改 訂 版 2023.02.26 改訂
私はクラレの社員であった。昭和二十五年入社以来の社長は大原總一郎氏であり、そのご尊父が大原孫三郎氏であった。 『大原孫三郎伝』(大原孫三郎伝刊行会)昭和五十八年十二月十日発行(非売品)は通読していた。 ところが、平成二十五年(2013年)二月十五日(金)急性感染症で、岡山大学病院泌尿科・歯学部受診。総合内科受診。即入院となりました。 入院中、医師の一人に倉敷からの方が居られて、雑談していますと兼田麗子著『大原孫三郎――善意と戦略の経営者』(中公新書)2012年12月20日発行が最近出版されている。大変、感激されて読み通した、と話された。
私は退院後、この本を購入して読みました。 このたび、読み返しましたので、冒頭の言葉を紹介します。 はじめに 大原孫三郎とは(1,880~1,943年) 大原孫三郎とはどのような人物か、と尋ねてみたら、どんな回答があるだろうか。孫三郎について聞いたことのある人は、金持ちの道楽息子で社会事業にもお金を使った人と答えるかもしれない。また、ある人は大原美術館をつくった人物と言うかもしれない。 このように、大原孫三郎は様々な視点から語られるが、岡山県倉敷の大地主と倉敷紡績の経営者の地位を父親から継承し、美術館や科学研究所、病院の創設など、社会や教育などのためにも尽力した実業家である。 小作人に臨時の利益還元 一九一九年(大正八年)三月、孫三郎は、小作人の一年限りの利益分配を行った。その理由は、「昨年は風水害のため凶作に近い年柄(としがら)であったが、地主側としては米価が非常に高値を示せるためにその懐具合は決して悪い年柄ではなく、寧ろよい年柄であったというのが実情」だったからであった。 地主であるだけではなく、産業資本家でもあったことが有利に働いたことは確かであるが、小作争議が起こっていた時期に、孫三郎は地主として、一種のボーナスのようなものを小作人に提供していたのであった。 経済社会的格差の拡大によって労働運動や社会運動が頻発するようになった時代、孫三郎は、地主と小作人、労働者と資本家の利害は一致する、随って共存共栄を目指さなくてはならないと考えた。そして、社会をよくするための対策を孫三郎は考え、積極的に講じていった。 孫三郎は青年期に使命感に目覚め、「余がこの資産を与えられたのは、余の為にあらず、世界の為である。余に与えられしにはあらず、世界に与えられたのである。余は其の世界に与えられた金を以て、神の御心に依り働くものである。金は余のものにあらず、余は神の為、世界の為に生まれ、この財産も神の為、世界の為に作られて居るのである」と考えるようになった。そして、このような理想や使命感を孫三郎は生涯持ちつづけたのである。 「片足に下駄、もう片方に靴を履いて」 しかし、孫三郎は「自分の一生は失敗の歴史であった」とよく語っていた。「片足に下駄、もう片方に靴を履いて」と自ら表現したような、本業の経営活動(経済性、理)と社会的事業活動(倫理性、情)の両立は、不況による経済事情の側面からも相当難しかった。このあたりのことを息子の總一郎(一九〇九-六八)は次のように振り返っていた。「もう投げだそうと思ったことも再三あった、と後で父の関係の人達から聞かされたが、それでも私に対して弱音を吐いたり、困惑したという表情をみせたことは殆んどなかった」。 反抗の精神
※写真説明:1917年、岡山の天瀬別邸にて(左より夫人寿恵子、母恵以、長男總一郎) それでも、孫三郎が「下駄と靴」の両立を放棄しなかった理由は、単に理想主義者的な側面だけでは説明できない。反抗の精神が大きな力となっていた。幼少期から金持ちの息子だということだけで色眼鏡で見られてきたため、強い人間でなければならないと悟ったことによって、孫三郎は、負けることが嫌いな、反抗の精神が強い人物となっていった。 そのような孫三郎は、設立した施設の運営を放棄するのではなく、本来は会社から出してもよさそうな経費までも自分の財布から出して維持を図ったりした。 また、自らの過ちを反省し、生涯それを背負いつづけたことも「下駄と靴」の両方を放棄しなかった理由であろう。孫三郎は、東京に出て、東京専門学校(現早稲田大学)に籍を置いたが、もっぱら実社会での勉強に終始して、大借金をつくるなど大きな失敗を犯してしまった。孫三郎と親しかった倉敷協会の牧師、田崎健作(一八八五*一九七五)曰く、生涯の呵責に孫三郎はさいなまされつづけたのであった。 一九〇二年(明治三十五年)四月十一日の孫三郎の日記には、「旧約を読了。さらに旧約を再読するか、新約聖書の三読にかかるか(中略)聖書の研究はまだまだ、これから益々勉強しようとの決心。聖書を反復熟読するようになって、反省、天職を見つけた」と書かれている。 また五月十四には、「昨夜聖書研究にて馬太(マタイ)伝四章を読んだ。余は丁度この悪魔の試みにあったのである。この悪魔の為全く失敗したのであった。併しその悪魔の手から救い出され、救い出されて初めて全く失敗であり罪である事を、やっと知ったのであった。罪であることを知る事が出来たから、悪魔から離れることも出来たのである。これは全く御心に反して居ったのだが、その救われたることによりて、余の盡すべき天職、神の命じ賜う天職を教え賜うたのである。キリストは悪魔の大誘惑に打勝ち賜うた。余は悪魔に誘惑されて其手に陥ったが、幸にその悪魔たる事を教え賜い、而して余の天職を教え賜うたのである。嗚呼神は余を全く救い賜うたのである」と綴っていた。 「正しく理解されなかった人」 このような孫三郎について總一郎は、次のように回顧していた。「父の残した事業は今では形態上変貌したが、内容的には存続しているものもかなり多いので、それらの業績から父に対する現在の評価はむしろ恵まれていると思う。しかし、生前は必ずしも今のようには評価されていなかった。それは非常に分かりにくい性格の持ち主だったからであろう。その分かりにくさは茫洋として捕え難いという類のものではなかった。尖鋭な矛盾を蔵しながら、その葛藤が外部に向かってはいろいろな組み合わせや強さで発散したから、人によって評価はまちまちだった。むずかし人だったという人もあれば、親しみ易い人だったという人もあり、冷たい人だったという人もあれば、温かい人だったという人もある。要は正しく理解されなかった人であったと思う」。 大原美術館が創設され、正面玄関の両脇にはロダンの洗礼者ヨハネの像とカレーの市民の像が置かれた。このとき、このヨハネの像を見た倉敷の人のなかには、孫三郎が父親の裸体像をつくらせた、なにも裸にしなくてもよいだろうと陰口をたたいた人もいたという。また、左翼の運動家が演説で、資本家の搾取の見本だと槍玉に挙げたこともあったと伝えられている。 孫三郎は、「仕事を始めるときには、十人のうち三人が賛成するときに始めなければいけない。一人も賛成がないというのは早すぎるが、十人のうち五人も賛成するようなときには、着手してもすでに手遅れだ、七人も八人も賛成するようならば、もうやらない方が良い」と言っていた。 また、「わしの目は十年先が見える。十年たったら世人にわしがやったことがわかる」と孫三郎は冗談めかしてよく言ったいたという。この孫三郎の言葉から十年をはるかに超えた今、「下駄をはいてあるこうとした」孫三郎を正しく評価する機は熟しているだろう。 以上で「はじめに」の文章は終わっている。しかし、本書には、本業の経営活動(経済性、理):倉敷紡績と倉敷絹織そして社会的事業活動(倫理性、情):地域の企業経営ー中国銀行・中国電力・『山陽新聞』:地域社会の改良整備ー倉敷中央病院の設立:三の科学研究所:芸術支援などなど活躍されている記事が網羅されている。 著者の参考文献の多いのにおどろかされた。よく研究されている。 参考1:『渋沢栄一』 |
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兼田麗子著『大原孫三郎』――善意と戦略の経営者 2012年12月20日発行 倉敷絹織の経営 P.61~66 綿紡績の不振と新規参入分野の調査 倉敷紡績を発展させた孫三郎は、経営多角化を図り、一九二六年(大正十五年)に倉敷絹織を設立した。倉敷紡績は、孫三郎が父から引き継ぎ、全身全霊を傾けた主たる経営企業であり、倉敷絹織(現在の株式会社クラレ)はそれと一体をなす意味を持った企業であった。 明治政府が推進してきた殖産興業の重要な役割を担ってきた紡績産業は、第一次世界大戦時に躍進したが、その後の世界凶荒による深刻な不況の影響を他の産業と同様に被った。孫三郎は、倉敷紡績がそれほど深刻な影響を受ける前に備えておくべきだと考えた。そこで、< 「綿業不振の局面打開策」を構想することにし、新たに参入可能な分野の調査を一九二二年に指示した。 主として、製糸・絹紡事業、羊毛工業、人絹工業に関する調査が行われた。前者二つに関しては、古くから発達していること。綿紡績と同様に不況に直面していること、また、その将来性と危険性という点で参入の候補からはずされた。詳細な調査対象になったのは、新興工業として世界的に勃興する気配を見せていた人絹(人造絹糸、天然の絹糸を模倣して人為的に製造した繊維。レーヨン)事業であった。 孫三郎は人絹事業に関する調査報告に大きな関心を持ったが、倉敷紡績のほとんどの重役が難色を示した。「仕事を始めるときには、十人のうち二、三人が賛成するときに始めなければいけない。一人も賛成がないというのでは早すぎるが、十人のうち五人も賛成するようなときには、着手してもすでに手遅れだ、七人も八人も賛成するようならば、もうやらない方が良い」と息子の總一郎に語っていた孫三郎は、先見の明と勇気を持っていた。しかし、同時に、他人の意見に耳を貸す姿勢と正確な状況判断を兼ね備えていた。 詳細な調査報告を聞き、心を動かされたが、このときは人絹事業への着手は見送られた。しかし、人絹事業はその後、海外での発展の兆しを見せるようになった。そのため、孫三郎は「今回は賛成者一人でもやる」と人絹事業への着手を主張しだした。その結果、それまでの研究調査に基づいた人絹事業着手の方針が一九二五年には固められた。 ちなみに、この新しい分野への進出について、總一郎は、「父が人絹への進出を決意した理由は絹、毛、麻などの繊維の将来に大きな期待が持てなかったことのほかに、絹をのぞく我が国の繊維工業が原料を一〇〇%海外に依存し、僅かな工賃を稼ぐ単なる加工業者に過ぎず、そのために市況は海外の原料相場によって牛耳られ企業自体の安定は得られない欠陥を救うため、この比較的原料のウエイトが軽くて安定度の高い、しかも将来の発展性に富む人絹工業に活路を求めたことは否定できない」と分析していた。孫三郎のこの考え方は、後に總一郎が合成繊維ビニロンの開発、工業化を目指した理由とまさに重なる。 總一郎もまた、第二次世界大戦後の廃墟のなかから日本が立ち上がり、経済的自立を果して真の独立国となるためには、日本の原料と労働力、そして技術でつくることのできる合成繊維が必須だと考えたのである。 工場分散主義 孫三郎の意図も強く働いて、一九二六年(大正十五年)に倉敷紡績の多角経営から誕生し、そして独立企業となった倉敷絹織(当初の本店所在地は倉敷紡績本店内、社長は孫三郎が兼務)では、徹底したコスト削減と積極的な拡張の方針が採られた。孫三郎の工場分散主義に基づいて、一九三二年(昭和七年)~三七年にかけて三つの工場が新設され、基盤が築かれていった。 工場分散主義について孫三郎は、「一ヵ所で大きな工場を運営することは不利で、分散主義をとることにより、各工場の技術の特徴を発揮させ、そして批判してまた新工夫を出させる。積極的に技術を取扱って行こうというのが、新居浜、西条、岡山の各工場をつくらせた理由であります。感情的な無意味な競争ではなくて、技術的な競争、技術の新発見、技術的進歩という意味から分散主義をとったのであります」と説明していた。孫三郎は、大工場一ヵ所での量産とコスト削減よりも、競争に基づいたイノベーション誕生の社風づくりを重視していたといえよう。 一九三三年は、米国でニューディール政策が開始された、不況色が濃かった時期ではあったが、孫三郎は、レーヨン工業の将来に明るい見通しを抱いていた。 新しいことへの挑戦、自助、独創性重視という孫三郎の特徴は、倉敷絹織の創設と初期の経営方針のなかにも顕著なことがわかる。当時の人絹工場は、欧州からプランㇳを輸入し、外国人技術者を招聘して、工場設計から機械据付、操業開始にまで漕ぎつけることが一般的であった。しかし孫三郎は、そのようなルートを選択しなった。 産学協同の先駆者 倉敷絹織創設以前、経営の多角化を決した段階で、孫三郎は京都帝国大学工学部と連携して京化研究所を設立した(倉敷絹織創設時に研究所吸収)。 桜田一郎(一九〇四~八六)博士率いる京都帝国大学との連携で国産初の合成繊維ビニロンの工業化を成し遂げた總一郎は、産学協同の先駆者と称されることも多いが、実は、孫三郎がその先駆者の一人だったのである。 孫三郎は、京都帝国大学の荒木寅三郎(一八六六~一九四二)総長と福島郁三(一八八二~一九五一)教授に相談を持ちかけた。その結果、人絹研究開発のための、倉敷紡績と京都帝国大学の連携が実現した。通常は、外国からの技術導入、そして研究所設立という順序が踏まれることが多いが、倉敷紡績の場合は、まずは研究所設立、そして技術導入と技術開発が相互補完の形で追求された。 遠回りによる優位性 總一郎が、「同業各社より一応の立ち遅れを示したが、究極においては、之等の各社が外人技師を抱えることによって厖大な人件費を必要としたばかりでなく、自社の技術者が技術の習得ができないので、外人技師達を退陣せしめて新規撒直しのスタートを切ったため、資金的や時間的に大きな無駄をしている間に、倉絹が業界のパイオニアである帝人と覇を争う優位をかち得たことは記録されてよい」という見解を示していたように、新しいことへの兆戦、自助、独創性重視という孫三郎の特徴は、長期的、究極的にプラスを倉敷絹織にもたらした。 倉敷絹織は、その後、姉妹会社として出発した倉敷紡績とは別資本の会社として独自の道を歩み、倉敷レーヨン、そしてクラレと改称した。クラレは、戦後には、国産初の合成繊維ビニロンの工業化を世界にさきがけて成功させた。現在、ビニロンの由品賓であるポリビニルアルコール樹脂やエバール樹脂などの用途をまったく様変わりさせて独自の製品をつくりだし、世界のトップシェアを占める化学会社となっている。 孫三郎は、「人は事業や生活で主張を実行すべきであり、自分は主張のない仕事は一つもしないように、主張のない生活は一日も送らないように」と心がけていた。孫三郎は自分の主張と一致せずとも他に追随していくという比較的楽な道を進むのではなく、自分の主張にそった独創的な方法を用いて、社会構成メンバーの利害の一致を図ろうとした。 自分自身の主張に正直になって具体化、実践していったものが後章でのべる科学研究所の設立・運営、地域の教育活動などの様々な事業であり、倉敷紡績を中心とする企業経営であった。 倉敷紡績や倉敷絹織の企業経営の例からもわかるように、大原孫三郎は、情にのみ傾いていたのではなく、理と情、経済と道徳・倫理のバランスをとりながら自分の主張を貫き通したのであった。 2021.07.15記 |
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兼田麗子著『大原孫三郎』――善意と戦略の経営者 「倉敷に執着し過ぎた」 孫三郎は晩年、<自分は倉敷という土地にあまり執着し過ぎた、倉敷という土地から早く離れて中央に出ていたら、もっと仕事ができていたはずだ。お前も、あまり地方のことに深入りすると、仕事の邪魔になるぞ>と總一郎によく言っていた。事業や経済性のことだけを考えれば、大都市に進出したほうが規模を拡大でき、全国的な知名度も上っていたのかもしれない。明治以降に財閥を築いたような企業経営者は、富山県富山市出身の安田善次郎(一八三八~一九二一)や新潟県新発田出身の大倉喜八郎(一八三七~一九二八)、福岡県久留米市出身の石橋正二郎(一八八九~一九七六)などのように、自分の故郷よりも、大都市での活動に比重を置いていたケースが圧倒的に多い。このような大経営者に比べると、孫三郎は最後まで倉敷に軸足を置きつづけた。本章では孫三郎が倉敷の地域のために展開した活動に目を向けながら、その思いにふれ、理由をさぐることにする。 「倉敷を東洋の『エルサレム』に」 孫三郎は、一九〇二年(明治三十五年)十一月二十七日の日記に、「余はこの倉敷は東洋の『エルサレム』たるべきだと信ず。否『エルサレム』たらしむるのが余の聖職である。依って余は倉敷を聖倉敷たらしめんと決心す」と記していた。 エルサレムは、宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の聖地、祈りの場(いっぽで常に争いが起こる場でもあるが)、人間の罪の贖いとしてイエス・キリストが自ら十字架にかかり、そして復活して弟子たちと再会した場、その弟子たちがイエスの活動を継承して神の国を建設するための救済活動を展開したさいの本拠地とした場でもあった。孫三郎は、最低でも新訳聖書を三回、旧訳聖書を一回、通読していたのだが、このようなエルサレムにならって神の国を倉敷に実現しようと考えたと思われる。 そして、この決意を実行に移すプロセスとして、まず最初に倉敷の教育を高めることに尽力する、次に高めた教育によって倉敷の道徳や意識などの精神的側面を改良する(つまり、教育によって市民社会をつくろうとしたと表現することもできよう)、そして最終的には倉敷からの影響を日本全国、さらには世界に及ぼす、という三段階を孫三郎は想定した。 なお、孫三郎は、教育を最も重視したが、同時に、衣食足りて礼節を知るという諺があるように、物質的な生活条件を高めることにも尽力した。 2021.07.23記 |
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兼田麗子著『大原孫三郎』――善意と戦略の経営者 倉敷中央病院の設立 P.103~115 病院設立の理由 倉敷工場、万寿工場、玉島工場を有するようになった倉敷紡績では、従業員やその家族の人数が膨らみ、各工場に設置されていたそれまでの診療所だけでは診療に万全を期すことが難しくなってきた。 孫三郎は、倉敷紡績の従業員のために医療体制を充実せねばならないという責任感から、病院を設立することを決心した。孫三郎は<従来倉紡には各工場に医局を設けていますが、未だ従業員の健康を保証するに足るものであるとは申されず、現在の社会情勢から申しても、より完全な施設を造り、従業員の健康上に遺憾なきを期することは、会社経営社として当然の義務と考えたのであります>と語っていた。 一般市民に開放 孫三郎は、この新しく設置する病院を単に従業員とその家族のためのものとしてだけではなく、地域住民も受診できるようなものにしようと考えた。倉敷紡績は倉敷の地で誕生し、発達することができたので、倉敷と倉敷の人々に何かしら報いる必要があると考えていたのである。 社会に開かれとけこむ、会社・工場・社員としていくためにも、この機会をとらえて病院を一般市民に開放しようと孫三郎は決心した。孫三郎は、「将来工場を社会化させるという意味もあり、殊に紡績職工といえば社会からまだ異様な目で見られている現在において、わが社が職工を人として平等の人格を認めて待遇していることを示す一事項と致しまして、ここに開放された病院において一般人と同じく平等な取扱いを為すことは、可成り意義あることであると信じます」と語っていた。当時の工場労働者の社会的地位は必ずしも高くなく、『職工』という何となく厭な感じがするのだ。(中略)卑屈な意味や侮蔑的な観念が直ぐに頭に浮かぶのが、当時の社会通念であった>という。鐘淵紡績の経営者、武藤山治も敬意をもって女子工員を<女工さん>と呼ぶように工場内で指導していたが、孫三郎や武藤の言葉には、このような背景があったのである。 病院を一般市民に開放した三つの理由は、石井十次の岡山孤児院への支援を通じて以前から考えるようになっていた困窮と病気の関係であった。震災などの自然災害を除くと、孤児たちが社会に生じる原因は、困窮にあった。しかし、さらに突き詰めれば、困窮による病気に原因があると孫三郎は痛感していた。 困窮と結びつく悪習慣や乱れた生活、あるいは不十分な栄養状態や労働環境によって親たちが病気にかかる、病気にかかっても良い治療を受けることはできない、そのため病気が治らない、あるいは死亡してしまう、そうなると子供は孤児になるしかないという悪循環のケースがあることに孫三郎は気づいた。 そこで、このような悪循環を断ち切って、社会の問題を事前に(発生する前に)解決するためには病気をなくす、治療する、ということが大きな課題だと孫三郎は考えるようになっていたのであった。一つの方策として、困窮している人も理想的な治療を受けることができる病院が必須だと孫三郎は考えていた。 このような長年の考えに基づいて、倉敷紡績の社員以外にも病院を開放する決断をしたのであった。後述するが、公益を主目的とする財団法人となるさいには、低所得者は安い費用で治療を受けられる軽費診療制度も導入されることになった。 病院を一般市民に開放しようと孫三郎が考えた理由は、さらにもう一つある。孫三郎は、第一次世界大戦後の一九一八年(大正七年)に悪性感冒(スペイン風邪、今でいうインフルエンザ)が大流行したさい、多数の庶民が充分な治療を受けられずに死亡したことを知った。孫三郎は、周辺地域の庶民が適切な治療を適切な価格で受けられるような病院を創設しようと決心したのであった。 東洋一の病院を 倉敷日曜講演会(後述)を通じて、孫三郎は京都帝国大学などの専門家と交流を持つようになっていた。そこで、孫三郎は、病院設立についてのアドバイスを京都帝国大学総長の荒木寅三郎医学博士と同医学部の島薗順次郎医学博士に求めた。 すると、両博士は、それまでの日本には、慈善病院や研究病院(大学附属病院など)はあるが、研究第一主義ではなく、一般市民の患者のための治療を第一とする理想的な病院は少ないというアドバイスを孫三郎に与えた。 それまでの慈善病院の多くは、理想的な治療を施す病院とはいいがたかったようである。たとえば、現在の三井記念病院の源流で、「汎ク貧困ナル者ノ為メ施療ヲ為スヲ目的」とした慈善病院は、一九〇九年(明治四十二年)に開院したが、その開院式で三井家同族会議長の三井八郎右衛門は「収容される患者の定員は一二五床とし、これ以外に日に二百人の患者を無料で診察し、治療も行います」と語っていた。「治療も」を付け加えているのであった。真に患者の立場にたって、完全な加療を目指す機関は決して多くなかったようである。貧困者の施療を目的としたこの病院では、無料で東京帝国大学医学部の高度な医療が受けられるため、故意にボロ服を着た来院者も多く見られたということである。つまり、貧困者だけでなく、貧困者よりも家計的に多少は余裕のある一般市民も、理想的な治療を受診することができる病院は少なかったということがいえよう。 そこで孫三郎は、両博士の見解に基づいて、以下のようなコンセプトで病院を創設することにした。東洋一の病院の理想的な病院、治療第一の病院、そして、「病院くさくない明るい病院」である。「病院くさくない明るい病院」とは、長い療養経験を有していた孫三郎のことであるから、自己の体験にも基づいた考えであったと想像できる。それは、壁や天井の色を無機質な白一色ではなく暖かみを持たせる、柱などに丸みを持たせる、採光に注意を払うという形で実現された。また、孫三郎は、病院の根本方針をより具体的な表現で打ち出した。①研究のみを主眼としない、②慈善救済に偏しない、③看護体制を充実させる、すなわち、充分な人数の看護婦を配置して付き添いを全廃する、④どの患者に関しても懇切で完全なる平等無差別の取り扱いをする、病室に等級を設けない、寝具やその他の備品もすべて備え付ける、⑤院内従業員に対する心付けや謝礼、贈り物などを一切厳禁とする。これらの根本方針を孫三郎は徹底させようとした。現代になっても「完全看護制」を全面に掲げる病院が多いことからも、③が歴史的に長い間、実現されてこなかったことがうかがえよう。また、身分制の名残もあったであろうし、経済社会的な格差も大きかった当時、④の点が徹底されていた病院も少なかったと思われる。 これらの方針を表明した孫三郎は、医療や施療についての意識革命を意図していたのではないだろうか。弱い立場にある人々の身になって考えることが必要である、また、他者も自分と同じ人間、平等な人間であり、自分の快楽や都合のために他者を踏みつけてはいけない、という孫三郎の信念の発信にほかならなかった。 このような孫三郎の病院についての基本方針が、其の後の日本の病院に与えた明確な影響については、現在のところ推定することしかできないが、たとえば、オランダのレーベン教授式の喘息治療法を倉敷中央病院が採り入れて設備も整えたこと(一九三〇年[昭和五年])が全国に広まったと伝えられていることなどを考慮すると、新しい病院のあり方の一つとして、注目されていたのではないかと考えられる。 最善を目指す 相談を受けた京都帝国大学の荒木、島薗は、三重県津市の病院で院長を務めていた辻緑医学博士を紹介し、辻はやがて倉敷紡績に入社することになった。さらには、徳岡英医学博士、波多腰医学博士も辻に続いた。これらの医学博士は、全国をまわって有名な病院の設備などを視察し、病院の青写真を練った。 孫三郎もまた、設計にさいして、壁や建具、家具の色合いなどまで、細かな指図と点検を行った。北京のロックフェラー病院(現在の北京協和医院)に匹敵するような東洋一の病院、そして、病院くさくない明るい病院にする、という孫三郎の意向によって、木々や噴水を擁する明るく広い温室が病院の一階に設けられた。また、倉敷ではじめてのエレベーターも二ヵ所に設置された(その後の増築のさいもこのエレベーターはそのまま残され、現在は電話ボックスとして外来増築棟の一階で使われている)。 人材面でも、荒木博士の協力などを得て充実が図られた。また、欧州から最新医療機器や医学書も購入され、施療体制が整えられた。 大幅な予算超過 倉紡中央病院の新設に対しては、岡山県医師会が、近隣の開業医への影響を懸念して反対を唱えたため、岡山県は、各科の施設を完備した総合病院ならば認可するという見解を示した。孫三郎は、工場付属の医局や診療所よりも理想的な病院をつくろうと確かに考えてはいたが、各科の施設完備という、そこまで大規模なものは当初は想定していなかったはずである。 そのため、病院建設のための当初の予算は十五万円であったが、最終的な総事業費は、予算の十倍を超える百五十万円から二百万円にのぼった。大型の総合病院の建設へと変更を余儀なくされ、予算を大幅に超過せざるを得なくなったが、孫三郎は病院建設に関しても初志を貫徹した。 倉紡中央病院は、病床数八十三床でスタ―ㇳした。一九二三年(大正十二年)六月二日の開院式には、暴漢に襲撃された板垣退助(一八三七~一九一九)を治療した医師であり、官僚、政治家でもあった子爵後藤新平(一八五七~一九三九)、軍医制度を確立した医師で子爵の石黒忠悳、岡山県知事の長延連、香川県知事の佐々木秀司、京都帝国大学総長の荒木寅三郎、京都帝国大学教授の島薗順次郎をはじめとする多くの来賓が出席した。そのとき後藤新平は<天地皆春>(天地のすべてが春になったという祝いの言葉)と揮毫した。この額は現在、倉敷中央病院の大原記念ホールに飾られている。 財団法人倉敷中央病院の誕生
その後、紡績業も不況のあおりを受けた。関東大震災後には不況がより深刻となり、資本金千二百万円の会社が、毎年数万円の経費を病院運営のために補助することが大きな負担になると、「理想に走り過ぎた放漫経営の結果である」と非難する株主も出てきた。 そのとき孫三郎は、「この病院が仮に年々五万円ずつ損をしても、それは決して無駄に消えるものではなく必ず戻って来る。私が中央病院を造ったがために年々倉紡はそん失だけするように見えるが、それは廻り廻って倉敷の経済に利益をもたらし、倉敷の資本経済への好影響は更に倉紡に対して増大して帰って来ると思う。万一それは算盤や数字の上に現れないとしても、倉紡がこれによって数字を超えて更に大きく恵まれるという確信を自分は持っているものである」という考えを示していた。
※写真説明:上:創立当時の倉紡中央病院全景。下:現在(201年)の全景。 孫三郎は、決して経済人としての合理性を放棄していたわけではなかった。目先の損得や短期的な視点ではなく、長期的視点で利益や合理性を追求しようとしていたのであった。 当初、入院料は一律、一日当たり二円五十銭だった。しかし、倉敷紡績の社員と家族の場合は、倉紡共済組合から八十銭、会社から一円三十銭の補助が出されたため、本人負担は四十銭のみだった(ただし、月給百円以上の家族に対しては会社補助はなし)。だが、その後の事業不振により欠損が計上された頃には、倉敷紡績でも経費の節約、整理という緊縮方針を採らざるを得なくなった。そのため、会社の補助は廃止され、患者数も減少した。 前述したような財政事情もあって倉敷紡績は、倉紡中央病院の開院から四年後の一九二七年(昭和二年)に病院への支援を打ち切り、病院の経営を独立会計へと転換させた。これを契機に、関係者以外は利用できないという誤解を払拭するために、企業名を病院からはずすことにし、倉紡中央病院は倉敷中央病院と改称された。 その後、倉敷紡績で合理化策が遂行されるなか、医療という特殊性(非営利性など)を考慮して、倉敷中央病院を財団法人にして、倉敷紡績から完全に分離独立させることが決定された。病院が独立採算性となった後も資産は倉敷紡績のものであった。それらの資産すべて(土地建物、医療機器など総額百二十万円)を倉敷紡績は償却し、財団法人倉敷中央病院はそれらの資産をもって名実ともに独立した事業体として、一九三四年にスタートを切った。なお、財団法人化の申請にさいして、中央病院は公益性の充実を図るためもあって、救療(慈善救済的な施療)や軽費診療を行うことも事業目的に加えた。 病院十周年の言葉 創立十周年の記念講演会で孫三郎は、医局員に「中央病院の関係者はどうか経験に誤られることなく、常に絶えず進歩する人でありたいと思う。経済界は依然として不況であり、前途は相変わらず暗澹としているが、どうか関係者全員一致協力して、立派にこの難局を切り抜けて、美事なる成績を挙げ、社会に貢献したいものである」と語っていた。この訓示は、不況のなかで大変な思いをしていた孫三郎が自分に言い聞かせてたものだったのかもしれない。 実際に、開院から十年の間に中央病院が残した足跡は大きく、孫三郎も満足していたことが開院十周年を祝う機関誌の文章からわかる。「この土地にこの病院が出来ていたために危い一命を取り留めることができた人も相当沢山あるとおもう。また、この病院の内容が医療界に与えた影響もかなり力強いものがあったと確信します。その研究室から多数の新博士が生れ、養成所から多くの優秀な看護婦や産婆の出身者を出したことも誠に喜ばしい結果である。(中略)過去十年の間にこの病院の関係者諸君が、よく奮闘努力されて、常に医学界の進歩に先駆されましたことは真に愉快に存ずるのであります」。 現在の倉敷中央病院 財団法人倉敷中央病院は、現在、岡山県の中核的な医療機関の一つとして、大学病院と肩を並べる規模の病床数を有し、地域に医療を提供しつづけている。病院内を歩けば、熱帯魚が泳ぐきれいな水槽や絵画、コーヒーショップ前の広いスペースのテラス、ホール、ケーキや土産物を取り扱っている大きなショップがある。ある日の午前中に病院の内部をまわって見たさいには、至るところで何かを食べている多くの診療待ちの患者や見舞客と思われる人々に出合った。病院で物を食べることはそれほど一般的ではないだろう。憩いの場所などがいろいろと設けられいることも大きな理由だと思うが、それ以外にも開放的な雰囲気が影響していると考えられる。きわめてユニークな病院という印象を持つ。 また、医療技術の面でも、他の病院と比較して、見劣りすることのない実績を挙げている。二〇〇一年に台湾の李登輝元総統が、治療のためだけということで紆余曲折を経て来日したさいに、心臓病治療のためのステントのメンテナンスを受けた病院が倉敷中央病院であったことを知って人もいるかもしれない。また、研修医の間の認知度は高く、<大原孫三郎のことは知らないが、倉敷中央病院は全国でもたいへん有名な病院なので知っている。全国から情熱のある研修医が集まり、民間病院でありながら最先端医療や救急医療を積極的に行っている>という医師の声も耳にしたことがある。 2021.07.09記 |
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兼田麗子著『大原孫三郎』――善意と戦略の経営者 徳富蘇峰、山路愛山、石井十次にヒントを得て 次に、倉敷中央病院より時代はさかのぼるが、地域のため、地域の民衆のためという観点を強く有していた孫三郎が、よりよき町、倉敷を目指して行ったソフト面での活動例について詳述する。 「余の使命は教育にあり」と強調していた孫三郎は、倉敷商業高校の源流となった私立の商業補習学校なども設立したが、地域全体の民衆の知的、精神的なレベルップ、ひいては生活レベルを向上させるために、倉敷日曜講演会を一九〇二年(明治三十五年)十二月から開催した。 この倉敷日曜講演会は、徳富蘇峰の書籍や山路愛山(一八六四~一九一七)の新聞投稿にヒントを得て始まったものである。 蘇峰は、平和主義を唱えて多くの<明治の新青年>に影響を与えたが、孫三郎もその一人であった。欧米の新思想や社会主義的思想に関心を持っていた孫三郎は、『平民新聞』や『万朝報』、内村鑑三(一八六一~一九三〇)や福沢諭吉の書籍、蘇峰の『国民新聞』やその他の書籍を愛読していた。 蘇峰は、日曜講壇という国民叢書を何度か刊行していた。また、蘇峰とも関係の深かった作家でジャーナリストの山路愛山は、道義を説く講演会を信州の人々に勧める<日曜講演>と題する記事を『信濃毎日新聞』に掲載した(一九〇二年十月八日)。この論説の中で、山路は「帝国議会に道義なければ賄賂は政治を支配すべし。教育に道義なければ国は軽薄才子に満つべし。国家自今の大問題は堅実なる道義の念を培養するに至ることを今更言うまでも無し」、従って、「旧幕時代の心学道話を復興せん」と「諸宗諸派の大徳及び国民の道念に関して心を労せらるる諸君子に告ぐ」と訴えかけた。そして、「日曜講演なるものを開き大いに宗教道徳の問題を研究し、国民信仰の基礎を作らんと欲す」と、日曜日に講演会を開くことを提唱していた。 この記事を読んだ石井十次は、倉敷でも日曜講演会を開催してはどうかと孫三郎に持ちかけた。即座に同意した孫三郎は、当初十次のアドバイスに従って、自分で講演を行おうと考えたが、全国的な有識者を招聘することにしいた。こうして倉敷日曜講演会は始まった。 手間暇かけて 毎月ほぼ一回、倉敷の中心部にある小学校の講堂などで一般の人々に無料開放で行われたこの講演会の費用は、遠方から招聘する場合の旅費や講演料を含めて、すべて孫三郎が負担した。事務作業の取りまとめは、孫三郎と十次の交流を橋渡しした林源十郎が主として担当した。 決算報告書によると、講演料は旅費とは別に、京都からの講師には三十円、東京からの場合は、長旅での疲労を考慮して、倍額の六十円を渡していたようである。 孫三郎は、ポスターの貼り方、受講カードの詳細に至るまで、細心の注意を払って準備をしたという。聴講チケッㇳの作成と印刷をフランス留学中の児島虎次郎(一八八一~一九二九)に依頼し、フランスに発注したこともあった。 講師の招聘や案内状の作成と発送、広告宣伝、また県や希望者に無料で配布する速記記録作成などに関する費用と手間は相当なものであったため、日曜講演会は長続きしないだろうと思う人もいた。 しかし、孫三郎は、「これこそ天下の風教を培養する最良の手段であるから、少くとも三年は続けよう」と日記に記述していた。そのいっぽうで、「この講演会が実際世の益となるか否かは疑問である。若し評判ばかり高くて益が少いようなら断然廃止しよう」とも考えていた。 幸い、日曜講演会はその有用性を評価されていたようである。たとえば、一九一一年(明治四十四年)に講演者として招かれた早稲田大学の浮田和民は、主幹を務めていた総合雑誌『太陽』(第十八巻第二号、一九一二年)に<第二十世紀式の公的事業――備中倉敷の大原孫三郎君>と題して、次のような文章を掲載していた。<国家の費用にて此くの如き社会教育の機関を設備するのが当然である。文部省は稍やく此の頃通俗教育会を実行することになったが大原氏は既に十年前より此事に着手して居られるのである。個人の方が政府より先きへ進歩し居る実例として見遁がす可からざる事柄である。此の一例にても大原氏の心情如何に公共的であるかが解る>と評価していたのであった。ちなみに、このときの浮田と孫三郎にはほとんど交流がなく、もちろん学術支援の関係もなかった。 盛況を博した講演会
この倉敷日曜講演会には全国的になの知れた錚々たる人物が招かれていると思われる講演者の例をテーマとともに以下に示す。 第五回 青木収蔵「教育ニ就テ」 第八回 徳富蘇峰「最近ノ歴史ニ付テ」 第一四回 金森通倫<時局ㇳ国民ノ覚悟> 第十九回 金原明善<経歴と希望> 第二十回 新渡戸稲造<戦後の戦争> 第二十一回 海老な弾正「神観ノ発展」 第二十五回 井上哲次郎<本邦ノ長所ㇳ短所ヲ論ズ> 第二十六回 江原素六「常識ノ修養」 第二十八回 山路愛山「開国五十年史」 第三十四回 谷本富<厭世ㇳ楽天> 第三十五回 岡田朝太郎「犯罪ㇳ社会改良」 第四十六回 白鳥庫吉「支那及ビ印度ノ文化」 第五十回 志賀重昂「満州・樺太・大東島旅行中ノ見聞」 第五十六回 小松原英太郎「教育ニ付テ」 第五十八回 横井時敬「農業ニ就テ」 第五十九回 留岡幸助「勤労ノ社会的価値」 第六十回 大隈重信「国民教育ニ就テ」 第六十三回 菊池大麓「教育ノ趣旨」 第六十五回 高田早苗「模範国民ノ造就」 第六十六回 小河滋次郎「国運発展ノ原動力」 第七十回 安倍磯雄「自治体ノ財政」 第七十二回 浮田和民「婦人解放ㇳ社会改造」:第三高等学校校長
このなかで新渡戸稲造(一八六二~一九三三)や徳富蘇峰、谷本富(一八六七~一九二二)、江原素六(一八四二~一九二二)などは、複数回招聘されていた。この倉敷日曜講演会の他、連続して五、六日開催される倉敷日曜講演附属大講演会も時折催され、これには姉崎正治 たとえば、大隈重信が一九一一年(明治四十四年)五月二十一日倉敷日曜講演会で講演したときには、小学校では収容人数が少ないので、整地したばかりの大原農業研究所(後述)の一万坪の土地に大きなテントがいくつか設営された。このときの様子は、モノクロ写真の絵葉書にもなっている。絵葉書の最下部に小さな字で「大隈伯臨場の第六十回倉敷日曜講演会」という説明が記述されている。もう一つのモノクロ写真の絵葉書には、<倉敷停車場前歓迎台上の大隈伯>という説明が小書きされており、大隈を取り囲むように人垣ができていたことがうかがえる。テントには三千人を収容できるように準備しておいたが、場外にも三千人、合計で六千人以上の聴衆が訪れた記録が残っている。 孫三郎が自費を投じつづけて開催した日曜講演会は、当初の想像をはるかに超えて、初回から二十四年目の一九二五年(大正十四年)八月(七十六回)まで続けられた。その後は、孫三郎が設立した農業研究所がこれを引き継ぐ、という方針が立てられ、次章でふれる農業研究所では、講演会が短期間だけ開催された。 ※参考図書:『大原孫三郎傳』(大原孫三郎傳刊行会)非売品 昭和五十八年十二月十日発行 製作:中央公論事業出版 2021.07.21記 |
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兼田麗子著『大原孫三郎』――善意と戦略の経営者 岡山講演会と岡山構想 大原孫三郎というと、岡山県のなかでもとりわけ倉敷(備中)だけに目を向けていたようにとらえる人が現在もいる。しかし、決してそうではなかった。孫三郎は、一九〇二年(明治三十五年)第一回の倉敷日曜講演会を開催した翌年からは、合計十八回もの講演会を岡山(備前)でも開催していた。岡山講演会でも、山路愛山や荒木寅三郎、留岡幸助、谷本富、岡田朝太郎、白鳥庫吉らが、法律から科学、戦争、宗教思想、人格など、多岐に及ぶ話題で講演を行った。 また、孫三郎は岡山にも美術館や大学などを創設する意向を持っていたと、孫三郎と親交のあった倉敷教会の田崎健作牧師が一九七二年(昭和四十七年)六月のインタビューで明らかにしている。この岡山構想は、土地の価格が五倍にも跳ね上がってしまったため、諦めざるを得なかった。 なお、大学については、孫三郎は、倉敷にも創立するヴィビジョンを持っていたということである。田崎は<あれだけ立派な文化施設があるのに大学だけはない、高校まではあるのに>という気持ちを孫三郎は持っていたと語っていた。 中国レイヨンを岡山に設置 経営していた倉敷絹織が一九三五年(昭和十年)に中国レーヨンを合併した際に発表した声明の中で孫三郎は、岡山への思いを次のように語っていた。<岡山市は父の郷土であるから、常々に何とかして岡山市に酬いたいと思っていたところ、岡山市民諸氏の熱心なる誘致があったので、中国レーヨンを岡山へ設置したのであるが、大体この中国レーヨンは倉敷絹織の岡山工場として設置する予定であったのを中国レーヨンとして新立したものであるから、この合併は勿論予定の計画を実行したまでである。(中略)今後は本工場の一層の発展を期し、県当局を初め岡山市民諸氏から与えられたる熱心なる御援助に対し酬いたいと思っている>。孫三郎は最後まで拠点を大都市に移すことなく、倉敷でリーダーシップを発揮して活動しつづけたが、経済的、知的、文化芸術的な発展のために孫三郎が心を傾け、働いた地元地域は、決して倉敷だけではなかった。父祖の地、岡山も同様に発展させたいと孫三郎は考えていたのであった。 倉敷や岡山以外の地域にも 孫三郎は、地域の民衆や社会を重視する視点を持って、成熟した市民社会づくりを目指していた。地域のインフラの整備や町の活性化、医療や教育などの充実を図り、郷土の繁栄に尽力した。しかし、孫三郎の地域重視の観点は、岡山県内にとどまるものではなく、ある程度の普遍性を持っていた。
石井十次が晩年を過ごした宮崎の茶臼原での<理想郷>づくりについても、大原奨農会農業研究所の人材や知識をもって応援した。また、十次の岡山孤児院大阪分院での活動と遺志を継いだ形で孫三郎が設立した財団法人愛染園 倉敷にとっての孫三郎 倉敷を東洋のエルサレムにする、理想郷にする、と主張していた孫三郎が、岡山に設置された陸軍師団の一個連隊の倉敷誘致に反対する民衆運動の先頭にたったことは前述した。経済的繁栄よりも、風紀や町の美風を重視した結果のことであった。もし連隊が倉敷にできていたら、倉敷もおそらく、空襲に遭っていただろうと、戦後になってから孫三郎の判断と功績をたたえる声も聞かれた。
大原社会問題研究所のメンバ―であった大内兵衛 社会文化貢献には、稼いだ金銭を年月を経た後に、何らかの形で還元するというタイプのものもある。もちろん、そのような社会貢献を否定するつもりはない。しかし、孫三郎は、経済活動などの日常活動を行いながら、それら自体が同時に、地域や人々の利益につながる社会文化貢献を目指した。そのようなタイプの貢献を目指した孫三郎の日常活動、考えは、本章で見たように、地域を決して離れるものではなかったのである。 2021.07.22記 |
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兼田麗子著『大原孫三郎』――善意と戦略の経営者 小作人の窮状を目の当りにして 東京遊学から戻った直後に孫三郎は、大原家所有の農地を検分し、小作人の厳しい労働生活や貧しい暮らしぶりを目の当たりにした。小作人の窮状を地主として見捨てておくわけにはいかない、何らかの行動を起こす必要があると孫三郎は痛感した。農業を発展させて、小作人の生活を楽にするにはどうすればよいだろうか、これが、孫三郎の課題の一つとなった。 孫三郎は、労働者と経営者側の利害は一致すると確信して、共存共栄を実現するための施策を倉敷紡績内に実践したが、このようなスタンスは、地主と小作人の関係についても変らなかった。一九〇二年(明治三十五年)一月二十三日の日記に孫三郎は、<将来の地主と小作人との関係は同胞的でなければ平和を保つことは出来ない。同胞的な観念に立って生産と経済の両面から研究して農業を改良しなければならない。現在の農事改良のやり方は経済と一致しないから実行は出来ぬのである>と書いていた。 当時の地主は、小作料を受け取るのみで、農業の発達にまったく関係も貢献もしていない、地主が小作人と顔を合せるのは、小作米を受け取るときと小作料減免の談判の席だけということが多かった。このような現状は、恥ずべきことであると孫三郎は考えた。小作人と地主は農業の共同経営者であるべきなのだから、地主も小作人と同様に農業に関与し、農業の発展に尽くさなければならないと孫三郎は考えていたのであった。 地主の真の役割 江戸時代以降の農村社会では、施主は、農業改良、農業生産、用水の管理などに指導的役割を果たし、地域の温情的、慈恵的政策(いわゆる現在の公的事業)などにも率先して金銭を投資してきた。そして、これらの活動を通じて施主は、名望家としての社会的な尊敬と信用を集めてきたといえよう。このような施主のあり方は、義務のように代々引き継がれてきた。 しかし、農業技術が発展するに従って、そのような特徴は色薄くなっていった。農業技術、農業改良の指導者としての施主の役割は、国または府県の農業試験場が、産米改良は府県の穀物検査制度が担う、というように、地主のそれまでの指導的役割は公的機関に肩代わりされていったのである。 このような過渡期にあって孫三郎は、「地主の家が当然なすべき社会奉仕であると考えて」農事に携わっていった。孫三郎の日記の一九〇二年(明治三十五年)五月四日には、「農事改良には大地主が農事試験所を設立して農民を指導するのでなくては効果がない。県農会や郡農会は唯動機を与えるだけで甚だ無責任である」という記述が、また、九月二十九日には「農事改良は農業技師の献身的努力と地主の奮発にあらざれば成功せざるべし。農事改良は実地問題なるを以て、技師とならんとする者は、宜しく鍬を執り地を耕さざるべからず。自ら農事に従事して、而して其結果よりして農民に対して改良するよう導かざるべからず。農事には空理は益なし。総べて実際的ならざるべからず」という文言が見受けられる。地主が自ら農業生産を引っ張っていくことの必要性を孫三郎は重視していたのであった。 大原家小作俵米品評会と大原奨農会 小作人と地主の共存共栄を目指すという信念を孫三郎は、一九〇六年(明治三十九年)頃から実行に移すようになった。まずは、岡山県の米穀検査を想定しながら、農業改良と小作米の品質改良を目的とした大原家小作俵米品評会をつくった。 品評会は毎年旧正月に開催され、優秀者には表彰も行われた。それに従って、大原家の蔵米は品質が高くなり、兵庫市場でも高値で取引されたという。この大原家小作俵米品評会は十三年後の第十四回まで続いた。 一九〇八年七月には近藤万太郎(一八八三~一九四六.大原奨学生、第八章で詳述)が東京帝国大学農学部大学院を卒業し、孫三郎を補佐するようになった。その翌年の品評会で孫三郎は、次の品評会までに、農業教育などを行う小作会、<大原奨農会>をつくる意向であることを発表し、近藤たちとともに設立の準備を進めた。 一九一〇年に大原奨農会の設立が正式に発表され、孫三郎が会長に就任した。農業の発達と農民の幸福増進を図るという目的のもと、農事改良、農業金融(農業資金の貸与や相談)、小作者救済(疾病、死亡、その他事故の場合の金融貸与・贈与)、貯蓄奨励、自作農育成という五つの事業が構想された。事業の具体的な遂行法歩は、研究の上で発表すると伝えられた。 孫三郎は、大原奨農会を、可能な限り徳義を重んじた会、徳義を基礎として各自の良心によって結合した会にしたいとの見解を有していた。利己主義や<卑劣な間違った考え>がまかり通るような会であれば、決して好結果は生まれないと孫三郎は考えていたのである。 この、農業改良資金を貸し出す、小作地を買い取って自作農になることを希望する人には融資を検討するなどと大原奨農会の方針は、他の岡山県下の地主から不評を買った。 その後、技術員が小作地を巡回して実地指導を行うなどの活動を展開していた大原奨農会は、一九一四年(大正三年)に、「祖父の三十三回忌に際し、父祖の努力の記念として父祖に対する報恩として」財団法人化された。 度重なる寄付と独立自営の道 しかし、大原奨農会の運営は孫三郎が当初投じた基本財産(田畑、宅地、原野の約百町歩強の土地と建物)からの収入だけでは難しかった。農業講習所や農業図書館などの事業の他、関係者の海外留学や海外の貴重図書の購入、建物の増築など、次から次へと経費が膨らんだためで、孫三郎は、幾度となく臨時寄付を行っていた。一九二一年(大正十年)までに孫三郎が投じた補助金はかなりの金額(少なくとも七万五千円)となっていた。 そこで、とうとう一九二二年のはじめには、運営の継続を可能にするために、大原家の農地のなかからさらに百町歩強が寄付された。このさい、「小作人が自作の目的を持って土地の譲受を望むときはこれに応ずること」という条件がつけられたが、この寄付によって大原奨農会は、二百町歩を超える土地を有するようになり、経済的安定は保証されるに至った。 大原奨農会農業研究所と財団法人大原農業研究所
孫三郎を農業面でサポートしていた近藤万太郎は、一九一一年(明治四十四年)から一九一四年(大正三年)まで孫三郎によってドイツに派遣された。欧州各国の農業事情、農政問題などの知識吸収のために留学した近藤は、学究的性格が強かったと伝えられているが、<農学校の設立よりも更に一歩進めて農業研究所を造り、農業技術の進歩発達を図ることのほうが緊要>であるという考えを持った。 近藤のこのような意見を受け入れて、創立十周年を迎えた財団法人大原奨農会は、一九二四年に方針を変更し、今後は学術研究を中心にしていくこととした。そして、この年の四月、大原奨農会農業研究所が設立され、種芸部、園芸部、農芸化学部、昆虫部、植物病理部などが設けられた。
この研究所では、温室ぶどうの栽培や白桃の品質改良も手がけられた。また二ヵ年を修養年限とする農業講習所も一時的にではあるが開設された。これらが一時的に開設された一つの理由は、農家の子弟を対象にした農学校を設立して、農民の経済的地位を向上させたいという孫三郎の以前からの希望が酌まれたためだと思われる。もう一つの理由は、新設された農業研究所が、長期間続けてきた
基礎研究活動を通じての研究の還元
しかし、農業研究所は次第に、教育活動や実地研究を離れ、学術的な基礎研究活動に集中するようになっていった。設立から五年後の一九二九年(昭和四年)三月に財団法人大原農業研究所と改称された頃には、種子や植物病理などの学術研究への集中度はかなり高くなっていった。学術研究の結果は、報告書や講演会を通じて公表され、穀物の貯蔵法や稲いもち病などの病理対策、雑草対策など、一般の農業改良にも大きく貢献した。
桃やぶどう、マスカットなどの果物王国として、また藺草の有名な生産地として岡山が名を馳せるようになった陰に、この研究所があったことはあまり知られていない。第二次世界大戦後の農地解放におって、孫三郎から寄付された農地を失った農業研究所は、岡山大学の所管となり、大麦のDNAサンプル保持と研究で世界的な権威として知られる岡山大学資源植物科学研究所として現存している。
※参考図書:『大原孫三郎傳』(非売品)昭和59年12月0日発行 大原孫三郎傳刊行会 製作 中央公論事業出版 P.78
2021.07.25記
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兼田麗子著『大原孫三郎』――善意と戦略の経営者 労働科学研究所 P.147~159 深夜の工場視察 一九二〇年(大正九年)三月、高野所長が大原社会問題研究所の機構改革に乗り出し、二つの研究部門――労働問題関連と社会事業関連――が統合されることになった。
研究所の中で唯一の医学士だった暉峻義等 大原社会問題研究所は、「とかく、議論一方に傾いていった。これでは真実のものもつかむことができないと考えた大原さんは、科学的に、実験的にやってみる必要があると考えて、労働科学研究所を暉峻義等博士を招いておこした」と牧師の田崎は説明している。孫三郎は、倉敷に来て労働者の状態改善に努力してくれるのならば、思い通りの研究施設を提供しようと暉峻に持ちかけ、まず下見として一九二〇年二月に暉峻と孫三郎は倉敷紡績の工場見学を深夜予告なしで敢行した。
孫三郎は、暉峻に工場の通常の状態を見せなくては意味がないと考えた。そこで孫三郎は、暉峻を旅館にいったん訪ね、夜間に視察する意向であるから、それまで待っていてほしいと告げた。孫三郎は、社長である自分が工場視察を行うということを現場に知らせなかった。なぜなら、もし、特別な来訪者があるとわかれば、工場の現場の人々がいろいろと取り繕うこともあり得ると考えたためであった。白足袋、雪駄
少女たちの労働環境を、労働科学研究所創設時のメンバーの一人、桐原葆見 孫三郎との深夜予告なしの工場見学を暉峻は次のように回想していた。「君、何とかしてこの少女たちが健康でしあわせになるように、ここでひとつやってくれんかというわけだ。はじめは、自分から見せようと言ったんだけれども、一年ぶりに入ってみて、やっぱり私という男を連れているのが大原さんに響いていたし、大原さん自身もなまなましい現実を一年ぶりに見たんですから、ひどくこたえたえたんすね。こうして頭をぶっつけて目を覚ましているんだからね。打っちゃ目を覚ましている(中略)いたるところでね。それは大原さんの痛切な要求だったんでしょう。歩きながら真剣に語り続けるものだから、僕も感動してしまって、『大原さん、やりましょう! ここへきてさっそくやりましょう!』というところにきたわけです。まあ一とおり見まして、大原さんがしみじみ『やってくれれば私も全力を上げてやります』と、こういうことだ」。 労働科学とは
暉峻義等、桐原葆見、石川知福 暉峻などが執筆した『労働科学事典』によると、労働科学とは「労働する人間についての学問であり、労働する人間の肉体と精神とについて科学的諸原則に立って、経営と労働とをよくする方法を発見する科学」となっている。また、「労働の機械化によって新たに起ってくる、機械的労働の人間生活や労働力に及ぼす影響を研究し、機械の重圧から人間を解放する科学的手段を発見する」ことが労働科学の任務であるというのであった。 「生産性の父」のテーラー・システム 労働問題を取り扱う場合、労働者を保護する側面からのアプローチと労働の能率の向上を図る側面からのアプローチの二つが考えられよう。言い換えれば、社会政策的視点からと経営生産的視点からというように、労働科学には異なる方向から接近することが可能なのである。 労働能率的アプローチとしては、米国の技師、フレデリック・ウィンズロー・テーラー(一八五六~一九一五)に『科学的管理法の原則』("The Principles of Scientific Managent")を著し、「能率」という言葉に特別、かつ新たな意味を与えた。 テーラーは、作業から無駄な動作を排除し、作業過程簡素化して、コスト削減と生産性アップを図ることに兆戦した。労働様式と所要時間を分析し、工具も合理的に配備して、一定時間内の最大生産につながる労働様式の制定を試みた。そして、あみ出した労働様式に合わせて労働者を訓練し、実際に労働させるというテーラー・システムを考案した。このシステムによって、労働者と事業主双方に最大の繁栄がもたらされるとテーラーは主張していた。 分析的な研究に基づいて、無駄な動作と労働者の疲労を避けながら最大生産を達成することができると宣伝されたテーラー・システムは、米国社会に影響を及ぼし、工場生産に貢献した。その後の米国では、ヘンリー・フォードがコンベヤーを使用した流れ作業で大量生産を実現した。産業能率的側面の経営学は現在も盛んであり、「生産性の父」としてテーラーは今も影響を及ぼしている。 しかし、テーラー・システムによって、労働者にとって不利な状況も生じたことは確かであった。仕事量の顕在化に伴う給与カットや人間を機械のように見る視点が生じたのであった。そのため、批判も続出し、テーラーは、『科学的管理法の原則』を発表した年とその翌年に米国下院の特別委員会に喚問され、テーラー・システムの欠陥が糾弾された。 日本の労働科学の発祥地 暉峻は、労働能率に偏重しているとの指摘も受けたテーラー・システムを批判的にとらえていた。また、研究所員の桐原も、「労働科学は人間の労働を研究する実践科学である。(中略)労働科学は働く人間のために真実に合理的な労働と生活の条件を求めてやまない社会生物科学(Sociobiological science) である。そこには感傷ではない、合理的ヒューマニズムがなくてはならない、というのがわれわれの志願」であると語り、「どんな体制の下でも労働者大衆のためのも(labour oriented)」でなくてはならないという労働科学への思いも強調していた。 つまり、倉敷労働科学研究所が、ベルギーや米国など欧米の動きに目を向けながら取りかかることにした労働科学とは、単に効率の向上を目的にするものではなく、人間尊重の視点を重視した実践的学問であったのである。この研究所が日本の労働科学の発祥地となった。 具体的には、肉体の科学である労働生理学と精神の科学である労働・産業心理学という二つの基礎科学をベースにして、生化学、労働・産業・社会衛生学、職業疾病学などの観点を連携させながら研究が進められた。また、栄養学、臨床医学、心理学などの専門家も研究員に加えられていった。 実地の予備的調査
※写真説明:1921年7月20日、倉敷労働科学研究所の開所式。 暉峻たちが行った調査とは、夏季の五週間、女子寄宿舎の一角で起居をともにし、昼勤と夜勤をそれぞれ一サイクルずつ経験した場合の女子労働者の身体機能や態度の状態を追跡調査するというものであった。 当時、工場の労働現場では、正午と夜中の零時に四十五分間の食事休憩があった。また、午前三時頃と午後三時頃には十分から十五分の休憩時間が設けられいた。十八時間ということもあったようであるが、原則として、工場の女子労働者は、十二時間二交替で働くことになっていた。昼勤が朝六時から夕方六時まで、夜勤が夕方六時から翌朝六時までで、それぞれ十日間続けることが一サイクルとされていた。一サイクル(たとえば昼勤を十日間続けること)に入る前に、一日休みを取ることができた。 調査項目は、体温、脈拍、呼吸、血圧、皮膚感覚と音に関する反応時間などで、夜勤を続けると通常の値ではなくなるだろうという予測を裏付ける結果が得られたという。この、昼夜交替作業による肉体的、精神的影響の調査を皮切りに、倉敷労働科学研究所は、疲労問題を中心テーマとして扱うようになっていった。 一九二〇年末には大原社会問題研究所の社会衛生部門が倉敷紡績の万寿工場内に移された。こうして翌一九二一年七月一日、大原社会問題研究所から分離して、実験研究施設が整備された倉敷労働科学研究所が正式に発足した。 政策や現場に影響を及ぼした実地研究 この分野の研究については、後に研究員となった勝木新次(一九〇三~八六)が、「昼夜交代作業に関する研究は婦人の深夜業禁止という内容を含む工場法改正の有力な支えとなったことは疑いのないところである」との見解を示している。 倉敷紡績では一九二九年(昭和四年)四月一日をもって各工場が一斉に深夜業を廃止した。他社も含め、紡績各社はおおむねこの年の六月末までに深夜業撤廃を実施した。 これ以外にも、倉敷労働科学研究所の研究は、労働時間を短縮することや女性労働者の福利施設を改善することの必要性などを科学的に裏付けていったのであった。 一九三〇年には、綿業不況のため、労働科学研究所の経営は、倉敷紡績から孫三郎の個人経営へと移管されたが、この年には、「補償体操」が倉敷労働科学研究所によってはじめて提案された。この体操は、今日では珍しくない職場体操の先駆けで、「現代の生産的活動が、小部分の身体部局を用い、長時間にわたり、同一の体勢と緊張を以て行う持続的反覆性作業であるから、健康を維持し、心身機能の順調円滑な発展を期するためには、補償的な体育運動を以てしなくてはならぬ」という考えに基づいていた。 この時期になると、従来の産業分野の研究のみならず、農業労働と農村生活に関する研究にも乗り出した。そして、一九三二年には、妊娠中の女性労働者の母体保護にかんする提案を行った。この提案は、労働衛生行政に取り上げられることはなかったが、倉敷労働科学研究所は、労働時間の制限、妊娠九、十ヵ月目の労働禁止、定期的な体重測定とその結果に応じた労働と栄養面のチェック、および妊婦の作業変更の必要性を訴えた。 労研饅頭と冷房導入の検討
また、栄養面でも労働科学研究所は、社会に成果を発信した。中国東北部の労働者の間で主食となっていた饅頭 この蒸しパンのような労研饅頭は、倉敷教会の田崎牧師が宣教に訪れた松山にわたり、夜学校の学生と奨学金充実のために製造、販売が手がけられるようになった。労研饅頭はこの松山の店舗で現在も購入することができる。 設立当初には大気条件の研究も行われた。この問題は孫三郎がかねてから解決したいと願っていたことであった。孫三郎は、高温多湿で働く労働者の疲労と夏季の減産を防ぐため、工場内の温度と湿度を調節する冷房装置付きの空調試験工場を建設することを計画していた。そして、英国には空調が完備した工場があり、効果を上げているという報道を耳にして、冷房用大型冷凍機を一九二一年(大正十年)に発注していた。また、技師を英国や米国の視察にも派遣した。しかし、この冷凍機付試験工場の建設は、不況と関東大震のため頓挫してしまった。購入された冷凍機は製氷所と改められ、孫三郎が設立した倉敷中央病院で重宝された。工場の作業場の温・湿度の調節のためには、建物の壁面を蔦で覆うことも一つの策として打ち出された。倉敷アイビースクエアの名称はこの蔦(英語で ivy)に由来する。 損得勘定ぬきで しかし、倉敷労働科学研究所は、大原社旗問題研究所や大原農業研究所と同様、孫三郎のビジネス面での利益向上にはほとんど寄与しなかったといわれている。 それどころか、孫三郎にとってマイナスと思われる活動も容認された。暉峻は、労働科学研究所の研究成果を公表したいと孫三郎に要求した。当時、労働運動が高まっていたなかでの紡績工場の経営は、たやすいことではなかった。そのため、人道主義的側面を強く有していた孫三郎であっても、暉峻の要求に対して、当初は難色を示した。しかし、最終的に孫三郎は、<始めるからには続けること>と長期的な継続を奨励するアドバイスを付した上で、研究結果の公表を認めた。 孫三郎が公表を許したことについて暉峻は、「大原氏の許容は実に一大決意であったに相違ない。日本のいずくの工場経営者に、当時に於て、その労働状態の科学的批判を自らの経営下にあるものの仕事として天下に公表せしめたものがあるか(中略)。ここにも余は大原氏の科学的研究に対する尊敬すべき理解を発見し、この識見の非凡なる畏敬の念を禁ずる能わざるものがある」と称賛していた。こうして労働科学研究所は、一九二四(大正十三年)六月からの機関誌『労働科学』を発行するようになった。 労働科学は、資本主義経済の発展に伴って生じた労働者の問題を具体的に改善、あるいは解決しようとして動き出した科学であり、日本で強くサポートしたのは企業家の大原孫三郎であった。所員の桐原は、孫三郎との会話を基にして、孫三郎が倉敷労働科学研究所を設立した意図を次のようにまとめていた。「自工場の労務管理施策のためではなくて、ひろく労働と労働者一般のために、ということである。もし私意がかりにあったとしても、それは自分がやって来た、またこれからしようとする労務管理の理念と施策との科学的裏付けでももし出て来れば、もっけの幸だ、というくらいのものであろう」。 東京への移転と再出発 労働科学研究所は、倉敷紡績の経営悪化に伴い、一九三〇年(昭和五年)に孫三郎個人の経営に移された(倉敷紡績から経費の一部補助はあった)。その後、倉敷労働科学研究所は一九三六年末をもって解散することが決まり、同年の十月十二日に創立十五周年記念式と解散式を兼ねた式典が行われた。 翌年からは財団法人労働科学研究所として東京で再出発を切った。移転にさいして倉敷紡績は、労働科学研究所の三年分の人件費(解散時の所員は四十めい)と多少の維持費、移転費用すべてを負担した。また、研究所の施設・設備・図書すべても寄付された。 孫三郎の手を離れた理由は、紡績労働の研究は一段落したので社会一般での研究に専念したいと暉峻が希望したこと、重要分野ゆえにさらに充実した大規模な公的組織で経営されるべきだとの意見が起ってきたこと、孫三郎が亡くなった場合の財政が憂慮されていたこと、などであった。日本学術振興会の研究補助によって暉峻が国民栄養調査を実施した縁もあって、日本学術振興会が孫三郎を説得した側面もあったようである。 その後、労働科学研究所は神奈川県川崎市に移転し、現在も活動を展開している。 ※参考図書:『労働科学研究60年史話』(編集発行所 財団法人 労働科学研究所)(昭和56年10月30日 発行) 2021.07.14記 |
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兼田麗子著『大原孫三郎』――善意と戦略の経営者 何にでも、誰にでも支援するにあらず 孫三郎を社会事業家ととらえて、寄付を要求した人物も多かったようである。しかし、濱田庄司は、東京の旅館に突然金銭を無心に来た社会事業家を名乗る人物に対して孫三郎が<いいことばかりに金を出しているのとは違う>(いいことならば何にでも金を出すわけではない)とはっきり断った場面を目にしたことがあった。孫三郎は何にでも、誰にでも支援を行ったわけでは決してなかった。信念と理想、人間関係が大きな鍵だったことは、本章の芸術支援に目を向けても明らかである。 反骨心のある人物を支援
児島虎次郎や柳宗悦、濱田庄司、河井寛次郎などの民芸関係者以外にも建築家の薬師寺主計、郷土の画家、満谷国四郎(一八七四~一九三六)、音楽研究家の兼常清佐 土田との交流を例に挙げると、土田は穏健な文展に対抗して、小野竹喬(一八八八~一九七九)たちと国画創作協会を結成した。このような」上田の姿勢に共鳴して、孫三郎は手厚く支援したものと思われる。
2021.07.19記 |
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兼田麗子著『大原孫三郎』――善意と戦略の経営者 孫三郎と三つの研究所 P.159~164 しゃにむに進んだ孫三郎 このように孫三郎は、周囲から白眼視されようが、道楽とみられようが、信念と主張をもって設立した科学研究所へ資金提供し、活動を支援した。それは決してたやすいことではなかっただろう。
總一郎は、孫三郎のこれらの事業について、「賛成者の有無なぞは、初めから全く考慮のうちにおかず、それでしゃにむに創 資本提供ということに関連していうならば、法政大学大原社会問題研究所の所長を務めた法政大学名誉教授の二村一夫によると、大原孫三郎は、大原社会問題研究所の創立から一九三九年(昭和十四年)までの二十一年間に合計で百八十五万円もの資金を提供していた。現在との価値比較のために単純に五千倍にすると九十二億五千万円、一万倍にすると百八十五億円にも達する。 浪費や無駄遣いとは無縁 また、總一郎は、孫三郎の金銭の使い方について、次のようにも述べている。「守旧派の他の会社役員(重役)との間には、事務経営や新企画の上で、つねに必ずしも、ウマがあったとは限らず、父の立場は時々妙にうき上がることがあったらしい。そんな際にはますますムキになって、父は初心貫徹に頑張り、とどのつまりは、会社の拠出によるべきものまで、なけなしの私財を投ずることになった。そんなこんなで、父は世間から金持ちにみられながら、しょっちゅう、文化道楽(他の人はそうみた)のためには自分のフトコロをピーピーさせていました」、「ゼイタクといっても、それは思うままに金を使うという意味で、浪費とかムダ使いとかいった意味ではない。(中略)何一つ行うにも、必ず『主張をもつ』ものでしたから、金の方も思い切ってそれに使いました。それだけに、絶対に死金というものは使わなかったわけです。(中略)父の場合は、一銭にもすべて『自分を生かす』ことにつとめていましたので、そうした矛盾はどこにも感じられませんでした」。 このような總一郎の回顧談は、「主張のない仕事はしない」が口癖であった孫三郎の強い信念があってはじめて事業が継続できたことを物語っている。孫三郎は、主張を持った、生きた金銭の使い方にこだわり、虚飾のような贅沢を嫌った。 ここで、林源十郎の孫の上田昌三郎が筆者に教えてくれたエピソードにふれておきたい。あるとき社長の署名が必要になり、孫三郎は墨の準備を秘書に依頼した。すると、秘書が硯にたっぷりすった墨を持ってきた。孫三郎は、ただ署名をするだけであるから、無駄なことはしないようにと言ったというのであった。孫三郎の一面がうかがい知れる。 合理的で中庸な解を求めて 当時の知識人は一般的に科学主義、合理主義を信奉していた。孫三郎を早稲田の校友とした大隈重信も、たとえば「今日は何事も科学の世の中だから」、「更に進歩せる現代の科学的知識に依り、新たな植物研究を初めたなら、まだ食膳に上り得る物は沢山に此世に残されて居ろうと思う」というように、「科学的」であることを旨としていた。このような科学の時代とそれを吸収・利用しようとしていた人々の影響から孫三郎が無縁だったとはいえない。 それでも、孫三郎が科学を尊重した理由の一つは、時代のエートスだけでは語れない。並外れた熱い情で孤児院経営にあたった石井十次をもってしても孤児の問題を完全に解決することはできなかった。事後処理的な活動では、社会問題の根本的な解決には至らなかった。そのため孫三郎は、事前的な解決策を科学に求めたのである。社会の問題は構造的で複雑さを増していた。資本主義の発展による構造的矛盾や不合理、貧富の格差が目に余るようになった当時、第一次世界大戦、ロシア革命を経て、階級的対立的な過激な思想が日本にも流入してきた。 儒学的教養を幼少から身につけ、二宮尊徳の思想からも感化を受けていた孫三郎は、中庸や調和を尊んだ。また、先祖の努力を否定することなくそれに報いることに努めると同時に、子孫とは先祖の誤りを正す存在であるという考えを孫三郎は持っていた。このような孫三郎は、家業として受け継いだ地主として、また企業経営者として、バランスある問題解決の方法を求めたいと願っていたのであった。 しかし、労働問題や貧富の格差の問題は、あまりにも大きく、根深く広がっていた。その解決策は容易に見つからなかった。対策を徹底的に研究して実施する必要があると孫三郎は痛感し、研究所を設置したのである。大原社会問題研究所を設立するにさいして、孫三郎の訪問を受けた京都帝国大学の河上肇は、まずは自らの思想的立場を決し、明らかにすることからスタートするべきではないかと孫三郎に語ったという。それにたいして孫三郎は、「自分の思想がきまっておれば、研究所をつくって研究する必要はない。思想的立場が決まらないから研究所をつくるのだ」と返答した。 孫三郎は、社会問題を根本的に防止する策を講じたいと考えたが、どうするべきかわからなかった。そのため、科学に新しい期待を寄せたのである。孫三郎は、科学的手段がバランスある解決策の発見に貢献してくれると感じ取っていたにちがいない。 福沢諭吉の語った夢
孫三郎と接点のあった大内兵衛は、福沢諭吉が一八九三年(明治二十六年)十一月十一日に慶應義塾で語った<夢>を孫三郎は実現したと語っていた。福沢諭吉は、「一種の研究所を設けて、凡そ五、六名乃至十名の学者を撰び、之に生涯安心の生計を授けて学事の外に考慮する所なからしめ、且その学問上に研究する事柄も其方法も本人の思うがままに一任して傍 衣食の心配があるから学者は充分な研究をしないのである。だから、そのような心配は無用となるような待遇を提供し、成果不問の自由な研究を可能とするような学問研究所をつくってみたい、という福沢が壮年から抱きつづけた夢を、孫三郎が三つの研究所でまさに実践したのであった。 2021.07.16記 |
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兼田麗子著『大原孫三郎』――善意と戦略の経営者 大原美術館 P.165~179 公私ともに難局にあっても必要ならば放棄せず 大原孫三郎が心血を注いだ分野は、経済や社会、地域、学術のみならず、文化や芸術にも及んでいる。後世に残っている実の一つが倉敷市の美観地区にある大原美術館である。孫三郎は晩年、手がけた事業を回顧して、「心血を注いで作ったと思っているものが案外世の中に認められず、ほかのものに比べれば、あまり深くは考えなかった美術館が一番評判になるとは、世の中は皮肉なものだ」と語ったこともあったという。 この言葉は孫三郎が大原美術館を適当につくったということではない。農業研究所をはじめとする科学研究所などは、立場や経験に基づいて、社会の現状を改良したいと心底考えた孫三郎が、腹案としてずっとあたためてきたものを試行錯誤で形にしたものであった。それらに比べると、西洋絵画の蒐集と美術館創設は、孫三郎が考えてものではなく、児島虎次郎との縁によって着手したものであったので、このような表現になったのであろう。 孫三郎には、<景気は好況、不況と回転する。しかし、文化の種は早くから蒔かなくてはいけない>という考えがあった。四十七歳で早世した親友、虎次郎との友情の証として孫三郎が大原美術館を創設した一九三〇年(昭和五年)前後は、孫三郎にとって公私ともに苦しい状況が続いていた。前年には、ニューヨーク証券取引所での株価暴落に端を発した世界恐慌が発生し、倉敷紡績も不況のあおりを強く受けていた。プライベートでも、かねてから胆石を患っていた寿恵子夫人が、美術館の地鎮祭一周間後に病没してしまうという悲しみに直面した。しかし、そのような状況のなかでも孫三郎は、美術館創立構想を放棄することはなかった。 一歳違いの「心友」児島虎次郎
大原美術館は、大原孫三郎と画家、児島虎次郎の友情に端を発している。虎次郎は、東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科選科で、黒田清輝 虎次郎は、一九〇二年、有為の学生に対して大原家が学資支援を行っていた大原奨学生(第八章で詳述)の面接を受けるために孫三郎にはじめて会った。 孫三郎の秘書、柿原政一郎が明かしたところによると、孫三郎は虎次郎と対面したさいに「何の目的で画家になるのか。金もうけか出世か」と尋ねたという。虎次郎は、真に優れた画を描いて美術界に貢献したいと答えた。孫三郎は、虎次郎の誠実さに打たれ、手厚い支援は虎次郎が死去するまで続けられた。 欧州留学と洋画購入の要請 一九〇七年(明治四十年)に虎次郎は、東京府主催勧業博覧会の美術展に<里の水車>と<なさけの庭>という二作品を出品し、一つが一等入選、もう一つが昭憲皇后の目にとまり、宮内省買い上げとなった。大喜びした孫三郎は、虎次郎に五年間もの欧州留学をプレゼントした。 その後の一九一九年(大正八年)にも孫三郎は、いっそうの勉強のためにということで二度目の欧州留学を虎次郎に許可した。このとき虎次郎は、ロンドンに到着するなり、<日本の若い学生のために、本場の名画を蒐集して帰りたい>と孫三郎に絵画購入を希望する葉書を送った。虎次郎は、幸運な自分は孫三郎の支援で本場の名画を直接見て勉強することができるが、日本で勉強している人たちには、一流の西洋絵画を目にする機会がほとんどないと考えたためでる。 孫三郎は即答はしなかった。西洋絵画を購入するなど孫三郎は考えていなかっただろうし、金額も決して安くはなかったためだと想像できる(ちなみに後に虎次郎が購入したエル・グレコの「受胎告知」は十五万フラン、日本円で約五万円だった)。しばらくの時を経て「絵を買ってよし」という許可を孫三郎から得た虎次郎は、画商には頼らず、自分の眼識にそった作品を買うべく、モネなどの画家を直接訪ね歩いて絵画を蒐集した。 蒐集した洋画を即時に一般公開 モネの<睡蓮>やマチス、コッテ、テヴァリエールなどの西洋絵画を蒐集した虎次郎は一九二一年(大正十一年)に帰国した。孫三郎は、大原邸近くの倉敷小学校新川校舎で「現代仏蘭西名画作品展覧会」を開催した。倉敷駅から会場まで、長蛇の列ができるほどの好評に孫三郎は驚いたという。 その年末には、虎次郎がアマン=ジャンに購入を依頼していた作品が到着したことを受け、第二回目が、また一九二三年には第三回目の展覧会が開催され、全国から人が訪れた。 孫三郎の父方の祖父(岡山市の儒家)は浦上玉堂や頼山陽とも親交があった。父も伝来の日本や中国の書画骨董を多く有し、愛好していた。そのため、孫三郎も幼少期から東洋美術に囲まれて育ち、客間などの掛軸のかけかえは、少年時代から孫三郎の役目となっていた。このような環境で育った孫三郎は東洋美術を好み、鑑識眼を身につけ、郷土の雪舟や玉堂の書画を蒐集するようになっていった。そのいっぽうで、西洋画については、鑑識眼も知識も関心もほとんど持っていなかった。 実際、孫三郎は、欧州留学中の虎次郎に出した書簡で洋画をさして、「小生は画の事は素人なれど」と記述していた。また、短期間に集められた西洋の美術品がどの程度の価値を持っているのか、孫三郎は一抹の不安を持っていたと息子の總一郎は回顧している。 展覧会の実況記事
第二回展覧会を訪れた広島出身の洋画家、辻永
「この町の名物の一つになった此名画展覧会を見ようとして、此駅に降りる多数の人でプラットホームは一杯に」になり、展覧会場は「下車した列車から吐き出された沢山の観覧者で一杯」であった。「此観覧者の総ては、帝展辺りのそれとは又趣を異にして、皆非常な熱心を以て遠きは東京、九州、近きも京都、大阪、神戸、広島、岡山辺りから集まって来た斯道鑑賞研究の熱心家ばかり」で、小学校の校舎の天井を白布で、壁面を渋い暗い色の布で覆った「立派なギャレリ―」に「陳列された総数三十四点、とにかくこれ丈け実のある見ごたえのする各作家の作品展覧会は本場の巴里でも容易にはあり得ないと思う。遥々此処 美術館設立構想 辻はさらに、「東京に立派な美術館はあるものと、彼地の人々は心得て居るだろうが、何という皮肉、何というみじめさであろう。近々の中に此れ等の作品を容れる美術館を大原氏が建てられるそうだが一刻も早く実現されん事を望んでやまない」と孫三郎の美術館構想を耳にしていた。辻のこの紹介記事から半年ほど経過した後には、孫三郎の美術館構想が新聞で次のように報道されていた。 「社会問題の研究に美術品の蒐集展観にそれぞれ貢献しつつある大原孫三郎氏は予て岡山県倉敷に美術館を建設してその所蔵にかかる泰西名画名陶器類を陳列一般に公開する計画をもっていたが氏はその顧問役である洋画家児島虎次郎氏の建議に従い鉄筋コンクリート建ての計画を捨ててわが国に最初の石造美術館を建設する事にした。そしてこれと同時に泰西名画及び名陶器類をもっと大々的に蒐集する事とし児島氏はその嘱を受けて既に渡欧したからいずれ遠からず名品到着して新美術館と共に異彩を放っであろうがかかる名品を直ちに田舎にしまい込むのは惜しいとの声もあるので新製品到着の上は在来のものも一緒にして約一万円の経費で一度東京に大々的に展覧会を開こうとの議がある」 展覧会への人々の関心を看てとり、その社会的な意義を確信した孫三郎は、美術館創設を念頭に、さらなる絵画蒐集のための渡欧を虎次郎に依頼したのである。そして、虎次郎が三度目の欧州滞在から戻ると、それ以降、倉敷だけでなく、東京や京都でも大原家所蔵の泰西名画展が開催された。この活動によって孫三郎と虎次郎は一九二八年(昭和三年)にフランス政府より美術功労者として勲章を授与された。 虎次郎によるフランス風の美術館構想 美術館建設は、虎次郎が孫三郎に持ちかけていたことがわかっている。いつ頃からは明白ではないが、先にふれた新聞報道の中でほぼ虎次郎の構想どおりの内容が示されていることから、この新聞報道の前(おそらく帰国して第一回、第二回の展覧会が開かれた頃)には、美術館建設を考えていたものと想像できる。 虎次郎は、自分のアトリエのあった酒津(現倉敷市)の無為村荘の敷地内にフランスの田舎家風の石灰岩造りの美術館を建てるという構想を打ち出し、一九三七年(昭和二年)のはじめには大理石の見本などを取り寄せはじめた。
孫三郎も虎次郎の計画に賛成し、一九二七年七月十三日には、孫三郎、虎次郎、大原奨学生出身の建築家、薬師寺主計 虎次郎との信頼関係と友情 児島虎次郎も孤児院に頻繁に出入りし、院内で写生を行なっていた。石井十次も虎次郎を気に入り、十次の長女、友子が後に児島夫人となった。十次は、虎次郎が、自分の後を継いで岡山孤児院を運営していくことを希望した。しかし、孫三郎は、画家としての虎次郎の能力を尊重して、そのことには反対した。 虎次郎は、孫三郎の依頼を受けて本格的に絵画を蒐集するために、一九三二年(大正十一年)に三度目に欧州へ行ったさい、友子夫人に次のような書簡を出していた。<今回も大原様の特別なる加護を受けたる事を感謝すればするほどに、今回の旅行は非常なる責任と義務を要すべきことにて、とても一通りの力にては勤まり申さずと存じ候。ただ天命の導きによりてこの重命を全うすべく誓い申し候>。この虎次郎の書簡からは、虎次郎を信じて欧州に送った孫三郎とそれに精一杯応えようとする虎次郎の、二人の信頼関係がうかがえる。 虎次郎の死と美術館の創設 だが、寝食を忘れて創作に打ち込んでいた虎次郎は一九二八年(昭和三年)九月十一日に、脳溢血で倒れた。一時小康を得たが、翌年三月に虎次郎は早世してしまった。享年四十七だった。 葬儀で孫三郎は、<君は僕が本格的に心から信じていた友達の一人であった。(中略)僕は今君と最後の別れをなすに当って、心から君に謝する>と虎次郎に語りかけた。 虎次郎を偲ぼうと考えた孫三郎は、本章冒頭にふれたように、経済的に困難な時期であったにもかからわず、虎次郎の作品、そして虎次郎が蒐集した西洋絵画を展示する美術館の建設を考えた。 孫三郎は、「大原美術館設立趣意書」のなかで、「生涯を通じて研鑽に心血を傾倒」、「碑にお夜を継いで研究に心を砕き」、「毎年その力作を巴里の展覧会に送って居りました」、「懸命の努力をつづけた」と虎次郎のことを振り返っていた。また、「誠に感嘆に値した」、「残念に堪えぬ」という表現でもって自分の感情を吐露していた。当初は、児島画伯記念館という名称を孫三郎は考えていたが、周囲の意見を聞き入れ、大原美術館と定めた。 これらのことを鑑みると、孫三郎が大原美術館を設立した最大の理由は、前述したとおり、やはり児島虎次郎との友情であったことは明らかである。そして、その友情のなかには、孫三郎の人を信じる心が含まれていた。このような孫三郎の姿勢と信念が、虎次郎との友情を美術館という形で具現化させたといえよう。孫三郎は人を信じたらとことん信じ、「これは」と見込んだことには迷うことなくお金を出したという孫三郎の孫(總一郎の長男)、大原謙一郎の言葉は、まさに美術館創設についても当てはまるのである。 社会一般への富の還元 孫三郎が美術館を設立しようと考えた背景には、もう一つ、社会への富の還元、社会貢献を挙げることができる。そもそも、虎次郎が絵画蒐集を孫三郎に依頼した動機も、自分自身のためではなく、自分以外の画学生の勉強のためであった。 孫三郎は、実際、「いささかなりとも同君の生前の仕事が斯道に志す人達或は一般愛好者の御役に立てば仕合わせと思います」、「将来此美術館が少しでも世に貢献する所があれば児島君も地下に満足する所であり、私の微意もその目的を達する次第で御座います」と「設立趣意書」のなかで述べている。 ここからわかることは、孫三郎は設立のさいに、虎次郎のため、画学生のためのみならず、明確に社会一般の民衆のためを意識していたといことである。 現在、大原美術館は、「大衆のために開かれた美術館」であることを特に重視しているが、この理念は設立時から脈々と続いてきたものであったことがわかる。 すでに、大原農業研究所、大原社会問題研究所、倉敷労働研究所、倉紡中央病院を設立して、身近な人々のみならず、社会一般にも目を向けていた孫三郎は、富者である自分の役割を認識して、芸術、文化の面でもリーダーシップを発揮したのであった。 「大原美術館はルーブル」であった
しかし、一九三〇年(昭和五年)の開館当初は、入館者がゼロの日もあり、多くの非営利的な活動を手がけてきた孫三郎にとってもその行く先を憂慮する存在であった。では、其の後の大原美術館は、日本における西洋美術にとって、どのような位置を占めてきたのだろうか。 二代目館長の藤田慎一郎(一九二〇~二〇一一)は、芸術家や美術学校の学生にとって、日本に西洋美術の本質を最も早く紹介した戦前の「大原美術館はルーブル」であり、「倉敷はパリ」であったという話を彫刻家の柳原義達(一九一〇~二〇〇四)から聞いていた。 その後、一九五二年に、代表的な西洋美術館の一つであるブリヂストン美術館(大原美術館と同様にモネの睡蓮も所蔵)が企業経営社の石橋正二郎によって東京に創設された。大原コレクションと同時期に蒐集された「松方コレクション」の一部(第二次大戦後に政治交渉によってフランス政府から返還されたもの)を展示することを主目的として、国立西洋美術館が開館されたのはブリヂストン美術館から遅れること七年であった。 倉敷を爆撃から救ったとの説 また、戦時中には美術館が倉敷への爆撃回避の一因にもなったとの説がある。美術館開館から二年後の一九三二年(昭和七年)に、満州事変の状況調査のために国際連盟から派遣されたリットン調査団の一部の人が私的に大原美術館を訪れた。そして、「中央集権の独裁国だと思っていた日本の片田舎に、このような文化財が公開されているということは、調査団の先入主を改めさせる好材料だ」といったということを總一郎は伝えていた。 現在までのところ、倉敷の爆撃回避に美術館が一役買った可能性を裏付ける根拠は発見されていないが、建築学者の上田篤は次のような見解を示している。「奈良、京都、金沢は古代、中世、近世の日本文化を系統的に数多く包蔵している由緒ある町であるが、倉敷は必ずしもそうではない。(中略)アメリカ戦略空軍が倉敷の町の日本文化に着目し、それを保存しようとしたとはとうてい考えられない。それはむしろ日本文化ではなくて西欧文化――すなわち大原美術館に収蔵された西欧の印象派前後の数々の名品のせいなのである。アメリカの軍人たちは自らの文化を灰燼に帰するにしのびなかったのである。つまり一個の美術館が町を救ったのである」と。 現在の大原美術館
「大原(美術館)は(絵の)値段で話題になったことはない。しかし、ほかの意欲的な美術館、特色のある美術館はたいてい値段で話題になった絵がある。そういう形で美術館を有名にしようと逆手にとっているところもある。それは正常じゃない」と詩人、評論家の大岡信 日本において「西洋美術館」の概念をつくり上げたのも、大原美術館の大きな業績である。印象派をはじめとする多くの一流の西洋絵画に接する機会を提供し、洋画を見る目と愛好家を日本に根づかせることに貢献したといえるのではないだろうか。大原美術館について最もよく使われる修飾語は、「日本最初の本格的な西洋美術館」や「日本最初の西洋近代美術館」という表現である。 ちなみに第四章でもふれたが、孫三郎は、腹案としてきた公会堂設立の代りとして、現在の大原美術館と新渓園のある土地(約二千坪)と建物(五棟約百五十坪)を現金一万円とともに、一九二二年(大正十一年)十二月に倉敷町に寄付した。このため、大原美術館は、開館当時に設立された正面玄関のある一部の建物(旧本館)以外の建物(徐々に増築された分館など)については、現在も倉敷市に借地料を支払っている。 このような大原美術館は、現在、独立採算制で、入館料収入を中心に、寄付も募りながらすべての運営を行い、民間の立場から自由に、また、公共性を重視した活動を展開することを追求している。現理事長の大原謙一郎は、政治や経済の担い手だけでなく、文化分野に携わる人間も国際理解や交流などを手始めに様々な分野で積極的に役割を担って貢献する時代、すなわち「文化が汗をかいて働く世紀」であると訴えかけ、積極的な教育普及活動にいっそう力を入れている。 地域還元には特に力を注いでいるため、地元の幼稚園、小学校、中学校、高等学校などとも連携して、「お母さんと子供のための特別展」、「サラリーマンンのための週末美術館」、「お母さんと子供のための音楽会」、そして「ギャラリーコンサート」など、多くの企画が継続的に展開されている。 地域に根づく美術館のイベントは、倉敷から決して離れなかった孫三郎、そして總一郎から脈々と続いてきた姿勢と考えを受け継ぎ、発展してきたものといえるかもしれない。 2021.07.12記 |
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兼田麗子著『大原孫三郎』――善意と戦略の経営者 民芸運動の推進
<文化の種は早くから蒔くべし>と考えていた孫三郎の文化、藝術支援は、西洋絵画の蒐集と大原美術館の設立のみではなかった。ここでは、もう一つの例として柳宗悦 民芸運動は、地域の風土や習慣、伝統のなかで培われてきたなもなき職人による民衆的工芸、いわゆる民芸のなかに見受けられる<健全な美>への認識を高めていくことを目的とした運動である。これは、柳宗悦(一八八九~一九六一)、濱田庄司(一八九四~一九七八)、河井寛次郎(一八九〇~一九六六)、富本憲吉(一八八六~一九六三)などが中心になって展開された。 浅川兄弟と朝鮮白磁
柳宗悦が民芸美に目覚めたきっかけは、一九一四年(大正三年)の浅川伯教 当時の朝鮮では、儒教の大きな影響もあって、手を使う職人は尊敬の対象にはなっておらず、民衆が使用する工芸品の価値も見いだされていなかった。朝鮮白磁をはじめとする朝鮮の芸術に魅了された柳宗悦は、この状況を不思議がり、各地をまわって民芸品を蒐集した。 民族と芸術の表裏一体性(たとえば、この民族だから、このような芸術が生み出されたというようなこと)を確信した柳は、無めいの工人がつくったもののなかに美を認めると同時に、白磁などの芸術品を生み出す朝鮮民族にも敬愛の眼差しを持ちつづけた。 朝鮮民族美術館の設立と日本での蒐集 柳は、浅川伯教とその弟の巧(朝鮮の林業試験場勤務、一八九一~一九三一)を通じて朝鮮の工芸美、歴史、朝鮮人についての知識を深めていった。柳と浅川巧は、ゆくゆくは<朝鮮民族美術館>を設立しようと考えながら朝鮮の工芸、芸術品を蒐集した。そして、一九二四年(大正十三年)三月、朝鮮民族美術館(現在の韓国民族博物館につながるもの)をソウルの京福宮神武門外に誕生させた。柳はその土地で生まれた物はその土地にかえることが当然であって、朝鮮の職人の作品は、朝鮮の土地に置くべきだという考えを有していたのであった。 柳たちはその後、日本でも各地域をまわって民芸品の調査・蒐集を行い、伝統的手工芸の保存と振興を指導した。また、民芸美を啓蒙する執筆活動、出版活動も行いながら運動を展開していった。柳たちの土着性を重視する姿勢は、朝鮮でも日本でもいっこうに変わりはなかった。 孫三郎と民芸の出あい いっぽうで、孫三郎もまた、「文化というものは中央に集るのはよくない。地方にあるからこそよいのだ」という考えを持っていた。これまでふれてきたように、孫三郎は倉敷や岡山の経済、生活、知識、文化レベルを向上させることを第一の使命ととらえていたためといえよう。西洋美術館の設立を考えたさいにも、大阪財界の友人から、<倉敷のような地方につくるより、東京や大阪といった大都市につくったほうが入館者も多くて運営も楽だろう>という忠告を得たが、耳を貸さなかった。 倉敷では一九二一年(大正十年)倉敷文化協会が設立され、美術品展覧会と文化講演会が催されるようになった。そして、その協会と孫三郎を中心にした文化重視の運動が高まっていった。 孫三郎は常々、倉敷にはこれといった土産物がないので、地域に根づいた文化的産物が必要だと考えていた。そこで、一九二三年頃から孫三郎たちは、そのような特産物の候補として木工品、酒津陶器、藺草製円座などに着目し、製作活動を支援するようになった。 濱田や柳たちとの出会い
この倉敷の民芸運動とでもいうような活動は、児島虎次郎も中心的役割を果たしたが、虎次郎亡き後は、孫三郎の主治医、三橋玉見 孫三郎と濱田や柳などの民芸運動家を結びつけた人物は三橋であった。三橋を通じて孫三郎は濱田の作品に傾倒するようになり、一九三二(昭和七年)には、濱田の作品展覧会が倉敷商工会議所で開催された。このときに孫三郎は、柳宗悦とはじめて顔を合せ、民芸論や民芸運動についての詳細な話を聞いた。
この出会いを契機に、孫三郎は柳たちを支援するようになった。そして、柳、濱田、河井、富本、バーナード・リーチ(一八八七~一九七九)、芹沢銈介 現在も倉敷の美観地区には倉敷民藝館が開館している。また、土産物店をのぞけば、手工芸品を多々目にする。倉敷と民芸の関係を知らない人は、なぜだろうかと思うかもしれないほど手工芸品は至るところに置かれているのである。 朝鮮民族美術館と同じものを日本にも 柳が日本民藝館設立の構想計画をはじめて実際に語ったのは、朝鮮民族美術館の設立から二年後の一九二六(大正十五年)、河井寛治郎、濱田庄司と出かけた高野山の山寺でのことであった。 このような希望を抱いてから、一九三六年(昭和十一年)に、日本各地から蒐集した民芸を展示する日本民藝館が東京の駒場に創設されるまでの経緯について、柳は次のように回顧している。「吾々が発願して此の仕事の端緒についたのは大正十五年のことでした。趣意書を印刷し吾々の目的を公開しました。早くも多くの既知未知の友から好意ある援助を受けたのです。かくして諸国に蒐集の旅を重ね、先ず展覧会を介して其の結果を世に問いました。(中略)凡そ十ヶ年余りの準備時代が過ぎました。遂に民藝館設立が具体化されたのは昭和十年の秋十月でした。之は全く大原孫三郎翁の好誼によるものであることを銘記せねばなりません」。 また、「何たる幸せなことであろうか。それは昭和十年五月十二日のことであった。それは野州地方でのみ発達した石屋根の建物で、もと長屋門として用いられいたのを移したのである。その折共に集まったのは山本為三郎、武内潔真、濱田庄司、バーナード・リーチの諸兄であったと記憶する。卓を囲んで談が偶々民藝のことに及んだ時、大原氏から次の様な意味のことを話し出された。『十万円程差し上げるから、貴方がたの仕事に使って頂きたいと思うが、凡そその半額を美術館の建設に当て、残りの半分で物品図書などを購入されてはどうか』。その折の大原氏の慇懃な言葉と、尽きない好誼とに対して、私達は充分な辞さえなかった。私達が永らく希願して止まなかった一つの仕事が、これによって実現せられるに至った」と、柳はそのときの状況を詳細に描写していた。 身をもっての民芸支援
日本民藝館をはじめて訪ねた後、孫三郎は、三橋玉見や武内潔真などとともに、足をのばして栃木県益子の濱田を訪問した。欧州留学中の總一郎に宛てた一九三六年十一月十四日付の書簡には、茶碗六個と水差し一個を濱田に手伝ってもらいながら轆轤でつくったこと、そのうちの茶碗一個をロンドンへ送ったこと、茶を呑むときに使ってほしいことなどを書いていた。孫三郎はこの後も何度も益子を訪問していた。 孫三郎は、濱田、河井などが「民藝館の出来た事を喜んで居るようである。この事は自分のやった事の内で最も意義があったと思って居る」とも總一郎へ書き送っていた(一九三七年十一月七日発信)。 また、用と美を両立する民芸の推進者に共鳴した孫三郎は、民芸作品を積極的に生活に取り入れて、自らも身をもって普及の一翼を担った。京都白川の別邸の庭が完成したさいには、民芸茶碗や手造りの水差しなどを使った茶会を開催するなど、茶席や日常生活で努めて民芸品を実際に使用した。 たとえば孫三郎は、河井の蓋物に焼き芋を入れたり、濱田の大皿にカレーライスを盛って客人に出すなど、人を招いては使い方を示した。蒐集する楽しみのみに興じるのではなく、民芸を実用生活に調和させるための工夫を凝らしながら孫三郎は民芸の普及、発達に寄与しようとした。 また、茶人としてなの通っていた孫三郎は、多くの茶人が在銘や箱書きばかりを気にして古器のみに傾倒すること、自己判断なく無条件に権威の評価に敬服することの弊害を指摘し、民芸美を認識することの重要性を指摘していた。 この「用」ということに関していえば、孫三郎の求めた芸術は「用」としての側面を強く持っていた。「遊びの中にも芸術への志向」があった孫三郎の趣味について薬師寺は、「人生の一部であって、贅沢品や装飾物ではなく、生活から切り離すことの出来ない普段着のような、ほとんど実用化したとさえ見受けられた」ものだったと回顧していた。この点も、次に述べる理由と相まって、用途の美を尊んだ柳の民芸論に孫三郎が共鳴した所以といえよう。 柳の民衆重視の姿勢 では、なぜ孫三郎は、民芸運動推進者をそれほど支援したのだろうか。柳たちと意気投合した点を以下に順に追ってみることにする。 柳宗悦は、芸術を貴族的美術と民衆的工芸とに区分してとらえた。貴族的美術作品は、個人が由緒にこだわりながら個性を追求して創作する作為的・個人的・私的なものだというのであった。それに対し、民衆的工芸は、名もない職人が、ごく一般の誰ともわからぬ人たちの用途のために日常的に製作する無意識的・非個人的・公的なものだと柳は説明していた。 民芸は凡庸なもの、実用品は低調なものとみなされてきた歴史にふれながら、歴史的に見捨てられることのなかったもののなかに、美と健全さがあると柳は訴えかけていた。 いっぽうで柳は、「民衆的」工芸に対比する概念として、「貴族的」美術品という言葉を否定的に使っていた。歴史的に尊重されてききた貴族的な物品には真に美しいものが少なく、馬鹿にされてきた民衆的物品に美しいものが無数に存在することに気づいたと柳は言っていたのであった。 柳の民芸重視の姿勢 民衆という視点を重視した柳たちの姿勢は、まさに孫三郎に通ずるものであった。柳が<民衆的>の反対として用いた<貴族的>という言葉を孫三郎も否定する意味合いで使っていた。欧州視察中の總一郎に宛てた一九三六年(昭和十一年)七月十四日付の書簡で、<旅行は貴族的旅行でないように注意の事。一社員の旅行である事を忘れぬよう>と孫三郎は戒めていたのであった。 すでにふれたが、たとえば、大学・高等教育の地方化ともいえる倉敷日曜講演会は倉敷の民衆を、倉敷労働科学研究所は倉敷紡績の工場労働者を、大原農業研究所は倉敷の農民を、岡山孤児院支援はまさに生活難のあおりを受けた民衆の子供を見据えての支援であった。民芸運動の支援を含め、多岐にわたる孫三郎の社会文化貢献事業の根底には、民衆重視の姿勢があったのである。 地方文化の価値を尊重 柳の民芸論には民衆重視の姿勢と両輪をなす形で地域重視の姿勢が備わっていた。地方の農民の実用品に魅かれた柳は、都市の生活が進んでも、地方の価値を忘れ去ってはいけないと主張していた。柳は、地方にこそ豊富な文化価値が存在するのであって、特色ある地方があってこそ、国の独自性というものは確保されていくと考えていたのであった。 このような、民芸が生み出された地域、風土、歴史、生活を重視する柳の姿勢も、孫三郎の地域重視の姿勢に重なる。孫三郎の事業は、倉敷や岡山という地域重視の視点を除外しては決して説明のつかないものである。教育や医療の充実、インフラの整備や町の活性化、産業・文化・芸術の振興努力など、地域社会との関わりを孫三郎は常に念頭に置いていたのであった。 反骨精神と行動力
柳は、軍国主義や権威主義を嫌い、日本の朝鮮統治に対しても紙上に異論を発表するなど、他者と異なる価値観を示すことを厭 柳が民芸美を推進しようと思った理由のもう一つは、そのような考えを提示する人物が他にいなかったからであった。そのため、柳はこれまでの「一般常識」に挑戦して価値観を転換させようと考えた。柳は、時代や権力、その他大勢に迎合するのではなく、反抗心と直感でもって、新たなことに挑戦して時代を開こうとしていたのである。 「反抗の生涯だと自らもよくいって」いた孫三郎の「多くの事業への意欲は、一種の反抗的精神に根差し、あるいはそれにささえられたものがまれでなく、単なる理想主義的理解だけでは理解しがたいものが多々その中にあり」、「何かを決意する時は、いつも、何らかの感情的な反発を動機とするのが常であった」と總一郎が述懐していたように、孫三郎もまた、反抗心、迎合しない態度という特徴を持っていた。このような性質はまさに柳と共通するものであった。 つまり、孫三郎は、柳のこれらの姿勢に自分の姿勢を見たがゆえに、民芸運動に共鳴して、多大なる応援をしたと考えられるのである。 孫三郎は、逝去の前日に民芸の夢を見たことを告げていた。詳細はわからずじまいであるが、「夢の中で柳宗悦が何かを欲しがっていた。あれは何とかしてやらねばなるまい」と言っていたというのであった。 2021.07.19記 |
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兼田麗子著『大原孫三郎』――善意と戦略の経営者 二 孫三郎の無形の遺産 P.239~P.249 孫三郎が設立した組織、団体――倉敷紡績やクラレなどの企業や大原美術館、三つの科学研究所など――は、多少は形を変えながらもほとんどが現存していることはこれまでふれてきた。 しかし、これらの有形のものだけを孫三郎が遺したわけではなかった。人づくりという孫三郎の無形の遺産が、戦後日本の復興期や経済成長期にリーダーシップを発揮し、大きな役割を担った。 大原奨学会設立の経緯 孫三郎の東京での借金整理の最中に亡くなった義兄、原邦三郎は、前途有為な青年に学資を支援する育英事業、大原奨学会を構想し、一八九九年(明治三十一年)に規定の草案を作成した。これに目を通した孫三郎の父、幸四郎は、意義を認め、基金の十万円を提供した。 その年に邦三郎が急死してしまうと、孫三郎がこの事業に尽力した。しかしその前に、孫三郎は、閑谷黌時代の友人、河原賀市に学資の支援を行っていた。河原が苦学を覚悟で東京の第一高等学校に進学することに心を動かされたためであり、支援は、河原が東京帝国大学へ進んだ後も続けられた。この河原が実質上の奨学生第一号であった。 邦三郎が亡くなった翌年の一八九九年二月に孫三郎は上京し、犬養毅や阪谷芳郎(渋沢栄一の次女、琴子と結婚)、日本銀行の副総裁を務めた木村清四郎など、岡山県出身の有力者にその奨学金規定を示しながら、候補者推薦や審査などを行う委員への就任を依頼した。 これらの人々の賛同を得て孫三郎は、貸資生会を発足し、大原奨学貸資規則を公表した。これが、様々な人材を生み出した大原奨学会の始まりであった。大正末までに数百名の若者が学資の援助を受けた。 大原奨学生と太原会会員 孫三郎は、学資援助の決定を下す前に、可能な限り志願者に直接面接し、その人物にふれた。当初、孫三郎は、手書きの激励メモを添えるなど自らが送金の作業にあたっていた。結婚後は、奨学金のくわしい取りまとめなどは、孫三郎の夫人、寿恵子が担当するようになったようである。 奨学生や元奨学生によって、東京、京都、岡山などの各地で大原会がつくられ、懇親会などが開催された。大原会会員は、孫三郎を招待した。孫三郎のほうも会員との交流を大切にし、可能な限り懇親会などには出席していた。また、孫三郎も、夏期休暇中に倉敷や岡山に帰郷していた大原会会員と海水浴に行くなどのイベントを企画した。 最晩年には、「内輪の者を引立て、信じてやらせてみる方針に変更した。この方が正道と思う」と欧州留学中の總一郎への書簡で記述していたが、それまでの孫三郎は、「内輪の者」よりも大原会会員を積極的に関連事業に採用していたようであった。このことを孫三郎は、大原会会員輸入主義(養子主義)と表現していた。 しかし、後述のように、孫三郎は功利主義的な思惑があって学資を支援したわけでは決してなかったが、結果としては、大原会会員が後日、孫三郎の事業などを直接、間接に支援したことも多かった。たとえば、孫三郎は、一九二七年(昭和二年)の近江銀行の整理のために私財提供を決断したさいに、日銀総裁の井上準之助と面会して善処を依頼し、以後も親交を持ったのだが、これも元大原奨学生の橋渡しがあったのだろうと推測されている。 人材育成 前述したように、孫三郎と近かった人物には大原奨学生だったことが明らかになっている人物が多いので、それらの人々を中心に元大原奨学生を簡単に列挙してみることにしよう。ただ、支援される側のプライバシーと自尊心という繊細な問題に関わるので、大原家のほうからは詳細は一切公表しないという姿勢が貫かれてきた。それでも、自らが他人に語ったり、あるいは、孫三郎の事業を支える過程において、自然と太原奨学生であったことが周知となってきた人たちも多い。ここでは、周知の人を中心にして、大原奨学生と孫三郎の無形の遺産についてまとめてみたいと思う。 ①児島虎次郎 西洋画家。後輩画家のために、西洋絵画を蒐集することを懇請し、大原美術館創設のきっかけをつくった。 ②近藤万太郎 農学者。東京帝国大学農学部大学院で種子学を専攻後、孫三郎の支援でドイツやスウェーデンに留学し、一九一四年(大正三年)に帰国。大原奨農会農業研究所の所長に就任。 ③薬師寺主計 建築家。東京帝国大学工学部卒業。陸軍に入り、「勅任技師」という位をはじめて与えられた。後に倉敷紡績に入社、孫三郎を助けた。孫三郎が尽力した倉敷の町づくりで設計、建築を担当した。大原美術館、大原家別邸の有隣荘などを設計。
④神社柳吉
⑤武内潔真 ⑥三橋玉見 医師。東京帝国大学医学部卒業。濱田庄司や柳宗悦たち、民芸運動家と孫三郎を結びつけた孫三郎の主治医。十年に一度大病をした孫三郎がその都度回復できたのは三橋の尽力といわれていた。 ⑦公森太郎 中国銀行頭取。第一高等学校から東京帝国大学を経て大蔵省入省。日本興業銀行入行。その後、朝鮮銀行副総裁を務め、孫三郎が銀行業務を引退するさいの継承者となった。孫三郎の北京視察時に案内を行った清水安三の橋渡しを行った人物。 ⑧友成九十九 ビニロン開発者。東北帝国大学で学び、ドイツへ留学。ドイツでは、京都帝国大学の桜田一郎博士と同じ研究室で学んだ。第二次世界大戦後に倉敷レイヨンが工業化に成功した国産初の合成繊維、ビニロンの開発を大原總一郎とともに主導した。 ⑨土光敏夫 石川島播磨重工業会長。経団連の会長も務め、中曽根康弘内閣時の<増税なき財政改革>、<めざしの土光さん>で知られる。 さらには、厳密な大原奨学生の範疇に含まれないかもしれないが、孫三郎によって欧米留学を果たしたり、活動の支援を受けた人物も多いので、その代表的な人物を次に示しておく。 ⑩ 田崎健作 牧師。一九二三年(大正十二年)に倉敷教会に赴任して以降、孫三郎と親交を結んだ。田崎牧師は、二年分の生活費に相当する金額と夫人を同伴しての一年間のドイツ留学費用を孫三郎と林源十郎から受けた。また、太平洋戦争中にも孫三郎は田崎の生活資金を援助した。大原家所蔵のインタビュー録によると、田崎は、倉敷を去るさい、林源十郎の子息から貯金通帳を受け取っていた。林源十郎は、通帳のことは決して田崎に言わないように、いよいよ困ったときに出すようにと息子に指示していたという。林源十郎や孫三郎などが貯金していた六万円ほど受け取った田崎は、「その時代の六万円は大変なお金です。そのお金のおかげで私は、本郷教会も助け、月給なんか何一つもらわずに続けることができました」と振り返っていた。 ⑪清水安三 桜美林学園創始者。孫三郎は、結果的に生涯一度きりの海外視察となった北京を訪れたさいの案内役、清水安三にも援助を行った。清水は劣等生であるというような同志社の同窓生などからの中傷が孫三郎の耳にも入ってきたが、孫三郎は、「支那に対し奪うことのみしか考えない日本人が多い中にあって清水の行なっている事業に援助を与えることは、日本人の犯した罪の償いの一部という気持から発するのである」と語り、中国の裕福ではない家庭の子女教育に北京であたっていた清水の活動に援助を惜しまなかった。清水は、孫三郎の援助を得て夫人同伴で、米国オハイオ州のオペリン大学へ一九二四年(大正十三年)の秋から二年間留学した。留学後も清水は中国に滞在し、活動支援金を得るために時折帰国していたのだが、そのようなさいには清水は大原邸を訪問し、孫三郎から支援を得ていた。ちなみに第二次世界大戦後の一九四六年(昭和二十一年)三月に北京から帰国し、桜美林学園を創設した清水は、孫三郎の子息、總一郎からもかなりの額(一回は三十万円、清水の回想によると当時の桜美林学園の先生の月給は五百円)の支援を受けたことが清水のインタビュー録からわかる。 ⑫柳宗悦や濱田庄司、河井寛次郎、バーナード・リーチなどをはじめとする民芸運動家 第六章でもふれたが、東京駒場の日本民藝館は孫三郎の支援を得て建てられた。 ⑬山室軍平 救世軍士官。禁酒・廃娼運動などを展開したプロテスタントの団体である日本救世軍を率いた山室に対しても、その活動初期から孫三郎は支援を行っていたことが田崎のインタビュー録からわかっている。また、同志社大学人文科学研究所所蔵の<林源十郎資料>には、孫三郎に寄付を依頼する山室からの書簡や寄付金の領収書などが含まれている。 ⑭徳富蘇峰 孫三郎もアドバイスを求めていたが、直接間接的に孫三郎が支援をしていたことも確かだと思われる。 ⑮早稲田大学の教授陣 孫三郎が東京専門学校を中退した直後の一九〇二年(明治三十五年)十月(この年に東京専門学校から早稲田大学と改称)の五百円を皮切りに、孫三郎は早稲田大学基金へ何度となく寄付を行った。現在の早稲田大学が自前で研究者・教員養成に力を入れだした時代に孫三郎は、大隈重信との縁からスタートして、様々な支援に大金を投じた。たとえば、労働問題研究の委嘱や研究支援、教授陣の留学など、その一部を次に詳述する。 ⅰ 「労働問題調査会」 永井柳太郎、安部磯などが主査となって研究が行われたこの調査会に対して孫三郎は一九一一年(明治四十四年)から一五年(大正四年)にかけて七百五十円の資金援助を行った。安部磯雄は『社会問題概論』の中でこのことにふれていた。 ⅱ 浮田和民 法学者。第一次世界大戦後の世界の思潮調査のための海外見聞へ孫三郎によって派遣された。浮田たちが孫三郎への報告として提出したものと思われる一冊のアルバムが大原家に保存されている。 ⅲ 寺尾元彦 早稲田大学法科長、法学部長。一九一二年から三年間に及ぶドイツ留学費用を原澄治の橋渡しで孫三郎が支弁した。
⑯その他、画家の土田麦僊、音楽家の兼常清佐 ⑰孫三郎が設立した機関からも研究員が欧米留学したことは既述したが、ここで改めてまとめておくことにしよう。 ⅰ 三つの研究所関係者(高野岩三郎、森戸辰男、櫛田民蔵、久留間鮫造、権田保之助、細川嘉六、高田慎吾、暉峻義等、松本圭一など) ⅱ 倉敷中央病院(辻緑、波多腰正雄、早野常雄、脇田正孝など。ちなみに、大原總一郎と交流を持ちながら日本の復興を牽引した経済学者で、官民の重要ポストを歴任した稲葉秀三の義理の兄は、倉敷中央病院の小児科部長を務めた人物であった。この医師も孫三郎によってオランダ、ドイツへの留学に一年間送ってもらったことを稲葉は明らかにしていた) 孫三郎の思い 倉敷中央病院の開院とほぼ同時期に落成した倉敷教会に赴任してきた牧師、田崎健作は、倉敷を去った後は東京の本郷教会の牧師となった人物であった。寿恵子夫人が危篤に陥ったさいには、夫人が会いたがっているからと孫三郎が電話で京都から倉敷へ呼び寄せるほど両者は親しかった。 孫三郎は、周囲を憚ることなく自分に意見を言ってきた田崎に信頼を寄せていた。いっぽうの田崎も「今日の私が形成されたのは、全く倉敷のおかげである。今日の倉敷は、昔とちがって、非常に大きな変化をなしつつあるが、その根幹をなしたのものは、故大原孫三郎氏と、原澄治氏を中心とした、文化的発展」であり、「倉敷に於ける、十五年の生活の中で、最も影響をうけた人物は、木村和吉、林源十郎、大原孫三郎、原澄治、三橋玉見、等の諸賢である」と回顧している。 ※参考図書:尤飼亀三郎著『大原孫三郎と原澄治』(倉敷市文化連盟)倉敷叢書第2集 発行 昭和四十二年十月十五日 この田崎が、人材支援について、孫三郎と交わした会話を伝えていた。孫三郎の学資支援を得て中学から高校、大学と、また海外留学までも果たしながら、なかには一切頼りをよこさない人物がいたそうである。 孫三郎も人間であるから、不愉快に思い、もう奨学金を出すことはやめようかということを夫人に話したところ、夫人から、「それはいけません。あなたが金銭を出したからこういう結果になるとか、目に見えるようなことはいけません。な前は知られてはいけません。私は書きひかえていますが、な前は決してあなたには申しません。ただ、東大には何人いる、欧州への留学者は何人、何人は六高(第六高等学校。岡山)にいるということだけは申します。あなたは、そのお金だけを出せばそれでいいんです」と言われたと、孫三郎は田崎に語っていた。 「地下水づくり」 孫三郎は、また、次のようなことも田崎に言っていたという。<地下水というものがある、雨が降ってそれが地下に落ちていればこそ、樹木や野菜、田んぼなどもみんなできるんである。ただ表面だけで流れておる川であったらそれはだめだ。かえって泥水になるより他にない。そのようなことはやめなければならない>。このように孫三郎は人材育成についても<地下水づくり>に徹することの重要性を語っていた。 実際に孫三郎は、地下水が時間を経て大地を潤すような経験をしていた。孫三郎はあるとき、知事から相談を受けて、氾濫を頻繁に起していた高梁川の堤防づくりのために内務省を訪問した。すると、土木局長が「実は私は六高、東大、ドイツ留学までもみんなあなたからさせていただいたものですが、若さゆえ、金を出してくださる人に頭を下げるのも嫌で、感謝の言葉を一度も述べたことがありませんでした。こんな年齢になってから申し訳なかったが、いまさら訪ねていくわけもいかず、今、こうして名刺をもらって驚きました」と申し出て、高梁川の善処を了解してくれた。 <そういう人がいるからこそ、高梁川の大きな堤防が十年もかかって完成したんだ。だから田崎さんも、信者であろうと信者であるまいと、そんなことは考えずに、ただ真面目にね、熱心に人に親切にしていればそれだけでいいんだから。地下水をつくるためなのだから>ということを孫三郎は田崎に言っていた。 これらの田崎の回顧談からもわかるように、孫三郎の人材支援は、短期的視点に基づくものでも、また、自己利益を意図したものでもなかったことが明白である。孫三郎は、支援を受けた人物にとってプラスになり、そして、助けられた人物が周辺に何らかの良い結果をいつかもたらせばそれでよいと考えていた。経済や社会文化へ貢献する可能性としての種をまこうと考えていたに過ぎないと思われる。 2021.08.16記。 |
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兼田麗子著『大原孫三郎』――善意と戦略の経営者 2012年12月20日発行 寿恵子夫人の見守り P.240 孫三郎自身も、振返れば、信じる心で育てられた経験を有していた。寿恵子夫人は、臨終に立ち会った田崎牧師に対して、總一郎は神から授かった子1であるから心配はしていないが、孫三郎が心配だと告げていた。寿恵子夫人は、孫三郎は<非常にわがままですから、私が一生懸命に注意したけれども、なかなか聞きませんでした。誰も言う人がいなくなってしまいます。私はこれで去って行きますから。何かあったならば、どうか思い切って注意してやってください>と孫三郎に今後も進言することを田崎に依頼した。 ※参考:『大原總一郎随想全集』1――思い出(福武書店)1 P.28 寿恵子夫人が孫三郎に進言し、孫三郎がその考えを体現していたことについては、奨学金の項でふれたが、夫人が孫三郎を信じる心で見守り、ときには教え導くことがあったことは間違いないだろう。 「石井さんは私を信じきって」 P.250 父孝四郎の孫三郎を信じる心については、第一章で述べたが、林源十郎や石井十次の信じる心も孫三郎という人材を育成した。孫三郎の生涯のモット―は聖書の「山上の垂訓」の「心の貧しき者はさいわいなり。天国はその人のものなり」であった、と田崎は伝えていたが、孫三郎の次のような言葉も明らかにしていた。 『私が時々、やけになって、また道楽を始めても、石井さんは必ず、大原は、立ち返って来る、彼は偉大な立派な人物になるのだと見守ってくれた。もし、石井さんが早く私を見放し、見捨てて下さったら、私はどんなに気楽に、思うままに道楽をし、勝手気ままな人生を送る事ができたことか。しかし、私はまだ世間の悪評の中に我が儘道楽を続けておるにもかかわらず、石井さんは私を最後まで信じきって死んでいかれた。死ぬまで私を信じていただいた私としては、石井さんを何としても裏切ることはできなくなってしまった』と太原さんは述懐していました。こういうジレンマの中の青春生活が大原孫三郎なる人物を創造したのではないかと思われます。自分は学問がない、ということが、人材を集める、これに大きな役割を果たしたのではないかと思われます。これがまた石井先生の志をつぐ方向へと向かわれたようであります」。このような田崎の回顧談からわかるように、脇道へそれても孫三郎を信じていた石井十次の心もまた、孫三郎という人物を育てていたといえよう。 現代的意義 總一郎に引き継がれた思い P.251 孫三郎の幅広い活動は収斂、発展させられながら總一郎によって引き継がれていった。両者の活動した時代には大きな違いがあった。孫三郎は、近代化、資本主義化が進み、経済的・社会的な格差が拡大していった時期に民間人の立場から率先して活動を展開した。いっぽうの總一郎は、戦後復興期から高度経済成長期にかけてリーダーシップを発揮した。そのため、両者はまったく異なったようにとらえられるかもしれない。しかし、突き詰めて見てみると、共通点の多いことがわかる。 「總一郎は私の最高傑作」と孫三郎は誇らしく思っていたが、孫三郎の無形の遺産、總一郎は国境を越えても大きな働きをした。中国との国交が回復されていなかったときに、中国の要請を受けて合成繊維、ビニロンのプラント輸出に踏み切った。苦労して開発した国産初の合成繊維の、それも製品ではなくプラントを、当時まだ「中共」と呼ばれていた中国へ障害を乗り越えて輸出する主な理由は、戦争によって中国の人々の心身を荒廃させてしまったことへの償いであった。 このとき築かれた人と人をつなぐ水脈は、世界的な指揮者、小澤征爾の中国での音楽教育活動に役だった。總一郎の長女で音楽プロデュ―サーの大原れいこが小沢の中国での活動の橋渡しをすることができたのであった。 また總一郎の他にも、孫三郎の無形の遺産が戦後日本の社会をリードしていた。 孫三郎が自腹を切ってまで支援しつづけた大原社会問題研究所の高野岩三郎、森戸辰男などは、戦後の憲法研究会において、日本国憲法に最も影響を与えたといわれる草案づくりに従事した。その他にも大内兵衛、有沢広巳(一八九六-一九八八)、宇野弘蔵、清水安三なども、戦後日本の経済、学術、教育、公共などの分野を牽引した。 二〇〇一年(平成十三年)のノーベル化学賞を受賞した野依良治(のよりりょうじ)は、合成一号(後にビニロンにつながるもの)の製造に成功した桜田一郎に触発されて化学を学ぼうと思った。桜田は「ノーベル賞へのレールを敷いた高分子化学の父」だと明かしているが、この桜田にもまた總一郎が援助を行っていた。 そして、總一郎が独創性を発揮して展開した倉敷・岡山地域に軸足を置く活動(レコードコンサートや美術館での音楽コンサートなど)のいくつかは、總一郎の三人の子供によって、今も引き継がれている。 「語り伝えるに値する財界人」 反抗の精神が強かった孫三郎は、本来ならば経営する企業から出してもよさそうな資金までも自分のポケットから出していたといわれる。しかし、富者ならば誰もが孫三郎になり得たのだろうか。 マルクス経済学の研究者として有名な大内兵衛は、岩崎弥太郎や安田善次郎ほど孫三郎は巨大な実業家ではないが、得た富を公益事業に使用したという点では三井も三菱も、いかなる実業家より偉大な結果を生んだ財界人で、<語り伝えるに値する財界人>と評していた。孫三郎以上に、経済活動(稼ぐこと)と社会文化貢献活動(公益のために使うこと)を両立しようとした実業家はどのくらいいるのだろうか。 情と理の両立を目指して P.253 孫三郎は、一人ひとりの民衆の人間性を見る目と気配りを備えていたが、<何かを実行しようと思ったときに、算盤を持たずに着手したことはない>とも語っていた。また、社会事業家とみなされることを孫三郎は好まなかったという。孫三郎はあくまでも経済性を追求する経済人の立場から、情と理の中に共存共栄を実現しようと生涯にわたって尽力しつづけたのであった。 しかし、孫三郎は、「片足に下駄、もう片方の足に靴を履いて歩き続けようと思ったが、自分の一生は失敗の歴史であった」と語っていた。経済性や合理性(理)を追求した企業経営と、人間愛と使命感(情)に基づいた社会改良の両立への兆戦は、葛藤と困難の連続だったと思われる。 「善意で山は動かない、戦略が山を動かす」 経営学者のピーター・ドラッカーは、「善意で山は動かない。山を動かすのはブルドーザーである。使命と計画性は善意に過ぎない。戦略がブルドーザーである。戦略が山を動かす」と述べたが、まさに孫三郎は、使命感と惻隠の心だけではなく、実現可能な計画と戦略を持って、理想実現のために思いついたら即座に行動を起こしつづけたのであった。 我々は今後も、情と理のバランスが求められる多くの問題に直面しつづけるだろう。そのようなとき、「下駄と靴」、「人間性と経済性・合理性」の両立に苦心しつづけた孫三郎の思想や信念、実践に学ぶことは、有意義であり、必要なことだと考える。孫三郎は、これからますます「語り伝えるに値する財界人」となっていくだろう。 あとがき P.255 大原孫三郎と向き合って十年以上の月日が流れた。そのあいだ、孫三郎に関する二冊の学術書(『福祉実践における先駆者たち――留岡幸助と太原孫三郎』藤原書店、二〇〇三年、『大原孫三郎の社会文化貢献』成文堂、二〇〇九年)を敢行することができた。しかし、大原孫三郎と總一郎父子を中心にした研究を進めるなかで、一般の方々にももっと<善意と戦略の経営者>を知ってもらいたいという思いは強くなるいっぽうであった。 そのようなとき、『河合栄治郎――戦闘的自由主義者の真実』(中公新書)などを世に出してきた松井慎一郎先生のご援助を得て、新書にまとめる機会を得ることができた。初めての新書執筆は、楽しく、そして同時に大変な経験でもあったが、実に多くのことを学んだ。孫三郎とあらためて対話をし、時代背景も含めて様々なことを見つめなおすこともできた。 大原孫三郎についての既刊二冊をベースにしながらも、新たに見出したことなども多々盛り込みながら一から書き直した本書は、多くの方々のお力を借りて刊行までたどりついた。恩師の古賀勝次郎先生、大原美術館理事長の大原謙一郎氏、大原れいこ氏、正田泰子氏、大原あかね氏、倉敷の安井昭夫氏、大野彰夫氏、山本敏夫氏、林良子氏、小熊ちなみ氏、株式会社クラレ会長の和久井康明氏、原道彦氏、倉敷芸術科学大学の時任英人先生をはじめ、お世話になった方々は数多い。感謝の気持ちでいっぱいである。心から<ありがとうございます>と申し上げたい。 そして最後に、いつも支えてくれている両親に本書を捧げることをお許しいただきたい。 二〇一二年十一月二十日 兼田麗子 2021.08.30記す。 |