『中年博物館』

『中年 博物館』 青木雨彦監修 大正海上火災保険株式会社 昭和五十六年十一月二十日発行
はじめに

 中年である、

 そういわないと、

<初老だろう?>

 とからかう奴がいる。初老ではない。過労である。

 中年……

 岩波国語辞典には、

<青年と老人の中間。四十歳前後>

 と出ている。働き盛りである。壮年でもある。

 初老――

 やはり岩波国語辞典には、

<老人の域にはいりかけた年ごろ。またもと、四十歳の異称>

 と出ている。初々しい老人だから、ウイロウと読むべきではないのか。

 それにしても、四十歳前後の中年で、四十歳の異称が初老とは驚いた。これを要するに、中年も初老も同じことなのである。

 されば、人生の、この時期を、中年として送るか、初老として過ごすか――は、人それぞれであろう。わたし自身は、中年、つまり壮年として充実した日々を送りたい。

 そんなわけで、この本は、あくまで中年を壮年と捉えて編集した。読者はこの本を開くことで、生きる自信を培うことができるだろう。

 この本の特長は、一年を三百六十六日として、一日一日に、古今東西の偉人・傑人の金言と、その人間が中年時代のその日に何をしたか――といった事蹟を記したことである。言っちやナンだが、これは、ちょっとしたものではなかろうか。

 どこでも、よい。試みにページを繰って見給え。読者は、そこで、偉人の某、傑人の某が、自分と同年配のときに、こんなことを言い、こんなことをしたのか――ということをみつけるだろう。そうして、そこから、あるいは親しみを、あるいは安堵を、あるいはまた生きる自信を読みとってくれれば、この本の目的はじゅうぶんに達せられことになる。

 下段には、中年に必要と思われる雑学的知識を歳時記ふうに配した。そして巻末には、年表<われらが時代>を加えた。

 この本をどのように利用するか――は、読者次第だろう。日めくりみたいに読むのもよし、気儘にページを開くのもよい。いずれにせよ、寝転びながら、気楽に読んでくださって、構わない。結婚披露宴の際のスピーチや乾杯の音頭をとるときの挨拶に使う方法だってあるのである。

 ねがわくは、読者がこの本を座右の書とされることを! そうして、いささかでも中年であることをエンジョイしてくれれば、監修者としても、うれしい。

 なお、中年とは<何歳か何歳まで>という定義はない。この本では、とりあえず三十五歳か五十五歳までを中年世代としたが、これは、大正海上がおこなった<中年のライフスタイルに関する調査シリーズ>のアンケート結果に拠っている。

       昭和五十六年十一月        青木雨彦


★一月一日――元旦・若水迎え

   僕は明らかに世に二つの超自然力のあることを信ずる。これを強いてひとまとめに命めいすると一を観音力、他を鬼神力とでも呼ぼうか。共に人間はこれに対して到底、ふ可抗力のものである。(泉鏡花) 明治四十年(一九〇七年)のこの日から『婦系図』の連載が"やまと新聞"で始まる。この時鏡花は三十五歳。P.11

★一月二日――初荷・書初め

 勉強忍耐は才能知徳の種子なり。(乃木希典) 明治三十八年(一九〇五年)のこの日に、明治の代表的陸軍軍人である乃木希典はロシア軍の要塞である旅順の開城をはたした。五十五歳の時である。P.11

★一月三日 酒は強く、王はもっと強く、女はそれよりもさらに強い。けれども、真理はもっと強い。(マルチン・ルター) 一五二一年のこの日、三十六歳のルターはローマ教王レオ十世に破門された。これによって、彼は完全にローマ教会と絶縁することになった。P.12

★一月四日――官庁御用始め

 三井物産という社めいはほかにつける者がいないから私がつけたものであろう。金が欲しいのではない。仕事がしてみたいと思ったからだ。(益田 孝) 三井物産の初代社長で三井財閥を繁栄に導いたことで知られる益田 孝は、明治二十一年(一八八八年)のこの日、わが国最初の通信社を創立、その社主となった。時に四十歳。P.12

★一月五日 ある時期において私は人生派の作家として遇せられたことがある。それが次の時期においてはユーモア作家ということになり、浪漫派だといわれたこともあれば、自然主義の亜流だと貶されたこともある。(尾崎士郎) 昭和十一年(一九三六年)のこの日に、尾崎士郎(三十七歳)は朝日新聞に『空想部落』を連載しはじめる。P.13

★一月六日――消防出初式(東京)

   競って虚をあきない、争って虚を買うを思えば、虚ほど面白きものはない。(式亭三馬) 文政五年(一八二二年)のこの日に、江戸後期の草双紙、洒落本の代表的作者、式亭三馬は死没した。四十七歳。P.13

★一月七日――七草

   日本人の職人は、世界のどこの職人にも劣らずすぐれており、この人びとの発明的能力が自由に発揮された暁には、日本は第一流の製造国として躍進をとげるであろう。(ペリー) 一八三三年のこの日、三十八歳のペリーはニューヨークの海軍基地司令官に就任した。アメリカ艦隊をひきいて浦賀に入港したのは二十年後の一八五三年だ。P.14

★一月八日 文明というものは、文明状態に賦与されてゐる享楽を得させるのに、どんなに遠いことか。(マラルメ) 一八八六年のこの日に、四十三歳のフランス象徴派の詩人・マラルメは«ワグネル評論»にソンネ『ワグネル礼賛』を発表した。P.14

★一月九日 ……イギリスは二十五年で所得ばい増といっていますが、私は十年でやってみせる。(池田勇人) 昭和二十七年(一九五二年)のこの日に、時の蔵相池田勇人(五十二歳)はGHQ経済科学局長のマーカットと会談。昭和二十七年度予算案のうち防衛分担金問題について折衝した。P.14

★一月十日 サイは投げられた。(シーザー) 紀元四九年のこの日に、シーザーはルビコン川を渡ってローマ本国に進撃を開始した。そして政敵ボンベイウスを破り、ローマの実権を握った。時にシーザー五十一歳。P.15

★一月十一日――鏡開き・蔵開き

 〽ますらをの 鞆の音すなり もののふの 大臣楯立つらしも (元明天皇御製歌) 和銅元年(七〇八年)、この年武蔵国秩父で銅鉱脈がみつかり、喜んだ天皇はこの日に大赦令を出して罪人を許し、年号を慶雲から和銅と改めた。そして、わが国初の貨幣『和銅開珎』の鋳造を始める。元明天皇四十四歳の年であった。P.15

★一月十二日 形を見るものは質をみず。(夏目漱石) 大正三年(一九一四年)のこの日に漱石は一月七日から朝日新聞に掲載していた『素人と黒人』を終える。四十六歳であった。P.16

★一月十三日 三人の半(なかば)、少しにても、かけご、人だても候はば、ただ三人滅亡とおぼしめさるべく候く。(毛利元就) 天文十年(一五四一年)のこの日、毛利元就は陶(すえ)隆房とともに、安芸宮崎で尼子晴久を破って、山陰での勢力拡大の一歩を踏みだす。この時、四十二歳であった。P.16

★一月十四日 自己嫌悪がないという事は其人が自己を熱愛する事のない証拠である。自己に冷淡であるからだ。(志賀直哉) 昭和六年(一九三一年)の一月十三日とこの日、志賀直哉は随筆<リズム>を読売新聞に掲載した。四十七歳である。P.16

★一月十五日――成人の日・小正月

 最愛の友、上を向いて歩きましょう。人は誰でも誇りをもっていなければなりません。何事でも未来のことはわかりません。でも、もっとわたし達は暖めあうために、なにかもっと寄り添いあわなければなりません。(ローザ・ルクセンブルグ) 一九一九年のこの日、ドイツの女性社会主義者、ローザ・ルクセンブルグは捕えられ銃殺された。四十八歳。P.17

★一月十六日――やぶ入り

 書を読む計(ばかり)を学問と思ひ、紙上の空論を以て格物窮理と思ふより間違ひも出来るなり。(平賀源内) 明和七年(一七七〇年)のこの日に、本草学者、劇作家である平賀源内の代表的浄瑠璃『神霊矢口渡』が江戸外記座で初演された。源内四十二歳の時であった。P.17

★一月十七日 〽わが船は岬に沿へり海青し この伊豆の国に雪のつもれる(若山牧水) 大正十二年(一九二三年)のこの日に漂泊の詩人、牧水は伊豆の土肥温泉に滞在『山桜の歌』を編集した。三十八歳である。P.18

★一月十八日 板垣死すとも自由は死せず。(板垣退助) 明治七年(一八七四年)のこの日、板垣退助は『民選議院建立建白書』を提出す。三十六である。P.18

★一月十九日 古代の跡を求めず、古代の求めたる所を求めよ。(空海) 弘仁十四年(八二三年)のこの日、四十八歳の空海(弘法大師)は東寺を与えられ、これを教王寺となづけた。P.18

★一月二十日――二十日正月

 わたしたちアメリカ人は、太平洋は日本とアメリカをへだてるものではないと考えています。それどころか太平洋は私たちを結びつけているのです。(J・F・ケネディ) 一九六一年のこの日に、ケネディは第三十五代のアメリカ大統領に就任した。アメリカ史上最年少で、四十三歳の時のことである。P.19

★一月二十一日 家庭は主人の城堡なり。(中江兆民) 明治二十三年(一八九〇年)のこの日に、四十八歳の兆民は大井憲太郎らと共に自由党を再興した。P.19 

★一月二十二日 おれは<苦労>を、おれの<先生>だと思ってゐるんだ。(山本有三) 昭和十四年(一九三九年)この日に、山本有三の『真実一路』が徳川夢声によってNHKから放送された。有三、五十一歳である。P.20

★一月二十三日 政府民権家を殺せば、その血地上に広がりていよいよ民権の種子を繁殖せしむに足るのみ。(うえ木枝盛) 明治二十五年(一八九二年)のこの日に、自由民権運動の理論的指導者であるうえ木枝盛は死没した。三十五歳である。P.20

★一月二十四日――初地蔵

 商人は死ぬまで金銀を神仏と尊ぶ。これが町人の真の道。(近松門左衛門) 元禄十二年(一六九九年)のこの日、近松門左衛門の代表的歌舞伎狂言『傾成仏の原』が京都の坂田藤十郎座で上演された。四十六歳ごろの話である。P.20

★一月二十五日――初天神

 こころの怒りを絶ち、おもての怒りを棄て、人のたがふを怒らざれ。(聖徳太子) 推古天皇二十年(六一一年)のこの日に、聖徳太子は『勝鬘教疏(しょうまんしよう)』を著した。太子、三十七歳ごろ。P.21

★一月二十六日――文化財防火デー

 大事を思ひはからふ者、物とがめをせず、事ならぬ事をなさずと、いふぞかし。(源 頼朝) 寿永三年(一一八四年)のこの日に、頼朝は平氏追討の命を受けた。三十七歳のころのことである。P.21

★一月二十七日 真実のない生というものはありえない。真実とは多分、生そのもののことであろう。(カフカ) 一九二二のこの日から、三十八歳のカフカはシュピンドラーミューに住み、前の年から書き始めていた、代表作『城』のピッチを上げた。P.22

★一月二十八日 武田部長は緯度の観測を遂げた結果、南緯八十度五分なるを知った。一行はここまで来てこの地点を最終点とした。(白瀬 晶) 明治四十五年(一九一二年)のこの日に、前の年に日本を出発した白瀬中尉は南極の南緯八十度五分のところに達した。五十一歳の時だった。P.22

★一月二十九日 私は事実には信頼することができた。そうして書いてあることを反問して調べた。(ファラデー) 一八三五年、十九世紀最大の物理学者であるファラデーはこの日に、<電流のそれ自身への感応の影響について>の論文を王立学会に提出。四十三歳。P.23

★一月三十日 詩人をいじめると詩が生まれるやうに、科学をいじめると、いろいろな発明や発見がうまれるのである。(寺田寅彦) 昭和七年(一九三二年)のこの日、寺田寅彦(五十二歳)は太平洋学術調査委員会で<地震と漁獲>の講演をした。『中年博物館』P.23

★一月三十一日 人間に理性と創造力があたえられているのは、自分に賦与されたものを増大するためである。人間は今日まで破戒するのみで、創造することがない。(チェーホフ) 一九〇一年のこの日、チェーホフの代表的戯曲『三人姉妹』がモスクワ芸術座で初演された。チェーホフ四十一歳の時。P.24


★二月一日 一人のアラブ人の血が、もう一人のアラブ人のために流されていいのか……アラブ主義はわれわれの良心だ。(ナセル) 一九五八年のこの日にエジプトとシリアが合併宣言をしてアラブ連合共和国が成立。ナセルは大統領に就任する。四十歳であった。P.25

★二月二日 貧しさは、身体の内部からさす美しい光にほかならない。(リルケ) 一九二二年この日に、四十六歳のドイツの詩人リルケは代表的悲歌である『オルフォイスに寄せるソネット』の第一部を書き始めた。P.25

★二月三日――節分

 ほんのわずかでも迷信の残りをもっているならば、実際人々は、自分が強大な力のたんなる化身、たんなる代弁者、たんなる媒介であるという考えをほとんどしりぞけることができないだろう(ニーチェ) 一八八三年のこの日、三十八歳のニーチェは『ァラトゥストラはかく語った』の第一部の執筆を始める。完成は二月十二日で、その間わずか十日。P.26

★二月四日――立春

 万山重からず君恩重し、一髪軽からず我命軽し。(大石内蔵助良雄) 元禄十六年(一七〇三年)のこの日、四十四歳の大石良雄は四十五人の赤穂浪士と切腹する。吉良上野介の首を取って藩主の恨みを晴らしたのは前年の十二月十四日の夜だった。P.26

★二月五日 日出処(ひいずるところ)の天子、書を日没する処の天子に致す恙無(つつが)きや。(聖徳太子) 推古天皇二十九年(六二〇年)この日に、四十六歳の聖徳太子は蘇我馬子らとともに『天皇記』『国記』を編纂した。なお有めいな十七条の憲法はこれより十六年前の推古天皇十三年(六〇四年)に制定された。『中年博物館』P.27

★二月六日 アメリカ人民が自由人となるか、それとも奴隷となるかを、そしてまたアメリカ人民が、自分自身のものと呼びうる財産を持ちうるかを、おそらく決定すべき時がいま目前にせまっている。一七七八のこの日、フランスがアメリカ合衆国を承認。当時、四十六のワシントンは独立軍の最高司令官であり、以後、フランスと同盟し、イギリス軍と戦い独立軍を勝利に導く。P.27

★二月七日 古を是とし今を非とするといふを以て、其の罪を得るもの多きゆえに、世の諸官多くは古をのみ論じて其の詞(ことば)今に及ばず。(新井白石)正徳元年(一七一二年)のこの日、江戸中期の儒学者、政治家であ新井白石は礼文主義の立場から、朝鮮の使節の待遇を改善する。六代将軍家宣の絶大な信頼のもとで行われた政治改革の一つだった。五十三四歳のこと。P.28

★二月八日 生きるための職業は、魂の生活と一致するものを選ぶことを第一にする。(阿部次郎) 大正十年(一九二一年)のこの日、二十七歳の阿部次郎は『静思』の"労働運動の道徳的根拠に就いて"を書き上げた。P.28

★二月九日 金は義の敵である。金のある者は正に対しては普通の人よりばいの決心を持たざるべからず。(大原孫三郎) 大正八年(一九一九年)のこの日、倉敷紡績を発展・大成させた大原(三十九歳)は、大原社会問題研究所を設立した。P.29

★二月十日 その酒の力、その酒の甘さ、その酒のよろしさ、お前の血のうちにふ死の生命をはぐくまん。(ヴェルレーヌ) 一八八一年のこの日ヴェルレーヌの代表作『叡知』が刊行された。ヴェルレーヌ、三十六歳。P.29

★二月十一日 罪悪の過去と訣別して、新しい生涯を開かなければならない。一個のキリスト教徒として立たねばならない。(木下尚江) 明治三十九年(一九〇六年)のこの日、明治の社会運動家であり小説家でもある木下尚江(三十六歳)は、普通選挙全国同志大会で演説する。P.30

★二月十二日 俺あ、こう上下の瞼を合わせ、じいっと考えてりゃあ、逢わねぇ昔のおッかあさんの俤が出てくるんだ。――それでいいんだ。逢いたくなったら俺あ、眼をつぶろうよ。(長谷川伸) 昭和八年(一九三三年)のこの日に、『瞼の母』長谷川伸自身が四歳の時別れた実母と四十四年ぶりに再会。四十八歳だった。P.30

★二月十三日 ペニシリンの最大の恩恵は、ペニシリンそのものではなくて、その発見により、なにかもっといいものを見つけだそうとする、新しい研究を刺激したことであります。(フレミング) 一九二九年のこの日に、前の年に発見したフレミング(四十七歳)は、それに関する覚書をまとめ、医学研究クラブで発表した。P.31

★二月十四日――バレンタインデ―

 未だ曾て邪は正に勝たず。(菅原道真) 昌泰二年(八九九年)のこの日に、菅原道真は右大臣に就任した。この時、五十四歳であった。なお、太宰府への左遷は延喜元年(九〇一年)の正月。P.31

★二月十五日 偶然は準備のないひとを助けない。(パスツール) 一八七八年のこの日に、近代微生物学祖パスツールは衛生会議に参加した。三十五歳の時。P.32

★二月十六日 敗北は精神的冒険への門戸であって、平凡な日日をきびきびしたものとなし、血をして歌わしめ、かつ骨折り仕事にさえ、優美さを帯びさせるだろう。(ヘレン・ケラー) 一九二六年のこの日、ヘレン・ケラーはアメリカのテンプル大学から人文博士号をうけた。四十六歳であった。P.31

★二月十七日 教養は培養である。それが有効であるためには、まず生活の大地に喰ひ入ろうとする根がなくてはならない。(和辻哲郎) 昭和二年(一九二七年)のこの日、和辻哲郎は道徳思想史研究のために日本を出発した。三十七歳である。P.33

★二月十八日 人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外に人間を救う便利な道はない。(坂口安吾) 昭和二十二年(一九四七年)のこの日に坂口安吾は『花妖』の連載を東京新聞で始めた。四十歳のときのこと。P.33

★二月十九日 自らは、けっして天下をぬすみ取ろうなんぞと思っているのではない。つまるところは、天に代って、悪者どもを罰するのである。(大塩平八郎) 天保八年(一八三七年)のこの日、四十七歳の大塩平八郎は乱(大塩平八郎の乱)を大阪に起こす。P.34

★二月二十日 知識は一つの商品であり、教師は即商品のブローカーである。(山本宣治) 昭和三年のこの日、日本で最初の普通選挙が行なわれ、労農党から出馬した山本宣治は初当選。唯一の左翼代議士となる。この時、宣治、三十九だった。P.34

★二月二十一日 人間のふ安は科学の発展から来る。進んで止まる事を知らない科学は、かつて我我に止まることを許して呉れたことがない。(夏目漱石) 明治四十四年(一九一一年)のこの日に漱石は文部省から与えられた博士号を辞退する。四十三歳。P.35

★二月二十二日 人を相手にせず天を相手とせよ。天を相手として己を尽くし、人をとがめず、わが誠の足らざるを尋ぬべし。(西郷隆盛) 明治十年(一八七七年)のこの日、征韓論に敗れ、野に下った西郷は、ふ平士族に推され、三万の兵を率いて熊本城を包囲した。(西南戦争の始まり)。隆盛、時に四十九歳。P.35

★二月二十三日 人城を頼らば城人を捨(しや)せん。(織田信長) 天正四年(一五七六年)のこの日に、四十歳の信長は琵琶湖に面した安土城に移った。なお彼が本能寺の変で自殺するのはこれより六年後の天正十年(一五八二年)である。P.36

★二月二十四日 議事堂はなばかりで実は表決堂である。(尾崎行雄) 大正二年(一九一三年)のこの日、五十二歳の尾崎行雄は政友会倶楽部を結成する。同じ年、首相攻撃の有めいな演説を行い、桂内閣を退陣に追いこんだ。P.36

★二月二十五日 どんなことでも一業を成しとげようとする者は、感情的に怒る気持に支配されるようでは成就しえない。(塙保己一) 天保六年(一七八六年)のこの日に、塙保己一は日本の古書を集大成した『群書類従』の第一回を発刊した。四十歳の時である。『中年博物館』P.36

★二月二十六日 懐疑は発明の父である。(ガリレオ) ガリレオは地動説を強く主張していたが、一六一六年のこの日、地動説を<信じ、かつ弁護すること>が教会より禁止された。五十二歳の時。P.37

★二月二十七日 およそ政の要は軍事でる。文武官の諸人、勉めて兵を習い、併せて馬に乗ることを習え。(天武天皇) 白鳳二年(六七三年)のこの日、四十三歳の大海人(おおあま)皇子は即位して天武天皇となる。P.37

★二月二十八日 貧者の貧は、いうなれば偶然のふ幸というべきである。いまの世の貧富は必ずしも人間の知愚によるものではない。(福沢諭吉) 明治五年(一八七二年)のこの日、三十八歳の諭吉は『学問ノス丶メ』を発表。同書は大ベストセラーとなる。P.38

★二月二十九日 だれでも金銀は命にもかえたいほどの宝である。その宝を贈っても御奉公をしたいという人は、その志が上(かみ)に忠であることは明らかである。その志の厚薄は、贈り物の多少にあらわれる。(田沼意次) 安永元年(一七七二年)のこの日、江戸目黒で大火事起こる。老中に昇進したばかりの意次(五十三歳)は、さっそくその対策に追われることとなった。P.38


★三月一日――日本海マス流し網漁解禁

 〽世は春に いよゝたのしなりゆかむ いのちまもらへ わが父もさね (折口信夫) 昭和七年(一九三二年)のこの日に、折口信夫(四十五歳)は文学博士の学位を受ける。P.39

★三月二日 自由とは、社会的な世界の巨大な虚偽からの自分自身の解放である。(D・Hローレンス) 一九三〇年のこの日に『チャタレー夫人の恋人』で現代社会に大きな衝撃を与えたD・Hローレンスは死亡した。四十五歳である。先の言葉は『チャタレー夫人の恋人』の非難に答えた抗議文『好色文学とわいせつ』の中の一節である。P.39

★三月三日――ひな祭・耳の日 

 〽春浅み 野中の清水 こほりゐて 底の心を 汲む人ぞなき(井伊直弼) 万延元年(一八六〇年)三月三日の午前九時頃、日米修好条約を結び安政の大獄を断行した井伊直弼は、水戸浪士によって桜田門外で暗殺された。直弼、享年四十五歳。P.40

★三月四日 私は言葉を強めて主張する。現代の社会は、その政府を通じ、生活を維持しようとしても維持することのできぬ多くの国民に対し、飢餓と窮乏とを防止する動かすべからざる責任を負っている。(フランクリン・ルーズベルㇳ) 一九三三年のこの日、ルーズベルㇳは第三十二代アメリカ大統領に就任した。この時(五十一歳)である。P.40

★三月五日 一滴の油これを広き池水の内に点ずれば散じて満池に及ぶとや。(杉田玄白) 明和八年(一七七一年)のこの日に、二十七歳の玄白は前野良沢らと『ターヘル―アナㇳミア』の翻訳にとりかかり『解体新書』として安永三年(一七七四)に完成させる。P.41

★三月六日 真理や美、完全性への理想、といったことは、一つとして意識のない宇宙の是認を得てはいないが、またそれらを達成することを人生はわれわれに許していないとしても、それらへの敬意をもちつづけけることにしよう。(バトランド・ラッセル) 一九二七年のこの日、ラッセルはイギリス非宗教協会の依頼により、ロンドンで有めいな講演<なぜわたしはキリスト教徒ではない>を行う。五十五歳であった。P.41

★三月七日 古きふ道徳の世界と新道徳世界とを分かつㇽビコンの河は遂に渡られた。而して今や真理、知識、勤勉及び道徳的善が出陣して、虚偽、無智、ふ和及び道徳的悪の連合軍に対して堂々と進軍しつつある。(ロオバーㇳ・オーエン) 一八二五年のこの日にイギリス社会主義者であるオーエン(四十三歳)は、ワシントンの議事堂で講演する。P.42

★三月八日――国際婦人デー

 第一は、明澄的に真であると認めることなしには、いかなることも真であるとして受けいれぬということ。(グレゴール・ヨハン・メンデル)一八六五年のこの日と二月八日に、四十二歳のメンデルは有めいなえんどう豆の実験の研究結果を自然研究会の例会で講演。P.42

★三月九日 王族の宮廷や貴人の接見室における成功や昇進は、知識にすぐれた教養ゆたかな同輩の人々の評価にもとづくものではなく、無知な、自惚れの強い、高慢な支配者のいだく気まぐれなたわいない好意に左右せられる。(アダム・スミス) 一七七六年のこの日、アダム・スミスの大著『国富論』――『諸国民の富の性質ならびに原因にかんする研究』が刊行される。五十二歳の時だ。P.43

★三月十日 行動をことばに移すよりも、ことばを行動に移すことのほうがよほどむずかしいことは誰もが知っている。(ゴーリキー)一九〇六年、ソビエト文学の基礎をつくったゴールキーは、ロシア革命の真相を各国民に伝える旅にでていたが、この日アメリカに到着した。三十七歳であった。P.43

★三月十一日 苦悩を徹底的に經驗することによってのみ、それは癒される。(プルースト) 一九一三年のこの日、プルーストは『失われた時を求めて』を出版してくれる出版社を求めて奔走するが見つからずグラッセル書店と自費出版契約を結ぶ。四十一歳の時である。P.44

★三月十二日――東大寺二月堂お水取り

 わが国民は徒らに坐して自由と憲法の与えられるを待つがごとき、卑屈、無気力なる国民にあらず。実に自から起ってこれをかち得たる、質実剛健なる国民なりき。(板垣退助) 明治八年(一八七五年)のこの日、征韓論で敗れ野に下った板垣退助は、大久保利通との妥協がなり、政府へ復帰、参議に就任した。三十八歳。P.44 

★三月十三日 なんち(汝)しるやいなや、ただした(舌)をうこか(動)しこゑをあく(上)るを仏事功徳とおもへる、いとはかなし。(道元) 宝治二年(一二四八年)のこの日に、曹洞宗の始祖・道元は鎌倉から越前の永平寺に帰る。北条時頼に鎌倉に留まるよう要請されたがきっぱり断ったのである。四十八歳。P.44 

★三月十四日 学者になる学問は容易なるも、無学になる学問は困難なり。(勝 海舟) 慶應四年(一八六八年)のこの日に、海舟は新政府軍の参謀、西郷隆盛と会見し、江戸城の無血開城を約す。四十五歳。P.45

★三月十五日 生ける時、善をなさずんば、死する日、獄の薪とならん。得難くして移り易きは、それ人身なり。発し難くして忘れ易きは、これ善心なり。(最澄) 弘仁十年(八一九年)のこの日に、わが国における天台宗の開祖・最澄は比叡山に大乗戒壇の設立を請う。この時、五十一歳。P.45

★三月十六日 男の初恋を満足させるのは、女の最期の恋である。(バルザック) 一八四〇年のこの日、三月十四日から上演されていたバルザック作『ヴォㇳラン』が内務大臣の命により上演禁止。四十歳の時。P.46

★三月十七日 生を必する者は死し、死を必する者は生く。(上杉謙信) 上杉謙信は天正四年(一五七六年)のこ日に、越中、飛騨を攻める。三十六歳の時のことであった。P.46

★三月十八日 善の栄光は彼らの良心にあり、ひとびとのことばにはない。(トルストイ) 一八七三年のこの日に、四十四歳のトルストイは代表作の『アンナ・カレーニナ』の執筆にとりかかる。P.46

★三月十九日 香久山は 畝傍(うねび)()しと 耳成(みみなし)と 相争ひき 神代(かみよ)より かくにあるらし いにしえもしかにあれこそ うつせみも(中大兄皇子) 白雉十八年(六六七年)のこの日に、中大兄皇子(のちの天智天皇)は国内の安定をとり戻すため、近江の大津へ都を移した。時に四十一歳。P.47

★三月二十日 わたしは、決算や契約などの仕事をさせられるくらいならば、弾丸をこめた大砲のまえにたつほうが気がらくです。(ワット) ピストンによる蒸気機関の発明者、ワットはまたオフセット印刷機の発明者であるが、一七八〇年のこの日にオフセット印刷機を製造販売する会社をつくった。四十四歳。P.47

★三月二十一日 災害は忘れた頃にやって来る。(寺田寅彦) 昭和三年(一九二八年)のこの日に、寺田寅彦は測地学会の仕事で、象潟におもむいた。四十九歳である。P.48

★三月二十二日――放送記念日 

 王制日新は皇国の幸福、我輩も亦希望する所なり。然るに当今の政体、其なは公明正大なりと雖も、其実は然らず(榎本武揚) 明治二十二(一八八九年)のこの日に、幕臣で最後まで新政府に反攻した榎本武揚は文部大臣に就任した。五十二歳であった。P.48

★三月二十三日 われに自由をあたえよ、しからずんば死をあたえよ。(パㇳリック・ヘンリー) 一七七五年のこの日、アメリカ独立革命の急先鋒であるヘンリー(三十八歳)は、バージニア州議会で<われに自由……>のめい演説を行い、議会の空気を一変させた。独立戦争が始まったのはその年の四月十八日のこと。P.48

★三月二十四日 私は今まで世界の各地を歩き、医界の歓迎をうけたことは少なくないが、日本の如くに社会各方面挙っての歓迎をうけたことはない。これは日本国民が学術を尊重する念に厚いからだ。(コッホ) 一八八二年のこの日、三十七歳のコッホは結核菌の発見を報告する。P.49

★三月二十五日――電気記念日 

 優強者が弱劣者を吸収しつつおのれを発展したところに文明も出来、国家も出来た。(岩野泡鳴) 明治四十五年の十二月十六日から、大阪新聞に連載していた『発展』が完結した。岩野泡鳴、三十九歳の時である。P.49

★三月二十六日 この島(イギリス)は三千六百万の人口のうち六百万を維持しうるにすぎず、また世界がわれわれの商品を排斥しようとしていることを考えれば、わが国民の生産品にとって自由で解放された市場となるような地球の表面を、一インチといえども取らなければならない。(セシル・ローズ) 一九〇二年のこの日、アフリカの開拓者であるセシル・ローズは、四十八歳で死亡した。P.50

★三月二十七日 〽行く春や 鳥啼き魚の 目は泪(松尾芭蕉) 元禄二年(一六八九年)、四十五歳の芭蕉は、門人の曽良を伴いこの日江戸を出発し、奥州路へと向かった。行程六百里、北陸を経て九月に大垣に至った行脚のあとを綴ったものが有めいな『奥の細道』である。P.50

★三月二十八日――利休忌 

 最も学識ある人間が必ずしも最も賢明な者ではない。(ラブレー) 一五四六年の一月末かあるいは二月初め、最高法院およびパリ大学神学部の追究を避けるため、国外へ脱出。そしてこの日にメッス市に居を定める。四十三歳の時だった。P.51

★三月二十九日 それ人材は天地の宝にして、万民の司令なり、是の故にこれを用ゆる者は栄え、用ひざる者は、或は亡び、或は削らる。(江藤新平) 明治七年(一八七四年)のこの日に、佐賀の乱を起した江藤新平は追われ、遂に土佐と阿波の境で逮捕された。四十歳である。P.51

★三月三十日 畢竟国家の発達は、国民の力に依らざることを得ず。また国の運用は政府と妥協の全きを得るに在るを信ず。(伊藤博文) 明治二十八年(一八九五年)のこの日に、日本は清国との休戦条約に調印。ついで四月十七日に日清講和条約が調印された。この時の日本側の全権委員は首相の伊藤博文(五十三歳)と陸奥外相だった。P.52

★三月三十一日――学校教育法公布記念日

 種を選ばず耕さざる地は、土の力のいよいよさかんなるに従い、いよいよ悪く、いよいよ荒る。(ダンテ) 一三一一年のこの日、フィㇾンツェがグェルフィ系の諸都市を糾合して、反皇帝同盟を結成したのを知り、ダンテは祖国の民衆を痛烈に非難した。四十六歳である。P.52


★四月一日――エイプリル・フール

 人の幸福の第一は家内の平和だ。家内の平和は何か。夫婦が互いに深く愛するというほかはない。(尾崎紅葉) 明治三十五年(一九〇二年)のこの日『続々金色夜叉』の続編を読売新聞に連載しはじめる。三十六歳のこと。『金色夜叉』の連載開始は明治三十年の一月一日だった。P.55

★四月二日――図書館記念日

 家は洩らぬ程、食事は餓えぬ程にて、足る事なり。(千 利休) 元亀二年(一五七一年)のこの日に、五十歳の千利休は信長の前で初めて茶をたてたといわれている。P.55

★四月三日 人間僅か五十年、化天の裡(うち)に比ぶれば夢幻のごとくなり。(織田信長) 武田勝頼を天目山に滅ぼした信長(四十八歳)は残党狩りを始めた。恵林寺には近江の六角承禎らがひそんでいたので、住職の快川に引きわたしを要求したが、快川は応じない。そこで信長は天正十年(一五八二年)のこの日に、焼き討ちをした。P.56

★四月四日 もし人間が生命を賭してもよいようなものが発見できなければ、その人は生きるに足らない人間なのである。(マーチン・ルーサー・キング) 一九六七年のこの日、三十八歳のキング博士はニューヨークで、黒人と白人の兵士が<同じ学校に同席を許されないような国のために>いっしょになって殺したり殺されている事実をあげ、ベトナム戦争を弾劾。P.56

★四月五日 真の文明人とは、人生における自己の使命を知っている人間のことである。(トルストイ) 一八七七年のこの日、トルストイ(四十九歳)はストラーホフへの手紙のなかで<アンナ・カレーニナ>が完成したことを知らせた。P.57

★四月六日 女性の直観は、しばしば男性の高慢な知識の自負を凌ぐ。(ガンジー) 一九一九年のこの日、ガンジーは国民会議派議長に就任、イギリスに対して第一次非暴力的抵抗運動を始める。この時、ガンジー四十九歳。P.57

★四月七日 わが生涯をかへりみて、今燦然と輝く星の如きものは、実に誠実なる愛情であったと思ひます。(尾崎秀実:ほつみ) 戦後初のベストセラー『愛情はふる星のごとく』の中で、昭和十九年(一九四四年)のこの日に、秀実(四十二歳)から妻へ送った手紙が掲載されている。この言葉はその一節である。『中年博物館』P.58

参考:尾崎 秀実:1901年(明治34年)4月29日 - 1944年(昭和19年)11月7日)は日本の評論家・ジャーナリスト・共産主義者、ソビエト連邦のスパイ。朝日新聞社記者、内閣嘱託、満鉄調査部嘱託職員を務める。

 近衛文麿政権のブレーンとして、政界・言論界に重要な地位を占め、軍部とも独自の関係を持ち、日中戦争(支那事変)から太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直前まで政治の最上層部・中枢と接触し国政に影響を与えた。

 共産主義者であり、革命家としてリヒャルト・ゾルゲが主導するソビエト連邦の諜報組織「ゾルゲ諜報団《に参加し、スパイとして活動。最終的にゾルゲ事件として1941年(昭和16年)発覚し、首謀者の1人として裁判を経て死刑に処された。共産主義者としての活動は同僚はもちろん妻にさえ隠し、自称「もっとも忠実にして実践的な共産主義者《として、逮捕されるまで正体が知られることはなかった。

★四月八日――花まつり

 三界の狂人はくるへることを知らず、四生の盲者はめしひなることをさとらず。生まれ生まれ生まれ生まれて生(しょう)のはじめに暗く、死に死に死に死んで死ぬをはりに冥(くら)し。(弘法大師) 天長二年(八二五年)のこの日に、弘法大師は護国国家の修法として、毎年の夏安居(げあんご)に<守護国界主陀羅尼経>を講ずることを奏請し、許された。五十二歳。P.58

★四月九日 それ天下の富を有(たも)つ者は朕なり、天下の勢を有つ者も朕なり。この富と勢とを以て、この尊像を造らん。(聖武天皇) 天平勝宝四年(七五二年)のこの日、聖武天皇が東大寺大仏建立にふみ切ってから九年、ついに大仏開眼の式をあげることができた。五十一歳。先の言葉は建立の際の宣言である。P.59

★四月十日――夫人の日

 社会は一つの船のようなものだ。だれもが操舵をとる準備をせねばならない。(イブセン) 一八七六のこの日、イブセン(五十三歳)の<ヘルゲランの勇士たち>がミュンヘン宮廷劇場で上演された。P.59

★四月十一日 凡て思慮は、平生黙坐静思の際に於てすべし。(西郷隆盛) 明治元年(一八六八年)のこの日に、政府軍江戸城に入場。この無血入場の立役者、西郷は四十歳であった。P.60

★四月十二日 力はすべてを征ふくするが、その勝利は短い。(リンカーン) 一八六二年のこの日、アメリカの南北戦争が始まる。前年に大統領になったリンカーンは、この時五十二歳。P.60

★四月十三日 荒々しく毒づいたことばは、その根拠が弱いことを示唆する。(ヴィクトル・ユーゴー) 一八四五年のこの日に、フランス派の文豪であり、共和制擁護に献身したユーゴーは上院議員になった。四十三歳のこと。P.60

★四月十四日 文学者の仕事というものは優秀であればあるほど、体系からの創造ではなく、虚無からの創造である。(横光利一) 昭和十二年(一九三七年)この日、新感覚派の小説家・横光利一は藤田嗣治の挿絵で『旅愁』の新聞連載を始めた。三十九歳の時であった。P.61

★四月十五日 〽人はいさ 心も知らず ふる里は 花ぞむかしの 香ににほひける(紀 貫之) 延暦五年(九〇五年)のこの日、紀 貫之は壬生忠岑(みぶのただみね)ら三人と『古今和歌集』を完成させた。四十七歳のころであった。P.61

★四月十六日 幸福なる時代を回想するより大いなる悲しみはなし。(ダンテ) 一三一一年のこの日、イタリアルネサンスの最大の詩人ダンテは、ハインリッヒ七世に書簡を呈して、フィレンツェの平和回復のためトスカナに下るよう要請した。四十歳の時。P.62

★四月十七日 いよいよ今日午後五時より下之関出張之筈此度は、李鴻章参り候との事故、先此之使節ヨリハ一段おもしかるべきか、併其成否は今日何とも難申候へ共為国家力の及ぶ丈けハ尽力可致覚悟ニ候。(陸奥宗光) 明治二十八年(一八九五年)のこの日、日本は清国との間で下関条約を調印する。日本側の全権委員は伊藤博文と四十歳の陸奥宗光外相だった。先の言葉はこの前日付の大本営所在地・広島からの手紙。P.62

★四月十八日 利己主義は人類の最大の禍いである。(グラッドストン) 一八五三年のこの日、イギリス十九世紀有数の議会政治家グラッドストンは、蔵相として画期的な予算案を提出し、財政家としてのめい声を博す。五十二歳。P.63

★四月十九日 未来を見る眼を失い、現実に先んずるすべてを忘れた人間、そのゆきつく先は自然の破壊だ。(シュバイツアー) 一九二四年のこのに、第二次アフリカ事業にとりかかっていたシュバイツアーは仏領コンゴのランバレーネに到着した。三十九歳。P.63

★四月二十日――郵政記念日

 諸君、神は国王が生きるのを喜びたまわぬのだ。(クロムウェル) 一六五三年のこの日、五十四歳のクロムウェルは、クーデターで議会を解散させ、独裁体制を固める。十二月には護国卿になった。P.63

★四月二十一日 君臣朋友の間にあっても、わがままごころがあればふ仲になる。おのれの好むことは、人の好まぬものと心得よ。(豊臣秀吉) 天正十一年(一五八三年)のこの日に、秀吉は柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破る。四十七歳であった。P.64

★四月二十二日 酒の個人的又は家長専制的なるに反して、菓子の流布には共和制の趨勢と謂はうか、少なくとも男女平等の主張が仄見える。(柳田国男) 大正十五年(一九二六年)のこの日、五十歳の柳田国男は日本社会学会において<民俗学の現状>を講演する。P.64

★四月二十三日 凡人は聖人の縮図なり。(二葉亭四迷) 明治三十九年(一九〇六年)のこの日に二葉亭四迷(四十二歳)は『灰色人』を四明の筆めいで東京新聞文壇欄に掲載した。P.65

★四月二十四日 われらの戦略は一をもって十に当る。われらの戦術は十をもって一に当る。(毛沢東) 一九四九年一月、中国共産軍は北京、天津に入城し、さらにこの日、無数のジャンクをもって長江渡河に成功、南京を占領した。毛沢東、五十五歳の時である。P.65

★四月二十五日 今まで困ってゐた人達が困らなくなり、一人残らず仕合せになる筈の理論がどの程度まで活かされてゐるか、その美しい理論を生かす力をほんたうに人が持ってゐるかを知りたいのです。(野上弥生子) 大正十五年(一九二六年)のこの日、野上弥生子は岩波書店から戯曲集『人間創造』出版。四十歳であった。P.66

★四月二十六日 いかなる人間も自分自身の掟に従って自由に生きたいと思う。(シラー) 一八〇四年のこの日、シラーは、俳優イプランㇳの招きに応じて、妻と二人の子供をつれベルリンへ行く。そこで自作の『オルㇾアンの処女』『メッシーㇰの花』『ヴァレンシュタイン』を観劇する。P.66

★四月二十七日 風流には嫉妬はない、利己的なものはない、没我的であり、非人工的なものである。(武者小路実篤) 昭和十一年(一九三六年)年のこの日、五十歳の武者小路実篤は横浜から白山丸で、ヨーロッパへ旅立った。P.67

★四月二十八日 私自身には、私は海辺で遊ぶ少年に過ぎず、時折、普通より滑らかな小石や美しい貝殻を見つけて気晴らしをしているが、真理の大海は全く発見されぬまま眼の前にあるように思われる。(ニューㇳン) 一六六八年のこの日、ニュートンは近代物理学の基礎となる『自然哲学の数学的原理』の第一部の原稿を公式に王立協会に提出した。四十三歳。P.67

★四月二十九日――昭和天皇の日

 心に貪りなきとはへつらはず、心に誤りなきときは人を恐れず。(武田信玄) 永正十四年(一五一七年)のこの日、武田信玄は三河吉田城で徳川家康と戦う。四十九歳であった。P.68

★四月三十日 才能とは、自分自身を、自分の力を信ずることだ。(ゴーリキー) 一九〇七年のこの日から始まったロンドンにおけるロシア社会民主労働大会に、三十九歳のゴーリキーは代議員として出席。レーニンと会いバ―ナード・ショ―と知り合う。P.68


★五月一日――メーデー

 自分の会社でなくてはほんとうの研究、ましてや商売なぞできるものではない。(豊田佐𠮷) 織布機械の改良に没頭していた佐吉は、わが国初の自動織機を完成。明治四十年(一九〇七年)のこの日、特許を取得する。四十歳。P.69

★五月二日――八十八夜(このころ)

 井上侯病気全快に付園遊会を開き余も出席したり。到底全快の望みなしとの報屡々接したる程なりしが、ふ思議にも全快し本日此祝筳を開くことを得たり、来会者多く盛会なりき、伊藤維新前後より今日に至る迄の交誼を演説したり。(原敬) 明治四十二年(一九〇九年)のこの日、五十三歳の原敬は井上馨の病気回復祝いに出席。なお先の言葉はその日の<原敬日記>より。P.69

★五月三日――憲法記念日

 この世の中で、いちばん強い人間とは、孤独で、ただひとりで立つ者なのだ。(イブセン) 一八七〇のこの日に、イブセンは『詩集』を発表。四十二歳だった。P.70

★五月四日 〽幾山河越えさり行かば寂しさの ()てなむ国ぞ今日(けふ)も旅ゆく(若山牧水) 昭和二年(一九二七年)のこの日に、漂泊の詩人・牧水は妻貴志子とともに朝鮮各地の揮毫旅行に出発する。四十二歳。P.70

★五月五日 もしもぼくが決定的に文学の道をとるとしたら、ぼくの従いたいと思っている金言は、一切か無か! これだ。なにか、前人未踏の小(みち)を発見して、現代の有象無象の物書きのやからから脱けだしたいと願っている。(エミール・ゾラ) 一八九九年のこの日、自然主義の代表的作家であるゾラは問題作『獣人』の執筆にとりかかる。完成は翌年の一月十八日。四十九歳のことであった。P.70

★五月六日 倦怠にはもうぼくは愛着がない。(ランボー) 一八九一年のこの日、三十六歳のランボーはティアン(アフリカのアデンで長年商売をしているフランスの商人)より報酬二万八百五ルピーを受け取った。P.71

★五月七日 めい声をかちえた芸術家たちは、そのために苦しめられる。だから、彼らの処女作が往々にしてベストである。(ベートーベン) 一八二四年のこの日に、ベートーベンの第九交響曲が、ウィーンで初演された。五十三歳の時のことである。P.71

★五月八日 一隊の将たるものは、これらを気にかけ、身近に目付をおいて、意見をきかねばならぬ。わが身のこと分からぬものゆえ、おのれの善悪をきき入れる心構えが大事であるぞ。(豊臣秀吉) 天正十五年(一五八七年)のこの日に、秀吉は二十万人の兵を率いて島津義久を討った。秀吉、五十一歳。P.72

★五月九日 人間万事往として、塞翁が馬ならぬはなし。その福の倚る所、はた禍ひの伏す所。(滝沢馬琴) 享和二年(一八〇二年)のこの日に、滝沢馬琴は京阪旅行にでかけて、『羇旅漫録』を上梓した。三十五歳の時である。P.72

★五月十日――愛鳥週間 Bird Week (十日~十六日)

 自己に満足しない人間の多くは、永遠に前進し、永遠に希望をもつ。(魯迅) 一九二五年のこの日、魯迅は北京女子師範大学生のために、学長陽陰楡の学生に対する迫害を痛烈に責めた文、<ふと思いついたこと>を京報副刊に発表した。P.73

★五月十一日 懺悔者の背後には美麗な極光がある。(萩原朔太郎) 昭和十七年(一九四二年)のこの日、近代的抒情詩を確立した萩原朔太郎は死没した。五十四歳。P.73

★五月十二日 日本側としてはロシアの対日敵意を疑ふべき確たる理由を持ってゐる。又欧州各宮廷の陰謀を伝へたオランダ人の言は本当です。(間宮林蔵)文化六年(一八〇九年)の五月八日、カラフトのノテㇳを出船した間宮林蔵はこの日、ヨーロッパ人未調査の海峡水域百マイルを突破してカラフトの北端に近いナニオーに到達した。三十五歳の時。P.74

★五月十三日 幸福は対抗の意識のうちにはなく、協調の意識のうちにある。(アンドレ・ジイド)一九一二年のこの日から二十五日まで、四十二歳のジイドはルーアンの重罪裁判所の陪審員に任命された。その体験は『重罪裁判所の思い出』と題して翌年に出版されている。P.74

★五月十四日 大道は、いずれの国々とても、今は古に及ばずとても、物理の学は、古は今に及ばず候。(渡辺崋山) 天保十年(一八三九年)のこの日に、画家、蘭学者である渡辺崋山は投獄される。四十六歳の時である。P.75

★五月十五日 人間が天界の事物についての洞察に至る道筋は、それらの事物それ自身とほとんど同じくらい、奇跡的な、驚異に値するものであると、私には思われる。(ケプラー)一六一八年のこの日に、近代天文学の祖ケプラーは、<ケプラーの第三法則>を発見。四十七歳。

★五月十六日 自由とは、法の許すかぎりにおいて、すべてのことをなす権利である。(モンテスキュー)一七三〇年のこの日、フランスの政治学者で三権分立を唱えたモンテスキューは、ロンドンでフリー・メイソンに入会。四十一歳。P.76

★五月十七日 学校の教員は、生徒の受くべき罰を自ら受け、遂に生徒の心を改む。而して、生徒は最も教員を愛し信ずるに至れり。(新島 襄)明治四十四年(一八八一年)のこの日、三十六歳の新島襄は、教会以外の場所で初めてキリスト教の演説会が評価され、<罪とは何ぞ>と題して講演する。P.76

★五月十八日 凡ソ生民ノ災ヒハ年(天保)ノ凶荒ヨリ大ナルㇵナシ。(高野長英)天保十年(一八三九年)のこの日に、三十五歳の高野長英は蛮社の獄で自首した。P.77

★五月十九日 足をけずつて靴に合せるものではなく、靴は必ず足に合わせ、牛舎をつくるには、牛の体位をはかれ。(ㇹ―・チミン)一九四一の年のこの日、ホー・チミンはベトナム独立同盟(ベトミン)を結成する。五十一歳の時。P.77

★五月二十日――土用の入り(このころ) ビービーを食べた

 人間には運命というものがあって、自分である程度まで開拓して行くことができる。(片山 潜)明治三十四年(一九〇一年)のこの日、四十二歳の片山潜は木下尚江幸徳秋水ら六人で社会民主党を結成したが、即日禁止された。P.77 

★五月二十一日 兵の勝敗は人にありて器にあらず。(頼山陽)文政十年(一八二七年)のこの日に、江戸後期の代表的儒学者である頼山陽は、『日本外史』を老中松平定信に献上した。四十七歳。P.78

★五月二十二日 喜びを求めるものは、今ぞ……。(ロレンツォ・デ・メディチ)一四八八年のこの日、ルネッサンスの擁護者ロレンツォ・デ・メディチ(三十九歳)の長男ピエルがアルフォンツ―ナ・オルシーニと結婚。これによりメディナ家とローマとの関係は一段と強化した。なお先の言葉はロレンツォ作『カーニバルの歌』の一節。P.78 

★五月二十三日 白牡丹といふといへども紅ほのか(高浜虚子)大正七年(一九一八年)のこの日、正岡子規の業績を継いだ俳人・高浜虚子は松山ホトトギス会席上で<深く掘り下げよ>と題して講演。四十四歳の時。P.78

★五月二十四日 〽あたたかき心こもれるふみ持ちて人思ひ居れば鶯のなく(伊藤佐千夫)明治三十五年(一九〇二年)のこの日、三十八歳の伊藤佐千夫は<讃正岡先生歌並短歌>を『日本』に発表した。P.79

★五月二十五日 人間墳墓の地を忘れてはならない。(葛西善蔵)大正十五年(一九二六年)のこの日と六月十日、二十五日の三回にわたり、葛西善蔵は<酔中言>を文芸時報に掲載する。三十八歳であった。P.80

★五月二十六日 新しいものは常に謀反である。(徳富蘆花)大正三年(一九一四年)のこの日、徳富蘆花の父・一敬が死亡するが、蘆花は父を見舞わず、葬儀にも参列せずに"忌中面会謝絶"と紙をはり門をとざした。そして『黒い眼と茶色の眼』の執筆に没頭していた。四十六歳。P.80

★五月二十七日 時は今 あめが下知る 五月かな(明智光秀)信長に中国出陣を命ぜられた明智光秀は、天正十年(一五八二年)のこの日、丹波・愛宕山に詣で、連歌師里村紹巴らと連歌を作って神前に奉のうした。光秀五十五歳の時。P.80

★五月二十八日 人の光を籍(か)りて我光を増さんと欲する勿れ。(森 鷗外)明治四十三年(一九一〇年)のこの日に、森鷗外の『生田川』『出発前半時間』『犬』を自由劇場が講演。鷗外、四十八歳の時。P.81

★五月二十九日 一日のうちに感じられ、かつ表現される愛情の分量には限度がある。(ヴァレリー) 一九二三年のこの日と五月二十三日、二十五日、フランスの詩人ヴァレリーはヴィユー・コロンビエ座で、<二十九世紀における純粋詩>の連続講演を行う。五十二歳。P.81

★五月三十日 理論も大衆を捉えるや否や物理的権力となる(マルクス) 一八七一年、パリ・コンミューン直後、マルクスはコンミューンについて<フランスの内乱――国際労働者協会総務委員会の声明>を書きあげ、この日の総務委員会で読み上げられた。この声明はエンゲルスの提案でなされたもの。マルクス五十三歳。P.82

★五月三十一日 人の常識、敗れたる者は天の命を称して嘆じ、成れる者は己の力を説きて誇る。二者共に陋とすべし。(幸田露伴)明治三十八年(一九〇五年)のこの日、読売新聞に連載されていた幸田露伴の『天うつ浪』が日露戦争の勃発にあって中絶した。これ以後、露伴は小説を絶ち、学者への道を歩み始める。三十八歳であった。


★六月一日――電波の日・気象記念日

 けっして後悔せず、けっして他人を咎めるな。これは英知の第一歩である。(デイドロ)一七五一年のこの日、フランスの啓蒙家デイドロが力を注いだ『百科全書』の第一巻が発売された。デイドロ三十八歳。P.83

★六月二日 一つの作品がわいせつ文学に陥るのは、そのわいせつさの為ではなく、それが実から浮き上っているためである。(王 国維)一九二七年のこの日、清末期から中華民国にかけての歴史学者王国維は、四十九歳で死没した。P.83

★六月三日 改革への情熱が、われわれの世界にも、共産世界にも吹いている。われわれはこれを歓迎する。(ジョン・F・ケネデイ)一九六一年のこの日に、四十四歳のケネディはフルシチョフとウィ―ンで会談、平和共存への道がひらかれた。P.84

★六月四日――虫歯予防デー

平等はあらゆる善の根源であり、極度のふ平等はすべての悪の根源である。(ロベスピエール)一七九四年のこの日に、フランス革命の士ロベスピエール(三十六歳)は国民公会議長に選出された。P.84 桑原武夫『一日一言』P.124

★六月五日 芸術家は自然の愛人である。彼は彼女の奴隷であり、主人である。(タゴール)インドの産んだ世界的詩人タゴールが来日したのは一九一六年のこの日、五十五歳の時。P.85

★六月六日 アメリカの民主主義は、新たな、巨大な、陰険な勢力によって脅威を受けている。それは<軍事産業複合体>とも称すべき脅威である。(アイゼンハワー)一九四四年のこの日、連合軍はノルマンディに上陸。ときの連合軍司令官がアイゼンハワーであった。五十三歳。P.85

★六月七日――計量記念日

 貨幣は私の力をあらわす。(サルトル)一九五一年のこの日に、サルトルの代表作『悪魔と神』が初演された。四十五歳。P.85

★六月八日 真理の正道を探求する者が、数学的な確実性をもち得ないような対象にたずさわってはいけない。(デカルト)一六三七年のこの日、デカルトの代表的著作である『方法論序説』が発行された。この時、デカルト四十一歳。P.86

★六月九日 感謝は支払わるべき義務であるが、何びともそれを期待する権利はない。(ルソー)一七六二年のこの日に、フランスの高等法院は『エミール』の焚書およびルソーの逮捕を発表。五十歳のルソーはこれから逃れるため、モン・ルイを立った。P.86

★六月十日――時の記念日

 その年齢の知恵をもたない者は、その年齢のすべての困苦をもつ。(ヴォルテール)一七三四のこの日に、十八世紀最大のフランスの啓蒙思想家ヴォルテールは、彼の代表的見聞報告『哲学書簡』を焚書処分された。三十九歳の時のこと。P.86

★六月十一日 今後、存在するあらゆる社会の歴史は階級闘争の歴史である。(マルクス)一八五九年のこの日に、マルクス(四十歳)の代表作『経済学批判・第一冊』がベルリンで出版された。P.87

★六月十二日――入梅(このころ)六月十日、中国地方入梅

 成功は結果であって目的ではない。(フローベル)一八五八年のこの日に、十六歳のフローベルは歴史小説の傑作『サラムボー』準備のためカルタゴ旅行から帰国した。P.87

▼ギュスターヴ・フローベール(フロベール)(Gustave Flaubert 、1821年12月12日 - 1880年5月8日)はフランスの小説家。ルーアンの外科医の息子として生まれる。当初は法律を学ぶが、のち文学に専念。1857年に4年半の執筆を経て『ボヴァリー夫人』を発表、ロマンティックな想念に囚われた医師の若妻が、姦通の果てに現実に敗れて破滅に至る様を怜悧な文章で描き、文学上の写実主義を確立した。他の作品に『感情教育』『サランボー』『三つの物語』『ブヴァールとペキュシェ』など。

★六月十三日 排斥すべきものは飽くまでも排斥し、採るものは何処までも採って、さうして西洋でも支那でも何處でも構はない、世界的に眼を開いて、思想的に技巧的にも良いものは皆採ってしまひ……。(小山内薫)大正十三年(一九二四年)のこの日に、小山内薫は築地小劇場を創設した。四十二歳の時。P.87

★六月十四日 オリンピックで重要なことは、勝ことではなく参加することである。(クーペルタン)一九一四年のこの日、近代オリンピック復興の功労者であるクーペルタン(五十一歳)は、オリンピックの五輪旗を創案して発表。P.88

★六月十五日 お喋り議会でなく、行動する議会だけが、たんに煽動的なものに止まらず真に政治的指導者の資質を成長させ、選択の手を借りて上昇させる土台となりうるのである。(マックス・ウェーバー)一九一九年、マックス・ウェーバー五十五歳この日、ミュンヘン大学に赴任する。P.89

★六月十六日 ……ここにお集まりのみなさんに、みなさん自身の、そして世界全体の利益のために、よりいっそうの気高い努力を重ねていただきた。(マッキンリー)一八九七年のこの日、アメリカとハワイは併合条約に調印した。時の大統領は第二十五代のマッキンリーで、この時、五十四歳。この言葉は、彼の最期の演説(一九〇一年九月七日に暗殺される)の中の一節。P.89

★六月十七日 〽行く春や旅にやせたる白拍子(高浜虚子)昭和二年(一九二七)のこの日に、五十四歳の高浜虚子は、東京日日新聞社募集の日本八景の選抜委員を委嘱され、候補地を視察するために、東京から奧羽へと旅立つ。P.90

★六月十八日 権威は威信なくして成立するものではなく、威信は世俗との隔離なしでは成り立つものではない。(ドゴール)一九四〇年のこの日、亡命先のロンドンでドゴールはフランス人にレジスタンスを呼びかけた。四十九歳の時であった。P.90

★六月十九日 富と功みょう!これ実に誘惑なり。吾は日々この誘惑に出あふ。(国木田独歩)明治四十年(一九〇七年)のこの日に、国木田独歩は西園寺公望の文士招待会に出席。三十六歳。P.91 

★六月二十日 人間は生まれた時は、貧賤の上下の区別なく、みなあたまの丸い坊主です。だんだんと年齢をつみ、さまざまな境界をつくるので、在家もあれば坊主もあり、あるいは有髪の居士もあります。しかし、心はみな同じです。(一休)永享(一四四〇年)のこの日から一休は請われて大徳寺の如意庵に住むことになった。四十七歳の時である。P.91 

★六月二十一日 ソ連邦との戦争が始まったことから、ひとつの言葉が、世界中で前代未聞のひろがりを示しました。パルチザンという言葉がそれです。それは、武器を手に外国の侵略者から祖国を守るために立ちあがった市民のことです。(トリアッチ)一九四五年のこの日、トリアッチはパㇽㇼ内閣の法相に就任。五十二歳の時だった。P.92

★六月二十二日 記者諸君は公平なる地位にあって、各政党の正ふ正を裁く裁判官であると同時に、政党が正義に向って進むことをちゅうちょする場合、これを鞭韃し激励する役目にあるのである。(犬養 毅)明治三十一年(一八九八年)のこの日、憲政党が成立するが、その結成に当たり、犬養毅(四十三歳)は大いに力量を発揮した。P.92 P.82

★六月二十三日 演劇といふものは急激に進歩をなすべきものではない。わが演劇を長く支配するものは、やはり在来の歌舞伎劇の進歩したものでなければならない(岡本綺堂)明治四十四年(一九一一年)のこの日、岡本綺堂の『佐渡の文覚』が東京俳優学校第一期生の卒業公演で上演された。綺堂、三十八歳であった。P.93

★六月二十四日 経驗を積んだひとは、物事がこうであるということを知っているが、なぜそうであるということを知らない。(ハイデッカー)一九二三年のこの日に、実存哲学の確立者ハイデッカーは自らが総長であるフライブルク大学で訓辞をした。四十三歳の時。P.93

★六月二十五日 経験は最良の教師であるが、授業料が高い。(ヘーゲル)一八二〇年のこの日に、四十九歳のヘーゲルは代表作『法の哲学』の序文を書いた。P.94 

★六月二十六日――国連憲章調印記念日

 苦辛世界秋風急<苦辛なる世界、秋風急なり>。(高野長英) 嘉永二年(一八四九年)のこの日に、蛮社の獄で入獄し、その後江戸の大火の際に脱走した高野長英(四十五歳)は、宇和島、鹿児島、伊豫を経て大阪に向う。先の言葉は、長英が獄中から郷里へ送った爪書の一節。P.94  

★六月二十七日 私は政治家ではなく、外交官だ。(吉田 茂)昭和二年(一九二七年)のこの日に、四十八歳の吉田茂は奉天領事として東方会議に出席した。P.94

★六月二十八日 人が自分より力弱い者をあわれむとか、恵むとかいうときに、少しばかりでも虚栄心を持たないだろうか。(宮本百合子)昭和十二年(一九三七年)のこの日に、宮本百合子は『愛怨歌』における映画的表現の問題を東京帝国大学新聞に発表。百合子三十八歳の時である。P.96

★六月二十九日 一日延ばしは時の盗人、明日は明日。(上田 敏)明治四十三年(一九一四年)のこの日に、上田敏(三十五歳)は京都帝国大学総長の推薦により文学博士の学位を授与された。P.95

★六月三十日一一夏越・大祓

 人生は後ろ向きのことしか理解できないが、前向きにしか生きてゆけない。(キェルケゴール)一八四九年のこの日に、キェルケゴールの代表作『死にいたる病』がラィツェル書店より発表された。三十六歳の時。P.82


★七月一日――全国安全週間

 人間というものの行くべき道は一つしかない。それは自分自身をいつわらぬ、堅固たる思想、確固ふ動の信念が何事をするにも一番大切である。人を頼り、人に期待することは一番いけない。(小林一三)大正二年(一九一三年)のこの日、小林は(宝塚歌劇団の前身)を組織した。四十歳の時。P.99

★七月二日 政治的自由は飢える大衆を満足させない。(レーニン)一九一六年のこの日、四十六歳のレーニンは『資本主義の最高段階としての帝国主義』(帝国主義論)を脱稿。出版社との仲介をしてくれたポクロフスキあてに送る。P.100

★七月三日 ヨーロッパとアジアは魂の二つの片割れである。(ロマン:ローラン)一九一五年のこの日に、ロマン・ローランは前年の十月から勤めていたジュネーヴ戦時俘虜事務局での仕事を終える。四十九歳。P.100

★七月四日 弱いのは、けっして恥ではない。その弱さに徹しえないのが恥だ。(島崎藤村)大正五年(一九一六年)のこの日、島崎藤村(四十四歳)は、三年ぶりにフランスから帰り神戸に上陸した。P.100 桑原武夫『一日一言』P.139 

★七月五日 敵手を否定せんとする戦いは冗談である。敵手の態度を否定せぬ怒りは洒落である。(阿部次郎)大正十一年(一九二二年)のこの日に、阿部次郎は、欧州留学の目的地であるベルリンに到着する。三十八歳の時であった。P.101 

★七月六日 ついに極を得たり、三百年来人類の求めし北極! またわが二十年来の夢の地、北極! (ペアリー) 一九〇八年のこの日、四十八歳のペアリーは北極点に達する探検にニューヨークから出発した。

★七月七日――七夕

 ふ可能という字は予の辞典にはない。(ナポレオン)一八〇七年のこの日に、普露連合軍を破ったナポレオンは露帝アレクサンドル一世とテルジッㇳの和約を結んだ。三十七歳。

★七月八日 厭世とは悲観より起こる感情であってはならない。かかる厭世観は快楽なるがゆえの楽天観と同じく浅薄なものである。(倉田百三)昭和八年(一九三三年)のこの日に、四十三歳の倉田百三は七月五日から朝日新聞に連載していた『自由主義に訴ふ』を終える。P.102 

★七月九日 一切の文学運動はただ一条の虚無へ達し、そこから脱出せんがための手段である。このため文学は表現することよりむしろ表現を無くすることに多いと言わねばならない。(横光利一)昭和十一年(一九三六年)もこの日、横光利一はパリでのポルザ万国知的協力委員会で<我等と日本>という講演を行う。三十八歳。P.103

★七月十日 真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人よって愛されることを自ら望む。(岩波茂雄)昭和二年(一九二七年)のこの日に、四十六歳の岩波茂雄は岩波文庫を発刊した。P.103

★七月十一日 昨年末ふたたび童子輩にまかり洋学に取掛り、……折々深川までも、麹町辺までも風塵暑雨を避けず通い候て、ふ明の所をさぐり申し候ように仕り、夜分も九ツ[十二時]を聞かずに臥せり候と申す事はこれなく候。(佐久間象山)元治元年(一八六四年)のこの日に、幕末の洋学・兵書の第一人者である佐久間は五十三歳で死没した。P.104

★七月十二日 一人当千と云ふ事は、一人して千人にはいかでか向ふべき。なれども、はかりごとをよくし、居ながら多勢を滅ぼすをな付けたるなり。(源 頼朝)建久二年(一一九二年)のこの日、四十五歳の源頼朝は征夷大将軍となり、鎌倉幕府を創設する。P.104

★七月十三日 善とは家畜の群のやうな人間と去就を同じうする道にすぎない。それを破ろうするのは悪だ。(森 鷗外)明治三十三年(一九〇〇年)のこの日に、鷗外(三十八歳)は福岡県企救郡教育委員会支部で<普通教育の軍人精神に及ぼす影響>と題して講演した。P.105

★七月十四日 大道行くべし、又何ぞ妨げん。(木戸孝允)明治四年(一八七一年)のこの日に、木戸孝允が、大久保利通らと主唱していた廃藩置県が実行に移された。孝允、三十八歳の時。P.105

★七月十五日――盂蘭盆・中元

多情仏心。(里見 弴)大正十三年(一九二四年)のこの日に、三十六歳の里見 弴は『陥没』(後に『凡夫妻』と改題)を毎日新聞に連載しはじめる。P.105 

★七月十六日――送り盆・やぶ入り

 それ国は法に依りて昌(さか)え、法は人に因りて貴(とうと)し。(日蓮)文応元年(一二六〇年)のこの日に、日蓮は『立正安国論』を作成して、時の執権であった北条時頼に提出した。三十八歳の時。P.106

★七月十七日 山妻(さんさい)・稚子(ちし)共に団欒す。座上の春風、吹けども寒からず。窓は曙(あか)く物を観る眼を窮めんと欲すれば、朝霞千里、長安(京都)に満つ。(林 羅山)寛永十年(一六三三年)のこの日に、林 羅山は先聖殿に参謁した将軍家光に対して、『尚書』を講じた。四十九歳の時である。P.106

★七月十八日 まことに一事をこととせざれば、一知に達することなし。(道元)寛元二年(一二四四年)のこの日に、道元は越前国大仏寺(永平寺)の建立にあたって招かれた。四十四歳の時。P.106

★七月十九日 かの二大士の重願、たヾ一仏めいを専念するにたれり。いまの行者、錯(あやまつ)て脇士に事(つか)ふることなかれ。ただちに本仏を仰ぐべし。(覚如)延慶二年(一三〇九年)のこの日、親鸞の第二の後継者・覚如は青蓮院門跡の裁決で唯善に勝った。三十八歳の時のこと。P.107

★七月二十日――物質的にも精神的にも、光をもとめることが生きとし生けるものの本質ではないでしょうか。(山本有三)昭和三年(一九二八年)のこの日から、山本有三(四十三歳)は長編第二作『波』を東京・大阪朝日新聞に執筆しはじめる。P.107

★七月二十一日 同じような羽毛の鳥はともに群れる。(バンーズ)一七九六年のこの日、『主としてスコットランド方言による詩集』で一躍天才詩人と認められたイギリスの詩人バンーズは死んだ。三十七歳。P.108

★七月二十二日 わがむくろ花もてうずめ、わがひつぎ赤旗もてつつめ、わがわかれの日ぞ。(鈴木茂三郎)昭和三年(一九二八年)のこの日、鈴木は新しく結成された無産大衆党の書記長に就任した。三十五歳であった。P.108

▼鈴木茂三郎すずきもさぶろう(1893―1970)

 政治家。明治26年2月7日愛知県に生まれ、苦学して早稲田(わせだ)大学専門部を卒業。1928年(昭和3)まで新聞記者として活躍する一方で、1920年(大正9)渡米し在米日本人社会主義者グループと交わり、革命ロシアに入って1922年の極東民族大会に参加した。同年帰国後、日本共産党に入党、無産政党組織化を推進するが、福本イズムと対立して労農派を形成、共同戦線党結成を目ざした。満州事変から日中戦争勃発(ぼっぱつ)の時期まで反戦・反ファッショの立場から運動を続けるが、1937年(昭和12)人民戦線事件で検挙された。第二次世界大戦後、日本社会党結成に参加し、1949~1950年(昭和24~25)書記長、1951年委員長に就任し<青年よ銃をとるな>と呼びかけた。社会党分裂に伴い引き続き1955年まで左派社会党委員長、統一後1960年3月まで委員長を務める。その後、社会主義文献・資料の収集に尽力し<社会文庫>を設立、日本近代文学館に寄贈した。昭和45年5月7日没。通称<モサさん>、筆めいは薄茂人、郷田要助、志村堅之、宇津木徹也、関新八、吉田繁二、安田求ほか。[荒川章二]『『鈴木茂三郎選集』全4巻(1970~1971・労働大学) ▽鈴木徹三編『鈴木茂三郎〈戦前編〉』(1982・日本社会党中央本部機関紙局)』

★七月二十三日 幕府の政治がよろしきを得ないので、上下万民が困っているのを、自分は無視できないので、事を起したのである。(由比正雪)慶應四年(一六五一年)のこの日、江戸初期の軍学者・由比正雪は謀反計画を密告された。二十六日には駿府茶屋の旅館で追手にかこまれ自殺。四十六歳。P.109

★七月二十四日 私の見るところ、人類の宿命的課題は、人間の攻撃ならびに自己破壊欲望による共同生活の妨害を文化の発展によって抑えうるか、またどの程度まで抑えうるかだと思われる。(フロイド)一八九五年のこの日、フロイドは自分自身の夢を最初に分析した。これは<イルマの注射の夢>として知られ、<夢判断>に収録されている。三十九歳の時のこと。P.109

★七月二十五日――土用の丑の日(このころ)

 おれは、なにも悪いことをしちゃいない!(オナシス)一九五三年のこの日、当時としては世界最大のタンカー"ディナ・オナシス"が進水した。オナシス四十七歳の時である。P.110 

▼アリストテレス・ソクラテス・オナシス(Αριστοτέλης Ωνάσης、Aristotle Socrates Onassis、1906年1月15日 - 1975年3月15日)はギリシャの実業家、ミリオネア。<20世紀最大の海運王>と言われた。

★七月二十六日 過失の弁解をすると、その過失を目立たせる。(シェクスピア)一六〇三年のこの日、三十八歳のシェクスピアは『ハムレット』の出版登録した。P.110

★七月二十七日 また人間の浮世(ふしよう)なる相をつらつら観ずるに、凡そはかなきものは、この世の始中終(しじゅうしゅう)まぼろしの如くなる一期(いちご)なり。(蓮如)文明三年(一四七一年)のこの日に、浄土真宗の祖といわれる蓮如は越前吉崎に道場を建てた。五十二歳ごろのことである。P.110

★七月二十八日 一日此鉗(かん)(注・やつとこ)無ければ其身を養う能わず。鮟鱇(あんこう)の生理は鉗に在るのみ。天禄と謂うべし。(最上徳内)寛政十年(一七九八年)のこの日、最上徳内(四十三歳はエトロフ島の岩地に<大日本恵登呂府、寛政十年七月、重蔵徳内以下十五人記めい>の標本を建てた。)P.111 

▼最上徳内(もがみとくない)[生]宝暦4(1754)? 羽前 [没]天保7(1836).9.5. 江戸

 江戸時代末期の蝦夷地探検家。な,常矩。農民の出身で幼時から数理計測を好んだ。のち蝦夷地におもむき,ロシア船の出没を知って松前藩主に防備の献策を行い,帰府して本多利明の塾で測量学,地理学などを学んだ。天明6 (1786) 年師に代って蝦夷地の踏査におもむき,蝦夷地から国後 (くなしり) 島,択捉 (えとろふ) 島にいたった。寛政4 (92) 年樺太 (サハリン島) 踏査を命じられクシュンナイにいたった。同年来航したロシア使節 A.ラクスマンと応接,のち功により士分となり箱館奉行支配役となった。蝦夷通として知られ,蝦夷と生活をともにし,その言語,風俗に精通していた。著書に地誌『蝦夷草紙』 (5巻5冊) ,『松前史略』 (2冊) などがある。P.111

★七月二十九日 (マルクスの墓前で)彼のなは幾世期にもわたってとどめられましょうし、その事業もまたしかりでありましょう。(エンゲルス)一八六九のこの日からエンゲルスはドイツ=フランス戦争の軍事的経過についての五十九編の論説をベル・メル・ガゼット紙に発表。四十九歳の時である。P.111 

★七月三十日 ときには、或は学術上(注・恩師緒方正規のこと)と意見の衝突をきたしたこともありまして、先生の尊厳をおかし奉つたこともございますが、これは学術上のことで、正々堂々のいわゆる君子の争いであります。(北里柴三郎)明治二十七年(一八九四年)のこの日、四十二歳の北里柴三郎が、ペスト菌を発見した。P.112

★七月三十一日 愛は総(す)べての存在を一(いつ)にす。愛は味ふべくして知るべからず。愛に住すれば人生に意義あり。愛を離るれば人生は無意義なり。(二葉亭四迷)明治三十九年(一九〇六年)のこの日に、二葉亭四迷は大阪朝日新聞に『樺太の森林』を掲載した。四十二歳の時である。P.112


★八月一日――八朔
 体験が人間に取って何よりの修養だと云ふことも言はれるがこれも当てにならない。むしろ書物や体験を絶えず片端から切り払ひ切り払ひするところに人の真実が研がれる。(徳田秋声)明治四十四年(一九一一年)のこの日に、四十一歳の徳田秋声はその代表作『黴』の連載を東京朝日新聞で始めた。P.113

★八月二日 今度自分が相続したのはみずから天下の政事を建て直すためであるから、これ迄の将軍と違って、ことによると軽々しく見えることもあるかもしれない。思いの外の事を言い出すかもしれない。(徳川吉宗)享保六年(一七二一年)のこの日に、徳川八代将軍吉宗は庶民の声を直接聞く目的で、目安箱を評定所前に置く。三十六歳の時。P.114

★八月三日 創造はむずかしく、模倣はやさしい。(コロンブス)一四九二年のこの日。コロンブスが第一回目の大西洋横断航海に出発した日。四十六歳の話だ。P.114

★八月四日 およそ特権というものの、また特権的地位というものの特性は、人間の知性と心情を殺してしまうことにある。政治的にせよ、経済的にせよ、特権を得た人間とは、知的にも道徳的にも堕落した人間である。(バークニン)一八六一年のこの日、四十七歳のバクーニンはシベリヤを脱出し、函館に入港した。P.115

★八月五日 神に命じられたことをなしたのみ。(ナイチンゲール)一八七〇年のこの日、イギリスの<傷病者救助国民協会>(後の英赤十字本社)のリンゼー会長にあてたナイチンゲールの"特志看護婦を要請する"訴えの手紙がタイムズに発表された。ナイチンゲール五十歳の時。P.115

★八月六日――広島原爆記念日

 新しい時代が始まる。しかし、日本にとって、本当に幸福な時代の始まりだろうか。(ハリス)安政三年(一八五六年)のこの日に、ハリスは下田玉泉寺に入り、アメリカ領事館とした。五十一歳。P.116

★八月七日 今後日本橋際南は本船町、品川町、裏河岸、西は本石町一丁目より同四丁目南側迄、東は伊勢町通り総て此辺之町々、向後火事之節、何方へ成とも飛火いたし焼立候はヾ、其一町可取上。(大岡忠相)享保五年(一七二〇年)のこの日、江戸町奉行大岡忠相は"いろは四十七組"の町火消を組織した。四十三歳の時。P.116

★八月八日 弱い者にたいしてかくも強い国家は、病気や死の原因が群っている暗い工場の中で弱い者を保護するには無力だろう。人間は人間を虐待し、生命の体液をすっかり絞り取るだろう。しかし、安穏無事な国家はいうのだ<自由を黙認しよう>(クレマンソー)一八九三年ベルサイユ平和会議議長を務めたクレマンソーが、国民会議で日和見主義を批判する演説を行った。五十二歳。P.117

★八月九日――長崎原爆記念日

 来た、見た、勝った。(シーザー)紀元前四十八年のこの日、シーザーは政敵ポンペィウスを破り、全イタリアの支配者となる。五十二歳。この時の元老院での報告がこの言葉である。P.117

★八月十日 猫の毛色にも虎のような斑(ぶち)があるも、虎に似ているというだけで、誰も虎とは思うまい。ところが人間には、浅知恵をはたらかす者のいて、さもおのれを虎のように飾りたてて、人を惑わす。(石田三成)慶長五年(一六〇〇年)のこの日に、石田三成(四十歳)は関ケ原の戦いのために、大垣に入った。P.118

★八月十一日 三千年に花さきみのる桃の園の ぬしをも越ん君のよはひは(柳沢𠮷保)元禄八年(一六九五年)のこの日、柳沢𠮷保の建議によって、慶長金銀を改鋳して質の悪い元禄金銀を発行、𠮷保、三十八歳。P.118

★八月十二日 たとへ日を累(かさ)ねての逗留なりとも、別るる期に別れざれば、大なる非(そら)ごとをとる事うたがひなし、心がけの第一なり。(小林一茶)文久九年(一八一二年)のこの日、漂泊俳人・小林一茶信濃国柏原を出発し江戸へ向かった。四十九歳の時。P.118

★八月十三日 〽春の夜の夢の浮橋とだえして 峯にわたるる積雲の空 (藤原定家)承元三年(一二〇九年)のこの日に、藤原定家は<近代秀歌>を選集し源実朝に贈った。四十七歳の時だった。P.119

★八月十四日 Be Gentleman<紳士たれ>(W・S・クラーク)明治九年(一八七六年)のこの日、札幌農学校(現・北海道大学)の開校式が行われた時、校則を決めるにあたって意見を求められたクラーク博士はただ一言 "Be Gentleman" とだけ言った。この時博士は四十九歳。P.119

★八月十五日――終戦記念日

 志なき人は如何ともすることなし。(荻生徂徠)享保元年(一七一六年)のこの日に、荻生徂徠(五十歳)は『太平策』を完成させた。『中年博物館』P.120

終戦へのみちのり~私の体験~

※TOKYO -- A government-sponsored memorial ceremony for the war dead was held on Aug. 15 on the 74th anniversary of the end of World War II, at the Nippon Budokan arena in Tokyo's Chiyoda Ward.

★八月十六日 〽海ならずただよふ水の底までも 清き心は月ぞてらさむ (菅原道真)昌泰三年(九〇〇年)のこの日、五十五歳の菅原道真は詩文集『菅原家文章』を醍醐天皇に献上した。P.120

意訳:海よりもさらに深く、底まで湛える(私の)清い心を、月は照らして明らかにしてくれるだろう。

 この歌は太宰府に左遷された菅原道真が、無実の罪であることをせめて月だけは明らかにしてくれるであろうと詠んだものです。大鏡(左大臣時平)に出ているとともに、新古今集雑歌下に<菅贈太政大臣>作として十二首採られているうちの一首として出ています。また、天皇に対する忠誠心を示す歌とも解釈できるので、戦時中は愛国百人一首にもとられています。現代人にはあまり知られていませんが、歴史的には有めいな歌のようです。

★八月十七日 愛を優しい力と見くびったところから生活の誤謬は始まる。(有島武郎)大正十一年(一九二二年)のこの日、人道主義の作家である有島武郎は、北海道の農場を小作人に無償解放した。この時、四十四歳。P.120

★八月十八日 理論は将校。実践は兵卒。(レオナルド・ダ・ヴィンチ)一五〇二年のこの日に、五十歳のレオナルド・ダ・ヴィンチはチェーザレ・ボルジアによって軍事技監に任命され、ロマーニャの城塞の視察を委嘱された。代表作<モナ・リザ>の原作にとりかかるのはこの翌年。『中年博物館』P.121

★八月十九日 人間は一本の葦(あし)にすぎない。自然のうちで最も弱い葦にすぎない。しかし、それは考える葦である。(パスカル)パスカルの原理を発見したフランスの数学者で思想家でもあるパスカルが、一六六二のこの日死没した。三十八歳であった。P.121

★八月二十日 何よりも自分自身に対して偉人に、聖者になることだ。(ボードレール)<一八五七年のこの日、ボードレールの代表作『悪の華』が刊行された。三十六歳の時。P.122

★八月二十一日 海を渡るそよ風よ、疲れた私の額を冷やしておくれ。高波よ、優しく私にささやいておくれ。(ヘンデル)一七四一年のこの日バロック音楽の巨匠ヘンデルは<メサイヤ>を作曲。五十五歳の時。上の言葉は歌劇<ジュリアス・シーザー>の第三幕第一場のなかから引用した。P.122

ヘンデル:(1685年~1759年)は、ドイツ出身で、主にイギリスで活躍し、イギリスに帰化した作曲家。英語では(George Frideric (Frederick) Handel

★八月二十二日 大衆は女のようなものだ。自分を支配してくれる者の出現を待っているだけで、自由をあたえても、とまどうだけだ。(ヒットラー)一九四二 年のこの日、ドイツ軍はソ連のスターリングラードに総攻撃を開始した。ヒットラー五十二歳の時。『中年博物館』P.122

★八月二十三日 われ以外皆師也。(吉川英治)吉川英治は昭和十年(一九三五年)この日に、代表作『宮本武蔵』の新聞連載を開始した。四十三歳。P.123

★八月二十四日 ふるさとは遠きにありて思ふもの、そして悲しくうたふもの。(室生犀星)大正十二年(一九二三)のこの日、三十五歳の室生犀星に長女朝子が誕生す。P.123

★八月二十五日 建築術は凝固した音楽である。(シェリング)一八二七年のこの日、ドイツの哲学者シェリングは学士院にてミュンヘン大学教授就任講演を行った。五十二歳。P.124

★八月二十六日 理性を有する動物は、すべて退屈するものだ。(プーシキン)一八三六年のこの日に、三十七歳のプーシキンは、論文『アレクサンドル・ラヂーシチェフ』の発表を禁止された。P.124 

★八月二十七日 唯一の豊饒な方法は反復によることです。ベートーベンは十年前に使ったものを繰り返します。バッハも同じです。(ガウディ)一八八八年のこの日、スペインの建築家ガウディの代表作<聖女テレサ学院>の建設が始まる。ガウディ、三十六歳。P.124

★八月二十八日 日本はマンジから千五百マイル離れた大海中にある島で、島民は白色の皮膚を持っている。そこには黄金が頗る豊富である。日本の王の宮殿の屋根は、金の延べ板で葺いてある。また、海には真珠が多く、死者の口に真珠をふくませて葬る習慣がある。(マルコ・ポーロ)一二九九年のこの日、マルコ・ポーロ(四十五歳)はジェノアの牢獄から解放された。『東方見聞録』はこの獄中で書かれたもの。P.124

★八月二十九日 鶏鳴に起きざれば暮に悔いあり。(楠木正成)元弘元年(一三三一年)のこの日に、楠木正成は、後醍醐天皇に召し出され、河内で兵を挙げた。三十七歳の時。P.125

参考:一三三三年鎌倉幕府滅亡(父:とうさんのささ刈る鎌は、倉になし)。

★八月三十日 <いまの若い者は>などと、口はばたきこと申すまじ。(山本五十六) 昭和十四年(一九三九)のこの日に、五十五歳の山本五十六は、聯合艦隊司令長官に就任した。P.126

★八月三十一日 花が花の本性を現じたる時最も美なるが如く、人間が人間の本性を現じたる時は美の頂上に達するものである。(西田幾多郎)明治四十三年(一九一〇)のこの日に、日本の代表的哲学者である西田幾多郎が京都大学の助教授に就任した。四十歳。P.126


★九月一日―防災の日

 嘘つきがいつでも必ず嘘をつくとしたら、それはすばらしいことである。(アラン)一九〇八年、フランスの評論家アランのルアン新聞での週一回の<コラム>は好評のため、二月十六日以降毎日連載となり、一九一四年のこの日までに三百九編に達した。アランこの時、四十六歳。P.127

★九月二日 芥川龍之介と私との交際は、この世の友だちの関係の中での、世にもふ思議な交誼の一つであった。(宇野浩二)昭和二年(一九二七年)のこの日に、宇野浩二は報知新聞社で『善主鬼、悪主鬼』の連載を始める。三十六歳。P.127

★九月三日 才能はひとりでに、培われ、性格は荒波にもまれてつくられる。(ゲーテ)一七八六年のこの日の朝、ゲーテは彼の転機ともなるイタリア旅行に出発した。三十七歳の時である。P.128

★九月四日 天才は一%のインスピレーションと九九%の発汗である。(エジソン)一八八二年のこの日、エジソンはニューヨークで自身の発明による電燈にスイッチを入れた。三十五歳。P.128

★九月五日 凡そ文学に於いて構造的美観を最も多量に持ち得るものは小説であると私は信じる。(谷崎潤一郎)大正十二年(一九二三年)のこの日に三十七歳の谷崎は、関東大震災から逃れ関西へ避難するために、滞在中の箱根小涌ホテルを立った。P.128

★九月六日 次の前進への歩みは、政治的な煽動や早まった実験からではなく、思想から生まれるものでなければならない。(ケインズ)一九二七年のこの日に四十三歳のケインズは、マンチェスター市公会堂で開かれたアメリカ向け綿糸業組合の会員数拡張のための大会に出席。綿業の危機を救うには組合への加入が必要と演説した。P.129

★九月七日 君(頼朝のこと)流人ㇳシテ豆州ニ坐(おわ)シ給フノコロ、吾ニ芳契アリトイへドモ、北条時宜(じぎ)ヲ怖(おそ)レ潜(ひそ)カニ引籠(こ)メラル、シカㇽニ猶君ニ和順シ、暗夜ヲ迷ヒ、深雨ヲ凌ギ、君ノ所ニ到ル。(北条政子)建仁三年(一二〇三)のこの日に、政子(四十六歳)は源頼家を出家させ、実朝を将軍職につける。P.129

★九月八日 管理を怠った国家の最初の万病薬は通貨のインフレであり、第二は戦争である。両者とも一時的繁栄をもたらし、かつ永久的な破壊をもたらす。だが、両者とも政治的、経済的オポチュニスㇳの避難所だ。(ヘミングウエイ)一九五二年のこの日、五十三歳のヘミングウエイは<老人と海>を出版した。P.130

★九月九日―重陽の節句

 農村は国家の真実の富の源泉である。(ケネー)一七四四年のこの日に、フランスの重商主義経済学者ケネー(五十歳)は、内科医の試験に合格。本格的に経済学の分野に足を踏み入れたのは五十三年から五十六年まで。P.130

▼重陽の節句

 九月九日は重陽の節句である。奇数を"陽"とする中国伝来の風習で、いわゆる五節句(一月七:人日、三月三日:上巳、五月五日:端午、七月七日:七夕、九月九日)の一つ。九と九が重なる、めでたい日として儀式や祝宴が行われた。 

 わが国に伝わったのは平安初期で、宮廷の儀式にはじまり以後、貴族や武家社会にこの風習がひろがった。菊の節句、菊の宴などの異称もある。

 儀式の内容は、時代によって、やや形をかえてはいるが、この日に菊の花弁を浮かべた酒を飲むと邪気をはらい、長寿を全うすることができるといった習慣も伝わっている。

★九月十日 苦痛はわれわれに新しい活力と經驗を与える。(蒋介石)一九四三年のこの日、五十五歳の蒋介石は中国国民政府(重慶政府)首席に就任した。P.131

 1907年(明治40年)、渡日し東京振武学校へ留学する。

 1909年、大日本帝国陸軍に勤務。陸軍十三師団の高田野砲兵第19連隊の士官候補生( - 1911年)

★九月十一日――二百十日(このころ)

 人はパンのみに生くるものに非ず、されどまたパンなくして人は生くるものに非ず。(河上 肇)大正五年(一九一六年)のこの日に、日本マルクス主義経済学の開祖・河上肇は大阪朝日新聞で『貧乏物語』の連載を始めた。三十七歳の時。『中年博物館』P.131 

★九月十二日 上よりの迫害を受けることによって、真の信仰が顕れる。(日蓮)文永八年(一二七一年)のこの日、日蓮は幕府によって、鎌倉竜ノ口で首を切られそうになったが、あやうくまぬがれ佐渡へ流された。四十九歳の時。P.131

★九月十三日――司法保護記念日

 この探検隊の主目的は、南極点に到達し、祖国大英国のために、偉業達成の栄誉を担うことにある。(スコット)一九〇九年のこの日に、スコットを隊長とする英国南極探検隊はヴィクトリア街に事務所を開いた。スコット四十歳。P.132

★九月十四日 ふしぎな運命でわたしは幼いころ米国に参りました。米国の教育を受けました。帰朝したならば――これという才能もありませんが――日本の女子教育に尽くしたい、自分の学んだものを日本の婦人にもわかちあいたいという考えで帰りました。(津田梅子)明治三十三年(一九〇〇年)のこの日、津田梅子(三十九歳)は女子英語塾(後の津田塾)を開く。P.132

★九月十五日―敬老の日・老人福祉週間

 和を以て貴しと為し、忤(さか)らうことなきを宗(むね)となせ。(聖徳太子)推古天皇(六一三年)のこの日に、聖徳太子は<維摩経疎(ゆいまきょう)>を完成した。三十九歳ごろのこと。P.133

★九月十六日 勇断なき人は事を為すこと能わず。(島津斉彬)安政四年(一八五七年)のこの日に、薩摩藩主島津斉彬は試験工場にやってきて、研究中の写真機で自分を撮影させる。四十七歳。P.133

★九月十七日 幸福人とは、過去の自分の生涯から満足だけを記憶している人々であり、ふ幸人とは、その反対を記憶している人々である。(萩原朔太郎)大正十四年(一九二五年)は銀座の風月堂で行われた『純情小曲集』の出版記念会に出席。P.134

★九月十八日 戦いにおいて、一人が千に打ち勝つこともある。しかし、自己に打ち克つ者こそ、最も偉大な勝利者である。(ネール)一九三四のこの日にガンジーが国民会議を引退したので、ネールは最高指導者となった。四十四歳。P.134

★九月十九日 悪を思う者に禍いあれ。(エドワード三世)一三五六年のこの日、百年戦争のポワティエの戦いで、英軍は仏軍を大破。時のイギリス王エドワード三世は四十四であった。P.135

★九月二十日――動物愛護週間

 われわれは自由な国民だ。もはや奴隷ではない。われわれは道を歩くとき、胸をはらなければならない。(エンクルマ)一九五六年のこの日、エンクルマは全国の放送を通じて<一九五七年三月六日、ガーナ独立の日>を黄金海岸の民衆に知らせた。四十七歳。P.135

▼クワメ・エンクルマ(Kwame Nkrumah、本めい:Francis Nwia Kofia Nkrumah、(1909~1972)は、政治家。ガーナ初代大統領。ガーナの独立運動を指揮し、ガーナとギニアから成るアフリカ諸国連合を樹立してアフリカの独立運動の父といわれる。

★九月二十一日 他人の悪を能(よ)くする者は、己が悪これを見ず。(足利尊氏)文和二年(一三五三年)のこの日、足利尊氏は北朝の後光厳天皇を奉じて入京した、四十八歳の時。P.136 

 北朝・南朝についての歴史的評価を思う。

★九月二十二日 西夷ども物理の学専らに仕り候故、天地四方益々審(つまび)らかになり、一国を以て天下と仕らう、天下を以て天下と仕り候。(渡辺崋山)天保二年(一八三一年)のこの日、三河田原藩の藩士であった洋学者・渡辺崋山(三十七歳)は、相模国小園村にまち女(元田原藩主の側室で彼の恩人)を訪ねた。P.136

★九月二十三日――秋分の日(このころ)

 アジア・アフリカの民族主義を理解せよ。これを理解せねば、どんなに考えめぐらしたところで、奔流のように言葉をあびせたところで、ドルをナイヤガラの滝のようにそそいだところで、悲嘆と幻滅以外のなにものも現れまい。(スカルノ)一九四五年のこの日に、スカルノはインドネシア大頭領に就任。四十四歳の時であった。P.137

★九月二十四日――結核予防週間。

 箭(や)を放たむ度に、この矢ぞ最後、もし射はづしなば、二の矢を取らぬさきに敵にも射取られるべき身なりと、思いこめて射べきなり。(北条泰時)貞永元年(一二三二年)のこの日に、北条泰時は<御成敗式目五十一カ条>を完成させた。四十九歳 P.137

★九月二十五日 私の歴史文学論は、形式化された民族主義や国家主義を根底として生まれたものではなく、人間の運命を追窮することだけに目的をもっている。(尾崎士郎)昭和十三年(一九三八年)のこの日、四十歳の尾崎士郎は四月二十二日から都新聞で連載していた『石田三成』を終えた。P.138

★九月二十六日 人は誰でも、その父母に優しくしなければならない。母は苦しんでみごもり、また苦しんで産んでくれた。子をみごもって乳離れさせるまでには三十ヵ月もかかる。(マホメット)六二二年のこの日、九十二歳のマホメットはメッカを脱出してメジナへ移った。これをヘジラ(移転)という。P.138

★九月二十七日 過去二千年の間は、戦争、流血、さらには人類の手と頭脳が創り出だしたものの絶滅のために費やされた。だから次の二千年は、人類の創造のため、世界中の人びとの生活向上のため、人びとの間のよりよい関係実現のために利用しなければならない。(チトー)一九四七年のこの日に行われたチトーの演説によって、ユーゴスラヴィアはスターリンとの対立。抗争を開始チトー五十五歳。P.139

★九月二十八日 私は運命とともに歩んでいるかのように感じた。これまでの生涯は、この時(首相になる)のための準備に過ぎなかったと感じた。(チャーチル)一九一四年のこの日、チャーチルはドイツ軍がアントワープを攻撃し始めた時に、海軍分艦隊を引率して救援にいく。四十歳。P.139

★九月二十九日 壮烈な死、姑息な生。生を貪り死を怕(おそ)るより、むしろ死を重んじ生を軽んぜん!(周 恩来)一九四〇年のこの日に、四十二歳の周恩来は重慶で<国際状況と中国の抗戦>と題して演説、国際的に大反響を呼ぶ。P.140

★九月三十日 正直は最良の外交政策である。(ビスマルク)一八六二年のこの日に、四十七歳のビスマルクはプロシア首相に任命され、議会でかの有めいな<鉄血政策>を明らかにした。P.140


★十月一日――法の日

 知識をえたいならば、現実を変革する実践に参加しなければならない。梨のうまい味を知りたいならば、自分でそれをたべて、梨を変革しなければならない。(毛沢東) 一九四九年のこの日、毛沢東の指導によって、中華人民共和国が成立した。毛沢東五十五歳の秋のこと。P.143

★十月二日 文武二道の侍、まれなる間、分別、位よき者を見立て聞き立て、かやうの者は、新座にても情をかけられ、召仕、もっともに候。(前田利家)天正九年(一五八一年)のこの日に、四十三歳の前田利家は織田信長から能登国を与えられた。P.143

★十月三日 その言行、おのれより賢(まさ)れる者は、以て師とすべし。何ぞ常の師あらんや。天地これ師なり。事実これ師なり。(山鹿素行)寛文六年(一六六六年)のこの日、江戸前期の代表的儒学者・山鹿素行は。幕府の官学である朱子学を批判したことなどによって赤穂に追放された。この時、四十四歳。P.144

★十月四日 臨機応変の妙用は無念無想の底より来る。(山岡鉄舟)明治五年(一八七二年)のこの日、山岡鉄舟(三十六歳)宮中の侍従番長を命ぜられた。P.144

★十月五日 仕事には本すじの仕事と、本すじでない仕事とがある。本すじの仕事とは根のある仕事、本すじでない仕事とは器用だけの仕事のことだ。(高村光太郎)昭和十三年(一九三八年)のこの日、妻・智恵子がゼームス坂病院で死没する。光太郎、五十五歳の時。P.145

★十月六日 幸福なりし時代を回想するより大なる悲しみはなし。(ダンテ)一三〇六年のこの日、イタリアルネサンス最大の詩人ダンテは、ルニジアーナに移り、マラスピーナ侯の任命をされたが、代表作、『神曲』の執筆にかかったのはこのころで四十一歳の時。P.145

★十月七日――国立公園制定日

 怒りを敵と思へ。(徳川家康)天正十二年(一五八四年)のこの日に、徳川家康は右近衛権中将になった。四十二歳。P.146

★十月八日 恋愛とスキャンダルは最上の楽しいサロンの話題である。(フィ―ルディング)一七五四年のこの日、一八世紀の代表的小説『トム・ジョーンズ』を書いた英国の作家フィ―ルディングが死没する。四十七歳。P.146

参考:フィールディングの小説。1749年刊。全18巻。捨子で,だらしないが快活な好漢トムが,さまざまな失敗を重ねたあと,素性がわかり,恋人ソファイアと結ばれる物語。明るいユーモアと力強い人間観察にみちた傑作。

★十月九日――寒露(このころ)

 酒樽の口栓を抜いて飲むのはいくら飲んでもよいが、底のほうに小さな穴があって酒がもれてなくなることに気のつかぬヤツはバカだ。会社事業の経費などでも同じことだ。(岩崎弥太郎)明治三年(一八七〇年)岩崎弥太郎三十六歳のこの日、土佐開成商社を創立し、海運業者としてのスタートを切った。P.146

★十月十日――体育の日

 〽とをかりし花の木(こ)ずえも匂ふなり 木枝にしられぬ風やふくらん (伊達政宗)慶長十九年(一六一四年)のこの日、政宗は大阪冬の陣にむけ仙台を出発。四十七歳。P.147

★十月十一日 遂に私の一生の夢を実現することができた。その夢とは、私があれ程までにも深い興味を抱いた事件の舞台と、英雄達の冒険によって少年の私を或は恍惚たらしめ或は慰めた彼等の祖国とを、思いのままに時間をかけて訪れたいということであった。(シュリーマン)一八七一年のこの日に、エーゲ文明の発見者シュリーマンはヒッサ―リック丘における四大発掘のうちの第一期を始める。四十九歳であった。P.147

★十月十二日 誰をも恐れない者は、誰からもこわがれている者に劣らず強い。(シラー)一八〇一年のこの日、ドイツ古典主義文学の大家シラーの代表作『オルレアンの処女』が出版された。シラー四十二歳の時。P.148

★十月十三日 ミネルバの梟(ふくろう)は夕暮れになってはじめて飛翔する。(ヘーゲル)一八〇七年のこの日、ヘーゲルは、代表作『精神の現象学』を書き上げたといわれる。P.148

★十月十四日 センチメンタリズムということは、かうありたい、ああありたいと思ふ願ひを誇張して、理想的から空想的になって行った形を言うのである。(田山花袋)明治四十一年(一九〇八年)のこの日、自然主義文学作家・田山花袋は、日本新聞に『妻』の連載を始めた。三十七歳。P.149

★十月十五日 われわれは、われわれの歴史のなかにわれわれの未来が横たはってゐるといふことを本能的に知る。(岡倉天心)明治三十一年(一八九八年)のこの日、近代美術の父といわれる岡倉天心は、横山大観らと日本美術院を創立した。三十五歳の時。P.149

★十月十六日 わたしは退屈することが何より恐いのです。(マリー・アントワネット)一七九三年のこの日に、三十八歳のアントワネットはフランス革命により処刑された。P.149

★十月十七日――貯蓄の日

 できることといえば、うめき、悩み、そして絶望をピアノにたたけつけるだけだ。神よ、大地を揺り動かせたまえ。(ショパン)一八四九年のこの日、ピアノの詩人といわれたショパンがパリで死す。三十九歳であった。P.150

★十月十八日 生まれながら野心深く自負心強きひとは、他人によって指図されるゆえんを、己れみずからその必要を感ずるにいたるまでは、けっして自覚することはない。(ルイ十四世)一六八五年のこの日に、ブルボン朝の全盛期をつくったルイ十四世は<ナントの勅令>を廃止する。四十七歳のこと。P.150

★十月十九日 何ということでしょう。私たちは大ナポレオンをもったという理由で、小ナポレオンをもたなくてはならないのでしょうか。(ユーゴ―)一八四九年のこの日に、ヴィクトル・ユーゴー(四十七歳)はルイ・ナポレオンのローマ革命干渉政策反対の演説を行った。P.151

★十月二十日―新聞週間

 梅が香にのっと日の出る山路かな (松尾芭蕉

 元禄六年(一六九三年)のこの日に、芭蕉は野波らと深川に会し『炭俵』の歌仙を巻いた。五十歳の時。P.151

★十月二十一日 我輩は学者でも天才でもない。ただの平均的人間である。(大隈重信

 明治十五年(一八八二年)のこの日に、大隈重信は後の早稲田大学になる東京専門学校を創立する。四十四歳。P.151

★十月二十二日 愛するメ―ジ―(夫人)よ、私の研究は非常に困難であるけれども、この機会に完成したいと努力しています。私は黄熱の病原菌を発見したと確信しています。(野口英世)昭和二年(一九二七年)のこの日、野口英世(四十九歳)は黄熱病研究のために、アフリカへ出発した。P.152

★十月二十三日―電信電話記念日 

 〽うれしさを昔は袖につゝみけり こよひは身にもあまりぬるかな (香川景樹)

 文政元年(一八一八年)の二月十四日、のちに桂園派を立てた四十九歳の香川景樹は、門人・河野重就らを従えてて江戸遊説に出発。三月十日着、そして江戸を離れたのが十月のこの日であった。P.152

★十月二十四日―国連の日 

 〽生駒山まぢかき春の眺さえ かぐわふほどの花ざかりかな (三好長慶)永禄三年(一五六〇年)のこの日に、戦国武将・三好長慶は、安見直政の居城の飯盛城を落とす。三十八歳の時である。P.153

★十月二十五日 われわれは父たちより立派にたたかっている。われわれの子供たちは、さらに立派にたたかい、勝利をおさめるであろう。(レーニン) ボルシェヴィキ党(共産党)の基礎を築き上げたレーニン(四十七歳)は、一九一七年のこの日、ロシア社会主義革命を指導し、成功させた。P.153

★十月二十六日――全国火災予防週間

 人間の過去において栄光であった勇気、めい誉、希望、誇り、憐憫、同情、犠牲を思いおこさせることより、元気づけ、人間が耐え忍んでゆくのを助けるのが文学者の特権である。(フォ―クナー)

 一九三六年のこの日、フォ―クナーは黒人問題を抱えるアメリカ南部の苦悩を扱った代表作『アプサロム・アプロサム!』を出版する。この時、三十九歳。P.154

★十月二十七日――読書週間

 けだし人間は平等な状態において創造されず、あるものらに対して永遠の生命が、あるものにたいして永遠の定罪があらかじめさだめられている。(カルビン)一五五三年のこの日、フランスの宗教改革者カルビンは自説を批判した生理学者セルベ―ㇳをジュネーブで火刑に処す。四十四歳。P.154

★十月二十八日 〽春の花にねぶりし夢は醒めしかど 今年も半ば過ぎにけるかな(斉藤茂吉)大正十年(一九二一年)のこの日に、斉藤茂吉は熱田丸で欧州旅行へ出発する三十九歳。P.155

★十月二十九日 私は孤独で自由だ。だが、自由はどこかしら死に似ている。(サルトル)一九四六年のこの日、四十二歳のサルトルは<実存主義はヒューマニズムなり>を講演。以後、実存主義が異常なブームになった。P.155

★十月三十日 人皆政党ノ一利一害アルコトヲ而シテ害ヲ避ケ利ヲ収ムルノ道ヲ知ラズ。(井上 毅)明治二十三年(一八九〇年)のこの日に、教育勅語が発布された。これを作成したのは元田 永孚(もとだながさね)と井上毅である。井上はこの時、四十六歳。P.156

★十月三十一日 国際主義は上流階級のみがあたえうる贅沢であり、庶民は望みもなく彼らの故郷にしばりつけられている。(ムッソリーニ)一九二二年のこの日に、ムッソリーニは組閣し、政権を奪取する。三十九歳の時のこと。P.156


★十一月一日――灯台記念日 

 年中休暇を楽しむとしたら、気晴しも仕事と同じように退屈なものとなろう、(シェクスピア)一六〇四年のこの日、代表作『オセロ』が宮廷で上演された。シェクスピア四十歳。P.157

★十一月二日 一人や二人の商業力だと僅かなそんをしても、たちまちその財産が消えてしまうことになるが、大勢の者が手を組んでおれば、たとえそんをしてもめいめいがその財産を失うようなことにはならない。(三野村利左衛門)慶應二年(一八六六年)のこの日、三野村は御用所限り通勤支配挌として三井入りする。時に四十五歳。三野村は幕末から維新にかけ危急存亡の折りにある三井家を救った功労者。P.157

★十一月三日――文化の日

 私のノーベル賞受賞が日本人の自信回復に役立つなら嬉しい。(湯川秀樹)昭和二十四年(一九四九年)のこの日、湯川秀樹(四十二歳)は日本人ではじめてノーベル賞を授与されることが発表された。P.158

★十一月四日――ユネスコ憲章記念日

 忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず。(平 重盛)(一一七三年)のこの日、三十五歳の平重盛は、興福寺衆徒の入京を宇治で防いだ。P.158

★十一月五日 実験室における偉大な科学者の生活というものは、物に対する執拗な闘争です。(キューリ夫人) 一九〇六年のこの日に、キューリ夫人は亡き夫がソルボンヌ大学で担当していた講座の第一回目の講義を行う。三十九歳。P.158

★十一月六日 四十歳をすぎた人間は、自分の顔に責任をもたねばならない。(リンカーン)一八六〇年のこの日に、四十一歳のリンカーンはアメリカ第十六代大統領に選ばれる。P.159

★十一月七日 身重くし心長くしてあだ疎かに振舞はず、小敵なりとも侮る心なくて、もの騒がしからず計らひ、たばかりするが、能きことにてあるぞ。(源 頼朝)建久元年(一一九〇年)この日に、源頼朝は入京して六波羅の新邸に入る。四十三歳。P.159

★十一月八日――立冬(このころ)

 この国は山河がとりまいて自然の城を形づくっている。このかたちによって山背国を改めて山城国とし、万民が平和に暮らせるように都を平安京となづけよう。(桓武天皇)延暦三年(七八四年)のこの日に、桓武天皇(四十七歳)は人心一新のため、平城京から長岡京に遷都した。しかし十年足らずで長岡京から平安京に都を移した。P.160

★十一月九日 保守主義者は、完全な二本の立派な足をもちながら、歩くことを学ぼうと断じてしないひとである。(フランクリン・ルーズベルト) 一九三三年のこの日、四十八歳のフランクリン・ルーズベルトはアメリカ合衆国、第三十二代大統領にえらばれた。P.160

★十一月十日 一昨日の戦死者のねむる フランスの野の上を幾千羽 旋回せよ やよ鳥 冬を 道ゆく人おのがじし思い新たならしめよ! (ランボー)一八九一年のこの日、フランスの象徴派の天才的詩人ランボーは、過酷な未開地での生活で病を得て死没する。三十七歳。P.161

★十一月十一日――世界平和記念日

 魚を得るは網の一目によれど、衆目の力なければ、これを得ること難し。(北畠親房)興国四年(一三四三年)のこの日に、常陸の国・大宝両城が陥落し、親房は吉野へ落ちる。五十歳である。P.161

★十一月十二日 俗物ほど強い敵はない。(佐藤春夫)昭和九年(一九三四年)の十一月十一日とこの日と十三、十四日にわたり、四十二歳の佐藤春夫は吉川英治らとともに陸軍特別大演習を参観した。P.162

★十一月十三日 私は蒸気船が石炭を要するように、一日に二~三立方フィートの新しい考えを必要とする。(スタンダール)一八三〇年のこの日に、スタンダールの代表作『赤と黒』が出版された。スタンダール四十七歳のときである。P.162

★十一月十四日 私の詩が色彩の強い印象の油絵ならば私の歌はその裏面にかすかに動いているテレピン油のしめりであらねばならぬ。(北原白秋)昭和十年(一九三五年)のこの日に、白秋生誕五十年記念<白秋を歌う夕>が日比谷公会堂で開かれた。P.163

★十一月十五日――七五三祝い

 何より自分自身に対して偉人に、聖者になることだ。(ボードレール)一八六〇年のこの日に、ボードレールはその著『悪の華』に対しての補助金五百フランを受けとった。三十九歳。P.163

★十一月十六日 戦争は他の手段をもってする政治の継続である。(クラウゼビッツ)一八三一年のこの日、<戦争論>のめい著を残してドイツの軍人クラウゼビッツが死亡した。P.163

★十一月十七日 日本国にて将来其ふ羈独立を保んとせば、政府必ず速に海軍を取建て、兵卒と国軍を編制することを注意すべし(シーボルト)一八四二年のこの日に、シーボルトはオランダ国王よりヨンクヘール爵位を受けた。四十六歳の時。P.164

★十一月十八日 われわれの忘却してしまったものこそ、或る存在をいちばん正しくわれわれに想起させるものである。(プルースト)一九二三年のこの日。プルースト(四十二歳)は、その著『失われた時を求めて』の抜粋を<ㇾ・ザナル・ポリティック・エ・リテレール>誌にのせる。P.164

★十一月十九日 知性は、方法や道具に対しては鋭い鑑識眼をもっていますが、目的や価値については盲目です。(アインシュタイン)一九三二年のこの日、アインシュタインの日本で初めての講演が、慶応大学で行われた。アインシュタイン四十三歳の時。P.165

★十一月二十日 自なくして他なく、他なくして自なきは、全なくして個なく、個なくて全なきが如くである。(安べ能成)大正十四年(一九二五年)のこの日に、安べ能成は欧州の旅を終え、ドイツのライプチヒをたった。四十二歳。P.165

★十一月二十一日 人への親切、世話は、慰みしていたい。義務としては、したくない。(菊地 寛)昭和三年(一九二八年)のこの日、菊地 寛は欧米漫遊の旅に出た。三十七歳の時。P.166

★十一月二十二日 古を是とし今を非とするといふを以て、其ノ罪を得るもの多きがゆえに、世の諸官多くは古をのみ論じて其の詞今に及ばず。(新井白石)宝永六年(一七〇九年)のこの日に、新井白石(四十一歳)は鎖国の日本に入ってきたイタリア人宣教師シドッチを尋問。この尋問で聞き出したことを後に『西洋紀文』にまとめる。P.166

★十一月二十三日――勤労感謝の日

 どんな思想にせよ暴力で圧迫するのは絶対にいけない。暴力を用いるということは、思想的にすでに負けているということだ。(吉野作造)大正七年(一九一八年)のこの日、四十歳の吉野作造は立会演説会を行なったが、聴衆は興奮し<吉野博士万歳>、<デモクラシー万歳>と叫んだ。P.166 

★十一月二十四日 人口は幾何級数という比例で増加するが、食物は等差級数でしか増加しない。そのため食物の奪い合いとなり、強者は勝って生き、弱者は敗れて滅びる。(ダ―ウィン)一八五九年のこの日に、ダーウィンの『種の起源』が出版される。ダ―ウィン五十歳の時。P.167

★十一月二十五日 軽蔑とは、女の男に対する永遠の批判である。(三島由紀夫)昭和四十五年(一九七〇年)のこの日に、三島由紀夫が割腹自殺する。四十五歳。P.168

★十一月二十六日――全国火災予防運動

★山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し。もし己が腹の寇(ぞく)を掃討して、よく廓清平定の実をあげるならば、これまことに大丈夫ふ世出の偉業である。(王陽明)一五〇九年のこの日、陽明学の始祖・王陽明は江西省吉安府・廬陵県の知事(県知事)を拝命した。三十七歳。P.168

★十一月二十七日 神の教会を解散するためにエルサレムに行くならば、その旅はすべてのつぐないの業とみなされる。(ウルバヌス二世)一〇九五年のこの日、第一次十字軍を結成したウルバヌス二世は、フランスのクレルモンで一大会議を開き、聖地回復の"十字軍"の必要を説く。五十二歳ころのこと。P.169

★十一月二十八日 私は死者の記念碑よりも生者の胃のほうに気をつかう……死者に尊敬を示すくらいなら、苦境に陥った生者を助けるほうがよいと生来考えている。死者はせっかく建ててもらった像にたいしても無感動だからだ。(ノーベル)一八八七年のこの日、ノーベルは無煙に近い火薬・ノーベル火薬の特許をイギリスでとった。五十四歳。この特許により彼は、火薬生産で富を得る。それが、のちにノーベル賞の基金となった。P.169

★十一月二十九日 労働大衆は政治の面ばかりでなく、文化面でもひじょうに積極性を出した。われわれのところでは、国民教育ソビエトが極めて迅速につくられ、ヴィボルグ地区のすべての工場の代表が参加した。(クルーブスカヤ)一九〇四年のこの日、レーニンの夫人クルーブスカヤ(三十五歳)は、レーニンの指導のもとに開催されたボルシェビキ集会に参加した。P.170

★十一月三十日 すべての女性は、彼女の母親に似るようになる。それが女の悲劇だ。男は彼の母親のままにならない。それが男の悲劇だ。(ワイルド)一九〇〇年のこの日、イギリスの世紀末的耽美派詩人・小説家・劇作家のワイルドは、四十三歳で死没した。P.170


★十二月一日――映画の日 

 恋愛の学問のすべて言いつくされているこのばら物語は終わった。ヒックとヘックが一緒に結ばれるとき、自然はほほえむように思われる。(チョ―サー) 一三七二年のこの日、詩人チョ―サーはイタリア旅行に出発した。この言葉は『ばら物語』の最後の一節。P.171

★十二月二日――防火デー 

 わたしの滅びの仕度は出来た。祖先伝来であって、そしてわたし一代で使ひつくすべきあらゆる才能とあらゆる教養とに点火する時が来た。(岡本かの子) 昭和四年(一九二九年)のこの日に、岡本かの子(四十歳)はヨーロッパ旅行のために東京駅を出発した。P.171

★十二月三日 必要はしばしば天才を刺激する。(バルザック) 一八四四年のこの日に、近代リアリズム文学の父バルザックは、代表作の一つ『農民』を発表する。四十五歳の時。P.172

★十二月四日――人権週間 

 経済的に正しいことは道徳的にも正しい。(ヘンリー・フォード) 一九一五年のこの日にフォードが計画した平和船が、著めいな平和主義者などをのせて、オランダに向けて出発。フォード五十一歳。P.172

★十二月五日 自然に人情は露ほどもない。之に抵抗するものは容赦なく蹴飛ばされる。之に順うものは恩恵に浴する。(長岡半太郎)明治三十六年(一九〇三年)のこの日、物理学者・長岡半太郎(三十八歳)世界的業績である<土星型原子模型>の理論を発表。P.172

★十二月六日 〽春すぎて夏きたらし白妙の 衣ほしたり天の香久山(持統天皇) 朱鳥九年(六九四年)のこの日に、持統天皇は都を藤原宮に移した。四十八歳。P.173

★十二月七日 私は、パリの二枚の敷石のあいだに生えた雑草のように、その養液を失わなかった。(ミシュレ) 一八四七年のこの日、<フランス革命史>で知られるフランスの大歴史家ミシュレ(四十九歳)は、ポーランド独立運動を弁護する手紙をプロシア王に書いた。P.173

★十二月八日 革命は、あれこれの<指導者>による魔術ではない……革命は多種多様な事情と多面的な要素の総和であり、それらが合わさって、頑固で根深い経済的原因による危機という特定の歴史的瞬間において、一つの解決をもたらすのである。(グラムシ) 一九二五年のこの日、イタリアの共産主義者グラムシ(三十五歳)が逮捕された。以降、十年余の獄中生活を送る。P.174

★十二月九日 私は広い東京に、公園のふえる事を希ふものであるが、願はくば庭園の美しさに縁のない、ただの雑草の茂るに任せた公園を欲しいと思ふ。そこで、市民に草を踏ませたい。(水上滝太郎) 大正十四年(一九二五年)のこの日、三田文学復活を兼ねて水曜会開かる。三田文学の精神的主幹・水上滝太郎。三十八歳。『中年博物館』P.174

★十二月十日 力が容易にめい声をかちうるものであって、めい声が力をかちうるものではない。(マキャベリ) 一五一三年のこの日付のフランチェスコ゚・ヴェッㇳ―リ宛ての書簡で、マキャベリ(四十四歳)は『君主政について』と題する小冊子の完成を伝えた。P.175

★十二月十一日 オオカミとしての人間、オオカミの社会は別種のものにとって代わりつつある。(ゲバラ) 一九六四年のこの日、ゲバラは国連十九回総会で、キュバー代表として有めいな演説を行い国際的反響を生む。三十五歳の時。P.175

★十二月十二日 それ商徳とも称すべきは機敏と信用と耐忍との三の者なり。(中江兆民) 明治三十四年(一九一四年)のこの日に、<東洋のルソー>といわれた中江兆民は五十四歳で死没した。P.176

★十二月十三日 ふ益に手間掛りたる高値の菓子類・料理は、向後無用の事。(水野忠邦) 天保十二年(一八四一年)のこの日、老中水野忠邦(四十七歳)は天保の改革で株仲間解散令をだす。P.176

★十二月十四日 すべての未知の区域を探検すること、それは全人類の勇健の気分を強めるものである。(アムンゼン) 一九一二年のこの日、ノルウェーの探検家アムンゼンは、ついに南極点に到達する。P.176

★十二月十五日――年賀はがき受付開始

 人の命はわずかの間なれば、むさき心底、ゆめゆめ、あるべからず。(北条氏綱) 大永六年(一五二六年)のこの日に、北条氏綱は里見実堯と鎌倉で戦った。三十九歳。P.177

★十二月十六日 抽象的思考は幽霊の如し。(正宗白鳥)大正五年(一九一六年)のこの日、自然主義作家・正宗白鳥は『波の上』を東京朝日新聞に連載しはじめる。三十八歳の時。P.177

★十二月十七日 ここ四年のうち、人間が飛べるなんて無理だ。(ウィルバー・ライト)一九〇三年のこの日、アメリカ・ノースカロナイナ州キルデビルヒルの砂場でライト兄弟が人類史上初の飛行に成功。兄ウィルバー・ライトは三十六歳であった。P.177

★十二月十八日 病者百出は今日政治上の病気なり。薬では駄目。法律では駄目。ただ一つ精神療法あるのみ。(田中正造)明治二十四年(一八九一年)のこの日に、田中正造(五十歳)は足尾鉱毒問題を初めて衆議院で提起した。P.178

★十二月十九日 史伝を書こうというわたしの癖は老いても癒らない。わたしは閑居して資料を調べつづけ、むかしに因循して情意に牽かれる。(大江 匡房)永保三年(一〇八三年)のこの日に平安後期の代表的学者・大江 匡房は、修理左官城使となった。四十二歳の時。P.178 

★十二月二十日 私たちのふ安は、何一つ自発的に働きかけるようなものを持たないで、ただただ受身の位置にあることを暗示せらるところからくる。鋭いと思う言説の多くに接することはできても、真に私たちの心を動かしてくれるような、強い総合の力に遭遇しないところからくる。(島崎藤村)明治四十五年(一九一二年)のこの日、藤村は『千曲川のスケッチ』を出版した。四十一歳。P.179

★十二月二十一日 めぐみのある君に仕えし甲斐ありて 雪のふる道今ぞふみなん(柳沢吉保)宝永元年(一七〇四年)のこの日に、元禄期に権勢をふるった柳沢吉保は、長年の忠勤により加禄三万九千石、甲斐・駿河で計十五万千二百石を賜る。四十六歳。P.179

★十二月二十二日――冬至

 酔うて枕す窈窕(ようちょう)たる美人の膝、さめては握る堂堂たる天下の権。(伊藤博文) 明治十八年(一八八五年)のこの日、太政官制を廃止し内閣制制定、第一次伊藤内閣成立。伊藤、四十四歳の時。P.180

★十二月二十三日 ああ 大和にしあらましかば いまがみなづき うは葉散り透く神無備森の小路を……。(薄田泣菫

大正四年(一九一五年)のこの日に、詩人薄田泣菫は、大阪毎日新聞の学芸副部長になった。P.180

★十二月二十四日 私は元就が誓紙を反故にしたのを怒り、事をおこそうとするのではない。毛利が兵馬を養い、攻略を用いて強固になれば、われらをおびやかすにいたるであろう。そうならぬうちに切り従え尼子の防衛をかためようと思うのだ。(尼子晴久)永禄五年(一五六二年)のこの日に、尼子晴久は四十八歳で死没。P.181

★十二月二十五日――クリスマス

 愛よ、お前こそはまことの生命の冠、休みなき幸。(ゲーテ)一七八九年のこの日、四十歳のドイツ最大の文学者ゲーテに、長男アウグストが生まれる。P.181

★十二月二十六日 いちばんの苦痛はわれわれをとりかこむひとびとのまちがった、あるいは、片よった意見にたいして譲歩しなければならないことです。(ピエルール・キュリー) 一八九八年のこの日。ピエルール・キュリーは夫人とともに、ラジウムの発見をフランス科学学士院で発表。三十九歳の時。P.182

★十二月二十七日 我が国、欧米各国とすでに結びたる条約は、もとより平均を得ざる者にして、その条中ほとんど独立国の体裁を失する者少からず。(大久保利通) 明治九年(一八七六年)のこの日に、内務卿の大久保利通は農民一揆の頻発をみて、地租の減税を建議。四十六歳の時。P.182

★十二月二十八日――官庁ご用おさめ 

 万国のプロレタリア団結せよ。(マルクス) 一八六三年のこの日、四十五歳のマルクスは友人への手紙の中で、初めて『経済学批判』第一分冊のつづきを『資本論』のなで発行する計画だと知らせた。『中年博物館』P.183

★十二月二十九日 野心は愛情よりも抑え難い。(モンテーニュ) 一五八〇年のこの日、モンテーニュは法王グレゴリオ十三世に拝謁する。四十六歳。P.183

★十二月三十日 労働者階級の力は組織である。大衆を組織せずにはプロレタリア―ㇳは無である。(レーニン) 一九二二年のこの日、レーニンの指導するポルシェヴィキはソビエト社会主義共和国連邦結成宣言を行った。レーニン五十一歳。P.184

★十二月三十一日――大晦日

 わたしはかつて例のなかった、そして今後も模倣するものはないと思う仕事をくわだてる(ルソー) 一七六一年のこの日、ルソーはジュネーブ出身の出版人マルク=レイから代表作の自叙伝、『告白』の執筆をすすめられ、その決意をする。四十九歳。P.184

クリックすれば、この章のTopへ返ります

クリック、ホームページへ