日本の本より (明治時代以前) |
日本の本より (明治時代:1) |
日本の本より (明治時代:2) |
日本の本より (明治時代:3) |
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日本の本より (明治時代:4) |
★★★★★★ | ★★★★★★ | ★★★★★★ | 日本の本より (大正時代) |
日本の本より (昭和時代) |
★★★★★★ | ★★★★★★ |
外国の人々(1868年以前) | 外国の人々(1868年以後) | ★★★★★★ | ★★★★★★ |
外国の人々(1,868年以後) |
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私は月を好まない。月のなかには、何か不𠮷なものがあり、そしてそれは犬においてと同じように、私にも悲哀を痛々しくほえてみたい、という欲望をよびおこす。月は自分の光でかがやいているのではなく、死んでいて、そこには生活はないし、またありえない、ということを知ったとき、私は大へんうれしかった。(私の大学) 私は書物のなかで、私がかつて生活のなかで聞いたことのないような、思想に出会うことは希であった。(私の大学) 3月28日ロシアのニジニ・ノヴゴロドに生まれる。小学校中退、あらゆる職業をへて、社会主義リアリズムの創始者となる。代表作は『母』『どん底』 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.53 *青木雨彦監修『中年博物館』(大正海上火災保険株式会社)P.68
2020.05.03 |
余はこの旅行にいささかもくゆるところなし。われらはイギリス人が困難を克服し、相協力して、いまだかつてなき不抜の精神をもちて死に臨みたることを実証したるなり。われらは危険を敢てせり。われらはその危険なることを承知しいたり。ただ事情がわれらに組せざりしなり。さればわれらは何ら不満の意を表すべきいわれなし。ただ神の御心に頭を垂るるのみ。しかしなお最後まで最善をつくさんと決意しおれり。われらは進んで探検のことに命をささぐるものなりとはいえ、そはわれらの祖国の名誉のためにして、余は祖国の人々に、われらに頼りいたる家族の身の上を援護したわんことを懇請す。(最後の日記より) この日(3月29日)南極大陸の氷原上で死んだ。イギリス探検隊をひきいて南極点に到達したが、アムンゼンにおくれ、帰路荒天に合い遭難した。 *桑原武夫編『一 日 一 言』―人類の知恵―(岩波新書)P.53 2010.03.30 |
「わたしは、一人の人に可能なことは万人に可能である、とつねに信じている。」 「完全を望んで、無限の努力をすることは、人間の権利である。」 *『ガンジー自伝』より。
英国領インド帝国(現在のグジャラート州ポールバンダル)に生まれる。父は、当時のポールバンダル藩王国の宰相。 小学校時代は、成績や素行も悪く、ヒンドゥー教の戒律で禁じられている肉食を繰り返したり、タバコ代欲しさに召し使いの金を盗んだこともあった。13歳のときに、インド幼児婚の慣習により結婚。 18歳で弁護士になるためにロンドンに留学。卒業後に南アフリカで弁護士として開業するも白人優位の人種差別政策下で強烈な人種差別を体験。その後、インド系移民の法的権利を擁護する活動に従事するようになる。 インド帰国後は「非暴力、不服従」運動によってイギリスからの独立運動を指揮。1947年、ついにインドを独立させ、イギリス帝国をイギリス連邦へと転換させることになる。 1947年8月、パキスタンがインドから分離独立。ガンジーは、ヒンドゥー原理主義者からムスリムに対して譲歩しすぎるとして敵対視される。1948年1月、ガンディーは狂信的なヒンドゥー原理主義集団民族義勇団によって襲撃される。ピストルで撃たれたとき、ガンジーは自らの額に手を当ててこの世を去った。それはイスラム教で「あなたを許す」という意味の動作。78歳の生涯であった。 ガンジーの平和主義的手法は、キング牧師など、人権運動や椊民地解放運動において世界中に大きな影響を与えた。 ガンジーは、「この世界にこれだけ多くの人間が今も生きているという事実こそ、世界が武力にでなく、真理すなわち愛の力にもとづいていることを示すものです。ですから、この力の勝利の最大にして、もっとも申し分のない証拠は、世界に戦争が繰り返されたにもかかわらず、世界がいまなお存続しているという事実のうちに見出されます。」と述べています。 実際、「インド独立の父」ガンジーほど、多くの人びとから共感と支持を得た人間もめずらしい。一九四八年一月、独立したばかりのインドでくりひろげられていたヒンドゥー教徒とイスラム教徒との対立抗争に心を痛めたガンジーは、七十九歳という高齢にもかかわらず、死を覚悟の断食を行った。断食をはじめて六日目、ヒンドゥー教徒やイスラム教徒をはじめ、あらゆる派の人びとがガンジーの前にひれ伏して和解を誓い合い、断食の中止を要請した。カースト制度によって細分化され(バラモン、クシャトリアなどのカーストはさらに約二千ものサブカーストに分かれている)、そのうえ公用語が十五もあるというインドの複雑な社会を考えると、一人の人間がインド全体から支持を受けるというのは、奇跡にも等しいことである。また、ガンジーの思想と行動は欧米のみならず日本でも多くの人びとの共感を呼んでいるが、こういったことこそ、彼の言う「真理すなわち愛の力」がけっして絵空事ではないことを示す申し分のない証拠にちがいない。ガンジーについて考えることは、入間の心にひそむ悪しき傾きを自覚し、「真理すなわち愛の力」に思いをはせることにほかならない。 ガンジーはいかにしてマハトマ(偉大なる魂)となることができたのか。 人間に生れつきの固有な特性がそなわっているのは事実だとしても、人びとをそれぞれ独特な人間に仕立てあげるのは、日々の具体的な経験、それも、予期せぬ出来事との遭遇である。人を混乱と狼狽に追い込むような経験の中にあってこそ、人間の固有の特性があらわれ、また、新しい力や感覚がつけ加わってくるものである。人間はだれしも経験主義者であって、ガンジーのばあいにはとくにそう言える。 はじめて南アフリカに渡ったとき、ガンジーはこんな経験をする。プレトリアまで行くために一等車に乘つたところ、途中のマリッツバーグという駅で、駅員から貨物車のほうに移るように言われた。白人の客の一人が、「有色」人種といっしょにいることを嫌って、駅員を呼んできたのである。ガンジーは、一等車の切符を持っており、自分にはこの客車で旅行することが許されていると抗議したが、やがて巡査がやってきて、彼は荷物といっしょに放り出されてしまう。そして、貨物車に移るのを断ったガンジーは、その駅で一晩をすごすことになった。季節は冬で、身にしみるような寒さにふるえながらガンジーは考えた*―「私は権利のために闘うべきか。それともインドに帰るべきか。それとも侮辱を気にしないで、このままプレトリアに赴き、そして仕事が済みしだい、インドに帰るべきか。」 つぎの朝、ガンジーは、鉄道会社の総支配人にあてて長文の電報を打ち、そして、旅行を続けたが、そこにもまた同じような屈辱的経験が待ちうけていた。駅馬車に乗ったところ、ガンジーは、車内ではなく御者台の横に座らされることになったのであった。これに抗議すると、白人の車掌は彼に平手打ちをくらわせ、馬車から引きずりおろそうとした。 そこでガンジーはどうしたか。駅馬車会社の支配人に、その出来事をありのままに書いた手紙を出したのである。 こうしてガンジーは、いまなお南アフリカで行われている人種差別の実態を経験することになったわけであるが、ここで興味深いのは、のちにガンジーが、このマリッツバーグ駅での出来事について「生涯におけるもっとも創造的な経験」と言っていることである。 「もっとも創造的な経験」とはどういうことなのか。単に南アフリカにおける人種差別の実際を身をもって知ったということだけではなかろう。人間の心に新しい未知のはたらきを喚起してこそ、経験は「創造的」となる。そのときのガンジーの心理状態を思いうかべてみれば、どのような新しい心のはたらきが発現していたかは容易に想像がつく。要するに、怒り心頭に発していたはずである。それが人間として当然の反応というものである。しかし、その怒りにどう対処するかは人さまざまであり、その人がいかなる人間であるかがあらわれるのは、まさにこの点である。 それ以前にもガンジーは怒り心頭に発するような経験を何度もしていたにちがいない。しかも、この南アフリカでの経験を「生涯でもっとも創造的」と呼んだのは、怒りをどのようにコントロールするかということに思いがけない大きな意味を発見したからにちがいない。 怒りのコントロールと言っても、怒りを鎮めることではない。それは、怒りをどのように効果的に表明するかということにほかならない。鉄道会社の総支配人あてに電報を打ったのも、そのひとつの方法である。ガンジーが愛読していた『バガヴァッドーギーター』には、「怒りから迷妄が生れ、迷妄から判断力の混乱がおこる。判断力の混乱によって理性の喪失があり、理性の喪失によって人は滅びる」と記されている。怒りを効果的に表明する方法を心得ていさえすれば、怒りから迷妄が生れることは防ぐことができるはずである。 ガンジーの生涯はたびかさなる差別や虐待、圧政にいろどられているが、彼が一貫して考え、そして行動してきたことの根本にあったものは、怒りのコントロールということにほかならない。 ガンジーは、人一ばい強い内省心の持ち主であった。「人は自分自身の誤りは凸レンズをつけて見、そして、他人のそれには凹レンズをつけて見よ」と言っている。 彼の主張は、時代錯誤にして人間錯誤だといってもいいのかもしれない。しかし、現代において、この時代錯誤や人間錯誤を通してしか、世界の平和や心の平和は得られないのではなかろうか。 2015.10.12 思い死なず ガンジーの孫 「弱者抑圧の今こそ学んで」毎日新聞2018年1月28日
非暴力・不服従運動を主導したインド独立の父、マハトマ・ガンジー(1869~1948年)暗殺から30日で70年となるのを前に、ガンジーの孫ラージモーハン・ガンジー元上院議員(82)がインド西部ムンバイで毎日新聞のインタビューに応じた。ヘイトスピーチが世界を覆う現状に触れ「ガンジーは弱者の抑圧は恥ずべきことだと言っていた。もし生きていれば、今の世界を変えようとしただろう」と語り、現代こそガンジーの思想に学ぶべきだと訴えた。
ラージモーハン氏は、ガンジーの四男デーブダース氏の長男。10~12歳のころ、ニューデリーに滞在する晩年のガンジーと交流を持ち、2006年には伝記も出版した。「共に過ごす時間は短かったが、愛情深い祖父だった」と振り返る。 ガンジーは、孫にも冗談交じりに哲学を語った。ラージモーハン氏がメガネを新調したときのことだ。質素な生活を尊ぶガンジーは「鼻の上に何か新しいものがあるね」とからかった。「目が悪いんです」と反論すると、「レンズは必要だが、新しいフレームは要らないね」と語ったという。 暗殺の日も覚えている。父の秘書から「撃たれた」と知らされ、急いで現場に向かうと、ヒンズー教の宗教歌を口ずさむ人だかりの中、遺体が白い布に寝かされていた。「ショックだったが、驚きはなかった。祖父に対し怒っている人がいると知っていたから」 ガンジーはヒンズー教徒とイスラム教徒の融和や、カースト制の最底辺に位置する「不可触民」への差別の撤廃を訴えた。だが、インドでは今も宗教暴動やカースト差別が続く。ラージモーハン氏は「多数派の一部が少数派を抑圧する権利があると思い込み、政府はそれに対して何もしない。平等なインド社会を目指したガンジーの思想に反する」と批判。米トランプ政権による移民規制などにも触れ、弱者への抑圧は世界的な潮流となり、不名誉ではなくなってしまった。弱者は権利のために闘うべきだ」と指摘した。また「暴力は結果を生み出さない。非暴力闘争で世界に訴えるべきだ」と強調した。 ラージモーハン氏はガンジー同様、人権活動家として長年、平等や宗教融和などを目指す運動に参加した。「正しい道を進もうとしたら、ガンジーと同じ道を歩んでいた」と語る。ニューデリーの貧しい小屋でガンジーと再会する夢を繰り返し見た時期があった。「インドがまたガンジーを必要としていると感じた。彼の思想は死ぬことはない」【ムンバイ(インド西部)で金子淳】 【ことば】マハトマ・ガンジー 本名モーハンダース・カラムチャンド・ガンジー。マハトマは「偉大なる魂」との意味の尊称。英国留学後に弁護士になり、南アフリカでインド系住民の人権活動に従事。帰国後にインド独立運動を率いた。宗教融和を重んじ、インドとパキスタンの分離独立にも反対した。インド伝統の身分制度カースト制はヒンズー教の慣習だとして容認していたが、不可触民(ダリト)への差別やカースト間の優劣を否定し、平等を説いた。48年1月30日、ニューデリーでヒンズー至上主義者に銃撃され78歳で死亡。 2018.02.04 |
アラン(Alain)ことエミール=オーギュスト・シャルティエ(フランス語:Émile-Auguste Chartier)(1868~1951年)は、フランス帝国(フランス第二帝政)ノルマンディー・モルターニュ=オー=ペルシュ出身の哲学者、評論家、モラリスト。 ペンネームのアランは、フランス中世の詩人、作家であるアラン・シャルティエ(英語版)に由来する。 1925年に著された『幸福論 (アラン)(フランス語版)』でな高いが、哲学者や評論家としても活動し、アンリ・ベルクソンやポール・ヴァレリーと並んで合理的ヒューマニズムの思想は20世紀前半フランスの思想に大きな影響を与えた。 体系化を嫌い、具体的な物を目の前にして語ろうとしたのがアランの手法で、理性主義の立場から芸術、道徳、教育などの様々な問題を論じた。フランス文学者の桑原武夫は《アランの一生は優れた〔教師〕の一生であったと言えよう》と評している。また、アランの弟子で同国出身の小説家、評論家であるアンドレ・モーロワは1949年にアランの伝記や教えをまとめた『アラン(Alain)』の中で、アランを〔現代のソクラテス〕と評している[11]。
▼『幸福論』(集英社文庫)1993年6月5日 一 幸福だから笑ふわけではない。むしろ笑ふから幸福なのだと言いたい。P.240 二 決心する前に、完全に見通しをつけようとする者は、決心することが出来ない。
三 小雨が降っているとする。あなたは表に出たら、傘をひろげる。それだけでじゅうぶんだ。P.200
笑う健康法 『幸福論』(アラン)より、 もしある専制君主がぼくを投獄して権力を尊重させようとしたならば、ぼくは毎日ひとりで笑うことを健康法とするであろう。足を強化するためトレーニングをするのと同じように、ぼくは自分のよろこびを強化するためトレーニングをするであろう。 しあわせだから笑っているのではない。むしろぼくは、笑うからしあわせなのだ」、と言いたい。 笑うことで免疫力や自然治癒力が高まるそうです。また、笑うことはストレス解消にもつながります。笑いは心身の健康にいいのです。 他にも笑いの効用はいろいろあるようです。 笑うことは、いろんな時に、いろんな場所で、簡単にできる、有効な健康法と言えるでしょう。 笑うことで、よろこぶ能力(幸福を感じる能力の一部)を活性化できるのでしょう。 たいていの能力は、使えば維持でき、使わなければ衰えます。そして、工夫して使えば向上させることができると思います。 笑うことを日課のトレーニングとして、よろこぶ能力を強化できるといいのでしょう。 幸福を感じることも練習(たとえば、ハッピー・ウォーキング)から始めてみるといいでしょう。幸福を感じる能力が高まれば、それだけ幸福に暮らせるようになれるでしょう。 心から笑えている時には幸福な気もちになれます(笑う形だけでも少しは明るく元気になれるでしょう)。 また、自分が笑っているとまわりの人にも伝わります。それが少しは自分に返ってきて、また自分も少し幸福な気もちになれます(幸福は伝染・反射する)。 笑うことは、上機嫌の実践方法であり、幸福になる方法でもあると思います。 「私は永久に自分を束縛した。私は選択した。今後の私の目的は最早自分に気に入る者を探すのではなくて、自分が選んだ者の気に入ることであろう」。1954年4月19日の日記に記載していた。3月26日婚約決定していた。 エミール=オーギュスト・シャルティエ:ペンネーム アラン(Alain) 誕生:1868年3月3日 フランスの旗 フランス帝国ノルマンディー・モルターニュ=オー=ペルシュ 死没:1951年6月2日(満83歳没)フランスの旗 フランスル・ヴェジネ 職業:教師、哲学者、評論家、モラリスト 代表作:『幸福論 (アラン)(フランス語版)』(1925年) アランの影響を受けたアンドレ・モーロワ 2017.08.23 追加。 |
われわれの世代の生活は、父の代のときよりも、もっとくるしい。しかし、一点において、われわれは父たちよりずっと幸せである。われわれは、ただかうことをまなんだし、また急速にまなびつつある。しかも、父たちのなかでもっともすぐれた人々のように単独にではなく、……われわれの階級のスローガンのもとにたたかうことをである。われわれは父たちよりも立派にたたかっている。われわれの子供たちは、さらに立派にたたかい、勝利をおさめるであろう。 4月22日ロシアのシンビㇽスクに生まれる。ボㇽシェヴィキ党(共産党)の基礎をきずき、ロシア社会主義革命を指導し、成功させた。『帝国主義論』 桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.67 2020.07.11 |
アーネスト・ラザフォードネルソン卿アーネスト・ラザフォード 他の指導学生:パトリック・ブラケット、ニールス・ボーア、エドワード・ブラード、ジェームズ・チャドウィック、ジョン・コッククロフト、ハンス・ガイガー、オットー・ハーン、ピョートル・カピッツァ、マーク・オリファント、フレデリック・ソディ、ダグラス・ハートリー 主な業績:原子核物理学の父、ラザフォード・モデル、ラザフォード散乱、ラザフォード後方散乱分光、陽子の発見 影響を与えた人物:ヘンリー・モーズリー、ハンス・ガイガー、アルベルト・ウッド(英語版) 主な受賞歴:ノーベル化学賞(1908年)受賞理由:元素の崩壊、放射性物質の化学に関する研究 初代ネルソンのラザフォード男爵アーネスト・ラザフォード(英: Ernest Rutherford, 1st Baron Rutherford of Nelson, OM, FRS)は、ニュージーランド出身、イギリスで活躍した物理学者、化学者。 マイケル・ファラデーと並び称される実験物理学の大家である。α線とβ線の発見、ラザフォード散乱による原子核の発見、原子核の人工変換などの業績により[原子物理学の父]と呼ばれる。 1908年にノーベル化学賞を受賞。ラザフォード指導の下、チャドウィックが中性子を発見、コッククロフトとウォルトンが加速器を使った元素変換の研究、エドワード・アップルトンが電離層の研究でノーベル賞を受賞している。後にラザホージウムと元素名にも彼はなを残している。※ 4族に属する人工放射性元素。 質量数255から262の同位体が確認されている。 英国の物理学者ラザフォードのなにちなむ。 元素記号Rf 原子番号104。
参考1:ラザフォードの原子模型:水素原子、ヘリュム原子、炭素原子の図示され、原子核は、陽子と中性子という、さらに小さな粒子から構成されていることがわかった。が『新物理ⅠB』(第一学習社)P.171
物理学の進歩の速さをながめて、私は、自然にかんするわれわれの知識をひろめる科学的方法の力づよさに、ますます感銘するようになった。実験というものが、一個人の、あるいはさらにいいことには、さまざまな心的傾向の個人たちの集まりの、訓練された想像力によって導かれるとき、それは最大の哲学者の単独の想像力をはるかにしのぐ結果に到達することができるのだ。……ときおり、蓄積された知識をふまえた、電光のごとく光る着想が生じ、一そう広い領域を照らしだし、個々の諸努力のあいだの関連を示す。かくてその後に全般的名前進が続くのである。]
(S・A・イーブ著『ラザフォード卿の生涯と書簡』)
この日(8月30日)生れたイギリスの実験物理学者。核放射物質を研究し、α、β、ɤ 線を発見、また原子核の存在を確認し、原子模型を示した。 *桑原武夫編『一 日 一 言』―人類の知恵―(岩波新書)P.143 2021.12.28 |
ジョルジュ・ルオー(Georges Rouault)は、フォーヴィスムに分類される19世紀~20世紀期のフランスの画家。 ルオーは、パリの美術学校でアンリ・マティスらと同期だったこともあり、フォーヴィスムの画家に分類されることが多いが、ルオー本人は[画壇]や[流派]とは一線を画し、ひたすら自己の芸術を追求した孤高の画家であった。
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.123
For me, painting is a way to forget life. It is a cry in the night, a strangled laugh.
《訳》 私にとって絵画は人生を忘却する一つの手段なのだ。闇の中で立てる悲鳴であり、咽喉を絞められて発する笑いなのだ。
ルオ―(Rouault,1871~1958)はフランスの画家。自分が絵を描くのは、暗闇の中で悲鳴を立てるようなものであり、咽喉を締めつけられながら笑い声を立てるようなものだ――というのは、彼にとって人生は耐え難い苦痛であったのだ。ルオ―のファンは日本にも多いが、彼の作品の背景にこの悲痛な生活があったとは知らない人が多かろう。 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン, 1850~1904)は己の身を食い潰しても鳴くことを辞めなかった「草雲雀」に藝術魂を投影させた。またシューベルト(Franz Schubert, 1797~1828)の次の言葉、No one can understand the joy or sorrow of others.(他人の喜びや悲しみは誰にも分らないものだ)も感慨深い。 2021.11.17 |
山のあなたの空遠く 「幸」住むと人のいふ。
噫、われひとゝ尋めゆきて
カール・ブッセ
Über den Bergen
Über den Bergen weit zu wandern
2008.4.18 |
このわれわれの住む世界において、未知として残されたところのものは、すべて人々にとっての重荷である。それは人がいまだ征服しつくさざることを示すものとして、また人類の弱点を証拠立てるものとして、また自然を知りつくす上においての、いまだ果されざる決闘状として残るのである。一切の秘せられたるものをときあかし、すべての未知の区域を探検すること、それは全人類の精神を高揚せしめ、勇健の気を強めるものである。文明を促進し保持する強固なる精神力の結合こそ、この道をひらくものでなければならぬ。 一九一一年の十二月十四日はじめて南極点に到達した、ノルウェイの大探検家。一九二六年には航空船による北極探検に成功した。 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.207
参考1:「スコット」を見てください
2010.04.15 |
THE CROWN EGLISH READER ⅡB SANSEIDO P.136~141 The Road to Happiness Who are the happiest people in the world? Are they always those who have good health and plenty of money? No, not always. The person who is happy is one who is able to do something which he or she really likes doing. This lesson tells us some of Bertrand Russell's ideas about happiness.
※Bertrand Russell There are a great many people who have the material conditions of happiness, i.e. health and a large income, and who, nevertheless, are profoundly unhappy. This is especially true in America. In such cases it would seem as if the fault must lie with a wrong theory as to how to live. In one sense we may say that any theory as to how to live is wrong. We imagine ourselves more different from the animals than we are. Animals live on impulse, and are happy as long as outside conditions are favorable. If you have a cat, it will enjoy life if it has food and warmth and opportunities for an occasional night on the roof. Your needs are more complex than those of your cat, but they still have their basis in instinct. In civilized societies, especially in English-speaking societies, this is too apt to be forgotten. People propose to themselves some main objective, and restrain all impulses that do not minister to it. A businessman may be so anxious to grow rich that to this end he sacrifices health and the private affections. When at last he has become rich, no pleasure remains to him except worring other people by encouraging them to imitate his noble example. Many rich ladies, although nature has not endowed them with any spontaneous pleasure in literature or art, decide to be thought cultured, and spend boring hours learning the right thing to say about fashionable new books. It does not occur to them that books are written to give delight, not to afford opportunities for a dusty snobbism.
If you look about you at the men and women whom you can call happy, you will see that they all have certain things in common. The most important of these things is an activity which at most times is enjoyable on its own account, and which, in addition, gradually builds up something that you are glad to see coming into existence. Parents who take an instinctive pleasure in their children can get this kind of satisfaction out of bringing up a family. Artist and authors and men of science get happiness in this way if their own work seem good to them. But there are many humbler forms of the same kind of pleasure. Many men who spend their working life in the City devote their weekend to voluntary and unpaid work in their gardens, and when the spring comes they experience all the joys of having created beauty.
It is impossible to be happy without activity, but it is also impossible to be happy if the activity is too hard or of an unpleasant kind. Activity is agreeable when it is directed very obviously to a desired end and is not in itself contrary to impulse. A dog will pursue rabbits to the point of complete exhaustion and be happy all the time, but if you put the dog on a treadmill and gave him a good dinner after half an hour, he would not be happy till he got to the dinner, because he would not have been engaged in a natural activity meanwhile. One of the difficulties of our time is that , in a complex modern society, few of the things that have to be done have the naturalness of hunting. The consequence is that most people, in a technically advanced community, have to find their happiness outside the work by which they make their living. And if their work is exhausting their pleasures will tend to be passive. Watching a football game or going to the movies leaves little satisfaction afterward, and does not in any degree gratify creative impulses. The satisfaction of the players, who are active, is of quite a different order. The wish to be respected by neighbors and the fear of being despised by them drive men and women into ways of behavior which are not caused by any spontaneous impulse. The person who is always "correct" is always bored, or almost always. It is a great sorrow to watch mothers teaching their chidren to restrain their joy of life and become quite puppets. The pursuit of social success, in the form of prestige or power or both, is the most important obstacle to happiness in a competitive society. I am not denying that success is a part of happiness――to some, a very important part. But it is not, by itself, enough to satisfy most people. You may be rich and admired, but if you have no friends, no interests, no spontaneous useless pleasure, you will be miserable. Living for social success is one form of living by a theory, and all living by theory is dusty and dry. ※ノーベル文学賞賞。受賞年:1950年 Copy on September 15,2012.
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.70 〔64〕
So far as I can remember, there is not one word in the Gospels in praise of intelligence.
《訳》 およそわたしの記憶にある限り、聖書の中に知性をたたえる言葉はただの一語もない。
「知性をたたえる言葉が一語もない>と言われると、誰もギクㇼと思い当るだろう。ラッセル(1872~1970)は代数学者であり、哲学者でもあり、聖書を見るにも知性の目を忘れなかった。([65]参照) 2021.11.17
〔65〕
Christ believed in hell. I do not myself that any person who is really profoundly human can believe in everlasting
punishment.
《訳》 キリストは地獄の存在を信じていた。本当に慈悲心の深い人間が永久の刑罰の価値を信じるとは、この私にはどうもぴん
とこない。
キリストの教えは罪びとは地獄に落ちて eternal punishment 「永劫の罰」を受けるのを当然としている。山を動かす信仰があ っても愛がなければ価値なし、とした考え方と矛盾するではないか、という思想である。 ラッセルには宗教を科学者のの目で冷静に見た著作『私はなぜキリスト教徒でないか』(Why I am Not A Christian,1957)がある。これはキリスト教的人道主義者・内村鑑三の『余は如何にして基督教徒となりにしか』と好対照である。([64]参 照) 2021.11.26 |
▼『MAN,THE UNKNOWN』 一 Senescence seems to be delayed when body and mind are kept working. In middle and old age, man needs a stricter discipline than in children. ※アレキシス・カレル 渡部昇一訳『人間この未知なるもの』(三笠書房)(1980年10月25日)第1刷発行。 |
☆14ギルバート・キース・チェスタトン (Gilbert Keith Chesterton)(1,874~1,936年)
ギルバート・キース・チェスタトンはイギリスの作家、批評家、詩人、随筆家。ロンドン・ケンジントンに生まれ。セント・ポール校、スレード美術学校に学ぶ。推理作家としても有名で、カトリック教会に属するブラウン神父が遭遇した事件を解明するシリーズが探偵小説の古典として知られている。ディテクションクラブ初代会長。
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.18~ 〔17〕
The two things that a healthy person hates most between heaven and hell are a woman who is not dignified and a man who is.
《訳》 この世で健全な人がもっとも憎むものは凛としたところのない女性と凛善と構えて男性だ。。
[凛としたところのない」女性は decency 「品格」に欠ける女性、要するに品のない女性のことか。「凛然と構えている」男性は、さしずめ「お高くとまっている」男性と言ったところだろう。 チェスタートン(1874~10936)はイギリスのジャーナリスト、作家、ローマカトリック教徒であり、保守的な政見の持ち主として知られる。エッセイ集、ブラウン神父を主人公とする探偵小説シリーズ、批評や論争術に関する著作がある。([71][75]参照) 2021.11.29 〔71〕
The two things that a healthy person hates most between heaven and hell are a woman who is not dignified and a man who is.
《訳》 この世で健全な人がもっとも憎むものは凛としたところのない女性と凛善と構えて男性だ。。
「凛としたところのない」女性は decency 「品格」に欠ける女性、要するに品のない女性のことか。「凛然と構えている」男性は、さしずめ「お高くとまっている」男性と言ったところだろう。 チェタートン(1874~10936)はイギリスのジャーナリスト、作家、ローマカトリック教徒であり、保守的な政見の持ち主として知られる。エッセイ集、ブラウン神父を主人公とする探偵小説シリーズ、批評や論争術に関する著作がある。([71][75]参照) 2021.11.29
〔75〕
It is the test of a good religion whether you can joke about it.
《訳》 宗教の良し悪しは、冗談が言えるかどうかで決まる。
優れた宗教には批判を許す包容力が備わっているという。とかく独断専行、狭隘になりがちな宗教に対する批判と受け止められる。([17][71]参照) 2021.11.29 |
☆15ロバート・リー・フロスト(Robert Lee Frost)(1,874~1,963年)
ロバート・リー・フロストはアメリカ合衆国の詩人。作品はニューイングランドの農村生活を題材とし、複雑な社会的テーマや哲学的テーマを対象とするものが多く、大衆的人気も高く広く知られた。生前から表彰されることもしばしばで、ピューリッツァー賞を4度受賞した。1961年にはジョン・F・ケネディアメリカ合衆国大統領就任式で詩を朗読した。ダートマス大学(科目履修生)、ハーバード大学(科目履修生)
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.118
Writing free verse is like playing tennis with the net down.
《訳》 自由詩を書くのはネットの高さを提げてテニスをするようなものだ。
フロスト(1874~1961)はアメリカの詩人。ニューイングランドの自然と生活を平明な言葉で写実的に、象徴的に描写した。詩の伝統的な壁を離れ、通例脚韻もふまない自由詩はホイットマン(Walt Whitman. 1819-92)以来現代詩に多く見られるが、ここまでは定型詩の持つ一定の制約のもとにいかに詩情を展開させるかに詩人としての力量が問われるのだと言いたいのだろう。フロストは言う。A poem……begins as a lump in the throat, a sense of wrong, a homeesickness, a lovesickness……(喉の痞え、誤謬感覚、郷愁、恋の悩みが詩の始まりだ。……これが思考を生み、今度は、その思索が言葉を生み、今度は、その思索が言葉を生むのだ) Publishing a volume of poetry is like dropping a rose petal down the grand Canyon and waiting for the echo.(詩集を出すのはバラの花びらを一枚、グランド・キャニオンの谷底へ落して、そのこだまに耳を澄ましているようなものだ)とアメリカの、ユーモア作家ドン・マーキスは言う。たとえ理解する人が皆無であれ、詩人はその詩心を歌い上げないわけにはいかないのだ。 2021.12.10 |
☆16サー・ウインストン・チャーチル(1,874~1,965年)
楽天家は、困難の中にチャンスを見い出す。 悲観論者は、チャンスの中に困難を見る。 「チャーチル」の名言がGoogleでたくさんよむことができます。 ■チャーチルクリックしてください。第二次世界大戦終戦間近に行われた「ポッダム会議」についての記録です。 2009.11.11
橋本 宏『英語で読む 英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.83~
〔79〕
Odd things animals. All dogs look up to you. All cats look down to you. Only a pig looks at you as an equal.
《訳》 妙なものだな、動物って奴は。イヌはどのイヌもみな人間を尊敬するし、ネコはどのネコも人間を軽蔑する。おれたちを対等に見てくれるのはブタだけだよ。
第二次世界大戦のとき、首相としてイギリスを勝利に導いたチャーチル(1874~1965)に、こんな無邪気が伝えられているのは 愉快である。ただ無邪気なだけでなく鋭い観察でもある。なるほど、たぶんブタはわれわれを人間と認めるのでなく、単に一種の 動物と受け取るだけで、別に尊敬もしなければ軽蔑もしないのだろう。ブタの目には、人間を詳しく観察するに値しない動物にす ぎないのかもしれない。([103][104]参照) ただし、日本人はすべてのネコに見下げられていると思っていないだろう。われわれを愛しているネコがいくらでもいるような 気がしている。もしかするとイギリスのネコは日本のと少し性格が違うのかも知れない。([103][104]参照) 2021.10.30
〔103〕
I have nothing to offer but blood, toil, years and sweat.
《訳》 私が提供できるのはただ血と労力と涙と汗だけだ。 ウインストン・チャーチル 第二次世界大戦のとき、首相としてイギリスを勝利に導いたチャーチル(1874~1965)に、こんな無邪気が伝えられているのは愉快である。ただ無邪気なだけでなく鋭い観察でもある。なるほど、たぶんブタはわれわれを人間と認めるのでなく、単に一種の動物と受け取るだけで、別に尊敬もしなければ軽蔑もしないのだろう。ブタの目には、人間を詳しく観察するに値しない動物にすぎないのかもしれない。([103][104]参照) チャーチルが首相として1940年5月13日下院で行った演説の一部。ドイツ軍のベルギー、オランダ侵攻にに際して、チャーチルは連立内閣の首相となり国防相を兼ねた。イギリスを勝利に導こうとする並々ならぬ決意がみなぎっている。([79][104]参照) 2021.11.24
〔104〕
Never in the field of human conflict was so much owed by so many to so few.
《訳》 およそ人間同士の闘争の戦場において、かくも多数の人間がかくも少数の人間にかくも大きな恩恵を受けたことは未(いま)だかつてない。
これは1940年8月20日になされたチャーチルの議会における演説でのとくに有名な一節。遙かに優勢なドイツ空軍のロンドン急襲に対して、劣勢のイギリス空軍が見事に敵を撃退した功績をたたえたもの。 so many はイギリス国民をさし、so few は活躍してイギリス空軍の将兵をさす。この名演説、一般に戦争終結後と思われているが、実は戦争の初期のことで、ドイツ軍の空襲は8月8日から10月31日に及び、とくに9月15日が最悪の日であった。わずか17語の短文だが、英文構成の面白さを十分に味わえる例として、暗誦しておけばいろいろ役にたつ。([79][103]参照) 2021.11.24 |
☆17ウィリアム・サマセット・モーム(1,874~1,965年)
ウィリアム・サマセット・モーム(William Somerset Maugham)は、イギリスの小説家、劇作家。 フランス、パリ生まれ。10歳で孤児となり、イギリスに渡る。医師になり第一次大戦では軍医、諜報部員として従軍した。1919年に『月と六ペンス』で注目され、人気作家となった。平明な文体と物語り展開の妙で、最良の意味での通俗作家としてなを成した。作品に『人間の絆』『お菓子とビール』や短編『雨』『赤毛』、戯曲『おえら方』など。ロシア革命時は、秘密情報部に所属した情報工作員であった。同性愛者としても知られている。
橋本宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.39 〔37〕
It is not true that suffering ennobles the character; happiness does that sometimes, but suffering, for the most part, makes men petty and vindictive.
《訳》 苦労が人格を高めるというのは真実ではない。ときに幸福はそれをすることがあるが、苦労は多くの場合、人を偏狭にし執念ぶかくする。
人は苦労すれば人格が鍛えられ高められる――その意味の言葉はたくさんある。たとえば Adoversity makes a man wise.(艱難なんじんを珠にす)とか、Adversity makes a man of you.(逆境は人を一人前にする)があり、シェイクスピアにも Sweet are the uses of adversity.(逆境の効用はすばらしきかな)(『お気に召すまま』第2幕第1場)などと有名な句がある。 ところがモームのこの言葉はそれの正反対だ。おそらく彼は、現実の人生ではむしろこれが普通で、苦労によって円満な人格が完成するというのは職業的な道徳論者のウソだ、と言いたいのだろう。その意味でこれは類の少ない貴重な意見である。これは吃音に苦しみ、劣等感を克服し、小説家、劇作家として大成したモームの心情が吐露されているのかもしれない。 モーム(1874~1965)はイギリスの小説家、劇作家。『月と六ペンス』(The moon and Sixpence, 1916).『人間の絆』(Of Human Bandage, 1915)を始め多くの作品がある。やや通俗的な一面もあるが人気が高かった。モームの姓は Maughamと書く。日本では、古くは「モーガム」と、誤って読んだ例がある。([62][63]参照) 2021.11.29
〔62〕
I don't know why it is that the religious never ascribe common sense to God.
《訳》 信心深い人が神は常識をもちたまう、と決して言わないのは一体なぜだろう。
イギリスの作家モームは人間心理の表裏を細かく描く作家だから、宗教に反対するにもこんな点が目につくらしい。どの宗教にも常識豊かな神はあまり出てこないようだ。([37][63]参照) 2021.11.17
〔63〕
In heaven when the blessed use the telephone they will say what they have to say not a word besides.
《訳》 天国では(天国の)住民が電話を使うとき、ただ用事だけ話してあとは一言も言わないのだろう。
「天国の住民はたぶん無駄口をきかないのだろうね」とはモームらしい皮肉。大酒飲みが天国の説教を聞かされたあと、「天国にもいい飲み屋があるんですか」と言った話を思い出す。 ([37][62]参照) 2021.11.30 |
☆18 パウル・トーマス・マン(Paul Thomas Mann)(1,875~1,955年)
パウル・トーマス・マンは、ドイツ出身の小説家。 リューベックの富裕な商家に生まれる。当初は実科を学んだが処女小説『転落』が認められて文筆を志し、1901年に自身の一族の歴史をモデルとした長編『ブッデンブローク家の人々』で名声を得る。その後市民生活と芸術との相克をテーマにした『トーニオ・クレーガー』『ヴェニスに死す』などの芸術家小説や教養小説の傑作『魔の山』を発表し、1929年にノーベル文学賞を受賞した。 1933年にナチスが政権を握ると亡命し、スイスやアメリカ合衆国で生活しながら、聖書の一節を膨大な長編小説に仕立てた『ヨセフとその兄弟』、ゲーテに範を求めた『ワイマルのロッテ』『ファウストゥス博士』などを発表。終戦後もドイツに戻ることなく国外で過ごしたが、『ドイツとドイツ人』などの一連のエッセイや講演でドイツの文化に対する自問を続けた。 兄ハインリヒ・マン、長男クラウス・マンも著名な作家である。
私は、何が必要であるかを、簡単な言葉でいおう。それは、自由の改造である。……私が考えている改造は、すなわち社会的な意味をもった改造でなければならない。……まったくの善良さと人道的な懐疑から出発して、もはや自分自身をも信じないまでになった自由は、狂信主義と向かいあうと敗けてしまう。自由が今日必要としているのは、軟弱なヒューマニティ〔人間性〕、辛抱づよく自己を疑ってゆくような人間性ではない。……必要なものは、意志が強固で、自己を保存する決意に勇敢な人間性である。自由は男らしさを発見せねばならぬ。(民主主義の勝利)
この日(8月12日)死んだ現代ドイツの大作家。文明批評の精神にみちた大作を発表しノーベル賞をうけた。ナチズムに反抗し民主主義を擁護した。主著『魔の山』、『トニオ・クレーゲル』。 *桑原武夫編編『一 日 一 言』―人類の知恵―(岩波新書)P.133 2022.01.08記す。 |
☆19カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung)(1,875~1,961年)
カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung)(1875~1961年)は、スイスの精神科医・心理学者。ブロイラーに師事し深層心理について研究、分析心理学(ユング心理学)を創始した。
ある人に合う靴も、別の人には窮屈である。
2008.04.04 |
☆20アルベルト・シュバイツァー (Albert Schweitzer)(1,875~1,965年)
昔は倡家の女 今は蕩家の妻 蕩子行きて帰らず 独り寝の守り難し (二・三世紀ごろの古詩の中の末四句) この詩は、はなはだワイセツといわれてもよいものであるのに、ワイセツ文学と見なされることがないのは、真実をもっているからである。五代・北宋のすぐれた詩人の場合も同じである。彼らにワイセツな作品がないのではないが、読者はもっぱら切実な感動だけを感じとる。すなわち、一つの作品がワイセツ文学に陥るのは、そのワイセツさのためではなくして、それが実から浮き上っているためである。 5月03日この日万寿山の昆明湖に身を投ず。清朝の遺臣として節を守った学者。日本京都にながく居住、古典や新資料を科学的に研究、偉大な成果と影響を残す。 桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.75 2020.07.15 |
一 我々がある人間を憎む場合、我々は彼の姿を借りて我々の内部にある何者かを憎んでいるのである。 二 鳥は卵からむりやり出ようとする。卵は世界である。生まれ出ようとする者は一つの世界を破壊しなければならない。 三 あやまちも失敗も多かった。だが後悔する余地はない。 2010.01.04 |
☆23アインシュタイン(1,879~1,955年)
一 常識とは18才までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。 二 私たちの生き方には二通りしかない。奇跡など全く起こらないかのように生きるか、すべてが奇跡であるかのように生きるかである。 三 聖なる好奇心をもちたまえ。人生を生きる価値のあるものにするために。 ▼『アインシュタインは語る』(大月書店) 私たちを、高尚な考えと高貴な行いに、導くことができるものは、ただひとつ、偉大で純粋な人物が示す模範である。 2008.5.26 ▼『アインシュタイン選集3』「私の世界観」 人間の真の価値
人間の真の価値は、まず第一に彼がいかなる程度に、いかなる意味において、「私」(Ich)からの解放を果たしているかによって決定される。人間の価値の源泉は何かといえば、それは,主として思いやりであるといえよう。
その他 一 我々は、我々の隣人たちの心を変えるのに、機械的な方法によることは止めよう、そして、我々自身の心を変えて、話し合う勇気を持つようにしょう。 二 教育の目的は、今日行われているように力と成功とを美化するのではなくて、性来の才能を伸ばすと同時に同胞に対する個々人の責任感を育てることにあると思う。
三 神はサイコロ遊びをしない。神様は狡猾だが、しかし悪意はもっていない。
▼アインシュタインの「自画像」『晩年に思う 我が信条』(講談社文庫) 自画像(1936)
人々は、自らのあり方の意義深いものについては、ほとんど意識することがありま せん。そして確かにそれは、他の人々にとって迷惑なことでもないのです。一生涯、水の中で泳ぎまわっている魚は、水について何を知っているのでしょうか?
▼『アインシュタインの世界』インフェルト著(講談社) アインシュタインは、教育の目的の中で,「今日行われているように力と成功とを美化するのではなくて,本来の才能を伸ばすと同時に同胞に対する個々人の責任感を育てることに焦点が当てられるべきである。」と、p.231 2008.05.31 ~2010.08.31 ~2010.12.11
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.49~ 〔172〕
Isn't it strange that I who have written only unpopular books should be such a popular fellow ?
《訳》 人気のない本しか書いてこなかったこの私がこれほどの人気者になるとは実に変ではないか。
I awoke one morning and found myself famous.(ある朝目が覚めたら有名になった)は詩人バイロン(Lord Byron, 1788~1824)のセリフだが、これは一般の人には難解な相対性理論を打ち立て、にわかに脚光を浴びたアインシュタインのユーモラスな発言。アインシュタイン自身、相対性理論をこう説明している。When you are courting a nice girl a hour seems like a second. When you sit on a red-hot cinder a second seems like an hour. That's relativity.(すてきな女の子に言い寄っていると、一時間が一秒のように感じられる。真っ赤な石炭の燃え殻に一秒でも座っていると、一時間のように感じる。それが相対性だ)([146]参照)
〔172〕
Isn't it strange that I who have written only unpopular books should be such a popular fellow ?
《訳》 人気のない本しか書いてこなかったこの私がこれほどの人気者になるとは実に変ではないか。
I awoke one morning and found myself famous.(ある朝目が覚めたら有名になった)は詩人バイロン(Lord Byron, 1788~1824)のセリフだが、これは一般の人には難解な相対性理論を打ち立て、にわかに脚光を浴びたアインシュタインのユーモラスな 発言。アインシュタイン自身、相対性理論をこう説明している。When you are courting a nice girl a hour seems like a second. When you sit on a red-hot cinder a second seems like an hour. That's relativity.(すてきな女の子に言い寄っていると、一時間が一秒のように感じられる。真っ赤な石炭の燃え殻に一秒でも座っていると、一時間のように感じる。それが相対性だ)([146]参照) |
☆24ドン・マーキンス(Donald Robert Perry Marquis)(1,878~1,937)
Donald Robert Perry Marquis(1,878~1,937) was an American humorist, journalist, and author. He was variously a novelist, poet, newspaper columnist, and playwright. He is remembered best for creating the characters Archy and Mehitabel, supposed authors of humorous verse. During his lifetime he was equally famous for creating another fictitious character, "the Old Soak," who was the subject of two books, a hit Broadway play (1922–23), a silent movie (1926) and a talkie (1937). 橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.36
Middle age is the Time when a man is always thinking that in a week or two he will feel as good as ever.
《訳》 あと一週間か二週間もすれば、またもとのように元気になるさ、といつも思っている――それが中年というものだ。
ドン・マーキス(1878~1937)はアメリカのジャーナリスト、ユーモア作家。 アメリカの詩人ロングフェロー(1808~82)はこうした健全な人生哲学を歌った数多くの詩を残している。 アメリカのユーモア作家、エヴァン作家、エヴァン・イーーサーは The time in life when a man begins to lose his hair, his teeth and his illusions.(中年とは、髪の毛と歯と幻想がなくなりかける時期)と、ユーモラスに(当事者にとっては深刻だが)と定義している。 2021.12.09 |
☆25エドワード・モーガン・フォースター(Edward Morgan Forster OM)(1,879~1,970年)
エドワード・モーガン・フォースターは、イギリスの小説家。主な作品に『ハワーズ・エンド』、『インドへの道』、短編 "The Road From Colonus" などがある。 異なる価値観をもつ者同士が接触することで引き起こされる出来事について描いた作品が多い。
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.63 〔58〕
One always tend to overpraise a long book, because one has got through it.
《訳》 長い本は、自分が最後まで読み通しているという理由で、ほめすぎる傾向がある。
よほど辛抱しないととても終りまで読み通せないほど厚い本があるものだ。もしもそんな本をとにかく通読すると、あれは名著だぞ、などと事実以上に褒めたてることがありはしないか。そんな長い本をちゃんと読んでいるだけで、自分に貫録がつくからだ。読書の心理の一面についての鋭敏な観察である。 フォスター(1879~1970)はイギリスの小説家、批評家。名作『インドへの道』(A Passage to India, 1924)その他で現代の最もイギリス的作家ともいわれている。 2021.12.08 |
☆26ヘンリ・ルイス メンケン (Henry Louis Mencken) 米国のジャーナリスト。元・「アメリカン・マーキュリー」誌編集長(1880~1956年)
ヘンリ・ルイス メンケン 別名ヘンリー・エル メンケン。 1908年「スマート・セット」誌の文芸欄を担当し、1924年G.J.ネーサンと「アメリカン・マーキュリー」を創立し、ネーサンが去った翌年から編集長を務める。ピューリタニズムやデモクラシーなど自国文化の因襲性や自己満足的傾向を徹底的に批判し、アメリカ独自の文学をもつべきことを主張、ドライサーや S.アンダーソン、S.ルイスら新進作家擁護の論陣を張る。独特なユーモアと毒舌の偶像破壊の批評は多くの読者を獲得し、1920年代のもっとも戦闘的な批評家である。著書に『アメリカ英語』1919年など。
〔41〕
If, after I depart this vale, you ever remember me and have thought to please my ghost, forgive some sinner and wink your eye at homely girl.
《訳》 私がこの世を立ち去ったてのち、もし君が私のことを思い出して私の霊をなぐさめようと思ったら、誰かひとり罪人(の罪)を許し、誰かひとりぶ器量な女にウインクしてやりたまえ。
これはメンケン(1880~1956)が自分の墓碑銘に選んだユーモアあふれる金言。彼はアメリカのジャーナリスト、評論家、随筆家として、民主主義や中産階級のアメリカ文化の欠陥を格好の標的として、ウイットに富む論評を展開した。I confess I enjoy democracy immensely. It is incomparably idiotic, and hence incomparably amusing.(正直言うと、私は民主主義を大いに楽しんでいる。何しろ比べられないくらい間が抜けている。だからこそ、比べようのpないほど可笑しくてたまらないのだ) また、彼はアメリカ英語の発達と重要性を示した(The American Language, (1918)の編者でもある。([69][147]参照) 2021.11.30
〔69〕
A church is a place in which a gentleman who has never been to heaven brage about it to persons who will never get there.
《訳》 教会とは天国へ入ったことのない男が決して天国へ行きそうもない人びとに天国の自慢をする場所である。
ジャーナリストとして自国の文化に徹底的な批判を行なっていたメンケンは既成宗教にも正面きって反対した。この言葉もその 一例。 彼の次の批評は聖職者からは猛反撃を食らったことだろう。Theology――An effort to explain the unknowable by putting it into terms of the not worth knowing.(神学――わかるはずのないことを、知る価値のない言葉にねじ込んで説明しようとする努 力)([41][147]参照) 2021.11.30
〔147〕
Love is like war: easy to begin but very hard to stop.
《訳》 恋愛は戦争のようなものだ。始めるのは簡単だが、止めるのは至難のわざだ。
メンケンはアメリカ文化全般に対して舌鋒鋭い批判を行ったジャーナリストとして知られているが、特に1924年に『アメリカン・マーキュリー』誌を創刊、編集して約10年にわたって辛辣な論陣を張った。いったん恋の虜になったら大変だ。白旗を掲げて相手の軍門に降るくらいの覚悟が必要だ。([41][69]参照) 2021.11.30 |
幸福の扉の一つが閉じる時は、別の一つが開きます。けれど私たちは閉じたほうばかりながめていて、こちらに向かって開かれているもう一つの方に気付かないことが多いのです。 ヘレンケラー物語とGoogleで検索ください。
6月27日、生まれたアメリカの社会運動家。一歳の時盲聾唖となる。盲人などの救済事業に献身、『自叙伝』『私の住む世界』の名著がある。 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.106 2021.12.26
橋本 宏『英語で読む 英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.48 〔45〕
Keep your face to the sunshine and you cannot see the shadow.
《訳》 日の差す方に顔をむけていなさい、そうすれば、影はみえませんよ。
ヘレン・ケラー(1880~1968)はアメリカの教育家。視覚・聴覚障害を乗り越え、ソーシャルワーカーとして活躍した。家庭教師アン・サリバンの指導の下に読み、書き、話す能力を習得した。新しい世界を垣間見ることができるようになった感動は自伝『私の生涯』(The Story of y life,(1902)に詳しい。 この言葉はヘレン・ケラー女史が障害者のために「光を」かざし続けた、前向きな姿勢を反映したものである。 関連:ヘレン・ケラー 2008.6.22 |
魯迅 周樹人 代表作:『阿Q正伝』、『狂人日記』 浙江省紹興府の士大夫の家系に生まれた。父は周鳳儀、母は魯瑞、弟に文学者・日本文化研究者の周作人(1885年-1967年)、生物学者の周建人(1888年-1984年)がいる。中国で最も早く西洋の技法を用いて小説を書いた作家である。その作品は、中国だけでなく、東アジアでも広く愛読されている。日本でも中学校用のすべての国語教科書に彼の作品が収録されている。
私が、青年はなるべく、あるいは全然、中国の歴史を読むな、と主張したのも、多くの苦難をもってあがなった真剣な言葉であり、決して一時の快をむさぼる言葉でも、あるいは笑談、憤激の言葉でも何でもなかったのである。古人は、書を読まなければ愚人になる、といった。それはむろん正しい。しかし、世界はそうした愚人によって造られているものであって、賢人は絶対に世界をささえることはできない。ことに中国の賢人はそうである。(『墳』の後に記す)
本名は周樹人。9月25日、浙江省紹興に生まれる。一九〇二年から七年間日本留学。中国の新文学の創始者にして独創的思想家。 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.159 *青木雨彦監修『中年博物館』(大正海上火災保険株式会社)P.73 ※参考:魯迅の弟:周作人も日本に留学。著書:『日本文化を語る』(筑摩書房)一九七三年五月三十日 初版第一刷発行。 2020.05.11 |
フランクリン・デラノ・ルーズベルト(英語:Franklin Delano Roosevelt)(1882~1945年4月12日)は、アメリカ合衆国の政治家、弁護士。ニューヨーク州議会上院議員(ダッチェス郡選出)、海軍次官、ニューヨーク州知事を歴任した。第32代アメリカ合衆国大統領(在任:1933年3月4日~1945年4月12日)。FDRという略称でよく知られている。なお姓はローズベルト、ローズヴェルトとも表記する。
私たちは、人間の四つの基本的自由にもとづく世界をまちのぞむ。第一は、世界の至るところでの言論・表現の自由だ。第二は、世界の至るところで、各人が彼自身のやり方で神を崇拝する自由だ。第三は、欠乏からの自由だ。これを国際的関係に反訳すれば、世界の至るところで、各国民にその住民の健康で平和の生活を確保してやる経済的了解を意味する。第四は、恐怖からの自由だ。これを国際的関係に反訳すれば、いかなる国民もその隣人に対する物理的侵略をおかしえないような程度と徹底さとをもって、世界的軍縮をおこなうことである――世界の至るところで。 この日(4月12日)アメリカのウォーム・スプリングで死んだアメリカの第三十二代大統領。大統領に三選さる。ニュー・ディール政策と第二次世界大戦指導で有名。 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.62 2020.11.21 |
デーヴィッド・ハーバート・リチャーズ・ローレンスは、イギリス、ノッティンガムシャー出身の小説家・詩人。 1908年にノッティンガム大学を卒業した後、小学校の教員となり、1911年に小説を出している。1912年から1914年にかけてドイツに渡り、1914年イギリスに帰国後結婚した。『息子と恋人』(1913年)、『虹』(1915年)、『チャタレー夫人の恋人』(1928年)など人間の性と恋愛に関する小説を発表したが、発禁処分を受けたものもある。 ローレンスの作品は性を大胆に描写し、また、近代文明が人間生活にもたらす悪影響を主題としているものが多い[1]。易しくぶっきらぼうな言葉で書かれているのが特徴である。 日本では第一次世界大戦後の1920年代頃に注目されはじめ、ローレンスが死んだ1930年代には阿部知二、伊藤整、西脇順三郎らによって広く紹介されるようになった。なお第二次世界大戦後に、伊藤整が訳したローレンス『チャタレイ夫人の恋人』はわいせつだとして罪を問われたチャタレー事件が起きた。
私は、男も女もが、性の問題を十分に、徹底的に、誠実に、そして健全に考えるようになることを望むものである。……何も書いてない夏のように純白な処女などというものは、愚劣な作りごとにすぎない。若い女や若い男は、性的な感情や思想の混沌たる魂、しかも悩みの塊であって、これが解決されるのは時間の経過にまつほかはない。性的な問題について、長年のあいだ誠実に考え、長年のあいだその解決を求めて、辛苦して行動した後に、われわれははじめて、真実の純潔と満足に到達するのである。(『チャタレー婦人の恋人』序文)
この日(3月02日)この日死んだイギリスの作家。人間の真の幸福は精神と肉体との調和と一致にあると考え、性の問題を真剣に追求した。『紅』。 *桑原武夫編『一 日 一 言』―人類の知恵―(岩波新書)P.38 2022.01.03記す。 |
出生地:フランス共和国、ノルマンディー地方エルブーフ フランスの小説家、伝記作者、評論家。本名はエミール・サロモン・ヴィレルム・エルゾグ(Émile Salomon Wilhelm Herzog)で、ユダヤ系フランス人である。 ルーアンのコルネイユ高等学校(Lycée Corneille, Lycée Pierre-Corneille)卒業。アランに師事していた。第一次世界大戦には英語通訳官として出征する。1918年、処女作『ブランブル大佐の沈黙 Les silences du colonel Bramble』で認められ、以後アランの哲学の通俗化を基本としつつ広い教養、穏健な良識、柔軟な文体で小説、歴史、評論、伝記を書いた。小説では『気候 Climats』『血筋のめぐり Le cercle de famille』などが知られるが、小説的伝記と呼ばれる作品『シェリィ伝 Ariel,ou la vie de Shelley』『ディズレーリ伝 La vie de Disraëli』をはじめとして、バイロン、トゥルゲーネフ、ヴォルテールなどの評伝が広く愛読された。イギリスの歴史・文学に詳しく、歴史作品『英国史 Histoire de l'Angleterre』(1937年)などがある。1927年と1930年から1年間アメリカに滞在し、1943年『米国史 Histoire des États-Unis』を出版する。また第二次世界大戦中はロンドン、アメリカにあり『フランス史 Histoire de la France』(1943年)などを発表した。
代表作:『天使と野獣 Ni ange ni bête』 1919年
『フレミングの生涯』アンドレ・モロア 新庄喜章訳 平岡篤頼訳(新潮社) あ と が き アンドレ・モーロワがいかなる作家であるかについては、すでに『愛の風土』や『家族の輪(邦訳名『宿命の血』などの小説作品、『生活の技術』や『恋愛七つの顔』などのエッセーばかりでなく、『イギリス史』『アメリカ史』『フランス史』『文学研究』など、十八種を数える著作が翻訳されている今日、ここにあらためて説明するまでもないと思う。伝記作家としての彼の側面も、『シェリーの生涯』や『ジョルジュ・サンドの生涯』の訳書によって、われわれの十分親しんできたところであり、フランス本国では今日、彼は小説家としてよりも伝記作家として知られているほどである。 だがそれにしても、いったい誰が、この『アレクサンダー・フレミングの生涯』のような科学者の伝記を、彼から期待したことであろうか? 第一にモーロワ自身がそれを予期していなかったことは本書の《はしがき》に明らかなとおりであり、七十歳をこえてもなおこのように新しい主題ととりくむ勇気は、たしかに尊敬すべき、かつおどろくべきことである。細菌学という、それまでの彼にはまったく未知の領域へ足をふみいれたモーロワは、彼に手ほどきを与えたアルベ-ル・ドゥロネー博士の言によれば、多数の専門的な文献を読破したばかりでなく、みずから白衣をまとって、フレミングの行なった実験のすべてをひとつひとつ追実験し、なつ得のゆくまで実地に研究した。そして原稿も、三度まったく書き改めたということである。 その結果、いかなる書物が出来上ったかは、読者の御覧のとおりであり、すでにフランス本国だけでなく、アメリカ合衆国でもベスト・セラーとなり、『ニューヨーク・タイムズ』紙はこの書を本年度最良書のベスト・テンの一つに数えている。 私たちもまた、細菌学の知識に関して皆無に近いが、一読してなんら難解な点も見当たらず、しかも、無口で控えめなスコットランド人フレミングという、きわめて扱いにくい個性の見事な肖像に魅せられたばかりでなく、知らず知らず細菌学の興味津々たる発展の歴史まで教えられて、一気に読了したものであった。 この書はまた、フレミングという一個人ばかりでなく、科学者という特殊な職業人のひとつの典型、それに特有の生活様式や思考過程まで生き生きと描きだすことに成功している。科学がますますわれわれの生活のなかに重要な地位を占めつつある今日、このような書物は、興味があるばかりでなく、有益であり必要でさえあると考えたのも、私たちを動かして、訳筆を取らせた理由の一つである。 それにしても、相当の専門知識を必要とするこの書の翻訳には、かなり多くの困難に遭遇しなければならなかった。専門用語を説明し、校正を閲覧して下さった高橋勝三、賀田恒夫両氏にまず感謝しなければならない。また、フランス語学上の難点を明らかにして下さったピエール・アンリ―・ヴァネ君、グローリア・クラパス嬢にも、そのあつい友情に感謝の念をささげねばならない。 昭和三十四年八月 新 庄 喜 章 平 岡 篤 頼 ※関連1:『フレミングの生涯』アンドレ・モロア 関連2:アンドレ・モロア著 大塚幸男訳『初めに行動があった』 2022.04.28 記す。 |
一 「わたしはよく読者からこんな質問を受ける。あなたはあなたの小説のなかで扱われている醜悪なものをどこから探し出してくるのですか?と。するとわたしは目を伏せて答えざるをえない。奥様、それはわたし自身のなかからです。」「人の心が苦しめばそこにキリストが住まわれる」 二 君が幸福である限り、君は多くの友達を数えることができよう。だが、形勢が悪化した時には、君は独りぼっちになるだろう。 |
母はもういない。私はふたたび母にはあえない。この悲しみはどうにもならない。母は一人の「平凡な」人であった。ただ数千万人の中国勤労人民のひとりにすぎなかった。しかし、この数千万人こそが中国の歴史を創造したし、創造しつつあり。私はそういう仕方で母の深い恩にこたえようか。私は、私どもの民族と人民にたいして、まことをつくし、私どもの民族と人民の希望――中国共産党にたいして、まことをつくし、そうして母と同じような生活をしている人に、楽しい生活をできえるようにしてあげよう。これが私のできることである。必ずできることである。(語文読本) 12月12日生れた中国政府副主席。一九二七年毛沢東とともに農民軍を組織し、人民解放軍をひきいて、中国革命のため戦った。新中国第一の戦略家 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.206 2020.09.30記す。 |
▼『沈黙の世界』マックス・ピカート 佐野 利勝訳(みすず書房)昭和43年8月25日 第11刷発行 「何ものといえども、沈黙の喪失ほど人間の本質を変えたものはなかった」 沈黙は決して消極的なものではない。沈黙は単に『語らざること』ではない。沈黙は一つの積極的なもの、一つの充実した世界として独立自存しているものなのである。―P.9 沈黙は発展するものこともなければ、時間のなかで成長することもない。しかし、時間は沈黙のなかで成長する。たとえて言えば、時間という種子が沈黙のなかへ播(ま)かれるかのようであり、時間が沈黙のなかで萌え出るようである。沈黙は、いわば、時間がそこにおいて成熟し充(み)つるところの土壌なのだ。―P.10 参考:紀野一義『禅ー現代に生きるもの』(NHK ブックス)に、 「沈黙の世界」 禅は沈黙の世界である
たしかに禅は沈黙を重んずる。浴室・僧堂・西浄(さいじょう:厠)の三つの場所は昔から、三黙堂といって、語笑することを許さなかった。食堂(じきどう)の作法も沈黙のうちに行われる。しかし、沈黙というものはそういうことを言うのであるか。ものを言わないという沈黙ではなく、もっと違った意味の沈黙があるはずではないか。
それがあるとき、マックス・ピカートの書いた『沈黙の世界』という本を読んでいたら、この哲学者の考えている沈黙とわたしの考えていた禅の沈黙、東洋の沈黙とが全く同じであることに気がついた。これは大変面白い発見であった。ピカートのこの著書は京都大学教養部助教授が平易な日本語に訳されているので(みすず書房)、誰でも容易に読むことができる。 2008.4.23~24 |
アーヴィング・バーリン(Irving Berlin、生誕名:イスロエル・イジドル・ベイリン、ヘブライ語: ישראל איזדור ביילין、ロシア語: Израиль Исидор Бейлин、英語: Israel Isidore Baline)(1888~1989年)は、ベラルーシ生まれのアメリカの作曲家、作詞家。 正式な音楽教育を受けたことはなく、楽譜の読み書きは出来なかったが、半世紀にわたる音楽活動で膨大な量の優れたポピュラー・ソングを作詞・作曲し、ジョージ・ガーシュウィンをして[アメリカのシューベルト]と言わしめた人物である。ことに著名な代表曲に[ホワイト・クリスマス][ゴッド・ブレス・アメリカ][イースター・パレード(英語版)]などがある。
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.41 〔38〕
The toughest thing about success is that you've get to keep on being a success.
《訳》 成功の一番難しいところは、成功者になってからもそのままでいることだ。
バーㇼン(1888~1989)は、"There's No Business Like Show Business"(ショーほどすてきな商売はない) "White Christmas"(ホワイト・クリスマス)のヒットソングで有名なアメリカのシングーソング・ライター――(singer-song writer). Talent is only a starting point in this business, You've got to keep on working that tarent. Someday I'll reach for it and it won't be there.(その才能を磨き続けなければならないのだ。私がその才能を掴まえようと手を伸ばしても、もうそこにはない――そんな日がいつかくるだろう)と上記の発言に続く。 2021.12.10 |
人間精神なるものは、何という目ざましいものなのであろう。欠点は数えきれぬけれども、人間は幾時代を通じて、理想のため、真理のため、国や名誉のために、彼の生命を、そして彼に大切だったものことごとくを犠牲にしてきたのだ。……自然の強大な力によってはオモチャおごときものであり、この広大な宇宙のなかで塵(ちり)の一片にも劣る人間が、自然力にたいして戦いをいどみかけ、変革の遙籃(ようらん)たるその心をもって、自然力を支配しようと努力してきた。……人間のなかには、何かしら悪魔的なものもあると同様、神ににた何ものかが存在する。(インドの発見) 11月14日生まれたインドの政治家。若くから独立運動に貢献、たびたび投獄された。独立後は首相として、国際政局に平和推進の大きな役割をはたしている。 *桑原武夫編『一 日 一 言』―人類の知恵―(岩波新書)P.188 参考:ネルー著『父が子に語る 世界歴史』全4巻 大山聡訳 (みすず書房)昭和41年11月25日 第2刷発行 |
38アドルフ・ヒトラー(1,889~1,945年)
――ワシントンのレストランの体験である。 一皿二十五セントの鶏料理を賞味していると、学生風の男二人が同席の許可を求めた。次いでこちらを日本人と見定めると、一人はドイツ人、他はイギリス人と自己紹介した。予想どおり、ともに留学生とのことであった。 二人がサンドイッチを食べ終わり、食後のコーヒーに移る間に、なんとなく会話が開始されていたが、話題が第二次大戦に及ぶと、ドイツ人留学生はぐいと胸を張って、握手の右手をさしのべつつ言った。 「日本の紳士よ、われわれの祖国ドイツと日本は戦争に敗れた。しかし、戦争には負けても、戦闘には負けなかった。そうでしょう」 ㇵハン、と私は胸中にうなずいた。ドイツに旅行すると、かならずといってよいほど、同様の見解をひれきしながら、友愛感を示す市民に遭遇する。そして、これまたかならずや、そのとで「この次は勝ちましょう、それにはイタリアを抜きにしなくちゃ《とつけ加えらるはずである。そこで、私もニンマリと苦笑しれ、このつけたりが彼の口から発せられのを期待したのだが、同席の人物がイギリス人であることに思いあたつた。かっての同盟国、日独両国民の内輪話ならともかく、戦勝国イギリス国民を前にしてのこの発言は、ドイツ人留学生の愛国心の強さを立証すると同時に、いささか相手の心証を害することにならないだろうか、 すると、意外にもイギリス留学生は陰鬱にうなずいた。 「イエス、ドイツは強かった。とてもわれわれはかなわなかった」 そう言うと、イギリス人留学生はさらに陰鬱な声で、つぶやくように歌いだした。映画「戦場にかける橋」でわが国にもおなじいの"ㇰウイ河マーチ"のメロディである。ドイツ人留学生も私も、ならって口ずさもうとしたが、歌の文句に絶句した。
Hitler Has Only Got One Bowl, タマ、すなわち、男性のシンボルであり、この歌は明らかにかつてのナチス・ドイツ指導者をバカにしている。それを、いかにも恐れいったげに歌う、強烈な皮肉である。ドイツ人留学生は、顔青ざめて唇をふるわせていた……。 なんともイギリス人らしい逆襲の仕方であり、そのとき私もイギリス風皮肉のの過酷さにぞっとしたものだが、三年前に耳にしたその歌の文句が忘れられないについては別の理由がある。 (ヒトラーにゃ、タマひとつ)……この歌詞は、たんに戦争相手にたいする下品な中傷だけとは思えないフシがる。はっきりいえば、少なくとも第二次大戦末期のヒトラーは「女性化」していた疑いがあり、イギリス人留学生の歌は、その"秘密"をほのめかしている感があるからである。 アドルフ・ヒトラーの名前は、世界史に最も強烈な存在として記録されている。第二次大戦の搊害は、連合国および枢軸国双方の軍人だけで一千五百三十万人の死者、行方不明者を数える。ほかに六百万人といわれるユダヤ人被虐殺者をはじめ、戦火に倒れた一般市民を加えれば、死者だけで、三千万人に達するだろうと推定されている。 この史上空前の大戦争の演出者こそ、ドイツ総統ヒトラーであるわけだが、そのヒトラーが女性化していたというのは、いささか奇矯にすぎるかもしれない。 むろん、これはあくまで推測あるいは推理であって、確たる証拠はなにもない、が、その推測には、意外に根深い根拠を見出し得るのであり、最も重要な示唆を与えてくれるのが、第二次大戦中の米諜報機関OSS(戦略諜報局)の記録である。 OSSは、ウィリアム・ドノバン(William Joseph "Wild Bill" Donovan )大佐を長とする秘密工作機関で、日本の真珠湾攻撃直後、ルーズベルト大統領の直接命令で組織された。所属は米統合参謀本部直属である。 任務は、スパイ、破壊工作その他戦争を有利にするために必要なあらゆる活動を実施することにあり、どんな奇抜な手段、着想も見のがさないことをモットーとした。したがって、この工作は特殊兵器の考案製造から、暗殺計画に至るまで、きわめて広範囲に及び、機関には軍人のみならず、一流の科学者も多数動員された。 OSSの活動については、いまなお多くの部分が秘密にされているが、明らかにされたものでけをみても、驚くべき工作が多い。 たとえば、一九四三年暮れからパリのドイツ軍将校の間に防弾チョッキ着用が流行したが、これはOSSがG・ハンマー・ワシントン大学教授らによって製造された完全に無音、無煙、そして発射せん光すらないピストルのおかげだった。このコルㇳ型二二口径ピストルは、試作されると、わざわざルーズベルト大統領の部屋で発射され、大統領を仰天させた新兵器だったが、OSSはこれをパリはじめナチス占領下諸国の地下抵抗組織に配布して、ナチス将校暗殺に使用させたのである。 そのほか、フィリピンにおける日本軍票の偽造、まったくメリケン粉と同じで煮ても焼いても安全だが信管をつければ猛爆発する爆薬、ロンドンに潜入したナチス・スパイの抱き込み工作、細菌兵器の開発をはじめ、あるいはコウモリに小型焼夷弾を背負わせ、未明に日本の海岸からとびたたせて木造の日本家屋を焼きはらう計画まで、試みている。 そのOSSがナチス・ドイツに完な支配力を持つヒトラー総統に注目したのは当然である。ヒトラー総統をなんとかできれば、かならずやドイツ国民の戦意は低下するはずである。ただし、そんさいヒトラーを殺すのは得策とは判断されなかった。ヒトラー暗殺は、逆にヒトラーを"殉教者"視させ、ヒトラー以上の狂信主義者の登場を許す恐れが予想されたからである。 OSSは、まずヒトラーを身体障害者、とくに失明者にしたいと考え、特殊ガスを発明して待機した。 一九四二年四月末、ヒトラーがムソリーニ・イタリア首相とザルツブルクの山荘で会談するとの情報に接すると、OSS開発部長スタンリー・ロベル博士は、ただちにヒトラー失明作戦開始を提案した。 工作員をヒトラーの山荘に忍びこませ、会議室の花びんに持参したカプセルの中身を注ぐ。液体は水の表面にうすい油状のまくのように広がり、やがて無味、無臭、無色のガスをゆるやかに発散させる。ヒトラー及びムソリーニが部屋に入り、二十分間会議を続ければ、ガスは眼球からしみこみ、完全に視神経をおかして二度と視力を回復することはない――というのである。 むろん、ナチス・ドイツはヒトラー失明の事実をかくそうとするだろうが、成功の暁にはローマ方法からドイツ、イタリア国民に布告をださせる。両国民の多くはカトリック教徒だから、法王の託宣は有効であり、両国民は盲人化した指導者に愛想をつかすに違いない。 ロベル博士の提案は採用され、即刻、失明ガスがドイツに密送された。しかし、ヒトラーはいかなる天啓を感じたか、突然、会議の場所を、同じザルツブルクではあるが、ビショプ公所有のシェロス・グレスハイム宮殿に変更した。おかげで、OSS工作員はカプセルを小川に投げこみ、切歯するにとどまった。 OSSが、次に着想したのが、ヒトラー「女性化」工作である。 OSSが観察によれば、ヒトラーはたしかに男性である。だが、きわめて女性的性格の持ち主である。もともと、心理的には人間の性格には男女の区別は無いが、女性または男性に多く見られる性格傾向から判断すれば、ヒトラーには女性的性格傾向のほうが男性的それより多く認められる。 OSSの諮問にこたえ、このようなヒトラーの性格判定を行った一人は、内分泌腺の権威エルマー・パテルズ博士だったが、博士は、 「ヒトラーは毛布をかむくせがある。これは、明らかにテンカン病気お兆候だ。ナポレオンもシーザーも、アレキサンダー大帝もテンカン持ちだった。どうして、テンカン病者が世界征服の野望を持ったのかわからないが」と前置きしたあと、ヒトラーの過去の言動を列挙しつつ、ヒトラーが性格的には男性と女性のさかいめある、と次のように解説した(以下、カッコ゚内はパーテルズ博士の診断)。 ――ヒトラーは、一八八九年四月二十日、オーストリアの元税関吏の息子に生まれた。一九三三年一月、四十四歳でドイツ首相になった。政権を握るためにヒトラーが採用した戦術の中で目立つのは、演説と演出である。 演説、つまり「おしゃべり」の効用について、ヒトラーはその著書『わが闘争』で次のように言っている。 「歴史に残る宗教上、政治上のなだれのような大運動を実地に展開させた勢力は、しゃべる言葉の悪魔的な力である。同じ地域の住民のうちでは、どんな力よりも言葉の魅力に動かされやすい連中が断然多い」 そして、たしかにヒトラーの演説は迫力に満ち、ヒトラー自身のヒステリックな感情がそのまま聴衆にのり移って、男たちは切歯扼腕し、女たちはすすり泣くといった光景が、至る所の演説会場でみられた。まさに「史上最大の煽動政治家」のなにふさわしい。 毎年九月、ニュ―ルンベルクで開かれるナチス党大会の演出も他に類がなかった。壮大な競技場、林立する旗の波、整然たる群衆の行進、淡々と燃えるタイマツをゆるがす大音楽隊の演奏、そして夜空をドームのように照射するサーチライト……その計算しつくされた壮麗美は、バレエ、歌劇の舞台も及ばぬすばらしさで、ドイツ市民は大会の映画を見ただけで興奮せざるを得なかった。 (このおしゃべり好きと、お芝居性。これはいずれもヒステリー性格における自己顕示性の現われだが、いわず知れた女性の特性である) ――ヒトラーは決して自分の非を認めない。政策を実行する場合でも、かならず自分を被害者とし、誰か悪者をつくりあげ、その相手にたいする憎悪感を国民に抱かせて、団結の原動力にしようとする。ユダヤ人を憎悪の源泉につくりあげたのもそうだし、オーストリア、チェコの併合の場合でも、両国内のドイツ人が圧迫されていると国民に訴えて、強硬策を支持させた。そもそも、ヒトラーが政権を握り得たのも、彼が叫んだ「ベルサイユ条約への復讐」がドイツ国民にアピールしたからである。ヒトラーは、『わが闘争』でもはっきりベルサイユ条約の恨みを強調しているが、一九四一年一月ベルリンにおける演説でも、「私の計画はベルサイユ条約を撤廃することにある」と、明言している。 ※参考:べルサイユ条約(べェルサイユじょうやく、仏: Traité de Versailles)は、1919年6月28日にフランスのべェルサイユで調印された、第一次世界大戦における連合国とドイツ国の間で締結された講和条約の通称。 (他人に責めをさせ、執念深く復讐心を燃やす。これまた、なんと女性的であることだろう) ――ヒトラーの生活ぶりは、きわめてストイックなものと伝えられている。元来貧困な青年時代をおくったせいでもあろうが、総統になってからも、その生活態度は簡素である。菜食主義はな高いが、たしかに肉はいっさい口にしない。運動もめったにせず、せいぜい山荘で散歩するくらい。ほとんど部屋にとじこもったきりで、新鮮な空気すらめったに吸わない。 そのくせ、健康には異常に気をくばっている兆候がみえる。酒、タバコ、アルコール、コーヒーなど、刺激性食物はすべて避け、侍医の調合する胃薬を離さない、病気を恐れることはなはだしく、カゼひとついても大騒ぎする。(粗食に甘んじ、運動を好まず、しかも長寿を切望する。これは、まさに多くの主婦の姿ではないか) ――ヒトラーの対女性関係はおかしい。ヒトラーは、一九〇九年から四年間、ウィーンで貧弱な青年時代をすごしているが、当時の彼について、女性たちは彼に関心を示したがヒトラーはさっぱりだった、と伝えられているなぜか? 『わが闘争』には次のような文章がみられる。 「髪の毛の黒いユダヤ人の青年が、人を信じやすい娘を誘惑してやろうとねらいをつけ……その女の血に粗悪な血を混ぜて同じ民族のふところからその女を引き離してしまう」 「何十万人という娘たちが、胸くその悪い、ガニマタのユダヤ人どもに誘惑される……」 ここにも反ユダヤ感情の爆発がみられるが、しかし、この文章の調子には、なにかシットめいた気持ちもただよっている。あるいは、ヒトラーは実際には女性にはもてず、青年時代にユダヤ系成年と恋の競争に破れたことが、その反ユダヤ意識を育成したのではなかったか、とも想像できる。 だが、それはともかく、ヒトラーにも恋人の噂は存在する。一九二五年から三一年まで、ヒトラーは十七歳年下の姪ゲリ・ラウバルと一緒にいた。ヒトラーのミュンヘン時代だが、ヒトラーはすでにナチス党総裁であり、ナチス党は二年前の一九二二年十一月、失敗に終わったといえ、小規模の政権奪取のクーデターを行なうほどの勢力を得ていた。ヒトラー自身も、ミュンヘンの家のほか、オーペルザルツベルクに山荘を持っていた。 ところが、ゲリ嬢は一九三一年九月十八日、ミュンヘンのヒトラー邸で死体となって発見された。ピストルの射弾で死んでいた。自殺と検案されたが、ヒトラーが極度にシット深く、およそ男性であれば誰とでも交際を禁じたため、あるいはシットに狂ったヒトラー自身が射殺したとの噂も流れた。 当時(一九四二年)、ヒトラーは写真屋の女店員だったエバ・ブラウンと暮らしていた。 エバは美人ではない。愛嬌はあるが頭脳は弱いほうで、その代わり、ヒトラーとは正反対にスポーツ好きである。とくにスキーと水泳がうまいといわれている。しかし、ヒトラーの相も変らぬシット深さには悩まされていたらしく、好物のタバコをかくれてのむのに苦心し、また二回も自殺をくわだてたと聞いている。 (ヒトラーの嫉妬は、なにが原因なのか、逆に考えれば、ゲリ、エバ両嬢がヒトラーのシットを招く行為に走ろうとするのは、ヒトラー側にあるのではないか、つまり、男性としての能力不足である。ヒトラーは、つね日頃、アーリアン民族の優秀性を説き、生めよ殖(ふ)やせ政策を強調している。子供たちを可愛がる姿勢を保ち、子供たちと一緒の写真をとる機会を喜んでいる。ところが、当時、最優秀の"アーリアン人"と自任しているはずのヒトラー自身が、子宝を求めていない。あるいは、男性としては珍しく、"母性本能"が強すぎて、それが子供好きに現れると同時に、男女性関係において淡泊になっているのではないか)
以上のパテルズ博士の説明によって、OSSはすかさず二つの作戦を考えついた。ひとつは、ヒトラーのテンカン病を悪化させ、ほとんど絶え間なく発作を起こさせ、指導者としての地位からひきずりおろすことである。しかし、薬学者はそのような薬品は発見できないと回答した。そこで、第二案、ヒトラーに強力な女性ホルモンを朊用させる計画が採用された。 すでに、女子っぽいヒトラーであれば、女性ホルモンによって「女性化」した場合、性格傾向は大きく女性側に傾く。その結果は、感情の激動、疑い深さ、外罰性向(他人に責任を転嫁する)、不決断、被害意識、受動的行動性など、女性的とみられる性向は促進され、これまた指導者のイスを保つとしても、ヒトラーの体内では、男性的要素と女性的要素が混在かつ競合する形になるので、心理は極端に不安定になりナチス・ドイツの戦争指導は支離滅裂になるに違いない。 OSSは、水にも熱にも破壊されない強力な女性ホルモン液を開発した。ヒトラーは一九四一年の夏いらい、ほとんど東プロシャのヴォルフスシェンツェの統合大本営ですごしていた。本来なら首都ベルリンこそ、最高指導者の居所にふさわしいものを、ドイツ国内でも最もへんぴな場所に本営を設けた点にも、なにかヒトラーの異常性が感得できるが、この事情はOSSにとっては好都合だった。たぶん、ヒトラーは身の安全についてとくに敏感になっているに違いなく、そのことは彼が食事にも格別の注意をはらい、好きな野菜は彼の個人用菜園の作物以外は口にすまい、と想像できたからである。 それならば、仕事は楽になる。ただ一ヵ所、彼のベルヒデスガーデン農園を攻撃すればよい。OSSは工作員に強力女性ホルモン液の入ったカプセルを渡して、ドイツに派遣した。ベルヒデスガーデンのヒトラー農園のキャベツ、ニンジン、トマト、大根、なんでもよいから、カプセル液をふりかけろ……。 OSSは、祝杯をあげた。ホルモン液の効果に疑問はない。もはや、ヒトラーが、やがて"トレード・マーク"のちょびヒゲを失い、その声がソプラノに変化するのは時間の問題だと思われた。その結果は、戦争の終結もまた時間の問題となるであろう。OSSのメンバーは、「本官はヒトラーにブラジャーを提供したい」「では、小生はマニキュア・セットにしょう」などと、浮かれた。 ――だが、OSSの記録は、この工作は失敗したと述べている。その理由として、ロベル博士は「同時に毒薬を投与させたのだが、ヒトラーが生きのびたところをみると、買収されたはずのドイツ人が毒をヤブの中に捨ててしまったとしか、考えられぬ」と言う。 しかし、このロベル博士の言明は容易には信じがたい。なぜなら、失敗の原因がいかにも薄弱である。ほかならぬヒトラーにたいする工作である以上、失敗したら、その原因はとことんまで追及されるはずである。それをただ想像だけですまされるとは思えない。 もちろん、諜報工作の手のうちは、将来の使用にそなえて、戦争が終っても極秘にすべき事情が多い。失敗の原因は裏返せば成功の手がかりにもなるからだが、かりにそうだとしても、なおロベル博士の発言は不明瞭である。 毒薬も一緒に、というが、では毒薬とホルモンとを混合したのか、そうとは考えられない。毒殺するするつもりならホルモン薬は不要であり、「女性化」がねらいなら毒薬は無用であろう。では、毒薬とホルモン液を別々にしたとすれば、ヒトラーが生きのびた以上、毒薬投与の失敗は明らかだが、ホルモン液のほうはどうなったのか。 とにかく毒薬とホルモン液は一緒に渡したのだから、毒薬ふりかけが失敗ならホルモンも失敗とみなす、というのは急ぎすぎる結論である。少なくとも工作員が成功の飛電を送っているのである。ホルモン作戦は成功したのであり、ロベル博士はむしろ将来に備えて、この成功をぼかそうとしているのではないだろうか。 現に、OSSのヒトラー「女性化」工作が行われた一九四二年秋以降、とくに一九四三年以後、ヒトラーの身の上には急速な異常変化が確認できるのである。
一九四三年になると、ヒトラーの印象は、がらりと一変する。 その前まで、ヒトラーはたびたび胃が痛いとか、心臓の具合が悪いなどと騒いだが、いずれの場合も医師の診断は「異常なし」であった。事実、一九四二までヒトラーほとんど病気をしていない。ところが、四三年になると、左手と左足がふるえだし、左手のふるえをかくすために右手で押さえつけねばならず、左足をふんばって同じくふるえを止めようとした。 ヒトラーのこの健康状態の悪化については、一応、戦況の不利による責任の重圧感と主治医の無能さという二つの理由があげられている。 第二次大戦のヨーロッパ、太平洋戦争をふりかえるとき、日独の戦勢はともに、一九四二年秋、米国が本格的に攻撃を開始したのを機会に、退潮のきざしを見せている。すなわち、ドイツ軍が勢威を誇ったのは一九四二年七月、ロンメル機甲兵団による北アフリカのエル・アラメイン占領まで、日本軍の勝運も同年六月のミッドウェー海戦で大きく傾いた。その後は、まるでドイツ軍が電撃作戦でヨーロッパを席巻し、日本軍が疾風のごとく東南アジア諸国と西太平洋を制覇した勢いをさまざまに逆用されたように、両国軍の敗退がつづいた。 一九四二年十一、英国のモンゴメリー軍がロンメル兵団を撃破してエル・アラメインを奪回すると、待ちかねたように米英連合軍が北アフリカに上陸する。ついで四三年に入ると、一月三十一日、スターリングラードのドイツ第六軍団が降伏すれば、二月初旬、日本軍も前年八月いらいのガダルカナル島攻防戦に敗れて撤退した。戦争終結がいつかは見通しにくいかもしれないが、もはや連合軍の勝勢は明瞭になってきた。 七月、ドイツ軍はクルスク付近に大戦車部隊を集結して、ソ連軍撃退を試みたが、失敗した。その後、ソ連軍は勢いにのってドイツ軍を押しまくり、年末までにはポーランド、ルーマニア国境に迫った。その間、ドイツ軍のㇰルスク反攻の直後に連合軍はシシリー島に上陸、そのあおりでムソリーニ・ファシスト政権は倒れ、イタリアは九月八日、連合国に降伏した。また、ドイツ海軍は、主力潜水艦隊の大部分を失い、大西洋の制海権は米英海軍の手中に帰し、さらに米英空軍によるドイツ国内にたいする空爆が激化して、四三年九月中旬からは、ベルリンも米英機の行動半径内に入った。 総統ヒトラーとしては、当然、この攻勢に心労する。その結果が手足のふるえを招いたとみなされるわけだが、もうひとつ、ヒトラーの主治医モㇾル博士の投薬の影響も、他の要因といわれている。 アラン・バロック著『ヒトラー、独裁の研究』によれば、モㇾル博士は「むかしベルリンで性病の専門医として開業していたヤブ医者」とのことだが、一九三六年いらいヒトラーの主治医をつとめた。そして、ヒトラーはこのモㇾル博士調合の持薬を服用しつづけた。ところが、このモㇾル博士の調合剤というのは、まったくでたらめなもので、ズルフォン剤、麻酔剤、興奮剤、精力剤その他二十八種類が含まれ、とくに胃薬と称した丸薬はスㇳリキニーネとベランドンナの複合剤だったと伝えられている。 もし、ヒトラーがこの種の"モㇾル丸薬"を愛用していたとすれば、たしかに悪影響は予想される。麻酔、興奮、精力増進などの効能薬をいっぺんい飲めば、なにがなんだかわからない状態になるだろうし、スㇳリキニーネとベランドンナでは、胃痛をおさめるどころか増大するに違いないからである。 だが、"モレル薬"は、多種類の薬品を混合しているだけに、中和効果も考えられ、大量に服用しない限りは、特定の悪作用は期待できないともいえる。バロック教授は、「ナチ・ドイツの最後の二年間には、ヒトラーだけけでなく、事実上ヒトラー側近者はことごとく、モㇾルがもったいをつけて調合した薬を服用し続けたのである」(『ヒトラー、独裁の研究』)と述べているが、ヒトラー側近者の中で、ヒトラーと同様の症状を呈した者はいない。 してみれば、もしヒトラーの健康悪化が"モレル薬"のせいだとすれば、ヒトラーだけがとくに大量に朊用したことになるわけだが、なぜか? バロック教授はまた、ヒトラーの総統本部での生活を伝えている。それみよると、ヒトラーの日課はhおぼ次のようなものだった。 起床・朝食 午前十時~十一時 総統会議 正午~午後二時(ときに午後五時半近く) 昼食 会議後(午後二時~五時) 総統会議 午後六時または七時 夕食 午後八時以降 会議及び休憩 午前三時ごろまで 就寝 午前四時 その間、ヒトラーは官房長官マルチン・ㇹルマンから贈られたシェパード(めす)"プロンティ"をつれて散歩する以外は、いっさい戸外に出なかったが、その散歩もめったに行わなかった。夜の会議後の休憩は、お茶(ヒトラーは紅茶も飲まず、薬用茶だけ)の時間で、ヒトラーは秘書官や側近とくつろいだ。しかし、その場合でも、ヒトラーは、スターリングラード敗戦以後は、好きだったワーグナー、ベートベンのレコード鑑賞をやめ、もっぱら青年時代の回想あるいは歴史、人間の運命、宗教などの大問題について論じた、という。 ヒトラーはまた、一九四三年以後は公衆の前に姿を現わすことをきらい、あの得意な演説もめったにしなかった。スターリングラード戦以後、ヒトラーが行った公開演説は四回、放送が五回だけ。例年二月及び四四年十一月のミュンヘン記念式典にも欠席している。 バロック教授は、このようなヒトラーの閉居癖を、悪化する戦局という現実からの逃避とみなして―― 「ヒトラーがこんな風に閉じこもっている表むきの理由は、やむをえずそうしているというのであった。しかし、それよりも本当は、どうしても閉じこもらざるを得ないという気持のほうが強く働いていたのである。閉じこもっていれば、自分だけの世界にひたっていられたし、その世界には、険悪で厄介なドイツの情勢も入りこんではこなかった。 彼は戦果に関する報告が、こうあってもらいたいと自分の念願している形勢に反するような場合には、どうしてもそれを読もうとはしなかったし、また同じように、爆撃された都市は、どこも訪問しようとはしなかった」
ヒトラーは、すでに指摘したようにきわめて主観的、感情的な人物である。この種の人物はとかく劣等感を抱き、難局に遭遇すると真っ向から立ちむかおうとはせず、意気消沈しやすくなる。その意味で、ヒトラーが戦局の悪化に伴って気力を失い、独善的な環境に閉じこもうろうとしたことは理解できるがそれにしても、ヒトラーほど自己顕示欲に富む人物が、かくも急激に隠とん生活に没入するには、それだけの理由がなければならない。 あるいはヒトラーは自己の容姿に自信を失ったのかとも思われる。ヒトラーは「美男のアドルフ」と、ドイツ国民とくに女性たちの間でもてはやされていた、といわれる。頭髪をななめにたらし、口ヒゲを四角形に刈りこんで、目じりが下がったヒトラーの顔が、はたしてハンサムの評価に値するかは別問題として、たぶん世界的スターを自任するヒトラーであれば、その種の評判は大いに歓迎したに違いない。ヒトラーの独身維持も、映画俳優のそれと同じく、人気保持のねっらいが含まれいたかもしれない。 そのヒトラーは、一九四三年には五十五歳になった。激務と不健康な生活と"モレル丸薬"の服用、そして寄る年波で往年の美男ぶりも衰えた。だから、人前にはでたくない……。 だが、問題がただ"容色"だけにあるとすれば、整形手術、カツラなど改善方法は皆無ではない。ヒトラーの指導者意識が健在であるなら、むしろ、残照の栄光を求めるスターのごとく、。手段をつくして昔日の声名ばん回をはかるはずである。 しかも、総統本営におけるヒトラーは、完全な無気力におちいっていたわけではなく、彼の総統としての権威と権力はいぜんとして保持されつづけていた。気にいらぬ戦況報告を耳にしなかったのも、ヒトラー自身が好まなかっただけではなく、ボルマン官房長官ら側近が、ヒトラーの機嫌悪化を恐れて伝えなかった事情もあったのである。 このようにみてくれば、ヒトラーの健康が急に衰え、人間嫌いになったについては、ヒトラー自身の内奥に重大な変化が起こったためと考えるべきではなかろうか。 宣伝相ゲッペルスは「総統本営の寂寞たるふんい気と本営における仕事の運営ぶり全体とが、ひとりでに総統の気分をふさぎこませるのだ」と、日記に書き残しているが、ヒトラーは青年時代から"寂寞たる"生活に慣れている。その種の生活に耐えられないとすれば、到底総統の地位につくまでもなかったであろう。 そこで、思いあたるのがOSS工作の成果である。ヒトラーは、過去の回想にふけり、かつ「歴史」「人間の運命」「宗教」といった、いわば非現世的主題に思いをめぐらせながら、一方ではせっせと精力剤である「モレル丸薬」を服用しつつ、しかもエバ・ブラウン嬢を呼び寄せようとはしない。また、四三年からは、それまで試みさせていた食物の毒味をとくに念入りに励行させている。 「厳格な毒味」――「精力剤の大量服用」――「愛人拒否」――「人間嫌い」……と、こう並べてみると、おぼろげながらヒトラーをつかんだ、いまわしい爪跡を感じさせられる。おそらく、ロベル博士言明は正しかった。博士が工作員に渡した毒薬とホルモン液は、ともにヒトラー農園にふりまかれた。結果は、ヒトラーの毒味役の一人が倒れ、ヒトラーは警戒心を高めた。だが、そのためホルモン液は見のがされ、予期どおりの効果を発揮した。おかげで、ヒトラーは身の異常を克服せんとして、「モレル丸薬」にすがり、その副作用と「女性化」の双方に、心身をむしばまれていったのではなかろうか。 むろん、そういった"背景"は側近にもヒトラー自身にも、そしてモレル博士にもわからなかったろう。だが、それだけに、戦局の悪化と並行して、ヒトラーの肉体的、精神的衰退は激しさを増していった。
一九四四年になると、ドイツの敗北は決定的になった。東部戦線では、ソ連軍が津波のようにドイツ軍を圧倒した。ポーランド、ルーマニア国境を越え、七月初旬にはミンスク、ヴィルナ、クロドノの線に進出した。連合軍のドイツ本土空襲も激化し、三月四日イタリアの首都ローマが陥落すると、二日後の六月六日、米英軍は北フランスのノルマンディ海岸に上陸、西方からベルリンを目ざした。 ノルマンディ上陸は、巧妙な米英軍の謀略によって、ドイツ軍に上陸地点を誤認させたものだが、ヒトラーだけは正しく予想していた事実がある。これは、ヒトラーの直感力がなお維持されていた証例かもしれないが、その直感は有効に実現されなかった。ヒトラーも、米英側の謀略を信じ、上陸地点はほかにもう一ヵ所あるものと信じて、第十五軍(十五個師団)をセーヌ河北方に配置した。しかも、ヒトラーは重要作戦のすべてを自己の権限内におさめていたので、いざ上陸という日の朝、ヒトラーが眠りからさめるまで、第十五軍の移動は行われず、連合軍の橋頭保確立を許してしまった。 そのごのヒトラーは、まさにバーテルズ博士が予告したとおりの心理状態を呈した。被害意識、不信感、外罪性向など、博士が"女性化"を認めた性向傾向が強化され、むしろその他の性格を圧倒してしまった感を与えた。 一九四四年七月二十日のヒトラー暗殺未遂事件も、そういったヒトラーの変化を示す好例である。 ヒトラー暗殺計画は、ヒトラーの身体の異常が顕著になった一九四三年になって、急増している。一九四三年末期だけで六回も企てられた。七月二十日事件は、総統本営会議室に片目、片腕のシュタウヘンベルㇰ大佐が、時限爆弾を運んで炸裂させた。間違いなく成功と思われたが、部屋が木造であったおかげで爆風が壁を破って効果を減少したため、ヒトラーは火傷、打撲傷、両耳の鼓膜破裂の負傷をうけたが、助かった。 その日、ちょうど、失脚後ドイツ軍に救出されて再び北イタリアにファシスト政権を樹立したムッソリーニが、ヒトラーを訪問する日だった。ヒトラーは応急手当をすませるとズタズタになった制服を着かえて、ムッソリーニを駅に出迎えた。そして、絶対に国内の被災地は見せようとしなかったのに、破壊された現場にムッソリーニを案内したうえ、別室に参集したゲーリング空軍元帥、リッペンㇳロップ外相、デ―ニッツ海軍元帥ら幹部の前で復讐の誓を叫んだ。 「予は神に選ばれて歴史を作っている。予の邪魔をするものは、必ず破滅するであろう」 その言葉どおり、陰謀加担者と見られる者が、軍人だけでなく、学者、医者、宗教家、作家、はては一般の労働者、農民の中からも摘発され、検挙された。その数は「判明しただけで四千九百八十人」(バロック・前掲書)だが実際にはその数倍に達するものと推定されている。首謀者とみなされたのは、ヴィッツㇾーベン元帥ら七人、同じく一味と目されたロンメル元帥は自殺を強要されたが、七人の将軍、将校は、ヒトラーの指定した方法で処刑された。 「彼らは家畜のように殺されねばならない」 このヒトラーの命令によって、七人は肉をつり下げるフックにかけられ、しかもゆっくり絞殺された。そして、その光景は映画に撮影され、その夜ヒトラーの鑑賞に供せられた。 暗殺未遂事件によって、ヒトラーはしばらく蝸牛穀(かぎゅうかく)障害に苦しんだが、さらに頭痛、胃痛、咽喉痛に悩み、左手のけいれんは左半身に及び、本営防空壕の中の軍用ベッドに横たわる日がつづいた。十月に声帯にできた腫瘊切除手術を行い、十一月に二本の歯を抜いた。 この抜歯手術を行ったのは、F・プラーシケ教授だった。助手はケーラ・ㇹイゼルマン嬢。彼女はのちに、ソ連軍のヒトラー自殺死体確認に協力することになるが、ヒトラーの手術中、彼の痛みにたいする反応がほとんどないのに驚いた、と述懐している(K・ライアン『ヒトラー最後の戦闘』)。 手術は約四十分つづき、ヒトラーの指示によって、麻酔は最小限にしかかけられなかった。義歯を切りとり、穴をあけ、切れ目を入れる。「それは大変な忍耐でした。私たちは彼(ヒトラー)がどうやって痛みを我慢したのか、不思議でした」 あるいは、バーテルズ博士なら、「まさしくヒトラー「女性化」の徴候。女性は男性よりも痛覚が鈊いものだ」と解説するかもしれないがこのように頭から足まで、痛みに襲われている時期に、ヒトラーは最後の反撃作戦を指導した。
ヒトラーがねらったのは、西部戦線の英米軍に一撃を与え、その補給港アントワープを奪回することだった。すなわち、アルデンヌ高地を突破し、ムーズ河を渡ってアントワープに進むのだが、アルデンヌ地区の連合軍は比較的劣勢であり、成功は有望とみこまれた。また、作戦が成功すれば、自動的に連合軍は分断され、ルーズ河とライン河にはさまれた地域に英国軍を孤立、包囲できる。その結果は、英国軍の撤退、そして米英連合のヒビ割れも期待できる。 たしかに、ヒトラーの着想はみごとだったが、致命的な弱点が二つあった。ひとつは、たとえアントワープを占領しても、ドイツ軍には維持する能力がないこと、もうひとつは、この作戦には二十八個師団が動員されるが、それはなけなしの予備兵力であり、東部戦線が手薄になることを意味する。 当然、グ―デリアン参謀総長は反対の意向を示したが、"元伊長"ヒトラーはどなりつけた(注、ヒトラーは第一次大戦で鉄十字章をうけたたが、素養がないので士官にはなれず、伊長どまりだった)。 「わたしは戦場でドイツ軍を五年間も指揮している。クラウゼウィッツも勉強しているし……わたしのほうが君たちよりも作戦は心得ている」 ヒトラーは、一九四四年十一月二十日からベルリンの総統官邸にいたが、この作戦を直接指揮するために、パート・ナウハイムの西部戦線大本営、通称"鷲の里"(『アドラーショスㇳ』)に移った。そして、十二月十二日、大本営に作戦参加司令官を集めて激励の訓示をした。司令官たちは全員、武器もカバンも取りあげられ、親衛隊兵士の監視の下で、身動きもせず、ヒトラーの演説に耳を傾けた。 十二月十六日、攻撃開始。だが、作戦は死傷者十二万人を数えて失敗に終わった。ヒトラーは一月八日撤退命令を承認し、一月末、ベルリンに帰った。ポーランドで攻勢に出たソ連軍は、早くもベルリン東方百マイルに迫っていたからである。 ヒトラーは、総統官邸の防空壕に閉じこもった。防空壕といっても、地下五十フィートにある二階建てで、生活および戦争指導に必要な設備は整っていた。大型爆弾の直撃にもびくともしなかった。だが、その安全な住居のなかで、ヒトラーは安息は味わわず、まっすぐ破滅の道を歩んだ。 ヒトラーは、肉体的にはほぼ廃人状態に近かった。頭はいつもふらふらとゆれ、左腕はたれ下がったまま動かず、目のまわりは黒ずみ、腰も曲がっていた。誰も信用できなくなったとみえ、女秘書の一人に告げている。 「わたしのまわりにいる者は、嘘つきばかりだ。誰一人信頼できる者はおらぬ。ヘスは気違いだ。ゲーリングは国民の信頼を失っている。ヒムラーは党から排斥されるだろう」 「わたしは、人間よりも犬のほうが好きだ」 感情を自制する力は失われ、敗北を口にする幹部には、誰彼の差別なく激怒した。グーデリアン参謀総長になぐりかからんばかりの気配をみせたこともあった。 戦時軍需相シュベーアが三月十五日、 「四週間ないし八週間のうちに、ドイツ経済の最終的崩壊は必至だ」 と進言すると、ヒトラーは三月十九日、敵の進路上にあるいっさいの通信機関、車両、トラック、橋、ダム、工場、貯蔵品の破壊、つまり徹底的焦土戦術を指令して、シュべーア軍需相に叫んだ。 「戦争に負ければ国も亡ぶ。そうなったら、ただ生存していくというきわめて素朴な生存の根拠すら、もう考慮するには及ばない。そんなにしてまで生きるくらいなら、国など破壊したほうがましだ。われわれの手で破壊したほうがましだ。この国の将来は、もっと強い東方の国が握っている。それに、戦後まで残る者にろくな者はいない。立派な者は死んでしまった」 このヒトラーの言葉には、鋭い予見と激しい自棄との奇妙な混合がみられるが、明らかに心理の平衡は失われている。この時期にヒトラーを訪れた将軍たちは、口をそろえて"ヒトラーが狂っていた"と述懐する。だがそれにもかかわらず、誰ひとりヒトラーの最後を早めようとはせず、さらに奇妙なことには、ゲーリング、ヒムラー両人は激しい後継者争いを演じた。 ヒトラー自身が破壊しろと命じた国家の指導者たらんとするのだから、あるいはゲーリング、ヒムラーたちもヒトラーの"狂気"に感染していたかもしれないが、いずれにぜよ、ヒトラーは、ドイツ国家の破壊の前に、自分自身の崩壊を招かねばならなかった。 ヒトラーは、誰も信用できない、と女秘書に語ったとき、もしあの忠実なモレルがいなかったら、わたしは完全に参っているところだ>と言ったが、その言葉どおり、いぜんとして「モレル丸薬」を服膺しつづけたが、健康は回復できなかった。 四月に入ると、もうヒトラーには、ただ戦え、戦え、と命令することと、降伏する者はすべて銃殺せよと指示する以外に、することはなくなったようだ。ヒトラーは机にフリ―ドリッヒ大王の肖像写真を置いていた。ある日、ゲッぺルス宣伝相がカーライルの『フリ―ドリッヒ大王伝』の一節を読みあげた。 「雄々しき王よ、しばし待たれよ、やがてあなたの苦しみの日も終わるでありましよう」 それは七年戦争で大王が苦闘に疲れ、あわや、毒杯をあおうごうとした時の描写だったが、耳を傾けるヒトラーの目は、いっぱいの涙にうるんだ。 ヒトラーは一九四五年四月二十日、五十六歳の誕生日にアルプスの防御陣地に向う予定だったが、すでにベルリンは四方から包囲されて脱出は困難だった。ヒトラーは、その五日前に、彼女自身の希望で総統官邸にゆやってきたエバ・ブラウンとともに、自殺の決意を固めた。 ヒトラーの運転手リッヒ・ケンブカは、エバを評してドイツで一番不幸な女だった、と回想している。 「一生のほとんど全部を、ヒトラーを待って暮らしました」シャイラー『第三帝国の興亡』
ヒトラーとエバは、一九四二年十月いらい三年ぶりの再会である。が、ヒトラーにはもはや、男性としてエバうを愛する力は失われていたに違いない。ヒトラーにできることは、「可愛そうなアドルフ。みんなに裏切られて、あの人がドイツから消えるくらいなら、ほかの者が一万人死んだほうがましなのに」というエバの愛にこたえ、十二年間"日陰"にいた愛人を正式に妻にすることだけであった。 ヒトラーの最後については、すでに多くが語られている。四月二十九日未明、ヒトラーとエバの結婚式が行われた。 ヒトラーは固く死体の焼却を厳命し、四月三十日午後三時四十分、ピストルを口中に発射して死んだ。新婦エバは青酸カリをあおいだ。ともに、いさぎよい死だったが、ヒトラーが残した遺言書は、次のような憎悪と不信と責任転嫁と混乱に満ちていた。 「この三十年間、わたしはひたすらにわが国民への愛情と真心をもって活動し続けてきた……」一九三九年にわたしが、いやドイツにいる誰かが戦争を買って出たというのは嘘である。あの戦争が起きるのを望み、けしかけたのは、もっぱらユダア人の子孫たる政治家か、あるいはユダヤ人の利害のために働いていた国際政治家たちであった……。 ドイツ国民と国防軍は、この長い苦しい闘争に全力を出しきった。しかし……この戦争中、不忠と裏切りとのために……わたしも国民を勝利に導くことができなかったのである。現在の陸軍参謀本部は第一次大戦当時のそれとは雲泥の差がある……。 ドイツ国民は依然として東方の領土を獲得しようとねらわねばいけない 要するに、自分はチッㇳモ悪くない、悪いのはユダヤ人と将軍たちだ、というのである。 バロック教授は、アドルフ・ヒトラーを「古いヨーロッパを破壊した一個の建設者」と呼ぶ。"建設者"とは「新ヨーロッパ誕生に力を貸した者」という意味であろが、その建設のためにヒトラーが行った破壊は、あまりに大きく深刻である。ことに一九四三年以降、ヒトラーの破壊のㇹコ先は外界のみならず、同胞にまで及んでいる。そして最後に残したのは、あたかも失恋女性の強弁に似た遺書の一通のみ……。 まことに"狂気の独裁者"であった。もしその"狂気"が、あくまで推理ではあるが、OSS工作のゆえだとすれば、その成果はあまりにも強烈であり、悲惨の及ぶ範囲は広大にすぎる。OSSの記録があいまいに失敗を宣言しているのは、そのためであろうか。 児島 襄『指揮官(下)』(文藝春秋)1976年12月25日 第1刷 P.196~221。26ページにおよぶ記載である。 2012.05.30記 |
令和元年九月号 P.124 喜劇の王様 喜劇の王様 チャップリン 清水義範 チャールズ・チャップリン:Charles Spencer Chaplin(1889~1977年)は喜劇映画を作り、世界中の人々を笑わせました。 チャップリンは1889年に、イギリスの首都ロンドンの下町、イースト・レーンで生まれました。父のなは同じくチャールズ・チャップリン、母はハンナ。父は歌手で作詞、作曲もし、母も歌ったり踊ったりする芸人でした。 ところが1歳の時に両親が離婚し、兄のシドニーとチャップリンは母に育てられた。 チャップリンの初舞台は5歳の時です。それは突然のことでした。喉を痛めていたハンナが、舞台で歌っていて声が出なくなったのです。客に野次られたハンナは舞台から逃げてしまいました。でも、幕は開いたままですから、誰かが何かをしなければなりません。すると舞台監督はそこにいたチャップリンに、何かをしろと言って舞台に出したのです。 スポットライトを浴びたチャップリンは、お母さんのために何かをしなくちゃ、と考えました。そこで、歌を歌ったのです。それから、パントマイムをしました。5歳の子供が必死に演技するのを見て、客たちは笑いました。そして舞台に銅貨を投げてくれたのです。チャップリンは夢中になって銅貨を拾い集めます。その、お尻を突き出して銅貨を拾う姿がおかしいので、ますます銅貨が飛んできます。 チャップリンは客を笑わせる天性の才能を持っていたのです。 しかし、悲劇が襲いかかります。 7歳の時、ハンナが精神の病気にかかって入院し、シドニーとチャップリンは孤児院に入れられてしまったのです。寂しい孤児院での生活は2年近くも続きました。9歳の時、やっとお母さんが退院してまたいっしょに住めるようになりましたが、お母さんは仕事ができません。狭い屋根裏部屋に三人で住み、食べることも満足にできない生活をしなければなりませんでした。やがて兄のシドニーは船乗りになって家を出ていきました。 ところが、もっと悲しいことがおこります。11歳の時、ハンナがまた入院し、チャップリンは一人で生きていかなければならなくなったのです。 この頃、チャップリンは、俳優になって舞台に立つという夢を持っていました。そこで必死に職さがしをして、ついに12歳の時、『シャーロック・ホームズ』という芝居の子役になり、各地を巡業しました。こうして役者人生が始まったのです。 1907年、18歳の時にカルノ一座に入り、『フットボール試合』という芝居で大成功をおさめました。20歳で一座のパリ公演に参加し、21歳から23歳まではカルノ一座のアメリカ公演に参加しました。チャップリンは、アメリカで映画を作りたいと思うようになります。その頃、映画は人々の娯楽の王様だったからです。 24歳で、アメリカのキーストン社と契約し、監督として短編喜劇映画を作るようになります。1年間に35本もの短編喜劇映画を作って、たちまち人気者になりました。 こうした活動の中で、チャップリンは自分の役者としてのスタイルを完成させていきます。そして、だぶだぶのズボンにきついタキシード、大きなドタ靴にステッキと山高帽、口の上にちょびひげをつけたあのスタイルが完成したのです。 それからは、1年ごとに映画会社を移り、思う存分喜劇映画を作りました。契約料は毎年上って、生活も豊かになり、人気もうなぎのぼりです。 29歳の時に女優のミルドレッド・ハレスと結婚しましたが、この結婚は2年しか続きませんでした。 1921年、32歳の時に『キッド』という初の長編喜劇映画を作ります。浮浪者が捨て子を育て、最後に幸せになるという心あたたまるストーリーで、大評判になりました。この頃から、チャップリンは喜劇の中で愛や勇気を表現する監督だと認められていくのです。 33歳の時に、母のハンナをロンドンからアメリカに呼び寄せて、看護婦をつけてカルフォニアの別荘に住まわせた。 35歳の時に女優のリタ・グレイと結婚しましたが3年しか続きませんでした。チャップリンは生涯に4回結婚し、4回目がいちばん幸せでした。 36歳の時、代表作のひとつ『黄金狂時代』が完成します。ゴールドラッシュのアラスカへ、金を求めて行った男たちの物語です。この映画の中の、食べる物がなくなり、ついに革靴を煮て食べるシーンはとてもおかしく、大変な評判になりました。 40歳の時、ハンナが亡くなりました。チャップリンはシドニーの胸に顔をうずめて、子供のように泣き続けたそうです。 母の死は悲劇でしたが、仕事はこの上なく順調で、42歳の時、名作『街の灯』を作りました。47歳の時には、『モダン・タイムス』という作品で、機械文明の中で狂ったように働かされている現代人のおかしさを描きました。 そして、51歳の時、ドイツの独裁者ヒトラーを真正面から批判する。チャップリン初のトーキー映画『独裁者』を作ったのです。この頃はほとんどの映画がトーキーでしたが、チャップリンはかたくなに無声映画を作り続けていました。この『独裁者』の中で、チャップリンは独裁者と間違えられた床屋に扮して、世界に平和と愛を求めるメッセージを送ったのです。 チャップリンとヒトラーは同い年でした。ヒットラーが独裁政治の頂点にいる時に、チャップリンは力強く独裁を否定したのです。ものすごい勇気でした。そんなすごい映画をチャップリンは作ったのです。 第二次世界大戦が終わってから7年後の1952年、チャップリンはアメリカを離れ、スイスに移住しました。それからは、たまに映画を作りながら自由に生きました。 1977年、チャップリンはスイスの自宅(レマン湖を見下ろすヴェヴェイ(Vevey)にある)で亡くなります。88年の生涯でした。 2019.11.22 |
カレル・チャペック(チェコ語: Karel Čapek)(1,890~1,938年)は、チェコの作家、劇作家、ジャーナリスト、園芸家。兄は、ナチス・ドイツの強制収容所で死んだ画家・作家のヨゼフ・チャペック。
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.84 〔80]
If dogs could talk, perhaps we'd find it just as hard to get along with them as we do with people.
《訳》 もしイヌに物がいえたなら、おそらく人間と同じくイヌとも仲良くやっていくのが困難になるだろう。
イヌは物が言えないからこそ仲良しでいられる。もし、イヌに口がきけたら、とても現在のように仲良くはできないだろう。この事実に気がついた人は昔からどこの国にもいた。 チャペック(1890-1938)は旧チェコスロァキアの作家、劇作家。奇抜なアイディアにもとづく清新な作品を得意とする。ロボットア robot [人造人間]という言葉は彼の作品から生まれた。"Man will never be enslaved by mchinery if the man tending the machine be paid enough.(機械を使う人間が十分な報酬がもらえれば、人類は機械の奴隷になることなどあるまい)と、彼の死亡記事の一部にあるが、マルチメディア隆盛も現在、クーロン人間誕生にも彼は驚かないかもしれない。 そういえば、イギリスの作家(Saki, 1870-1916)の短編に『ㇳバモㇼー』(Tobermory')という猫が物を言う話がある。彼はこのとっぴな架空の物語によって、人生の虚偽を嘲笑しているのだ。 2021.12.15 |
アガサ・メアリ・クラリッサ・クリスティ(Dame Agatha Mary Clarissa Christie, DBE、旧姓:ミラー (Miller)、(1,890~1,976)は、イギリス生まれの推理作家である。発表された推理小説の多くは世界的なベストセラーとなり[ミステリーの女王]と呼ばれた。日本語表記は[クリスティ[クリスティー]がある。 1971年、大英勲章第2位 (DBE) に叙され[デクリスティー]となる。英国推理作家のクラブであるディテクションクラブの第4代会長。
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.163
An archeologist is the best husband any woman can have; the older she gets, the more interested he is in her.
《訳》 どんな女性にしろ考古学者よりも優秀な夫は持てない。こちらが年を取れば取るほど、いよいよ深く興味をもってくれるから。
[ミステリー界の女王]として今もなお読み続けられるクリスティ(1891-1976)が再婚したとき、なぜ考古学者(archeologist)と? の質問に対する返事といわれている。彼女の二番目の夫マロアン(Sir Max Mallowan, 1904-78)は著名な考古学者であった。その後の彼女の創作活動においての夫の果たした役割は実に大きい。 彼女の『自伝』(An Autobiography, 1977)には、再婚を決意する迄の葛藤が真摯に語られている。[私の良き人生、私が授かったあらゆる愛情に対し、神に感謝します]。『自伝』は75歳に達したクリスティのこの言葉で終るが、機知とユーモアを持ち、意欲にあふれ、円満な人格を備えたクリスティ女史の人生賛歌といえる。 2021.12.06 |
世の中で一番滑稽なのは、「知ったかぶりの物しり屋」が、ききかじりの生半可な知識をもっているだけで、自分こそ「天下第一」だとうぬぼれることである。こんな連中こそ自分の力を知らないもののよい例であるb。知識の問題は科学の問題であり、いささかの虚偽や傲慢さもあってはならず、その反対のもの――誠実さと謙虚な態度――が決定的に必要とされるのである。 知識をえたいならば、現実を変革する実践に参加しなければならない。梨のうまい味を知りたいならば、自分でそれをたべて、梨を変革しなければならない。(実践論) 10月10日毛主席のもとに、新中国は第一回の国慶節を祝った。毛沢東は湖南省の農民に生れた偉大な革命家。『矛盾論』『実践論』 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.169 *青木雨彦監修『中年博物館』(大正海上火災保険株式会社)P.143
2020.02.29 |
ジェームズ・グローバー・サーバー(James Grover Thurber)(1,894- 1,961年)はアメリカ合衆国の作家、漫画家である。雑誌『ザ・ニューヨーカー』の編集者・執筆者としても活躍した。 ニューヨーカー誌に掲載された"The Catbird Seat"などの漫画や短編小説で有名であり、後に書籍として出版された。普通の人々の欲求不満や奇抜さを描いた漫画で知られており、その時代の最も人気のあるユーモリストの一人だった。彼が大学時代からの友人である映画監督・脚本家のエリオット・ニュージェント(英語版)と共同で書いたブロードウェイコメディ"The Male Animal"は、ヘンリー・フォンダとオリヴィア・デ・ハヴィランドの主演で映画化(邦題『男性(英語版)』)された。彼の短編『ウォルター・ミティの秘密の生活』は、1947年(邦題『虹を掴む男』)と2013年(邦題『LIFE!』)に映画化された。
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.86 〔81]
I have always thought of a dog lover as a dog that was in love with another dog.
《訳》 イヌ好きの人を見ると、ぼくはいつも、これは他のイヌに恋をしているイヌだな、とおもっていた。
イヌの大好きな人は世間にたくさんいるが、アメリカのユーモア作家サーバー(1894~1961)は、そんな人を見ると、こいつ正体はやはりイヌで、それが別のイヌに恋をしているんだな、と思ってきたと言っている。つまりは、イヌ好きな人の正体はやはりイヌだぞ、と言うのだから、あまり敬意をもたないわけである。しかし、サーバー自身の描く絵にはたくさんイヌが出てきて、それがどれもこれもかわいい無邪気なイヌばかりだ。してみると、サーバー自身、人間の姿をしたイヌに違いない。 サーバー流のユーモアを一つ;Early to rise and early to bed makes a male healthy and wealthy and dead.(早寝早起きは男性を健康に、金持ちに、そして一巻の終りにする)フランクリンの言葉――Early to rise and early to bed makes a man healthy wealthy and wise.(早寝早起きはひとを健康に、金持ちに、そして賢明にする)――のもじり。 イヌ好きと言えばサミュエル・バトラーにもこんな言葉がある。The great pleasure of a dog is that you may make a fool of yourself with him and not only will be not scold you, but he will make a fool himself too.(イヌとは一緒にばかな真似ができるし、それにイヌは𠮟らないばかりか、自分もばかな真似をしてくれる――これがイヌにまつわる大きな喜びである) 2021.12.17 |
オルダス・レナード・ハクスリー(Aldous Leonard Huxley [ˈɔːldəs ˈhʌksli],)は、イギリスの著作家。後にアメリカ合衆国に移住した。ヨーロッパにおいて著名な科学者を多数輩出したハクスリー家の一員で、祖父のトマス・ヘンリー・ハクスリーはダーウィンの進化論を支持した有名な生物学者、父のレナード・ハクスリー(英語版)は文芸雑誌を担当する文人であった。長兄のジュリアン・ハクスリーもまた進化論で有名な生物学者で評論家、1946年から1948年までユネスコ事務局長を務めている。異母弟のアンドリュー・フィールディング・ハクスリーはノーベル生理学・医学賞受賞者。息子のマシュー・ハクスリー(英語版)も疫学者・人類学者として知られている。オルダス・ハクスリーは小説、エッセイ、詩、旅行記など多数発表したが、小説によってそのなを広く知られている。 姓の表記には、ハックスリー、ハックスリイ、ハックスレー、ハックスレイ、ハックスリなどがある。 代表作『すばらしい新世界』(1932年)
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.51
〔47〕
Happiness is like coke――something you get a by-product in the process of making something else.
《訳》 幸福なんてコークスのようなものさ、何か他の物をこしらえているうちに副産物として手に入るものだ。
幸福とは何か? 大上段に構えていても明確な解答が得られるはずはない。職業なり興味関心を追求する過程で付いてくる附属品だというのだ。幸福の’青い鳥’は身近にあるのかもしれない。机上の空理空論を弄ぶ学者先生への痛烈な批判とも受け取れる。
オルダス・ハックスレー(1894~1963)はイギリスの小説家・思想家で、社会風刺的な作品『恋愛対位法』(Point Counter oint. 1928),『見事な新世界』(Brave New World, 1932)などで知られる。ハックスレーはシェクスピア戯曲などから自由自在に引用して実に凝った書名をつけていた。(「むずかしいタイトル」『英語青年』第124巻第6号p.34-35,[84]参照)
2021.11.30)
〔84]
To his dog, every man is Napoleon; hence the constant popularity of dogs.
《訳》 飼主にとっての人間はみなナポレオンである。だからこそイヌはいつの世にも人気が高いのだ。
飼主に対するイヌの態度は、絶対的な君主に対する臣下と同じだ。それだからこそイヌはいつの世でも人気が高い。
That all men are equal is a proposition to which, at ordinary times, no sane human being has ever given his
assent.(人間平等――まともな人間なら平時には絶対に承知しない戯(ざ)れ言(ごと)さ)[47]参照)
2021.11.30
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モンテルランはフランスの小説家・劇作家。価値観の崩壊した時代における苦悶・孤独を基調に、男性的行動の称揚、女性蔑視などの価値観を前面に出した作品で注目を集めつつ、常に絶対性を追求した。ピストル自殺。小説『闘牛士』『若き娘たち』、戯曲『ポール‐ロワイヤル』など。 一 「その生涯において、何度も読み返し得る一冊の本を持つ人は幸せな人である。さらに数冊持ち得る人は至福のひとである」
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一 あなたの世界では、あなたがただ一人の考える人であり、他人はあなたがどのように考えようとは責任はないのです、あなただけに責任があるのです。 (ジョセフ・マーフィー・ワンランクアップ研究会) |
☆48アーネスト・へミングウェイ(ERNEST HEMINGWAY)(1,899ー1,961年)
釣れないときは、魚が考える時間を与えてくれたと思えばいい。 私見:彼の著書に老人と海があります。この本をよむと、上の言葉がぴったりであると私は感じます。 参考:Born in Oak Prk, Illinois, in 1899, Ernest Hemingway was educated there in the public schools. He became a reporter on the Kansas City Star and in the World War Ⅰ served as an ambulance driver and infantryman with the Itarian army. After the war he settled in Paris as a corespondent for the Toronto Star and it was there he began his serious writing career. He served as a war corespondent during the Spanish Civil War and World War Ⅱ. In 1954 he was awarded the Novel Prize for Literature. He died in Idaho in 1961. 2008.12.3
橋本 宏著『英語で読む 英知とユーモア』(丸善ラグビーブラリー)P.120 〔113〕
A serious writer is not to be confounded with a solemn writer. A serious writer may be a hawk or a buzzard or even a popinjay, but a solemn writer is always bloody owl.
《訳》 まじめな作家とまじめくさった作家とを混同してはならない。まじめな作家はタカとかハゲタカあるいはキツツキといったものだが、まじめくさった作家はいつだって残忍なフクロウのままだ。
ヘミングウェイは(1899~1961)はアメリカのノーベル文学賞作家、「失われた世代」に属し、ハードボイド文学の先駆的な役 割を演じた。代表作に『武器よさらば』(A Farewell to Arms, 1929)『老人と海』(The Old Man and the Sea,1952)などがある。 アーネスト・ヘミングウェイ ヘミングウェイは正真正銘作家と似非(えせ)作家の違いを鳥に喩えている。前者の活動ぶり、生命を賭して狩を行う猛禽などに、後者を狭い縄張りで狩を行うフクロウに喩えている。always a bloody owl の表現の中に、「フクロウの奴はいかにも賢そうに振る舞うが実は中身は空っぽだ」と激しい非難を表明している。狩の名手ならではの比喩の使い方だが、もちろんわれこそは 正真正銘の作家なり、とのヘミングウェイの自負心がみなぎる発言だ。彼は作品を通じて生と死の極限を描き続けた。愛用の銃を 使用して壮絶な死を遂げたが、これは彼の死の美学の現れともいえる。 2021.11.15 |
☆49トーマス・ウルフ(Thomas Wolfe)(1,903~1,938年)
トーマス・クレイトン・ウルフ(英: Thomas Clayton Wolfe)は、20世紀初頭のアメリカ合衆国で活躍した作家である。「トマス・ウルフ」と表記されることもある。 ウルフは4本の長編小説に加え、複数の短編、戯曲、中編小説を執筆した。彼の作風は、自伝的な書き口で、独創性・詩趣に富んだ文章を、感じたまま叙情的に書き上げるものである。1920年代後半から1940年代にかけて執筆・出版された小説は、ウルフの繊細かつ洗練され、かなり分析的な視点を通したものではあるが、当時のアメリカ文化や風俗を鮮やかに反映している。現在では邦訳も絶版状態だが、存命中は広く知られた作家であった。 ウルフの死後、彼と同時代の作家ウィリアム・フォークナーは、ウルフは自分たちの時代で最も才能ある人物だったかもしれない、と述べた。ウルフの影響はビート・ジェネレーションの作家ジャック・ケルアックや、レイ・ブラッドベリ、フィリップ・ロスなどに及んでいる。彼は自伝文学 (autobiographical fiction) の第一人者として、現在でも現代アメリカ文学の重要作家であり、ノースカロライナ州出身の最も有名な作家と考えられている。 代表作:『天使よ故郷を見よ(英語版)』『時と川について(英語版)』『汝再び故郷に帰れず(英語版)』『くもの巣と岩(英語版)』
橋本 宏著『英語で読む 英知とユーモア』(丸善ラグビーブラリー)P.156
There is no spectacle on earth more appealing than that of a beautiful woman in the act of cooking dinner for someone she loves.
《訳》 美しい女性が愛する人のために食事の支度をしている光景ほど、人の心を打つものはこの世の中に外にあるまい。
トマス・ウルフ(1903~38)は「天使よ故郷を見よ」(Look Homeward, Angel, 1929)で知られるアメリカの作家。女性が愛する人のためにかいがいしく食事の準備をしている光景は掛け値無く素晴らしい。男性が女性に献身的な愛情を求めるのは何時の世にも変わりはあるまい。 アメリカ人の画家ロックウェルス(Norman Rockwell,1894~1978)もこうした日常の世界を好んで描いて古き良き時代への郷愁 をそそったものだ。 2021.11.17 |
☆50アンドレ・マルロオ (1,901~1,976年)
アンドレ・マルロオ――続・生涯二人の師 小島直記著『回り道を選んだ男たち』(新潮社)(昭和六十二年二月十五日発行)P.261~264 シャンゼリゼ大通りから右に入るジョルジュ・サンク通りに、A……というレストランがある。そこのソムㇼエにエデュアル・アルティナンという男がいて、ワインの選定をまかせたのが気に入ったのか、ほとんどつききりでサービスしてくれた。翌日はオンボロのコンバーティブルを運転してパリのあちこちを案内してくれた。その男の話の中で忘れられないのはアンドレ・マルロオについての疑問である。 「あれは本当に自分で書いているのだろうか?」 と彼は言った。その真意はよくわからないが、そのとき私は、《実際のマルロオと、作品の立場とが一致しない》という意味だろう、と受けとった。一九六二年の私の『渡欧日誌』にそう書いたことを今確かめた。 当時マルロオは六十歳でド・ゴール大統領の右腕といわれ、文化問題担当の国務大臣であった。エデュアルの疑問を聞く二年前には、三度目の日本訪問をして、日仏会館の開館式に出席した。そのときブリヂストン美術館を見にきて特にマネーの作品に感嘆し、 「貴館の最高の宝はセザンヌとマネーであるが、セザンヌは探せば他にあるけれども、マネーはまことに少ない。特にパステルの《メリー・ローラン》は、マネーが日本風の平面描写において厚味を出す技法を追求した時代のもので、この種のものとしては世界最高のものといってよく、世界中探してもこれほどの作品はあるまい」 と激賞するのを、すぐそばで聞いていた。そして(それはそうかもしれないが、ド・ゴールの右腕ということと、その作品とは、一体どこでつながるのか……)と不審にたえなかったことを思いだす。私はそれまで『征服者』、『王道』、『人間の条件』、『侮蔑の時代』、『希望』などを読んでいた。 去年の秋、ド・ゴール終焉の地コロンペ村の土産物屋で、遺言の刷りものと『コロンペの一週間』という写真集を買ったときも、そのことを思いだした。その写真集は、ド・ゴールの葬式を主題としたもので、葬儀にかけつけたマルロオ(当時六十八歳)の悲痛な顔も出ている。そしてマルロオ自身はその六年後(一九七六年、昭和五十一年)に世を去ったのである。 ところでド・ゴールの伝記を書いたジャン・ラクーチュールは、ド・ゴールには「生涯二人の師」があったといっている。その一人はエミル・マイエル中佐との結びつきは理解しやすい。共に職業軍人であったし、戦略思想に共通性があり、しかもその卓越性を頑迷固陋の上層部ににらまれて不遇だったことまでそっくりである。つまり上層部から見れば「同じ穴のムジナ」だったのだ。 しかし、作家のマルロオとはまったく生きるジャンルがちがっていた。マルロオはド・ゴールより十一歳遅く一九〇一年に銀行支店長の息子として生まれている。一九二〇年ド・ゴールがポーランドで歩兵学校の教官をし、赤軍との戦闘に参加している頃、十八歳のマルロオはパリの怪しげなダンス・ホールから明け方近く女と出てきて、ヤクザとピストルで撃ちあい、左腕に銃弾を受けた。相手はヤクザだが、しかしマルロオもピストルを携行していたというところが語るに落ちるというもので、不良少年としかいいようがない。 ド・ゴールがペタン元帥の副官となるのは一九二五年だが、その前年マルロオはプノンペンの裁判所で懲役三年の判決を受けている。これは密林の中の神殿から石像を盗み出し、アメリカ人に売りつけて大もうけしようとしてつかまったものだ。結局サイゴンの控訴院で禁固一年執行猶予の判決を受け、刑務所入りはしなくてよかった。 ド・ゴールが歩兵連隊長となった一九二八年、マルロオは『征服者』で人気作家となった。以後、その立場は一口にいえば反体制派、コミュニストに親密な左翼、トロツキイの礼賛者、人民戦線派の旗手であった。アルティナンも、そして私もこういう作品をもとにして、ド・ゴールの右翼的政権下で大臣をしているということに戸惑いを感じたわけである。 しかし、マルロオは第二次大戦中に大きく変わったようである。一九三九年の独ソ不可侵条約を機にコミュニストと絶縁し、戦車兵として従軍。フランスの敗戦とおなじ日に負傷して捕虜となった。しかし、収容所を脱走してレジスタンスに加わり、「ペルジエ大佐」というなでアルザス・ロレーヌ旅団を指導した。 フランスのレジスタンスには「M・L・N」(民族解放運動)と「F・N」(国民戦線)の二派があり、後者は共産党の一組織と化していた。一九四五年一月パリで「M・L・N」の第一回全国大会が開かれた。このとき、左派は「F・N」との連合を主張した。そのねらいは、合同によって共産党、社会党、労働組合を基盤とする新党をつくり、生産手段、銀行、原料資源の国有化によってフランスにソビエト的社会主義体制を実現させることにあった。 戦闘服を着て出席したマルロオは、これに反対する演説を行った。すなわち「M・L・N」を国民運動として政党から離れたものにしておくべきだ、というのである。その演説は人びとを動かし、共産系の提案は三六九票中一一九表で否決、マルロオの動議は二五〇票で採択されたのである。 「『MLN』の内部の動きについては、ド・ゴールは当然注目していたろうし、マルロオの演じた役割についてもある程度知っていたろうと推定される。ド・ゴールがマルロオと会う気になった理由の一つが、おそらくそこにあった」 と書いている(『評伝 アンドレ・マルロオ』)。 その年五月七日ドイツは降伏し、戦争は終わった。六月「M・L・N」は分裂し、マルロオは脱退した。ブウローニュのヴィクトール・ユゴー街一九番地の彼の家に軍用車がとまって、 「ド・ゴール将軍がフランスのなのもとに、あなたが将軍を助ける気持をおもちかどうか、たずねておられます」 と使者がのべたのはこの頃である。 マルロオが会見場所に指定された陸軍省にいくと、ド・ゴールはまず椅子をすすめたあと、 「ダボール、ル・パッセ……」 (黒崎記:d'abord(まず最初に)passe) といった、とマルロオは書いている(『反回想録』)。つまり、まずマルロオ自身にその過去の説明を求めたわけで、これは不信感のあらわれ。「師」との距離は無限に遠かった。やがてマルロオはド・ゴール内閣に入るが、これでもまだまだ「師」との距離は無限に遠いのだ。 2022.04.30 記す。 |
NEW EDITION THE NEW AGE READERS EDITED BY KAZUO ARAKI KENKYUSHA P.75~80 チチェスター Chichester and Gipsy Moth (1,901~1,992年) The first Englishman to sail round the world alone was Francis Chichester. He did it in a yacht called Gipsy Moth, in 1966-67, following the route of the clippers which carried wool from Australia to Britain in the nineteenth century. Chichester's idea was to follow the wool clipper's route to Australia and back, and to see if he could do it in the same number of days as their average time, which was a hundred days out and a hundred days back. Gipsy Moth was designed specially for the voyage: she is an ocean-going yacht as large as one man can handle. She was built to be as steady as possible in the rough seas Chichester would meet. She was not only designed to be easy to sail, but also to be as comfortable as possible. Chichester's chair was made in such a way that it would always stay upright, however rough the sea. Everything was thought of――there was even a place for Chichester to grow his mustard and cress, to prevent him getting scurvy. The route he was to take was the clipper's one ――out by the Cape of Good Hope and back by Cape Horn. This means sailing through the North East Trade Winds, which carry the ship (whether it is one of the nineteenth century clippers like the Cutty Sark or Gipsy Moth) past Madeira and the Canary Islands to the Doldrums. This is a calm part of the Atlantic, where there are few winds, just north of the equator. Once through the Doldrums the ship runs into the South East Trade Winds, which carry her down till she is at the latitude of the Cape of Good Hope. The Roaring Forties, which blow from the west and get their name because they blow all round the world at latitude 40, then carry the ship to Australia. After the clippers had left Australia, they sailed either south of New Zealand or between the two islands, and then went(still in the Roaring Forties)to Cape Horn. Chichester sailed to the north of New Zealand, but that was the only difference in his route. Very few ships pass Cape Horn. Steam ships either go through the Panama Canal or, if they are at the southern end of Southern America, they go through the Strait of Magellan. But sailing ships used to go round the Horn rather than through the Strait, so there used to be a lot of ships passing it. But the Cape is the worst part of the clipper' route. There is danger from icebergs most of the way from New Zealand to the Horn, but particularly round the Cape, and it is well known for its storms. In spite of this, Chichester successfully sailed round it, quite alone.
※Photo: Gipsy Moth sailing round Cape Horn He set off in Gipsy Moth From Plymouth on 28 August 1966. He had with him a copy of the flag the Cutty Stark used to try, which was given to him just before he left. All the way to the Indian Ocean the voyage went well, and seemed likely that he would arrive at Sydney within a hundred days. But in the Indian Ocean he ran into bad weather, and after three days of storms, part of the self-steering gear broke. When morning came, he found that he could not mend it. Most people would have given up, gone to Fremantle, and had it mended there. But Chichester managed to make some kind of self-steering gear during the next two days, and then went on Sydney. But unluckily he was now unable to go as fast as he had done before, In spite of this, and in spite of the fact that as he got near Sydney the winds were against him, he arrived, after a voyage of 107 days, at Sydney where the Cutty Stark had so often loaded wool. There he was given a warm welcome, and he was able to have Gipsy Moth mennded. Ahead of him lay Cape Horn, the most difficult part of voyage. But he was not there yet. Just after midnight the day after he lft Sydney Gipsy Moth capsized. Luckily she righted herself, and there was no harm done, but down below everything was in disorder. On Chichester sailed: he went north of New Zealand, unlike the clippers, but then sailed southwards and got back onto the clipper's route. He was back in the Roaring Forties now, and all along this part of the voyage, until he was round the Horn, there was danger from ise. But he arrived quickly and safely at the Horn, and sailed round it in strong winds fifty-seven days after he had left Sydney. After this the weather was better, and he turned northwards, towards Britain. He got through the Doldrums, ad into the North East Trade winds, and was still hoping to get to England in a hundred and ten days (no longer a hundred days) when the winds dropped. Chichester was at that time south-west of the Azores, and for a week he moved slowly along, only doing about 75 miles a day. It meant that there no longer any hope of arriving in England in a hundred and ten days. But the winds blew harder, and Gipsy Moth moved more quickly: and Sunday 28 May 1967 she arrived back at Plymouth. She was met by a large fleet of a little boats, and a huge crowd came out to watch her arrival: and as dusk fell she came into the harbor, and home. Chichester did not in fact manage to do the passage out to Sydney and the passage back in a hundred days each. Nevertheless it had been a fine voyage, and the welcome waiting for him was a very warm one. Copy on August 28th,2021 |
ジョージ・ハーバート・リー・マロリー(George Herbert Leigh Mallory)(1886~1924年)は、イギリスの登山家。 1920年代にイギリスが国威発揚をかけた3度のエベレスト遠征隊に参加。1924年6月の第3次遠征において、マロリーはパートナーのアンドリュー・アーヴィンと共に頂上を目指したが、北東稜の上部、頂上付近で行方不明となった。マロリーの最期は、死後75年にわたって謎に包まれていたが、1999年5月1日に国際探索隊によって遺体が発見された。以来、マロリーが世界初の登頂を果たしたか否かは、未だに論議を呼んでいる。 マロリーが[なぜ、あなたはエベレストに登りたかったのか?]と問われて[そこにエベレストがあるから(Because it's there. )]と答えたという逸話は有名であるが、日本語では、しばしば[そこに山があるか[」と誤訳されて流布している([そこにエベレストがあるから])。
It was Mallory who defined the challenge of Everest in an aphorism that has became a cliché. When asked why he wanted to climb the mountain, he replied, “Because it´s “there.” *2004.3.6〈朝日新聞〉Leigh Malloryが紹介されていた。
橋本 宏『英語で読む 英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.108
Because it is here.
《訳》 なぜなら、それがそこにあるから。
この簡単な言葉にどんな背景があるのか、それに気がつかないと面白くも何ともない。アメリカの新聞記者から「なぜエヴェレ ストに登りたいのですか」と質問されたとき、大登山家マロリー(1887-1924)が答えた言葉である。何とも答えにくい質問だから、とっさにこう返答したのだろう。それが1969年に出版された彼の伝記に引用されて有名になった。のちになって、ちょうど作曲家が作曲するようなもので、登山家はどれほど困難な山でも登らずにいられないものだ、と説明している。そのエベレストで彼は同僚一人と共に消息を絶った。1924年6月のことである。しかしこの言葉が有名になったのは、死後40年もして彼の伝記が出版 されてからである。 2008.7.12 |
「人間一人ひとりの中には成熟に向かって前進する力と傾向性は必ずある。」
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テモーティマー・J・アドラーMortimer J.Adler教授に、How to Read a Book(本の読み方)というベストセラーがある。 ▼アドラー教授本の読み方というのは一口でいうと、その本の伝えようとしているメッセージを直接的に表現した文字を、その本の頁の中から探し出すということである。 出典:『図書』編集部編 『私の読書』(岩波新書)P.15 鵜養信成氏が紹介されていた。 2011.01.12 |
☆55ジョージ・ケナン(1,904~2,005年)
▼『二十世紀を生きて』 「子どもはブラウン管の前にじっと何もせずに坐っている。代わりにいろいろなことができるのを犠牲にしてしまうものだ。子どもが雨の日に独り部屋に残されて、そこには本が詰まった書棚と窓をしたたる雨しか面白そうなものはなく、テレビもなく、本を取り出して読むより他にすることがなかった、という経験をしたことがなければ、その子どもはまさに欠陥者なのだ」。 ★ジョージ・フロスト・ケナン(英: George Frost Kennan、1904年2月16日 - 2005年3月17日)は、アメリカ合衆国の外交官、政治学者、歴史家。1940年代から1950年代末にかけての外交政策立案者で、ソ連の封じ込めを柱とするアメリカの冷戦政策を計画したことで知られる。プリンストン高等研究所誉教授を務めた。ピューリツァー賞を受賞した ジョージ・ケナン 『二十世紀を生きて』 1944年からモスクワの米大使館の代理大使を務めていたジョージ・ケナンは1946年本国に長文の電報を打電した。後にその内容は「フォーリン・アフェアー」誌に匿名名義で「ソ連の行動の源泉」と題して発表され、この論文は冷戦下アメリカの対ソ封じ込め政策の基本路線を決定する。これにより42歳の外交官ケナン「封じ込め政策の父」として不動の名声を確立する。この1946年はニクソンが下院議員に共和党から初当選した年であり、以後ニクソンは「反共の闘士」として売り出し出世の階段を駆け上ってゆく。一方の「封じ込め政策の父」は、しかし、そのような強面の反共主義者というのとは違ったようだ。 突飛な連想のようだが、このケナンの著書を読みながらカズオ・イシグロの『日のな残り』を思い出した。あの小説ではヨーロッパ的なものがアメリカ的なものに位置を譲る様が描かれていた。19世紀的ヨーロッパでは政治や外交は社会的エリート(それは知的エリートと重なり、その存在は長い伝統を背景としている)の高貴な責務であり、政治はまだ一種のアートであった。(もちろんそれはユーロセントリズムであって、19世紀から20世紀前半は帝国主義の時代であった。)しかし、20世紀、政治や外交は海千山千のプロのとなったのだ。 この分類から言えば、ケナンは19世紀的人間だったように感じられる。そもそもその伝記を書こうと資料を集めるほどチェーホフ(他の作家ならともかく、チェーホフである)を愛し、人生で最後の書のタイトル(原題 Around the Cragged Hill)をジョン・ダンの一節から取るような人物は、「非米活動委員会」で国民の反共ムードを煽り、大統領となるや中国と和解し、民主党ビルにスパイを侵入させるなどということはできないのだ。実際、ケナンがアメリカの外交の中心にいたのは僅か2年ほどで、以後は傍流へと追いやられ、彼の具申した意見が取り上げられることはなく、外交官としてもさしたる業績をあげることなく、49歳で官界を引退し学究の生活に入る。 確かにケナンは共産主義を好まないが、それはイデオロギー的な反感というよりも、彼がその政治思想の基盤としている人間観とはあわないことからきているように思われる。それはこんな感じだ。「人間は、自分の行動を文明の必要に合わせて形成しようと試みる限りでは、ひび割れた器だ」あるいは、「他人に対する優越、権威、権力と、そこから派生する大げさな敬意への欲求にこそ、人間の自己尊重の弱点―個人がその妥当な限度をわきまえることができないという、その非自律的な性質と、増長の傾向―が最も有害な表れ方をする。>この個人が、そして国家が己の分をわきまえ行動することがケナンにとって政治の原則である。 例えば、ケナンは言う。「アメリカが世界で救世主的役割を果たすことには、私は全面的に、断固反対だ。つまり我々が自分を人類の教師と救済者に擬することに反対、自分が特異の、他より優れた美徳があるとする幻想に反対、マニフェスト・ディスティニーとか『アメリカの世紀』などと口走って、建国以来、いやそれ以前から、すべての世代のアメリカ人を引き付けてきたビジョンに反対だ。」また、アメリカが誇る強大な軍事力については「だが...個人、集団を問わず、何らかの罪をともなわない力はない」と語る。もちろん、軍事力そのものを否定するわけではないが。 総じて、ケナンの外交、内政に関する見解を見ていると、まるでストア派の哲学者が政治を語っているようだ。もしかしたら、彼は外交官時代、毎朝ベッドの中でマルクス・アウレリウスのようにこう独りごちしていたかもしれない。「うるさがたや、恩知らずや、横柄な奴や、裏切者や、やきもち屋や、人づきの悪いものに私は出くわすだろう。この連中にこういう欠点があるのは、すべて彼らが善とはなんであり、悪とはなんであるかを知らないところから来るのだ。」彼が官僚としてさしたる業績もあげられなかった理由のひとつは彼が「根回し」を嫌ったことにもあるらしい。 このような人物として彼は保守的である。民主主義は擁護するだろうが、民主主義や自由平等の原則が行過ぎると政治は衆愚化し、ポピュリズムに奔る政治家と巨大で非効率的で極めて短期的で狭い視野しかもたない官僚組織を生むもので、実際にアメリカはそこに陥っていると考えているようだ。そして、アメリカが道を誤らないように、徳と教養を兼ね備えた尊敬すべき人物からなる元老院のような諮問機関の設置を提案しているが、これも受け入れられることはないだろう。 どうも、やはりケナンはあの『日のな残り』の貴族の館での集いが似合う人物のような気がする。ただ、そのような人物は嫌いではない。「インターネットによる」 |
ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル(Jean~Paul Charles Aymard Sartre)(1,905~1,980年)は、フランスの哲学者、小説家、劇作家。内縁の妻はシモーヌ・ド・ボーヴォワール。右目に強度の斜視があり、1973年にはそれまで読み書きに使っていた左目を失明した。自分の意志でノーベル賞を拒否した最初の人物である。
自分の時代が作家の唯一の機会なのだ。時代は作家のために作られ、作家は時代のために作られている。四十八年事変〔一、月革命〕に対するバルザックの無関心、コミューヌに直面したフロベールの戦々兢々たる無理解は残念だが、これは彼らのために残念なのだ。そこには何ものか、彼らが永久に失ったものがあるのだ。われわれは、われわれの時代の何をも失いたくない。もっといい時代はあるかも知れないが、これはわれわれの時代なのだ。われわれはこの戦争、おそらくはこの革命のただなかに、この生を生きるよりほかはないのである。(雑誌『現代』創刊の辞)
この日(6月21日)パリに生れた実存主義の哲学者。第二次大戦中、レジスタンス運動に従う。自由な個人のはたらきによる社会革命を主張する。主著『自由への道』 *桑原武夫編『一 日 一 言』ー人類の知恵ー(岩波新書)P.102 2022.01.12.記す。 |
▼『夜と霧』 ドイツ強制収用所の体験記録――◆――霜山徳爾訳(みすず書房) 強制収用所(*:アウシュヴィッツ)における人間を内的に緊張せしめようとするには、先ず本来のある目的に向かって緊張せしめることを前提とするのである。囚人に対するあらゆる心理治療的あるいは精神衛生的努力が従うべき標語としては、おそらくニーチェ(*:フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ:1844年10月15日~1900年8月25日)は、ドイツの哲学者・古典文献学者)の「何故生きるかを知っている者は、殆んどあらゆる如何に生きるか、に耐えるのだ。」という言葉が最も適切であろう。すなわち囚人が現在の生活の恐ろしい「如何に」(状態)に、つまり収容所生活のすさまじさに、内的に抵抗に身を維持するためには何らかの機会がある限り囚人にその生きるための「何故」をすなわち生活目的を意識せしめねばならないのである。P.182 反対に何の生活目標をももはや眼前に見ず、何の生活内容ももたず、その生活において何の目的も認めない人は哀れである。彼の存在の意義もなくなってしまうのである。このようにして全く拠り所を失った人々はやがて仆れて行くのである。あらゆる励ましの言葉に反対し、あらゆる慰めを拒絶する彼等の典型的な口のきき方は、普通次のようであった。「私はもはや人生から期待すべき何ものも持っていないのだ。」これにたいして人は如何に答えるべきであろうか。 ここで必要なのは生命の意味についての問いの観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題ではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題である。そのことをわれわれ学ばねばならず、また絶望している人間に教えなければならないのである。P.182 P.182~183:*は私が加えたもの。 参考:この本は、解説がP.7~73あり。全体が208ページ(最後の写真・図版を除く)のなか、本文は68%である。 2008.5.3 〈憲法の日〉
▼参考1:五木寛之『大河の一滴』(冬幻舎文庫)に次のような記述があります 『夜と霧』について、ほとんどの人が死んでいくなかでフランクルがどのようにその極限状態を生き抜いて奇蹟の生還を遂げたか、ということが、ぼくにとって興味の的だった。いろんなことがあります。でも、そのなかに、ひとつだけ印象的なエピソードがあるのです。 精神科医だったフランクルは、人間がこの極限状態のなかを耐えて最後まで生き抜いていくには感動することが大事、喜怒哀楽の人間的な感情が大切だ、と考えるのです。無感動のあとにくるのは死のみである。そして自分の親しい友達と相談し、なにか毎日ひとつずつおもしろい話、ユーモラスな話をつくりあげ、お互いにそれを披露しあって笑おうじゃないか、と決めるのです。 あすをも知れない極限状態のなかで笑い話をつくって、お互いに笑いあうなんていうことにはなんの意味があるのか、と思われそうですけども、そうではないのです。あすの命さえも知れないような強制収容所の生活のなかでユーモアのあるジョークを一生懸命にに考え、お互いに披露しあって、栄養失調の体で、うふ、ふ、ふ、と、力なく笑う。 こういうことをノルマのように決めて毎日実行したというのですが、むしろそういうことも、ひょつしたらフランクルが奇蹟の生還をはたしたのでないか、と思います。P.170~171 2008.5.28
> ▼参考2:阿部光子『日々の読書ー聖書とともに』(彌生書房)に次のような記述があります フランクル『夜と霧』ーー人間不信に陥ったとき P.55 さまざまのことで、人間不信に陥ったとき、『夜と霧』を読み返して元気づけられるのだと、遠藤周作がいっていたことがある。『夜と霧』は原題『強制収容所における一心理学者の体験』を訳したものだが、発行以来二十年近い間、出版社みすず書房のベストセラーとなった。すでに古典としての位置を確保しているものである。 2010.07.01 ▼参考3:訳者霜山徳爾(1919~2009)について 朝日新聞2011.04.20付「人・脈・記」の記事から 霜山徳爾、90歳。戦後、上智大学で教えた。ビクトル・フランクルの『夜と霧』を訳した人だ。 霜山は、大正8(1919)年の生まれ。戦争で東京帝国大学を繰り上げ卒業。海軍の実験心理研究部にいた。出張した鹿児島・鹿屋で特攻隊の出撃を見送った。 「霜山先生は、帰りも『さよなら』と言わずに『ごきげんよう』とおっしゃった。特攻隊員がそうあいさつして飛び立っていったって」 70年代に、夜間の上智社会福祉専門学校で霜山に教わった坂上和子(56)は、ふり返る。 「おんぼろなかばんから、きちんと準備した教材を取り出して、先生はたくさんの大学で教えていたけれど、『苦学しているあなた方に会いたかった』って、私たちは笑って、泣いて、聞きほれて」 坂上は、母親が自殺して父親が蒸発し、修道院の児童養護施設で育った。自殺したら地獄にいく、と教えられた。ところで霜山は「人間は、宗教で自殺を禁じなければならないほど死に魅せられる、弱い存在である」と言った。 「しみ入るような言葉を先生はたくさん持っていた」 『夜と霧』の原著は『一心理学者の強制収容所体験』という題の、薄い本だ。 フランクルはウィーン生まれのユダヤ人医師。オーストリアがドイツに併合され、42年にテレージエンシュタット収容所に送られた。アウシュビッツで妻と別れ、フランクル自身は45年4月27日にドイツで解放される。しかし母はアウシュビッツのガス室で、妻は、アンネ・フランクのいたベルゲンベルゼン収容所で解放後に死亡していた。 自由と失望のなか、フランクルは『夜と霧』 を9日間口述筆記させたという。46年にウィーンの出版社が3千部を出し、2刷も出したが、売れずに絶版にした。 それを、53年から西ドイツに留学した霜山が偶然、本屋で見つけたのだ。 霜山は感銘を受け、ウィーンにフランクを訪ねた。飲んで語りあったときののことを訳者のあとがきに書いている。 「私を感動させたのはアウシュビッツの事実の話ではなくて……それは別なルポルタージュで私はよく知っていた……彼がこの地上の地獄ですら失わなかった良心であった」 2011.04.22 |
☆58キャサリン・ホートン・ヘプバーン (1,907~2,003年)
キャサリン・ホートン・ヘプバーン(Katharine Houghton Hepburn) (1907~2003年)は、アメリカ合衆国の女優。 2020時点で演技部門においてオスカーを4回受賞したただ一人の俳優。ノミネート数も、俳優としてはオスカー史上第2位の12回に上る(最多ノミネート記録はメリル・ストリープの20回/2017年1月31日時点)。1999年にアメリカン・フィルム・インスティチュートが発表した[映画スターベスト100]で女優部門の1位に選ばれている。
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.133
Acting is the most minor of gifts and not a very high-class way to earn a living. After all, Shirley Temple could do it at the age of four.
《訳》 劇を演じるのは(生れつきの)才能の中でも最も小さいもので、あまり高級な暮しの立て方でもありません。なんと言ってもシャ―リ―・テムプルは四歳のときそれがやれたのですから。
俳優も芸術家の一人に数えられているが、あまり高級なものではないと見る人もある。この言葉は発言者キャサリーン・ヘップバーン(1907-2003)自身が名女優だけに鋭く聞こえる。シャ―リ―・テムプル(1928-2014)は第二次大戦前のアメリカの天才少女俳優で可憐な姿で歌い踊り、世界的なアイドルとなった。戦後は舞台から引退して外交官となり、国連やガーナ大使、旧ユーゴスラビア大使などとして活躍した。 2021.12.11 |
☆59シモーヌ・ヴェイユ (1,909~1,943年)
与えるというのではないが、人に是非渡しておかねばならぬ大切な預りものが、自分の内にある。 参考:フランスの女性哲学者。田里亦無『道元禅入門』に引用されていた。 2012.12.31 |
☆60マザー・テレサ (1,910~1,997年)
マザー・テレサ(Mother Teresa、本名はアルーマニア語でアグネサ/アンティゴナ・ゴンジャ・ボヤジ (Agnesa/Antigona Gongea Boiagi)、アルバニア語でアグネス・ゴンジャ・ボヤジュ (Agnese Gonxhe Bojaxhiu)、1910年8月26日 -1997年9月5日)はカトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教者」の創立者である。 「マザー」は指導的な修道女への敬称であり、「テレサ」は修道名である。カトリック教会の福者。コルカタ(カルカッタ)で始まったテレサの貧しい人々のための活動は、後進の修道女たちによって全世界に広められている。 生前からその活動は高く評価され、1973年のテンプルトン賞、1979年のノーベル平和賞、1980年のバーラト・ラトナ賞(インドで国民に与えられる最高の賞)、1983年にエリザベス2世から優秀修道会賞など多くの賞を受けた。1996年にはアメリカ名誉市民に選ばれている(アメリカ名誉市民はわずか7人しかいない)。2003年10月19日、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福された。
Mother Teresa' Words 01 May be just your smile. 02 May be just write a letter for them. 03 I ask you, share the joy of loving. 04 The less we have, the more we can give. 05 A clean heart can see God. 06 Where is God? God is right there. 07 We are God's own children. 08 Love, as I have loved you. 09 The fruit of prayer is knowledge. 10 The fruit of knowledge is love.: knowledgeとwisdomの違いは? 11 The fruit of love is service. 12 Prayer will be our strength. 13 And in the silence of the heart God speaks. 14 Love is action. 15 Even the poorest of the poor can act to share. 16 Yesterday is gone, tomorrow has not yet come.:不将不逆 17 We have only today to be busy, to take care, to love and to be loved. 18 Let us not spend time in worrying about tomorrow but let us love God.:明日は明日の風が吹く。 19 Love one another and respect and every possible life today. 20 Love until it hearts. 21 We should give not only from our surplus but also from giving up something. 22 What we do seems no more than a drop in the ocean. 23 The ocean is made of drops. If that drop were not in the ocean, I think the ocean would be less because of the missing drop.:大河の一滴 24 Love begins at home. 25 To love is really difficult, to love in the family most difficult sometimes. So let us learn to love at home. 26 Do small things with a great heart. 27 What I do, you cannot do. What you do, I cannot do. But together we can do something beautiful for God. 28 There are many poor people in this beautiful country. They are not hungry for food but for love. 29 Those who feel unwanted, unloved and uncared for are also very poor. 30 There are many poor people in this beautiful country. They are not hungry for food but for love. 31 Mother Teresa often said was a carrier of love. She always tried to carry God's love to everyone. She kept giving food to those who were starving for food, shelter to those and did not have houses, and clothing to those who were naked. And she gave love to people who felt abandoned, unnecessary, unwanted.
略歴:
「マザーテレサの言葉」の追加 人生とは生きることです。戦いぬいてください。
Life is an opportunity, benefit from it.
Life is beauty, admire it.
Life is a dream, realize it.
Life is a challenge, meet it.
Life is a duty, complete it.
Life is a game, play it.
Life is a promise, fulfill it.
Life is sorrow, overcome it.
Life is a song, sing it.
Life is a struggle, accept it.
Life is a tragedy, confront it.
Life is an adventure, dare it.
Life is luck, make it.
Life is too precious, do not destroy it.
Life is life, fight for it.
Be faithful in small things because it is in them that your strength lies.
Little things are indeed little, but to be faithful in little things is a great thing.
We cannot do great things. But we can do small things with great love.
People are often unreasonable and self-centered. Forgive them anyway.
If you are kind, people may accuse you of ulterior motives. Be kind anyway.
If you are honest, people may cheat you. Be honest anyway.
If you find happiness, people may be jealous. Be happy anyway.
The good you do today may be forgotten tomorrow. Do good anyway.
Give the world the best you have and it may never be enough. Give your best anyway.
For you see, in the end, it is between you and God. It was never between you and them anyway.
参考:「愛をこめて 生きる」 平成二十七年十一月二十四日、M先生より。
マザー・テレサ「聖人」に バチカンで式典 2016/9/4 18:49 【ローマ=共同】ローマ法王フランシスコは9月4日、バチカンのサンピエトロ広場で、インドのスラム街を拠点に貧困救済に生涯をささげ、1979年にノーベル平和賞を受賞した故マザー・テレサ(1910年~97年)をカトリック教会で最高の崇敬対象「聖人」とする列聖式を執り行った。
4日、バチカンのサンピエトロ広場でマザー・テレサの列聖式に参加する人々=AP 列聖式にはカトリック教徒のほか、ヒンズー教徒なども含め、宗教の壁を越えて世界中から多数の人々が参加。治安当局は厳重警備で臨んだ。 マザー・テレサは現在のマケドニアの首都スコピエ生まれ。インドで貧しい人々のために献身し「コルカタ(カルカッタ)の聖女」としてヒンズー教徒やイスラム教徒からも尊敬された。ノーベル平和賞受賞後、97年にインドで死去した。 聖人となるには、「奇跡」を起こしたとの認定が必要。バチカンによると、2008年に脳感染症で助かる見込みがないとされたブラジル人男性の家族がマザー・テレサに祈ったところ、男性が回復したことが奇跡と認められた。列聖式にはこのブラジル人男性と妻も参加する予定。 マザー・テレサは03年、没後わずか6年という異例の早さで聖人の前段階の「福者」に列せられ、バチカンでの列福式には約20万人が集まった。 平成二十八年九月五日 |
『ニールス・イェルネ:免疫学の巨人』
著者:トーマス・セデルキスト(2008.2発行)
評・渡部 政孝(サイエンスライター)の評から ■尋常でない科学者の妖しい生き方 これほど不思議な科学者の伝記を読んだのは初めてだ。主役であるニールス・イェルネという人物が尋常じゃない。おまけにこれは「実存的伝記」だなんて。 ノーベル賞学者である免疫学の泰斗イェルネは、伝説的な人物としてつとにな高い。「ニールス・イェルネの聖性と俗性」と題した序文を寄せている同じ免疫学者、多田富雄氏の「近代免疫学の最後の傑出した理論家、預言者、伝道者」との形容が、そのことを雄弁に語っている。 免疫学者イェルネの最大の業績は免疫系のネットワーク理論の提唱とされる。しかし、免疫学の理論は医学・生物学でも極めて難解な領域であり、理解することは最初から放棄するのが無難だ。それでも本書が魅惑的なのは、実験的確証もなしに網の目のような理論を創案したイェルネという人物の妖(あや)しい生き方にある。 日本びいきの視点から言えば、イェルネの最大の功績は、創設に関与し初代所長を務めたバーゼル免疫学研究所で、まったく無名だった利根川進博士に自由に研究をさせ、ノーベル賞に輝いた研究を開花させたことだろう。 ロンドンで生を受けオランダで育ったデンマーク人イェルネは、同郷人である実存哲学者キェルケゴールに心酔し、女性とワインに耽溺(たんでき)し、プルーストを読みふけって時間の迷宮をさ迷う人生を送った。科学者としての本格デビューは40歳を過ぎてから。行く先々で熱狂的な心酔者を得る一方で、家族への義務はほとんど果たさない。 自分にまつわる思春期以後のほとんどすべての資料を保存し、検閲的な介入もしないイェルネは、伝記作家にとっては夢のような存在だった。しかし、イェルネへのインタビューを重ね、膨大な文書庫で格闘するうちに、伝記作家は精神のバランスを崩しかけたという。巨人の実存を描き出すことはかくも難しい。 かつて科学は科学者の生き様を映し出す営為だった。十字架の前で物思う遺影をあしらった秀逸な表紙が、そんな最後のペルソナの光と陰を象徴している。 *ノーベル医学・生理学賞受賞者である免疫学者ニールス・イェルネの波乱に富んだ一生を描く。イェルネは、ノーディンとともに溶血プラーク反応による抗体産生細胞の測定法を開発。1969年、バーゼル免疫学研究所長となり、1979年には有名な「免疫ネットワーク説」を発表した。この説はその後、多田富雄氏を含む、多くの免疫学者に非常に大きな影響を与えた
私見:私はこの研究所の利根川進博士が研究していた部屋を見せていただいたことがあり、この評論が目に止まり、記録をさせていただきました。
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ルイス・トーマスはアメリカの医師、詩人、語源学者、エッセイスト、管理者、教育者、政策顧問、研究者でした。 トーマスはニューヨーク州フラッシングで生まれ、プリンストン大学とハーバード大学医学部に通った。 ウィキペディア(英語)
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.26
If we can stay alive, my guess is that we will someday amaze ourselves by what we can become as a species.
《訳》 もしもこのまま生き続けられれば、われわれが種としてどんなものになれるかに驚く日がいつかきっとくるだろう。
太古以来さまざまな種が生成発展してきたが、中には一時期大いに繁栄しながらもやがて滅亡していった種もある。われわれ人類はまだ種としては発展途上にある。これからどんな種に発展していくのだろうか。遙か未来のことだろうが、もしもこのままわれわれが生きつづけられれば、その姿を見てきっとびっくりするだろう。 ルイズ・トマス(1913~23)はアメリカ人で、医学および生物学の大家であった。彼のエッセイ集『細胞の生活』(The Lives of a Cell, 1974)はナショナル・ブック・アウォ―ド(全米図書賞)を受けベストセラーだった。 2021.12.03 |
フランスの政治家。社会党所属(第一書記)。第21代フランス大統領(フランス第五共和政)を2期14年にわたって務め、1993年からはアンドラ公国の共同元首にも就任した。 一 One should be careful to talk only about things that one knows well. |
ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(英語: John Fitzgerald Kennedy、1917年5月29日 - 1963年11月22日)は、アメリカ合衆国の政治家。第35代アメリカ合衆国大統領。在任中の1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺された(ケネディ大統領暗殺事件)。 大統領就任演説の言葉(Inaugural Address)
And so, my fellow Americans: Ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country.
橋本 宏『英語で読む 英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.108
Ask not what your country can do for you―― ask what you can do for your country.
《訳》 祖国が君に何をなし得るかでなく、君が祖国に何をなし得るか問い給え。
ジョン・F・ケネディ(1917~63)の大統領就任演説(1961)の一部。ケネディはアメリカ史上最年少の大統領。理想主義に燃えた「ニュー・フロンティア政策」を打ち出し、国民の支持を得た。アメリカ国内では黒人差別問題を民主的に解決することに努め 、外交面では中南米諸国との友好関係を促進し、米ソ対立の解消を図り部分的核実験停止条約を締結したが、道半ばにして、テキ サス州ダラスで暗殺者の凶弾に倒れた。 上の文は「自らの手で国の将来を切り拓(ひら)こう」という趣旨で「ニュー・フロンティア政策」の骨子となるものである。 2021.11.10 特別国会の日 |
▼RAGE OF ANGELS She was alone. In the end, everyone was alone. Each person had to die his own death. It would be easy to die now.
A feeling of blessed peace begun to steal over her. Soon there was no more pain.
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▼『ルーツ』(社会思想社) 安岡章太郎・松田鈇 共訳 オバマ(第44代米合衆国大統領)が誕生する。47歳の初の黒人(ケニア出身)。 2009年1月11日 NHKのTV放送「海外ネット 変わる米国人」の番組を視聴していますと 米国に住むアフリカ人は先祖についてしらないので、自分のルーツを調べる人が出て来ている。さらにルーツを調べる会社まで立ちあがっている。DNAの鑑定法を使用してアフリカのどこの国の出身を知る人が増えていると報道されていた。 オバマ大統領誕生の影響であることはあきらかである。
この報道で思出だしたのは、1977年9月15日 (社会思想社)初版第一刷発行された『ルーツ』ROOTS ALEXHAILEY アレックス・ヘイリー著である。
アレックス・ヘイリー:一九二一年八月十一日、ニューヨーク州イサカに生まれる。一七歳の時、カレッジを中退、以後二十年間沿岸警備隊に勤務。退任後、フリーランサーとして数々の雑誌に寄稿、一九六五年には『マルカムX自伝』を出版。
この本の帯紙に書き込まれているものを引用する ●プューリッツア特別賞*全米優良図書賞 人間の自由と尊厳を訴え感動を誘ふ一大叙事詩 野間 宏氏推薦 じつに面白い小説である。皮膚の色による冷酷な差別、鞭の下の奴隷は、いかにしてつくり出されたか。それを父、母、祖父、祖母、さらに遠くへとさかのぼり、自身のうちにやどる黒人の強烈なすぐれた精神の出所をさぐりあてていくこの作品によって、アメリカがてらし出されるのである。作品はすさまじい智慧をもって、鞭を折り、新しい大衆小説の道をひらいたといえる。 私は、上下二巻のこの本を一九七七年九月三日(約三十二年前)に購入して、内容に取り込まれて一気に読んだ感動が残っている。 2009.1.12 |
☆67ドナルド・キーン(1,922~2,019年)
▼『百代の過客 上・下』 日記にみる日本人(朝日選書) 金関寿夫訳 目次 序 日本人の日記 Ⅰ 平安時代 『入唐求法巡礼記』…作者:僧円仁。八三八年~八四七 漢文で書いた日記の中で、最も詳細なもの。 *以前、私は読みかけたことがある。 『土佐日記』…作者:紀貫之。文学的風趣を具えた日本人の日記としての『土佐日記』は、次の有名な言葉で始まっている。 *私の手元に文庫本がある。 男もすなる日記といふものを女もしてみむととてするなり。 『蜻蛉日記(かげろうにっき)』…作者:藤原道綱の母。『土佐日記』を書いたのは、女性のふりをした男だったが、『蜻蛉日記』の作者は、正真正銘の女であった。 『御堂関白記』…作者:藤原道長。この日記の用語は、漢文のように見えて、漢文ではない。速記で書いた日本語という方があたっている。 『和泉式部日記』…作者:和泉式部。『和泉式部日記』について常に最初に問われるのは、果たしてこの書物を「日記」と読んでよいか、どうかである。 『紫式部日記』…作者:紫式部(源氏物語の女流文学者)。 『更科日記(さらしなにっき)』…作者:菅原孝標(たかすえ)の女の日記。 『多武峰少将物語(とうの みねしょうしょうものがたり)』…作者未詳。 『成尋阿闍梨母集』…作者:成尋阿闍梨(じようじんあじゃり)の母。当時おそらく八十四歳であった一老女が、日記を書き始める。日記の中心的主題は、わが息子を慕う母のこころである。 『讃岐典侍日記(さぬきのすけにっき)』…作者:藤原長子。六年間仕えた堀河天皇崩御の直後にかいたものでである。天皇の回想を、もっぱら記述したものである。 『中右記(ちゅうき)』…作者:藤原宗忠。堀河、鳥羽、崇徳三天皇の治世を扱っており、「平安末期、院政時代の政治、人情、風俗などの最も重要な資料」といわれている。 家集と歌物語…平安時代の終末期になると、とくに源平の乱のような戦乱が勃発し、ために日記には、新しい劇的な要素が持ち込まれることになった。 Ⅱ 鎌倉時代 『建礼門院右京大夫集…作者:建礼門院右京大夫(けんれいもんうきょうだいぶ)。平安末期の女流歌人。 『たまきはる』…作者:健御前。建礼門院右京大夫が彼女の回想録を書いていたとほぼ同じ時期に、やはり一一五七年生まれのもう一人の宮廷女性が、平行するように日記をかいている。この日記は、作者ののなを取って時に『健御前日記(こんごぜんにっき)』と呼ばれることもあるが、もっと普通には『たまきはる』と呼ばれている。巻頭に出てくる和歌からとったものである。 『明月記』…作者:藤原定家。藤原定家の『明月記』が、日本人が書いた日本人が書いた日記の中で、最も重要なものの一つであることは疑いをいれない。『明月記』は、漢文で書かれているために、まだ日本語に翻訳されたことがない。国史学者が、この書物の内容に精通していることはいうまでもない。…今川文雄氏による読み下し本――昭和五十二~三年に全六巻で出版されたもの――には、高橋貞一博士の序があり、その中に次のような文章がある。「公卿の日記や記録で、今日までに訓読せられたものは皆無である。唯東鑑(あづまかがみ)のみが江戸初期にに訓読せられているに過ぎない。訓読は簡単なように見えて至難の事業である。社会全般の事が解せられ始めて成就するものである」 『源家長日記』…いわば文学的珍品である。漢文ではなく、大和言葉でで書かれている。男の作者が女のふりをしてかいたあの『土佐日記』のことを思い出していた。『源家長日記』は、それとは逆の効果をつくり出している。ここでは、まるで女が男に化けて書いたように見せかけているのである。 『いほぬし』…作者:増基。増基(ぞうき)の旅日記は、明らかに十世紀の終わり頃に書かれたらしく、鎌倉時代紀行文に一番近い祖型をなすのでものある。ただし作者は、自分を表すのに庵主(いぬほし)という三人称を用い、彼が語っている二つの旅の時期については、口を濁してて言っていない。 『高倉院厳島御幸記』…作者:源通親(みちちか)。歌のほうでは藤原定家のライバル、後に後鳥羽上皇和歌所寄人(よりうど)の一人として、常にあまりぱっとしない助言ばかりしていた人物である。この作品は、鎌倉および室町時代に、数多く行われた旅日記の嚆矢とされている。 『高倉院昇霞記(たかくらいんしょうかき)』…作者:源通親。治承五年(一一八一)ある春の日の早朝、前年の厳島行幸のあと不思議な病気に取りつかれた高倉院は、今や明らかに全復の望みを失い、「枕を北にし、魂の御在所も西方に移して」近まる臨終を覚悟したと、源通親は『高倉院霞記』にかいている。…日記の形式で書かれた挽歌といえる。題にある「昇霞」という言葉は、高倉院の遺体を荼毘(だび)に付することを言ったのである。 『海道記(かいどうき)』…貞応二年京都から東海道を経て鎌倉に至って帰洛した間の紀行。筆致暢達詩藻優麗な駢儷体(べんれいたい)的な文で、当時の散文の新様式を示し、また仏教思想横溢。源光行の著というが不明。(広辞苑に記述) 『信生法師日記』…作者:信生(しんじょう)法師。単なる「芳縁」によって鎌倉への旅をした『海道記』の作者とは異なり、信生の旅は仏道修行がその目的であった。従って道中のすべての体験が、彼にとってはなんらかの道徳的教訓となったのである。 『東関紀行(とうかんきこう)』…作者未詳。しばしば『海道記』と対にして論じられる。…この作品が、以後何世紀にもわたって熱心に読まれ、また後生の紀行文作者、とくに芭蕉に、大きな影響を与えたのはうなずける。 『うたたね』…作者阿仏。十七か十八の時に書いたといういう日記『うたたね』を最近読んで、息子の権利のために闘うには獰猛をきわめ、歌についての見解では他に譲るところのなかったこの女性の少女時代を、私は初めて知ることができた。『うたたね』は感動的な日記であり、日記文学のうち、最もすぐれた作品の一つである。これよりさらに有名な『十六夜日記』と比べても、すべての点で、この方が勝っている。
『十六夜日記』…作者:阿仏。…『十六夜日記』の文学的価値は、それに収められた短歌八十八首と、長歌一篇とを、どれほど高く評価するかにかかっている。
『飛鳥井雅有日記』…作者:飛鳥井雅有(あすかいまさあり)。雅有の現存する日記は、すべて仮な書き(和文)である。だが当時の貴人の例にもれず、漢文でも日記を書いていたに違いない。 『弁内侍日記(べんのないしにっき)』…作者:弁内侍の作か。 『中務内侍日記(なかつかさのないしにっき)』…作者:中務内侍。宮廷に起こったさまざまな楽しい出来事をたっぷり描いている。 『とはずがたり』…作者:久我雅忠の娘二条。京都の宮廷の生活を描いた日記。 『竹むきが記』…作者:日野名子(ひの めいし)。 以上が上巻の目次で作者と内容のなかの記述の一部分をの抜書きしました。以下は下巻のものである。 Ⅲ 室町時代 大神宮参詣記 都のつと 小島の口すさみ 住吉詣 鹿苑院殿厳島詣記 なぐさめ草 富士紀行 善光寺紀行 藤河の記 廻国雑記 白河紀行 筑紫道記 宗祇終馬記 宇津山記 宗長手記 東国紀行 吉野詣記 富士見道記 玄与日記 幽斎旅日記 九州の道の記 高麗日記 Ⅳ 徳川時代 戴恩記 丙辰紀行 近世初期宮廷人の日記 遠江守正一紀行 東めぐり 丁未旅行記 野ざらし紀行 鹿島詣 笈の小文 更科紀行 奥の細道 嵯峨日記 西北紀行 東海紀行 帰家日記 庚子道の記 伊香保の道行きぶり 風流使者記 蝶之遊 長崎行役日記 江漢西遊日記 改元紀行 馬琴日記 長崎日記 下田日記 終わり 参考書目録 あとがき 索引 以上の目次である。 *ドナルド・キーン(Donald Keene) ニューヨーク生まれ。日本文学を多数海外に紹介。文化勲章受賞。 上巻については朝日新聞に同名で連載。上巻には一九八三年七月十四日から十一月十五日までの掲載文を収録した。と書かれている。
最近、書物などを整理していると、『続百代の過客』 日記にみる日本人 の朝日新聞の切り抜きがあった。一九八六年十月十三日から一九八七年三月二七日までのものが保管されていた。 目次は以下のとおり 序章 航海日記 奉使米利堅紀行 西航記 尾蠅欧行漫録 欧行日記 仏英行 航西日記 米欧回覧実記 航西日記 桟雲峡雨日記 松浦武四郎北方日誌 南島探検 航西日記 独逸日記 夏目漱石日記 新島襄日記など。 *二十年十一月十八日:『続百代の過客 上・下』 日記にみる日本人 はすでに発行されていることを知りました。 総括感想: 私はこの本をめくるだけで、ドナルド・キーン氏の研究の成果には驚かされる。 一 書名すら正しく読めないものがある。従って作者は知らないので辞書などで確認する。 二 この本で取り上げられているものの中で読んだ本はがわずかである。 三 文学関係者、歴史家(作家)以外のひとでは読まれて人は少ないのではなかろうか? 四 これから関心をもった少しずつでもよんでみたい。歴史の勉強にやくだつ。大学入試で手一杯でである声が聞こえてきますが、高校の国語の時間にもう少しおしえてはと感じた。国語の先生も漢文で書かれたもの以外の古文で取り上げられているものをくみ上げられてはと思ったりする。 五 『続百代の過客 上・下』は『百代の過客 上・下』に比べて私どもにははるかに身近で読みやすいようです。 2008.11.18
追加:(2012年3月8日22時59分 読売新聞)による。 日本国籍の取得が認められた日本文化研究者のドナルド・キーンさん(89)が8日、居住先の東京都北区の区役所を訪問し、記者会見を行った。 キーンさんは「日本人として犯罪を起こさないことを誓います」と会見でユーモアを交えて心境を述べた。震災後の日本の現状については、「東京は(電気が)明るく、必要のない看板もたくさんある。やるべきことがたくさんあると思う」と、真剣な表情で語った。 さらに、日本人名の「キーン ドナルド」と同時に、雅号として鬼怒(キーン・ド)鳴門(ナルド)を使うことを表明。鬼怒川の鬼怒と四国の鳴門から漢字をあてたと由来を説明し、会見終了後、報道陣にさっそく名刺を配った。 |
アイアコカ自伝(IACOCCA) PROLOGUE Your‘s about to read the story of a man who's had more than his share of successes. But along the way, there were some pretty bad times, too. In industry, the day I remember most vividly had nothing at all told with new cars and promotions and profits. I began my life as the son of immigrants, and I worked my way up to the presidency of the Ford Mortar Company. When I finally got there, I was on the top the world. But then fate, said to me: "Wait. We're not finished with you. Now you're going to find out what it feels like get kicked off Mt. Everest!” On July 13, 1978, I was fired. I had been president of Ford for eight years and a Ford employee for thirty-two. I had never worked anywhere else. And now, suddenly, I was out of a job. It was gut-wrenching. Officially, my term of employment was to end in three months. But under the terms of my “resignation,” at the end of that period I was to given the use of an office until I found a new job. On October 15, my final day at the office, and just incidentally my fifty-fourth birthday, my driver drove me to World Headquarters in Dearborn for the last time. Before I left the house, I kissed my wife, Mary, and my two daughters, Kathi and Lia. My hammily had suffered tremendously during my final, turbulent months at Ford, and that filled me with rage. Perhaps I was responsible for my own fate. But what about Mary and the girls? Why did they have to go through this? They were the innocent victims of the despot whose name was on the building. Even today, their pain is what stays with me. It's like the lioness and her cubs. If the hunter knows what's good for him, he'll leave the little ones alone. Henry Ford made my kids suffer, and for that I'll never forgive him. The very next day I got into my car and headed out to my new office. It was in an obscure warehouse on Telegraph Road, only a few miles from Ford's World Headquarters. But for me, it was like visiting another planet. I wasn't exactly sure where the office was, and it took me a few minutes to find the right building. When I finally got there, I didn't even know where to park. As it turned out, there were plenty of people around to show me,. Someone had alerted the media that the newly deposed president of Ford would be coming to work here this morning, and a small crowd had gathered to meet me. A TV reporter shoved a microphone in my face and asked: “How do you feel, coming to this warehouse after eight years at the top?” I couldn't bring myself to answer him. What could I say? When I was safely out of camera range, I muttered the truth. “I feel like shit.” I said. My new office was little more than a cubicle with a small desk and a telephone. My secretary, Dorothy Car, was already there, with tears in her eyes. Without saying a word, she pointed to the cracked linoleum floor and the two plastic coffee cups on the desk. Only yesterday, she and I had been working in the lap of luxury. The office of the president was the size of a grand hotel suite. I had my own bathroom. I even had my own living quarters. As a senior Ford executive, I was served by white-coated waiters who were on call all day. I once brought some relatives from Italy to see where I worked, and they thought they had died and gone to heaven. Today, however, I could have been a million miles away. A few minutes after I arrived, the depot manager stopped by pay a courtesy call. He offered to get me a cup of coffee from the machine in the hall. It was a kind gesture, but the incongruity of my being there made us both feel awkward. For me, this was Siberia. It was exile to the farthest corner of the kingdom. I was so stunned that it took me a few minutes before I realized I had no reason to stay. I had a telephone at home, and somebody could bring me the mail. I left that place before ten o'clock and never went back. This final humiliation was much worse than being fired. It was enough to make me want kill―I wasn't quite sure who, Henry Ford or myself. Murder or suicide were never real possibilities, but I did start to drink a little more―and shake a lot more. I really felt I was coming apart at the seams. As you go through life, there are thousands of little forks in the road, and there are a few really big forks―those moments of reckoning, moments of truth. This was mine as I wondered what to do. Should I pack it all in and retire? I was fifty-four years old. I had already accomplished a great deal. I was financially secure. I could afford to play golf for the rest of my life. But that just didn't feel right. I knew I had to pick up the pieces and carry on. There are times in everyone's life when something constructive is born out of adversity. There are times when things seem so bad that you've got to grab your fate by the shoulders and shake it. I'm convinced it was that morning at the warehouse that pushed me to take on the presidency of Chrysler only a couple of weeks later. The private pain I could have endured. But the deliberate public humiliation was too much for me. I was full of anger, and I had a simple choice; I could turn that anger against myself, with disastrous results. Or I could take some of that energy and try to do some productive. “Don't get mad,”Mary reminded me. “Get even.” In times of great stress and adversity, it's always best to keep busy, to plow your anger and your energy into something positive. As it turned out, I went from the frying pan into the fire. A year after I signed up, Chrysler came within a whisker of bankruptcy. There were many days at Chrysler when I wonders how I had got myself into this mess. Being fired at Ford was bad enough. But going down with the ship at Chrysler was more than I deserved. Fortunately, Chrysler recovered from its brush with death. Today I'm a hero. But strangely enough, it's all because of that moment of truth at the warehouse. With determination, with luck, and with help from lots of good people, I was able to rise up from the ashes. Now let me tell you my story. My opinion: I bought this paper book in 1995. Today:2008, I am surprised at the speed of the technology, for example IT, Motor car and so on. 2008.6.14 一 If you ask me the name of my professor in college or graduated school, I’d have trouble coming up with more than three or four. But I still remember the teachers who molded me in elementary and high school. 二 I felt like a rug merchant who needed to raise some cash in a hurry. And my spirits were low because wherever I turned, there was nobody saying, “ Give it a go, you can make it.” 三 At the same time, he hated to see any of us unhappy and would always try to cheer us up. Whenever I was worried about anything, he’d say: “Tell me, Lido, what were you so upset about last month? Or last year? See-you don’t even remember! So maybe what you’re so worried about today isn’t really all that bad . Forget it, and more on to tomorrow.” 1、One exercise I remember was that we had to talk off the cuff or two minutes about something we know nothing about --such as Zen Buddhism, for example. 2、I only wish I could find an institute that teaches people how to listen. After all, a good manager needs to listen at least as much as he needs to talk. Too many people fail to realize that real communication goes in both directions. 3、If you want to give him a man credit, put it in writing. If you want to give him hell ,do it on the phone.
アイアコッカ氏死去=米クライスラー元会長、94歳 2019/7/3(水) 11:04配信 時事通信社 【ニューヨーク時事】1970年代後半から80年代前半に破綻寸前だった米自動車大手クライスラー(現フィアット・クライスラー・オートモービルズ=FCA=)の再建に手腕を発揮したリー・アイアコッカ元会長が2日、パーキンソン病に伴う合併症のためロサンゼルスの自宅で死去した。 94歳だった。米メディアが一斉に伝えた。 イタリア移民の子として生まれ、プリンストン大大学院修了後の46年に米フォード・モーター入社。アイアコッカ氏が開発を主導した低価格のスポーツカー「マスタング」は、64年の発売直後から若者の間で爆発的に売れた。この成功が評価され社長にまで上り詰めたが、創業家と対立して78年に解任された。 同年、ライバルのクライスラーに請われて社長として入社し、79年会長就任。議会を説得して政府の債務保証を取り付けた上で、自らの年俸を1ドルにカット。人員削減や小型車強化を断行し、石油危機の影響で販売不振にあえいでいたクライスラーの黒字化を果たした。この再生手腕によって「カリスマ経営者」としてなをはせ、自伝「アイアコッカ」は世界的なベストセラーとなった。 80年代に激化した日米貿易摩擦では、日本車排斥運動の急先鋒(せんぽう)としても知られた。92年にクライスラーを退職した。 |
女性党首 深代惇郎の天声人語(朝日新聞社)昭和五十一年十一月十日第六刷 P.201 (50.2.13)
サッチャ―夫人が英国の保守党党首になったというニュースの報じ方について「女性への偏見に満ちている」と、抗議した女性がいた。サッチャ―登場の政治的分析はほんのつけ足しにして、ブロンド美人が党首になったという取り上げようがよろしくない、という言い分である。 ジャーナリズムの報道がすべてそうだとは言えないだろうし、それに昔の大英帝国時代とちがって、現在の英国に対する日本人の興味はその程度などだと反論してみても、言い訳がましい感じがする。抗議する女性に道理がある、と考える方がやはり素直であろう。 「男のユーモア」にしかなるまい。 サッチャ―夫人は「影の内閣」の首相になったわけだが、「女性党首」といわれるのに抵抗を感じるらしい。「”男の首相”とはいわないのに、なぜ"女の首相"というのですか」と、やわり反撃している。評論家寿岳章子さんが、同じような話を朝日新聞「論壇」に書いている。 ある府議会議員が「女課長」という言い方を連発するので、やめてほしいといったら、相手は「女やから女うて何がわるい」と憤然とした。大人げないが、ではあなたはオトコ議員ですね、と言い返したそうである。英国の大学者ジョンソン博士が、あるとき友人に「さっき街頭で女説教師をみかけたよ」といった。 友人が「へえ、それで説教は上手でしたか」。博士は愚門だといわんばかりの表情で答えた「後脚だけで歩く犬だといわれ、歩き方が上手かどうかを聞くべきかね。歩いたことにまず驚くべきだよ」。どんな党首であるかよりも、女性が党首になったことに驚くべきだというのは、二百年前のジョンソンに似ている。(50.2.13) 参考:ジョンソン(Samuel Johnson)(1709―1784) 2021.09.25記す。
英国の政治家。保守党初の女性党首で、1979年から90年まで3期にわたり首相を務めた。女性の首相就任は欧州全体でも初。長らく低迷していた英国経済を、市場原理の導入で回復させ、「福祉国家」から「自立国家」へと移行させた。その豪腕や妥協を許さない外交姿勢から「鉄の」と呼ばれる。 旧姓はマーガレット・ヒルダ・ロバーツ。1925年、東部リンカンシャー州グランサムで雑貨店の次女として生まれた。オックスフォード大学卒業後、化学研究員として働きながら、弁護士資格を取得。その間、実業家のデニス・サッチャーと結婚し、3人の子をもうけている。59年、女性としては最年少の34歳で下院議員に初当選し、70年にはヒース政権下(~74年)で教育科学大臣となった。当時、「私が生きている間に女性の首相が誕生するとは思えない」と語ったが、75年保守党の党首になり、その4年後に首相となった。 首相在任中は、「小さな政府」を志向する新自由主義経済政策(サッチャリズム)を打ち出し、国営企業の民営化や大胆な規制緩和で、国内経済を活性化させた。一方、収益の上がらない炭鉱や鉄鋼工場を閉鎖し、反発する労働組合には大なたを振るった。こうした急進的な改革は「英国病」の克服に成果を挙げたが、負の遺産も残すこととなった。自助努力を前提にした諸政策は弱者を切り捨て、貧富の差を拡大させたといわれる。 安全保障でも譲歩せず、82年、実効支配していた南大西洋フォークランド諸島にアルゼンチン軍が侵攻すると、即座に艦隊を派遣して撃退した。西側では、経済統合を目指す欧州連合(EU)とは距離を置き、対米関係を重視。米レーガン大統領と盟友関係を築くとともに、ペレストロイカを進めるソ連ゴルバチョフ書記長を支援し、冷戦終結にも大きな役割を果たした。 90年、コミュニティ・チャージ(人頭税)の導入が党内外から反発を受け、退陣。2年後、政界からの引退を表明した。2008年には、認知症が進んでいることを家族が公表。13年4月8日脳卒中で死去した。英国での評価は、死後も「救世主か、破壊者か」(ガーディアン紙)と大きく二分される。(以上インタネットによる) |
マリリン・モンロー(Marilyn Monroe)(1926~1962年)は、アメリカ合衆国の女優、モデルである。様々な映画で典型的[金髪美女](ブロンド・ボムシェル(英語版)Blonde bombshell)の役を演じ、晩年は演技力の伴った俳優としても名声を高めた。
1962年に予期せぬ死(英語版)を迎えるまで活動期間はわずか10年ほどにすぎなかったが、彼女の映画は2億ドルの興行収入を上げ、1950年代で最も人気のあるセックスシンボルの1人とみなされるようになった。死後も重要な大衆文化のアイコンとなり、数多くのアート作品や映画の題材となっている。
橋本 宏『英語で読む英知とユーモア』(丸善ライブラリー)P.27
I don't mind in a man's world as long as I can be a woman in it.
《訳》 男性の世界の中で女性でいられる限り、男性の世界で暮すのはいやなことではありません。
マリリン・モンロー(1926~62)は性的魅力で一世を風靡したアメリカの映画女優。男性の関心の的であり続けることを願った発言ともとれる。有名人との結婚・離婚や、ケネディ大統領との関係が取り沙汰された。死後十数年経過した今日でも、根強い人気がある。一介の女性が自分の意図とは裏腹に運命に翻弄された一例を見る思いがする。 2021.11.20 |
▼著書「死ぬ瞬間の誕生」 キューブラー・ロス(Dr. Elisabeth Kübler-Ross) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 生誕:1926年7月8日~スイスチューリッヒ、死没:2004年8月24日(78歳没) 米国アリゾナ州スコッツデール研究分野 精神医学研究機関 シカゴ大学 主な受賞歴:アメリカ国家女性殿堂(National Women's Hall of Fame) プロジェクト:人物伝エリザベス・キューブラー=ロス(独:Elisabeth Kübler-Ross、1926年7月8日 - 2004年8月24日)は、死と死ぬことについての画期的な本(『死ぬ瞬間』,1969年)の著者として知られる精神科医。 著書において、彼女は初めて今日では「死の受容のプロセス」と呼ばれている「キューブラー=ロスモデル」を提唱している。まさに死の間際にある患者とのかかわりや悲哀(Grief)の考察や悲哀の仕事(Grief work)についての先駆的な業績で知られる。 キューブラー=ロスは、スイスのチューリッヒに、三つ子姉妹の長女として生まれる。父親が医学部進学に反対で、自ら学費を捻出するため、当初は専門学校を経て、検査技師をしていた。その後、1957年、31歳の時にチューリッヒ大学医学部を卒業している。彼女は医学部での学生時代に知り合ったアメリカ人留学生マニー・ロスと共に1958年学業をさらに続け、また働き口を探すべくアメリカにわたった。 彼女が自身の医療活動を始めようとした時、病院が死に掛けている患者を扱う態度に、愕然とさせられる。そこで、病気の患者をどう扱うべきなのかという一連の講義を始めた。これが、1961年の「死と死ぬことについて」の講義につながっていく。1963年には、コロラド大学で精神科医の単位を取得している。1965年からシカゴ大学医学部に移り、臨床的な研究を発展させた。彼女は、死をテーマにして20冊もの本を書き、世界各地で数多くの講演などを行った。1974年から1996年の間にそれらの業績に対して、複数の大学、単科大学から20の名誉博士号を授与されている。 私財を投じて死に向う患者のための施設(センター Center)を開設し精力的に活動を行なった。現在、この活動はホスピス運動の嚆矢のひとつと考えられている。彼女が、ホスピス運動を創始したわけではないが、それを推進した人々は、まさに彼女によってこの運動がいのちを与えられたのだと異口同音に語っている。 晩年にはエイズ患者へのかかわりを深め、エイズ患者のための新たなセンターの開設を計画したが、そのために近隣住民との深刻な軋轢を生み、最終的に拠点センターの閉鎖、移転を余儀なくされた。拠点センターは原因不明の火事により全焼したが、彼女はこの事件を対立する住民による放火であると認識していた。 1995年に脳梗塞に見舞われ左半身麻痺になった。その苦悩を2002年、アリゾナ・リパブリック紙のインタビューで語っている。2004年にアリゾナ州のスコットデールの自宅で亡くなった。 死後の世界の存在について 彼女は死への過程のみならず、死後の世界に関心を向けるようになった。幽体離脱を体験し、霊的存在との交流したことなどを著書や講演で語った。 一連の事柄に、関心を持つきっかけとなったのは、自分の担当していた患者が死に直面する時に、幽体離脱を経験しており、離脱中の描写があまりに正確だったことから、魂の存在を認めるに至ったという。 死の受容のプロセス エリザベス・キューブラー=ロスが『死ぬ瞬間』の中で発表したもの。以下のように纏められている。すべての患者がこのような経過をたどるわけではないとも書いている。
否認・隔離
怒 り
取 引
•抑 うつ
受 容
2017.10.17 |
☆72マーティン・ルーサー・キング(アメリカ牧師)(1,928~1,968年)
一 本当の人間の価値は、すべてがうまくいって満足しているときではなく、試練に立ち向かい、困難と闘っているときにわかる。 二 科学の力が精神の力を凌駕してしまった。ミサイルは正しく誘導され、人々は誤った方向に誘導されている。 2008.3.1
CREAYTIVE English Course Ⅰ Revised Edition DAICHI GAKUSHUSHA P.92~97 Martin Luther King, Jr., a Man of Peace Many Americans believe that the saddest part of their history is the history of black Americans. Blacks were freed after the Civil War, but for the next century their lives were unusually very hard. Not a few people, however, have worked for real freedom, and one of the greatest leaders is the hero of this story. Martin Luther King, Jr., was the son of a black Baptist minister. His mother was a teacher in Atlanta, Georgia. After high school, he went to college and studied to be a minister, like his father. Nobody could guess, in those days, the place in history that Martin Luther King, Jr., was to have. It all started on a bus in Montgomery, Atlanta, on Dec. 1, 1955. A woman named Rosa Parks was traveling from work. She was tired after her day's work. She sat down in one of the seats at the back of the bus that were for black people. White people used the ones in front. But the bus was crowded that night and there weren't enough seats for everyone. When a white man get on the bus and couldn't find a seat, the driver ordered Mrs. Parks to get up and give him hers. Afterwards Mrs. Parks said she couldn't imagine what had made her to do it. Usually she did as she was told. But the night she refused to give up her seat. The driver called a policeman, and she was arrested. The black community of Montgomery was full of anger. Martin Luther King, Jr., persuaded the black citizens peacefully. He organized a boycott of the bus service. For 381 days, the buses of Montgomery went back and forth to give up riding the buses. For most of them, the buses were their only means of transportation. They walked, hitch-hiked, rode in car pools.――even in horse-drawn wagons――and the buses stayed empty. King and his supporters were threatened. King's house was destroyed by a bomb. But still, the buses drove on empty. At last, the bus company gave in. The law was changed. Martin Luther King, Jr., had won his first protest against injustice――peacefully. King led protests and demonstrations all over the country during the next few years. Everywhere he went, he preached love, patience, and most of all, non-violence. He believed that blacks could win equal rights without violence. Millions of people all over the world knew about King and his beliefs. He was both admired and ridiculed, love and hated. In 1964, King won the Novel Peace Prize. He was only 34 years old――the yougest man and the twelfth American ever to receive this high honor. ※Photo:King Receiving the Nobel Prize. In the years he worked so hard for equality, new laws had passed. Many promises had been made. Real change, for most black people, however, was very slow in coming. For millions of blacks, life was scarcely better than it had been before. Some of King's supporter began to question his belief in peaceful protests. They were tired of waiting. They wanted change now. Suddenly, there was a period of terrible violence and hatred between blacks and whites. Everything King had worked so hard for seemed lost. The nation was divided by fear, hatred, and violence. In April of 1968, King was in Memphis, Tennessee. He had gone there to help garbage workers strike peacefully for better pay and working conditions. The strike had not been peaceful, however, and King asked both sides to be patient and calm. In the last speech he made, he also talked of death. He had been threatened many times, but he said,
He stayed in his hotel most of the next day and talked to friends and supporters. About dinner time, King was on the balcony outside his room. He was talking with one of his friends about the meeting that night. It was time to leave. King's driver suggested that he put on a coat, as it was getting cold. King said that he would. He stood up to go inside. Suddenly there was a rifle shot. King fell backward. He didn't live to say another word. "we must learn to live together as brothers, or we will perish together as fools..." Martin Luther King, Jr. Memphis, 1968 Copy on August 26th,2021 14 M・L・キング牧師の夢 '93 春の号(朝日新論説委員室)+株式会社英文朝日[訳]1993年6月3日 第1刷 P.36 (1993.1.18) 一月の第三月曜日、つまり今日は「マーチン・ルーサー・キング牧師の日」である。 誕生日にちなんで定められた。米国では七年前から、連邦祝日になっている。彼が眠るジョージア州アトランタをはじめ、全米の各地で追悼の集会が開かれる。 牧師の残した言葉で、今も最も多くの人の心に刻まれているのは、一九六三年八月、ワシントンでの演説だろう。「私には夢がある/いつの日かジョージアの赤い丘の上で、かつての奴隷の息子と奴隷主の息子が、同じテーブルに座れる日を/私には夢がある……」。 いつの日にか、という願いをこめて六つの夢が力強く語られる。二十数万人の聴衆が熱狂して聞くさまが、当時の録音テープから伝わってくる。 牧師は、アラバマ州モントゴメリーの乗り合いバスをめぐる闘いでなを知られた。「黒人は先に座っていても白人が乗ってきたら席を譲れ」という理不尽な規則に対し、五万人の黒人市民を一年にわたる乗車拒否運動でまとめ、着席の権利をかち取った。このとき二十七歳。 ワシントンで演説したのは三十四歳。ノーベル平和賞を受賞したとき三十五歳。そして三十九歳で暗殺された。「私とて長生きをしたい。だが、もういいのです。私は約束の地を見た」。前夜、二千人にそう告げたのが最後の演説になった。 ナイフで胸を刺され、自宅や宿泊先に爆弾を投げられ、投石され、不当に逮捕されても、ひるまず非暴力で自由を求めた生涯だった。だが牧師の夢はなお実現していない。六〇年代に盛り上がった黒人解放運動は、その後分裂し、混迷した。 黒人の大学進学率は再び低下し、失業率は白人の二ばい以上にのぼると指摘する統計もある。背景には、年収が白人家庭の六割前後という貧困がある。十二年ぶりに復帰する民主党政権ンお大きな課題だ。 ことしは、牧師が亡くなって二十五周年にあたる。 2021.10.25記す。
14.DR.KING'S PROMISED LAND'STILL FAR AWAY The third in January is Dr. Martin Luther King Jr. Day. It was chosen as his birthday falls on or near this day. The occasion has been an American national holiday for seven years and is marked by memorial services in his final resting place, Atlanta, Georgia, and at many other locations across the United States. The words of the famous minister which probably resound in the most people's hearts are from his speech in Washington, D.C. in August 1963. "I have a dream that one day on the red hills of Georgia, the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood. I have a dream……" King passionately described six dreams he held in his heart for "one day." The reactions of his equally impassioned audience of over 200,000 are preserved beyond the sound of his voice on the tape of the speech. Dr. King first rose to fame during the fight over the rights of black and white bus passengers in Montgomery, Alabama. He led a group in a strike to protest the ignominious custom which dictated that a black passenger had to give up a bus seat to a white passenger. More and more of the black population of Montgomery joined the strikers until they reached a total 50,000. The strike went on for a year, and the bus company finally capitulated and declared the equal right of black riders to bus seats. Martine Luther King was 27 years. He was 34 at the time of his famous speech in Washington, D.C., and 35 when he was awarded the Nobel Peace Prize. Then, at the age of 39, he was assassinated. Dr. King told an audience of 2,000 the night before he was killed that he would like to live along life, but it does not matter any longer, for he saw the Promised Land from the mountaintop he has been to. It was to be his last speech. He had been stabbed in the chest, his home and places he was scheduled o stay had been bombed, he had been stoned and arrested without cause, but through it all, he had not faltered in his nonviolent quest for liberty. But the dream of Martin Luther King has yet to come true. The movement for the liberation of Americans of color that came of age in 1960s sputtered and fragmented. Statistics show that the number of black Americans entering universities has dropped, and black unemployment is double the rate for white Americans. A contributing factor is poverty; the average black household has only 60 percent of the income of the white household. This problem will be one of the main themes of the incoming Democratic administration, the first in 12 years. This year is the 25th anniversary of the death of Martin Luther King. Copy on 2021.10.26 |
☆73ニール・A・アームストロングアメリカ合衆国の海軍飛行士、テスト・パイロット、宇宙飛行士、大学教授(1,930~2,012年)
ニール・オールデン・アームストロングは、アメリカ合衆国の海軍飛行士、テスト・パイロット、宇宙飛行士、大学教授。人類で初めて月面に降り立った人物である。大統領自由勲章(1969年)、議会宇宙名誉勲章(1978年)、議会名誉黄金勲章(2009年)受章。
橋本 宏著『英語で読む 英知とユーモア』(丸善ラグビーブラリー)P.112 〔106〕
That's one small step for a man, one giat leap for mankind.
《訳》 これは個人にとってはささやかな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ。
1969年7月21日、アメリカ宇宙飛行士アームストロング(1930~)が人類として初めて月面に降り立った際の言葉。スプ―トニック号に乗り人類初の宇宙遊泳を行った、旧ソビエト連邦のガガーリン(Yuri A. Gagarin,1934~68)少佐の発言「地球は青かった」とともに、人類の宇宙飛行の夢を駆り立てる名言となった。 2021.11.28 |
☆74アントニー・デ・メロインド人 神父(1,931~1,987年)
今この瞬間にあなたが無常の喜びを感じていないとしたら、 理由は一つしかない。 自分が持っていないもののことを考えているからだ。 喜びを感じられるものは、全てあなたの手の中にあるというのに。 2011.1.18 |
『今できることから始めよ!』アラン・L・マクギニス著 稲森和夫監訳 (三笠書房)
どうすれば、簡単にくじけたり失望したりせずにいられるのだろうか。また、どうすれば、自分の夢をあきらめずに、成功をこの手に勝ち得ることが、できるのだろうか。
それが次に挙げる12の特徴である。 「前向き人間に共通する強力な12の原則」(p24)
1 どんなトラブルや逆境に出会っても決して動揺しない
▼こんな素晴らしい資質を備えた彼らは、特別な人間なのであろうか。否、これら前向き人間たちは生まれつき陽気な性格というわけではないし、ずっと順風満帆な人生を過ごしてきたわけでもない。むしろその正反対と言っていいだろう。大抵は大変悲惨な環境の中で成長し、一度や二度は、立ち上がれないほどの敗北を味わっている。しかしそうした人生を歩みながらも彼らは挫折感に打ち勝ち、活力あふれる毎日を送っているのである。人によっては、こうした積極的で前向きな生き方こそ大変自然なことで、特別な努力は必要ないという場合もある。だが多くは考え抜いたあげくに立てた計画に沿って、悲観的人間から前向き人間へと見事に変身を遂げていくのである。
▼アラン・L・マクギニス
感想1:以上の記事は尊敬する方から、メールで教えたいただいたものです。日本の精神科の先生を多くは知りません。『漱石文学における甘え>の研究』と土井 健さん、『生きがいとはなにか』そのた著作されている小林 司さんなど、非常にたくさんの本を読み、人物の研究をされているのは、精神科医師の研究手法のように思います。「文は人なり」といわれています。著作を読めば、その人の人物像が読み取れるからでしょうか。アラン・L・マクギニスさんもその手法で研究されて以上の成果をえられたものではないかと。 ▼彼は精神科の医師であるから、当然のこと憂鬱症の治療にもあたっている。 例えば、「憂鬱症の治療に一つの効果的な方法がある。それは毎日20分から30分間定期的に患者を観察し、通常の精神セラピーでなく患者の気分のよし悪しに関心を示し、思いやりのある好奇心で対応し、十分気をつけながら様子を見るのである。明らかに、失意の人々に対しては、一貫した関心と思いやりを見せることほど大切な方法はないのだ。」
「治すことはできなくとも助けることや慰めることは出来るという幅のある生き方が必要である。」
具体的な一例として、
「目標に向かって情熱を燃やしている人の齢は不問だ!」
感想2:私は身近な憂鬱症にかかられた方を知っています。非常に周りの方々も暗い雰囲気になつていました。今は回復されています。そのかたに「回復されたのは何ですか?」とお聞きいますと、「仕事に打ち込まざるをえなくなった環境に忙しく立ち回り自分の気分に向き合うことがほとんどできなくなったからだ」とこたえられました。じっとしていることは、 ある意味では、私たちの行く手(未来の希望)を遮っているのは、私たちの想像力(想念)ではないでしょうか。いかに「現実」を受け入れ、自分に生かしていくかが、「憂鬱症」対処への手がかりにもなるようにも思われます・・・・。 2011.07.13 |
☆76ジェーン・グドール イギリスの動物行動学者、霊長類学者、人類学者、国連平和大使。(1,934~)
★チンパンジーの知性に驚く時代は終わった 朝日新聞2010.9.14 科学欄 による タンザニアで野生チンパンジー研究を50年間続けてきた英国出身のジェーン・グドールさん(76)が13日、京都大学で会見し、環境教育の重要性を訴えた。同大学で開かれる国際霊長類学会に参加するために来日した。 グドールさんは、世界で初めて野生チンパンジーの長期研究観察を始めた霊長類学者。野生チンパンジーが肉食をする、道具を使うなどの画期的な発見を次々と発表した。現在は若い世代の環境教育活動に力を入れ、世界中を飛び回り、年に約300日講演している。 グドールさんは会見で、50年の野生チンパンジーでわかったこととして「人類も自然の一部であり、特別な存在ではない」と強調。「道具使用など『こんなことができるのか』とチンパンジーの知性に驚く時代は終わった。ヒトとチンパンジーはゲノムも1.2%しか違いはなく、とても近い存在。知性があっても当たり前と受け止めてほしい」 あえてヒトとチンパンジーの違いを考えるとすれば、「ヒトは遠い将来を考え、はるか昔のことを記憶できること」と指摘。「チンパンジーには、『今』と『ここ』しかない。それを、ヒトの洗練された知性の証拠と考えるなら、ヒトが環境を破壊している現実を理解し、将来の地球のためにできることを考えてほしい」と呼びかけた。
★『カンジ 言葉を持った天才ザル』 アメリカのアトランタに、ジョージア州立大学言語研究センターという、チンパンジーの学習能力を、言語に障害がある子供たちの治療に役立てようとしている、世界でも数少ない研究機関があり、ここのスー・サベジーランボー博士がサルの言語能力の実験を続けている。「サルはヒトの言葉を理解できない」これが世界の科学者たちの見解でした。ところが英文法を理解し、ヒトと対話するサルが出現したのです。彼はボノボ(ピグミチンパンジー)のカンジ(愛称)。覚えた英単語は約千語。日常生活はほとんど不自由しません。ボノボは私たちが動物園で見かけるふつうのチンパンジーとは違い、アフリカのごくかぎられた密林で生きつづけ、数十年前に発見されて最後の類人猿と称されました。生後六カ月の彼と博士との出会いから現在までの四五〇〇日を綴った手記です。(NHK出版) ▼「カンジと付き合っていると、彼が人なのかサルなのか、わからなくなってしまうときがある」「ごく早い時期に言葉にさらされると、人間以外でも言葉を習得できるということをカンジは私たちに教えてくれた」などと、博士はいう。人間について考えさせられるものがある。 ▼私の「習えば遠し」の平成五年七月十五日 九八号のホームページより転載。 22.09.18 写之 |
☆77H.S.クシュナー (1,935~)
『なぜ私だけが苦しむのか』斉藤武訳(岩波現代文庫)の解説文
私は、アメリカのエモリー大学神学部での学びを終え、病院でカウンセリングにかかわる牧師(チャプレン)として、さまざまな人間の苦しみや悲しみ、喜びや安らぎに接してきました。「なぜ、私だけが!」という患者さんの心からの叫びに、自分の心も壊れてしまいそうな日々の連続でした。そして、今、つくづくと感じることは、洋の東西、信仰の有無にかかわらず、人は自分の「存在の根拠」を確信できないと生きていくのが苦しいということです。小児病棟でも、精神科病棟でも、ガン病棟でも、糖尿病患者などを抱える内科病棟でも、患者さんやその家族の人たちの問いは、つまるところそれぞれに「存在の根拠」を求める苦悩に他なりません。
また、ある男性は「身体が死ぬのは怖くない。それより実際のところ、私の身体はもう死んでいるのですよ。だって私の肝臓はもう機能していないでしょ。その死んでいる身体に医師やナースはあれこれとやっているのですが、生きているのは私の精神なのですよ。この機能しない死んだ身体をどうしてよいかわからず、それが怖いし、苦しいのです」と話していました。 あるいは、身体的な痛みがひどくて、ベッドから出ることのできなかった患者さんが、車イスで動けるようになって、「今の方がつらい。自分で動けるようになったし、多少食べられるようになったけれども、どうせあと一週間か二週間、長くても一か月もしたら死んでしまうでしょう。死ぬのを待っている日々に何の意味があるのかと思うと、ただただ空しい」と切々と語っていました。 末期の患者ばかりではありません。糖尿病や他の慢性疾患を抱えて生きている患者さんたちも、「何のために血糖のコントロールをしなければならないのか。生きていでも何もいいことがないのに」とか、合併症で足を切断された患者さんや失明してしまった患者さんにも「生きていても何もできないし意味がない。早く死にたい>と泣きながら暮らす人がいました。
これらの言葉はみな、それぞれの直面する情況のただなかで、自分の「存在の根拠」を求めてもがき苦しんでいるゆえではないでしょうか。人が一人でこの問いを問うときほど、孤独で淋しいことはないと思います。
この本を読んで、それぞれの方が「存在の根拠」を確信し、勇気をもって生きていける機会になればこの上ない倖せです。 22.10.24 |
☆78マーヴィン・トケイヤーアメリカのラビ、教育者(1,931~)
▼『ユダヤ商法』マーヴィン・トケイヤー著 加瀬英明訳(日本経営者協会出版局) まえがき
今日ユダヤ人は、全世界を見渡しても、わずかに1480万人、全世界の人口60億人のわずか0.25%しかいない。それにもかかわらず、商売の世界をはじめとして、抜きんでた人材を満点天に輝く綺羅星のごとく送りだしている。
さらに、ノーベル賞を例にとると、20世紀が始まった1901年から1994年、までの間に、636人にノーベル賞がさずけられたているが、このうちで140人がユダヤ人である。つまりノーベル受賞者の21.1%がユダヤ人であった。人口比からいえばノーベル賞を一つも取らなくてもおかしくないはずである。 また、アメリカの経済雑誌『フォーブス』の「世界でトップの400人の億万長者」1999年のリストでは、34才のマイケル・デル(デルコンプューター創業者)を筆頭にして、60人のユダヤ人が並んで、全体の15%も占めている。 なぜユダヤ人だけが抜きんでるのか、これまで世界の多くの人々が、ユダヤ人の考え方研究し、またユダヤの戒律やユダヤ商法に関して、数え切れないほどの書籍が、世界の各地で出版されてきた。しかし私たちユダヤ人から見れば、それらの殆どが本質とはかけ離れた、上っ面「ユダヤ人論」であり、興味本位の「ユダヤ商法」に過ぎない。
われわれユダヤ人は、遠く紀元前3000年ものむかしから、独立民族として存在していたにもかかわらず、紀元70年に最後のユダヤ王国をローマ軍によって滅ぼされてから、1948年のイスラエル建国までの1878年もの間、国を失い、流浪の民として世界に四散し、安住の地をえることができなかった。
教育の「五つの秘訣」について述べられている。マーヴィン・トケイヤー (以下略)インターネットでお調べ下さい。 参考:日本人ノーベル受賞者 ※マーヴィン・トケイヤー(Marvin Tokayer)1936年ニューヨーク市生まれ。イェシーバー大学卒業。1968年、日本ユダヤ教教団のラビとなり、日本に約8年間在日。 ラビとはユダヤ教の僧侶であると同時に、ユダヤ人子弟の教育や宗教について指導したり、結婚や離婚のコンサルタントでもあり、ビジネス紛争の裁定者でもあるユダヤ人社会における全人格的指導者である。 主な著書には『ユダヤ5000年の知恵』『ユダヤ発想の驚異』『ユダヤ・ジョーク集』『ユダヤ格言集』『ユダヤ・知恵の宝石箱』『日本人は死んだ』などがある。 ※写真はM・トケイヤ― 著 横山総三 訳『新 日本人は死んだ』(日新報道)昭和57年11月25日発行 |
泥水の中から咲く蓮の花は、希望の象徴です。 蓮はあらゆる障害を乗り越えて花を咲かせます そもそも、蓮にとって濁った泥水は養分をとるために必要なものなのです。 人間も同じですね。 自分にとって都合のいいことばかりに囲まれていては成長は望めません。 濁った水も必要なのです |
ある校長の思い出 『一日ひとつ、小さな選択で、人生を変える』ハル・アーバン著 弓場隆訳 より 私は三十五年間にわたって公立高校の教壇に立ち、九人の校長と知り合った。その中で最も興味深い人物のエピソードを紹介しよう。 彼は理想に燃えた教育者であり、性格は大らかで、すぐれたユーモアの持ち主だった。それだけに当初は教員たちのあいだで評判がよかったのだが、まもなく重大な問題が発生した。彼は人の話を聞こうとしない人間だったのだ。 一学期が終わった時点で、彼は全教員にアンケート用紙を配り、自分の校長としての評価を書くよう依頼し、二学期の最初の職員会議でそれを公表すると約束した。いよいよ新学期になつてその時期が来たとき、彼はこう言ったのだ。 「どうやら、私の仕事ぶりを評価していただけたようですね。ただ、多くの先生方が、私に話を聞いてもらえずに不満を感じておられるようです。でもまあ、そんなにたいした問題ではありません。なにしろ、妻は三十年も同じことを言いつづけていますが、それでも私たちはなんとかやっているのですから」
残念なことに、この校長は人の話を聞くことの大切さを理解していなかった。そしてそのために、やがて職務に支障をきたすことになる。
校長は「はいはい、わかりました」と言った。しかし、校長は何もわかっていなかった。どの教員も、校長が資料に目を通していないことに気づいていた。 結局、その校長の職務は長つづきしなかった。全教貝が不満を爆発させて教育委員会に猛抗議したからだ。 私が大学の社会人講座でこの話をすると、ほとんどの人が笑って「自分の職場も似たようなものです」と言う。どうやら、誰もが同様の経験をしているようだ。その中の一人がこんなことを言った。 「ほとんどの上司は、自分の仕事は聞くことではなく話すことだと思っています。しかし、人の上に立つ人は、聞くことの大切さをしっかり理解すべきです。そうすれば、もっと効率的に職務を遂行できると思います> 参考:ハル·アーバンは、長年にわたり高校教師であり、また、サンフランシスコの大学で教鞭を執る。 彼は人格教育の動きではよく知られたリーダーであり、全国的な会議や学校や地域のイベントに講演者として一定の需要がある。 彼はシングルファーザーとして三人の子を上げ、今では彼の妻、キャシーと、カリフォルニア州レッドウッド·シティに住んでいます。
『一日ひとつ、小さな選択で人生を変える』ハル・アーバン著 弓場隆訳 P.146
1 賢者は生涯にわたって学びつづける
2 賢者は他の人に教える
3 賢者はバランスを維持する
4 賢者は正直である
トーマス・ジェファソン(アメリカ第三代大統領)
5 賢者は生命に畏敬の念を抱く。
(旧約聖書詩編三の十)
6 賢者はよい心の持ち方を選ぶ
ウイリアム・ジエームズ(アメリカの哲学者・心理学者)
7 賢者は目的を見つける
ロバート・バーン(アメリカのチェス選手)
8 賢者は一生懸命に働く
セオドア・ルーズベルト(アメリカ第二十六代大統領、ノーベル平和賞受賞)
9 賢者はよい人間関係を築く
ジョージ・ワシントン・カーバー(アメリカのしょく物学者)
10 賢者はよく考える
ウイル・デユラント(アメリカの歴史家) と、ありました。 22.11.06 |
1975年10月に結婚した第42代大統領ビル・クリントンの妻であり、1993年1月20日から2001年1月20日までアメリカ合衆国のファーストレディだった。2001年1月3日から2009年1月21日までニューヨーク州選出の民主党の上院議員を務め、2008年11月の大統領選挙で民主党予備選挙に出馬するもバラク・オバマに敗北した。2009年1月21日から2013年2月1日まで国務長官を務めた。2016年11月の大統領選挙では民主党予備選挙に勝利して候補指名を受け、アメリカ史上初めて主要政党の大統領候補となった女性になったが、本選挙では共和党候補のドナルド・トランプに得票数で上回るも獲得選挙人数で敗北し、女性初の大統領となるのを逃した。身長168センチメートル。
「生まれて初めて、勤勉と決意をもってしても克服できない障害があるとわかった>(自伝『リビング・ヒストリー』) 「宇宙飛行士の訓練に応募したい」。そんな手紙を米航空宇宙局(NASA)に出したのは14歳の時だ。「女はだめ」という返信を、ヒラリー・クリントン氏(60)はこう振り返る。 *2007.6.5「天声人語」より 2008.6.7 |
Jeffrey Victor Ravetch (born 1951) is a professor and head of the Laboratory of Molecular Genetics and Immunology at The Rockefeller University. Awards:Wolf Prize in Medicine Scientific career:Institutions、Memorial Sloan-Kettering Cancer Center Rockefeller University 2022.01.20記す。 |