倉敷レイヨン入社・岡山工場勤務(第一回目)
第一回目:1950年(昭和25年)~1966年(昭和41年)11月


 倉敷レイヨンは、昭和25年以前に、ビニロン生産の工業化について鋭意検討して工業化の決意をかためられていた。

★ビニロン企業化を決意 昭和24年1月18日<ビニロン工業化の思い出>(講演)より を参考。

倉敷レイヨン入社

(株)クラレ80年の軌跡 1926-2006・K.S.履歴

 昭和24年10月倉敷レイヨン採用試験受験して、採用された。

★関連:ビニロン――石から合成繊維――倉敷レイヨン

 昭和25年、会社はビニロン創業開始計画が実行段階にあり、異例の大学・専門学校卒業者:技術・事務系を含めて75人を採用していた。そのうちの写真の者たちが倉敷工場に赴任した。

 1950年(昭和25年)3月末日、入社。

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※写真説明:元海軍大尉が二人いた。その方々は海軍にいた時の作業服を着ていた。また、海軍兵学校にいた75期の堀田さん、76期の私は事業服を着ていた。

※大学卒:16人。専門学校卒:10人。

 倉敷レイヨン、倉敷工場、藍風寮(学卒独身寮)に入寮。その後、工場の近くの民家を借りて、新入社員たちだけの「大内寮」に移動した。小玉 操一さん(昭和23年入社)が指導係。

 藍風寮には池永和夫さんがいた。また、久保田一丸さんがいた。

 二人は、海軍兵学校75期で、あれこれと教えてくださり大変たすかった。海軍兵学校生徒であったというだけで、親身になれるとは。絆の強さを感じた。

 池永さんとは、同じビニロン生産に従事して、終生の友人となった。

 新入社員教育始まる。

 新入社員前期教育ー会社のもろもろについてー

 倉敷工場で後期養成を受ける。前田・片岡・山田・田中・池永さんたちがいた。

5/2 (火)→5/13(土)3交替 12日紡糸

5/14(日)→5/28(日)仕上げ3交替15日

5/29(日)→6/4 (日)原液昼専3日、2交替4日

6/5 (月)→6/8 (木)金板

6/9 (金)→6/15(木)アセタール化及び薬液昼専2日、2交替5日

6/16(金)→6/17(土)荷造

6/18(日)→6/24(土)検定

★芥川龍之介『侏儒の言葉』を持って入社した。写真の本は昭和25年3月2日購入したものである。

 その後本を購入するにはを参考にして、本を求めて読書を楽しむ。

昭和25年6月22日(木)岡山工場見学

 巽工場長挨拶 コストの問題について力説せられる

 野村副工場長 紡績に関連してビニロン糸の色々の事柄について述べられる。前田課長、多田課長の説明及び質問

★倉敷→岡山に移動するまで

 初めて倉敷市に住んで感じたのは、大原家の力が浸透していて、会社の社員であるというだけで、信用される町の雰囲気であった。

 入社して、今井清和さん(広島高等工業学校:昭和22年3月卒→京都帝国大学卒)、椋本一夫さん(旧制広島高等学校→名古屋帝国大学卒)たちと倉敷市内で映画を見たり、喫茶店で談笑した。
※写真:椋本さんと倉敷市の喫茶店。キャノンの試写。

 谷村勝男さん(広島高等工業学校:昭和20年3月卒)は後輩の私と濱田美治君を社宅に呼んで下さりビールを御馳走して、歓談しながら会社の様子を教えて下さった。

 谷村さんから、その後の会社生活を通して何かと指導して頂いた……。


 また、同期入社の斎藤隆夫君と高梁川の土手を春風に吹かれて歩いたものである。

※写真説明:左:谷村さん、濱田美治君、小生。右:斎藤隆夫君と小生。


 昭和25年8月 岡山工場転勤赴任

写真説明:同期入社:左から黒崎・新谷(廣島文理科大学出身)・浜田・中田。

 8月赴任 岡山工場(岡山市海岸通)製造課に配属された。ビニロン・ステープル日産五トン設備の建設中であった。新規事業であったので、仕事への取組に先輩も後輩も手探りの開発的態度が必要であった。

 新入社員の私は非常に好都合な部署に配属された。

 設備の据え付けから配管掃除、試運転から始める段階に赴任したことはその後の仕事に非常に役立った。

 赴任以来、連日遅くまで設備担当者と製造課の連中が一緒になって汗や油に汚れて仕事をした。その傍ら、まったくの新入社員の私が、試運転に備えて、製造課仕上に配属された従業員教育を担当したり、作業標準書や安全守則を作成したりした。配属された従業員の大部分が社内のレイヨン部門からの配置転換者、新規採用者であったからである。彼等とはその後の会社生活のなかで親しく付き合うことになった。

 11月11日ビニロン設備日産五トン完成、操業開始。

※参考:倉敷レイヨン(株)、ビニロン創業式挙行

 当時の製造部の職制

 部長・野村重基(京大)

 製造課長・前田勝信(明治専門)、主任・小川義雄(米沢高工)

 前部原液:浜田 馥(岡山県立津山中学)、池永和男(金沢工専:24年入社)、中田啓三(京都繊維専門学校:25年入社)

 後部紡糸:田中鋼二(早大:23年入社)

 後部仕上:黒崎昭二(広島工専:25年入社)

 研究課長・多田課長、濱田美治(京大:25年入社)、新谷忠雄(広島文理大:25年入社)

★職制について:担任→係長→主任→課長→次長→部長であった。

★給与体系:本給+資格給金+その他(冬季手当てなど:富山工場の厳寒期のみ)、ボーナス(6月と12月)

★資 格:4B、4C、4D、5A(課長あるいは主任研究員)、5B、5C:主査3号、主査4号、主幹1号(次長、部長)、主幹2号、主幹3号、主幹4号、主幹5号、主幹6号、理事。

★当時の従業員採用:本社一括採用と工場別採用であった。

 本社採用者は、工場・事務所の職務に配置された。転勤があった。工場別採用者は転勤はまずなかった。

 昇進は学歴によっていた。旧制中学卒は主任どまりであった。ただし、時代の流れによって変遷していた。私が退社するころはかなり変化していた。

★採用情報:平成28年度採用:E.C.コース

★私は入社以来定年退社の全期間、残業しても手当を一時間たりとも申請もしなければ受け取ったこともなかった。残業という意識がなかった。

 他の企業で、平成三十年ころ、残業による過労死などが報道されていた。残業時間の規制が官民で行われている。

★非組合員と組合員:課長以上が非組合員であった。主任以下は組合員であった。

寮生活

 倉敷の藍風寮から岡山市福島の職員寮:操風寮に移った。木造二階建、六畳の部屋が十五~六室あったか。一室に二人の相部屋であった。当時としては珍しいと思うのだが玉突き場が食堂の横に備えられていて娯楽になっていた。寮の住人は学卒(大学・専門学校卒業者)と単身赴任の職員であった。

 ここで、菱田昌則さんと出会った。彼はクラレ専務取締役まで昇進された。

 操風寮:管理人・三井夫婦が住み込んでいた。一人娘:康子ちゃんがいた。

 小父さんは口数が少ないが、無愛想ではなかった。話しかけると温和な話し振りであった。

 小母さんは、芯は親切で、話好き(口八丁手八丁)であった。寮生のだれにも好かれていた。生活の中で親代わりに色々教えてもらった。ライスカレを食べるときは先ず味わってから味がうすければソースはかけなさい、料理をした人にたいするエチケットである。また銚子の酒の注ぎ方は注ぎ口からは決してしないように、そこは「いやし口」というのですなど。今でも実行している。マージャンも一緒に、煙草ピースなどを賞品にして、よく手合わせしたものである。結婚で寮を出て社宅に移転したとき米櫃を記念品に貰った。小父さんはこの寮で亡くなり、小母さんは定年後大阪の我孫子に転宅した。時々寮生は訪問して旧交を暖めていた。

 麻雀はたびたびした。大体気心があう人たちが手合わせしていた。夏の暑い夜には汗をかき、ビールを飲みながらであった。冷房装置がなかった時代であった。

 昭和25年は戦後五年目であったが、工場で働くものには加配米が支給されていた。まだまだ食糧事情には制限があった。寮の食事の「ご飯」は岡山の米で物凄く美味しかった。刺身は故郷のものに比べてまずかった。しかし食事全般何もかも美味しくいただけた。入社するまで質素なものを食べてきていたから。一カ月の食費は四千円で二千五百円くらい貯金した。背広を新調するのが目標であった。

 寮生の遊び

1、カメラ熱:寮生の間で流行した。カメラ雑誌で機種の性能を徹底的に調べて購入するもの、感覚的に機種を選択するもの様々であった。だれ一人同じ機種を買うものはいなかった。私もミノルタフレックスを購入した。休日には風景撮影のために出掛けた。

2、謡曲観世流の師匠に寮の近くの集会所に出稽古していただいた。工場医師・大塚先生、浜田美治氏らと私も数曲習った。尺八を角 正義君(福井県高岡出身・東北大学卒)が練習していた。

3、オートバイの運転に玉置 健君が熱中していた。一人で乗り回していた。先駆けである。

4、玉突き:寮長・菅沼氏(東大卒)が玉突きをするときの服装をやかましく注意していた。彼が退寮した時、私が玉突き場の管理(玉突き棒のキューの整備)。

5、レコード鑑賞:前田力氏(阪大卒)がドボルザーク「新世界」を電蓄のボリューム一杯にしてかけていた。矢田氏(第三高等学校→東京工大)は静かに自分のレコードを聴いていた。昭和28年頃、矢田さんと自転車で岡山市内に出かけて酒を酌み交わした。酒二合・肴で500円だった。

6、マージャン:賞品マージャン。煙草ピースを賞品にして、池永さん、菱田さん、国広さん、中村君たちと。寮の小母さんも。

 楽しい寮生活。多くの友人ができた。


★担当した後部仕上げの仕事の内容 :アセタール化

 担当部署は原液→紡糸→後部仕上げの最後の部署であった。

 ビニロンステープルの生産について

 建設当初のカットファイバー用の設備はバッチ式アセタール化タンクであった。すべて手作業であり、その後の処理のオイリング処理、乾燥なども手仕込みであった。また反応処理液の温度の調節は温度計をみながら蒸気バルブの開度を手で調節することによってであった。

昭和26年(二年目)

 会社の勤務にも慣れてきた。

▼思い出の写真。於:旭風寮 日時:昭和27年12月21日

 懐かしさ一杯!! 当日はスキ焼だった。担任者は信長(昼専だったのか)さんだけ。みなさんの服装もだいぶ良くなっている。書記は西田和子さん。

追記:結婚されて、岡山市南区に住まれていた。鹿児島さんと改姓。バレボールの指導されていた。平静三十年、ご逝去された。(平松さんからの知らせ)。 

特記事項:アセタール化液貯蔵循環用タンク爆発
 ビニロンはポリビニールアルコールを主成分とする繊維であるが熱水に溶けたり、収縮しないようにするためにホルムアルデヒドを使いアセタール化処理している。
 この処理液のタンクが爆発したのである。
 地階にあったタンクの上で配管溶接修理中に突然爆発したのである。ラジオ報道された。
 私は修理の前に運転を中止して、配管を水洗して装置保全の係に渡していた。
 修理にアセチレンガスを使い、タンクに直結している鉛の配管を溶接していた。爆発の圧力のためにタンクの蓋が持ち上がり作業していた人が一階の床面との間に挾まれて死亡する不幸な災害となった。
 何故爆発したのか原因の究明を行った。
 アセタール化処理の組成・濃度はホルムアルデヒド、硫酸、硫酸ソーダーの水溶液である。化学的常識では爆発は起こる筈がないと思われていた。
 工業用のホルムアルデヒド水溶液は濃度が三十五%程度でそのまま保存しているとホルムアルデヒドが重合してパラホルムアルデヒドの不溶物になるので、重合防止用として少量のメチルアルコールを添加している。工業用ホルムアデデヒドを使用しての処理液中のアルコール濃度は極めて稀薄である。従って、メチルアルコールが爆発の要因になるとは考えられなかった。
 私は、製造の立場から原因の調査をした。ホルムアルデヒドの文献:ホルムアルデヒド J.FREDERIC WALKER 山本為親訳(槙書店)などを調べ、工業用のホルムアルデヒド水溶液、実際のアセタール化処理液の爆発実験を繰り返し試みたが爆発は起こらなかった。最終的には原因は判断出来なかった。

昭和27年(三年目)

 帳場(担任者:私ほか交替担任者・事務員の事務所)を旭川寄りに単独に設置。主任は紡糸の帳場におられた。

 アセタール化反応での芒硝の濃度を制禦して処理速度アップ・ビニロンの強度、品質を向上。

 昭和二十七年 連続精練機となる。ステンレス製金網連続精練機設置。画期的設備改善である。回転式熱処理機で処理されたビニロンがコンベアで直接に精練機に運ばれアセタール化、水洗、オイリングされ金網乾燥機に運ばれる連続工程になったのである。

 ステープルのアセタール化がバッチ方式から連続ネット方式に変更されて、漸く紡糸・熱処理・仕上げの工程が連続化された。

 バッチ式アセタール化装置は、玉置 健さんが機械担当者として設計にあたり据え付けられた。

 連続精練機は、矢吹 伊勢郎さんが担当していた。

★アセタール化反応について

岡山工場での生産開始以来、アセタール化処理条件を検討していたが。この時期にいたり、本格的検討をはじめた。

 それまでは、芒硝の濃度を一定にすることは行っていなかった。

 アセタール化にはホルマリン・硫酸・硫酸ナトリュム(Na2SO4:通称=芒硝)の水溶液(アセタール化浴)で処理していた。それぞれの濃度の組合せによって、繊維強度と染色性に影響することは周知であった。
紡糸→熱処理工程で処理されたトウには芒硝が含まれている。これを水洗、除去する程度をコント―ロルすることによって、繊維の特性への影響を検討することとした。

▼アセタール化浴の芒硝を制禦するには、工程に入るトウのテンションを加減することでできることがわかり、その方法を機械担当と協力して、編み出した。そのようにして、芒硝濃度をある濃度にすると、トウの繊維の強度が高く、しかも処理時間も短くなる最適条件を見つけることができた。その結果、処理機の速度が5㍍/分であったのを30㍍/分の6倍にあげることができた。トウの生産量を増大するとき、大きく貢献した。検討前には予想していなかった。

※昭和25年、ビニロン生産量5トン/日→昭和43年、日産109トン/日に飛躍していた。

 そうすると、トウの生産設備は約21倍にしなければならないことになる。すなわち、21台設置しなければならなかった。しかし、6倍に処理速度をあげることができていたから、21×1/6=3.5台、約4台で処理できることになった。このことは設備の増強にあたり、4台でよいことになり、仕上げのトウ生産設備床面積を(21-4)台=17台分縮減できて、総合的に大いに貢献できた。このことは特記しておかなければならい。(2021.12.22記)

▼ステープルの場合は、水洗の程度を変えることは容易であった。水洗のシャワーワの水量を加減することでできた。このようにして、最適濃度で一定化することによってステープルの染色性は向上・一定化することができた

▼アセタール化溶液の濃度管理について。初めのころは、定期的にホルマリン・硫酸の濃度を測定して規定の濃度になるように計算して補正するようにしていた。分析係の手間もかかるので何か方法はないものかと考えた。処理する量に対して消費されるホルマリン・硫酸はほぼ決まっていた。そうすれば、その消費量に見合った量だけを補給すればよいことに気付き、連続的に補給することにした。そうすると浴中の濃度が安定することになり、濃度の測定回数も少なくすることができて、分析係の負担を軽減でき、他の仕事をすることができた。

※岡山工場ビニロン生産推移:昭和25年:5トン/日→昭和36年日産73トン/日→昭和37年日産84.5トン/日→昭和42年日産104トン/日→昭和43日産109トン/日(大原總一郎年譜)

総括:工程の処理条件について、常に疑問点はないか、あるとすればどうしたらよいかの繰り返しの連続であった。

★第一種衛生管理者免許取得した。岡山労働基準監督署内での受験者の中で好成績で取得した。受験したのは会社から指名されたからである。

※衛生管理者免許などの資格試験などは、大学受験試験のような競争試験では成績順に合格者を選抜して、定員に達すれば一点でも低いものは不合格となるが、資格試験では一定の合格基準が決められていて、その基準値以上に達すれば合格となる。

※常時50人以上の労働者を使用する事業場では、衛生管理者免許を有する者のうちから労働者数に応じ一定数以上の衛生管理者を選任し、安全衛生業務のうち、衛生に係わる技術的な事項を管理させることが必要です。
 第一種衛生管理者免許を有する者は、すべての業種の事業場において衛生管理者となることができます。
 第二種衛生管理者免許を有する者は、有害業務と関連の少ない情報通信業、金融・保険業、卸売・小売業など一定の業種の事業場においてのみ、衛生管理者となることができます。
 主な職務は、労働者の健康障害を防止するための作業環境管理、作業管理及び健康管理、労働衛生教育の実施、健康の保持増進措置などです。

 その後、研究所勤務中、公害防止主任管理者の免許も取得した。これもまた、工場の事務部から研究所が取得してほしいと要望によるものであった。ガスクロマート分析などの勉強をしたものであった。

 知る限りでは以上二つの免許取得者は私以外にはいなかったと思う。


※写真説明:昭和27年冬、昭和29年初頭のころの暖房:火鉢を使用。

昭和28年(四年目)

 ベンザール化

 ベンザール化はアセタール反応にホルムアルデヒドの代わりにベンズアルデヒドを使う化学処理である。ビニロンの弾力性(羊毛の繊維に似て皺になりにくいものにする)を改善するためのものである。

 昭和二十七年倉敷工場、ベンザール化ビニロン試験生産していたものを二十八年七月より岡山工場で量産開始。

 私は研究所のデーターを参考にしてビーカー実験で処理条件の検討をした。

  繊維の染色、化学反応実験には繊維重量の約五十倍の液量即ち浴比五十で行うのが常識であった。常識をこえて浴比千倍で実験した。しかしそれでも盲点があった。反応初期の反応液のベンズアルデヒドの濃度が終期にかなり下がっていることに十分注意していなかった。得られたデーターを基本にして生産処理条件としての濃度、温度、時間を具体的に設定して、操業運転した。

  運転に立ち合い、状態を観察していると処理されて出てくる繊維が溶けて固まっていたのである。本当に驚いた。約一トンの繊維を屑にしたのである。非常に責任を感じて上司の主任に報告した。

  再検討の結果分かったのは、現場設備で処理するときは反応液のアルデヒドの濃度は一定に保持されているがビーカーでの実験は初め濃度が高く時間と共に濃度が低くなる条件で行っていたので結果的には平均的に低い濃度での実験をしていたのである。従って現場での反応条件は高い濃度に設定したことになっており決定的な誤りをしていた。

★ベンザール化ビニロンはアルカリに弱く脱ベンザール化される欠点があり、生産停止された。研究所の開発製品であったが製品の欠点の評価判断が甘かった。

 ベンズアルデヒドの製造プラント設立した。廃棄処分となった。(宝蔵・鈴木嘉一グループが担当)

反 省

1:研究関係者がベンザール化ビニロンの耐薬品性(耐アルカリ性)を調べていなかったのか。
2:ベンズアルデヒドは、ベンザール化ビニロンが問題ないのを確認するまで、市販品を使わなかったのか。

★参考:桜田一郎著『第三の繊維』(高分子化学刊行会)P.54 四、ビニロンに関する研究の中に、〔その後ホルマール化反応以外に種々のアルデヒドを用いてアセタール化する方法が研究され、興味ある結果に到達した。ベンズアルデハイドでアセタール化すればビニロンの触感、弾性度を大いに向上する〕と記述している。

昭和二十五年~二十八年特記記事

 日本労働組合総評議会(総評)発足

 一九五〇年六月二十五日の日曜日、朝鮮戦争が始まった。

 板門店で休戦協定の調印式が行われたのは、話合いが始まってから二年もたった。一九五三年七月二十七日である。しかし、休戦協定に不満だった韓国側は協定に調印せず、国連軍、北朝鮮、中国が調印してしまった。南北両国はほぼ北緯三八度線を境に分割された。朝鮮戦争その後も続くゲリラ活動。

 朝鮮戦争で日本は経済復興。

 警察予備隊から自衛隊発足。

昭和29年(五年目)  

ポバールの部分重合法開発により高強力ビニロン生産に成功。研究所の浮田純二さんが開発された。(29.5)
*研究所に転出して、浮田さんとお話しをすることができた。親しくなり、お話しをしているうちに、研究一筋のかただった。

▼昭和29年1月20日(水)大寒 曇り/雨
当時の課長より勤労課勤務社員のご子息の家庭教師を依頼された。なるべくなら断る積りであるが入学試験の準備でなくただ勉強の癖をつけるためのものらしいとのことで、さほど断る理由もないと思った。

▼昭和29年6月05日(土)児玉昭人君来岡。平田さん、角君、児玉君と麻雀。翌日、尾道に帰った。

▼昭和29年10月13日:結婚。社宅に入る。

昭和30年(六年目)

昭和30年下期 倉敷レイヨン概況 資本金十五億 売上高七十六億 利益三億 従業員一〇、二八四人(『大原總一郎年譜』)

 交替担任者の引継ぎを口頭からノートに書かせる。引継ぎのミスがないように指導した。

昭和31年(七年目)

写真説明:休憩時間、各部署からグランドに集まってソフトボールを楽しんでいた。写真のバッターは池永和男さん。

 西条工場、レイヨンステープル増設完了、日産六十三トンとなる。倉敷レイヨン創立三十周年。

▼4月:天皇、皇后両陛下岡山工場ご視察

昭和32年(八年目)

倉敷レイヨン 資本金三十億円に増資

左前膊切断創

▼繊維に機械的に捲縮(けんしゅく:羊毛のカールを想像してください)をつけた繊維の切断方法の開発をしていた。スフ切断機の繊維束の供給部分の一部を改造して切断長さの変動を小さくする方法を研究していた。

捲縮繊維はクリンプがあるために束状態の繊維が繊維方向に配列しにくい。そこで矩形のノズルを作りその内部の周囲から空気を噴き出させ、その空気流の中を束状態の繊維を通す方法を考案して実験を繰り返していた。

六月三十日午後三時ごろの事故である。休憩が終わって、作業開始、切断機の安全カバーを開けて左腕をいれて空気の流の状態を調べていた。作業員の一人が一切注意も払わず、声も掛けずに動力のスイッチをいれた。瞬間に一皮だけ残して切断されたのである。痛みを感ずる事もなかった。直ぐに繊維の束で左腕の脇の下近くを止血させた。

工場の医局に行き直ちに岡山大学医学部整形外科に運ばれた。十七時半ころに手当てを受けた。その間がたまらないくらい辛かった。動脈が切れているのを止血しているために血液は腕の方に送られてくるが行き場がないから圧力が高くなるのであろう。鉛で押し付けられているように感じられた。止血の場合、ある時間経過すると鬱血を抜かなければならないのだそうだ。

津下助教授の治療が始まった。医局員に診断結果をカルテに書かせていた。ドイツ語であったが大体単語が聞き取れたのでこれは駄目だと観念した。

全身麻酔をかけられて数を数えているうちに気が失われた。目が覚めたのは二十一時ころ、病室のベッドであった。左腕がなくなっているのに直ぐ気付いた。

左前膊切断創であるため治癒に時間はかかからなかった。十日くらいで退院した。 

六月三十日~八月二十一日、岡大入院、岡山労災病院で整形のリハビリ。

 当時の私の気持ちは、入社八年目、従業員の安全を指導する立場のものが重大災害負傷をするとはなにごとか。恥ずかしくて身の置き場がない思いであった。会社を辞めるべきか、勤めても片腕無くては技術者としては仕事できないだろうと悩んだ。

 そのころの安全管理は考えられないくらい甘かった。現在では切断機のカバーを開けば動力のスイッチは入らない工夫がされている。私の負傷からこの様な安全対策が取られた。安全対策はどちらかと言えば後手に回わっていた。

 野村重役の見舞いの手紙

 拝啓 日曜の朝 勤労課長の河野君からの電話で貴兄の負傷の事を知らされ驚いた次第です。幸いにしてその后の経過は順調とのことやっといくらか気分が安まりました。

 今日は社長も東京より帰られましたので委細報告致しましたが貴兄の負傷程度の事、それから今後の対策の事について大変御心配になっておられました。

 工場でも本社でもその事については如何にして万全を期するかを真剣に検討し決して貴兄の余りにも苦い経験を無にしない様早速活動を開始して居ります。鬱陶しい梅雨空は容易に晴れそうもあり……。

 大学病院にお見舞い戴いた会社の幹部(野村さん・中条さん)に母は

「子供は海軍にいれてお国に捧げたものです。腕の一本くらいで済みました…」と挨拶していた。まつたく知らなかった。

※母の言葉は、浜口雄幸首相が一九三〇年(昭和五年)十一月十四日、東京駅で狙撃された時、「男子の本懐だ」と言っているのとかわりないようにと私には思える。(2021年記)

 河村喜一製造部長から「黒崎君のお母さんは素晴らしい人だ」と、挨拶の言葉を聞かされた。

参考:芥川龍之介の著作に、自分の子供の死を恩師に知らせる場面がある。

 その時、先生の眼には、偶然、婦人の膝が見えた。膝の上には、手巾を持った手が、のつている。勿論これだけでは、発見でも何でもない。が、同時に、先生は、婦人の手が、はげしく、ふるえているのに気がついた。ふるえながら、それが感情の激動を強いて抑へようとするせいか、膝の上の手巾を両手で裂かないばかりに緊く、握つているのに気 がついた。さうして、最後に皺くちやになつた絹の手巾が、しなやかな指の間で、さながら微風にでもふかれているやうに、繍のある縁を動かしているのにきがついた。…… 婦人は、顔でこそ笑っていたが、実はさつきから、全身で泣いていたのである。芥川龍之介全集『手巾』より

▼岡山工場、倉敷の研究所、岡山工場の製造部長、研修所長と処遇していただきました。感謝の言葉は言い尽くせません。社長はじめとして上司の皆様・同僚・後輩にただ感謝の言葉しかありません。「本当にありがとうございました」。


 後日談

▼倉敷の研究所にいた私に岡山工場の河村部長から手紙をいただいた。その内容は「黒崎君、励ましてくれないか」でした。

 「岡山工場の社員がローラーに片腕巻き込まれて切断した。黒崎君から励ましの手紙を書いてやってくれないか」との内容でした。

 早速、私の体験をふまえて励ましの手紙をかきおくりました。

 彼(H君)は元気に勤め、余暇にはマラソンに挑戦していました。陰ながら声援を送り、障害に負けない人になってと、ねんがんしていました。 


昭和33年(九年目)

「テトロン」時代始まった。東洋レーヨン、帝国人造絹糸の両社、共同でICI社よりポリエステル系合成繊維の製造技術を導入。

昭和34年(十年目) 係長に昇進

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写真説明:1月16日:クレモナ新年宴会。担任者以上の新年宴会。クレモナ会は会員が会費を積み立て、宴会・旅行などをして親睦を深めていた。
前列左から:西下・浜田馥さん・新田課長・矢田邦彦さん・中条部長・松田さんたち。後列左から:岡・戸村・池永・黒崎・中村たち。

 ビニロン五十トン設備完了。

 三十四年上期 ビニロンの売上高が五十七億円となり、総売上高百十億九千万円の半ばを超える。

 新型荷造機(自動計量、連続梱包)二号機設置。


 ★ビニロンステープルのクレームについて★

 熱処理不十分の繊維をアセタール化すると、処理中に溶けて繊維の塊になる。その塊の混ざった製品を紡績会社に送ると、混打綿機の針を折ったりすして損害を与え、クレームとなってはね返ってきた。その都度、私は工場の代表者として謝罪に赴いていた。そのための対策として製品への異物混入発見装置開発したのであった。

※製品への異物混入発見装置開発。(実用新案登録された)。原動課(電気)の難波さんに、乾燥機から荷造機への送綿管に異物があたると音が発生していた。これを録音して聴いてもらって発見する装置にいたった。

 その他のユーザのクレームとして、ビニロンステープルの重量に対するものがあった。
 繊維の売買の基準として、公定水分率(温度20℃湿度65%の環境における繊維内の水分率が決められていた。綿は8.5パーセン、ビニロンは5パーセントであった。
 すなわち、綿100Kgは綿91.5、水分8.5Kg‪として売買されていた。ビニロンステープル100Kgはステープル95.0Kg,水分5.0Kgとなる。
 実際の水分率は2パーセントであった。するとステープルの重量は98Kgとなり95Kgの取引量よりおおきくなっている3Kgをやや少なめに調節して迷惑がかからないようしている。
 以上の説明をして了解して戴いていた。ビニロンの最終の部署であったから、ユーザ―に説明して廻るのも仕事の大事な側面だった。


 東京後楽園に応援に行く。実業団野球都市対抗に岡山工場が出場。夕方十七時の急行鷲羽で出発、翌日朝東京に到着。後楽園に応援に行く。初めての東京見物、宮城、東京ターワーなどバスツア-。
 第28回都市対抗野球大会は、1957年7月27日から8月4日まで後楽園球場で開かれた都市対抗野球大会である。


※宮城前の写真。写真をクリックしますとサイズが大きくなります

*当時の吉田工場長(小林成一さんの奥さまの実父)が大変力を入れられていた。そして遂に実業団野球都市対抗に岡山工場が出場。私も応援団の一人として参加。夕方、岡山駅発十七時の急行:鷲羽で出発、翌朝東京に到着。後楽園に応援。初めての東京見物、宮城、東京ターワーなどバスツアー。

昭和35年(十一年目)

 ビニロンフィラメント(日産3.2t)が建設された。中条部長が担当。中村春彦君がフィラメントの部署に異動した。

*全国労働衛生大会松山市で開催された。勤労課員:春日君(柔道の猛者)と参加。私は衛生管理者の資格を取得していた。春日君は学生時代の柔道部でしつけられていたのか、一緒に風呂に入ると、流しましょうと背中を洗ってくれた。

 倉敷工場に技術研修所開設。

昭和36年(十二年目)

 ビニロン、七十三トン設備。更に八十四・五トン。資本金六十億。

 組合執行委員(非専従)を務めた。他工場の組合関係者をしることになった。越智 勝さんたち。

昭和37年(十三年目) 主任に昇進

 ビニロン、八十四.五トン設備。

 北京においてビニロンプラント輸出議定書に調印。

 品質管理の全社的な推進開始。部署でも品質管理教育に力を入れた。また、部署の労務管理が忙しくなる。

 品質管理手法導入により合理的生産管理の考え方体得。生産管理者としての力を付けた。

*ビニロントウのローラ巻き付き発見装置開発。

*ビニロントウのアセタール処理の硫酸ナトリームの濃度の管理によるアセタール化度の安定化により処理速度の向上。生産性向上。

*アセタール化処理槽の前後に処理槽を設置して、ここを通過させることによって、アセタール化に使われていた硫酸の使用量を約半分に減少することができた。 さらに排水処理の費用をけいげんすることができた。

★共産党下部組織民青同活動。担当部署の従業員も加入。民青同対策。後日、裁判事件に発展。最終的には和解。

 組合関係の日誌から

 四月五日    代議員会 議長K、副議長S。

 十一月二十一日 支部執行委員会 苦情委員の選出

 十一月二十二日 代議員会 N君の出勤停止の報告。組合は政治活動と認めた。反対者、T君一人のみ。

▼9月、皇太子、同妃両殿下(現在の天皇、皇后陛下)岡山工場ご視察。

昭和38年(十四年目)

 中国へのプラント輸出の組織が発足。製造関係では新田課長、岡主任(紡糸)、池ノ上(仕上げ)、天野(原液)らが担当。

昭和39年(十五年目)

 資本金百億円

*ホルムアルデヒド蒸発原単位減少

一 トウ、アセタール化処理装置での蒸発防止対策。

二 NFA アセタールシャワーボックス半減。

★主任時代(部署・仕上)の懐かしい人たち

 学卒者:浜本(三十七年入社:中途退社)、溝辺(三十八年入社:平成九年逝去)、こと子・東森(三十九年入社)、関谷(四十年入社)

※写真説明:関谷君:2021.10.30 逝去(79歳)

 思い出す部下:藤高、森本、磯谷たち。

 昇格担任者:石山、信長、諏訪、坪井、小寺の諸氏。

 組合の執行委員(組織法制部長)。県会議員・市会議員選挙運動、同時に職制の主任業務を行う。

 心石京子 入社希望に当って、勤労課の係員が身元調査のために家庭の調査をした。岡山工場に採用されて入社。女子寄宿舎の世話係りとなった。

 社宅引っ越し 五階アパートから北社宅へ。子供は福島小学校から福浜小学校へ転校。

 知博、塾に通う。高橋さん(昭和25年入社、同期)の長女(一クラス上)たちと勉強させてもらっていた。

★私生活:

1、正月、広島の奥の湯山温泉で正月を過ごす。黒崎家全員で。
2.昭和三十九年八月お盆、黒崎家十七人全員でクラレの保養所であった岡山県湯原寮に行く。

昭和40年(十六年目)

関連:連絡月報4月号:投稿黒崎昭二「リレー随筆」

 安全対策:柔軟体操開始、朝仕事始めと昼休み後、行う。指差し運動展開。二・五カ月に一度の割合で発生していた負傷回数を二年間無災害に導いた。

 現場技術者として大きく成長した機会であったと思う。

 中国から実習員来日

 当時の日中関係による、警察の警備体制はものものしかった。

 私も彼らに講義をした。全く質の悪いノートに漢字ばかりで書き込んでいたのが印象に残っている。

 また、会社の旭風寮での懇親会の宴会に参加したとき彼等は酒は飲まないでサイダーだけで非常に発言に注意していた。

 中国式「乾杯(カンペイ)」を知ることができた。

 中国運転派遣メンバー決定。直属の新田課長は小生を派遣のつもりにされていたが、河村部長が小生の腕の無いことを考慮されてメンバーから外された。

 河村工場長転出、小日向氏工場長。

 思い出せば、河村工場長には、部長勤務のときから工場技術者の心構えを教えられた。その一例は、

▼生産部長河村喜一部長が、私の職場に来られて、技術の話をしているとき

 「黒崎君、熱水中でビニロン繊維に羊毛のようなカールをつけてみないか」と言われた。

 「部長!それは以前に実験しました。出来ませんでした。」

 そう答えると、

 「今の君は以前と変わらないのか?」と。

 この言葉の重みは私の心をとらえた。

 工夫して改めて行つてみますと申し上げた。

▼熱水の温度・繊維の塊をほぐしての実験を注意深く行いました。結果は同じく、部長の期待されるものはできなかった。

 以上の経過を報告すると、部長も納得してくださった。

 思うに、部長はレイヨンの生産に従事してこられた。レイヨンステープルは、その生産工程の 「紡糸」で糸の両側面での歪が異なっているので、そのままお湯の中にいれるとカールができたのである。このことから推定された思われる。この事実は、当時京都大学の掘尾教授が報告を出されている。

▼一回りしても、進歩しないで元の位置に返る円運動の人がいるが、絶えず識見を磨いて高い位置に登っている螺旋運動している者もいる。私は、後者になりたいものだと……。

余談:部長のお考えを実験という事実で証明したことから、技術者として認めていただいたのか、その後、信頼して下さり、ご指導をいただきました。大阪本社に出張ではお供をして、帰りには新幹線でビールを飲み、岡山に着くと、部長の行きつけの飲み屋につれて行かれた。

 終身までご高配いただきました。毎年年賀状をいただいていた。

関連:中野 忠様(1968~1969年クラレ取締役)のお手紙

 拝復 自学自得二七〇号(平成十年三月十日 辞書を読む)拝受。有難うございます  

 二七〇という数字の重みをひしひしと感じながら貴方様のご意志の固さを感じ入ります。

 河村喜一様(1961~1967年クラレ取締役) 去る八月二十五日(平成十一年)ご逝去なさいました。九十才であられました

 奥様のお話では随分と静かな大往生であられたとのことです。

 万年青年だと云ってあの強靭な体力でいっも私に接し、高齢を少しも感じさせない方でありました。何年か前、万年青年だから弱気を云わぬよう手紙を書いたら、もうあの看板はおろした。近頃は少し腰がまがっておると家族にひやかされる等、云っていましたがそれにしてもあの万年青年河村さんも逝かれてしまいました。淋しい限りです。

 ハガキ通信でご指摘の自殺者多発のこと又離婚者の多いこともあわせて本当にゆゆしきことと思っています

 なお私はアメリカ社会の学校での銃の悲劇、それに対する対応(学校に警察官が常駐し指導しておる様子をTVで拝見しました)。これも又大変なことだと思います。

 私共夫婦、妻も四〇日程福岡に居て帰阪しました。

 余りよくないのですが彼女の腰痛はきわだって好くなりません。然し入院・リハビリの体験は何かと養生に役立っているようです。

 私はその后大分快方に向かっており何とか日常の作業はこなせそうです。私の喘息の方は近所の国立病院に転院がかなえられました。何かと便利になり通院の疲労も軽減しました。唯、医師は余りかんばしくありませんが、かわった以上何とかこなしていきたいと考えております。

 朝夕大分ひえびえとするようになりましたがねびえなどなさらぬようご留意ください

        敬具

 八月十四日

 黒 崎 昭 二 様

 返信おくれもうしわけありません

昭和四十一年(十七年目)

 クラレ創立40周年 製造課工務転部


※クラレ創立40周年。写真をクリックしますとサイズが大きくなります

 昭和41年04月06日(水)

 中野 忠工場長との出会 以後、今日までご指導戴いた。

 工場長が大山澄太氏の講演会開催(山頭火、曹源寺の紹介)。

 滴水和尚の辞世の偈

 曹源一滴 七十余年

 受用不尽 蓋天蓋地

 ノートにメモしていた。

 昭和41年05月20日(金)

 中国派遣者帰国中国派遣者帰国

 五月:後部仕上げから製造課工務に転部。岡 新さん(昭和23年入社)がビニロンフィラメントの課長転出の後任。

 転部挨拶

 昭和二十五年以来満十六年後部でビニロン建設以来働かせていただきました。ともに考え、働きましたことに感謝いたします。

 仕事、労務、標準化、安全など走馬燈の如く思いが浮かび消えますが転部にあたり二、三のお願いをしてご挨拶に代えさせていただきます。

 第一は安全です。五月一日で無災害記録を樹立しましたが休業災害が四年以上もないと言っても過言ではありません。安全は自分で作り出すんだ、と言う心構えによるものであったと確信しています。与えられるものではありません、作り出して戴きたいと思います。

 第二はQC活動にも通じますが、プラン・ドゥ・チェック・アクションと言われますがこれらの前によく現場を見ることが先行します。見た上で考える。あらゆる角度より考えて自分の考えを持つように心掛けて下さい。そうすれば必ずや自己の進歩と同時に部署の発展が約束されます。後任の石山主任を中心に皆さんの一層の発展を期待します。

*写真説明:品質管理推進に使用したテキスト。

※参考:倉敷レイヨンのTSQC

★研究所へ転勤 十一月 倉敷工場北社宅に転宅。子供は倉敷市立中洲小学校に転校。

 転勤の経緯

 河村本部長

一 ビニロン事業部はポストの関係で詰っているから事業部より出すが健康に気を付けること。松林君が折角開発してきているのに君にゆだねばならないのは健康であるから注意すること。。

二 人間はあらゆる角度から知らないと思っている人からも評価されている。みている人はみているから注意すること。

三 仕事に対する心構えとしてファイトが必要である。十の中、五の成功で良い。やらなければ駄目だ。

四 五A以上の非組合員は実力主義に切り替えたから頑張るように。

五 専門学校出のコンプレックスを持つな。

 吉本部長

一 専門学校出が開発の仕事に従事することに喜んでだすことにした。

二 研究所で後継者を養成して何時でも手を引けるようにしなさい。

 菱田人事課長

一 いつまでもビニロンにおいておくなら職務を考えるようにいっている。

二 EYが短期のものなら出さないと研究の大杉氏に言っている。

三 課になれば担当してもらうことを条件にしている。

 研究所に異動して、クラリーノ研究開発室次長、化成品開発室次長、プロジェクト部長になったが、菱田さんが心配りされていた。

昭和四十二年(十八年目)

 ビニロン、一〇四トン設備。

★クラレ岡山工場勤務(昭和25年~41年)総括★

 大原總一郎社長の英断により国産合成繊維ビニロンの工業化が決定されて、昭和25年11月11日、富山工場と岡山工場は、わが国最初の本格的量産工場として創業の式典をあげた。五トン/日で創業。昭和42年には一〇四トン/日の設備になった。 それを見届けて倉敷にあった研究所に転勤となった。

 25年~41年の間、仕上げから一度も部署をかわらなかった。

※池永和男さん(昭和二十四年入社)は原液のみ、田中剛二さん(昭和二十三年入社)は紡糸のみの勤務をつづけた。

 その間、27年に小林成一氏が大学を卒業して仕上げに配属された。然し乍ら、倉敷工場にあったビニロン研究開発室に転出された。

 矢田邦彦さん(昭和二十四年入社)がレイヨンの部署から28年?に仕上げに来られたが、数年後転出された。

 入社以来、仕上げの仕事はすべて私一人に任されたことになった。

 いいことも悪い事もいやおうなく背負わなければならなかった。

 原液の主任:浜田馥さんは仕上げの部署は“黒崎教だ”といわれていた。

 研究所に勤務していたとき、倉敷工場長中西さんは“黒崎は生産の権威者だ”と言われた。またある時は、“実績をあげているから、生産の部長に追いだせ”とも言われた。

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