ロマン:ローラン)一九一五年のこの日に、ロマン・ローランは前年の十月から勤めていたジュネーヴ戦時俘虜事務局での仕事を終える。四十九歳。P.100
★七月四日 弱いのは、けっして恥ではない。その弱さに徹しえないのが恥だ。(島崎藤村)大正五年(一九一六年)のこの日、島崎藤村(四十四歳)は、三年ぶりにフランスから帰り神戸に上陸した。P.100 桑原武夫『一日一言』P.139
★七月五日 敵手を否定せんとする戦いは冗談である。敵手の態度を否定せぬ怒りは洒落である。(阿部次郎)大正十一年(一九二二年)のこの日に、阿部次郎は、欧州留学の目的地であるベルリンに到着する。三十八歳の時であった。P.101
★七月六日 ついに極を得たり、三百年来人類の求めし北極! またわが二十年来の夢の地、北極! (ペアリー) 一九〇八年のこの日、四十八歳のペアリーは北極点に達する探検にニューヨークから出発した。
★七月七日――七夕
ふ可能という字は予の辞典にはない。(ナポレオン)一八〇七年のこの日に、普露連合軍を破ったナポレオンは露帝アレクサンドル一世とテルジッㇳの和約を結んだ。三十七歳。
★七月八日 厭世とは悲観より起こる感情であってはならない。かかる厭世観は快楽なるがゆえの楽天観と同じく浅薄なものである。(倉田百三)昭和八年(一九三三年)のこの日に、四十三歳の倉田百三は七月五日から朝日新聞に連載していた『自由主義に訴ふ』を終える。P.102
★七月九日 一切の文学運動はただ一条の虚無へ達し、そこから脱出せんがための手段である。このため文学は表現することよりむしろ表現を無くすることに多いと言わねばならない。(横光利一)昭和十一年(一九三六年)もこの日、横光利一はパリでのポルザ万国知的協力委員会で<我等と日本>という講演を行う。三十八歳。P.103
★七月十日 真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人よって愛されることを自ら望む。(岩波茂雄)昭和二年(一九二七年)のこの日に、四十六歳の岩波茂雄は岩波文庫を発刊した。P.103
★七月十一日 昨年末ふたたび童子輩にまかり洋学に取掛り、……折々深川までも、麹町辺までも風塵暑雨を避けず通い候て、ふ明の所をさぐり申し候ように仕り、夜分も九ツ[十二時]を聞かずに臥せり候と申す事はこれなく候。(佐久間象山)元治元年(一八六四年)のこの日に、幕末の洋学・兵書の第一人者である佐久間は五十三歳で死没した。P.104
★七月十二日 一人当千と云ふ事は、一人して千人にはいかでか向ふべき。なれども、はかりごとをよくし、居ながら多勢を滅ぼすをな付けたるなり。(源 頼朝)建久二年(一一九二年)のこの日、四十五歳の源頼朝は征夷大将軍となり、鎌倉幕府を創設する。P.104
★七月十三日 善とは家畜の群のやうな人間と去就を同じうする道にすぎない。それを破ろうするのは悪だ。(森 鷗外)明治三十三年(一九〇〇年)のこの日に、鷗外(三十八歳)は福岡県企救郡教育委員会支部で<普通教育の軍人精神に及ぼす影響>と題して講演した。P.105
★七月十四日 大道行くべし、又何ぞ妨げん。(木戸孝允)明治四年(一八七一年)のこの日に、木戸孝允が、大久保利通らと主唱していた廃藩置県が実行に移された。孝允、三十八歳の時。P.105
★七月十五日――盂蘭盆・中元
多情仏心。(里見 弴)大正十三年(一九二四年)のこの日に、三十六歳の里見 弴は『陥没』(後に『凡夫妻』と改題)を毎日新聞に連載しはじめる。P.105
★七月十六日――送り盆・やぶ入り
それ国は法に依りて昌(さか)え、法は人に因りて貴(とうと)し。(日蓮)文応元年(一二六〇年)のこの日に、日蓮は『立正安国論』を作成して、時の執権であった北条時頼に提出した。三十八歳の時。P.106
★七月十七日 山妻(さんさい)・稚子(ちし)共に団欒す。座上の春風、吹けども寒からず。窓は曙(あか)く物を観る眼を窮めんと欲すれば、朝霞千里、長安(京都)に満つ。(林 羅山)寛永十年(一六三三年)のこの日に、林 羅山は先聖殿に参謁した将軍家光に対して、『尚書』を講じた。四十九歳の時である。P.106
★七月十八日 まことに一事をこととせざれば、一知に達することなし。(道元)寛元二年(一二四四年)のこの日に、道元は越前国大仏寺(永平寺)の建立にあたって招かれた。四十四歳の時。P.106
★七月十九日 かの二大士の重願、たヾ一仏めいを専念するにたれり。いまの行者、錯(あやまつ)て脇士に事(つか)ふることなかれ。ただちに本仏を仰ぐべし。(覚如)延慶二年(一三〇九年)のこの日、親鸞の第二の後継者・覚如は青蓮院門跡の裁決で唯善に勝った。三十八歳の時のこと。P.107
★七月二十日――物質的にも精神的にも、光をもとめることが生きとし生けるものの本質ではないでしょうか。(山本有三)昭和三年(一九二八年)のこの日から、山本有三(四十三歳)は長編第二作『波』を東京・大阪朝日新聞に執筆しはじめる。P.107
★七月二十一日 同じような羽毛の鳥はともに群れる。(バンーズ)一七九六年のこの日、『主としてスコットランド方言による詩集』で一躍天才詩人と認められたイギリスの詩人バンーズは死んだ。三十七歳。P.108
★七月二十二日 わがむくろ花もてうずめ、わがひつぎ赤旗もてつつめ、わがわかれの日ぞ。(鈴木茂三郎)昭和三年(一九二八年)のこの日、鈴木は新しく結成された無産大衆党の書記長に就任した。三十五歳であった。P.108
▼鈴木茂三郎すずきもさぶろう(1893―1970)
政治家。明治26年2月7日愛知県に生まれ、苦学して早稲田(わせだ)大学専門部を卒業。1928年(昭和3)まで新聞記者として活躍する一方で、1920年(大正9)渡米し在米日本人社会主義者グループと交わり、革命ロシアに入って1922年の極東民族大会に参加した。同年帰国後、日本共産党に入党、無産政党組織化を推進するが、福本イズムと対立して労農派を形成、共同戦線党結成を目ざした。満州事変から日中戦争勃発(ぼっぱつ)の時期まで反戦・反ファッショの立場から運動を続けるが、1937年(昭和12)人民戦線事件で検挙された。第二次世界大戦後、日本社会党結成に参加し、1949~1950年(昭和24~25)書記長、1951年委員長に就任し<青年よ銃をとるな>と呼びかけた。社会党分裂に伴い引き続き1955年まで左派社会党委員長、統一後1960年3月まで委員長を務める。その後、社会主義文献・資料の収集に尽力し<社会文庫>を設立、日本近代文学館に寄贈した。昭和45年5月7日没。通称<モサさん>、筆めいは薄茂人、郷田要助、志村堅之、宇津木徹也、関新八、吉田繁二、安田求ほか。[荒川章二]『『鈴木茂三郎選集』全4巻(1970~1971・労働大学) ▽鈴木徹三編『鈴木茂三郎〈戦前編〉』(1982・日本社会党中央本部機関紙局)』
★七月二十三日 幕府の政治がよろしきを得ないので、上下万民が困っているのを、自分は無視できないので、事を起したのである。(由比正雪)慶應四年(一六五一年)のこの日、江戸初期の軍学者・由比正雪は謀反計画を密告された。二十六日には駿府茶屋の旅館で追手にかこまれ自殺。四十六歳。P.109
★七月二十四日 私の見るところ、人類の宿命的課題は、人間の攻撃ならびに自己破壊欲望による共同生活の妨害を文化の発展によって抑えうるか、またどの程度まで抑えうるかだと思われる。(フロイド)一八九五年のこの日、フロイドは自分自身の夢を最初に分析した。これは<イルマの注射の夢>として知られ、<夢判断>に収録されている。三十九歳の時のこと。P.109
★七月二十五日――土用の丑の日(このころ)
おれは、なにも悪いことをしちゃいない!(オナシス)一九五三年のこの日、当時としては世界最大のタンカー"ディナ・オナシス"が進水した。オナシス四十七歳の時である。P.110
▼アリストテレス・ソクラテス・オナシス(Αριστοτέλης Ωνάσης、Aristotle Socrates Onassis、1906年1月15日 - 1975年3月15日)はギリシャの実業家、ミリオネア。<20世紀最大の海運王>と言われた。
★七月二十六日 過失の弁解をすると、その過失を目立たせる。(シェクスピア)一六〇三年のこの日、三十八歳のシェクスピアは『ハムレット』の出版登録した。P.110
★七月二十七日 また人間の浮世(ふしよう)なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終(しじゅうしゅう)まぼろしの如くなる一期(いちご)なり。(蓮如)文明三年(一四七一年)のこの日に、浄土真宗の祖といわれる蓮如は越前吉崎に道場を建てた。五十二歳ごろのことである。P.110
★七月二十八日 一日此鉗(かん)(注・やつとこ)無ければ其身を養う能わず。鮟鱇(あんこう)の生理は鉗に在るのみ。天禄と謂うべし。(最上徳内)寛政十年(一七九八年)のこの日、最上徳内(四十三歳はエトロフ島の岩地に<大日本恵登呂府、寛政十年七月、重蔵徳内以下十五人記めい>の標本を建てた。)P.111
▼最上徳内(もがみとくない)[生]宝暦4(1754)? 羽前 [没]天保7(1836).9.5. 江戸
江戸時代末期の蝦夷地探検家。な,常矩。農民の出身で幼時から数理計測を好んだ。のち蝦夷地におもむき,ロシア船の出没を知って松前藩主に防備の献策を行い,帰府して本多利明の塾で測量学,地理学などを学んだ。天明6 (1786) 年師に代って蝦夷地の踏査におもむき,蝦夷地から国後 (くなしり) 島,択捉 (えとろふ) 島にいたった。寛政4 (92) 年樺太 (サハリン島) 踏査を命じられクシュンナイにいたった。同年来航したロシア使節 A.ラクスマンと応接,のち功により士分となり箱館奉行支配役となった。蝦夷通として知られ,蝦夷と生活をともにし,その言語,風俗に精通していた。著書に地誌『蝦夷草紙』 (5巻5冊) ,『松前史略』 (2冊) などがある。P.111
★七月二十九日 (マルクスの墓前で)彼のなは幾世期にもわたってとどめられましょうし、その事業もまたしかりでありましょう。(エンゲルス)一八六九のこの日からエンゲルスはドイツ=フランス戦争の軍事的経過についての五十九編の論説をベル・メル・ガゼット紙に発表。四十九歳の時である。P.111
★七月三十日 ときには、或は学術上(注・恩師緒方正規のこと)と意見の衝突をきたしたこともありまして、先生の尊厳をおかし奉つたこともございますが、これは学術上のことで、正々堂々のいわゆる君子の争いであります。(北里柴三郎)明治二十七年(一八九四年)のこの日、四十二歳の北里柴三郎が、ペスト菌を発見した。P.112
★七月三十一日 愛は総(す)べての存在を一(いつ)にす。愛は味ふべくして知るべからず。愛に住すれば人生に意義あり。愛を離るれば人生は無意義なり。(二葉亭四迷)明治三十九年(一九〇六年)のこの日に、二葉亭四迷は大阪朝日新聞に『樺太の森林』を掲載した。四十二歳の時である。P.112
★八月一日――八朔
体験が人間に取って何よりの修養だと云ふことも言はれるがこれも当てにならない。むしろ書物や体験を絶えず片端から切り払ひ切り払ひするところに人の真実が研がれる。(徳田秋声)明治四十四年(一九一一年)のこの日に、四十一歳の徳田秋声はその代表作『黴』の連載を東京朝日新聞で始めた。P.113
★八月二日 今度自分が相続したのはみずから天下の政事を建て直すためであるから、これ迄の将軍と違って、ことによると軽々しく見えることもあるかもしれない。思いの外の事を言い出すかもしれない。(徳川吉宗)享保六年(一七二一年)のこの日に、徳川八代将軍吉宗は庶民の声を直接聞く目的で、目安箱を評定所前に置く。三十六歳の時。P.114
★八月三日 創造はむずかしく、模倣はやさしい。(コロンブス)一四九二年のこの日。コロンブスが第一回目の大西洋横断航海に出発した日。四十六歳の話だ。P.114
★八月四日 およそ特権というものの、また特権的地位というものの特性は、人間の知性と心情を殺してしまうことにある。政治的にせよ、経済的にせよ、特権を得た人間とは、知的にも道徳的にも堕落した人間である。(バークニン)一八六一年のこの日、四十七歳のバクーニンはシベリヤを脱出し、函館に入港した。P.115
★八月五日 神に命じられたことをなしたのみ。(ナイチンゲール)一八七〇年のこの日、イギリスの<傷病者救助国民協会>(後の英赤十字本社)のリンゼー会長にあてたナイチンゲールの"特志看護婦を要請する"訴えの手紙がタイムズに発表された。ナイチンゲール五十歳の時。P.115
★八月六日――広島原爆記念日
新しい時代が始まる。しかし、日本にとって、本当に幸福な時代の始まりだろうか。(ハリス)安政三年(一八五六年)のこの日に、ハリスは下田玉泉寺に入り、アメリカ領事館とした。五十一歳。P.116
★八月七日 今後日本橋際南は本船町、品川町、裏河岸、西は本石町一丁目より同四丁目南側迄、東は伊勢町通り総て此辺之町々、向後火事之節、何方へ成とも飛火いたし焼立候はヾ、其一町可取上。(大岡忠相)享保五年(一七二〇年)のこの日、江戸町奉行大岡忠相は"いろは四十七組"の町火消を組織した。四十三歳の時。P.116
★八月八日 弱い者にたいしてかくも強い国家は、病気や死の原因が群っている暗い工場の中で弱い者を保護するには無力だろう。人間は人間を虐待し、生命の体液をすっかり絞り取るだろう。しかし、安穏無事な国家はいうのだ<自由を黙認しよう>(クレマンソー)一八九三年ベルサイユ平和会議議長を務めたクレマンソーが、国民会議で日和見主義を批判する演説を行った。五十二歳。P.117
★八月九日――長崎原爆記念日
来た、見た、勝った。(シーザー)紀元前四十八年のこの日、シーザーは政敵ポンペィウスを破り、全イタリアの支配者となる。五十二歳。この時の元老院での報告がこの言葉である。P.117
★八月十日 猫の毛色にも虎のような斑(ぶち)があるも、虎に似ているというだけで、誰も虎とは思うまい。ところが人間には、浅知恵をはたらかす者のいて、さもおのれを虎のように飾りたてて、人を惑わす。(石田三成)慶長五年(一六〇〇年)のこの日に、石田三成(四十歳)は関ケ原の戦いのために、大垣に入った。P.118
★八月十一日 三千年に花さきみのる桃の園の ぬしをも越ん君のよはひは(柳沢𠮷保)元禄八年(一六九五年)のこの日、柳沢𠮷保の建議によって、慶長金銀を改鋳して質の悪い元禄金銀を発行、𠮷保、三十八歳。P.118
★八月十二日 たとへ日を累(かさ)ねての逗留なりとも、別るる期に別れざれば、大なる非(そら)ごとをとる事うたがひなし、心がけの第一なり。(小林一茶)文久九年(一八一二年)のこの日、漂泊俳人・小林一茶信濃国柏原を出発し江戸へ向かった。四十九歳の時。P.118
★八月十三日 〽春の夜の夢の浮橋とだえして 峯にわたるる積雲の空 (藤原定家)承元三年(一二〇九年)のこの日に、藤原定家は<近代秀歌>を選集し源実朝に贈った。四十七歳の時だった。P.119
★八月十四日 Be Gentleman<紳士たれ>(W・S・クラーク)明治九年(一八七六年)のこの日、札幌農学校(現・北海道大学)の開校式が行われた時、校則を決めるにあたって意見を求められたクラーク博士はただ一言 "Be Gentleman" とだけ言った。この時博士は四十九歳。P.119
★八月十五日――終戦記念日
志なき人は如何ともすることなし。(荻生徂徠)享保元年(一七一六年)のこの日に、荻生徂徠(五十歳)は『太平策』を完成させた。『中年博物館』P.120
※終戦へのみちのり~私の体験~
※TOKYO -- A government-sponsored memorial ceremony for the war dead was held on Aug. 15 on the 74th anniversary of the end of World War II, at the Nippon Budokan arena in Tokyo's Chiyoda Ward.
★八月十六日 〽海ならずただよふ水の底までも 清き心は月ぞてらさむ (菅原道真)昌泰三年(九〇〇年)のこの日、五十五歳の菅原道真は詩文集『菅原家文章』を醍醐天皇に献上した。P.120
意訳:海よりもさらに深く、底まで湛える(私の)清い心を、月は照らして明らかにしてくれるだろう。
この歌は太宰府に左遷された菅原道真が、無実の罪であることをせめて月だけは明らかにしてくれるであろうと詠んだものです。大鏡(左大臣時平)に出ているとともに、新古今集雑歌下に<菅贈太政大臣>作として十二首採られているうちの一首として出ています。また、天皇に対する忠誠心を示す歌とも解釈できるので、戦時中は愛国百人一首にもとられています。現代人にはあまり知られていませんが、歴史的には有めいな歌のようです。
★八月十七日 愛を優しい力と見くびったところから生活の誤謬は始まる。(有島武郎)大正十一年(一九二二年)のこの日、人道主義の作家である有島武郎は、北海道の農場を小作人に無償解放した。この時、四十四歳。P.120
★八月十八日 理論は将校。実践は兵卒。(レオナルド・ダ・ヴィンチ)一五〇二年のこの日に、五十歳のレオナルド・ダ・ヴィンチはチェーザレ・ボルジアによって軍事技監に任命され、ロマーニャの城塞の視察を委嘱された。代表作<モナ・リザ>の原作にとりかかるのはこの翌年。『中年博物館』P.121
★八月十九日 人間は一本の葦(あし)にすぎない。自然のうちで最も弱い葦にすぎない。しかし、それは考える葦である。(パスカル)パスカルの原理を発見したフランスの数学者で思想家でもあるパスカルが、一六六二のこの日死没した。三十八歳であった。P.121
★八月二十日 何よりも自分自身に対して偉人に、聖者になることだ。(ボードレール)<一八五七年のこの日、ボードレールの代表作『悪の華』が刊行された。三十六歳の時。P.122
★八月二十一日 海を渡るそよ風よ、疲れた私の額を冷やしておくれ。高波よ、優しく私にささやいておくれ。(ヘンデル)一七四一年のこの日バロック音楽の巨匠ヘンデルは<メサイヤ>を作曲。五十五歳の時。上の言葉は歌劇<ジュリアス・シーザー>の第三幕第一場のなかから引用した。P.122
ヘンデル:(1685年~1759年)は、ドイツ出身で、主にイギリスで活躍し、イギリスに帰化した作曲家。英語では(George Frideric (Frederick) Handel
★八月二十二日 大衆は女のようなものだ。自分を支配してくれる者の出現を待っているだけで、自由をあたえても、とまどうだけだ。(ヒットラー)一九四二 年のこの日、ドイツ軍はソ連のスターリングラードに総攻撃を開始した。ヒットラー五十二歳の時。『中年博物館』P.122
★八月二十三日 われ以外皆師也。(吉川英治)吉川英治は昭和十年(一九三五年)この日に、代表作『宮本武蔵』の新聞連載を開始した。四十三歳。P.123
★八月二十四日 ふるさとは遠きにありて思ふもの、そして悲しくうたふもの。(室生犀星)大正十二年(一九二三)のこの日、三十五歳の室生犀星に長女朝子が誕生す。P.123
★八月二十五日 建築術は凝固した音楽である。(シェリング)一八二七年のこの日、ドイツの哲学者シェリングは学士院にてミュンヘン大学教授就任講演を行った。五十二歳。P.124
★八月二十六日 理性を有する動物は、すべて退屈するものだ。(プーシキン)一八三六年のこの日に、三十七歳のプーシキンは、論文『アレクサンドル・ラヂーシチェフ』の発表を禁止された。P.124
★八月二十七日 唯一の豊饒な方法は反復によることです。ベートーベンは十年前に使ったものを繰り返します。バッハも同じです。(ガウディ)一八八八年のこの日、スペインの建築家ガウディの代表作<聖女テレサ学院>の建設が始まる。ガウディ、三十六歳。P.124
★八月二十八日 日本はマンジから千五百マイル離れた大海中にある島で、島民は白色の皮膚を持っている。そこには黄金が頗る豊富である。日本の王の宮殿の屋根は、金の延べ板で葺いてある。また、海には真珠が多く、死者の口に真珠をふくませて葬る習慣がある。(マルコ・ポーロ)一二九九年のこの日、マルコ・ポーロ(四十五歳)はジェノアの牢獄から解放された。『東方見聞録』はこの獄中で書かれたもの。P.124
★八月二十九日 鶏鳴に起きざれば暮に悔いあり。(楠木正成)元弘元年(一三三一年)のこの日に、楠木正成は、後醍醐天皇に召し出され、河内で兵を挙げた。三十七歳の時。P.125
参考:一三三三年鎌倉幕府滅亡(父:とうさんのささ刈る鎌は、倉になし)。
★八月三十日 <いまの若い者は>などと、口はばたきこと申すまじ。(山本五十六) 昭和十四年(一九三九)のこの日に、五十五歳の山本五十六は、聯合艦隊司令長官に就任した。P.126
★八月三十一日 花が花の本性を現じたる時最も美なるが如く、人間が人間の本性を現じたる時は美の頂上に達するものである。(西田幾多郎)明治四十三年(一九一〇)のこの日に、日本の代表的哲学者である西田幾多郎が京都大学の助教授に就任した。四十歳。P.126
★九月一日―防災の日
嘘つきがいつでも必ず嘘をつくとしたら、それはすばらしいことである。(アラン)一九〇八年、フランスの評論家アランのルアン新聞での週一回の<コラム>は好評のため、二月十六日以降毎日連載となり、一九一四年のこの日までに三百九編に達した。アランこの時、四十六歳。P.127
★九月二日 芥川龍之介と私との交際は、この世の友だちの関係の中での、世にもふ思議な交誼の一つであった。(宇野浩二)昭和二年(一九二七年)のこの日に、宇野浩二は報知新聞社で『善主鬼、悪主鬼』の連載を始める。三十六歳。P.127
★九月三日 才能はひとりでに、培われ、性格は荒波にもまれてつくられる。(ゲーテ)一七八六年のこの日の朝、ゲーテは彼の転機ともなるイタリア旅行に出発した。三十七歳の時である。P.128
★九月四日 天才は一%のインスピレーションと九九%の発汗である。(エジソン)一八八二年のこの日、エジソンはニューヨークで自身の発明による電燈にスイッチを入れた。三十五歳。P.128
★九月五日 凡そ文学に於いて構造的美観を最も多量に持ち得るものは小説であると私は信じる。(谷崎潤一郎)大正十二年(一九二三年)のこの日に三十七歳の谷崎は、関東大震災から逃れ関西へ避難するために、滞在中の箱根小涌ホテルを立った。P.128
★九月六日 次の前進への歩みは、政治的な煽動や早まった実験からではなく、思想から生まれるものでなければならない。(ケインズ)一九二七年のこの日に四十三歳のケインズは、マンチェスター市公会堂で開かれたアメリカ向け綿糸業組合の会員数拡張のための大会に出席。綿業の危機を救うには組合への加入が必要と演説した。P.129
★九月七日 君(頼朝のこと)流人ㇳシテ豆州ニ坐(おわ)シ給フノコロ、吾ニ芳契アリトイへドモ、北条時宜(じぎ)ヲ怖(おそ)レ潜(ひそ)カニ引籠(こ)メラル、シカㇽニ猶君ニ和順シ、暗夜ヲ迷ヒ、深雨ヲ凌ギ、君ノ所ニ到ル。(北条政子)建仁三年(一二〇三)のこの日に、政子(四十六歳)は源頼家を出家させ、実朝を将軍職につける。P.129
★九月八日 管理を怠った国家の最初の万病薬は通貨のインフレであり、第二は戦争である。両者とも一時的繁栄をもたらし、かつ永久的な破壊をもたらす。だが、両者とも政治的、経済的オポチュニスㇳの避難所だ。(ヘミングウエイ)一九五二年のこの日、五十三歳のヘミングウエイは<老人と海>を出版した。P.130
★九月九日―重陽の節句
農村は国家の真実の富の源泉である。(ケネー)一七四四年のこの日に、フランスの重商主義経済学者ケネー(五十歳)は、内科医の試験に合格。本格的に経済学の分野に足を踏み入れたのは五十三年から五十六年まで。P.130
▼重陽の節句
九月九日は重陽の節句である。奇数を"陽"とする中国伝来の風習で、いわゆる五節句(一月七:人日、三月三日:上巳、五月五日:端午、七月七日:七夕、九月九日)の一つ。九と九が重なる、めでたい日として儀式や祝宴が行われた。
わが国に伝わったのは平安初期で、宮廷の儀式にはじまり以後、貴族や武家社会にこの風習がひろがった。菊の節句、菊の宴などの異称もある。
儀式の内容は、時代によって、やや形をかえてはいるが、この日に菊の花弁を浮かべた酒を飲むと邪気をはらい、長寿を全うすることができるといった習慣も伝わっている。
★九月十日 苦痛はわれわれに新しい活力と經驗を与える。(蒋介石)一九四三年のこの日、五十五歳の蒋介石は中国国民政府(重慶政府)首席に就任した。P.131
1907年(明治40年)、渡日し東京振武学校へ留学する。
1909年、大日本帝国陸軍に勤務。陸軍十三師団の高田野砲兵第19連隊の士官候補生( - 1911年)
★九月十一日――二百十日(このころ)
人はパンのみに生くるものに非ず、されどまたパンなくして人は生くるものに非ず。(河上 肇)大正五年(一九一六年)のこの日に、日本マルクス主義経済学の開祖・河上肇は大阪朝日新聞で『貧乏物語』の連載を始めた。三十七歳の時。『中年博物館』P.131
★九月十二日 上よりの迫害を受けることによって、真の信仰が顕れる。(日蓮)文永八年(一二七一年)のこの日、日蓮は幕府によって、鎌倉竜ノ口で首を切られそうになったが、あやうくまぬがれ佐渡へ流された。四十九歳の時。P.131
★九月十三日――司法保護記念日
この探検隊の主目的は、南極点に到達し、祖国大英国のために、偉業達成の栄誉を担うことにある。(スコット)一九〇九年のこの日に、スコットを隊長とする英国南極探検隊はヴィクトリア街に事務所を開いた。スコット四十歳。P.132
★九月十四日 ふしぎな運命でわたしは幼いころ米国に参りました。米国の教育を受けました。帰朝したならば――これという才能もありませんが――日本の女子教育に尽くしたい、自分の学んだものを日本の婦人にもわかちあいたいという考えで帰りました。(津田梅子)明治三十三年(一九〇〇年)のこの日、津田梅子(三十九歳)は女子英語塾(後の津田塾)を開く。P.132
★九月十五日―敬老の日・老人福祉週間
和を以て貴しと為し、忤(さか)らうことなきを宗(むね)となせ。(聖徳太子)推古天皇(六一三年)のこの日に、聖徳太子は<維摩経疎(ゆいまきょう)>を完成した。三十九歳ごろのこと。P.133
★九月十六日 勇断なき人は事を為すこと能わず。(島津斉彬)安政四年(一八五七年)のこの日に、薩摩藩主島津斉彬は試験工場にやってきて、研究中の写真機で自分を撮影させる。四十七歳。P.133
★九月十七日 幸福人とは、過去の自分の生涯から満足だけを記憶している人々であり、ふ幸人とは、その反対を記憶している人々である。(萩原朔太郎)大正十四年(一九二五年)は銀座の風月堂で行われた『純情小曲集』の出版記念会に出席。P.134
★九月十八日 戦いにおいて、一人が千に打ち勝つこともある。しかし、自己に打ち克つ者こそ、最も偉大な勝利者である。(ネール)一九三四のこの日にガンジーが国民会議を引退したので、ネールは最高指導者となった。四十四歳。P.134
★九月十九日 悪を思う者に禍いあれ。(エドワード三世)一三五六年のこの日、百年戦争のポワティエの戦いで、英軍は仏軍を大破。時のイギリス王エドワード三世は四十四であった。P.135
★九月二十日――動物愛護週間
われわれは自由な国民だ。もはや奴隷ではない。われわれは道を歩くとき、胸をはらなければならない。(エンクルマ)一九五六年のこの日、エンクルマは全国の放送を通じて<一九五七年三月六日、ガーナ独立の日>を黄金海岸の民衆に知らせた。四十七歳。P.135
▼クワメ・エンクルマ(Kwame Nkrumah、本めい:Francis Nwia Kofia Nkrumah、(1909~1972)は、政治家。ガーナ初代大統領。ガーナの独立運動を指揮し、ガーナとギニアから成るアフリカ諸国連合を樹立してアフリカの独立運動の父といわれる。
★九月二十一日 他人の悪を能(よ)くする者は、己が悪これを見ず。(足利尊氏)文和二年(一三五三年)のこの日、足利尊氏は北朝の後光厳天皇を奉じて入京した、四十八歳の時。P.136
北朝・南朝についての歴史的評価を思う。
★九月二十二日 西夷ども物理の学専らに仕り候故、天地四方益々審(つまび)らかになり、一国を以て天下と仕らう、天下を以て天下と仕り候。(渡辺崋山)天保二年(一八三一年)のこの日、三河田原藩の藩士であった洋学者・渡辺崋山(三十七歳)は、相模国小園村にまち女(元田原藩主の側室で彼の恩人)を訪ねた。P.136
★九月二十三日――秋分の日(このころ)
アジア・アフリカの民族主義を理解せよ。これを理解せねば、どんなに考えめぐらしたところで、奔流のように言葉をあびせたところで、ドルをナイヤガラの滝のようにそそいだところで、悲嘆と幻滅以外のなにものも現れまい。(スカルノ)一九四五年のこの日に、スカルノはインドネシア大頭領に就任。四十四歳の時であった。P.137
★九月二十四日――結核予防週間。
箭(や)を放たむ度に、この矢ぞ最後、もし射はづしなば、二の矢を取らぬさきに敵にも射取られるべき身なりと、思いこめて射べきなり。(北条泰時)貞永元年(一二三二年)のこの日に、北条泰時は<御成敗式目五十一カ条>を完成させた。四十九歳 P.137
★九月二十五日 私の歴史文学論は、形式化された民族主義や国家主義を根底として生まれたものではなく、人間の運命を追窮することだけに目的をもっている。(尾崎士郎)昭和十三年(一九三八年)のこの日、四十歳の尾崎士郎は四月二十二日から都新聞で連載していた『石田三成』を終えた。P.138
★九月二十六日 人は誰でも、その父母に優しくしなければならない。母は苦しんでみごもり、また苦しんで産んでくれた。子をみごもって乳離れさせるまでには三十ヵ月もかかる。(マホメット)六二二年のこの日、九十二歳のマホメットはメッカを脱出してメジナへ移った。これをヘジラ(移転)という。P.138
★九月二十七日 過去二千年の間は、戦争、流血、さらには人類の手と頭脳が創り出だしたものの絶滅のために費やされた。だから次の二千年は、人類の創造のため、世界中の人びとの生活向上のため、人びとの間のよりよい関係実現のために利用しなければならない。(チトー)一九四七年のこの日に行われたチトーの演説によって、ユーゴスラヴィアはスターリンとの対立。抗争を開始チトー五十五歳。P.139
★九月二十八日 私は運命とともに歩んでいるかのように感じた。これまでの生涯は、この時(首相になる)のための準備に過ぎなかったと感じた。(チャーチル)一九一四年のこの日、チャーチルはドイツ軍がアントワープを攻撃し始めた時に、海軍分艦隊を引率して救援にいく。四十歳。P.139
★九月二十九日 壮烈な死、姑息な生。生を貪り死を怕(おそ)るより、むしろ死を重んじ生を軽んぜん!(周 恩来)一九四〇年のこの日に、四十二歳の周恩来は重慶で<国際状況と中国の抗戦>と題して演説、国際的に大反響を呼ぶ。P.140
★九月三十日 正直は最良の外交政策である。(ビスマルク)一八六二年のこの日に、四十七歳のビスマルクはプロシア首相に任命され、議会でかの有めいな<鉄血政策>を明らかにした。P.140
★十月一日――法の日
知識をえたいならば、現実を変革する実践に参加しなければならない。梨のうまい味を知りたいならば、自分でそれをたべて、梨を変革しなければならない。(毛沢東) 一九四九年のこの日、毛沢東の指導によって、中華人民共和国が成立した。毛沢東五十五歳の秋のこと。P.143
★十月二日 文武二道の侍、まれなる間、分別、位よき者を見立て聞き立て、かやうの者は、新座にても情をかけられ、召仕、もっともに候。(前田利家)天正九年(一五八一年)のこの日に、四十三歳の前田利家は織田信長から能登国を与えられた。P.143
★十月三日 その言行、おのれより賢(まさ)れる者は、以て師とすべし。何ぞ常の師あらんや。天地これ師なり。事実これ師なり。(山鹿素行)寛文六年(一六六六年)のこの日、江戸前期の代表的儒学者・山鹿素行は。幕府の官学である朱子学を批判したことなどによって赤穂に追放された。この時、四十四歳。P.144
★十月四日 臨機応変の妙用は無念無想の底より来る。(山岡鉄舟)明治五年(一八七二年)のこの日、山岡鉄舟(三十六歳)宮中の侍従番長を命ぜられた。P.144
★十月五日 仕事には本すじの仕事と、本すじでない仕事とがある。本すじの仕事とは根のある仕事、本すじでない仕事とは器用だけの仕事のことだ。(高村光太郎)昭和十三年(一九三八年)のこの日、妻・智恵子がゼームス坂病院で死没する。光太郎、五十五歳の時。P.145
★十月六日 幸福なりし時代を回想するより大なる悲しみはなし。(ダンテ)一三〇六年のこの日、イタリアルネサンス最大の詩人ダンテは、ルニジアーナに移り、マラスピーナ侯の任命をされたが、代表作、『神曲』の執筆にかかったのはこのころで四十一歳の時。P.145
★十月七日――国立公園制定日
怒りを敵と思へ。(徳川家康)天正十二年(一五八四年)のこの日に、徳川家康は右近衛権中将になった。四十二歳。P.146
★十月八日 恋愛とスキャンダルは最上の楽しいサロンの話題である。(フィ―ルディング)一七五四年のこの日、一八世紀の代表的小説『トム・ジョーンズ』を書いた英国の作家フィ―ルディングが死没する。四十七歳。P.146
参考:フィールディングの小説。1749年刊。全18巻。捨子で,だらしないが快活な好漢トムが,さまざまな失敗を重ねたあと,素性がわかり,恋人ソファイアと結ばれる物語。明るいユーモアと力強い人間観察にみちた傑作。
★十月九日――寒露(このころ)
酒樽の口栓を抜いて飲むのはいくら飲んでもよいが、底のほうに小さな穴があって酒がもれてなくなることに気のつかぬヤツはバカだ。会社事業の経費などでも同じことだ。(岩崎弥太郎)明治三年(一八七〇年)岩崎弥太郎三十六歳のこの日、土佐開成商社を創立し、海運業者としてのスタートを切った。P.146
★十月十日――体育の日
〽とをかりし花の木(こ)ずえも匂ふなり 木枝にしられぬ風やふくらん (伊達政宗)慶長十九年(一六一四年)のこの日、政宗は大阪冬の陣にむけ仙台を出発。四十七歳。P.147
★十月十一日 遂に私の一生の夢を実現することができた。その夢とは、私があれ程までにも深い興味を抱いた事件の舞台と、英雄達の冒険によって少年の私を或は恍惚たらしめ或は慰めた彼等の祖国とを、思いのままに時間をかけて訪れたいということであった。(シュリーマン)一八七一年のこの日に、エーゲ文明の発見者シュリーマンはヒッサ―リック丘における四大発掘のうちの第一期を始める。四十九歳であった。P.147
★十月十二日 誰をも恐れない者は、誰からもこわがれている者に劣らず強い。(シラー)一八〇一年のこの日、ドイツ古典主義文学の大家シラーの代表作『オルレアンの処女』が出版された。シラー四十二歳の時。P.148
★十月十三日 ミネルバの梟(ふくろう)は夕暮れになってはじめて飛翔する。(ヘーゲル)一八〇七年のこの日、ヘーゲルは、代表作『精神の現象学』を書き上げたといわれる。P.148
★十月十四日 センチメンタリズムということは、かうありたい、ああありたいと思ふ願ひを誇張して、理想的から空想的になって行った形を言うのである。(田山花袋)明治四十一年(一九〇八年)のこの日、自然主義文学作家・田山花袋は、日本新聞に『妻』の連載を始めた。三十七歳。P.149
★十月十五日 われわれは、われわれの歴史のなかにわれわれの未来が横たはってゐるといふことを本能的に知る。(岡倉天心)明治三十一年(一八九八年)のこの日、近代美術の父といわれる岡倉天心は、横山大観らと日本美術院を創立した。三十五歳の時。P.149
★十月十六日 わたしは退屈することが何より恐いのです。(マリー・アントワネット)一七九三年のこの日に、三十八歳のアントワネットはフランス革命により処刑された。P.149
★十月十七日――貯蓄の日
できることといえば、うめき、悩み、そして絶望をピアノにたたけつけるだけだ。神よ、大地を揺り動かせたまえ。(ショパン)一八四九年のこの日、ピアノの詩人といわれたショパンがパリで死す。三十九歳であった。P.150
★十月十八日 生まれながら野心深く自負心強きひとは、他人によって指図されるゆえんを、己れみずからその必要を感ずるにいたるまでは、けっして自覚することはない。(ルイ十四世)一六八五年のこの日に、ブルボン朝の全盛期をつくったルイ十四世は<ナントの勅令>を廃止する。四十七歳のこと。P.150
★十月十九日 何ということでしょう。私たちは大ナポレオンをもったという理由で、小ナポレオンをもたなくてはならないのでしょうか。(ユーゴ―)一八四九年のこの日に、ヴィクトル・ユーゴー(四十七歳)はルイ・ナポレオンのローマ革命干渉政策反対の演説を行った。P.151
★十月二十日―新聞週間
梅が香にのっと日の出る山路かな (松尾芭蕉)
元禄六年(一六九三年)のこの日に、芭蕉は野波らと深川に会し『炭俵』の歌仙を巻いた。五十歳の時。P.151
★十月二十一日 我輩は学者でも天才でもない。ただの平均的人間である。(大隈重信)
明治十五年(一八八二年)のこの日に、大隈重信は後の早稲田大学になる東京専門学校を創立する。四十四歳。P.151
★十月二十二日 愛するメ―ジ―(夫人)よ、私の研究は非常に困難であるけれども、この機会に完成したいと努力しています。私は黄熱の病原菌を発見したと確信しています。(野口英世)昭和二年(一九二七年)のこの日、野口英世(四十九歳)は黄熱病研究のために、アフリカへ出発した。P.152
★十月二十三日―電信電話記念日
〽うれしさを昔は袖につゝみけり こよひは身にもあまりぬるかな (香川景樹)
文政元年(一八一八年)の二月十四日、のちに桂園派を立てた四十九歳の香川景樹は、門人・河野重就らを従えてて江戸遊説に出発。三月十日着、そして江戸を離れたのが十月のこの日であった。P.152
★十月二十四日―国連の日
〽生駒山まぢかき春の眺さえ かぐわふほどの花ざかりかな (三好長慶)永禄三年(一五六〇年)のこの日に、戦国武将・三好長慶は、安見直政の居城の飯盛城を落とす。三十八歳の時である。P.153
★十月二十五日 われわれは父たちより立派にたたかっている。われわれの子供たちは、さらに立派にたたかい、勝利をおさめるであろう。(レーニン) ボルシェヴィキ党(共産党)の基礎を築き上げたレーニン(四十七歳)は、一九一七年のこの日、ロシア社会主義革命を指導し、成功させた。P.153
★十月二十六日――全国火災予防週間
人間の過去において栄光であった勇気、めい誉、希望、誇り、憐憫、同情、犠牲を思いおこさせることより、元気づけ、人間が耐え忍んでゆくのを助けるのが文学者の特権である。(フォ―クナー)
一九三六年のこの日、フォ―クナーは黒人問題を抱えるアメリカ南部の苦悩を扱った代表作『アプサロム・アプロサム!』を出版する。この時、三十九歳。P.154
★十月二十七日――読書週間
けだし人間は平等な状態において創造されず、あるものらに対して永遠の生命が、あるものにたいして永遠の定罪があらかじめさだめられている。(カルビン)一五五三年のこの日、フランスの宗教改革者カルビンは自説を批判した生理学者セルベ―ㇳをジュネーブで火刑に処す。四十四歳。P.154
★十月二十八日 〽春の花にねぶりし夢は醒めしかど 今年も半ば過ぎにけるかな(斉藤茂吉)大正十年(一九二一年)のこの日に、斉藤茂吉は熱田丸で欧州旅行へ出発する三十九歳。P.155
★十月二十九日 私は孤独で自由だ。だが、自由はどこかしら死に似ている。(サルトル)一九四六年のこの日、四十二歳のサルトルは<実存主義はヒューマニズムなり>を講演。以後、実存主義が異常なブームになった。P.155
★十月三十日 人皆政党ノ一利一害アルコトヲ而シテ害ヲ避ケ利ヲ収ムルノ道ヲ知ラズ。(井上 毅)明治二十三年(一八九〇年)のこの日に、教育勅語が発布された。これを作成したのは元田 永孚(もとだながさね)と井上毅である。井上はこの時、四十六歳。P.156
★十月三十一日 国際主義は上流階級のみがあたえうる贅沢であり、庶民は望みもなく彼らの故郷にしばりつけられている。(ムッソリーニ)一九二二年のこの日に、ムッソリーニは組閣し、政権を奪取する。三十九歳の時のこと。P.156
★十一月一日――灯台記念日
年中休暇を楽しむとしたら、気晴しも仕事と同じように退屈なものとなろう、(シェクスピア)一六〇四年のこの日、代表作『オセロ』が宮廷で上演された。シェクスピア四十歳。P.157
★十一月二日 一人や二人の商業力だと僅かなそんをしても、たちまちその財産が消えてしまうことになるが、大勢の者が手を組んでおれば、たとえそんをしてもめいめいがその財産を失うようなことにはならない。(三野村利左衛門)慶應二年(一八六六年)のこの日、三野村は御用所限り通勤支配挌として三井入りする。時に四十五歳。三野村は幕末から維新にかけ危急存亡の折りにある三井家を救った功労者。P.157
★十一月三日――文化の日
私のノーベル賞受賞が日本人の自信回復に役立つなら嬉しい。(湯川秀樹)昭和二十四年(一九四九年)のこの日、湯川秀樹(四十二歳)は日本人ではじめてノーベル賞を授与されることが発表された。P.158
★十一月四日――ユネスコ憲章記念日
忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず。(平 重盛)(一一七三年)のこの日、三十五歳の平重盛は、興福寺衆徒の入京を宇治で防いだ。P.158
★十一月五日 実験室における偉大な科学者の生活というものは、物に対する執拗な闘争です。(キューリ夫人) 一九〇六年のこの日に、キューリ夫人は亡き夫がソルボンヌ大学で担当していた講座の第一回目の講義を行う。三十九歳。P.158
★十一月六日 四十歳をすぎた人間は、自分の顔に責任をもたねばならない。(リンカーン)一八六〇年のこの日に、四十一歳のリンカーンはアメリカ第十六代大統領に選ばれる。P.159
★十一月七日 身重くし心長くしてあだ疎かに振舞はず、小敵なりとも侮る心なくて、もの騒がしからず計らひ、たばかりするが、能きことにてあるぞ。(源 頼朝)建久元年(一一九〇年)この日に、源頼朝は入京して六波羅の新邸に入る。四十三歳。P.159
★十一月八日――立冬(このころ)
この国は山河がとりまいて自然の城を形づくっている。このかたちによって山背国を改めて山城国とし、万民が平和に暮らせるように都を平安京となづけよう。(桓武天皇)延暦三年(七八四年)のこの日に、桓武天皇(四十七歳)は人心一新のため、平城京から長岡京に遷都した。しかし十年足らずで長岡京から平安京に都を移した。P.160
★十一月九日 保守主義者は、完全な二本の立派な足をもちながら、歩くことを学ぼうと断じてしないひとである。(フランクリン・ルーズベルト) 一九三三年のこの日、四十八歳のフランクリン・ルーズベルトはアメリカ合衆国、第三十二代大統領にえらばれた。P.160
★十一月十日 一昨日の戦死者のねむる フランスの野の上を幾千羽 旋回せよ やよ鳥 冬を 道ゆく人おのがじし思い新たならしめよ! (ランボー)一八九一年のこの日、フランスの象徴派の天才的詩人ランボーは、過酷な未開地での生活で病を得て死没する。三十七歳。P.161
★十一月十一日――世界平和記念日
魚を得るは網の一目によれど、衆目の力なければ、これを得ること難し。(北畠親房)興国四年(一三四三年)のこの日に、常陸の国・大宝両城が陥落し、親房は吉野へ落ちる。五十歳である。P.161
★十一月十二日 俗物ほど強い敵はない。(佐藤春夫)昭和九年(一九三四年)の十一月十一日とこの日と十三、十四日にわたり、四十二歳の佐藤春夫は吉川英治らとともに陸軍特別大演習を参観した。P.162
★十一月十三日 私は蒸気船が石炭を要するように、一日に二~三立方フィートの新しい考えを必要とする。(スタンダール)一八三〇年のこの日に、スタンダールの代表作『赤と黒』が出版された。スタンダール四十七歳のときである。P.162
★十一月十四日 私の詩が色彩の強い印象の油絵ならば私の歌はその裏面にかすかに動いているテレピン油のしめりであらねばならぬ。(北原白秋)昭和十年(一九三五年)のこの日に、白秋生誕五十年記念<白秋を歌う夕>が日比谷公会堂で開かれた。P.163
★十一月十五日――七五三祝い
何より自分自身に対して偉人に、聖者になることだ。(ボードレール)一八六〇年のこの日に、ボードレールはその著『悪の華』に対しての補助金五百フランを受けとった。三十九歳。P.163
★十一月十六日 戦争は他の手段をもってする政治の継続である。(クラウゼビッツ)一八三一年のこの日、<戦争論>のめい著を残してドイツの軍人クラウゼビッツが死亡した。P.163
★十一月十七日 日本国にて将来其ふ羈独立を保んとせば、政府必ず速に海軍を取建て、兵卒と国軍を編制することを注意すべし(シーボルト)一八四二年のこの日に、シーボルトはオランダ国王よりヨンクヘール爵位を受けた。四十六歳の時。P.164
★十一月十八日 われわれの忘却してしまったものこそ、或る存在をいちばん正しくわれわれに想起させるものである。(プルースト)一九二三年のこの日。プルースト(四十二歳)は、その著『失われた時を求めて』の抜粋を<ㇾ・ザナル・ポリティック・エ・リテレール>誌にのせる。P.164
★十一月十九日 知性は、方法や道具に対しては鋭い鑑識眼をもっていますが、目的や価値については盲目です。(アインシュタイン)一九三二年のこの日、アインシュタインの日本で初めての講演が、慶応大学で行われた。アインシュタイン四十三歳の時。P.165
★十一月二十日 自なくして他なく、他なくして自なきは、全なくして個なく、個なくて全なきが如くである。(安べ能成)大正十四年(一九二五年)のこの日に、安べ能成は欧州の旅を終え、ドイツのライプチヒをたった。四十二歳。P.165
★十一月二十一日 人への親切、世話は、慰みしていたい。義務としては、したくない。(菊地 寛)昭和三年(一九二八年)のこの日、菊地 寛は欧米漫遊の旅に出た。三十七歳の時。P.166
★十一月二十二日 古を是とし今を非とするといふを以て、其ノ罪を得るもの多きがゆえに、世の諸官多くは古をのみ論じて其の詞今に及ばず。(新井白石)宝永六年(一七〇九年)のこの日に、新井白石(四十一歳)は鎖国の日本に入ってきたイタリア人宣教師シドッチを尋問。この尋問で聞き出したことを後に『西洋紀文』にまとめる。P.166
★十一月二十三日――勤労感謝の日
どんな思想にせよ暴力で圧迫するのは絶対にいけない。暴力を用いるということは、思想的にすでに負けているということだ。(吉野作造)大正七年(一九一八年)のこの日、四十歳の吉野作造は立会演説会を行なったが、聴衆は興奮し<吉野博士万歳>、<デモクラシー万歳>と叫んだ。P.166
★十一月二十四日 人口は幾何級数という比例で増加するが、食物は等差級数でしか増加しない。そのため食物の奪い合いとなり、強者は勝って生き、弱者は敗れて滅びる。(ダ―ウィン)一八五九年のこの日に、ダーウィンの『種の起源』が出版される。ダ―ウィン五十歳の時。P.167
★十一月二十五日 軽蔑とは、女の男に対する永遠の批判である。(三島由紀夫)昭和四十五年(一九七〇年)のこの日に、三島由紀夫が割腹自殺する。四十五歳。P.168
★十一月二十六日――全国火災予防運動
★山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し。もし己が腹の寇(ぞく)を掃討して、よく廓清平定の実をあげるならば、これまことに大丈夫ふ世出の偉業である。(王陽明)一五〇九年のこの日、陽明学の始祖・王陽明は江西省吉安府・廬陵県の知事(県知事)を拝命した。三十七歳。P.168
★十一月二十七日 神の教会を解散するためにエルサレムに行くならば、その旅はすべてのつぐないの業とみなされる。(ウルバヌス二世)一〇九五年のこの日、第一次十字軍を結成したウルバヌス二世は、フランスのクレルモンで一大会議を開き、聖地回復の"十字軍"の必要を説く。五十二歳ころのこと。P.169
★十一月二十八日 私は死者の記念碑よりも生者の胃のほうに気をつかう……死者に尊敬を示すくらいなら、苦境に陥った生者を助けるほうがよいと生来考えている。死者はせっかく建ててもらった像にたいしても無感動だからだ。(ノーベル)一八八七年のこの日、ノーベルは無煙に近い火薬・ノーベル火薬の特許をイギリスでとった。五十四歳。この特許により彼は、火薬生産で富を得る。それが、のちにノーベル賞の基金となった。P.169
★十一月二十九日 労働大衆は政治の面ばかりでなく、文化面でもひじょうに積極性を出した。われわれのところでは、国民教育ソビエトが極めて迅速につくられ、ヴィボルグ地区のすべての工場の代表が参加した。(クルーブスカヤ)一九〇四年のこの日、レーニンの夫人クルーブスカヤ(三十五歳)は、レーニンの指導のもとに開催されたボルシェビキ集会に参加した。P.170
★十一月三十日 すべての女性は、彼女の母親に似るようになる。それが女の悲劇だ。男は彼の母親のままにならない。それが男の悲劇だ。(ワイルド)一九〇〇年のこの日、イギリスの世紀末的耽美派詩人・小説家・劇作家のワイルドは、四十三歳で死没した。P.170
★十二月一日――映画の日
恋愛の学問のすべて言いつくされているこのばら物語は終わった。ヒックとヘックが一緒に結ばれるとき、自然はほほえむように思われる。(チョ―サー) 一三七二年のこの日、詩人チョ―サーはイタリア旅行に出発した。この言葉は『ばら物語』の最後の一節。P.171
★十二月二日――防火デー
わたしの滅びの仕度は出来た。祖先伝来であって、そしてわたし一代で使ひつくすべきあらゆる才能とあらゆる教養とに点火する時が来た。(岡本かの子) 昭和四年(一九二九年)のこの日に、岡本かの子(四十歳)はヨーロッパ旅行のために東京駅を出発した。P.171
★十二月三日 必要はしばしば天才を刺激する。(バルザック) 一八四四年のこの日に、近代リアリズム文学の父バルザックは、代表作の一つ『農民』を発表する。四十五歳の時。P.172
★十二月四日――人権週間
経済的に正しいことは道徳的にも正しい。(ヘンリー・フォード) 一九一五年のこの日にフォードが計画した平和船が、著めいな平和主義者などをのせて、オランダに向けて出発。フォード五十一歳。P.172
★十二月五日 自然に人情は露ほどもない。之に抵抗するものは容赦なく蹴飛ばされる。之に順うものは恩恵に浴する。(長岡半太郎)明治三十六年(一九〇三年)のこの日、物理学者・長岡半太郎(三十八歳)世界的業績である<土星型原子模型>の理論を発表。P.172
★十二月六日 〽春すぎて夏きたらし白妙の 衣ほしたり天の香久山(持統天皇) 朱鳥九年(六九四年)のこの日に、持統天皇は都を藤原宮に移した。四十八歳。P.173
★十二月七日 私は、パリの二枚の敷石のあいだに生えた雑草のように、その養液を失わなかった。(ミシュレ) 一八四七年のこの日、<フランス革命史>で知られるフランスの大歴史家ミシュレ(四十九歳)は、ポーランド独立運動を弁護する手紙をプロシア王に書いた。P.173
★十二月八日 革命は、あれこれの<指導者>による魔術ではない……革命は多種多様な事情と多面的な要素の総和であり、それらが合わさって、頑固で根深い経済的原因による危機という特定の歴史的瞬間において、一つの解決をもたらすのである。(グラムシ) 一九二五年のこの日、イタリアの共産主義者グラムシ(三十五歳)が逮捕された。以降、十年余の獄中生活を送る。P.174
★十二月九日 私は広い東京に、公園のふえる事を希ふものであるが、願はくば庭園の美しさに縁のない、ただの雑草の茂るに任せた公園を欲しいと思ふ。そこで、市民に草を踏ませたい。(水上滝太郎) 大正十四年(一九二五年)のこの日、三田文学復活を兼ねて水曜会開かる。三田文学の精神的主幹・水上滝太郎。三十八歳。『中年博物館』P.174
★十二月十日 力が容易にめい声をかちうるものであって、めい声が力をかちうるものではない。(マキャベリ) 一五一三年のこの日付のフランチェスコ゚・ヴェッㇳ―リ宛ての書簡で、マキャベリ(四十四歳)は『君主政について』と題する小冊子の完成を伝えた。P.175
★十二月十一日 オオカミとしての人間、オオカミの社会は別種のものにとって代わりつつある。(ゲバラ) 一九六四年のこの日、ゲバラは国連十九回総会で、キュバー代表として有めいな演説を行い国際的反響を生む。三十五歳の時。P.175
★十二月十二日 それ商徳とも称すべきは機敏と信用と耐忍との三の者なり。(中江兆民) 明治三十四年(一九一四年)のこの日に、<東洋のルソー>といわれた中江兆民は五十四歳で死没した。P.176
★十二月十三日 ふ益に手間掛りたる高値の菓子類・料理は、向後無用の事。(水野忠邦) 天保十二年(一八四一年)のこの日、老中水野忠邦(四十七歳)は天保の改革で株仲間解散令をだす。P.176
★十二月十四日 すべての未知の区域を探検すること、それは全人類の勇健の気分を強めるものである。(アムンゼン) 一九一二年のこの日、ノルウェーの探検家アムンゼンは、ついに南極点に到達する。P.176
★十二月十五日――年賀はがき受付開始
人の命はわずかの間なれば、むさき心底、ゆめゆめ、あるべからず。(北条氏綱) 大永六年(一五二六年)のこの日に、北条氏綱は里見実堯と鎌倉で戦った。三十九歳。P.177
★十二月十六日 抽象的思考は幽霊の如し。(正宗白鳥)大正五年(一九一六年)のこの日、自然主義作家・正宗白鳥は『波の上』を東京朝日新聞に連載しはじめる。三十八歳の時。P.177
★十二月十七日 ここ四年のうち、人間が飛べるなんて無理だ。(ウィルバー・ライト)一九〇三年のこの日、アメリカ・ノースカロナイナ州キルデビルヒルの砂場でライト兄弟が人類史上初の飛行に成功。兄ウィルバー・ライトは三十六歳であった。P.177
★十二月十八日 病者百出は今日政治上の病気なり。薬では駄目。法律では駄目。ただ一つ精神療法あるのみ。(田中正造)明治二十四年(一八九一年)のこの日に、田中正造(五十歳)は足尾鉱毒問題を初めて衆議院で提起した。P.178
★十二月十九日 史伝を書こうというわたしの癖は老いても癒らない。わたしは閑居して資料を調べつづけ、むかしに因循して情意に牽かれる。(大江 匡房)永保三年(一〇八三年)のこの日に平安後期の代表的学者・大江 匡房は、修理左官城使となった。四十二歳の時。P.178
★十二月二十日 私たちのふ安は、何一つ自発的に働きかけるようなものを持たないで、ただただ受身の位置にあることを暗示せらるところからくる。鋭いと思う言説の多くに接することはできても、真に私たちの心を動かしてくれるような、強い総合の力に遭遇しないところからくる。(島崎藤村)明治四十五年(一九一二年)のこの日、藤村は『千曲川のスケッチ』を出版した。四十一歳。P.179
★十二月二十一日 めぐみのある君に仕えし甲斐ありて 雪のふる道今ぞふみなん(柳沢吉保)宝永元年(一七〇四年)のこの日に、元禄期に権勢をふるった柳沢吉保は、長年の忠勤により加禄三万九千石、甲斐・駿河で計十五万千二百石を賜る。四十六歳。P.179
★十二月二十二日――冬至
酔うて枕す窈窕(ようちょう)たる美人の膝、さめては握る堂堂たる天下の権。(伊藤博文) 明治十八年(一八八五年)のこの日、太政官制を廃止し内閣制制定、第一次伊藤内閣成立。伊藤、四十四歳の時。P.180
★十二月二十三日 ああ 大和にしあらましかば いまがみなづき うは葉散り透く神無備森の小路を……。(薄田泣菫)
大正四年(一九一五年)のこの日に、詩人薄田泣菫は、大阪毎日新聞の学芸副部長になった。P.180
★十二月二十四日 私は元就が誓紙を反故にしたのを怒り、事をおこそうとするのではない。毛利が兵馬を養い、攻略を用いて強固になれば、われらをおびやかすにいたるであろう。そうならぬうちに切り従え尼子の防衛をかためようと思うのだ。(尼子晴久)永禄五年(一五六二年)のこの日に、尼子晴久は四十八歳で死没。P.181
★十二月二十五日――クリスマス
愛よ、お前こそはまことの生命の冠、休みなき幸。(ゲーテ)一七八九年のこの日、四十歳のドイツ最大の文学者ゲーテに、長男アウグストが生まれる。P.181
★十二月二十六日 いちばんの苦痛はわれわれをとりかこむひとびとのまちがった、あるいは、片よった意見にたいして譲歩しなければならないことです。(ピエルール・キュリー) 一八九八年のこの日。ピエルール・キュリーは夫人とともに、ラジウムの発見をフランス科学学士院で発表。三十九歳の時。P.182
★十二月二十七日 我が国、欧米各国とすでに結びたる条約は、もとより平均を得ざる者にして、その条中ほとんど独立国の体裁を失する者少からず。(大久保利通) 明治九年(一八七六年)のこの日に、内務卿の大久保利通は農民一揆の頻発をみて、地租の減税を建議。四十六歳の時。P.182
★十二月二十八日――官庁ご用おさめ
万国のプロレタリア団結せよ。(マルクス) 一八六三年のこの日、四十五歳のマルクスは友人への手紙の中で、初めて『経済学批判』第一分冊のつづきを『資本論』のなで発行する計画だと知らせた。『中年博物館』P.183
★十二月二十九日 野心は愛情よりも抑え難い。(モンテーニュ) 一五八〇年のこの日、モンテーニュは法王グレゴリオ十三世に拝謁する。四十六歳。P.183
★十二月三十日 労働者階級の力は組織である。大衆を組織せずにはプロレタリア―ㇳは無である。(レーニン) 一九二二年のこの日、レーニンの指導するポルシェヴィキはソビエト社会主義共和国連邦結成宣言を行った。レーニン五十一歳。P.184
★十二月三十一日――大晦日
わたしはかつて例のなかった、そして今後も模倣するものはないと思う仕事をくわだてる(ルソー) 一七六一年のこの日、ルソーはジュネーブ出身の出版人マルク=レイから代表作の自叙伝、『告白』の執筆をすすめられ、その決意をする。四十九歳。P.184