淮陰生
『完本 一月一話』――読書こぼればなし――

改 訂 版 2022.12.10 改訂

01和歌、俳句の起源について(P.2) 02果して人間の眼はそんなにたしかか?(P.4) 03下(しも)の苦(句)は知らぬ話(P.6) 04大泥棒、コソ泥を引っ立てる(P.10) 05Queen の訳語が「皇帝」であった話(P.12)
06犬が上か、人間が上か?(P.14) 07「戦争絶滅受合法案」(P.16) 08ある弁護士の履歴書(P.18) 09長いこと一息ついて和田の原(P.20) 10イギリスの羅漢まわし(P.24)
11運命の二銭銅貨(P.26) 12預けけものはむつかしい(P.28) 13絹と欲望(P.30) 14人を食ったシャレた話(P.32) 15カナと漢字の喧嘩(P.34)
16本も読みようで……(P.36) 17そこのけそこのけ、車が通る(P.38) 18ラコストという男(P.40) 19朝鮮の事は相定まり候(P.42) 20遺 懐(P.46)
21小股の切れ上がった女(P.48) 22マルゼルブという人のこと(P.50) 23乱ㇾタㇽ世ニハ、人、官ヲ求ム―ある割腹諌死者の建白書―(P.52) 24汚物はすべて隣りの庭へ(P.54) 25負うた子に教えられ(P.56)
26ポチョムキンの村々(P.58) 27いやな役職をクビになる捷(P.60) 28ナポレオンを驚かせた沖縄の話(P.62) 29二百年前に舶来されたタッソー蝋人形(P.64) 30デカンㇱョ節由来考(P.66)
31ゲーテとベートーヴェン(P.68) 32恍惚と明治天皇(P.70) 33偶然という曲者(P.72) 34小股の切れ上がった女、再考(P.74) 35五分と五分―産業スパイのある挿話―(P.76)
36内村鑑三が夜這いをしたという話(P.78) 37シャチと鯨(P.80) 38いわんや悪人をや?(P.82) 39早々と棄てれていた沖縄(P.84) 40知性人の泣きどころ(P.86)
41運命は嗤う(P.88) 42高士か、スパイか(P.90) 43文弱か? 勇武か?(P.92) 44世は歌につれ……(P.94) 45常識のウソ(P.96)
46なんとも小気味よい話(P.100) 47日本最初の百科全書?(P.102) 48私悪は公益(P.104) 49政治家が金をもらうとき(P.108) 50ある国盗り大みょうの家訓(P.110)
51これでもうボリヴィアは消えた(P.112) 52ある二発の砲弾(P.114) 53虚実皮膜のあいだ(P.116) 54余財ありて清節あり(P.118) 55嘘から出た真実(P.120)
56二重橋払い下げ(P.122) 57金の動きは国家を超える(P.124) 58男断ち、但三ケ年間之事(P.126) 59急流勇退(P.128) 60アイスキュロスと亀と漱石(P.130)
61いささか六菖十菊だが(P.132) 62諷刺小咄、二つ(P.134) 63なぜ日本には宦官がいなかったのか(P.136) 64官吏、公選入札のこと(P.138) 65食うために生きる?(P.140)
66小心者の悲しさは(P.142) 67舎利・十字架・聖遺物(P.144) 68思い邪なるものに恥あれ(オニ・ソア・キ・マリ・パンス(P.146) 69スカトロギア遺聞一つ(P.148) 70百年前の北方領土問(P.150)
71ピーナツと珍品と(P.152) 72ある禁欲主義者の話(P.154) 73普選貴院に入るを許さず、そのほか(P.156) 74人物像描写のアキレス腱(P.158) 75平伏、土下座、プロスキュネシス(P.160)
76シーメンス事件とある陰謀?(P.162) 77近藤勇と〔賤民身分解放〕(P.164) 78"美とはなにか"(P.166) 79反語逆説辞典あれこれ(P.168) 80最後の言葉(P.170)
81無動機の選択(P.172) 82黒船水兵? のある落書(P.174) 83なんとなく心惹かれる人たち(P.176) 84大魚は小魚を食う(P.178) 85芸妓さんに知って頂かねばならぬ事(P.180)
86わが身をつねって……(P.182) 87以法破理、以理破らざる法(P.184) 88Enter the Actress(P.186) 89『イワンの馬鹿』と絨毯爆撃(P.188) 90勲章と犬の頸輪(P.190)
91訳語の創製とその苦心(P.192) 92東西首斬り業競べ(P.194) 93君は国に依り、国は民に依る(P.196) 94去年(こぞ)の雪、いまいずこ(P.198) 95雄弁、能弁、そして訥弁(P.200)
96ある国学者のある珍説(P.202) 97ハレー彗星のこと(P.206) 98ある宗教銅版図をめぐって(P.208) 99競りにかけられた皇帝位(P.210) 100ある二つの文章(P.212)
101愛煙、是? 非?(P.216) 102東西、色事師くらべ(P.218) 103政治家、外交官の舌(P.220) 104したたかの女、したたかの文筆家(P.222) 105余 桃 の 罪(P.224)
106売春税ことはじめ(P.226) 107乗った人より馬が丸顔(P.228) 108ある日本人スパイの話(P.230) 109国家と領土拡張欲(P.232) 110オビット・アヌス、アビット・オヌス(P.234)
111臀 と 糞(P.236) 112ある呪文二つについて(P.238) 113変態繽紛、夢也亦夢也(P.240) 114古代ペルシア人と酒、など(P.242) 115もっと「押しつけ」てほしかったこと(P.244)
116のんびりしたはなし(P.246) 117猿は木から落ちる(P.248) 118復刻『公私月報』(P.250) 119Vox populi, vox Dei(P.252) 120悪党、最後の隠れ蓑(P.254)
121賢母? 愚母?(P.256) 122田楽刺し人間――二題(P.258) 123忘れえぬ道歌、二首(P.260) 124フランス・ルネッサンスのばれ(P.262) 125政治家とユーモア(P.264)
126こまどり殺したん誰ァれだ!(P.266) 127"歴史はでたらめ bunk"(P.268) 128外交使節とフィロソフィ―(P.270) 129伝記と真実――(一)――(P.272) 130伝記と真実――(二)――(P.274)
131再説・大魚は小魚を食う(P.276) 132欲に限りなし――沖縄復帰十年(P.278) 133「共和政治」――訳語考(P.280) 134囚人寄って獄則をつくる(P.282) 135ある言葉の遊び(P.284)
136いささか臭い話(P.286) 137恋知らぬものよ、明日は恋せ……(P.288) 138秘密投票のこと 付議員歳(P.290) 139ある反面教師(P.292) 140e pluribus unum(P.294)
141能弁? 訥弁?(P.296) 142海底問答(P.298) 143樽俎折衝のある要諦(P.300) 144情報収集とスパイ(P.302) 145土竜のつぶやき(P.304)
146忘れられていたある奇才(P.306) 147お国自慢――三幅対(P.308) 148ある外国語教育のはなし(P.310) 149Hype and Theatrics(P.312) 150国際政治の魔性(P.314)
151――灰になるまで(P.316) 152ファウストとドン・ファン(P.318) 153再説・いささか臭い(P.320) 154ある非武装中立国の話(P.322) 155もう一つの廃船「むつ」(P.324)
156ベストセラーとは?(P.326) 157ある古代皇帝の病状(P.328) 158浪費とは?(P.330) 159厳たる史実をも抹殺し去る最も良心的、かつ巧妙な方法について(P.332) 160雀、海に入って蛤となる?(P.334)
161固有の領土とは?(P.336) 162淮陰子、愛誦歌あれこれ(一)(P.8) 163淮陰子、愛誦歌あれこれ(二)(P.22) 164淮陰子、愛誦歌あれこれ(三)(P.44) 165淮陰子、愛誦歌あれこれ(四)(P.106)
166淮陰子、愛誦歌あれこれ(五)(P.214) 167あ と が き(P.349) 168****** 169****** 170******


淮陰生『一月一話』――読書こぼればなし――

   

 和歌、俳句の起源について 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』P.2~3

oota.nanpo.itiwaitigen.jpg  むかし蜀山人大田南畝は、快著『一話一言』をのこした。語呂もまことによろしい。ひそみにならって、「一日一話」とでもしたかったのだが、なにぶん本誌(『図書』)は月刊である。やむなく「一月一話」で我慢することにした。まずは毒にも薬にもならぬ話ばかりを紹介するつもりである。

 わが大和(やまと)三十一文字の起源を、伝須佐之男命作「八雲たつ出雲八重垣」云々の歌にとる俗説が古来ある。なにしろこれは年代すら定かならぬ遠い上つ代の話だから、まことに始末に悪いが、果して事実そうなのでろうか。案外これも中国伝来のものではなかろうか。現にその証拠に、『論語』顔淵第十二というものを読むと、こんな一節がある。「司馬牛が憂えて曰く、人はみな兄弟あれど、われひとり()し」(司馬牛曰、人皆有兄弟、我独亡」)と。 

 いや、ただに和歌ばかりとはかぎらない、俳句の起源までも、どうやら怪しくなりそうである。たとえば『春秋左氏伝』巻一の冒頭、隠公伝を開いてみるがよい。いきなり「夏五月、鄭伯(ていはく)、段に(えん)に克つ」(夏五月、鄭伯克段于鄢。鄢は地名、鄭伯が段に鄢で勝ったということである。)これなど立派に季語まであるのだから世話はない。

kurimotojoun.jpg  もっとも、この話にはタネがある。別に筆者の博識をひけらかすのが目的でないから、種明しをするが、実はこのジョーク、元来は明治初年の著名新聞人、そしてまた有名な風流才子でもあつた桜嫉居士福地源一郎が、その父福地苟庵(こうあん)なる人物について語った話の中に出てくるものだ。 

 苟庵というのは、晩年こそ長崎の一町医者として逼塞(ひっそく)してしまった感じだが、若いころはどうして才気渙発、気を負った青年で、漢学にも造詣が深く、しきりに京阪江戸などを遊学して歩いた。そこで、これは大阪の篠崎小竹塾にいたころの話であるという。ある日、師家で催された詩会の席で、さっそく彼はこの大和歌の起源などという、クイズまがいの難題を持ち出した。果して一座が応えに窮したと見ると、たちまち先の司馬牛云々を引いて、一同を煙に巻いたというのである。  

 ところが、一座にちょうど頼山陽が居合わせた。才気と山家では一枚上手の山陽である。小面憎しとでも思ったのだろうか、やがて反撃に出たのが、後者の俳句起源説であった。こんどは苟庵のほうが返答に詰った。得たりとばかり山陽が持ち出したのが、「夏五月」云々だったことはいうまでもない。苟庵としては、完全に天狗の鼻をへし折られた形であった。 

 なおこの話、出所もついでに書いておけば、晩年桜嫉居士は、弟子たちを相手に親父の自慢話をして聞かせるのが癖だったらしく、これもそうした折の話の一つであり、弟子のひとり塚原渋柿園(じゆうしえん)(1848~1917年)がのちに書きのこしている。   (70.1)

令和4年(2022)05月05日。



   果して人間の眼はそんなにたしかか? 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』P.4~5

 例のエリザベス朝の冒険航海者、廷臣、タバコの將来者、そして伊達男としても豊富な逸話をのこしているサ・ウォㇽター・ローリに、『世界史』の遺著があることは、承知の読者もあろう。ところが、この『世界史』、第一巻があって、あとがない。そのあとがないわけについて、有名な伝承がある。もともとこの著は、彼が断頭台に消える最後の獄、ロンドン塔の中で書かれたものだが、第二巻執筆中のある日、彼はすぐ窓の下で取っ組み合いの大喧嘩が起るのを見た。終始観察していて、記憶には自信があった。 

 ところが、翌日、立ち会っていたばかりか、多少は関係者でもあったある男と話してみると、ことごとく事実が食いちがっているのである。目の前に見た事件でさえこの始末では、とても遠い昔の真実などわかるはずがないと絶望して、一切原稿を火中にしてしまったというのだ。       

 人間の眼のたしかさなど、当てになるものでないという根拠に、よく引かれる逸話だが、もっと近い話にこんな実験がある。かつてある国の心理学大会で、突然見知らぬ男が一人、血相かえて駈けこんできた。と、すぐそのあとからまた一人、これもピストルを手にして追ってきたかと思うと、たちまち二人は大格闘になった。ピストルの乱射、組んずほぐれつの揚句、二人はまた会場の外に消えてしまった。この間二十秒。    

 もちろん会衆は呆気にとられて棒立ちだったが、なんとこれが主催者の(たく)らんだ狂言だったのである。そこで、さっそく来会者一同に、いまの事件の観察記録が求められた。ところが、驚いたことに、解答者全部で四十人、重要点についての誤り、二〇%以下ですんだのはわずかわずかに一人、二〇~四〇%が十四人、四〇~五〇%が十二人、残り十三人にいたっては、それ以上だったという。もっとひどいことには、事実の捏造までやったのがあり、これまた一割以上の捏造が三十四人に達しており、一割以下はわずかに六人にすぎなかったとある。要するに、やっと信頼できるのはわずかに六人、つまり八分の七近くは、まったくの嘘か、半分近いデタラメだったということになる。

 いささか古くなるが、これはアメリカの政治評論家ウォㇽター・リプマン(Walter Lippmann、1889年9月23日~1974年12月14日:黒崎記)の名著『パブリック・オピニオン』に出る挿話。補注

 なぜいまこんなことを思い出したかといえば、一昨年(一九六八年)末、警視庁の大黒星になった三億円事件の容疑者逮捕問題に関連する。アリバイは確認されず、まさに危機寸前のところだったが、事件の当事者、つまり、まんまと欺し奪られた銀行員たちを呼んで面通しをさせたところ、そのうちの二人は、はっきり間違いなしと証言したという記事が、ある新聞報道の片隅にほんの小さく出ていたからである。そうでなくても当てにならぬ人間の眼、あのヘマをやった間抜け男たちに、果してそんな確認などができるものだろうか。釈放されたからよかったものの、ひどい話ではある。   (70・2) 

補注:『パブリック・オピニオン』に出るこの挿話。戦前に早く杉村楚人冠氏がその著『新聞の話』で紹介されていることを知った。『楚人冠全集』(日本評論社、昭和十二年)第八巻所収。

 令和4(2022)年7月14日。



  下(しも)の苦(句)は知らぬ話 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.6~7

 明治七~八年に出た『開化問答』と題する正続二篇の小冊子がある。著者は小川為治。現在この本は、『明治文化全集』(日本評論社刊)文明開化篇に収められているが、その解説によっても、この著者の経歴その他は一切ふ不明とある。         

 だが、とにかく内容は、旧平、開次郎という二人の人物の問答体になっており、明治新政府の文明開化政策を謳歌する開次郎が、依然として旧幕政に恋着する固陋の旧平を論破、説得するという、いうなれば当時続出した通俗啓蒙書類のきわめて早いものの一冊にすぎぬ。  

 だから、いまさら内容の紹介をするまでのことはないが、ただ面白いのは、旧平の意見のほうに、きわめて愉快な小咄類がしきりに出ることである。以下一、二を紹介してみる。                    

さればこの頃世間の一口ばなしに、ある時天子様が高楼にましまして、東京の市中を御覧ぜさせらしが、やがて「高き屋に登りて見れば烟り立つ、高き屋に登りて見れば烟り立つ」と二三返繰返して吟じ給ひたる事がござる。ソコデ御傍に附添へる侍従の方々が天子様に御向ひ申し、恐れ乍ら下の句は何と申し(ます)と伺しかば、天子様曰く、朕は下の苦はしらぬと仰つた(など)と悪口を頻に唱えてをり(ます)
 また、「それゆゑ下々の一口ばなしにも、この頃天子様は喘息(ぜんそく)を御(わずら)ひなさる。何故といふに、頻に税々(ゼイゼイ)とおつしやる抔と悪口をいふて居り升」ともある。

 天子様御親政を大いに謳い上げていたはずの当時だが、どうして旧江戸市民たちの間には、こうした落首精神がまだ脈々として生きていたのであろう。なかなかワサビが利いて愉快なエピソードではある。      

 なにも明治初年ばかりではない。いわゆる自由民権運動の時代になっても、相当キワドイ演説が行われていたものらしい。その中に、いわゆる「ソバ打ち演説」というのがあったという。周知のように、ソバの実というのは、ピラミッド型をした三角形になっている。そのソバの実の三つのかど、つまりミカドをつぶしてしまわないかぎりは、政治はよくならんというようなことを、しきりに壮氏たちがぶって歩いたというのである。チンはヘソの三寸下にありなどというのが、戦後一時共産党筋の演説で大いに流されたことがあるが、それらも考え合わせて、ちょっと面白い。

 なおこのソバ打ち演説のことは、一昨年夏から昨年春にかけて、熊本日日新聞に連載された福田令寿氏『百年史の証言』の中に出る。補注福田翁は現在九十六歳の長寿で、まだ元気でおられる熊本市の名誉市民、医学界の大長老である。少年時代徳富蘆花に英語を教えられたということでも有名。したがって、この演説、あるひは九州地方だけで行われたのかもしれぬが、近ごろの政治演説などよりは、はるかに機知があり、ユーモアも利いて上乗である。

補注:『百年史の証言』は、その後一本にまとめられて日本YMCA同盟出版局から出た(昭和四十六年六月)。

 令和4(2022)年7月31日。



   大泥棒、コソ泥を引っ立てる 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.10~11

 古代4ギリシャの犬儒(キユニク)派哲学者ディオゲネスといえば、むしろいわゆる「樽の中の哲学者」という異名のほうで、より知られているかもしれぬ。即妙の機知と諧謔で、すべての権威を冷嘲、諷罵し去ったことは有名だが、中でも例のアレクサンダー大王との対話――樽の家にいる彼の前に立って、「なんでも欲しいものを取らせる」と大王がいった。ディオゲネス先生、悠然として答えたのは、「では、そこを退いてほしい、蔭になる」とのただ一言だったという伝説、これはもう中学生でも知っているかもしれぬ。 

 だが、古代哲学史家ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』を読むと、真偽は保証せぬが、彼に関するこの種の奇行、逸話類が、いやになるほど並べ立てられている。手当り次第、三、四を紹介してみることにする。        

 人間とは羽毛をもたぬ二足獣なり、とプラトンが定義して、これが名定義として評判になっていた。すると、ディオゲネス先生、さっそく鳥を一羽、すっかり羽毛をむしりとって講堂へ持参、聴講者たちに向って、「これこそプラトンの人間だ」といった。その後は、仕方なく、「平たい爪をもった」という一句が、上記の定義につけ加えられることになったとある。     

 ある人が彼に、適当な食事時とはいつだと訊いた。すかさず彼は答えた――金持ちにとっては、食べたいとき。貧乏人にとっては、とにかく食えるとき、と。 

 あるとき彼は、神殿の祭司たちが、賽銭入れを盗んだという男を引き立てて行くのを見た。さっそく彼は指さしていった――見ろ、大泥棒どもがコソ泥を引っ立てて行くぞ。 

 彼は九十歳を越して死んだと伝えられるが、晩年のこれは話である。もう先生もお齢だから、せめて女中か小僧でもお置きになっては、とすすめるものがいた。だが、断乎として彼はノーと答えた。「でも、それじゃ、お亡くなりになったとき、誰が埋葬所まで運んでくれます?」「なに、誰かこの家の欲しい奴が運んでくれるさ」  

 ある人がまた訊いた。「どんな酒がいちばんうまいとお思いになりますか?」ケロリとして彼は答えた。「もちろん、人が代金を払ってくれる酒だな」

 娼婦の子供が、群集に向って石を投げているのを見た。ディオゲネス先生、大声で制したまではよいが、叫んだ言葉がふるっていた。「おい、坊主、気をつけな、貴様の親父にぶっつけないようにな」 

 なにしろ「樽の中の哲学者」だから、粗衣粗食、物欲などとはおよそ無縁の人間と見えるかもしれぬが、ところがこの先生、若いときには、国家の貨幣を粗悪品に変造して(もっとも父親がやったのだとの説もある)、その罪で故郷を追放、やむなくアテネへ出て来たという伝承もある。このほうが人間らしくて、はるかに面白いようである。   (70・5) 

 令和4(2022)年7月15日。



   Queenの訳語が「皇帝」であった話 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.12~13

 明治七年七月二十五日公布の太政官達というのに、「締盟各国君主ノ称号、原語各種有之候処、和公文ニハ原語ニ拘ハラズ(ゝゝゝゝゝゝゝ)総テ皇帝ㇳ可称定式ニ候条、此旨可相心得事。但シ共和政治、即チ米利堅(メリケン)仏蘭西(フランス)西班牙(スペイン)瑞西(スイス)秘露(ペルー)等ノ如キハ大統領ㇳ称スベキ事」というのがある。 

 愉快なのはイギリスで、当時は例のヴィクトリア女王の治世だったから、したがって、以後はヴィクトリア皇帝になったはずである。

 なぜこんなことになったのか。それには明治政界の怪物星亨(ほしとおる)が関係する。当時、星は横浜税関長をしていたが、同じく横浜駐在イギリス領事某との間で、ある書簡交換のことがあった。その和公文に、星はヴィクトリア女王と書いたのだが、どうした偶然か、これが当時のイギリス公使バークスの目に触れた。バークスのことは、あまりにも有名だから、紹介は略すが、前にシナでの在任が長く、漢文の知識では自信があったので、さっそく外務卿寺島宗則にねじこんだのだ。女王とは怪しからん、イギリスは帝国(エンパイア)である。攘夷論以来の外人蔑視で、とかく日本人は日本こそ帝国、イギリスなどは王国(キングドム)だと見下したがる。だからこそ、こんな誤りもやるのだ。ミカドを男王(ゝゝ)とでもしたら、黙っているか。かりにも一国元首の呼称、問題は重大であるというのだった。

 寺島も困った。日本でも王政復古(ゝゝゝゝ)というくらいで、決して蔑視に非ずと陳弁大いに力めたのだが、剛愎のバクースはいっかな肯かぬ。結局、星を呼んでの対決になった。だが、剛愎では(ひけ)をとらぬ星だから負けてはいない。逆に、バークスを前にして英語の講釈をはじめたのである。現にイギリスは王国(キングドム)と称しているではないか。女王(ゝゝ)で何が悪いと言いだす始末。バークスもそこは妥協に出て、では、原語のカナ書クイーンではどうだと提案した。ところが、星の答が一言多かった。曰く、クイーンの日本音は食い犬(ゝゝゝ)に聞えるが、それでもよいか、とやってしまったのだ。バークスはカッとなり、いきなり拳骨で、テーブルをガンとやった。卓上の紅茶カップが転落してミジンに砕けた。だが、話はまとまらず、結局困った日本政府が、冒頭のような太政官達を出したということらしい。     

 それにしても、ヴィクトリア皇帝とは愉快である。この話、詳しいことは従来の星亨伝にもみかけず、むしろ寺島外務卿がカップを叩きつけられたなどという、誇大の誤聞ばかりが伝えられることになった。例によって出所を書いておくと、昭和三年九月号から四年二月号にわたり『国際法外交権雑誌』に載った、信夫淳平(しのぶ・じゅんぺい:黒崎記)博士の「明治の外交史上バークスの位地」の最初に出る。長い間外務省顧問をしていた博士の論文だから、おそらく真相であろう。なお、この話、昨年だったかどなたかがあるPR誌で言及されていたが、出所はおそらく同じであろう。但し、この太政官達、いつまで有効だったかは詳らかにしない。ヴィクトリア女王は明治三十四年一月に没しているから、問題そのものが自然消滅になったのかもしれぬ。   (70・6)

 令和4(2022)年7月15日。



   犬が上か、人間が上か? 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.14~15

 つい先年没したはずだが、アメリカの名エッセイストにジェイムズ・サーバーなる仁がいた。主として週刊誌『ニューヨーカー』などで、軽妙なユーモアと諷刺の健筆をふるっていた男だが、そのサーバー晩年の一書に、『サーバーの犬ども』Thurber's Dogs というのがある。すべて犬に関する小エッセイばかりをあっめたものだが、その一つにこんなのがある。  

 犬の家族生活を書いたものだが、それによると、彼らの家族生活というのは、せいぜい六週間が限度であるという。もちろん、父親犬などはもっと早い。子供を生せると、たちまちさっさと消えてしまう。妻子のために働くなどということは、もちろんない。もっとも細君のほうでも、亭主犬の居所など、てんで最初から念頭にない。そのかわり、ヤキモチのあまり、亭主の跡に私立探偵をつけるなどという、そんな狂態もない。         

 そんなわけで、結局は家族生活といっても、母子だけの関係になるが、それも「たったの六週間で終りだ」とある。この間こそ食事の面倒も見てやれば、身体を舐めてきれいにもしてやる。恐ろしい敵から日夜眠りを忘れて衛ってやる。ただ人間の母親とはちがい、感傷性(センチメンタリチ)もなければ、大騒ぎもしない。実にさりげなく、静かにやってのけるだけだとある。      

 だが、それもわずかに六週間たてば、いっさいがおしまいである。もはや仔犬どものために、夜もまんじりとせず敵から衛ってやることもなければ、食物の面倒もみない。見ないどころか、食物を争って、仔犬どもに唸り声を立て、ついには犬小屋から負い出してしまう始末。「おしまいだよ。あたいだって自分のことで忙しいわよ。六週間もたって、まだお前たちの面倒まで、誰が構っとられるもんかい!」とでもいわんばかりの顔つきだと、サーバーはいうのだ。   

 もっとも仔犬たちも仔犬たちである。「ある日突然、母親の見分けすらつかなくなってしまう。もちろん母犬も同様で、会っても赤の他人なら、ときには実子の尻っぺたに本気で食いつくことすら珍しくない。」つまり、「再会の喜び、感傷的な涙、そんな馬鹿げた感情は一切ない」そうである。

 あいにく淮陰子は犬のことを知らぬ。だが、サーバー当人は有名な愛犬家だった上に、新種までつくりだしたといほどの専門的飼育家らしいから、しばらく彼の観察を信用することにする。ところで、この一文を読んでの淮陰子の感想だが、家庭生活に関するかぎり、どうも犬のほうが人間より一段上らしい、といっては、お叱りを受けるだろうか。(ついでながら、サーバーも淮陰子と同意見なのである。)近ごろの人間社会の過保護教育、いわゆる教育ママなどを見ていると、やはりどうも犬のほうが上のようである。六週間で立派に一人前の独立犬にする。させる母親もえらいが、なる仔犬にも頭がさがるではないか。   (70・7)

 令和4(2022)年7月15日。



   「戦争絶滅受合法案」 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.16~17

 昨年(一九六九年)亡くなった長谷川如是閑に、表題のような短文がある。大正末年から昭和初期にかけてだから、すでにもう四十年以上も昔の話だが、そのころの彼が月刊誌『我等』の孤塁に拠って、あくまでも正統ジャーナリズムの批判精神を示しつづけていた。おそらく発行部数は数千を出なかったろうと思えるが、論壇の一角に鋭い光芒を放って、少なくとも一部知識人たちには良心の砦として渇仰の的であった。とりわけ注目を惹いたのは、毎号彼自身が書いていた巻頭言であり、この一文もその一つだが、昭和四年一月号に載ったものである。

 最近久しぶりに如是閑選集が出て再読も容易になったが、正直にいって、いまの若い読者諸君の何人が読むか疑問である。だが、近ごろ内外から日本軍国主義復活の声も出ている折から、ぜひ多くの人に読んでもらいたいので、あえて紹介することにした。

 大意はこうである。第一次大戦後十年ほどたったころのことだが、デンマークの陸軍大将フリッツ・ホルムなる人物が、表題のような法律案をつくって各国要人たちに配布したということで、その案文を転載しているのだ。全文をそのまま引くことにする、曰く、    

戦争行為の開始後又は宣戦布告の効力の生じたる後、十時間以内に次の処置をとるべきこと。即ち下の各項に該当する者を最下級の兵卒として招集し、出来るだけ早くこれを最前線に送り、敵の砲火の下に実戦に従わしむべし。
 一、国家の元首。但し君主たると大統領たるとを問わず。尤も男子たること。
 二、国家の元首の男性の親族にして十六歳に達せる者。 
 三、総理大臣、及び各国務大臣、並びに次官。    
 四、国民によって選出されたる立法部の代議士。但し戦争に反対の投票を為したる者は之を除く。 
 五、キリスト教又は他の寺院の僧正、管長、その他の高僧にして公然戦争に反対せざりし者。上記の有資格者は、戦争継続中、兵卒として招集されるべきものにして、本人の年齢、健康状態を斟酌すべからず。但し、健康状態に就いては招集後軍医官の検査を受けしむべし。
上記の有資格者の妻、娘、姉妹等は、戦争継続中、看護婦又は使役婦として招集し、最も砲火に接近したる野戦病院に勤務せしむべし。
 以上である。注釈は要すまい。もっとも、フリッツ・ホルムス大将など聞いたこともないから、おそらくこれはユーモリスト如是閑の散文ではないかと淮陰子は疑っている。が、それはともかく、愉快ではないか。死の商人、軍需産業の大物だけが免れているのは大いに遺憾だが、これならたしかに戦争は起るまいと思う。かりにいまの日本政府、与党にでもあてはめてみるがよい。楽しくて吹き出したくなること受け合いである。   (70・8)

 令和4(2022)年7月14日。



   ある弁護士の履歴書 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.18~19

 大正時代に活躍した山崎今朝弥(けさや)という名物弁護士がいた。先年亡くなった布施辰治弁護士などとともに、もっぱら思想犯の弁護を一手に引き受け、いわゆる左翼弁護士の草分けの一人だったといってよい。大正十年はじめて自由法曹団が結成されたのも、彼と布施とが主導者であった。   

 だが、山崎といえば、みずからつねに米国伯爵と称していた一事でもわかるように、社会的活動もさることながら、奇人中の奇人ともいうべき逸話のほうで、むしろより有名であったかもしれぬ。          

 では、その山崎今朝弥とは――これは筆者などが説明するよりも、彼自身の筆になる自伝履歴書なるものがあり、それを紹介するほうが簡単である。当時の「弁護士名鑑」にみずから寄稿したものだそうだが、       

君姓は山崎、なは今朝弥、明治十年逆賊西郷隆盛の兵を西南に挙ぐるや、君之に応じて直ちに信州諏訪に生る。明科(あけしな)を距る僅に八里、実に清和源氏第百八代の孫なり。幼にして既に神童、餓鬼大将より腕白太政大臣に累進し、大に世に(はばか)らる。人民とごして芋を掘り、車を押し、辛酸嘗め尽す。傍ら経済の学を明治大学に修め、大に得る処あり。天下嘱望す。不幸、中途試験に合格し官吏となる。久しく海外に遊び、ベースメント・ユニバーシチーを出で、欧米各国法学博士に任ぜられ、特に米国伯爵を授けらる。誠に稀代の豪傑たり。明治四十年春二月、勢ひに乗じて錦糸帰朝、一躍直ちに天下の平弁護士となる。君資性豪放細心、頗る理財に富み、財産合計百万(ドㇽ)と号す。即ち業を東京に興し、忽ち田舎に逃亡し、転職三年、甲信を(したが)へ、各地を荒らし、再び東京に凱旋し、爾来頻りに振はず、天下泰平会、帝国言訳商会、私立天理裁判所、軽便代議士顧問部、各種演説引受所等は、皆君の発明経営する所なり。   
 以上がほぼ全文、蓋し一大名奇文と称すべきか。貝塚渋六(堺利彦)の注釈によると、ベースメント・ユニバーシチーとは、どこかアメリカの地下室で皿洗いでもしながら苦学したことらしく、また自註? によると、米国伯爵とは、「曾ては米国大統領顧問として、俊敏の財器異人の驚嘆する所となり」ということか。但し、真偽はもとより保証しない。「明科を距る僅に八里」が、例の大逆事件との関連であることはいうまでもない。 

 山崎の奇行ぶりを書きだすとキㇼがないが、不思議と昨今(一九六九年)から相次いで、二つも山崎紹介の文章が出た。もちろん、どちらにもこの自伝履歴書は載っているが、いずれも特殊の雑誌であり、必ずしも多くの読者の目に触れたか疑わしいので、あえてひろく本誌で紹介しておくことにした。十分値する名文だと信ずるからである。因みに、山崎は八十近い長寿を()けて、昭和二十九年に死んでいる。但し、大正時代に一度誤って溺死が伝えられ、親友(堺利彦:黒崎記)に「山崎今朝弥君の死」という一文まで残っているのも、いかにも彼らしい(『猫の首つり』所収)。   (70・9) 

 令和4(2022)年7月16日。



   長いこと一息ついて和田の原 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.20~21

 淮陰子がまだ子供のころの小倉百人一首(ヒャクニンシュと読んでもらいたい)は、いまのあの競技用標準かるたなどとちがって、実に趣きがあった。読札にしても、あんな殺風景なものではなく、天皇、公家、内親王、女官たち、さては坊主までが、色彩豊かな絵入りになっており、読札、取札の文字も、すべて万葉がなまじりの水茎うるわしい書体で書かれていた。読み上げにしてからが、まず作者名にはじまって、天智天皇秋の田の……といった調子でつづくのである。    

※参考:秋の田の かりほの(いほ)の (とま)をあらみ わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ 天智天皇 評解 小倉百人一首(新訂版)(京都書房)(黒崎記)
※参考:岩波文庫『百人一首話』(上)(下)がある。(黒崎記)           

 さて、表題の狂句は、藤原忠通の作「和田の原漕ぎ出て見れば久方の雲井にまがふ沖つ白波」とあるに言及したものだが、なにしろそれが百人一首では法性寺入道前(ほつしようじのにゅどうさきの)関白太政大臣と、百人中もっとも長い作者名になっている。これをいまもいったように、「法性寺入道前関白太政大臣和田の原……」と読み上げるのだから、さてこそ「長いこと一息ついて和田の原」ということに相成る次第。       

 もちろん肩書つきだが、長いなとなると愉快なものがある。落語の世界での「寿限無寿限無……」云々は特別としても、おそらくもっと本格的で落語に出る最長名は、「鼻きゝ源兵衛」に登場する「従五位上近江守源兵衛藤原鼻利(じゆご いのじようおうみのかみげんのひょうえふじはらのはなきき)」に落ちるであろうか。ほそぼそと貧乏暮しをしていた八百屋の源兵衛さんが、なに思ったか、身上(しんじよう )質において間口七間という大店(おおだな)を開く。が、運のつきぞめとはこわいもので、さる大変な()せ物探しで見事に金的をあてる。そのあとは失せ物の鼻利きというのを売物に、とんとん拍子の出世、出世魚ならぬトドのつまりは従五位上云々にまでなるという話。藤原鼻利きの由来である。   

 いや、これは虚構人物だが、徳川将軍家正式の呼びなというものをご存知であろうか。家康公などと軽く呼んでは勿体ないのである。曰く従一位(じゅういちい)太政大臣近衛大将右馬寮御監淳和奨学両院別当源氏長者征夷大将軍(このえのたいしょうめのりようぎょかんじゅんなしょうがくりょうべつとうげんじのちょうじゃ)という、法性寺入道はだしに仰々しいのが、正式のそれだったというから恐れ入る。一口に読み下して舌を噛まなかったら、ちょっとしたものである。  

 さて、以下は英語の話になるが、むかしよく英語の教師が、子供のような中学生を煙にまいたダジャレがある。英語で一番長いなはなァんだと訊く。馬鹿正直なガキどもが、ありもしない脳味噌を必至になってしぼっていると、先生ニヤリと笑って、よし、教えよう、Mr Smiles だとくる。だってみろ、SとSとの間にがとにかく一マイルはあるんだからな、とおっしゃるのだ。  

 もっとも、この話、サムエル・スマイルズ『西国立志編』Self-Help が、明治四年以来の驚くべき長期的ベストセラーをつづけ、英語、国語の教科書には、ほとんど必ず一篇くらいは採られいた大正中期あたりまでの話である。淮陰子並みの老人なら、あるいはこのダジャレ、なつかしい思い出として憶えておられるかもしれぬ。   (70・10)

※関連:ある言葉の遊び

 令和4(2022)年7月16日。



   イギリス版羅漢さんまわし 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.24~25

 サ・ウォルター・ローリといえば、イギリスはエリザベス朝切っての伊達男、たしかこの「一月一話」でも一度、なが出たはずである。最後こそロンドン塔の断頭台上に露と消えたが、新大陸への冒険家、詩人、歴史家、そしてなによりもタバコの将来者として、そのなは永久に記憶されるかもしれぬ。    

 ところで、そのローリだがある日さる貴族から晩餐の招待を受けた。息子も同伴のはずだったのだが、この息子ウォㇽトというのが、これまた、大変なプレイボーイだったらしい。出かけるに先立って、親父は懇々と息子を誡めた。だいたい貴様のような喧嘩好きの無作法者は、一緒に伴れて行くのも恥しいのだが、と、ところがウォㇽト君、すっかり恐縮して、今夜は万事慎みますからというので、やっと同道することにした。

 さて、いよいよ晩餐がはじまり、親子は仲良く隣同士に席をあたえられた。そこでウォルㇳ君、途中まではなかなかに神妙だったのだが、酒がまわると、果して本性を現わしだした。いや、実は今朝、神様のことを忘れて、僕は女を買いに行った。相手は飛び切りのいい女で、交渉も順調、接吻から抱擁、次いでいよいよ佳境に及ばんとするところで、突然女は僕を押し退けて言った。いえ、いけません。ついほんの一時間ほど前、坊ちゃまのお父さんと寝たばかりなんですもの、と。           

 場所柄もわきまえぬウォㇽト君の放談に、驚いたのは父親のローリであった。いきなり力一杯、息子の横っ面をガンとやった。さすがのプレイボーイ君も、まさか親父を殴り返すわけにはいかぬ。様子いかにと一同息をのんでいると、先生、いきなり反対側のの客の顔をポカリとやった。そして叫んだのだ。「順ぐりにまわせ。最後は親父にくる」 Box about, till it comes to my Father anon. と。さしずめ「羅漢さんがきたら、まわそうじゃないか」のイギリス版とでもいうべきか。        

※参考:box ……about/box about〔船を〕たびたび方向を変えて航走する:『プログレッシブ英和中辞典』(黒崎記)

 この話、十七世紀イギリスの好事史家ジョン・オーブㇼ『豆伝記集(ブㇼーフ・ライヴズ)』に出る。もっぱらこうした逸話を中心に百数十人の豆伝記を編んだのである。大部分は日本の読者諸君に馴染み薄い人たちだから、あとの紹介は省略するが、例の大哲学者デカルトについて、次のようなあまり知られぬ消息を伝えているのも、この『豆伝記集』である。「とにかく聡明すぎるほど聡明な男だったもので、妻などという厄介物を背負いこむことはしなかった。だが、彼もまた男であり、男性のもつ肉欲はあった。そこでやったのは、ある金持ちの美人を妾にしたことであり、この女によって、(たしか二、三人の)子供をもうけたはず。但し、これほど傑れた頭脳から生まれた子供にしては、その後あまり伸びなかったのが残念である」と。    

 なお、この愉快な好事史家オーブㇼについては、E・Hノーマンの随想集『クリオの顔』(Edgerton Herbert Norman:黒崎記)に詳しい紹介の一篇がある。ローリのこの逸話も、もちろん紹介されている。   (70・12)   

※関連:果して人間の眼はそんなにたしかか?

 令和4(2022)年7月17日。



   運命の二銭銅貨 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.26~27

 思わぬ瑣事が、順逆ともに、人間の運命を大きく左右することが、往々にしてある。たとえば、いまではほとんど忘れられた作者になったが、牧師出身で、大正七年『宿命』の長編一篇で大阪朝日紙の懸賞小説に入選登場した沖野岩三郎という作家がいた。その沖野が、例の大逆事件との関連で、しばしば語った有名な一挿話がある。 

 つまり、彼は南紀新宮の出身ということもあり、事件の被告で死刑囚になった一人、大石誠之助ドクトルとはかねて深い交際があった。明治四十三年一月というから、事件発覚の約半年前だが、正月というので、大石以下、町の仲間たちは例年の通り新年宴会をやることになった。そして案内状も出来上り、もちろんそれには沖野のなも入っていた。ところが、それを一見した大石が、どうせ沖野は酒をやらん、省いたらどうだ、と指示したというのだ。おかげで沖野は除けられたが、半年後には事件になり、この日の参加者たちは大石以下一網打尽にやられた。 

 出世作『宿命』にしてからが、明らかにこの事件に取材した外物伝だが、結局この瑣事が沖野を一種の宿命論者にしたという。そういえば、なるほど、彼のかわりに差し替えられた田舎町の薬種屋さん某(成石勘三郎)は、たちまち捕まって死刑、ついで危く特赦ということで生命拾いしているのだから、あながち沖野の宿命論も笑い去ることはできぬ。 

 大逆事件といえば、さらにもっと微妙な挿話が『山川均自伝』に見える。著者自身「運命の二銭銅貨」と題した一節である。大逆事件といえば、なんとしてもその二年前、四十一年六月二十六日に突発した赤旗事件を語らねばならぬ。この日、神田の錦輝館で開かれた同志山口孤剣の出獄歓迎会場で、大杉栄、荒畑寒村らが赤旗をふりかざし、それが街頭で警官隊との衝突になり、ふりまわした当人たちはおろか、止め役に入った堺利彦、山川均青年までが逮捕、すべて二年前後の有期刑になったのである。が、何が幸いになるかわからぬもので、たまたま服役中だった故に、いかに主義者の絶滅を狙った桂内閣にしても、さすがに大逆事件の共同謀議者の中に加えるわけにはいかなかった。堺、大杉、石川(三四郎)、荒畑、そして山川と、すべて入獄中のおかげで生命拾いしたといってよい。 

 ところで、その山川青年だが、『自伝』によると、この日彼は錦輝館への途中、ふと同じ美土代町(みとしろちょう:黒崎記)YMCA会館前で大隈伯(重信)演説会の立看板を見かけた。大隈の雄弁についてはかねて噂に聞いていたので、錦輝館のほうは中座して一度のぞいてみようかと思いついた。そこで予定通り一度は会場を出かけたが、ふと気がついてガマ口をみると、二銭銅貨一枚しかない。大隈講演の入場料は二十銭だったので、やむなくあきらめて会場にのこった。「もしあの二銭銅貨が二十銭銅貨だったなら……私は赤旗事件に引っかからないですんだ。そのかわり、四十三年の大逆事件に連座しなかったろうという保証は少しもない」と。人生やはり塞翁が馬か。   (71・1)     

 令和4(2022)年6月17日。



   預けものはむつかしい 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.28~29

 明治もまだ半ば過ぎの話。代言人、つまり、いまの弁護士から、妙な因縁での転進、有名な芝居興行師になり、晩年はあのなつかしい下谷二長町は市村座の座主として、将軍という異名までとっていた快人物に、田村成義なる御仁がいた。以下は、その田村将軍色ざんげの一として伝えれるものである。    

 まだ壮年ころのある日だったが、彼はさる親しい友人から突然物を頼まれた。聞けば、その友人、その日はさる深い仲の女と出会いの約束ができていたのだが、よぎない所用が急にできて、なんとしても出かけられぬ。あいにく連絡の電話はなし、といって、待ちぼうけを食わすのも可哀そうだから、なんとか、君、ひとつみょう代をつとめてはくれぬか、逢って話してやってほしい、というのだった。

 つい将軍も軽い気持で引き受けてしまった。そして約束の料亭での出会いとは相成ったわけだが、あいにく現われた相手が悪かった。かねて将軍自身も顔見知りの上に、江戸小唄という趣味の点でまで話の合う赤坂芸者小照であったからたまらない。酒肴を通し、杯を重ねているうちにおかしくなった。時のいきおいとでもいうか、とんだ身代りまでつとめてしまったのである。預けものはむつかしいという所以。

 さてこの話、大きく飛んで後日談まであるのだが、ここではそれを略するとして、もし興味ある読者なら、故平山芦江氏の随筆「江戸小唄由来」についてもらいたい。(随筆集『東京おぼえ帳』に収められている)。だが、ただ一つだけ付記しておけば、のちに小唄田村派の看板を上げ、今日の小唄隆盛の基を築いた家元田村てる女こそ、この話の女主人公、芸者小照の後身だったのである。           

 縁は理の外とでもいうのか、預けものでこそないが、やはり似た話が明治大正昭和稀代の奇人、大叛骨の宮武外骨についても伝えられている(岡野他家夫『書痴国畸人伝』)。外骨という人はおそろしく夫人運に恵まれなかった。一々は略すが、最後に彼を見送った能子夫人との結婚については、こんな話がる。実は彼の知人である貧乏華族とやらが妻をなくして困っていたので、最初は外骨先生、能子さんをその後配に世話しようというつもりだったのだという。見合いの日取りも決った。ところが、能子さんを伴ってタクシーを拾い、見合場所へ赴く途中、妙に話は砕けてしまった。華族などという窮屈な人に嫁ぐよりは、あなたのような人がいいと、肝心の花嫁候補が言い出したのである。形だけの見合いはすませた。だが、話はすでに決っていたようなものだから、お話にならぬ。風向きは一変、筋書通り? の外骨夫人としておさまったのだそうである。        

 ときに外骨老、すでに七十歳をはるかにこえていたはず。能子夫人は四十以上の歳下だったとある。淮陰子は保証せぬが、報告者岡野氏によれば、決して単なる茶飲み友だちではなかったことが明らかだというから、ここまでくれば、性豪ぶりも超一流と申し上げねばならぬ。   (71・2)    

 令和4(2022)年7月18日。



 絹と欲望 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.30~31

 西紀前五三年、古代ローマ史でも有名な敗戦記録にカルライの戦いというのがある。(カルライは現在のトルコ領、ユーフラテス河を東に越えたすぐ、北メソタミアにあった古邑)。この年、ここでローマ第一次三頭政治の一人クラッススがパルティア軍と闘って敗死、戦死二万、捕虜一万を出したという大敗戦であった。

 ところで、この敗戦を記録した例のブルタルコスの英雄伝「クラッスス」によると、敗戦のキッカケになった一コマとして、次のような数行がある。「ローマ軍が物音に驚いて度を失っていると、突如、武器の覆いを投げすてて、バルティア軍が兜と鎧で炎のように(ゝゝゝゝゝ)輝く姿を現した」とある。いささかわかりにくい叙述だが、やはりこの同じ敗戦を描いた、これも古代ローマ史家フルロスの『戦 史 要(エピトメ・ペルロールム)』によると、どうやらこの「炎のように輝く」云々とは、敵バルティア軍の騎兵たちが、完全軍装の上に、それこそ目もあやな真紅の絹袍を風に靡かせていたことらしいのだ。この華麗、異様な光景に、全軍アッと息を呑むまもなく、たちまち総崩れのキッカケをつくってしまったというのである。

 さて同じフルロスによると、そもそもこれが、古代ローマ人の東洋の絹の美しさを目にした最初の経験だったということである。なるほど、養蚕にかけては、東洋、とりわけ中国が大先輩であることにははいうまでもない。伝説にもせよ、歴史はまだ新石器時代だった黄帝の時代にすでに「黄帝元姫西陵氏始蚕」(蚕経)と見えるほどだから、気の遠くなるような話。果たしてフロルスのいう、これが西欧人の絹を見た文字通り最初であったか、どうかまでは保証せぬが、少なくとも大量的にそれを見たはじめだろうことは、まず疑いない。

 だが、それよりもここで指摘したいのは、そのローマ人たちを驚かせた絹が、いかに早くローマにまで到達してかという一事である。というのは、その後わずか八年、カエサルがその政敵たちを一掃し、ヨーロッパはもとより、小アジア、エジプトまでも征服して、輝かしいローマ凱旋を行った四五年、すでに彼は歓迎に殺到した群衆たちの頭上に、絹張りの大天蓋数十をつらねて、何千という市民たちを収容して見せたというのだ。(その数十年後に書かれたディオン・カシウスなる人物の『ローマ史』にあるという。但し、これは未見ゆえに孫引き。)

 甘美なるものの誘惑、これはどうも東西古今共通のものであるらしい。梅毒、タバコなど、そのいい例であろう。後者のほうは、はるかに東回り、日本まで達するのに一世紀ほどは要しているらしいが、前者にいたっては、嘘のような話、たった二十年足らずで世界を一周、日本にも新流行を発生させているというのだから驚く(土肥慶蔵博士『世界黴毒史考』以来の定説)。絹の誘惑もまたそうだったのであろうか。それにしても、二千年前のあの絹の道を越えての運搬だったはずだから、おそるべきは人類の欲望である。   (71・3)

参考:絹はどうしてできるか

 平成29年(2,017年)5月28日



 人を食ったシャレた話 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.32~33

 池田成彬(しげあき)といえば、いうまでもなく戦前・戦中をかけての三井財閥の大黒柱、一時は近衛内閣の蔵相にも迎えられた。これはその池田が、故郷の山形県米沢から上京、神田の受験予備校的中学、共立学校(現在の開成高校の前身)に学んでいたころの話だから、明治十年代も終りころのことと思ってもらってよい。

 若い英語教師に、これも後年ダルマ蔵相で有名になつた高橋是清がいたそうで、池田も彼からスウィンㇳンの『万国史』などを教わった。高橋はすでに農商務省の權少書記官であったというから、単なるアルバイト稼ぎというだけでなく、いわば青年育成の教育熱心から出た教師稼業だったという。もっとも、それだけにあまり下読みなどはやってこなかったらしく、池田など克明に辞書を引いてくる優秀生徒たちには、さすがのアメリカ帰りの高橋先生も、しばしば誤訳指摘をやられたらしいのだ。

 ところが、その高橋の応対がふるっていた。曰く、「君みたいにそんな重箱ほじりの読み方ばかりしていると、とうてい偉い人間にはなれんぞ!」これには池田も一言でギャフン、完全に毒気を抜かれたとある。

 ずいぶん人を食った話だが、かつて生前のあの瓢乎たる高橋の風格を記憶するほどの読者諸君なら、おそらくニヤリと破顔されるに相違ない。もちろんこんな話、高橋側の伝記類には出てこない。だが、後年池田は『財界回顧録』でも『故人今人』でも、くりかえし楽しそうにくりかえしているから、おそらく事実にちがいない。いまの若い英語教師諸君、果してこれだけの度胸と即妙のユーモアがあるか。なんなら一つ試みてみられるのも一興か。

 次は例の大本教の怪人出口王仁三郎(おにさぶろう)をめぐっての一挿話である。大正十年の第一次弾圧か、昭和十年の第二次弾圧か、あいにくそこまでは詳しく知らぬが、警官の手で検挙されたとき、いきなり彼は股間の一物を指さしたかと思うと、「いじればいじるほど大きくなるぞ!」と一言、逆に警官のほうを呆気にとらせたというのだ。この話、相当古くからかなり弘く流布されており、淮陰子もかねて聞いていたが、もともと同趣旨の小咄は古い伝承類にいくらも出る話なので、正直のところ、たまたま王仁三郎付会してつくられた伝説かととも疑っていた。だが数年前(一九六七年)その直系京太郎の手になった王仁三郎伝にも、ちゃんと出ているところを見ると、一種の信憑性はあると見てよかろうか。

 もちろん、王仁三郎という人物は、意表に出た猥談で相手のまず度胆を抜くという癖があったようだから、別に事実だったとしても少しも不思議はない。ただ古い小咄種を知った上でのハッタリか、それとも咄嗟(とつさ/rt>)の機鋒だったのか、そこまではわからぬ。ただもし前者ならば、別に珍しくもなんともない。鮮度はだいぶ落ちることになろう。   (71.4)

 令和4年5月7日。



  カナと漢字の喧嘩 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.34~35

 幕末、明治初期にかけての文人、新聞人、そして粋士として聞えた成島柳北晩年の戯文に「花見の文」というのがある。まず本文から紹介してみよう。    

あるひはなみとてさとはなれのやまにのほりそのやまはなをめくりてゆくにけたのはなをきれてつまつけはきのねにてはなをしたたかうちはなちをはなはなしくいてはなみることもならすなくかへるにあまりふせいなくつまらなくやふうくひすのよねんなくてなくをききたくなくたたはしりにはしりてたにのこはしうちわたれははしなくあるともにあひけりなとはしたなきふるまひするそはしにもほうにもかからぬひとなりてくちはしとからしつつののしけれはわれはなにもいはしとてはしりさりぬ 
 さて、なぜ彼がこんな戯文を草したかといえば、この明治十六、七年ころ、何度目かのカナ文字対漢字の論争がさかんに起っており、漢字廃止論側では、例の『大言海』の大槻文彦なども支持者の一人として、「かなの会」というのができて、大いにカナ文字礼賛をやっていた。ところが、叛骨の遺臣柳北先生には、これが大いに頭にきたらしい。みずから社長として主宰する朝野新聞紙上に、溺濘生なる匿名の下に喧嘩を買って出たのが、上記の一文だったという。わざと意地悪く濁点、句読点等を一切省略して、「何と自分で書いても……読みにくくて、又解しにくくて、善き書方を教えて呉れ」とからかったのである。だが、もちろん文彦もまた黙ってはいなかった。さっそく応酬して出たのが次の一文であった。            
上方(かみがた)上方(うえつかた)ノ雲ノ上人(うえびと)ト某上人(しょうにん)ト、上野(かうづけ)前橋ヨリ上野(うへの)山下マデ、上下(じやうか)十人、上下(かみしも)ヲ着テ汽車に上下(あがりお)リシテ、又、汽船ノ上乗(うはのり)シテ、上海(しやんはい)ニ赴ク。
番頭(ばんがしら)番頭(ばんとう)揚屋(あげや)ニテ召捕テ、揚屋(あがりや)ニ入レル。
賄方(まかないかた)(まかなひ)ヲツカへバ御台所(みだいどころ)御台所(みだいどころ)ヘ出テ、御膳(おぜん)ニテ御膳(ごぜん)()(たま)フ。
 もちろん、漢字のいわゆる音訓読み、さらにはそれを数層ばいかして煩雑なものにする習慣的読み方の問題点をあげて、反撃を加えているわけだが、さらに勝敗の軍配はいずれにあがるであろうか、読者諸君のご判読にまかせる。以上の話は、昭和十二年、明治大正史談会が出した『明治史話』から引いた。

 最後に柳北の戯文だが、判読できたかどうか。漢字まじりで書けば、「ある日、花見んとて里離れの山に登り、その山端を廻りて行くに、下駄の鼻緒切れて躓けば、木の根にて鼻をしたゝかに打ち、鼻血甚しく出で花見ることもならず、泣く泣く帰るに、余りに風情なく、つまらなく、藪鶯の余念なくて啼くをも聞きたくなく、たゞ走りて谷の小橋打ち渡れば、はしなくある友に会ひけり。などはしたなき振舞するぞ、箸にも棒にもかゝらぬ人なりとて嘴尖らしつゝ罵りければ、吾は何も云はじとて走り去りぬ」というだけの話なのだが。   (71・5)         

 令和4(2022)年7月18日。



   本も読みようで…… 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.36~37

 ハリエット・ストウ夫人の『アンクル・トムズ・キャビン』といえば、たとえ原作など読まずとも、名前と内容の一斑くらいはご存知の読者も多かろうと思う。はじめあるワシントンの奴隷制度反対運動の機関誌に掲載されたあと、本になって出たのが一八五二年。連載中から大変な反響で、単行本になると、最初の一年間に三十万部以上を売ったというから、当時の読者人口から考えれば、驚異的なベストセラーだったはず。薄倖の黒人奴隷トムの運命は、俄然全アメリカの感傷的人道主義を煽り立て、一応は児童文学ながら、奴隷制度廃止に大きな寄与をした不朽の吊作ということになっている。

 話の筋は簡単である。心の清い敬虔なキリスト教徒であるトムも、奴隷という身分ゆえ、次々と数奇な運命をたどり、ときには薄日の射すような幸福な日々にめぐりあうこともあるが、最後にはㇾグリーな酔いどれ男で獣のような農場主の手に売り渡される。とどのつまりは、これも善良な女奴隷たち二人の身を庇ってやったばかりに、主人の怒りを買い、激しい笞打ちの果てに殺されてしまう。この最後がとりわけ涙と同情を呼び、奴隷制度廃止への原動力の一つにもなったというのだが、有名なオーストリアの神経病学者クラフト。エピング(一八四〇~一九〇二)の名著『性欲病理学』 Psychopathia Sexualis を読むと、なんと、実に奇妙な角度からこの作を読んで愛読書にしていたという患者の実例が出てくる。    

 三十五歳になる患者の病歴告白という形で紹介されているのだが、必要部分だけを抄記すると、「わたしは奴隷ということを考えるだけで、主人という側からも、奴隷という側からも、なんともたまらない昂奮を感じました。人が人を所有したり、売ったり、笞打ったりできるということだけで、わたしは激しい昂奮を感じました。『アンクル・トムズ・キャビン』をはじめて読んだのは、ちょうど思春期に達しようというときでしたが、わたしはたちまち erection を經驗しました。」あともまだ人間を馬車に縛りつけて引きずりあわし、車上から笞打つ光景などを考えると、特に性的昂奮をおぼえるなどという告白が長々とつづくのだが、必要もあるまいから省略する。(これ以上好奇の読者は、原著のマゾヒズムを論じた章の症例五十七というものを読んでもらいたい。)   

 著者クラフト・エピングがマゾヒズム(ドイツ語: Masochismus 英語: Masochism:黒崎記)の症例として出ていることはいうまでもないし、上にも述べた『アンクル・トムズ・キャビン』の問題個所が、終章に近い部分であることも、これまたまちがいない。が、それにしても、丸い玉子も切りよで四角というが、本も読みようで、ずいぶん奇妙な読み方もできるものである。淮陰子など正常老人には、ほとほと想像もつかぬ読み方だが、ただ文学はおそろしい。こんな読み方も現にありうるとという意味だけで、この愉快な? 挿話を、ほんの眠気さましに紹介してみただけにすぎぬ。   (71・6)   

 令和4(2022)年7月13日。



  そこのけそこのけ、車が通る 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.38~39

 いまではほとんど年中行事化した年間十大ニュースとやらの昨年度(一九七〇年)選定に、いくつか歩行者天国が入っているのを見て驚いた。一週ほぼ百五十時間、そのうちやっと数時間が人間の道路にかえるからといって、そんなにうれしい朗報なのか。ひどく人間も落ちぶれたもの。悲しくて、わびしくて涙が出た。    

 明治六年七月十九日、明治新政府が太政大臣三条実美のなで全国に出した違式詿違条例九十ヵ条なるものがある。補注イシキカイイと読む。いまでいえば、さしずめ軽犯罪取締法にあたる。違式は七十五銭以上百五十銭(ゝゝゝゝ)まで、同じく詿違は六銭二厘五毛以上十二銭五厘までの、それぞれ贖金(しょくきん)(罰金)という定めになっていた。 

ohure.jpg  もっとも、さすがに違式詿違では、いくらまだ漢文全盛の御時世とはいえ、庶民にはわからなかったと見え、各県それぞれ「御布令(おふれ)」の画解・図解などと題した絵入りフリガナつきの小冊子まで出して趣旨徹底につとめているから愉快である。(挿図は明治十一年三月愛知県で出したもの。)            

 ところで、もとより九十カ条の全条にわたって紹介している暇はないが、ただ興味深いのは、すべて道路とは歩行者のもの、馬車による交通妨害は、厳に違式詿違条例目としてくりかえし禁じていることである。たとえば曰く「乗馬(じようめ)して(みだ)りに駆馳(くち)し又は馬車を疾駆(しつく)して行人を触倒(ふれたふ)す者」、曰く「狭隘(けふあい)小路(せうぢ)を馬車にて馳走(ちそう)する者」、曰く「斟酌(しんしゃく)なく馬車を疾駆(しつく)せしめ行人へ迷惑を掛し者」、曰く「馬車及び人力車荷車等を往来に置き行人の妨げをなし及び牛馬を街衢(がいく)に横たへ行人を妨げし者」、曰く「荷車及び人力車行逢(ゆきあ)(せつ)行人に迷惑をかけし者」、曰く「荷車及び人力車等を並べ挽きて通行を妨げし者」等々――いずれも如上の軽犯罪に該当して、少なくとも原則的には罰金を食ったはずである。九十カ条のうち六カ条までを割いて強調しているのだから、有言不実行の佐藤政府とはちがって、交通上の人間尊重は大したものだといわねばならぬ。

 それにしても文明の進歩、産業の発達とはいえ、果していつから人間と機械の地位逆転が生じたものであろうか。いつから人間の奴隷化がはじまったのであろうか。以上違式詿違条例の、ただ人力車、荷車、そして馬車とあるのを自動車、トラック、ダンプ・カー等々にさえ変えれば、すべてこれらの軽犯罪? が大手を振って横行しているのが、現在ではないか。仔雀ならぬ、そこのけそこのけ車が通る。人間疎外もいいところである。歩行者天国が一大福音であるとは、あまりにあわれで泣くに泣けぬ。   (71・7) 

補注:違式詿違条例については、いま少し補注を加えないと、誤解のおそれもあるので、以下それをしておく。最初の同条例は明治五年十一月八日付で東京府だけに公布され、五十四条から成っていた。『新聞雑誌』六九号が全条を載せており、簡単には『新聞集成明治編年史』第一巻で読める。これが翌六年七月十九日には改めて太政大臣名で全国的に施行されたのである。但し箇条数は各県の事情に応じて加減があり、現に『明治文化全集』法律篇に収められている愛知県のそれは計百五条になっている。が、総じて九十条というのが大勢だったらしい。なにぶん当時のことで、法令文などをそのままに読解できる人民は少数だったので、各県それぞれに明治初年独特のフリガナつきで画解の類を出し、主旨の徹底普及に力めたのである。『図書』掲載のときは大阪府のそれを挿図に使ったが、こんどは愛知県のものを使うことにした。

 令和4(2022)年7月19日。



  ラコストという男 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.40~41

 首を軽く一つ横に振っただけで、永久にそのなを史上にとどめたという男がいる。そのなはラコスト。例のワーテルロー戦場に近い、なもない村の農夫だった。たまたまこの日、彼はナポレオン軍の道案内として徴発されていたのである。    

 ワーテルローでの関ケ原が戦われたのは、一八一五年六月十八日であった。戦闘開始はほぼ午前十一時半過ぎとされている。戦闘経過の詳細は省略するが、この日の天王山は、ウェリントン麾下の本隊が拠るモン・サン・ジャン高地の争奪戦であった。  

 第一次、第二次の会戦では、両軍の戦勢混沌として、勝敗の帰趨は完全に不明であった。いわゆる第三次会戦の開かれたのは、午後も四時を過ぎてからであった。このとき、全戦線を展望していたナポレオンの双眼鏡は、はからずも正面前方、モン・サン・ジャンの頂きに、突如としてイギリス軍前線の消えているのをはっきりととらえた。明らかに退却の兆しである。戦機まさに到来!

 ナポレオンは馬上から身を屈めると、傍のラコストになにか小声で訊いていた。ラコストは軽く首を横に振った。それから数分、皇帝は敢然として最後の予備隊、ミヨー麾下の胸甲騎兵隊に対し、全力突撃を命じた。が、それからまもなく、およそ誰もが想像しえなかったろうような悲劇が起っていたのである。 

 胸甲騎兵三千五百。ナダレのようにモン・サン・ジャン高地を駈け上って行った彼らが、頂上に殺到した瞬間、そこに見たものは、頂上のすぐ背後に、直下四メートル余、オーアン街道へとえぐり落ちているおそるべき断崖だったのだ。もはや騎虎の勢いはとどめるによしなかった。全軍はほとんどナダレを打って、目白押しに墓穴へと急いだのであった。  

 明らかにこのことが敗戦のキッカケになった。もしこれが成功していたとすればどうか。中央突破による英独(プロイセン)連合軍の分断というナポレオン得意の戦略は完全に達成され、おそらく勝利はふたたび皇帝の頭上に輝いていたに相違ない。

 それにしても、不可解なのはラコステスの一揖である。首を横に振ったのは彼であった。ナポレオンの質問内容は知るよしもないが、おそらく前面地勢の状況についてでも訊いたものに相違ない。ラコストはノーと横に振った。ノーとは、突撃の不可を示したのか、それとも障碍の皆無を意味したのか。ラコストのそれは前者だったかもしれぬが、少なくともナポレオン自身は後者に解したとしか思えないのだ。 

Les Misérables.jpg  それにしても、永久の謎であるこの一揖、とにかく世界史の運命を一変させたかもしれぬのだから、千金どころの値ではすまぬ。ただこの頭の動き方だけで、ラコストのなを不朽にしたのも不思議でない。ところで、この挿話、ちょっとした戦史類なら必ず出るが、もっと簡単には、ユーゴの名作『ㇾ・ミゼラブル』の第二部第一章「ワーテルロー」にも感慨をこめて利用されている。   (71・8)  

 令和4(2022)年7月19日。



  朝鮮の事は相定まり候 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.42~43
――朝鮮の事は全く相定まり候。戦争の結果は如何ニナルニセヨ鴨緑江以南は固より事実上我が版図タル可く候。政府も朝鮮ニ就ては立派ナル決心あり。既に各元老間とも公正証出来居候間、此事は決して心配に及び申さず候。伊藤(博文)侯も廟議の範囲内ニテ朝鮮ニ赴き一仕事スルコトニ相定まり居候ところ、如何ナル風ノ吹き廻しニや豹変沙汰止ミニ相成申候……伊藤侯も朝鮮副王の積もりニテ(ゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝ)、大分色気を出シタレトモ、井上(馨)伯等忠告ニテ、既ニ招聘の御親電迄も製造せしめたる後に於て沙汰止みに相成候。(圏点筆者)     
 明治三十七年八月二十六日といえば、日露役もまだ緒戦の段階をすぎたばかりだが、これはその同日付で、徳富蘇峰が当時ロンドンにあって外債募集に奔走中だった深井英五(晩年は枢密顧問官)宛に送っている私信の一節である。このころの蘇峰は、当時の首相桂太郎とは完全に蜜月状態にあり、その主宰する国民新聞なども、挙げて彼のために御用新聞化させていた。

 それだけに、政府中枢部の消息は、ほとんどすべてツーカーだったわけだが、上記引用一節の興味というのは、さすがに紙上では報道しかねたはずの重要機密を、これはまた正直に私信の上で洩らしているからである。             

 簡単に背景を補足しておく。周知のように戦前までは、日露役の大義名分といえば一に正義人道――日本の防衛と侵露の阻止、そしてまた朝鮮独立(ゝゝゝゝ)のための義戦ということになっていた。が、内実はまさに上記の引用どおりだったのである。「鴨緑江以南は固より事実上我が版図タル可く」というももいい気なものだが、伊藤博文など、緒戦にやっと勝ち進んだばかりで、すでに「朝鮮副王」気取りだったというのだからひどい話である。ついでながら、伊藤の朝鮮行が中止になったというのは、さすがに朝鮮国王のほうで最後のはかない抵抗に出たためだったらしい。     

 国民の知らぬ国際政治の裏側とはすべてまずこの通りだが、それをさえ知れば、翌三十八年十月十六日、日露講和条約の発効を見るや否や、わずか一ヵ月後の十一月十七日には、早くも韓国の外交権を完全に奪った日韓協約の調印が成り、いわゆる統監府政治のはじまりとともに、事実上国として韓国の存在が抹殺されてしまったのも、少しも不思議でない。もちろん、正式に韓国併合の成ったのはその五年後、明治も四十三年になってからだが、要するにそれは、内縁関係五ヵ年後のあらためて公式おひろめだったにすぎぬ。

 さて、なぜこんな話を書いたか。近年また教育の反動化(学校のそれといわず、社会のそれといわず)がいちじるしい。またしても日清・日露両役に対する義戦化の傾向が、学校教科書での評価にまで現われかけてきたからである。そんなことへの反証例としてでも参考になれば幸いである。   (71・9) 

 令和4(2022)年7月20日。



  遺 懐 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』P.46~47

 愛誦歌ついでに今月はひとつ愛誦詩でも一首披露させてもらうことにする。     

 かつて唐時代のあるところに、李坊と呼ぶ篤行の老夫婦がいた。数々の善根を積み、施行(せぎょう)を行い、精修すること二十年というのだから、相当なものであったはず。ところが、にわかに天門が開けたと見ると、金甲もいかめしい軍神が一人、忽然として彼ら夫婦の前に立った。そして曰く、其方ども積年の篤志、善行は天帝のおめがねにもかなった。ついては、なんとか恩賞をとの思召しだが、富貴そのいずれを撰ぶや? いずれなりとも望みのままにまかせるという、これはまた有難さを通り越して夢のような話であった。

 ところがである。この李老人、大喜びするかと思いのほか、いえ、富貴ともに老年の望みではございません。老生が望みは、ただ書を読んだり、庭つくりなどをして、ひたすら人生を楽しむこと、たとえば座敷の前には万巻の書軸をつらね、裏庭には水辺にあの淡竹(ハチク別名アワダケ:黒崎記)などをうえて(堂前羅牙簽、屋後多水竹とあるから、だいたいこんな意味だろうか)、地を掃いて静かに香を焚いて毎日を過す。召使たちの顔までが温容玉のごとしということにでもなりますれば、老生はもう死んでも悔いはございません、と答えた。              

 ところが、かの金神先生、まことにもって奇特な志とでも感心するかと思いのほか、たちまち撥ね返ってきたのは、この大たわけ(大戯)奴が! という一喝であった。そもそもそうした一生というのは、ただこれ神仙だけにゆるされるもの、しかも神仙といえども、さような無上の至福にあずかれるのは果して幾人あるか? 富貴などという下々の福とは比べものにならぬ。其方ごときは、まだまだ三度ほど生れ直して再修するがよい。その上ではじめて玉皇(道教でいう天帝、神のこと)の前に出てお願いできる底の分外な望みなるぞという、これはまた意外のきついお叱りだったというのだ。   

syousousanbousyu.jpg  清朝乾隆期の大詩人袁隨園の歌集『小倉(しようそう)山房詩集』にある五言古詩「遺懐」一首の大意を書き下してみたわけだが、この思想、かのエピクロス(Επίκουρος、Epikouros)の説いた「隠れて生きよ」λάθε βιώσας(ギリシア語:黒崎記)にも通じないでもない、さしずめまず権勢欲の亡者と化した佐藤首相にでもぜひ知ってもらいたい一首ではある。

 ところで、面白いのは、こう詠じた当の随園先生の一生である。官に仕えてこそ志をえなかったが、ひとたび致仕して江寧にその山荘、いわゆる随園を営んでからは、詩文をもって一世の讃仰を受け、富はもとより、女弟子までまじえて多数門人たちにかこまれ、まことに幸福な一生を送ったという。美食家としても天下に鳴り、異った意味でのエピキュリーアンとして、八十二歳の長寿を享受したというのだから、世の中は皮肉である。もっとも、言行不一致などと(そし)るのは野暮であろう。この所懐、やはり心のどかには潜んでいたのではなかろうか。   (71・11)

 令和4(2022)年7月20日。



 小股の切れ上がった女補注 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』P.48~49

 すらりと背が高く、おきゃん(ゝゝゝゝ)で小生意気な女を評した古い言葉に、「小股の切れ上がった女」というのがある。では、小股が切れ上がったとはなにか、ということになると、どうもよくわからないのだ。念のために国語辞典類に当ってみた。『大言海』によると、「女ノ背ノスラリト高キヲ云フ」とあるだけであり、『言泉』はといえば、これもまた「丈のすらりとして小生意気なるさま(女にいふ)」とあるだけ。いずれかがいずれかの踏襲であることは明らかである。(『大日本国語辞典』にいたっては項目もない。)そのほか中辞典クラス数種当ってみたが、新しい知識はなにもなかった。 

 小股はもちろん股であろう。その股が切れ上がったといえば、さしずめ八等身ということにでもなるのかもしれぬが、ミニ・スカートの当代ならしらず、江戸時代の女の服装で、脚部の長短を推知するなど、あまりにも機微すぎる。どうもわからないのである。   

 ところが、故平山芦江(ろこう)氏の随筆「大江戸の迷児」というものを読むと、次のような具体的語源説が出る。元吉原のある老遣手(やりて)婆さんからの伝聞話として紹介されているのだが、それによると、もともとは(さと)言葉から出たものだとある。周知のように、花魁には道中というものがあったが、まだ突出しの時代には内八文字という踏み方をするが、これがお職ともなれば外八文字を踏むようになる。 

 内八文字と外八文字と、踏み方の解説までしている暇はとうていないが、踏み方、つまり、歩き方の内外といえば、たいてい想像はつくかもしれぬ。

 要するに内八文字は歩幅も小さく、すべてしおらしく見えるが、それに対して外八文字となると、自然歩幅も大きく派手になるというのだ。女らしさ、色っぽさを失うことなく、しかもこれを小気味よく、きりりと踏むというまでには、相当の修練を経なければならぬ。さてこそ鮮やかに外八文字の踏めるようになった花魁のことを、小股の切れ上がったと評するようになったというのだ。なるほど、これなら、修練による股関節あたりの変化ということも考えられるかもしれぬ。必ずしもスカートのぞきまでの必要はないよょうである。 

 ところで、断っておくが、なにも淮陰子、この平山説を決め手の語源として紹介しているわけではない。これもまた「だろう解」の一つとして引いているにすぎないのだ。 

 むしろ淮陰子の言いたいのは、そもそもこの国での国語辞書なるものの編集方法に関してである。いずれこの言葉、江戸も末期の遊里言葉として生まれたものであろうことは、ほぼ察しがつくが、では、辞書編集者たるもの、なぜまず軟文学類からの徹底的用例蒐集からはじめないのだろう。それをやらぬから、一人合点の「だろう解」になったり、先行辞書の引き写しというだけの醜態にもなってしまうのである。この国国語学の致命的欠陥といっても言いすぎでないのではないか。   (71.12)

※補注:「小股の切れ上がった女」。同じく七四頁の「再考」とともに、もっとも反響の多かった項目である。いま数えてみても十五通近くに上っている。ところが、その内容たるや文字通りの各人、諸説紛々で、結局確実なことはわからないということだけがわかった。国語辞書ばかりを責めることもできないようである。なにぶん多数の来信なので、とうていここですべてを紹介することは不可能だが、要するに問題は大別すれば、「小股」云々をそのまま直接ヨニに関連させて解釈するか、あるいはより広く脚部全体について言ったものととるか、その二点につきるようである。(もっとも、小股を「襟足」と解し、わざわざ自筆図解まで添えて、「襟足の切れこみの深い美人」との教示を賜った読者もあるが、これだけはたしかに異色解釈だった)。     

okadahazime.kinseisyominbunka.jpg  そんなわけで、来信のすべてを紹介することはできぬが、いま一つ、実は淮陰子も事後になって遅ればせに承知したのだが、とにかく活字になっているものに古川柳研究家岡田甫氏の主宰されていた『近世庶民文化』誌があることを知った。とりわけ第七号(昭和三十七年六月)などは、四篇の小特集をこの話題で組んでおり、ほかにも第一〇号、第一一号、第七九号、第八三号、第八五号などにも関連寄稿がある。だが、それでも甲論乙説には際限がないようで、最後は岡田氏自身が「『小股』私見」の一文で、一応の打ち切りを宣しておられる。ただこれらで淮陰子も改めて教えられたのは、どうやらこの言葉が弘く口の端にのぼるようになったのは、岡田氏も言われるように、明治以降のことらしく、江戸期での文献用例は意外に乏しいという一事だった。とにかく厄介な言葉のようである。

 令和4年(2022)6月09日。



  マルゼルブという人のこと 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.50~51

koutokusyusui.tyuminnsensei.jpg  かつて中江兆民が若き日の幸徳秋水を相手にフランス革命を論じ、談たまたま革命の生む悲惨のことに及んだとき、卒然として、「然り予は革命党也。然れども当時予をして路易(ㇽイ)十六世王の絞頸台上に登るを見せしめば、予は必ず走つて劊手(かいしゆ)(注、死刑執行人)を撞倒し、王を抱擁して遁れしならん」と語ったというのは幸徳の小著『兆民先生』に見える有名な挿話である。もっとも、これは当の革命後百年以上もへだてた日本での仮定談であり、革命党を自称する兆民が、もしその場に臨んでいたとしたら、果してどうしたろうか、多分に疑問ものこるが、以下は現実その局面に処して、「劊手を撞倒し、王を抱擁して遁れる」とまではいかぬにせよ、ほとんどそれに近い出所進退を敢えてしたという、ある政治家の話である。      

 十八世紀フランスの政治家、開明思想家に、クレチアン・マルゼルブと呼ぶ人物がいた。一七八九年の革命勃発、そして九二年九月には国民公会による王政廃止と共和政成立の宣言、つづいてはルイ王自身が革命裁判の法廷に立たされたときである。当時すでに七十歳をこえた老マルゼルブは政界を引退、国外に革命騒ぎを避けていたのだが、王の急を聞くと敢然として帰国、すすんで王の弁護を買って出た。その理由というのがうれしいのだ。「世人がすべて王の閣僚たることを、大いなる栄誉として希い求めていたころ、余は二度までその台閣につらなることをえた。いまや諸人がみな王側に立つことを危うしとするとき、余は彼のためにその奉公を尽すべき義務がある」というのだ。 

 もちろんルイ王は、周知の通り処刑された。そしてマルゼルブ自身も、その後まもなく反革命主義者として逮捕、九四年四月には、幼い孫さえ含めた、一家眷属とともに、七十三年の生涯をギロチン台上に絶った。              

 クレチアン・ギョーム・ラムアニョン・ド・マルゼルブ、若くして啓蒙主義思想に親しみ、ヴォㇽテール、ルソー、ディドロなどとも直接交友があったばかりか、例の『百科全書』の刊行に当っては、ずいぶんと彼の推進があずかって力あったはず。また政治家としては、司法、税制などの改革に大いに力をつくした。ルイ十五世王や十六世王に用いられたことは、たしかに事実だが、それとてとうてい君寵などというものではなかった。だが、それにもかかわらず、最後はすすんで王のために殉じたのだ。現代日本の保守党政治家に見るような転身の妙は、ついに彼にはなあった。  

Sainte-Beuve.jpg  この節義の士マルゼルブ、近ごろのフランス革命史書では、ほとんど無視されがちだが、さすがにサント・プーヴはその『月曜閑話』の一篇(一八五〇・九・二三~二四)を、特に彼のために捧げて高義を讃えているし、いまでは時代おくれといわれるカーライルの『フランス革命史』もまた、言葉をきわめて彼の進退を特筆している。果して古いのか、新しいのか。   (72・1) 

 令和4(2022)年7月22日。



  乱ㇾタル世ニハ、人、官ヲ求ム
――ある割腹諫死者の建白書――
 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.52~53

 明治三年七月二十七日の早暁である。新首都東京の鹿児島藩(県)邸前で割腹自殺をとげた男がいた。名前は横山正太郎(森有礼の兄:黒崎記)、旧島津藩士である。瀕死の横山をとりあえず邸内に収容し、やっと事情を聞いてみると、次のような話であった。       

 御一新とはなのみ、相も変らぬ旧幕そのままの悪政、成上り高官たちの腐敗堕落、そして庶民不在の新政に(ごう)をにやした彼は、前夜おそく痛憤の建白書二通を草して、これを竹にはさみ、集議院(国会のまず原初形態と思えばよい)の門扉にかかげておき、そのあとこの割腹におよんだのだという。死をもっての諫言である。先年(一九六七年)起った由比忠之進老焼身諌死の明治初年版と考えればよいが、ただ横山のほうは二十八歳の青年であった。  

 ところで、この建白書というのが、同年八月十日の太政官日誌(当時の官報)に発表され、上下の深い共感をえたものか、かなりの部数筆写されて流布した形跡がある。とりわけ注目すべきは第一の建白書だが、新政の諸悪九ヵ条を挙げて、痛烈に政府、役人を糾弾しているのだ。主な項目三、四だけを紹介すると、               

 「第一、輔相(ほしょう:黒崎記)ノ大任ヲ始メ、侈靡驕奢(しびきょうしゃ)、上朝廷ヲ暗誘シ飢餓ヲ察セザルナリ。」さしずめ今なら、大臣閣僚以下ことごとく堕落・増長、天皇を欺き、庶民の苦しみを知らず、とでもいうところか。   

 「第二、大小官員トモ外ニハ虚飾ヲ張リ、内ニハみょう利ヲ事トスル少カラズ。」説明は不要。いまの官僚役人とそっくりである。」

 「第四、道中人馬賃銭ノ増シ、且ツ五分ノ一ノ献金等、総テ人情事実ヲ察セズ、人心ノ帰不帰ニ不拘(かかわらず)、刻薄ノ所置ナリ。」愉快である。相次ぐ公共料金の値上げ、そのくせ次々とできる国鉄赤字政治路線、ついでにタクシー料金連続値上げと業界の巨額な政治献金のことまで併せ考えると、なにか現在の事態を漢文調で書いただけという錯覚すら起る。

zien.gukansyo.jpg  「第六、為ㇽニ非ズシテ為故ニ、毎局己ガ任ニ心ヲ尽ズ、職事ヲ賃取仕事ノ様ニ心得ㇽ者アリ。「痛烈である。やたらと拡大する行政機構、能率の低下、天下り官僚の横行、それでいて機構改革といえば、たちまち党をつくって猛反撃に出る。すでに八百年近くも昔に、『愚管抄』の著者、天台僧の慈円は、「治マㇾㇽ世ニハ、官、人ヲ求ム。乱ㇾタル世ニハ、人、官ヲ求ム」と喝破している。符節を合せるともいうべきか。百年ついに河清は期待しえぬものとみえる。   

 「第八、外国人ニ対シ約条ノ立方軽率ヨリ、物議沸騰ヲ生ズㇽ多シ。」どうやら横山青年、百年前にしてすでに日台条約、日韓条約、沖縄返還協定、等々を予見していたとしか思えぬ。反対論沸騰は当然であろう。       

 まだ引きたいが、枚数がない。なにか日本政治の悲しき(さが)を見せつけられているようで、いまこれを書きながらも、まことに情けない。   (72・2)

 令和4(2022)年7月22日。



  汚物はすべて隣りの庭へ 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.54~55

 今年もまた、温帯性低気圧、いわゆるあの台湾坊主なるものの来訪を迎える季節になった。もっとも、このユーモラス俗称、なにしろ発生源が台湾近海と決っているので、別に悪意はないといえるかもしれぬ。ところが、同じ台湾坊主でも、禿頭病の異名となると、これはちょっとひどい。禿頭と台湾と、なんの必然的関係もないはずだからだ。       

 ところが、よからぬことはすべて隣国へなすりつけるというこの発想、少し注意してみると、東西古今、人間の痼疾ともいうべき心理らしいから面白い。正確な学名はなんと呼ぶべきか知らぬが、あのとこじらみ(ゝゝゝゝゝ)科昆虫の一種である通称南京虫である。なぜ南京がその責任を負わなければならぬのか、淮陰子にはとんとわからぬ。また、たとえばあの梅毒である。古来日本では唐瘡(とうがき)と呼び慣わしていたが、さぞかし中国としては迷惑千万な話に相違ない。  

 もっとも、梅毒なるものが突如たる困りものの舶来病であった気持ちはよくわかる。(なにしろ十五世紀末、突然ヨーロッパに爆発的蔓延を見せ、中国にまで波及するのに、わずか十年、つづいて数年後には日本へもお目見えしているのだからである。)それだけに、各国それぞれこの悪疾を俗称した跡をたどってゆくと、まことに興味深い。               

 まずイギリスから、イギリスでは早くからフランス病 French disease, ないしはフランス(がき) French pox と呼んでいた。(天然痘 small-pox の pox である。天然痘の()に対して、さしずめ梅毒は丶() great poxというわけ。)完全に唐瘡と共通する発想である。   

 ところが、愉快なのはフランス側である。これも負けずに、イギリス病 maladie anglaise とやりかえしているのだ。そういえば、やや脱線にはなるが、例のご存知ゴム製品の通称隠語も面白い。フランス側が capote anglaise(イギリス式頭巾つき外套)とやれば、イギリス側では French letter とやりかえす。 letter とは、この製品、包装がちょっと封書を思わせたかららしい。もっとも、この衛生器具の場合は、その最初の考案者が十八世紀イギリスの医師コンドム氏であったとする俗説をさえ信じれば、軍配はどうやら capote anglaise 側に上がるかもしれぬ。が、それはともかくとして、汚物はすべて隣りの庭へ流の発想法からいえば、いずれアヤメともカキツバタとも申し上げかねる。       

 ついでにラテン語にも当ってみた。果してあった。同じ梅毒のことだが、morbus gallicus,そしてまた morbus necapolitanus 等々である。さしずめ前者ならガリア病、後者ならばナポリ病。ナポリのほうは、いずれヨーロッパでの梅毒発祥地がイタリアであることは確実だから、やむをえぬとしても、ガリア(現在のフランス、ベルギーのあたり)のほうは、とんだ冤罪で迷惑ということであろう。が、いずれにしても、この種の発想によってやっと自己満足を感じているらしいお国根性というのが、いじましいのである。補注

補注:ドイツ語でも同様なる旨の指摘をある医師の読者から頂いた。梅毒を frazosen-krankheit, 佝僂病 englishe krankheit と俗称するというのである。なるほど、ちょっとしたドイツ語辞書にも見える。なおこの同じ読書氏は、学生時代に脚気のことを japanishe krankheit と聞いた記憶もあるが、と付記されている。が、これは辞書に載るまでの市民権は得ていないようである。

 令和4(2022)年7月23日。



  負うた子に教えられ 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.56~57

 このところ、上野公園の自然保護という問題が、大きな市民運動の対象になりかけている。京成電鉄、国鉄新幹線というのが、競い合って公園地下の堀返しを狙っているのだから、これが大問題になるのは当然であろう。        

 だが、考えてみればあの公園、明治初年にすでに危うく元も子もなくなってしまうところだったのである。いうまでもなく元は荘厳華麗を誇った旧東叡山寛永寺の境域、現在のそれとは比較にもならなぬほど広大な規模であったが、例の上野戦争で完全に荒廃に帰してしまっていた。ところが、明治三年のことである。西洋軍医の大元祖ともいうべき石黒忠悳(ただのり)などの主唱で、この跡地を大学東校(現東大医学部の前身)の病院用敷地として転用することが、ほとんど計画決定まで見ていたのだ。ところが、ちょうどそのころ旧幕府の長崎医学校お雇い教師だったボードウィン軍医が、帰国の途次、案内されてみて驚いた。一見するなり早く、彼はこれを不可と見た。欧米先進国の都市ならば、この種の景勝地は必ず緑地として保存するはず。よろしく公園にすべきだと説いたのである。案内者石黒のつもりでは大いに自慢のはずだったのだが、ボードウィンのほうはいきなり太政官に公園建設の議を建白してしまったのである。おそまきながら明治政府も負うた子に教えられて気がつき、計画を変更、明治六年一月十五日には太政官布告が出て補注、公園建設が最後的に決定したのだった。ボードウィン軍医こそは上野公園生みの親。彼なかりせば今日をまつまでもなく、絶対にまず上野公園は生まれていなかったに相違ない。  

ookubo.kantousikasyu.jpg  そういえば、大久保利通の『甲東詩歌集』(史籍協会本『大久保文書第九』所収)というのに、次のような一首がある。まず「明治六年八月、泉州高師の浜(たかしのはま:黒崎記)を過ぎ名所の松を伐りたふしけるを見て税所県令に贈る」との前書があり、

  〽おとにきく高師の浜のはま松も世の仇なみはのがれざりけり   

というのである。六年八月といえば、大蔵卿として夏休みをとり、箱根から富士登山、さらには京阪近畿にまで足を延ばしたときのことである。高師の浜は大阪市の南部、のちには浜寺公園になっていた古い有名な歌枕。淮陰子などの知る大正期まではまだ白砂青松の美しい海水浴場であった。が、ここもまた大久保の遊んだ明治六年の頃、やはり文明開化熱で、さかんに老松類が伐採されていたらしいのだ。さっそく彼はボードウィンの故知に思い到った。上の和歌一首を県令に示して、公園建設を示唆したのである。戦前まではこの和歌、歌碑になって浜寺公園の松林中に建っていたのを憶えているが、現在は果してどうなったか。但し、浜寺海岸そのものは今日すでに海上はるかまで工業用地か埋立て造成され、かつての面影など見るよしもない。歌碑一つのこっていたところで、いまさらどうにもなるものではないが。   (72・4)

補注:御布告書「勝句区跡ヲ公園ニ定ムㇽ事」。これによると、具体的には金龍山浅草寺、東叡山寛永寺のそれぞれ境内、京都では八坂神社、清水、そして嵐山のなが挙げられている。この結果、上野でいえば同年三月には宮内省直轄地とされ、一応の整備が行われたところで、やっと九年五月九日、両陛下の親臨をえて開園式が挙行された。なおボードウィンによる献策の件は、『お雇い外国人――医学篇』(鹿島出版会、昭和四十四年)など、この関係の書物ならばすべて出る。

 令和4(2022)年7月23日。 日。



  ポチョムキンの村々 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.58~59

 ちょっとしたドイツ語辞書ならば、きっと「ポチョムキンの村々」 Potemkinsche Dörfer なる、まことに奇異なる成語が見出されるはず。「欺瞞、みせかけ」といったような解がある。(コンサイス独和辞典P.802:欺瞞〔Potemkin将軍が国の繁栄を誇るため南ロシアに見せかけの村をつくりエカテリーナ2世を偽ったことから〕とある:黒崎記)        

 ポチョムキンなどという固有名詞、おそらくそうお馴染みの読者はいまい。知っているとすれば、せいぜいがエイゼンシュテイン監督のつくったソ連映画「戦艦ポチョムキン」くらいのものか。一九〇五年に突発した旧帝政ロシアの黒海艦隊叛乱事件に取材したこの名映画で、いわばその主人公役をつとめるのが、戦艦ポチョムキン号だったからである。   

 だが、この艦名の由来する本尊というものは、もちろん旧帝政ロシアの歴史的人物、グリゴリイ・アレクサンドローウィッチ・ポチョムキンである。グリゴリイ・ポチョムキンとは十八世紀ロシアの軍人、そして政治家だが、よりもっと彼を史上猟奇の人物にしているのは、彼が例の女帝エカテリーナ二世の愛欲史をかざる寵臣の一人、終生少なくとも十二人をこえた彼女の情人群像の中にあって、はっきり五人目、しかも十五年以上にわたって奇怪きわまる関係をつづけたという事実にあろう。         

 出自には今日もなお謎が多いが、とにかくかなり卑賤の出。容姿の点でも好男子などでは決してなかった。醜男(ぶおとこ)の片目、ひどい野人で、どう見ても色男役などではないはずだが、この青年軍人がはからずも女帝エカテリーナの君寵をえた。エカテリーナ四十五歳、彼三十五歳、完全にいわゆる若い燕であった。  

 伝記など詳述している余裕はないが、一七八三年には軍司令官としてトルコを破り、ついにそのクリミア半島を割譲させた。そして黒海艦隊の創設者でもあったわけ。功により公爵に列せられ、まさに功みょうの絶頂にあった。

 さて「ポチョムキンの村々」事件とは、まさにその直後に起った。一七八七年の春、エカテリーナ女帝はドニエブㇽ河を下り、はるばる露土国境まで、豪華きわまる南ロシア巡幸の大旅行をやり、新領土に帝威を誇示したのである。好機到れりとしたのは、いわば新総督ともいうべきポチョムキンであった。行幸の途々、彼は急造のハリボテ家並みの村々を建てつらね、文字通り見せかけの発展ぶりを見せて女帝をよろこばせたのだ。なんのことはない、映画撮影所のセット風景であるが、悦んだ女帝も女帝だし、ポチョムキンの稚気もまた極まれりというべきか。「欺瞞、みせかけ」の語意源はここにある。              

 ところで、この話には実は裏がある。どうやら挿話自体が「ポチョムキン村」らしいので、このデマをばらまいた演出者が、当時のドイツ・ザクセン選挙侯国の駐露外交官だったヘルピッヒなる人物であることまで、今では分明している。ドイツ語辞書だけに見る語彙である所以か。事実エカテリーナをめぐって、今日も伝わる猟奇的挿話の大半は、開けてくやしい玉手箱ではないが、どうやらほとんどこの人物による創作らしいのだ。   (72・5)  

 令和4(2022)年7月24日。



 いやな役職をクビになる捷径 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.60~61

 明治初期の政界に西郷従道(つぐみち)なる人物がいた。いうまでもなく大西郷隆盛の実弟である。芒洋たる人物という点では、隆盛以上とする評者さえいる。武人としても日本最初の元帥府の一人。政治家としては、陸海はもとより、文部、内務、農商務などの諸大臣まで歴任、多様さにおいてはまず記録ものであろう。そのくせ、首相にはついにならなかった。恬淡で権力欲とは無縁だったからである。そのかわり、奇行逸話は多い。もっとも有名なのは、明治十八年伊藤(博文)とともに清国に使し、李鴻章と折衝、天津条約を結んだときのそれである。一夕、李からの招宴を受けたが、見れば宴席には一人の女性もいぬ。やがてシナ酒をガブ飲みした西郷が、率然として大真面目な顔で言った。「一向に御婦人を見かけませぬが、貴国では男が子を産むのでごわすか」と。さすがの老獪李も、呆れて物がいえなかったとあるが、これは有名な話で諸書に出る。

 ところで、以下は別の話。明治三十四年のことである。前年の九月、周知のように伊藤(博文)が、自由党を併せて新党政友会つくった。哀れをとどめたのは旧自由党首板垣(退助)である。このときを境に政界を引退、あとは社会改良事業などで一生をおわるわけだが、そのまず第一着手として設立したのが、風俗改良会と称するものであった。会の目的は、会名だけでも想像はつこうと思うが、ただその総裁として担ぎ出されたのが、西郷従道であった(板垣自身は副総裁)。 

 できた以上、活動はまず宣伝遊説からはじめなければならぬ。三十四年十月には、総裁以下大挙して関西方面へくりだしている。そして十九日には奈良市のクラブで講演会を開いたのだが、はからずもその晩、あるスキャンダルがもち上がった。諸名士たちの講演会とあれば、あとでの招宴はつきもの。ところが、その席で、それまで終始無言だった西郷が、にわかに泥酔、ついには満座環視の中で赤裸躍りまでおっぱじめたのであった。いかになんでも風俗改良(ゝゝゝゝ)会総裁がこれではと、自家のクビはもとより、会そのものまでが、ムッキのうちに葬られてしまったというのだ。 

mitamuraenguo.zuihitu.jpg  ところで、この話、酒の上での脱線どころか、どうやら西郷の秘策だったらしい形跡すらある。もともと彼は、こんな教育ママ的会の設立などには乗り気でなかった。といって、年来の友人板垣からの頼みとあっては、無下に断りもならぬ。そこはこの芒洋居士、引き受けはしたものの、どうやら早くも辞職の機、いや、なんら会そのものの消滅までも、ひそかに考えていたのではないか。それにしても、西郷ならではの奇想天外、ㇳボけたとも、また人を食ったともいえる辞職法ではある。この話、故三田村鳶魚翁の随筆「チョンキナ」が伝えている。但し、その一文に京都でとあるとのは、奈良市の誤りであろう。同年十月二十一日付の大朝紙が、「奈良漬ならでアルコール漬け」と題して、裸躍りの一条までは見えぬが、西郷の乱酔ぶりは、大きくこれを報じているからである。   (72・6)

令和4年5月25日。



 ナポレオンを驚かせた沖縄の話 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.62~63

 武器なき平和の島沖縄という事が、晩年のナポレオンを驚倒させたという話がある。   

※黒崎記:加瀬俊一著『ナポレオン』その情熱的生涯(文春文庫)P.306~312に、〔セント・ヘレナ〕の章に、その島について書かれている。ロングウッドもきさいされている。セント・ヘレナは絶海の孤島である。欧州からは二千マイルも離れている。海底から噴出した火山島であって、黒い溶岩が陰惨な城壁のように嶮しくそそり起っている。気候は殺人的であって、炎暑と寒冷が、一日に幾度もいれかわる。一年滞在して、健康を害さぬ者はすくない。赤痢が流行し、心臓病と肝臓病の患者が多い。と。

 一八一七年八月のことである。艦長バジル・ホールの率いるイギリス軍艦ライラ号というのが、朝鮮半島西岸、琉球諸島への調査航海の帰途、十一日から十四日まで例のセント・ヘレナ島に寄港した。セント・ヘレナといえば、もちろんナポレオン最後の流謫地である。彼がワーテㇽローの一戦に敗れて、この島に送られてきたのが一八一五年十月、以後二十一年五月五日のその死まで、ここで軟禁されていたことになる。 

 ところで、バジル・ホール艦長だが、好機とばかり、さっそく会見を求めたものらしい。いずれ会談は有名なロングウッドの仮宅で行われたのであろうが、当然話題は沖縄のことにも及んだ。そこでいま興味深い要所だけを、多少物語風に紹介すると、だいたいまず以下のようなやりとりだったらしいのだ。 

 まずホールが、沖縄という島には武器というものが一切ないということを話すと、これにはナポレオンが、まったく理解に苦しんだようであった。  

 「武器といっても、それは大砲のことだろうね。小銃くらいはあるだろうが」「いや、それもありません」「じゃ、投槍といったようなものは?」「それもありません」「じゃ、弓矢はどうだね? まさか小刀くらいはあるだろう」「いや、それもありません」  

と答えると、ナポレオンはワナワナと拳をふるわせながら、大声で叫んだ。

 「武器がなくて、いったい何で戦争をするのだ?」「いえ、戦争というものを全く知らないのです。内外ともに憂患といようなものは、ほとんど見られませんでした」

 とたんにナポレオンは、さも冷笑するかのように眉をひそめた。そして、「太陽の下、そんな戦争をやらぬ民族などというようなものがあるはずがない」と答えたというのだ。 

 この話、当のバジル・ホールが著した航海記 Account of a Voyage of Discovery……to the Great Loo-Choo Island (初版一八一八年)に見える。もっともこの話、初版本にはない。第三版(一八二六年)の巻末に加えた付録ナポレオン会見記に、はじめて出る話である。

 いかにもナポレオンの言いそうな挿話であるのが面白い。もっとも、ホールのほうも多少生半可通で、いささかオーバーの気味はある。たしかに沖縄が十六世紀はじめ尚真王のとき、武器撤廃をやったり、さらに慶長十四(一六〇九)年、いわゆる島津征服のあとは、一切の武器が完全に奪われてしまったことは事実だが、それまでは必ずしも戦争を知らなかったとはいえぬ。だが、それにしても、実に五百年に及ぶ武器なき平和の島だったのである。それが沖縄戦以来、大軍事基地群の島、そしてまた自衛隊の島になるとは、変ったといえば変った。ずいぶんひどい話ではある。   (72・7)

関連1:早々と棄てられていた沖縄
関連2:欲に限りなし――沖縄復帰十年
関連3:厳たる史実をも抹殺し去る最も良心的、かつ巧妙な方法について 

※参考:琉球は外交手段によりて一八七九年(明治一二年)に併合された。『日本事物詩Ⅱ』(東洋文庫)による。

 令和4年(2022)6月06日。



  二百年前に舶来されたタッソー蝋人形 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.64~65

 先年東京タワーに、蝋人形館なるものが開設されていることは、ご存知の読者も多かろう。並べられている生人形は、すべてロドンのタッソー工房でできたものだが、本家のマダム・タッソー蝋人形館が、すでに十九世紀初頭以来、ロンドンの観光名物になっていることは、これまた改めて紹介までもあるまい。         

 ところが、このアダム・タッソー蝋人形というのが、少なくとも一基、なんと二百年近くも昔に江戸に到着していたらしいのだ。正確にいえば寛政六年、そして人形の正体は明らかに人体頭部の解剖模型であった。いま少し具体的にいうと、この年五月初旬、長崎の蘭館長、加比丹(カピタン)へムミイの一行が、幕府への貢使として上府、慣例通り日本橋は石町三丁目(現在は室町三丁目)の定宿長崎屋に滞在していた。鎖国の当時として、これはわが国の蘭方医、蘭学者たちにとって、新知識吸収の唯一絶好の機会であった。この年もさっそく大槻玄沢らが主唱者となり、幕府へ訪問許可の願書を出した。幸いに許され、最初の対談があったのが五月四日であつた。玄沢ら三人は、幕府官医に伴われ、胸を躍らせて長崎屋に出向いた。   

 ことはその対談中に起ったのである。いろいろと年来の疑義を質している途中であった。突然ヘㇽミイが一基の蝋人形を持ち出してきて、斡旋役の官医桂川甫周に贈ったというのだ。一見して玄沢らは腰が抜けるほど驚いた。              

 「諸皮ヲ剥テ筋脉(あら)ワㇾ、且耳下機里児睡管等ヲ見ワス。形状色沢宛然ㇳシテ真ニ(せま)ㇽ。其諸筋ノ名号等、医生ケㇽㇾㇽ羅甸(ラテン)語ニテ暗記シ、一々指示ス。頸ノキリ口ヨリ気管食道乃大絡二道見ユ。側面ノ顔色、眼口半ハ開キ、其色沢ノ死相甚タ冷然(すごく)、人ヲシテ瞲視セシム。……奇巧精妙、今ニ(はじめ)ㇴ事ナカラ驚歎スルニ堪タリ」というのだ。今日から考えれば子供のような話だが、彼らの驚いたのも無理はない。   

 ところで、どうやらこの蝋模型というのは、やはりマダム・タッソーの製作品だったらしいのだ。というのは、すぐそのあとにつづけて、「仏郎察(フランス)国都巴里斯(パリス)ㇳ云所ニテ婦人ノ造ㇽ所ㇳ云フ」とあるからである。マダム・タッソーことマリー・グレスㇹルツ(一七六〇~八五〇)というのは、もとはスウィスのベルヌ市(ベルン:黒崎記)生まれだったが、早くからパリへ来て、伯父? から蝋人形製作の技術を学んだものらしい。フランス革命期には、ギロチン処刑者たちの首をつくって一躍名声を上げた。寛政六年といえば一七九四年だから、「パリという所にて婦人の造る所」とあるのにも符合する。彼女が夫テュソー(Tussaud)と別れて、ロンドンに移り住み、マダム・タッソーになるのは一八〇〇年以後だから、この点も在パリの婦人というので正しい。思わぬところで奇縁はあるものである。 

seihintaigo.jpg  なおこの記事、大槻玄沢が書きのこしたこの日の対談記録『西賓対晤』と題する小冊子に見える。もちろん、この記念すべき蝋人形首は、今日すでに失われて見るすべはない。   (72・8)               

 令和4(2022)年7月24日。



  デカンㇱョ節由来考 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.66~67

 ご存知デカンㇱョ節由というのがある。いまの形では、すでに民謡といえるかどうか疑問だが、いまだにいい齢をした老童どもが、酔えば蛮声を張り上げてわめくのだから、思えば呼吸(いき)の長いことだけはたしかだ。            

 ところで、このㇵヤㇱ文句の由来については、。諸説紛々、まことにでたらめが多い。もっともひどいのは、デカルト、カント、ショウペンハウエルの頭文字をつないだものだとする流説である。が、もちろん、こんなのは一高書生節になってからのこじつけであり、とうてい取り上げるには足りぬ。ところが、ここに丹波篠山出身者たちによる親睦誌『郷友』という小誌があり、その三一二号(一九七一年五月)にきわめて興味深い由来話が出ている。真実性が濃いので、とりあえず以下紹介してみることにする。  

 その説によると、発祥は古くから篠山に伝わる(明治初年頃からか)盆踊り歌だというのだ。いま少し詳しく述べると、版籍奉還の旧藩主青山某というのが、郷士子弟の教育に熱心で、毎年十名内外の青少年を上京させては、上級学校に通わせていた。彼らはもちろん、ことごとに故郷の盆踊り歌を唄った。

 明治も三十年近い頃のことだったらしい。彼らは毎夏千葉県は八幡浜(やはたはま)の宿に暑を避けて、海水浴や舟遊びを楽しんでいたが、夜ともなれば、さっそく盆踊りがはじまる。ところがある年、たまたま旧一高の学生連中が、これもやはり八幡浜に来ていたという。書生同士の心安さで、いつのまにか彼らも毎夜合流することになり、こうして篠山の盆踊り歌は、一高にまず移しょくされた。全国流行のキッカケだというのであつ。      

 そういえば歌詞に、いまもって「丹波篠山山家の猿が」だの「丹波篠山鳳鳴の塾で」だの、さては「丹波よいとこ女子(おなご)の夜這い」だのと、奇妙に篠山関係の文句の出るのも、どうやらこの由来説を裏書きする傍証にはなる。

 もっとも、本来の盆踊り歌では、ヨーイ・ヨーイ・デッコンㇱョであったが、一高節となるに及んで、いつのまにかデカンㇱョンになったのだとある。たしかに淮陰子も昭和初年のころ、篠山を訪ねて、本来の盆踊り歌を聞いたことがある。歌詞はほぼ同じだが、はっきりデッコンㇱョとはやしていた。曲節もまた、決して蛮声のデカンㇱョン節ではなく、民謡調ゆたかにひなびたものだつたのを憶えている。

 なお、ついでに『篠山七十五年史』が載せる、さらに古い由来説にまで遡れば、その一つ前はみつ(ゝゝ)節なるものであったという。「破れふんどしゃ将棋の駒よ、角と思ったら金が出た」式の、そこは野趣溢れる土俗調であり、これをヨーイ・ヨーイ・ヤットコセのハヤㇱ文句で受けたものだとある。してみるとヤットコセからデッコンㇱョ、さらに一転してデカンㇱョンに転訛したことになるが、十分ありそうな話である。   (72・9)

 令和4(2022)年8月1日。



  ゲーテとベートーヴェン 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.68~69

 ゲーテベートーヴェンが、はじめて会った折のハプニングについて、古来興味深い挿話が伝えられている。一八一二年七月のことである。場所はオーストリアの有名な温泉場テプリッツ。ゲ―テ六十三歳、べ―ㇳヴェン四十二歳。どちらもここへ来合わせてせていて、はじめて会ったというのである。       

 ある日(七月二十日?)二人して散歩していると、偶然オーストリア皇帝家の一行と行き合った。皇后もいた。ベートーヴェンの庇護者、そして彼が例の「大公」トリオを捧げたルドルフ大公もいた。ところが、行き合った途端にゲーテはベートーヴェンと組んでいた腕を振りほどき、道端に身を譲って、ベートーヴェンが「なんといっても、もはや一歩も進もうとしない」ばかりか、恭しく「脱帽、深く腰をかがめて控えていた。」ところがベートーヴェンはといえば、これまたことさら「帽子を眼深にかぶり、外套のボタンをかけたまま、両腕を背に組んで」、昂然と「人波の中を押しわけてすすんだ。」ルドルフ大公などは帽子をとって彼に目礼し、皇后すらが彼女のほうから挨拶の言葉をかけたにもかかわらず、というのである。  

 この挿話、同年八月という日付で、べーㇳーヴェンがペッティーナ・プレターノなる女流詩人に送った手紙に出るので、有名な挿話になっている。淮陰子は若いころこの書簡を読んで、ゲーテの一面にある大俗物性と、それに対するべーㇳーヴェンの、ロマン・ローランがいわゆる「一徹きわまる共和主義者」とまではいかぬしても、その叛骨精神、硬骨漢人ぶりに大いに溜飲をさげたものだった。だが面白いことに、今日この挿話を読み返してみると、果してゲーテのを単純に俗物性といえるかどうか。また、気を負った二十一歳年少の楽聖の叛骨ぶりを無条件に肯定できるかどうか、怪しくなったのである。案外人間としては、ゲーテのほうがより器が大きかったのではないか、筆者自身の齢のせいとばかりはいえぬような気もするのだ。 

 因みに、この挿話、ペッティーナ宛てにーㇳーヴェン書簡に見えることは、すでに述べたが、果してこの書簡が真物であるかどうかは、いまもって専門学者の間には疑問があるらしい。ペッティーナなるこの女性、ドイツ浪漫派ではちょっと知られた女詩人であり、交友範囲がきわめて広く、事実ゲーテとべーㇳーヴェンの間をとりもったのもこの女性だが、どうやらだいぶ軌道外れの気味もあった女らしく、総じて彼女の書いた回想の類には信憑性がよく問題になる。したがって、この書簡などもよく読むと、事実二、三の矛盾にも気がつくのだが、さりとて満更のウソでもないらしい。あるいは直接べーㇳーヴェンから聞いた話を、書簡体に仕立て直したのかもしれぬと説く一説すらある。が、それはともかく、役者もうまく両大立者が顔を並べており、ある意味ではさもありそうな両者性格像の対照を浮彫りにしている点で、厳密な真偽は二の次としても興味深い。   (72.10)      

 令和4(2022)年8月01日。



 恍惚と明治天皇 淮陰生著『一月一話 読書こぼればなし』――読書こぼればなし――』 P.70~71

waiinsei.iwanamisinsyo.jpg  このところ、とにかく箸がころんでも「恍惚」であり、狆がクシャミしても「恍惚」である。いやはや、たいへんな流行語になったものではある。

 ところで、そのキッカケになった小説『恍惚の人』の題名だが、たしかどこかで作者有吉佐和子女史が語っていたかと記憶する話によると、例の頼山陽の『日本外史』、その巻九の足利正記の中で、三好長慶の老耄ぶりを描いて、「長慶老病、恍惚トシテ不知」とあるのからヒントをえた、とあったように思う。おそらくそうなのであろう。が、それにしても炯眼、よくもまあうまい euphemism (婉曲表現)を掘り当てたものである。

 恍惚の原拠が、ほぼ『老子』第二十一章「孔徳之容」に出る「道之為物、唯恍唯惚、惚兮タリ、恍兮タリ、其中象、恍兮タリ惚兮タリ、其中物」あたりからのものであることは、いまさら改めて披露するまでもあるまい。ただこの場合の恍惚は、もちろん、ボンヤリと自失のさまなどというのでは毛頭なく、むしろ深遠微妙にして、測り知り難い道の本体を意味したものであることはいうまでもない。

※参考:『老子』第二十一章「孔徳之容」は中国古典選10 『老子 上』福永光司(朝日文庫)P.164にある。(黒崎記)

 もっとも、薄ぼんやりと自失の貌を形容した恍惚という用例も、たしかにあるにはある。が、果してそうした転義が、いつごろから特に老人の耄碌ぶりを現す言葉になったものか、浅学の淮陰子はよく知らぬ。むかし東漢の董祀(とうし)なる人物の妻、蔡文姫(さいぶんき:黒崎記)の生涯を伝した「後漢書列女伝」を読むと、彼女の作ったという長詩の一節に「見ㇽニ(クズレ)五内、恍惚生狂痴」との一句もあるが、これはただ流離の悲しみを叙して、その取乱しざまを述べただけで、老人の自失ぶりとは遠いようである。補注が、ただこの有吉流の「恍惚」というのが、すでに半世紀以上も前に、しかも明治天皇最後の御病気と関連して用いられた前例のあることは、あまり知る人もいまいから、紹介しておくことにする。

 天皇御不例のことが、突如として宮内省から正式発表されたのは、明治四十五年七月二十日付の官報であった。以下、簡単に要点だけを引くと、まず明治三十年代末以来の御持病であった糖尿病、肝臓炎が、同月中旬以来にわかに悪化の兆候を見せはじめたことを述べたあと、つづけて、「十五日ヨリ少々御嗜眠ノ御傾向アラセラレ、一昨十八日以来御嗜眠ハ一層増加、御食気減少、昨十九日午後ヨリ御精神少シク恍惚(ゝゝ)ノ御状態ニテ御脳症アラセラレ」云々というのだ。こうして同月三十日には早くも崩御ということになるのだが、「御精神少シク恍惚」とは、明らかにすでに尿毒性の症状が見えはじめ、軽い意識溷濁(こんだく)の状態に陥られたものと拝察できる。ただ残念なことに?、このときは流行語にもなんにもならなかった。大師は弘法に、関白は秀吉に、そして恍惚は有吉女史にそれぞれ独占されたとでもいうべきか。世間とは気まぐれなものである。ふと思い出したから書き留めておく。   (72.11)

補注:病状を形容する語「恍惚」の出典として、ある読者から『東周列国志』第一回に出るという次の一句を示教された。「宣王……遂得恍惚之疾患、語言無次、事多遺忘」云々とある由、但し、淮陰子は原拠未見。

平成28年7月18日



   偶然という曲者 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.72~73

 一九三三年、H・G・ウエルズ(例の『世界史大系』などの著者)の出した長編小説に、『来るべき世界の形態』The Shape of Things to Come と題した一編がある。いわゆる満州国ができたばかりの頃だが、その後の日中戦争の発展、さらには第二次大戦までを見事に予言し、最後は二一〇六年、在来の主権国家はすべて消滅し去り、作者が年来主張しつづけていた単一世界国家 The World State が、ついに実現するというところで終わっている。文明批判の一大空想小説である。

※写真説明;The Shape of Things to Come のぺーパーブック。(黒崎記)

 ところで、小説の紹介が目的ではないので、その辺は一切省略するが、ただ第二次世界大戦勃発のキッカケというのが、ちょっと愉快だから紹介してみる。一九四〇年一月五日、金曜日――ポーランドのさる駅に国際列車が停っていた。たまたま窓際の一つにポーランド商人が一人乗り合わせていたが、この男、総入歯の上に、その出来がまたひどく悪かったと見える。果物(くだもの)の種子でも挟まったものか、大口を開いて両手を突っ込み、窓外に向ってしきりにペッペと唾を吐いていた。ところが、運悪く同じホームに一人のヒトラー・ユーゲント(ドイツ語: Hitlerjugend:黒崎記)が立っていた。てっきり侮辱されたものと勘違いしたのである。さあ、それからが大騒ぎ、とどのつまりユーゲントがピストルを乱射、商人を殺してしまった。これがはからずも一大政治問題となり、最後はついに世界大戦にまで発展したというのである。     

 もちろん、これは空想のフィクション、現実の第二次大戦は、決してこんな馬鹿げた偶発事から起ったわけではない。が、さればとて現実の戦争が、絶対にこんな偶然からは起らぬという保証もない。

 例の第一次世界大戦だが、その起爆剤は一九一四年六月二十八日、ボスニアはサラエボ市(Sarajevo :黒崎記)で突発したオーストリア皇太子夫妻の暗殺事件であった。いわゆる大セルビア(Serbia:黒崎記)運動の若い闘士三人がやってのけたのだが、いま少し詳しくいえば、同日朝サラエボ市に着いた皇太子夫妻は、型通りまず市庁舎での歓迎式に臨んだ。問題はその帰途にあったのである。    

 というのは、その直前になって皇太子からの希望があり、道をかえて病院訪問ということになった。当然コースも急遽変更になった。市長の車を先導に、一行は新しいコースを走りだした。が、運の悪いときは仕方がないもので、伝達に手違いであったものか、先導車の運転手が誤って、旧コースへと車を突っ込んでしまったのだ。注意されて停車、あわてて後退をはじめたのが運命の一瞬間であった。まさにその道路傍に、犯人の一人が機会を狙って立っていたのである。ブラウニング短銃が二発、据膳も同様の皇太子夫妻を見事即死同様の結果にしてしまったのである。 

 ほとんど想像もできぬ運転手の誤解、そして一時停車、後退と――かりにこの偶然がなかったかとて、早晩おそらく大戦は起っていたであろう。条件はすでに歴々としてあったからだ。が、それにしても偶然という奴、やはり曲者であることには変りない。   (72・12)

※H・G・ウエルズ関連:したたかの女、したたかの文筆家 P.222

 令和4(2022)年6月17日。



 小股の切れ上がった女、再考 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.74~75

 一昨年(一九七一年)の本誌十二月号であった。やはりこの欄で、この言葉について書いたことがある。以来この一文ほど、読者諸氏から多数の反響をお寄せいただいたものはない。結論は、現在もなおよくわからぬにつきるのだが、その後淮陰子自身新しく寓目した文章もあり、またそれら反響から示された新解釈もあるので、いま一度取り上げてみる。 

ikedayasaburou.gengonofuokuroa.jpg  小股の「股」が文字通りの股であり、「小」が指小接頭語で(副詞的な意味をも含めて)あることについては、あまり反対意見はなかったが、同じ股にしても、これが女性性器のある特定部分を指すという教示は、正直いって初耳であった。が、これはどうやら故柳田国男氏などもその見解だったらしく、その辺のことは、池田弥三郎氏『言語のフォークロア』(Folklore:黒崎記)にも見える。そのまま引用したほうがよいと思うから引くが、「それによると、『こまた』はやはり身体の部分であって、その線がたてに深くはいっている女のことで、それは結局『床よし』の女のことをさす」というのだ。しかも池田氏は、この見解を知って、「以来、今までのわたしの意見が動揺し……もう少し考え直しはじめているところ」だといわれる。すると、股は股でも、それはきわめて特殊な局部に関する一種の euphemism ということになる。が、ただほかに同種用例の挙げられていないのが残念である。   

 新しく淮陰子の寓黙したものに、木村荘八氏の随筆『しばや・モード・粋』がある。「女がソク(足を割らないでまっすぐ立つこと)で立つ場合に、内輪の足つき(ゝゝゝゝゝゝ)は、足が両方からつく(ゝゝ)に反して、踵は双方離れる。この間にスキ間があいて、『小股が切れ上る』のである――と僕は解釈する」とある。ちょっと意味のとりにくい点もあるが、股を素直に股としている点では、だいたい通説通りと見てよかろうか。  

 驚いたのは、小股は「眼じり」に疑いなしとのお叱りであった。したがって、小股が云々は、「眼が切長で妖艶な女」というほどの意だというのだ。なるほど、わかりよくて好都合ではあるが、さて、小股(ゝゝ)眼じり(ゝゝゝ/rt>)とすろ根拠はどこにあるのか。これまた同種用例をもっと挙げていただかぬかぎり、いくら尤もらしくても、オイソレとすぐなっ得するわけにはいかぬ。 

 一昨年の一文を書いたとき、淮陰子の言いたかったのは、その折りにもちょっと触れたように、わが国の国語辞書編集というのに、まったくといってよいほど、歴史的実証の方法が欠けているという遺憾であった。すべてが編纂者の主観的解釈(ゝゝ)なのである。これではいくら新辞書が出たところで解決はない。こんどまた大部な国語辞典が出るようだが、この項目など、どんなことになるのか注目したい。問題は方法論そのものの根本的反省にあるのであり、単に収録語彙の豊富さだけを自慢するのは、辞書編集法として、少なくとも一世紀近く世界の大勢におくれているといってよいであろう。   (73・1) 

 令和4年(2022)6月10日。



   五分と五分
          ――産業スパイのある挿話――
 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.76~77

 しばらく前、どこかのテレビが、紀行ものの一コマに、南米アマゾン中流、マナオス市にのこる大理石大劇場の廃墟を放映したことがある。なつかしかった。たしかにひときわ目立つ丘のようなものの上に、遠見だけはお城のような偉容を示しているのだが、一歩足を踏み入れてみれば魑魅(すだま)でも出そうな荒廃ぶりである。補注

 正体をいえば、十九世紀も終りごろ、文字通り世界市場を独占していたブラジル・ゴム Hevea Brasilliensis(パラゴムノキ:黒崎記) 景気の夢の跡なのだ。こんな辺鄙に一時は忽然として一大社交界が出現し、いまは廃墟のこの舞台にしても、かつては高名なプリマ・バレリーナのアンナ・パヴロヴァ(露: А́нна Па́вловна Па́влова, Anna Pavlovna Pavlova, 1881年2月12日~1931年1月26日)は、20世紀初頭のロシアのバレリーナ:黒崎記)までが、例の至芸「瀕死の白鳥」を踊った歴史があるのである。当時の成上りどもは、汚れ物までわざわざヨーロッパへ送ってクリーニングさせたなどという伝説すらあるほどの、そんな嘘みたいな千一夜物語が、現実になっていたのだった。     

 だが、では、どうしてまた夏草のような夢の跡と化してしまったのか。  

 話はまず一八七六年の昔にさかのぼる。ある日のこと、アマゾンを発ってイギリスへ帰る一人の紳士がいた。旅券にはヘンリ・A・ウィカムとあった。身分はイギリス公使館の若い外交官であった。補注が、何気なく発つて行ったこの紳士の旅行鞄の底には、ひそかに十数粒のしょく物の種子がかくされていた。ブラジル・ゴムの種子だったのである。やがてそれがアマゾン繁栄の息の根を絶つ運命のサイコロになるなどとは、誰が予想しえたろうか。 

 持ち出された種子は、さっそくロンドンの有名なしょうく物園キュー・ガーデンの土におろされた。まもなく種子は寒い風土の中でヒョロヒョロと芽を吹いた。この間は別に問題もなかったのだが、やがて数年、これが東南アジアのセイロン、次いでマレー半島に移しょくされるに及んで火を噴いた。ゴム産業への強敵出現――その後も品種改良が加えられ、一九一〇年にはまだブラジルの敵ではなかったが、一九一三年には早くも完全にアマゾン・ゴムの全産額を凌いでしまった。以来、驕る平氏の栄華のように、アマゾンのそれも消えてしまったのである。もちろん、現在でもまだアマゾンはゴムを産出している。だが、もはやマラヤ・ゴムの敵でないばかりか、天然ゴムそのものの時代が、とっくに過ぎてしまっているのである。そしてその象徴のように、空しいオペラ・ハウスの廃墟だけがのこった。  

 が、これには今一つ返礼話というものがある。例のジュッタ麻のことである。もともとこのジュッタ麻というのが、インド、パキスタンの特産物であることは周知の通りだが、一九二〇年代も末のことである。こんどは逆に、いつのまにかこの種子がアマゾンに密輸されていた。おかげで今日、原生地以外でとにかくジュッタ麻が産業になっているのは、アマゾンだけ。しかも、もっぱら日本人移民による苦役的労働の場になっていることもまた、世界周知の事実である。五分と五分か。(この一篇については、後述「いささか六菖十菊だが」を参照。)   (73・2)

補注:重ね重ね、これもいくつか重大な誤りを犯した。この話、実は有名な伝説にしたがって書いたのだが、大筋はともかく、事実はかなりちがっているらしい。とりわけ、茨城大学の中川浩一助教授からは多数の資料コピーまで送って頂き、示教に与ったので、とりあえずそれらによって訂正する。(小さな誤りは本文でも訂正したが、大体は好奇的伝説の形をのこすために、わざと発表時のままにした。)まずウィカムを外交官と書いたのは誤り。早くからイギリスしょく民地でのしょく林事業に執念を燃やしていた多少、山師的でもあった青年らしい。但し、アマゾン・ゴムの盗み出しについては、インド政庁からの嘱託をうけていたというから、公用旅券の使える身分の人間だったことだけは確実である。つまり、ブラジルのヘヴェアに狙いをつけたイギリスとしては、早くから大規模な産業スパイを計画していたのであり、苦い失敗のあと最後に成功したのが、三十歳(一八四六年生まれ)の青年ウィカムだった。持ち出した種子は十数粒どころか、何万という数字もある。「鞄の底にひそかに」云々も誤り。むしろ税関当局を買収、堂々と密輸船で運んだとの説もある。したがって、キュー・ガーデンで発芽した苗木も千本以上に上ったというのが真実らしい。以上、大体はツィシュカ Anton Zischhka 著『ゴム二百年史』(橋本八男訳、大鵬社、昭和十七年)に拠ったが、実は細部にわたると、学者の書いた資料でも微妙な食いちがいがあって困るのだが、とにかく中川氏の御芳志には篤く感謝を申し上げる。

 令和4(2022)年7月10日。



 内村鑑三が夜這いをしたという話補注 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.78~79

 信じない人もいるかもしれぬが、とにかくそんな話が活字になって遺っているのである。まず話のイキサツからはじめることにする。明治三十二年(内村三十九歳)十一月二十四日深夜の出来事であったという。当時内村は、一方では『東京独立雑誌』を発行するとともに、この年七月からは、新宿角筈(つのはず)にあった私立女子独立学園(現在もある精華学園の前身)という学校の校長を引き受けていた。ところが、この学校の裁縫教師兼舎監というのに、飯山某なるすこぶる美人の未亡人がいた。さて、上にも述べた日の深夜であったが、この飯山某の舎監室に内村が訪ねて来て、泊まるぞというなり、寝床の中へ入り込んでしまったというのだ。某女の申立てによれば、もちろ拒絶、蹴飛ばしまでしたのだが、内村は一度構内の自宅に帰ると、すぐまた取って返して来て、一枚の免職辞令を手渡した。(一説によると、このとき内村の妻静子は病後静養で、ある温泉に長期滞在中だったともいう。)さっそく某女が、教頭某に駆け込み訴えをしたから大騒ぎになった。結局校長と教頭の大喧嘩となり、さらに一種の校内裁判にまで発展したが、とどのつまりは教頭のほうが逆にクビになったというのである。

 ところで、この話、ぜひとも出所を書いておかねばなるまい。教頭某とは、いまは故人だが、中国キリスト教、とりわけ景教の研究者ということで有名だった佐伯好郎博士のことであり、以上の話は、その佐伯が昭和三十六年「内村鑑三事件の顛末」と題して書き、現在も遺稿集(一九七〇年)に収められている。以上はその一文の要約にすぎぬ。  

 もともと淮陰生は、内村をもって聖人君子視するつもりなど毛頭ないし、またこの話、彼が独立女子学校の校長だったり、また年来の若き協力者であった佐伯と、この時期以来はほとんど絶交同様になったりしたことなどは、すべて事実である。が、さてそのキッカケが、どこまで果してこの通りだったか、そこまではなんとも保証しかねる。とりわけ引っかかるのは、この一文、いわば死人に口なしともいうべき内村の死後、三十年以上も経ってから書かれたものであり、また事実の記述がすべて飯山某女の自供だけに拠っていることである。まるまる無根とも決めかねるが、といって、こうした場合、女だけの言分というのは、先の歌手森進一のスキャンダル事件ではないが、ずいぶん誇張もあり、妄想すらありうるのだ。内村としては弁明の余地もない時期になって発表されたのが、どうも淮陰子には不満である。おまけにこの一文、少しでも注意して読むと、学者らしからぬずいぶん幼稚な事実の誤りも目につく。もちろん、内村というのも激情では人一倍の人物、十歳年少の佐伯もまた人間としては一癖も二癖もあることで有名であった。そんな関係で、あるいは起こるべくして起こった喧嘩だったのかもしれぬが、それにしてもキッカケがややお粗末である。   (73・3) 

補注:おそらく内村崇拝者側からであろう、ちょっとした物議をかもした。気持はわからぬでもないが、淮陰子に尻をもちこまれるのはいささか疝気筋であろう。佐伯氏がときにこの事件を一部の人に洩らされていたらしいことは、遺稿集の追憶記にも見えるし、また問題の一文が晩年の昭和三十六年に書かれ、生前こそ筐底に秘めておられていたようだが、『遺稿並伝』では飯山マツ女の免職辞令まで掲げて収められているのである。遺稿集は昭和四十五年の出版、いまでもときに古書店に出まわっている。お気に入らずば遺稿集編集委員たちにこそ抗議されるべきではないのか。しかも淮陰子は別にこの一文の事実を、そのまま鵜呑みにするとは書いていないはず。またかりにこの一文がある程度事実だとしても、それによって内村なる人物への評価を変えるつもりなど毛頭ない。「酒の勢いで」書かれたものだろうが「発表されないほうがよかった」などという非礼な来信もあったが、お節介もいいところ、もちろん黙殺した。

 平成29年(2,017年)6月09日

参考:佐伯好郎博士は、言語学・法学・歴史学など複数分野にまたがる西洋古典学の研究・教育で大きな業績を残したが、特にネストリウス派キリスト教(景教)の東伝史に関する研究で国際的に有名になり「景教博士」と称された。また日ユ同祖論の最初期の論者としても知られる。戦後は故郷・廿日市の町長を務めるなど、戦災や原爆で荒廃した広島県の再建に尽くした。

 経歴

 大学卒業まで

 広島県佐伯郡(現・廿日市市)で父・友七と母・トヨの間に生まれる(生家は厳島神社神主職を務めた佐伯氏の流れをくむとされる)。長じて上京し東京専門学校(現・早稲田大学)に入学して英文科(法律科とする説もある)に学び、1890年(明治23年)に卒業した。この間、19歳の時英国聖公会の東京築地教会で洗礼を受けキリスト教徒となった。卒業後、1893年アメリカに渡航したのち、当時英領であったカナダに移りトロント大学で言語学を専攻して英語・古典語の習得につとめ1895年卒業した。

 英語教師・言語学者として

翌1896年に帰国した佐伯は、母校・東京専門学校および和仏法律学校(現・法政大学)などの英語科に出講し、正宗白鳥らの学生を教えた。その後彼は矢田部良吉に認められ、1897年春、高等師範学校(現・筑波大学)に招かれ講師となった。しかし1899年9月には同校を辞職し、かねてから尊敬していた内村鑑三が校長を務める独立女学校(現・東海大学付属望洋高等学校)の教頭となった。また内村が主筆をしていた東京独立雑誌の社員になった。しかし佐伯はほどなくしてある問題で内村と正面衝突し1902年には同校を退職、再び東京高師の講師に復帰して同校の附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)の英語科主任となり、鳩山一郎らを教えた。その後1907年~08年の欧州視察を経て1913年(大正2年)には第五高等学校(現・熊本大学)教授、1916年以降東京高等工業学校〈現・東京工業大学〉で教鞭を執り、1922年より明治大学法学部で講師として新設の羅馬法講座を担当した。

 景教学者として

 英語教育のかたわら、佐伯は日清戦争を契機としてネストリウス派キリスト教(景教)の研究を志すようになり、1904年、33歳のとき英語学から中国学への転向を決意、1911年には景教研究の最初の著作『景教碑文研究』を刊行した。1931年(昭和6年)東方文化学院東京研究所(戦後東京大学東洋文化研究所に吸収)の研究員となり(~40年)、同年、北京でシリア語の詩編の碑石を発見し、1935年『景教の研究』を刊行した。1941年1月には東京帝国大学(現・東京大学)から、景教研究により文学博士号を授与され、1943年それまでの中国キリスト教史研究の集大成といえる全5巻の大著『支那基督教の研究』を刊行した。学位論文の題は「支那に於いて近頃発見せられたる景教経典の研究」

 戦後の活動

 第二次世界大戦末期の1944年より戦災を避けて故郷・廿日市町に疎開していた佐伯は、戦後の1947年1月、既に老齢(76歳)に達していたにも関わらず同町の町長に選ばれ、1956年9月まで在任した。同時期には、広島在住の文化人により同じく1947年9月に結成された「日本文化平和協会」の副会長に選ばれ、原爆投下により灰燼に帰した近隣の広島市の再建についていくつかの助言を行った。

 その一方で1952年頃犬塚惟重を会長として結成された「日猶懇話会」に顧問として参加するなど、多彩な活動を展開し、最晩年の1962年10月には日本人として3人目の「早稲田大学名誉博士」となった。

1965年6月26日、老衰の上に肺炎を併発し廿日市の生家にて94歳で死去した。

参考:1883年に「女子独立学校」として東京都新宿区各筈に開校し、1910年に「精華高等女学校」と改称、戦後は「精華女子高等学校」となって、1973年に現在地に移転した。1974年に運営母体である学校法人精華学園が学校法人東海大学と提携し、東海大学創立者である松前重義が理事長に就任、翌1975年に「東海精華女子高等学校」(校長 鈴木哲子)、1977年には「東海大学精華女子高等学校」に校名を変更した。1986年には男女共学化に伴い校名を「東海大学付属望洋高等学校」に変更し、現在に至る。「ウエブ」による。



 シャチと鯨 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.80~81

 排水量約七万ㇳン、四六センチ主砲という、世界海軍史上にも空前絶後である大鑑巨砲撃主義を誇った日本海軍が、あえなく空海からするアメリカ機動部隊攻撃の好餌となり、ほとんど海底の藻屑と化し去った記憶は、あまりにも生々しい。なんのことはない、巨鯨がシャチ群にやられた形である。厖大な図体よりも機動性が勝ちという貴重な戦訓だが、考えてみれば、決して新しいものではないのだ。戦史上いくどかくりかえされているはずだのに、性懲りもなく悟れぬというのが、やはり人間智慧のあさましさか。

 はるかに遠い例は古代ローマ、アンㇳニウスとクレオパトラの連合軍がオクタウィウスに破れた例のアクティオン海戦にある。もちろん、敗戦原因については、クレオパトラの戦場逃亡をはじめ、いろいろと理由はある。だが、それらの最大なものは、やはり機動性の優劣が決定的であった。連合軍の戦艦群は三段𣓤船(ガリオン)はまだしもとして、実に八段、十段の𣓤船が大部分であったという。ブルタルコスによる辛辣な形容をかりれば、「豪華で、まるで祭礼の出車然たるもの」があったとある。これに対してローマ海軍の主力艦は、すべてリブルナと呼ばれたせいぜいが三段𣓤、大部分は二段𣓤の軽量快速艦艇であった。果してその機動性が活用され、さんざんに連合海軍を打ちのめした。ローマはよほどこの戦訓を噛みしめたらしい。オクタウィウス、のちにアウグスㇳゥス帝になっても、その海軍は絶対に三段𣓤以下に抑え、それももっぱら通商保護を目的に、アドリア海とナポリ湾とに二艦隊を常備するだけで、長くそれがローマ海軍の伝統なったという。

 ところで、次は一五八八年七月、イギリス海軍が例のスペイン無敵艦隊(アルマダ・インペンㇱプㇾ)をイギリス海峡に迎え撃ち、完膚なきまでにこれを撃破した有名な海戦である。詳しい数字は省略するが、艦艇数においては、イギリス海軍はほぼ二対三以下の劣勢だったばかりでなく、主力艦の偉容においても完全に負けであった。だが、結果上述の勝利を獲た。これも理由はいろいろとあるが、やはり最大は機動性とその戦術とにあった。つまり、スペイン側の考えた海戦というのは、古代そのままの舷々相摩し、最後は敵艦上に陸兵を送り込み、艦艇甲板上を陸兵用戦場にすることであった。(その証拠に水兵は僅か一万足らず、実に二倍半近くの陸兵をのせていた。)これに対してイギリス海軍の作戦は、すぐれた快速機動性を利用して接近戦を避け、練磨の砲術で随所に撃破し去ることであった。奇妙なこれは海戦で、二十一日から断続十日間ばかりもつづくのだが、遭遇、奇襲戦の都度まんまと成功し、英西両国、ヨーロッパ覇者としての地位をまで逆転させることになるのだった。ここでもまたシャチが鯨に勝ったのである。それにしても軍人という専門家、史家ミシュレの言草ではないが、何物も歴史から学ばぬというのが悲しい宿命なのであろうか。   (73・4)

※プルタルコス(46ころ―120ころ)古代ギリシア最大の伝記作家、エッセイスト。日本では英語式の呼び方プルタークでよく知られる。ミシュレ(1,798―1,874)フランスの歴史家。(黒崎記)

 令和5年6月。



 いわんや悪人をや? 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.82~83

 マキアヴェㇼの『君主論』第十八節、「いかにして君主は信義をまもらねばならぬか」を読むと、教皇ボルジア(アレッサンドロ六世)を評した次のような一節がある。

※参考:マキアヴェッㇼ著黒田正利訳『君主論』(岩波文庫)P.112 第十八 君主の契約履行について

 「彼は人々をだますこと、そしてまた、どうすればそれができるかという、そのことだけしか考えていなかった。彼ほどふんだんに保証をばらまき、また彼ほどその約束の実行を強く誓言した人間もいないが、同時にまた彼ほどそれを守らなかった人間もいない。そのくせ、彼は常にそれら欺瞞に成功しているのだが、おそらくそれは彼がこうした人間の一面について、実によく知っていたからであろう」というのだ。

 アレッサンドロ六世とは十五世紀末、スペインのボルハ(ボルジア)家から起って、それこそ文字通り買収と策謀とで、ついに教皇にまでのぼったイタリア・ルネッサンス期な代の人物である。その一生は、まことにこのマキアヴェㇼによる要約の通りだったはずだが、これを読むと、どうやらそんな昔の話ではないような気もする。公約くらいはいくらでもする。小骨一本抜かぬなどと誓言はするが、あとはもうアジャラバーでうじゃじゃけてしまうのは、どこかそこいらの政界、財界などの大立者とやらに、いくらでもいそうであり、それで位は人臣をきわめるというのまでそのままである。 

tenrorekitei.jpg  ところで、いまひとつ、例の『天路歴程』の作者ジョン・バンヤンに、「悪人(バッド・マン)氏の一生」と題した対話体物語がある。ところが、この主人公の悪人ぶりというのは、およそ大久保保清(連続殺人犯)や雅樹ちゃん殺しの犯人などとは遠い。なんと、

 「私は信心深げな様子もできれば、無信心らしくもできます。何にでもなれますし、何物でもないような様子もできます。私自身誓言をしながら、誓言はよくないともいえます。自身嘘をつきながら、大いに嘘の罪を鳴らすここともできます。酒を飲み、女に戯れ、人を欺しながら、それによって少しも良心を苦しめないこともできます」というだけにすぎないのだ。慄然としない人間がいるだろうか。

 が、さらに興味深いのは、この悪人氏の臨終である。一人が、「さぞ苦しんで死んだでしょうな」と訊くと、そのときの目撃者というのが、「いえ、仔羊のように静かに死にました」と答えるのである。が実はこれこそが真の悪人なのではなかろうか。淮陰子は考えるのだが、大久保淸や栃木県の尊属殺し実父などが、とうてい真の悪人だとは思えぬ。強いていえば、なんと悲しい悪人、むしろみんな気の毒な人間なのである。真の悪人というのは、山の手あたりに城郭のような豪邸を構え、財は巨億を積み、社会的栄誉は絶頂をきわめたという連中にこそあるはずだ、と信じている。悪い奴はよく眠る? 「仔羊のように静かに」死んだというのが利いているのではないか。   (73.5)

 令和4年50月3日。



 早々と棄てられていた沖縄 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.84~85

 敗戦も必至という昭和二十年の春である。ひそかに中立諸国を通じて、和平の打診が試みられていたこと、そしてついに七月十二日には、勅命による近衛特使のソ連派遣ということまで一応決まったことは、いまではすでに知る人も多い。

 だが、受諾した近衛が、表面こそ白紙交渉との触込みだったが、その実「和平交渉の要綱」なる文章までまとめていたことは、あまりひろく知られていない。全文は長く、とうていここでまるまる引くことはできぬが、領土関係の部分だけは、いま見ても興味深いから紹介してみることにする。

 全文は「要綱」と「解説」とに分かれているが、「要綱」の一節、「条件」なる項によると、まず国体の絶対護持を(イ)に挙げているのは別として、次の(ロ)領土問題については、「なるべく他日の再起に便なることを努むるも、止むを得ざれば固有本土を以て満足す」とある。

 そこで当然問題は、固有本土とは何かということだが、この抽象的表現も、「解説」の三項「条件について」を見ると、実に具体的になる。曰く、「固有本土の解釈については、最下限(最悪の場合ということか)沖縄、小笠原島、樺太を捨て、千島は南半部を保有する程度とすること」というのである。近衛派遣そのものがすでに手おくれで、流産に終ったことは周知の通りだが、それで思いあわされるのは、サンフランシスコ平和条約に見る領土条項である。ほぼこの通りの上に、千島など近衛私案以上にもぎとられたことになる。

 が、いまここで注目したいのは、いかに近衛私案(ゝゝ)にせよ、このときすでに沖縄が「固有本土」としては考えられず、早々と棄てられかけていたことである。ついでこの一ヵ月足らず前まで、非戦闘員だけでも二十万以上という県民犠牲を強いられたはずの沖縄だけに、とうてい簡単には読みずごせない。単なる近衛および一部側近の私案だといってしまえば、それまでだが、事実彼はこの案を天皇に示し、御璽まで添えた親書として携行する決意だったらしい。果してこれを私案とだけ言い切れるのであろうか。

 ところで、政府は最近また「固有領土」ということで、千島二島の返還をしきりに宣伝しだしている。言やよし。だが、ただ一抹疑いの残るのは、いったい支配層の考える「固有領土」とは、厳密にいって何かという一事である。どうも状態次第で伸縮自在のように見えるのが不思議である。  

 因みにこの文章、さすがに外務省編集『終戦史録』には収められていない。寓目したかぎり、全文のあるのは矢部貞治著『近衛文麿』下巻だけのようである。私案にすぎぬというのかもしれぬが、政府も内容を知っていたらしいことは、『史録』にもそれとなく出るし、といって、直ちに近衛派遣を中止という動きがあったとも別に見られぬ。都合の悪い資料だからといって、できれば抹殺というのは、やはりひどい。補注   (73・6)    

※補注(八五)「これを(近衛)私案とだけ言い切れるのであろうか」と書いたが、果して私案どころではないことが、後日談だが分明した。昭和五十二年六月六日、外務省が第三回目の外交秘密文章公開を決定した。敗戦直前から連合軍進駐直後の一時期までが含まれているという。問題は近衛私案にある北千島放棄の一件だが、今回の公開文章によると、これはすでに五月十一~十四日の最高戦争指導会議にかけられ、はっきり合意を見ていたことがわかる。この最高戦争指導会議の公文書類は、昭和二十七年出版の外務省『終戦史録』二巻にもすでに公開されているわけだが、さすがに上述北千島放棄に関する合意の要所だけは、「以下省略す」との数語でさりげなく隠されていた(上巻三三二頁)。二十七年という段階ではやはり公開しかねたのであろうか。 

 令和4年(2022)5月31日。



  知性人の泣きどころ 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.86~87

 もちろん享保元年、彼が幕政から退けられて後のことだが、あの合理主義、批判精神の権化とでも云いたいような新井白石が、次女ます? の縁談に関して、メドキ(蓍)占いにまで縋っている事実がある。享保二年二月二十六日付、親友室鳩巣宛の長文書簡にそのことが見える。みずから立てた卦まで詳しく書いて、鳩巣の意見を求めているのだが、いかに六十歳を超えての失意の身だとはいえ、あの鬼と呼ばれた剛腹の白石としては異様である。娘のほうはすでに何度か縁談に失敗した上に、いままた新しい話が出ているのだが、どうにも決しかねて思いあぐねているのである。白石ばかりではない。妻女や妻女の母までが関帝籤や観音籤などというのに縋っている。それでもまだそれらの占いだけでは、「俗人の分別に埒明かぬ」とか、「私心にひかれ候」おそれもあるからと述べて、肝心の決断は、「御遠慮なく十分の思召」を、といったような形で綿々と訴えつづけているのだ。まことに白石らしからぬ弱気である。

 齢老いて不遇の身、縁遠くなった娘の幸福を祈る心は痛いほどよくわかるが、それにしても大知性人白石にして、なおこの人間的弱さがあったかと思うと、興味深い。(なおこの縁談は結局まとまり、翌三年末には五百石取りの小普請役市岡某というのに嫁している。ついでにいえば、上述鳩巣の書簡に「メドキに問ひ候」とあるのは、みずから卦を立てたものか、それとも市井の易者にでも頼んだものか不明。御示教を乞う。淮陰子にはどうも前者のように読みとれるのだが。)     

 さて、話は変るが、十六世紀のイギリス女王エリザベス一世といえば、当時全ヨーロッパの政界、外交界でもなうての大知識人女性であった。古典語はもとより、フランス語、イタリア語、のちにはスペイン語まで、通訳なしで外国使臣との折衝に当れたというのだから、大変なものである。またその外交技術、政治家操縦は、無気味なまでの巧妙さ、老獪さをきわめていたといわれる。だからこそ、長年にわたる宗教抗争で、すさまじいまでの流血史を綴っていたイギリスを、見事に彼女を中心とする統一国家にまとめ上げ、一挙に欧州列強の一つに仕立上げたのだ。が、この比類ない女傑にも、実に愉快な女弁慶の泣き所があったというから面白い。ある侍医の伝えるところによると、最後の死因は強度の慢性憂鬱症であったというのも、あまり彼女らしくないが、それよりも不思議なのは、羽毛の上にさえ寝ているかぎり、絶対に死なぬという奇妙な迷信から、終生ついに脱けられなかったらしいことである。したがって、彼女は実に死の三日前まで、頑としてベッドにつくことを肯んじなかった。かわりに、床に並べた羽毛入りクッションに、あくまで頑張って臥しつづけていたという。もちろん、彼女最後の病床については、いろんな流説がありすぎて、果してこの通りだったかどうかまでは保証せぬが、とにかくこれは当時相当信頼度のある資料に載っている一説である。   (73・7)                   

 令和4(2022)年7月24日。



  運命は嗤う 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.88~89

 かりに十一世紀中頃の話としておく。イランの東部、フラサン地方のネイシャプールと呼ぶ町に、賢者との名声高いある師某について学ぶ三人の少年がいた。みんな傑れて頭がよく、大の仲好しであった。あるとき次のような盟約を誓い合ったというのである。もし三人の一人がまず世に顕れたら、必ずそのものが他の二人にも援助の手を伸べようというのであった。       

 最初に出世をしたのは、アブ・アリ・ハサンと呼ぶその一人であった。新興セㇽジュク・トルコの皇帝(スルタン)に仕えて名宰相(ワジㇽ)と謳われ、ニザーム・ウル・ムㇽク(国の管理者)という尊称まで受けるようになった。そして忠実に彼は盟約を実行した。まず盟友のハッサン・ベン・サバ―は、彼の推挙によって宮廷に職をあたえられた。だが、最後のウマル・ハイヤームだけは、いささかちがっていた。栄職などに望みはない。若干の年金をさえもらえれば、あとは退いて学究にいそしみたいといった。これももちろん受け容れられた。果してその後大数学者、天文学者になり、そのなはいわゆるジャラリ暦制定者の一人として、世界科学史上にまでなをとどめることになる。いや、それよりも、あの高名ないわゆる『四行詩』(ㇽパイヤーㇳ)の作者といったほうが、世界的にはより知名かもしれぬ。     

 が、問題は先のハッサン・ベン・サバ―にあった。宮廷での処遇に不満だったらしく、まもなく奇妙な陰謀事件に關係して失脚、シリアなどを放浪したまではよいが、やがて回教の狂信的分派イスマール派を糾合、これを恐るべき秘密暗殺団に仕立て上げて、その首領におさまったのである。現在のテヘラン西北、カスピ海の南に連なる険阻な山岳地帯にアラム―ㇳ山塞を構えると、ほとんど中東全土に向って黒い刺客を送ることになった。しかも最初の犠牲者の一人は、なんと少年時代の親友ニザームであったという。彼とその後継者たちは「山の親分(シャイホ・ㇽ・ジャパル)」と呼ばれ、この暗殺団(アサシン)の存在は全回教圏を慄え上がらせたばかりか、やがて例の十字軍時代がはじまると、そのなは遠く欧州にまで喧伝された。組織は全中東を通じて秘密裡にはりめぐらされ、十三世紀も中葉になり、やっとモンゴル軍の猛攻によって山塞が陥るまで、猛威をふるいつづけた。血盟テロ団のはしりである。           

 周知のように、今日暗殺者を意味する欧州各国語はすべて assassin であるが、その語源は、この血盟テロ団が愛用した大麻麻薬 hashish(ハシシユ) からといういうのが一応の定説である。(創立者八ッサとする一説もあるが。)麻薬の使用で宗教的陶酔を買い、刺客としての血盟を固めたからだといわれる。

 さて、この少年時の盟約の話、当のニザームの「山の遺訓(ワシアーㇳ)」にまで出ているというので、かなり有名なのだが、信憑性までは保証せぬ。事実的にも無理があり、うまく出来すぎているのがかえって臭く、おそらく後世になって生まれた伝承であろうが、ただ人間運命の皮肉なあざないを現わしている点では興味深い。   (73・8)          

 令和4(2022)年7月26日。



  高士か、スパイか 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.90~91

 六々山人石川丈山といえば、風雅の高士として通っている。徳川初期の人。詩文を愛し、書は隷をよくし、ひたすら人を避け――等々と七面倒臭いことをいうよりは、むしろ京洛北の一乗寺に、例の詩仙堂なる一字をのこした人といったほうが、一応の紹介には簡単かもしれぬ。もう晩年に近いころのことだが、以後ふたたび鴨川を渡って京の市域に入る意志のない旨を詠じたという、 

  わたらじな瀬見の小川は浅くとも

   老いの波そふ影もはつかし                

の一首など、床しい隱士の志を述べていい歌である。

 ところが、面白いことにこの丈山が、実は幕府からの意をうけ、ひそかに宮中関係の動静を探るスパイだったという流説がある。とりわけ近年、くりかえし強調していたのは故宮武外骨氏であった。彼は富岡鉄斎翁からの直話まで挙げて、ほとんど断定に近い肯定をしている。(雑文集『面白半分』、また『明治密偵史』など参照。)      

 もちろん、外骨氏だとて確証をもって言っているわけではないし、淮陰子もまたすぐ鵜呑みするつもりはない。が、人間、いつ、どこで、どんな疑いをかけられぬものでもないという点だけでは、ちょっと興味がある。ところで、面白いのは、これらの流説、江戸も中期、享保頃から以後出はじめることである。まず大野信景の「塩尻」、松崎堯臣の「窓のすさみ」などに、無学ぶり、粗暴さ――大した故もなしに商人を殺害したにもかかわらず、不思議と不問で通ったなどという悪口が出、やがてスパイ説にまで発展するようである。                

 石川氏は徳川家普代の臣、丈山自身も若くして家康の近侍となり、剛直の聞えが高かった。ところが、たまたま大阪城夏の陣で抜け駆けの先陣功みょうを立てたことが軍令違反の罪に問われ、そのまま薙髪(ていはつ)、致仕してしまった。一種の居直りである。(もっとも外骨翁などは、これをも世を欺く狂言だったとするのだが。)が、ただ疑えば疑えるのは、牢人後も長く、所司代板倉重宗などとはたえず密接な交わりがあったばかりか、一度など例の松平伊豆守信綱上洛のときは、わざわざ一乗寺まで彼を訪ねている事実がある。宮中との接触の跡もある。

 もとよりこれだけでスパイの証拠にならぬことはいうまでもないが、ただ強いて手がかりらしいものを一ついえば、丈山後半生の寛永期から寛文期にかけては、問題の後水尾上皇半世紀にわたる院政時代であった。後水尾も一種の傑物であった。外戚徳川氏の専権に対する彼の憤懣ぶりは、有名な御製「葦原よ茂らば茂れおのがまま、とても道ある世とは思わず」の一首に見ても明らかであろう。その後水尾の存在を考えて、苦肉のスパイ策まで弄したというのなら、あるいは考えられぬでもないが、それにしても当時はまだ藩閥体制もきわめて強力、果してこんな小手先芸まで用いる必要があったのであろうか。   (73・9)

 令和4(2022)年7月26日。



   文弱か? 勇武か? 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.92~93

 モンテーニュの例の『エセー』の一篇「衒学(ぺダントリ)について」(pedantry:黒崎記)(第一巻第二十五章)を読むと、最後に次のような興味深い挿話が出る。「ゴート賊がギリシアを劫掠したとき、すべての図書館が兵火を免れたのは、彼らの中に、図書というものは敵に軍事訓練を怠けさせ、怠惰な坐業に専念させる効果がある、だから、このまま敵の手に残すべきだ、と進言するものがいたからだ」というのだ。  

 蛮族にしてはひどく洒落れた智慧の所有者がいたことになるが、実はこの話、最初は十二世紀東ローマ帝国時代の年代記者ゾナラス Joannes Zonaras の『世界史要』(エピトメ)に出る記事なのである。ことは二六七年、突然アテネがゴート賊遠征隊に占領されたときの出来事らしい。このころゴート蛮族は黒海沿岸を根拠地として、前後三回にわたる有名な海賊大船団を遠征させているが、これは三回目の最も大規模な遠征隊のときであった。彼らはダルダネス海峡をこえてエーゲ海に進出、小アジアの各地や島々を荒らしたあと、ついにピレエウス港から上陸、アテネを占領してしまったのだ。

 もとより文化財などに毫も関心のない彼らのこと、さっそく図書館という図書館の蔵書類を山と積んで、まさに焚書の寸前であった。そのときはからずも上記の皮肉な智慧者が現われ、おかげで蔵書もすべて無事ですんだというのである。

 いささか詭弁めいた匂いもしないではないが、それにしても目に一丁字もない(目に一丁字もない:一つの字をも知らない。無学である:黒崎記)はずの蛮族部隊長の中に、驚くべき洞察者がいたものである。だからこそ、モンテーニュもさっそく賛成して、かつて一四九四~五年、フランス王シャルル八世がイタリア遠征を行い、ナポリ王国、トスカナ大公国などを無血占領したときの勝利に触れ、この思いがけない容易な勝利は、イタリアの王族や貴族たちが、すべて勇気を鍛えるよりも、明知で博識であることだけに熱中していたからだとした諸侯の見解に支持を表明している。 

 もっとも、この挿話については、例の『ローマ帝国衰亡史』の著者ギボンも、その大著の第十章で引いている。但し、彼はこの話をもって、ゾナラスの作り話ではないかと疑うばかりか、かりに事実だとしても、大いに史上の事実とは外れていると反論するのである。すなわち、彼ギボンによれば、史上軍事的にも強力、文化的にも偉大だった国民はいくらでもある。「ほとんど同時にあらゆる種類の才能が発揮され、総じて学芸の時代は、同時に軍事的勝利の時代でもあるのが常であった」とまで強調するのである。

 果して蛮族部隊隊長(それともゾナラスか)の洞察が正しかったか、それともモンテーニュの賛成説の方が正しいか、ちょっと難しい問題で、とうてい淮陰子などには判定しかねる。これはもう日本の歴史でも、東洋、西欧の歴史でも、検討対象になりうる時代はいくらでもあるはずだから、あとはよろしく読者諸君の御賢察にまかせることにしたい。   (73・10) 

 令和4(2022)年6月23日。



   世は歌につれ…… 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.94~95

 今年(一九七三年)の初夏ごろ、アノネノネとやらいうグループ歌手の唄う「赤とんぼ」なる歌謡がひどく流行った。「赤とんぼ、羽根をとったらあぶら虫、あぶら虫、肢をとったら柿の種、柿の種……」とやらを、ただ反覆するだけの唄である。ところが、この夏、首都東京の空には、何年ぶりにかで赤トンボの大群が現れたという。ある週刊誌の記事によると、この歌謡の流行が、俄然これらの大群を呼んだのだとの話まで巷には流れたそうである。まさかとは思うが、この種の付会、古来決して珍しくないから、二、三を紹介してみたい。  

 幸田露伴に、「(しん)(とお)る」と題する短い随想がある(全集ならば第三十巻)。大正十二年、例の関東大震災のあとまもなく書かれたものらしいが、一節にこんな記事が出る。震災の直前、野口雨情つくる例の「河原の枯(すすき)」なる流行歌が、天下を風靡していたそうであるが、その後、日ならずしてあの大震災が来た。露伴はいうのだ。「其歌詞曲譜ともに卑弱哀傷、人をして厭悪の感を懐かしめた。……大震大火が起って、本所や小梅、到るところ河原の枯れ芒となった人の多いに及んで、唱ふ者はバッタリと無くなつたが、回顧すると厭な感じがする」と。

 なにしろ博学宏碩の露伴翁のこと、この一文にはほかにも同様の事例が、日中の史書類からいくつか挙げられているが、より下世話に砕けて面白いのは、明治末から大正初期にかけて流行したある俗謡の話である。「たんたんたんたん田の中で」にはじまり、以下農婦が裾をからげて水田を往来する描写があり(もちろん、ノーズロスである)、「田螺(たにし)も呆れて蓋をする」との句で結ぶのだが、上記露伴翁の随想によれば、その後まもなく東都に大洪水があったらしい。「童幼皆これを口にするに及んで、俄然として江東大水、家流れ家洗はれ、婦女も裳裾(もすそ)をかかげて右往左往するに至った」とある。

 淮陰子のは乏しい知識だが、それでもほかに有名なのが一つある。中国は南朝、陳の後主叔宝は、亡国の王でこそあったが、また一代の風流児でもあった。ことに詩曲に巧みで、みずからの作を、後宮の美女たちに歌わせ、日夜客を集めて遊楽に耽ったが、その名作の一つに玉樹後庭花というのがあった。曲詞ともに哀婉をきわめたとあるが、その一句に、「玉樹後庭花、花開クモ、不(マタ)ㇱカラ」とあったのを、時人は(しん)となし、国の運命もまた久しからざるの兆しとなしたということが、陳書、南史、隋書などに見える。つまり、いずれもう陳国も近く亡ぶだろうとの噂が囁かれたのである。事実、その後数年にして亡び、後主自身も新興の隋の捕囚となり、一生を終えた。こんな類例、探せばまだいくらでもあるであろう。

    ところで、その名作の玉樹後庭花だが、いまはもう読む人も絶対にまずあるまい。だが、ただ名前だけは、唐代の詩人杜牧の絶唱「泊秦淮」の結句、「隔テテ猶唱後庭花」になって不朽にのこされているのだから、以て瞑すべきか。皮肉である。   (73・11) 

 令和4(2022)年8月17日。

 



 常識のウソ 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.96~97

 近来しきりにまた、いわゆる南北問題というのが話題になる。いうまでもなく、先進国対開発途上国という重要課題についていわれるのだが、では、近年にわかに経済大国に成り上った日本は、その北なのか、それとも南なのか? もちろん、言下に誰も北と答えるであろう。現に「北の巨人」とやらいう言い方まで、世界的にできあがっているそうである。だが、しばらくこれを地理的にいって、果して日本は、そんなにも完全に北なのかということになると、案外奇妙な事実にぶっかるから面白いのだ。 

 まず戦後日本の最北端といえば、断るまでもなく北海道は稚内市の一部、より正確にいえば弁天島ということになつている。北緯にして四五度三一分あまり。毎年シベリアからの有難からぬ贈りものということもあり、たしかに冬は豪雪地帯である。だが、四五度あまりという北緯度線、はるかに遠く西方へと延長してゆくと、なんとそれは「春や春、春南方のローマンス」ではないが、南欧イタリアのヴェニス、さらにはミラノのすぐ南あたりを通過することになる。位置と風土との皮肉な関係であろうが、北どころか、結局日本全土は、すっぽり地中海圏の中にはまりこんでしまうことになる。これが果して北なのであろうか。 

 まだある。インド、そしてパキスタンといえば、当然誰しも南アジアの酷暑地帯を想像して疑わぬのでなかろうか。だが、たとえばあのニュー・デリーである。そのニュー・デリーの緯度線をそのまま東にのばすと、やっとわが奄美大島あたりにはなるが、決して沖縄諸島とまでは南に下がらぬ。ましてやパキスタンの奥地カシミールの最北境などといえば、ほぼわが新潟県の北部か、福島県あたりに当るのだから、ちょっと狐にでもつままれたような思いになる人もいるのではないか。なんのことはない、「東北地方」の入口なのだ。 

 そういえば、つい先ごろ、常識のウソとやら題した本を書いて、立派にベストセラーに仕立て上げたドクトルがいる。もちろん、こちらは医学、薬学、栄養学などという内容にかかわるものでないが、いわゆる常識の錯覚というのは、地理の上でもずいぶんある。暇なときのクイズにでもしてみれば、意外と愉快な事例があるはずである。 

 ついでにいえば、こんなこともある。いったいパナマ運河とは、東西どちらからどちらへ抜けているのか、問うてみるのも一興。おそらく百人中の九十九人までは、もちろん日本からいえば、太平洋から大西洋へと抜けるのだから、西から東へに決まっている、と答えるにちがいない。ところが、なんとさにあらず、事実は逆に東から西へ――より正確には東南から西北へだが、とにかく経度からいえば、やはり東から西へだから面白い。つまり、あのパナマ地峡なるものの形成している奇妙な湾曲部が曲者なので、それがさせるちょっとした悪戯なのである。   (73.12) 

参考:ソ連がウクライナ侵攻の首都キエフ市(キーウ):北緯50度25分,東経30度30分(樺太北部,フランクフルト(ドイツ), ウィニペグ(カナダ)とほぼ同緯度)。日本の旭川市(北海道)や仙北市(秋田県)、軽井沢町(長野県)などとほぼ同じ気候である。(黒崎記)     

 令和4年(2022)6月08日。



  なんとも小気味よい話 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.100~101

 正月早々、いささか品下る話題になりそうなのが、どうも恐縮だが――            

 『古事記』上巻を読むと、イザナギ、イザナミ両親国つくりの話のすぐあとに、これはまた上述両神の対決という有名な件りがつづく、ところは冥府、黄泉比良坂(よもひらさか)とやらの麓あたりらしい。女として恥しい場面を見られたイザナミの怒りもさることながら、清姫ならぬその執念におそれをなしたイザナギは、道の真中に大石(手引きの岩)を挟んで、ついには夫婦縁切りの宣言まで口にしてしまう。怒りに狂ったイザナミは、「ならば、お前の国のものども、毎日千人ずつ絞め殺してしまうぞ」と叫ぶ。が、それに対するイザナギの応答が、また見事だった。「その儀ならよし、俺のほうは毎日千五百人ずつ生ませてみせる」というのだ。おかげでその後は、「一日(ひとひ)に必ず千人(ちたり)死に、一日に必ずℌ千五百人(ちいほたり)生れる」ことになったとある。まるで今日の人口問題まで予見したような話である。  

 なんとも羨ましいほど壮大な生産力で、淮陰子など大好きな一件(ひとくだ)りなのだが、ところが、これにも劣らぬ壮快な話が、男を女に変えるだけで、イタリア・ルネッサンス期のある人物についても伝えられているから面白い。しかも、前者は神話だが、どうやらこれは史実らしいのだ。 

 女主人公のなはカテリーナ・スフォㇽツァ伯爵夫人。女だてらに北イタリアはロマーニャ地方、イーモラ、フォルサなどの事実上領主として、一四九九年にはかの悪名高いチェーザㇾ・ボルジアの侵入軍を相手に最後まで抗戦、敗れて捕えられはしたが、とにかくしたたかに手を焼かせた。どうやら巴と板額を一緒にしたような女傑だったらしい。が、同時にまた、不幸にもあわれな女性でもあった。実父のミラノ公も兄も、彼女がまだ少女時代に暗殺されているし、最初の夫も第二の夫も、これまた家臣たちの叛乱で凄惨な謀殺に遭っている。高名なメディチ家から出た第三番目の夫だけが、やっと畳の上で死ねたというほどの不運な女でもあった。       

 ところで、ここらあたりまでの話なら、まずたいていのチェーザㇾ関係の文献にも出ているのだが、以下あとの挿話だけは淮陰子も知らなかった。カテリーナ二十四歳、上述もした最初の夫が謀殺された直後である。殺した領主の遺骸を城の窓から丸裸で逆吊りにして陰謀者たちは、当然つづいて開城を迫った。彼女の子供を拉して、明け渡さねば殺すとおどしたのである。が、それに対する彼女の応酬というのが、実にまた小気味よかった。城壁の上にすっくと立ったかと思うと、いきなり前をまくった。そして叫んだというのだ。 

 「馬鹿奴、これさえあれば、子供などいくらでもつくれるのを知らんか!」と。

 いずれ当時の年代記類にもも出ている話なのだろうが、もちろん、淮陰子などには読めぬ。以上はすべて塩野七生さんの好著『チェーザㇾ・ボルジア』に拠った。出所を記してお礼を述べておく。補注   (74・1)       

補注:この話、マキアヴェリの Discorsi (邦訳では『ローマ史論』あるいは『政略論』)第三巻巻六「陰謀について」にも出るが、これでは「敵に恥部を示し、子供などこれでいくらでもつくれるぞと叫んだ」とあるだけで、塩野さんの一文ほどの生彩はない。 

 令和4(2022)年8月02日。



   日本最初の百科全書? 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.102~103


 明治二十五年に出た『明治宝鑑』と題する書物がある。昼寝の枕にはもってこいほどの一冊本だが、背の上部に金文字で The Japanese Professinal and Industrial Encyclopedia とあるから、やはり百科全書をな乗ることでは本邦最初のものであるかもしれない。補注(例の『明治事物起源』にだけは当ってみたが、百科事典の項はないようである。)編纂者は松本徳太郎という人物。序文によると、どうやら独力、五年がかりほどで仕上げたものらしい。松本というのは、察するところ、どうやら洋行帰りの文筆家らしいが、それ以上のことは不明。多少座右の文献で調べてみたが、名前の見えるのはなく、それ以上は必要もないからやめた。  

 もっとも、百科全書とは称しても、近代的百科事典とはだいぶちがう。むしろ国勢通観、年鑑類、紳士録、ごく簡単な法令全書、歴史人物事典、等々を一冊にしたようなものであり、著者もまた「明治の大節用集」を期したにすぎぬと、序文の中で記している。これもその一節だが、英語系の year book や cyclopedia の類を数種類、名前を挙げているから、明らかにこの種の実用書を志したものと思える。そのかぎりでは、今日になって当時のことを書くとき、まことに便利重宝なので、淮陰子もときに利用しているが、もちろん、それそれ以上の紹介に値するほどの著述という意味では決してない。

 では、なぜそんな本の話をいまごろ持ち出したかといえば、実はこの本の九〇六~七頁の間に、日本全図(ゝゝゝゝ)と題した見開きの地図が挿入されており、それによると、なんと千島も沖縄も伊豆七島も小笠原も完全に切り取られて、まったく出ていないのが面白いからである。南でいえば鹿児島県がサイハテであり、あとは種子島も奄美大島もない。琉球諸島にいたってはもちろんである。北でいえば国後(くなしり)だけはあるが、これが全千島を代表して、あと以北の島はカケラすら見当たらない。明治二十五年といえば、台湾、樺太などの見えぬのは当然としても、「固有の領土」とやらの沖縄、千島までが削られているのは、紙面の都合もあったのかもしれぬが、いやはや呑気な話ではある。  

 それで思うのは、戦後今日にいたるまで、地図で北千島を除いたとか入れたとか、またその着色をどうしたとかで、いくどかやかましい問題になったことが、新聞などで話題になった。それから思うと、この宝鑑の日本全図、まことにのんびりした話である。別に問題化したという話も聞かぬから、何事もなく見すごされていたのであろう。 

 が、ただ一つ、いまごろこんな話を紹介すると、さぞかし沖縄県の人たちは、さてこそ差別観は歴然たりというわけで、眼の色をかえるかもしれぬ。たしかに明治十二年の琉球処分にはじまり、戦中戦後とつづく本土日本の対沖縄政策には、明らかに差別処遇の実績があるからつらいのだが、やはりそんな潜在意識がこんな全図をつくらせたのであろうか。   (74・2) 

 令和4(2022)年6月22日。



   私悪は公益 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.104~105

 淮陰子もときに真面目な話をすることもある。

 経済史でもやっているほどのものならだれでも承知している事柄だが、十八世紀イギリスにバーナード・デ・マンデヴィルという人物がいた。もともとはオランダ人なのだが、のちに帰化してイギリス人になった。生業は医者だが、やはり一種の小百科屋で、十八世紀はじめに「私悪即公益」という副題つきの『蜜蜂の話』と題する一書を出した。詩と散文とを収めたものである。当時のイギリス社会を背景に物した本書の内容を、とうていここで詳説することは不可能だが、要するに、それは痛烈な人間不信論に根ざしたスウィフト流の逆説諷刺だったと思えばよい。

 一言でいえば、浪費は悪徳であり、節約貯蓄は美徳なりとする通念を逆手にとり、浪費こそは商売繁盛、社会発展の基、つまりは「私悪即公益」ということを主張した諷刺だったのである。私悪即公益などといえば、さぞかし現代日本の大企業経営者や商社マンは、わが意をえたりとよろこぶことであろうが、たしかにその後につづく功利主義や自由競争資本主義の精神は、明らかにこの思想系譜を発展実践したものであることにまちがない。 

 もちろん、こうした考え方が、いかに資本主義下社会とはいえ、二十世紀に入って大きく修正を受けたことは事実である。だが、他方また例のケインズ教授などは、その名著『雇用、利子および貨幣の一般理論』の中で、大いにこのマンデヴィルを再評価している。なんなら大幅の公共投資をばらまいてでも、有効需要を増大させろという例の論法である。 

 もっとも、マンデヴィルのこの著、出版当時に在っては猛烈な攻撃を浴び、一度は法廷で有害の書という判決を受けたこともあるし、マンデヴィル自身もまた「悪魔人間」 Man-deville などという悪名まで頂戴した。

 ところで、うれしいのは「私悪即公益」という副題である。たとえ隣人たちを犠牲にしても、私欲追求の商人道徳の利己主義が、社会の繁栄をもたらすという次第でる。さしずめいうところの石油危機を「千載一遇の好機」と見て、ひそかに価格吊上げを通告したゼネラル石油の全社員など、諸手をあげてよろこぶところかもしれぬが、但し、この『蜜蜂の話』、さすがにヤミ値吊り上げや、買占め、売惜しみの私悪までを、公益とは述べていないのだから、その辺はぜひまちがえないようねがいたい。つまり、有効需要の増大や消費、いや、浪費すらが、あるていど経済の成長、とりわけ完全雇用の達成という公益に役立つことはたしかだが、逆に売惜しみやヤミ値吊上げが公益になることなど、絶対にまずないからである。 

 この奇書『蜜蜂の話』というのは、戦後(一九五〇年?)故一橋大教授上田辰之助氏の手で、邦訳はもとより、研究論文までついで出ていたはずであるが、絶版にでもなったものか、近ごろはほとんど見かけない。惜しいことである。ぜひ復刊を望みたい。   (74・3)

 令和4(2022)年7月02日。



  政治家が金をもらうとき 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.108~109

 その日、政治家であり、また現役閣僚の一人であった彼は、孫をつれて映画を見に行くはずであった。昭和二十二年十一月二十三日、もとの新嘗(にいなめ)祭、いまでいう勤労感謝の日のことである。ところが、その日、彼は映画館へ出かける途中、とある某の自宅に車を寄り道させた。某とは、これまで一面識もない男であったが、ただその二日ほど前、突然これは旧知の友人二人ほどから、ぜひある実業家を紹介したいので、会ってやってほしいとの依頼があり、しかも時間、場所ともに、これら両人からの指定だったのである。上述した某なる人物の自宅がそれだったことはいうまでもない。

 車を表に待たせたまま招じ入れられた彼は、十分間ばかり、問題のその実業家というのに会った。相手は二人、さる会社の社長と、そして常務という肩書が、それぞれの名刺にはあった。だが、その会社名というのは、彼がこれまで聞いたおぼえもないものだったという。  

 用件は、国会関係のことでのある依頼であった。が、とうてい引き受けかねる内容だったので、彼はその場できっぱり断った。もっぱらしゃべったのは常務であり、社長のほうとはお互いほとんど言葉も交わさなかったという。こうして十分間ほどの会見は終った。                   

 ところが、中一日おいて二十五日の朝であった。突然(ゝゝ)その常務というのが、彼の公舎を訪ねてきて、いささか金の用意をしてきたが、受け取ってもらえるだろうか、と切り出したのである。彼はちょっと考えたが、案外簡単に、「有難う、いただきます」と答えてしまった。改めて調べてみると百万円あった。

 話はそれだけのことだが、以上彼とは民社党の元委員長、そして当時片山社会党内閣の官房長官だった西尾末広であり、実業家とは悪名高かった昭和電工社長日野原節三である。だが、この一場の挿話のおかげで、西尾は翌二十三年例の昭和電工疑獄の被告になり、無罪にはなるが、一時雌伏時代のつづくことは周知の通り。       

 さて、上記の百万円は結局収賄とは認められず、単なる政治献金ということで無罪になるわけだが、淮陰子など、およそ政界などは遠い世界に生きている人間にとっては、やはりなんとも異様な感想の湧くことだけは致し方ない。政治に金がかかることはよくわかるが、それにしても名前すら知らなかった会社の社長から突然(ゝゝ)百万円という大金(今日狂乱インフレの百万円ではない。味噌、醤油の手土産すらが、結構大手をふって随喜された昭和二十二年の百万円である!)が贈られるというのも変であり、受け取る西尾にしても「政治献金とはこんなものだろう」くらいの気持で、アッサリおさめたというのだから、なんとも不思議な世界での出来事である。政治資金の問題は、今日なお大きな謎の一つだが、その意味でこの挿話大いに興味がある。もちろんこの話、昭電疑獄の記録物なら必ず出る一条だが、ここでは『西尾末広の政治覚書』(毎日新聞社刊)の一章に拠った。もっとひどいのがいくらでもいるはずだが、金銭に関する政治家の感覚まで出ているのが面白い。   (74・5)

 令和4(2022)年7月26日。



 ある国盗り大みょうの家訓 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.110~111

 「早雲殿廿一箇条」と呼ばれる文書がある。いうまでもなく小田原後北条五代の祖でる北条早雲の家訓書。   

 世に武将の家訓家法として伝えられるものは数多いが、この廿一箇条ほど無類に異色で、興味深いのは、世界でもめずらしい傑作ではないかと思う。いずれ武将の家訓という以上、仏神を尊び、文武を励み、奉公の心得を説くなどは当然だが、変っているのは、日常生活の隅々にまで指示をあたえている諸条項で、これはまた小うるさいほど具体的に詳細をきわめているから面白い。枚数のゆるすかぎり、二、三を紹介してみる。

 曰く、「五ツ以前に寝しづまるべし。夜盗は必(ず)子丑の刻に忍び入者也。宵に無用の長談義、子丑にねいり、家財をとられそん亡す。外聞しるべからず。」つまり、夜は八時前に寝よ。えてして泥棒の入るのは午前零時から二時頃。無用の雑談などで夜更しをすると、とかくその難に遭う。みっともないから早寝して、朝は寅の刻(四時)には起き出でよ、というのだ。門にいたっては、夕方六時には、「はたとたて」、あとは人の出入りごとに開ければよろしい、というのだから厳しい。

 また起きても、手水(ちょうず)を使う前にまず「厩、庭、門外迄見めぐり」、掃除の場所などはちゃんと申し付けておけ。しかも「水はあるものなればとて、ただうがひして捨べからず」とあるから、これもまた実に細かい。さらに日中「すきありて宿に帰らば、厩面よりうらへまはり、四壁、垣ね、犬のくぐり所をふさぎ(こしらえ)さすべし」とまでなると、主人の心労もまた大変である。下女まかせなどは以ての外だというのだ。「下女のつたなきものは、軒を抜て焼、当座の事をあがなひ、後の事をしらず」とある。たしかに使用人の粗漏で火事を出したり補注、金銭の使い方も無責任というのは、事実かもしれぬ。 

 友を選べともある。「悪友をのぞくべきは、碁将棋笛尺八の友也」とあるのは、少々耳の痛い向きもありかもしれぬ。往来での立話などは避けて通るべし。近よる。「況や我身雑談虚笑(など)しては」、主人はもとより、「傍輩にも心ある人には、みかぎられべく候也」とある。衣装持物の虚栄的競争心なども論外。「見ぐるしくなくばと心得て、なき物をかりもとめ、無刀かさなりなば、他人のあざけり成べし」というのも、どこか現代を諷しているようにすら見える。  

 もうスペースがないから、あとは省略するが、全文一読の価値は大いにある。(簡単には『群書類聚』武家部に全文が収録されている。)もともとこの北条早雲という人物、出自のほども明らかならず、やっと姉の縁で今川氏に仕えたのが開運のはじまりで、最後は相模伊豆の国盗り大みょうにまでおさまった男だが、それだけに、やはり下情にはよほど通暁していたものと見える。一見姑か小姑をでも思わせるような、痒いところに手の届きすぎるほどの小うるささすら見えないでないが、さすがに卑賤から出て、後北条五代の基を固めた人物だけのことはある。全文一貫して仮な文で書かれているのもめずらしい。   (74・6)   

補注:「軒を抜て焼」を「使用人の粗漏で火事を出し」としたのは、どうも誤りかもしれぬ。昔のカヤ葺屋根は低く、軒先からヒョイと一握りほども抜けば、イロリやカマドの焚きものにすぐなる、そのぶ精を戒めたものではないかとの御注意を、東北大学名誉教授(経済史専攻)中村吉冶氏から頂戴した。あるいはそうかもしれぬ。

関連:北条早雲について、神坂次郎著『男 この言葉』の中の北条早雲

 令和4年(2022)6月07日。



   これでもうボリヴィアは消えた 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』P.112~113

 南米中部にボリヴィアという内陸国がある。年配の読者ならば、古くから日本人移民のことで承知の向きも多かろうし、若い世代なら、チェ・ゲバラ落命の地として記憶に新しい国かもしれぬ。 

 長い間スペイン領であったが、十九世紀初頭に解放戦を闘い、独立をかちえた南米諸国の一つである。ただ変っているのは、四面まったく海洋に面せず、しかも事実上の首都ラバスを含む国土の五分の二というのが、平均四千メートルをこえるアンデス高地(アルティ・プラノ)(Altiplano:黒崎記)の一部になっており、南米のチベットなどと呼ばれることもある。さて、以下はそのボリヴィアで、百年ほど前に起ったという話である。   

 一八六〇年代末から一八七〇年代にかけてだが、ㇹセ・マリアノ・メㇽガレホと呼ぶ、軍人上りのおそろしくひどい独裁者大統領が、このボリヴィアに現われたことがある。一八六八年のことであった。ある日このメㇽガレホが、各国外交官たちを招待して、盛大な夜会を催したという。ところが、そのときイギリス公使某だけが断固として出席を拒んだ。理由は必ずしも明らかでないが、伝えるところによると、そもそもこの夜会というのは、メㇽガレホがその情婦某のために催した宴であったというのだ。いずれ素性も芳しからぬ女だったらしい。当時のイギリス女王ヴィクトリアというのは、政治家や軍人などの私行道徳については、おそろしくやかましい女性であった。その辺を察して、この公使某もあえて招待を断ったのであろうか。

 怒り心頭に発したのはメㇽガㇾホ大統領であった。乱暴至極にもこの公使某を逮捕すると、裸にして驢馬の背に縛りつけ、首都ラパスの広場を、三たびまで曝し者にして引き廻したばかりか、「好ましからぬ人物(ゝゝゝゝゝゝゝゝ)」として、国外追放にしてしまったのである。 

 事件を知らされたヴィクトリア女王は、もちろん激怒した。なにせ今日のイギリスとはちがう。七つの大洋のその領土に、太陽の没することを知らぬと豪語した大英帝国の黄金時代であり、その海軍は世界最大、最強を誇っていた。さっそく艦隊を派遣し、威嚇の砲撃を打つ放せとの厳命であった。

 が、あわてたのは側近であった。陛下、御命令ではございますが、軍艦が山にでものぼりませぬかぎり、そればかりは御無理でございます。ボルヴィアには海がございませんので、と申し上げた。

 これには女王も驚いた。それでもよほど口惜しかったらしい。かたわらの鵞ペンを取り上げたかと思うと、いきなり地図上のボルヴィアを、クシャクシャに抹殺してしまった。そして静かにのたもうたというのだ、「さあ、これでもうボリヴィアなどと申す国は消えてしまったぞ」と。

 あまりもよく出来すぎている話なので、おそらく半ばは虚構の伝説であろう。だが、面白いことにこの話、いまもって中南米史、とりわけボリヴィィアを読むと、必ずといってもよいほど出てくるから妙である。   (74・7)

関連:虚実皮膜のあいだ.

 令和4(2022)年7月07日。



 ある二発の砲弾 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.114~115

 日本海海戦といえば、いくらいまの若い人たちでも、多少は知ってもいようが、その約一年近く前の明治三十七年八月十日にあった黄海開戦となると、知る人ははるかに少ないのではなかろうか。もっとも、近年司馬遼太郎氏が『坂の上の雲』を書き、それには当然、この海戦のことも詳細に出ているが、なにしろあの厖大な伝記小説、果して何人の読者が、こんな一海戦のことなど記憶の中にのこしてくれただろうか。だが、少なくとも淮陰生にとっては、とうてい忘れえぬ神秘な運命の啓示が、この一日の出来事の中にうかがえるように思う。だから、その点だけを紹介してみる。

 黄海開戦とは、一言でいえば、旅順口からウラディボストックへと遁入をはかったロシア東洋艦隊に対し、わが連合艦隊がこれを阻止、できれば撃滅を企図して起った一戦であった。大まかにいえば、この日の海戦は二つの合戦に大別される。一つは午後一時過ぎにはじまった第一合戦であり、いま一つはほぼ五時半ごろから開始された第二合戦である。第一合戦でわが方は転針に小過誤をやり、戦機を逸したために、その後は追蹤だけで実に三時間を空費した。やっと追いすがって砲火を再開したのが第二合戦。勝つには勝ったが、戦果はきはめて不満足なものに終わった。

 ところで、表題の二発の砲弾とは、それぞれこの両合戦の最中(さなか)で起こったものである。まず第一次合戦時であった。敵の放った一発の十二インチ砲巨弾が、見事わが旗艦「三笠」の大檣を打ち抜いた。大穴のあいた大檣は、危うく舷外に倒れそうになり、やっとのことでのこった。さて次は第二次合戦である。午後六時も半過ぎだが、こんどはわが十二インチ主砲の一弾が、てきめん敵旗艦「ツェザレウィッチ」の司令塔に命中し、長官ウィトゲフト以下幕僚はもちろん、ついでに操舵手まで一挙に仆してしまったのである。旗艦は当然盲目航法になった。たちまち敵戦列は支離滅裂となり、勝敗の数は一瞬にして決まった。

 問題は以上の二弾である。もしこれが逆になっていたとしたらどうだろうか。いや、もし敵弾に打ち抜かれた「三笠」の大檣が、事実舷外に倒れていたとしたら――追蹤はとうてい不可能だったであろう。先任参謀として作戦の全責任を負っていた秋山真之が、戦後九年にして書いている一文がある。彼はいうのだ、「砲術の巧拙と云えば(それ)迄だが、現時の人智で作り出した大砲は、一分一厘狂ひ違はぬ様に出来て居らぬのだ。斯の如きが即ち戦運で、吾人は何処迄も皇軍の天祐を確信せざるを得ない」と。そして「怪弾」とまでこれを呼んでいる。

 名将秋山の晩年は必ずしもよくなかった。奇矯の行動が多く、心霊学に凝ったり、大本教に深入りしたり、一時は発狂説まで飛んだ。が、開戦以来日本海海戦まで、終始国の命運への全責任を一人で背負った形であった彼としては、なにか運命の神秘を信じないわけにはいかなかったのではあるまいか。一種の運命論者になるのも、わかるような気がするのだ。   (74.8)

 平成29(2,017)年5月22日



   虚実皮膜のあいだ 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.116~117

 先々回の本欄で「これでもうボリヴィアは消えた」を書いたら、さっそく二、三の読者から注意を受けた。一八七〇年代までのボリヴィアは、まだ内陸国ではなかったはずというのだ。尤もである。たしかに現在のチリ領タラパカ砂漠(Tarapaca Desert:黒崎記)、アタカマ砂漠(Atacama Desert:黒崎記)のあたり、とりわけ後者は、当時まだボリヴィア領であり、したがって、立派に太平洋沿海国であった。ところが、前出メㇽガㇾホ大統領時代になって、妙なことが起った。というのは、もともとアタカマ州というのは、涎のたれるほど豊富な硝石の鉱床があり、これに目をつけたのがチリ、そしてその背後にあるイギリスであった。 

 他方、酒、女、残忍と三道楽そろった南米版殺生関白ともいうべきメㇽガㇾホの浪費は、たちまち国家財政の底をつかせてしまった。そこでやった悪行の一つが、このアタカマ硝石の採掘権をチリに売り渡すことであった。(ほかにも彼は東部国境でもブラジルとの係争地を、あっさりと金で売ってしまっている。)したがって、名目はたしかにボリヴィア領にはちがいなかったが、実質はかつての沖縄におけるいわゆる残存主権、潜在主権と同じようなもので、ボリヴィア領にしてボリヴィア領ではなかったといえる。   

 その証拠に、メㇽガㇾホの没落後、四代目の大統領イラリオン・ダサ (Hilarión Daza:黒崎記) の治世となり、失地回復を目指したペルーと同盟、一八七九年、兵を進めてはじまったのが、いわゆる太平洋戦争である。もっとも、ボリヴィアは数週間にして敗北、結局は永久に太平洋領土を失うことになるのである。(ペルーは八三年まで頑張った。)但し、この地域の帰属問題は、その後も永く紛糾をきわめ、最後的に解決を見たのは、やっと今世紀に入ってからである。

 そこで話は先々回に書いた挿話のことにもどるわけだが、例のイギリスの公使凌辱事件は、アルグエダスの『ボリヴィア通史』(一九二二年)などにも出ているが、ただ英語系の文献――たとえばウィルガス編著『南米の独裁者たち』(一九三七年)、へリングの『ラテン・アメリカ史』(一九五四年)等――に多く出ることだけは事実である。もっと簡単にならば、ガンサーの『ラテン・アメリカの内幕』でも触れている。したがって、ヴィクトリア女王が地図上のボリヴィアを抹殺したまでは、まず事実としか考えようがないが、問題はただ「軍艦、山にのぼれず」の一条だけ。これはどうもよく出来すぎていて、あるいは後日の作話かもしれぬ。淮陰子が読んだのは一九五二年、大統領エステンソロがボリヴィア政権に復活して、錫鉱区国有の断行など、着々として外国資本圧迫の手を打ち出してまもなくだったが、『タイム』誌は南米版が大々的にボリヴィア特集をやったことがある。いま切り抜きが見当らぬので残念だが、それで読んだのが面白くて憶えていた。記事の性質上、信頼度までは保証せぬが、まさかイギリスとしても、すでに準チリ領であるアタカマ州に艦砲を打ち放すわけにはいかなかったのではないか。   (74・9) 

関連:これでもうボリヴィアは消えた.

 令和4(2022)年7月07日。



 余財ありて清節あり 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.118~119

 ご存知諸葛孔明がその死期を前にして、後主劉禅に呈した上表文に、次のような有名な一節がある。出典文献により多少本文の異同があり、したがって、本邦学者の読下しにもかなりの差異があるが、要するに大意は、

 「臣、成都に家す。桑八百株、薄田十五(けい)(およそわが七十町歩ばかりか)あり。子孫の衣食おのずから余饒(よじょう)あり。臣、外任にあるに至りては、別に調度なく、随時の衣食は悉く官に仰ぐ。別に生を治して以て尺寸を長ぜじ。臣、死するの日、内に余帛あり、外に贏財(えいざい)あり、以て陛下に(そむ)かしめざるなり」というのだ。編注 

 大意をいえば、豊かとは申せぬまでも、子弟の衣食にこと欠かぬだけの恒産が、わたしにはございます。また外征の任に当たります間は、すべてが官給によってまかわれる始末。別にこれ以上貨殖のことを考えて私益を計ろうつもりはございません。したがって、かりにわたしが死にましょうとも、家にはともかくも余財があり、子孫たちが生活のために陛下を裏切り、そむくようなおそれは万々ございません、とでもいったようなことであろうか。

 諸葛孔明の清節ぶりについては、古来日本人にも先刻お馴染みの高士であり、これを疑うものはまずいまい。ところが、興味深いことは、その高士孔明も、決して貧寒無一物の人間ではなかったという一事である。桑八百株、薄田十五(けい)というのが、果してどの程度の恒産であったかは、とうてい淮陰子など門外読書子の判定しうるかぎりではないが、すくなくともその子孫たちが、身のほど知らぬ野心でも起こさないかぎり、一定限度の生活保障はできているということであろう。世上多く見られる、貧ゆえに心ならずも喪志売節の過誤に陷る人間の少なくないことを、聡明なる彼は十分心得ていたのであろうか。

 ところで、それで思い出すのに西郷隆盛のことがある。児孫のために美田を買わずと志を述べ、他の点はともかく、みょう利栄達への関心においては、およそ恬淡、まことに掬すべき彼の心事については、これまたいかなる批判者といえども、まずこれを疑うものはいまい。が、実はその南洲翁もまた、決していうところの無財産無一物の貧乏人ではなかった。かつての鹿児島市郊外武村に、ささやかながら居宅の持家のあったことは周知の通りだが、ほかにもさらにその奥、当時の西武田村字西之部というのに、祖先伝来の山林を含む小山荘をもっていたという事実は、案外知られていないのではなかろうか。西南の役中、彼の家族たちがひっそりと隠れて暮らしていたのも、この小山荘だったはずである。(これらの地名、もちろん現在は鹿児島市内になっているはず。したがって、表記も変わっていると思うが、さしあたりいま確認の暇がなかったので、旧記のままにする。)

 さて、こう書いては、いささか牽強にすぎるかもしれぬが、南洲翁のいわゆる高風ぶりと、他面「内に余帛あり、外に贏財あり」といった孔明に間には、やはり一脈相通ずるものがあるのではなかろうか。余財ありて清節ありという気もするのである。(74.10)

編注:中国史の研究者らしい読者から『三国志』の原文は「若臣死之日、使わず内有余帛、外有臝財、以負陛下」で、「……内に余帛あらしめず、外に贏財あらしめず、以て陛下に負からしめず」と読み、従って全体の大意は「子孫が生きていくための産すなわち土地はあるが贅沢用の財は内にも外にもないから……」であるとの御教示があった。

 平成29年(2,017年)6月07日



   嘘から出た真実 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.120~121

 「嘘から出た真実(まこと)」という名文句を遺して絞首台に上った人物がいる。 例の大逆事件で縊られた犠牲者大石誠之助ドクトルの獄中感慨を要約したものとして有名である。事実、事件そのものが、冗談から駒が出たようなフレーム・アップ (frameup:黒崎記)なのだから、さぞかしこんな感想だったかもしれぬ。この言葉、「仮名手本忠臣蔵」七段目の茶屋場で、酔にまぎらす由良さんとおかる(ゝゝゝ)、からみの戯言(ざれごと)」から出たものであることは明らかだが、社会主義者で、しかも雑俳、都都逸などの作者としても一応なのあった彼の言葉だとすれば、ずいぶん洒脱な人柄も想像されて興味深い。が、その実このっ軽い一言の中に、裁判の真実に関する実に重大な疑いがこめられていることを考えると、とうていこんな話だけでは片づけられぬはずである。

 ところで、話は変るが、プロシア王ヴィルヘルム一世といえば、ビスマルク、モルトケなど文武の人才を登用して、一八七一年、宿望だったドイツ帝国統一を達成し、初代皇帝(カイゼル)となった周知の人物であ。ところが、この皇帝、死刑執行命令書に署名したのは、生涯ついにただ一度だけだったという伝承が、どうやら古くからドイツにはあったらしい。 

 それによると、まだプロシア王になってまもなくのことらしいが、ある凶悪な殺人事件が起り、犯人と目されて捕まった男には、ついに死刑判決が決った。最後まで無実を主張しつづけたが、甲斐なかったのである。当然刑場に引き出され、首斬人の振り下す斧の下に、首はポトリと籠の底に落ちたわけだが、とたんに首はギョロリと眼玉をむいたかと見ると、大声で一言、「おれは冤罪(むじつ)だ!」と叫んだというのである。それからまもなくである。一人の男が臨終の床で、あの真犯人は実は自分だったと、懺悔の告白をして息を引き取ったという話が、はからずもヴィルヘル帝の耳に入った。以来、彼はふたたび死刑執行状に署名することをしなかったというのだ。 

 この話、どこまで信憑性があるか、淮陰子は知らぬ。ヴィルヘルム帝の伝記研究者でもなければ、ドイツ史の専門学者でもない人間として、残念ながらやむをえぬ。が、どうやらこの話が、今世紀まで長く伝わっていたことは、事実のようである。淮陰子はイギリスの小説家イシャウッドとやら呼ぶ男の短編「ノヴァック家の人々」の中の挿話で知った(角川文庫『ペルリンよ、さらば』)。解説によると、この作者、ナチス勃興期の何年間かをベルリンで過し、その間の見聞体験を作品化したものだそうだから、少なくともそのころまでまだ庶民の間にのこっていた伝承に相違ない。まさかフィクションではあるまい。専門ドイツ史家の垂教を乞いたいが、なかなかに考えさせる話である。

 最近はまた帝銀事件疑問の死刑囚平沢貞通のことが社会的関心を惹いている。こんな話を知れば、いかに司法大臣といえども、まず執行命令状に署名することは不可能なのではなかろうか。   (74・11) 

※大西誠之助ドクトルについては運命の二銭銅貨を参考。      

 令和4(2022)年6月18日。



  二重橋の払い下げ 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.122~123

 あの宮城二重橋が金二百五十八円四十九銭で落札、まもなく取り払いになったという記事を、明治十八年五月一日付の東京横浜毎日新聞が載せている。驚く読者もいるかもしれぬからいうが、もちろん、江戸城以来の旧木橋のことである。というのは、前年の十七年から新宮城御造営の大工事がはじまり、その関係でこの旧橋もこうした運命になったわけだが、それにしても二百五十八円四十九銭というのが面白い。また、取り払われた廃材がどうなったか、それも興味深いが、残念ながら不明のようである。 

 ところで、二重橋といえば、あの皇居前広場の眼鏡橋式石橋のもう一つ奥に望める、拱橋式鋼橋がそれであることくらいは、いまではちょっとした百科事典なら、たいてい出ている常識だが、なんと大正末期ころまでは、やれ、二つの橋――石橋と鋼橋が重なったように見えるから二重橋だの、やれ、手前の石橋が眼鏡橋様式になっているから二重橋だのと、いまから思えばウソのような俗説が、ずいぶん弘く行われていたものであった。  

nijyubasi.jpg  もっとも、それでもまだ疑う人もいるかもしれぬから紹介するのだが、右に掲げる一曜斎国輝(いちようさい くにてる:黒崎記)描く二重橋図一葉がある。ごらんのごとく、旧二重橋というのは、きわめて特異な構造になっていたことがわかる。まず下段に一つの橋桁をつくり、その上にさらに木橋を架していた二段式であった。そのせいか二重橋という俗称は、旧幕時代からすでにあったという。補注(もちろん正式の呼称は、現在の眼鏡橋にあたるのが西丸大手橋、二重橋のほうは西丸下乗橋〔げじょうばし〕:黒崎記)であった。)                  

 この挿図で面白いのは、現在の眼鏡橋に相当する旧日本橋を一般市民らしきものが、きわめて自由に出入りしているらしい光景である。同図には明治二年版とあるが、してみると、明らかにこれは明治元年十二月八日から翌二年三月二十八日に至るまでの状景を写したものと思える。というのは、新帝明治天皇は元年十月にはじめて東幸、江戸城にはいられたが、十二月八日には一旦京都へ還幸の発輦(はつれん)となり、改めて翌二年三月二十八日に再度の御入城。ここが皇城と定められたからである。したがって、その間は天皇不在、一時は東京府庁まで城内に置かれたこともあるそうだから、庶民の出入が自由であったのも不思議でない。短期間だが、きわめてめずらしい一時期があり、その折の風俗を描いたものと考えなければならぬ。   (74・12)

補注:この考証、種を明かせば明治文化研究会の機関誌『新旧時代』の創刊号(大正十四年二月)に載った雨花子「二重橋」の一文に負う。おそらく決定的なものと思えるからである。なおこの頃、橋梁技術者といわれる一読者から興味深い後日談の知識を頂いた。それによると、あの奥の拱橋式鋼橋は、その後昭和三十八年頃? にも再架換えのことがあり、このとき旧鋼材は、工事を引き受けた建設企業に払い下げられ、一輪挿の花瓶に鋳直して従業員たちちに記念品として贈ったとある。年月など確かめている暇がなかったが、とりあえずそのままに紹介しておく。明治十八年の旧木橋材も、案外同じようなことになっているのかもしれぬ。

 令和4(2022)年7月27日。



   金の動きは国家を超える 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.124~125

 およそ世に金の動きほど奇怪で、不思議で、興味深いものはない。こんな実話がある。

 十九世紀もまだ初頭、例のナポレオン一世がその栄光の絶頂を誇っていたころのことだが、これと対抗するイギリスは、後年ワーテㇽロー戦の英雄ウェリントン(Wellington:黒崎記)の率いる遠征軍をイベリア半島に送り、さかんにゲリラ戦でフランス軍を側面から悩ませていた。このいわゆる半島戦争は、やがてナポレオン没落の因をなしたさえ評価されるほどの成功であったが、ただ頭痛の種は、この遠征軍に送りつける巨大な軍費の輸送問題であった。    

 当然考えられるのは海路だが、ビスケー湾(Bay of Biscay:黒崎記)の風浪は、ときに輸送船を難破させたばかりか、ときにフランス海軍の攻撃を受けるおそれもある。ところが、この難問題を一挙に解決したのが、なんとその軍費を直接敵フランスの心臓部パリへと送り込むという方法だったったのだから驚く。あとその金は敵国の真只中を悠々と通過、ピレネー山脈をこえて、もっとも安全に味方遠征軍の手にとどいたというのだ。この大芝居の糸を繰ったのは、当時まさに興隆期にあったユダヤ系金融業者ロスチャイルド一家であった。 

 ロスチャイルド(Rothschild:黒崎記)家致富の基礎をつくったのは、いうまでもなくドイツはフランクフルトの両替商人マイヤー・アムシェル・ロートシルト。これも傑物ではあったが、より出来物は三男ネーサン以下、揃いも揃った五人の息子たちであった。とりわけネーサンは、わずか二十歳の若輩でイギリスに渡ると、まもなく帰化、一八〇五年には早くもロンドンに支店を開いていた。折からのナポレオン戦争を利用、あらゆる国際間の金融に介入して巨富を獲ていたが、上記の軍事費輸送問題も、まさにその一つだった。  

 すなわち彼は、託されたイギリス正金をまずパリに送りつける。ここでは末弟ジェームがちゃんと待ち受けているのだ。ときに次男ソロモン、四男カールも応援に馳せ参じる。受け取った正金は、一応パリ銀行に預けられるが、さらにそれらはスペイン、シシリー、マルタなどの各地銀行(これまたすべてユダヤ系のそれである)発行の手形にかえられ、きわめて安全確実にウェリントンの手に届くという始末。もちろん、こうした抜け道をイギリスに対し黙認せざるをえなかったところに、フランス経済の泣きどころがあったことも事実だが、それにしても、まるで敵中突破の黄金大動脈が敷かれていたようなものであり、金の動きの超国家性を思わせる点では興味満点である。結局もっとも得をしたのがロスチャイルド一家であったことは、いうまでもない。ある評論家などは、公然白昼の強盗行為だったとまで極限している。 

 もっともこの話、ロスチャイルド家に関する文書類を読めば、必ず出るほど有名な挿話だが、もっと詳細なからくりを知りたい読者には、一昨年出たヴァージニア・カウルズの新著『ロスチャイルド家』(クノップ社、ニューヨーク)をおすすめする。馬鹿を見たフランスの事情が、実によくわかって面白いはず。   (75・1)

 令和4(2022)年7月08日。



 男断ち、但三ケ年間之事 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.126~127

iwaihiromi.ema.jpg  淮陰子、今年はまったくひどい寝正月で、とりとめない雑書ばかりで、何日間を暮らした。が、そうした雑読の中で、特に楽しかったのものに、大阪市立博物館員岩井宏美という人の書いた『絵馬』(法政大学出版局刊)と題する一書があった。

 古来日本人には深いお馴染みであるくせに、案外一般には軽く見過ごされている民族財の一つに、この絵馬というものがある。本書はこの絵馬を全国のそれにわたって詳細に研究し、その歴史や民俗信仰との関わりを、実に滋味深い興趣をもって解説した好著である。もとより書評でないから、全般の披露をしている余裕はないが、とりあえず一つだけ、ある珍しい男断ち絵馬の実例について、孫引きの紹介をさせてもらう。挿図写真は省略するが、その願文なるものが愉快だから、それをまず引くことにする。  

 「わたし儀、是まで男さんを持てこまりましたゆえ、此度心を相あらため、男さんを一切御断、私シノ心あかすため、男さん相(ママ)候ゆえ、口で申候てハ心の内がしれず、これにより右次第を、私しの心ならびいに髪毛奉のうし、今日より改心いたし候。これによつて奉のう仕候事。但三ケ年間之事。明治廿二歳丑ノ十二月。五十四歳女圓」と読めるのだそうでである。補注(圓とは願主前野えん女のことの由)  

 そういえば図柄というものは、正面左方に切髪、法衣姿で合掌している願主自身を大きく出し、右方にはおそらく過去に關係した男であろう、十人以上の男たちの行列を、いささかおぼろげながら描き出している。そして中央上方には金幣が一つ。神霊の依代(よりしろ)というつもりであろうか。それにしてもこの図柄、また上に引いた稚拙真摯な願文といい、よくまあこれほど巧まざる好ユーモアを溢れさせたものである。「但三ケ年間の事」という期限つきも愉快だが、願かけ当時すでに五十四歳とある以上、三年後にはもう六十近い女になっているはず。以来はもう男の必要もなしという意味か、それとも、あとはまた改めて男を持つつもりだというのか、なんにしても女のあわれさがあらわれていて愉快でる。ぜひ紹介に値すると思う。

 ところで、この珍重すべき絵馬、著者によると、京都の安井金毘羅宮の絵馬堂にあるものだという。安井金毘羅といえば、あの京都市東山通り、東山安井の市電停留場からちょっと西に入った、祇園南裏につづくあたりにある金毘羅さまであろうか。それならば、「都名所図会」にも出ている金毘羅宮のはずであり、淮陰子も昔から知っている。たしか本殿、拝殿と向い合って、絵馬堂があったような記憶はあるが、もちろんこんな絵馬の存在など、ゆめにも知らなかった。迂闊の至りである。もっとも、足を踏みいれたところで、こんな願文など読めるはずもあるまいから、それだけでもおひろめをしておく意味はあろう。淮陰子も、こんど京都を訪れたら、ぜひ一見してみたいと楽しみにしている次第。   (75・2)

補注:これも一読者から正しい全文判読を教えられた。また京大名誉教授(人文研)藤枝晃氏からはキャビネ判の写真まで恵贈を受けた。拝謝。なおこれは昭和四十二年九月というのに早く、京大名誉教授(国文学)野間光辰氏がその著『洛中独歩抄』で紹介されていることを、おくればせながら知った。

 令和4年(2022)5月26日。



 急流勇退 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.128~129

 人間の出所進退ほど、およそむつかしいものはないと、近ごろつくづく思う。

kurimotojoun.jpg  幕末から明治初期にかけての清節高士に、栗本鋤雲(くりもと じょうん)翁という人物がいた。その鋤雲に「急流勇退」と題した数枚の短い随想がある。(遺稿集なら、どの刊本にも入っている。)つまり、人間進退の難しさを述べたものだが、彼が公的生活六十年ほどの間に、見事な進退ぶりを見せたのは、わずか二人、遠山左衛門尉父子にしかすぎなかったというのだ。父の左衛門尉は勘定奉行に任ぜられ、治績上り評判もよかったが、さっさと隠退して悠々たる晩年を送った。子の左衛門尉、これは例の金ちゃんこと金四郎景元だが、彼もまた町奉行として、大岡越前守と並ぶ名奉行のなを伝えている人物だが、やはりその令聞名声の絶頂にあって、いささかの未練もなく冠を掛けてしまった。鋤雲翁のもって急流勇退とたたえる所以である。

 そのあと翁の筆鋒は、これに反した老朽依然として権勢に恋々たる連中を、実に痛烈にやっつけているのだ。「見るも気の毒なりしは、背僂腰屈の老官人が両侍に擁持せられ、喉中鋸木声を為しながら、梅林坂(現在の宮城、平河門内の坂)を攀ぢ、登衙入直する其何の為なるかを問へば、千苞若くは五百苞の俸米の為、(中略)此の無廉恥の醜体を為して、国家の米廩(べいりん)(どく)せしは扨々苦々敷事にてありし」 

 そういえば、前東京都知事東龍太郎の引き際に、これまたなかなかにしゃれた一コマがあった。果して彼が三選に出馬するかどうかが、微妙な関心事であった一時期である。都議会で一議員がその点をついて詰め寄った。ところが檀上の知事、「笑って答えず、心自から閑」とだけ一言、ボツリと答えてニヤリと笑ったという。たちまち議場は騒然となった。笑って答えずとは何事か、都議会侮辱というような声まで起ったらしい。 

 だが、結局無知無学ぶりを遺憾なくさらけ出したのは、議員たちのほうであった。「笑って答えず」云々とは、あまりにも有名な詩人李白の「山中問答」の第二句であり、つづく第三句は「桃花流水、窅然(ようぜん)として去る」とあるのだから、三選出馬の意なしということは明らかだったはずである。 

 「山中問答」など、別に漢詩への造詣が云々されるほどの作品ではない。明治生まれで高等教育を受けたほどの人間ならば、十人中十人とはいわぬまでも、まず大半は青年期のどこかでお目にかかっているはずである。だが、悲しいかな、今日の都議会議員諸公にとっては完全に豚に真珠だったらしいのだ。だからこそ、てきめんㇳチメンボーをふったのである。

 果して東知事が名知事であったかどうか、淮陰子は知らぬ。だが、この一コマだけは、近ごろのめずらしいしゃれた一挿話として、鮮やかに記憶にのこっている。まだほんの十年足らず前の話だが、あるいはもう忘れた読者も多かろうと思うので、後世のために書き留めておく。   (75・3) 

参考:山中問答 李白 松枝茂夫編『中国名詩選』(中)(岩波文庫)P.313 

    山中問答      李白

      人の問いに答えて、山中隠棲の楽しみ述べたもの。制作年代は不明。

   問余何意栖碧山   余に問う 何の意ぞ碧山に()むと。

   笑而不答心自閑   笑って答えず 心自ら(かん)なり。

   桃花流水窅然去   桃花 流水 窅然(ようぜん)として去る。 

   別有天地非人間   別に天地の人間(じんかん)に非ざる有り。

 どんなつもりでこの緑深い山奥に住んでいるのか、と人は聞く。だがわたしは笑って答えない。心はどこまでものどかである。桃の花びらを浮かべつつ、水はどこまでも流れて行く。ここは俗人の世界ではない、別天地なのだ。

   (窅然)はるかに遠いさま。(人間)俗世間。「天上」に対する語。

 2022年5月4日。



   アイスキュロスと亀と漱石 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』P.130~131

 目下また新しい漱石全集が刊行中である。第一巻は例によって『吾輩は猫』。ところが、この作の中ほど過ぎ第八章というのに、古代ギリシャ悲劇詩人の一人アイスキュロス(ギリシア語: Αἰσχύλος, Aischylos, 紀元前525年~紀元前456年:黒崎記)が、空飛ぶ鷲の落した亀にその禿頭を打たれ、あえなく頓死をとげたという珍挿話の出ることは、先刻すでにご承知の通り。もともとこの話、紀元一千年頃に書写されたとされるいわゆるメディチ家稿本(現在もフィレンツェに遺っているはず)の一部、「伝記」の部分に出るものであることは、全集本注解にある通りである。アイスキュロスといえば、紀元前四五六年シチリ島ゲラで死んだというのが定説だが、もちろんこんな話は俗説として退けられていること、いうまでもない。

※参考:夏目漱石『吾輩は猫である』(角川文庫)八 P.272。以下の記述がある。

 昔ギリシアにイスキラスという作家があったそうだ。この男は学者作家に共通なる頭を有していたとう。吾輩のいわゆる学者作家に共通なる頭とははげという意味である。なぜ頭がはげるかといえば頭の栄養不足で毛が成長するほど活気がないからに相違ない。学者作家は最も多く頭を使うものであって大概は貧乏にきまっている。だから学者作家の頭はみんな栄養不足で、みんなはげている。さてイスキラスも作家であるから自然の勢いはげなくてはならん。彼はつるつる然たる金柑頭(きんかんあたま)を有しておった。ところがある日のこと、先生例の頭――頭によそゆきもひだん着もないから例の頭にきまっているが――その例の頭を振り立て振り立て、太陽に照らしつけて往来をあるいていた。これが間違いのもとである。はげ頭を日にあてて遠方から見ると、たいへんよく光るものだ。高い木には風があたる、光る頭にも何かあたらなくてはならん。この時イスキラスの頭の上に一羽の(わし)が舞っていたが、見るとどこかでいけ捕った一ぴきの(かめ)(つめ)の先につかんだままである。亀、すっぽんなどは美味に相違ないが、ギリシャ時代から堅い甲羅(こうら)をつけている。いくら美味でも甲羅つきではどうすることもできん。海老(えび)の鬼がら焼きはあるが亀の子の甲羅煮(こうらに)は今でさえないくらいだから、当時はむろんなかったにきまっている。さすがの鷲も少少持て余したおりから、はるか下界にぴかと光ったものがある。その時鷲はしめたと思った。あの光ったものの上へ亀の子を落としたなら、甲羅はまさしく砕けるにきわまわつた。砕けたあとから舞いおりて中味を頂戴すればわけはない。そうだそうだとねらいを定めて、かの亀の子を高い所から挨拶(あいさつ)無惨(むざん)の最後を遂げた。(以下略)。     

 が、それにしてもこんな雑識を、果して漱石はどこから獲たのであろうか。まことにつまらん瑣末事だが、淮陰子のような閑人には興味がある。一つは前述メディチ家稿本から直接にということだが、まずこの公算は薄い。ただこの稿本は一八九六年に到り、はじめてイタリア政府から写真版の形で小部数公表され、ちょっとした学会の話題になったらしいので、あるいはそれを通じて知ったということも考えられるが、一八九六年といえば漱石はまだ熊本五高への赴任の年(留学は四年後の一九〇〇年)、あまりにも専門外のことだけに、ちょっと可能性は考え難い。  

 むしろ大きな公算をもって考えられるのは、十七世紀英文学の異色文人、驚異的な博識と警抜難解の文体をもって鳴るサ・トマス・ブラウン (Sir Thomas Browne, 1605-82:黒崎記)を通じてではなかっただろうか。というのは、ブラウンの代表作の一つ通称『迷信論』、正しくは Pseudodoxia Epidemica と題する一書の中に(第七書)、二世紀の自然学者アイアリアヌスの所説ということで、ちゃんとこの話が出るからである。また別書によると、さらに古く例の「笑う哲学者(ゲラシノス)」デモクリトスの遺文にまでさかのぼることができるとのことだが、淮陰子の浅学ではとうていそこまで確かめる能力はない。但し、この哲学者の場合は、計画と偶然との齟齬(そご)について論じるにあたり、その例証として引かれているらしいので、つまりキラリと光った地上の物体を、てっきり堅い巌だと信じて落したのが、たまたま偶然にもアイスキュロスの禿頭だったということになる。これなら彼ならずとも、つるっ禿なら誰でもよいわけで、ヒポクラテスでも、ディオゲネスでも、ピディアスでも、すべて適格者だったはず。たまたま選ばれたアイスキュロスこそ、とんだ迷惑だったといわなければならぬ。 

 ところで、また漱石にもどるが、彼の蔵書中にブラウンの全集はたしかにある。だが、どこまで読んでいたかは疑わしい。全集にブラウンのなを求めても、「英文学形式論」にただ二ヵ所出るだけがすべてのようで、それも内容は必ずしも読まずともできるような言及ばかりである。そうなると、ブラウン起源説もちょっと怪しくなる。いかにも漱石好みの文人なのだが、別冊の書き入れ短文集にもブラウンは見当たらない。英訳本によるアイスキュロス集も蔵書リストにはないし、ギリシャ劇関係書も同様である。果してどこから知ったものか興味がある。補注  

補注:ここでまた大失策をした。漱石がサ・トマス・ブラウンをあまり読んでいなかったのではないか、などと非礼の言をなしたのは、市井雑学の徒の悲しさとはいえ、完全な黒星。さっそく数人の読者からお叱りを受けた。たしかに愛読していたことは、『三四郎』(十)に『ハイドリオタフィア(壺葬論)』の一部抄訳まで出ているのを見てもわかる。初期漱石の好みそうな文人である。木村毅氏からの指摘は、数ヵ月後の『図書』(八月号)に載っている。氏の一文にあるウォㇽター・サヴェッヂ・ランダ―の書翰体小説「ペリクレスとアスペンア」からという指摘も、おそらく正しいと思う。この愉快な伝承、あるいは双方から承知して記憶にとどめていたのではなかろうか。

 令和4(2022)年7月9日。



   いささか六昌十菊だが 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.132~133

 弘法も筆のあやまり、ホメロスもときに居眠るとか――そして街の雑学者輩にすぎぬ淮陰子などに、誤りのないほうがむしろ不思議といえるかもしれぬ。読者諸賢からの御教示があるたびに首を縮めており、いずれ本になるときには、すべて訂正させていただくつもりだが、ただ今月お詫びを書くこの事項だけは、淮陰子の粗忽もさることながら、むしろ世の中滄桑の変ということにこそ原因がありそうに思えるのだが、どうだろうか。

参考1:ホメロスにさえ眠いところがある。意味:どんなにその道に秀でた人でも、時には失敗することがあるというたとえ。ホメロスのような大詩人でさえ、時には眠くなるような駄作を作ることがあるという意から。
類句:弘法にも筆の誤り(こうぼうにもふでのあやまり)、 上手の手から水が漏る(じょうずのてからみずがもる)。(黒崎記)

※参考2:滄桑之変(そうそうの-へん):世の中が激しく変わること。移り変わりが激しいこと。▽「滄桑」は「滄海」と「桑田」。つまり大海原(うなばら)と桑畑。青い海だった所が桑畑になる。世の中の移り変わりの激しさをいった言葉。(黒崎記)    

 実は一昨年二月号の本欄に「五分五分」と題する駄文を書いた(七六頁)。文中、例のアマゾン河中流の都市マナオス(Manaus [mɐˈnaws, mɐˈnawʃ, maˈnaws]:黒崎記)にのこる大オペラ劇場のことに触れた次第だが、これがなんと大変な誤りであることがまもなくわかった。この大理石劇場が、十九世紀末ブラジル・ゴム景気の夢の跡として、世界的にも有名だったことはたしかに事実であり、淮陰子自身も一九五〇年代の半ばごろに一度訪ねて、文字通り荒廃をきわめたお化け屋敷ぶりを目撃した。折から全国知事選のあった直後であったせいか、事務所にでも使われたものと見え、吹き抜ける風に紙屑の山が飛び散っているのが、ひどく印象的だった。   

 ところが、この記述が、とんでもない時期おくれだったことを、たちまち教えられたのである。すなわち一九七二年十月号の『ナショナル・ゼオグラフィック・マガジン』だから筆者の駄文が活字になるかならぬかのころであるが、次に掲げる写真とともに、この廃墟劇場、奇蹟の蘇生ぶりを報じていたのである。説明文にはこうある。一九六七年以来、国がマナオス市を自由港に指定し、一切の関税免除措置を実施したところが、たちまち市は不死鳥的繁栄を復活させた。おかげで廃墟の化物屋敷劇場も、現況はまさにこの通りというのである。実際たまげるほど淮陰子も驚いた。  

 さっそく訂正したいと思ったのだが、なにぶん写真には版権がある。そこでまず雑誌の発行所に問い合わせると、このカメラマンはブエノスアイレス市の写真協会に所属の人物だとのことで、そのアドレスまで教えてくれた。さっそく転載許可の依頼を出したのだが、これがまったくの梨のツブテ。さらにいま一度催促の連絡までとってみたのだが、これまた同様。ついに今日に到ったという次第。仕方がないから、おくればせながら訂正させていただく。なお繁栄は今日も依然としてつづいているようであり、つい一、二ヵ月前にはさらに一段の改装が成ったという記事も読んだ。これだから怖い。まったく迂闊には書けぬのだ。   (75.5)

 令和4(2022)年7月11日。



  諷刺小咄、二つ 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.134~135

 もともと落首、また諷刺小咄類というのは、庶民大衆の直覚的政治批判を鋭く反映するもので、なかなか興味深いものが多い。記憶にのこっているものを二つほど。           

 コロンタイムズなどといっても、今ではもう知る人もいまいが、ソ連十月革命(1917年:黒崎記)直後の一時期には、ずいぶん海外でまで話題になったものである。イズム名はその主導者だった共産党女性幹部委員の一人コロンタイ同志のなに由来するもので、彼女はブルジョア的性道徳を徹底的に攻撃し、さしずめ今でいえば無政府的フリー・ラブの元祖だったといってもよい。  

 が、さっそく民衆の間では小咄が生れていたらしい。それによると、女たちが集まり、男女の性的平等もよいが、なんとしても不公正は女性出産時におけるあの苦痛である。そこで彼女たちは神様の許を訪れ、あの苦しみこそは父たる夫にも味わせてほしいと懇願した。神様はよろしい、引き受けたといってくれた。みんな大喜びで帰ったわけだが、まもなくすると妙なことが起りだした。アパート住いの妻たちが産気づくと、意外や亭主はケロリとしているのに、思わぬ隣家の旦那がウンウン苦しみだすのである。同様のことがあちらでもこちらでも起り、さかんに家庭争議が頻発しだす騒ぎ。これには女たちも驚き、改めてまた神様にお願いし、これだけは元通りにしてもらったという話。戦前の早い時期に朝日紙ソ連特派員をした故畑中政春氏の著書で読んだ記憶がある。                  

 こんどは大きく飛んで、朝鮮動乱が突発したころの話。舞台は独裁者大統領ヴァルガス治下のブラジルである。アメリカ主導の国連は、すかさず北の民主人民共和国を侵略者と決めつけるとともに、加盟各国に援助と、できるなら出兵のことを強く要請した。とろで、ブラジルの場合だが、援助のことまでは簡単に決まったが、さて派兵ということにまでなると、国内世論の強い反対もあり、容易に決定しかねた。困ったのは国連のブラジル代表部である。結局、本国政府に訓電を求めることになった。ところが、打ち返されてきた訓電というのが、これはまた colhao (コリャン)とただポルトガル語の単語一つあるきり。代表部では暗号帳をくってみたが、さっぱり思い当る筋が出ない。一同額をあつめて解読につとめてみたが、さっぱりわからないのである。困じ果てていたところに、一人若い書記官というのが、ハタと膝を打って、「わかりました」と叫んだ。「代表、これは暗号ではございません。ズバリ単語そのままのコリャン、すなわち睾丸ということに相違ございません。つまり、援助はすれど介入せずとの訓令だと存じますが。」

 一同大笑いになって、胸をなでおろしたというのだが、もちろん実話ではない。この問題で国内世論が騒いでいたまさにそのとき、何人かがつくって、たちまちパット大きくひろがった小咄だという。これも出所を書けば、中野好夫氏の小随想集『私の消極哲学』の一つに見える。   (75・6)      

 令和4(2022)年7月27日。



  なぜ日本には宦官がいなかったのか 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.136~137

 今月は至極平凡な話題を一つ。あのいわゆる宦官、西欧語でならばギリシャ語の ευνούχος(ウヘ) にまでさかのぼる、例の存在についてである。これらのなで呼ばれる去勢男子群というのは、古代以来東西の歴史に、しばしば大きな役割を果して登場する。西はエジプト、ギリシャ、ローマから、ペルシャ、インドを経て、東はついお隣の中国まで、これ抜きで歴史は語れぬとさえもいえるかもしれぬ。           

 宦官の由来や歴史を述べることは、もちろん淮陰子などの任でない。それをいま本欄で取り上げようというのは、この世界的ともいえる習俗(朝鮮半島にまでも、制度の存在はあったらしい)が、なぜつい鼻の先の日本だけには現われなかったか、その疑問にについてだけ。むしろこちらでこそ垂教を仰ぎたいのである。  

 宦官というこの去勢男子群が、専制皇帝の君側や後宮に勢力をはり、ときに国を傾けた例すら少なくないことは、東西共通である。鹿を献じて馬と主張したという伝承で有名な秦の趙高、唐の玄宗皇帝をあやまらせた高力士などは、すでに先刻お馴染みであろう。けだし、宮廷機密の仕事や、とりわけ後宮勤めには重宝だったかろうから、自然数もふえ、勢力をもつことになったものに相違ない。明代の宮廷を述べて宦官一万人という数字もあるし、ピザンチン帝国の宮中を評して、「盛夏の羽虫群のごとし」と筆誅を加えたローマ史家もいる。驚くべき様相といわねばならぬ。                  

 元来は宮刑というのを受けたものが本体であったが、のちには自宮して宦官になるものもかなり出たらしい。面白いのは、宮廷宦官ではないが、淫欲を断って、ひたすら神に仕えるために、みずから羅切を行うこともあったらしい。三世紀ギリシャのキリスト教大神学者オリゲネスなども、その例のようである。さらに宦官とはいえ、悪名ばかりではなく、むしろ常人以上の文化的大事業を完成した人物もいる。上記オリゲネスもその例だろうが、もっとも有名なのは『史記』の著者司馬遷、紙の発明者といわれる後漢の蔡倫、等々であろうか。去勢ということが一種性格の歪を起こすおそれは事実としても、別に知力、能力にまで影響があるとは考えられず、不思議とするには当らないのかもしれぬ。

 そこでまた元に戻るが、それではなぜ、あれだけ大陸文化の影響を受けてきたはずの日本に、この習俗だけはついに入らなかったのか。日本では神道が穢れを忌んだために、それは行われなかった、とする解釈を読んだこともある。あるいはそうかもしれぬ。だが、宦官でこそなけれ、衆道は古来上下ともに盛んで、寵童から立身して、天下の政道まで左右した例は、目下人気の柳沢吉保をまつまでもなく、きわめて多いはずである。不自然といえばやはり不自然だが、男色は神道では穢れでなかったのであろうか。別に神道による禁忌を否定するつもりはないが、やはりもっと別に、なにかの理由があったのではなかろうか。年来の疑問である。ぜひとも一つ垂教を乞いたい。補注      

補注:これも十人近い読者から反響のあった題目だった。それぞれ自家の見解を述べられたもので、興味深く読ませてもらったが、一々ここで紹介している余裕もないので悪しからず。ただこれもそれら来信で教えられたのだが、文化人類学者石田英一郎氏の『日本文化論』(筑摩書房、昭和四十四年)、『日本文化の構造』(講談社、現代新書、昭和四十七年)所収論文「日本文化の条件と可能性」などに、この問題に関する論究がある。氏は宦官制度をアジア牧畜民族の動物去勢技術との関連でとらえ、農耕民族である日本人にはついに受け入れられなかったのだとしておられる。淮陰子もこれから勉強し直すつもり。賛否は保留するとして、とりあえず参考として取り次ぎだけをしておく。

 令和4(2022)年7月28日。



  官吏、公選入札のこと 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.138~139

 明治二年五月(旧暦)の太政官日誌第五十号というのを見ると、十三日の条に次のような御沙汰書写というのがある。一部を紹介すると、「輔相一人、議定四人、参与六人、右今日入札撰挙、被仰付候事」、また「六官知事六人、内廷職知事一人、六官副知事六人、右明十四日入札撰挙、被仰付候事」というのだ。            

 若い読者諸君には分り難かろうから、簡単に説明を加えると、輔相はいまの首相、また議定、参与、知事までは、現在の官制でならばさしずめ閣僚大臣級、副知事ははまず各省次官だと考えればよい。そこでこれは国家最高官吏の任命を、多分に互選の形とはいえ、とにかく公選でやったということになる。  

 ではなぜこんな愉快な官吏公選が行われることになったのか。理由は、前年慶応四年閏四月というのに、できたての明治新政府は、とりあえず新官制機構として「政体書」なるものを発布した。そしてその一条に、厳として、「諸官四年ヲ以テ交替ス。公撰入札(ゝゝゝゝ)ノ法ヲ行フベシ」というのがあったからである。上述同じ日の太政官日誌によると、「公僕次第」までちゃんと定められている。それによると、有権者高官達は礼服正装で御所に伺候、まず詔書をいただいた上で選挙という順序になる。終ると即座の開票だが、ここで明治天皇がまず出御、つまり開票は天皇の面前で厳粛に行われたことになる。そして翌々十五日の日誌は、その結果まで伝えているが、輔相には三条、議定には岩倉、徳大寺、鍋島等、また参与には木戸、大久保、後藤、福島、板垣等々、当然の顔触れが出るが、あとの詳細は省略する。故尾佐竹猛博士は、どこでえられた資料か知らぬが、正確な票数まで承知しておられた。それによると、岩倉の四九票が最高で、大久保の四七票がこれに次ぎ、会計官(いまなら大蔵省)副知事という下位ではあるが、大隈の三六票というのが注目を惹くそうである。当時における大隈の人気、思うべしであろう。                  

 ところで、いくら新政府誕生直後の混乱期とはいえ(当時まだ戊辰戦争は終わっていなかった。北海道には、厳として旧幕軍榎本武揚等の共和国さえ存在していたのだ)、官吏公選とは愉快なことをやったものである。たしかに明治新政府発足の直後は、動向の振子が一時大いに開明進歩派に向って揺れ、西欧風公議政治の採り入れに急であったことは事実だとしても、官吏の公選までとは、果してどこの国の制度にならったものであろうか。ある意味ではきわめて興味深い。なんならもう一度やってみてはどうか。 

 もちろん、振子の反動はまもなく起った。したがって、愉快なこの官吏公選もわずかにこの一回きり。翌々年七月の官制大改革では、これはお馴染みの正院、左院、右院などの登場する、いわば中央集権官僚制度の礎石が早くも確立されるわけであり、真の意味での公議政治が日々に薄れるとともに、官吏公選もまた煙のように消えた。だが、幕間狂言の寸劇と見れば、たしかに面白い。   (75・8)      

 令和4(2022)年7月28日。



   食うために生きる 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.140~141

 大槻玄沢著『蘭学階梯』といえば、わが国洋学史上では記念碑的著作の一つだが、その巻上の終りに「勧戒」と題した小節がある。いわば学問へのすすめだが、最後は「コレヲ以テ聊モ民用ヲ助ケ国家昌平聖恩ノ万一ヲ報ゼンコトヲ欲シテナリ」と、蘭学先駆者としての意気を高々と謳い上げて結んでいる。ところが、その中で彼は、「和蘭勧学警戒ノ語」ということで、「メン、ム―ㇳ、ヱーテン、ヲム、テ、レーヘン、マール、ニート、レーヘン、ヲム、テ、ヱーテン」なる西諺らしきものを引いているのだ。自家訳もつけているが、要するに、人は生きるために食うので、食うために生きるのではない、との意、つまり Men moet eten om te leven, maar niet leven om te eten. であろう。 

参考:文献に、Socrates - Men moet eten om te leven, niet leven om te eten. の記述あり。(黒崎記)

 こういった種類のアフォリズム(aphorism:警句あるいは箴言,金言,格言などと訳される:黒崎記)、いずれそう数多くは知られていなかったせいか、前野蘭化(良沢の号:黒崎記)をはじめ、当時のいわゆる蘭学者たちは、しきりにこれをふりまわしたらしい。蘭語はあまりできなかったといわれる司馬江漢までが、「独笑妄言」の一節でひけらかしている。但し、和解(わげ)、つまり訳は多少心許なく、諺意もまたいささか疝気筋で、「(いき)居る(いる)は此食物の為処なり」などと、まるで食の功徳をでも説いたかのように使っている。

 ところで、この西諺、たしかにちょっと聞かせるだけに、オランダ語のみならず、たいていの近代西欧語ならみんなある。おそらくは淵源はもっと古いのだろうと思って、当ってみたら果してあった。まずはラテン語である。Esse oportet ut vivas, non vivere ut edas. というのもあれば Non ut edam vivo, sed ut vivam edo. というのもある。意味はともに同じ。いずれも岩波版『ギリシア・ラテン引用語辞典』にも出ているほどだから、古くからポピュラーなアフォリズムだったことはまちがいない。出所は後者が修辞家クインティリアヌスとあるから、世紀一世紀のことは明らかだが、前者の出典者は不詳とするほうが適当かもしれぬ。補注が、とにかく西紀前であることはたしかだから、さらに古いことになる。

 もっとも、この語、最初は必ずしも諺などではなかったらしい形跡もある。というのは、高名な古代ギリシア哲学史家というのか、伝記家というか、例のディオゲネス・ラエルティオスの名著『哲学者列伝』のソクラテスの条を読むと、次のような挿話が出てくるからである。(第二巻34)。あるとき、ソクラテスが何人かの富者を食事に招んた。と、例の妻クサンティッペがさっそくうるさくこぼしたらしい。(うち)の食事など、お恥しくてとても出せぬというのだ。それに対してソクラテスが、いかにも彼らしい皮肉な答えをする挿話があるのだが、そのあとにつづけて、「彼はよく云ったものだ。世間の奴らは、たいてい食うために生きているが、おれは生きるために食うのだ」との一節がある。つまり、発想の起源は、案外にこんなあたりにあったのではあるまいか。   (75・9)

補注:Esse oportet ut vivas, non vivere ut edas, の出典、キケロの Ad Herennium,Ⅳ,xxviii,39 に出ているそうである。読者からの御教示。

 令和4(2022)年6月22日。



  小心者の悲しさは…… 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.142~143

 「仮名手本忠臣蔵」七段目といえば、人も知る華やかな一力の茶屋場。が、その同じ段の切には、平右衛門お軽出逢いという、これも周知の件りがある。お軽が例ののべ(ゝゝ)鏡で、由良之助への密書を読みとったばかりに、兄平右衛門は、大事の手前、秘密を知った妹をそのままいかしてはおけぬと、一途に思いつめてしまう。そこで危く実妹殺しの悲劇が起りかけるのである。赦してと両手を合す妹、命をくれ、死んでくれと迫る兄、あわれを誘う一コマだが、ここで血を吐く兄平右衛門の一言が出る。「小心者の悲しさは人に(すぐ)れた心底を、見せねば数に入れられぬ」というのだ。別に芝居通でもない淮陰子だが、およそ知るかぎりの歌舞伎狂言でも、これほど悲しく切ない言葉はほかに知らぬ。            

 平右衛門は足軽である。足軽なればこそ、士分並みには仇討連判にも簡単には加えてもらえない。思いつめた彼が、とっさに心に決めたのが、悲しいこの妹殺しだった。「人に勝れた心底」とは、言葉の上こそ美しいが、なんと切ない心境であろうか。もちろん、狂言綺語といってしまえばそれまでだが、「小心者の悲しさ」とは、なにかそこに封建身分制への人間的抗議が、実にさりげない形でこめられていたのではないのか。この場を見るたびに思うのだ。  

 そういえば、例の「伽羅(めいぼく)先代萩」の、これも周知のあの御殿の場にも、もっとより悲しい憤りがある。御殿の場といえば、もちろん誠忠鉄心の政岡が主人公役であり、幼い実子千松に言い含めて、主君の身がわり死をとげさせるあの名舞台。今でもずいぶんお客の紅涙をしぼらせる場面であり、戦前などは皇国女子教育の絶好教材として、よく女学生の団体観劇までさせたほどであった。だが、考えてみると、ちょっとこれもおかしいのだ。         

 例の千松(なぶり)殺しのあと、いよいよ「跡には一人政岡が……」にはじまる長いくどき(ゝゝゝ)になり、わが子の死骸を抱いて政岡の名演技と、それに伴う(ちょぼ)の語りとをたっぷり味わせてもらえるわけだが、この語り、子細に聞くと、まことに奇妙な話にもなる。 

 「三千世界に子を持った親の心は皆一つ。子の可愛さに毒な物喰うなと叱るのに、毒と見えたら試みて、死んでくれいと言うような、胴欲非道な母親が、またと一人あるものか」と彼女は歎くのだ。いや、これはまだよい。だが、彼女はさらにつづけて言うのである。「死ぬるを忠義ということは、いつの世からの習わしぞ」と。ここまでくれば、もうただの愚痴ではない。はっきりいって懐疑であり、そして痛烈なプロテストでもあるはずである。      

 いまの団体客などは呑気なもので、おそらく院本(まるほん)の文句などは上の空、上っ面だけで甘い感傷の涙にむせんでいるだけなのであろうが、おそらく昔の庶民はそうではなかった。ここでもまた非人間的封建道徳に対する、やりばのない憤りと抗議とを、ひそかにこめていたものに相違ない。偏痴気論と言い切れるかどうか。   (75・10)

 令和4(2022)年7月28日。



  舎利・十字架・聖遺物 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.144~145

 舎利、または仏舎利と呼ばれるものがある。火葬にして釈迦の遺骨ということになっているが、これが早くから仏教圏各国に分骨され、いわゆる舎利礼拝の起源になったことは、淮陰子など門外漢でも、一応は承知している。わが国でも敏達天皇の十三年、司馬達らがこれを蘇我馬子に献じ、馬子は試しに鉄槌でたたいてみたが、鉄槌と鉄床(かなとこ)はくだけても、舎利には何の異状も起らなかったなどという奇瑞譚が、『日本書紀』にも出ているくらいだし、さらに鑑真和上が来日の際も、仏舎利三千粒を将来したというのは有名な伝承である。            

 淮陰子など、もちろん一見したこともないが、どうやら美しい米粒状のものらしいことは、すし屋での通語シャリ(ゝゝゝ)に見ても察せられそうである。ところで、もっと実は興味深いのは、いくら仏陀の聖骨だからといって、常識で考えれば限りはあるはず。これがそう近年まで、やたらと各国に贈られるというのは異様である。だが、そこは心得たもので、どうやら舎利は信仰によって増殖される、という考え方が生れているらしい。これなら便利重宝、代用品でも事がすむわけ、無尽蔵ともいえるであろう。  

 そこでこの聖遺物崇拝という習俗だが、もちろん仏教だけの独占物ではない。キリスト教にも立派にある。しかも聖遺物増殖という発想までが、符節を合すように同じなのだから恐れ入る。         

 西紀四世紀半ばといえば、例のキリスト教を公認したローマ皇帝コンスタタンチヌスのころだが、聖地エルサレムであのキリストを磔刑にした十字架、釘、茨の冠等々が発見されたとの話が、パッと伝えられた。巡礼たちにとっては絶対の魅力であった十字架の小破片を乞い受けて来て、忽ち聖遺物崇拝熱が大流行した。だが、この十字架にしても、物量に限りはあるわけ。そこで生れたのが、やはり同じ増殖力発想だったから面白い。これなら限りない商売が成り立つわけである。 

 が、さすがにこれには批判も出た。たとえば一五二六年に書かれたエラスムスの『対話篇(コㇽローキア)』の一篇「信仰巡礼」を見ると、次のような一節がある。対話者の一人がいうのだ。「至るところで主の十字架が展示されているが、もしあの破片をみんな集めれば、貨物船一杯にもなりましょうか。……だが、別に驚くにはあたらん。主は全能、御意(みここころ)ならば、こうしたものくらい、いくらでも殖えるわけですからな」と。      

 ついでにいえば、幼児キリストを育んだ聖母マリアの乳と称するものまで、聖遺物として利用されていたらしい。卵の白味か何かで練り固め、チョーク粉お塊のようにして、恭しくガラス・ケ―ス入りで祭壇に並べられていたという。千五百年昔の聖乳が、である! これも同じ上述エラスムスの『対話篇』に出るが、さすがにこの穏健な人文主義者、そこは軽く迷妄を揶揄してのけているだけなのが皮肉である。   (75・11)

 令和4(2022)年7月29日。



  思い邪なるものに恥あれ(オニ・ソア・キ・マリ・パンス) 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.146~147

 スウィフトの例の『ガリヴァ―廻国記』第三篇、「空飛ぶ島」(ラピュータ)の件を読むと、次のような一節がある。この国の女性に関する話なのだが、島では女たちを監禁同然にして、下界の領土にやることを容易に許さない。というのは、以下のような苦い経験が続出したからだという。つまり、ある宰相夫人というのが、家に財はたっぷりとあり、思うままの贅沢三昧はもちろん、夫君の愛情も間然するところがなかったはずだが、あるとき下界へ下りると、そのまま姿をくらましてしまった。やっと探し出して見ると、これはまたなんと不具男の下僕風情の情婦になり下っており、身ぐるみはがれて、見る影もなくおちぶれていた。無理に連れ戻した上で、夫は彼女の前非をすべてゆるし、愛情も旧に変らなかったというのに、女はまたしても家出して、先の下僕の許に走った。すっかり入れ揚げたまではわかったが、その後は杳として消息さえ知れなくなったというのである。      

 なんともわからない女の気紛れ、「読者諸君は、どこやらイギリスでの話でも聞いているような気にはならぬか」と、そこはスウィフト一流の意地わるい皮肉を、ちょっぴり空とぼけて付け加えるのだ。そういえばイギリスだけの話ではないかもしれぬ。わが大和撫子(やまとなでしこ)の国日本でも、大正昭和ごろにかけて、伯爵家の家付娘が自動車運転手と駆落心中をしたり、公爵の娘だかが夫を棄てて、町のマッサージ師と一緒になったなど、必ずしも同趣の実例はめずらしくなかった。  

 ところで、ガリヴァ―はもちろん空想の作り物語だが、どうやら史実らしいものにも、同様の例はなくもない。たとえば西暦一世紀、ローマ第四代の皇帝クラウディウスの皇后メッサリーナは、夜、夫皇帝の寝静まるのを見さだめると、ひそかに宮殿を抜け出し、偽名変装して街の娼家を訪れるのがつねであった。そして毎夜そこで何人かの嫖客をとり、ちゃっかり代金まで請求した。店の閉まるまで最後に居残るのは彼女であり、それでもまだ満足はできないらしく、寝乱れ姿をそのままに、ひそかにまた夫皇帝のベッドに帰っていたという。                    

 さて、以上は当代の諷刺詩人ユウェナリス(Juvenalis:黒崎記)の「サタイア」第六歌の一節を、そのまま要約したわけだが、教科書版には絶対に出ぬその具体的叙述に興味のある読者は、なんとか原典についてもらうより致し方あるまい。 

 国際婦人年の最後に、まことにけしからぬ話ばかり紹介してしまったが、別に他意あってのことではない、スウィスㇳ、ユウェナリスの徒が書いているのだから、その辺はお目こぼしを願いたい。とりわけ後者のごとき、まるで見て来たような叙述をしているのだが、なにぶん作者はなだたる諷刺詩人のこと、多少の張扇はあるかもしれぬ。まして同様の事例は男にもある。いや、女以上にあるかもしれぬ。いずれ機会を見て罪亡しはするつもりだから、よろしく。   (75・12)      

 令和4(2022)年7月29日。



   スカトロギア遺聞一つ 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.148~149

 つい先ごろ(一九七五年)出た松田道夫氏の『花洛』(岩波新書)を、非常に楽しく、また面白く読んだが、たまたま京女の「立小便(たちしょんべん)」という奇習に触れ、いろいろとスカトロギア(糞尿学:英語: Scatology:黒崎記)蘊蓄?の一端まで披露していただいて、まことに有益であった。馬琴の「羇旅漫録」にわざわざ一項を立て、「富家の女房も小便は悉く立て居てするなり」とあるあの件りくらいは、日本随筆大成本の流布版もあるので、むかし読んで知っていたが、西沢一鳳の「皇都午睡」にまで、これは大阪での所見だが、「若き女の小便するふりは余り見るべき姿にあらず」云々との記事があることなどは知らなかった。

 明治末、関東から京見物に来られた著者松田氏の祖父母が、異様な光景に驚かれたことはわかるが、これは京都にかぎらず、かなり広く関西一般の風習ではなかったのか。松田氏の記事とほぼ同じころだが、上方育ちの淮陰子など、子供のときから見なれて、正直にいって少しも奇異とは感じていなかったように思う。そこで面白いものを読ませてもらったお礼に、いささかか淮陰子にも屋上屋を架させていただく。 

 それは司馬江漢の話だが、文久九年に大和巡りをし、そのあと八ヵ月に近い京都滞留をしているが、その大和巡りの部分が「吉野紀行」としてのこっている。果して彼も伊勢伊賀の境の茶屋でこの奇習を見たらしい。十八九の女三人居てはたらく。一人顔色いたって美、物云よし。やがて向うのタゴへ尻をまくって小便する。皆此辺の風なり」とある。やはりこの習俗はよほど強烈な印象をのこしたと見え、翌文化十年にある人に宛てた長文書簡にも、この話が出る。この書簡は江戸と京の長短を詳しく列挙しながら比較した実に興味深いものだが、その「京のあしき事」の最後に、「一、女の小便、是はタゴへする故に尻をまくり後ろ向きになる。多くは尻をふかず、一向の田舎風なり」とある。京でもやはり同じ光景をみせられたのであろうか。いずれほかにもまだ言及はあろうし、とりわけ外人の筆やスケッチなどが記録しているのではないかと、多少探してみたが、時間もなく見当らなかった。

 ところで、現在はもう見るべくもないこの風習、松田氏は「路上で塀に背を向け、膝をまげずに上半身を深く屈し」云々と、さりげなく上品に述べておられるが、おそらくまず想像もつくまい。ただ馬琴、江漢流の叙述が思わせるほどの風俗壊乱のものでは決してなかった。一に和服が一種のカーテン役を果していたからである。洋装ではとうていできぬ芸当であろう。また馬琴は「富家の女房も悉く」と記しているが、果してこれはどうか。少なくとも淮陰子の知るところでは、まず中下流以下、幼女は別として、年ごろも中年以上、まずは老婆にかぎられていたように思う。見目よき若い女の、そんなあられもない所行を見た記憶はない。明治も末頃ともなれば、すでに相当の風俗改良が行きわたっていたのか。補注   (76・1)

補注:これにも相当数の来信があった。女子放尿に関する東西習俗の相異につき、古くは古川柳、寺門静軒の「静軒痴談」、畑銀鶏の「南柯の夢」、近くは大正期の大庭柯公随筆集『ペンの踊り』等々など、いろいろと新文献まで教えて下さった方もある。が、詳しい紹介は補注の域をこえるので割愛。悪しからず。なお大庭柯公はロシア通として「大阪毎日」、「東京朝日」などで活躍したが、大正十年革命後のロシアを見学するため入露し、そのまま消息を絶った一種の変り者記者。

 令和4(2022)年6月24日。



 百年前の北方領土問題 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.150~151

 明治八年五月七日、いわゆる千島・樺太交換条約なるものの調印を見たことは周知の通り。つまり、樺太全土をロシアに渡すかわりに、千島全島は日本側が領有する、文字通りの交換である。

 条件の成果は、やや後年になってこそ、賢明だったとして相当の評価を受けるのだが、当時はどうして囂々(ごうごう)たる非難が沸騰した。おかげで構想の発案者黒田清隆や、交渉に当った公使榎本武揚などは、ほとんど国賊扱いであった。一文の価値もない千島と、資源豊富な樺太とを交換などとは何事ぞや、というのである。この問題を正面から扱うなどは、もちろん「一月一話」の手にあまる題目なので、すべて端折るが、日本側ではそれほどまで不評だったこの交換のこととて、さだめしロシア側では大いに満足だったろうと思うと、さにあらず、先方でもまた失敗外交の攻撃がひどかったらしいのである。ある一書に、その代表的な新聞論評が引かれているので、とりあえず要点だけを紹介する。

 「これ実に露国の大失策である。……軍事上よりして、地形の観察点を誤ったことは由々敷き問題である」という書き出しで、以下千島を失ったカムチャッカの衛りもできぬ。同半島の西岸というのは、一として良港がない。浦塩から艦船を送ろうとすれば、いやでも千島間の海峡を通過せねばならなぬ。これを日本に(やく)されては、同半島の防備はまず不可能。「国家の大患、これより甚だしきはなし」といきまくのだ。さらにあとは千島全島を占領する必要あり、それは「やがて北海道、否、日本全土を露領たらしめんが為めに必要である」というような恐るべきことをまで主張する。

 ただこの社説、残念ながら原文を見たわけでない。しかも引用の一書も俗書に近いのが遺憾である。だが、著者寺島柾史というのは、かなり明治政界の裏面にも出入りしていた人物らしく、そうした秘話物をよく書いていたジャーナリストである。あるいは外務省あたりででも見た資料によったものではないのか。相当に長い訳文引用だけに、まるまるフィクションとも思えぬ。一級資料でなくて恐縮だが、交換をもっぱら軍事的観点から見ていること、また外交成果というものが、お互いどんな見方でもできることが興味深いので、紹介しただけである。

 過日はソ連外相の来日と関連して、またしても北方領土の一季節があった。ソ連があくまで北方四島に固執するのは、明らかに軍事的観点からだと淮陰子は考えている。片や沖縄に強大なアメリカ軍事基地があり、他方北海道から千島にかけての一線を考えると、そうとしか思えないのだ。現にソ連も独ソ開戦以後は、武器貸与法(レンド・リース)によるアメリカからの武器援助を受けたが、この一線で苦杯をなめた歴史がある。道理はともかく、現実とはやはりそうしたものではないのか。   (76・2)

▼この記録をきっかけにして、明治初期の歴史(『新日本の歴史』(山川出版社))をしらべてみると興味ある事実を知ることができた。

 江戸時代以来薩摩藩の支配下にありながら、清国にも朝貢していた琉球の帰属をめぐって、清国と対立した。琉球を日本の領土と考えた政府は、まず<琉球藩をおき、琉球島民が台湾で殺されたことを理由に、1874(明治7)年には台湾に出兵した(征台の役)。ついで1879(明治12)年、琉球藩を廃して沖縄県の設置を強行した。(琉球処分)。

 ロシアに対しては1875(明治8)年樺太・千島交換条約をむすび、樺太をロシア領、千島列島を日本領と定めた。また、所属がはっきりしなかった小笠原諸島も、国際的に日本の領土と認められた。

 明治政府が発足当時の歴史の国際関係の一部を知ることができました。

 現在、北方四島の問題が日露の外交課題になっているが、明治の初期に比べて国際関係は日露間の問題に限られず世界的関係の中に組み込まれているように感じさせられた。

平成15年12月8日。

追加:北方領土交渉、日本の安定政権が必要…前原外相

 前原外相は2011年2月26日、読売テレビの番組で、北方領土問題について「安倍首相以降、1年ぐらいで首相が代わっている。こんな国とまともに議論できないというロシア側の考えが透けて見える。安定した政治をつくらないと、どっしりした相撲はとれない」と語った。

 領土問題の進展には、日本側に安定政権が必要だとの考えを示したものだ。そのうえで、「領土問題という譲れない一線があるが、戦略的関係は強めなくてはいけない」とも強調した。

(2011年2月26日17時52分 読売新聞)


 終戦前後の日本とロシアとの関係

 ポッダム宣言・原爆・ソ連参戦

昭和二十年七月十七日から八月一日まで、アメリカのトルーマン大統領、イギリスののチャーチル首相、ソ連のスターリン首相はベルリン郊外のポッダムで、欧州戦後処理問題と対日終戦問題のための頂上会談を開いた。宣言はアメリカ主導の下に作成されたが、天皇制存続問題以外の部分は六月末に作られたアメリカ側草案にもとづくところが多かった。(草案中略)

 当時の鈴木貫太郎首相は「新聞には只ニュースとしてのせるがが批判せず、黙殺すること事」とした。(中略)拒絶の意にも受け入れ取れた。

 アメリカは既定の方針にもとづき、日本の抗戦意志を砕くべく原爆の使用を決呈した。八月六日午前八時過ぎ、テニアンから飛来したチベット大佐指揮のB29が広島に原爆を投下した。死者の数には諸説があるが一四万人(誤差プラスマイナス一万人)に達すると見られている。つづいて九日午前十一時頃には長崎に原爆が投下された。死者は七万人(誤差プラスマイナス一万人)といわれる。

 八月八日午後十一時(日本時間)、ソ連のモロトフ外相は日本がポッダム宣言を拒否した結果、日本のソ連への和平仲介依頼は基礎を失ったとし、九日以降戦争状態に入る旨を通告してきた(日ソ中立条約は昭和二十一年四月まで有効だった)。相前後してソ連軍と外蒙古軍は満州・朝鮮・内蒙古・南樺太で攻撃を開始した。関東軍は精鋭をを南方・本土に転用し北満での迎撃を断念した上に奇襲を受けたため、たちまち満州の主要部に侵攻されて終戦を迎えた。この間、多数の移民。在留邦人がソ連軍の虐殺・略奪にあい、さらにはシベリア抑留者や残留孤児の問題が生まれた。
山川出版社『日本歴史大系5』による。

 そして終戦へと突き進んだ。

 2008.12.08の記述にかきくわえたが、現在2010~2011年にかけて日ソの関係は冷え切っていると報道されている。

 日ソの歴史的関係全体を日本人の一人として読み比べて北方問題について考えてみたいものだ。

参考:ソ連が歯舞・色丹・国後・択捉の4島をソ連領に編入すると宣言する(1946.02.20)

2011.02.20



  ピーナツと珍品 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.152~153

 このところロッキード疑獄で、ピーナツ百個というのが、とんだお笑い草の話題になっている。どうやら一個分百万円との相場に落ち着いたようだが、この珍談の結末がどうなるか、目下のところでは見当もつかぬ。ただ内容はよくわからなかったが、それでも領収書に自署のサインをあたえたという点、こんないい加減なことをやる人物でも、けっこう大商社の有能専務がつとまるらしいという意味でなら、たしかに近ごろ有益な教訓だった。            

 ところで、アメリカ向けがピーナツなら、このわが国でも、かつて「珍品五個」とある領収礼状のことで、大いに話題をまいた前例がある。いささか古いが、大正十年三月のことである。時代は原敬内閣、当時は二大政党? 政友会と憲政会とが激しい対立で、ずいぶん見苦しい政争の行われていた一時期だが、このとき、はからずも有名な船成金の内田信也なる人物が、憲政会総裁加藤高明に政治献金を贈り、その自筆礼状まで所有していると言いだしたことから大騒ぎになった。しかもその文中に、「珍品五個」を深謝する旨の一行まであったために、俄然話題を賑やかにしたのである。  

 珍品一個とは一万円、つまり合計五万円ということがわかった。だが、ただこの金が当時憲政会内にあって普選運動の急先鋒だった尾崎行雄、島田三郎ら一派を抑えるという交換条件つきでなされた献金だとか、いや、ないとかいったことで、にわかに政治問題化したのである。事実は上述内田が政界入りを狙い、いわば政友会への手土産として提供した暴露材料だったわけだったが、当時の政友会幹事長広岡某がまんまとその手に乗り、職まで賭して公開したというのが、まず真相のようである。さすがに総裁原敬は反対だったらしく、「余一読して加藤も如何にも不注意の書面を送りたるものなりと思うも」、「個人攻撃の誤解を生ずる者なきにも非ざるべしと思い」注意したが、上述幹事長が承引しなかった旨を、当時の日記に記している。ピーナツといい、珍品といい、政財界の内裏は、昔も今も、アメリカも日本も、ほとんど変りないことがわかって興味深い。             

 ところで珍品といえば、当の内田自身がまことに文字通りの珍品だった。第一次大戦の景気に乗じ、一船会社のサラリーマンから、わずか一隻の持船で内田汽船を創設、たちまち多角経営にまで進出し、当時三大成金の一人ということで評判になった、但し、結局世間の話題を呼んだのは、だだら遊蕩の限りをつくしたとか、六十割という素頓狂な配当を行ったとか、すべてたわけた話だけにすぎなかった。それでも珍品問題以後、政界入りには成功し、戦前、戦中、戦後と三たび閣僚の椅子にも坐らせてもらったが、威勢よいだけのガラッ八で、これといった政治実績はほとんどない。

 但し、珍挿話ならいくらでもある。一例だけを挙げると、政界入り前の成金時代だが、たまたま乗った東海道線列車が顛覆事故を起した。彼は寝台車から叫んだ、「神戸の内田だ。金はいくらでも出す。助けてくれ!」と。おそらく不朽の名言であろう。   (76・3)

 令和4(2022)年7月30日。



 ある禁欲主義者の話 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.154~155

 むかし、ある男がいた。官能の快感、欲望の満足ということは、すべてこれを神の前での悪として斥け、ついには次のようなことまで決意し、事実それを実行したという。  

 すなわち、毎度の食事は、ちゃんと一定の量を計って決め、食欲の如何などには一切お構いなしに、必ずそれだけは食べた。いかに食欲があっても、絶対にそれ以上は口にせず、また逆に、いかに食欲がなくとも、これまた必ずその量だけは食べた。なぜそんなことをするのかと、ある人が訊くと、満足させねばならぬのは胃の府であり、食欲ではないからだ、と答えたというのだ。

 ずいぶん風変わりな臍曲り男と呆れる諸君もいるかもしれぬが、この男とは例の『パンセ』(Pansé)の著者ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal :1,623-1,662:黒崎記)であり、以上の話は、マダム・ペリエ、つまりパスカルの実姉ジルベルトが書き遺した『パスカル小伝』の中に出る。彼女によれば、パスカル晩年の五年間(彼は三十九歳で死んでいる)は、大体はこの調子で、ひたすら神に献身する禁欲だけで過したようである。同じような挿話はいやというほど出る。 

 食事の好悪を口にすることはまったくなかった。病状を気づかい、特別の食事をあたえても、まるで風馬牛であった。どうだったかと訊くと、そんならもっと早く言ううべきだ、まつたく気づかなかったと、一言答えるだけだったという。味つけのソースや、もともと好きだった果実類まで固く拒みつづけた。食欲だけではない。一切眼を娯しませる余計物は不用というので、壁掛けなどはすべて撤去、ガランドウのような居室だったらしい。

 こんな話もある。彼はつねに鉄釘をうえたベルトを帯しており、これでたえず肉体を苛み、すべての心意をひたすら神のことに集中させるようにしていた。たとえば友人の訪問があり、思わず話に興したり、また霊の問題について、つい先達者の虚栄心など萌すと、すかさずこのベルトを肱で小突き、激痛でハッと反省の料にしたという、歓談の娯しみさえこれを悪としたのである。

 さらに最期近くは、肉親や友人の愛情まで頑なに拒否した。それだけ人々の思いを神のことから遠ざける罪を犯すことになるから、というのだった。これはある肉親宛書簡だが、結婚は一種の殺人、したがって神殺しだとまで言い切っている。理由は同じ。妻を愛する夫は、それだけ神を忘れ、つまり神殺しになるというわけだ。 

 限りがないからよすが、とにかく実姉の筆になるこの小伝、『パンセ』を理解するには絶対に必読文献というのが私見である。病的と簡単に片づける向きもあるかもしれぬが、パスカルの場合、断じてそんな話ではない。『パンセ』は読まれるらしいが、案外この小伝のことは触れられていない。著作集にはよく付録として収められているから、容易に読めるはずなのに、不思議である。現に邦訳も戦前? 白水社から出ていたはずだが、どうやら現在は絶版になっているらしい。残念なことである。  (76・4)

 令和4年(2022)6月03日。



 普選貴院に入るを許さず、そのほか 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.156~157

 普通選挙(あるいは婦人参政権をも含めて)などといえば、今ではもう日本でさえも当然自明の人権、あたかも空気のような存在に感じる方が、むしろ大勢かもしれぬ。逆にいえば、そもそも財産や紊税額で政治参加を制限することこそおかしい、と言いだすことであろう。 

 ところが、実は決してそうではなかった。政治論上の要求はしばらくおき、議案が議会に提出されるようになってからだけでも、実現までには二十数年がかかった。大正十四年の第五十帝国議会で、やっと不完全ながら成立を見たわけだが、反対論最大の牙城は、一貫して貴族院であった。明治四十四年などは、衆議院は大多数で通過しながら、貴族院でつぶされた。反対論の理由は、いまから見ると、いずれも実に噴飯ものだが、当時は天下の識者がすべて大真面目で主張したのだから愉快である。一例だけをあげてみる。  

 上述貴族院でつぶされたときだが、曰く、「今日のみならず将来においても、斯の如き法案は貴族院の門に入るべからずとの制札をかけ、全会一致の否決を望む」というのだ。なんのことはない、普選、山門に入るを許さずである。発言者は東京帝国大学教授で高名だった憲法学者穂積八束(やつか)博士。もっとも、この穂積は天下になだたる君権論者、「民法出でて忠孝亡ぶ」との名言までのこした人物だというから、あるいはこの制札もやむをえなかったのかもしれぬ。 

 話題をかえる。

 参政権はともかく、女といえば普通教育ですらが大変な問題であった。「女大学」時代の話ではない。庶政一新の明治になってからのことである。明治十二年と、時代はいささか古くなるが、小学校教員を養成するために、旧千葉師範学校が開設されたころの挿話らしい。次のごとき嘘のような思い出話が、同校同窓会誌? に載っているそうである。淮陰子はこれを唐沢富太郎著『学生の歴史』から孫引きするのだが、ある農村の金持ちにひどく学問好きの娘がいた。さっそくこれを知った県官が、上記女子師範への入学をすすめたわけだが、ここではからずも家庭騒動が持ち上がった。以下まず回想談の一部をそのままに引くが、 

 「父親は考えるのに、県官には日頃恩顧にあずかっているので、その仰せに従わない訳には行かない。しかし一方女子師範学校に学ぶような娘を育てたということは、祖先に対して誠に申訳ない。進退きわまって妻に相談したところ、妻も困り、左様な学問好きな娘を生んだのは私であって申訳がない。この上は親類の方々と相談して」ということで、とうとう親族会議にまでなったという。結局はやっと母方の老人が取りなし役にはいり、「県官の命に背かず、また(中略)家名を傷つけることのないように、自分の家の養女として、母方の姓をな乗って入学させ」、やっとめでたくおさまったというのである。

 最後に一言蛇足をいえば、総じて反対論の大半は、歴史の流れからすれば、まずとんだお茶晩ものばかり。公務員スト権の否定にしても、おそらくはまず同断か。   (76・5)

 題名は漢文で書かれているが読み下しにした。「葷酒山門に入るを許さず」をもじつている。(黒崎記)     

 令和4年(2022)6月09日。



  人物像描写のアキレス腱 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.158~1593

 有名なシェクスピアの劇など、舞台で見るジュリアス・シーザーは、まことに颯爽とした英雄ぶりである。古代以来の伝承である癲癇発作癖の弱点こそ、一応さりげなく言及されているが、例の暗殺を前にして、「天上にあっては唯一不動の北極星……数多人間の中にあって、厳として不可侵の地位にあるは唯一人、それがシーザーだ」との名セリフで、四辺を睥睨するあの議事堂(カピトル)前場面など、どうして堂々たる風格である。          

 ところでが他方、スエトニウス(Suetonius:黒崎記)の『ローマ皇帝列伝』に登場する同じシーザー像となると、まことに愉快な肉体的特徴までが出るから面白い。それによると、この人物、色白で眼は鋭く、事実美丈夫であったようだが、頭は若いころからのつるっ禿で、しばしば人々の笑いものになったという。本人もまたひどくそれを気にし、「いつも(後頭部の)乏しい髪を、櫛できれいに天頂(てつぺん)から前になでつけていた」と。なんのことはない、さしずめ玉スダレ型とでもいうところだが、そのせいか、月桂冠が大好きだったともある。  

 話は飛ぶが、例のアウゲストゥス帝についても、スエトニウスは、これまた奇妙な肉体的特徴に触れている。曰く、「全身(あざ)だらけで、とりわけ胸と腹のなどは北斗七星そっくりだった。」またさらに身体中タムㇱのようなかさぶた(ゝゝゝゝ)がひどく、痒いので掻きすぎて、いたるところカサカサになっていたという。もちろん筆者スエトニウスは百年ほどもくだる人物、いずれ伝承で書いたものににはちがいないが、焦点の当て方が心憎い。                    

 ところで、こうした人物像描写、日本人はあまり得意でないようだが、一つ義公水戸光圀伝を書いた『西山遺事』(一名『桃源遺事』)に、奇妙な彼の癖を記した一節があるから紹介する。最初はまず型通り、彼の美男、美丈夫ぶりをたたえる文がつづくわけだが、そのあと突然、「御寝なられ候時は、御目半眼にて、すきと御閉じなされず、とくと御ねいり候へば、御目の玉くるめき申候。御ねいり成らざる内は、くるめき不申候。また御休候節、御側にて声高に物語仕候に、よく御ねいりなされ、私語(ささめごと)にはかならず御目覚申候。また御ねいりなされ候へば、御足の指動き、ひたと御床を御うち候。御ねいり遊ばされざる内も、左様にこれあり候につき、なれ奉り候者どもも、御ねいり候と、御ねいりなされざることを、ままとりちがへ申候」というのだ。

 たしかにこれも変っている。寝入らぬうちは眼の玉も静かだが、寝入るととたんにくるめ出す。高声の話には覚めぬが、私語だと必ず目を覚ます。寝ぬ間も寝入ってからも、足趾が動いて床を打つ。おかげでときどきとんだ取りちがをするものがいた、というのだが、とにかくこれは奇癖である。もし真実だとすれば、あるいは警戒の性が慣いとなり、こんな癖にまでなったものか。 

 もっとも、本書は光圀の死の翌年、元禄十四年というのに側近が書き、終始あげての頌徳表だから、あるいは多少の割引きもいるのかもしれぬが、とにかくここではそのままに紹介した。   (76.6)

※参考:徳川光圀。(黒崎記)

 令和4(2022)年7月30日。



  平伏、土下座、プロスキュネシス 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』P.160~161

 日本流にいえば平伏、土下座、ギリシャ語なら拝跪(プロスキユネシス) προσκυνησίας であろうが、はじめてやらされものには、ひどい屈辱感だたろうと同時に、やらせる側にとっては、よほど好い気分のものだったらしい。   

 例の幕末黒船騒ぎ、ペリー艦隊来航の折りだが、乗組員の中に少なくとも一人は日本人漂民がいたことが、彼我の文書でも明らかであり、今ではむしろ周知の事実でさえある。サム・パッチ Sam Patch の愛称で伝えられている安芸の漁民仙太郎(ないしは仙人?)がそれだが、不憫にもこの男、祖国の山河を目前にしながら、処罰をおそれて、ふたたびまた異郷へと淋しく去っている。嘉永七年再度来航のときなどは、二度まで幕府役人と面接しているのだが、結局は空しかった。  

 ところが、このとき果して上下問題の愉快な挿話がある。二度とも彼は役人の顔を見ると、たちまち恐懼、ぶるぶる震えながら甲板上に土下座したらしい。見かねた艦長や将校から、「星条旗の下、何人(なにびと)といえども人間の形をしたものの前に、かかる屈従を示すべきでない、立て」という奇妙な命令まで受けているのだ。たしかにはじめて見るアメリカ人からすれば、とうてい考えられぬ卑屈さに映ったに相違ない。 

 それにしてもこの拝跪の礼、アジアの起源であることはまず確実だが、そもそも発祥はどこなのであろうか。       

 ヨーロッパ人が目にした、おそらくもっとも早い例の一つとして、アレクサンダー大王のペルㇱア遠征行が挙げられる。彼は首都ペルセポリスを攻略、アケメネス朝帝国を滅亡させるわけだが、このとき知った拝跪礼(プロスキユネシス)を、さっそく彼は採用している。よほどよい気持だったのであろう。だが、これをマケドニア以来の臣僚にまで強いたからたまらない。屈辱にたえかねた宮廷内陰謀がいくどか起り、有名なある修史官某までが抗命が原因で、叛心にことよせて誅されている。だが、その後ローマ人も見ならって、皇帝神格化がすすむとともに、この礼もまた採り入れられたらしい。

 話は東に飛ぶが、毎度これに悩まされた例に、長崎出島オランダ商館長一行の恒例参府と将軍謁見がある。彼らの紀行を読めば必ず出るが、ケンフェルは終始「蟹の如く」膝行進退したとあるし、シーボルトもまた前もって練習までさせられた顛末を書いている。オランダ側としては貿易利益もあり、目をつぶって忍んだのであろうし、これら紀行著者たちもまた、一応は冷静客観的に報告しているが、言外の屈辱感、憤懣は行間に溢れている。まだほかに十八世紀末以来、清国に開国を求めて派遣された幾多ヨーロッパ使節団の記録もあるが、枚数が尽きたから、すべて省略する。ただつねに清帝の前での kowtow (叩頭)ということが問題になり、結局交渉不調に終っているのが面白い。(最後に、プロスキユネシスというこの拝礼、ただ身を屈めて手に接吻するだけとい・う解釈もある。念のために付記しておく。)   (76・7)       

 令和4(2022)年8月02日。



シーメンス事件とある陰謀? 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』P.162~163

 先日NHKで、いわゆるシーメンス事件の特集めいたものを放映した。なんどもドサ回り芝居じみたあの俳優の演技さえなければ、一応時宜をえた好企画だったとはいえよう。とりわけ最後に故平沼騏一郎の回想談の一節を出し、ときの海相斎藤実も実は十万円とっていたが、これは調書を抑えて秘密にしたというあたり、よほどの拠出物気取りで大得意らしかったが、あの『改造』誌所載「祖国への遺言」を取り上げるくらいなら、なぜもっと前の同様回想談「機外会館談話録」にまで当ってみる労を払わなかったのか。(これは戦中、昭和十七~八年に採られた聞書で、出版は同じく三十年、非売品だが『回顧録』一巻に収められている。)

 もちろん両者ともに大同小異で、必ずしも新事実が多いとはいえぬが、このシーメンス事件にしても、ほかにまだ少なくとも二、三は、きわめて注目すべき発言が出ているはず。補足の意味で紹介しておく。 

 まず首相山本権兵衛のこと。これは「祖国への遺言」でも、彼に金銭的関係は一切なしと、はっきり述べているが、「機外会館談話録」でもまた、「山本は一文も取っていない」と共通である。が、後者に見るもっと重要な証言で、どうした理由か、「遺言」では全く触れられていない発言に、実はあの問題、あんな形で事件化したのは、なんと山本首相の失脚を狙った山県(有朋)の陰謀だったとする平沼見解がある。よほど自信があるらしく、わずか六頁に五回までもくりかえされているのだ。 

 もともとこれら平沼の回想談、すでに彼は戦中から多少ぼけていたものか、実に幼稚な初歩的事実の誤りまで相当目につくので、そう単純に一級資料として鵜呑みのできかねる点もあるが、ただ山県といえば天性の陰謀好き、黒幕の大家、さらに因縁ともいうべき陸海軍暗闘の歴史までを考えると、一瞬に妄想として無視し去ることもできなそうである。事実とすれば興味深い。 

 最後にいま一つ。この問題が事件化したとき、当時の検事総長平沼の頭に始終あった一事は、「海軍に傷をつけてはならぬ」という懸念だったともある。そうと知れば海相(ゝゝ)斎藤(高官である)の十万円問題を抑えてついに出さなかったのも、さてはこの理由だったのかと、一応の首肯はできるが、ただそれで想うのは、こんどのロッキード事件にしても、今後における検察当局の態度である。 

 もはや昔の海軍はないから、その辺の心配はいらぬかも知れぬが、もし海軍に代るに、日本政府の名誉などという考えが顔を出すと、ふたたび実質上の指揮権発動、乃至はトカゲの尻尾切りという結果になりかねない。いわゆるシーメンス事件の結末が、やはりある意味での尻尾切りだった。それを思うと、今後の成行きには依然として厳戒が必要。時代がちがうといえばそれまでだが、もし真実ならば、自国の腐敗不名誉もあえて剔抉をおそれぬこと、それだけが逆に国民の名誉を高める所以であることを、よくよく関係者たちは心得てもらいた。   (76・8)

 令和4年5月1日。



 近藤勇と〔賤民身分解放〕 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.164~165

 例の新選組隊長近藤勇(1,834~1,8年64年)が、わが国部落解放運動の先駆者だったとする見解がある。昭和も初年に尾佐竹猛博士が述べておられる話『近藤勇と土方歳三』だから、ご存知の読者もあろうかと思うが、ただその動機については多少の疑問もあるので、その辺のことに触れてみる。 

 ことは慶応四年正月から二月、幕府崩壊も寸前の大詰に行われた、いわゆる賤民身分引上げという一件に関係する。つまり、エタ非人など従来の人外的差別称が、幕命で廃されるという一件である。これに関して尾佐竹博士は、この挙は当時洋医として慶喜将軍の御典医でもあった松本良順と近藤勇との「相談」の結果成ったものであり、そしてこの「人権自由の一大烽火」を点じた「主唱者は近藤である」とまで評価されているのだ。 

meizibunkazensyu.kagakuhen.png  察するところ、博士の拠られた資料は、明治三十五年上記松本が口述筆記させた自伝『蘭疇(らんちゅう)』ではなかったかと思うが(本来は非売私家版だが、現在は『明治文化全集』科学編に収められ簡単に読める。なお蘭疇は良順の雅号)、たしかにそれによると、慶応四年正月のある日、松本は近藤と同道、この話で浅草山谷堀の賤民頭弾左衛門家を訪れているし、その後も相談(ゝゝ)をしたことになっている。いま身分引上一件について詳しく述べる余裕はないが(興味があれば三一書房刊『日本庶民生活史料集成』第十四巻についてもらいたい。「弾内記身分引上一件」の項に、原資料がすべて纏められている)、要するに最後は大阪から逃げ帰った慶喜自身の決断で行われたとある。松本と近藤とは、別のある良順伝によれば、かねて義兄弟の約さえ結んでいたとあるし、このとき近藤は伏見鳥羽戦で銃創を負い、帰府して松本の治療を受けていたわけだから、この挙で同志だったことはわからないではない。

 だが、問題は動機である。果して尾佐竹博士のいわれるような「人権自由の一大烽火」だったのであろうか。近年の部落差別史研究によれば、動機はむしろ本能寺にあったらしい。つまり、累代弾一家がその支配下に握っていた、少なくとも東日本部落の強力な人的資源と経済力とが、その狙いだったとしか思えぬ。現に当時討幕派の薩藩なども、明らかに弾輩下の勢力抱込みに動いていた形跡がある。とすれば、幕府側としても対抗策の必要があったはず。それが松本良順らの周旋になったのではないのか。近藤は最後まで反官軍で梟首(きょうしゅ)にまでなった男。松本もまた後にこそ明治政府に出仕、初代陸軍軍医総監にまでなっているが、このときは江戸開城後も幕軍に投じ東北へと走っている。両者ともにあくまで抗戦を考えていたはず。とすれば、弾一家(その生活ぶりは、なまじの小大みょうなど優に凌いでいたという)の勢力は、当然彼らとしても食指を動かしたと見なければならぬ。今日の解放運動につながるものでないことはもちろん、「人権自由の一大烽火」などでは到底なかったようである。だが、結果としては案外明治四年の賤民身分解放令のきっかけにはなったかもしれぬ。歴史の皮肉でもいうか。   (76・10)

 令和4年(2022)5月29日。



   "美とはなにか" 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.166~167

 例の十八世紀フランスの啓蒙主義者ヴォルテール晩年の著に『哲学辞典』 Dictionaire philosophique と題した思想論稿集がある。その一篇「美」の項を見ると、こんな書出しではじまっている。

ためしにヒキガエルに向い、(ト・カロン)とは何ぞやと問うてみるがよい。おそらく彼は、あの小さな頭から飛び出した巨大な二つのギョロ眼、大きく横に裂けた口、黄色いお(なか)、浅黒い背中をした細君ガエルを指して、これがそれだと答えることであろう。また次はギネアの黒人に訊いてみるがよい。彼にとっての美とは、テラテラと脂ぎった真黒な肌、深く窪んだ眼、そして平ぺったい鼻であるにちがいないからだ。次はまた悪魔に同じ質問を試みてみるがよい。きっと彼は答えるにちがいない。美とは二本の角、四本の鉤爪(かぎつめ)、そして一本の尻尾だと。最後には哲学者に訊いてみるがよい。おそらく彼らだけがさっぱりわからん屁理屈を並べて答えるに決まっている。つまり彼らとしては、なんとかト・カロンと呼ぶ美の原型とやらにふさわしいような、御託を並べなければならぬからである。
 もちろん、直接にはいわゆる哲学者なるものに、ヴォルテール流の諷罵を投げたものだが、要するに美とは結局相対的なものであることを言いたかったのであろう。引用節のあとにも、まだいくつか同様の例を挙げて、だから、自分は美に関する論だけは書かなかった、というようなことで結んでいる。つまりいえば、(たで)くう虫もすきずき、De gustibus non est disputandum.(趣味、好みだけは理屈のほか、との西欧諺)ということが言いたかったのに相違ない、当然のことである。

 ところが、人間とは妙なもので、服飾や食物のこととなると、どうも他人の評価がひどく気になり、己の好みに自信がもてないらしい。だからこそ、ちがいがわかるだの、わからぬだのといった素頓狂なCMが横行してみたり、逆に出れば、「酢豆腐」などという、とんだ落語のお笑い咄にもなるのである。

 さらに不思議なことに、ひとたび男女のこととなると、まったく一変して、ひどく自信過剰の蓼くう虫になるらしいのだから面白い。たとえばあのアベック風景である。いわゆる結婚シーズンの大安吉日ともなれば、あの新幹線グリーン車など、熱気百度の新婚満車の光景を呈することだって珍しくない。傍目(はため)にはずいぶん駿馬(しゅんめ)、人三化七をのせて走ったり、柳腰、挽臼をひいて難渋するかのごときチグハグ風景にお目にかかることも一再でないが、結構当人同士では御満足のようにお見受けする。いずれ当人たちは、互いに三国一の花婿、花嫁と考えておられるのであろう。如上のような印象などはあくまでも無責任傍観者野郎のお節介でり、他人の評言で恋人をかえたなどという話は、とんと聞かぬ。よほど美意識には自信があるのであろう。それでよいのだと、淮陰子は信じている。むしろ服飾や食物などでひどく他人に気がねすることのほうがおかしいのである。自信をもって蓼を食おうではないか。   (76・11)

 令和4(2022)年6月20日。



   反語逆説辞典あれこれ 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.168~169

 前回はヴォルテル『哲学辞典』からの引用を紹介したので、ついでにいくつか同趣の反語逆説辞典について書いてみよう。

 ここ数年来、妙にこの国の読書界で有名になったものに、ご承知アメリカの作家アンブロース・ビアスの『悪魔辞典』がある。善悪三種類ほどの邦訳まで出ているはず。「助ける――恩知らずをつくること。」「歯科医――諸君の口中に金属を入れて、諸君の懐中から貨幣を引き出す手品師。」「電話――悪魔の発明品。せつかく不愉快な奴らを遠ざけているのに、その有難さの幾分かをなくしてしまうもの」等々といった類で、作者の痛烈な譏刺的天才を見事に発揮しているともいえる。だが、この種の反語辞典には、実は先蹤がいくつもあり、必ずしもビアスの独創とは申しかねる。一々紹介している暇はないが、もっとも有名なのは、例の名作『ボヴリー夫人』などの作者フロベールの『紋切型辞典』であろう。三十年近くにわたり、ひそかに書きためていたらしいのだが、突然の死とともに未完で終っている遺作である。例によって三、四めぼしいものを紹介してみよう。

 隣人――こちらからは何もしてやらず、もっぱら利用を心がくべし。 

 名声――一抹の煙にすぎず。

 哲学――つねに嘲笑すべし。

 娼婦――必要悪の一つ。独身者が存在するかぎり、われらが娘たち、妹たちの防波堤。

 印刷術――驚嘆すべき発明、だが、その害毒は利益よりも大。

 ㇾジョン・ドヌール勲章――つまらんものと言い触らしながら渇望すること。もしもらったら、頼みもせぬのによこしたと言うべし。

 この最後など文化勲章とでも置きかえれば、もっとよくわかって膝をたたくはず。受賞者みんながこの通りのことをいうからだ。

 さて、実はあまり知られぬが、最近日本にも一本が出た。題して『小説哲学辞典』正続編まである。著者は木村晃郎とな乗る御仁、淮陰子にはもちろん未知の人。福岡県小郡市(おごおりし:黒崎記)在住の版画家で市民運動家とある。多少間延びのしたものが多く、いささか薬味のきかぬのが惜しいが、中にはどうして捨て難いものもある。とりあえず三、四を紹介しておく。 

 自叙伝――自分の一生が、他人にとり何か有意義と思い上がっている人々の書く自慢話。

 走高跳――現代無責任時代の象徴。飛びこしてしまえばいい。あとはどんなぶざまな落ち方をしても、だれも文句は言わぬ。(淮陰子――田中、小佐野の徒か:田中角栄、小佐野賢治:黒崎記)

 迷惑――積極的な政治家、活動的な宗教家等のたてるチリ。民衆は有無をいわず、このチリを吸わねばなぬ。

 ――人間社会における最強の接着剤。ただ死にかかった老人と、赤ん坊だけは接着不可能。   (76・12)

※アンプローズ・ピアス『悪魔の辞典』については悪党、最後の隠れ蓑を参考。     

 令和4(2022)年6月19日。



  最後の言葉 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.170~171

 「クリㇳン君、アスクレオピオス神への雄鶏のお供えを忘れた。忘れずにお供えくれ給えね。」          

baidonjpg  プラトンの対話篇『バイドン』が伝えるところによると、それがソクラテス臨終の言葉だったとある。あおいだ毒盃の効果が脚部からまず利きはじめ、すでに下腹のあたりまで冷くなっていた。そのとき、ふと彼は顔の覆いを軽くのけると、立会人の一人、同郷の幼友達でもあったクリトンに向い、上の言葉を発したというのだ。そのあと、もう応答はなかったとある。  

 人間臨終の一瞬を写して、これほど心憎く美しい状景も、ちょっと類例がないのではないか。毒をあおぐに先立って、彼は獄屋を訪れた弟子たちを相手に、例の如く死と霊魂に関するソクラテス流の対話を長々と交していた。だが、いよいよ最後の言葉というのは、実に上記のようなさりげない一言だったというのだ。いかに人間、静かに生を終えることの必要を説いてきた彼とはいえ、まるでこれはちょっとした小旅行に出かけるかのような気軽さである。  

Thomas More.utopiajpg  さて、以上がプラトンの伝えるこの哲人臨終の光景だが、ただ一つ疑問をいえば、あくまでも『バイドン』は作品である。どこまで事実そのままだったかとなると、創作(フイクション)という一抹の疑いものこらないではない。が、これに関連して思い出すのに、例の『ユートピア』の作者サ・トマス・モアの最後がある。彼がヘンリ八世王の離婚問題に反対し、怒りを買ってロンドン塔送り、ついで反逆罪のなで断頭台上の露と消えた史実は周知の通り。ところで、この処刑には多くの目撃者があり、台上での彼の言動については、死後たちまち大陸にまで伝えられ、幾多の挿話、神話類をのこした。が、その最後のそれとおぼしいものに、次のようなのがある。        

 静かに頭を首斬台に横たえてからだった。彼はイギリス版首斬浅右衛門氏の手を軽く制したかと思うと、そっと伸びたあご(ゝゝ)髭を台上からかきのけながら、言ったというのである。  

   「ちょっと待て。この髭は反逆罪など犯してはいないからな。」 

 これまたなんというしゃれた最後の言葉か。古く彼の曽孫クㇼセイカー・モアが、ひろく伝承類を蒐めて物したモア伝にも出ている挿話だから、少なくとも信憑性の点では、『バイドン』以上と見なければなるまい。王権を嗤ったブラック・ヒューマーと見るか、死生を超脱したソクラテス的死生観ととるか、それは読者諸君の自由である。       

 最後に、必ずしもこれは最後の言葉とはいえぬかもしれぬが、淮陰子の大好きな一つに幸田露伴翁の末期に近い一言というのがある。昭和二十二年七月二十七日夜半のことらしい(死は三十日)。息女文さんと和やかな歓談一しきり、ややあって翁は「じゃあ、俺はもう死んじゃうよ」というのだったとある。「何の表情もない、穏やかな目であった」 」と文さんの「終焉」記はのべている。   (77・1)

参考:アミエル、浅野総一郎、伊庭貞剛の晩年の中の伊庭貞剛の晩年を。(黒崎記)

 令和4(2022)年8月03日。



 ある無動機の選択 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.172~173

 年頭早々、なんとも奇妙な事件が起った。もちろん、毒入りコーラ事件である。単に不特定対象の殺人というだけならば、必ずしも前例なしとは言えぬ。現に数年前に一時流行した一連の爆発事件など、ある点明らかに不特定対象を予想したはずの殺人犯罪だったからだ。だが、こんどの毒入りコーラ事件には、その点多少の相違がある。つまり、今回の事件の特徴というのは、なんにんも知らぬ不特定人が、いきなりドカンとやられるのでなく、多少なりともあのコーラ瓶に誘惑を感じた人間だけが被害者になる。もし心ひかれる人間が一人もでなければ、せっかくの妙薬もすべてフイというわけ。

André.Gide.hououtyononukeanajpg"  それでふと閑人の隠居が思い出したものに、フランスの作家アンドレ・ジィドの『法王庁の抜け穴』と題する小説がある。このジィドなる作家、近年はあまり読まれないそうだが、昭和初年ごろはどうして大変な世界的人気作家だった。この作品にしても、無償の行為(アクト・グラテュイ)(gratuitous act:黒崎記)だの、無動機の殺人だのといった難しい問題で、ずいぶんと論議を湧かせたもの。  

 筋など述べている暇はないが、この作でラフカディオなる青年主人公は、ある列車内で偶然乗り合わせた中年紳士を相手に、見事無動機の殺人をやってのけるのである。恩もなければ恨みもない、ただふと乗り合わせたというだけの彼を、進行中の列車から突き落して殺してしまうのである。「完全に無動機の犯罪」ということになる。        

 ところで、この時期(今世紀のほぼ境目である)のジィドは、ひどくこの無動機の行為という問題に執念していたらしい。上記作品の十数年前にも、いま一つ『鎖を解かれたプロメテ』と題する同じ主題の茶番(ソテイ)短編がある。このほうがわかりよさそうであるから、こちらでとりあえず補足説明をする。   

 ある日の午後のパリ街頭。二人の紳士(肥っちょと痩せっぽちと)がぱったり出会う。肥っちょがさりげなくハンケチを落す。これを見た痩せっぽちは、当然ながら拾って渡してやる。と、肥っちょはポケットから一枚の封筒を出し(中には五百フラン紙幣が入っているのだ)、拾ってくれた相手に何か頼んでいる。誰でもよいからお知合いの一人の宛な住所を、この封筒に書いてほしいというらしい。痩せっぽちは何気なく応じる。だが、書き終って返したとき、相手は礼を述べるかと思いの外、いきなり痩せっぽちに平手打ちを一発かませ、そのまま馬車で逃げてしまったというのだ。 

 これはもちろん文学、現実の出来事ではないが、なぜまたジィドはこんな茶番に腐心したのか。明らかにここでは無動機の警句(アフオリズム)(aphorism:黒崎記)がある。コーラ事件の犯人、果してジィドなど読んでいるのかどうか疑問だが、案外、現実が空想を模倣した事件ともいえそう。   (77・2) 

 令和4(2022)年6月14日。



  黒船水兵? のある落書 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.174~175

 「黒船陣中日記」と仮題された、ちょっとめずらしい文献がある。下の奇妙な挿図は同書からの転載である。そこでまず原文献のことだが、筆写は鳥取池田藩の藩士青木助之進。例の安政元年正月、ペリー艦隊再度の来航があったとき、池田藩は横浜本牧海岸の警備を命ぜられた。当時二十四歳だった青年助之進も、当然警備陣所に詰めることになり、その間(一月から二月まで)の公務、見聞などを手控え風に書き溜めたのがこの日記。別に要路の人物といわけでなし、格別の重要史料とは思えぬが、それだけに一面なかなかに興味深い挿話もある。以下もその一つ。           

rakusho.jpg  さて、転載の二葉、(B)は二月八日、(A)は同二十三日の条に、それぞれ出る。正体はいずれも米水兵の一団がバッテイラ(ボートを意味するポルトガル語のbateira:黒崎記)、つまりボートで本牧海岸、通称八王子鼻下に漕ぎ寄せ、白ペンキらしいもので岩面に落書していったものだという。いずれ英語など一字を解せぬ助之進の書写したものだから、ほとんど解読困難なのはやむをえないが、ただこの活字本の編者野沢広行氏とやらの注解がいささか変なので、この雑文に取り上げてみる。   

 まず野沢氏は(B)について、RH は Royal Highness の略、そして次は数字 1854 とされる。(以下はとうてい誰が見ても不明。)たしかに安政元年は一八五四年だから、最後の数字は5とも読めるが、正しくは4の誤写だったかもしれぬ。また(A)についていえば末行のミッㇱまでは読めるが、あとは不明とある。ほぼ同感である。 

 が、ただ RH を Royal Highness とするのだけは、どうにも頂きかねるように思う。編者はこれをイギリス女王ヴィクトリアの意味と解し、これによって「領土の先取権」を主張したのだとされる。米艦隊員イギリスのために領土先取権を標識するというのも変だし、第一かりにヴィクトリアとしたところで、彼女を Highness 呼ばわりは大変な非礼、まず絶対にありえないはず。この種の邦語訳題は、明治以後も日英外交当局者間で大きな問題になった実例があるばかりか、例のアーネスト・サトウの回想記『日本でのある外交官』第十四章でも読めば、たちまち分明するはずである。淮陰子の卑見は、おそらく落書犯人名の頭文字にすぎないと思う。   

 次は(A)だが、Missi…は明らかに米艦隊の一隻ミシシッピ号のこと。つまり乗組水兵の一人、名前もどうやら W.MEACHA…あたりまで読める。乗員名簿でも調べればわかるのだろうが、さしあたりそこまでの手掛かりはない。篤志の方はアメリカのペリー記念博物館へでも問い合わされば、きっとわかるはず。総じてこの種落書の主は世界共通であり、妙な自己顕示欲だけが強い無名の人間に決っているから、おそらくこれも下級乗組員の仕業にすぎないかと考える。 

※関連:本書情報収集とスパイ。        

※参考:泰平の眠りをさます上喜撰(蒸気船):江戸の町、そして日本全国を襲った「大変」のなかでも歴史を変えるほどの衝撃を与えたのが黒船の来航です。18世紀末には外国船が日本近海に姿を見せるようになりました。そして嘉永6年(1853)、日本との交易を求めて浦賀にあらわれたアメリカ東インド艦隊司令官ペリーが率いる4隻の軍艦が、国内を混乱の渦に巻き込んだのです。

「泰平の眠りをさます上喜撰たった四盃で夜も寝られず」という有名な狂歌がありますが、これほど人々が右往左往したのは、この艦隊が浦賀という江戸にほど近い場所に姿を見せ、江戸の町を砲撃するという噂が広まったからです。町にはこの異国船到来を告げる多種多様の瓦(かわら)版(読売)があふれました。

 結局、徳川幕府はペリーの強硬な姿勢に屈する形で、安政元年(1854)に日米和親条約(神奈川条約)、その後日米修好通商条約を結びます。さらにオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約(安政の五ヶ国条約)を結び、日本は長い鎖国政策を解いて開国することとなりました。

 令和4(2022)年8月03日。



 なんとなく心惹かれる人たち 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.176~177

 例の戊辰役、函館戦争に関する回想談の類を読むと、必ずといってもよいほど名前の出る人物に、中島三郎助なる脇役的存在がある。元は浦賀の与力役で砲術家、この函館戦争では二人の息子たちとともに参加、砲兵頭並として津軽陣地千代ガ岡台場をまもり、五稜郭開城直前の戦闘で、父子三名、まことに壮烈な慙死をとげた。 

 いくつかの文献を総合すると、この三郎助、軍議の席ではほとんどただ一人、恭順論を唱えていた。自分など老人はともかく、多数若者たちの将来を考えろ、というのだったとある。が、最後の場面では見事平素の発言を実行して見せた。平素の言葉とは――いよいよとなれば砲に数発分の弾薬をこめ、みずからは砲身に馬乗りになり、敵兵もろとも爆死すると語っていたそうだが、そのままそれを実行したのである。但し、どうしたことか砲は発火せず、残念ながら慙死して果てたという。補注ときに五十七歳? 

 この人、平素は実に剽軽(ひよきん)で、冗談口ばかり叩いて人々を笑わせていたというが、最後は硬論派に往々見苦しい行動をとった者も多かった中に、彼だけは見事前述通りの壮烈な死をとげたのだった。ある生存者の一人などは、「生死に頓着なく言行一致したのはあの人です」と、その死を深くしのんでいる。       

 話は飛ぶが、今年まる百年を迎えるあの西南役でも、十年の四月、早くも熊本市内郊外木山村で、壮烈な自刃をとげた薩軍隊長に永山弥一郎という人物がいる。立身出世などにこだわらぬ硬骨漢で、いろいろと愉快な逸話ものこしているが、征韓論に敗れて西郷が帰国すると、彼もまた軍籍をすてて故山に帰居していた。 

okamotoryunosuke.huunkaikoroku.jpg  だが、彼の場合はいわゆる私学党豪傑たちとは多少ちがい、鎮台兵の整備訓練を大いに評価、簡単にクソチン(糞鎮)呼ばわりする連中とは、必ずしも見解が合わなかった。おかげで年来の仲間たちとも疎遠気味で、いよいよ挙兵と決まっても、彼にはあまり期待はかけられていなかった。ところが、さていざ出陣となったとき、すっかり軍装をととのえて待っていたのは彼のほうだった。「どうせ(いくさ)には負ける。だが、同志たちみんなが死んでしまう中で、ひとり生き残ってどうする」と、平然として言い放つたというのだ。  

 果して勇戦ぶりは人々を驚かせた。まず田原坂戦で死闘、軽傷を負ったが、八代口危うしと聞くとすばやく転戦、ふたたびまた数創を受けた。起つ能わずと知ると、とある農家に入り、親父を呼んで再築資金まで渡した上で、従容として屠腹、家もろとも焼け死んだというのだ。   

 この挿話、岡本柳之助口述『風雲回顧録』に見える話だから、必ずしも第一級史料とはいえぬかもしれぬが、薩軍の生存者野村忍介の直話だというから、まずそうまちがいもあるまい。それにしても中島、永山、ともになんとなく心惹かれる、妙に忘れ難い人物ではある。   (77・4)  

sidankaisotukiroku.jpg 補注:中島三郎助については、昭和十三年に外孫たちの編集による伝記『義烈中島三郎助父子』(非売品)があるが、これには砲身馬乗りの話までは書かれていない。だが、例の『史談会速記録』には、中島父子戦死の話が少なくとも四回は出、とりわけその二人はこの馬乗りのことに言及している(明治四十三年一月、第二百三輯)。もっとも、死にざまについては各書によって多少の異同もあるが、その人柄に対する敬慕の点ではすべて共通である。いずれも函館戦争生き残り者の実歴談だから、まず信憑度は高いと見なければなるまい。

 令和4年5月27日。



   大魚は小魚を食う 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.178~179

 数ヵ月前の本誌(『図書』二月号)に、極めっきのスピノザ邦訳者畠中尚志氏による回想風小文「スピノザを訳した日々のこと」が載っていたが(ついでながら、この一文、深刻な感動なしには読み通しえない名エッセイだった)。その文中に有名な例の「魚は最高の自然権によって水を我物顔に泳ぎまわり、また大なるものが小なるものを食う」 pisces summo naturali jure aqua potiuntur, & magni minores comedunt という一節への言及があった。もちろん、原句はスピノザの代表的著作『神学政治論』Tractatus Theologico-Politicus 第十六章冒頭に出る一句である。

 ところで、この一句で淮陰子が興味深く思うのは、まったく同じ言葉がシェクスピアの作品に、二度までくりかえし出ることである。一つは「ヘンリ四世第二部」第三幕第二場の終り、例のフォㇽスタフが「ウグイの仔魚は親カマスの餌食になるってのが自然の掟なら」云々という怪気焔を上げる件であり、いま一つは同じく「ベリクㇼ―ズ」第二幕第一場の冒頭、三人の漁夫によるアドリブめいたやりとりがあるが、その中で、

漁夫三 そりゃそうと、あの海の魚ってのは、どうやって生きてるんだかね?

漁夫一 決ってらな。(おか)の上と同じことよ。大きな奴が小っちぇ奴を食って生きてるのよ。

 シェクスィアがこれら二作を書いたのは、十六世紀末から十七世紀初頭にかけてであり、スピノザが『神学政治論』を出版したのは一六七〇年。とすると、その間には約四分の三世紀におよぶ時差がある。すぐと考えられるのは、なんらかの機会にスピノザがシェクスピア作品を知っていたのではないか、という推定になるのだが、やはりそれは短絡的思考の誤りで、事実は必ずしもそうではなさそうである。    

 むしろこうした自然観の考え方は、ルネッサンス期末期から近世初期にかけてかなり弘通していたようで、閑にまかせて淮陰子の確かめえたかぎりでも、当時の諺集にははっきり同じ発想が、言葉まで同じで出ているのだ。またシェクスピアと同時代の群小作家の一人に「法の罠」 Law Tricks とでも訳すべき劇一篇があるが、その一場面でも男女二人の会話の形で、 

ジョキュロ それにしても、奥様、あの海には大変な魚がおりますが、お互いいったいどうして生きてるんでがしょうかねえ?

エミリア 馬鹿ね。(おか)の上も同じよ。大きいのが小っちゃなのを食べるだけよ。

 まだ類例もあるが省略する。つまりいえば、当時この観念は一種の諺にまでなって定着しており、たまたま両者が偶然の暗合で利用したものであろう。果してこの諺、どこまで遡れるかが問題だが、そこまでは筆者の浅学、たしかめる能力はない。それにしても十八世紀頃までは、やはり弱肉強食の自然観念が当然として容認され、弱者救済のいわゆる humannitarianism は、せいぜい十九世紀も中葉以後の産物のように思えるのだが、どうだろうか。   (77・6) 

※関連:再説・大魚は小魚を食う

 令和4(2022)年7月01日。



 芸妓さんに知って頂かねばならぬ事 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.180~181

sakaguti.geigitokuhon.jpg  『芸妓読本』と題した小冊子がある。今ではもう稀書といえば稀書。著者は阪口祐三郎。筆者の見ているのは昭和七年十月刊の第五版だが、初版は五年十一月に出たらしい。別に公刊本でなく、後述もするある業界だけに配ったものだそうだが、それが全国からの要望により、二年足らずで五版を重ねているのだから、やはりそれなりの需要理由はあったということか。 

 さて、著者阪口裕三郎などと書いたところで、もとより今日知る人は、すでに関西一部の故老を除いて、まず皆無に近かろうから、簡単に紹介する。大阪南地の花街屈指のお茶屋、大和屋の主人だったばかりでなく、むしろこの道業界の大ドンだったといってもよかろう。明治末期にすでにいわゆる芸妓学校なる新企画を考えつき、見事多数の名妓? を育て上げた。たとえば現在もまだ健在で活躍中の上方舞の名手武原はん女などもこの養成所第二期生であり、さしずめ同窓会代表とでもいえようか。

 ところで、この『芸妓読本』なる小冊子、いわばその阪口が多年の蘊蓄と創意とを傾け、芸妓たるものの心得を細叙したもの、「芸妓さんに知って頂かねばならぬ事」という副題こそ、本書の趣旨をもっとも適切に要約しているといえよう。高級誌『図書』にこんな卑俗な本の紹介など書くと、またお叱りを受けるかもしれぬから断っておくが、なにもこれは芸妓女史たちの心得のみでなく、同時にお客の、それはまた人間通有の、心理的弱点の機微を実に遺憾なく衝いているから興味深いのだ。

 たとえば「お客さんの家形人は厳禁のこと。家形入をするお客さんに碌な人はありません。(中略)つまり女は欲張り、男は己惚れ、双方こすい心から起ることですから、末は喧嘩別れになるのが例です」と、これはなんとも痛烈である。芸妓置屋の長火鉢前でヤニさがる色男気取りなど、かつてはよく見かけたものだが、およそ野暮天男の弱点だけに、案外この道以外の世界にも適用できそうな諷言である。

 またこんなのもある。「芝居行、活動見物、買物などをおねだりするのもいけません。殊に喰べ物をおねだりするのは芸妓さんの一番の恥になります。」そして最悪は客が帰ってからの喰べ物注文だともある。今日バーやキャバレーの女性たちにも、ぜひ一読しておいてもらいたい戒めだし、なにも水商売の女だけとはかぎらぬ。案外尤もらしい市民運動家などにも、この種のおねだり、甘え根性は往々にして見かけないわけでない。心すべきことにこそ。

 また女の身嗜(みだしな)みを説いて、「腋臭(わきが)は病気ですから同情も出来ますが、髪の臭いのは無精から故、芸妓さんの恥になります」ともある。この心得さえ行届いていれば、あの薄汚い(おそらくは臭い)ジーパン姿の女子大生と、なんとかガンコ牧師さんとの団交騒ぎなど、まずもって起ってはいなかったはず。阪口の説く道徳を、淮陰子はすべて肯定するわけでないが、読み方次第では実に愉快で、またずいぶんためになる小冊子というわけ。   (77・7)

※参考:武原はん女(1903~1998年)、はん女は俳号。(黒崎記)

 令和4年(2022)6月12日。



  わが身をつねって…… 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.182~183

 今月はいささか生臭い話を書く。           

 つい先日のある新聞(朝日新聞、七月十五日)に、初島(はつしま)(あの静岡県熱海市沖の初島である)の漁民たちが、周辺七〇〇メートルという「ミニ領海宣言」を行う運動に立ち上がっているとの記事があった。   

 初島というのは、江戸時代以来、戸数ほぼ四十という制限をかたくまもり、ささやかながらも漁業、農業(近年は観光民宿もやるようになったらしい)によって、一種の平和な原始共産生活とでもいうべきものをつづけてきた島であることは、おそらく知る人は知っているはず。  

 ところが、その初島で突如上記のような騒ぎがもち上がったらしいのだ。理由は島の周辺水域がきわめて豊かな好漁場だというので、このところ魚釣りブームに便乗して小田原方面からの乗合船が、連日何十隻となくくりこんでくる。船体は大なり、人数も多いということで、これでは乱獲で魚介資源が涸渇、島の経済が成り立たない。業を煮やして、ついに「領海宣言」にまで乗り出したというのだ。        

 七〇〇メートルと一〇〇カイリと、話の桁は絹針と大鉄棒ほどもちがうが、ゆくりなく思い浮んだのは、やはり世界の大勢にまでなってしまったあの"海盗り"線引き問題であった。そして小田原釣船船団が、さしずめ主としてわが日本の遠洋漁業船団ならば、逆に次々と二〇〇カイリ宣言に踏み切った諸国は、当然これも初島住民の立場と考えてよかろう。  

 昨年だか、こんな話を聞いた。日本のある漫画家数人が例のバスク地方(スペイン)を訪ねたらしい。現地では珍客というので大歓迎、ある市などでは市長以下総出でパーティを開いてくれ、市長みずから熱烈な歓迎スピーチまでやった。だが、最後にである、彼は窓外に望むビスケー湾を指して、この海の魚を獲っていくのはすべて日本の漁船ですと大笑いしたというのだ。幸いにもユーモアを解する市長だったらしいので、抗議糾弾などといった野暮的言辞にはならなかったそうだが、胸中はおそらく初島住民と同じだったのではないか。 

 最近はいくらか減ったとも聞くが、ここ十数年来の大西洋カナリア諸島は、目を見はるほどの日本船団漁業基地だったはず。延々年を越して、大西洋、地中海、さらにはカリブ海あたりまで荒しまわっていたことになる。ある外人が笑って話した一言が、淮陰子には妙に記憶にのこっている。        

 これもみんな日本の奥さん方が貞淑だからですよ。わたしたちの国で、こんなにも長く家を留守に、奥さんを放ったからしておけば、たちまち男をつくってしまうことは目に見えてますからね、というのだった。事実たしかに細君遺棄という離婚理由にさえなりかねぬ気もするのだ。(そのせいか近ごろでは、船はそのままでも、乗員だけは毎年航空便で交代させているらしい。)

 以上、まことにお粗末な一席だが、初島住民の気持も実によくわかる気がする。「わが身をつねって」と題した所以、同じ気持ちで二〇〇カイリ水域問題も考えてほしいのだ。   (77・8)        

 令和4(2022)年8月04日。



  以法波理、以理破らざる法編注 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.184~185

 法ヲ以テ理ヲ破ルモ、理ヲ以テ法ヲ破ラズと読む。慶長二十(一六一五)年、大坂夏の陣で豊臣氏が亡んでまもなく七月七日、徳川家康が制定発布させた武家諸法度十三条の第三条に出る言葉である。法度に背いた人間を隠しおいては相成らぬ旨の本文が出たすぐあとに、いわば注解としてつけられた一行である。全文を引くと、「法是礼節之本也。法ヲ以テ理ヲ破ㇽモ、理ヲ以テ法ヲ破ラズ。法ニ背ク之類、其科軽カラズ矣」ということになる。(本文は返り点、おくり仮なでかかれている。読み下し文にした。黒崎記)          

 法を守るためには道理を破ることも許されるが、逆にいくら道理はあっても、それによって法を破ることは許されぬという、いわば絶対法刑主義の神髄を明らかにしたものであろう。「法ハ是礼節之本也」などと一応のきれいごとは述べられているが、これは建前、本音はもとより現体制維持への執念であることはいうまどもない。   

 その年、家康が対武家はもとより、対禁中、並に対公家、対宗門等々の諸法度を、次々と矢継ぎ早に制定していることは周知の事実だが、それらのすべてを通して一貫する精神は、要するに草創まもない幕府体制の恒久的維持、ただそれだけにつきると称していいであろう。 

 ところで、その家康の執念だが、法の前には理を破ることもよしとする徹底的現体制維持の法制度を確立することにより、たしかに見事な成果を収めた。これだけは疑いを容れぬ事実である。とにかく世界史上にも特筆してよいほどの二百数十年にわたる不動の体制、そして長期的泰平時代を実現したのだからえらい。これもやはり絶対法刑主義の賜物(たまもの)としかいいようはあるまい。        

 だが、ここで言いたいのは、理はついに現われずにはいないという一事である。例の黒船出現以後わずかに十余年、さしもの幕藩体制もアレヨアレヨというまに轟音を立てて崩れ去った。必ずしも黒船だけが犯人とはいえぬし、幕閣また人材皆無とはいえなかったはず。要は歴史発展の理法が、祖法にしがみつく旧態的構築物を一挙に圧倒し去ったのである。安政の大獄など象徴的ともいえよう。理はついに草奔志士を呼称する「檄徒」群をまでまきこんで、津波のように旧体制を押し流ししまったのだ。あえて現代の世相には触れぬが、歴史の理とはつねにそうしたものなのであろう。 

 最後に余談だが、家康の意を承けて直接上述諸法度の立案に当ったいわゆる黒子の宰相、金地院崇伝(こんちいんすうでん)についても一言しておこう。臨済僧としての学徳についてはよく知らぬが、とにかく世にも稀な権力志向、策謀好きの政治僧だったらしい。たとえば例の方広寺鐘銘問題、後水尾天皇譲位事件、さては、大徳寺沢庵の流謫事件等々、いささかいかがわしい騒ぎといえば、必ずその背後にチラチラするのが、決ってこの奇怪な人物である。それだけに、評判はどうも芳しくなかったらしい。世人は呼んで「大欲山気根院僭上寺悪国師」と綽名したというのだから、これは痛烈である。   (77・9) 

編注:『図書』にはこの月、「固有領土ということ」が載っているが、前出「早々と棄てられていた沖縄」と内容の重複があったため、岩波新書では題材ともにすっかり書き変えられた。

 令和4(2022)年8月0日。



  Enter the Actress 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.186~187

 昨年末、女形坂東玉三郎がマクベス夫人だのデスデモナだのを演じて、大きな話題になった。作者シェクスピアの在世時代、エリザベス朝演劇の原点にまで遡って考えれば、さして異とするには当たらないかもしれぬが、近年日本のシェクスピア劇としてはやはり異色。たしかにエリザベス朝劇団では女優不在、女役はすべて少年俳優がやることになっていたからだ。        

 ではイギリス劇壇ではいつからはじめて女優が登場したのか。愉快で皮肉な縁起話がある。一六五六年といえば、イギリスでは例の清教徒革命の真只中、演劇娯楽憎悪の革命政権は一切の劇場を閉鎖してしまっていた。したがって、演劇にとってはまさに暗黒期だったが、その一六五六年九月の某日というのに、突如として最初の女優が誕生したのである。(日まではわからないのが残念だが。)  

 場所はロンドン、ラットランド・ハウスと呼ばれた邸館裏のホール(正式の劇場ではない)、そして当の女性はミセス・コールマン、もちろん職業女優などではない。さる紳士の妻女という完全に素人女だった。()し物は座主兼作者、フランス帰りのウィリアム・ダヴェナントなる人物の自作「ロードス島の攻略」、ついでにいえば、「遠近画法背景による大陸的オペラ」初上演というのがその触れ込みであった。  

 さて九月某日の当夜、開演時刻も近くなると、華やかなルイ王朝風に着飾った上流紳士淑女たちが、四辺を用心深く憚りながら、続々と集まってきた。憚るのも当然、一つちがえばいつ清教徒軍兵士に踏み込まれるかもしれないからだった。       

 快い前奏曲。一派の不安の中で静かに幕が上った。舞台はロードス島の港、トルコ軍スレイマン大王の陣営。やがて武将の一人が「見ろ、ㇱチリアの名花、アイアンシーさまだ!」と叫ぶ。と、ヴェールに深く面を包んだ女性が一人、背景の蔭からスッと姿を現わす。そしてヴェールの奥から紛れもない女性の声が、金鈴のように場内の空気をふるわせたというのだ。なんとこれがイギリスの舞台から流れた正真正銘最初の女優の声だったのである。もとより素人の悲しさ、後年彼女自身が語った回想談によると、完全に上がり放しで、とうていセリフなど憶え切れず、書抜き片手のカンニング演技だったという。 

 他愛もない話だが、こんな一挿話も、やがてこれがイギリス数々の名女優を生むキッカケになったのだと思えば、あだおろそかにはできぬかもしれぬ。とにかく演劇弾圧の最悪期に、はじめてこの重大な女優誕生があったのも皮肉だが、おかげで彼女はまもなく事件発覚、法令違反の罪で逮捕監禁され重科料まで食ったとは、なんともお気の毒さまといわなければならぬ。 

 ところで、この女優という存在、歌姫、舞姫の類までを含めれば別だが、舞台芸術家としての歴史は東西ともに案外に浅いのだ。せいぜいが四百年前後か。わが歌舞伎のように、最初まず女優で発達しながら、一六二九年の幕府禁令で逆に女形を誕生させたなどという奇妙な例もある。比較でもすれば興味深いが、それはまた別の機会に。   (77・10)        

 令和4(2022)年8月05日。



  『イワンの馬鹿』と絨毯爆撃 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.188~189

 例のトルストイに『イワンの馬鹿』という名作のあることは、先刻ご承知のことであろう。問題のいわゆる回心後の作であり、また結局は民話形式をとった短編にしかすぎないということもあり、必ずしも代表作とは考えられていないようだが、どうしてこれは大変な作品である。ここで主張されているトルストイの国家否定、反文明、無抵抗主義、愛の福音等々は、今日再読してみて、その大きな予言者的意義に改めて驚かねばならぬはずである。           

 が、これは別に作品論ではない。たまたま「一話」に取り上げたのは、終り近く第十節というのに、イワンの長兄セミョーンが国王になり、インド国に侵略戦争を仕掛ける件りがある。その中でインド軍が飛行機補注を飛ばし、爆弾の雨をふらせるという記述が、二度までも出るからである。「インド王はセミョーンの軍隊が着弾距離にまで近づかぬ前に、女の兵士たちを飛行機で送り、敵軍の頭上に爆弾の雨を降らせることにした。女兵士たちは空中から、まるで油虫に硼酸でも撒布するかのように、爆弾をふりまきはじめた」というのだ。(女兵士が面白いではないか!)

 ところで、『イワンの馬鹿』の書かれたのは一八八六年(八五年説)もあるというが、この早い時期に空からの爆弾の雨とは、いかにフィクションといえ、ずいぶん飛躍的な先駆者的想像だったといわなければならぬ。  

 柄にもない航空史知識をひけらかすつもりは毛頭ないが、一八八六年といえば、せいぜい初期動力つき飛行船の試作時代、また片やリリエンタールのグライダーがはじめて飛行に成功したのが、たしか五年後の一八九一年だったはず。やっとライト兄弟の複葉機が滞空五九秒、飛行距離二六〇メートルだかの記録を出して、世間をアッといわせたのが一九〇三年十二月十七日である。しかも目的はまず飛ぶこと自体であり、軍事利用のことなどはおそらくまず考えられる段階ではなかったろうと思う。      

 にわかに軍事用途で注目を浴びるのは、いうまでもなく第一次大戦からで、したがって、航空機製作は目を見はるような急速進歩をとげた。偵察、空中戦もはじまるし、たしかに空からの爆撃という新戦術も加わるが、それにしても、まだごく初期の爆撃というのは、搭乗員が機内から身を乗り出し、手でぶらさげた爆弾を、腰だめならぬ眼寸法で投下したという、いわば子供の遊びに毛の生えた程度の愛すべきものにしかすぎなかったらしい。とうてい「爆弾の雨」などという代物ではなかった。 

 だとすると、こんな早い時期にトルストイは、いったい、どこからこんなヒントをえたのであろうか。上述の引用は、第二次大戦での絨毯(じゆうたん)爆撃を考えて、はじめて一段と実感が湧く。天才作家の想像力が現実を先取りする例は、必ずしも珍しくないが、ここでもまた現実が芸術を模倣したのであろうか。   (77・11) 

補注:ある読者から、「飛行機を飛ばし」云々の原文は no воздyxy であり、飛行機の意味はないとの抗議があった。たしかに「空中を」、「空に」くらいの語義であり(エイルマー・モードの英訳では through the air となっている)、飛行機は意訳すぎるかもしれぬが、ただ淮陰子所蔵の邦訳では、中村白葉氏も原九一郎氏も「飛行機」とされていうので、「いそれを借用したにすぎぬ。気球か飛行船か飛行機か、そこまで具体的にはトルストイも思い及ばなかったであろうが、いずれにしても何か空飛ぶ機械で女兵士たちを送りこみ、農薬空中散布にも似たことをやらせたことには変わりないはず。

 令和4(2022)年8月06日。広島原爆投下の日。七十七年前の昭和二十年のこの日。



  勲章と犬の頸輪 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.190~191

 つい先だってもまた、吉例の秋季生存者叙勲の発表があった。こんどは「人目につかぬ分野で、その道一筋に生き抜いてきた隠れた功労者たち」に重点をおいたとやらで、三九四二人という大盤振舞いになったようである。どうせ人間というのは勲章好きの動物、結構な話である。だが、あの叙勲者名簿という代物、あれは逆さまにして終りのほうから読んでいけば、もっとも意味の深い選択であることをご存知であろうか。いっしょになって心からのお祝いを申し上げたいのはまず勲七から勲六あたり、せいぜい勲五等どまりである。それより上はほんの二、三例外を除いては、ほとんどお話にならぬ。碁将棋の段位と同様、数字の大きいほうがよろしい。五十年近くも赤帽さん一筋に務め上げた御老人、海女稼業七十年をこえる八十四歳のお婆さん、またこれも長年の老練大工左官さんなどが選ばれているのも、わがことのようにうれしい。おそらく叙勲など夢にも考えていなかったろう人たちばかりだからである。           

 ところで、叙勲といえば、例のアラビアのロレンスについてこんな伝説がある。第一次大戦時におけるアラブ作戦の功により、彼も戦後の論功行賞で叙勲を受けたが、なんとその勲章を彼は犬の頸輪にぶら下げて、毎日街の散歩に連れ歩いていたというのだ。淮陰子はロレンスのことなどよくは知らず、それにしてはいささか奇矯の行動とも思えるので、幸い当社の岩波新書には中野好夫氏の『アラビアのロレンス』もあること、念のために当ってみると、果して一部は神話であることがわかった。   

 いわゆる通俗版によると、彼は国王ジョージ五世からKCBと略称されるバス上級勲位章を親授されることになったとき、突然陛下の手を抑え、アラブ人の誓約を裏切ったことへの賞として勲位などをお受けするわけにはまいらぬ、と述べたというのだ。だが、さすがにこれは神話らしい。前記中野氏の記述によれば、どうやらそれは親授式の席上ではなく、前もって内意の通告を受けた際のことだったようである。辞意の理由はほぼ上述の通りだったらしい。  

 それにしても神話の発生というのは、実に不思議なものだとつくづく思う。中野氏は直接関係のあったと思える人物の証言だけでも、数人のそれを挙げておられるが、これがまた微妙な点でことごとく食いちがっているから困る。結局正確な真相はわからぬということで、サジを投げておられるようだが、この点は淮陰子にも面白かった。一々の証言は紹介しないが、もともと神話とはそうしたものかもしれぬからである。        

 但し、彼が自国からの勲章など、終生ついに受けなかったことだけは事実。もっとも、一つだけ例外はあった。フランス政府から贈られたクロア・ド・ゲル〔Croix de guerre(英訳:戦争の十字架):黒崎記〕と呼ばれる軍功章である。フランス政府からというのもおかしな話だが、だからこそ彼は、これを愛犬の頸飾りに使って、いわば当てつけの皮肉を吐露していたというのであろうか。たしかにこれも勲章利用法の一つではある。   (77・12)  

 令和4(2022)年8月06日。



 訳語の創製とその苦心 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.192~193

 十数年か前、インドのさる有名老婦人と会ったことがある。たまたま問題が教育のことになり、日本ではすべて日本語の教科書でやるといったら、目をむいて驚いたように、「とうてい考えられぬ。Oxygen や Nitrogen などはどうするのか」という。それには酸素あり窒素ありで、ちゃんとやれると答えたが、漢字も日本語も解する相手ではないし、あまり説得的とはいえず閉口した経験がある。

 そういえば江戸時代末期、洋学の移入以来、わが先人たちの示した訳語造成能力には、ある意味で驚くべきものがあるように思える。お家元の中国にもない漢字熟語の転用義を考えついたり、ときには和製漢字までつくりだして、学術の普及消化に努めているのだからえらい。

 例の『解体新書』、同じく『重訂解体新書』、さらには宇田川榛斎『遠西医範』あたりまでをたどると、そうした例が夥しい。神経、口蓋、虹彩等々、すべて漢人の間にはまだ正称がないので、上記の訳語をつくって当てた旨の説明がある。またお馴染みの腺、膣、膵などに到っては、なんとことごとくがその折りの「新製字」だとあるが、字面をよく眺めていると、どうして大変な工夫であることがわかる。漢字というものにもし功罪があるとすれば、さしずめこれなど功の最大なるものであろうが。補注

参考:【宇田川榛斎】うだがわしんさい 。(1769~1834) 江戸後期の蘭医。伊勢の人。本姓,安岡。字(あざな)は玄真。初め漢方を学び,のち宇田川玄随に師事,養子となる。幕府の天文翻訳方として「厚生新編」(ショメール百科全書)の訳出にあたる。ほかに「医範提綱」「和蘭薬鏡」など。(黒崎記)

 訳語に関する先人たちの苦心工夫は、明治期に入ってもつづいたらしく、演説(舌)、青年などの定着過程については、すでに言い旧されている観もあるので省略するが、ここではとりあえず「世紀」の一語だけを紹介してみることにする。 

参考:「演説」という表記は福澤諭吉と慶應義塾関係者による造語である。当初、福澤の出身地である旧中津藩で上申に用いられていた「演舌書」という文書があり、「舌の字は餘(あま)り俗なり、同音の説の字に改めん」(『福澤全集緒言』より)としたことが端緒である。(黒崎記)

 かつて調べものの必要があり、例の『明六雑誌』なるものを翻読していると、「第十二回百年」だの「第十六回百年」だのといった表現にお目にかかり、いささか奇異な感じをした憶えがある。 century の訳語であることは直ちに了解できたが、それにしても微苦笑を禁じえなかった。が、その後広田栄太郎著『近代訳語考』(東京出版)なる一書を読むにおよんで、ちゃんと「『世紀』という語の定着」と題した一章があり、この語の成立に関するほとんど徹底的というにも近い検索のなされていることを知った。 

 もともと、西紀なる熟語自体は古くから中国にもあった。そのことは大抵の辞書が載せている通りだが、ただその意味は「世系」、せぃぜいが「時代」くらいの意味であり、厳密に百年という意味では決してなかった。したがって、 century の訳語は幕末から明治十年代にかけても「一世」「一期」「百年紀」等々と、実にさまざまだったらしい。そこで広田氏にいよると、はじめて「世紀」の現れるのは明治九年の『万法精理』、そしてほぼ定着しはじめるのは明治十五年頃から、さらに辞書にまで登場するのはほぼ十九年頃からであるという(典拠諸文献は省略)。これもまた「漢人未説者、故無正名可以充者」(漢じん未だ説かざる者、故に正名の以て充つ可き無き者:黒崎記)として、一種の和製熟語にしたということであろう。補注

 大部分、とりわけ後半は広田氏のおかげだが、世紀とはたしかに妙訳。筆者の言いたかったのは、こんな一つにも先人の払った工夫苦心、そして知恵ということである。   (78.1)

補注:この一節は、富士川游の名著『日本医学史』第八章「江戸時代、医学、西洋医学ノ発達」から教えられた。驚くべき大名著である。

補注:数学者とおぼしい一読者から、ちょっと興味ある示唆を頂いた。数学では語呂合わせともいうべき訳語の傾向があるそうである。たとえば derived function が「導来関数」、 implicit function が「陰伏関数」といった類。関数は中国訳だが、「導来」、「陰伏」は日本人の訳だそうである。たしかに一種の語呂合わせともいえそう。したがって「世紀」もフランス語の siècle スペイン語の siglio、イタリア語の secolo からの語呂合せではないかといわれるのだが、これはどうか。やはり中国訳の転義とする方が蓋然性が大きいように思える。

 平成29年5月22日。



  東西首斬り業競べ 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.194~195

 死刑が存するかぎり、いやでもこれは執行人が必要になる。昔のような文字通りの斬首ではないにしても、やはりいやな役廻りであろうことにはちがいない。そのせいか、世襲職の形をとる傾向があったらしい。典型的な例はわが首斬浅右衛門こと山田氏一家のそれである。同家のことは明治末、篠田鉱造著『明治百話』をはじめ、つい先年は直木賞作家綱淵謙錠による『斬』という小説まで出ているほどだから、改めて述べる必要はあるまい。           

 初代が首打同心になったのは元禄年間とのことだが、以来八世までは歴然と世職を伝えて明治初年にまで及んでいた。豊島区池袋の祥雲寺には、「浅右衛門之碑」なる顕彰碑まで建っているそうである。歴代中もっとも有名なのは七世吉利(やまだ よしとし:黒崎記)。例の安政大獄で吉田松陰以下、多数のいわゆ勤王志士たちを斬ったのが彼だからである。但し、山田家後裔の所伝によると、首斬りはあくまで副業勤めで、本職は刀剣鑑定、ないしは将軍家刀剣類のお(ため)し御用役だったという。やはり首斬り本業ではいやだったのであろう。   

 ところで、本朝のことはこれで切り上げるが、ヨーロッパでは例のフランス革命のとき、あのギロチンなる悪名とともに史上にそのなをとどめている執行人にサンソン一家がある。これまた歴たる世襲だから面白い。サンソン家がはじめて死刑執行人 exécuteur des hautes œuvres なる物々しいなの役職についたのは一六八八年というから、わが国でいえば元禄元年。偶然とはいえ、ここまでほぼ山田家と前後しているから不思議である。これまた以来相伝えて六世までははっきりわかっている。十九世紀も後半ごろまでその職にいたらしい。  

 サンソン家六代でも、やはりもっとも有名なのは四世ㇱャルル・アンリ・サンソンと、その息子五世アンリ・サンソン。つまりはあのフランス革命期に当ったからだが、一七九三年一月二十一日、ルイ十六世王の首を落したのは父四世、また悲劇の王妃マリー・アンㇳアネットをはじめ、あの無数にも近い恐怖時代の犠牲者たちを手がけたのは息子五世であった。ギロチンなればこそできたことで、打首などでは腕のほうがまず痺れてしまったろうとの笑い話まである。そのほかサンソン家では、代々兄弟たちも同業にたずさわっていたようであり、いわば一家総出の斬首屋だったともいえよう。        

 ただ一つ不思議なのは、この高名な四世シャㇽㇽ・アンリ・サンソンの死期が不明ということ。一七九三年説と九五年説とがある。九三年説をいうのは主として王朝方の史家。それによると、彼はルイ王処刑のわずか半年後に懊悩のはて悶死したというのである。が、これはどうやら九五年説のほうが真相のようで、直接斬首の仕事はまもなくもっぱら息子任せになっていたらしいのだ。なおこのサンソン一家のこと、十九世紀後半になり、大部な回想録めいたものまで二、三種出ているが、大体いずれも張扇流の眉唾物、あまり信用はできぬからご用心を。   (78・2)  

 令和4(2022)年8月07日。



 君は国に依り、国は民に依る 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.196~197

 若者の非行、少年の自殺が頻発する。と、いや、それは社会が悪い、政治に責任がある。凶悪犯罪、内ゲバ・テロが流行する。と、これまた責任は政治にある、と主張する。このところ、この論法はどうも評判が悪いようである。それもたしかに一理はあると思う。そうそう政治にばかりツケがまわるのでは、政治のほうでもやりきれぬかもしれぬ。しかし限度はともかく、それでは政治、社会は一切免責かといえば、必ずしもそうではないように思えるのだ。

 中国は唐の太宗――いわゆる貞観(じようがん)の治で有名なこの皇帝について、こんな話がのこっている。法を重くし民の盗を厳しく取り締まるように上書したものがいたらしい。ところが帝は答えた。民が盗をなすのは、賦役が重く、官吏は貪欲、民は飢寒に迫られて廉恥など考えている暇がないからである。朕まず奢を去り、税金賦役を軽くし、廉吏を登用するようにすれば、当然民の衣食は余りあることになり、どうして盗みなど働くものか。厳罰主義をとるつもりは毛頭ない、というのだ。同じくまたこんなことを言ったこともある。「君は民に依る。国は民に依る。民を苦しめて君に奉ずるなどというのは、己れの肉を割いて空腹を充たすようなもの。満腹するかわりに、身まず斃れるに決まっている」と。

 さて、その結果はどうなったのか。とりあえず宋の司馬光編する『資治通観(しじつがん)』から引くと、「数年の後、海内升平、路、落ちたるを拾わず、外戸、閉ざさず、商旅、野宿す」とある。 

 もちろん淮陰子は、これら古史書をすべて鵜呑みにするわけではない。太宗李世民なるこの人物も、実は案外のしたたかもの(ゝゝゝゝゝゝ)で、現に彼の登位一つにしても、それは兄弟を殺し、父に迫っての簒奪とさえいってもよかったはず。明らかに中国古史書には理想化がある。だが、彼の語録を編んだ例の『貞観政要』など、わが徳川家康までが帝王学の範として愛読書にしたはず。史実の詮議はともかくとして、やはり聞かせる言葉ではないか。政治にも大いに責任はあるのである。

※『貞観政要』について、貝塚茂樹著『中国の歴史』中(岩波新書)P.62:「玄宗時代の呉兢(ごきよう)が太宗と魏徴をはじめ多くの臣下たちとの政治問答を集め、儒教の政治哲学の観点から、君主に訓戒をあたえたものである。徳川時代では元和九年(一六二三)に活字本として出版されれ、三代将軍家光がこれを教科書として、毎日、林道春から講義をうけた。唐太宗は理想的な君主の典型と考えられ、このころから定着し始めた徳川幕府の政治組織ととくにその運用について、臣下の意見をとりいれることが大切であることをさとらせた。(黒崎記) 

 そういえば、戦争中にはこんなことがあった。傘など持参で銭湯に行けば、帰りにはまず必ず盗まれている。「履物はせいぜい汚いものを履いてきて下さい」という滑稽な張紙が、麗々しく張り出されるかと思えば、石鹸を手拭で頭に縛りつけ、それで湯槽に浸っている光景さえ見られた。が、そんな日本人の盗み癖、いまではウソとしか思えないであろう。

 つづいて太宗の逸話をもう一つ。これも側近の一人が、すべからく佞臣を遠ざけよと上書し、その鑑定法まで献策したものがあったという。曰く、(いつわ)って怒ってみせられるがよい、それでも理を執って屈しないのは直臣、威に畏れて旨にしたがうのは佞臣、というのだ。が、これにも帝は答えた。いや、朕みずからが佯りをやって見せるのでは、どうして臣下の直など求めるなどできようかと。これもまた聞かせる。国民を欺して出世街道をひたすら走る役人、政治家ばかりウヨウヨする今日の日本にあって、まさに頂門の一針か。   (78・3)  

 令和4年(2022)6月01日。



  去年(こぞ)の雪、いまいずこ 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.198~199

 去る三月二日、ローザンヌに近いヴヴェー(Vevey:黒崎記)市民墓地で、チャップリンの遺体が棺ごと盗まれていたというニュースが、世界を驚かせた。何者の仕業か、動機が何か、その後のニュースがないので、論評のかぎりでないが、ただ知名人の遺体紛失というだけの話ならば、古来その例は必ずしも珍しくない。           

 簡単に思い当るだけでも、二百年近く前トマス・ペインの前例がある。ペインとは『コンモン・センス』『人権論』『理性の時代』などの著作で知られているイギリス人。天成のアジテーターともいえる変り者で、革命騒ぎとあれば、どこへでも飛び出して行く物騒な男、合衆国の独立戦争では放火(ひつけ)役の一人だったし、フランス革命にも妙な役割で一応は登場する。が、晩年は定石通りに落魄、最後は一八〇九年ニューヨーク近くの自家小農場で、残燭の消えるように七十二年の生涯を閉じた。が、問題はそのあとである。合衆国はこの彼に埋葬の地をすら拒んだのだ。やむなく農場の片隅に葬られ、墓もとにかくできたのだが、その後十年、ウイリアム・コペットと呼ぶイギリス人急進政論家が訪ねてきた。そこまではよいのだが、強引にも彼は墓を発掘、遺骨はイギリスに持ち帰ってしまった。おそらく動機は、この不遇の闘士をせめて故国の土で厚く葬ってやりたいという善意だったのであろう。ところが、イギリス政府もまた埋葬、そして記念碑建立を拒んだらしい。遺骨の運命は十九世紀中ごろまでは、なんとかとにかくわかっている。だが、その後が杳として今日もなお不明なのだ。上述コペットの死までは手許に置かれていたことが分明しているが、あとはある日雇人夫が厄介物扱いで保管していたとか、さらに最後はさる古道具商の手に渡ったとかいった話があるだけで、完全に所在不明になってしまった。   

 そういえば、あの楽聖モーツアルトの遺体も、もっと数奇をきわめている。彼が満三十六歳にも充たぬ短い生を終えたのは、一七九一年十二月五日の未明。遺体は翌六日ウィ―ン郊外のさる共同墓地に葬られたことになっている。だが、埋葬現場にいたのは墓堀り人ただ一人だったというあたりから、話がおかしくなる。葬儀は一応友人たち数人が集まり、聖ステパノ教会というので行われたようだが、愛妻のコンスタンツェは気が動転して列席すらできなかったという。友人たちもまた厳寒荒天だったとかで、誰一人野辺送りにまでは同行しなかったらしい。墓標すらのこさなかったというのも不思議な話である。

 数十日後には早くも正確な場所不明ということになっている。その後二十年ほどして調査したものがいるが、そのときすでに墓域そのものの改造があった後で、墓地もいくどか発掘され、もはや彼の遺骨と確認できるようなものは何一つ出なかったという。この墓地が今日でいう生活保護者、つまり貧民用の共同墓地だったことも不運だったかもしれぬが、それにしても奇妙な話ではある。   (78・4)        

 令和4(2022)年8月07日。



 雄弁、能弁、そして訥弁 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.200~201

 一九三六年の春、ヒトラーがロカルノ条約を破棄、ラインランドへの進駐をあえてし、その再武装に踏み切ったあと、まもなくのころだったと思う。国際連盟の権威はすでに残燭にもひとしい有様で、わが国をも含めて、世界は日とともに濃い絶望的な戦雲におおわれかけていた。そんなころのある日だが、ときのイギリス保守党首相スタンリ・ボールドウィンが下院で、「もはやわがイギリスの国境はドーヴァに非ず。ライン河なり」という有名な発言をしたことがある。内容が内容だけに、報道はたちまち全世界に飛び、淮陰子などもはっきり銘記した鮮やかな記憶がある。

 ところが、この問題の発言のとき、例のフランスの作家アンドレ・モーロアは、どうやら傍聴席に居合わせたらしい。そのときの状況見たままを、その後「はじめてイギリスに渡る若いフランス政治家におくる注意若干」と題した短文で紹介しているのだ。

 「イギリス国境はライン河なり」という。たしかに文面だけで読めばきわめて物騒な内容であり(戦時中軍部の、わが国防線は大興安嶺にありを思い出す)、さぞかし大見得でも切って叫んだ名文句のように思うかもしれぬが、ありようは次のような光景だったとある。モーロアの描写をそのまま引くことにするが、「ボールドウィン氏はひどく平板な調子で、『もはやイギリスの国境はド―ヴァの岸ではありません。それは……』と言った。が、突然そこで言葉がとぎれたのだ。前の大卓には何か一束の書類が置かれていたが、彼は背中を丸くしてそれら書類をあちこちめくりはじめた。まるでイギリス国境を見失い、どこか書類の中に紛れこんでしまったのを、懸命になって探し出してでもいるかのようにさえ見えた。そしてやっと最後の頁までめくりおえると、さもホッと安心したかのような顔で、『それはライン河です』と、一気に早口で呟くように結んだ」というのである。

 わが国会のテレビ中継ばかり見ている諸君には、なんとも解しかねる光景に思えるかもしれぬが、モーロアは若い政治家にこう忠告するのだ。「イギリスへ行ったら雄弁能弁はやめること。議会とはいってもこの国では演壇などあるわけでなし、みんな自席からふだんの声でしゃべるだけであり、あまりにも整いすぎた措辞や、あまりにも流暢な立板に水式能弁は、むしろ拙い演説とされる、そうした国へ来たのだということを、忘れないでほしい」と。

 そういえば第二次大戦中、チャーチルの行なったいわゆる名演説の数々なども、これはレコードもあるから聞けるが、決して獅子吼などといった代物ではない。フランス人の雄弁ぶりは、映画やテレビでも先刻ご存知であろうが、それを承知のモーロアがこう忠告するのである。彼はまた別のある一文でも、イギリスに行く青年に対し、遠い遠い、習慣も考え方もちがう神秘の国へ行く覚悟でいろいろと戒めている。一衣帯水のあのフランスにしてである。何とかション海外旅行記類ばかりが氾濫する今日このごろの国だけに、紹介してみることにした。   (78.9)

 令和4年5月1日。


 ある国学者のある珍説 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.202~203


 国学者平田篤胤(1,776~1,843年)の著作に『気吹颫』(または気吹於呂志〔いぶきおろし〕)と題された一本がある。文化八年、彼が三十六歳のときに行った、さしずめ今でいえば公開有料講義を、門人たちが筆記板行しただけのものであり、もとより代表作などといえるほどの著作ではない。内容もまた例によって儒仏を排し、復古神道を宣揚する型通りのもの。しかし、ただ講説筆記というだけに、いわば脱線、言いたい放題の怪気焔までがそのままの形でのこされており、このいささか難物国学者の講釈ぶりを目のあたりに聞くようで愉快なのだ。とりあえずその一つを紹介することにする。

 儒仏邪を併せて攻撃する彼の筆鋒は、ついでに当時興隆期にあった蘭学にまで八当りするのである。災難なのはオランダ人、以下のような名誉毀そん、人身攻撃に近いものにまでなるのだから、これはもう奇説珍説を通り越してひどい。そこで話は多少(しも)がかるおそれもあるので、一部は中略を加えて引くが、

腰より下は長く、足の細やかなる所も獣に似て、溲尿(しようべん)をするに片足をあげて致す所も犬の仕ざまでござる。(中略)どう見ても犬の目つきでござる。それ故か陰茎の形も筒先の所は切りそいだようになりて、とんと犬の物のようでござる。といえば、冗談のように思われましょうが、実談でござる。(中略)古く宝暦安永あたりの春画帖(まくらぞうし)に、オランダ人の交合しておる所も書きありて、その陰茎の形もありますが、只今申す如く(さき)がそいだようで、犬の物の形いたしておるでござる。(中略)今時の笑絵のように、やみくもに大きく、太股よりははるかに太く書いておくようなことばかりはないでござる。但しそれにも少しはおまけも書いてある。そのおまけというのは、その陰毛を唐草のように書いてありますが、これはオランダ人の毛じゃというて、唐草のようでもあるまいでござる。
 実はこのあとまだオランダ人の淫乱ぶりについての珍講釈がつづくのだが、謹直な本誌読者のお叱りを受けるおそれもあるので、一応これで切り上げることにする。戦前出版の全集ですら伏字なしに収めているくらいだから、熱心な読者はそれについて見られるがよろしい。それにしても、国学者型破りの珍放談であることだけはまちがいない。  

 篤胤の洋学知識がどの程度だったか、淮陰子などには判定しかねる。西川如見の『天文義論』『長崎夜話草』あたりから、杉田玄白『解体新書』、桂川甫周『北槎聞略』等々くらいまでは、ある程度知っていたらしい形跡もあるが、初手から偏見で接しているのだからお話にならぬ。かの藤田東湖すらが、「奇男子に御座候。其性妄誕にはこまり申候共、気概には感服仕候」と、いささかもてあまし気味に見えるほどの篤胤という人物、この珍説もまた同じ東湖書簡にいう「付会の説をまじめに弁ずるはあきれ申候」とある、せいぜいその程度の興で読めば、まずは一場のお笑い種、とりたてて世道人心をなどと大きく出る必要もあるまい。   (78・6)  

 令和4年(2022)5月28日。



  ハレー彗星のこと 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.206~207

 思わぬ大患を背負いこみ、続稿どころの騒ぎでなかった。生命冥加というか、悪運強しというか、幸い地獄への往生だけは免れ、やっと筆をとる程度の気力は取り戻せた。           

 ところで、その病中のことだが、親戚の筆頭老人が見舞に見え、大いに励ましてくれたまではよいが、あともう十年はぜひ頑張って生きろ、あのハㇾー彗星が見られるぞ、という。これには正直にいって面食った。鳩が豆鉄砲でもくったような思いだったからである。   

 ハレー彗星といえば、かつてニュートンの友人だった天文学者ハリー E.Halley がその周期を算定予言した有名な彗星。その程度の知識なら、いくら淮陰子でも知らないわけでなかったが、さてこれを力づけの論拠にとられてみると、やはり一瞬呆気にとられざるをえなかった。が、考えてみると、一理はある。なるほど、同彗星の回帰周期は七十六年というから、やがて一九八六年には必ず見られるにちがいない。つまりは、せめてもう七、八年頑張って生きてみろというにすぎなかったのだ。  

 そういえば、これが最近見られたのは一九一〇年、つまり明治四十三年だったという。もちろん、淮陰子などまだこの世に存在の可能性すら覚束なかった頃の話だが、そのせいか老人はいろいろと当時の思い出話をしてくれた。なんでもこのときは数ヵ月近くにもわたり、大きく無気味に夜空を横切って仰がれたという。同彗星の近接とは、要するにそれが太陽と地球との中間を通過することらしいしいが、そうなれば当然彗星の尾はわが地球向きになる。現に至近距離は二、三〇〇万キロにまでに近づいたという記録さえあるほどだから、たしかに五月中旬にはその巨大な尾の中に地球はまるまる包まれたことになる。        

 それだけにこの予想は、世界的にも大変な恐慌だったらしい。地球は彗星と衝突して全壊、あわれこの世も終りだと騒いだのだという。もとよりそんな事態は起るはずもなく、相も変らず愚かな人類は、今日もなお蝸牛角上争いに(うつつ)を抜かしているわけだが、いまやその同じ彗星が、やがて七年後かにはいやでもまた姿を現わすはず。  

 だが、正直にいって、淮陰子はあまりその日を見たくない。できることなら事前になんとかお暇をいただきたいのだ。というのは、この前現われた明治四十三年というこの年、顧みると実にいやな年なのである。世界的にも第一次世界大戦に至る危機が刻々に醸されていた時期だが、そこまではいわずとも、日本だけでも実に不吉な一年だったはず。たとえば彗星騒ぎの真最中に突発したのが、まさにあの幸徳秋水以下大逆事件の大検挙だった。さらにまたやっと彗星騒ぎのおさまりかけた一九一〇年八月末には韓国併合が行われている。さぞかし全国民万々歳の歓声で湧きに湧いたことだろうが、今にして思えば帝国主義的膨張と、そしてやがては敗戦への運命とが、いわば画期的に大きく踏み出されていたことになる。天象と人事と――別に因果までを担ぐ気は毛頭ないが、有様をいえばあまり見たくない星である。   (79・6) 

 令和4(2022)年8月08日。



  ある宗教銅版図をめぐって 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.208~209

 挿入の写真は、十七世紀のフランス銅版巨匠ジャック・カロの腐刻した、いわゆる長崎二十六聖人殉教の図である。ところが奇妙なことに、写真では果してわかるかどうか疑問だが、人数は左右に十一人ずつと中央に一人、二十三人にしかすぎぬのだ。下辺二行の説明文にも「皇帝タイコーサン Taicosam」の治下、布教の罪により長崎(ひどい語綴で Mongasachi とあるが)で磔刑になった二十三(ゝゝゝ)士の図という意味の記述がある。

 二十六聖人の事蹟については、およそ専門外の淮陰子などが改めて喋々する資格はない。古くは姉崎正治博士、松崎実氏、近くは海老沢有道、片岡弥吉、松田毅一等々各氏の労作、さらには昭和三十八年、列聖百年記念の特集として出た『キリシタン研究』第八輯もあることだから、すべてはそれらの権威的研究についてもらいたい。  

 ここではただ同じ運命の二十六聖人が、なぜ二十三人に間引かれているかという奇異についてだけ、淮陰子並みの平読者のために一言触れておく。まず二十六人の内訳はフランシスコ会士六名、イエズス会三名、そして日本人平信徒十七名ということらしいが、問題はイエズス会三名という点にあった。比較的慎重な伝道を行っていたイエズス会に比べて、おくれてフィリピンから来日したフラシスコ会士たちは、事情知らずもあってか、しきりに積極的布教を試み、それが弾圧強化の一因をなしたとする論議もあったようであり、両会の間は必ずしもしっくりいっていなかったらしい。これは諸書にも見えている消息。それかあらぬか、聖人図にまで差別と排除の論理が適用されたものと見える。現にイエズス会の三人だけが淋しげに磔されている同会派の殉教図も別にのこっている。  

 そこでまたカロにもどるが、どうやらこれは一六二八年頃の作品らしい。殉教事件は一五九七年の出来事だから、ほぼ三十年後に刻されたものと見てよい。事件そのものをカロがそうよく知っていたとは思えず、おそらくフランシスコ会派からの依頼で、その伝聞のままに物したものであろう。二十三人になったのは当然かもしれぬ。        

 ところで、このカロの作品は代表作などとは考えられず、カロ研究書などにもほとんど図版は見ないので紹介してみたのだが、もっとも、ほかに今一つ別の興味もあった。差別と排除は政党をはじめ俗世界だけの論理かと思っていたら、なんと信仰の世界にも厳として存するものでることがわかり、まことに興味深かったからである。でもおそろしき宗門の派閥性か。呵々。   (79・7)  

 令和4(2022)年8月08日。



  競りにかけられた皇帝位 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.210~211

 西紀一九三年三月二十八日のことである。この日、大ローマ帝国の首都ローマ市では、皇帝位競売(せり)という前代未聞、そしてまたおそらく後代においても絶無であろう珍事が、現実に公衆の前で行われたのである。           

 いま少し詳しく述べると、老先帝ペルティナクスが近衛隊の手で虐殺された。当然起ったのは後継帝選出の問題だったが、このとき先帝の下手人である近衛兵たちは、突如として帝位のセリという奇想天外の方法をとったのだ。まず第一の競り手は、すでに兵営にかけつけていた先々帝の岳父で、首都長官でもあったフラウィス・スルキピアヌスと呼ぶ人物。ところが、報らせを聞いて馳せ参じたのが、これまた貪欲さで悪名高かった金持ちの元老議員ディディウス・ユリアヌスなる人物だった。   

 かくて近衛隊兵営の胸壁を境に、内なるスルキピアヌスと外なるユリアヌスとの間で、猛烈なセリが開始されたのである。要するに問題は、兵一人あたり、いくらドナティム、つまり臨時ボーナスを出すかが決め手になった。お互い内と外とで大声をあげ、指先の合図で競り値をつける。進行係として両者の間を忙しく往復するのは兵士たちだった。まずは今日到るところでの競り市光景をそのまま想像してもらえば、大した相違はなかったはず。  

 競り値の急騰ぶりも分明しているが、煩雑な数字は省略する。まず値をつけたのはスルキピアヌスだったが、もちろんユリアヌスとても負けているはずがない。しばらくはお互い小幅での競上げがつづいたが、最後にはユリアヌスが一躍飛び切りの高値、五千セステㇽスというのをつけたのである。(今日の金にしてどれほどになるか。一応数字の上での換算は不可能でないが、先刻ご承知、貨幣価値大激動の中では、あまりそんなことは意味をなさぬ。とにかく途方もない高値だっただけ理解してもらえればよい。)        

 さて、文字通り金が物を言ったのである。こうしてやっとセリは終り、ユリアヌスは兵たちの歓呼の中を兵営内に迎えられ、直ちに新皇帝を宣せられた。さらに夕方近くには、厳重な武装兵たちにまもられながら、フォールムおよび元老院に到着、改めて皇帝登位が確認された。大ローマ帝第二十?代のアウグストゥスである。  

 もっとも、さすがにローマ国民も、この最大汚辱にはまもなく(ほぞ)をかんだらしい。たちまち全領土にわたる反ユリアヌス蜂起が起り、同じ年の六月一日には皇宮内で斬首されている。わずか六十六日の天下fだった。 

 まことに馬鹿げた話だが、しかし思うに、わが国ある政党の総裁選挙なども、いっそこの流儀でやってみてはどうか。ひどい話にはちがいないが、どうせ政治資金などと称する闇金が隠密裏に乱れ飛ぶくらいなら、はるかにこのほうが公開的、かつ明朗である。       

 因みに、この嘘のような話、古代ローマ史料ならどれにでも出るが、もっと詳しくはディオ・カㇱウスの『ローマ史』第七四巻に見える。   (79・8)

 令和4(2022)年8月09日。



 ある二つの文章 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.212~213

 「斉太子書ㇱテ、崔杼弑スト荘公。崔杼殺。其弟復書。崔杼復殺。少弟復書。崔杼乃舎。」 

※漢文の返り点は省略した。(黒崎記)

『史記』巻三十二、「斉太公世家第二」に見える一節である。もう何十年か前の話になるが、たまたま筆者は『史記』を漫読していて、この一節に到り、愕然として驚いた記憶がある。わずか三十二文字だが、およそこれほどすさまじい気魄に溢れた文章というのは、そう簡単にお目にかかれるものでない。 

※参考1:斉太公子書して曰くの記事を『史記』Ⅰ(筑摩世界文学大系 6)〔斉太公世家第二〕P.218、斉の太史(史官)が、「崔杼、荘公を弑」と記録した。崔杼は大史を殺した。すると、その弟がまたそのとおり記録した。崔杼はまたこれを殺した。その末弟がまた同じように記録すると、崔杼はこれを放任した。とある。(黒崎記)
※参考2:(太史が『崔杼、其の君を弑す』と事実を史書に書いたので、崔杼(さい ちょ)はこれを殺した。後をついだ太史の弟も同じことを書いたので、二人目も殺された。しかし彼らの弟はまた同じことを書き、とうとうこれを(ゆる)した。太史兄弟が殺されたことを聞いた別の史官は『崔杼其の君を弑す』と書いた竹簡を持って駆けつけたが、すでに事実が記録されたと聞いて帰った)
崔杼と太史たちの故事は中国人が歴史を記すという行為にかける執念を表す例としてしばしば引き合いに出され、また荘公が殺された後の晏嬰の行動が、これも晏嬰の義に対する一途さの逸話として良く語られるために、崔杼は単なる逆臣とされるにとどまらず、一層悪名が強調され後々まで語られることになった。(黒崎記)

 話そのものは、むしろこぼれ話にも近いものだから、改めて蛇足の必要もあるまいが、荘公とは斉第二十二代の太公、例の高名な覇者桓公の玄孫である。片や崔杼(さいちょ)とは当時公宮にあってしばしば宗室の廃立まで行った権臣。荘公六年というから西紀前五四八年のことのようだが、彼は私怨もからんでこの荘公を謀殺した。話はそのあとだが、斉の史官某は「崔杼、荘公を殺す」と記録した。崔杼は怒って某を殺した。だが、するとまたその弟が同じことを書いた。崔杼はこれも殺したが、なんと三弟がまた屈せず、あくまで同じ記録をのこした。さすがの崔杼もこの執念にはついにサジを投げたらしく、殺さず見のがしたというのである。 

 よく世間に節義を守っただの裏切っただのといった論議がある。だが、節義への執念もここまでくると、凄絶にも近いものがある。わずか五字のために、三人の兄弟が生命を賭けたことになる。執念にかけてはこれも周知の著者司馬遷、おそらく満腔の共感をもて挿入した三十二文字だったのではあるまいか。 

 話題は一転する。まだかの太平洋作戦中だったが、たまたま森銑三著『佐藤信淵――疑問の人物』と題された一書を読んで、腰の抜けるほど圧倒的感銘を受けた経験がある。いまでこそ信淵(のぶひろ)(1,764~1,850年)の名前を聞くことなどあまりないが、戦前から戦中にかけての信淵は、国士、学者、思想家等々として、ほとんど最大級の評価をほしいままにしていた。ところが、そうした最中に、はからずも森氏のこの快著にめぐりあったのである。  

 いまでは著作集第九巻(昭和四十六年初版発行)に収録されており、容易に読めるはずだから、具体的内容は省略するが、とにかく山師信淵――著者の表現をかりれば、「信淵の如き欺瞞に充ちた偽人物」の面皮を、ほとんど完膚なきまでにひんむいた論集なのである。論旨もさることながら、著者の気魄になによりもまず圧倒される。

 「本書の所説を駁するならば、私の挙げた例証を根本的に否定し去るだけの一層強力な証拠物件を入手して、私の頭上に一大鉄槌を打下すべきである」と著者はいう。また「今後も信淵を支持しようという人々がいかに多数に上ろうとも、私は少しも驚かない」ともある。なんという見事な自信と気魄に溢れた態度か。こうした精緻該博な具体的実証と、そして裂帛ともいうべき気概とを併せ具えた論争が、戦後とみに衰えたかに見えるだけに、よけいに強烈な感銘としてのこっている。因みにいえば、森氏の所説を覆すよな反論はついに出なかったようである。当然であろう。   (79・9) 

※関連:佐藤信淵にちて、本書、ある国学者のある珍説関連記事。

 令和4年(2022)6月02日。



  愛煙、是? 非? 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.216~217

 この一文、いわゆる禁煙運動推進者諸賢は、湯気を立てて激怒されるかもしれぬが、タバコ礼讃といえば、なんとしてもモリエールの喜劇『ドン・ジュアン』に止めを刺す。しかもドン・ジュアンの従僕スガナㇾㇽの口を通して、開幕いきなりに出るのである。曰く、           

アリストテレスが、いや、天下の哲学者どもが束になってなんと言おうと、タバコにまさるものが世にあろうか。世の紳士方こぞって御愛好。タバコ抜きの生活なんて、およそ無意味さ。頭を爽快にするばかりか、人々の心に徳を教え、こいつによって紳士道を身につけることもできるのだ。一ぷくやれば、たちまち誰彼に向って愛想よくなり、どこにいようと、左右の区別なく喜んですすめる。欲しいといわれてするんじゃない。相手様の心をすばやく察して、それをやるのだ。まったく、タバコをやればこそ、みんな道義心も養われ、品性も高まろうってもの。   
 以上、このセリフはその後の劇の展開とはまったく無関係に現われるだから面白い。作者モリエールがどのような愛煙家だったのか、専門研究家ならぬ淮陰子はよく知らない。だがそれにしてもこの一節、どうも彼の個人的感情を相当露骨に出しているのではあるまいか。「趣味嗜好のことは論外(デ・グステイブス・ノン・エスト・デイスプタンドウム)」、どうか世の禁煙主義者諸賢も大目に見のがしてほしい。  

 さてタバコといえばいやでも思い出す作品に、チェㇹフの独白劇『タバコの害について』というのがある。題名にたぶらかされて読んだら、とんだご愛嬌だが、せいぜい数ページの小作品、ぜひ一読をおすすめする。恐妻家の旦那が、女子教育家の女史夫人に押しつけられて、題名の講話を行う破目になるという設定の一幕物寸劇だが、これを読んで快い笑いがこみあげなかったら、こみあげぬほうが明らかにどうかしている。        

 当然ながらの講話は、珍妙な脱線につぐ脱線を重ね、肝心のタバコの害のことなど、冒頭の一言と、最後にまた一言、「唯今申し上げましたごとく、タバコには恐ろしい毒が含まれているということから、どんなことがあろうと、喫煙など致すべきではありません。本日のこの講演、私としましては、必ずや社会を益してくれるものと確信する次第であります」そして降壇。本題であるタバコの害など、ただの一言も述べていないのだ。しかも脱線は飄飄乎として、連環のようにつづくのだから、なんとも愉快で楽しくなる。ト書きと併せ読んで、愛すべきこのニューヒン氏の面影を髣髴してもらいたい。  

 なおこの作者には、同題の寸劇が二篇ある。一八八六年のものと一九〇二年のものとがそれ。中央公論社版チェホフ全集なら、両者が第一一巻と第一四巻とに邦訳されているから、できればその双方をお読みになること。こんな小篇にもいかに作者が改稿を重ねたがわかるし、淮陰子はチェホフ傑作の一つだと思っている。 

 タバコについては、文化六年に出たわが大槻磐水の『蔫録(えんろく)』三巻という一種のサイクロペディア的珍書があるのだが、いまはもう余裕がない。またの機会にゆずることにする。   (79・11)  

 令和4(2022)年8月10日。



  東西、色事師くらべ 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.218~219

 前月号で一言、ドン・ファン(ドン・ジュアン)のことに触れたから、もう一度関連の話題について書いてみる。      

 稀代のこの色事師が、一生の間に手がけた女一〇〇三名という、いやに精確名た俗説がある。現にキルケゴールまでが、その著『あれか、これか』の「エロスの直接的諸段階」と題した章で、モーツァルㇳの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」を論じた中でも、何度かこの数字を挙げているのだ。もっとも、わが在原業平をめぐる俗説三千三百三十三名、あるいは西鶴の一代男三千七百四十二名などに比べれば、山門の五右衛門ではないが、やはり「小さなたとえ」とでもいうよりほかないかもしれぬが、それにしても一〇〇三名とは細かく刻んだものである。 

 ファウスト、ドン・キホーテなどと同じく、ドン・ファン・テノリオなる人物が、想像による不朽の創造性格像であることは、今日ではすでに定説になっている。百五十年ほど前、ㇽイ・ヴィアルドなるフランスの物書きが、実在モデルの存在を主張して一時問題になったこともあるが、今では完全に否定されている。おそらく民間説話をもとに、一六三〇年スペインの修道僧で劇作家でもあったティルソ・デ・モリナなる人物が「セビリアの色事師と石像の客人」と題する一作を書いた。これがまず文学におけるドン・ファンの始祖であり、以来この性格を扱った作品は、評論をも併せてほとんど無数といってもよい。が、ティルソのこの劇をはじめ、どこにも一〇〇三という数字は出ないのである。  

 何が根拠かと不審に思っていたら、なんぞ知らん灯台下暗し、上述モーツァルㇳの「ドン・ジョヴァンニ」、というよりもむしろその台本作者イタリア人ダ・ポンテにおよる奇才的思いつきらしいのだ。        

 但し、これによるとどうして一〇〇三どころではない。ほかにイタリアで六四〇名、ドイツで二三一名、フランスで一〇〇名、トルコで九一名。一〇〇三とはスペインだけの数字なのだ。合計は二〇六五ということになる。業平、世之介には及ばぬとしても、これなら相当のものといえよう。  

 ところで思うに、モーツァルㇳ研究の音楽専門家なら滑稽なオンチと嗤うことだろうが、その道に疎い淮陰子は、迂闊にも気がつかなかった。舞台で観たこともあり、レコードも聴いているはずだが、第一幕第三場に出る従者ㇾポレロのいわば聴かせ場の目録(カタログ)読み、これをただウカウカと聞いていたとはひどい話である。 

 ただこれらの数字、もしかして先行例でもあるのではないかと、一応はドン・ファン文献も漁ってみたが、判明したかぎりでは、どうやらやはりダ・ポンテによる独創の思いつきらしい。それにしても、まるで明細勘定書にも似た愉快なこの数字をでっち上げたロレンツォ・ダ・ポンテなるイタリア人、これがまた数奇波瀾をきわめて破天荒の生涯を送った人物らしいから面白い。いかにもこうした端数つきの数字でもひねくり出しそうな人物。どこまで信頼できるかは知らぬが、『回想録』までのこしているのである。   (79・12)        

 令和4(2022)年8月10日。



   政治家、外交官の舌 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.220~221

 朴大統領射殺事件のあった翌々日十月二十八日、例のNHK政治座談会の出席者に、元駐韓大使金山政英氏がいた。そして発言の一節にこんなのがあった。在任中はよく会食など親しく話し合ったそうだが、朴は「辞めたら日本へ行って温泉にでもつかりたい」としょっちゅう(ゝゝゝゝゝゝ)言っていたそうである。だから、終身独裁などへの野望は「全然なかったと思う」と、しきりに弁護にまわるのだが、これはいささかおかしい。人間そうした心境に動くことも、絶対になしとまでいわぬが、なにしろ相手は維新憲法を楯に、事実上の終身独裁を確立している大権力者である。こんな食卓での甘口を正直に受けていて、果して外交官の仕事が勤まるのだろうか。

 それでふと思い出したのに、例のご存知、日本通で鳴らした外交官アーネスト・サトウ未刊日記の一節というのがある。もっとも、これは彼が駐清公使時代(一九〇〇~六年)の話。日清役後、日露の間は次第に緊迫を加えるばかりの一時期だが、ある日彼は駐清フランス公使と会談したらしい。そのことを日記に記しているのだが、文面は以下の通り。「わたしは考えていた通りには話さなかった。興味深いのは、彼がこの日の会談のことを、どう日記に記すだろうかということ、またあの会談から彼がどんな結論を引き出すのだろうか、それを考えると愉快だ。」 

 言葉と肚と、人間としては不信の二枚舌といえるかしれぬが、もともと政治家、外交官などの発言というのは、おおむねこの類ではないのか。欺されたら欺されたほうがバカというしかあるまい。(断っておくがこの未刊サトウ日記、もちろん現物に当ったわけではない。数年前だかに読んだアメリカの国際政治学者G・A・レンセン教授の著書――サトウ文書を主資料に日露役直前の両国関係を精査した一書の中に出る。孫引きさせてもらったにすぎぬ。)金山元大使というのは、一家敬虔なカトリック信徒らしい。したがって、おそらく人間としては、はるかに岡本中尉(朴の日本人名といわれている)以上であろうことはまちがいあるまい。だが、ただそれだけの外交官というのでは困るのだ。         

 わが在外公館の後手情報というのは、すでに一種の名物になっている。あえてニクソン・ショックにまで遡らずとも、最近のテヘラン異変、カーバ神殿の占拠事件等々、報道面で見るかぎり、いずれも完全につんぼ桟敷の観があった。    

 今回の朴大統領射殺事件にしても、まさにその通り。事件が起ったのは、どうやら一九七九年十月二十六日夜の七時半過ぎ、翌二十七日四時には、すでに非常戒厳令さえ布かれていたらしいが、ソウルの日本大使館からの第一報が入ったのは、翌二十七日の朝午前五時半だったという。ところがワシントンでは、なんと午前三時(東京時間)というのに、すでに緊急会議が開かれていたというから面白い。たしかわがマスコミの受けた第一報も、決して一衣帯水のソウルからではなく、はるか遠いアメリカからだったはず。ヘ、ヘ、ノンキダネとでも申し上げるよりほかあるまい。   (80・1)  

参考1:ある日本人スパイの話 P.230

参考2:情報収集とスパイ.。本書(P.302)

 令和4(2022)年6月16日。



   したたかの女、したたかの文筆家 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』P.222~223

 年末年始ともに有難い暖冬だった。例によって寝正月だが、おかげで遅ればせながらチャプリン『自伝』なるものを読むことができた。伝聞通りの面白い読みもの、巻を措く能わずという月並みの標語さえおかしくないほど、楽しい心の保養になった。とりわけ前半の少年時代を語る部分など、彼の喜劇映画を地でいったような観さえあり、どこまでが文字通りの事実か、疑いたくなるような件りすらあるというのが、正直な感想だった。おまけに、かずかず知名人交友たちの逸話類を点綴する寸描が、これまた思わず(おとがい)を解かせる底の寸鉄的興味に溢れているのだ。

 とりあえずH・G・ウエルズをめぐる奇妙な挿話だけでも、見本として紹介する。H・G・ウエルズといえば、『文化史大系』や『生命の科学』など文明批評家としても、ㇳインビーなどの先駆者的大物といえる一方、空想科学小説、いわゆるSFの開拓者としても先刻ご承知のはず。近年は『タイム・マシーン』など一連の作で、ふたたび見直しの機運すら著しい。

 ところで、チャプリンの伝えるその挿話とはこうだ。もちろんウェルズの文名すでに上り、十分産をなしてからの話だが、彼はあるロシア女性を情人にもち、彼女のために南仏に家を一軒建ててやった。ところがこの女、相当のしたたかものだったらしい。新築成った家を訪ねてみると、なんとマントルピースにゴチック文字も鮮やかに、「二人の愛人、この家を建てたり」と刻み込まれている。さすがにウェルズも驚いた。さっそく痴話喧嘩になり、彼は石工に言って取り替えを命じた。だが、ふたたび訪ねてみると、またしても同じ元の文句が麗々しく刻まれている。怒ってまた撤去を命じるが、また訪ねると、相変わらずの元の通り。こうして撤去、そしてまた復活というバカ騒ぎが幾度かくりかえされたが、結局は石工のほうで呆れ果て、彼の言いつけを肯かなくなった。やむなくそのままになっているのだという。        

 チャプリンはこの経緯(いきさつ)を、ある日彼自身この家にウエルズを訪問した折り、かれが声を潜めて語った言葉として伝えているのだ。もっとも、この挿話を楽しむためには、ある程度ウエルズの著作を(あるいはついでにその肖像写真も)知っておく必要があろうか。たしかに驚くべき多才多能の文筆家ではあったが、由来彼にはユーモアだけは妙に乏しい。終始ひどく大真面目なのだ。またその肖像写真なども謹厳とはいわぬまでも、有髭豊頬、まことに分別臭く、むしろ逞しい財界人をでも思わせるような相貌すら見える。上記の一節、そんなことを思いあわせながら読むと、思わず破顔したくなる。世にも珍妙なマントルピースを眺めながら、やはり女には弱かったらしい彼が苦渋の面影まで見えるようで、まことに愉快、ユーモア満点なのだ。    

 原文にしてわずかに九行、おのずからに人間像ウエルズを浮かび上らせているところ、著者チャップリンもまたしたたかの文筆家と申さねばなるまい。   (80・2)  

 令和4(2022)年6月16日。



 余 桃 の 罪 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.224~225

 近年はもうそんなこともほとんどないが、いかに淮陰子といえども、かつてはよく恋愛結婚の成れの果て、つまり、別れ話にいやでも首を突っ込まされる機会があった。そんなとき、いつもよく思い出すのが韓非子「説難」に出る「余桃の罪」と呼ばれる故事だった。  

 別に原文など引く必要はないのだが、どうやらこの雑学屋筆者、読み下し文しか読まぬと見られている形跡が一部にある。だから、いささか気障だが、原文をまず抄するが、

 「昔者弥子暇有寵於衛君。(中略)異日与君遊於果園。食桃而甘不尽、以其半啗君。君曰、愛我哉。忘其口味、以啗寡人。及弥子色衰愛弛、得罪於君。君曰、(中略)嘗啗我以余桃。故弥子之行、未変於初也」と。 

漢文の送り仮な・返り点は省略した。(黒崎記)

 要旨はこうだ。むかし弥子暇(びしか)という容色すぐれた若者がいた。衛の君に仕えて大いに寵愛を受けていたが、ある日主君と同行して果樹園に遊んだ。ところで、桃の実を一顆食べてみたら、大変にうまかった。あまりうまかったので弥子は、食いかけの桃を衛君に献じた。衛君は大よろこび、「自分ひとりで食べてしまえばよいものを、それを我慢して半分を私に食べさせた。私を思ってくれる情、まことに立派なものだ」とほめ上げた。ところが、やがて弥子の容色も衰え、君の寵愛もまた冷めると、何かのことで罪を獲て罰せられたらしい。しかも衛君は言った、「彼奴はかつて自分に食べ残しの桃を食べさせたことがある。奴のやることは最初から変わりないのだ」と。 

 そこで話はまるでちがうが、愉快? なのは、恋愛結婚破綻者たちの言分というのが、大体つねにこの余桃の罪そっくりなのである。たとえば女の場合でいえば、あの恋愛、そして結婚ということになったとき、自分はただ愛されてやっていただけ、ぜひにも、いや、死んでもとまでいうから、結婚してやっただけの話だとくる。男のほうの話も大体まずこの逆だと思えばよろしい。聞く身の淮陰子としていえば、その間の消息はまことに虚実皮膜の間で微妙。ただいずれも十数年前だかの話とはまさに正反対というのにおどろくだけのこと。韓非子先生の言草じゃないが、やはり「前に賢とせられる所以を以て後に罪を獲たる者は愛憎の変なり(ゝゝゝゝゝゝ)」とでもいうか。結局はサジを投げるよりほかないのだ。家裁の調停員などは、さぞかしこの種の()で難渋しておられるのではないか。 

 なお念のため断っておくが、「説難」編に見えるこの話自体は、決してこんな卑近卑俗な問題をめぐって説かれているわけではない。むしろ人主に仕えるものの自戒とでもいうか、諫説談論の士もよくよく主君(上司でもよい)の愛憎の変を察して説くのでなければ賢明とはいえぬという重大問題を論じているのである。つづいて逆鱗というお馴染みの言葉まで出る件りだが、性来下根、人主に説くなどという大志とはおよそ無縁の淮陰子、ついこんな俗事に関していつもこの故事を思い出すのである。   (80・3) 

 令和4年(2022)6月03日。



  売春税ことはじめ 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.226~227

 売笑と呼ばれる営利行為、国家財政逼迫といったような場合には、ずいぶんと涎のたれそうな財源に見えるはずだが、そこが痛し痒し、案外と課税の対象にはならなかったらしいのだ。税金をとる以上、一種のこれを正業として国家自身が認めることになるからであろうか。売笑そのものはいずれの民族にあっても、ほとんど有史以来行われていた習俗だが、課税の対象とされるのは、東西ともに想像以上におそかった。よくせきの財源涸渇に迫られて、やむなく取り立てたという形迹が濃い。        

 わが日本でいえば室町時代、大永年間というから十二代将軍義晴(1,511~1,550)の時代である。徳政と称する奇妙な法令を再三発したことで有名な八代将軍義政以来、室町幕府の財政窮乏は底をついていた。それかあらぬか大永八年という年に、幕府は傾城局なる役所を新設し、京都の遊女から年間十五貫の税金をとることにした。同年六月二日付で「補任洛中傾城局公事」なる古法令があり、諸書に伝えられているから、すでにこれは周知の知識といえようか。   

 では、西ではどうか。淮陰子の承知するかぎりでは、例のローマ帝国皇帝コンスタンティヌスが、どうもその嚆矢らしい。周知のごとく、彼は三二四年、従来は分治国家だったローマ帝国を再統一し、文字通り三大陸にわたる独裁専制君主になった。そして国政全般にわたる大改革を断行するやら、キリスト教を公認するやら、さらには新首都コンスタンティノポリス(現在のイスタンブル)の建設大工事を行って、大帝と通称されるほどの治績をあげたまではよいが、結果は定石通りの財政窮乏。そこでさっそく新税創設による大増税を計ったのだが、その一つに一般営業税とでもいうべきものがあった。正確にいえば collatio lustralis だが、collatio とは醵金、寄附金というほどの意、lustralis とは五年ごとの意――といえば聞えはよいが、。ありようは帝恩に感謝して若干(なにがし)かの金を献紊するということ。もちろん権力者の得意とする虚名であり、借金の一方的棒引きを徳政と称したあの手口と同断である。  

 ところで、その collation lustrails の対象としては、はじめ妓楼経営者のみならず、娼婦個人までが指定されたのである。だから彼女たちは、以来五年ごとにいやでも税を払わねばならなくなったのだ。それにしても興味深いのは、いかに財政上の必要があったにせよ、人も知るローマ建国以来はじめてキリスト教皇帝が、売笑営業に対し、ついに事実上の公認をあたえたというのだから皮肉である。        

 教訓――人間、金に困るとどんなこともする。洋の東西など問わぬものである。よく近ごろ国民性などというが、淮陰生はあまり信用しない。同じ状況に迫られれば、みんな同じことを考え出すのだ。 collatio lustrails の制定年までは確かめなかったが、いずれ三二〇年代の後半かと思える。傾城局新設は一五二八年、その間約千年 の隔りがあり、まさか室町幕府がコンスタンティヌス帝の故智を承知だったとは思えぬ。   (80・4)  

 令和4(2022)年8月12日。



  乗った人より馬が丸顔 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.228~229

 まず迷歌を一首           

  これはしたり世は逆さまになりにけり乗った人より馬が丸顔   

 作者は軽薄の風流才人桜痴居士こと福地源一郎。歌われた超特馬面は、これまた自称無用の粋士成島柳北である。柳北が馬面のことはしばしば話題になった著名な事実だが、おそらくこれは彼が幕末慶応年間、騎兵(かみ)から騎兵奉行成島大隅守にまで累進し、大いに洋式馬術の訓練につとめていたころのことであろう。福地もまた同じころ散兵訓練方というのを勤めていたはずだから、まずは当時の実感実写がこのザㇾ歌になったものと思える。柳北、ときにまだ三十歳足らず、それにしても相当のものだったことがわかる。  

 由来、長芋面というのは枕絵の殿様などと呼ばれ、お笑い草にされるのが常だが、これはもちろん浮世絵師の責任、むしろ事実は才人策士に多いのが興味深い。例の陸奥宗光なども写真で見るかぎり、かなりの馬面と見受けられる。        

 さて、上記のザㇾ歌は由緒も歴然、多少なりとも好事の読者なら周知の話題のはずだが、次の伝承に到っては、残念ながら淮陰子浅学にして、とうてい真偽のほどまでは保証しかねるが、とりあえず孫引きで取り次がせてもらう。話は北宋の大文人蘇軾(東坡)に関するのである。  

 東坡に一人の娘がいたらしい。が、この娘、馬面どころか、これがまた大変な木槌(きいづち)頭、下世話でいえば超々大デポチンだったらしいのだ。というのは一日、親父の東坡がからかっていったという、「未出庭前三五歩、額顱先到画楼」と。ところが、このお嬢さんもまた流石は東坡の愛嬢、すかさずやりかえしたというのだ。曰く、「去年一点相思涙、至今流到らず顋辺」と。庭に出てまだ五、六歩とは歩かぬうちに、たちまちオデコだけが書斎の前にヌッと突き出たというのもひどいが、去年の涙が今年になっても、まだ頬を伝いつづけて顎まで達せぬというのも、輪をかけてすさまじい。いかに東坡の馬面が異相に近かったかも想像されようというもの。この親父にしてこの娘ありか。 

 但し、前述もしたごとく、このほうは淮陰子、とうてい真偽まで保証する能力はない。詩二千七百余首とまで称される彼の全作品を読んだことはもとよりなし、伝記も一通りのこと以上にはまったく知らぬ。馬面だったか否かについてすら、である。   

 ただ彼が数奇をきわめた運命変転の中にあって、いかに逆境にあっても諧謔を忘れず、イギリス流にいえば、床しいヒューマーの持主だったらしいことくらいは、なんとか承知している。だとすると、あるいはこんな愉快な場面もときにはあったのかもしれぬ。ひとえに専門先学の御垂教を乞いたい。

 それだけにこちらのほうは、一応出所を明記しておく。かつて淮陰子は大正中期頃、故宮武外骨翁が出していた個人月刊誌『スコプㇽ』第十四号(大正六年十二月)でこの話を読んだ。大阪市小野利教という読者の投稿として載せていた。教示をまつ。   (80・5)

 令和4(2022)年8月12日。



   ある日本人スパイの話 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.230~231

 イランでの例の大使館員人質事件、目下のところはいつ解決がつくか、ほとんど見当もつかぬ(1981年1月20日解決した。史料による:黒崎記)。ところで、最近の日本では国際法違反という被害者側の言分ばかり伝える報道が多く、イラン側のそれはきわめて影が薄い。しかし、そもそも大使館占拠の直接因がシャー・バーレビの引渡しと、および一部大使館員へのスパイ裁判要求だったことは、まだ記憶の読者も多かろうと思う。

 前者についてはしばらく措く。ここでは主として大使館員のスパイ容疑だけについて書くつもりだが、たしかに在外公館とその館員たちが慣習国際法により治外法権を認められ、不可侵を保障されていることは事実。だが、同時に、この特権を極度に利用、在外公館なるものが世界を通じていわばスパイ工作の根城であることもまた、周知の事実である。(近い例では宮永事件でのソ連大使館付武官の場合がある。)国家利益からすればあるいは当然なのかもしれぬが、国民としては不快、怒りを禁じえないだろうとこともまた当然。年来シャー・バーレビのいわゆる「白色革命」の背後に動いていたCIAの暗影を、どうイラン国民が見ていたか、改めて説くまでもあるまい。

 そこで今月は、数カ月前にも一度登場を頂いたG・A・レンセン教授の著書に再登場をお願いし、一八九五~一九〇〇年(日清役直後)と、時代はだいぶ古くなるが、ご存知アーネスト・サトウが駐日公使の時代、立派にスパイ役を勤め上げていたある日本人のことを紹介してみよう。         

 原資料は、例によってサトウの未公開日記。日記には Asaina Kansui とあるそうだが、正確には朝比奈昌広という歴とした日本人。日記引用に見るかぎり、どうやら彼のほうからむしろスパイ役を買って出た形跡すらある。こうして彼はサトウの在任期五年間に、数十回にわたり二、八八〇(円かドルか、レンセン教授も不明だという。ただ一ヵ所だけ$と明記があるそうだから、やはりドルか)という報酬を受け取っていたことになる。一時は隔月払いの定期給? にさえなっているから驚く。朝比奈もまたわが陸海軍の秘密動静や、来るべき日露開戦の時期問題など、かなり重要な情報を定期的に提供しているのだ。    

 そこで朝比奈昌広なる人物だが、なんとこれが累代五百石取りの旗本、幕末の元治・慶応年間には長崎奉行(但し赴任せず)、外国奉行まで勤めた人間だと史料にもあるから愉快。(なお父昌寿(まさとし)もまた一時田安家の家老職を勤めたり、長崎奉行にもなっているか、旗本中でも相当の名家と見てよかろう。)  

 但し、明治後は新政府に仕えず、消息もほとんど不明、明治三十八年に死んでいるらしいことだけは明らかだが、その老人昌広が突如スパイとしてサトウ日記に再登場するのだから、世の中は意外である。レンセン教授の質問に答えた東大史料編纂所の返書には、「金を貰っていたと考えるのは思い過しだろう」とあったそうだが、サトウ日記には、まるで会計簿よろしくの具体的記載まであるというから恐ろしい。没落士族、悲しい晩年の姿ということか。   (80・6) 

参考1:政治家、外交官の舌 P.220

参考2:情報収集とスパイ.。本書(P.302)

 令和4(2022)年6月15日。



 国家と領土拡張欲 淮陰生「一月一話」 P.232~233

 明治三十八年、日露役の戦勝成果としてサハリン島の一部、つまり南樺太がついに日本領となったことは周知の通り。だが、そこまでの経過については、今日案外知られていないようなので、とりあえず簡単に紹介してみる。

 日露間の講話問題がアメリカ大統領ローズベルトの斡旋ではじまり、両国ともに勧告を受諾、わが全権委員小村寿太郎の一行は、同年七月八日には日本を出発した。ところが、わが陸海軍によるサハリン占領作戦の開始されたのは、まさにその直前の七月四日からだったのだ。現地のロシア軍兵力はもちろん無力に近く、ほとんどなんの抵抗を受けることもなく作戦は進捗、翌八月四日には早くも全島の平和を宣言、わが軍政が布かれた。

 ポーツマス講和会議が難航をきわめたことは、これまた周知の事実だが、結局は上述の既成事実が大きく物を言い、わが方も不満ながら、ロシア側もまたある程度は譲り、さしもの難産談判も九月五日にはついに条約調印を見た。(この談判過程で国内では軟弱外交に対する不満が沸騰、帝都焼打事件を暴発させたばかりか、戒厳令さえ発せられたことは有名な話。) 

 さて、問題は上記サハリン作戦の時期である。前述もしたごとく、それがわが全権団一行の出発とまさに相呼応して開始され、いわば講和会議を目前にしての軍事行動だった。もちろん小村自身も諒承ずみ、いや、むしろ積極的主義者ですらあったのだ。 

 もともとこの樺太占領計画は、開戦当初から陸軍内一部に強硬な主張者がおり、ただ軍事的余力の問題もあり、陸海の首脳部、または桂首相、さらに山県、伊藤あたりまでが消極論だったというにすぎぬ。ところが、さて講話間近しとなると、俄然問題は再燃した。談判を有利に導くためにも、既成事実の創出は絶対に必要というのだった。消極論者も諒承した。が、興味深いのは、この時においてすらなお桂首相、寺内陸相などが、すでに講話会議を目前にして、かような「火事泥的に類するサハリン出征は米大統領に対しても遠慮然るべし」との意見を述べたというのである。われながらやはり「火事泥」めいたうしろめたさはあったらしいのが面白い。が、結局は実施され、南半分とはいえ、わが領有に帰したことは周知の通り。ただ奪られた側からすればどんな風に映ったか興味がある。  

 さて、このこぼれ話、なぜいま紹介したか。要するに国家という怪物の本能である領土拡大欲は、いざとなればどんな火事泥だって平気でやるということ。国家体制による相違など一切なしという教訓であろう。目下わが北方領土の問題がやかましい。たしかにあれもまた過般の大戦終末期、ソ連の行った火事泥的領土獲得だった。その意味ではきわめて不愉快だが、同様の不愉快事は、けっこう日本もやってのっけたことがあるという一事である。 

 なおこの項は、信夫淳平氏著『二大外交の秘密』『小村寿太郎』、および黒井勇吉氏著『小村寿太郎伝』などに主として拠った。   (80.7)     

 2022.05.14。



  オビット・アヌス、オビット・オヌス 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.234~235

 Obit anus, abit onus. ――直訳すれば「老婆死んで債務解消」ということだろうか、明らかにここは語呂合わせを利かせているだけに、さしずめ「老婆くたばり、肩の荷軽々」とでもいったところか。ところで、この悪たれ、実をいえば例の哲学者ショペンハウアーが、さる女の死亡証明書の片隅に書きつけた鬱憤ばらしの一句だったという。だが、これには当然多少の説明が必要かもしれぬ。           

 ショペンハウアーといえば人も知る十九世紀ドイツの代表的哲学者の一人。特異な厭世思想の主張者として、本邦でもむかし大いにもてはやされた一時期がある。主著『意志と表象としての世界』以下、晩年のエッセイ集などについて語ることは、雑学書生淮陰子の任でもなければ、またかかる掌篇雑文のよくしうるところでもない。が、とにかく彼の形而上学の基調が、この世界とは「生きんとする盲目的意志」の顕現にすぎず、したがってこの受苦の生は断乎としてこの意志を拒否、「涅槃(ニㇽヴアナ)」に入ることによってのみ解脱に到達しうるという厭世観であり、大胆な自殺肯定論まで打ち出しいる哲学者だったことくらいは、いくら筆者も知らぬわけでない。   

 ところが、なんとこの厭世哲学者の実生涯というのはおよそ逆、横紙破りというにも近い生の享楽主義者だったらしい。終始大いに美酒佳肴を愛し、女のほうでもたえずお世辞にも恋愛などとは申し上げかねる性愛関係をしばしば楽しんでいたらしいのだ。  

Schopenhauer.jpg  さて、冒頭の一句も実はそのことと関連する。ショペンハウアー三十代半ばのことと思えるが、ある女(どの伝記書にも姥桜(うばざくら)のお針子とある)との関係ができた。ところがこの女、どうやらひどい饒舌屋だったらしい。ある日のこと、すぐ外の廊下でまたしてもはじめた彼女の疳高い長談義に、思わず癇癪を爆発させたわが哲学先生は、いきなり彼女を階段から突き落した。嘘か真か、おかげで彼女は商売道具の片腕に大怪我をしてしまったと言うのだ。話がこじれ、女はとうとう訴訟に出た。が、これも結局はショペンハウアーの敗訴、訴訟費用の六分の五まで払わされたばかりか、女の生きてあるかぎり、毎年四季ごとに相当額の慰謝料を支払うよう命じられた。泣き面に蜂とでもいうところこか。一八二〇年代も終りごろの話という。        

 ところで、当のこのお針子女だが、幸いに一八四一年にはどうやら死亡したらしい。が、それにしても十数年間は忌々しいこの慰藉料債務を負わされていたことになる。さてこそわが哲学者先生、彼女の死を知らされたとき、十年余りの鬱憤を一気にこの痛烈な駄じゃれ一句に吐き出したのであろう。そうした意味でも思想と人間との関係ほど興味のつきぬものはない。   (80・8)

 令和4(2022)年8月13日。



  臀 と 糞 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.236~237

 まことに端的、しかも具体的な下司表題で恐縮だが、内容には別にさしたることもないはずだから、ご安心を乞う。     

 『日本書紀』巻十九、欽明天皇皇紀二十三年七月の条というのを読むと、調吉士伊企儺(つきのきしいきな)と呼ぶ実に痛快な人物の話が出る。彼はこの年行わなわれたわが任那(みまな)日本府からする新羅征討の軍に加わり、不運にして捕虜となった。どうやら新羅軍の将は、(しり)を剥き出しにし、日本軍に向って「日本(やまと)の將、わが臀をくらえ」とさえ叫べば、生命のほどは許すといったらしい。だが、彼は屈しなかった。臀を丸裸にしたまではよいが、いきなり逆に、「新羅の王、わが臀をくらえ」と叫んでやまなかったというのだ。おかげで殺されたらしいのだが、物もあろうに臀をくらえとは、はなはだもって愉快である。   

 もちろん、朝鮮側の史書にはこんな話などオクビにも出ない。『日本書紀』に相当する彼らの正史『三国史記』の新羅本紀巻四、真興王紀に見ても、同じその二十三年七月(どうやらわが欽明天皇とは同年の即位だったらしいのだ。西紀でいえば五六二年)の条に百済(くらだ)が辺境を侵犯したが、たちまち反撃してこれを撃破、一千余人を殺したり捕虜にしたという記事があるだけであり、同盟軍の任那勢のことも日本軍のこともまったく出ない。もちろん伊企儺もだ。だが、おそらくはこの一千余人の一人であったのであろう。  

 さて、臀の話はこれで終るが、次は糞である。       

 一八一五年六月十八日のワーテルロー戦で、さしもの大ナポレオンもついに決定的敗北に終わったことは周知の通り。ところが、この決戦最後の段階で、フランス側の騎兵軍団長カンブロンヌと呼ぶ勇将は、イギリス軍の迫る降服要求に対して、突如として一語、 Merde!(さしずめ日本語なら「糞ッたれ!」か)と叫んだというのも、これまた知る人は知るはずの有名なこぼれ話である。  

 ただ浅学の筆者など、従来はごく簡単に、せいぜいイタチの最後ッ屁並みの居直り的放言とばかり考えていた。ところが、なんとこの一語が、ついこの近年まで御本家フランスでは、その真相、解釈等々について、さまざまな論議の種になっていたことを知って改めて驚いた。 

 Merde! たしかに貴族紳士の口にすべき言葉ではないかも知れぬ。だが、馬上彼がこの一語を吐いたことはあくまで事実らしい。但し、それは敵軍からの降服要求の督促にたまりかね、腹立ち紛れに口にした罵言卑語にすぎないとする弁護論、また同じこの言葉は兵たちもともに叫んだのだが、ただ彼の声だけが特に高く響いたために、結局は彼一人の発言にされてしまったのだという説、またその真実発言はなんと La Garde meurt et ne se rend pas.(近衛隊は死すとも降服せず)だったとする、たしかに天晴れにちがいないが、すこぶる怪しげな主張まであるよう。現にこの形で歴史的名言集に入れている書物まであるという。筆者などむしろ Merde! であってこそ不朽の名言と信ずるのだが。   (80・9)        

 令和4(2022)年8月13日。



  ある呪文二つについて 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』P.238~239

 すでにもう一昔以上も前になるか、いまをときめく怪(快?)タレント黒柳徹子女子の売出し時代だが、例の『千一夜物語』に出る空飛ぶ絨毯の趣向を採り入れた児童向け番組に、ほとんど連日のように登場していたことがある。ところで、その絨毯を飛び出させる呪文なるものが、アブラカダブラ ABRACADABRA という奇妙に語調のよい言葉だった。          

 ところが、この呪文、ちょっとした西欧語辞典なら必ず出るほどの語彙で、つまりきわめて由来の古い神秘的起源ということになる。語源学的にはヘブㇽ語起源説、アラム語起源説等々、諸説あるそうだが、とうてい淮陰子などには判定不可能。ただ西紀二世紀半ばごろキリスト教の異端グノーㇱス派の一人パンデリシスとその信従者たちの間で悪魔除け、病除けの呪文として使われていたことだけは、ほぼ一致して認められている。つまり図のような三角形に書き、護符として首から吊したのだとある。ほかにもまだ尤もらしい説もあるらしいが、とにかく近代ではもはや霊験効能などとは無関係、ただ「チンプンカンプン」ほどの意味で生きているにすぎぬ。  

 さてアブラカダブラの話はこの辺で切り上げるが、ただいささか興味深いのは、古来わが東洋にも実に語調のよく似た呪文? の存在することである。いうまでもなくオンアビラウンケン(ソワカまでも加えるか)である。たとえば例の歌舞伎、名舞台「勧進帳」ならば、、あの武蔵坊弁慶が、「オンアビラウンケンと数珠さらさらと押揉んだり」とやるあれである。原語サンスクリットを音写すれば om a vi ra hum kham svaha, 漢文で音写すれば「唵・阿毘羅吽欠・莎婆訶」ということになるらしい。  

 もとよりこれも本来は単なる呪文などでは毛頭ない。いわば仏教の密教的玄義を意味するものだそうで、これまた筆者は盲の垣のぞきにすらしかぬ無明の門外漢。一夜づくりの俄勉強で中村元博士著『仏教辞典』を開いてみると、「(おん)」とは「しかり」、キリスト教のアーメンに相当するとあり、また「阿毘羅吽欠(あぴらうんけん)」は地水火風空、つまり「宇宙一切の生成要素を表象し、大日如来の内証を表現する真言」であり、同じく「莎婆訶(スヴアーハー)」とは「成就」の意味だという。

ABRA.jpg  が、いまここで取り上げるのは必ずしもそうした玄義に関してではなく、アブラカダブラとアビラウンケン云々の両者がともに、いつのまにか単なる呪文化されてしまったという一事である。そこで一つ不思議に思えるのは、両者いずれも冒頭のA母音、また子音のB(またはV)、R、K(またはC)が共有されていることであり、筆者は音韻論についても無知同然だが、サンスクリットも西欧諸国語もともに印欧語族に属する以上、あるいは一つの祖語が音韻変化を経て遠く東西に岐れ、奇しくも同様呪文になった可能性はないのか。切に垂教を乞いたいのだ。   (80・10)        

 令和4(2022)年8月14日。



  変態繽紛、夢也亦夢也 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.240~241

 江戸長唄に「秋色種(あきのいろぐさ)」という名曲がある。野暮と不粋の淮陰子、節づけの妙不妙などについては、何一つ発言の資格がないが、ただ毎年秋草の季節ともなり、つい散歩の杖があの港区麻布有栖川記念公園のあたりまで延びるにつれ、決って思い出すのがこの名曲冒頭の一節である。

秋草の(あずま)の野辺の忍ぶ草、忍ぶ昔や古えぶりに、住みつく里は夏苧(なつお)引く、麻布の山の谷の戸に、朝夕むこう月雪の、春告鳥の跡分けて、(なまめ)く萩が花摺りの、(ころも)雁がね声を帆に、あげておろして玉(すだれ)端居(はしい)の軒の庭(まがき)、うけら、むらさき、長尾花、共寝の夜半に萩の葉の、風は吹くとも露をだに、据えしと(ちぎ)る女郎花、その晩の手枕に、松虫の音ぞ楽しき……。
 煩わしい語釈は省く、だが、ただ言いたいのは一読、これがまだつい百年ちょっと前(作曲が弘化二年というから一三五年前か)、当時の麻布台から西方広尾渋谷のあたりを望んだ実景描写だと気づく人が果たしているだろうか、という一事である。  

 一言贅語を加えることにする。もともと麻布(麻生(ゝゝ)にもつくる)なる地名、やはり麻栽培との縁に由来するというのが、いろいろ古書に異説もかるが、まずは無難であろうか。つまり、この辺一帯の低地はむかし麻田で、織った麻布はそう遠くない玉川で晒して仕上げたというのだ。当否はともかく、歌詞に見る「夏苧引く麻布の山」云々は、明らかにこの所伝を踏まえたものと思える。        

 ところで、この歌詞の作者だが、なんとこれが盛岡藩二十万石は十三代藩主南部利済(としただ)侯というからちょっと意外。だが、そういえば現在ある記念公園の地は、江戸時代かなり初期から南部侯の屋敷地であり、現に明治以後も久しく盛岡町だった。また今日の記念公園の南側沿いを東から西へ広尾へと降る坂は、江戸末期古地図にもはっきりナンブ坂とあり、またすくなくとも戦前までは俗称として残っていたように思う。

 話は戻ってまた作詞者利済だが、文政中期から弘化年間まで二十年間以上にわたった藩主であり、必ずしも凡庸の材ではなかったという。が、なにしろ天保の大凶作、大飢饉はあるし、南部藩もまた多分にもれず盛岡城下まで農民一揆に襲われる始末。加えて実子との間がきわめて悪く、それやこれやで嘉永元年には隠居謹慎に追い込まれている。だとすると「秋色種」は隠居三年前の作ということになるが、その点では彼もまた藩地の窮乏などよそに呑気に風流を楽しんでいたことになる。藩主の英明などとは総じてこの程度のものかもしれぬが、但し、文才だけから見れば、どうして相当の文化人だったらしく、たとえば冒頭に引いた件りのすぐあとは、菅公道真作と伝えられる朗詠九十首抄管弦部所収の「変態繽紛タリ、神ナリ亦神ナリ、新声婉転ス、夢カ夢ニ非ズカ」などという難句まで、さりげなく転用されている。それにしても現在の麻布界隈にカケラほどでもこんな秋色を想像できるか。変態繽紛、ただ夢というしかない。   (80・11)        

 令和4(2022)年8月15日。



  古代ペルシア人と酒、など 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.242~ 243

Herodotus.rekisi.jpg  史学の祖ヘロドトスの『歴史』第一巻を読むと、古代ペルシア人の風習について、かなり長々と述べた件が出る。多少面白そうな部分だけを抄してみると、           

ペルシア人というのは大変な酒好きで、ずいぶんとガブ呑みもやるが、人前で吐いたり放尿したりすることは、厳に禁じられている。(中略)彼らは排便や(つば)で河を汚すことは絶対しない、いや、手を洗うことすらしないのだ。同時にまた他人にもそれをさせぬ。それほど河川を尊んでいるからである。   
 なんと驚くではないか。これが二千数百年も昔のペルシア人だというのだ。いささか「関東のツレ小便」をなつかしむ向きもあるかもしれぬが、それにしてもまことに見上げた社会的公徳心といわねばならぬ。近ごろ深夜の車内やプラットホームでの醜状、さては濁りに濁る大小河川の公害汚染を目のあたりにすると、なにか現代の日本人を予見してのアテツケではないのかとさえ思いたくなる。  

 もっとも、酒の効用についてはこんな記述もある。「またペルシア人には酒席で重要事を商議するという慣習がある。そしてその晩の決定を、翌日全員が素面(しらふ)になったとき、改めてその家の主人がみんなに(はか)り、一同賛成ならば採用し、でなければ廃案にするというのだ。」やっとこれで安心した。やはりかの料亭政治なるもの(もっともペルシャじゃ料亭ではないが)、必ずしもわが日本人独特の発明品とばかりはかぎらぬらしい。「まあ、君、ちょっと一杯やって……」は、いわば千古普遍の人間性本然なのかもしれぬ。      

 (なおタキトゥスによると、古代ゲルマン人にも同様の慣習があり、和戦のことまで酒の上で議し、最後的決定は翌日に行ったとあるそうだが、その著『ゲルマニア』には見当らず、しばらく後考をまつことにする。)  

 しかしまた、次に見るような戒めは、優に今日でも家訓として通用しそうである。曰く、「してはならぬこと、それは口にしてもいけないとされている。およそ最も恥ずべき行為と考えられるのは嘘をつくこと。そして次は借金すること。理由はいろいろとあるが、要するに最大のそれは、金を借りると、いやでも嘘をつかねばならぬことになるからだ」と。借りたあとばかりではあるまい。借りるときがすでに大抵は嘘である。サラ金地獄の悲劇、ネズミ講販売の泥沼、すべてはここに因するごとし、秋の風吹くか。裏をかえしていえば、あの『ハムレット』に登場するポローニアスの子息に対する訓戒、「金は貸すな、借りるな。たいていは金も友人も失うことになるからな」にも通ずるものであろうか。 

 ついでにいえば、著者ヘロドトスは小アジアはハリカルナソスの生れ。少年時その生国はペルシアへの朝貢国だったし、後年また足跡は遠く今日のイラン西部にまで及んでいたというから、記述はおそらく直接観察にもとづくもの、まさか張扇の伝聞ではあるまいだけに、いっそう皮肉で愉快である。   (80・12)        

 令和4(2022)年8月14日。



  もっと「押しつけ」てほしかったこと 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.244~245

 吉例「押しつけ憲法論」が、ひとしきりまた賑やかだから、淮陰子もいささか悪乗りで、関連こぼれ話を一つ紹介してみる。 

 現行憲法の制定背景に、略称マッカーサー改正案なる英文草案が存在したことは、今ではすでに知らぬ者のほうが少ないかもしれぬ。いわゆる「押しつけ」論の根拠である。だがしかし、現行憲法とこの草案とを読みくらべると、決して草案そのままの鵜呑みではない。相当の修正を受けていることがわかる。ところが、それら削除条項の中には、これなどもっと強く「押しつけ」てくれればとさえ思えるものがあるから、奇妙といえば奇妙というか。   

参考:『マッカーサーの日本』上(週刊新潮編集部)P.186 〔一週間で作られた憲法草案〕がある。(黒崎記)

 もっと具体的にいえば英文草案第二八条である。定訳もなそうだから英文で引くが、 The ultimate fee to the land and to all natural resources reposes in the State as the collective representative of the people. Land and other natural resources are subject to the right of the State to take them, upon just compensation therefor, for the purpose of securing and promoting the conservation, development, utilization and control therefor. つまり土地及び一切の天然資源に対する究極的権原は、総国民の代表たる国にある。土地も、またその他の一切天然資源も、それに対する正当な補償さえ払えば、国の権利に服し、これが保存、利用、管理を確保、また促進するために、収用することができる、とでもいったような意味であろう。  

 固有とまではいわぬが、どうも準公有に近い趣旨ととれる。大地主依存だったわが保守党政府にとっては、まさに青天の霹靂だったに相違ない。大慌てに慌てて削除を申し入れたはず。GHQ側もまた案外すんなりと応じたらしいのだ。おかげで現行憲法では私有財産権の不可侵をうたった第二九条第三項に、ほんの一行あまり、簡単な言及で影をとどめているにすぎぬが、もしかりにGHQ側があくまで強硬に「押しつけ」ていたら、今頃は果してどうなっていたか。考えてみると実に興味深い。英文草案でもすぐその前条には、やはり財産権の不可侵が掲げられれていた以上、そこはきわめて微妙であり、たしかに収用権の濫用も困るが、もしこの一条が草案そのままの明確、そして具体的な表現で成文化していたとしたら――。       

 今日、土地が完全な投機的私物件化し、法外な値上がりでマイホームづくりの勤労市民諸君を絶望させたり、さてはまた「土地転がし」などといった不愉快な流行語が、大手をふって市民権を獲ているなど、こんなことはよほど抑制されていたかもしれぬ。また公団をも含めて諸私企業による乱開発、これまたこう無遠慮には行えなかったはず。近年、自然保護、環境保全の運動に奮闘される市民団体のみなさんは、ずいぶん大変な御苦労とお察しするが、現行憲法ではその点、法的抑止力はきわめて弱いといわなければならぬ。  

 「押しつけ」は淮陰子とて愉快でない。だが、物にはつねに表裏がある。これなどもっと「押しつけ」てくれていればよかったに、とさえ思える。

 令和4(2022)年8月15日。



 のんびりしたはなし 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.246~247

 ひどくまわり遠い話のたとえとして、大風吹けば桶屋よろこぶという言草、淮陰子なども古くいつのころからかおぼえ、おそらく読者諸君も大部分は先刻ご存知のことであろう。が、さていつごろ、誰がどんなことで言いだしたものか、またそのまわり道の径路となると、いろいろと「だろう解」の諸説を聞くだけで、正確なことは案外知らなかった。

usoukanwa.jpg  ところが、この正月休み、無聊のままそこはかとない雑書読みをしていたら、ふと『雨窓閒話』なる江戸期末随筆本の中に、少なくとも手がかりかと思えるほどの一節が見つかった。「(しん)喜太郎が僕才六が事並桶屋物語の事」と題した一文である。とりあえず後半の全文を多少用字を改めるだけで引く。

雑談(ぞうだん)に、一人の桶屋ありていうには、あわれ大風の吹けよかしと。かたわらのもの聞きて、大風をこのむは如何にやと尋ねければ、桶屋が曰く、大風が吹く時は砂石散乱して往来の人眼中に入らば必ず盲人出来すべし。然れば琴三味線屋繁盛して猫を多く取って皮を張るべし。さすれば世上猫少なくなり、鼠おのずから荒れさわぎて桶をかじりなんこと案の内なり。其時に至っては我等が商売の益となるべければ、大風を好むと答えけり。
 淮陰子承知の「だろう解」の中では、たしかに迂回の複雑さ、奇想ともいうべきほど詳細をきわめている。「そのまわり遠き事いわん方なし。ただ工案(くあん)分別もかぎりあるべし」と著者の評しているのも無理なしと思える。  

 ところで、この『雨窓閒話』なる一書(『雨窓閑話』につくる異本もあるらしい)、編者の識語によれば、元来は「白川夜話」とも題され、楽翁公松平定信述という触れ込みだが、その点はあまり信用されていない。もし、真実楽翁公の著述ならば、少なくとも文化末年か文政年間のことでなければならぬはずだが、上梓は数十年もおくれて嘉永四年の開版だからである。  

 が、それはともかく、桶屋と大風のこの話、もし本書が真作ならば、おそくも寛政年間あたりから、また仮作だとしても幕末嘉永のころには、すでにひろく民間に流布していたことがわかる。淮陰子の知識はいずれこの程度、もしさらに遡っての出典があるなら、ぜひ御示教を乞いたい。なんにしても愉快な話だからである。    

 なお本題の下僕才六がこと、これまた実に愉快なのだが、いまはもう紹介の余裕がない。要点だけを書けば、この才六なるおどけもの、元和のころ進喜太郎なる旗本に仕えた男だそうだが、その彼がなんと奇想天外の軍略を説く話。それによると、まず千金を投じて熊蜂の大群と蜜とを大量に買い集めおき、いざ戦いともなれば、柄杓(ひしゃく)数千をもってこの蜜をまず敵に打ちかけ、つづいて蜂群を一斉に放つ。刺されてひるむ敵陣に斬って入れば、勝利は必定疑いなしというのだ。

 さすがに著者も軽くいなしている。工夫の大切は認めながらも、「程明道(ていめいどう)の柱のたぐい可笑」と。   (81・2) 

 令和4年5月27日。



  猿は木から落ちる 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.248~249

 猿は木から落ちる(猿も(ゝゝ)に非ず、猿は(ゝゝ)は、である)。なまじ生物知りがこうした猿真似的雑文など書き散らしていると、テキメンすってんころりと転がり落ちる。つまり、とんでもない誤りをしでかすのだ。昨年十二月号のこの欄に、「古代ペルシア人と酒」と題する駄文を書いたら、さっそく迂闊きわまる読み落しを一読者から指摘された。お詫びと併せて、とりあえず訂正させていただく。  

 読み落しとは? つまり前稿では、重要議題の討議を酒の上の席で行うという古代ペルシア人の慣習について書いたのだが、その際、同様の慣習は古代ゲルマン人の間にもあったことを、これもローマ史家タキトゥスが指摘している旨を述べながら、これがどうもその著『ゲルマニア』にも見当たらずと、つい粗忽にも書いてしまったのだ。まさしくこれは()も舌に及ばぬ大失敗、現にその第一部二二節には歴然と次にようにある。   

 まず彼らが実によく酒を飲むことを述べたあと、「しかし彼らが仇敵同士を和解させたり、姻戚関係を決めたり、指導者を選んだり、また和戦についての協議をするのは、たいていこの種の会食においてである」と。理由は簡単らしい。つまり、こうした宴席においてこそ、人はすべて胸襟を開き、心の底まで赤裸々に語るものだからというのだ。そして翌日さらに改めて同じ問題について冷静に討議、誤りなしとの見通しが立てば決定になるという、まさに古代ペルシア人と符節を合わすがごときなのだ。まさか相互に直接影響があったとは思えぬだけに、どうせ人間の考えることは同じだとも言えなくもない。  

 但し、いささか異なる点もある。というのは、「酔っ払い同士の間ではしばしば喧嘩が起る。しかも悪罵口論だけで終ることはむしろ稀で、たいていは殺傷沙汰になって、やっとケリがつく」ともあるからだ。この点はどうも今日の日本人のほうによりよく似ていつように思えるが、如何!       

 いずれにしても、われながら大変な読み落しだったので、この機をかりてお詫びを申し上げる。  

 さて、ちょうどよい機会だから、だいぶ前に書いた一文の中で、その後分明した事実もあるので、この際捕足させてもらうことにする。

koutogosui.jpg  愛誦歌あれこれ(二)という一篇で、故渋沢栄一翁がよく口にしたという狂歌、「朝寝坊昼寝もすれば宵寝する、ときどき起きて居眠りもする」という一首を挙げておいた。その際も翁自作かどうかは疑っておいたが、果して西沢一鳳の『皇都午睡』(嘉永三年刊)第三篇巻上に、いささかのちがいこそあれ、ほとんどそのまま出ているのを後で知った。「朝寝してまた昼寝して宵寝して、その()その間は居眠りぞする」というのだ。但し、作者は依然として不詳。ただ幕末ごろには明らかに俗間に流布していたことがわかるから、おそらく渋沢翁も幼少時代から(彼は天保十一年の生れ)すでに耳学問で聞きおぼえていたとものと思える。   (81・3)

 令和4(2022)年8月16日。



  復刻『公私月報』 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.250~251

miyatake.kousigextupou.png  先日ある書店に立ち寄ったら、思わぬ本を見つけた。故宮武外骨翁『公私月報』の復刻本(巌南堂刊)である。存在くらいは淮陰子もかねて承知していたが、原本はそう簡単に手に入らず、お目にかかるのは始めてだった。  

 さっそく一本を贖い目下繙読中だが、なるほど読み出してみると、どこから読んでも面白い。外骨翁といえば一代の奇骨、改めていま紹介するまでもあるまいが、『公私月報』とは、その翁が昭和五年、現在東京大学にある「明治新聞雑誌文庫」を創設、大変な張り切りようで資料蒐集に東奔西走された、その一時期のいわば機関誌である。"公"とは蒐集情況の報告、"私"とはそうした資料類の閲読から拾い出された愉快きわまる珍記事紹介と、さらに翁の私的感懐にまで及んでいる。宮武流にいえば、文字通り公私混合の珍雑誌といえようか。余白の許かぎり、面目の一斑を紹介してみる。   

 明治五年末に改暦のことがあり、太陰暦から太陽暦へと変ったので、五年には十二月がなく、同年十二月三日がいきなり六年元旦になったことくらいは、いくら淮陰子とて知らぬわけではなかったが、そのカラクリがまた実に珍妙なのだ。まず旧の十一月を無理に三十日、三十一日と延ばし(こんなことは太陰暦にも絶無)、十二月三日をいきなり新暦六年一月一日と定めたのだ。この便法、ある程度はやむなしとするも、問題は本来ありもしなかった三十、三十一日の両日を勤めさせられた役人連中の俸給である。外骨翁の解釈がまた実に面白い。もし十二月をたとえ二日間でも残せば、明治政府は「一ヵ月分の給料を払渡さねばならぬので、それに驚いて俄に右の(つまり上述の)布告を出したのである。結局当時の役人は無給料で二日間働かされた事になったワケ」というのだ。嘘か真か、だが、そこは貧乏世帯の明治新政府、案外こうした小手先芸の悪知恵くらいは働いたかもしれぬ。  

tienokura.jpg  話は変っていささか(しも)がかる。明治十四年五月発行の『智慧の庫』六十号に出た記事だそうだが、「厠のはねるを防ぐ法」という珍文があるという。そのまま孫引きするが、曰く、       

 「我家の雪隠(せつちん)なれば藁を切て入ればよろしいけれど、他家へ行きたるとき、其はねるには誠に困却するものなれば、まず糞壺の中の様子を能く見て、若し水沢山ありてはねんと思ふときは、大便の肛門を離れるときに、頻りに尻をふるべし。其訳は、大便と云ふものは真直に落ちるもの故、高くはね上るなり。故に尻をふるときは大便横になり落ちるゆゑ、はねる事なし。尤も尻を横にふるは甚だ六ヶ敷(むつか しき)ものなれば、堅にふるべし。又糞壺の中暗くして見えざるとき、或は夜中などは、水の有無にかゝはらず必ず此法を行ふべし」と。但し、水洗便所普及の今日、むしろ昔懐しい苦心かもしれぬ。ところで、この『公私月報』(昭和五・一〇~一五・三)、この復刻本解説ではじめて知ったのだが、発刊当時の購読者はわずか二五〇人前後だったという。まさかこんどはそんなこともあるまいが、なにぶん漫画ならでは夜も明けぬ御時世、果してどんなものか。   (81・4)  

 令和4(2022)年8月17日。



 Vox populi, vox Dei 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.252~253

tokaidouhizakurige.jpg  二月号「大風吹けば桶屋よろこぶ」の稿で垂教を願ったら、さっそく読者諸兄数氏から啓蒙を賜わった。無跡散人『世間学者気質』(明和五年刊)はともかく、例の『東海道中膝栗毛』二編下、蒲原宿の件りにすら歴然と出ているのを、すっかり失念していたのは慙愧にたえぬ。が、それにしても明和というから、江戸期ほぼ中頃までは確実に淵源できたのだから、厚くお礼を申し上げる。いずれ巷談だろうから、語句には多少の相違がある。 

 さて、こんどはなんとか失敗(しくじ)らぬつもりだが、ここのところ近年、とみに「民の声は神の声」Vox populi, vox Dei なる文句が流行である。近年だけとはいわぬ。東西両朝日紙などは「天声人語」欄のエンエンたる歴史を大いに誇っているはず。ところで、これもその由来縁起だが、このほうは大体定説があり、八世紀のイギリス人神学者、修道院長、そしてまた百科学者でもあったアルクイヌス Alcuinus に発するものとされている。現在ではもっぱら民意強調の意味で使われ、現に反体制市民運動などのスローガンとして愛用されることは周知の通りだが、ただどうも原拠によると、いささか含意はちがうので紹介する。元来は彼がカルロスなる人物に送った訓戒書簡に見える文句で、前後は次のようになっている。「"民の声は神の声"、こんな言葉に耳傾けてはならぬ。民の騒ぎ(ゝゝ)常に狂気に近い(ゝゝゝゝゝゝゝ)からである。」いささかキザだが、微妙な点だから原語もついでに引いておく。Nec audiendi qui solent dicere, Vox populi, vox Dei, quum tumultuositas vulgi semper insaniae proxima sit. というのだ。但し、逆にいえば当時すでに一種の格言化していたこともわかる次第。

 そういえば先年、神の声もときにまちがうとの名言? を吐いた高名政治家もどこかそこいらにいたはず。ヌカ喜びをされると悪いから付言するが、こうした脈絡での使用例はまずアルクイヌスのこの書簡だけ。あとはすべて民意重視の格言であることも、念のために申し添えておく。 

 しかし、それにしても「民衆、あるいは賤民どものガヤガヤ騒ぎ」tumultuositas vulgi とはひどい。また「つねに狂気に最も近い」semper insaniae proxima に至ってはさらにひどい。どうした契機で書かれた書簡か、そこまでは浅学の淮陰子、詳らかにしないが、なにか事情でもあったものか、かなり感情的になっているように見える。 

 が、それはともかく、この文言、こうした格言形式で文献に出るのは、どうやら上記書簡が初出らしいが、同じそうした文意だけなら、はるかに遠くさかのぼれる。ヘシオドスというから、少なくともホメロスと相前後する古代ギリシャ(前八世紀頃?)の大詩人だが、その代表的長詩「労働と日々」"ργα κα μέραιの末尾近く、次のような二行がある。大意訳だけを散文にするが、曰く、「多くの人々が口にする言葉、それは決して亡び去ることはない。なんとなれば、それこそ神の言葉であるからだ」と。やはり民の声は神の声か。   (81・5)

※参考:古代ギリシャ語: ργα κα μέραι、Erga kaí Hēmérai、エルガ・カイ・ヘーメライ)は、ヘーシオドスが紀元前700年頃に書いた828節からなる古代ギリシアの詩。(インターネットによる:黒崎記)

 令和4年(2022)6月12日。



   悪党、最後の隠れ蓑 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.254~255

 一七七五年四月七日夜のことである。当時のイギリス文壇大御所サミュエル・ジョンソン博士は、例のごとくジェムズ・ボズウェルをはじめ、いつもの取巻き連を引具し、さるロンドン酒場で夕食を楽しんでいた。その際、談たまたま愛国心のことにおよんだが、ここで彼は不朽ともいうべき名言を吐いたのである。曰く、「やくざ野郎にかぎって、最後は愛国心に逃げ込む」と。Patriotissm is the last refuge of a scoundrel.

 もちろん、これにつづいて、愛国心必ずしもつねに悪というわけではない、ただ往々にして愛国という衣の下にかくれ、事実は私利私欲をはかる似而非愛国者の徒輩が、いつの世にも、また何処でも跡をたたぬので困るという。あとは至極常識的な論議になったらしいのだが、どうしたサジ加減か、最初のこの一句だけが、引用辞典の類なら、絶対といえるほどまちがいがなく採用される名言になってしまったのである。

 これ以上蛇足の語訳を加える必要はあるまい。だが、ただ先日さるテレビのニュース放映で、恐喝かなにか事件まで起して捕まった暴走族一味の現場映像が出た。見ると、革ジャンパーらしいものの背中に、鮮やかに名名愛国、あるいは憂国の二文字を大きく染め? 出していた。なるほど、以来二百年余りもこの一句が世界的名言として伝えられている消息が、多少はわかるような気がしたのだ。 

 愛国心とは実に興味深い言葉だと思う。そういえば、これも同じ話題に関連して、いま一つぜひ紹介しておきたい有名な語録がある。近年とみに援用される例のアンブローズ・ビアス(英語: Ambrose Gwinnett Bierce, 1842年6月24日 - ?:黒崎記)『悪魔の辞典』の一項、「外交」の条に見える定義である。外交とは「祖国のために嘘をつく愛国的技術」だというのだ。もっとも、これは必ずしもピアスの創作ではない。明らかに先蹤がある。既知の文献に見るかぎり、どうやら初出は十七世紀のイギリス人外交家サ・ヘンリ・ウォトンらしい。「外交使節とは外国に派遣され、祖国のために嘘をつく正直な人間」とある。ある友人のアルバムにふと思いついて書きつけた諧謔の戯言なる旨を、別の知人に宛てた書簡の中で断っている。原文はラテン語で、Vir bonus peregre missus ad mentiendumu Republicae causa, 現代では果してどうなのかよく知らぬが、それにしても愛国心というもの、まことに厄介な代物である。

 かの大トルストイ晩年の政治小論文、感想類にも、この問題はしばしば出る。とりあえず一、二だけを紹介しておく。「心情としての愛国心は、明らかに有害な心情であり、また信条としては愚かな信条である。各国民また各国家が、それぞれ自己をもって最高の国民、最高の国家と考えるとき、明らかにそれは無知かつ有害な幻想の中に安住していることになるからだ」(『愛国心と政治』)。

 「人は己れを利するために多くの悪を行う。さらに多くの悪を家族のために行う。而して最大の悪が愛国心のなにおいて行われており、しかもこれをなす人間が、それら悪行を誇りとしているのだ」(遺著『読書の輪』から。邦訳書名『一日一善』)。   (81・6) 

※アンプローズ・ピアス『悪魔の辞典』については反語逆説辞典あれこれを参考。     

 令和4(2022)年6月19日。



 賢母? 愚母? 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.256~257

 孟母、つまり孟子の母の賢母ぶりが、「三遷」の故事、また「断機」の故事、等々の形で、古来喧伝されていることは、あまりにも有名な話だし、それがまた西漢は劉向の撰する『列女伝』中の一篇に起原することも、おそらく多数読者のご承知ずみと思う。「断機」についてはいま別に言うこともないが、ただ「三遷」が果たして賢母のなに値するかどうか、淮陰子にはいささか疑念がある。

 たしかに「三遷」故事は、『列女伝』巻一「母儀伝」の一章「鄒孟軻之母」の冒頭に出る。本文をそのまま引くと、鄒孟軻之母也。号孟母。其(いえ)。孟子(おさな)カリシトキ也、嬉遊スルニ墓間之事、踴躍築埋。孟母曰、此ズト所以(ゆえん)居処スル。乃ツテ。其嬉遊スルニ賈人衒売之事。孟母又曰、此ザㇽ所以居処スル(また)(うつり)リテ学之傍。其嬉遊スルニ爼豆、揖譲進退。孟母曰、真シト吾子矣。遂。及ンデ孟子長ズㇽニ、学六芸、卒大儒之な」というのだ。。 

 つまり、最初は寺近くに住んだが、幼童孟軻は葬儀関係の真似事ばかりして遊んだ。次いで市場近くに移り住むと、こんどは商売の真似事ばかり。最後に学校近くに転居したら、はじめて祭りの遊びをしたり、行儀作法を見習うようになったので、母もやっと安心したというのである。教育と環境との問題をめぐり、たしかに貴重な教訓には相違ないが、周囲がたとえば軒並みソープランド、ラブホテルとでもいうならしらず、寺と葬儀屋、さては商人というのが、果してそんなに差別さるべき賤業なのであろうか。もしそう孟母が考えていたとすれば、どこか当今流行の教育ママ、どうも環境がようござァませんのでが口癖の、ザァマス・ママにも似ているかに思えるのだ。近所が葬儀屋、商店、いずれも結構、そのまた真似事も大事ないではないか、というのが淮陰子の偏痴気論。あんなお(うち)の子供と遊んじゃいけませんでは、むしろ愚母の骨頂とさえいえるのではないか。

 なお『列女伝』のこの一章には、ほかにも孟軻母子をめぐる故事が二つほど収められている。例の婦人三従説――家にありては父母に従い、嫁しては夫に従い、夫死しては子に従うが礼という、いまならたちまち女権論者たちから柳眉を逆立てられそうな教えも、やはり型通り説かれている。これはたしかに困り物かもしれぬが、のこる一説は仲々に味わい深いから要約して紹介する。

 孟子すでに妻帯してからのことだが、一日私室に入ろうとすると、新婦肌脱ぎ姿でくつろいでいたらしい。孟子はひどく不快な顔を見せてそのまま去ったという。彼女は孟母に言った。これでは妻というより、むしろ寄宿人も同様、どうか離縁にしていただきたいというのだ。だが、孟母は彼を()んで戒めた。これはお前のほうが悪い。夫婦といえども私室に入るときは、今日でいえばさしずめノックをでもしてからにするのが礼。それを忘れ、妻の非礼を責めるのは誤りだといった。孟子もこれには一本参って即座に謝り、妻もまた留まることになったという。佳話ではないか。   (81.7)

参考:「孟母三遷の教え」

 平成29年(2017)6月7日。



  田楽刺し人間――三題 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.258~259

Laurence Sterne.torisutoramu.jpg  十八世紀イギリス文学に『トリストラム・シャンディの生活と意見』と題した、およそ奇天烈きわまる長編小説のあることは、先刻ご存知の向きも多かろう。作者はロレンス・スターン。聖職者の身ながら、こんな奇妙な小説を物すだけに、作者自身相当の破戒僧だったことはたしかだが、そのまた父親ロジャー・スターンというのが、輪をけての風来坊だったらしい。長年軍籍にありながら、ついに貧乏少尉(連隊旗手)以上には出世しなかったというのだから、これも珍品だが、その彼があるとき上官将校と、わずか鵞鳥一羽のことで決闘をやってのけた話がある。だが、てもなく彼は胴体を刺し貫かれ、力余って剣尖(きつさき)は背後の壁にまで達した。が、そのときロジャー少しも騒がず、「おい、君、抜くのはよいが、まず剣尖の壁土はきれいに拭いといてくれ。泥が身体に入っちゃ困るからな」と声をかけたというのだ。  

 どううまく急所を外れたものか、生命には別状なかったというから、目出たい話だが、なんといき(ゝゝ)で洒落れた一言ではないか。ロレンス・スターン晩年の回想記に出る挿話だけに、決闘の事実には相違なかろうが、ただこの一言だけには、あるいは後年についた尾鰭かという疑問の余地もある。それにしてもこの親にしてこの息子、愉快な神話(ミス)であることにはまちがいない。   

 ところで、次は文字通り人間田楽刺しの実話。ことは幕末文久二年四月二十三日の深夜、例の伏見は寺田屋の変にかかはる。この乱闘で薩摩藩の激派志士有馬新七は、三十七年の生涯を断たれるわけだが、その最後について彼の「伝記及び遺稿」は次のように伝えている。最後は討手の同藩士道原某とついに素手での取組みとなり、彼は相手を壁際にまで押しつめた。だが、あとの処置に窮したとでもいうのか、いきなり背後の同志橋口某に対し、「オイ(ゝゝ)ごと刺せ」と連呼したという。結局同志の剣で両者ともに串刺死をとげるわけだが、もともとこの変が不幸な上意討ちだっただけに、朋友同志相討つというか、いかに事情とはいえ、壮烈をこえて酸鼻に近い。笑い事どころではないのだ。

 さて、最後は口直しとでもいうか、他愛のない話を紹介する。中世説話文学の傑作『古今著聞集』(ここんちょもんじゅう:黒崎記)巻十一を読むと、「鳥羽僧正、侍法師の絵を難じ、法師の所説に承伏の事」という一条が出る。鳥羽僧正とはもちろん例の「鳥獣戯画」の画僧。ところが、その寺僧の一人にこれまた画技をよくするものがいた。あるとき武士同士決闘の図を物して僧正に示した。見ると、背中に刺した刀が拳まで突き抜けていた。驚いた僧正は、拳まで通るとはいかになんでも「あるべくもなき事」、こんな嘘を書くようでは、絵描きなどよせと誡めた。が、待ってましたとばかり答えた法師の反論が愉快である。「おそくづ(ゝゝゝゝ)の絵などを御覧も候へ。その物の寸法は分に過ぎて大きに書きて候。……ありのままの寸法にかきて候はば、見所なきものに候。」つまり、絵空事とはこれだというのだ。僧正も理に伏したとある。おそくづ(ゝゝゝゝ)は面倒でも辞書を引いて下さい。   (81・8) 

 令和4(2022)年8月17日。



 忘れえぬ道歌、二首 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.260~261

itupensyounin.edendainikan.dainidan.jpg  和歌というよりは、むしろ道歌と呼ぶべきかもしれぬが、年来淮陰子が愛誦やまぬ三十一文字二首がある。一つは、

  ふればぬれぬるればかはく袖のうへを   

   あめとていとふ人そはかなき   

※参考:この歌、栗田 勇著『一遍上人ー旅の思索者』(新潮社版) P.137 に掲載されている。

 いうまでもなく人も知る『一遍上人絵伝』の巻五第十八段に出る一首。絵伝の編述者、あるいはまた画僧円伊のこと、さては詞書の書風等々、そうした専門知識については、ほとんど無知に近い淮陰子だが、ただこの一首だけは理屈抜きに好きなのだ。

 司書によれば、下野国小野寺での出来事だそうだが、驟雨にあった時衆の一行が、這々の体で板屋の縁先に雨を避けている。半身裸になった法師もいれば、かいがいしく濡れた袈裟衣らしいものをひろげ乾かしている? のは尼僧だろうか。雨雲に包まれた暗い森、激しい雨脚、傘をかざして慌てふためく時衆たちの姿等々、あたりの閑かな景観までを広々と描きこんで、実に見事な出来栄えである。 

 それにしても「降れば濡れ濡るれば乾く袖の上」とあるのが実にうれしいのだ。近ごろ雑踏の中でポッリとでも来ようものなら、忽ち傘の花々が開く。おかげで危く目玉まで突かれそうになるたびに、決って思い出すのがこの一首。降れば濡れ濡るれば乾く。およそこれこそが自然というもの。なぜああ慌てなければならぬのか。一遍ならずとも、「人ぞはかなき」くらいは言いたくなるのだ。

 そしていま一首だが、

  茶ノ湯ㇳハ只湯ヲワカシ茶ヲ立テ 

   ノムバカリナル(モト)ヲ知ルベシ

 但し、淮陰子はかつてたまたま『南方録』「滅後」の巻を読んだ際、深い感銘を受け心にとめているだけであり、茶道の手前などいささかも心得ぬ無風流のこととて、この道歌がどう茶道の極意につながるものか、そんな難しい道理はとんとんとわからぬ。だが、この読んで字の如しが実に有難いのだ。 

 そういえば、むかしこんなことがあった。もう半世紀以上も前、昭和一ケタ頃だが、上高地から平湯へとひとりで下ったことがある。と、途中、白樺林の路傍でこれも単独登山の人物が休んでいた。見れば薄茶を点てて飲んでいるのだ。今のような観光客など、もちろん皆無のころ。声をかけられ一緒に休んだが、彼のほうは逆に上高地へと上るのだという。そして淮陰子も一ぷくお相伴ににあずかったわけだが、道具といえば茶碗と茶杓と茶筅とだけ。なんのことはない無造作至極、コッヘルで沸かした湯で点てた薄茶のご馳走に与ったのだ。終るとまた一切をフクサようの布に包み、そのままリュックサックにおさめると、やがて手をあげ勢いよく逆方向に別れて行った。話の間に彼がスキー競技草分けの名選手某氏であることもわかったが、なんという床しい人物かなと、印象は今もって忘れ難い。この十数分間こそはわたしたち二人にとっり、「只湯ヲワカシ茶ヲ立テ飲ムバカリナル」文字通りの一期一会だったというわけだ。茶道とは何か。いまもってよくわからぬ。   (81・9)

 令和4年(2022)5月26日。



  フランス・ルネッサンスのばれ(ゝゝ) 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.262~263

 フランス語で lieue, 英語で league, スペイン語でならば leagua, イタリア語でならば lega と、それぞれ呼ばれるやや古風な距離単位がある。古い航海記や旅行記などを読むと、しきりに出る単位だが、実はその正確な距離というのが不確定なのである。一応今日の辞典類によると、ほぼ四キロくらいということで一致しているが、厳密なところは決定しかねる。むしろ時と所により一定しないというのが定説らしいのだ。  

 ところで、この事実をまさに逆手にとり、実に愉快きわまる諷刺挿話に仕立て上げた一節が、ご存知フランソア・ラブㇾエ『パンタグリュエル物語』の第二書第二三章に出る。   

 幸い渡辺一夫氏による決定訳もあるが、ここでは必要部分の要旨だけを抄することにする。話はパンタグリュエルが旅に出たところ、フランスの里程基準が他国に比してひどく短い事実に気づき、その由来理由をパニュルジュに訊ねることではじまるのだが、以下がそのパニュルジュの答である。曰く、

 「昔は国々の広さを測りますのに、仏里程(リユー)ローマ里程(ミリエール)ギリシア里程(スタード)ペルシア里程(パラサンジユ)を用いませんでした。やっとファラモン王の御代にいたり、国々に測量が行われましたが、つまり、こんな風にしてございます。まず王はパリの町から若くして元気な若者どもを百人と、他方ピカルディ地方から美しい娘たち百人とをお召出しになり、(中略)銘々の若者に一名ずつ娘を下さった上、こうご命令になりました。つまり、一同はそれぞれ東西南北へと旅立つわけだが、道々相手の娘と騎馬遊びを行ったあとは、必ず、その場所に石を一つ置かねばならぬ。それを一里の標識と定めるから」と。 

 「一同は大喜びで出発しましたが、なにしろピンピン致しております上に、何もすることもございませんので、ちょっとでも野原に来ると、たちまちふざけ合う始末。というわけで、フランスの里程基準はおそろしく短く相成りました次第。もっとも、一同長い旅路の果てに相成りますと、もはや哀れな悪魔のごとく疲れ切り、お灯明皿の油も尽き果てましたものか、そうしげしげと騎馬遊びも致さず、せいぜい一日に一回、モソモソポソポソと致すだけで、すっかりご満腹という有様に立ち到りました。この結果、ブルターニュ、ランド、ドイツそのほかもっと遠い国々での里程基準は、あんなにも長くなっておるのでございます。他にも異説を主張される御仁はございますが、只今申し上げました理由こそ、拙者にはもっとも確かな理由のように思えるのでございますが」と。       

 パンタグリュエルも大いに満足してなつ得したというのだが、いまさら改めて騎馬遊び(原文はいくつかの好色語彙で書き分けられている)の注釈でもあるまい。  

 要するに一脈、わがかのバレ句に通じるものもあるように思える。但し、川柳子ならば、おそらくただの十七文字で同じ趣を表現したかもしれぬ。たとえば、かの『誹風未摘花』に出る「背に腹をかえてよし町客をとり」の類である。   (81・10)

 令和4(2022)年8月18日。



   政治家とユーモア 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.264~265

 由来わが国の政治家諸君に、ユーモアとウィットのきわめて乏しいのは、むしろ珍品とさえいえよう。国会での質疑応答を見せるテレビ中継を一見するだけで十分である。なんとあの騒々しいこと、そして空しいこと!

 ところが、そうしたユーモア・センスは、案外な国の政治家に見事に示されることがあるから面白い。たしかに今年の三月頃だったろうか、タンザニアの大統領ニエレレ氏の来日があった。その折の記者会見で、彼は実にしゃれた話を披露したらしい。曰く、二頭の巨象に喧嘩されると、もっとも被害を受けるのは下草だ、との諺がアフリカにあるが、それをいうと、たちまちある友人から反論された。いや、必ずしもそうとばかりは限らぬ。逆に二頭が熱々の恋仲になり、甘い蜜語をささやき交すときも、これまた最初に踏んづけられるのはやはり同じ下草ではないのか、と。だが、それでもやはりわたしたちは、二頭が仲よくしてくれることを切に望むと述べて、ニヤリと皮肉っぽく笑ったというのだ。 

 一部のマスコミに報道されたのを紹介するのだが、実に気がきいていて巧い。二頭の巨象が某々超大国であることは、言わずしてわかるからだ。果してわが国の大臣諸公にこれだけのユーモア・センスがあるか。怪しいものである。

 近年のわが政治家諸君についていえば、その点で出色はやはり故ワンマン首相吉田茂くらいのものか。それだけに、カメラマンにコップの水をぶっかけたり、バカヤロ解散をやってのけたり、癇癪ゆえとはいえ、いささか大人気ない珍言動もないではないが、気転のユーモアには案外傑作が多く、いくつか忘れ難い語録をのこしている。いつまでもお若いが、秘訣は何かと訊かれて、いや、毎日人を食っているからねと答えたり、またわが党の某を評して、たえず刑務所の壁の上を綱渡りしながら、必ず決って外側へ落っこちるから感心だなどと、日本の政治屋さんにしては出来すぎである。以下は彼の『回想十年』第四巻に出るこぼれ話から一つを紹介する。

 戦争の末期、彼が平和工作容疑で憲兵隊にあげられる直前のことらしい。大磯にあった彼の家に、女中の従兄弟ということで住み込んだ男がいたという。忠実によく働く男で調法がっていたが、なんとこれが憲兵隊のスパイであり、逐一監視報告していたのだ。連行の直前、女中とともに突然姿を消したとある。  

 だが、愉快なのは戦後である。ある日この男がひょこり訪ねて来て、一切を告白謝罪したまではよいが、そのあと就職の世話まで頼んできたという。そのときの吉田の推薦書が実に愉快であり、この人物、勤務ぶりはまことに良好なりきと太鼓判を押してやったとというのだ。さすがにユーモア・センスとしては上乗。だが、ただこの人、しばしば得意気にみずから吹聴するのだけがまことに惜しい。

〔追記〕この女中現在も存命と見え、去る十六日夜のNHKテレビ「陸軍中野学校」に登場してこの通り証言していたから驚いた。   (81・11)

※参考:バカヤロウ解散については、戸川猪佐武著『小説吉田学校』(流動):失言の波紋――バカヤロウー解散――P263。(黒崎記)

 令和4(2022)年6月25日。



  こまどり(コック・ロビン)殺したん誰ァれだ! 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.266~267

tuji.haikyousya.jpg  西暦四世紀も半ばすぎだが、ユリアヌスと呼ぶローマ帝国正帝がいた。最初のキリスト教帝コンスタンティㇴス一世の甥だったにもかかわらず、異教再興を志したために「背教者(アポスタータ)」なる異名までのこり、古来多数の作家たちの創作欲を刺激してきている。現にわが国でも先年辻邦生氏による大作『背教者ユリアヌス』があるほどだから、一応ご承知の読者も多かろうと思う。  

 ところで、そのユリアヌス帝の最後だが、これは三六三年六月、ペルシア戦遠征行への出陣中、現イラクのティグリス河岸、敵ササン朝ペルシアの首都クテㇱフォンを目前にしながら、はからずも乱軍の中で一ペルシア兵の投槍に傷つき、これが因で陣没したというのがほぼ定説になっており、辻氏もこれに従っている。享年わずか三十一、本格的治世に到っては一年有半にも充たなかった。   

 この閑談、ユリアヌス伝ではないので、他事はすべて省略するが、ただこの死因となった投槍の主についてだけは、その後まもなくから実に奇怪な流説が乱れ飛んでいたらしいのだ。キリスト教徒側がこれを天譴視し、天使あるいは悪魔の仕業と付会したのは、感情的反応と見れば別に不思議ではないが、これがより具体的に、ローマ軍内のキリスト教信徒兵が帝の異教政策に反撥し、意識的に狙ったとなると話はまた別、一応否定しかねる筋もなくはない。  

 さらにいま一つ、これはきわめて手の込んだ主張もある。それによると、サラセン人の一部族にタイエノスと呼ぶのがあり、この一人が部族長の命によりやってのけたのだとするのだ。もともとこれらのサラセン人たち、特にローマ軍の味方でもなければ、ペルシア軍のそれでもない。よくある奴だが、戦争ともなれば戦場の周辺に出没し、ただ劫掠の余得にありつくだけが目的という遊牧民だったらしいのだ。たまたまローマ軍内の不満分子、つまりキリスト教徒幹部の何者かがこれを買収し、あえて事実上の暗殺を行わせたというのである。もちろん定説としては斥けられている。が、現にユリアヌス帝の師友だったアンティオキア市の修辞学者リバニウスなどは、その演説の一つではっきりこの伝聞を述べているし、また教会史の著者ソゾメヌスもほぼこれに近い見解をのこしている。

 由来英傑の死というのには、とにかくこの種の疑惑のまつわるケースが多い。余白もつきたので詳述は省くが、かの将軍源頼朝の最後などもその典型例といえようか。これまた建久九年十二月、相模川橋供養の帰途落馬して傷つき、それが原因になって、翌正治元年正月十三日には没したたというのが通説だが、ここでも奇妙な流説の一部は『大日本史』までが採録しているのだ。曰く、帰途安徳天皇以下義経、行家等々の亡霊に会い、それが原因で病死したとする説、あるいは曰く、安達盛長による刺殺説等々、荒誕さまざま、面白いといえば実に面白い。しかも皮肉なことに、理由は知らぬが、かの第一級史料たる『吾妻鏡』、肝心のこの部分は完全に欠落しているというのも、不思議である。最近はある高名学者の自殺説まで流れた。これがなければ大物とはいえぬのかもしれぬ。噫!   (81・12)  

※参考:永原慶次二著『源 頼 朝』(岩波新書)P.92 、建久十年(正治元、一一九九)正月十三日、頼朝はにわかに病を得て世を去った。年五十三歳であった。直接の死因は、前年の十二月二十七日、稲毛重成(いなげしげなり)が亡妻の冥福を祈ってつくった相模川の橋供養に望み、帰路落馬したことにあるという。死因は断定できず、当時、公家社会でも、「飲水の重病」によるとか、所労のためとか、種々とり沙汰された。と。またP.191に、『吾妻鏡』は建久七年から頼朝の死の時までが欠けていると、記載されている。(黒崎記)  令和4(2022)年8月18日。



   "歴史はでたらめ bunk" 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.268~267

 とかく近頃は驚かせる話が多い。

 「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず」にはじまり、以下「怒りは敵とおもへ。(中略)及ばざるは過ぎたるよりはまされり」の一句で終る一文は、言わずと知れた「家康遺訓」として天下周知の名文章? 各地の東照宮には神君自筆の遺墨と称するものも伝えられているそうだし、それよりも高校教科書にまで採られているはず。 

 ところが、つい先日ある月刊誌(『歴史読本』新年号)を漫読していたら、これがなんと完全な偽書偽筆だとある。しかもその偽筆作者まで明示されているのだから驚いた。旧幕臣で池田松之助なる人物が、明治も初年になってからこの偽文書製作を行ったというのだ。もっとも、それには種本もあり、水戸光圀公の随筆集『天保会記』に収められた一文「人のいましめ」もとづいて改作したものだとある。もちろん『天保会記』など門外漢の淮陰子は当然未見。なんとも軍配のあげよもないが、ただこの一文の筆者がな古屋は徳川美術館の館長長徳川義宜氏とあるだけに(しかも論証は相当に詳細をきわめているのだ)、ゆはり一応首肯しておくよりほかあるまい。いずれ系図作りなど古来日常茶飯事だったのだから、あるいはこんなことも事実ありえたのかもしれぬ。そういえばこの一文には、例のこれも神君御親筆で通っている「六萬御念仏」も同一人の偽筆らしいとある。いったい何を信ずればよいのか。  

 ところで、この一件でおどろいていた矢先、また驚くべき学会報告が現れた。昨年十一月二十六日付朝日紙夕刊の学芸記事である。「延暦寺焼き打ちの真相」と題し、例のあまりにも有名な元亀二年九月、織田信長による「叡山御退治」の際、なんと山上にあった堂塔は想像以上に少なく、僧衆もまた多くは山を離れて坂本を生活の場としていたらしいというのだ。近年の発掘調査で分明したとうのだが、これまた筆者が直接その事に当った一人、滋賀県文化保護課の技師という署名入りだから、そう簡単に疑ってかかることも不可能であろう。

nihontaizaiki.jpg  だが、ただそうなると、従来史家たちから根拠とされた大田牛一『信長公記』の次の名文? これはいったいどうなるのだ。曰く、

九月十二日、叡山を取り詰め、根本中堂、三王廿一社を初め奉り、霊仏、霊社、僧坊、経巻、一字も残さず、一時に雲霞(うんか)の如く焼き払ひ、灰燼の地となすこそ哀れなれ。(中略)僧俗、児童、智者、上人、一々頸をきり、信長公の御目に懸け、是れは山頭に於いて其の隠れなき高僧、貴僧、有智の僧と申し、其のほか美女、小童、其の(かず)を知らず召捕り召し()れ御前へ参り、悪僧の儀は是非に及ばず、是れは御扶けなされ候へと、声々に申上候と雖も、中々御許容なく、一々に頸を打ち落され、目も当てられぬ有様なり。数千の(しかばね)算を乱し、哀れなる仕合せなり。
 やはり牛一のも伝聞だったのか、舞文(ぶぶん:黒崎記)だったのか。さすがに自動車王ヘンリー・フォードは巧いことを言った、「歴史はでたらめ bunkなり」と。    (82・1)

 令和4(2022)年7月04日。



 外交使節とフィロソフィー 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.270~271

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 見物人の数がふえてきた。みんな肉づきよく、身なりもよいし、幸福そうである。一見したところ富者も貧者もない――これがおそらく人民の本当の幸福の姿というものであろう。わたしはときとして日本を開国させ、外国の影響をうけるようにさせることが、果してこの人たちの全般的幸福を増進させることになるのかどうか、疑わしくなることがある。わたしは質素と正直との黄金時代を、他のどこの国においてよりも、はるかに多くこの日本に見出すのだ。生命と財産の安全、最大多数者の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるかに思える。
 含蓄深いこの一節を書きのこしているのは、人も知るわが開国時の初代アメリカ総領事(後には公使)タウセンド・ハリスであり、その滞日日記の一八五七年十一月二十八日の条下に出る。当時の旧暦でいえば安政四年十月十二日。彼は来日以来一年五ヵ月にしてやっと江戸入りを許され、将軍家定にも謁見、さらに閣僚堀田正睦以下に対し世界の大勢を説き、開国の緊急務なる旨を力説すること二時間以上におよんだという。文字通りわが国運命の最大転換時だったわけだが、上記の引用はその江戸入り途次での感慨の一端として出るのだ。      

 この日の日程は藤沢=川崎だったが、以上の道中所見は川崎宿に近い午後のものと思える。読んで字のごとし、注釈の必要などさらにないが、ただ「わたしはときとして日本を開国させ、外国の影響をうけるようにさせることが、果してこの人たちの全般的幸福を増進させることになるのかどうか、疑わしくなる」云々という一節は特筆して紹介しておきたい思いがするのだ。

 改めていうまでもあるまいが、ハリスはわが国に対し開国通商を迫るべく重大使命を帯びて来ている人物であり、また見事それに成功した立役者でもあった。が、その彼が沿道のわが庶民たちを蛮夷視するどころか、やがて導入を予想される西欧文明の影響に関し、深い懐疑をさえ告白している一事である。(最初から彼はわが役人どもの虚言癖には極度の反感を吐露しているが、逆に平和な住民たちには過褒に近いまでの好感を随所に述べている。) 

 矛盾といえば矛盾かもしれぬが、淮陰子は彼を専門の哲学者でこそなけれ、立派にある哲学(フィロソフィー)をもった外交官だったったと確信する。過般の大戦中など、日本をずいぶんとその占領地に司政長官だの司政官だのと呼ぶお偉方を送りこんだものだが、果してこんな哲学をもった長官どのが一人でもいたろうか。  

 わずか数行の記事だが、淮陰子は日記文学の白眉だとさえ信じている。開国か攘夷か、今にして考えれば滑稽とさえいえる国論分裂の危機に当り、ハリスのごとき生涯その清教徒的信仰を貫き通した有能誠実な外交使節を迎えたことは、案外忘れられがちかもしれぬが、大きな幸運だったはずである。なお現地下田からは必ず抗議があるはずだと思うが、かのお吉物語などに一役を買わせるのだけは、まことにお気の毒である。   (82・2) 

※参考:棺を蓋いて事定まるか

 令和4年(2022)5月26日。



 伝記と真実
――その黒点(一)――
 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.272~273

 すべて故人の伝記をめぐっての問題だが、果して真実か虚伝か、なんとも断定に苦しむ謎の黒点の指摘される事例が決して珍しくない。 

 あまりにも有名なのは例の天保八(一八三七)年、大坂天満の兵乱を起して敗れた元与力、むしろ陽明学者としてこそ高名だった中斎大塩平八郎をめぐってのそれであろうか。このスキャンダルは乱の直後からすでに流布されていたばかりか、彼に対する裁許書、つまり判決文の冒頭にまで麗々しくかかげられているのだ。内容はおそらく周知のことと思うが、彼がその養子格之助と(めあわ)すべく迎え入れていたみね((ゝゝ))なる娘とひそかに情を通じ、弓太郎となづけた一子まで儲けていたというのである。もし、事実ならば、たしかに不倫きわまる奇怪事であり、相手が義人大塩だけに、当然ショッキングというべきであろう。

 ところが、この怪説、火元はどうやら明瞭らしいのだ。もともと大塩の門弟、しかも大塩党の一人でさえあった吉見某なる人物が、決起直前になってにわかに寝返り、その密訴状の一節にほとんどこのままの文言が見えるからである。だとすると、これは相当の眉唾物。そこは裏切りの者の常套心理として、ことさら大塩を不倫の悪人に仕立て上げ、逆に自家の忠勤ぶりを手柄立てにした可能性も十分考えられる。つまり、割引の要大いにありということか。 

 そのせいか、故幸田成友博士などは、その好著『大塩平八郎』で早くからこれを一片のデマとして斥けておられる。いや、後世をまつまでもない。現に乱の当日、討手側にまわり若干の殊勲さえあげた玉造口与力に坂本鉉之介と呼ぶ人物があり、その彼からの聞書きといわれる『咬菜秘話』なる一本が、長く写本の形でのこされていたのだが、その彼もまたこの中で怪説にほとんど断定に近い否定的見解を述べている。格之助は最後まで養父と行動をともにし、凄惨きわまる最期をとげているのだが、もし怪説のごとき事実があったとすれば、どうしてかかる運命を終始ともにできたろうかというのが、その論拠のようである。(幸田博士のそれもほぼ同じといってよい。) 

※参考:スキャンダルの記述は幸田成友博士の好著『大塩平八郎』P.174~176。(黒崎記)

 だが、ただ厄介なのは次の問題であり、では絶対にありえなかったかと言われれば、なにぶん事は人間下半身の問題、神明にかけての否定までは、おそらく何人にも不可能なのではなかろうか。さればこそ世上作家と呼ばれる人たちには、やはりこの黒点、割愛しかねる魅力があるらしい。とりあえず一例だけをいえば、故青山青果の傑作史劇に〔大塩平八郎〕一篇がある。もはや詳説の暇はないが、明らかにこの伝承が太い経糸(たていと)となり、それに絡めて主人公の深刻な人間的苦悩が見事に描出されている。さらに上記『咬菜秘話』だが、これすら眼光紙背? で読めば、逆にむしろこの伝承の真実性をこそ裏書するはずだ、と書いている作家もいた。なるほど、人間性追求を旨とする作家ならばと、わからぬでもないが、門前の小僧にも到らぬ淮陰生などには、やはり? そして? である。   (82・3)

令和4年(2022)5月29日。



 伝記と真実
――その黒点(二)――
 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.274~275

 ことは美濃大垣の閨秀詩人、江馬細香(えま さいこう)女史(1,787~1,861年)の身上にかかわる。 

 彼女が高名な美濃蘭学の祖、江馬蘭斎の娘であること、同じくまた頼山陽(1,781~1,832年)の女弟子の一人として、師の病没にいたるまで二十年近くも、なんとも不思議な交情のつづいたことは、周知の話題である。その間両者の詠詩や書信には、たしかに「恐ラク外人ノ疑ヒヲ来サン」と記した師山陽の標語も、あながち無理からずと思えるほど柔婉な艶情がしばしば見える。とりわけ天保元年閏三月、結局は永訣になる有名な琵琶湖畔、辛崎松下での別れの場面のごとき、宛として新派劇の一場をさえ思わせるものがある。 

 さて、そこで交情自体にについては特に言うこともないが、ただ問題はそれがある一線をこえていたかどうかという点に関して、年来なかなかに厄介な見解の対立があり、ある論者は終生ついにプラトニックに終始したというものもいれば、逆にまた私生子まで儲けたが、幸いにして流産で終わり事なきをえたとするものもいる。別に淮陰子、こういう問題をめぐっての覗き見(ピーピング・トム)(Peeping Tom:黒崎記)的猟奇趣味まではあいにく持ち合わせないので、詳しいことはよくわからぬが、ただ細香女史の純潔を否定する見解が、特に大正初年頃から出だしているというのが興味深い。まさかいわゆる大正デモクラシーの影響でもあるまいが、あるいは山陽の生前から明治にかけてのその盛名に対する反動が、こうした見解を続出させたのではあるまいか。しかもどうやらその原因は細香の側よりも、むしろ山陽自身の不徳、つまり女性をめぐっての彼の行状に発してるように思えるのだ。現に細香の父蘭斎は、早く山陽からの求婚申し入れを断ったという伝承もあり、どうやらこれも山陽前半生の不行跡がその理由だったらしい。  

 あまり紹介はされないが、故三田村鳶魚(みたむら えんぎょ)翁の山陽批判のごときはもっとも手厳しい。「山陽の野郎、癪に触って仕様がない。江馬細香という美濃の医者の娘にくっついてね、情婦(いろ)にはよいが女房には厭だ。そういって逃げ出した。処女を台無しにして了った。女弟子に手をつけるなんて実に残酷だ。非度い奴だ」云々と(雑誌『伝記』昭和十年新年号座談会)。

 もちろんこれには暴言にも近い面も確かにあるが、さて真如如何となると、とうてい淮陰子などは白とも黒とも団扇を上げかねる。いかに濃情の詠詩や書信が双方にあるからといって直ちにそれが肉体的関係を示す証拠とは限らないし、むしろそれらは長年にわたり充たされなかった情念の吐け口だったとも考えられなくはない。充たされれば、もっと別の表白になっていたかもしれないのだ。 

 それにしても男女間機微の消息については、ついに不可解、不明としかあるまい。淮陰子としても、とうてい両者の肉体的関係説を支持するだけの資料は何一つとしてもたぬし、さりとてまた両者プラトニック説の証人を引き受け、法廷に立つほどの勇気もさらさらない。要するに才子佳人両者の間に伝承された奇妙な挿話として、まずは判断の保留というのが賢明なところだろうか。だから評伝はむつかしい。   (82・4)

 令和4年(2022)5月30日。



   再説・大魚は小魚を食う 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.276~277

 数年前になるがこの「一月一話」欄で「大魚は小魚を食う」と題する一文を書いた。生物のもつ自然権として、スピノザの『神学政治論』にこの古諺めいた一句の出るのに関連して、まさに同趣旨の言がシェクスピア『ヘンリ四世』第二部に出るフォールスタフのセリフや、そのほか当時のイギリス文学に散見することに触れたのだ。ところが、これが淮陰子の無知無識、原拠は歴としたネーデルランドの古諺らしく、例の原色画家ピーテル・ブリューゲㇽなど、これを主題にした作品を二点まで(一つは油彩画、いま一つはビュラン版画)描いているのを遅ればせながら知った。下司(げす)の後知恵めくが、とりあえず補足の意味で紹介する。

 油彩画は「ネーデルランドの諺」と題された代表作の一つ。117×163cmの画面に、なんと八十の諺を独特の鳥瞰図的構図で諷刺的に描き分けたもので、問題の「大魚云々」は右半分のほぼ中ほどに出る。その周辺がまた実に愉快なのだが、ここではむしろこの諺をズバリ痛烈をきわめた諷刺寓意にまとめた版画のほうをかかげる。

 この作の諷刺については、いろいろと難しい解釈もあるらしい。当時スペインの絶対権力下に置かれていたフランドルの情勢からこれを政治風刺と見る考え方もあるようだが、やはり真意は記入された銘文からも、より一般的に貧者に対する富者の横暴、飽くないその貪欲心を槍玉にあげたと解するのが妥当ではあるまいか。過食ゆえに斃死した山のような怪魚。口からも腹からも夥しい小魚がそのまま吐き出されている。諺の逆説的諷刺として蓋し圧巻の傑作というべきか。さて、諺の由来はほぼこれで分明したが、叙上の作品、いずれも一五五〇年代の作のようだから、シェクスピアの出生直前と見てよい。むしろ後者が前者からヒントを得たのだろうことはほぼまちがいない。さらにエラスムスの『格言集』にまで遡れば、なにか新知識がえられるのかもしれぬが、いまその余裕はない。

 なお、たまたま中野孝次氏の名エッセイ『ブリューゲルへの旅』を読んだら、この語がなんと早くも聖アウグスティヌスの『独語録』(Solilaquiaであろう)に出ているとのことだった。もし真実ならば、一躍四世紀にまで遡れるだけに、大いに快としたのだが、どうもこれは疑問。Solilaquia には戦中戦後と二種の邦訳もあり、かのマウルス会修道士の編集になる全集第一巻も、一応は披見したが、残念ながら見つからなかった。淮陰子の粗漏か、それとも中野氏の思いちがいか、垂教をまつ。「ネデルランドの諺」の割愛は残念だがやむをえぬ。但し、彼の画集は今日簡単に入手できるはず。ぜひ一見してほしい。とりわけこの古諺のすぐ上に出る関東「つれ糞」の図だけは絶対に見落としなきよう。   (82・5)

※関連:大魚は小魚を食う P178

※参考:中野孝次著『ブリューゲルへの旅』(河出文庫)P.115。 もしかするとブリューゲルはアウグスティヌス『独語録』のあの言葉を知っていたのでろうか、とわたしは思った。「大魚が小魚を呑みこんでいる大きな海洋にすぎないようなこの世界を愛する者は、にがいものいとわしいものを愛する者である。」そして、完璧なもの、完全なものを愛するのはやさしい、一番困難なのはこの「にがいものといとわしいもの」の現実をそのまま受入れることだ、と彼はひそかに反論していたのであろうか、と。記載されている。(黒崎記)

 令和4(2022)年7月01日。



 欲に限りなし――沖縄復帰十年 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.278~279

 いわゆる復帰十年――この五月はある意味での沖縄の月でもあったから、本欄でもその関係のこぼれ話を取り上げてみる。  

huziiharuo.zieitaihakanarazumakeru.jpg  数年前(より正確にいえば一九七七年一月)、自衛隊の戦史研究家という青山昌嗣二等陸佐なる人物が『幹部学校記事』(隊内誌であろう)に寄せた一文に、以下のような珍品ともいうべき一節があるそうだ。そうだと書いたのは、淮陰子、現物を読んだわけでなく、軍事評論家藤井治夫氏の著『自衛隊はかならず敗ける』(三一書房)と題した衝撃的な一書からの孫引きにすぎないからである。

 が、それはともかく、まず問題の一節をそのまま紹介してみよう。「我が国においては、明治一〇年の西南戦争を最後に国内における戦争は絶えてなく(ゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝ)、爾来昭和二〇年八月第二次世界大戦終了までの約七〇年間」、日本軍はもっぱら大陸、あるいは西太平洋地域などで戦っただけだとあるのだ。傍点の二行、まことにこれは愉快である。あの戦闘員、非戦闘員、どう控え目に計算しても、優に二〇万をこえる犠牲を出したはずの沖縄戦は、どこへ消し飛んでしまったのか。すでに沖縄は「我が国」ではなかったのか。これで戦史研究家とは恐れ入る。とりわけ沖縄県民の諸君に知っておいてもらいたいのは、現在自衛隊の一部では(まさか全員でもあるまいが)、沖縄はすでに日本国土から完全に外されてしまったらしい一事である。 

 さて、次はあまりにも周知の事実だから、一々典拠をあげることは省略するが、ことはペリー提督来航問題に関わる。主たる目的が日本への開国強要にあったことはいうまでもないが、その間彼の艦隊は、一八五三(嘉永六)年五月から翌五四(安政元)年七月まで、わずか一年余りに五回も那覇に寄港している。直接領土拡大のためでこそなかったが、通商ルートの要衝として、彼は琉球確保の必要を終始考えていた。そしてここでも彼は例の武力誇示による威嚇、なんならその軍事占領をまで、しきりに本国政府に上申しているのだ。ただ幸か不幸か、本国政府は彼の出発後ピアス大統領の民主党のそれに更迭していた。ために大統領以下国務省筋も海軍側もこうした強硬手段には同意をあたえず、宣戦の権は一に議会にあり、自衛のため以外の兵力使用には特に慎重なるべき旨の訓令を伝えてきた。そのこともあり、また主たる目的だった日本の開国も一応の成果は得たので、彼は米琉修好条約を結ぶだけで沖縄を去り、結局占領は免れたが、おそらく沖縄群島の要め石(キーストーン)的価値は、一貫して彼の念頭にあったものと思える。  

 それで思うのだが、今日沖縄の置かれている米軍基地下の現状は、あるいはペリー以来の宿願達成ということかもしれぬ。超特大国の対立、そしてその緊迫の中にあって、沖縄基地の確保ほど攻防ともに強力かつ優位的な不沈艦的基地が、またとほかにあるであろうか。基地の中に沖縄ありとの評言も、決して単なる形容ではない。それでもなお日本の「タダ乗り」とやられ、しばしばおっしゃる。欲には限りなしということか。   (82・6) 

※参考:沖縄県は令和4年5月15日に本土復帰50周年を迎えた。
 沖縄の本土復帰50周年という歴史的節目の年を記念するとともに、沖縄の一層の発展を祈念し、これまでの沖縄の発展のあゆみや将来の可能性を発信する機会として、国と県の共催により、沖縄復帰50周年記念式典を開催した。(黒崎記)

※関連章(一):外交使節とフィロソフィー P.230
※関連章(二):厳たる史実をも抹殺し去る 最も良心的、かつ巧妙な方法について P.332

 令和4年(2022)6月04日。



 「共和政治」――訳語考 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.280~281

konyozusiki.jpg  ご存知『大言海』の「共和政治」を引くと、辞書としてはむしろ珍しい注記がある。そのまま引用すると、〔弘化二年、箕作省吾、蘭書ヲ訳シテ、坤輿図識ヲ作ㇽ。其四巻ノ上ニ、北米合衆国ヲ共和政治州ㇳシタリ。是ㇾハ、大槻磐渓ガ、支那周ノ厲王ノ世ニ、王、外ニアリテ、公卿数人相共ニ和協シテ、天下ノ事ヲ摂行スルコト十六(ママ)年、コㇾヲ共和ㇳ云フ、ㇳ云フヲ取リテ、充テシメタルナリ〕というのだ。 

 いうまでもなく磐渓は、『大言海』の著者大槻文彦の実父だが、どうやらこの注記、事実談にもとづくものらしい。というのは、大槻如電(じょでん)(仙台藩士大槻磐渓の長男。大槻文彦は弟:黒崎記) 口授、同文彦補言ということで、明治四十一年に成った「磐渓事略」と題する非売の小冊子があるが、その中にもこの挿話がそのまま出ているからである。

 上記引用文の作者箕作省吾(号は玉海)とは元奥州水沢の下級藩士佐々木省吾だが、のちに師たる蘭学者箕作阮甫の養嗣子となり、これも高名な箕作麟祥の父となった人物。さて、そこで「磐渓事略」によると、箕作省吾は注記にもある通り『坤輿図識』という三冊の訳業を終えた。簡単な世界地誌の入門書である。したがって、当然北米合衆国の記事も出る。だが、ここに到って残念ながら机上の洋学、 republiek の訳語に窮したのだ。(republiekは、オランダ語:黒崎記)。弘化といえば、共和政の実体すらが暗夜の手探りだったのは当然であり、訳語どころの騒ぎでない。そこで省吾はかねて尊敬する長老漢学者の磐渓に助けを求めたらしい。と、磐渓はちょっと考えたあと、さっそく『史記』周本紀巻四に出る「周厲王、出奔干(てい)。周公召公、二相行政十四年、号曰共和」とある一句を引いて、共和政治との訳語をすすめた。省吾もさっそくこれを採用、かくしてこれが訳語「共和」のはじまりだとある。『史記』からの引用文には多少の誤りもあり、また近年はこの「共和」なる語の意味についても異説があるようだが、それはともかく、ここではただ上述挿話だけを披露するにとどめる。

hirota.kindaiyakugokou.jpg   ところで幕末期以来、訳語成立の過程にはしばしば思わぬ経緯が絡んでいて興味深い事例が多い。さればこそ十年余り前に広田栄太郎氏の『近代訳語考』(東京堂刊)があり、近くは柳父章氏の『翻訳語成立事情』(岩波新書)などの好著がある。淮陰子はおよそ専門外の素人だが、上記どちらにも「共和」の由来は見当たらぬようなので、門外漢のお節介かもしれぬが、とりあえず紹介ささぜてもらった。真偽のほどは先学の示教をまつ。

honyakugoseirituzizyou.jpg  但し、この場合も果して磐渓、どこまで共和政治の実態を理解しての訳語だったか、それには多少の疑問ものこるし、昭和七年刊、文彦畢生の大著である『大言海』すらが、その定義は「帝王無ク、数人ノ集合体ニテ一国ヲ統治スル政治」とあるだけ。これで共和政の定義とはやや奇妙である。もちろん republic の由来が respublica. つまり一般的に国家、共同体というほどの意味にしかすぎなかった古原義の理解までを、磐渓をはじめ当年の蘭学者に求めるのは、ないものねだりに決まっているが。   (82・7) 

 令和4年(2022)6月11日。



   囚人寄って獄則をつくる 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.282~283

 周知の通り一九四六(昭和二十一)年二月十三日は、現行日本国憲法の大枠組になるいわゆるGHQ案なるものがわが政府当局に対し提示された日だった。その草案の第四章「国会」に関する第四一条には、はっきり「国会は選挙された議員による一院から成り」云々との一節があった。

 ところで、わが政府私案への思わぬ拒否に狼狽した日本側は、その後ある程度の抵抗は試みるが、所詮は効なく、九日後の二十二日には早くも司令部案に沿う改正案作成のことが閣議決定、あとは部分的修正を司令部に要請する段階に移るのだが、そこでこの一院制国会から二院制国会への変更というのは、もっとも早くからわが方の要請した修正要請だったと同時に、司令部側もまた選出議員ということだけを条件に、むしろ簡単に了解をあたえた修正だった。

 わが方の主張理由は一貫して簡単であり、一院制ではもしある政党が絶対多数を獲得した場合、それは一方の極端に走る惧れがあるし、次にまた別の一党が同様絶対多数を握れば、こんどは反対の極に走る危険もあり、これでは政治の安定と継続性とが期しえない。だからこそそうした暴走に対するチェックとして、ぜひとも二院制が必要ということだった。これは司令部案を受け取った当日からすでに憲法問題担当の松本国務相の述べている要旨であり、翌三月二日に成ったわが方改正草案の説明書に至っては、「不当ナル多数圧制ニ対スル抑制ㇳ行過キタル一時的ノ偏倚ニ対スル制止ニ在リ」とまで、二院制採用の理由を明白に述べているのである。(制定経過を巡る日米双方の文献は夥しいので、一々の原拠は省略。〉 

 要するにこうした経過で現参議院は誕生を見たのだ。だが、その参議院が現在はどうなっているか。選挙法改変のすべてを非とするわけではないし、また比例代表制、これも原則論としては大いに考慮の意味もあろう。だが、問題は当面現実のそれであり、とりわけその強行成立を、強引きわまる無理を敢えてしてまで期しつつあるかに見える目下の経過にある。いまこそまさに「不当ナル多数圧制……ニ対スル制止」という参議院本来の機能を存分に発揮すべき絶対の機ではないのか。が、現実はまるで逆。参院の衆院のコピー化は恐るべき数の横暴により駸々乎として進行するばかり。こんな参議院なら、むしろもっと一院制を「押しつけ」てもらったほうがよかったかもしれぬ。第一まず国費の大節約になったはず。臨調よ、土光さんよ、行政の改革も結構だが、ひとつ立法府に対しても大ナタをふるってみてはどうか。 

 もともと国会議員による選挙法改正という怪事、党利党略などとは言うも愚か、正体は囚人が集まって獄則をつくるようなもの。拘束名簿式だの、やれドント方式、やれサン・ラグ方式だのと、素人おどしのなのみことごとしいが、いずれ本音は気の毒なほど見え見え。ただほぼ確実に予見できることは、今回のごとき改正、いずれそう長続きするはずがない。まず見物(みもの)はそれぞれ政党の名簿つくりであり、テンヤワンヤ騒ぎは、期してまつべきであろうか。   (82・8)

 令和4(2022)年6月27日。



   ある言葉の遊び 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.284~285

 『吾輩は猫である』七の章を読むと、例の苦沙弥先生が一杯機嫌で、細君相手にさかんに奇問で悩ます件が出る――いま鳴いたあのニヤァという猫の声は感投詞か副詞か知っているかだの、またハイと答えれば答えるで、そのハイは感投詞か副詞か、どっちなんだなどと。そしてそのあと次のよな会話がつづくのだ。 

 「お前、世界で一番長い字を知っているか」      

 「ええ、(さき)の関白太政大臣でしょう」   

 「それは名前だ。長い字を知ってるか」(中略)  

 「教えてやろうか」   

 「ええ、そしたらご飯ですよ」

 「Archaiomelesidonophrunicherata という字だ」 

 「出鱈目でしょう」

 「出鱈目なものか。希臘語だ」

 さて、ローマ字綴りにしているからこうなのだが、ギリシャ語の原綴りなら当然三字少なく、аtoμεtδωνoφρvvt ραζа となる。全集本注解にもある通り、出所は有名な諷刺喜劇詩人アリストパネス作『蜂 Σφῆκες』の冒頭近く二二〇行である。いま原作について述べる余裕はとうていないが、要するに前五世紀も終り近く、アテネの民主政がデマーゴグ政治家プレオンの勢力下、ようやく末期的症候群を示しはじめていた時期を背景に、その裁判制度、とりわけ陪審制をめぐる逸脱的狂態を諷した政治喜劇と考えてもらえばよい。

 ところで、この一行の意味だが、これもほぼ全集版注解にある通り、「シドンの老詩人ブリュニコス風の妙なる歌」を誦しながらとでもいったようなことになるのだろうが、実をいうとよくわからぬ点もかなりある。シドンが古代フェニキアの古い港町であること、またブリュニコスがそのシドン出身の叙情詩人で、その詩集がこの喜劇よりも半世紀ほど前に出たことまではまずわかるが、さて archaiomele がブリュニコスにかかるのか、それとも歌曲にかかるのかとなると、淮陰子などには判定しかねる。英仏などの訳者もいささか困っているようで、第一こんな長い語をそのままの訳など諦めているかに見える。一種類だけいわゆる等量訳をやっている英訳もあるが、なんとそれは Sweet-Charming-old-Sidono-Phrnichean というのだ。判然としないことは同じである。

 つまり、これなんどとうてい一語といえる代物でない。アリストパネス得意の悪戯の一つなので、他にもたとえば『蛙』などを読むと、Salpiggologchupenadai だの、sarkasmopituokamptai だのと、いくらでも出る。意味はいま略すが、要するに同趣の遊びである。もっとも先日、英語の語彙で pneumonoultramicroscopicsilicovolcanoconiosis というのを挙げている一文を読んだがこれも言葉の遊び、これ式でやればいくら長い語彙でもできる。この語、出所の明記はなかった。   (82・9)

※参考:夏目漱石著『吾輩は猫である』(角川文庫)P.256~258 以下の記述がある。

 すると主人は細君に向って「今鳴いた、にゃあと云う声は感投詞か、副詞か何だか知ってるか」と聞いた。

 細君はあまり突然な問いなので、何にも言わない。実をいうと吾輩もこれは洗湯の逆上がまださめないためだろうと思ったくらいだ。元来この主人は近所合壁有名な変人で現にある人はたしかに神経病だとまで断言したくらいである。ところが主人の自信はえらいもので、おれが神経病じゃない、世の中のやつが神経病だとがんばっている。近辺のものが主人を犬々と呼ぶと、主人は公平を維持するため必要だとか号して彼等を豚々と呼ぶ。じつさい主人はどこまでも公平を維持するつもりらしい。困ったものだ。こういう男だからこんな奇問を細君に向って呈出するのも、主人にとっては朝めし前の小事件かも知れないが、聞くほうから言わせるとちょっと神経病に近い人の言いそうなことだ。だから細君は煙(けむ)に巻かれた気味で何とも言わない。吾輩はむろん何とも答えようがない。すると主人はたちまち大きな声で

 「おい」と呼びかけた。

 細君はびっくりして「はい」と答えた。

 「そのはいは感投詞か副詞か、どっちだ」

  「どっちですか、そんなばかげたことはどうでもいいじゃありませんか」

 「いいものか、これが現に国語家の頭脳を支配している大問題だ」

 「あらまあ、猫の鳴き声がですか、いやなことねえ。だって、猫の鳴き声は日本語じゃあないじゃありませんか」

 「それだからさ。それがむずかしい問題なんだよ。比較研究というんだ」

 「そう」と細君は利口だから、こんな馬鹿な問題には関係しない。「それで、どっちだか分ったんですか」

 「重要な問題だからそう急には分らんさ」と例の肴をむしゃむしゃ食う。ついでにその隣にある豚と芋のにころばしを食う。「これは豚だな」「ええ豚でござんす」「ふん」と大軽蔑の調子をもって飲み込んだ。「酒をもう一杯飲もう」と杯さかずきを出す。

 「今夜はなかなかあがるのね。もう大分だいぶ赤くなっていらっしゃいますよ」

 「飲むとも――お前世界で一番長い字を知ってるか」

 「ええ、(さき)の関白太政大臣でしょう」

 「それは名前だ。長い字を知ってるか」

 「字って横文字ですか」

 「うん」

 「知らないわ、――お酒はもういいでしょう、これで御飯になさいな、ねえ」

 「いや、まだ飲む。いちばん長い字を教えてやろうか」

 「ええ。そうしたら御飯ですよ」

 「Archaiomelesidonophrunicherata という字だ」

 「でたらめでたらめでしょう」

 「でたらめなものか、ギリシャ語だ」

 「何という字なの、日本語にすれば」 (以上黒崎記)

 令和4(2022)年7月12日。



   いささか臭い話 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.286~287

 敬老の日――すでに数日を経た今日もなお余炎を噴き上げている。なんと奇妙な祝祭日を決めたものか。敬するといえば通りはよいが、ありようは今後十年二十年、とりわけ二十一世紀を迎える頃の人の比率、つまり頭でっかち老人層の増大ばかりを、連日声を大におどしてだけいるようなもの。たしかに今後働き手である壮年層にかかる負担のことを考えれば、陛下ならぬ胸痛む(ゝゝゝ)事態にはちがいが、それにしてもこう執拗にやられるのでは、敬老どころか、早く死ねとの催促ともとれぬわけでない。わけても放送映像がひどい。いずれは遠からず二度童子のボケ老人たちを抱える可能性もきわめて大きいわれら若い聴視者のことを考えてほしいのだ。

 閑話休題。耄碌老人への皮肉といえば、まず頭に浮ぶのは有名な例のシェクスピア作の喜劇『お気に召すまま』の一節、「返るは二度目のわらしおぼこ、歯なし、眼なし、味もなし、何もなしの物忘れ」だが、蓋し至言というべきであろうか。すべての括約、つまり、締りがきかなくなるものと見える。そういえば中野重治氏最晩年の大作『甲乙丙丁』の一節に、たしか次のような件りがあったように思う。なにを隠そう、かくいう淮陰子自身などもすでにその兆候が出はじめているのだが、要するに膀胱の締りがとみに弛み、うっかりすると不覚を取ってしまうのだ。まちがっていればいつでも取り消すが、作者中野氏の分身らしい人物が、二階から階下の便所まで降り立つまでがすでに待てず、思わず途中でもらしてしまうことありと歎いているのだ。事実淮陰子も一度、国電車内で思わず失禁された御老人と隣り合わせ、多少のお世話を申し上げたことがある。さほどのお齢とも見えなかったが、やがてのわが身までが身につまされて情けなかった。

 ユーモラスだが、やはり困るのが老人性放屁癖らしい。かつて八十一歳の老齢で非常時蔵相に就任した愛称ダルマこと高橋是清翁だが、彼に関し次のような愉快な挿話が伝わっている。つまり、重任お受けはするが、天皇への拝謁一切は拝辞というのがその条件だったという。理由が愉快なのだ。「オレは病体で常にガスがところ嫌わず出るから、宮中でのお儀式は一切ご遠慮する。」それでもよければというのが条件だったというのだ。が、その後葉山御用邸で天皇と閣僚との会食があった際、特に天皇からの要請もあったというので、やむなく高橋老も「感泣して」お受けをした。さて、陪食の場に翁が参入すると、天皇は親しく「おお高橋、よく来てくれたね、身体はどうかい、よかったね」と、あたかも慈父に対するかの如く、温情をこめていわれた>というのである。佳話には相違ないが、さぞかし高橋翁も苦しかったことであろうか。 

   この最後の挿話、淮陰子は勝田龍夫著『重臣たちの昭和史』(一九八一年、文藝春秋)からの孫引きである。いずれ原拠は津島寿一『高橋是清翁のこと』あたりに出るのではないかと思うが、いまそこまで当る暇はなかった。敬老とはおよそ縁遠い話になったが、これもこぼ話、お目こぼしを願いたい。   (82・10)

※関連:再説・いささか臭い話 P.286

 令和4(2022)年6月28日。



  恋知らぬものよ、明日は恋せ…… 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』P.288~289

 先日ある小説の新聞広告で『去年の雪』という題名を見た。未読なので内容に関する発言の資格はないが、ただこの題名、あるいは十五世紀フランスの詩人、フランソア・ヴィヨンの名作抒情詩「バラード、往にし日の美姫たちを詠う」 Ballade des Dames du temps du temps jadis の有名なフラン(畳句)、(仏: refrain:黒崎記)「去年(こぞ)の雪いまいずこ」 Mais ou sont les neiges dantan ? からのヒントではないのか。   

 西欧の抒情詩にはしばしばこのルフランなるものがある。そして肝心の本体は忘れられても、ルフランだけが独り歩きの形で人口に膾炙する例も決して珍しくないのだ。この小説作者にしても、果して原詩に詠われている神話の、古代史の、さてはまた幻かもしれぬ佳人十数名(必ずしも美姫とはかぎらぬ。娼婦もいる)のことなど承知の上なのかどうか。    

 が、それはそれとしていま一つ、これまた心憎いまでに絶妙なルフランを駆使した古代ラテン語詩があるから、お娯みに紹介してみる。題は Pervigilium Veneris, ヴェヌス女神祭の宵宮(よいみや)徹夜行といういうほどの意か。そして問題のルフランとは「恋知らぬものよ、明日は恋せ。恋知るものもまた明日は」 Cras amet qui nunquam amavit quique amavit cras amet. というのだ。原詩は九十行余りのむしろ小編にすぎないが、作者は冒頭をまずこの殺し文句ではじめ、以下十一度までも畳句として用いている。但し作者は不明。時代も紀元二世紀とする説、四世紀とする説など、異説があって精確には不詳という。が、そんなことはどうでもよいので、問題はこ詩のもつ不思議な近代性にある。   

 冒頭まず春の到来、生命の復活、そして草木も瑞々しく緑に芽ぶき、鳥獣たちも一斉につがいをはじめる。そうした生命の復活を詠い上げたあと、別に結構などは全くない、ひたすら春の歓喜があたえる諸相を心ゆくまで詠いつづける。そして「恋知らぬものよ、明日は恋せ……>とまた結ぶのだ。各節の紹介などしている余裕はとうていないが、要するに淮陰子の門外漢的感銘を一言でいえば、あの有名なボッティチェッリの名画「早春(プリマヴエラ)」を、そのまま有声の詩としたものと考えてもらってよいのではなかろうか。 

 いうまでもなくボッティチェッリは代表的なルネサンス期画人の一人。それに対してこの一篇は、少なくとも一千年以上は(さきがけ)ていたことになる。かりに四世紀頃の作とすれば、当然古典時代も末期近くと見なければならぬが、それにしてもこんな早い時期に、こんな近代ロマン主義的芳香の高い作品、甘美でしかも一抹の哀愁をたたえた名品が、完全に無名の詩人により生み出されとは、まことに奇蹟と称してもよいのではないか。   

 不完全至極な稿本二種だけで伝えられているこの佳品、しかし、ヨーロッパではたえず新しい詩想の刺激になってきたらしい。近くはT・S・エリオットもその代表作『荒地』の中で一行引いているし、やや古くはウォルター・ペーターが架空の青年作者まで創造して絶賛しているのだ(『快楽主義者マリウス』第一部六章)。   (82・11)

 令和4(2022)年8月13日。



   秘密投票のこと 議員歳費 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.290~291

 わが国でも、いまでは選挙といえば無記名秘密投票が、ほとんど自明に近い常識にまでなっている。現に小学生ですらが、なにかと学内での選挙となれば、立派にこの秘密投票をやっている。ところが、この投票形式、果してそんなに自明の常識だったのだろうか。

 近代的代議政治といえば、いうまでもなくイギリスが元祖、ある意味では模範とさえいわれる。それだけに奇異に感じられる読者も多いかもしれぬが、なんとその議会政治の本場イギリスにおいてさえ、この秘密投票法が成立を見るのは、やっとまだ百年余り前、一八七二年のことであった。(文字通りやっと(ゝゝゝ)である。)それまでの投票はいわゆる公開投票、つまり有権者は投票所に来て、お目当ての候補者名を口頭で告げるのだ。この方法に買収、利益誘導、無言の威圧等々、諸弊害の伴いやすいことは、目に見えて明らかであろう。さればこそ投票秘密の保持は、一世紀近くにわたり要求されつづけられたのだが、事実は容易に実現しなかったのだ。

 イギリスの代議政治もそのルーツを探れば、遠く十三世紀にまで遡るべきなのかもしれぬが、いまそうした古い話はしばらく措き、近世のそれだけに見ても、十八世紀初頭には早くも議員内閣制の確立が行われている。いまではもう少なくとも三世紀に近い歴史であり、その中でこんな無記名秘密投票という、一見当然のような制度の実現すらがこうも遅れたということ、いかに選挙が微妙な利害関係と絡まる明暗相のものだとはいえ、なんとも人間の知恵とはまどろしいものか、不思議である。  

 しかもこの秘密投票制、実はイギリスが決して元祖ではないのだから、なおさらもって奇妙。いまでもちょっとした英和辞書ならば Australian ballot なる単語が出るはず。つまり、秘密投票のことだが、それてにしてもなぜ Australian ballot なのか。 ※参考:小学館 プログレシブ 英和中辞典第2版 P.127 Australian ballot n. オーストラリア式投票制:全候補者の氏名が印刷してある投票用紙に印をつけて投票する(黒崎記)。それはイギリス本国よりも十数年前、一八五八年というのに、豪州はサウスオーストリア州の選挙で、はじめてこの秘密投票が行われた。秘密保持の工夫としてである。ところが、これが欧米先進国に逆輸出され、現在もなお奇異なこの修飾語つきの語彙が秘密投票の意味で生きているという次第。(但し、日本のような記名式とはちがう。投票用紙にまず全候補者が連記され、選挙人はただそのお目当て候補者名に印をつけるだけというやり方。最高裁裁判官に対するあの国民審査の形式と思えばよい。いまでも文盲率の高い開発途上国では、名前の代りにシンボルの絵が印刷されている。)

 さて、余白ができたから、いわゆる議員歳費についても一言。イギリスの下院議員は十七世紀末年以来、ついこの一九一一年までは報酬皆無の名誉職だった。それがこの年、歳費支給が可決され、翌年から支払われるようになった。最初は年四〇〇ポンド。いまでは上院議員ももらい、額もインフレで鰻上りになっているはず。そのほか、やれ秘書手当、やれ住宅手当等々、複雑きわまる嵩上げ増額になっていることはわが議員さんも同様。いやむしろ前者の猿真似ともいうべきか。   (82・12)

 令和4(2022)年6月28日。



 ある反面教師 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.292~293

 いまどきヒトラーの『わが闘争』を必読書などと書けば、ぶんなぐられるかもしれぬ。だが、淮陰子は敢えて言いたい。もちろん全巻をなどとは言わぬが、少なくともあの第一巻第六章「戦時宣伝」の一章や、そのほかプロパガンダ問題に関わる箇所は、ぜひ読んでおいてもらいたいのだ。反面教師というか、敵を知る孫子流の兵法とでもいうか、将来右への傾斜が本格的になる時、恐るべき敵の用いる()は、確実にまず本書の中に尽くされているからである。 

 全容をいま述べることは当然不可能だが、せめて一斑だけでも紹介してみる。いかに彼が恐るべき人間の心理(とりわけ弱点)の洞察者、悪魔的天才だったかを、遺憾なく誇示しているはず。好悪をこえて勉強しておいてほしいのだ。 

 彼ヒトラーの狂的反セム民族主義(日本人への侮蔑をも含めてだ)等々については、すでに周知だから略すが、彼はまた知識層への不信者でもあった。彼はいう、「抽象観念など大衆にはほとんど無縁。彼らの反応はもっぱら感情の領域にある。……大衆をつかもうとするならば、まず彼らが心情の扉を開く鍵を知らねばならぬ。それは客観性などという微温湯(ぬるまゆ)的態度ではなく、力に裏づけられた決意によってなのだ」と。彼にとっては「指導者たることは、即、大衆を動かしうるということ。>したがって、「有効なプロパガンダとは、少数ステロ的な文句でよいから、……ただこれを反覆」、大衆の脳裏に深く刻みこまなければならぬというのである。

 もっとも有名なのは、嘘をつくなら大嘘をつけということ、その理由がまた注目に値いする。「(一大衆というのは)平生みみっちい嘘ばかりついていて、大嘘などをつく勇気はないものだから、大きな嘘には手もなく餌食になる。巨大な嘘など自身では恥じて考えらねぬだけに、他人もそんなことなどできようとは信じないのだ」と。まことに不快な言葉だが、ここまでくればやはり驚くべき人間性洞察者(メンシエン・ケンナー)とさえいえそう。思い当る節はないだろうか。 

※参考:Menschen:人、人間。kenner:くろうと。(黒崎記)

 また彼にとっては色彩も音楽も、制服も礼式も、すべてプロパガンダの要具だった。要は大衆を一種のマス・ヒステリアに陶酔させてしまうこと。その代表的なものは毎年九月、ニュルベルグで開かれたナチ党大会だった。当時この大会に臨場した英国大使へンダソンが書き遺している。それはかつて帝政ロシア時代、ロシア・バレエの黄金時代に見た(彼は若い外交官として六年間も旧首都、サンクトペテルブルグに在任していたのだ)どのバレエよりも華麗で、しかも壮大だったと。もっとも、党幹部だった思想的支柱の一人ローゼンベルクによれば、最大に陶酔していたのはヒトラー当人だった、との皮肉な回想記事もあるそうだが。

 以上のこぼれ話、もしベルリン・オリンピックの記録映画でもご覧になれば、ほぼ様相は察していただけるのではないか。田中、中曽根、まだヒトラーほどの異能は出ていないようだが、将来のことは決して油断ならぬはず。さて、ぶんなぐられるかどうか。   (83・1)    

 令和4年(2022)6月05日。



 e pluribus unum 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.294~295

 ほぼここ十数年来のことだが、しばしば合()国か合()国かが問題になる。The United States of America の訳語に関してである。勇敢に合()国で押し通した文章もいくつか知っている。なるほど今日の国際的常識からすれば、合州国こそより合理的であることは疑いない。では、なぜ合衆国が公用訳になってしまったのか。 

saitoutuyosi.meijinokotoba.jpg  これにいついては、斎藤毅という専門学者による好著『明治のことば』(一九七七年、講談社刊)の中の一章に、ズバリ「合衆国と合州国」と題された一文がある。図書館学が専門という著者だけに、博捜到らざるなしとでもいうべきか、ぼぼまずこれ以上の考証は不可能と思えるほど周到をきわめている。

 ただ非礼を顧みず、強いて微瑕とも思える点をいえば、あまりにも調べられたかぎりを網羅しつくされているために、読過の際ややもすれば迷路に引き込まれかねぬ惧れのあるのが惜しいのだが、要するに結論を大づかみにいえば、合衆国とは国産の訳語にあらず、中国製のそれの借用語らしいということに帰するようである。  

 これには淮陰子もほぼ全面的に賛成。わが幕末期における訳語の多くが、とにかくとりあえずは漢籍に依拠していたことは、先に淮陰子も republic の訳語「共和」に関し、大月磐渓翁の逸事を紹介した通り。(P.280 「共和政治」訳語考:黒崎記)おそらく合衆国もその類だったろうことは、現に斎藤氏の挙げられる中国の辞書『辞源』にいう「合衆」の語義、「集合衆人共同シテ事業」からしても、ほぼ明らかであろう。しかもその合衆国(ゝゝゝ)が安政元年の日米和親条約という公文書にそのまま採用されたのだから、以後慣用の国名になったのも不思議でない。 

 では、なぜ米日よりも早い米華の交渉で、合衆なるこの訳語が採用されたのか。そこで以下は、要するに門外漢淮陰子の臆測的私見にすぎないのだが、古来アメリカ合衆国の建国モットーとして有名なラテン語に e pluribus unum というのがある。文字通り「衆をもって一を成す」の意。つまり、多から一をつくるとの精神をもって、近世には類を見ない新しい形の国家を創造するという誇りが、このモットーになったのであろう。

 そこでまた米華関係にかえるが、当時両国間の交渉に関与した在清国の宣教師たちには、もちろんラテン語はお手のもの、おそらくこのモット―など先刻承知だったに相違ない。さてこそ訳語合衆国はむしろごく自然に成立し、それをまた日米交渉の際わが幕府関係者がそのまま襲用したのではないのか。

 なおこの e pluribus unum については、一つ愉快な副産物がある。つい先年(一九七九年)まだ大平首相の在世時代だが、彼はカーター大統領との会談のあと、プレス・クラブで英語演説をやった。ところが、誰が気を利かしたのか、その原稿にこのラテン語モットーが挿入されていたのだ。途端に首相グッと発音に窮したらしい。首相当人も思わず笑いだすし、満場も大拍手、予期せぬ好評をえたというのだから面白い。   (83・2)

※参考:e pluribus unum 〈ラテン語〉多くから作られた一つ◆米国国璽およびアメリカの硬貨の多くに刻印されたモットー。1776年にBenjamin Franklin, John Adams, Thomas Jeffersonによって大陸会議のために選定し、その6年後に正式に採用されたもの。多数のしょく民地が集まって一つの国家になったことを表している。発音の目安:エィプルゥアリィバァスゥーナァム 

 令和4年(2022)6月11日。



 能弁? 訥弁?編注 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.296~297

 中曽根首相(1,918~2,019年)の舌のまわりは、たしかに滑らかであり、能弁である。生れついての性分なれば仕方なしとやら語ったとかで、先般ちょっと巷間の話題になった。なにぶん大平、鈴木とつづいて訥弁首相の後をうけただけに、一種の得点稼ぎにはなっていようか。声帯のコントロールもカラオケ級にはできているよう。 

 しかしかれのお得意語彙なるものを通観してみると、まことにそれは陳腐紋切り(フランス人のいうクㇼシェ cliché)のそればかり。あの中曽根式能弁が過日の訪米ではどう受けたものか、もとより淮陰子などの知るかぎりでないが、それで思い出すのにイギリス人の見る雄弁(エロカンス)(Eloquence:黒崎記)観について例の故アンドレ・モーロアが書いている愉快な挿話がある。茶飲話の座興にでもと紹介してみる。 

 一九三六年というから、ヨ―ロッパでは前年すでに公然再軍備を宣言していたナチス・ドイツが、一挙にラインランド進駐を決行、騒然となっていた年(わが国では二・二六事件の年)。当時のイギリスは保守党首ボールドウィンを首班とする挙国連立内閣であった。ラインランド進駐に刺激された首相は、一日下院で有名な演説をぶった。「もはやイギリスの国境はドーヴァの岸にあらず。ライン河なり」というのだ。これは当時たちまち全世界に伝えられ、大きな反響を呼んだものだが、どうやら当日筆者モーロアはその傍聴席に居合せたらしい、実に愉快な光景を活写しているのだ。原文そのままに紹介する。

 ボールドウィン氏の語調はまことに呆気ないほど。「イギリスの国境はもはやド―ヴァの岸ではない。それは……」と言いかけたが、そのとき突然とぎれた。前の大卓には何か書類の綴込みが置かれていたが、彼はうつむいてそれをめくりはじめた。まるで一瞬イギリスの国境を見失ったかのよう、どこか書類の中にでも隠れてしまったのを、しきりと探し求めているかのようにさえ見えた。そしてやっと最後のページにまで来たと思うと、彼はすっかり安心したかのごとく、ぐっと背を伸ばし、まことに呟くような早口で、「それはライン河である」と結んだというのだ。

 モーロアのこの一文、彼のこととて多少ウィットまじりに舞文しているおそれはあるかもしれぬが、事実そのものがフィクションだとはとうい思えぬ。しかもこの一文は、はじめて外交任務を帯びてイギリスに赴くフランス政治家への忠言というような意味で語られているのであり、だからこそ上記の挿話を紹介して最後には、「これはイギリス人の雄弁観を知る貴重な教訓である」という、イソップ風レッスンまで添えているのだ。

 なおこの一文には、こんな話も出る。一八七〇年代と、いささか話は古くなるが、しょく民相また大英主義者として善くも悪くも一時代を画したジョゼフ・チェンバレンがはじめて下院議員に当選、処女演説をやってのけたときのこと。終ると一先輩議員が軽く肩を叩いて言ったという、「いや、実にお見事。だが、ときに多少つっかえてもいれば、もっと下院は感謝したろうにな」と。   (83・3)

※編注:『図書』発行後すぐ読者から、全体の主旨が前出「雄弁、能弁、そして訥弁」と同じとの指摘があった。それを聞いて淮陰子、「またやったか」と歎くことしきり。

 令和4年(2022)5月29日。



   海底問答 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.298~299

 長塚(たかし)といえば長編小説『土』の作者、また歌人としてならば『鍼の如く』二百余首の絶唱を遺し、わずか三十六年の生涯を終えた近代短歌の鬼才というのが、おそらく一般の常識であろうか。ところが、その彼に、淮陰子などにはなんとしてもよくわからぬ長編『海底問答』という一篇があるのである。

 初出は明治三十七年五月、掲載誌は『馬酔木(あしび)』、黄海楼主人との筆名ではあるが、節二十六歳の作ということになる。ところで、二〇八行におよぶこの長詩、梗概の紹介だけなら簡単であり、要するに日清役で旅順沖に沈んだ清国兵の骸骨と、同じく日露役で水没したロシア兵の死屍との応答、つまりは題名通り「海底問答」という内容。が、問題はそんな構成にあるわけでない。全篇に漂う奇怪異様ともいうべき死のイマージュ(image:フランス語:黒崎記)こそが問題なのだ。とりあえず、一部を原詩のままに引いてみる。(但し、枚数の制約もあり、行分けはすべて追い込みにする。) 

 まず清兵の骸骨から。「かゝりしかば海の底に、/うち臥し居たる骸骨ども、/斉しくかうべを擡げながら、/うつろの耳を(そばた)てしが、/ばらばらに散乱せる白骨を/綴り合せんと、(いそが)しく/手の骨を探すもの、/脚の骨を探すもの、/頭蓋骨を奪ひあふもの、/混乱の状を呈せし後、/ゆるやかに動揺する水のまにま、/ふらふらとして立ちあがり」云々。次は同じく死んだばかりのロシア水兵の屍たちが、これも「顔もわからぬまでに焦げ煤けし、/肉破れ骨のあらはなる、/(なまぐさ)きばかりならびたり」といった海底の情景。  

 そこでこの骸骨と死屍との問答がはじまるのだが、これがまた実に異様。骸骨曰く、「骸骨は命死なず。/骸骨は飢うることなく、/睡眠を欲せず。病を知らず。/未来を永劫にかくの如く、/敵の迫害にあふこともなし。/楽しからずや。骸骨は(中略)。/まこと貧賤も貧富もなき/自由平等の楽天地は、/はじめて茲に発見すべし」と。

 しかも問答はなおつづくのであり、「我らはもと酒煽り、/婦女子を捉へ辱めしが、/いま無駄なる骸骨となりては、/徒にそを悔い居るなり」と骸骨がいえば、死屍もまたわが意をえたとばかり、「我等が好みもかくのごとし。/強姦掠奪憚らねば、/市街の商人は武装して、/我が暴行を防がむとす」と合槌を打つ。そして結局骸骨たちの結論は、「死屍は再び人間に/還ること叶はぬなり。/人間の死を恐るゝは、/骸骨の慰安を知らねばこそ。/我が脳髄は空虚なれば、/思慮も考察も公平なり」ということで、両者奇妙な握手を交して、ふたたびまた骸骨たちは元のバラバラになり、死屍は腐爛を前にして、仲よく海底に横たわるということで終るのだ。

 明治三十七年五月といえば、日露役開戦後三ヵ月である。この痛烈な諷刺と異様な幻想、作者長塚節は果して何を言おうとしたのであろうか。簡単にこれを反戦詩という出来合いのレッテル張りだけで片づけるつもは毛頭ない。だが、そうだとすれば、どうこれは解したらよいのか。およそ彼の作品としては例外異色のものだけに、専門研究者諸家の垂教を乞いたい。   (83・4)

 令和4(2022)年6月28日。



 樽俎折衝のある要諦 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.300~301

hiraomitio.kaientaisimatuki.jpg  「英将秘訣」、あるいは「軍中龍馬奔走録」とも俗称される、誠に奇妙な文書がある。龍馬、即ち坂本龍馬の語録として、古くは(大正三年)千頭清臣著の龍馬伝も全文を掲げているし、龍馬研究の第一人者だった故平尾道雄氏なども、その旧版『海援隊始末』では龍馬語録として採用されているのだ。

 ただ、もはや今日ではそのままこれを信ずるものはいない。その後の実証研究により、これが幕末平田鉄胤(かねたね)門下? の激派志士たちの間で作られ、それが幕吏の手で押収されたものにすぎず、したがって、いうところのこれが龍馬語録でないことはほぼ定説のようであるが、同時にまたそれらの中に一部、いかにも龍馬らしい奔放不敵な発言の含まれていることも否定し難いように思える。  

 問題の語録は百近いエピグラム(epigram:黒崎記)的発言から成っている。龍馬の言か否かはさておき、二、三全豹を思わせるような項目をとりあえず紹介する。       

 「世に活物(いきもの)たるもの、皆な衆生なれば何れを上下とも定め難し。今世の活物にては唯我を以て最上とすべし。されば天皇を志すべし。」  

 「外國へ渡らば王に成るを以て心とすべし。日本にては天子は殺さぬ例なれば、是(ばか)りは活けて置くべし。将軍とかいふ者に成る心を工夫すべし。」

 「人を殺す事を工夫すべし。刃にてはヶ様(かよう)のさま、毒類にては云々を云事を(さと)るべし。乞食など二三人ためし置くべし。」  

 「義理などは夢にも思ふ事勿。身を縛らるゝもの也。」

 「薄情の道、不人情の道、忘るゝ事勿れ。是を却而(かえつて)人の悦ぶ様にするを大智といふ。」

 「涙と云は人情を見する色也。愚人婦女子に第一の策也。」

 以下略ということにするが、さて最後に一ついかにも龍馬らしいと思えるものを一つ。「如何なる臆すべき所なりとも、其対面の人、彼奴原(きゃつぱら(ママ))夫人に戯ける様は如何なる振舞ならんかの意を以て其容体を見れば、論ずるに足らぬ風俗あるべし」と。

 ところで、なぜこれが龍馬の言かと疑われるについては、古くから次のような逸話が、同じ土佐藩の後輩同志、海援隊の一人でもあった中島信行(後に男爵)によって伝えられているからである。一日龍馬が中島に語ったという。かりに英雄豪傑と呼ばれるような人物と交渉をもつ機会があるとする。しかし相手がいかに尊貴であろうと、恐ろしげな相貌であろうと、心臆する必要は毫もない。その房事を行う際、いかなる顔をして行うかを思い浮べさえすれば、「抜山倒海の英雄も、たちまち平々凡々の士に成り了る」こと疑いなし、すこぶる妙なりと語ったというのだ。そして中島は龍馬という人物、「時々実に意表に出づる事を言ふ人なりき」と評するのである。

 真偽はもとより知らぬ。だが、この要諦、事実龍馬の放言であろうとあるまいと、採ってもって、今日でもなお優に対人折衝の秘訣として有効なのではあるまいか。呵々。   (83・5)  

※参考:【樽俎折衝(そんそ-せっしょう)】 宴席のなごやかな談笑のうちに話し合いを進め、交渉を有利に展開させること。 外交上のかけひき。(インターネットより。黒崎記)

 令和4(2022)年6月13日。



 情報収集とスパイ 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.302~303

ErnestSatow.pic..jpg  一葉の肖像画がある(挿図参照)。八十年も昔の一九〇三年、イギリスのある絵入り雑誌に載ったものだそうだが、同じ画家の筆か、足許近くに小さく spy との記入があるのに特に注意されたい。編注

 ところで、この人物とは何者か。なをいえば知る人は多かろうが、なんとかのサ・ア―ネスㇳ・サトウなのである。改めて紹介の必要はあるまい。幕末の文久二年通訳生(Student Interpreter:黒崎記)として来日以来、明治三十三(一九〇〇年)年駐清公使に転じて去るまで、その間十年余の空間こそあるが、実に三十年近い長年月を英国外交官(最期は公使)として在日した。より正確にいえば、わが国近代外交の御指南番だったとさえいえよう。伊藤博文以下明治のいわゆる指導者たちは、こぞって政治外交の機密事項まで伝えて、その判断意見を求めていたことは明らかだ。  

 奇妙なもので、情報収集とスパイとはまさに紙一重の裏表。情報収集といえば聞えがよいが、スパイといえば妙に悪の連想がまつわりつく。日本人の書いたサトウ関係の文章に、スパイなどという評価を読んだ憶えはまずないが、イギリス側から見ればきわめて有能な情報収集家、つまり見事なスパイだったということなのであろう、その点が興味深いのだ。       

 このところ、わが国ではKGBスパイ、ㇾフチェンコ問題で持ち切りである。それでふと思い出したのが上掲肖像画だが、どこの国でもすべて在外公館、またそれらと緊密な関係にある機関などは、当然情報収集の専門家、つまりスパイ群のまず巣窟と理解しておくほうが万全であろうか。有能と無能の差こあれ、わが国外国官とても決して例外ではないはず。いや、例外であってはならぬのだ。  

 そこで最後に、ㇾフチェンコ問題にも一言触れるが、去る四月十三日以来あのスクープ記事で連日ハシャギにハシャイだ某大商業紙の編集局長とな乗る人物が、二十日近くも後の五月一日になり、実に奇妙な一文を自紙に書いているのを読んだ。あのスクープ発表は「慎重の上にも慎重を期して」のことだそうだが、それは結構として、なんとその真意は「反ソ感情を煽るのでなく、むしろ日ソ関係の正常な発展を願って(ゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝ)のこと」だったというから、臍が茶を沸かした。念のためにいま当時の新聞を前にしているのだが、日ソ関係正常な発展を願うと、こんな紙面になるのかと、改めてつくづく感心した。かりにもし筆者が殺人をやれば、ナニ、あれは楽させてやるために一ぷく盛ったにすぎなぬと、早速応用がきくから重宝である。

 淮陰子はスパイが大嫌い。まして反対側に亡命して生命の保障をえ、逆に自国側の悪をあばくごときは人間の屑である。しかも亡命以来四年間ばかりはほとんど音沙汰なし。今になって急に伝聞までをまじえて得意気に時の人として登場するとは何の意味か。編集局長よ、この辺の検討こそ新聞の使命ではないのか。   (83・6) 

編注:これは淮陰子の取り違えのようである。 spy は「スパイ」ではなく「スピ―」、すなわちイギリスの諷刺画家サ・レスリー・ウォード(一八五一*一九二二)のペンネーム。

※参考図書1:萩原延壽著『遠い崖』アーネスト・サトウ日記抄 Ⅰ・Ⅱ(朝日新聞社)
※参考図書2:アーネスト・サトウ著『一外交官の見た明治維新』上・下 坂田精一訳(岩波文庫) 

 令和4(2022)年6月14日。



   土竜(もぐら)のつぶやき(抄) 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.304~305

○露は尾花と寝たという、尾花は露と寝たという。ヤㇾ、寝たという、寝ぬという。やがて穂に出てあらわれた。

(注) 日本における(沖縄も含め)米軍核の存否如何を占う卦だとういう。そういえば、核兵器装備の有無については一切厳秘というのが、米国防省筋の鉄則だったはず。だのに不思議とわが日本政府だけは、あくまでも核抜き、核なしを確信しての国民向け発言だから奇妙。七不思議の一つであろう。いずれ穂にさえ出ればあらわれるのは確実だが、ただ大いに困るのはこの穂、あらわれたあとでは人類こぞってのおダブツだろうからである。 
○多忙なる安逸
(注) 修辞学でいういわゆる oxymoron(撞着語法)だが(例えば憂鬱なるユーモレスク(ゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝ))というごとし)、言う意味は中曽根新総理、ここ半歳余の動き、肉体的にも精神的にもである。 
○中曽根・土光行政改革の見通し。英語でまことに恐縮だが、 Government of the rich, by the rich, for the rich. か。
(注) たしか百二十年ほど前に誰れか、「人民による、人民のための、人民の政治」とやらいう不朽の名言を吐いた政治家もいたはずだが――時が移れば政治も変るか。 
○(国際外交使節とは)はるばる海外に使いし、レアガヌスのために(こび))を売る正直な人物。 
(注) 土竜国での風雪によれば、どうやらこれはひどくラテン語をしゃべるのがお得意だという某国首相への評言らしいのだ。だから念のため、怪しげな原ラテン語句も紹介しておくが、 Legatus est vir bonus peregre missus ad aduliendum Reagani causa. ただ困ったのは Reaganus なる人物の正体がまったく不詳。かの高名なる大著、パウリの古代史事典にすら発見できないのだから、淮陰子などとうていサジを投げるよりほか致し方なし。御容赦を乞う。但し、似たような名言は十七世紀にもある。
○もっとも明瞭なる答弁。
(注) 言霊(ことだま))の(さち))わう国とやら自称する日本国において、日ごろ常用される政治用語。実体は逆にもっとも不明瞭不明確。どこが頭やら尻尾やら、ㇴラリクラリと箸にも棒にもかからぬ捉えどころない無内容に、いつでも転用しうる点に妙味がある。だからこの国では、俗謡までが実にうまいことを唄っている。曰く、「坊主抱いて寝りや可愛くてならぬ、どこが臀やら頭やら」と。 
○世の中にたえてテレビのなかりせば、春の心はのどけからまし。
(注) 某氏からの伝聞である。明らかに業平が名歌のもじり(ゝゝゝ))だが、この仁よほどテレビ嫌いの偏屈人らしい。注釈は不要。おそらく同感共鳴の士も多かろう。   (83・7)

 令和4(2022)年7月04日。



 忘れられていたある奇才 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.306~307

 提督ペリーのいわゆる『日本遠征記』を読むと、最初のほうに次のような一節が出る。一八五三(嘉永六)年五月、はじめて艦隊が沖縄に到着したときだが、その三十日、二名の士官が命を受け、陸上に一戸の借家を求むべく那覇に上陸した。現地側との交渉が難航したところ、突然一人の琉球役人が、驚いたことに通訳抜きの英語で拒絶の意をくりかえしたというのだ。『遠征記』はその奇妙な英語までそのままに伝えている。Gentlemen. Doo Choo man very small. American man not very small. I have read of America in books of Washington-very good man, very good. Doo Choo good friend American. Doo Choo man give America all provisions he wants. American no can have house, on shore. 

 ところでこの人物、『遠征記』に登場するのはこれきりであり、当然名前も素性も一切不明だった。とろがこの男の正体が、はからずも百年近くも後の太平洋戦争中に出た史家三叉竹越与三郎の『読画楼随筆』(昭和十九年)に出るのだ(「開国前の琉球の奇才」)。名前は板良敷親雲上朝忠(いたらしきぺーちんちょうちゅう)。若いころ中国に留学し、そこで習得したのがこの英語力だったとある。しかし、とにかく英語を解するというので、琉球側から応接係を命じられていたのだという。 

 が、さて上記の英語、米士官たちがどううけとったかは不詳。おそらくワシントンのなは承知しているし、食糧など必需品はなんでも提供するが、家屋の接収は絶対にダメというくらいまでは通じたかもしれぬ。ところが竹越随筆によると、話はだいぶちがう。通事朝忠としては、かつて貴国のワシントンはイギリスの横暴に対し決起した英雄のはず。その英雄を祖先にもつ強国アメリカが、いま眇たる琉球に向ってかかる難題を強要するとは何事ぞ、とでもいったような怪気焔を上げた話になっているのだ。果してそこまで通じたかは疑問だが、とにかく以上が竹越随筆の要旨。   

 さて、以上がこれまで淮陰子ナケナシの知識だったのだが、最近沖縄では実に見事な大百科事典の刊行を見た。果して朝忠は独立項目として収められている。(但し、改姓後の牧士朝忠の項で。)それによると、話はまたかなりちがうのだ。通事として登用された点は同じだが、英語を習得したのは中国でなく、地元琉球でだったらしい。各地の地頭に補せられたこと、また薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)がその才能に注目し、斉彬の開明策に貢献あらんことを期待されたことなども、竹越随筆の通りだが、肝心のその斉彬の死が朝忠の悲運までも決定した。すなわち、首里王府内の政争に彼も巻きこまれ、ある疑獄事件への関連との理由で、門閥保守派から十年の刑に処せられた。だが、それでもなお薩摩藩庁は彼の才能を惜しみ、英語教授に迎えたいとのことで、彼の身柄引渡しを要求してきたのだ。朝忠もやっとこれには応じ、ともかく一応は薩摩行きの船には乗ったが、出航まもなく伊平屋(いへや)沖までくると、突然入水自殺をとげた。一八六二(文久)二年七月、四十五歳だったという。どこかやはり叛骨の奇才だったのであろう。妙に心にのこる人物である。   (83・8) 

 令和4年(2022)5月31日。



   お国自慢――三幅対 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.308~309

 日光見ずして結構語るなどは、いまではもはや月並みも甚だしい俚諺に堕してしまったが、淮陰子などは大むかし、河竹黙阿弥の傑作狂言『蔦紅葉宇津谷峠(つたもみじうつのやとうげ))』の名場面、例の文彌殺しの場だかで、たしか耳にしたのがはじめだったように思う。いずれそう古い造諺ではないことはたしかだが、日光(ゝゝ)結構(ゝゝ)と押韻を踏んだところが味噌か、奇妙に記憶にのこったのをおぼえている。ところが、この種のお国自慢、決して日光だけの独占ではなさそう。おそらく暗合ではあろうが、まるで符節をでも合わせたかのように同趣向のものが、西欧諸国でも古くから存在するから不思議である。

 まずスペインのセビリア。いうまでもなく地中海に注ぐグアダㇽキビル川に面した、歴史的遺跡も豊富なら、風光もまた明媚という有名港市だが、ここにもちゃんと「セビリアを見たことないものは、驚異を見ることなし」 Quien no ha visto Sevilla, no ha visto maravilla. というのがあるらしい。しばしばスペイン文学以外の作品でも援用されているのにぶっかるが、これも明らかに押韻の形迹がある。そういえばやはりセビリア関係で、「セビリアを訪れるものは、その椅子を失う」 Quien va a Sevilla pierde su ailla,編注というのにもお目にかかった記憶がある。ここで椅子とは地位身分の謂か。セビリアを訪れるものは、浦島太郎ならぬ龍宮城の魅力にとりつから、つい帰るのも忘れて大事な地位まで棒に振ってしまう惧れありという、そんな意味ででもあるのだろうか。淮陰子は知らぬが、とにかくセビリアは蠱惑(こわく)の魔所のようである。 

 ところが、イタリアもどうして負けてはいない。さしずめ登場するのはナポリである。これはまた「ナポリを見たら、あとはもう死ぬ」 Vedi Napoli e poi mori(see Naples and die:黒崎記), とまでいうのだから、むしろ残酷に近い。ナポリには淮陰子も両三度短期滞在したことがあるが、いまだに死ねぬところから見れば、どうやら折角の蠱惑からは完全に見放された無粋人間のナポリ体験だったとしか言いようがない。ただこの俚諺、淮陰子も最近になってはじめて知ったのだが、かのイギリスの異色作家ジョゼフ・コンラッドが、これを実に巧みに利用『伯爵』(イㇽ・コンデ))と題した不思議な余情ののこる名短編を物しているのだ。(もちろんイル・コンデは、作者自身も認めるごとく、明らかにイル・コンテの誤りであろうが。)たしかにこの作の主人公「伯爵」は、ナポリの魅力を堪能しつくしたあと、奇怪な謎の事件に巻きこまれ、心ならずも死へと寂しく諦念の旅立ちをしてゆくのだ。 

 さて、筆者の知識は以上がせいぜいだが、他にも同趣の俚諺はあるに相違ない。すでに数十年か前にバリ島を訪れたとき、明らかに同島の魅力にとりつかれ、文字通り椅子を棒にふったフランスの老人? に会ったこともあるし、あるいは思うに地中海のマリョㇽカ島なども、十分こうした俚諺をのこすに値する魅惑の島のように思えるのだが、果してどうだろうか。できれば有識の士の垂示を乞いたい。   (83・9)

編注:原文は Quien se fue a Sevilla, peredio su silla. ではないかという指摘があった(意は「去る者日々に疎し」)。

 令和4(2022)年7月05日。



 ある外国語教育のはなし 淮陰生「一月一話」 P.310~311

 日本の学校の英語教育が役に立たぬとのことでは定評がある。おかげで、しばしばカラカイの種になる。役に役にという。それがなんの役(ゝゝゝゝ)を意味するのかは多分に問題もあるが、暫くそれを措くとすれば、一応当らぬわけでもない。しかし英語ばかりが槍玉にあげられるのも気の毒だから、昔のあるドイツ語初歩教育についても珍実例を一つ紹介しよう。 

 時は明治二十二年、場所は広島中学(後の県立一中、現在は国泰寺高校)での話。ここでは珍しく四、五年生(今なら高校一年と二年)とに英語のほかにドイツ語まで正科として課していたらしい。しかも愉快なのは初歩文法の手解きもなければ発音の説明もない。いきなりドイツ本国のある読本巻四からはじめたという。さらに驚くべきは当時はまだ独和辞書すらない、また正規のドイツ語教師もいないという始末。現にこのときの教師も県病院副院長の医学士某が嘱託で受け持ったとある。 

 幸い当時の一生徒がその授業ぶりを回想しているので、それをまずお目にかける。

デル・ㇱッフェル、船頭。デルは文法で冠詞と申す奴じゃ。名詞の頭に冠のようにかぶさっているから冠詞じゃ。日本語ではてにをは(ゝゝゝゝ)と云って、がのにを(ゝゝゝゝ)と申すが、ドイツ語ではそれが則ち冠詞じゃ。諸君、ドイツ語は奇っ怪な言葉じゃ。船頭()というその()を船頭よりも先に言うのじゃ。デル・ㇱッフェル、則ち()船頭と言うのじゃ。だから他のてにをは(ゝゝゝゝ)も同然で、()船頭、()船頭、()船頭という。その冠詞の変形をデル・デス・デム・デンと申す。……このデルという奴は男だ、男性なのじゃ。言葉に男女の性があるのだから驚くべしじゃ。成る程、船頭は男だから男性だ。しかし諸君、性といえば勿論女性がある。だから女性の言葉が出る。その冠詞の男性の()に当る女性の()がディーじゃ、その変形がディー・デル・ディーじゃ。既に男女という、そうすると今度は男でもない女でもない、無生物のような奴がドイツ語には沢山いるのじゃ。中性という奴じゃ。その冠詞がダス・デス・デム・ダスじゃ。……然るにドイツ語のワイプ、女という言葉は女性に非ずして中性なのじゃよ。道理で西洋には中世の女が多いんだろうなどと洒落てはいかん。……デル・デス・デム・デン。ディー・デル・ディー。ダス・デス・デム・ダス。まあ夫婦喧嘩の口説のようなもんだとおもえばよいよ。デルという、いやいやダスという、いやいやデンという、面白い言葉じゃ。
 注釈の要はあるまい。ただ出所だけを記しておく。『登張竹風遺稿追想集』に収められた「ドイツ語懺悔」に出る。登張竹風などといっても、もう知る人も少なかろうが、かつてはドイツ文学者の草分けとして鳴らした名物教授、ニーチェの超人思想の紹介者としては問題も起した。語学者としては登張独和大辞典の一時代もあったが、むしろ本来の面目は希代の酔人竹風だったかもしれぬ。さて以上の引用、なにぶん六十年後の回想なので、その点多少の割引は要るかもしれぬが、概ねはまずこんなところだろう。   (83.10)  

※付記(黒崎):広島県江田島生まれ。広島中学(現広島国泰寺高校)、山口高等中学校を経て東京帝国大学卒業(1897年)。母校旧制山口高校教授として赴任、当時の同僚に西田幾多郎、教え子にやがて法科に転じた河上肇やドイツ文学者として知られた片山孤村がいる。

2022.05.15。



 Hype and Theartrics 淮陰生「一月一話」 P.312~313

 去る八月二十三日のことである。レーガン大統領は西部シアトル市で開かれたアメリカ在郷軍人会の年次大会に臨席、例によって力の政策ラッパを高々と吹き鳴らした。そのこと自体は当時のわが国各紙、各放送でも一応こぞって報道していたし、いまさら特に目新しいほどの内容でもないので、改めて紹介することはよすが、ただその反核平和運動にまでえげつな(ゝゝゝゝゝ)毒づいた一コマだけは、この際やはり披露しておく必要があろうか。  

 これは一応わがマスコミでも「素人芝居」だの、「宣伝と芝居じみた運動」だのと伝えてはいたが、事実はどうしてそんなお上品な用語ではない。当時ロイター電の伝えた報道によれば、それは modern hype and theartrics とある。 「芝居がかった」との theartrics はともかくとしても、 hype に到ってはアメリカ俗語事典でもなければ出そうにない典型的俗語のようである。素人芝居(ゝゝゝゝ)芝居がかり(ゝゝゝゝゝ)も一応誤訳とはいえぬにしても、本来のこの俗語は「ウソ」、「詐欺」、ひいては「麻薬常習者(ゝゝゝゝゝ)」をさえ意味することがある。少くとも大統領たる人物が公開の席上で使用するにふさわしい言葉ではない。現にその数日後、この演説をやわりとたしなめた老練の記者ジェムス・レストンなども明らかにこれを「二つの醜い言葉を使用」 using two uglywords と評していた。 

 しかもこの演説をめぐる前後の事情は、きわめて興味深い。折から首都のワシントンDCでは、例の高名な非暴力反戦人権運動の指導者で、最後は凶徒の暗殺に仆れたマーティン・ルーサー・キング師の没後十五年を記念する反核平和運動が、激しく盛りあがっていた。レーガンにとってはよくよく目の上の瘤だったに相違ない。それにしても同じワシントンでも遠く太平洋沿岸のシアトル市にあって、奇妙な鬱憤晴らしをやったことは滑稽である。  

 ウォターゲート事件のニクソンといい、西部劇俳優あがりのレーガンといい、そしてまた実刑判決直後における田中軍団向けの角栄放談といい、どこやらお互い妙に相通ずるものがあるうえに、さらにその毒気たっぷり野卑な放言癖まで共通するのが不思議である。 

※参考:大統領の英語

 ついでにいま一つ、この在郷軍人会での演説でいえば、彼は例のイギリス首相チェンバレンとヒトラーとのミュンヘン会談(一九三八年)を口をきわめて罵倒している。あんな妥協を行なったからこそ第二次世界大戦になったという論法なのだ。だからMXミサイルの開発による力の威嚇こそソ連を屈ぷく譲歩せしめ、結局は平和(ゝゝ)をまもる唯一の途だと強調するのだが、悪魔が聖句を引用するではないが、理屈とはどうとも勝手につくものだとつくづく思う。 

 たしかにチェンバレンは二流の宰相だったかもしれぬし、ミュンヘン協定もまた失敗だったかもしれぬ。だが、あのときイギリス国民はどう彼の帰国を迎えたか、またそれすらがヒットラーの背信に裏切られるに及んで、はじめて英国民を戦争やむなしとの国論一致を固めたのだが、その辺の消息を知るだけに、理屈とは実に勝手なものだと痛感する。   (83.11) 

※参考:『アメリカ俗語事典』(KENKYUSHA)の表紙にアメリカ俗語事典の下に The Underground Dictionary と記載されている。アンダーグランドでの辞書である。その辞書のなかの言葉である。公開の場で使われる言葉ではないと思う。
 また、hype は同辞書の P.212 に記載されている。(黒崎記)

2022.05.16。



   国際政治の魔性 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.314~315

 最近たまたまテオドル・ヘㇽツㇽ Theodor Herzl の著『ユダヤ国家』(一八九六年)の全文を読む機会があった。この著がパレスティナにおけるユダヤ人国家の建設運動、つまり、いわゆるシオニズム(Zionism:黒崎記)運動に一挙大きく火をつける結果になったくらいは淮陰子も承知していたが、正直にいって原文は未見だった。著者ヘㇽツㇽは旧オーストリアのユダヤ人作家だったらしいが、問題のこの著とはほんの小冊子にすぎなかったのだ。

 内容は当然ながら世界各国におけるユダヤ人迫害の事実を縷々述べると同時に、「われらは国民――一つの国民なり」と断言する。そしていまやユダヤ人問題はすでに宗教上のそれではなく、より大きな社会問題であるとなし、「いかなる弾圧も迫害もわれらを根絶することは不可能である」と主張するのだ。(余談だが、ちょっと面白いのは一節に、「いまや教育を受けた貧しいユダヤ人たちは、当然滔々とした社会主義に走る」とある。) 

 そして後半は建国運動の過渡的具体策まで一応述べていのるだが(これも面白いのは、パレスティナ以外に、彼は南米アルゼンティンをも候補地の一つとして考えていたらしいことがわかる)、ただその結論はむしろ意外とさえ思えるほどの低姿勢である。つまり、新入しょくのユダヤ国家と隣邦諸国との関係について、ひどく控え目な配慮を彼は払っている。集中豪雨的な無統制移民の流入には、その受け入れ国が脅威を感じるのは当然であり、そのためにも主権国家の創建こそ要請される。新入しょくのユダヤ人たちは当然まず国土改良に専心するので、「われらユダヤ国家の創建は、隣接各地にとってもあらゆる点で利益をもたらすはずだ」というのだ。本冊子の反響はたまち顕著で、翌九七年には早くもスイスのバーゼル市で第一回シオニスト大会が開かれ、パレスティナ建国の決議声明が出されている。 

 ところで、その後における同運動の経緯は省略するが、飛んで第一次大戦後の一九一九年一月には、シオニスト側は高名な後継指導者ワイズマン博士(後に初代イスラエル大統領となる)と、アラブ側はこれも後にイラク王に推される名族ハシム家のファイサル・イブン・フセインとの間で九条からなる協定が結ばれるのだ。ところが、ここでもその内容は協調友好の精神を強調、アラブ農民の権利擁護をこそ条件とするが、ユダヤ人移民の大挙入しょくは大歓迎、互いに協力して経済開発をすすめるはもとより(第四条)、信教の自由、相互聖域の尊重(第五ー六条)、万事に「一致協和」というまことに結構ずくめなのだ(第八ー九条)。またほとんど同時にあるシオニスト幹部とファイサルとの間で交わされた往復書簡もあるが、これまた同様割愛が惜しいほど友好美辞の羅列である。  

 なぜいまこんな旧聞を持ち出したのか、率直にいってここ近年の中東情勢は、PLOの分裂抗争をまで含めて淮陰子などにはまったくわからない。イスラエル対アラブの相互憎悪はいまや修復不可能としか思えぬ。いかに政治は魔性とはいえ、やはりこんな旧い話もつい思い出したくなるのである。   (83・12)

 令和4(2022)年7月03日。



   ――灰になるまで 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.316~317

 例の名判官大岡越前守忠相が、ある密通事件を裁いたことがある。彼は思うところあり、某老女に対して質してみたという。いったい女の愛欲は何歳くらいまであるものかと。某女は黙って火鉢の灰を火箸で指した。もちろん灰になるまでとの意。むかしたしかこんな話を読んだ記憶がある。いずれ俗書「大岡政談」ででも読んだのであろうが、あの山ほどもある眉唾的仮託談の果してどれであったかまでは、いま確かめる時間も興味もない。しかし案外に実相を衝いているのではなかろうか。

 十七世紀フランスにニノン・ド・ランクロ( Ninon de l'Enclos:黒崎記)と呼ぶなだたる才女(プレスーズ)がいた。ヴォㇽテール伝でも読めば必ず登場する人物だが、美貌の上に才気満点の教養女性だったらしい。彼女のサロンは宛として当代知名文化人たちの一大交歓場所だった。ちょっとなを挙げるだけでも、モリエールあり、ロシェフコーあり、フォントネルあり、スキャロンあり、しかも嘘か真か、彼女にそれぞれ批評を求めたというのだからすごい。ところでその彼女、八十五歳の長命(一七〇五年没)だったが、「八十にしていまだ情人あり」と、俗書ならぬ伝記辞典にまで載せているのだから相当のもの。但し、ヴォルテールとの関係は別。死に臨んで彼女は、二千フランを書籍代として少年ヴォルテールに遺贈したというのだから、これはむしろ佳話と解すべきであろう。 

 ド・ランクロが西の横綱ならば(女相撲でもあるまいが)、さしずめ東のそれはやはりかの則天武后(武則天)というのが、まずは十指の一致するところだろうか。

 ところが、この短期間にもせよ大唐の宗室を廃し、みずから聖神皇帝をな乗り、国号まで周と改め、いわゆる武周革命を敢えてした希代の女傑だが、この女性のこと、最近どうした理由か、わが国でも妙に関心を惹いているようなので、詳述は一切省略する。ただここで登場を願うのは、彼女もまた八十歳をこえる長寿を全うして没している。なにぶんわが朝でなら持統、文武といった天皇の時代、武則天の享年にも異説が多く、八十未満説もあるそうだが、いずれにしてもほぼ確実なことは、彼女が七十歳をこえてなお、少なくとも二人の美青年を寵愛していたという事実であろう。そのなも張易之、張昌宗、それも兄弟であるというのが愉快である。彼らが相次いで寵を受けるようになったとき、彼らは明らかにまだ二十代だったはず。そして女帝のほうはほぼ七十代に達していたものと思う。  

 もっとも、寵とはいっても、男女ともにこの年齢になっての美少年愛、美少女好みには、ある意味で無害の趣味という説もある。だが、男でいえば蓮如の実例もあり、また部則天の場合でいえば、当時自薦他薦を行ったらしい美青年たちの理由に、「陽道壮偉」などという穏やかならぬ言葉まで出るところからすると、必ずしも温石(おんじゃく)がわりの寵愛ばかりとはかぎらぬようでもある。要するに神秘、やはり火鉢の灰でも指すより致し方なしか。   (84・1)

 令和4(2022)年7月03日。



  ファウストとドン・ファン 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.318~319

 文学というもの、しばしば伝説的性格像の一大系列を創出することがある。西欧文学でいえば大はファウスㇳ、ドン・ファンの類から、小は「さようならオランダ人」、「さすらいのユダヤ人」等々といったのまで。しかしこれら伝説的主人公のうち、あるものは実在人物に源を発しているものもあれば、あるいは完全な空想による仮構人物が原型というものもある。   

 前者ではファウスㇳ博士などがその典型例だろうが、この人物が実在人物だったことは、そのながゲオㇽギウスかヨハネスかという二者混同説の可能性こそ残れ、ほぼまず確実といえよう。一五四〇年頃のドイツ生れの男らしく、占星術師、降霊術師として高名だった一方では、悪名高いイカサマ人間でもあったようである。ただ彼の場合は死後わずか数十年という一五八七年に、早くもフランクフルトの出版店主シュピースなる人物が『ヨハン・ファウスト博士物語』と題する一書を刊行、たちまちこれが全欧州的反響を呼び、相次いで各国語への翻訳が出たものだから、完全にいわゆるファウスト伝説が定着した。    

 ファウスㇳといえば、もちろんゲーテのそれが決定的だが、イギリスでも一五九二年? には、早くも前記シュピース本の英訳が出、直ちに奇才クリストファ・マーロウがこれを劇化した。例の悪魔メフィストとの契約も、美女へㇾナへの恋着も、またその地獄落ちも、すべてお膳立てはシュピース本で整っていたので、以後近くはトマス・マンの『ファウスト博士』に至るまで、ファウスト主題の作品は枚挙に遑ないはずである。   

 では、片やドン・ファンだが、これもまた百五十年ほど前(一八三五年)、ピアルドットと呼ぶスペイン人史家? が、やはり同様実在人物で、史料はセリビア在のある記録にあるとの新説を発表したことがある。が、どうやらこれは虚説で、逆に完全な仮構人物だというのが今日のほぼ定説になっている。一六三〇年というから、例のセルパンテスにはややおくれるが、通称ティルソ・デ・モリナの筆名で知られる修道士兼劇作家某が、「セビリアの色事師と石像の客人」 El Burlador de Sevilla y convidado de piedra と題した一作を物した。その主人公がドン・ファン。場面はナポリからセリビアへと転々するが、要するにこの女蕩しが次々と、主ある貴族の美姫から(ひな)の漁師の娘まで、手あたり次第に通じては棄ててゆく。揚句の果てはその一人の父親将軍を刺し殺してしまうのだが、結局は殺した父親の墓にあった石像にまで挑戦、不敵にも饗宴に招待する始末。約束通り石像の客は到着するが、彼はたちまちドン・ファンは鷲掴にして地獄に投げ落すという話。

 だが、この仮構物語もまた続々と類似趣向の作品を産み、モリエールの喜劇「ドン・ジュアンまたは石の饗宴」、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」、バイロンの長編詩「ドン・ジュアン」等々と、これまたおそらく枚挙に遑なし。ドン・キホーテとともに、スペイン文学の産んだまさに双璧の性格像か。   (84・2)   

 令和4(2022)年8月18日。



   再説・いささか臭い話 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.320~321

 太宰治代表作の一つ『斜陽』の冒頭部に、次のような一節がある。

お母さんは、つとお立ちになって、あずまやの傍の萩のしげみの奥におはいりになり、それから萩の白い花のあいだから、もっとあざやかに白いお顔をお出しになって、少し笑って、

「かず子や、お母さんがいま何をなさっているか、あててごらん   

とおっしゃった」 

「お花を折っていらっしゃる」 

と申しあげたら、小さい声を挙げてお笑いになり、 

「おしっこよ」

とおっしゃつた。

 ちっともしゃがんでいらっしゃらないのには驚いたが、(中略)しんから可愛らしい感じがあった。 

 以上である。それにしても愉快な一コマ、作者はどこから着想を得たのであろうか。別に淮陰子は太宰文学研究者というわけでないし、余計なお世話だが、いささか気になる。   

 ひところあのベルサイユ宮殿に、便所がないとか、あるとか、奇妙な話題のはやったことがある。いずれにせよ、下水道が整備し、水洗便所がむしろ当然のことになるまで、各国ともに生理的排泄物の処理はたしかに頭痛の種だったはず。そういえば、例のスウィフトのいわゆる『奴婢訓』(ぬひくん、Directions to Servants:黒崎記 )にも、明らかに上記の場面を思わすような一条が出る。女中たちへの心得であるが、曰く、

「気位ばかり高くて、なんにもしないという奥様方には、まったく腹が立つ。バラを摘みに庭へ出る労をさえ厭い、寝室そのもの、いや、そうでなくとも、少なくとも隣りの小部屋まで、ある実に忌わしい道具を持ちこまれるのだ」と。バラを摘みにとは、もちろん婉曲表現(ユーフエミズむ)(Euphemism:黒崎記)、実はバラの茂みに隠れ用を足すのである。前後の意味は、そのために庭に出る労をさえ惜しみ、臭い便器を寝室近く、いや、寝室そのものにまで持ちこむというぶ精者の奥方のこと、それを憤慨しているのだ。バラが萩に変るだけで、事実庭先での女の立小便が、当時は決して珍しくなかったことが、これで見てもわかる。但し、十七、八世紀では、それもある意味でやむをえなかったのかもしれぬ。

 なにも西欧だけではない。たとえば芥川龍之介が短編『好色』に脚色している平中こと平貞文(さだふみ)と本院侍従との微笑(ほほえ)ましい話などもそれだが、これが原拠を載せている中世説話集、『宇治拾遺』だの、『今昔』だのを読むと、侍従が見事に平仲をなぶる件りで、その(まり)を収めているはずの皮籠(かわご)(便器入れ)の中は、なんと練香のたきもの(ゝゝゝゝ)だったとある。

 話はそれだけだが、ここでも明らかに便器による始末であり、当然ながらトイレなどではない。おそらくそうするよりほかなかったであろう。ついでにいえば、今は知らぬいが、少なくとも戦前までは行幸啓などがあると、ちゃんと前日、特別専用便器一式が車でとどいた。古風床しきとでもいうか――。   (84・3)

※関連:いささか臭い話 P.286

 令和4(2022)年6月29日。



   ある非武装中立国の話 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.322~323

 コスタリカという共和国がある、いわゆる中米、ニカラグアとパナマと両国に挟まれた形の小国だが、面積はわが北海道と九州との中間くらい。人口はせいぜい二〇〇万前後。例のコロンブス最後の航海で発見されて以来、三世紀以上にわたりスペインのしょく民地だったが、前世紀の前半期、中南米諸国こぞっての解放運動に乗じ、ここコスタリカも一八四八年には完全独立を達成した。ところが、なんとこの小共和国、いま流行の用語でいえば、文字通りの「非武装中立国」なのである。

 もちろんかつては軍備もあり内乱もあった。が、今世紀も第二次大戦後の一九四八年、小内戦にまで発展した政変が収束すると、新政権は軍備全廃の憲法を成立させてしまったのだ。さらに最近(一九八三年)にもまた改めて中立宣言を行ったはず。したがって、国内治安を任務とする警察隊はあるが、外戦向けの軍は一切ない。それであの革命対反革命の内紛騒ぎがほとんどたえぬ中米諸国にあっては、ただ一つ政情安定した例外的民主議会制がつづいているのだ。戸締り的戦力すらもたぬこの小国のこと、さぞかし周辺諸国からの軍事侵略に悩みつづけていることだろうと考えたくなるのだが、事実はさにあらず、中米諸国群の中にあって、この国だけはほぼ安定した平和を享受しているのだから、まったくもって話はわからぬ。  

 もっとも、ある意味では好条件に恵まれていることは事実である。まず人口のほとんど一〇〇%近くが白人とその混血人であること、大統領にも従来からほとんど軍部出身者はいず、もっぱら文民が選ばれてきたこと。したがって、ミニ版ながら保守党自由党型のブルジョア的政権交替が、平和裡に行われてきているのである。共産党は十年近く前(一九七五年)に復権を見たが、上述の一九四八憲法で非合法化されていた。が、同時にまたこの民主主義的政情の安定は、たとえばニカラグアに於けるソモサ政権、 ドミニカにおけるトルヒヨ政権のごとき絶対独裁者の出現を、この国ではついに許さなかったのである。ニカラグア、グァテマラ、ㇹンデュラス、エル・サㇽヴァドㇽ等々、なまじ軍備があればこそ、軍部主導の革命騒ぎがむしろお家芸に近いまでに頻発する中米にあって、無軍備のこのコスタリカだけが例外というのは実に意外である。(もっとも、最近はこれら近隣諸国の革命に原因する煽りを受け、左右ゲリラによる侵入があり、ときに治安悪化の兆しも見られるようだが、あくまで処理は国内問題としてやっている。) 

 経済だけは開発途上国としては困難が大きいようだが、文盲率十数%などというのは中米では最低。もって教育熱心を物語るのだが、これまた軍事費皆無と関係ないのだろうか。国名の由来、「豊かな海岸」 Costa Rica. というにはまだ遼遠というしかないが、ともあれ政情不安の飾り窓みたいな中米諸国の中にあって、ニュース面にこそ登場は稀だが、こんな民主的小共和国の現に存在することも忘れないでほしい。   (84・4) 

 令和4(2022)年7月06日。



   もう一つの廃船「むつ」 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.324~325

 俗に「むつ」とやら呼ぶ厄介な金喰い虫がいる。今春は早々廃船騒ぎを起した。なにしろ建造以来十数年(昭和四十四年進水)というのに、実績は何一つなし。それでいて金は食う。建造費の七三億円? はともかく、その後の修理費、維持費まで加算すれば、優に六〇〇億円を越えているともいう。しかも新しい巣づくりには、さらに少なくとも一〇〇〇億円は必要だとされるのだ。おそるべき胃の腑と申さねばならぬ。それで将来なにかの実績見通しがあるのかと聞けば、もはや時代おくれで、それも覚束ないという。一応この夏には運命も決るらしいが、それにしても飛んだ世間騒がせ、見事な厄介物というしかない。

 ところが、面白いことに、三百年以上も古い昔にも、似たとはおろか、符節でも合わすかのような愚挙があるのだから、人間とは不可解な動物である。そのなを安宅丸(あたけまる)という、三代将軍家光時代の話である。幕藩制の基礎も確立し、威容を誇示する意味でもあったのだろうか、化物めいた御座船の建造を命じたのだ。そして出来上ったのがこの安宅丸。      

 大体は戦国時代以来の軍船型式を採用したものだが、とにかく図体が途方もなかった。おそらくわが国和船としては未曾有の巨大船だったに相違ない。推定排水量一五〇〇トンとも一七〇〇トンともいう。幸いに明細史料も残っているそうだが、それらはいま省略するとして、挿図でもわかるように、文字通りの浮城というべきか。では、どれだけ実用に役立ったかといえば、将軍家光が一度ただ試乗しただけ。あとは深川に繋ぎ放しだったとある。要するに大男総身に智恵はまわりかねて、人力による操船はとうてい無理、つまり実用性は皆無というわけ。将軍綱吉の天和二年になり、あえなく解体と決った。理由は一に維持費の膨大化だった。   

 『徳川実紀』同年九月十八日の条に、「水主、揖取(かじとり:船の揖を操って、船を一定の方向に進めること。また、その進める人:黒崎記)を初め、これにあづかるもの数百人あり。しかのみならずこの一船の費用、年中には十万石の税額を用ゆるに至れりとぞ。よ(ママ)堀田筑前守正俊、このころ下の奢侈を停禁し給はんには、先上の浮費を省かるべしと建議して、かく毀たしめしとなり。今も本所に、この舟材を埋めし地は丘のごとくのこりて、その地名をも安宅とよべり」とある。  

 当初からすでに決まっていた運命だったかもしれぬ。寛永十一(一六四三)年に建造なり、天和二(一六八二)年には解体というのだから、わずか半世紀足らずのはかない生涯、しかも文字通り無用の長物だったことになろうか。   

 船はなくなる、港はのこる、のこる港が生命取りではないが、「むつ」の運命も結局はこの先例にならうのではないか。ただ政治という怪物をめぐっての取引き、おそらく関根浜新港(ゝゝ)の完成は実現するであろうが、同時にその代償として下北半島が核燃料再処理、また放射性廃棄物貯蔵の一大基地になるであろうこことは必定か。   (84・5) 

 令和4(2022)年7月12日。



ベストセラーとは? 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.326~327

 ちょうど三十年前、一九五四(昭和二九)年のことだが、佐藤弘人著『はだか随筆』と題した新刊書二五〇頁ほどの小冊子が出た。ああ、あれか、と憶えておられる読者なら、それだけでもうお歳のほども知れようという旧聞だが、なんとこの本が発刊一年足らずで六十数万部を売り、当時としてはベストセラーの新記録をつくった。

 元来はある経理専門誌の埋草的随筆として連載されたのだそうだが、初出当時はこれといった反響もなく、発行書肆すら一本にする気はなかったらしい。ところが、別のあろ小出版社から出すと(持込みだともいう)、途端に前述の始末と相成ったのである。 

 さらに著者佐藤弘人が一橋大学の正教授、しかも理学博士の性談ということも、一種奇妙な大衆的興味を唆ったものと思える。では、どんな随筆集なのか。現在もどこかで出ているのか、不敏にして無知だが、幸い? 淮陰子の屋根裏に埃まみれの一本が残っていた。久しぶりにとにかく披見はしてみたが、これがまた実に他愛ない。見出しの一部だけを抄するにとどめるが、曰く「女のお尻」P.69、「小便哲学」P.125、「へのこ神社」P.131、「放屁論」P.213等々(頁は黒崎記)――いや、もうこれ以上は挙げるにたええぬ。得意の性談とやらも、ネタはほとんどが二番煎じ。尻の突っぱりにもならぬとは、まさにこの本であろう。とりわけあざとい(ゝゝゝゝ)のは、本書の好評につれ、著者自身がまず浮かれだし、その後もたしか『いろ艶筆』などと題した二匹目のドジョウを狙ったらしいこと。但し、ほとんど売れず、数年後には著者もまた屑紙再生の跡を追ったはず。

 そういえばその数年後(一九六一年)にも、奇妙なベストセラーが出た。題して『英語に強くなる本』。古今を通じてこの国の学校英語教育がひどく不評なのに悪乗りした、明らかにこれは企画と思える。発行書肆光文社の公表数字だが、嘘か真か、わずか三ヵ月で二一〇版百万部を超えたとある。著者岩田一男はこれも一橋大学の英語教授。(どうもこの大学、妙な先生ばかり売り出す癖がある。) 

 但し、こちらはどうやら悪名高かったかつての光文社社長神吉某の商略が、著者の背後にたえずちらつくように思えるのだ。たとえばイキナリがトイレの話で始まるのなどもどうか。トイレに入っていて、外から他人にノックされたら、Smeone in と答えるのが正しいとの御教示なのだ。そうかも知れぬが、淮陰子など英語に弱い人間でも、外国旅行でこんな返答の必要を感じた経験はない。空いているか塞がっているかの表示は必ずあり、かりにノックされたとしても、ただノックで応えれば結構すむ。だとすれば、結局 Someone in もまた bookish ということか。  

 著者岩田教授はたしかに「英語には強い」篤学の学者と見た。教えられることも少なくなかった。ただ神吉商略に躍らされ、つい妙なベストセラー作りの片棒を担がされたということか。なお淮陰子、この一本は架蔵せず。探してもみたが入手はできなかった。これまたベストセラー必然の運命をたどったということか。   (84.6)

※参考:黒崎もこの本(昭和36年8月5日 初版発行)を買って、書架の目に届かない所で埃をかぶっていた。

平成29年6月9日。



  ある古代皇帝の病状 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.328~329

 とりあえずまず史書からの一節を紹介することからはじめる。   

彼に対する神罰は、まずその肉体にはじまり、次いでは霊魂にまで及ぶ復讐としてくだされた。というのは、突如として一個の膿痬が彼の陰部の中心に現われ、やがて深部にまで及ぶ瘻性潰膿痬となった。そして治療の手当てをよそに、それは内臓の深奥部まで侵していった。その結果として無数の蛆が湧き、おそるべき悪臭を放ちはじめたのだが、発病以前からして彼は大食のため、その肢体はすべて過剰肥満の軟脂肪塊と化していたのだが、いまやそれが腐敗をはじめ、近づく者の眼には見るにもたえぬほどの姿を呈した。医師たちについていえば、ある者は死臭に近いその悪臭にとうてい堪ええず、と言ったというので惨殺されたし、またある者は、彼の全身がすでに膨張、もはや回復の望みない病状に達していると判断、結局なんの役にも立たなかったとの廉で、これまた容赦なく処刑された。    
 正体をいえば、彼とは、四世紀初期のローマ帝国正帝ガㇾリウス(二五〇?~三一一)であり、史書とは「教会史の父」とさえ呼ばれるカエサリアの司教エウセビオス(二六〇?~三四〇)の名著『教会史』である。その第八巻一六節にこの引用は出る。

 多少の説明を補足すれば、ガㇾリウス帝は農民出身の兵隊上り、同様兵隊上りの正帝ディオクレティアヌスの信任をえ、副帝から次いでは東方正帝へと累進をとげた。たしかに武将としては、ドナウ地方の戦線や対ペルシア戦争などで数々の偉勲を樹てたが、政治者としては凡庸、むしろ無能に近かった。それよりはむしろキリスト教徒迫害者としての悪名を史上にのこしているのだ。すなわちち、上述ディオクレティアヌス帝は、その治世の晩年に至り、古代ローマ史上でも最後のキリスト教徒大迫害を行ったことでも有だが、その黒幕の使嗾者は、ほかならぬこのガㇾリウスだったというのが定評で、したがって、キリスト教徒たちからは完全に憎悪の的であった。そのことが死後十余年にして、たちまち司教エウセビオスからのこの筆誅となってハネ返ったのである。 

 それにしても信仰の怨みというのはおぞましい。なんというエゲツない細密描写か。ともに同じ時代を生きた迫害者と司教との関係、いずれも多少の事実的根拠にもとづく伝聞はあったろうかと思うが、もちろん直接目のあたりに見たはずはなし、宿怨ともいうべき主観的感情をまじえた張扇的舞文誇張のあろうことも、ほぼ疑いなく想像できる。それにしても、後には例のコンスタティㇴス大帝の側近となり、その最初の伝記書なるものまで物しているいこの聖職者エウセビオスが、果してどんな神妙な顔をしてこの一文を綴っていたものか、それを思い描くだけでも愉快である。   

 但し、ガㇾリウス帝、まもなく没しはするが、このときの業病では死ななかったらしい。たださすがの彼もこの結果迫害の手は多少緩めたという。   (84・7)

 令和4(2022)年8月19日。



   浪費とは? 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.330~331

 デュマ・ペール(父の意:Dumas père:黒崎記)(Alexandre Dumas, 1802~1870年:黒崎記)といえば、いうまでもなくわが国でも明治期以来お馴染みの『三銃士』、『二十年後』、『モンテ・クリスト伯爵』(これはむしろ『巌窟王』の題名で、わが国では有名、『プラジュロンヌ子爵』(これも和名『鉄仮面』の原作)等々、通俗歴史小説の超大作をはじめ、七十年足らずの生涯に、全集にして実に三百巻近いという長短の作品を書き飛ばしたという怪物的作家である。(その点ではバルザックと双璧か。)

 ところが、この大デュマの原稿、ある時期から全くの句読点なし。コンマもなければピリオッドもない。疑問符もなければダッシュもない。言葉をかえていえば、完全なベタ書きだったという。(淮陰子は別に生原稿蒐集家でないので、もちろん実物は未見。)しかもデュマの主張する理由が愉快なのだ。一度あるしょく字工がコンマの位置をまちがえたことがある。腹を立てた作者は(なじ)った。「じゃ、貴様は句読点のつけ方くらい心得てるというんだな?」「もちろん、しょく字工といわれるほどの者なら、誰でも正しい句読法くらい心得ております」、といったような奇妙な問答の揚句、結局その日以来彼は一切のパンクチュエイション(Punctuation 黒崎記)を廃したのだという。「句読点のことなど、すべてしょく字工が心得てるというなら、俺は言葉のほうだけを苦心する。こうして両者よく協力すれば、名作の生まれること疑いなし」と。真偽は保証はせぬが、屁理屈にしては一応筋が通っているから面白い。

 なお彼は祖母から黒人の血を受けていた上に、失職将軍の遺児として少年時には散々の苦労をなめた。それがあの文筆による大成功で、流れこんだ収入は想像を絶したはず。ところが、この男、経済観念はゼロ。底なしの浪費生活に加え、生涯に十三度という奇妙な決闘記録まで作っているのだ。文字通りの牛飲馬食、当然ながら夜は不消化が原因で不眠。だが、毫も意に介しなかった。左手こそは下腹を揉み揉み、ときどき噴火のようなゲップを吐くが、その間も右手は奔馬のごとく原稿を書きすすめていたという。なるほど、そうでなければ、あの毎年のように超大作の発表は到底不可能だったであろう。   

 だが、さすがの彼も晩年は落魄。蓄財には一切無縁の彼のことだから、その日の暮しにも事欠いたという。そうしたある日のことだった。女中がそっと彼の服を探ってみると、ほんの金貨一枚と小銭が数枚あるかぎりだった。だが、彼は笑って息子(『椿姫』の作者だ)に言った。「五十年前、はじめてパリへ出てきたときの所持金がまさにそれだ。世間は俺を浪費家、浪費家と()かす。だが、一文だって減らしてやしないじゃないか。なにが浪費家だと!」

 自作の死後運命については生前すでに諦めていたらしい。「俺の作品はわかりよすぎる。子供でも読めるんだからな。食物にしても不消化なものは憶えてるが、こなれのよいものはどんどん排出されてしまう。俺の作も必ず忘れられる」と。この予見、半ばは当り、半ばは外れたように思える。   (84・8) 

 令和4(2022)年6月30日。



 厳たる史実をも抹殺し去る
最も良心的、かつ巧妙な方法について
編注 淮陰生「一月一話」 P.332~333

 どうもゴーゴリバリの見出しになってしまったが、わたしたちは第二次世界大戦の終末において、沖縄戦という凄惨な国内戦場をもった。しかもこの国内戦での特殊相の一つは、日本軍自身による一般人多数の殺害という悲惨事を生んだことである。  

 ところで、この事実を一昨年か、ある教科書出版社が、はじめ高校用「日本史」の教科書で取り上げたのだ。検定用に提出された原稿本にはこうあった。  

「六月までつづいた戦闘で、戦闘員約十万人、民間人約二十万人が死んだ。鉄血勤皇隊・ひめゆり部隊などに編成された少年少女も犠牲となった。また、戦闘のじゃまになるなどの理由で、約八百人の沖縄県民が日本軍の手で殺害された。」 

 さっそく書替えが命じられた。「数字に根拠なし」というのだ。執筆者は歴史学研究会編『太平洋戦争』に拠った旨を答えたが、「本自体に根拠なし」と斥けられた。やむなく屈して修正文を作った。

 第一次修正文――「六月までつづいた戦闘にまきこまれて、十数万人の沖縄県民が死んだ。鉄血勤皇隊・ひめゆり部隊などに編成された少年少女も犠牲となった。また、スパイ行為をしたなどの理由で、日本軍の手で殺害された県民の例もあった。」

 だが、これも認められなかった。執筆者は県発行の『沖縄県史』や、さらに現地調査をくりかえした上で提出したのが、次の第二次修正文だった。「六月までつづいた戦闘にまきこまれて、約九万四千人の一般住民が死んだ。鉄血勤皇隊・ひめゆり部隊などに編成された少年少女も犠牲となった。また混乱をきわめた戦場では、友軍による犠牲者も少なくなかった。」

 だが、これも落第。泣く子と地頭とには屈せざるをえない。第三次修正文は後半部だけに小修正を施した。「(前略)なお、『沖縄県史』では戦場の混乱のなかで、日本軍によって犠牲者となった県民の例もあげられている。」

 だが、依然として壁は厚かった。やっとパスしたのが次の第四次修正文だが、問題の箇所はこうなっている。

「六月までつづいた戦闘で、軍人・軍属約九万四千人(うち沖縄出身者約二万八千人)、戦闘に協力した住民(鉄血勤皇隊・ひめゆり部隊などに編成された少年少女をふくむ)約五万五千人が死亡したほか、戦闘にまきこまれた一般住民約三万九千人が犠牲となった。県民の死亡総数は県人口の約二十%もに達する。」 

 さて、これで明瞭であろう。検定担当官は何にこだっわっていたのか。要するに軍による住民殺害という一事だけだったのだ。かくて史実は完全に抹殺された、さも良心的かに見える偽装の下で。この話題、高文研刊の『観光コース沖縄』(一九八三年五月)から孫引いた。原稿は琉球新報による取材。   (84・8)

編注:以下の三回は、淮陰子病気入院のため組み置かれものを順次掲載した。従って著者校正も行われていない。

 令和4(2022)年5月15日。



   雀、海に入って蛤となる? 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.334~335

 信長殺しの逆臣光秀は、決してあの小来栖(おぐるす)の竹藪などで、土民の手にかかり死んではいない。影武者か何か方法までは知らぬが、とにかく敗戦の急場はうまく逃れたばかりか、意外や意外、これはまた江戸時代初期の天台僧天海僧正として化身、酬われた第二の人生を送ったという伝承が古くからあるらしい。まさに雀変じて蛤である。

 天海と云えば徳川家康の帰崇をえ、政務の枢機にまで参与したといわれる。家康のために日光廟の造営、東照大権現の神号宣下などに尽力したのも彼なれば、上野の東叡山寛永寺の開山ということでも有名な傑僧。そこで光秀との因縁ということになるが、天海の大師号が慈眼大師であるのに対し、たまたま光秀最後の居城だった亀山城近くに慈眼寺なる一寺があり、ここに光秀の木像と位牌が蔵されているなど、多分に偶然的な思いつきが多い。しかし伝承によれば、家康はこの前身を十分承知の上で彼天海を重用したというのだ。 

 ただ強いていえば、奇説の生まれる余地のあったことはたしか。というのは、はじめて天海が家康に謁するのは天正十七(一五八九)年ときわめておそく、なもその翌年になって天海と改めているのだ。山崎合戦から十年近くの後。それ以前はもっぱら地方にあって修行研学、たえて中央には現われていない。もし奇説発生の余地ありとすれば、おそらくこの辺にあるか。    

 ところで、まったく相似た変身伝承が西欧世界にも存在するから面白い。四世紀のこと、小アジアのカッパドキァ(ラテン語: Cappadocia:黒崎記)にゲオルギオスと呼ぶアリウス派司教がいた。いささか乱暴者だったらしく、三五七年にはついにアレクサンドリア司教管区を強制制圧し、数年間はそのまま保ったが、三六七年には群集の造反に遭って殺された。 

 だが、ほどなくこれが一種の殉教伝承に転化したばかりか、やがては別人ゲオルギオスの殉教伝説と混合されるまでに到った。では、いま一人のゲオルギオス(Georgios:黒崎記)、とは? 今日もイングランドの守護聖者とみなされている聖ジョージの伝説である。

 こちらのジョージ(ゲオルギオス)も、いわば完全に霧の中の人物。実生活についてはほとんど何もわかっていないが、伝承によれば四世紀の中頃、ユダヤはリユッダの地で殉教死をとげたことになっている。伝承での彼は颯爽たる騎士の姿で表わされ、悪龍を仆して美処女を救うという功業で特に有名である。この種の伝承は例の「黄金伝説」などにより一段と普及され、十二、三世紀以後は西欧一般に流通した。そして結局はイングランドの守護聖徒にまでおさまったらしいのである

   問題はカッパドキアのゲオルギオスが、ユダヤのゲオルギオスに変身をとげたという一点だが、この伝承は事実十八世紀まで一部では本気に信じられており、現に史家ギボンなどもその『ローマ帝国衰亡史』で見事ワナにかかっている。もちろん史実としては完全な絵空事、伝承譚にすぎぬ。   (84・12)

 令和4(2022)年6月30日。



   固有の領土とは? 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.336~337

 かつてトルデシリャス条約 Tratado de Tordesillas と呼ぶ条約があった。由来はこうである。一四九三年、スペイン女王イサベルの精神的庇護を受け大西洋を西航したコロンブスが、新領土の発見という大成果をあげて帰国したという事実は、先進航海王国ポルトガルにとって甚だ穏やかでなかった。そこで紛争を憂えたイサベルは、さっそく教皇アレクサンダー六世に仲介のことを要請した。教皇もまたこれを受け大教書を発し、奇想天外の裁定をおこなったのだ。すなわち、大西洋のド真中、ヴェルデ岬諸島の西一〇〇ㇾグア(今日のほぼ西経一三度)というのに、極から極まで一線を引き、これより以西の地はすべてスペインがその征服領有権 conquista をもち、おなじく以東の地はポルトガルが独占領有権をもつという解決案だった。好い気なものである。

 ただこれにはポルトガルが大不満だったので、翌九四年には、両者直接トルデシリャスに会し(北スペインの小さな町らしい)、上述の境界線をさらに二七〇ㇾグア西に移すということで(今日のほぼ西経四六度三〇分)決着を見た。これがトルデシリャス条約であり、またこの事実こそが世界史でも有名な Demarcacion(世界分割)だったのだ。

 これで当座の解決は一応ついたかもしれぬが、しかし考えてみれば、これほど珍妙な解決もない。地球が無限の平面というなら知らず、かりにも球体とあれば、早晩これが幾多の難問題を将来するであろうことは、当然目に見えていただろうと思うのだが。しかもこのトルデシリャス条約には、地球の裏側についての規制が一切ない。   

 さて、この条約にもとづき、その後もポルトガルはヴァスコ・ダ・ガマ、ダㇽブケㇽケ等々の輩出により、東方はるか東インディアスに向け進出するし、スペインもまたバルポア、ピサロなど、な代の探検家たちを続々として西に送り出した。が、やがてマジェラン、ドㇾイクと相次ぐ世界周航の成功は、トルデシリャス条約の滑稽な正体を完全に暴露してしまった。そして東西からの進出が期せずして東南アジアの近海で接触をもつようになり、とりわけ中国、日本をめぐってしょく民政策上の難問を次々と惹き起した。(断っておくが、布教は単なる布教ではない。多分にしょく民政策の一翼だったのだ。) 

 たとえば日本でいえば、早く信長時代に渡来してきたキリシタンは、ポルトガル王室と緊密な関係にあるイエズス会士たちだったが、これに対して秀吉時代になってフィリピンを根拠地として渡来したスペイン系キリシタンは、明らかにフランシスコ派会士たちであり、彼ら相互の間は決してよくなかった。理由は簡単であり、背後にあるポルトガル本国、スペィン本国の海外拡張政策がそうさせたのだ。

 それにしても強国が平和な原住民社会を次々と身勝手に征服領有する。そして次の日には「固有の領土」ということになる。奇怪な権力社会といわねばならぬ。   (85・1) 

 令和4(2022)年6月30日。



   淮陰子、愛誦歌あれこれ(一) 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.8~9

 淮陰子は生れついての無粋者である。和歌、俳句などときては、詠歎、叙情にはほとんど趣味がない。したがって以下、愛誦歌などと自称するものも、きわめて殺風景なのはやむをえない。よろしくお許しをねがいたい。

  敷島の大和心を人問はば、西日に匂ふ雪隠(せつちん)の窓

 貝塚渋六こと堺利彦の名歌である。作者自筆の短冊を安成二郎氏が所有されている旨、つい先年同氏の随筆で読んだことがあるが、もちろん現物は筆写まだ未見。本居宣長の有名な和歌をもじったものであることはいうまでもないが、どうも筆者には、。宣長以上の大名歌のように思えて仕方がない。この雪隠がどこのであったか、それまでわかるともっと面白いのだが、そこまで知るべくもない。   

※参考:本居宣長の和歌〔敷島の やまと心を 人とはば 朝日に匂ふ 山さくら花〕(黒崎記)

  (くう)てひり、つるんで迷ふ世界虫、(かみ)天子より(しも)庶人まで  

 江戸末期の画人、洋学者、そしてなによりも奇骨の士司馬江漢、晩年の作である。人間即虫の思想は、西欧合理主義の影響もさることながら、やはり老荘虚無説のほうがより濃いであろう。「人間の(おこり)は天地より湧出でたる虫なり」(「春波楼筆記」)ともある。彼が晩年老荘に傾斜していたことは疑いないが、「道ヲ以テ之ヲ観ㇾバ物ニ貴賤ナシ」(〔荘子秋水篇〕)からいえば、人間が虫であることも少しも不思議でない。そういえば、明治二十四年中江兆民が衆院議員の辞表を叩きつけたときの一文にも、「無血虫の陳列場」なる有名な言葉があったのを思い出す。

※参考:「道ヲ以テ之ヲ観ㇾバ物ニ貴賤ナシ」(〔荘子秋水篇〕)は、『荘子』第二冊[外篇](岩波文庫)P.254 に「道を以てこれを観れば、物に貴賤なし」と書かれている。(黒崎記)

 なお江漢のこの戯歌、「無言道人筆記」(またのな「天地理談」)にはこうあるが、より早い「独笑妄言」には、「つるんでは喰てひりぬく世界虫、上貴人より下乞食まで」とあるらしい(村岡典嗣博士「独笑妄言について」による)。ただ「上天子より」とあるのが面白い。当時としては、「天子」とは書けても、「上将軍より」とはまさか書けなかったのであろう。

 かたい話にばかりなったから、最後にはいささかお色気のあるところで、古今無双の恋歌かと筆者の信じるものを一首、紹介しておく。

  成り成りて成り足らはねば、成り成りて

   成り余りぬる君をしぞ思ふ

 作者までどうやらわかっているらしい。宮武外骨『面白半分』第一号(昭和四年六月)によると、当時流行ったダンス芸者の一人で、女性文化資料の蒐集家としても有名だった花園歌子の作だという。対象なる「君」も想定されているが、別にいま必要もあるまいから名前は省略する。ただこの名歌、簡単に応用がきくから、きわめて便利である。たとえば、

  成り成りて成り余りぬれば、成り成りて

   成り足らはざらむ君をしぞ思ふ

などというのは、どうであろうか。男子読者の諸君に、ぜひおすすめしておきたいと思う。なお、(一)と書いたが、(二)はいつできるか保証しない。よほどネタにでも困ったときにする。   (70・4)

 令和4(2022)年8月20日。



   淮陰子、愛誦歌あれこれ(二) 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.22~23

 かつて安成二郎翁の作に、

  豊芦原瑞穂の国に生まれ来て、米が食へぬとは嘘のような話

というのがあった。大正五年刊、歌集『貧乏と恋と』に収められているものだが、淮陰子ならずとも、このユーモラスな諷刺皮肉を愛誦した日本人は、想像以上に多かったはずである。だが、米が余りに余って困り、政府が先に立って減産、休耕、作付かえに大汗を流しているばかりか、もったいないことに、古々米を家畜飼料に転用しようとすれば、これまた有害カビの発生で痛い頭を抱えている今日から見ると、これこそまことに「嘘のような話」といわねばならぬ。(最近は海中投棄説まで出ているらしい。)大正五年といえば、例の米騒動に先立つ二年、変れば変るものだが、いきおいわが愛誦歌もまた変らねばならぬ。歌は世につれとあるが、安成翁はまだ存命のはず(一九七四年没)、感慨こそ伺いたいものである。    

 それはさておき、故渋沢栄一翁がよく口にしたザㇾ歌に、 

  朝寝坊昼寝もすれば宵寝する、ときどき起きて居眠りもする

というのがあったらしい。愛息渋沢秀雄氏の著『攘夷論の渡欧』の中に出る。子息たちが朝寝坊をしていると、襖越しにこんなザㇾ歌を口吟みながら、いいかげんに起きろと促したものだという。したがって、果してこれが渋沢翁自作であるかどうかは、なんとも断定しかねる。あるいは、誰かそうした既作の一首があり、それが翁の愛誦するところだったのかもしれぬ。やはりなかなかユーモラスで愉快だから、そのまま紹介する。

 さて、最後は例によって、いささかお色気入りのを挙げてみることにする。おそらく江戸末期、天保ごろの落書と考えてもらってよさそうである。

  まろ(磨)もまださしたる老の身ならねば、握りさえすりゃじきに立つなり

 これを読んで、「アラ、Hだわ!」などとおっしゃる方は、おっしゃる自身こそHだと猛省していただく必要がある。というのは、この一首、猥雑どころか、血の出るような京都公家方の貧乏苦を詠みこんだものだからである。

 幕末期に際して、幕府の財政難もひどいものだったが、在京公家方の貧乏ぶりも、それに輪をかけてひどかったことは、いまでは周知の事実で、それにつけこむ金銭による幕府方買収の手もしばしば成功したわけ。そうした世相を皮肉ったものにすぎぬ。すなわち、公家方関東下向の折りなど、さかんに賄賂の居催促したらしいのだ。握らせさえすれば、すぐに出立するとの意を、さっそく洒落者の江戸っ児が、バレ句じみた落首に仕立てたものである。明治の末年、。旧4幕臣、古老などからの聞書をあつめていた同方会の機関誌に「落書類纂」として収められたものの中にある。   (70・11)

   令和4(2022)年8月21日。



   淮陰子、愛誦歌あれこれ(三) 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし――』 P.44~45

 話題に困ると、愛誦歌あれこれでお茶を濁すような始末、いささか恐れ入るが、

  楽しみはうしろに柱、前に酒、両手に女、ふところに金

 出所、作者ともに定かでないが、補注淮陰生はこれを英文学者故斎藤秀三郎氏のお得意として聞かされたことがある。斎藤秀三郎などといっても、若い読者諸君はもうご存知ないかもしれぬが、明治大正期の大英学者、英和・和英両辞典の編者というよりも、むしろ正則英語学校経営社として長い一時代を築いた。が、それよりも注目すべきは、かれが英学者などには珍しい、人間としては桁外れ巨人、豪傑だったことであろう。正則学校の全盛期は明治三十年代であった。したがって、大いに金も入ったが、かわりに花柳界での豪遊もさかんにした。おそらく当時の怪気炎だったのだろうと思う。名歌でもなんでもないが、なかなか穿ちえて妙である。(もっとも、この話、大村喜吉著『斎藤秀三郎伝』にも出ていぬから、真偽のほどは保証せぬ。)    

  春嶽は按摩のようななをつけて、 

   上を揉んだり下を揉んだり

春嶽とは、いうまでもなく幕末の福井藩主松平慶永(よしなが)である。文久二年政事総裁職に任ぜられて、大いに幕政改革を行おうとした。ある意味で、瓦解寸前の幕府権力に対する起死回生策を狙ったものであった。改革の詳細は述べぬが、そこには当然綱紀の粛正・冗費の整理、節約ということがあった。とりわけ画期的だったのは、三代将軍家光時代からの参勤交代制度を大いに弛め、諸大みょうは三年に一度の出府、江戸滞在も百日、さらに妻子の帰藩までも許すことにした。が、たちまちこの緊縮政策の煽りをくらったのは、江戸市民への不景気だった。江戸中、とりわけ各藩邸の周辺などは火の消えたようになった。さてこそ江戸っ児の洒落のめしたのが上記の落首であったという。そういえば春嶽、たしかに按摩にでもありそうな名前であり、「上を揉んだり下を揉んだり」には、かさすかなエロ味まで伏見える気がするのは果して牽強付会であろうか

 最後には新しいところを一つ。

  ひとみなのいのち亡ばば亡ぶべし、

   おのがいのちにつつがあらすな

 つい先年(一九六六年)文芸春秋社社長、というよりは作家佐々木茂索氏晩年の作であると聞く。人生ようやく老いの日を迎えて、ひとしお残照をいとしむ哀切さが、実に正直に出ていて、一抹のユーモアさえたたえているのがうれしい。あさましい生への執着などというのは当るまい。但し、淮陰子がこれを愛誦するのはその意味ではない。この一首、現代エコノミック・アニマル的財界というべきものを、これ以上見事に道破しえているものはあるまいと思えるからだ。「なべて世の企業亡ばば亡ぶべし、おのが企業につつがあらすな」   (71・10)

補注:この和歌、出所も作者も不明と書いたが、果して古くから俗間に流布していたザㇾ歌だったらしいことがわかった。ある読者からの御教示による。それによると、明治十三年七月付で例のうえ木枝盛がその著『言論自由論』の板権免許料上のう書というのに、自筆で「楽ミハ後に柱、前に酒、左右に女、懐ろに札」と書き込みされたものが遺っているそうである。家永三郎『うえ木枝盛研究』(岩波書店、昭和三十五年八月)一九七頁参照。なお、大田蜀山人作との教示を戴いたが、これは誤りのようで、江戸文学研究家の浜田義一郎教授も同意見だった。とても天明調狂歌とは思えない。そういえば、明治二十一年初演、三世河竹新七作、ご存知 籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)の吉原江戸町兵庫屋の場(有名な八ツ橋愛想づかしの場)でも、ほとんどそのまま使われている。これも一読者から教えられた。

 令和4(2022)年8月21日。



   淮陰子、愛誦歌あれこれ(四) 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし―― P.106~107

 愛誦というほどでないが、久しぶりにこの題目で書いてみる。

 淮陰子がまだ若いころ、京都のさる場所で「さてらい(ゝゝ)さんのおしもの(ゝゝゝゝ)は」云々という奇妙な一句ではじまる唄の歌詞を聞かされたことがある。その後も一、二回、雑書の類では見かけたが、実は聞かせた当人もよく意味を知らなかったらしい。が、そのうち市島春城翁の『随筆頼山陽』が出るに及んで(一九三六年)、はじめて詳しく由来を知った。それは頼山陽の生前、京都時代に、芸妓たちの間で歌われたものだそうで、全文を引くと、

   さて頼さんのおしもの(ゝゝゝゝ)は、川魚に赤味噌、(ねぎ)小口切、慈姑(くわい)の丸だき、    

   大根豆腐に雲丹うるか、駱駝(らくだ)に瓢箪、伊丹酒。

 ところで、この唄、上記市島氏の文によると、山陽がひどいシマリ屋だったということと関連して、どうやらそれを諷したものだというのである。真偽は知らぬが、酒のさかな(ゝゝゝ)としては、いずれも実にしゃれたものばかりである。豪勢な宴会料理などよりは、まさること万々という気の利いたものばかりだが、果して花街などでは、やはりシマリ屋のケチ趣味として諷されたものであろうか。いささか疑問はのこる。

 なおおしもの(ゝゝゝゝ)とは、召し上がりもの(ゝゝゝゝゝゝ)、転じてありきたりのもの(ゝゝゝゝゝゝゝゝ)というくらいの意。同じく駱駝は、男女あるいは夫婦同伴の意の江戸時代言葉。ここでは一応後者のほうとしておくが、あるいはときに江馬細香女史の場合もあったのであろうか。

 話は変るが、江戸幕末期から明治初年にかけて、淡路椿岳と呼ぶ大通の奇人風流の士がいた。本職は日本画家だったのであろうが、自由奔放をきわめた画風、とうてい規矩などにしばられる人物ではなかった。仏門に帰依して僧籍までとるかと思えば、他方ではまたひどく新しがり屋で、明治も初年そこそこにピアノなど買い込み、演奏会を開いて人々を煙に巻いたというような話もある。かつて、明治大正期の浅草は奥山、明治の見世物興行をはじめたのも、椿岳翁を先達とする奇人仲間であったという。逸話のために生まれてきたような人物で、一生に手をつけた趣味道楽は、おそらく数え上げるにたえぬかもしれぬ。さて以下は、明治二十二年、六十七歳で没した椿岳翁の辞世である。曰く、

  今まではさまざまのことをして見たが、死んでみるのは之が初めて

 いかにもこの人らしい一首である。翁のことは、とうていこんな短文で書きつくせるはずもなし、好奇の読者は内田魯庵の好著『思い出す人々』や幸田露伴の随筆、淡島寒月翁の文集『梵雲雑話』につかれたい。 

 ついでにいえば、この寒月翁がまた、親に輪をかけた無欲、風流の奇士であったばかりか、明治期西鶴復興の文字通り先鞭をつけた人で、日本近代文学史には逸することのできぬ名前のはず。さらに言えば、戦前早く昭和初年に日本で最初の小学校女校長になった女傑? 木内きよう女史は、この寒月翁の長女である。後ありというべきか。   (74・4)

 令和4(2022)年8月21日。



   淮陰子、愛誦歌あれこれ(五) 淮陰生著『完本一月一話――読書こぼればなし―― P.214~215

 だいぶもう前のことになるが、やはり同じ見出しで本欄に書いたことがある。久しぶりにまた話題にしてみようかと思う。但し、こんどのは必ずしも愛誦というほどではない。まず多少旋毛(つむじ)曲りで意地悪なてんごう(ゝゝゝゝ)口とでもいったところだろうか。

   江戸子は干潟に腐る海月(くらげ)かな、口はもちろん骨もなければ

 一見侠気で、叛骨で、弱きを扶け強きを挫くが本領だなと自負しながら、実は卑屈で、意気地もまたなかった江戸も末期の町人気質を、痛烈に諷した一首といえようか。もちろん「江戸子は五月(さつき)の鯉の吹流し」云々を踏まえた上で、さらに一段と痛罵をほしいままにしたものだが、「口先ばかり腸はなし」どころか、その口もなければ骨もないというのだからひどい。が、こうしたいやしさ、いやらしさの一面というのは、なにも江戸末期の市民だけとはかぎらず、いまもっていわゆる下町ッ子の一部には、歴然と跡を曳いているように思えるだけに面白い。作者は不詳。例の天保改革の表裏話を書いた故石井研堂氏(名著『明治事物起源』などの著者)のある一書に出ているから紹介したのだが、案外作者は研堂さん自身なのではあるまいか。    

 次はいささか陳腐だが、『徒然草』第六十二段に引かれている後嵯峨帝の皇女、悦子内親王の作とやらいう和歌一首。すでにご承知の読者も多かろうと思うが、 

  ふたつ文字、牛の角文字、直ぐな文字、歪み文字とぞ君は覚ゆる

 要するに「こいしく」思い参らすというだけのこと。正しくは「もじ(ゝゝ)ことば」というのだそうだが、ここまでくれば、やはり言葉の遊びにすぎないかもしれぬ。別にいうこともないが、ただちょっと興味深いのは牛の(つの)文字とは()であるのか、それとも()なのか。もし前者ならば、鎌倉も北条時代中期にすでに高貴の女性が表音式カナづかいをしていたことになる。

 ところで最後は妙な歌を一首。

  心なき身にもしたさは知られけり、高野(たかの)(ぎよう)の秋の夕暮れ

 作者は曠世の快人南方熊楠翁。のちには真言宗高野派管長にまでなった高僧土宜(どぎ)法龍師宛書簡(日付は明治三十六年七月十八日)の中に出る。法龍師は熊楠翁ロンドン滞留中から終生の心友であり、師宛に書いた驚くべき長文書簡の数々は、南方研究の資料宝庫とさえいえる(平凡社版全集ならば第七巻)。  

 内容の話題は奔放自在、とても応接にいとまないが、この歌の出るのは僧侶の淫念問題に触れ、寺院の内部に美天女、女菩薩などの絵の夥しいことに言及した一節。注釈がわりに前後を抄引すると、「いずれも内心したき故にあらざるはなし。(中略)したきものをせぬこと、いな、せぬように見せん見せんとのみ心がくるから、そんな外儀のことにのみ時をつぶし、真実の教義もなにも耳に入らぬなり。(中略)やりすぎて飽き満つるときは止むものなり」と。原歌があまりにも有名な西行法師作であることは、改めていうまでもあるまい。   (79・10)

※参考:南方熊楠が、後に生涯の友となる土宜法龍師と出逢ったのは、横浜正金銀行の支店長、中井芳楠の家であった。神坂次郎著『縛られた巨人』南方熊楠の生涯(新潮社)P.105~にくわしく書かれている。(黒崎記)

 令和4(2022)年8月21日。



 あ と が き

 本書は、一九七〇年一月から一九七五年一月まで『図書』に連載された「一月一話」「続一月一話」を一つにまとめ、再編集したものである。一九七八年六月までの一〇〇回分は岩波新書『一月一話 読書こぼればなし』(一九七八年七月)として刊行されている。本書では、その後の六六回分を加えて全体を編集しなおした。

 岩波新書には著者自身による「補注一束」が付されているが、その後の分については最小限の編集部注(編注)を付け加えた。

 なお、著者名はワイインセイと読む。漢の武将韓信の別称淮陰侯にちむものという。

編 集 部


一月一話 淮陰生(わいいんせい) 岩波書店   

 岩波書店の月刊読書誌「図書」と言えば、日本の読書子の中でも最も権威ある雑誌という評価があるのではないだろうか。その月刊「図書」に1970年以来、著者の死に至る1985年まで、巻頭言随筆として連載されていたのが、この「一月一話」である。

 世の中には博識の人とはいるものだが、この様な月刊誌で、読者をうならせ続ける博識や識見に基づく随筆を書き続けると言うのは並大抵のものではないことは想像に難くない。

 随筆の題材は古今東西のあらゆる分野に及んでいる。淮陰生の読書量と言うのはどの程度のものだったのだろうか。何しろ、このその様な万巻の図書をこつこつと読みこなしていった、膨大な努力とそれらの中の知識を自分のものとして、消化していく頭脳は驚嘆に値する。

 単なる蘊蓄ものならば、調べものをすれば知れるものも多いだろうが、この著者の蘊蓄はその程度の深さではない。著者の関心は実に多方面にわたっており、話しは欧米も含め、日本の風習である女性の立ち小便の話しがあったと思えば、古代ローマ史に言及するなど、飽きるところがない。

 淮陰生は結局その死後も、誰であったのか明らかにされていない。但し、死の時期あるいは、この随筆にも随所にあるヒントなどから、中野好夫ではないかと言われている。ただ、何故この著者が終生、匿名を通したのかは未だもって不明である。(95年7月発行)