしていました。 広場にてシーザーが死んだ理由を市民に説明するため、ブルータスは演説を行います。此度の暗殺はローマを愛するが故の行動であり、万人を自由にするために暴君となろうとしているシーザーを斃したと述べ、市民たちはその行動を称えます。 続いてアントニーがシーザーへの弔辞を述べましたが、シーザーには何の野心も無かったのに殺されたと演説します。市民もシーザーは三度王冠が授けられ三度それを退けた事を知っており、アントニーの言う事が正しいのではないかと考え始めます。そしてアントニーは高潔なシーザーを暗殺した者どもを許す訳にはいかないと民衆を焚きつけ、暴動を起こさせるに至りました。 暗殺に関わった議員たちは間一髪で逃げ出し、兵を集めて対抗しようとしました。しかしアントニーの軍は日に日に数を増すのに対して、ブルータスたちは人数を減らし、集めた軍の士気も芳しくありません。決戦の前夜にはブルータスの夢にシーザーの亡霊が現れ、軍の決戦予定地であるフィリパイで会おうと言ってくる始末です。 そして迎えた決戦の日、ブルータスとアントニーはフィリパイの地で対決します。当初は互角に戦っていた両軍ですが、じわじわとブルータスの軍は劣勢に追い込まれます。ブルータスの手勢も残りわずかとなると、観念したブルータスは自害します。 アントニーは戦いに勝利すると、暗殺者どもはシーザー憎しで事を起こしたに過ぎないが、ブルータスだけは正義の精神によるものだったと彼の行動を称えました。 2020.09.29記す。
☆15シェクスピア(1,564~1,616年)
とめればとめるほど燃えたつのが恋です。 せせらぎの音もやさしくすべりゆく流れも、 せきとめられれば、気短かに騒ぎたてます。 けれど、その清流が妨げを受けなければ、 たまのような小石にふれて音楽をかなで、 旅行くほどにめぐりあう。 菅(すげ)の葉ごとにやさしくキスします。 そしてあまたのすずみをうねりながら、 大海にさまよい出てゆく、そのたのしさ。
だから私は行くままにし、道をさえぎらないで下さい。 (ジェローナの二人の紳士)
4月23日死んだ、イギリス最高の劇詩人。以後のヨーロッパ文学に最大の影響を与えた。『ハムレット』『オセロ』『マクベス』『嵐』など *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.67 2020.09.30記す。
橋本 宏『英語で読む 英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.10~ 〔10〕
To be, or not to be, that is the question.
《訳》あるべきか、あるべからざるか、それが問題だ。
シェイクスピア(1564~1616)の四大悲劇の一つ「ハムレット」(Hamlet,1601)の中の独白の一部。昔は「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」など、議論百出したが、今では「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」(小田島雄志訳)がどうやら定着しているようだ。 父の復讐を誓いながらも悶々とした日々を送るハムレットの苦渋に満ちた心境を表す言葉である。人間のタイプを二つに大別して、優柔不断の人物をハムレット型、猪突猛進の人物をドン・キホーテ型としてしばしば言われる。しかし、人間は複雑怪奇な存在だ。何しろ同一人物でも状況次第ではハムレット型にも、ドン・キホーテ型にもなるから一筋縄ではいかないだろう。([77]参照) 2008.6.20 〔77〕
The devil can cite scripture for his purpose.
《訳» 悪魔だって自分に都合よく聖書を引用する。
『ヴェニスの商人』第一幕3場のセリフ。高利貸シャイロックを悪魔にたとえ、偽善者の本質を突いた指摘である。悪人までもが、聖書を我田引水して、自分の行為を正当化しようとする。([10]参照) 2021.11.19 |
自分が、その正しさを誰にも劣らず信じ、かつ認めてきた結論が、後になって他の人によって、簡単に暴露せられ、その誤謬をを指摘されるということは、……痛ましい、不愉快なことに相違ありません。私はこのような感情を、……新しく発見された真理を受けいれるよりも、古い誤謬にしがみつこうとする一種の病癖と欲望であると考えたいのです。そして、この欲望は、しばしば世人を誘惑して、ただ多数の、かつ無知な大衆の意見を刺激して、自分の論敵の名声に対抗させたいばかりに、自分自身にとっても十分に明白な真理にたいして攻撃の筆をとらせるのです。(新科学対話) 1月8日フィレンツェに死んだ。イタリアのルネサンス期に、迫害に抗しながら、近代自然科学の方法を確定した先駆的物理学者。 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.6
一 それでも地球は動いている。
二月二十六日 懐疑は発明の父である。(ガリレオ) ガリレオは地動説を強く主張していたが、一六一六年のこの日、地動説を「信じ、かつ弁護すること」が教会より禁止された。五十二歳の時。 *青木雨彦監修『中年博物館』(大正海上火災保険株式会社)P.37
2020.02.26 |
Izaak Walton(1593~1683) Walton's house at '120 Chancery Lane' occupied 1627–1644 (from Old & New London, Walter Thornbury, 1872) Izaak Walton (baptised 21 September 1593 – 15 December 1683) was an English writer. Best known as the author of The Compleat Angler, he also wrote a number of short biographies including one of his friend John Donne. They have been collected under the title of Walton's Lives.
橋本 宏『英語で読む 英知とユーモア』P.140
Angling may be said to be so like the mathematics that it can never be fully learnt.
《訳》 釣りは数学と極めて似ていると言ってよいだろう。だから完璧に習得することはできない。
ウォルトン(1593~1683)はイギリスの作家で、魚釣りと田園生活を精緻に描いた『釣魚大全』(The Compleat Angler, 1653)の著者として有名。釣りと数学といった一見まったく無関係な言葉を並べ、意表をつくことで関心をひきつけるやり方。 2021.12.18 |
日常の生活行動というものは多くの場合すこしの猶予も許さぬから、どれが最も真実な意見であるかを識別する力が私どもに無いときには、蓋然性の最も多い意見に従わねばならぬ、ということがきわめて確かな真理である。進んでは、一の意見を他の意見に比べて、いずれにより多くの蓋然性があるかをまるで認められないしても、いずれかの意見に自分を決着しなければならぬ。しかるのちは、この選ばれた意見を、それが実践に関するかぎりにおいては、もはや疑わしいものとしてではなく、きわめて真なるもの、きわめて確実なるものとして見なければならない。(方法序説) この日(11月11日)この日ストックホルムで死んだフランスの哲学者。精神の問題と物体の問題とを切り離し、近代的哲学への道をひらいた先駆者 *桑原武夫編『一 日 一 言』―人類の知恵―(岩波新書)P.25
デカルトの誤りとデカルトの慧眼 長谷川眞理子著『科学の目 科学のこころ』(岩波新書)P.117~121 最近、デカルト(仏: René Descartes、1596年~1650年)は評判が悪い。脳神経科学の有名な研究者であるアントニオ・ダマシオは、一九九四年に『デカルトの誤り』という本を書いた。一九九六年には、コンピュータ言語の研究者、数学者であるキース・デヴリンが、もっとそっけない『さらば、デカルト』という題名の本を出している。 どちらの本も、精神と物体とを峻別したデカルトの二元論が、現在に至るまでの認知科学に及ぼした影響について論じている。デカルトは、精神と物体とを峻別し、自然界、物質世界一般から霊魂や精神性を排除した。そして、精神というものを、唯一、人間の理性の所有物としたのである。 デカルトがこのように考えたことは意味があったし、当時の歴史的状況からすれば、こうした二元論をもち込むことが、その後の客観的な科学の発展のためには必要であった。デカルト以前の科学が、物体に宿る意志だの、物体が本来所属したいと望んでいる場所だというあいまいな概念に惑わされていたことを考えれば、デカルトの二元論は、確かに近代科学の基礎となるべき哲学であった。 この二元論が、認知神経科学の発展にとってある種の妨げとなったのは、からだと理性、感情と理性とが、互いにまったく関係なく、独立に働いているという暗黙の了解をもたらしたからだ。最近のダマシオらの研究が示すように、理性といわれているいものも、感情やからだからの情報と連動していなければ、けっしてうまく働かない。 しかし、このような悪影響といえるようなものが、現在指摘されているとしても、デカルトが近代科学の基礎を築く上で果たした大きな役割が減ることはない。彼は、依然として、人類の英知の巨人である。 デカルトが述べたことで、もう一つ、科学の発展にとって非常に重要だったことは、世界の真実の状態と、われわれの五感で認識する世界の状態とは、必ずしも同じものでないかもしれないという指摘にある。私たちは、地面の上に空が広がり、空は青くリンゴは赤いと認識するが、そうやって私たちが認識する通りのものが、まさに世界の物質の実体であるとは限らない、と彼は指摘した。 このことも、デカルト以前の時代には、はっきり認識されてはいなかった。物体が落ちるのは、まさに「上から下」に向って落ちるのであり、色には、私たちがみるとおりの「赤」なら「赤」の本質がと思われていたのである。 事実は、万有引力の法則によって、物体が互いに引き合うのであり、「上から下」へは、たまたま地球が非常に大きいために、地上のものはみな地表に引きつけられるから起こることである。色も、じつはいろいろな波長の電磁波であり、私たちの網膜の細胞に喚起されるインパルスの違いが、異なる色として認識されるだけである。 これは、デカルトのたいへんな慧眼であったと私は思う。人間は、なかなか、自分自身にとっての現実から逃れられないものである。自分の実感と世界の真の姿との間に、なんらかのずれがあるかもしれないなどと気づくのは、なみたいていのことではないだろう。 しかし、そこでつぎつぎにまた疑問がわく。私たちの世界の認識は、世界の真の姿とは関係がなく、なんら特別な根拠のない把握の仕方なのだろうか。それとも、まったく同じものを把握しているのではないとしても、私たちの世界の認識の仕方は、まったく無作為、任意の、たまたま偶発的になされる勝手なものなのか、それとも、なんらかの真実との対応をもっているものなのか、ということである。 これは科学的知識に確かさについての、昔からの議論の題材である。さらに、最近のポストモダンの相対主義者ならば、科学も、ある個人の世界の認識も、すべては、単に一つの見方、勝手な構築にすぎないというのだろう。 しかし、私はそうは思わない。私たちが世界をどのように認知するかは、私たちという生物種が、ある特定の生態学的位置の中で生存していく上で、役に立つような仕方に作られているはずだ。私たちは、空を飛ばずに地上を歩く生物なので、三次元的なアクロバティックな運動や感覚には優れていない。一方、昼間に活動する生物なので、色や明暗の識別には長けている。その意味では、私たちの感覚世界は制限を受けている。しかし、私たちの認識は、確かに、世界の真実の一部と対応している。 ミミズは私たちとは大いに異なる生活様式をもっているから、私たちとは異なる世界の認識をしているだろう。ミミズの認識する世界を、私たちは実感することできないだろうが、ミミズの認識も、世界の一部に対応しているはずだ。 このあたりの認識世界のようすは、それぞれの生物の進化の道筋によって形成されているはずである。デカルトがダ―ウインと話す機会があったとしたら、非常におもしろい会話が発展したことだろう。 2019.10.14
橋本 宏『英語で読む 英知とユーモア』P.96 〔90〕
I think, therefore I am.
《訳》 われ思う、故にわれ在り。
近代思想の父といわれるデカルト(1596-1650)は、一切に対する懐疑から出発し、この言葉によってまず自己の存在を立証して、数学・物理学・哲学その他の研究を広めた。この言葉に対するラテン語 Cogito, ergo sum は有名で、今もそのまま英語の中に引用されることがある。 明治、大正のころの大学生は「デカンショぶし」をよく歌ったが、デカンショの語源はデカルトのデ、ドイツの哲学者カントのカン、それにやはりドイツの哲学者ショーペンハウアーのショをつないだ合成語と伝えられている。 2008.7.4 |
一 知るべきことが大海ほどあるのならば、全人類の知識はその一滴かも如(し)かない。
★八月十九日 人間は一本の葦(あし)にすぎない。自然のうちで最も弱い葦にすぎない。しかし、それは考える葦である。(パスカル)パスカルの原理を発見したフランスの数学者で思想家でもあるパスカルが、一六六二のこの日死没した。三十八歳であった。『中年博物館』P.121
橋本 宏『英語で読む 英知とユーモア』P.97 ☆91ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal((1623~62年)
Man is no more than a reed, the weakest thing in nature, but he is a thinking reed.
《訳》 人間は一本のアシにすぎない。自然界で最も弱いものである。しかし、人間は思考するアシだ。
パスカル(1623~62)はフランスの数学者、物理学者、哲学者。神童といわれて生涯にわたり多方面な分野で活躍した大学者であった。弱小な存在ながら、人類が万物の霊長であるのは、思考力による、と断言した有名な言葉である。([92]参照) 2021.11.19 |
ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift)(1667~1745年) ジョナサン・スウィフトは、イングランド系アイルランド人の諷刺作家、随筆家、政治パンフレット作者、詩人、および司祭。著名な作品に『ガリヴァー旅行記』『穏健なる提案』『ステラへの消息』『ドレイピア書簡』『書物合戦』『桶物語』などがある。スウィフトは英語の散文で諷刺作品を書いた古今の作家のなかでも第一級といってよいだろうが、詩作のほうはそれほど知られていない。彼は当初すべての著作を、レミュエル・ガリヴァー、アイザック・ビッカースタッフ、M・B・ドレイピアなどの筆名で、もしくは匿名で発表した。 1976年から発行されていたアイルランドの10ポンド紙幣に肖像が使用されていた。
[現代のヨ-ロッパでは]人民が飢饉で弱ったり、疫病でおとろえたり、党派的な対立のために混乱におちいったような場合に、その国を侵略しても、これはきわめて正当な戦争理由だと考えられている。……また、ある君主が、貧しく無知な国民に対して兵を進めるような場合、たとえ彼らの半ばを殺し、残りを全部ドレイにしても、それが彼らを文明にみちびき、野蛮な生活状態から救ってやるためなら、それもかまわない、ということになっている。 11月30日、アイルランドのダブリンに生まれる。政界進出の野心がが破れた後、はげしい社会風刺の傑作『ガリヴァー旅行記』を書いた。 桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.197 2021.12.24
橋本宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.6
〔5〕
《訳》真の天才の出現はうすのろ達がこぞってその人物に反旗を翻すという兆候で判断されるだろう。
残念ながら何時の世にも言えることだが、人間は異質のものに接すると防衛機制が働き、排除に取り掛かる。無知の知を説いたソクラテス、殉教者としてのイエス・キリスト、宗教裁判にかけられたガリレオなど天才が闇に葬られた例は枚挙にいとまがない。スイフト(1667~1745)はイギリスの諷刺作家。彼の代表作『ガリバー旅行記』(Galliver's Travels, 1726)は当時の世相を諷刺した作品だが、そこまで槍玉に上げられたことは現代人もおちおち笑ってはいられないものばかりである。 2021.11.18 |
アレキサンダー・ポープはイギリスの詩人。父はカトリック教徒のリンネル商。 生来虚弱で学校教育を受けず、独学で古典に親しみ、幼少の頃から詩作を試みた。詩集『牧歌』は16歳の時の作という。『批評論』は簡潔な格言風の韻文で書かれた詩論で、当時の上流階級には好評を博した。 ウィキペディア
橋本 宏『英語で読む 英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.87 〔82]
Histories are more full of examples of the fidelity of dogs than of friends.
《訳》 歴史は、人間の友達の誠実さの実例よりも、イヌの誠実さの実例に満ちている。
イヌのの方が人間にくらべて裏切ることをしない。イヌの友情の方が堅実だ、という意見である。忠犬ハチ公を思い出すが、この意見は英米にもよく見られる。 ポープ (1688~1744)は、イギリスの詩人で、諷刺的な詩作で知られる。夏目漱石も傾倒した擬古典主義の代表者で、18世紀前半の詩壇に君臨した。
一例を紹介しておく。
2021.12.17 |
メアリー・ウォートリー・モンタギュー(Mary Wortley Montagu)はイギリスの貴族階級の女性、著述家である。外交官の妻として、トルコに住み、トルコの社会についての記録を『トルコ書簡集』(Letters from Turkey)の形で残した。 モンターギュ夫人と有名な人物との関わり 詩人のアレキサンダー・ポープとは、トルコへ出発する以前に出会い、トルコ滞在中は、お互いに手紙のやり取りをしている。ポープの手紙にはモンターギュ夫人の機知と優雅さに魅了されている様に見えるが、モンターギュ夫人の返信は熱意のないものであった。イギリス帰国後は手紙のやり取りは稀になり、疎遠になったことを示している 。1728年から書かれたポープの著作、『愚物列伝』ではモンターギュ夫人を攻撃する記述が見られる。
橋本 宏『英語で読む 英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.172 〔163〕
It goes far toward reconciling me to being a woman when I reflect that I am thus in no danger of marrying one.
《訳》 私は女であるから女と結婚する危険はない――そう思うと、自分が女であることに大いにあきらめがつく。
マリー・モンタギュー(1689~1762)はイギリスの作家。トルコ大使の夫と任地に滞在中に、中東での生活ぶりをユーモラスに綴った書簡文で知られる。また、天然痘の種痘法をイギリスに紹介した人物。 それにしても女性としての見栄や外聞を一切投げ捨てて、女性の弱点をよくもここまで単刀直入に言えたものだ。同性ならではの観察だ。 同じように同性での立場から女性観をスタール夫人は次のように表現している。I'm glad I'm not a man, for if I were I'd be obliged to marry a woman.(私は男でなくてよかったと思う。もし男だったら女と結婚しなければならないから) 2021.11.23 |
チェスターフィールド伯(4th Earl of Chesterfield Philip Dormer Stanhope)(1,694―1,773) イギリスの政治家。父の後を継いで上院議員となり、駐オランダ大使、アイルランド総督を歴任、イギリス、フランスの文人と親交があり、才人としても評判が高かった。ハーグ滞在中に生まれた庶子にあてて30年間書き続けた約400通の『息子への手紙』(1774)が有名で、伝統的紳士教育がそのおもな内容を占める。また、サミュエル・ジョンソンの『英語辞典』出版をめぐり、初めは拒絶し改めて援助を与えたい意向を表明したことから、ジョンソンから憤激の手紙を送られた挿話でも知られる。[平 善介]『チェスターフィールド著、竹内均訳『父から若き息子へ贈る[みのりある人生の鍵]45章』(三笠書房・知的生き方文庫)』
橋本 宏『英語で読む 英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.172
Nature has hardly formed a woman ugly enough to be insensible to flattery upon her person.
《訳》自然は姿かたちをほめそやされても全く感じないほど醜い女性を生んだことはほとんどない。
チェスタ―フィールド卿(1694~1773)はギリス政治家、著述家。女性は外見がどうであろうと、誰でも美人であるとのプライドを持つ――男性の場合はいったい何に対してプライドを持っているのであろうか。 チェスタ―フィールドは女性からではなく思わぬ方向からしっぺい返しを食らった。それはジョンソン博士が編纂していた辞書にまつわる有名な逸話に関するものである。ジョンソン博士は、当時の習慣に従って、文学や芸術の有力なパトロンであったチェスタ―フィールド卿に彼の辞書を献呈して庇護を受けようとした。しかし、何年も冷遇されたあげく、ようやく完成近くになってから推薦文が送られて来た。腹を立てて書いたチェスタ―フィールド卿宛のジョンソン博士の手紙が、皮肉にも有名な古典として文学史などに引用されることとなった。 [人がおぼれかかっている時は冷淡に傍観し、ようやく岸にたどり着くと助けの手をさしのべて邪魔建立てする――閣下、これがいわゆる後援者なるものではございますまいか](『英語プロムナード』p.120~121参照) 2021.12.19 |
ボストンの蝋燭屋に生まれたフランクリンは、小学校を出ただけで一二のときには兄の印刷屋へ丁稚働きに出た。しかし意見が合わぬため彼はフィラデルフィアで自ら印刷屋を開き新聞を発行して大活躍する。彼は多くの書物を読み、常識を武器に、何ごとにも成功して輝かしいなを残したが、その生涯を自分の子供にあてて書こうとしたものが『フランクリン自伝』である。彼の生活信条、すなわち彼の宗教というものは十三徳を実行することであり、それを実践すれば幸福な生活が送れるという現実的なものであった。 「時は金なり」といったのも彼であり、タコを揚げて雷が電気であることを証明したのも彼だった。一八世紀アメリカを代表する人物であるのみならず、その後のアメリカの思想の行きかたを示した点で重要人物である。 『フランクリン自伝』( 岩波文庫)にかれが徳を樹立するためにまたその戒律・方法についてP.135~P.149 に述べられている。紹介いたします。 その徳の名称および戒律は十三徳樹立で下記の通りである。 第 一 節制 飽くほど食うなかれ。酔うまで飲むなかれ。 第 二 沈黙 自他に益なきことを語るなかれ。駄弁を弄するなかれ。 第 三 規律 物はすべて所を定めて置くべし。仕事はすべて時を定めてなすべし。 第 四 決断 なすべきことをなさんと決心すべし。決心したることは必ず実行すべし。 第 五 節約 自他に益なきことに金銭を費やすなかれ。すなわち、浪費するなかれ。 第 六 勤勉 時間を空費するなかれ。つねに何か益あることに従うべし。無用の行いはすべて断つべし。 第 七 誠実 詐(いつわ)りを用いて人を害するなかれ。心事は無邪気に公正に保つべし。口に出だすこともまた然るべし。 第 八 正義 他人の利益を傷つけ、あるいは与うべきを与えずしてそん害を及ぼすべからず。 第 九 中庸 極端を避くべし。たとえ不法を受け、憤りに値すると思うとも、激怒を慎しむべし。 第 十 清潔 身体、衣服、住居に不潔を黙認すべからず。 第十一 平静 小事、日常茶飯事、または避けがたき出来事に平静を失うなかれ。 第十二 純潔 性交はもっぱら健康ないし子孫のためにのみ行い、これに耽りて頭脳をにぶらせ、身体を弱め、または自他の平安ないし信用を傷つけるがごときあるべからず。 第十三 謙譲、イエスおよびソクラテスに見習うべし。 私はこれらの徳がみな習慣になるようにしたいと思ったので、同時に全部を狙って注意を散漫にさせるようなことはしないで、一定の期間どれか一つに注意を集中させ、その徳が修得できたら、その時初めて他の徳に移り、こうして十三の徳を次々に身につけるようにして行ったほうがよいと考えた。またある一つの徳をさきに修得しておけば、他のいずれかの徳を修得するのが容易になろうとおもったので、私は前に挙げたような順序に徳を並べたのである。第一は節制の徳である。なぜかと言えば、古くからの習慣のたえまのない誘引や、不断の誘惑の力に対してつねに警戒を怠らず、用心をつづけるには、頭脳の冷静と明晰とが必要であるが、それをうるにはこの徳が役立つからである。この節制の徳を完全に身につけてしまえば、沈黙の徳はもっと身につけやすくなるだろう。私は徳を進めると同時に、知識をもえたいと望んでいたが、知識は、人と談話する場合でも、舌の力よりはむしろ耳の力によってえられると考えたので、下らない仲間に好かれるようになるにすぎない無駄口や地口や冗談などに耽る習慣(それが私の癖になりかけていた)を直したいと願った。そこで沈黙の徳を第二においたのである。これと次の規律の徳の二つを守ることができれば計画や勉強にあてる時間がもっとできるだろうと私は思った。決断の徳が一度習慣になってしまえば、これ以下の諸徳をうるために断乎として努力をつづけるとことができるようになるだろう。また決断と勤勉のおかげで、残っている借金を抜けることができ、暮らしが豊かになって一本立tいになることができれば、誠実とか正義とかその他の諸徳を実行することは一層容易になるだろう。私はピタゴラスの「金言集」の忠言に従って、毎日検査することが必要だろうと思ったので、次のような方法を考え出して検査を行うことにした。 *ピタゴラスは門弟たちに道徳律を課し、毎日、朝と晩に自己の良心を検査せよと命じたと伝えられる。 私は小さな手帳を作り、それぞれの徳目に一ページずつ割り当てた。各ページに赤インクで線を引いて縦の欄を七つ作り、その各々を各曜日に割り当てて頭字を書き込んだ。次にこの縦の欄に交叉してやはり赤インクで横に線を十三本引き、各行の初めにそれぞれの徳目の頭文字を記した。そして各行の該当欄に、その日それぞれの徳目に関して犯した過失を調べて、それを一つ残らず黒点で書き込むことにしたのである。 私は次々にこれらの徳の一つをその週の課題として厳重に注意することに決めた。つまり、最初の一週間は、節制に反する行為はどんな小さいことでもこれを避けるように十分に用心し、他の諸徳は格別に注意しないでなるように任せておき、ただ毎晩その日に犯した過失を書き込むことにしたのである。このようにして、もし第一週じゅう節制と記した第一行に黒点をつけずにすますことができれば、この徳の習慣は強められ、反対に不節制の癖は弱められたと考えられるから、そうなればあえて注意を広げて次の徳に及ぼし、次の週には両方の行とも黒点なしにすることができないではあるまい。そうして最後まで進んで行くと、十三週間で全コースを一と回りし、一年には四回繰返すことができよう。庭の草むしりをする男は、雑草を一度にとりつくそうなどとはしない。というのは手にあまるからで、一回に一と隅ずつかたづけ、その隅がすんでから次へと移るのであるが、私もこの男のように、順々に黒点を各行から消して行って、各ページに現れる徳の進歩の跡を見て喜びに心を励まし、何回も繰返してるうちに、ついには十三週間、日々検査しても手帳には黒点一つつかないというようになりたいものだと思った。 2008.03.08 初めて書く。2012.04.20 追加補正。2020.01.27 追加補正。
橋本 宏『英語で読む 英知とユーモア』P.19 〔18〕
To find out a girl's faults, praise her to her girl friends.
《訳》 女性の欠点を見つけるためには、その女友達にその女のことを褒めてみたまえ。
「付き合って日が浅いけど、ある娘に求愛するところだが、その娘の短所と、その娘が持ちあわせていると思われる長所を、どうやって確かめられるだろうか?」、という質問に、フランクリンはさりげなく答えたという。女性同士の対抗意識を煽ることで、女性の本性を暴こうとする慧眼。 フランクリン(1706~90)はアメリカの政治家、外交官、科学者、印刷屋と多方面で活躍した。独立宣言の起草者の一人でもあった。([61][159]参照) 2021.11.10
〔61〕
If men are so wicked with religion, what would they be without it ?
《訳》 宗教があっても人間はこれほど邪悪だとすれば、もしも宗教がなかったなら、どんな状態であっただろう?
ベンジャミン・フランクリンはワシントンおよびリンカーンと共にアメリカ三大偉人の一人に数えられる大人物で、政治、外交、科学、発明、著述、出版、社会事業と、おどろくほど多方面で活動をした。今では広く読まれるのは有名な『自伝』(Autobiography,1868)と『貧しいリチャードの暦』(Poor Richard's Almanack,1733-58)くらいのものだろう。([18][159]、『この多彩な英語』p.34参照) 2021.11.22
〔159〕
She laughs at everything you say. Why ? Because she has fine teeth.
《訳》 彼女は君が何と言っても笑う。なぜだろう。美しい歯をしているからさ。
フランクリンはきわめて現実的で、バランス感覚のとれた人であった。その生涯の活躍ぶりはアメリカ人の典型といわれる。 君はいつも無味乾燥なことばかりしゃべる。だから、いつも彼女から「一笑に付さ」れるのだ、と思いきや、彼女はきれいな歯を見せびらかすためだ。彼女は美貌の証に笑っているにすぎない。どんで返しのユーモア。Because 以下が文頭に来たら、興ざめとなる。 ちなみに、英語には、次のような「歯」にちなんだことわざがある。 Never look a gift horse in the mouth.(贈り物にけちをつけるな)――人から贈られた馬の口を無理矢理開けて、馬の年齢や健康状況などを品定めしたところから。([18][61]参照) 2021.11.22 |
ひとり徒歩で旅したときほど、ゆたかに考え、ゆたかに存在し、ゆたかに生き、あえていうならば、ゆたかに私自身であったことはない。徒歩は私の思想を活気づけ、生き生きさせる何ものかをもっている。じっと止まっていると、私はほとんどものが考えられない。私の精神を動かすためには、私の肉体は動いていなければならないのだ。田園の眺め、快い景色の連続、大気、旺盛な食欲、歩いてえられるすぐれた健康、田舎の料亭の自由さ、私の隷属(れいぞく)を思い起させる一切のものから遠ざかることが、私の魂を解放し、思想に一そうの大胆さをあたえる。(告 白) この日(6月28日)ジュネーブに生れたフランスの思想家、文学者。政治、経済、文学などあらゆる方面において近代の父といわれる。『社会契約論』 『エミール』 『告白』 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.106
★六月九日 感謝は支払わるべき義務であるが、何人もそれを期待する権利はない。(ルソー)一七六二年のこの日に、フランスの高等法院は『エミール』の焚書およびルソーの逮捕を発表。五十歳のルソーはこれから逃れるため、モン・イルを立った。 『中年 博物館』P.86 ★十二月三十一日 わたしはかつて例のなかった、そして今後も模倣するものはないと思う仕事をくわだてる。(ルソー)一七六一年のこの日、ルソーはジュネーブ出身の出版人マルク=ミシェル・レイから代表作の自叙伝、『告白』の執筆をすすめられ、その決意をする。四十九歳。 『中年 博物館』P.184
ルソー著『エミール』(上・中・下)今野一雄訳(岩波文庫)1983年2月10日 第32刷発行 「万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる」(第一部P.23)という冒頭の言葉が示すように、ルソー(1712~78)一流の自然礼賛、人為排斥の哲学を教育論として展開した書。ある教師がエミールという一人の平凡な人間を、誕生から結婚まで、自然という偉大な教師の指示に従って、いかに導いてゆくかを小説の形式で述べてゆく。 解 説 P.3~4 ――ある読者のために―― ……この訳本をお送りしても、あなたはいわれるかもしれない、けっこうな御本ですが、とてもひまがなくて、と。いそがしい毎日をすごしているあなたには、たしかに、いくら不朽の古典でも、二百年前の教育論なんか読んでるひまはない。ぜひお読みください、とは言いますまい。ただ、たまひまがあったら、どこかページをひらいてみてください。どこかにあなたの参考になるようなことが書いてあるかもしれません。 たとえば、はじめのほうで、ルソーは世の母親たちにむかって、女性は自然によって乳房をあたえられているのだから、自分の子を自分でやしない育てなければならない、と熱心に説き、そうすれば、家庭はいきいきしたところになり、風儀もおのずからあらたまるだろう、と言っています。世の母親たちといっても、ルソーは十八世紀の貴族やブルジョワの奥さんたちにむかってそういうことを言っているのです。当時それがどんなに大きなセンセーションをおこしたといっても、わたしたちにとっては遠い昔のお話です。 しかし、別のページをひらいてみると、こんどは、つぎのような意味のことが読まれます。遠い先のことばかり考えて現在のことを忘れているのはばけげたことだ。人間はいずれ死ぬ。生きているあいだに生活を楽しもうではないか。そして幼い者にも、純真で快活な時代を十分に楽しませようではないか。不幸にして、美しい花を咲かせようとしているときに死がおとずれることになったとしても、せめてそのときまで生きたといえるようにしてやるがいい。わたしたち大人(おとな)のモラルや習慣で子どもをしばりつけることはやめよう。子どもが理解できないことを教えようとやっきなるようなことはしまい。……こんなことを読むと、小さいかたのお相手にあけくれているあなたにはいくらか思いあるのではないかと思います。 そこで、ときどきページをひらいてみて、なにかもっと興味をひくことがみっかったとして、いちど通読してみようかな、とお考えになったときの参考に、解説めいたことをすこしばかり書いておくことにします。以下略 ……(一九六二年春、訳者) 2019.06.10記す。 |
ローレンス・スターン(Laurence Sterne)(1,713~ 1,768年)は18世紀イギリスの小説家、牧師。未完の長編小説『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』(以下、『トリストラム・シャンディ』と呼ぶ)の作者として知られる。
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.20
Women are timid, and 'tis well they are――else there would be no dealing with them.
《訳》 女は臆病なものだ。臆病でよかったよ――さもなかったらとても相手にできはしない。
スターン(1713~68)はイギリスの作家。傑作『トㇼストラム・シャンディ』(Tristram Shandy,1759~67)は、[意識の流れ]小説の先鞭をつけた。 ※参考:『トリストラム・シャンディ』は、イギリスの小説家ローレンス・スターンが書いた未完の小説。全9巻からなる小説で、1759年の末から1767年にかけ、2巻ずつ5回に分けて出版された。原題は『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』である。 2021.12.08 |
トマス・グレイ(Thomas Gray) (1,716~1,771年)は、イングランドの詩人、古典学者、ケンブリッジ大学教授。
〔44〕
Full many a flower is born to blush unseen,
《訳》 いと多き花々人目にふれず恥じらいて咲き/砂漠の大気の中にかぐわしき香りを捨てる。
トマス・グレイ(1716~71)はイギリスのロマン主義の先駆者と考えられている詩人。引用は運命のはかなさを歎じた[慕畔の哀歌]('Elegy written in a Country-Yard", 1751)の一部。この詩の翻訳は『新体詩抄』(1882)に載り、わが国の明治文学に大 きな影響を与えた。 (参考)[数知れず花は咲き人見ねど恥じらひて]
そのかほり空しく砂漠に散りぞゆく]
2021.12.13 |
第4代オーフォード伯爵ホレス・ウォルポール(Horace Walpole, 4th Earl of Orford)(1,717~1,797年)は、イギリスの政治家、貴族、小説家。ゴシック小説『オトラント城奇譚』で知られる。政治家で初代首相ロバート・ウォルポールとキャサリン・ショーターの三男である。
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.43 〔40〕
The world is a comedy to those that think, a tragedy to those that feel.
《訳》 この世は思考の人には喜劇、感情の人には悲劇である。
ウォルポール(1717~97)はイギリスの作家でゴシック物語『オウトラント城』(The Castle of a Otoranto, 1764)が有名。書簡文の名家としてもよく知られており、辛辣ながらウイットに富む世相諷刺を行なっている。 All the world's a stage/And all the men and women merely players:/They have their exits and entrance;/And one man in his time plays many parts.(人間世界はことごとくお芝居だ。そして男も女もみな役者にすぎない。めいめいが出たり入ったり独りで幾役もつとめる)で始まるシェクスピアの『お気に召すまま』第二幕第7場のセリフは、人々を舞台俳優と見たて、人間の一生をたくみに言い表わして広く知られるところ、人生を喜劇に見なすか悲劇とみなすかは、人生の幕引きの瞬間に裁定が下されるのかもしれない。 2021.12.10 |
THE CROWN EGLISH READER ⅡB SANSEIDO P.112~118 ADAM SMITH AND THE WEALTH OF NATIONS ◆◆◆J.K. Galbraith The name of Professor J.K.Galbraith, the American economist, has become familiar to many Japanese through his recent TV lecture series. The age of Uncertainty. The Japanese translation of the work has sold well, and the title has become something of a catchphrase. One of the topics in the series was Adam Smith, the great Scottish economist, and his contribution to economics. Professor Galbraith, who was born in Canada, is also of Scottish origin.
The greatest of Scotchmen was the first economist, Adam Smith. Economist do not always agree with one another――but on one thing there is wide agreement. If economics has a founding father, it is Smith. He was born in the small port town of Kirkcaldy on the north side of the Firth of Forth in 1723. The father of the man whose name would ever after be linked with freedom of trade was a customs official. Smith is remembered warmly but not always correctly in his native town. In 1973, I went for several golden days to Scotland to help celebrate the 250th anniversary of Smith's birth. It was June; when it does not rain, there is no countryside in all the world more quiet and lovely than that around Edinburgh and across the Firth of Forth. But in the last century Kirkcaldy became the linoleum capital of the world; the industry has since declined but enough remains to give off a terrible smell. The air was better in Smith's time. As visitors, we were housed on the golf courses of St. Andrews some twenty miles away. One day I rode to the celebrations with a Kirkcaldy taxi driver and James Callaghan, previously Chancellor of the Exchequer, as of this writing Prime Minister, and a friend. "I expect," Jim said to our driver as we were on our way, "that you people here are pretty proud of being from the same town as a Adam Smith? You know a good deal about him, I suppose?" "Yes, sir, yes, sir," said the driver. "The founder of the Labour Party, I always heard." Smith went to the good local school and on to Balliol. His impressions of Oxford were not very good; he later held that at Oxfrd Oxford professors who received salaries did not work. They got their pay anyway, so why should they bother?
After Oxford, Smith went back to Scotland to lecture on English literature at Edinburgh. Here also he began his long friendship with an almost equally important Scotchman, the philosopher David Hume. In 1751, he was made a professor at the University of Glasgow, first of logic, then of moral philosophy. Scottish professors were paid partly according to the number of students they attracted; Smith thought this a far better system. * * * Twenty years later, Smith was at work on his great book, and his friends had come to wonder if he would ever finish it. At long last, in 1776, he did publish it; the acclaim was immediate, and the first printing of An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations sold out in six months, a fact which would be more interesting if we knew the size of the printing. According to Smith, the wealth of a nation results from the diligent pursuit by each of the citizens of his own interests――when he reaps the resulting reward or suffers any resulting penalties. In serving his own interests, the individual serves the public interest. In Smith's greatest phrase, he is guided to do so as though by an invisible hand. Better the invisible hand than the visible and dangerous hand of the state. Along with the pursuit of self-interest, the wealth of a nation was also increased by the division of labor. Here is how Smith described by the division of labor in his well-known case; in the pursuit of information he must have come across the manufacture of pins and observed the process with his usual care:
Ten men so dividing the labor, Smith calculated, could make 48,000 pins a day, 4,800 for each man. One man doing all the operations would make maybe one, maybe twenty. It is still believed by many that the assembly line, which greatly increase labor productivity, was the invention early in the present century of Henry Ford. The larger the market, the longer could be the production runs――pins or whatever――and the greater the opportunity for the division of labor. From this came Smith's case against tariffs and other restraints on trade and for the greatest possible freedom, national and international, in the exchange of goods, and the widest possible market. Freedom of trade, in its turn, increased the freedom of the individual in the pursuit of his self-interest. His scope became not national but international. From the combination of freedom of trade and freedom of enterprise came a yet larger production of what was most wanted――the most favorable social result. 関連図書(手元にある):高島善哉著『アダム・スミス』(岩波新書)、ガブレイス『新しい産業国家』(河出書房) Copy on September 7,2012.
王族の宮廷や貴人の接見室における成功や昇進は、知識のすぐれた教養ゆたかな同輩の人々の評価にもとづくのではなく、無知な、自惚れの強い、高慢な支配者のいだく気紛れな、たわいのない好意に左右される。そこでは、またしばしばへつらいと虚偽とが功績や能力などにくらべてより有力である。かような社会では、人を喜ばす能力の方が、人に奉仕する能力よりも一そう高く評価される。――[ハイカラ男]とよばれるあの生意気な間抜けた人物の外面の端麗さや、くだらぬお世辞の方が、堅実なおおしい緒 徳性より一そう賞讃されやすい。 (道徳情操論) 6月5日スコットランド生まれたイギリスの古典学派の経済学者。道徳哲学でも業績をのこした。主著『国富論』 桑原武夫編『一日一言』―人類の知恵― P.94 2021.12.25 |
イマヌエル・カント(Immanuel Kantドイツ語)(1,724~1,804年)は、プロイセン王国(ドイツ)の哲学者であり、ケーニヒスベルク大学の哲学教授である。 『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる[コペルニクス的転回]をもたらした。
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.100 〔94〕
Two things fill the mind with ever new and increasing wonder and awe――the starry heavens above me and the moral law within me.
《訳》 絶えず新しく、絶えず迫り来る驚異と畏怖の念を与えるのが二つある。一つは頭上の星空だ。あとの一つはわれらの心に住む道徳律だ。
たとえ意見が相違しても、そのために相手を殺すようなことは絶対しない。むしろ自分の命を捨てても相手の発言する権利は擁護する――それが民主主義の原則である。フランス17世紀の大政治家ヴォルテールの言と伝えられて有名だ。 ドイツの大哲学者カント(1724~1804)の名言。このような感慨に沈むことがなくては、人間らしく生きるのは不可能であろう。カントは厳しい規律を己に課し、それを確実に実践した。彼の日課は実に厳密で、ケーニヒスベルク(現カリニングラード)の>住民は彼の時間に時計を合わせていたという。 2021.11.20 |
アメリカ人民が自由人となるか、それとも奴隷となるかを、そしてアメリカ人民が、自分自身のものと呼びうる財産をもちうるかを、おそらく決定すべき時がいま目前にせまっている。……これから生まれてくる幾百万の人びとの運命が、神の加護のもと、いまこの一軍の勇気と行動とにかかっている。残酷かつ無慈悲な敵軍に直面して、われわれの選ぶべき道は、勇敢な抵抗のみであり、しからずんばもっとも卑しい屈従しかない。ゆえにわれわれは、勝利かそれとも死か、と決意せねばならない。(独立宣言直後ロング・アイランドの戦闘を前にしての軍への布告) 2月22日アメリカのヴァージニアに生まれる。軍総司令官として独立戦争を指導して勝利を得、のち合衆国成立にあたり初代大統領となった。孤立外交を強調した。 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.32 20.02.22 |
パトリック・ヘンリー(Patrick Henry)(1,736~1,799年)は、アメリカ合衆国の弁護士、政治家である。スコットランドから入植したジョン・ヘンリーの息子として、バージニアしょく民地の農園において誕生した。パトリックは幼い頃から本に慣れ親しむというよりは、むしろバージニアしょく民地の森や川といった自然に親しんでいた。このようなパトリックにラテン語、ギリシャ語、さらには数学を教え込んだのは、牧師をしていた伯父と教養豊かな父親であった。 その後1760年、ヘンリーは弁護士となり、成功を収めた。というのも、頭脳明晰にして、弁舌爽やかというよりはむしろ舌端火を吐く激しい弁舌に長けていたからである。弁護士の口頭試問に合格すると、3年も経たないうちに、ヘンリーは1185件もの訴訟を処理する忙しさとなり、しかもそのほとんどの訴訟において勝訴を勝ち取った。 やがてヘンリーは、バージニアしょく民地におけるイギリスの支配に異議を唱える者たちの代弁者となった。バージニアしょく民地議会の議員として、しょく民地を抑圧するための、印紙法等の一連の条例に対する反対運動を指導することになった。 ヘンリーの最も有名な演説は、1775年3月23日に行われたもので、バージニアはイギリスの支配に異議を唱えるニューイングランド地方の抵抗運動に参加すべきことを訴えて、特に有名な次の発言を演説の結びとした。 Is life so dear, or peace so sweet, as to be purchased at the price of chains and slavery? Forbid it, Almighty God! I know not what course others may take; but as for me, give me liberty or give me death!鎖と隷属の対価で購われるほど、命は尊く、平和は甘美なものだろうか。全能の神にかけて、断じてそうではない。他の人々がどの道を選ぶのかは知らぬが、私について言えば、私に自由を与えよ。然らずんば死を与えよ。 特に最後の最後の[自由を与えよ。然らずんば死を]という発言は歴史に記憶される名文句となった。 独立戦争勃発後はバージニア邦憲法の起草に参画し、1776年から1779年までバージニア邦の初代知事を務めた。知事時代にヘンリーは、軍人・探検家のジョージ・ロジャース・クラークに、当時はまだバージニア地方の西方地域に過ぎなかったケンタッキー地方からアメリカ大陸北西部の探検を命じ、アメリカ北西部地域の形成と成立に貢献するところが多かった。
〔95〕
I know not what course others may take; but as for me, give me liberty or give me death.
《訳》 他の人がいかなる道を取るかわからぬが、この私はどうかといえば、自由を与えよ、さもなくば死を。
パトリック・ヘンリー(1736~99)はアメリカの独立戦争当時の指導者、雄弁家で、1775年3月、リッチモンドのヴァージニア代表者会議の席上、上の檄を飛ばして民兵組織創設を主張した。 わが国の自由民権運動の立役者、板垣退助(1837-1919)の発言[板垣死すとも自由は死せず]には彼の影響がはっきり見られる。 2021.12.10 |
トマス・ペイン(Thomas Paine)(1,737~1,809年)は、イギリス出身のアメリカ合衆国の哲学者、政治活動家、政治理論家、革命思想家。 トマス・ペイン は、アメリカ独立戦争の開始された翌年の1776年1月に『コモン=センス』を発表、アメリカがイギリスから分離・独立することが正当であることを簡潔に、力強く訴えた。このパンフレットはたちまちベストセラーとなり、独立戦争開始後に苦戦を強いられていた独立派の人々に勇気と展望をあたえ、勝利に導く大きな力となった。 また、フランス革命期のフランスに渡り、国民公会の議員としても活躍したが、恐怖政治下では入獄した。
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.102 〔96〕
"Society in every state is a blessing, but Government, even in its best state, is but a necessary evil; in its worst state, an intolerable one.
《訳》 いかなる国家においても社会はありがたいものだが、最高の国家においてさえ政府は必要悪に過ぎなず、最悪の国家においては堪え難い悪である。
トマス・ヘイン(1737~1809)は前のパトリック・ヘンリーと並ぶアメリカ独立戦争当時の指導者で、革命思想家であった。1776年『コモンセンス』(Common Sense)を著し、アメリカ独立に寄与した。親しみをこめてトム・ペインと呼ばれる。 2021.12.13 |
ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ(Johann Heinrich Pestalozzi イタリア語: [pes.ta.ˈlɔt.tsi] ドイツ語: [pɛstaˈlɔtsi] ( 音声ファイル), 1746年1は、スイスの教育実践家、シュタンツ、イベルドン孤児院の学長。フランス革命後の混乱の中で、スイスの片田舎で孤児や貧民の子などの教育に従事し、活躍の舞台として、スイス各地にまたがるノイホーフ、シュタンツ、イフェルドン、ブルクドルフなどが有名である。 一部の研究者は、[ペスタロッチー]と表記するが、[Pestalozzi]はイタリアの姓であり、ドイツ語およびイタリア語の発音では[ペスタロッツィ]のカナ表記がより忠実である。妻はアンナ・シュルテス(1764年に結婚)、息子および、孫にゴットリープがいる。
人間は、かれらが日常従事している労働のうちに、かれの世界観の基礎を求めなくてはならぬ。……かれは主として、自分の労働から自力で見聞を引きだすようにしなくてはならない。……であるから、あらゆる子供に教えられる知識は、かれの労働を中心として、集約されなくてはならない。 ((『スイス新聞』より) 乾ききった大地が水をのぞんでいるように、民衆は知識を欲している。しかし民衆には、パンのかわりに、石があたえられている。 ((ㇼーンハルㇳとゲルㇳルーㇳ) 1月12日スイスに生まれた教育家。貧民救済、孤児教育につとめ、民主的な小学校制度や生活教育の理論を強調した。『隠者の夕暮れ』 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.8 ※参考:森 信三先生『一日一語』(二月十七日) ペスタロッチー
人類の夕暮を歎く一人の隠者のこころ
2021.12.25 |
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)(1749~1832年])は、ドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者(色彩論、形態学、生物学、地質学、自然哲学、汎神論)、政治家、法律家。ドイツを代表する文豪であり、小説『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』、叙事詩『ヘルマンとドロテーア』、詩劇『ファウスト』など広い分野で重要な作品を残した。 その文学活動は大きく3期に分けられる。初期のゲーテはヘルダーに教えを受けたシュトゥルム・ウント・ドラングの代表的詩人であり、25歳のときに出版した『若きウェルテルの悩み』でヨーロッパ中にその文名を轟かせた。その後ヴァイマル公国の宮廷顧問(その後枢密顧問官・政務長官つまり宰相も務めた)となりしばらく公務に没頭するが、シュタイン夫人との恋愛やイタリアへの旅行などを経て古代の調和的な美に目覚めていき、『エグモント』『ヘルマンとドロテーア』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』などを執筆、シラーとともにドイツ文学における古典主義時代を築いていく。 シラーの死を経た晩年も創作意欲は衰えず、公務や自然科学研究を続けながら『親和力』『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』『西東詩集』など円熟した作品を成した。大作『ファウスト』は20代から死の直前まで書き継がれたライフ・ワークである。ほかに旅行記『イタリア紀行』、自伝『詩と真実』や、自然科学者として〔植物変態論〕、〔色彩論〕などの著作を残している。 シラーの死を経た晩年も創作意欲は衰えず、公務や自然科学研究を続けながら『親和力』『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』『西東詩集』など円熟した作品を成した。大作『ファウスト』は20代から死の直前まで書き継がれたライフ・ワークである。ほかに旅行記『イタリア紀行』、自伝『詩と真実』や、自然科学者として〔植物変態論〕、〔色彩論〕などの著作を残している。
ゲーテ格言集(高橋健二編訳)(新潮文庫)昭和五十九年五月二十日 六十三刷 人間と人間性について P.20 人間は、なんと知ることの早く、おこなうことの遅い生き物だろう!(「イタリア紀行」ナポリ、一七八七三月一七日、から) P.20 2008.6.12 行動について P.79
自由に呼吸するというだけでは生きているとは言えません。
気分がどうのこうのと言って、なんになりますか。P.81 ぐずぐずしている人間に気分なんかわきゃしません。 ………………………………… きょうできないようなら、あすもだめです。P.81 一日だって、むだにすごしてはいけません。(「ファスト」劇場の前戯、二一八*二二六行) P.81 市民の義務 P.89 新聞を読まなくなってから、私は心がのびのびし、本当に快い気もちでいます。人々他の人のすることばかり気にしていて、自分の手ぢかの義務を忘れがちです。(ミュラーへ、一八三〇年) 自我と自由と節度について P.122 年をとればとるほど、人は活動しようと思うなら、一層自分を制限しなければなりません。気をつけないと、色々の縁のうすいことに気をとられて、ただ興味や批評を事として、精神と肉体の力を空しく雲散霧消させてしまいます。(ツェルターへ、一八一五年)P.127 人は少ししか知らぬ場合にのみ、知っているなどと言えるのです。多く知るにつれ、次第に疑いが生じて来るものです。(ツェルターへ、一八二八年) P.130 すべての人間が、自由を得るや、その欠点を発揮する。強い者は度を超え、弱い者は怠ける。(「格言と反省」から) P.133 有能な人は、常に学ぶ人である。(ローマの風刺家マルチある(四〇-一〇二)のことばからとったもの。本来は「よき人は常に初心者であった。」 人生について P.150 人間は努めている間は迷うものだ。(「ファウスト>天井の序曲、三一七行」 P.154 絶えず努めて倦まざる者をわれらは、救うことができる。(「ファウスト第二部、一九三六-七行」 P.155 みずから勇敢に戦った者にして初めて、英雄をほめたたえるだろう。暑さ寒さに苦しんだものでなければ、人間の価値なんかわかりようがない。(西東詩編「ことわざの書」から) 経験の教え P.163 虹だって十五分も続いたら、人はもう見むかない。(「格言と反省」から) P.163 なんでも知らないことが必要なので、知っていることは役にたたない。(「ファスト」第一部一〇六六*七行) P.163 ※人はほとんど知らない時にのみ知っている。知識とともに疑いが強まるのだから。何でも知らないことが必要で、知っていることは役に立たない
目標に近づくほど、困難は増大する。(「親和力」第二部第五章から) P.164
どんな賢明なことでも既に考えられている。それをもう一度考えてみる必要があるだけだ。(「格言と反省」から)P.168 身 辺 雑 感 P.176 人はみな、わかることだけ聞いている。(「格言と反省」から) P.176 生活の知恵 P.185 すぐれたものを認めないことこそ、即ち野蛮だ。(エッカーマン「ゲーテとの対話」一八三一年三月二二日、から)P.185 世評に対して自分を防衛することはできない。これを物ともせずに行動すべきである。そうすれば、次第に批評も気にならなくなる。(「格言と反省」から) P.187 半時間ぐらいでは何もできないと考えているより、世の中の一番つまらぬことでもする方がまさっている。(「格言と反省」から) P.188 気持ちよい生活を作ろうとおもったら、済んだことをくよくよせぬこと、 滅多なことに腹を立てぬこと、いつも現在を楽しむこと、とりわけ、人を憎まぬこと、 未来を神にまかせること。(「警句的」から) P.192 待てば日より P.191 すべてをすぐにさぐろうとするものがあろうか! 雪が溶ければ、ひとりでに見つかるものだろう。P.191 ―――――――――― ここで今これ以上骨を折ってもむだだ! バラならば、花さくだろう。(「警句的」から)P.191 処世のおきて P.192 気持ちよい生活を作ろうと思ったら、済んだことをくよくよせぬこと。滅多なことに腹を立てぬこと、いつも現在を楽しむこと、とりわけ、人を憎まぬこと、未来を神にまかせること。(「格言と反省」から)P.192
『亀井勝一郎人生論集』2青春の思索 (大和書房)1970年3月10日 第46刷発行 P.74~77より 「人間は努力しているあいだは、迷うにきまったものだ」 ゲーテ「ファウスト」 P.74 「努めてやまないものは救われる」 ゲーテ「ファウスト」 私は旧制の高校に入ったときドイツ語を学んだ。二年目くらいから原文で様々の作品を読めるようになったが、一番愛読し、その後長く座右の書ともなったのは、ゲーテの「ファウスト」と、エッカーマンの「ゲーテとの対話」であった。この言葉は「ファウスト」第一部冒頭の「天上の序言」のなかに登場する神さまの言葉だが、そのときから強い印象をうけ、今でも時々思い出すのである 「人間は努力しているあいだは、迷うにきまったものだ」――いかにも平凡な、わかりきったような言葉だが、味わってみると、なかなか意味は深い。例えばこの言葉の反対を思いうかべてみよう。努力を中止すれば迷いはなくなるということである。誰だって迷うことは苦しい。迷うときは、一刻も早くそこからぬけ出したいし、早く解決がほしいと思う。しかし複雑な社会のことや、人間問題や、自分の将来のことを考えると、誰に相談しても、満足な解答などないものだ。やはり自分で迷ってゆく以外にない。とうことは、出来るかぎり様々の努力をしてみるということだ。 ところで、迷うとは一体どういうことだろうか。私は、まず疑問をもつことだと思う。様々の社会問題でも、人間問題でも、「何故か」という問いを発することが第一だ。少しでもわからないところがあったら、「何故か」と問いつづけてゆくこと。このような疑いがあって、そこから対象を探求してゆく精神が生まれる。懐疑こそ探求の原動力だと言われる所以である。 もし何らの疑問を持たず、世間の言う通りに、あるいは誰かの言う通りに、そのままうのみにしていたらどういうことになるか。言うまでもなく自分の思索の放棄である。他人の頭で考えてもらうことだ。それは気楽なことにちがいないが、そうしているうちに私たちは自分の自由を失ってしまうだろう。 自由を奪ったり、自由を圧迫するのは、外部からの抑圧だけではない。自由の敵は私たちの心の中にもいる。つまり自分で考えることを放棄することの怠惰こそ、自由の敵ではなかとうか。それに負けてしまうと、私たちの言葉は急に画一性を帯びる。誰でも言っているようなことを、ただ口真似しているだけのことになる。例えばスローガンは、集団的な行動のためには必要だが、スローガンの危険性は思考の省略あるいは中止にあると言ってよかろう。 疑問を持つことが迷うことであるなら、迷うことは、自分で考えるということだ。自分の心の自由をまもることでもある。だから、「迷う自由」をいつでも大切にしていなければならない。自分ではそう思っていても、いつのまにか、誰かにすがって、安易な気持ちにおちいりがちなものだ。そういうとき、いまの言葉を私は思い出してみる。 青年時代に、どうしたらいいだろうかと、さんざん迷っているとき、この言葉は私に勇気を与えた。生きる勇気とは、迷いに堪えぬく勇気だと言ってよかろう。この「ファウスト」第二部の最後を読むと、「努めてやまないものは救われる」という言葉がある。努力しているかぎり迷うにきまったものだと言ったときの、その「迷い」と、この「救い」と、そのあいだにこそ人生はあるのではなかろうか。ファウストは百歳まで生きて、人生の喜びも悲しみも味わいつくすのだが、彼の迷いとは、倦むことのない探求力であり、それは知的好奇心の結果であるとともに、人間形成の原動力であることをこの物語は告げている。 しかし、どんなにすぐれた言葉でも、そのうけ入れかた、用いかたによっては、危険がある。いい薬には必ず「毒」の要素も含まれているようなものだ。濫用すると、害毒をおよぼす。「迷うにきまったものだ」という部分だけをふりまわして、迷うことに甘えてはならない。そういう甘えは、人間を感傷的にするだけだ。迷うことで、自分を慰めていることがしばしばある。「努力しているあいだは」という上の句を、心にしっかりいれておくべきだ。無限の探究心、徹底した正確さへの意志が大切だ。曖昧なものを、ゆるすまいという決心と言ってもよい。 世の中には、あいまいなもの、いいかげんなことが実におおい。自分たちをふりかえってみてもそうだ。何かをごまかして生きている場合が多い。それを厳しく見つめてみることだ。茫然とするほど困ることが多いにちがいない。しかしそれが人間の成長している証拠だ。成長が止まったら、疑うことも、迷いも、苦しみもなくなるだろう。そうなったら、若くても老人と同じではなかろうか。精神的老衰をおそれなければならない。真の長命とは、未解決の問題を背負って生きぬいていくことである。自己満足は精神の最大の敵である。 2010.01.17、2019.05.06写しぬいた。
橋本 宏『英語で読む 英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.45 〔42〕
More light!
《訳》 もっと光を!
ドイツの詩人・作家・哲学者・科学者としての金字塔を打ち立てたゲーテ(1,749~1,832年)の臨終の言葉として知られる。大文豪のことだけに含蓄が深そうだが薄暗いからカーテンを開けろ、という説もあって、正しい解釈はなかなかむずかしい。 ゲーテの代表作には、『若きウェルテルの悩み』(Die Leiden des jungen Werthers,1774),『ウイルヘルムマイスターの修行時代』(Wilhelm Meister Lehrjahre,1795~96)『ファウスト』(Faust,1808~32)などが挙げられる。 2008.6.21 |
シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール(Charles-Maurice de Talleyrand-Périgordr)(1,754~1,838年)は、フランスのフランス革命から、第一帝政、復古王政、七月王政までの政治家で外交官である。ウィーン会議ではブルボン家代表となり、以後も首相、外相、大使として活躍し、長期にわたってフランス政治に君臨した。日本では一般に[タレーラン」]と略される。 姓はタレーラン=ペリゴールで、現代でもフランス有数の大貴族であるが、ブルボン王政ではオータン司教、第一帝政ではベネヴェント大公であった。日本語でのカナ表記はタレーランまたはタレイラン。有名な画家ウジェーヌ・ドラクロワは、その容貌、容姿の酷似やフランス政府の保護などから、息子ではないかといわれる。フランス第二帝政の政治家シャルル・ド・モルニーは孫。 橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.22
Only a man who has loved a woman of genius can appreciate what happiness there is loving a fool.
《訳》 天才の女を愛したことのある男でなければ、ばか(な女)を愛するのがどんなに幸福か理解できない。
タレーラン(1754~1838)はフランスの政治家、外交官。政変を乗りきる手腕と策略を備えていたことで有名(早い話、変わり身が速かった)、フランス革命、ナポレオン統治、ブルボン王朝復興、ルイ・フィリップ治世のそれぞれの時期に様々な公職に就いた。 2021.12.08 |
すべての国の人間は兄弟であり、諸国民は、おなじ国家の市民のように、その力に応じて互に助けあわねばならない。 一国民を抑圧するものは、何人といえども、すべての国民の敵であることを自ら宣言するものである。自由の進歩を阻止し人間の権利を絶滅するために、一国民に戦争をおこなうものは、通常の敵としてではなく、暗殺者、反逆的強盗として、すべての国民によって追究されねばならない。 国王、貴族、暴君は何人であれ、世界の主権者である人類に対し、宇宙の立法者である自然に対して反逆する奴隷である。
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7月28日この日ギロチン上に死す。フランス革命における小ブルジョワ独裁の最大の指導者で、封建制の撤廃と外敵の撃退とを達成した。 桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.124 2020.07.15 |
ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー(Johann Christoph Friedrich von Schiller)(1,759~1,805年)は、ドイツの詩人、歴史学者、劇作家、思想家。ゲーテと並ぶドイツ古典主義(Weimarer Klassik)の代表者である(初期の劇作品群はシュトゥルム・ウント・ドラング期に分類される)。独自の哲学と美学に裏打ちされた理想主義、英雄主義、そして自由を求める不屈の精神が、彼の作品の根底に流れるテーマである。青年時代には肉体的自由を、晩年には精神的自由をテーマとした。彼の求めた〔自由〕はドイツ国民の精神生活に大きな影響を与えた。 劇作家として有名だが、ベートーヴェンの交響曲第9番〔合唱付き〕の原詞で最もよく知られるように、詩人としても有名である。シラーの書く詩は非常に精緻でありかつ優美であるといわれ、〔ドイツ詩の手本〕として今なおドイツの教育機関で教科書に掲載され、生徒らによって暗誦されている。 日本では、古くから舞台ドイツ語の影響もあって、〔シルレル〕(太宰治の〔走れメロス〕など)あるいは〔シラー〕シルラーとも表記された。は正確には〔ˈʃɪlɐ〕と発音される。
暴政の力にも限りがあるものです。 虐げられたものが、どこにも権利を、得がたい時、 圧政の重荷がこらえきれないようになる時、 彼は勇み躍って天につかみかかり、 星辰そのもののように移ることなく 破れることなく、高くかかっている 永遠不朽の権利を取りおろします。
もうどんな道でも効果(ききめ)がなくなると最後の
この日(5月09日)死んだドイツの文学者。ゲーテとともに、古典主義の完成者。『群盗』以後の劇作のうちに、自由への憧れを燃した国民的劇詩人 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.79 2022.01.12 記す。 |
ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte ドイツ語)(1,762~1,814年)は、ドイツの哲学者である。先行のイマヌエル・カントの哲学に大きく影響を受け、のちのG.W.F.ヘーゲルやフリードリヒ・シェリングらに影響を与えたドイツ観念論の哲学者である。息子のイマヌエル・フィヒテ(通称:小フィヒテ)も哲学者。ナポレオン占領下のベルリンでの講演[ドイツ国民に告ぐ]で広く知られる。
独立を失った国は、同時に時代の潮流にあずかる能力、時代潮流の内容を自由に規制する能力をも失ったものである。このような国はもはや独自の存在を許されず、他の民族や国々などの事件や時代区分に従って、自国の紀年を定めなければならなくなる。このようなありさまでは、従来の世界に自力で参加することなど高嶺の花となり、ただ、他国に追従するだけとなる。こういう状態からふたたび奮起するには、新しい一世界が開けてきて、その国自身の一新紀元をつくり、その世界を築きあげつつ、新時代の内容を充実させてゆくよりはほかに道はない。 (ドイツ国民に告ぐ) 1月27日この日死んだ。ドイツ理想主義の哲学者。フランス軍の占領下にあったドイツ民族の愛国的感情を鼓舞した。『全知識学の基礎』 桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.16 2020.07.19 |
アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタール(フランス語: Anne Louise Germaine de Staël)(1,766-~1,817年)は、フランスの批評家、小説家。フランスにおける初期のロマン派作家として政治思想、文芸評論などを行った。多く、スタール夫人(フランス語: Madame de Staël)のなで知られる。フランス革命からナポレオン・ボナパルトの君臨に至る時代、多くの政治評論を行い、ナポレオンと終生対立する運命となる。正式な名前は、スタール=ホルシュタイン男爵夫人アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ネッケール(フランス語: Anne-Louise Germaine Necアンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタールer, baronne de Staël-Holstein)。フェミニズムの先駆者でもある。
文学の進歩、すなわち思考と表現の技術の完成は、自由の建設とその保存に必要である。すべての市民が政府の行動に直接の関係をもっているのとおなじく、一つの国において啓蒙の光を欠くことができないのは明らかなのだ。
文学に、そして思考の技術に大きな重要性をあたえるのは、なんと有益なことだろう。良くそして正しいものの典型はもはや亡びはしないだろう。自然が徳へと運命づけている人類は、もう道案内にことかかないであろう。 (文学論)
7月13日死んだフランスの文学者。その熱烈な自由主義思想は、ナポレオンににくまれ追放された。『文学論』のほか多くの小説を書いた。新ロマン主義者 桑原武夫編『一日一言』―人類の知恵― P.116 20201.12.24
橋本 宏『英語で読む 英知とユーモア―』(丸善ライブラリー)P.88 〔83]
The more I see of men, the more I like dogs.
《訳》 人間というものがよくわかればわかるほど、わたしはイヌがますます好きになる。
スタール夫人(1766-1817)はフランスの女流作家、批評家で、文壇の庇護者として文人、芸術家の集まりを主宰したことで知られる。 引用した発言は、夫人の主張――Wit lies in recognizing the resemblance among things which differ and the difference between things which are alike.(機知とは異なるものに相違を認めることにある)――を文字通り実践した格好の例だろう。 21.12.15 |
もしも美しいまつ毛の下に、涙がふくらみたまるならば、それがあふれ出ないように、つよい勇気をもってこらえよ。通る小道が、あるいは高くなり、あるいは低くなり、正しい道の見きわめがたいこの世のお前の旅路において、お前の歩みはたしかに坦坦たるものではなかろうが、しかし徳の力は、つねに正しい方向へお前を前進せしめるだろう。(手記)
つねに行為の動機のみを重んじて、帰着する結果を思うな。報酬への期待を行為のバネとする人々の一人となるな。(手記)
3月26日ウィンで死ぬ。苦しい境遇、さらには失聴という困難にも屈せず、数多くの布朽の名曲を残した天才的作曲家。九つの交響曲は有名。 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.52 ※関連:青木雨彦『中年博物館』P.71 五月七日 2020.05.06記す。
橋本 宏『英語で読む 英知とユーモア―』(丸善ライブラリー)P.146 〔139〕
Why so many different dishes ? Man sinks almost to the level of an animal when eating becomes his chief pleasure.
《訳》 なぜこんなにもさまざまな料理があるのだろう? もし食べることが人間のおもな楽しみになったなら、人間はほとん
ど獣のレベルに下落してしまうだろう。
ベートンーヴェン(Beethoven[beithhouvn]1770~1827)はドイツ人だから、この言葉はもちろん翻訳でる。人間がもし第 五シンフォニーを聴くよりもステーキを食べたがるようになったら、人間はケダモノのレベルに落ちるだろう。精神的な楽しみを 尊重するのが人間性の本質だ。動物的な欲望ばかり楽しみにしてはいけない。 2021.11.18 |
スタンダール(Stendhal)(1783~1842年)は、グルノーブル出身のフランスの小説家。本名はマリ=アンリ・ベール(Marie Henri Beyle)という。ペンネームのスタンダールはドイツの小都市シュテンダルに由来すると言われている。 女性の思想は、本にもとづくものではなく(幸いなことに彼女らはほとんど読書しないからだ)、事物の自然から学びとったものだから、この両性の平等ということが、イタリア人の頭脳に良識のおどろくべき分量を導入することとなった。よそではまだ一々論証せねばならぬような行動原理で、ローマでは定理として採用されるものを、私は百も知っている。女性に完全な平等を許すことは、文明を見わける一ばん確かな目じるしであろう。そのことは人類の知力と、その幸福の可能性を二ばいにすることであろう。 (ローマ、ナポリ、フィレンツェ) この日(3月23日)パリに死んだフランスの文学者。強烈な個我とするどい眼をもって、リアリズムの最高作品『赤と黒』『パルムの僧院』を生んだ。 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.50 2022.01.10記す。 |
第6代バイロン男爵ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron, 6th Baron Byron)(1,788~1,824年)は、イングランドの詩人。バイロン卿として知られ、単に[バイロン卿]バイロン卿」というとこの第6代男爵を指すことが殆どである。 一 人に施したる利益を記憶するなかれ、人より受けたる恩恵は忘るるなかれ。 |
ドイツの哲学者。真の実在は盲目的な生存意志であるとし、個々の人間の中に意志として現れ、盲目的意志の衝突が相継ぐ結果、苦痛に満ちた人生を送らざるを得ないという厭世哲学を主張。この苦痛から解脱する道は、芸術活動に専心して個体の意志を克服するか、個体はすべて同一の形而上学的本質をもつ意志であると自覚し、他人の苦痛への同情を根拠として倫理的に解脱するか、のどちらかであるとした。主著「意志と表象としての世界」。
一 読書している時は、われわれの脳はすでに自分の活動場所ではない。それは他人の思想の戦場である。 二 読書は他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるに過ぎない。 三 知は力なり……とんでもない!きわめて多くの知識を身につけていても、少しも力を持っていない人もあるし、逆になけなしの知識しかなくても最高の威力を振るう人もある。 四 知識欲は、普遍的なものへ向かうときには学究心と呼ばれ、個別的なものへ向かうときは好奇心と呼ばれる。 五 孤独は、すぐれた精神の持ち主の運命である。 六 我々の肉体が衣服に包まれているように、われわれの精神は虚偽に包まれている。 七 われわれの人生の場景は粗いモザイクの絵に似ている。この絵を美しいと見るためには、それから遠く離れている必要がある。間近にいてはそれは何の印象も与えない。 八 人は通常、金を貸すことを断ることによって友を失わず、金を貸すことによってたやすく友を失う。 九 全ての享楽と、全ての幸福とは消極的なものだが、苦労は積極的なものだ。 十 人間の幸福の敵は、苦痛と退屈である。 十一 推理する能力を持っている人はたくさんいるが、判断する能力を持っている人は少ししかいない。 十二 紙上に書かれた思想は、砂上に残った歩行者の足跡に過ぎない。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。 十三 人の社交本能も、その根本は何も直接的な本能ではない。つまり社交を愛するからでなく、孤独が恐ろしいからである。 十四 富は海水に似ている。飲めば飲むほど喉が渇く。名声についても同じことが当てはまる 十五 老年の歳月における人生は、悲劇の第五幕に似ている。人間は悲劇的な最後が近いことは知っているが、それがいかなるものであるかは知らない。 十六 人生というものは通例、裏切られた希望、挫折させられた目論見、それと気づいたときにはもう遅すぎる過ちの連続にほかならない。 2010.01.03、2011/03/01、2011/04/22追加
橋本 宏『英語で読む 英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.58 〔53〕
Reading is thinking with someone else's head instead of one's own.
《訳》 読書とは自分の頭の代りに誰か他人の頭で考えることである。
書いてあることを丸吞みにするのではなく、よく理解したり分析したり批判したりしながら読むのが、本当の読書である。それにはもちろん頭を使う。しかし、よく考えてみると、材料は書いてあることだから、実は著者の頭を使って考えることが中心ともいえる。それならば凡才の書いた本ではなく、すぐれた人物の著書を読むのが有益なことは明白だ。 ショーペンハウアー(1788~1860)はドイツの哲学者。厭世的な哲学書『意志と表象としての世界』(The world as Will and Idea,1819)が代表作で、人間生活においては、意志は絶えず他の意志によって阻まれ、生は同時に苦を意味し、この苦を免れるには意志の滅却・諦観以外にはない、と説いた。 2021.11.19 |
こうして、歴史がその記憶を保持してきた最も偉大な革命がなしとげられた。その結果の重要性を考えるならば、流された血はきわめて僅かなものでしかなかった。この瞬間から、フランスは自由な国土として、王はその権限が制限された君主として、貴族は残余の民の水準までひこもどされたものとして、考えうるであろう。(事件の二日後パリ駐在イギリス大使ドーセット公の報告) 一七八九年のこの日パリ市民はバスチーユ牢獄を攻略した。フランス革命開始の世界史的事件。 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.116 2020.08.21 |
マイケル・ファラデーは、イギリスの化学者・物理学者で、電磁気学および電気化学の分野での貢献で知られている。 直流電流を流した電気伝導体の周囲の磁場を研究し、物理学における電磁場の基礎理論を確立。それを後にジェームズ・クラーク・マクスウェルが発展させた。同様に電磁誘導の法則、反磁性、電気分解の法則などを発見。 ウィキペディア 主な業績: ファラデーの電磁誘導の法則; 電気化学; ファラデー効果; ファラデーケージ; ファラデー定数; ファラデーカップ; 影響を受けた人物: ハンフリー・デービー; William Thomas Brande ファラデーの電磁誘導の法則(NHK 高校 物理 高等学校講座 による) 電磁誘導でコイルに誘電電流が流れるのは、コイルに起電力が誘導されるからです。この誘導起電力の大きさについては、ファラデーが実験を通してくわしく研究しました。それによるとコイルに発生する誘導起電力は、コイルの巻き数とコイルを貫く磁束のの時間的変化の割合に比例します。つまり、 誘導起電力=(コイルの巻き数)×(磁束の時間的変化の割合) となります。この関係をファラデーの電磁誘導の法則といいます。
The Chemical History of A Candle 1861 マイケル・ファラデー(Michael Faraday)著 三石巌訳 角川文庫 1962 科学のもつときめきとの出会いといったら、恋や旅の比ではないほどのことがある。ぼくの胸のどこかにエナメル線が巻きついた十字架を最初に打ちこんだのは、マイケル・ファラデーだった。 ファラデーの法則のことではない。あのクリスマス講演だ。ファラデーの電磁気学が世界にもたらした衝撃については、ここではくりかえさない。ベンゼンの発見、塩素の液化法の発見、復氷の発見、特殊鋼の研究、金のコロイドの発見などの成果についても省略しよう。ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーに掛かっているファラデーの肖像画がいかに魅惑的かということも、ここでは駄弁を弄さない。それよりクリスマス講演だ。 ファラデーは1860年のクリスマス休暇に、ロンドン王立研究所の主催で連続6回にわたるクリスマス講演をした。 これがすばらしかった。そのころ晩年にさしかかっていたファラデーの名はロンドン中に聞こえていたし、その話術は深い知性と科学への愛情に満ちていた。講演は1日目から満員で、王侯貴族から一般市民までがつめかけた。とくにファラデーがこの年かぎりで王立研究所を退くことを知っていたロンドンっ子は、この天才の才能を惜しむかのように講演に聞き入った。 その夜、ファラデーは『ロウソクの科学』の第1講を語った。冒頭、ゆっくりと聴衆を見まわし、「この講演で、どんな話が出てくるかをたのしみにお集まりくださった光栄にこたえるために、私は一本のロウソクをとりあげて、皆さんに、その物質としての身の上話をいたしたいと思います」と語りはじめた。ロウソクの身の上話なのである。聴衆にざわめきのような声が上がった。その静まりを待って、ファラデーは次にこう言った、「この宇宙をまんべんなく支配するもろもろの法則のうちで、ロウソクが見せてくれる現象にかかわりをもたないものは、一つもないといってよいくらいです」。 ファラデーがクリスマス講演をとても大切にしていただろうことは、少年時代の日々にすでに刻印されていたようにぼくには思われる。 ファラデーは18世紀末ロンドンの下町の、そのまた場末の鍛冶屋の倅だった。少年時代の境遇はディケンズが描いたデイヴィッド・コパフィールドやオリバー・ツイストにとても近い。早くから家事を手伝い、小学校に通うころには製本屋の小僧っ子になった。けっこう極貧の日々ではあったが、その製本屋の主人が少年ファラデーをおもしろがった。製本途中の書物の片隅にすばやく好奇の目を光らせる少年に興味をもって、書物を読む時間をくれた。 そういうところは、ちょっとベンジャミン・フランクリンに似たスタートだ。主人はまた、製本屋の屋根裏部屋に仲間が集まって、自然界や科学界や技術がどういうものかをときどき夜っぴて語ることを許した。この時代、印刷業とは出版書籍業であって、工場にはいつも「知」がインクまみれで飛んでいたのである。 ある日、少年ファラデーはお使いの途中の街角で一枚のポスターを見る。テータムという人物が毎週1回の講演会を自宅で開いているというポスターだ。ファラデーは兄に銀貨をねだって手に握りしめ、この講演に駆けつけた。科学の夜明けがそこにあった。ある日また、少年ファラデーは製本屋を訪れた客の一人から、かのハンフリー・デービーが王立研究所で公開特別講演をすることを聞きつけた。デービーはイギリス第一の化学者である。電気分解の先駆者であり、ナトリウム、カリウム、カルシウム、マグネシウムなど、たくさんの元素を発見した。またまた銀貨をせびったファラデーはデービーの講演を研究所の講堂の片隅で固唾をのんで聞く。 この2つの講演はファラデーの胸に鮮やかに刻まれた。それは少年ファラデーを科学者ファラデーにしたセピア色の日光写真だった。さっそく講演内容を克明にメモしたノートをデービーに送ったところ、デービーも少年に好意をもった。1860年のクリスマス講演はその日光写真の忘れがたい感動に対する返礼だったにちがいない。けれどもどう想像しても、テータムやデービーよりもファラデーの講演のほうが数百倍すばらしかったろう。ちょっとだけ、内容を紹介する。 ぼくが読んできたもののなかで、『ロウソクの科学』ほど文句のつけようがないくらい感嘆できる科学書は少ない。 科学のギョーカイではこういうものをしばしば通俗科学書とか通俗科学講義と言いたがるのだが、このクセはやめたほうがいい。どこが通俗であるものか。少年少女がめざめるべき理科と科学の真髄はすべて、ここにある。いや、オトナだってその翼に乗ってそのまま大空を滑空できる。 ファラデーはこの講演でたんにロウソクの話をしたのではない。ロウソクを比喩につかったのでもない。ロウソクの身の上話をしたのだけれど、その場に何本もの何種類ものロウソクを持参して、ときに実験を見せながら話をはじめたのだ。まさにロウソクだけで多様におよぶ科学をしてみせた。 1本目は木綿糸をぐるぐる巻きにして牛脂に浸した「ひたしロウソク」だ。これでロウソクというものがどのようにできているかを説明した。2本目は沈没した軍艦ロイヤル・ジョージ号が引き揚げられたときのロウソクで、これはたっぷり塩水に浸されたにもかかわらず、火をつけると燃える。スエット(牛脂)が燃えるためであるが、ファラデーはそのスエットの話からステアリン酸を製造してみせたゲイ=リュサックの功績を紹介して、その実験過程を丹念に詳しく案内しながら、化学者というものがいかにロウソクの本質にかかわってきたかを語った。 3本目のロウソクは、マッコウクジラの油を精製してつくられた「鯨油ロウソク」である。4本目は黄色の蜜蠟のロウソク、5本目は精製した蜜蠟ロウソクで、このロウソクからはパラフィンという不思議な物質の謎を暗示した。6本目は遠い日本から取り寄せた和ロウソクで、おそらくはハゼの実の脂肪を利用したものだったろう。ファラデーは和ロウソクを手に東洋の神秘を伝えた。 このように実物のロウソクを何本も見せながら、ファラデーはしだいに「ロウソクが燃える」とはいったいどういう物理現象なのかということを説明していく。話は化学や物理のことばかりでなく、たとえばロウソクの最も美しい姿は「ロウソクの有用性が完璧をめざしたときに生まれる美しさであります」というふうな美の科学の観点も、そのつど語られる。 ただのお話ではなかった。ノートを見ながら講義したわけでもない。このクリスマス講演はファラデーがさまざまな実物を持ち出し、ファラデー自身がさまざまな実験を交えた世にも驚くべき手品のような講演だったのである。 たとえばファラデーの前には皿に盛った食塩がおかれていた。その食塩にファラデーは水差しに入った飽和食塩水を注いでみせる。食塩水は青く染められているので、青い色が食塩の山をゆっくりのぼっていく。聴衆が目をまるくしているなか、ファラデーはいくつもの解説をする。なぜわれわれは石鹼で手を洗い、タオルで手を拭くのかというようなことを――。 石鹼で手を洗えば水が手にくっつく。タオルで手を拭けば水がタオルにくっつきやすくなる。これが毛管現象によるものであることを示しつつ、実はロウソクが燃えるのもこの原理と同じだということを、まさに手品師が種のすべてを順々に明かすごとくに、証していくわけなのである。 こうして『ロウソクの科学』は第6講に及んだ。第2講ではファラデーはロウソクに紙や紙円筒や木綿の芯を近づけ、燃やしてみせる。そればかりか、ごく少量の火薬も燃やす。さらには金網も燃やしてみせる。 第3講はロウソクが燃えたあとに「いったい何が残るか」という興味津々の問題を示した。ファラデーは大人にも子供にもわかるように、そしていっそうの不思議が聴衆の胸に募るように、ロウソクの燃焼によって生成されるものが「水」であることを実験してみせるのだ。 第5講では満員の聴衆の前でシャボン玉を二酸化炭素の瓶の上でふわりと浮かせた。第6講では石炭ガスなどを使ったかなり劇的で過激な卓上実験をし、最後の最後になって、ロウソクの燃焼が実は人間の「呼吸」とほぼ同じ現象であることを、魔法のように解いて結ぶのである。ロウソクと呼吸を一緒に話すなんて、なんともすばらしい。みんな、どきどきしたことだろう。 いまではこうした実験の数々はNHKの教育番組やナショジオTVでもしょっちゅうお目にかかれるものだろう。けれどもその方法の端緒をひらいたのはファラデーのクリスマス講演だったのだ。 その躍動するシナリオといい、その本質を衝く機知といい、かつてどんな科学者も見せたことのないものだった。かつてなかっただけではない。フロックコートを脱ぎ、帽子を取って、おもむろにロウソクを取り出せる科学者なんて、そこに科学の本来と思索の探求を語れる科学者なんて、あれから140年、一人も出なかった。どうしても本書を読んでみられることを勧めたい。 ところで、クリスマス講演『ロウソクの科学』が格別のものである理由が、もうひとつある。それはこの講演の記録者が、かのウィリアム・クルックス卿だったということだ。陰極管(真空管)を発明し、陰極線を発見したクルックスがどういう人物であったかということ、どれだけぼくがクルックスに熱烈な関心を注いだかということは、28年前に『遊学』(大和書房→中公文庫)に書いたことなので、ここでは省く。 そのクルックスが本書に序文を寄せている。この一文がまたすばらしい。「不細工な素焼のかわらけに赤黒い炎をあげて燃える東方の国の液状瀝青、精巧でもその役目を果たしかねたエトルリア人のランプ」といった歴史的な「火」の列挙に始まって、この燃焼の真実の奥に輝く生命の火の謎を、いまマイケル・ファラデーが解こうとしている臨場感をのべている。序文の最後は「科学のともし火は燃えあがらねばならぬ。炎よ行け!」である。 こういう格別のナビゲーターによって幕があく科学講義なら、いまからでも聞いてみたい。見てみたい。 ぼくも講演をときどきしているが、最近は手に何かを持ったり、「さあ、では、これが河井寛次郎の茶碗です。ご覧ください」と言ってモニターに映し出される映像に魔法を任せたりしている。いつかは模型飛行機やらぼくのレントゲン写真やらも持ち出したいものだ。 参考:」ところで、22人の講演で化学にめざめた少年ファラデーがその後どのようにして、かの大科学者ファラデーになったかというと、デービーの講演を聞いたのちに手紙を出して科学の道に進みたいことを訴え、王立研究所の助手の席が空くのを待って、22歳でハンフリー・デービーの助手になったのである。 なお、本書が『ロウソクの科学』という邦題になったのは岩波文庫の矢島祐利の訳による。 2021.11.14追加。
9月22日ロンドンに生まれる。製本屋に働きながら独学で化学を勉強した。のち王立研究所の教授となる。子供のための講義はゆうめいである。 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.158 2020.08.27記す。 |
パーシィ・B・シェリー(Percy Bysshe Shelley) イギリスの詩人。バイロン、キーツと並んで19世紀初頭のロマン主義文学を代表する存在。8月4日、サセックス州に生まれる。生来、怪異なものにあこがれる気質が強く、当時流行のゴシック小説に想像力をはぐくまれた。加えてイートン校在学中には自然科学に、オックスフォード大学に入ってからはプラトンなどの形而上(けいじじょう)学に生涯の思想の源を培われた。一方、准男爵で国会議員の父に対する反発心から、既成の権威や道徳を憎む気持ちが烈(はげ)しく、1811年には『無神論の必然性』と題する小冊子を出版したために、大学を1年にして放校されるはめとなった。この夢想と反抗の性癖は、ゴドウィンの『政治的正義』を読むようになってからしだいに対社会的な理想主義に熟していった。放校後まもなく少女ハリエットと駆け落ち結婚したことは、その後2人で旧教徒解放運動などに手を染めたこととともに、こうした義侠(ぎきょう)的理想主義の一つの現れであった。 1813年、社会改良の夢を歌った最初の長詩『マブ女王』が出るころから、ハリエットへの気持ちはしだいに冷め、かわってゴドウィン家の長女メアリーが、詩人にとって新たな「理想美」となった。1814年シェリーはメアリーとヨーロッパ大陸に走り、帰国後も同棲(どうせい)を続ける間、理想美探究をテーマとした初期の代表作『アラストー』を書いた。1816年にも大陸に渡り、スイスでバイロンと交遊した。この冬、傷心のハリエットが自殺し、メアリーが正式の妻となった。1818年シェリー夫妻は三たび大陸に渡り、イタリア各地を転々とする間に詩劇『プロメテウス解縛』(1820)などの傑作が次々に生まれた。アルノ川畔に迫りくる嵐(あらし)の気配を感じて書き上げた即興詩『西風の賦(ふ)』や、絶妙な音楽と空虚なイメージによって詩的霊感をとらえた『雲雀(ひばり)』などは、日本でも昔から親しまれている叙情詩の珠玉である。1820年からピサに住み、翌年にはキーツの夭折(ようせつ)を悼んだ瞑想(めいそう)詩『アドネイス』と、ロマン派詩観の最高の宣言ともいうべき散文『詩の擁護』を世に問うた。そして1822年7月8日、ダンテの『神曲』に倣った大叙事詩『生の凱歌(がいか)』を執筆中の詩人は、ヨットでイタリア北部のスペツィア湾を帆走中暴風にあい、29歳の生涯を閉じた。その一貫した理想美探究の姿勢は、天賦の叙情的詩才とともに、ロマン主義の精髄として高く評価されている。[上島建吉]『上田和夫訳『シェリー詩集』(新潮文庫)』▽『高橋規矩著『シェリー研究』(1981・桐原書店)』
君たちが種をまく。刈りとるのは別の人だ。
種をまけ――だが暴君に刈りとらせてはならぬ。
(英国の人々へ)
7月8日イタリアのスペチア湾で溺死。イギリス・ロマン主義のの代表的詩人。その詩には抒情と同時に社会革命への情熱が見出せる。『雲雀に寄す』、劇詩『解放されたプロメテウス』 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.158 2020.08.27記す。
橋本 宏『英語で読む 英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.119
If Winter comes, can Spring be far behind ?
《訳》 冬来たりなば、春遠からじ。
シェリー(1792~1822)はイギリスのロマン派詩人でつねに理想を追い求めていた。鉛色の雲に覆われ、大陸からの季節風が吹きすさぶ冬の到来を春の先駆けとし、春を待ち焦がれるイギリス人全ての思いを[西風に寄せる賦]('Ode to the West Wind,' 1819に歌い上げた。引用はその最後の部分。 2021.12.19 |
トーマス・カーライルのエピソード
カーライルがこの書を著わすのは彼にとっては、ほとんど一生涯の仕事であった。チヨット『革命史』を見まするならば、このくらいの本は誰にでも書けるだろうと思うほどの本であります。けれども歴史的の研究を凝らし、広く材料を集めて成った本でありまして、実にカーライルが生涯の血を絞って書いた本であります。 それで何十年ですか忘れましたが、何十年かかかってようやく自分の望みのとおりの本が書けた。それからしてその本が原稿になってこれを罫紙に書いてしまった。それからしてこれはモウじきに出版するときがくるだろうと思って待っておった。 ▼そのときに友人が来ましてカーライルに遇ったところが、カーライルがその話をしたら「実に結構な書物だ、今晩一読を許してもらいたい」といった。そのときにカーライルは自分の書いたものはつまらないものだと思って人の批評を仰ぎたいと思ったから、貸してやった。貸してやるとその友人はこれを家へ持っていった。そうすると友人の友人がやってきて、これを手に取って読んでみて、「これは面白い本だ、一つドゥゾ今晩私に読ましてくれ」といった。ソコで友人がいうには「明日の朝早く持ってこい、そうすれば貸してやる」といって貸してやったら、その人はまたこれをその家へ持っていって一所懸命に読んで、暁方まで読んだところが、あしたの事業に妨げがあるというので、その本をば机の上に抛り放して床について自分は寝入ってしまった。 ▼そうすると翌朝彼の起きない前に下女がやってきて、家の主人が起きる前にストーブに火をたきつけようと思って、ご承知のとおり西洋では紙をコッバの代りに用いてクべますから、何か好い反古はないかと思って調べたところが机の前に書いたものがだいぶひろがっていたから、これは好いものと思って、それをみな丸めてストーブのなかへ入れて火をつけて焼いてしまった。カーライルの何十年ほどかかった『革命史』を焼いてしまった。時計の三分か四分の間に煙となってしまった。それで友人がこのことを聞いて非常に驚いた。 ▼何ともいうことができない。ほかのものであるならば、紙幣を焼いたならば紙幣を償うことができる、家を焼いたならば家を建ててやることもできる、しかしながら思想の凝って成ったもの、熱血を注いで何十年かかって書いたものを焼いてしまったのは償いようがない。死んだものはモウ活き帰らない。それがために腹を切ったところが、それまでであります。それで友人に話したところが、友人も実にドウすることもできないで一週間黙っておった。何といってよいかわからぬ。ドウモ仕方がないから、そのことをカーライルにいった。 ▼そのときにカ*ライルは十日ばかりぼんやりとして何もしなかったということであります。さすがのカーライルもそうであったろうと思います。それで腹が立った。ずいぶん短気の人でありましたから、非常に腹を立てた。彼はそのときは歴史などは抛りぽかして何にもならないつまらない小説を読んだそうです。しかしながらその間に己で己に帰っていうに「トーマス・カーライルよ、汝は愚人である、汝の書いた『革命史』はソンナに貴いものではない、第一に貴いのは汝がこの艱難に忍んでそうしてふたたび筆を執ってそれを書き直すことである、それが汝の本当にエライところである、実にそのことについて失望するような人間が書いた『革命史』を社会に出しても役に立たぬ、それゆえにモウ一度書き直せ」といって自分で自分を鼓舞して、ふたたび筆を執って書いた。 ▼その話はそれだけの話です。しかしわれわれはそのときのカーライルの心中にはいったときには実に推察の情溢るるばかりであります。カーライルのエライことは『革命史』という本のためにではなくして、火にて焼かれたものをふたたび書き直したということである。もしあるいはその本が遺っておらずとも、彼は実に後世への非常の遺物を遺したのであります。たといわれわれがイクラやりそこなってもイクラ不運にあっても、そのときに力を回復して、われわれの事業を捨ててはならぬ、勇気を起してふたたびそれに取りかからなければならぬ、という心を起してくれたことについて、カーライルは非常な遺物を遺してくれた人ではないか。
参考:トーマス・カーライルの言葉
「一度でも心から、全身全霊をもって笑ったことのある人間は、救いがたいほどの悪者にはなりえない」
「雄弁は銀、沈黙は金」
「健康な人は自分の健康に気がつかない。病人だけが健康を知っている」
2012.10.16
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泉にそいて茂る菩提樹 慕い行きては、うまし夢見つ 幹にはえりぬ、ゆかしことば うれし悲しに、といしその影 近藤朔風の歌詞である。 ドイツ語の歌詞は下記のようになっている。
Am Brunnen vor dem Tore,
学生のころ友人と肩を組み、ドイツ語を学ぶ嬉しさと青春を謳歌したのが昨日のようです。 2008.4.19 ※2015.06.04:菩提樹 の音声を追加しました。歌ってお楽しみください。 |
クリスティアン・ヨハン・ハインリヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine)(1,7971,856年)は、ドイツの作家、詩人、文芸評論家、エッセイスト、ジャーナリスト。デュッセルドルフのユダヤ人の家庭に生まれる。名門ゲッティンゲン大学卒業、法学士号取得。当初は商人、ついで法律家を目指したが、ボン大学でA・W・シュレーゲルの、ベルリン大学でヘーゲルの教えを受け作家として出発。『歌の本』などの抒情詩を初め、多くの旅行体験をもとにした紀行や文学評論、政治批評を執筆した。1,831年からはパリに移住して多数の芸術家と交流を持ち、若き日のマルクスとも親交があり、プロレタリア革命など共産主義思想の着想に多大な影響を与えた。 文学史的にはロマン派の流れに属するが、政治的動乱の時代を経験したことから、批評精神に裏打ちされた風刺詩や時事詩も多く発表している。平易な表現によって書かれたハイネの詩は、様々な作曲者から曲がつけられており、今日なお多くの人に親しまれている。
私は進歩を信ずる。人類が完全な幸福にいたるべき運命をもっていることを信ずる、それゆえ、神が人間をただ苦しめるために創り出したと妄想している信心家たちより、自分は、はるかに神について大きな考えをもっている。最後の審判の日になってはじめて天じょうにあらわれる、と信心家どものいうあの極楽の状態を、自由な政治と産業の設備のめぐみによって、この地上に打ちたてたいと思うのである。(ドイツの宗教と哲学の歴史) 12月13日ドイツのデュセルドルフに生まれた。甘美な恋愛詩にすぐれると同時に、また人類の進歩と祖国愛にもえる革命的詩人だった *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.206 22.12.13
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.2
〔2〕
《訳》人間のような口をきく馬鹿(ロバ)は一度も見たことがないが、馬鹿(ロバ4のような口を4きく人間には大ぜい会ったことがある。
ドイツの叙情詩人ハインリッヒ・ハイネ(1797~1856)は、明治の中ごろ、甘美な恋愛詩が紹介されて日本でも人気が高かったが、彼はドイツよりもフランスに親近感を持つなど、硬派的な一面があって、この引用句にもそうした性格が見える。彼の最後の病床で友達が、神様は君の犯した罪もお許し下さるだろう、と言ったところ、God will forgive me; that's his business.(そうだろうな、許すのが商売だから)と答えたという話もある。彼の抒情詩にはシューベルト(Schubert)やシューマン(Schumann)など、当時の大作曲家が作曲したものが幾篇もある。([146]『雑草園雑筆』p.177参照) 2021.10.26
〔146〕 Martrimony――the high sea for which no compass has yet been invented Heinrich Heine
《訳》 結婚――そのための羅針盤がまだ発見されていない公海
ハイネはドイツの詩人、批評家。後半生はドイツを離れてパリで暮し、世界的な詩人となった。わが国でも明治以来多くの文学者が影響を受け、彼の詩の愛好者は多い。([2]参照) 2021.11.27 |
ジュール・ミシュレ(Jules Michelet)(1798~1874年)は、19世紀フランスの歴史家。[ルネサンス]の造語者。
たかい教養、専門の研究、そしてわれわれがなしとげたと信ずる巧妙な発見を頼りにして、国民的伝統を安易に蔑視してはならむ。軽々に、この伝統を変えたり、他の伝統を創造し、強制したりしようとくわだててはならない。人民に、天文学や化学を教育せよ。それはまあよい。しかし、人間が、すなわち人民自身が問題である場合、人民の過去、道徳、心、名誉が問題である場合には、研究者たちよ、人民によって教育されることを恐れてはならない。(フランス革命史)
8月21日パリに生まれる。フランスの歴史家、文学者。民衆を愛し、フランス文学史上屈指の名文で民衆をたたえた。主著『フランス革命史』 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.138 2021.12.24
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.24
How beautifully everything is arranged by nature; as soon as a child enters the world, it finds a mother ready to take care of it.
《訳》 自然の力で何もかも実にうまくできているもんだな。子供が生まれると、たちまち母親が待ち構えていてその世話をする。
ミシュレ―(1798~1874)はフランスの歴史家、広く人類の過去を観察して来た歴史家が、原始以来のこの素朴な事実を見直して、今更ながら感に打たれたのだ。 2021.12.08 |
Thomas Hewitt Key, (1,799~1,875) was an English classical scholar.
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.189
What is mind ? No matter.
《訳》 精神とは? 物質にあらず。
深遠な真理を探究する禅問答の形式を借りた典型的なpun[駄洒落]。No matter. Never mind. にはそれぞれ、[どうでもよい]。[気にするな]の含みがある。 トマス・キー(1799~1875)はイギリスの古典語学者。 2021.12.07 |
Douglas William Jerrold (1,803~1,857) was an English dramatist and writer.
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.151
Love's like the measles――all the worse when it comes late in life.
《訳》 恋愛はハシカに似ている――年を取ってかかるほど病気が重い。
この言葉は、イギリスでは100年以上も前から有名だが、日本では大正の頃、ある小説家がはじめて言い出したような顔で引用してから有名になった。今でもそう思い込んでいる人もあるらしい。ジェラルド(Jerrold, 1803-57)はイギリスの劇作家。ユーモリストであった。ジャーナリストとしても活躍し、『パンチ』(Punch)誌に多くの寄稿をしている。 イギリスの作家ジェローム・K・ジェッローム(Jerome K. Jerome, 1859-1927)はこの発言を更に発展させた。Love is like the measles; we all have to go through it. Also like the measles, we take it only once.(恋愛はハシカに似て一度しか罹らない)だが、恋の病が再発して恋いの虜になる患者が跡を絶たない。 2021.12.11 |
ラルフ・ウォルドー・エマーソン(Ralph Waldo Emerson [rælf ˈwɑːldoʊ ˈɛmərsən]は、アメリカ合衆国の思想家、哲学者、作家、詩人、エッセイスト。無教会主義の先導者。 アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンに生まれる。18歳でハーバード大学を卒業し21歳までボストンで教鞭をとる。その後ハーバード神学校に入学し、伝道資格を取得し、牧師になる。自由信仰のため教会を追われ渡欧、ワーズワース、カーライルらと交わる。帰国後は個人主義を唱え、米文化の独自性を主張した。
改革という魔物は、あらゆる立法者、あらゆる都市のあらゆる住人の心に通ずる秘密のドアを心得ている。新しい思想や希望のあかつきが、君の胸のなかに明けそめたという事実は、おなじ瞬間に、新しい光明が幾千もの人びとの心にさしこんだということを、君に知らしているのだ。君は、君の秘密を自分だけのものにしておきたいと願うかも知れない。だが、君が外に一歩ふみだすやいなや、みよ、君の戸口でまちかまえていて、おなじ秘密を君にささやく人があるにちがいない。(改革者としての人間)
5月25日生まれたアメリカの思想家。[超絶主義]の哲学で当時のアメリカ思想界を導いた。主著は『随筆集』、『代表的人物』 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.87 2021.12.24
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.34~ 〔32〕
Hitch your wagon to a star.
《訳》 自分の馬車を星につなげ。
星を最も高遠なもののシンボルとして、「高遠な理想を持て:理想は高邁なれ」を意味する。アメリカの思想家エマソン (1803~82)の有名な言葉。この言葉につづいて「ただ暮しに役立つだけの下等な仕事に沈みはてるな――正義(justice) ・愛(love)・自由(freedom)・知識(knowledge)・公益(utility)のために働け」とある。([59][68][128]参照) 2021.11.18
〔59〕 The three practical rules, then, which I have to offer, are,― 1. Never read any book that is not a year old. 2. Never read any but the famous books.
3. Never read any but what you like.
《訳》 それでは、私が人に勧めることにしている三つの実用的なやり方とは: 1. 刊行後一年未満の本は読むな。 2. 名声の確立した本以外は読むな。
3. 自分の好みの本以外は読むな。
[48]のベーコンの読書についての忠告とともに実に味わうべき至言である。([32][68][128]参照) 2008.06.23
〔128〕
If a man write a better book, preach a better sermon, or make a better mousetrap than his neighbor, though he build
his house in the woods, the world will make a beaten path to his door.
《訳》 もしも人が隣人よりすぐれた本を著すとか、立派な説教をするとか、上等なネズミ捕りをこしらえるとかすれば、たとえ森の奥に住んでいようとも、世間の人々はその戸口へ大勢集まって来るだろう。
精神的な仕事だろうが小道具などを作る仕事だろうが、普通より仕事をすれば、どんなところに住んでいようとも、世間の人が つぎつぎと訪れて来て、そのは繁盛する、との教訓である。 大思想家エマソンの講演の一部。筆記しおいた人があって有名になった。 preach a better sermon 「より優れた説教をする」は牧師などになること、make a mousetrap「ネズミ捕りを作る」は簡単な手仕事の代表としてネズミ捕りを出しただけ。ンネズミ捕りとは平凡な日用品の一例のつもりだろうが、今から思うと妙な品を持ち出したものだが、エマソンの時代のアメリカでは必需品だっただろう。ここで使われたおかげで今でもよく用いられる。例えばアガサ・クリスティの劇The Mousetrap は1952年以来、超ロングランを続けた。 エマソンは The shoemaker makes a good shoe because he makes nothing else.(靴屋が良い靴を作るのは他に何も作らないからだ)と、職人気質の一徹さが優れた作品を生み出すと評してもいる。[32][59][68]参照) 2021.11.18 |
ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー(英: Henry Wadsworth Longfellow)は、アメリカ合衆国の詩人である。代表作に『ポール・リビアの騎行』(Paul Revere's Ride)、『人生讃歌』(A Psalm of Life)、『ハイアワサの歌』(The Song of Hiawatha)、『エヴァンジェリン』(Evangeline)などがあり、ダンテ・アリギエーリの『神曲』をアメリカで初めて翻訳した人物でもある。『炉辺の詩人』5人組の1人として知られる。メイン州ポートランドで生まれ育つ。ブランズウィックのボウディン大学で学び、幾度かの海外滞在を経た後、後半生の45年間はマサチューセッツ州ケンブリッジで過ごした。
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.35
Footprints on the sands of time.
《訳》 時の砂漠に残る足跡。
有名な詩[人生賛歌]('A Psalm of Life')の一節である。この前に[すべて偉人の生涯を教えてくれる――われわれも気高い一生を送って、世を去るときは、残していくことができる……]とあって、[時の砂漠に残る足跡]とつづく。生きているうちに何か後世に残る仕事をしておこう、という教えである。the sands of time は、過去から未来へと続く時間を、果てしない砂漠にたとえたものである。 アメリカの詩人ロングフェロー(1808~82)はこうした健全な人生哲学を歌った数多くの詩を残している。 芥川龍之介の作品『毛利先生』に、ロングフェローのこの人生賛歌の引用がある。老教師が英語教科書中の一節 'Life is real, life is earnest!' に悪戦苦闘しながら、生徒たちに真顔で[人生は本物なり、人生は真剣なり]と説くが、所詮は馬耳東風に帰す。 ※参考:芥川龍之介著『毛利先生』は青空文庫に記載されている。 2021.12.08 |
エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)(1,809~1,849年)は、アメリカ合衆国の小説家、詩人、評論家。
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.188
Of puns it has been said (/) that those most dislike (/) who are least able to utter them.
《訳》 駄洒落について言われてきていることが、全然言えない言えない人が一番嫌がるものだ。
/)のところでポーズを置き、(●)のついた母音を強く読んでみると、実にリズミカルな文章になっていることに気付くだろう。仮に散文調に、書き換えれば次のようになるが、精気の失せたものになってしまう。It has been said of puns that those are least able to utter them dislike them most. ユーモアを解するゆとりのない堅物への強烈な皮肉だが、この発言そのものがそうした堅物にもユーモアのセンスを差し伸べる寛容が感じられる。 ポー(1809~49)はアメリカの詩人、短編作家。その死因は長いことアルコール中毒症とされていたが、最近の研究では、恐水病(hydrophobia)と判明したそうだ。飼い猫に噛まれたためらしい。この事実は彼の名誉回復につながるだろう。 ※参考図書:The Black Cat……(Edgar Allan Poe) 2021.12.06 |
これほど多くの証拠があっては、人類と他の動物とが共通のものから進化したものであることを、どうしても認めざるをえない。この断定に異義をとなえるものは、もっぱら私たちの生来の偏見と、また私たちの先祖が神に近いものから出たととなえた慢心のためである。けれども、人類と他の哺乳類との体制や発育を熟知する博物学者でありながら、なお、それらがおのおの別々に創造されたと信じたのは、実にふしぎなことだ、と考えられる時代が来るのも遠くはなかろう。(人類の由来) 4月19日死んだイギリスの博物学者。実証的に進化論を唱え、宗教家の反対にもかかわらず、以後の思想界に決邸的影響を与えた。 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.65
一、最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるでもない。唯一生き残るのは、変化できる者である。 |
フレデリック・フランソワ・ショパン(フランス語: Frédéric François Chopin 、ポーランド語:Fryderyk Franciszek Chopin(フルィデールィク・フランチーシェク・ショペーン) 、生年未詳(1810年3月1日または2月22日、1809年説もあり)~ 1849年10月17日)は、ポーランド出身の、前期ロマン派音楽を代表する作曲家。当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家として有名だった。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、ピアノの詩人とも呼ばれるように、様々な形式・美しい旋律・半音階的和声法などによってピアノの表現様式を拡大し、ピアノ音楽の新しい地平を切り開いた。夜想曲やワルツなど、今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽ファン以外にもよく知られており、ピアノの演奏会において取り上げられることが多い作曲家の一人である。また、強いポーランドへの愛国心からフランスの作曲家としての側面が強調されることは少ないが、父の出身地で主要な活躍地だった同国の音楽史に占める重要性も無視できない。 1988年からポーランドで発行されていた5000ズウォティ紙幣に肖像が使用されていた。また、2010年にもショパンの肖像を使用した20ズウォティの記念紙幣が発行されている。2001年、ポーランド最大の空港[オケンチェ空港(Port lotniczy Warszawa-Okęcie)][ワルシャワ・ショパン空港]に改名された。
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.130 〔123〕
I don't want anyone to admire may pants in a museum.
《訳》 博物館の中でパンツを誉めそやされるなんてご免こうむる。
ショパン(Chopin,1810~49)はポーランド生まれのロマン派作曲家、ピアニスト。「ピアノの詩人」と言われるほどの豊かな表現力を持ちあわせた。自分の死後博物館が出来て、胸像やら、所持品やら、およそ芸術に関係のない物までがちやほやされるのはご免こうむる。芸術家の評価はその作品次第だというのだ。 2021.11.28 |
ロベルト・アレクサンダー・シューマンは、ドイツ・ロマン派を代表する作曲家。 ベートーヴェンやシューベルトの音楽のロマン的後継者として位置づけられ、交響曲から合唱曲まで幅広い分野で作品を残した。とくにピアノ曲と歌曲において評価が高い。
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.127
There are two very difficult things in the world. One is to make a name for oneself and other is to keep it.
《訳》 この世には実に困難なことが二つある。一つは名声をあげること、あとの一つはそれを維持すること。
シューマン(1810~56)はドイツの作曲家。ピアニストとして立つつもりのところ、指に負傷したため中途から作曲家に転向した。また晩年には神経症が高じて自殺を計ったりした。そんな事情がこの言葉に反映しているかもしれない。
2021.11.28
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他人を感動させようとするなら、まず自分が感動せねばならない。そうでなければ、いかに巧みな作品でも、決して生命はない。 芸術はなぐさみの遊びではない。それは戦いであり、ものをかみつぶす歯車の機械である。 美は表現だ。もし自分が母というものを描く場合なら、母が子供をじっと見ているところをとらえて、どうかして美しく、単純に描こうとするだろう。 (カートライト著『ミレー芸術史』)) 10月4日生まれた。バルビゾン派と呼ばれる自然主義画家。みずから農業に従事しながら、農民生活や農民を描いた。『晩鐘』『落穂拾い』など。 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)昭和31年12月10日 第1刷発行 P.165 2010.06.18
ジャン=フランソワ・ミレー Jean-Francois Millet (1,814~1,875年) フランスの農民画家。英仏海峡に面したノルマンジー地方の信仰心あつい中農の家に生まれた。郷里とパリで肖像画や歴史画を試みた後バルビゾンに永住し、働く農民の姿を宗教的な気高い表現で描きだすことに成功した。代表作に『種をまく人』『落ち穂拾い』『晩鐘』などがある。 パリから六十キロあまり南に下って、広大なフォンテンブローの森を抜けたところに、バルビゾンの村の家並みがある。古い、小さな集落である。石畳の通りを十二、三分も歩くと家並みは途切れてシャイイ平原のの麦畑に出てしまう。 通りの半ばに、ミレーが住んでいた家が記念館として残されていた。頑丈そうな石造りの農家で、扉を押すと、入口の北向きの部屋が『種をまく人』を描いたという画室になっている。実際に当時のものなのかどうか、黒ずんだ画架が窓の前に置かれてあった。 一八四九年、ミレーはパリ暮らしを嫌って一家でこの寒村に移ってくる。真っ先に取りかかった大作が『種をまく人』であった。秋の夕暮れ時、力いっぱい、たたきつけるように大地に種をまき散らしていく農夫の雄々しい足どり。農民画家としてのミレーの出世作が生まるのだが、そのような評価が定まるのは十数年も後のことだ。三十五歳のミレーは貧窮のドン底にいた。 一八五〇年の秋、官展(サロン)に出品するために『種をまく人』はバルビゾンの画室からパリへ馬車で運ばれていく。あるいはミレー自身がこの絵を抱えてパリの展覧会場まで届けに行ったかもしれない。 一八五〇年にバルビゾンを旅だってから百三十四年が経過した。この絵の今日の所有者が甲府市の山梨県立美術館であることは広く知られている。 ボストン もう一枚の『種をまく人』 色調の明暗とか人物の輪郭の鮮明度に、かなりの違いがあるのを見分けることができた。しかし、なるほど二枚の絵は双子の兄弟でも見るようによく似ている。そしてもう一つミレーが一八五〇年のパリの官展に出品したのは「どちらの『種をまく人』であったのか」という疑問が出ていることを、私はボストンで知った。 これまでは「山梨県所蔵作品のほうが官展出品作だ」というのが研究者の間の定説になっていた。 ところが、ボストン美術館のミレー担当学芸員の新しい研究によると、従来の定説の根拠は怪しい。両作品の過去何回かの修復経過、人物の体形や服装の細部の違い、その他の状況証拠を並べて「本当はボストン作品こそ官展出品作だったのではないか」と説くのだ。研究者たちの詳しい探求が続いているのだった。 ※『種まく人』のレリーフ:創業者岩波茂雄はミレーの種まきの絵をかりて岩波書店のマークとしました.茂雄は長野県諏訪の篤農家の出身で、「労働は神聖である」との考えを強く持ち、晴耕雨読の田園生活を好み、詩人ワーズワースの「低く暮し、高く思う」を社の精神としたいとの理念から選びました。マークは高村光太郎(詩人・彫刻家)によるメダル(左写真)をもとにしたエッチング。
『世界 名画の旅 1』(朝日新聞日曜版)1985年11月30日 第2刷
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イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(ロシア語: Ивáн Серге́евич Турге́нев) ラテン文字転写: Ivan Sergeevich Turgenev(1,818~1,883年)は、フョードル・ドストエフスキー、レフ・トルストイと並んで、19世紀ロシア文学を代表する文豪である。ロシア帝国の貴族。なお名前の表記は[ツルゲーネフ]の他、ロシア語の発音に近い[トゥルゲーネフ]という表記も用いられる。 幸せでありたいというのか。まず苦悩することを覚えよ。 *多くの名言があります。また『猟人日記』などの小説あり。 2011.01.27
ルージンの不幸は、あの男がロシアを知らない点にあるんです。そしてこれは、実際、大きな不幸です。ロシアそのものは私たち個人がいなかたって立派にやってゆけますが、私たちのうち誰ひとりだってロシアなしにはすませませんからね。ロシアなしでゆけると思っている人間は、ばいもばいも悲惨です! 世界同胞主義(コスモポリタンニズム)なんて――下らぬたわごとだし、コスモポリタンなどという奴は――ゼロに等しい、いやゼロ以下だ。民族性をぬきにしては芸術も、生活も、何にもありゃしませんよ。
(ルージン)
この日(9月3日)この日住みなれたパリ郊外で客死。西欧思想の影響をうけ、専制と戦った。ニヒリスト、[余計者]のタイプを描く。『父と子』など。 *桑原武夫編『一 日 一 言』―人類の知恵―(岩波新書)P.147 2021.12.15 記す。 |
フリードリヒ・エンゲルスは、 プロイセン王国の社会思想家、政治思想家、ジャーナリスト、実業家、軍事評論家、革命家、国際的な労働運動の指導者。 盟友であるカール・マルクスと協力して科学的社会主義の世界観を構築し、労働者階級の歴史的使命を明らかにした。マルクスを公私にわたり支え、世界の労働運動、革命運動、共産主義運動の発展に指導的な役割を果たした。
いまでは、女の家内労働は、男の生計獲得のための労働のまえに影うすいものとなった。後者がすべてで、前者はつまらないお添えものである。女が社会的生産労働からしめだされて、家内の私的労働に限定されたままであるかぎりは、女の解放、男女の平等の地位は不可能事であるし、またいつまでも不可能事であろう。女の解放は、女が大きな社会的規模で生産に参加することができて、家内労働がもうほんのわずかしか女をわずらわさないようになるときに、はじめて可能となる。
8月5日亡命地のロンドンに死す。マルクスの友として科学的社会主義の確立に協力、多くの著作がある。主著『反デューㇼング論』 *桑原武夫編『一 日 一 言』一人類の知恵一(岩波新書) P.130 2021.12.25 |
詩の天職こそ偉大である! 陽気なものにせよ、悲しげなものにせよ、つねに詩は自らのうちに、理想を追う神のごとき性格をもっている。詩は事実に異をたてることを止めない。さもなくば亡びるの他はないのだ。牢獄で、詩は暴動となる。病院の窓辺で、詩は平癒の燃ゆる希望だ。いたんだ不潔な屋根裏の部屋で、詩は仙女のように、豪奢に優雅に身をかざる。詩はたんに確認するだけではない、たてなおすのだ。どこでも詩は不正の否定となる。 (『ビェ*ル・デニポン詩歌集』への序) この日死んだフランスの詩人。『悪の花』一巻によって近代詩の開祖となった。象徴主義の先駆者。評論にも独特のするどさを示した。 *桑原武夫編『一 日 一 言』一人類の知恵一(岩波新書) P.144 2010.08.31 |
習 慣 一八五〇年(二十九歳) 生きてゆくためには、習慣は格言以上の働きをするものである。習慣は本能となり肉となって生きた格言であるからだ。自分の格言を改めるだけでは何にもならない。それは本の表題を変えるようなものだ。新しい習慣をつけるとういうことがすべてである。なぜならばそれではじめてほんとうの生活へと到達することになるからだ。人生は習慣の織物にほかならない。 以上は、アミエル「人生について」――日記抄―― 土井寛之 訳(白水社)P.61
参考1:安岡正篤さんは次のように説明されている。伊藤 肇『帝王学ノート』(PHP文庫)P.211
参考:「インタネット」アンリ・F・アミエル原著、土井寛之訳 白水社(1997年)新装復刊したもので、もとは1964年に出版されている。 この本の名前は伊藤肇の本で知ったが、もとは安岡正篤がその著書「百朝集」などで紹介してからだ。アミエルは1880年代後半スイス大学の哲学の教授をつとめた。死後フランスの批評家エドモン・シェレル の序を付した日記抄が出版されて一躍その名は有名になった。トルストイはロシア語訳の本の序文で彼を賞賛した。 アミエルは内省的な人でこの日記を貫くものは人生の苦悩や反省失望などで埋められている。正直読んでいて疲れる。文学者や哲学者はこの日記に記された彼の思索の深さに感銘を覚えるかもしれないが、私のようなふつうの人間には重い。ギッシングの「ヘンリー・ライクロフトの私記」よりも重い。そういう意味で、この本が一般的にポピュラーになるかというとかなり疑問である。しかし次のフレーズ一つで彼の名前は後世に残るであろう。 ”人生は習慣の織物にほかならない” この一節の訳は、訳者土井のものより、安岡正篤の訳(意訳)の方が正しく真意を伝えるように思われる。 ”人生の行為において習慣は主義以上の価値を持っている。 なんとなれば習慣は生きた主義であり、肉体となり本能となった 主義だから。誰のでも主義を改造するのは何でもないことである。 それは書名を変えるほどの事にすぎぬ。新しい習慣を学ぶことが万事である。それは生活の核心に到達するゆえんである。 人生とは習慣の織物にほかならない” ”運命とは性格なり。性格とは心理なり”とは、芥川龍之介のことばだがこの他にもアメリカの心理学者マズローの言に”人間の哲学が変わるとき、あらゆるものが変わる”というのがある。これらをうまく綜合して安岡は云う。 「心が変われば態度が変わる 態度が変われば習慣がが変わる 習慣が変われば人格が変わる 人格が変われば人生が変わる」 忘れることのできない一文である。 余談であるが、この「日記抄」の後半に、「幸福について」という一節がある。ここのエッセイを読むと、悲観的・内省的な話を読んだあとで、ほっとするのである。 ”快い、涼しい、澄んだ天気。朝のうちの長い散歩。さんざしと野ばらに花がついているのを見つけた。野原の、ばくぜんとした健康な香気。まぶしいような靄の線によって縁取られているヴォワロンの山々、ビロードのような美しいい色調のサレーヴ山。野良で人々が働いている。二匹の可愛いろば。その一匹は、ひろはへびのぼらずの生垣をがつがつと食べていた。三人の小さな子どもたち。子どもたちに接吻してやりたくてたまらなかった。のどかな時間、野原ののどけさ、晴れた天気、気楽な気持ちを味わう。ふたりの妹も一緒にやってくる。香りの良い牧場と花の咲いている果樹園に目をやすめるる。草木の上に生命の歌が聞こえる。こんなにも穏やかな幸福の中にいるのは、幸福すぎることではないのか?それだけの値打ちが自分にあるのだろうか? いや、天の好意をとがめずに、この幸福を楽しもう。感謝の心を持って、それを楽しもう。不幸な日々はすぐにやって来るし、しかもその数は多いのだ。私には幸福の予感はない。だからいっそう現在を役にたてよう。愛する自然よ、やって来い。ほほえんでくれ。そして私の心をうっとりさせてくれ。しばらくの間でも私の悲しみとほ かの人の悲しみを包み隠してくれ、おまえの着ている女王のマントのひだだけが見えるようにしてくれ。そしてさまざな華麗なものの下にみじめなものを隠してくれ。” (「自然の中の幸福感」P.117より)
「習慣は第二の天性」 19世紀スイスの哲学者アンリ・フレデリク・アシエルの箴言に、次のようなものがあります。 心が変われば態度が変わる 態度が変われば行動が変わる 行動が変われば習慣が変わる 習慣が変われば人格が変わる 人格が変われば運命が変わる 運命が変われば人生が変わる これの前後を逆にして言うならば、「人生(運命)を変えたければ、人格を変えなさい。人格を変えたければ習慣を変えなさい。習慣を変えたければ、態度を変えなさい。態度を変えたければ心(思い)を変えなさい!」となります。 ところで、親の子に対する贈り物の中で、最良最大のものは一体何でしょうか? 財産でしょうか? 学歴でしょうか? 地位や名誉でしょうか? 私は、子供に「良き習慣を身に付けさせること」ではないかと思います。 「習慣は第二の天性」と云われておりますが、良き人生は良き習慣に宿り、 悪しき人生は悪しき習慣に宿っているようです。習慣には、行為の習慣や言葉の習慣だけではなく、思いの習慣(ものごとの捉え方や考え方の習慣)もありますから、大変です。 子供の幸せを願わぬ親など一人もいないと思いますが、通常は親の方が子供よりも先に亡くなりますから、子供の一生の面倒を親が、見ると言う訳には参りません。子供は子供自らの力で、良き人生を切り拓いて行ってもらう他はありません。良き人生も悪しき人生も、総ては習慣の善し悪しで決まると思います。 心も頭も体も柔らかい小学生のうちから、良き習慣を身に付けさせたいものですね。大人になってから直すのは、大変に骨が折れます。良き習慣を身に付けさせる「躾」を、きちんと躾ることが、親の子に対する一大使命だと思います。 小学生のうちにきちんと躾ておくべきものとしては、 一、時間を守る習慣を身に付けさせる。 二、整理整頓の習慣を身に付けさせる。 三、ちゃんと挨拶できる習慣を身に付けさせる。 の三つでしょう。 1.朝起きたら家族全員で「オハヨー!」の挨拶。 2.決められた時間の5分前にスタンバイ完了。 3.履物を脱いだらきちんと揃える。 4.呼ばれたら「ハイ!」と素直な返事。 5.好意に対して「ありがとう!」の感謝の言葉。 まず親からの実践が、臨まれます。子は親の後ろ姿を見て育ちます。 2017.09.17追加 参考2:アミエル 2012.1.22
老衰
年老いてゆくということは、死ぬことよりもむずかしい。あるものを一時にそっくりあきらめてしまうことは、毎日こまかく犠牲をつづんけてゆくほどつらくはない、という理由からである。自分の衰えてゆくのを忍び、自分が弱くなってゆくのを受け入れることは、死に立ちむかうよりもつらく、まれな美徳である。悲劇的な夭折の場合には、はなやかな後光がさしている。だんだんと老衰してゆく場合には、長い悲哀があるばかりだ。しかしもっとよくその姿をながめてみよう。そうすれば、悟りきった宗教的な老年は、若い時代の英雄的な熱情よりも、もっと人を感動させるように思える。魂の成熟は、はなばなしい能力やあふれ出る力よりも価値がある。われわの中の永遠なるものは、時間によって与えられるあらゆるそん害を利用してゆかなければならない。P.58~53より。
哲学とは何か?
哲学とは、精神の完全な自由である。したがって、宗教的、政治的ないしは社会的なあらゆる偏見から独立することである。哲学はその出発点においては、キリスト教でも異教的でもなく、君主的でも民主的でもなく、社会主義的でも個人主義的でもない。哲学は批判的であり公平である。哲学は一つのことしか愛していない。それは真理である。それが教会や、国家や、その哲学者が生まれた歴史的環境についての既成の見解を乱すとしてもしかたのないことだ。《ものごとはあるがままにある。さもなければない》のだ。 哲学は、まず第一に疑いである。次に、知識を得ようとする意識であり、不確実と無知の意識であり、限界、ニュアンス、程度、可能性の意識である。――俗人は何ごとも疑わないし、何ごとも感づかない。哲学者は俗人よりも慎重である。いや、彼は行動には適していないとさえ言える。なぜならば、目的を見定める点では他の者にひけをとらないが、自分の無力なことをあまりによく測りすぎて、自分の幸運な機会をねらって心を迷わすようなことがないからである。 哲学者は、世界中が酔っている中で、ひとりだけさめている人である。彼は、人間たちがひとりよがりでおもちゃにしている迷いの気持ちに気がついている。自分自身の本性について、他の者ほどだまされることはない。彼は事物の本質を他の者よりも健全に判断する。ここに哲学者の自由があるのだ。すなわち明瞭に見ること、酔いからさめていること、自分を知っていることがそれである。哲学は批判的な明晰をその基礎としている。その頂点は、普遍的法則と第一原理と宇宙の終極的目的との直観であると思う。迷わないということが、その第一の欲求であり、理解するということは第二である。誤謬からの解放は、現実を認識する条件である。哲学者は、自分の経験の総体を理解するために、妥当であるような仮設を求める懐疑家である。その鍵を見いだしたものとして彼はそれを他に人びとに提供しはするが、強制はしない。P.140~141 2017.09.02 |
☆88ハインリッヒ・シュリーマンドイツの考古学者、実業家(1,822~1,890年)
小林 司『出会いについて 精神科医のノートから』P.28~P.30より引用、紹介します トロヤ文明、ミケーネ文明という二大文明を発見した考古学者ハインリッヒ・シュリーマン(一八二二~九〇)は、八歳のときに、ゲオルグ・ルドウィヒ・イエッラー博士が書いた『子供のための世界歴史』という本を、父親から、一八二九年のクリスマスにもらった。 その書物には、燃えあがっているトロイのさし絵があり、そこには巨大な城壁やスカイヤ門がたつていて、父のアンキセスを背負い、幼いアスカニアの手を引いて逃げていくエーネスが描かれていた。 このさし絵を見て、シュリーマンは大喜びで「おとうさん、あなたは間違っていたよ。イエッラーはきつとトロヤを見たことがあるんだ。でなければ博士がここを書けなかったでしょう」と叫んだのであつた。父親は「いや、そんなことはないさ、これはただの空想で書いたんだよ」と答えたのだが、シュリーマンは、「それなら、古代トロヤには実際にこの絵に書かれているような堅固な城壁があったのでしょうか」と聞くと、父親は「そうだ」と答えた。 そこで「お父さん、もしその城壁が建つていることがあるなら、それがあとかたもなくなるなんてことはないから数百年間の石ころやチリの下に隠れて埋まっているかもしれないでしょう」と主張した。父親はもちろん、「そんなことはないさ」と言ったのだが、シュリーマンが自分の考えを堅く主張してゆずらないので、「そのうちにはいつかトロヤを発掘しよう」ということでその場はおさまった。 この時から四十二年後の一八七一年十月十二日、シュリーマンは、ヒッサリックの丘でトロヤの発掘をはじめ、そして古代文明を発掘することになった。もしも、父が八歳の子どもに『子供のための世界歴史』をくれなかったら、こんなことは実現しなかったかもしれない。 これは、シュリーマンと本との出会いであるけれども、よく考えてみると、シュリーマンは本に突然出会ったから古代の発掘を決めたのではなくて、それまでもすでに古代史に対しては熱情的な興味を持つていた父親から、しばしば、古代ローマの小都市ヘラクラネウムやポンペイの悲劇的な滅亡を聞かされていた。そこで行われた発掘を見物するのに十分な時間とお金を持つ人こそは、もっとも幸福な人間であると思っていたらしい。 この父親は、また、しばしば、シュリーマンに、ホメロスの英雄の働きや、トロヤ戦役の出来事を讃えながら物語ったが、「トロイは完全に破壊されて、あとかたもなく地上から消え失せた」と父親に聞かされて、いつも悲しい思いをしていたのであった。そうした下地があったからこそ、この本に出会ったとき、シュリーマンの一生を決定するような気持ちがわいてきたのに違いない。 この場合の本との「出会い」は、いわばガソリンのある所でマッチをすつたような「火つけ役」をしたのものとかんがえられよう。
※参考1:「ゲオルグ・ルドウィヒ・イエッラー博士」はインタネットで検索しても見つかりません。小林司先生が読まれた原本はいまや知ることができません。 ※参考2:岩波文庫からも出版されています。以前、これを読みまして感動した記憶だけは残っています。 ※参考3:トロイの遺跡の場所です。想像の翼を広げてみてください。 ※参考4:トロイの遺跡発掘のシュリーマンは江戸時代の日本に来ていた。 1871年にトロイアの遺跡を発掘したことで知られるシュリーマン。『古代への情熱』だけではなく日本好き。世界周遊の旅の中で江戸時代の日本にやってきていたのだ。江戸時代に訪れた場所は、横浜、八王子、浅草、愛宕山など、外国人への襲撃が繰り返される中での訪問だった。『シュリーマン旅行記 清国・日本』より
※余録 江戸川柳「かやば町手本読み読み舟にのり」と… 毎日新聞2019年12月6日 東京朝刊 江戸川柳に「かやば町手本読み読み舟にのり」とある。江戸・茅場町の寺子屋に渡し舟で通う子どもの様子で、読んでいた手本とは「往来物(おうらいもの)」と呼ばれた教科書だ。進学のない時代にずいぶんと勉強熱心である ▲「教育は欧州の文明国以上に行き渡っている。アジアの他の国では女たちが完全な無知の中に放置されているのに対し、日本では男も女もみな読み書きできる」。これはトロイアを発見した考古学者、シュリーマンの日本観察である ▲「みな読み書き」は言い過ぎにせよ、幕末や明治に来日した外国人はその故国と比べて日本の庶民、とくに女性が本を読む姿に本当に驚いている。歴史的には折り紙つきの日本人の「読む力」だが、その急落を伝える試験結果である ▲79カ国・地域の15歳を対象に3年ごとに行われる国際的な学習到達度調査(PISA)で、昨年の読解力の成績が前回の8位から15位へと低下した。科学や数学の応用力の成績が上位に踏みとどまった中での際だった学力後退という ▲「テスト結果に一喜一憂(いっきいちゆう)するな」と言いたいところだが、この成績低下、思い当たるふしがあるのがつらい。何しろ本を読まない、スマホに没頭(ぼっとう)する、長文を読んで考える習慣がない……止まらない活字離れを指摘する専門家が多い ▲以前はゆとり教育からの路線転換をもたらしたPISAのデータだが、読解力はV字回復の後に再び低落した。川柳子や幕末の外国人を驚かせたご先祖たちに教えてもらいたくなる「楽しく読む力」である。 2012.04.17、2014.09.19、2019.12.6追加 |
今日、相反する二つの法則が争っているように思われる。第一は、毎日あらそいのための新しい手段を考えながら、人民にたえず戦場に出る覚悟を抱かしめるところの血と死との法則であり、第二は、襲いかかる災禍から人類を救うことのみを考えるところの、平和・労働・救いの法則である。……後者は、人生をしてあらゆる勝利よりも高からしめ、前者は、一人の人間のいやしい望みによって何万という人間の命をいけにえにする。……この二つの法則のどちらが勝つだろうか。フランス科学は、人間の命が危くなった時、これを救うために努力するであろう。(演説集) フランスの科学者。狂犬病ワクチンの発見、製造によって、免疫学の先駆者となった。自然発生説を実験的に打破した。 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.214 2010.06.01 |
ジャン=アンリ・カジミール・ファーブル(フランス語: Jean-Henri Casimir Fabre)は、フランスの博物学者であり、また教科書作家、学校教師、詩人としても業績を遺した。昆虫の行動研究の先駆者であり、研究成果をまとめた『昆虫記』で有名である。同時に作曲活動をし、プロヴァンス語文芸復興の詩人としても知られる。 大臣はいいはった。「……君は、明日私と、学者の御拝謁で、陛下のところに行くのだ。」
彼の思う通りにことは運んだ。あくる朝、大臣といっしょに私は、短い半ズボン、銀環の靴をはいた式部官に案内されてチュイルリー宮殿の小室に通された。彼ら[廷臣たち]は奇妙な人物だった。あの装束と四角張った物腰、歩きつきは、鞘翅(しようし)の代りに背の中央に棒縞(ぼうしま)のある乳入りコーヒー色のフロックコートを着こんだ、タマコガネムシのように見えたのである。(昆虫記)
12月23日フランスのサン・レオンに生まれた。独学で教員免許をとり、昆虫の生態研究に没頭した。大著『昆虫記』は文学的にもすぐれている。 *桑原武夫編『一 日 一 言』―人類の知恵―(岩波新書)P.212 2020.08.28 |
トマス・ヘンリー・ハクスリー(英: Thomas Henry Huxley、1825~1895年)は、イギリスの生物学者。姓はハックスリー、ハクスレーと表記されることもある。「ダーウィンの番犬(ブルドッグ)」の異名で知られ、チャールズ・ダーウィンの進化論を弁護した。 リチャード・オーウェンとの論争においては、人間とゴリラの脳の解剖学的構造の類似を示して進化論を擁護した。 興味深いことにハクスリーは、ダーウィンのアイディアの多くに反対であった(たとえば漸進的な進化)。そして、自然選択よりも唯物論的科学を弁護することに興味を示した。 科学啓蒙家としての才能があった[可知論]の語を作って自らの信仰を表現した。 ハクスリーは[生物発生説(続生説ともいう、生物の細胞は他の生物の細胞からのみ発生する説)]と[自然発生説(無生物から生物が発生するという説)]の概念を作ったと信じられている。
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.182 〔173〕
If a little knowledge is dangerous, where is the man who has so much as to be out of dander ?
《訳》 少しばかりの知識が危険だと言っても、危険を逃れるほどたくさんの知識を持った人なんているんだろうか。
これは Alexander Pope(1688~1744)の『批評論』(Essay on Criticism, 1711)の中に出てくる A little learning is a dangerous thing.(生兵法は大けがのもと)という警句をもじった発言。 トマス・ハックスレー(1825~95)はオルダス・ハックスレーの祖父にあたる生物学者。ダ―ウインの進化論を支持、継承し、その普及に努めた。彼の発言 All truth, in the long run, is common sense clarified.(全ての真理は結局常識が浮き彫りにされたものだ)には、学問の神髄が圧縮されている。 2021.12.01 |
ウォルター・バジョット(Walter Bagehot)(1,826~1,877年) イギリスの経済学者、政治学者、ジャーナリスト。サマーセットのラングポートに銀行家の息子として生まれる。ロンドン大学のユニバーシティ・カレッジを卒業後、家業の銀行業に従事するかたわら、評論活動を行った。1855年『ナショナル・レビュー』を創刊、おもに文芸批評に携わったが、1858年『エコノミスト』の創設者であったジェームズ・ウィルソンの長女と結婚、2年後岳父の急死によって『エコノミスト』の経営者、続いて編集者となり、政治、経済、文化、歴史、人物評の幅広い分野にわたる、生き生きとした描写からなる評論活動を行った。イギリスの議会政治を克明に描いた『イギリスの国家構造』(1867)、政治心理学の草分けとされる『自然科学と政治学』(1872)は、政治思想史上の古典の地位を占め、またイングランド銀行の役割を論じた『ロンバード街』(1873)は、19世紀の金融史を論じるうえで不可欠の著作となっている。[千賀重義]『深瀬基寛訳『英国の国家構造』(1947・弘文堂/1967・清水弘文堂書房)』▽『大道安次郎訳『自然科学と政治学』(1948・岩崎書店)』▽『久保恵美子訳『ロンバード街』(2011・日経BP社)』
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.141
The great pleasure in life is doing what people say you cannot do.
《訳》 できるわけないだろうと人から言われることをやってのける、これこそ人生醍醐味だ。
バジョット(Bagehot,1826~77)はイギリスの経済学者、政治評論家、経済紙(Economist)の編集者、他人の中傷を発憤材料とし、孤軍奮闘して、功成って見返す――これほど痛快なことはまずないだろう、しかし、失敗して負け惜しみを言う人も中にはいるだろう。 2021.12.19 |
なるほどあなたは始終わたしを、それは可愛がって下さいました。でも、この家は遊戯室でしかありませんでした。わたしは実家でお父さんの人形っ子であったように、こちらへ来てはあなたの人形妻でした。そしてこんどは子供たちがわたしのお人形さんになりました。それで子供たちがわたしがお相手として遊んでやるとうれしがるように、あなたがわたしのお相手になって遊んで下さるのが、わたしはうれしかったのです。これがわたしたちの結婚というものでした。(『人形の家』のノラの言葉)5月23日死んだノールウェーの劇作家。近代劇の祖とよばれる。近代社会の欠陥と因襲を突く写実的な問題劇を発表した。『幽霊』『野鴨』『民衆の敵』 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.86 *青木雨彦監修『中年博物館』(大正海上火災保険株式会社)P.59
2020.05.030 |
私が「何をなすべきか」という問題にたいして、自分自身のために発見した答えは、こうである。 第一、自分自身に対してウソをつかぬこと、たとえ私のいまの生活の道が、理性の啓示する真の道から、いかほど遠くかけはなれていようとも、真理をおそれないこと。 第二、他人にたいする自己の正義・優越・特権を拒否し、自分を有罪と認めること。 第三、自己の全存在を働かすことによって、うたがう余地なき永遠不滅の人間のおきてを実行すること。いかなる労働をも恥じないで、自己ならびに他人の生命を維持するために、自然界と戦うこと。(われら何をなすべきか) 家出して、この日(11月7日)倒れたロシア最大の文学者。独創的な思想家。帝政ロシアの社会を鏡のように反映したレアリスト。『戦争と平和』など。 *桑原武夫編『一 日 一 言』―人類の知恵―(岩波新書) P.195 2010.11.07
トルストイ ピュルコフのトルストイ傳を讀めば、トルストイの「わが懺悔」や「わが宗教」の譃だつたことは明らかである。しかしこの譃を話しつづけたトルストイの心ほど傷ましいものはない。彼の譃は餘人の眞實よりもはるかに紅血を滴らしてゐる。 芥川龍之介『侏儒の言葉』(岩波文庫)昭和二十五年一月二十五日 第十五刷 P.116より |
ジャコブ・アブラハム・カミーユ・ピサロ(Jacob Abraham Camille Pissarro)(1,830~1,903年)は、19世紀フランスの印象派の画家。 ヤコブ・カミーユ・ピサロは当時デンマーク領だった西インド諸島のセント・トーマス島に生まれる。 父はスペイン系ユダヤ人で雑貨商を営んでいた。成人して家業を手伝っていたピサロはこの島にやって来たデンマーク人の画家フリッツ・メルビーと出会い絵画への関心を膨らませる。そして1855年両親の了解を得て画家になるべくパリへ向かった。 パリで当時の代表的画家ドラクロワやアングルの作品を目にするが、彼の心をとらえたのはコローやドービニーの風景画だった。 ピサロはパリ郊外で制作することが多かったが、パリ市内のアカデミー・スイスにも通うようになり、ここでモネヤ、セザンヌを知るようになる。 この頃のピサロは親の意向もあって、盛んにサロンへの応募を繰り返していた。しかし伝統にそぐわない絵画を描く画家たちはことごとく落選の憂き目に会うことになる。ピサロもその一人であった。 彼はシスレー、バジール、ルノワール、モネらとともに独自の展覧会の必要性について話し合った。 まもなく普仏戦争が始まり、展覧会の話も立ち消えとなり、フランス国籍を持たないピサロはロンドンに避難することとなる。 動乱が収まるとピサロはパリに戻った。その頃パリでは独自のグループ展の話が再燃。 ピサロは画家のための民主的な組織を作り上げ、グループ展のリーダー的存在となっていた。おおらかで謙虚な性格は人望を集めた。 セザンヌ、ドガ、ゴーギャン、スーラ、シャニックなどあまり人付き合いの良くない画家たちもピサロの尽力によって印象派展に参加するようになる。 八回開催された印象派展を裏から支えたのはピサロであり、全ての会に出品したのもピサロただ一人だった。 ピサロなしに印象派の成功はなかったであろう
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.124
Don't proceed according to rules and principles, but paint what you observe and feel. Paint generously and unhesitatingly, for it is best not to lose the first impression.
《訳》 規則や主張に従って仕事をするのでなく、自分が観察し感得することを描け。充分にためわらずに描け。第一印象を失わぬことが第一だからだ。
ピサロ(Pissarro, 1830~1903)はフランスの印象派の代表的な画家で、風景画の傑作を多く残した。第一印象そのままをキャンバスに再現するのが秘訣であるとは、やはり印象派の信条である。 2021.12.19 |
ノーベルは、スウェデンの化学者である。彼の父親は、爆薬製造業者だったから、彼は生まれたときから、火薬に縁が深かったわけである。彼は、ロシヤのペテルブルグ(現在のレニングラード)、スウェデンのストックホルム、フランスのパリと移り住んで火薬の研究をつづけ、ダイナマイト、無煙火薬を発明した。 彼は、自分の発明を企業化して大成功し、また特許料を受けて、莫大な財産を得た。しかし、彼は自分の発明した火薬が、戦争のような平和破壊に使われることを残念に思った。そこで彼は、自分の財産の大半、十五億円ほどを基金としてノーベル賞は彼の遺言に従って1901年から始まった世界的な賞である。 物理、化学、医学と生理学、文学、平和および経済学の「5分野+1分野」で顕著な功績を残した人物に贈られる。経済学賞だけはノーベルの遺言にはなく、スウェーデン国立銀行の設立300周年祝賀の一環としてノーベルの死後70年後にあたる1968年に設立された。
受賞時点で日本国籍のノーベル物理学賞受賞者 延べ人数:11
1、1949年 湯川秀樹(1907~81年) 京都帝国大学理学部卒、理学博士(大阪帝国大学)中間子の存在の予想。
受賞時日本国籍のノーベル化学賞受賞者の一覧 延べ人数:7
1、1981年 福井謙一 京都帝国大学工学部卒、工学博士(京都大学) 化学反応過程の理論的研究。
受賞時日本国籍のノーベル生理学・医学賞受賞者の一覧 延べ人数:5
1、1987年 利根川進(1939年~) 京都大学理学部卒、カリフォルニア大学サンディエゴ校博士課程修了 (Ph.D.) 多様な抗体を生成する遺伝的原理の解明。
受賞時日本国籍のノーベル文学賞受賞者の一覧 延べ人数:2
1、1968年 川端康成(1899~1972年) 東京帝国大学文学部国文科卒、文学士(東京帝国大学)『伊豆の踊子』『雪国』など、日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による叙述の卓越さに対して。
受賞時日本国籍のノーベル平和賞受賞者の一覧 延べ人数:1 1、1974年 佐藤栄作(1901~75年) 総計27人受賞 参考:国別のノーベル賞受賞者 |
☆97カール・ヒルティヒルティ(スイス哲学者)(1,833~1,905年)
▼『幸福論第一部』(岩波文庫)
習慣的な勤勉を身につけるのを容易にするちょっとしたこつがある。P.24
また他の人たちは、特別な感興のわくのをまつが、しかし感興は、仕事に伴って、またその最中に、最もわきやすいものだ。仕事は、それをやっているうちに、まえもって考えたのとは違ったものになってくるのが普通であり、また休息している時には、働いている最中のように充実した、ときにはまったく種類の違った着想を得るということはない。これは(少なくとも著者にとっては)一つの経験的事実である。だから、大切なのは、事をのばせないこと、また、からだの調子や、気の向かないことなどをすぐに口実にしたりせず、毎日一定の適当な時間を仕事にささげることである。 『幸福論 第一部』P.81 (一) きみは模範とするに足る人物を心にえがいて、私的生活においても、これに倣って生活するように心掛けよ。 (二) 多くの場合は沈黙をまもれ。あるいはただ必要なことのみを話せ、それもなるべく言葉すくなにせよ。 *良寛の戒語にも在るのでは。……I didn’t say a single word all the way back home. ※関連:黙養 詩人の佐藤春夫氏が文化勲章をもらった時、「きょうのこの受賞のモトは二つある。一つは私の身体に流れている血だ。佐藤家は、藩医の家柄で、祖父以来、代々、書物に親しんできた。その血が私の中に流れていて、それがあらわれた。もう一つは生田長江先生の教えの賜物である。先生はいっも私にこういわれた。 お前は怠け者だから、ボンヤリ暮らしたら何のなすことなく一生を終わるだろう。それではいけない。一日二時間は机に向かえ。 自分はその教えを守り、今日、この栄誉を得ることができた」 *参考資料:『現代ビジネス金言集』扇谷正造(PHP研究所)P.191~193 ※2010.08.17:再読・2013.01.27
▼『眠られぬ夜のために 第一部』(岩波文庫) 健康法のうち最もよい、最も簡単なものは、神の命令に従って生活することである。P.18 一月十日 P.39 「沈黙で失敗する者はない。」このいささか風変わりな言葉は、さまざまな社会的地位にあって、成功を収め人に抜きんでた私の親友の一人が、いつも口にしていた文句である……。実際、きわめて多くの面倒で不愉快な人生のいざこざも、しばしばこのやり方で、たやすく切り抜けることができる。これに反して、多くの人が愛好する、いわゆる「自分の意見発表」は、たいてい、ただ双方の意見のくいちがいを一層きわだたせるだけで、時には事態を収拾のつかないものにしてしまうことがある。 二月十二日 P.73 この世で最もあわれなのは、老年になって、その半ばもしくは全部がいたずらに過ごされてしまった己の過去をふり返って、それをもっと立派に送ることができたのに、と思う時である。これが、今日、教養ある階級のなかにも見られる、無数の人びとの運命である。これをあなた自身の運命にしないように。 二月十四日 P.75 人間は他人の嘘にはたやすく気づくものであって、ただその嘘が自分におもねるときか、あるいはちょうど都合のよいときだけ、それを信じるのである。 三月四日 P.90 われわれは完全に健康でなければ、立派な仕事は出来ない。だからなによりもまず、健康でなければならぬ、という見解を信じ込んではいかない。これは今日、多くの良い人びとの迷信となっている。ひと昔前には、ある種の病弱を天才のしるしと見なし、頑丈な健康をかえって「凡庸」のせいだと考えたが、現代では、逆に肉体のことをあまりにも気にしすぎる。 三月十七日 P.102 自分でものを考え、自分の意見をもつ人がもっと数多くいさえすれば、世の中はかぎりなく良くなるであろう。たとえこのような人が反対者になっても、彼らの意見の誤りを紊得させることができるので、その考えを改めさせられるもする。ただひとのまねをしているだけの者は、てんで自分でものを考えようとしないから、説き伏せることもできない。 このことを少しちがった言葉でロックは次のように言っている。「世の中に間違った意見というものは、一般に考えられているほど多くはない。というのは、たいていの人は意見などまるでもたないで、他人の意見か、ただ噂や世評などの受売りで満足しているからだ。」あなたはそんな仲間に加わってはならない。 六月十九日 P.184 人間の共同生活を非常に楽にする気持ちのよい性質は、できるかぎり他人の願いによろこんですぐ応じるような、ある種の親切な好意と気軽さである。 七月十六日 P.206 他の人びとが欲するままに任せておいてよいことが、世には限りなく多い。結局、それはどうでもよいことだからだ。そうすれば自他ともに生活が非常に楽になる。ところが世間には、他人の意見や提案には、いつも何かとケチをつける癖をしだいにつのらせる人たちがいる。その結果、通常、人びとはそういう人の意見に従わなくなり、やがてもう彼らの考えをたずねようともしなくなるだけだ。 八月十九日 P.234 「大きすぎる靴をはくな〉というのは、私の思いちがいでなければ、アラビアの諺である。これは、高い地位にあっても人生が失敗に帰することがよくあるということを説明するものだ。なぜなら、靴が大きすぎるとその人の足もとが不安定になり、それに気づいた人びとから信頼をしだいに失うからである。」 しかし、それと同様に、靴が小さすぎると足が窮屈で、絶えず痛みを感じさせるものもある。だからこれは取り替える必要がある。具合がよいのは、その人の地位がその成長と力量とにぴったり合っている時である。それは人間的な賢さによって達せられるものではなく、ただ神の導きについての固い信念によるものである。 十月二十九日 P.298 普通、われわれが自分を知っている以上に、人びとはわれわれをよくしっているものである。一般的にいえば、利益の打算に目がくらんでいなければ、すべての人はこの点で、普通に考えられているよりもはるかに明敏に、正しく判断することができる。彼らはいつも言葉にしてほめはするが、非難を口に出すとは限らない。 新聞の攻撃の場合は、だれがその説をのべているかが、先ず第一の問題である。それを論じているいるのは、非個人的と考えられる「新聞」でもなければ、まして、すでに「世論」となったものでもない。むしろ、たいていの場合、特定の一人の人間にすぎず、彼の提出した見解は、まだこれから新聞の読者たちの承認を必要とするものである。 十二月一日 P.326 老年期の始まるころのある日、一度過去に決まりをつけなければならない。 十二月二十日 P.347 今日誤った道を歩いている人々の、少なくともかなりの部分は、決してその生来の傾向からその道にふみ入ったのではない。それ以外の道では今の世の中はとても渡れないという世間一般の考えにしたがっているに過ぎない。 『眠られぬ夜のために』(第一部)(岩波文庫) 解説より抜粋。 カール・ヒルティは1833年2月28日に、スイスのザンクト・ガルレン州の小市ヴュルヂンベルクで生まれた。父はヨハン・ウルリッヒ・ヒルティであって、教養の高い有名な医師で、おもに摂生的療法を用いたといわれている。最初はキュール市で開業していたが、のちにヴュルヂンベルク(ドイツ語: Württemberg)に移り、1858年4月、カールが25歳の時に世を去った。 母はエリーザベト・カーリアスといって、キュール市の旧家の出で、才能ゆたかな、極めて信心厚い賢夫人であった。「彼女の顔は透明な心の窓のように、そこから彼女のけだかい精神がやわらかに輝き出ていた。彼女の清らかな青い眼は、慈愛と平和とに光っていた」と、ある伝記者は語っている。 ヒルティの神秘的な傾向、高尚な勤勉、純粋な愛、困難に際しての不屈の精神、快活、質朴、ゆたかな詩才等、彼のすぐれた資質はすべてこの母からの遺伝または感化によると言われている。 ことに彼は幼年時代に母の感化をうけることが多く、最初の6年間が彼の生涯を決定づけたと自ら告白している。しかし不幸にして彼は14歳の時にこの母を失った。この悲しむベき出来事が、感じやすい少年のカールに深い印象と深刻な内的経験をあたえて、彼の性格の発展に強く影響したことは言うまでもない。彼はまた、母方の祖母からも少なからぬ感化をうけた。 この祖母の夫は、フランス軍の連隊付医であって、そのために彼女は、フランス革命からナポレオンの没落時代まで戦乱の世の辛酸をつぶさに味わってきた実際家的な、立派な人格者であった。と、ありました。 私見:非常に僅かしか取り上げていません。今後、適宜、追加したいと考えています。 2008.04.08 ▼『眠られぬ夜のために 第二部』(岩波文庫本) 一月一日 P.11 一度にあまりたくさん読みすぎないように。とくにこの本では、それはよくない。この本はすこしもそいうつもりで編まれていないのだから。毎日がそれぞれ別になっているので、それを読んだ日の晩に――もしあなたがこの本を朝か前の夜に開けてみたなら――あなたはその日の思想に賛成するか、それとも後日に取っておこうとするか、自分でそれがはっきり分かるにちがいない。だが、その思想をしりぞけてしまうことはめったにできないだろう、ただ偶然にあなたの手に入ったこの本を、すっかり閉じてしまおうと思わないかぎり。 一月十四日 P.18 もしあなたが完全に正しいものになりたいと思うなら、いわゆる「新聞に評判よく書かれること」を断念しなければなるまい。毎日の新聞が完全に善い事柄を称賛することはごくまれで、かえって人の目をひく、効果のあがりそうな善くない事をほめるのがほとんど常則である。実際、こういうものこそ新聞の特種なのだ。新聞がキリストの時代にすでに存在したとしても、きっとわれらの主その人もほめもせず、擁護もしなかったであろう。新聞からたびたび、しかも大いに誉めあげられるような人物を信用しないことは、最も確実な人間知の一部である。まして、宣伝によっておのずからその地歩を築きあげた人間は、絶対に排斥すべきである。彼の内には人間としてのいかなる善き基礎もありえないからだ。 一月二十二日 P.24 良い結婚は、おそらくこの世のあらゆる宝の中で最上のものであり、しかしなんといっても一番独特なものである。というのは、結婚は多分この地上生活でのみ行われるもので、その後はもはやこれと同じようになされることがないからである。 しかし、そういう良い結婚のためには、相互のまことの愛情のほかに、ぜひとも次の二つの事が必要である。第一には、双方がひとしく純潔で結婚生活に入らねばならぬこと。第二には、夫が家計の維持者で稼ぎ手でなければならないことである。ところが、他のことではいやにデリケートな名誉感をもっている身分の高い人たちが、それと反対のこと(妻の持参金による生活)に甘んじていたり、あるいはすすんでそれを求めさえすることは、現代の最も奇妙な矛盾の一つである。しかし、これを改めるには、もっぱら生活様式と教育を、とりわけ女子の教育をば、ずっと簡素化するよりほかはない。彼女たちはもう一度家庭の主婦らしくならねばならない、決して単なる美的生活の享楽者になってはいけない。さもなければ、彼女たちはもはや持参金なしで結婚することができなくなろう。もっとずっと簡単な生活へふたたび戻ることが、さし迫った女性の利益であり、贅沢こそ彼女たちの最大の敵である。2019.09.21 二月二十八日 P.48 われわれは、心の中に起るどんな善い衝動でも、例えば物を整理しようとするような、ごくささいな善い衝動であっても、いつも即座にそれに従い、実行することによって、先きへ延ばしたり変更したりできないようにしなければならない。2019.09.22 二月二十九日 P.48 一分か二分のほんのわずかな時間でも、なにか善い事や有益な事に使うことができるものだ。最も大きな決心や行為をするのでさえ、ごく短い時間しか要しないことが少なくない。だから、時間が足りないという口実だけで、なにか善い事を延期してはならない。そっくり同じ機会は、もう二度と来ないことが多いものだ。2019.09.22 三月三日 P.51 思案したり、心配したりせずに、祈りかつ働くことが、どんな困難な状況にあっても、正しいやり方である。 三月十日 P.58 人びとからは決してあまり多くのものを、あなた自身のために、期待してはならない。 経験に照らしてみても、われわれが人びとからなにも求めなくなると、すぐさま彼らははるかに好ましいものになる。そして彼らは、このように利己心のない愛を本能的に感づくのがつねである。あなた自身のためには、ひたすら神の祝福に頼るがよい。どんな人間によっても満たされぬほど、要求のとくべつ多い心をさえ、神の祝福は完全に満たすことができるものだ。2019.09.23 五月十二日 P.111 健康な、こころよい、十分な睡眠をとるように心がけなさい。これはたしかに、だれにでもできるわけでもない。だが、なんといっても、これは最良の神経鎮静剤であり、心の興奮にたいしてもいちじるしい効能がある。よい眠りのあとでは、ものごとが全く違って見え、前の晩には、まるで行く手をはばむ巨人のように思われた難事をも、笑いたくなるものである。 五月十四日 P.113 ひとは過ぎ去ったことをもはやかれこれ考えず、また同じように将来のためにあまり取越し苦労しない習慣を一旦養ったならば、時間の点でも、心のやすらぎの点でも、実にうるところが多いであろう。 ※参考:荘子:不将不逆、応じて蔵せず 六月一日 P.128 あなたが教えることを実行するように努めなさい。 若い時代には学ぶこと、教えることがむしろ本領であるが、とくに年齢がすすめば、実行ということがはっきり外に現れて来なければならない。やがてそれぞれの人がなんらかの善き、真実な思想の生きた表現となっていなければならない。そうでなければ、その人は無意味に生きてきたことになる。 八月十四日 P.181 あまり多すぎる休息は、少なすぎるのとおなじように、ひとを疲れさせるものである。 九月九日 P.181 あなたは絶えず、そしてできるだけ多く、愛のたねを蒔かねばならない。あなたが学校教育を終えたのちは、それがあなたの生涯の仕事である。 九月十日 P.209 自分自身のことは全く語らないのが、一番よろしい。口にだしても、手紙ででも、そうだが、日記のなかでは特にそうである。自賛にわたることは、いやなあと味をもつし、また、自己非難は、われわれの存在と生命の根源である神のみ業(わざ)に、ともすると触れることになるので、これもなすべきではない。 十月十日 P.230 人を愛したいと思うなら、――しかも、これはすべての人間教育に肝要なことだが――さばくことをやめなくてはならない。 十一月十四日 P.200 最もよい時期として思い出に残るのは、しばしば、それに直面しているときには最も苦しく思われた時期である。というのは、その時期に、われわれは成長をとげたか、あるいは、その苦しみがなければいつまでも残ったであろう自分の欠点を脱ぎすてたからである。2019.09.21 十二月十二日 P.280 われわれの知っている歴史的知識がはじまって以来、人間の本性はあまり変化していないし、とくに今日、われわれの自然科学の知識や業績が進歩したにもかかわらず(というよりも、多分そのために)、人間の本性は大して高貴になっていないのだ。 ※2019.09.この本(1985.09.25購入)を開いてみると、随所に傍線が引かれている。 |
☆98エドガー・ドガ(Edgar Degas) (1,834~1,917年)
エドガー・ドガ(Edgar Degas)(1,834~1,917年) エドガー・ドガ(フランス語: Edgar Degas)は、フランスの印象派の画家、彫刻家。フルネームはイレール・ジェルマン・エドガー(エドガール)・ド・ガ(Hilaire Germain Edgar de Gas)。 エドガール・ドガは1834年、フランスのパリに銀行家の息子として生まれた。家は比較的裕福であった。母親のセレスティーヌはニューオリンズ出身のクレオール(ドガは1872年の末から翌年にかけて5ヶ月間、ニューオリンズに住んだ)。[ドガ](de Gas)という貴族風の苗字を持つが、ドガ家はフランス革命後に勢力を伸ばした新興ブルジョワで、エドガールが生まれた頃にはさほど裕福ではなかったらしい。ドガは1855年、エコール・デ・ボザール(官立美術学校)でアングル派の画家ルイ・ラモート(fr)に師事した。1856年、1858年にはイタリアを訪れ、古典美術を研究している。 ドガは通常印象派の画家の一員とみなされている。確かにドガは1874年第1回印象派展以来、印象派展にたびたび出品し(全8回の印象派展のうち、第7回展以外のすべてに参加)、1862年にマネと知り合ってからはカフェ・ゲルボワの画家グループにも参加していた。しかし、光と影の変化をキャンバスに写し取ろうとしたモネのような典型的な印象派の画家たちと異なり、ドガの制作の基盤はあくまでもルネサンスの巨匠や、熱烈に信奉したアングルの画風にあった。古典的手法で現代の都会生活を描き出すことから、ドガは[現代生活の古典画家]と自らを位置付けた。ただし、ドガも他の印象派の画家たちと同様、浮世絵、特に葛飾北斎の影響を強く受けていることが小林太市郎によって指摘され、日本におけるジャポニスム研究の発端となった。 ドガの作品には室内風景を描いたものが多い。初期の作品は海辺の情景などであったが、1870年代後半のモノタイプによる一連の作品では客と娼婦たちの姿が多く描かれた。そして1880年代半ば以降のパステル作品では、そうした特定の逸話的な場面でなく、閉ざされた部屋で黙々と日々の身づくろいに精を出す女の姿が描かれていく。野外の風景を描いたものは、競馬場など人々の多く集まる場所に限られ、ドガの関心の対象は徹底して都会生活とその中の人間であった。これにはドガが普仏戦争に国民衛兵として従軍した際に寒さで目をやられたために俗に『まぶしがり症』といわれる網膜の病気を患っており、外に出ることがままならなかったことも関係しているとされる。殊にバレエの踊り子と浴女を題材にした作品が多く、彼女らの一瞬見せた何気ない動作を永遠化する素描力は秀逸である。写真技術にも強い関心を示し、マラルメとルノワールが並ぶ有名な肖像写真が残されている。パステル画もよくした。パステル画に関しては、銀行家だった父が負債を隠したまま亡くなった上に兄が事業に失敗して負債を抱えたため、その負債を返済するために大量に絵を描く必要があったから、という理由もある。また、晩年は視力の衰えもあり、デッサン人形として使用した踊り子、馬などを題材とした塑像や彫刻作品も残している。それらはドガの死後にアトリエから発見された。 また、ひどく気難しく皮肉屋な性格のため、画家仲間との衝突が絶えなかったが、晩年はドレフュス事件で有罪を主張したために、ゾラなどの数少ない友人を失ってしまったという。
橋本 宏『英語で読む 英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.126
In a single brushstroke we can say more than a writer in a volume.
《訳》 作家が一巻の書物で言う以上のことをわれわれはたった一筆で表現できる。
ドガ(1834~1917)はフランスの画家。すぐれたデッサンの能力によって日本の浮世絵に学んだ大胆な構図の傑作が多い。こうしてみると、ドガのあの傑作、躍動感あふれる踊り子像は、彼が全身全霊を込めた一筆一筆の結晶であることが実感できる。ドガの並々ならぬ自信のほどがうかがえる発言である。
2021.12.09
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☆99サミュエル バトラー(Samuel Butler) (1,835~1,902年)
☆100マーク・トウェイン (1,835~1,910年)
☆101アンドリュー・カーネーギー (1,835~1,919年)
アンドリュー・カーネーギーが活躍したした時代は、十九世紀末から二十世紀の初めにかけてである。 カーネーギーは、自伝で自らの貧しい生い立ちを詳細に語っています。 カーネギーは貧しいゆえに、子供がおのずから身につけざるをえない勤勉さや忍耐力などの徳目のことを「尊い宝」と言っていますが、「尊い宝」はそればかりではなかったようです。「家では毎週土曜日、一家の収入を集計し、その使いみちをきめた。かせいだ一ドルは一家の血であり肉であった」というカーネギーの言葉からは、子供ながらに金銭というものの重みを切実に感じながら育ったことが推察できます。 一家が生れ故郷のスコットランドのダンファームリンという小さな町をあとにして、アメリカのピツバーグの近くに移住したのは、カーネギーが十三歳のときのことです。機織り職人をしていた父親は、当時の産業革命にともなう機械化によって仕事を失い、母親が靴縫いの内職をして家計をやりくりするという状況のなかで十三歳の少年も働きに出て、一家の重要な収入源とならざるをえなかった。文字通り、一ドルが血であり肉であることを少年のカーネギーははやくも実感していたのです。その切実な思いは、大富豪になってからもけっして消えなかったことは、少年時代から青年時代にかけての時代を回想するにあたって、その時どきの収入額を忘れずに記していることからもうかがえます。紡績工場での糸巻きの仕事から彼のキャリアはスタートしたが、そのときの週給一ドルニ十セント、同じ工場で釜たきとして週ニドル、十五歳のとき、電報配達夫として週ニドル五十セント十七歳で電信技手補として月二十五ドル、十八歳で鉄道会社に勤めて月三十五ドル……というように、正確に数字をあげる。サラリーマンのばあい、はじめて手にした月給の額だけはいつまでもおぼえているものであるが、カーネギーにとって、これらのささやかな数字がよほど忘れがたかったのでしょう。 カーネギーのばあいをながめると、金持ちほどけちんぼうであるという巷間の説もできそうです。大金持ちというのは、大金を手にする才覚とともに、微小な金銭にたいしても人一ばいに鋭敏な感覚を持っている人間にちがいない。塵も積もれば山になるという教訓をいちばん肝に銘じているのは、貧しき一般の人びとよりも、むしろ金持ちのほうである。カーネギーはそういう金銭感覚を少年時代に骨身にしみて納得したのでしょう。 このような金銭感覚と疲れを知らない金銭への執着心こそ、のちの大富豪をつくりあげる素地になっていたわけであるが、しかし、二、三ドル単位で週給が増えるのを地道に待っているだけでは、大富豪になることはできない。カーネギーは三億五千万ドルを慈善事業に投じたが、ふつうの人間がおそらく千年間はたらいても手にできないような巨額の富を生むのは、一種の魔法のほかにはない。その魔法とは、投資である。 カーネギーは二十一歳のとき、最初の投資を行っている。五百ドルを知人や親戚から借り集め、ある運送会社に投資して最初の配当十ドルを手にしたとき、彼は、「金の卵を生むアヒルを私は捕えたのであった」と言っています。彼のその後の人生は、このアヒルに金の卵を生ませ続ける人生でもあった。彼は好機を目ざとく見つけては、投資を行い、それまで数ドルないし数十ドルの単位で増えていた年収は飛躍的に伸び、二十四歳で鉄道会社の管区長に昇格した際の年収千五百ドルは四年後には、なんと四万七千ドルにもはねあかっている。もちろん給料が一挙に増えたわけではありません。鉄道会社の社員としての収入は二千四百ドルであって、その他はすべて投資から得たものだった。若くしてすでに投資家としてすぐれた能力の持主であったことがよくわかる。しかし、投資と言っても、カーネギーは株の売買でもうけたわけではありません。 「ながい目で見るとき、的確な判断にまさるものはない。株式市場の目まぐるしさにまどわされている人は、健全な判断力を失い、酒に酔ったのと同じ状態になるので、ありもしないことを信じこみ、あると思ったものも見えなくなる。モグラ塚が山に見え、山がモグラ塚に見える。相場に気を奪われているので、冷静に考えることができないのである。投機というのは寄生虫で、それじたい何の価値もないものなのである。」 株式相場の数字に一喜一憂する人びとにぜひ読んできかせたいような一節であるが、カーネギーにとって投資とは、新しい会社の共同出資者になることを意味していました。彼が共同出資者となった会社としては、レール製造会社、機関車製造会社、鉄橋製造会社、石油会社、そして鉄鋼会社などかあり、いずれも成功し、巨万の富をもたらしました。一八六六年、三十一歳のときに、ピツバーグに建てた機関車製造会社の株が三十年後には三十ばいの値がついたことに触れて、カーネギーは、まるでおとぎ話のようだ、と言っています。また、四万ドルで買い取った油田が最初の年に百万ドルの純益をあげ、その後、五百万ドルにも評価されたことを同じく自伝で語っています。 こうして投資によって着々と蓄財を続けてきたカーネギーは、鉄道会社をやめ、三十三歳のとき、ニューヨークに出て、アンドリュー・カーネギー投資会社を設立し、その後は、会社経営を製鋼会社のみに集中、そのカーネギー製鋼所は全米の鉄鋼生産高の五〇パーセント以上を占めるにいたり、カーネギーは鉄鋼王のなで呼ばれることとなる。彼はカーネギー製鋼所の社長でも会長でもなかったが、会社の五十八パーセントの株を保有し、すべての人事権を握っていた。ほとんど会社には顔を出さず、重役会にも出席しなかったが、重役会の議事録にはいつもかならず目を通し、それぞれの重役の発言にきびしいコメントをつけ、こまかい指示をニューヨークから、そしてしばしば滞在中の外国から送りつけています。 かくて、五十三歳の時点でのカーネギーの年収は百八十万ドルを数えるに至る。この額が今日の金額に換算してどれほどになるのか見当がつかないが、なにしろ途方もない数字であることは間違いないだろう、カーネギーにかぎらず、同時代のアメリカの大富豪がこのような法外な富を手にすることができた背景としてまずあげられるのは、当時、巨大企業が自由に市場を独占し、独占価格で製品を売りつけることが許されていたことである(反トラスト法が制定されたのは一九一四年のことである)。カーネギーの会社のばあい、政府に売った軍艦用の装甲板の価格をめぐって議会で問題になったことなどもあったが、そんなことは当時の巨大企業にはほとんど何のさまたげにもならなかったようである。また、当時は所得税というものがなかったことも、大富豪を生む一因となっていた。すでにイギリスでは一八四〇年代に所得税が定着していたが、アメリカでは所得税の導入が検討されるたびに猛反対にあい(もちろん、カーネギーも反対した)、所得税の賦課が合衆国憲法に明記されるようになったのは一九一三年のことである。数十年はやく所得にたいする累進課税が行われていたら、カーネギーをはじめとして、当時の大富豪は生れなかったかもしれません。
巨万の富を築いた彼は、後半の人生をその富を社会奉仕慈善事業に費やしました。
『大人のための偉人伝』 木原武一著 新潮撰書カーネギー (富を生かす方法)p170 ※2015.10.16 |
青年よ、青年よ、つねに正義とともにあれ。もし、正義の観念が、汝のうちでうすれるようなことがあれば、汝はあらゆる危険におちいるだろう。……もし、どこかに、憎悪のもとに屈従しかけている殉教者あれば、彼の立場を弁護し彼を救いだすという、この義侠心に富んだ夢を、なぜ汝は抱かないのか。……そして、今日、不正にたいしていきどおり、高邁な熱狂にみちた汝の仕事を代行しているのは、汝の年長者、老人たちであるということが、汝には恥しくないのか。(前進する真理) 9月29日パリで死んだ自然主義の代表的作家。社会主義にかたむき、ドレフュース事件で裁判の不正を告発した。『ナナ』『ジェルミナール』 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.161 ※関連:青木雨彦『中年博物館』P.70 五月五日 2020.05.60記す。 |
▼青春の詩 青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。 優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、 安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。 年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。 歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。 苦悶や、狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年 月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。 年は七十であろうと、十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。 曰く驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる 事物や思想に対する欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く 求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。 人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる。 人は自信と共に若く 失望と共に老ゆる。 希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる。 大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして 偉力の霊感を受ける限り人の若さは失われない。 これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、 皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至れば、この時にこそ 人は全くに老いて神の憐れみを乞うる他はなくなる。 2008.6.11 ※「青春とは」 松下幸之助さんが座右の銘としていたのが以下の言葉: 「青春とは心の若さである。希望と信念にあふれ勇気に満ちて、 日に新たな活動を続ける限り 青春は永遠にその人のものである。」 青春とは、アメリカの詩人のサミュエル・ウルマンの「青春」という詩にヒントを得て、昭和40年、 70歳のときに自らつくったもので、つねに若くありたいという希望と、常に若くあらねばならないという 戒めをこめたものとされています。 2021.11.01 追加。 |
この世で一番大切な事は、自分が「どこ」にいるかという事ではなく、「どの方向」に向かっているか、ということである。 「自分の居場所」という言葉を聞きます。
これは、自分がどこにいるべきなのか?
その宿命を受け入れることができるなら、この世で一番大切なことは、自分が「どこ」にいるかという事よりも、「どの方向」に向かっているかということになるのは自明です。 2008.06.11、2011.10.21追加 |
ウィリアム・ジェームズ(William James/1842年1月11日-1910年8月26日)は、アメリカを代表する哲学者・心理学者の一人。チャールズ・サンダース・パースやジョン・デューイと並び、「プラグマティスト(物事の真理は実際の経験の結果により判断するという思想)」の第一人者としても著名。 弟は小説家「ヘンリー・ジェームズ」。(参考文献:ウィキペディア+Amazon.co.jp) 主な著書(邦訳書)に「プラグマティズム」「心理学(上下)」「宗教的経験の諸相(上下)」「ウィリアム・ジェイムズ入門 賢く生きる哲学」「純粋経験の哲学」などがある。 ウィリアム・ジェームズの名言集 人生をもっとも偉大に使う使い方というのは、人生が終わってもまだ続くような何ものかのために、人生を使うことである。 人間は幸せだから歌うのではない。歌うから幸せになるのだ。 ※参考:アラン。 できるかどうか分からないような試みを、成功させるただひとつのものは、まずそれができると信じることである。 人生は価値あるものだと信じなさい。そうすればあなたのその信念が、人生は価値あるものだとい事実を生み出すでしょう。 心が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。 習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。 ※参考:アミエル。 われわれの持つ可能性に比べると、現実のわれわれは、まだその半分の完成度にも達していない。 われわれは、肉体的・精神的資質の、ごく一部分しか活用していないのだ。 概して言えば、人間は、自分の限界よりも、ずっと狭い範囲内で生きているにすぎず、いろいろな能力を使いこなせないままに、放置しているのである。 物事をあるがままの姿で受け入れよ。起こったことを受け入れることが、不幸な結果を克服する第一歩である。 ひとたび決断を下し、あとは実行あるのみとなったら、その結果に対する責任や心配を完全に捨て去ろう。 私の世代の最大の発見は、人間は心の持ち方を変えることによって、人生をも変える事が出来るということだ。 どんな計画であれ、重要な要因は、あなたの信念です。 信念なくしては、立派な結果が出ることはありません。 2013.03.23
全国民が軍隊であり、破壊の科学が生産の科学と知的進歩をきそうときには、戦争はそれじしんの非道から、不合理で不可能になるのを私は見る。法外な野心は、理のとおった要求によっておきかえられべきであり、諸国民はそれにたいして共同して対抗すべきである。私は、すべてのことが、白色人種の諸国とおなじく、黄色人種にも適用されない理由はないと思い、戦争行為が、文化諸国民のあいだにおけるとおなじく、正式に禁止される将来を待ち望んでいる。
(戦争の道徳的等価物)
8月26日死んだアメリカの哲学者、心理学者。プラグマチズムの唱道者。情緒と生理の関係を解明した『心理学』など独創的著作が多い。 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.141 2021.12.25記す。
橋本 宏『英語で読む 英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.3より
〔3〕
《訳》人間は、生物学的に考えれば、あらゆる猛獣のうち最も恐るべきもので、事実、同じ種族に対し組織的に害を加える唯一の動物である。
人間は集団をなして戦争や内乱を起こし、同じ人間仲間を殺し滅ぼす。生物学によれば、どんな猛獣も決してこんなことはしない。最も恐るべき動物は人間だ。次の文例に見られるように、ローレンスも同じことを言っているが、そちらはむしろ感情的な発言。これは冷静な科学的観察だ。 ウィリアム・ジェイムズ(1842~1910)はアメリカの哲学者、小説家ヘンリー・ジェイムズ(1843~1916)の兄である。 |
フランシス・ハーバート・ブラッドリー(Francis Herbert Bradley) (1846~1924年)は、イギリスの理想主義哲学者。代表作は『現象と実在(Appearance and Reality)』(1893年)。
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.190
Everything comes to him who waits――among other things death.
《訳》 待つ身にはなんでもやってくる、とりわけ、死がやってくる。
ことわざ[待てば海路の日和あり]のもじり、期待感に胸ふくらませ thins まで読み続けた読者は厳粛な[死]に遭遇する。どんでん返しの妙が冴え渡る。 ブラドレー(1846~1924)はイギリスの哲学者。ヘーゲルと同じように精神が物質よりも根源的と主張しおた。 2021.11.16 |
天才とは、天があたえる一パーセントの「霊感」(インスピレーション:inspiration)と、彼が流す「流汗」(パースピレション:perspiration)の九九パーセントとから成るものである。(彼のモットー)
ひとが七十歳になって日をすごすのを困難と感ずるようになれば、それはその人が、頭脳の活動的な青少年時代に、興味を感ずべきはずの無数の事物を閑却していた証拠である。……七十歳になって隠居する人は、まあ、三年もたたぬ内に死ぬ覚悟でおらねばならぬ。(七十歳誕生日の新聞記者とのインタヴュー)
この日(10月18日)この日アメリカのウェスト・オレンジで死す。電信・電話の改良、蓄音機・電灯・活動写真など発明が多く、
「発明王」とよばれた。 *桑原武夫編『一 日 一 言』―人類の知恵―(岩波新書)P.173 2019.06.27 |
エルヴィン・フォン・ベルツは、ドイツ帝国の医師で、明治時代に日本に招かれたお雇い外国人のひとり。27年にわたって医学を教え、医学界の発展に尽くした。滞日は29年に及ぶ。
西洋の科学の起源と本質に関して日本では、しばしば間違った見解が行われているように思われる。人々はこの科学を、年にこれだけの仕事をする機械、どこか他の場所へたやすく運んで、そこで仕事をさすこtヴぉにできる機械と考えている。これは誤りだ。西洋の科学の世界は決して機械ではなく、一つの有機体であって、その成長には他のすべての有機体と同様に一定の気候、一定の大気が非必要である。……日本では今の科学の[成果]のみを受取ろうとし、……この成果をもたらした精神を学ぼうとはしない。(『日記』明治三十四年十一月二十二日)
1月13日ドイツに生まれ、明治九年、医学の外人教師として日本に招かれ二十九年間滞在、東大教授として、宮中の侍医として活動した。 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.9 2021.12.25記す。 |
ジョージ・ムーア(George Moore)(1,852~1,933年)はアイルランドの小説家。 メイヨー県の Moore Hallに生まれた。裕福な家系の出身の父親は議員を務めた人物である。家庭教師から教育を受け、バーミンガム地区の St. Mary's Collegeで学んだ。1870年に父親が没した後、画家として身を立てようと決め、パリで官立美術学校、エコール・デ・ボザールのアレクサンドル・カバネルのもとで絵を学び、その後私立学校のアカデミー・ジュリアンで学んだ。3年後に画家になるのを諦め、1876年に文学に転じた。パリで暮らしていた時代に、多くの有名な画家達とともに自然主義の文学者、エミール・ゾラとも出会っていた。 1880年にロンドンに移り、最初の詩を発表し、1883年に英語で小説、『A Modern Lover』を発表した。この小説は不道徳であるとして発禁となった。1885年の小説『役者の妻』(A mummer's wife)がムーアの最初の自然主義のスタイルの小説となった。その後の小説で、売春、異人種間のセックスやレズビアンの愛などを題材にして大衆を惹きつけた。1891年の『Impressions and Opinions』や1983年の『Modern Painting』などでイギリスの人々に印象派絵画を紹介した。この時代の小説に『イーブリン・イネス』(1898)や『尼僧テレサ』(1901)などがある。
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.59 〔54〕
If good books did good, the world would have been converted long ago.
《訳》 もしも良書が役に立つものだったら、この世はとうの昔にすっかり変っていただろう。
ジョージ・ムーア(1852~1933)はアイルランド生まれのイギリス小説家、劇作家。良書を読めば人は善人となる、と常識的に考えやすいが、実はそう簡単な人生ではないぞ、と警告した言葉である。 芥川龍之介は『侏儒の言葉』の中でジョージ・ムーアの言葉として、[偉大なる画家は名前を入れる場所をちゃんと心得ている]と彼の発言の一部を引用している。
※芥川龍之介『侏儒の言葉』(岩波文庫)(昭和二十五年一月二十五日 第十五刷発行)P.70
勿論[決して同じ所に二度と名前を入れぬこと]は如何なる画家にも不可能である。しかしこれは咎めずとも好い。わたしの意外に感じたのは〚偉大なる画家は名前を入れる場所をちゃんと心得てゐる〛という言葉である。東洋の画家には未だ嘗て落款の場所を軽視したるものはない。落款の場所には注意せよなどと言ふのは陳套語である。それを特筆するムーアを思ふと、坐ろに東西の差を感ぜざるを得ない。 2021.12.08 |
幸福は内面的なもの。どんなものを持っているかではなく、私達がどんな人間であるかにかかわっている。 2008.3.12 |
7月29日 この日自ら拳銃で頭を撃って死んだオランダ生まれの画家。28歳から絵をかきはじめ、フランスに行き、激しい個我によって独異の境地を開いた。 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書) P.125 2010.07.29 |
一昨日(おととい)の戦死者のねむる フランスの野の上を幾千羽 旋回せよ やよ鳥 冬を 道ゆく人おのがじし思い新たならしめよ! かくて 義務の叫び手たれ おお わが黒き喪の鳥よ! されど 空の聖者たち 樫のこずえ かぐわしき夕べにかすむマストには せめて五月の頬白をのこせ 未来もなき敗戦に 森の奥につながれ 草間より
逃れえぬ人びとのために (鳥)
11月10日死んだフランス印象派の詩人。十六歳で彗星のごとく怪光をはなって詩壇に現れ、ヴェルレーヌと共に放浪した。『酔いどれ船』、『地獄の季節』 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.186 ※関連:青木雨彦『中年博物館』P.71 五月六日 2020.05.06記す。 |
オスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde)(1,854-1,900年) オスカー・フィンガルは、アイルランド出身の詩人、作家、劇作家。 耽美的・退廃的・懐疑的だった19世紀末文学の旗手のように語られる。多彩な文筆活動をしたが、男色を咎められて収監され、出獄後、失意から回復しないままに没した。
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.186
Fashion is a form of ugliness so intolerable that we have to alter it every six months.
《訳》 ファッションは実に醜い堪え難いものだから、六ヵ月毎に更新しないわけにいかない。
自分を少しでも美しく見せようとするのが人の世の常。デザイナーをはじめファッション界が流行を追って(追われて?)色、柄、生地などの開発に躍起になっている状況を実にユーモラスに皮肉ったものだ。 オスカ・ワイルド(1854~1900)は19世紀末の耽美主義文学の代表者であった。 2021.12.07 |
ジュール=アンリ・ポアンカレ(Jules-Henri Poincaré、フランス語: [ɑ̃ʁi pwɛ̃kaʁe] (音声ファイル)、は、フランスの数学者、理論物理学者、科学哲学者。数学、数理物理学、天体力学などの分野で重要な基本原理を確立し、多大な功績を残した。フランス第三共和制大統領・レーモン・ポアンカレは従兄弟。ナンシー生まれ。
自由の〔科学〕におけるは、空気の動物におけると同じである。……そうして、この自由には制限があってはならない。なぜかというと、もし人が制限を押しつければ、人は半科学しかもたないことになろうし、半科学では、それはもう科学ではない。……思想というものはいつになっても、ドグマにも党派にも感情にも利害にも先入見にも、どんなものにも、それが事実そのものでないなら盲従してはならない。思想にとっては、盲従することはもはや思想でなくなることだからである。
この日(4月29日この日生まれたフランスの数学者、物理学者。その主要な関心は、科学の方法と分析と、科学的認識の定義の探究にあった。『科学の価値』 ポアンカレ著 吉田洋一訳『科学と方法』(岩波文庫)あり。 *桑原武夫編『一日一言』―人類の知恵―(岩波新書)P.70 2022.01.19記す。 |
ゲゼルシャフト【(ドイツ)Gesellschaft】 ドイツの社会学者、テンニエスが設定した社会類型の一。人間がある特定の目的や利害を達成するため作為的に形成した集団。都市や国家、会社や組合など。利益社会。⇔ゲマインシャフト。 ドイツの社会学者テンニエスが提唱した二つの概念について書かれた文献がある。『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』。 著者であるフェルディナント・テンニース(Ferdinand Tönnies、1855~1936)はドイツの社会学者で、1881年にキール大学の私講師に就任し、経済学で教授に昇進。その後一時大学を離れ1921年に社会学の教授として大学に戻りますが、1933年にナチスによって職を失ってしまいます。その後はマックス・ウェーバーらとともにドイツ社会学会の創設に参加しています。 著書『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』においては、本質意志と選択意志という自らが樹立した意志の二形態に対応させて社会的な関係様式をゲマインシャフトとゲゼルシャフトに二分し、支配的な関係様式が前者から後者へと移行していく歴史観を提起しました。 [ゲマインシャフト]と[ゲゼルシャフト]とはどういったものなのでしょうか? ゲマインシャフト【(ドイツ)Gemeinschaft】は共同体組織と呼ばれ、それに属する人ひとりひとりのために存在しています。家族のような血縁関係もこのゲマインシャフトに属しています。ほかにも身近なところで学校の部活、教会などの宗教団体、スポーツや文化活動サークルなど、主に満足感・安心感を得られることを目的としています。 ※コンサイス独和辞典:①共同、連合、提携 ②共同社会、共同態、共同体、組合 ゲゼルシャフト【(ドイツ)Gesellschaft】 ゲゼルシャフトとは、機能体組織です。つまり組織自体に目的があり、所属する人たちがその目的のために動くことになります。企業のように、会社の利益のために一致団結して動くさまなどまさにこれにあたります。 ※コンサイス独和辞典:①仲間、連れ、交友 ②交際、社交 ③共同、協力 ④集合体、社会、利益社会 ⑤結社、団体、協会、学会、会社 ⑥(社交的)会合、集会 また、面白いことにこの本は創業期の会社をどう成長させるかを考える際に知っておくべきものが載っているということで、企業に勤める方々にはよく読まれているものらしいです。 他にもゲマインシャフトとゲゼルシャフトは、パーソナルとインパーソナル、親密な人間関係と打算的な人間関係、自然と形成されるものと、人為的に形成されるもの等、多くの対比がみられます。 さらに社会が資本主義へと移るにつれ、人間関係も計算尽くの関係へと変化していきます。これはマルクスの資本主義や、ホッブスの市場社会についての見解も知っていればよくわかると思います。テンニエスもこのふたつの議論を結合させてゲゼルシャフトの理論を構築しており、そのうえで資本主義とは異なるゲマインシャフトの関係を提示することで資本主義化する社会の混乱を解決しようとしたのです。 この本を読んでみると、現在の自分の身の回りや、社会がどういう関係で成り立っているのか考えさせられます。違った視点で自分のライフスタイルを見つめなおすのに、いいきっかけになるかもしれません。 ・・・・ところで、このテンニエスの『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』は、すでに絶版となっています。今の社会はモノであふれているとよく言われますが、こうしたいい文献が消えていくというのは寂しいものです。それでもまったく読めないわけではないので、興味があればぜひ目を通してみてください! 以上、インターネットによる。 私は、昭和22年、学生時代に公民科の授業で教えられた。化学工業科と醸造科との合同授業であった。 2019.12.26 |
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 第28代 大統領 任期(1913年3月4日~1921年3月4日) トーマス・ウッドロウ・ウィルソン(英語:Thomas Woodrow Wilson、1856年12月28日~1924年2月3日[1])は、アメリカ合衆国の政治家、政治学者。第28代アメリカ合衆国大統領を務めた。アンドリュー・ジャクソンの次にホワイトハウスで連続2期を務めた2人目の民主党の大統領である。[行政学の]とも呼ばれる。 進歩主義運動の指導者として1902年から1910年までプリンストン大学の総長を務め、1911年から1913年までニュージャージー州知事を務めた。1912年アメリカ合衆国大統領選挙では共和党はセオドア・ルーズベルトとウィリアム・ハワード・タフトの支持に分裂し、結果として民主党候補であったウィルソンが大統領に当選した。名誉学位では無く、実際の学問上の業績によって取得した博士号を持つ唯一の大統領である。 1885年にブリンマー大学で歴史学及び政治学を教えた後、1886年にはジョンズ・ホプキンス大学から政治学の博士号を受ける。1888年にコネチカット州のウェズリアン大学に勤め、1890年にプリンストン大学の法律学と政治経済学の教授に就任し、1902年6月9日に満場一致でプリンストンの学長に選ばれた。1910年から翌年までアメリカ政治学会の会長であった。 1887年に執筆した論文『行政の研究』(ザ・スタディ・オブ・アドミニストレイション)において、政治行政分断論を提起し、実務的に政治(政党政治)と行政の分離(政治行政二分論)を唱え、猟官制の抑制と近代的官僚制の再導入を提唱するとともに、研究領域的に政治学から行政学を分離した。ウィルソンの行政学に関する論文はこれ1つだけであるが、これによって、フランク・グッドナウ(英語版)と並んでアメリカにおける行政学の創始者として位置づけられている[2][3]。 受賞:ノーベル平和賞 [二時間の講演ならば、すぐにでもできる。一時間の講演ならば、二時間、準備のための時間が欲しい、十五分のスピーチならば、半日ほしい] |
唯物論者は、人間のイデオロギーは人間の実際の経済的条件の結果であり、上層構造であるにすぎないと主張することによって、超自我(スーパー・エゴ)を除外する。唯物史観は真理ではあるだろうが、真理のすべてではない。人間は現在のみに生きるものではなく、民族の過去の伝統が超自我のイデオロギーの中に存在している。この伝統は現在文化の影響をきわめてわずかずつしか受入れない。そして伝統が超自我を通じて働いているかぎり、それは経済的条件とは無関係に、人間生活に大きな役割をもちつづけるものである。 この日(9月23日)この日死んだオーストリアの精神医学者。精神分析の学問をうち立て、医学、心理学のみでなく、文化科学全般に最大の影響を与えた。 *桑原武夫編『一 日 一 言』―人類の知恵―(岩波新書)P.158
★七月二十四日 私の見るところ、人類の宿命的課題は、人間の攻撃ならびに自己破壊欲望による共同生活の妨害を文化の発展によって抑えうるか、またどの程度まで抑えうるかだと思われる。(フロイト)一八九五年のこの日、フロイトは自分自身の夢を最初に分析した。これは「イルマの注射の夢」として知られ、「夢判断」に収録されている。三十九歳の時のこと。 *青木雨彦監修『中年博物館』(大正海上火災保険株式会社)P.106
☆68(1,856~1,933年)
THE NEW Age EGLISH NEW Edition KENKYUSHA P.127~132 Where Do Dreams Come From? (1) We often dream at night. Sometimes our dreams are frightening. Terrible creatures attack and persue us. Smetimes, in our dreams, wishes come true. We can even fly through the air or float from moutaintops. At other times we are troubled by dreams where everything is unfamiliar. We are lost and can't find our way home. The world seems upside-down and nothing makes sense. In dreams we act very strangely, and we think and say strange things. Why are dreams so strange? Where do dreams come from? People have been trying to answaer these qestions since the begininng of time. But no one has answered them better than a called Sigmund Freud. Our dream-world seems strange and unfamilia, because dreams come from a part of a minds which we neither recognize nor control. He named this the 'unconscious mind,' The unconscious mind is like a deep well which is full of memories and feelings. These memories and feelings have been stored ther since we were born. Our conscious mind has forgotten them. We do not his know that they are there until some unusual experience makes us remember or have dreams. Then suddenly we see a face we fotgot long ago. We feel again the fears and desires which we felt when ae were little children. (2) Sigmond Freud was born about a handred and thirty years ago. He lived most of his life in Vienna, Austria, but ended his days in London, soon after the beginning of World War Ⅱ. When Freud was a child, Austria and Germany were a war with one another. He saw a lot of wounded solodiers. It is not suprising that he became a doctor when he grew up. Like other doctors he learned all abot the human body. But he became more and more interested in the human mind. He went to Paris to study with a famous French doctor. He special study was disease and sicknesses of the mind. At that time no one knew very much about the mind. If a person went mad, or "out of his mind,' there was not much that could be done about it. There was little help or comfort for madman or his family. People did not understand at all what was happening to him. Was he possessed by a devil? Was God punishing him for wrong doing? Often such people were shut away from othrt people just like prisoners. (3) In 1886 Sigmund Freud returned to Vienna and began work as a doctor of the mind. One day a friend, Dr. Josef Breuer, came to see him. He told Freud about a girl he was treatig. The girl could not drink anything, although she was thirsty. She would hold a glass of water to her lips and then push it away. Dr Breuer thought that something prevented her from drinking. So he allowed her to talk freely about herself. She told him everything that came into her mind, and each time she talked to him, she remembered more about her life. One day, as they were talking, the girl remembered seeing a dog drink from nurse's glass. She had not told the nurse because she disliked her. She had forgotten the whole experience. But suddenly this memory returned to her mind. When she described it all to Dr. Breuer――the nurse, the dog, the glass of water――the girl was able to drink again. She called this treatment the 'talking cure.' Freud was excited when he heard this. Perhaps this was the way to help his patients. He began to treat his own patients in the same way. He asked them about the events of their early childfood. He urged them to talk about their own experiences and feelings. He himself said very little. Often, as he listened, his patients relieved from their life. They expressed strong feelings of anger and alarm, fear, hate and love. They treated Freud as their father or mother or lover. The doctor did not attempt to stop them. He let them speak as they wished. He himsekf remained calm and quietly accepted anything that they told him, the good things and the bad, Sometimes,after they had talked to him in this way, their pains disappeared. After doing a lot of careful reserch, he developed this treament into phychoanalysis. People who wrote books and plays, people who painted pictures, people who worked in schools, hospitals and prisons: all these people learned something from the great man who discovered a way into the unconscious mind. Not all of Freud's idears are accepted today. And some more will be found unacceptable in the future. But it can't be denied that others have followed where he led and have helped us understand ourselves better. Because of him, and them, there is more hope today than there once was for the sad and sick and troubled in mind. Copy on August 31,2012. |
☆121レオン・フレデリクの絵(銘板の言葉大原美術館)(1,856ー1,940年)
[All Things return to Death, but God's Love create Again.]
[万有は死に帰す、されど神の愛は万有をして再び蘇えらしめん]
平成二十七年十一月二十四日 |
▼『自己暗示』
一
Day by day, in every way, I am getting better and better.
二 ある考えが精神を独占してしまった場合、その考えは実際に、肉体的もしくは精神的状態となってあらわれる。 三 ある考えを意志の力でおさえようと努力すれば、その考えをますます強めてしまうだけである。
こころ 遠藤 周作 痛みは消え去る。痛みは消え去る フランスのナンシーという地にエミ―ル・クーエという医者がいた。毎日彼のところにさまざまな痛みを伴った患者たちが押しかけた。 とうのはこのクーエ先生は彼独特の方法でこれら痛みに悩む病人たちを癒(いや)したからである。 彼の独特の方法とは自己暗示療法ともいうべきもので、患者の心を「この痛みは消え去る」という考えに仕向けるだけのことだった。つまり患者が今、感じている痛みはすぐ消えると本心で思うと、その痛みはなくなるのだとというのが彼の理論であり、治療法だった。そのために彼は色々な自己暗示の方法を教えたが、それは一言でいうと自分に暗示をかけようと努力することを避け、おのずと、そういう気持ちなるように心を仕向けることなのだ。 ▼彼の理論や方法を書いた本は幸い法政大学出版局から「自己暗示」という題で出版されているから興味ある方は御一読されたい。 しかしこういう本を読んでも自己暗示だけで痛みが消え去るものかと馬鹿にされる読者もおおいだろう。 だが十人のうち十人がみなこの方法で痛みを除去できなかったとしても、医師クーエの診察室に行く患者のなかには本当に治癒した者があまたいたのである。 それはやはり肉体と心が別々のものでないことをはっきり示している。 我々は長い間、肉体と心とは別々のもののように考えこまされてきた。たしかに一面ではそれは言えるだろう。しかしもう一面では心と切り離せぬものであることは今の医学のなかでも心療科を中心とした医師の主張するところである。心の状態がまるで物の影のように体にあらわれ、それが色々な痛みや疾患となってあらわれるからだ。 ▼最近、私はある内科医と対談をした。その内科医は長年、彼の患者のなかで検査では何も異常はないのに各種の痛み、不眠、下痢、息切れなどの症状を訴える人がかなりいるのをフシギに思い、これはひょっとして肉体のうつ病ではないかとかんがえたのである。肉体のうつ病とは心のうつ病ほど深刻ではないから暗い顔をしていないかわりに、痛みや下痢という体の症状になってあらわれる。 そこでこの内科医は試みにこうした患者にあるうつ病の薬を与えてみた。するとふしぎに上に書いたような不定愁訴は消えたとうのだ。ある意味でこれはクーエ医師と同じ療法なのだ。私は非常な興味をもってこの内科医の話を聞いたのである。 ※私は体調不良の時折、「Day by day, in every way, I am getting better and better.」声を出して唱えている。 病気に気が向いているのを方向転換できるのではかと。少なくとも唱えているときは病気からこころが離れているのは間違いない。これを繰り返していれば、忘れるちからが援助してくれるのではと。 2011.10.28、2013.07.06、2015.03.20。補足。 |
レミ・ド・グールモンは、フランスの詩人・作家・批評家。日本ではルミとされたこともある
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.76 〔72〕
For two thousand years Christianity has been telling us: life is death, death is life; it is high time to consult the dictionary.
《訳》 過去二千年の間、キリスト教7では、生は死なり、死は生なりと教えてきた。そろそろ辞書を調べてみてもいい頃である。
信仰があれば死も生であり、信仰がなければ生も死である、という類いの宗教関係によく使われる表現を攻撃したものだ。 グウルモン(1858~1915)はフランスの作家で、象徴的な小説を書き、批評や哲学の分野でも活躍した。 ※参考:『青空文庫』あり。 2021.12.13 |
英国の古典学者,詩人。元・ロンドン大学教授,元・ケンブリッジ大学教授。フォクベリー(ウスターシャー)生まれ。 オックスフォード大学で古典学を学ぶが、卒業試験に失敗して退学する。1882年官吏資格を取得し、ロンドンで特許庁に勤務しながら、ギリシア・ラテン文学のテキスト校訂の論考を学術雑誌に投稿し有名になる。1892年ロンドン大学教授を経て、1911年ケンブリッジ大学教授となる。マニリウスの校訂版やルカヌスの校訂など古典学者として名声を博し、又、詩人としてもギリシア叙情詩に通じ詩集『シロップシャーの若者』(1896年)、『最新詩集』(1922年)で有名になる。今世紀学者詩人の代表である。
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.113
I could no more define poetry than a terrier can define a rat.
《訳》 私には詩を定義することはできない。テリヤにネズミを定義できないのと同じことだ。
ハウスマン(1859~1936)は『シュロップシヤーの若者』(A Shrokpshire Lad, 1896)などで20世紀はじめに最も広く愛唱されたイギリスの詩人。詩とは何ぞや、などと定義することは自分にはできない。ただ感動に刺激されて歌うだけだ、という純粋な詩人らしい感想だが、彼はまた優れた古典学者でもあった。 2021.12.21 |