★習えば遠し 第1章 生活の中で学ぶ 第2章 生きる 第3章 養生ー心身 第4章 読 書 第5章 書 物
第6章 ことば 言葉 その意味は 第7章 家族・親のこころ 第8章 IT技術 第9章 第2次世界戦争 第10章 もろもろ

第7章 家族・親のこころ

FAMILY AND PARENT’S LOVE
目 次

01三世代あるいは二世代同居 02親の願い 03NEET【ニート】と「レイブル」
04親が子を思う気持ち 05造園の親方に学ぶ 06「パラサイト」化
07親と子―その一― 08親と子―その二― 09河野進詩集『母』・ 『万華鏡』・『旅』
10お母さんはさびしそうに黙っていた 11ブーメラン族 12モナリザの眼
13ある禅師の母 14歌人・税所敦子(さいしょあつこ) 15「底なし釣瓶(つるべ)で水を汲む」


三世代あるいは二世代同居


 最近、年老いた両親と同居していたらよかったとしきりに思う。年配者の体調、考え方の変化、日々の行動などを見ているだけでおしえられただろうと。年配者の智慧を借りれたのにと。父は小学校2年生のときに逝去。母とは中学校時代と、終戦後の学生時代まで同居。以来、故郷を離れ会社勤めを始め、正月・お盆に会うだけであった。やさしい言葉をかけることもすくなかった。

▼日曜坐禅会で親しくしていただいている先生との話で、中学のクラブ活動で「静座の会」を行っていたとき、一言で言えば、お爺さんと同居している生徒は、やさしいとのこと。例えば先生が出張したりするときには「先生!用心してください」などと声をかけてくれたりしていた。 

先生がお勤めの学校で三世代家族調査に関するアンケートで調べてくださった。その骨子の一部を紹介しま。

▼黒崎さんから、「同居家族の生徒の様子を短い文にまとめて下さい」と、ご依頼を頂くまでは、漠然と三世代家族の生徒は、優しい生徒が、多いと感じていました。しかし、その理由を、深く考えることは、ありませんでした。

▼この度、アンケートから、分かったことを、箇条書きに、まとめてみました。

 ・親子のあり方を、見つめている。(人間関係を、学んでいる)

 ・親に叱られたとき、優しく慰め、励まされている。(情緒が安定してくる)

 ・少し距離を置いて、愛されている。(精神的に安定してくる)

 ・無償の愛を、受けている。(忍耐力や優しさを身につけ、愛が育まれてくる)

 ・生活をともにして、生き方を、学んいる。(物の見方、感じ方、行いなどが、刷り込まれている)

 ・自分と対比しながら、祖父母の老の現実を、見つめている。(自分の未来を、的確に見つめている)

 ・日々、無意識に生病老死を感じ、見つめている。(一日生涯の心境が、刷り込まれている)

▼当時夫婦二人の生活でしたが、たまに休暇に遊びに来る孫たちはよく観察しているものだと感心することがしばしばありました。こころして接しなければ。躾は口だけでできるものではでなくて、日本語では後 姿というものでおこなわれているのではと。

平成十六年三月八日


追加:平成二十五年現在の家庭環境は、非常に親も子供も考え方が変わってきている。しかも高齢化・仕事の変化(親との同居を困難にしている)などはその関係をいっそう複雑にしているようである。
平成二十五年五月一日。


親の願い


 岩波文庫の「きょうの名言」をインターネットで検索すると親は子というて尋(たづ)ねもするが、親を尋ねる子は稀(まれ)なり 『山家鳥虫歌』(さんかちょうちゅうか)・・・検索いただいた書物は、現在〈品切〉でございます。当分、再版の予定がございませんので,ご諒承ください、とあった。      

 この本がどんな内容か図書館ででも探して読んでみたいものである。親子の心理の様子をしりたい。子であった私と親にたいする姿は、この通りだったと思う。いま、親である私と子供との関係も同じだと実感できる。

▼この言葉に関連して『徳永康起先生の人と教育』のなかで述べられているお言葉である。

 「マナコを閉じて トッサに 親の祈りを 察知しうるもの これ 天下第一等の人材なり」

▼天下第一等の人材になれないとしても、生存中の親の願いを察知するには親はいない。せめて、思い出のなかに、生前の親の祈りをわずかながら捜し求めて恥ずかしくない生き方をしたいものだ。
平成十六年七月五日


☆追加
▼『親の心』
 一 水戸黄門 「誕生日は、最も粗末な食事でいい。この日こそ、母を最も苦しめた日だからだ」

 二 西郷隆盛 「ああ、母に心配をかけてしまった。親不孝なことをしてしまった。すまんことをしてしまった」

 三 野口英世の母 「どんなことがあっても、おまえだけは一生安楽に養い通すぞ、たとえこの母が食べるものを食べずとも」

木村耕一著『親の心』から平成十六年一月四日に書き留めた言葉の贈り物。

平成十八年六月六日


NEET【ニート】(Not in Employment, Education or Training)と「レイブル」


 午後散歩などしていると、ぶらぶらしているようにしか見えない若者を出会うことがある。普通ならば勤務していてこんな時間に何をしているのだろうかと思っていた 。

▼この言葉を知りませんでした。インターネットでこの言葉を検索すると、「職に就いていず、学校機関に所属もしていず、そして就労に向けた具体的な動きをしていない」若者を指します。現在、日本にはNEETに分類される若者の数は六十八万人と言われています。この人数は私の住んでいる岡山市の人口約六十四万人とほぼ等しい。

▼つい数年前からフリーターが社会問題化してきていたが「ニートはフリーターでもなく、失業者でもない」といわれている。労働政策研究・研修機構副統括研究員の小杉礼子先生はニートを四つ類型化しています。

 Ⅰ型 反社会的で享楽的。「今が楽しければいい」というタイプ

 Ⅱ型 社会との関係を築けず、こもってしまうタイプ

 Ⅲ立ちすくみ型 就職を前に考え込んでしまい、行き詰ってしまうタイプ

 Ⅳつまずき型 いったんは就職したものの早々に辞め、自信を喪失したタイプ

▼何故こんな若者が増えたのであろうか。ホームレスにもならず生活をしているのは家庭が支えているからであろう。社会の環境、個人の生活履歴の影響か?これまでの日本人の生き方のツケが覆いかぶさってきているとの思いがしてならない。こんな若者を持つ家庭は大変だと私は思う。

平成十六年十月二十一日


 インタネットを見ていると次のような記事に出会った。

 ニートを「レイブル」呼称変更 大阪府が提唱、どう変わる?
2012年1月15日 10時00分 (2012年1月15日 21時29分 更新)

 働く意思を持って行動しているにもかかわらず、仕事に就けていないニートの若者を、「レイブル」と呼んで応援しよう――。そんな呼びかけを大阪府がはじめた。

 「ニート」ではマイナスの印象が強く働くので、就職活動をしてもなかなか雇ってもらえない。新たな呼称で、まずはマイナスイメージを払拭していこうということらしい。

 ニート自身の「やる気」を引き出す「レイブル」とは、「レイトブルーマー」の略で「遅咲き」「大器晩成」を意味する。大阪府が取り組んでいる「若者の雇用機会創出を目指す事業」に協力し、人材育成・自立支援を行うNPO法人「トイボックス」や社会的課題の解決に取り組むNPO法人「スマイルスタイル」が、「欧米で頑張っている若者を応援する言葉として使われていて、大器晩成に近い言葉」(トイボックスの栗田拓事務局長)として考え、採用した。

 大阪府はすでに、「レイブル」を広く知ってもらおうとポスターを作成。梅田駅などに貼り出していて、本格的なPR活動に乗り出している。

 ニートの若者(若年無業者)は全国で約63万3000人。そのうち大阪府は東京都に次いで多い、約5万5000人がいる(厚生労働省の2007年就業構造基本調査)。

 しかし、この中にも「働こう」と行動する、前向きな若者もいて、大阪府は「職がなく働いていないことでニートとひと括りにされて、怠け者のイメージをつけられてしまっている若者の就労を支援するのが狙いです。ニートのうち、働く意思のある人、行動を起こしている人たちを『レイブル』に位置付けています」と説明する。

 ハローワークにはなかなか足を運べなくても、地域のサポートセンターや就労を支援しているNPO法人には相談に行くことができる、具体的には「そういった人たちです」(雇用促進室雇用就労支援グループ)という。

 トイボックスの栗田事務局長は、「ニートの中にも、自分はニートではないとの思いを強く持ち、働き口を見つけてリセットしたいと思っている人は多い。当事者にとっても、自分はもっとやれるというモチベーションの向上につながる」と考えている。「レイブル」受け入れてくれる企業を募集中

大阪府は2011年11月23日に、「大阪ニート100人会」を開催。ニートの就労支援について、集まったニート経験者や当事者らに「どうすれば働けるか」を考えてもらい、意見を出してもらった。「レイブル」という言葉もこの場で発表し、府は「気に入ってくれたようでした」と、手応えを感じていた。

 その一方で、大阪府は「ニート100人会議」で出された意見を踏まえ、「レイブル就労モデル」の事業化を検討。NPO法人などの支援団体と具体的なモデル事業の構築を進めている。

 現在、採用マッチングサイトを準備しているところで、通常の労働条件や賃金情報の開示のほか、働き方の要望や就労訓練などでレイブルを受け入れてくれる協力企業の開拓に乗り出している。

 言葉だけでなく、具体的な支援での成果が期待される。

私見:活動の声援のため、インタネットの記事をそのまま使用しました。

▼私の気になることを一つだけ取り上げますと、平成十六年のNEETの人数は、八年経過してもほとんど変わっていないことです。

平成二十四年一月十七日


 ニート、60万人に減少 子ども・若者白書

 政府は3日、2014年版「子ども・若者白書」を閣議決定した。15~34歳の若者で仕事も通学も求職もしていない「ニート」は13年に60万人で、前年に比べ3万人減少したことが明らかになった。この年代の人口に占める割合は0.1ポイント減の2.2%だった。
 内閣府は「景気が改善傾向にあることに加え、ニートや引きこもりの就業、教育の支援拠点『地域若者サポートステーション』の数が増えたことが減少の要因ではないか」と分析している。

 年代別のニート数は15~19歳が9万人、20~24歳が15万人、25~29歳が17万人、30~34歳は18万人だった。

 ニートが求職活動や就業を希望しない理由に関し、15~19歳は「学校以外で進学や資格取得の勉強をしているため」、それ以外の年代は「病気やけがのため」が最も多かった。〔共同〕

平成十六年十月:68万人が十年後60万人に減少している。

平成二十六年六月


参考:スネップ

平成二十六年六月十七日


親が子を思う気持ち


 十月下旬の日曜日坐禅会に年配の男女の外人(夫妻と想像)が参加されていた。

▼茶礼の席にも、この二人が若い修行者の両隣に坐っておられた。若い修行者は二十二歳、スウェーデンの出身で岡山の曹源寺で修行に励んでいる。その両親が、はるばるとお寺に来られたのである。 老師がこの青年はたいへん純粋であると紹介されて、親が子を思う気持ち、子が親を思う気持ちについて話された。

▼親の子供を思う気持ちの一番に心配なのは、修行によりマインド・コントロールを受けるのではないかとの不安である。そこで老師は両親が子供の修行の様子を見、さらに坐禅会に参加して、全体の雰囲気を感じとって欲しいと伝えられた。両親が来られ雰囲気全体から息子の修行を認められたと思うと。両親の宗教はと聞くと、宗教心はない。日本ではほとんどのひとが仏教であるが、日曜坐禅会の人々は別としてお寺には行かない。老師が修行者を指導する方針として、一人ひとりの内から要求する目覚めを大切にしている。

▼子供が親を思う気持ちはさまざまである。外国からのある修行者は親の反対があり、親の気持ちを察して、他界されてから姉の勧めで得度した。また他の者は、母親から自分の思う道にすすめと励まされている。禅の修行にあたり親の気持ちを思い、修行の中でそれぞれの家庭の事情で迷っている。

▼親の子供のことを思う気持ちと子供の親を思うものは東西古今、変わりないものだ。自分が知らない異国での子供が禅の修行しているとなれば特別その気持ちに複雑なものがあると思う。指導者に直接お目にかかり、短期でも滞在して、体験見聞するのは将来の安心を得る近道だと感じた。

平成十六年十月三十一日


造園の親方に学ぶ


 曹源寺のお庭の手入れに京都から職人さんが来られていた。庭園の中に十本ほどのかたまったヒノキの枝打ちが行われていた。職人の一人が一本の木の中ほどにのぼっていた。そこから少し離れた地面に親方がたち、職人のいる辺りを仰ぎみながら「そこの枝を剪れ!」「その右の上の枝を!」と的確に次々と声をかけていた。親方がいなければ職人は全体を見ることが出来ないから次にどうすればよいかわからないだろう。適当に切ればよいといったものではないだろう。親方は長い下働きをして樹木の性質を研究し、剪定の5W1Hを叩き込まれて今日の腕前になられたと思う。

▼スポーツを見ていると、監督は競技場の外で試合の進行を見ていて、必要なときに選手達に指示を与えまた、タイムをとり全員に指図すると同時に選手の気分転換を図っている。アメリカの大リーグの監督はめったにダグアウトからでることがなく、普通は投手コーチがアドバイスにでる。監督が出て行くときは投手交代の場面が多い。どんな職場であっても指導者についても言えることいだとおもう。研鑽努力して識見を体得して、次世代にそれを伝えているのだと。

▼「親」についても思った。この字は「木の上に立って見る」と分解することができる。子供のすることを見ていると世代の差もあり、いちいち口出ししたいこともあるだろう。自分の姿勢をただして、そんなに大きな問題ではないと思えるときは、我慢して、いつも高い立場からその様子を見ていて、ここぞと思うときに、例えば子供の将来の岐路に大事だと思えるとき、教えたり躾をしたりするのが親ではなかろうか。
 口出しするときは「男親は厳にして慈」という言葉どうりでのぞみ、反対に 「母親は慈にして厳」でなければと、連想はどこまでも続く。


「パラサイ」化


 「パラサイト」化…さらに進む 世帯動態調査

 「30代前半男性の45%が親と同居」

 成人後も親の家に同居している子供の割合が、5年前より増えていることが21日、国立社会保障・人口問題研究所の世帯動態調査で分かった。親元を初めて離れて暮らす年齢は遅れる傾向が続いており、親に依存して暮らす「パラサイト」化がこの5年でさらに進んだといえそう。

 調査は、平成16年7月に全国で実施し、1万711世帯から集めた回答を分析した。

 調査結果によると、未婚・既婚を問わず親と同居している割合は、25~29歳では、男が64.0%(平成11年時58.3%)で5年前の前回調査時よりも5.7ポイント増加。女も56.1%(同51.3%)で4.8ポイント増えていた。

 30~34歳では増加が顕著で、男が45.4%(同39.0%)で6.4ポイント増、女は33.1%(同22.9%)で10.2ポイント増加していた。35~39歳でも男は33.4%(同31.7%)、女は19.8%(同15.7%)に増えていた。

 一方、20~24歳だけはわずかながら同居率が低下し、男は76.5%(同77.7%)、女は77.5%(同78.3%)だった。しかし18~19歳では同居率は高まっていた。

 初めて親元を離れて暮らした平均年齢は、昭和25~29年生まれでは男が20.1歳、女が21.0歳だったが、40~44年生まれでは男21.0歳、女22.4歳になり、年々遅れる傾向が続いていた。

 同研究所人口構造研究部は「同居率の増加は晩婚化・未婚化と大きな関係があると思われる。20代前半だけが下がった理由は、未婚化に歯止めがかかったからかどうかはわからない」としている。
(07/22 01:59)

▼調査データについてコメントは2行ほどである。今までの若い人たちの行動を「モラトリアム」「フリーター」「ニート」と言った表現で推移している。このたびは「パラサイト」。

 私は「二世代あるいは三世代の同居」この章の1に述べています。好ましい家族形態だと思っています。二世代・三世代の夫婦が同居することによるものであります。

 独身若者のパラサイトが増えるのは、それぞれの本人及び家庭の事情があり一口で述べることはできないと思いますが、親子の価値観の違いを乗り越えて上手に生活している方々もある一方で、何かと意見の違いによる不平不満がある家庭もあるだろう。多くの親は子供が「パラサイト」から離れて独立、社会的に貢献する日を待ち望んでいるとおもうのは私の思いだけだろうか。

 「パラサイト」とは、「パラサイト・シングル(Parasite single)」という言葉のことです。 これは定義すると、「学校を卒業してからも、なお親と同居し、基礎的な生活条件を親に依存している未婚者のこと」です。 もともと、この言葉は、当時の東京学芸大学助教授であった、山田氏によって提唱された造語です。「インタネットより」

★参考:【parasite】の意味:寄生生物。寄生虫。寄生椊物。居候 (いそうろう) 。厄介者。

平成十八年七月二十七日


親と子―その一―


 ひろさちや著『般若心経の読み方』を読んでいると以下の文章に出会いました。

 こんなすばらしい話を読んだ――。

 主人をガンでなくして、中学二年生の男の子と小学生の妹をかかえた母親がいた。近くの工場につとめている。残業がつづくとき、帰りが夜八時、九時になり、買物ができない。それで息子のお弁当に、鰹節をけづって醤油をまぶしてふりかけにし、それをご飯にかけて持たせてやる。二日もそれが続いた三日目の朝、息子が尋ねる。

「お母さん、今日のおかずは何?」

「今日も鰹節のふりかけよ」

 すると、息子は言った。

「ぼく、そんな弁当、いらん!」

 彼はちゃぶ台の上の弁当箱を払い落として、鞄をひっさげるようにして家を走り出る。

 畳に散乱したご飯粒や鰹節を拾い集めながら、お母さんは泣いていた。女手ひとつで子どもを育てる苦労を、どうして子どもはわかってくれないのだろうか.....と。とめどなく涙がこぼれた。

 彼女はお寺に行ってぐちをこぼした。

 そのとき、お寺の住職さんは、彼女にこう言ったそうだ――。住職さんの話を聞いた亀井鉱氏が、それをエッセイに書いておられるので、ちょっと長いが引用させていただく。すばらしいお説教だと思う。

 (母親のぐちを聴かされた住職さんは、)あなた。わが子の母親とおっしゃるが、母親にも実のある母親となだけの母親とある。「実」というのは、親鸞聖人がその字の左にふりがなをふって、「カナラズモノノミトナル」と記されている。実があるとは、かならず相手の立場、相手の身になっていく心のある母親で、名前だけの母親とは、自分だけのことしか考えず、いつも相手に自分の要求ばかりをつきつけてい「親だ。あなたはそのどちらだ」とさとした。

 「中学生ほどの子なら、そんな弁当恥ずかしくて、友達の目から隠して、ろくにかみもせずにのみこんで、蓋をしてしまう姿が、他人の私にも見えてくるのに、生みの親のあなたは自分の要求ばかりつきつけているのではないか」。こういって分かれたという。

 三、四日してそのお母さんから寺へ電話があった。先生のおしかりで、私は本当に自分が、名前だけの母親、実のない母親と思い知らされました。そこで家に帰るなり、息子に「あんな弁当持たせてわるかったね。かんべんしてよ」と謝りました。そうしたら息子がこういいました。

 「何をいっている。母さん。僕だって中学二年になっている。母さんの苦労はよう分かっている。いらん心配をくよくよするなよ」と、肩をポンとたたいてくれました。そのたたかれた肩のぬくもりがまだ残っている感じです。ありがとうございました。この教えをこれからもいっしょうけんめい聞いていきますと、お礼と決意を伝えてきた、と。

 亀井鉱氏「なだけの親・実のある親」(『あすあすあす』一九八〇年四月号)からの引用である。転写していて、わたしも涙が出てきて困った。

 ”親”と“子”というのも、相対的な概念である。“親”は“子”があってはじめて“親”になれる。にもかかわらずわれわれは、親が子どもを生んだと思いがちである。子がなければ、絶対に“親”とはなれないのである。そうわかったとき、“子”によって“親”にしていただいた恩を感謝することができるであろう。それが「縁起」の立場から見た“親”と“子”のあり方なのである。

▼わずか二十六年前のエッセイです。私には何も付け足すことはありません。私のホームページに書写させていただきました。一人でも目に触れて読んでいただき、考えていただきたいのがささやかな願いです。

 二〇〇六年も明日で過ぎ去ります。光陰人を待たずといわれています、来年からといわず、今日から「実がある人」にと、このお母さんのように決意したいと……。

二〇〇六年十二月三十日、写之。

▼二〇二〇年、無縁社会と呼ばれるような日本の社会環境が窺われる。親子の間も無関係のような事件が頻発している。

二〇十一年五月三月二日再読。


親と子―その二―


 十年以上の前だっただろうか、ある講演会で学校の先生から聞いた話です。私は後悔しています。講演者にもう少し詳しく事情を聞いておけばよかったと。

 いま、記憶に残っていることを思いだして、その趣旨をかくことにしました。

▼寝たきりのお父さんと中学生のお話でした。

 その中学生は学校から帰ると、お父さんの枕元へいきます。すると

 「今日は、どんなことを習ったの」と、お父さんは話しかける。

 「数学はこんなことを、国語ではこんなことを」と、逐一話しかける。

 「お父さんにはよく分からないが、むずかしいことを習ったんだな」

 以上のやり取りを毎日欠かさずにしていた。

 この中学生は最高の成績であったそうです。

▼寝たきりのお父さんが外部の風にあたるのは、多分、自分の子供をとうしてだけだったでしょう。

 そして子どもの帰ってくるのを待ちわびていたことでしょう。その子どもとの対話により生きる力を与えられ、生きがいの子どもだったことでしょう。

 また、子どもはその日のお父さんの様子を気遣いながらも、その日の学校での話やら、あったことなどを生き生きとじっくりと聞いてくれる親子の姿が様子が想像されます。

 子どもは自分では気づいていなかっただろうものが多くあっただろう。お父さんに喜びを与え、自分は話す力、自分の行動をまとめる力(反省点にもなっていたのでは)、そして授業の復習にもなっていたことは、最高の成績の生徒だったことからも想像できます。

 世間的には不幸な家族と思われていただろうと思います。

「ああ!疲れた。ビール」を飲みながら子供と話はしないで、TVを見ている親子の関係と比較してみれば、誰でも気づくことでしょう。

 元気なお父さんと中学生、寝たきりのお父さんと中学生、どちらが本当の意味での幸せであろうか?

▼小学校・中学校の先生はたいへんだ。あまりにも生徒たちの親との話に時間をとられて大変だからと、言った話を耳にする。

 まず、親は子供とこのような話をじっくりしてはどうでしょうか。生活が忙しくてそんな時間はない。仕事に疲れきっているといわれるでしょう。その一のお話にあるような「実のある親」になる努力はしてほしいものだと。

平成十九年一月四日(十九年の一号)、平成二十二年十一月十八日再読。
平成二十三年五月五日再々読。


河野進詩集『母』・『万華鏡』・『旅』


 「貝 母」(ばいも)が我が家の庭にも3月のはじめに咲きました。インターネットで「ばいも」を検索しますと沢山掲載されていますから、そちらで花や植物の性質など調べてください。参考に1つだけ掲載いたしました。

 「貝の母」と少し読みにくい字が使われていますが、特に「母」という字がすきです。

 河野 進さんが『母』の書名で詩集を発行しています。

 手元のものは1975.12.25 発刊されたものです。印刷・発行 聖恵授産所

 「母賛歌」は三十九篇です。そのほかに「病床の慰安」「子どもの四季」「祈り」の四部構成になっています。

 著者はキリスト教の牧師さんで、発行された当時の住所は岡山県倉敷市玉島でした。

 「母賛歌」より私の好きな詩五篇を私の母への思いを重ね合わせて写させていただきます。

  母という文字

母という字は 上から下から 左から右から 表から裏から見ても 同じかっこうをしている 母は太陽のように かげひなたがないもんな P.1

  雑 草

どうぞ庭の草はそのままおいてやって下さい どんな草でもきれいな花が咲きます

 そう言って雑草をひかせなかった母 小さい孫たちにもたのんでいた母

 雑草だけで充分たのしかった母 草花のように素朴な母でした P.3

  言 葉

ぼくは神学校へ行って牧師になると言ったら みんなあざけりののしった

 母は涙を流しながら一言いった 「これだけ反対されるものですから 生涯やり通しなさいよ」

 ぼくは母の涙ながらのはげましを 今もおぼえている P.20

  はなむけ

 両親と妻の父は まるで年令がちがっているのに 申し合わせたように

 不治の病と自覚したとき洗礼を申し出た 主イエスの教えを信じてか

 牧師である息子への最後のはなむけであったか どちらにしても私たちは感謝した

 自分が洗礼を受けたよりもうれしかった P.34

  もったいない

 母は一日じゅう もったいながっていた 一粒の米をひろい 冷えた茶がゆをすすり

 やぶれた足袋をつくろい もったいないと

 手をあわせながら死んだ P.35

装丁は「倉敷民芸館長 外村吉之介」

平成十九年三月七日


『万華鏡』「河野進詩集」の二百数十編の中から、三編を尊敬している方から贈られました。

  「呼吸」   

 どのような 不幸を 吸っても はく息は 感謝で ありますように

 すべては恵みの 呼吸ですから

  「忘れる(執着を離れる)」         

 愛して すぐ忘れますように 施して すぐ忘れますよに 怒って すぐ忘れますように        

 ゆるして すぐ忘れますように 裏切られて すぐ忘れますように 

 苦しんで すぐ忘れますように 悲しんで すぐ忘れますように        

 ねむるときは なにも持ちませぬように

  「微笑み

 どのような苦しみにも 暖かい微笑みを どのような悲しみにも 明るい微笑みを

 どのような恐れにも たじろがない微笑みを どのような不安にも 和やかな微笑みを

 どのような誤解にも 思いやりの微笑みを どのような憎しみにも やわらぎの微笑みを

 どのような冷たい目にも 親しい微笑みを どのような裏切りにも 黙って微笑みを

2011.04.30、2011.05.08再読


『旅』「河野進詩集」(装幀・外村吉之介)から数編を

  「旅 の 周 辺

  「火種」   

 この詩集のどこを開いても なぐさめの よろこびの

 感謝の 信仰の 希望の

 火種がちらとでも 見つかりますように P.21

  「旅人

 あなたも わたしも 今日の旅人

 神さまの恵みの巡り会わせ

 さあ 心残りのないいたわりを

 明日は また東と西の

 旅人にP.22

  「ヨーロッパ旅行

 報いを求めず神の国のために働く者に ふっと下さる神さまのプレゼント

 先生たちのこのたびのご旅行も そのうおうに思えてなりません

 大学の好意で親子のヨーロッパ旅行中 時々白鳥のように飛んで来て問安された

 ノートルダム清心女子大学々長

  渡辺和子先生の手紙の一節である P.24

  「ハ ン セ ン 氏 病 療 養 所

  「五十年」   

 五十年も島の療養所へ何をしに通ったのか

 何もしません できるはずがありません

 でも虫のよい想像をします

 わたしの説教を飽かず聞いてくれる信徒がいる

 顔を見て喜んでくれる人がいる

 すれちがって安心してくれる人がいる

 また来たなと遠くから眺めてくれる人がいる

 船が見えなくなるなるまで手を振ってくれる人がいる P.159

*母 河 野 進 詩 集(1975.12.25)

*著者略歴*

 明治37年 和歌山県にうまれる。

 昭和 5年 満州教育専門学校を経て神戸中央神学校卒業、岡山県玉島教会誉牧師、社会福祉法人富田保育園々長、社団法人キリスト教救癩教会理事。


10

お母さんはさびしそうに黙っていた


 私は日本大相撲が好きである。

 子どものころはラジオできいていた。

 最近はテレビ観戦を楽しんでいる。少し気になるのは横綱に一人も日本出身者がいなくて、大関に2人しかいない。もう少し頑張って欲しいものだと期待するひとりである。

▼大阪場所を視聴しているとき、舞の海さんの解説の中でチラッと、把瑙都(バルト)さんのお母さんの話しが耳にはいった。

 バルトが日本で相撲を取りたいとお母さんに言ったとき、お母さんは「淋しそうに黙っていた」とのことでした。

 私が思うには、お母さんは、たぶん遠い日本での相撲を知らないことによる不安を感じられていたのではなかろうか。だが息子が望むのならと自分の気持ちを腹におさめて「いや!」とも言わず我慢の沈黙をしていたがその気持ちは体全体でさびしさを息子に隠しきれなかったのではないかと。

▼来日した時に日本語はつかえたのだろうか。もしつかえなかったとしたら、部屋の親方の指導も理解できないで、周りの稽古の様子を見ての修業だったのでは。それは彼には大変な試練であり、それに打ち勝つ努力は並外れたものであっただろう。

 だが、平成24年正月場所で優勝し、大阪場所の成績次第では最高位の横綱のくらいが目前になり、親孝行できるのではなかろうかと私もフアンの一人として声援を送っている。

 把瑙都(バルト)の四股名は母国エストニアが面する「バルト海」からなづけたとのことである。1984.11月生まれの明るい力士にお母さんの気持ちを胸にひめて頑張っているのでしょう。

▼日本の大相撲も国際化されて、ロシア・グルジア共和国(黒海の西にある)・ブルガリア人民共和国(黒海の東にある)・モンゴールと多くの国からの力士がいて活躍している。特にモンゴル国ウランバートル市出身横綱:白鵬 翔(はくほう しょう、1985年3月11日 - )は、貴乃花および朝青龍とともに「平成の大横綱」の一人に数えられる第69代横綱として気を吐いている。

▼しかしこの力士たちの彼らのお母さんたちもかつては心配されて日本に送りだされたことだろう……。 

平成二十四年三月二十日


11

ブーメラン族


 NHK TV ニュースを視聴していると、アメリカでは大学を卒業しても就職できないで両親のもとに帰っている人たちを「ブメラン族」と言われ、その数が増加しているとのことであった。

 大学を卒業すれば親の援助をうけないで独立して自分の道に進むのが彼らの歩む姿であった。

▼この放送から思い出したのは、今から23年前の1989年、アメリカ・ニューヨークに1ヵ月滞在した時、バイリンガルスクールで、2週間の短期のマン・ツ・マン方式で勉強した時の指導者をおもいだした。

▼彼は地方の大学を卒業して、ニューヨークにでてきて、英語を母国語としない人々に英語を教える学校で働いたり、レストランでアルバイトしながら高校教師を目指して勉強していた。

 彼の話しでは、「私は大学まで卒業して、よい教育を受けたのであるから幸せである」と。普通は、親の責任として高校までは面倒を見てもらうが、大学に行くのは自分で奨学金を得て自力で進むのが普通の考えであるとのことであった。だから彼は「よい教育を受けた」と自覚していた。そして、上述した目標に向かって計画的に勉強していた。両親のもとに帰る意志はまつたくないようすであった。

 時は河のごとくに流れて、アメリカでさえブーメラン現象がおこっているのである。

▼最近はEU諸国では学生のみならず社会人も仕事にありつけない状況が大きく社会経済を揺さぶり、政治も財政の緊縮化政策だけでは大統領も交代している有様を受けて経済の活性化とのバランスをはかる政策に舵が切られている。

▼日本ではどうか。大学の就活(就職活動)は大変な様子が報道されている。大学3年生から就活をしている。また卒業しても仕事にありつけないで、企業が開く求人会などでに参加している始末である。私の実際に見聞した大学卒業者は自分の希望する就職先が決まらず期間限定のアルバイトで仕事をしながら就職口をさがしている方がいる。

▼これまで私はホームページでNEET【ニート】と「レイブル」「パラサイト化」を取上げてきた。

 働く意欲のある若い人たちが働ける国になってほしいものだ。

▼ブーメランについてインタネットでみると、多くの記事がある。余談だが、その中にブーメラン効果(比喩としてのブーメラン)があった。

 特定の人物や団体に対して不手際の指摘を行った際、その指摘がそのまま自ら、または自らの所属する団体に当てはまり、むしろ相手への攻撃よりも自らに炸裂した際のダメージが大きい様子を指した比喩。

平成二十四年五月二十九日


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モナリザの眼


 「モナリザの微笑」として親しまれている肖像画を知らな人はいないでしょう。

▼ここで『モナ・リザ』の絵の寸描しますと、イタリアの美術家レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた油彩画。深緑の衣装を着た一人の女性が、僅かに微笑んだ半身の肖像が描かれている。現在はパリのルーヴル美術館に展示されている。制作年1503年 - 1506年である。

▼「モナリザの眼」という題目で、彫刻家「船越 保武」さんがある雑誌に投稿されているのを讀んだ。私はこの人を知りませんでしたのでインターネットで調べますと

 1912年、岩手県二戸郡一戸町小鳥谷生まれ。父親が熱心なカトリック信者だった。県立盛岡中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)在学中(同期に松本俊介)に高村光太郎訳の「ロダンの言葉」に感銘を受け、彫刻家を志す。

▼1939年 東京美術学校(後の東京藝術大学)彫刻科を卒業。このとき出会った佐藤忠良とは終生の友情を培うことになり、二人は戦後の日本彫刻界を牽引していく。卒業後、独学で石彫をはじめ、数々の作品を発表して注目される。1950年、長男が生まれて間もなく急死したのを機に、自らも洗礼を受けてカトリックに帰依、キリスト教信仰やキリシタンの受難を題材とした制作が増える。

 1967年から1980年の間、東京芸術大学教授を勤める。その後、多摩美術大学教授を勤めた。1986年、東京芸術大学名誉教授に。1987年、脳梗塞で倒れ、右半身が不自由になったが、すぐにリハビリを開始。死の直前まで左手で創作を続けた。2002年2月5日、多機能不全で死去。89歳だった。

▼さて、「モナリザの眼」について、船越 保武さんはつぎのように書かれていた。

 いつからか、そう思うようになったのか。

 レオナルドの「モナリザ」を見ていて、あの眼には、何かがあると気づいてはいた。

 レオナルドの描いた他の絵には、あのような眼はない。あの眼は一体なんだろうと、ずっと永い間、気になっていた。

 キラッと光る眼、話しかける眼、微笑する眼、愁いに沈む眼、千差万別の眼がある。だが、モナリザの眼は、その中のどれでれもない。あの眼はモナリザにしかない特別の眼だ。

▼ここまでは感じていたのだが、ある時、ふと、あの眼は妊婦の眼だ、と突然気がついた。唐突でであるが、そう思った。電車の中で、前の席に坐っていた夫人の眼はどこかで見た眼だゾ、と思った。その夫人は、眼はこっちに向けてはいるが、見てはいない。視線が外に向かっているのだが、外を見ていない。その視線は彼女自身の内に向けられている。外を見る眼と内側を見る眼、微妙なことのようだが、誰でも、それとわかるほどの大きな違いなのだ。

▼その夫人は、自分の身体の中をみている。胎内を見ているのだ。胎内にうごめく胎児を見まもる眼であった。

 私はその夫人が妊娠している、と確信した。色白で、透けるような肌で、やや薄い色の瞳であった。お腹が膨らんでいるのは見えなかったが、私は妙に確信を覚えた。

 その夫人が立ち上がったとき、私の核心は的中していた。神聖な空気が夫人を包んでいる。お腹がかすかにふくらんでいた。

 私はじろじろとその婦人のをみたのではない。美術家特有の修練で、さりげないふりをして観察したのだから、無礼にはならない。

▼この婦人の眼に、私はモナリザの眼の秘密を見っけた。まさしく、同じ眼のありようなのだ。

 モナリザの眼の不思議さを、この時やっと私は解決した気持ちになった。

 キラットと光って物言う眼ではない。思索する眼でもない。悲しみでもなく喜びでもない。ただひたむきに、自分の体の中の、胎内の、もう一つの新しい生命をじっと見まもる眼。その眼は、厳粛というほどのいかめしいものではないが、小さな生命の生育の動きをじっと見つめる尊い清らかな眼であった。

 この眼は、妊娠している人のほかはあり得ない。

▼モナリザがどんな人だったのか、私は詳しくは知らない。だが、レオナルドによって描かれたモナリザは、まさに妊婦の眼にちがいない。絵の中で、前に置かれた手の位置や、衣装のふくらみにについての蛇足など要らない。

 あの深く引き込むような眼は、引き込むのではなく、胎内に向けられているので、そのように思われるだけなのだ。

 心が外に向いている眼と、内側に向けられている眼では、明らかに対照的なのだ。

▼モナリザについて、謎の微笑と、よく言われる。それはそれで、そのままの形容でいいのかも知れない。だが、私はひょんなことから、モナリザと妊娠を結びつけてしまったので、あの眼の中には、妊婦の眼を感じる。

 微笑と言われるあの眼は、下瞼のかすかなふくらみと、唇の両端の少しアクセントによって、そう見られるなのだろう。眉の下のかげりは、微笑とは遠いものだし、瞳の光を暗くおさえたのは、内面に視線を引き込もうとする手法であろ。

 私はレオナルドの絵画について、特に詳しく研究したわけではないが、モナリザの眼にこだわっていたので、何かを探し出そうとの私の欲ばりであった。それでこのような不遜な見方が生まれたのかも知れない。

私見:私はどのようにして、この世に生まれきたのかしらない。しかし、船越保武さんがモナリザの眼に感じられた、小さな生命の生育の動きをじっと見つめる尊い清らかな眼であった眼でわたしの生まれるのを見まもってくれていたのだと共鳴するものがあります。私の妻も子供を体内に身ごもっていたいた時も同じように眼を向けてくれていたのだろう……。

補足:この記事を読んでいただいる外科の先生から24.08.05日、ハガキをいただきました。「モナリザの眼の表現もさることながら、あの表情の解剖学的分析として、笑いの筋肉が二ミリ収縮したのがモナリザの微笑である…という解剖学者の言もうなずかれるものがあるようです。」

 ありがとうございました。多くの方々が「モナリザの微笑」には関心を持たれていることを知りました。

平成二十四年七月二十二日

※モナリザの顔は「黄金比」だとのことである。古来より人間が最も美しいと感じる比率として言われています。パルテノン神殿建設時に黄金比を用いたと言われています


平成二十九八月十八日

★八月十八日 理論は将校。実践は兵卒。(レオナルド・ダ・ヴィンチ)一五〇二年のこの日に、五十歳のレオナルド・ダ・ヴィンチはチェーザレ・ボルジアによって軍事技監に任命され、ロマーニャの城塞の視察を委嘱された。代表作「モナ・リザ」の原作にとりかかるのはこの翌年。『中年博物館』P.121


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ある禅師の母


 ある禅師の母

 これは明治になってからのお話ですが、お母さんと小さな男の子とがありました。その子どもが出家して禅を修行するために門出するという時、お母さんは、

 「お前の修行がうまくいっている間は私のことなんか忘れていてくれてよろしい。しかしもし、お前がそれに失敗して、ひとが皆お前に後ろ指を指すようになったら、私のことを思い出して、私の所へ帰って来ておくれ、私はお前を必ずあたたかく迎えるから。」といいました。

 それから三十年たちました。小僧さんは立派に悟りを開いて禅師となり、仙台の近くの碧巌寺の住持をしていました。

 その時禅師の郷里から使いが来て、おかあさが年を取って、再び起きられない床についておられるから、おかあさんは何ともいわれないので、これは私たちの計らいなのだが、何とか生前に一度会ってあげてくれないだろうか、と伝えてきました。

 禅師は聞くや、取るものも取りあえず、飛ぶようにして郷里へ帰りました。

 おかあさんは禅師の顔を見るや、重い枕をもたげて、いかにも嬉しげに、また世にも懐かしげにこういわれました。

 「私はこの三十年間一度も便りをしなかったが、お前を思い出さない日は一日もなかった。」

 以上の記事は、岡 潔著『月 影』(講談社現代新書)P.160 からのものです。昭和41年4月16日第1刷発行。

(※解説5)

 これはある有名な禅師とその母親の話であるが、これよりも6年前の岡の著書「月影」の中の「日本民族列伝」に既にこの話はでてきている。

 そこでは日本民族を7群に分け、第1群には岡が再三取りあげる応神天皇の皇子である宇治の稚皇子わきいらつこと聖徳太子という、日本歴史上第1級の人が出てくるのだが、何とこの禅師の母親もそこに名を連ねているのである。

 さて、この禅師のことは余りはっきりとはしないのだが、「月影」ではこことは違い「仙台近くの碧厳寺の住持」と岡は書いている。講談社が注のために調べたところによると、「永平寺67世貫首(かんじゅ)、北野元峰師」ということである。

 いずれにしても岡はこの母親の「この30年、私はお前に一度も便りをしなかった。しかし、お前のことを思わなかった日は1日もなかったのだよ」という言葉に並々ならぬ感銘を受けたことは確かなようである。

 岡 潔(おか きよし、1901年(明治34年)4月19日 - 1978年(昭和53年)3月1日)は、日本の数学者。奈良女子大学名誉教授。理学博士(京都帝国大学、1940年(昭和15年)。


 私は、こどもの日(5月5日)、「不動智」について知りたくなり、たしかに読んだことがあるのだが思い出せない。本棚を探すと『月 影』が見つかり、調べたが「無差別智」についての記載がありました。この本を拾い読みしていると「ある禅師の母」に出会う。

 文章との出会いを私は大切にしています。記録に残すために、ホームページに載せるためにパソコンに打ち込みました。

 親の思いが伝わってきました。「後ろ指を指されるな」と私は母から小学生の時にしつけられました。最後の言葉には亡き母を思い出させて目頭が熱くなりました。

 そうこうしているうちに、岡 潔先生の『春宵十話』(毎日新聞社出版)。昭和三十八年二月一日第一刷が本棚にありました。

 蝶々が花から花へと飛んでいるように本から本へと飛んでいると蜜にありつけたようでした。

平成二十六年五月五日


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歌人・税所敦子(さいしょあつこ)


 幕末から明治にかけて活躍した女流歌人に税所敦子さんという方がおられます。

 彼女は、文政8年(1825年)京都の宮家付き武士(宮侍)の家に生まれ、幼い頃から歌に親しまれ、20歳で薩摩藩邸(京都)に勤める税所篤之(さいしょ あつゆき)氏と結婚されます。

 短気で気性の激しい夫によく仕え、近所の人からは、「あんなに無理を言われて、よく我慢しておられますね」と言われたそうですが、そんな時決まって「武士の妻として、何かと足りないところの多い私を人並みの武士の妻にしてやろうとの思いから、言葉も荒くなったり、手も上げられるのでしょう。夫の憤りの強いのは私のことを思ってのことです。ですから夫のことは少しも怨んではおりません」と、答えたといいます。

 こうして献身的に仕える敦子を、いつしか夫も心からを敬愛するようになるのですが、その幸せも長続きせず、彼女が28歳の時、夫は病で亡くなります。

 しかし、悲しみにくれる間もなく、彼女は姑の世話をするため、一人娘(徳子)を連れて、夫の郷里である鹿児島に赴くのです。

 鹿児島には姑のほか、篤之と前妻との間にできた2人の娘、さらには五人の子供を連れた弟夫婦が同居しているという大家族でした。

 ことに姑は近所の人から「鬼婆」と、陰口されるほどの気性の荒い人で、敦子に対しては事毎に意地悪く当たるのです。

 しかし彼女はそれをじっと辛抱するばかりか、「まだ自分のお世話が行き届かないからだ」、「自分に足りないところがあるからだ」と、自らに言い聞かせ、姑に仕えるのです。

 酒好きな姑の食事は彼女自ら調理をし、また毎夜手洗いに行く姑のため、一夜も欠かさずローソクを持って案内するなど、心を尽くして、姑に仕えます。

 当時の鹿児島は"よそ者"を嫌う気風が強いところでしたが、孝養を尽くす彼女の姿に人々は皆、これを賞賛して止みませんでした。

 そんなある日のことです。

 外出先でどうへそを曲げたのか、憮然とした面持ちで家に帰った姑は、彼女を呼び寄せ次のように言うのです。

 「あんたは歌を作るのが上手だそうだな。今、この婆の前で一つ歌を作って見せてくれぬか」

 「はい、いかような歌を作りますので」と、彼女は素直に応じました。

 「それはな、この婆は、世間で鬼婆と言いますじゃ。それで、その鬼婆の意地の悪い所を正直に歌に読んでくだされ」

 敦子は驚いて、「まぁ、とんでもない。」と言って、しばらく熟考した後、次のような歌を短冊にしたためるのです。

 〽仏にもまさる心を知らずして 鬼婆ばりと人は言ふらん

   短冊を手に取り、しばらく無言で見ていた姑は、ついに大粒の涙を流し、「今日まで意地悪のし通しじゃった。それほどまでにねじれきったこのわしに《仏にもまさる》とは……本当にすまなかった。許しておくれ」と手をついて心から謝まったそうです。

 そして姑が、「なにゆえこの私を〝仏にも勝る〟と詠むのじゃ」と、さらに問われて詠んだのが、次の歌だと伝説されています。

 朝夕のつらきつとめはみ仏の

 人になれよの恵みなりけり

 歌人である彼女は、いつも自らを厳しく律していました。

 いかなる苦労があろうとも、それは「本当の人間になってくれよ」と働きかけてくださるみ仏の「お恵み」ですという歌でありますが、いかなる苦難をも恵みと受け止めていくところに、長年仏法に親しんでこられた彼女の素晴らしい智慧が光っています。

 その後、彼女の貞節ぶりが、薩摩藩主島津久光候の耳に入り、登用されて、その息女に仕えて10年、更に島津家から近衛家に嫁入られる際に伴われて近衛家に移って10年、よくその任を果たされます。

 さらに明治8年、高崎正風の推挙によって、宮中に入り、明治天皇皇后両陛下のお世話係(掌侍)としてお仕えすることになるのです。両陛下のご信任ことのほか厚く、人々は彼女を明治の紫式部と讃えました。

 また、宮内卿・伊藤博文公も、たびたび彼女と打ち合わせをする機会があったそうですが、「あれ程えらい婦人に会ったのは初めてだ」と、周りの人に話していたといわれています。

 また宮中にあっては、外国要人の接待に不自由とのことで、50歳を過ぎてフランス語、英語を勉強され、短時日のうちに習得したとのことです。

   こうして波乱多き人生を送られた税所敦子さんは明治32年2月、多くの人に惜しまれながら76年の生涯を閉じられました。

平成二十八年十一月三日


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「底なし釣瓶(つるべ)で水を汲む」


「底なし釣瓶(つるべ)で水を汲む」に学んだこと

理事長 田澤昭吾 「インターネットによる」

 先日、興味深い本と出会った。『底なし釣瓶で水を汲む』という書名で、サブタイトルに「逸外老師随聞記」とある。随聞記とあるから、弟子が師匠から聞いた教え、著した書物から、特に師匠の教えの要はこれだという箇所を選び一冊の書に編んだものである。随聞記では、道元の『正法眼藏随聞記』が代表されるだろうか。  

 「逸外老師随聞記」を編んだのは谷 耕月(たに・こうげつ)という臨済宗妙心寺派の高僧で、梶浦逸外老師(かじうら・えつがい)の弟子の一人だ。

 「はじめに」のページに、逸外老師が幼いときに出家することなった経緯が書いてあった。

 それは、幼い頃、母親に連れられて真宗の寺に詣でたとき、本堂にあった地獄の絵図を見て、この応報の業から逃れるには坊さんになるしかない、と思ったことにあった。これは、縁だと思った。逸外であればこそ、そのように心が動き、決心へと導かれたのだ。同じような出会いをし、だれもがそのように出家へと心が動くかと言えば、そうはいくまい。

 出家する晩、母親は、「今日からは、お前は母の子でも、父の子でもない。お釈迦様の子だから、お釈迦様の顔に泥を塗らぬようにしておくれ…。立派に修行して仏さまのように崇められるお坊さんになるんだよ」と諭した。そして、底のない釣瓶で夜を徹して井戸の水を汲み、四斗樽を一杯した孝行息子の話を聞かせた。   

 釣瓶(つるべ)とは、井戸の水を汲むために、縄や竿などにつけておろす桶のことだ。

 これが本のタイトル「底なし釣瓶で水を汲む」となった。

 この物語の大要はこうだ。

 ある所に、億万長者がいたが息子がいない、孝行したい息子がいたが親がいない。

 そこから話しは始まる。

 そこで、億万長者は、親孝行したいという息子を募集した。するとたくさんの息子になりたいという者が応募した。しかし、これまで一人として合格した者はいない。応募した男達は、億万長者だということで、皆財産目当てが目的だったのだ。息子になるためには試験があった。その試験とは、夕暮れから朝の一番鳥が鳴くまでの間に、底のない釣瓶を井戸に垂らして水を汲み、四斗樽を一杯にすることだった。底なし釣瓶で四斗樽に水をどうして一杯にできようか。応募した男達は、「馬鹿馬鹿しい」と言って試験を受けずに皆帰ってしまった。

 ところが、ある日、親孝行したいという息子が一人たずねてきて、「親孝行させて欲しい」と言った。「それでは試験だ」と言って億万長者は、井戸端にその男を連れて行き、「底なし釣瓶で井戸から水を汲み、夕暮れから翌朝一番鶏が鳴くまでの間に、四斗樽に水を一杯にしなさい」と言った。その男は、「そんなことで親孝行できるのですか」と喜んで、一晩中脇目も振らず、休みもせず、一心不乱に黙々と井戸から水を汲んだ。四斗樽に水が溜まっているかいないかを気にもせず。

 明け方の少し前に、億万長者が様子を見に行った。その男は、ただ一生懸命に夢中に井戸から水を汲んでいた。億万長者が近づいて行っても、それさえ気づかないほどに一生懸命だった。

 億万長者は、井戸端にある四斗樽を見たら、水が一杯になって地面に流れていた。億万長者は、男の背中を叩いた。男は、初めて億万長者に気づいた。そして、四斗樽に水が一杯になっているのを見た。その瞬間、「これで親孝行できた」と叫んで喜んだ。それにも増して喜んだのは、億万長者だった。億万長者には、立派な後継者ができ、それから二人は仲良く、幸せに暮らすことができた。

 母親は、この底なし釣瓶で水を汲み、四斗樽を満水にした話しを、逸水に噛んで諭すように聞かせ「どうして底なし釣瓶で水を一杯にすることできたのか」、また、「釣瓶でなく、四斗樽の底がなかったらどうなっていただろうか」などと質問した。そして、「精神一到何事かならん」という気構えで、一生懸命修行し続けなさいと、熱を込めて話した。

 逸外少年は、母親の熱意のこもった話に感動し、子どもながら修行の心得を得て得度し、生涯その「底なし釣瓶で水を汲む」精神を座右の銘にした。

 「成せば成る、成さねば成らぬ何事も、成さぬは人の成さぬなりけり」との箴言があるが、まさに昔から言われ続けているこの古歌と「底なし釣瓶で水を汲む」の精神は、同じ心の世界を教えていると感じ入った。

 やる気になって一生懸命やればできないことはないという人生訓は、どんなときでも心の支柱に置いて生きたいものだ。

 「石中(せきちゅう)に火あり、打たずんば発せず」。火打ち石が石の中に火の性質を籠もらせていても、それを打たなければ火が生じないのだ。どんなに素晴らしい才能が在っても、やる気がなければ、その才能を発揮することはできないのだ。

 電気は、スイッチをひねらなければ点かない。つまり、役に立たない。

 大事なのは、自分で火となろう、明かりとなろうと思って、自分で自分のスイッチをひねることだ。「底なし釣瓶で水を汲む」は、このことを教えてくれた。

 目標に向かってスイッチをいれ、一心不乱に生きたいものだと、心を振るわせて戴いた。(完)

           (2010.5.10)

参考:梶浦逸外

平成二十九年二月二十一日