★習えば遠し 第1章 生活の中で学ぶ 第2章 生きる 第3章 養生ー心身 第4章 読 書 第5章 書 物
第6章 ことば 言葉 その意味は 第7章 家族・親のこころ 第8章 IT技術 第9章 第2次世界戦争 第10章 もろもろ

第1章 生活の中で学ぶ

   
QUALITY of LIFE
改 訂 版 2022.11.27 改訂

目 次

01みょう利を拒絶する 02道元の関東下向 03砂時計 04九十九点と百点
05二つ返事 06本物の提案 07口耳四寸の学 085W1Hー年配者にとつてー
09大道を行く 10道聴途説 11少しの違いが大きな違い 12捨てる
13黒崎さん 今日は! 14盲 点 15他人の評価 16小さな親切
17履き物を脱ぐときそろえて 18愛語を聞く 19立替えておきましょう 20聞き上手の人ーI.Yabukiさんー
と聴衆に話す上手な方法
21「できないこと」と「しないこと」
ー大塚全教尼ー
22正坐して話す外国修行者 23ウワサ話を聞いたら 24姓を覚えてよびましょう
25笑顔を忘れない 26逆ギレ時代の対話術 27後ろ姿を見て学ぶ 28回り道すれば何かがある
29「道は近きにあり 遠きにもとむ」 30貴女はリーダーですね!



01
冥利を拒絶する


 岩波文庫『正法眼蔵随聞記』の中に心構えの一つとも言える文章がある。

 「亦ある人勧めて云く、仏法興隆のために関東に下向すべしと」 :岩波文庫P.51

答て云く、然らず。若し仏法に志しあらば、山川江海を渡りても学すべし。その志ざし無らん人に往き向ふて勧むるとも、聞き入れんことふ定なり。只我が資縁のために人を誑惑せんか、亦財宝を貪らんがためか。其れは身の苦しみなればいかでもありなんと覚ゆるなり。

 私はこの文章に惹かれていました。

 鎌田茂雄『正法眼蔵随聞記講話』(講談社学術文庫)を読んでいると、P.16~17に次のような文章を読み、道元の心がまえの一部をしるおもいがいたしました。

▼入宋した道元が全人格を傾倒させた天童和尚と最後の別れを告げるとき、この老禅師は道元に対して、都会に住むな、国王大臣に親近するな、常に深山幽谷に住んで一箇半箇を接得せよ、と教えた。この古仏の教えは道元の一生の指標となった。とくに国王大臣に親近し、権勢を得ることをどこまでも拒否した。道元は北条時頼に招かれて鎌倉へ行ったが、寺院を建立するから滞在してくれるようにとの時頼の懇請を拒否し、師如浄の教えを守り、直ちに鎌倉を去って永平寺へ帰った。その帰山の句を見よ。

 山僧出去半年余
 猶ほ孤輪の大虚(たいきょ)に処するが若し
 今日山に帰れば雲気喜ぶ
 山を愛するの愛初より甚し

 鎌倉の政治権力よりも永平寺の山気を愛したのである。かつて達磨は嵩山に隠れて道を行じたが、道元もまた越山を愛し、光風霽月(せいげつ)を愛したのであった。

▼この非凡な、けがれを知らぬ道元の下へ、弟子玄明(げんみょう)が、時頼の好意による越前の土地の寄附状をもらって喜んで帰った時、道元は痛烈に玄明を叱責して、彼の法衣(ほうえ)を奪って下山を命じ、さらに彼が以前に坐っていた僧堂のの座席を取り去って、床下の土を掘り棄てること、七尺に及んだという。この話は道元の明利を拒否したすばらし逸話として伝えられている。当時の僧は権力者から土地を寄進されることは、自分の道行の高さのバロメターとしていたので、弟子の玄明も、この報告を一日も早く師の道元に伝えようとして永平寺に帰って来たにちがいないのである。しかるに道元は、このような権力者にへつらう心こそが仏法を破り、後に禍をのこすものだとしてこのような処置をとったのであろう。それは世間の考えからすればあまりにも厳しすぎるものかも知れない。しかし、ここにこそ道元の真面目がある。この関東下向は道元の本意ではなかったことが『正法眼蔵隋聞記』(第二p.51)に書かれている。

 私はなるほどと理解できました。

  以前に道元の関東下向を掲載しました。できれば目を通してください。

 私、が思うに、今枝愛眞さんの解釈も、道元の考えに含まれていたのでしょう。

 さらに鎌田茂雄さんは次のようにきさいしている。

 ここで「ある人」とあるのはよく分からぬが、あるいは波多野義重(はたのよししげ)かも知れない。波多野義重は優れた道元の仏法を興隆させるためには、当時の権力者である鎌倉幕府の援助を得るのがもっともよいとかんがえたのであろう。そこで関東に下向することを薦めたにちがいない。それにたいして道元は、本当に仏法を学ぶ志があれば、どんなに道のりがあろうとも、三川江海を渡って学びに来るはずだという。道元が自分自身が万里の波濤を渡り、身の危険をかえりみることなく、宋に求法留学したことを考えあわせて、このような発言となったののであろう。仏道を求めるという学道の志のない物のところへ行って、いくら仏法を説き、仏法を勧めたところで、聞き入れてくれるかどうかはわからないのものである。ただ自分が仏法を興隆するための援助を得るためだけで、人に仏法を説くことはできないと拒否したのであった。聞法の志ない者に対して仏法を説くのは、人を誑惑(きょうわく)させるためか、財宝の寄附を貪るためかのどちらかだと痛烈に断じたのであった。現代の宗派の高僧といわれる人や、法主(ほつす)、管長といわれる人は、この道元の一言を何と見るや。

平成二十四年十一月十五日



02

道元の関東下向


 岩波文庫『正法眼蔵随聞記』(第二p.51)の中に心構えの一つとも言える文章がある。

 「亦ある人勧めて云く、仏法興隆のために関東に下向すべしと」

 「答て云く、然らず。若し仏法に志しあらば、山川江海を渡りても学すべし。その志ざし無らん人に往き向ふて勧むるとも、聞き入れんことふ定なり。只我が資縁のために人を誑惑せんか、亦財宝を貪らんがためか。其れは身の苦しみなればいかでもありなんと覚ゆるなり」

▼一二四七年八月三日、鎌倉の執権:北條時頼の招聘をうけて、永平寺を離れて鎌倉に赴いたのである。時頼の要請で十首の和歌をよんでいる。有めいな「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり」など。やがて一二四八年二月十三日、半年ぶりで、道元は永平寺に帰山した。

▼以上の文章は、鎌倉から帰ってからのものであるのは明らかであろう。何故、鎌倉に向かわない気持ちになったのであろうか? 私の読んだ今枝愛真『道元 その行動と思想 』には、実際に道元が鎌倉に下向してみると、時頼はじめ鎌倉武士たちは、祈祷や、せいぜい密教的色彩の濃い黄龍派の兼密禅にとどまっていた。このため道元は、かれ一流の純粋禅による鎌倉武士の教化には、限界を認めざるを得なかったのであろう。道元は当惑し、時頼らの引止策をいっさい断り、永平寺に帰ってしまったのであると。

▼上述の文章について、私は仏法に限らず、いかなる学問についても同じだと思う。道を求める人はいかなる方途もつくすべきであることである。幕末の時代、長岡(新潟県)の家老、河合継之助は教えを受けるために備中(岡山県)の松山藩の山田方谷に来ている史実がある。

平成十五年十一月一日


★補足:本当に学ぶ意志のない人に色色と教えるのは意味がないと痛感するようになった。教えを請えば十分に参考になることを示すにやぶさかであってはならない。

平成十八年七月十五日、平成二十四年一月十八日再読。



03

砂時計


 

 五月九日、近所のお寺で日蓮開山記念講話会がありました。講師は女医さん。熊本大学法文学部国文学科卒業、結婚後、三人の子育てをしながら岡山大学医学部に入学、三九歳で医者、病院に勤められ、いろいろな会に所属しながら、文章教室でエッセイの講師もされている。著書も数冊ある。

▼演題は「心豊かに『私』を生きる」でした。

 「人間はみんな大きな砂時計を持って生まれてきているのです。上部の砂は未来を、くびれたところは現在であり、下部の空間は経験が詰まる場所です」と切り出された。先生の少女時代における母親との関係、医学生時代の苦労話、医師としての患者との付き合い、看護師の教育指導法などを話されました。

▼冒頭の砂時計に人生をたとえられたことについて思いました。人間は誰もどこに生まれようとか自分の意思で生まれたものではない。それぞれの与えられたところに生まれ、未来の時間は個人的には長短があるとしても、平等に与えられている。しかし環境により砂時計のくびれたところ=今をいろんな体験をしながら下部の経験のたまりに蓄積しながら生きている。その内容は本人以外は凡てを知ることはできない。講師がその体験の一部をはなされたから、聴講したものは「ああ、先生もいろいろ体験をされたのだ」と、知ることができた。

▼砂時計の砂粒の表面の色は皆同じ色に見えるが、その粒の中は多色である。「いま・ここ(自分の生活の場)・われ」の生きかたによって清澄な色にもなり、汚れた色合いにもなるのだろう。佳いお話を聞かせていただきました。何度も読んでいます。

平成十六年五月十日初稿、平成二十五年八月二十二日追加修正。



04

九十九点と百点


 親しくしていただいている先生は言われました。

「九十九点と百点の差はわずか一点の差である。しかしその差は無限大の差であるかもしれないし、そうでないかもしれない」と。

▼小→中学校→高校(私は旧制の学校)の時代を思い出してみた。小学校の四年生ころには百点は時に取れるようになった。中学校ではめったに取れなかった。学年が上級になるとともに百点満点をとるには、ひじょうな準備と細心の注意が必要で、努力の積み重ねによって一点の差がうめられるようだった。その体験が「事に対する心構え」を一変させられた。

▼水は九十九度と百度では、同じ水でもその様子が一変する。たかが一度の差に過ぎないのだが。液体が水蒸気になる。

▼自分で何かをするとき、目標を具体的に決める。実行に移してみると、人によっては、ある程度の進歩を感じて満足するもの、また目標点に近づいているに過ぎないと感じる人もいるだろう。更に向上しようと努力するがいくら頑張っても到達できないでも、あきらめないで努力する人もいるだろう。そして最後の難関の門を通りぬけないで苦心している人もいるだろう。そこには通りにくい狭い門が待ち受けている。はかりしれない勉学・研究によって、そのカギを開けることがきるかもしれない。しかし、その到達点についたと思った瞬間からまだ百点ではないと思うこともあるだろう。そこに意識の変化がおこっているいると思う。生涯をかけてその一点を乗り越えようと気づき生涯自己学習へとつながってゆくのではないでしょうか、かなたへかなたへと……。

平成十七年二月十八日初稿。



05

二つ返事


 私が以前、勤めていたとき感心した人がいた。その人はI.A.さん。

▼自分の仕事をしているときでも、人から、一寸した何かをしてくださいと頼まれたとき、「ハイ」とすぐに、嫌な顔色を見せずに頼まれたことをして、その作業が終わると自分の仕事を淡々とこなしていた。良い意味の「腰の軽い」ひとだった。

 私の場合は、往々にして、相手も見えると所で仕事しているのだから、いま頼まなくても、手がすいているときを見はからって、言ってくれればよいのにと思い、「いまの仕事がおわってからします」と、つい口に出す。

 どちらがよいかと、よく考えると、人から頼まれたことは後でするのであるから、二つ返事で片付ければ、頼んだ人は気持ちが良いだろう。そして頼まれた方は自分の仕事は後で心おきなくゆっくりとできる。このあたりの人と人とのやり取りに微妙な感情が働くように想う。

▼どんな職場では、上司が部下に何かをさせることが多い。そのとき、部下の仕事の状況を判断して仕事を指示する人もいるだろう、またそうでない人もいるだろう。しかし、部下の心構えとしては二つ返事で指示を実行したほうがお互いに気持ちよい関係が保たれて良いと私は考えている。

参考:
 二(に)の字のつく熟語には面白いものがある。

▼其の一 【二つ返事】かれこれためらうことなく、すぐ承認すること。

▼其の二 【二の足】①進むのをためらうこと。しりごみ。二の足を踏む。

 何かをするとき自分の判断があいまいで、決断できないときにしり込みをして最終的に行動に移さないことが多い。さらに、「石橋をたたいても渡らない」 ことになる。

▼其の三 【二の矢】①二度目に射る矢。②二度目に行うこと。「―がつげぬ」

 坐禅では「二の矢をつげぬ」と、使われている。無念と無想がいわれていますが、坐っているとき雑念が起こることがしばしばある。そのときその事柄からさらに次々と思いがつながるのを断ち切り、「二の矢をつげぬ」ようにして、元の状態に返ることが指導されている。

▼其の四 【二の句】次に言いだすことば。次のことば。

   会話しているとき内容によっては、つぎのことばをいえないことがある。

 例えば余りにもつじつまが合わないので、あきれて二の句がいえないことがあるなど。

平成十七年六月十一日、平成二十三年九月二十八再読、訂正。



06

本物の提案


 社員が業務上の事柄を上司に提案する。一回目は必ずつきかえしてしまう。

▼そこでその人はもう駄目だと思いあきらめるか、もう少し自分の提案に工夫を加えて再度、提案するか迷う。

 ここが上司の狙いどころである。社員がどれほどの気持ちで提案しているのか試しているのである。

 それきりでおわるのは、たいしたことはないのである。もう一度、なぜ断られたかを考え、改善を加えて持参しましたと再提案する。

一度、却下したにもかかわらず、この社員は本気だな、どうしてもやりたい気持ちだなと判断されて、初めて話を聴き始める。

▼筋道が違うかもしれないが、慧可(えか)の断臂(だんひ)入門の話をおもった。
 達磨が崇山(すざん)少林寺に入って、終日壁に向って坐禅していた。神光は少林寺に行って教えを乞うが、達磨は面壁端座するのみで、何もいわぬ。雪が降る夜だったという。夜あけまでずぶぬれで門前に立つていると、達磨がようやく口をひらいた。

 「お前さん、雪の中に夜通し立つて何を求めているのか」

 「和尚さん、慈悲を以て甘露門をひらいて、迷える人々を度して下さい」

 そこで達磨はいう。

 「諸仏の妙道は精勤して行じ難きをよく行じ忍び難きをよく忍び、小智、小徳、軽心、慢心をもって、真実の道を求めようと願うなら、いたずらに苦労するばかりだ」

 神光は、この時、かくしもった刀で左臂(さひ)を断つた。雪に血が散った。求道の誠意を見せたのだ。達磨はなかなかの男だとみて、

 「諸仏ははじめに道を求めるにあたって、真理のためには身命をわすれられた。今、お前さんは私に臂(ひじ)を斬ってみせて道を求めている。その求道心はよろしい」

 神光は弟子になれた。慧可というなをもらった。

水上 勉『禅とは何か』

▼職場で自分がこれぞと思う提案するとき、臂を断ずるまでもしなくても、そのくらいの意気込みで繰り返し粘り強く、採用される努力はしなくてはと思う。平成十七年当時は、ニートだとか、転職だとかの風潮が社会問題となっていた。上に述べた話はかび臭いようだがかくありたいものだ。以上は六年前に書いた。 平成十七年六月十六日、平成二十三年十二月再読追加。



07

口耳四寸の学


 『旬 子』の勧 学――學問のすすめ――(中国の思想)徳間書店 P.60

 荀子(BC.313?~BC.238?)

 君子の学は、耳より入りて、心に(かつ)き、四体に()きて、動静に(あら)わる。(ささや)きて言うも(みゆる)ぎて動くも、一もって法則となすべし、小人の学は、耳に入りて口に()ず、口耳の間は、四寸のみ、なんぞもつて七尺の(からだ)(かざ)るに足らんや。古の学者は(おのれ)のためにし、今の学者は人のためにす。君子の学はもってその身を(かざ)り、小人の学はもって禽犢(きんとく)たり。ゆえに問わずして二を告ぐる、これを(ごう)といい、一を問われて二を告ぐる、これをさんという。傲も非なり、さんも非なり、君子は(ひびき)の如し。

君子は、耳から学んだ学問を心に定着させ、からだ全体にゆきわたらせる。その結果は日々の行動となってあらわれる。したがって、どんな微細な言行でも、すべてひとの模範となりうる。

小人は、耳から学んだ学問を、すぐ口から出してしまう。口と耳までの距離はわずかに四寸、これでは七尺の身体全体にゆきわたらせることはできまい。

むかしのひとは、自分のために学問に励んだが、今のひとは、他人のために学問している。君子は学問によって自己を向上させるが、小人は学問によって自己を売り物にしている。

問われもせぬのにしゃべる。これをオシャベリといい、一を問われて二まで答える、これをオッセカイという。どちらもよくない。君子とは、打たねば響かぬが、打てば響くものなのだ。

▼私は人から話を聞き、また本や新聞を読み、よく考えないで、そのまま口にすることがしばしばある。それに反論されれば返答に行き詰まってしまい、自分の考えを述べることができない。まさに「口耳四寸の学」である。対策はどうすればよいか。

その一つに〚正法眼蔵随聞記〛の一文が参考になる。

▼古人の云く、聞くべし、見るべし、得るべし。亦云く、得ずんば見るべし、見ずんば聞くべしと。云ふ心は、聞んよりは見るべし、見んよりは得るべし、未だ得ずんば見るべし、未だ見ずんば聞くべしとなり。

▼話を聞き、読んだりしたことは、できるだけ考え、調べて、理解納得する。そのあとで口にすれば、自分の考えたことをのべることもでき、間違っていれば謙虚にさらに考え、調べるのを繰り返せばよいのだろうと。「知らないことは知らない」とはっきりと認める素直さが大事だ。

★関連:荀子

平成十七年七月二十日、平成二十二年十二月五日読みかえす。


★補足1

 花を()え竹を()え、鶴を(もてあそ)び魚を()るも、また段の自得の(ところ)あるを要す。()(いたず)に光景に留連し、物華(ぶつか)玩弄(がんろう)せば、また()(じゆ)口耳(こうじ)、釈氏の頑空(がんくう) のみ、。何の佳趣あらん。『菜根譚』(岩波文庫)後集一二五 P.355

 花や竹を植えたり、鶴と遊び魚を見るにつけても、(単に山林の隠士らしい生活をするだけではなしに)、ひとつ心に悟るところがなくてはならぬ。そうでなくて、ただいたずらに眼前の光景だけにおぼれ、風景だけをもてあそぶというのであれば、わが儒者のよく言う口耳の学問であり、仏教で排斥する頑空でしかない。そんなことでは、なんの妙味があろう。

平成十八年七月二十四



08

5W1H-年配者にとつて-


 Who,What,When,Where,Why,Howが5W1HでさらにHow muchを加えて5W2Hといわれているようだ。

 報告、書類、文章を書くときかかせないものである。

年配者の生理的5W1Hについて述べてみよう。

Whoについては、最近、特にお名前を思い出し、覚えるのが難しくなっている。「それそれ!あの!」の繰り返しである。

Whatは、あることをしていて、ひょっとほかの事をする、次にもとの作業にかかるとき、今まで何をしていたか忘れていて思い出すのに時間がかかる。

Whenは、曜日・日にちの感覚が鈍感になっている。今日は何曜日だったかな?

Whereは、老眼鏡をはずしたら探し回ることが頻繁である。物や本の置き場所なども同じである。

Whyについては、意外にしっかりしたものが残っているようである。

Howは、まだまだ経験が働きをしてくれるようである。しかしながら繰り返しが多くなり、相手は「またか」と思う。

現状を保持する工夫は?

生理的5W1Hは下降気味である。

人によって違いがあるが私見では以下の方法がよいと思う。

●毎日:日記を書く。見聞したことをその場でメモを書き残す。本(できれば朗読)・新聞をよく読む。周囲の人と楽しく会話する。できれば論議をすることが望ましい。 

●定期的:日を決めて何かをする。何かを書く。友人に電話をかける。何かの仕事の予定を立てる

●適当な作業:労働・手仕事・散歩などをする。作業の中では必ず頭が働いている。友人と話しながら散歩するのは効果的だろう。ギリシャのアリストテレスは弟子たちと逍遥しながら議論を交わしたと伝えられている。

平成十七年十二月三十一日、平成二十五年四二十二日再読。



09

大道を行く


其の一

一 大道を行く

 それには私は善いと思うこと、正しいと思うことにちゅうちょなくまっすぐに行く習慣をつけることがいちばんいいと考えています。私どもは、人生に立って知識は別でありますが、道徳上の問題でありますと、どちらが善いとか悪いか自分の行くべき道がいずれかということはみなわかっておるのであります。

 つまり人生の行くべき目標、道標がどこにあるかということはわかっておるのであります。とすれば、自分とその目標とを直接に結びつけるがよい。これが善に進むいちばんいい方向でありますす。二点の最短距離は、直線である。だから良心が善と示したらまっすぐその方向に進むがよい。その習慣というか練習を作るのが、誠を得る一番いい方法と思うのであります。

(1)八王子鉄道

 八王子と東京との鉄道をつくるときの話。それは後藤新平(1854~1929年)さんの時代でありましたか。さあいよいよ鉄道をつくろうというときになると、その左右の村長町長がひっきりなしに陳情にやってくる。いずれも、私の村に停車場をつけてほしい、私の町につけてくださいというのだそうです。もしその陳情をいちいち聞いておりますと、ジグザグ鉄道ができる。そんなことをやっておったのでは、いつまでたつても、とうていできないことは明らかだ。そこでそのときの鉄道の係りの課長でありますか、部長でありますかその方が、たいへん頭のいい人であったとみえまして、「よろしい、あなた方、鉛筆と紙と定規を持ってきなさい」といって、地図の上の東京と八王子とに定規をあて、まっすぐに鉛筆で線をひき、「さあ、このとおりやるんだ」といってやったのが当時日本一真直ぐの東京八王子線だということです。町村長は、そのときは必ずしも満足しなかったのでありましょうが、それが一番近い方法でありまから、その恩恵は長くその地方に及んだわけであります。

これは自明の理であります。しかるに人間というものは、なぜか、この大道を忘れてゆく。小さな利益、小さな便利というようなことに心が奪われて、あちらこちらにさまよって、大道を忘れるのであります。それがいけない。それではいつまでも人間の目的地には達し得ないのです。

(2)小僧の一言

 私どもは、二、三十人の団体がありまして、春秋、武州(武蔵の国)の平林寺へよく遊びに行くことにしています。景色もよいし、幽静な土地ですから、そこに行って坊さまのお話を聞いて帰る。近ごろはちょつその企てを休みましたが、あるとき、それは夏の初めでありましたが、寺内の散歩をおえて食事をいただいた。禅宗でありますからごく質素な弁当を出してくれる。そのあとで小僧さんが夏ミカンを持ってきてくれました。その夏ミカンは、まん中から切りまして、それへちょっと砂糖をのっけてひとりひとりに一つずつ出してくださった。けれどもその出された夏ミカンにはフォークもなければナイフもない。どうして食べるのわからない。みんなまごついて手が出ない。「どうして食べるんでしょう」「どうして食べるんだ」というけれども、だれひとり手を出す人はいない。ことに女の方などはつつましいものですから「どうするのでしょ」といっているだけでありました。そのうちに小僧さんが来たので、ある人が「小僧さん、小僧さん、これはいったいどうして食べるのですか」と聞きましたところ、その小僧さんはさすが禅宗の小僧さんだ。「さあ、私もよくわかりませんが、やっぱり手で取って、口の中に入れて、かんで飲むんじゃありませんか」、こういったのであります。

 なるほどそれに違いない。手で取って口の中に入れてかんで飲めば……それで食べることになる。ミカンというのは元来食べるためのものなんだ。食べるものときまっておるならば、食べるよりほか方法がない。なぜそれをやらぬのか。ところが人々の頭の中には、もしそんなことをやったらば、「あのやつは礼儀を知らない。作法を知らない」というあざけりを受けるかもしれぬ、あるいは「手がよごれる」ということを考える人があるもしらぬ。さまざまなことに執着いたしまして、本来の目的からはずれてしまうのであります。しかしそれは人間のまちがいだ。第一義に、まっすぐに行くということを忘れているわけであります。

諸橋徹次『古典の叡智』(講談社学術文庫)P.63~66 より


其の二

花よりさきに実のなるような

種子(たね)よりさきに芽の出るような

夏から春のすぐ来るような

そんな理屈の合わないふ自然を

どうかしなしないでいてください

『高村光太郎詩集』

其の三

僕の後ろに道はできる

ああ 自然よ

父よ

僕を一人立ちにさせた広大な父よ

僕から目を離さないで守ることをせよ

この遠い道程のため

『高村光太郎詩集』

 其の四

ある研究者と話していると、最近の大学卒業者はあまり考えることをしない。その一つの理由として本を読んでいない。基礎が身についていない。そこで私が読んだ本から参考になる話題を抜書きします。

 お経の中に『百喩経』というのがあります。普通のお経は難解ですが、これは全部、譬え話で構成されている面白いお経です。でも、実に含蓄のある話ばかりで構成されています。この中に「三階建ての家」の話があります。

ある金持ちが三階建ての立派な家を建てて、うれしくて友だちを呼びました。「家が新しくなったから、一度見に来いよ」と。

友だちは一階を見て「やあ、いいなあ」と言い、二階を見て「いいなあ」と言い、三階を見たら「ああ、三階って景色がいいなあ」と感激して帰ってきました。

家に帰ってから、「おれも三階を造ろう」と建築家を呼びました。建築家は設計図を描いてもってきました。そして、「まず一階の基礎工事をこうやって、それから一階を造って、二階を造って、三階を造ります」と言って説明を始めました。するとその金持ちが「一階と二階はいらない。三階だけ造れ」と言ったのです。建築家は「いや、一階と二階をちゃんと造らないと三階はできません」と言うのですが、「いや、一階と二階は余分な金がかかるからいらない。三階だけ造れ」とかたくなに自分の考えを変えません。

 絶対に無理でしょう。まず基礎工事をして、一階を造って二階を造らなくてはどうにもなりません。でも、これは建物の話に譬えて人の生き方を教えているのです。いい景色が見えて「いいなあ、楽しいな」というこの三階は人生の「幸福」を意味しているのです。そして一階は「生命」、二階は「正命(しょうみょう)」といって、「正しい生活」を意味している私は思うのです。

 以上は『東京原宿辻説法』(佼成社)のなかで藤原東演氏が「人生の種まき」で述べている。『東京愿宿辻説法』佼成出版社P.164

 平成18年の成人の日。若い人に、三十歳までに基礎を身につけ、小道は避けて大道を行く工夫をされるのを期待したいものです。

平成十八年一月九日、再読:平成二十一年一月四日



10

道聴途説


 今回は、「道聴途説」の言葉についてふれます。まさに古典の解釈そのままに受け取っていた。「口耳之学」についても同じくそのとおりに思っていました。

 たまたま「道聴途説」をパソコンで調べると下記の文章に出会った。

▼慶應義塾では義塾全体の事務を統括する部署を塾監局といっているが、またこれはその事務局が入っている建物の名称にも使われている。この塾監局に福澤先生の発案で、1冊の帳面が置かれた。それは明治12年(1879)のことであった。この帳面は、最近名所旧跡等観光客の多いところや、宿泊施設のペンション・民宿等に多く見られる「落書き帳」もしくは「思い出」の類であって、先生自筆の序文によると、「筆記スル者ハ社中ノ教師生徒二論ナク或外来ノ客友ニテモ此室ニ入ル者ハ勝手次第ニ其見聞シタル事ヲ記録ス可シ」とある。要するに塾監局に現われた人なら誰でも、事の真偽はとも角、気付いたこと、耳にしたことを自由に気ままに書きしるすことのできるノートであった。その目的は「世ノ中ノ人事ハ往々無用中ニ有用ヲ生スル少ナシトセズ」というもので、世間の人事一般は所詮無用に属するものが多いのであるが、一見無駄に見えるものの内に、かえって他日大いに役に立つ有益な要素があるのだ、という先生一流の教訓が含まれているものだった。

▼ところで、この帳面は「道聴途説(どうちょうとせつ)」と表題をつけられた。「道聴途説」とは、道で聞きかじったことを、すぐ知ったかぶりをして、道で逢った他人にうけうりをして話す、ということで、『論語』陽貨 第十七に出てくる有名な熟語である。『論語』では道聴塗説とあって表題とは異なるが、塗と途は同音同義で、いずれも「小道」を意味するから「道聴途説」でも意味は同じである。しかし『論語』ではこれに続けて「徳を之れ棄つる也」とあるから、人から折角いい話を聞いても、それをすぐ道で逢った人に話してそのまま忘れてしまうのは、「荀子」にいう「口耳之学」に通じる言葉で、精神の種とならず、みずから徳を棄てるようなものだ、という戒めがついている。

参考:宮崎市定著『論語の研究』(岩波書店)P.356

 子曰。道聴而塗説。徳之棄也。

訓:子曰く、道すがら聴きて、(みち)すがら説くは、徳をこれ棄つるなり。

 子曰く、人にいま聞いてきたことを、すぐ自分の説として吹聴するのは、向上心をすてた人のすることだ。

▼福澤先生は中国の古典を利用し警抜な譬喩を数多く作られた方であったが、孔子が徳を棄てるようなことだとした行為を、むしろ無用に見える巷間の噂も、いつの日かこれが有用に転ずることがあると、現代的な解釈を施しているのである。

 この「道聴途説」は、はじめの2、3日は先生みずから模範を示して記入してあり、それには塾内外の教職員・塾生の行動が活写されていて興味はつきない。この帳面は長く続かなかったが、文書による交流を人間交際の一要素としているのは斬新である。

 このような福沢先生のように、解釈に習って思った。

▼聞いたことを自分なりに考え、自分のものとして活用できれば有用なものになりうる。これが実行できれば、「徳を之れ棄つる也」ではなくて「徳を之れ得る也」になりはしないかと。いかがなものでしょうか。

平成十八年六月十七日原案、平成二十三年一月六日再読変更。



補足:この章の「口耳四寸の学」も、再度お読みください。



11

少しの違いが大きな違い


 ある職場での話

▼「八時ぎりぎりに出勤していたが、二十分前には職場に入り仕事のだんどりをすませると、気持ちがよくて落ち着きますという人」

 「自分の仕事に限らずに人の仕事を応援するようになった」

 「朝夕のあいさつは自分の関係する人だけにしていたが、部屋全体の人に大きく明るくあいさつするようになった」

▼職場での第一線のリーダーたちの話です。自分自身の生活をコントロールし、行動に表していることを物語っていると思います。

▼熊沢蕃山が岡山候池田光政に仕え、家老職までに抜擢せられて、そのなが天下に轟いた時のことである。所用で江戸へ下ることとなった。

 僅かの供廻(ともまわ)りで旅を続けて、人目に立つようなことはあいなかったのであるが、そのことがたまたま尾張候の耳に入った。候はかねがね蕃山のすぐれた人物であることを知っていられたものだから、その宮(みや)駅を通過する時を計り、成瀬隼人正に旨を含めて、密かに行動を探らせた。それで事に馴れた一人の士が赴いて、探索に当たった上、蕃山が同駅を立ち去ってから、帰って観察することを復命した。その士はいった。

▼熊沢の行動には、これとて変わったこともござりませんでした。けれども、召連れた供回りの者達のふるまいが、いかにも物静かで、軽はずみなところなどはございません。熊沢の人間の品格の高さが、さような点にも現れているのでございました。

 宿で一同が寝静まりましたら、その跡で一人の侍が、皆の者の寝ている一間一間を廻って、ともっている行燈の燈芯を、一筋ずつに減らして行きました。二筋では勿体ないというのでしょうか、それとも二筋では早く尽きてしまうので、跡がふ用心だというのでしょうか。何れにもせよ、行き届いたことと存じました。

候はこれを聴いて、その少しばかり異なるところが、熊沢の大いに異なるところであろうと、感ぜられたそうである。『史伝閑歩』 森 銑三(中央公論社)

参考:岡山市に蕃山町がありますが、熊沢蕃山の屋敷が岡山城下にあった場所だそうです。

▼「百円の切符が九十八円で買えないことは、五円の金で買えないのと同じである。もの事は最後の数パーセントで勝敗が決する」 森 信三先生『一日一語』五月七日

▼二十分前の出勤、仕事の応援、あいさつ、等々、ほとんど話題にならない事柄であるでしょう。しかしこんな少しばかりのことが実行されないのが現状だと思います。

 尾張候、森 信三先生の言葉をかみしめたいものです。

平成十八年一月十八日、平成二十二年十一月二十五日、再読。



12

捨てる


 わが家を建ててから35年、家に接した木製の納屋の柱が蟻に食われて腐ってきた。

▼壊すことにする。もう建てることもないと思い金属製の倉庫をその跡にすえつけることにした。

 古い資料(二度と見たことはない)や道具類を格納していた。資料なども虫食いになっているものなどもあった。整理しながらこれはと思うものもあったので選別する。思い出が湧いてくる。

 また、昔、ばら寿司などを作っていた桶なども格納していた。

 なんだかこんなものを今は使うようなこともないので、懐かしい思いがして、捨て去るには割り切れないので誰かにお譲りしてはと思う。受け取ってくださる人は絶対にいないだろう。また、使っていないミシン(ガタガタになっている)もあり、これも何となく捨てきるのに未練がのこったが処分した。

▼こんなに何でもないものを捨てることが気分的に難しいとは思いもしなかった。

 納谷に格納している以外に家には書棚にある程度の数の本がある。客室には昔、子供たちが使っていたが今は誰も弾ずることのないピアノが占拠している、その他、今は思いつかないものがあるだろう。これも何時の日にかは処分しなければならない。

▼読書家の先輩の一人が本の一部を古本屋に売った。ただ同然であった。リヤカーに積み込まれてゆくのをみて非常に淋しい気持ちがしたものだと、話してくださったのを思い出す。

 物を捨てることでさえこんなに難しいとは。

▼不必要なものを捨てる仕分けをしているとき、ふと龐公ほうこうのことを思い出し、禅の修行者の学道の用心の一端を読ませていただきました。

 龐公は俗人なれども僧におとらず、禅席になをとゞめたるは、かの人参禅のはじめ家の財宝を持ち出して海に沈めんとす。人是れを諌(いさ)めて云く。人にも与え仏事にも用ひらるべしと。時に他に対して云く、我已に冤(あた)なりと思ひて是を捨つ。冤としりて何ぞ人に与ふべき。宝らは身心(しんじん)を愁へせしむるあたなりと云ひて、つゐに海に入れ了りぬ。然(しか)ふして後ち、活命(かつみょう)の為には笊(いかき)をつくりて売り過(すぎ)けるなり。俗なれどもかくの如く財宝を捨てゝこそ、善人とも云れけれ。いかに況や僧は一向にすつべきなり。『正法眼蔵随聞記』岩波文庫P.81より

注:龐公、なは蘊、字(あざな)は道玄。儒家の人。
 初めは石頭希遷禅師に参じ、後、馬祖道一禅師に参じてその法を嗣ぐ。
(『正法眼蔵』神通巻)

 最近、私は新聞で「断・捨・離」の言葉を見る。どれほどの覚悟で使われているのだろうか。物ばかりでなくて、精神的な「断・捨・離」が私どもには至難のものであると思う。

平成二十年十二月十二日、平成二十二年九月十七日再読修正。



13

黒崎さん こんにちは!


 ある会社の人の営業の方の携帯電話に電話すると、「黒崎さん こんにちは!」と明るい声が耳に飛び込んでくる。何となく気分がいい。其の後の話が穏やかに進む。

 電話するとたいてい「もしもし」との声で始まり、「どなたさまですか?」と聞かれますので、「黒崎です」と名乗ってから話を進めるのがふつうである。

 この二つを比較してみてください。電話の受け方でどちらに受け取るときの気持ちが良いものであるかを。

 私は前者の方の受け方に軍配をあげたくなります。

 この携帯電話の方から頂いた名刺を見ると「優良社員」と書き込まれている。なるほど営業される方は電話の受け答えにも注意しているものだと感心させられる。

▼こんなことから思い出したのは、ナポレオンが戦場で戦った場合、攻撃を始めるとき、「○○君! 突こめ!」とな前を叫んだという事を読んだことがある。

 このとき「そこの兵隊 突こめ!」と命令されたとすると、同じ兵隊でもその士気に違いが出るでしょう。この人の為にはと感じ、命令に従うのではないでしょうか。

▼私にも見も知らない人から呼ばれて、よい意味で驚かされたことがある。

 それは、海軍の学校に入校した時のことである。

 どんな生活が始まるのか不安な気持ちでいっぱいになって、私服から海軍の軍服に着替えて、配属された分隊の自習室に入ると、いきなり「黒崎生徒!」と先輩から呼ばれたのである。

 「初対面の先輩が自分の名前をどのようにして知られたのだろうか?」の疑問を持ちながらも、少し不安な気持ちが落ちついてゆくのを感じた。

 その後、その理由がわかった。入学試験の前に提出した願書にキャビネット版の上半身裸体の写真を送付していたのである。その写真が配属される分隊に配布されて顔写真と名前を分隊の上級生は記憶されていたのである。

▼話題が変りますが、ある大学の教授と医局員とのお話を聞いたことがある。

 その教授は内科の先生であり、診療・教育に当たっていて、指導しなければならない多くの医局員がいる。先生は多忙な時間を割いて、一週間に一度は必ず医局員全員のひとりひとりとお話をされるそうです。この話を聞かせて下さった人も「なかなかできることではない。立派な先生である」と感心されていました。

 この話を聞きまして、普通ならばとうていできそうもないとおもいました。しかしこの先生はすごく立派な方だとおもいます。所属する医局員ですから、その人たちの名前は熟知されているのは云うまでもないことでしょう。しかし、この一対一のお話で意思の疎通が行われ、度重なる対話を通して医局員の医師としてのあるべき姿が養われるのではないかと。

▼日頃、何気ない見分の中にも、その気になって目にし、耳にし、考えていると、学ぶべき佳話があるようです。

平成23年12月15日



14

盲 点


 「それは盲点だった」「これからは注意しよう」などと話の中で使われている。

 眼科で診て頂くと「視野検査」の両眼球の絵図のなかに黒い点が私の場合あった。

 「これは何ですか?」と、

 看護師さんに尋ねると、「盲点です。誰にもありますと」との説明であった。

▼辞書でみると:もうてん【盲点】

○1:視神経が網膜に入ってくる部分。網膜がないので視覚を生じない。盲斑。
○2:注意の及び得ない部分。人の気づかない所、とあった。

 医学的なものは仕方ないとしても○2の説明「注意の及び得ない部分」にいては、言行・行動については極力少なくしたいものである。

 私の場合、先輩をご案内して大原美術館に入ったことがある。私は何気なく展示品に触った。

 すると、「そんなことはしては駄目だよ」と注意された。

 また、他の先輩の家を訪問した。久しぶりにお話を交わしてしているとき、たまたまパソコンの新品を購入したばかりのもが目にとまった、つい何気なく、使わせてくださいとことわって操作しました。

 ところが、「人と話しに来たのだから、そんな操作はしないで、話をするものだよ」と。

 二つを例にしたが、いくらでも無意識にこんなことをしていることであろう。

▼言行・行動の基準は「不易(ふえき)流行」の言葉どおりであろう。何が「不易」であるか。これだけは、はっきりさせて、そのものに対して「注意の及び得ない部分」がないようにしたいものだと。流行はほどほどでよと思っている。

 読書についても、読むべき本とそうでないものがあると思う。

 山形県にある「基督独立学園」の鈴木校長先生の読書の選択について、この言葉があてはまるのではないかと思う。

参考:独立基督学園を訪ねて

平成二十一年十二月二十日、平成二十五年五月十八日修正。



15

他人の評価


一、昔孔子に一人あり。来て帰す。孔子問て云く、汝ぢ何を以てか来て我に帰するや。云く、君子参内の時此を見しに、顒々(ぎょうぎょう)として威勢あり、故に帰す。ときに孔子弟子に命じて乗物装束金銀等を取出して此れを与へて、汝は我に帰するにあらずと云てかへせり。
 亦云く、宇治の関白殿、ある時、鼎殿(かなへどの)に到りて火を焚所を見玉へば、鼎殿是を見て云ふ、いかなる者ぞ案内なく御所の鼎殿へ入ると云ひて、追出されて後関白殿先の悪き衣ふく等をぬぎかへて顒々として装束して出たまふ時、先の鼎殿、はるかに見て恐れ入りてにげにき、時に殿下、装束を竿の先にかけ拝せられけり。人これを問ふ。答て云く、吾れ他人に貴びらるゝこと我が徳にあらず、只此の装束ゆへなりと云へり。おろかなる者の人を貴ぶことかくのごとし。
『正法眼蔵随聞記』(岩波文庫)P.141~140

 他人の評価ほどあてにならないものはない

二、我貴くして人之を奉ずるは、この峨算冠大帯を奉ずるなり。我賎にして人之を侮るは、この布衣草履を侮るなり。然らば則ち原(もと)我を奉ずるに非ず。我胡(なん)ぞ怒りをなさむ。釈 宗演 『菜根譚』(三笠書房の知的生き方文庫)P.266

 以上の二つの文章を読みますと、釈 宗演が言われているように、他人の評価ほどあてにならないものはない。また要するに、世間の人情は着ている物しだいで、あるいは敬しあるいは侮るので、それを真に受けて喜んだり怒ったりするのは愚の骨頂である。と。

   他人の評価は着ている物だけではないでしょう。社会的地位・身分、お金持ちかどうかなど数え上げることができないでしょう。他人を評価するまえに、評価するにはそれだけの見識を持っていること。それには、自分を深く見つめて、自分を評価することがよりたいせつな課題ではないでしょうか。

平成二十二年一月十二日、平成二十四年一月十四日再読。

 



16

小さな親切


其の一

 今年4月、バスに乗り、医療センターに行きました。脚力が弱っている妻は一人で杖をついてやっとあるける状態だったので、左腕に私の右腕を組み、たどりつき、車椅子に乗せて検査室まで運び、無事、検査が終わり、帰宅しようとしました。

 受付の女性は車椅子に乗せるのを手伝ってくださった。帰宅しようとしますと、他の人に代わってもらい、「バス停まで送りましょう」と言って気持よく運んでくださいました。「道路がガタガタしていて、体がいたくありませんか?」と話しながら本来の仕事ではないはずのことをして下さるその人に私は本当に心の中で「こんな女性も居るのだ」と思い同時に感謝させていただきました。

 こんなことがあった後日、町を歩いているとき、左手に杖を右手を道路わきの手すりをつかみながら、やっと歩いているお婆さんを見かけました。「お婆さんお手伝いしましょうか」と声をかけますと、その方は笑顔を浮かべて「いいですよ」との言葉が返させられました。その笑顔から私の気持だけは伝わっただろう、「愛語」になってくれたのではないだろうと……。

 これも、センターの受付の若い女性に教えられ、妻の介添えが、困っている人に素直に声をかけるようにしてくれたとの思いがいたします。

 「小さな親切運動」が始まったのは東大の茅総長のご提案ではじまったと記憶に残っています。インターネットで調べると今でも活動して居ることを知りました。

其の二

 それにしましてもギスギスした世情になっているのを体験しました。

 ある日、電話がかかってきました。

 「私は電話会社のものですが、パソコンをお使いですか」

 「はい、使っています」

 「当社は、今、無料で修理をいたしますので封書を送らせていただきます」

 「貴社の電話番号を教えてくれませんか」とききました。

 「封書の中にかかれていますからそれを見てください」との回答。

 「もう、結構です」と電話を切りました。

 皆さん、どう感じますか?

   其の一の良き日本の伝統と思われる親切心と其の二の心ない人たちのグループとを並べて記録しましたが、一人一人自分の問題として考え行動したいものだと思うことしきりです。

平成二十二年五月三日



17

履き物は脱ぐときそろえて


 毎日、家の玄関から出たり入ったりしている。何度位しているか? 余りにもあたりまえのことなどでその数はわからない。

 そのつど、なかには、履き物を脱いで家に上がるときそのままにしてあがっているのではないでしょうか。

 私の家の近くに禅寺があり、日曜日坐禅会がおこなわれている。参りますと、本堂(坐禅を行う)と小方丈のあいだいに渡る敷板があり、そこで履き物を脱ぎ、本堂にあがる。次々に参加された皆さんは履き物のかかとをこの板の縁につけて揃えている。

 私は家でもこのようにしたいものだとこころがけています。時に脱ぎっぱなしのこともありますが、気がつくと揃えて履き物の前を外にするようにしています。

 このようにしていますと来客も同じようにしてくださっていることに気づきます。

 「履き物を脱ぐときそろえて」に関連して、私のホームページからものを参考に列記します。

参考:一 鈴木牧之 (1770~1842年)『北越雪普』

 「戸障子閉メルニ一寸残シ草履木履ヲ踏ミ散ラシテ脱ギ置ク人、皆敗家ノ人ナリ」

参考:二 森 信三▼『一日一語』

☆一月三十一日

 しつけ(ヽヽヽ)の三大則。

一、朝のあいさつ(ヽヽヽ)をする子に―。それには先ず親の方から さそい(ヽヽヽ)水を出す。

二、「ハイ」とはっきり返事のできる子に―。それには母親が、主人に呼ばれたら必ず「ハイ」と返事をすること。

三、席を立ったら必ずイスを入れ、ハキモノを脱いだら必ずそろえる子に―。

☆十一月十八日 

 地上の現実界は多角的であり、かつ錯雑窮まりない。随って何らかの仕方で常にシメククリをつけねば仕事は進まない。そしてそれへの最初の端緒こそ、ハキモノを揃えるしつけヽヽヽであって、それはやがて又、経済のシマリにもつながる。

平成二十二年七月二十四日

追加:船乗りは港に入ると、必ず港をでるときの「出船」にする。いくら疲れていてもそうする。「入船」を「出船」に。2021.11.05



18

愛語を聞く


 ある会社の支店の知り合いの現職課長さんから、「転勤で異動します」との電話での挨拶があった。

 「転勤はおもっていなかったので驚いています」と。

 「後任はどなたですか」とお聞きすると、六人の課長がいるが補充・昇格をしないで五人のままでだと。

 「あなたが知っている部下のAさんそのままいます、よい人だからよろしく付き合って下さい」との話だった。

▼この電話が終わり、Aさんに電話した。

 「わたしも、突然なことで驚いているところです」と言う。

 「課長さんは、あなたがよく仕事をしてくれますから」と、言っていましたと話すと、「そうですか…、頑張ります」とあかるい声が伝わってきました。

 私はこの課長・Aさんとの勤務その他について詳しくは知らないが、たまに二人と同席しての雰囲気から、信頼の様子をかんじていました。

▼この電話で、道元禅師の「愛語」をおもいました。

 「愛語」といふは、衆生を見るにまず慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり。……。

 むかひて愛語をきくは、おもてをよろかばしめ、こゝろをたのしくす。むかはずして愛語をきくは、肝に銘じ、魂に銘ず。しるべし、愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり。愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり、たゞ能を賞するのみあらず。

(『正法眼蔵(四)』P.423 岩波文庫)より。

 転勤の機会に、二人はどのような態度で接していたかの本心が現われるものだと感じました。

平成二十二年十月十日作成、平成二十三年十月三日再読。



19

立替ておきましょう


 いつも食品を買いに行く(片道約30分)スーパーで買い物しました。あいにく、その金額が財布のなかにありませんでした。

 「家までお金をとりに帰ってきましょうか?」

 「立替ておきましょう」と、レジ係り<「所司さん」(若い女性)が云ってくれました。

 「明日はきませんが、明後日でもいいですか?」

 「わたしは、その日も、きていますから」との返事。

 金銭のトラブルの多い今時、スーパーのレジに信頼のこころを思った。

▼この方とは昨年末、貴女のお名前は「しょしさん」と読むのですかと聞いた。

 「珍しい名でしょう」

 「いや、私が現役時代に同じ姓の人と働いたことがあったので、そのようによむのだろうとおもいました」

 以上のような、自分の姓名を覚えられることは私共には嬉しいことであります。

 このスーパーでは以前も買った金額が足りないことがありましたが、その人は、手持ちの金額にあわせて品物を調節してくださった。

▼こんなことがあり、以前からも感じていたのだが、店長のお考(接客態度)が店員全体レジ係りにいたるまで行き渡っていることをしみじみと味わいました。店長もよく店内を歩き回って品物の整理、レジが休憩しているときなどはその役目をしていることがしばしばです。

 近所の方々の評判もよくて○○を買うには、このスーパーに行きなさいとすすめられたことがあります。

▼こんなことがあり、私が子供の頃は、年に2回、半年間の商品の買い物の代金(近所の八百屋さん)を払うことになっていた。今にして思えばその商店は毎日の商品の仕入れのお金はどうしていたのだろうかと思う。今回「立替ておきましょう」は期間は短いものの、彼女には商人のDNAが引き継がれていると、私にはほのぼのした気分にさせられた。有難うございました。

平成二十三年一月八日



20

聞き上手の人ーI.Yabukiさんー
と聴衆に話す上手な方法

聞き上手の人ーI.Yabukiさんー

 「あなたの知り合いに、聞き上手だと感心する人がいたら、3人だけな前を挙げて下さい」との質問。会社勤めしていたとき受講した講習会で与えられました。

 その時に、今でも聞き上手と思いだせる一人は I.Yabuki さん。

 その人は、私も勤めていた会社の工場での機械の設計担当でした。私は合成繊維の製造担当。

 製造設備に不具合に気付いた時などは何とかしたいと思い、考えがまとまり改善したい時にはその人と話をしなければなりませんでした。

 改善したい項目をはなし、このようにしたら生産効率がよくなるだろうと、話し合いをしました。そのあいだ耳を傾けて聞いてくれました。私が話している時、話しの腰をおることはありませんでした。話し終わると、疑問点を問い返されれました。このようなやり取りを繰り返しておりました。

 以上の話し合いの結果に基づいて設計図面を見せてもらうと、わたしの要求はもちろん、そのうえに彼がさらに工夫したものであることが私にも理解できて、改造にかかりました。

 私が思うには話の聴き方で彼は話の内容を正しく理解され、私の説明をくみ取っていただけでなくて、不十分な点は工夫を加えてくれている。本筋をつかんでいた人であった。

▼「話の聞き方」まとめると

1、話の内容を理解する

2、話の腰を折らない

3、相手の気持をくみとる

4、質問をする―タイミングを考える

5、話の内容に注意力を集中する

6、話の本筋をつかむ

7、話し相手の顔(目・口・表情)をみながら聞く

8、聞いているときは決して批判しない

 I.Yabukiさんは、以上の点をは十分にそなえた人であったとおもえる。

 一言で言えば話をよく聞いてくれるひとは忘れ難いひとである。

 このような人の対話の仕方を身に着けなければと自戒!

★彼は誰からも好かれていた。そして、その後、指導者としての階段を上って行かれた。彼は、広島県福山誠之館中学(旧制)の出身で、海軍経理学校で終戦を迎え、その後、旧制高校、大学へ進まれて、会社に入られた。

▼反対に「聞くのが下手な人」は上に述べた項目のどこかがかけている。例えば「自分のいいたいことだけを云い、人の話には身を入れて聴いていない、批判が多いようであり、他の人との話に口を差し込む」……。

参考:ユダヤの諺に「人には口が一つなのに、耳は二つあるのは何故だろうか」。

 それは自分が話すばいだけ他人の話を聞かなければならないからだ。

平成二十三年三月四日、平成二十四年九月十三日再読・修正


聴衆に話す上手な方法

 100人程の集まりでの講演会でお話を聞いた。

 その人はある団体の長であった。

 聴衆に語りはじめたとき、前のほうに席をとっていた人たちにだけ聞こえる声の大きさでしばらく話された。

 すると、聴衆の後ろの人にはほとんど聞こえないから、何を話されているいるのかと耳をこらした。だから、会場は非常に静かになりました。そんな雰囲気を作り上げて本論に入った時には、後ろの席の人たちにも聞こえる声の大きさで話をされた。

 私は、聴衆を自分の話に集中させる方法としてこんなやり方があるのかと感心した。

 こんな体験が下地にありましたので、

▼遠藤周作『生き上手 死に上手』(文春文庫)を読んでいるとき、次のような文章にであった。

 遠藤周作氏が講演を頼まれたとき、講演の上手な二人の人にたずねてみると、要領があるのだそうだ。P.198~「講演の要領」の欄に

 ひとつは壇上にたってすぐはじめてはいけない。しばらく、黙っている。黙って、うつむき、ポケットから万年筆を出し、じっとそれを見ている。すると観客はその万年筆に何かがあるのかと思い、全員、咳(しわぶき)ひとつしないで、壇上を注目するようになる。その瞬間、

「みなさん」

 ひくい声でしゃべりはじめる。これが第一の要領である。森繁久弥氏に習った方法である。

▼もうひとつは、聴衆のすべてを見てはいけないのだそうだ。前列から五、六列目のご婦人だけに注目して、その人に語りかけるように話す。

 そしてその人の表情の変化が、聴衆全体の反応だと思うのである。

 その人が笑ったら聴衆のすべてが笑ったと思え、その人が泪(なみだ)ぐんだら聴衆のすべてが泪ぐんでいると思えーーそう、講演の名人佐古純一郎氏(1919~2014):二松学舎大学名誉教授)は私に教えてくれたのである。なるほど、とは思ったが、その後、壇上に立ったら、もう二つのことを忘れてしまい、結局、実行できなかった。

 昔、B社が毎年主催している地方講演会で、できるだけ小さな町を選んで廻ったことがある。今とちがって町民会館や公会堂がある筈もなく、小学校の講堂が会場なのだが、娯楽が少ない時代なので、講演会と演芸会をまちがえて、爺さま、婆さまがずらりと並び、赤ん坊の泣き声がきこえ、「日本文学の運命」などという話をせねばならなかった。それでも、みんな辛抱づよく聴いてくれた。このように老若男女が入りまじっている講演会は、やはり話すのがムツかしい。老人を悦ばす話は若い連中にはツマらないだろうし、男に興味あるテーマは女性には関心のない場合が多々ある。孝ならんと欲すれば忠ならず、なのである。

 私の場合はもっと事情が複雑で、狐狸庵的な話を期待して来られる人たちと、純文学の遠藤の話をききにきてくださる人々と二つが混じりあうと、そのどちらも満足させるのは至難なので苦労する。片一方を立てれば、もう一方は立たずだからだ。

 実はこの原稿を書き終わると、私は講演に出かけねばならぬ。聴衆はすべて大学生でーーこれならばまだ話しやすい。しかし、その大学生も、文科系と理科系の混合よりも文科系だけのほうが、私も楽に、そして熱をこめて、しゃべれるのである。

 講演を頼まれる人たちにも上手に聴衆に話す工夫があるものだと……。

▼参考:講演の要領

 おすすめ:扇谷正造<聞き上手・話し上手>、遠藤周作」「生き上手 死に上手」は、共に参考になると思います。

2017.10.17:「聞き上手の人ーI.Yabukiさんー」と「聴衆に話す上手な方法」をまとめた。 



21

「できないこと」と「しないこと」ー大塚全教尼ー>


石川 洋『人生逃げ場なし』(PHP)をよんでいますと、厳しい言葉に出会った。P.92

 大塚全教尼という方がいらっしゃる。この方は、小児麻痺で、右手は全然使えない。左手も手首にわずかに感覚が残っているだけだ。

 それこそほんのわずかなのことしかできなきなかったが、絵が大好きで、左手で絵を描いていた。京都に両手のない大石順教尼がおられることを新聞で知り、京都は藝術の町、日本画家もたくさんおられるし、同じ障害者としての順教尼に絵を教えていただこうと、娘時代に、京都を訪ねた。

 次の日の早朝絵を教えていただこうと思っていたら、先生が開口一番、「大塚、きょうは最初にお便所の掃除をしてくれるか」とおっしゃつた。全教さんは、便所掃除はおろか、部屋の掃除をしたこともない。びっくりして、「私には便所掃除はできません」といった。

 「できないなら仕方がない。それなら、この家で便所をつかっちゃならぬよ」とおっしゃる。それは、家に置かないとということだ。絶対絶滅、必死の思いで「先生、本当にできないのです。一体これからどうしていったらいいのか教えてください」とお願いした。

 すると順教尼が、「大塚、お前はできないんじゃなくて、しないんだ。これから私のいうことをよく聞きなさい」といって、井戸端へ連れていった。小さな金だらいを口で持ってこられて「大塚、これなら持てるか」「それくらいなら持てます」「手押しポンプの柄をちょっとでも押せば、この金だらいにたまる水くらいは落ちる。あんたの持てるだけの水を入れて、お便所のそばのバケツまで運びなさい。初めから人と同じようにやろうとするからできないんだ。半日かかってもいいからやりなさい」と、先生に足でお便所の掃除をすることを教えられた。

 私たちは、物事を実践する場合に、「できないこと」と「しないこと」を混同しすぎている。できないことの理由を並べて、自分をごまかしてしまう。そういう逃げがあるから、本当の自分を見つけることができない。

 人によっては、本当にお便所の掃除ができないかもしれない。けれども、しようと思ってできないことと、何もしないことは違う。一生懸命やってできたという小さな体験が、一つのことを成し遂げたという感動を与えてくれる。

 人はなかなか厳しくはおっしゃらないし、そういう先生にめぐり合うことも至難である。しかし、常に自分で自分にいい聞かせて、できないことは、しないことの怠りとして、なし得る努力を少しでも積み重ねていくことが大切である。

▼この話を抜き書きしていますと、私が、以前「ハガキ通信」のなかの一通に今は女は画れりを書いたことを思い出した。石川 洋さんのお話に共通するものがあり、上司からの厳しい教えだったと。

 階段には一直線のもの、踊り場のあるものと螺旋階段がある。私は螺旋階段を見ることが好きです。一周すると、そのたかさの違いがあるとしても、上にあがっているのは間違いありません。私達の実践のよろこびを感じさせてくれるものを表わしているようだから。

平成二十三年三月七日



22

正坐して話す外国修行者


 日曜日坐禅会が終わり、小方丈で茶礼(されい)(抹茶を戴く)がある。その時、宗教に関連したことなど老師に教えていただいたり、老師が諸外国に禅堂を開かれているので、それについてのお話をしてくださることもある。清らかな雰囲気に包まれて、皆さん耳をかためけている。その間、約1時間、皆さん正坐している。

 小方丈は障子で仕切られている、ある冬の日曜日、閉め切った部屋でお話を聞いていたとき、私がみたのは、外国修行者の一人が正坐して障子を開いて老師に取り次いでいた。日本の家庭では滅多に見られなくなった振る舞いを外人がと思った。

 中野幸次著『現代人の作法』(岩波新書)1997年4月21日第1刷発行 P.176 に以下のことが書かれていた

テレビドラマの中の作法

藤沢周平の小説がすきだから、その『三屋清左衛門残日録(みつやせいざえもんざんにちろく)』がNHKでテレビドラマになるというので、テレビ嫌いのわたしもそれを見たが、見る度に腹が立つので数回で止めてしまった。脚本ではほぼ原作に従っているらしいのに、出演者の立居ふるまいがまるでなっていないからである。

 老清左衛門が畳に正坐して話しているのに、三十にもなる伜(せがれ)が刀を持ったままつっ立って聞いているなんてシーンが、平気でながながと放映される。こんなのはディレクター氏がほんの僅かでも想像力があれば、ありうべからざる行為であるぐらいすぐわかるはずだ。武士の子供は幼児から親の話を聞くときはきちんと正坐し、両手を膝にのせて、親の目をしっかり見つめながら聞くように躾けられている。そのごく当り前のことさえわからないのは、つまり彼は親からその常識的作法を教えられたこともなく、ふだん自分もつっ立ったままやりとりしているからであろう。

 一事が万事、当然心得ているべき作法の一つ一つがなっていないから、見るだけで腹が立つのであった。

 しかし、顧(かえり)みるに、作法のこの当然の常識と非常識とのあいだの落差にこそ、戦後五十年の日本社会があるのであろう。

 結局すべての原因は、一九四五年の敗戦で自信喪失し、価値基準を見失った親の世代が、権威と自信を以て子供たちに是非善悪、正邪の見きわめを教えてこなかった、人間のあるべきようについて自分の信念を伝えられなかったところにあるということであろう。親自身が信念を持てなくなったのだから仕方ないが。そしてその親から何も教えられなかった子が親になっても、結局は親と同じく真の自信と権威をもつて人間はこうふるまうべしという基準を子らに伝えられず、その繰返しが、今日のこの無作法の時代を招来してしまったのだと思われる。

 中野さんはわたしよりわずか先輩である。冒頭に述べたお寺では、日本人をはじめとして、外国修行者も正坐して話をしているのだから、テレビドラマで伜が正坐して話すことができないはずはないのだがと思う。

 昨日、ある会社の上司と女子部下の二人の来客があり、坐りテーブルに向き合って話しをした。はじめたときは正坐をしていましたが、しばらくすると、上司は膝をくづし、女性は横坐りのかたちにくづした。わたしは多くの人は場合によっては正坐ができるのだが、住いがソファーのあるような和洋折衷のかたちになり、椅子やソファーに坐ることが多くなっているためによるものだろうと思った。

 中野さんは「あとがき」に……だから一概に昔の作法を復活させよといっても仕方ないことで、作法もまた時代とともに新しい姿を造りつづけなければ、いのちある作法とならない。だから新しい作法をこれから創りだすしかないのだが、戦後五十年間、日本では昔からの作法を美徳をことごとく封建的として破壊してしまった。壊すだけ壊しておいて、それに代わる新しい規範、作法を創りだしてこなかったところに今日の混沌状態がある、とわたしは思う。が、作法とは倫理観の形にあらわれるものである。そのもとにある倫理観を新しく創造せずして作法だけを正すことはできないと書かれている。(後略)。

参考:テレビドラマの中の正座



23

ウワサ話を聞いたら


 はなしているとき、噂話を聞くことがある。良いもの・なんでもないもの・あまりよくないものとさまざまである。

 その時に「ここだけの話だが○○さんについてこんな話ですよ」と耳打ちされることがある。あまりよくないものが多い。

 そんな話は、その人は他の人にも同じセリフで話していて、さらに尾ひれが付け加えられて口伝えされて多くの人に伝わっているいのではないかと思う。

 たとえば、伝送ゲームを思い出してみれば分かると思う。数人の集まりで、その一人が短い文章を隣の人の耳に入れる。これを書き留めておくとよい。そして次の人にと、次に前の人の文章を伝えて、最後の人がききとった文章を皆さんに云う。そうすると、書き留めていたものとかけ離れたことが披露されることになる。元の文章は正確につたわらないようである。

 元NHKのアナウサー:鈴木健二『心豊かにする一日一訓』(日新報道)に次のようなことが書かれているP.238

"口と財布は閉めるが徳"とか、"口は善悪の門、舌は禍いの根"という諺があります。
 自分で生きる力が弱い人は、他人と比較して生きていて、他人のウワサを気にします。ウワサウワサ話をしている人の顔は最も醜いものです。ウワサ話の中からは、ソッと席をはずすことが賢明である。

 鈴木さんの言われるように席をはずせない時はどうすればよいか。私はウワサ話は自分で確かめようともしないで聞き流して忘れてしまうえばよい。そして聞いたことを誰にも話さないのがよいと思う。

 ウワサ話をした後で、何か後味が悪いことがあります。その時はだいたい、他人のウワサ話をした時です。

 ウワサ話で、第三者のことをよくいう場合は少ないものです。他人の上げ足取りであったり、足の引っぱり合であったり、他人の欠点をあげつらって喜んでいる場合が多いものです。 

 このようなウワサ話は、だいたい当事者だけでは終わりません。同じような話が、あちらにもこちらにも広がって行くのです。広がって行くたびに、話に尾ひれがついて誇張されて行きます。そしてウワサ話をする時は、自分の口から出たことになると、後で責任問題とか後ろめたさを感じるのか、必ずウワサをし合った相手のな前をだします。「○○さんもいっていた」、それが次には「○○さんがいっていた」と変ってしまいます。

 ウワサ話はこれが怖いのです。ウワサ話をしていたら、やがて、その話の責任はあなたのところに返ってきます。ウワサ話が始まったなと思ったら、ソッと席をはずす方が賢明です。

 よく"内緒話"というのがあります。「ここだけの秘密よ」「あなただけに話すことだから他言したらダメよ」という話です。これは、秘密で終ることは絶対にありません。内緒話は、"大いに広めて下さい"とダメ押しをしているようなものです。本当に内緒にしておきたかったら、自分自身で秘密にしておくべきです。

 仏教の戒めの中で、ことばに関するものが四つあります。それは、不妄語(ふもうご)(うそをいわないこと)、不綺語(ふきご)(人にも自分にも背かないことばを話します)です。不悪口(ふあつく)(他人を傷つけないこと)、不両舌(ふりょうぜつ)(人にも自分にも背かないことば話す)です。

 この四つの戒めを守って話ができる人が、他人から信用され尊敬されるのです。

平成29年4月18日、追加した。



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姓を覚えてよびましょう


 優秀なリーダーと平凡なリーダーは紙一重の差であると言われます。どこが違うかというと、優秀なリーダーは、どんな火急の際にあっても、部下を決して代名詞で呼ばないことだそうです。おいとかお前とか君などと言わず、必ずな前を呼ぶそうです。一刻を争う場合でもそうなのですから、ふだんは尚一層であろうと思われます。もちろ部下だけではなく、どなたにもそうであるし、どのような事柄に対しても、しっかりした記憶力と、それをとっさに行使できる頭の強さを持っているのです。

 無駄なことは覚えないなのも、記憶力を強めるもとです。私たちはほとんど人々には役に立たないようなつまらない事柄ばかりを、実にたくさん頭の中にしまい込んでいるものです。記憶力の強い人というのは、記憶しようとするときに、これが必要これはふ要という取捨選択が、無意識のうちにできているようです。

 そのために何が大切かと言えば、人の長所を観察する力を養ったり、良きものを見ようと心がけることにあるようです。自分の中に、人間の美しい心の世界を描くことのできる強烈なロマンを持ち合わせているのです。私が記憶力とは、人間がいま、自分が確かにこの世の中に存在しているのだという事実を認めることのできる最高のロマンであると主張してやまない理由はここにあるのです。

 リーダーには勝利に向う理想と情熱が必要ですが、その根源には、人間の美しき行為や心情を感じ、自分の頭脳の中にそれを印象づける記憶力とその総合力がなくてはならないのです。勝った囲碁の局面に並べられた石は常に美しいと言われるように、総合された記憶力とは、人間を美しく存在させるエネルギーを持っているのです。鈴木健一著『記憶力のすすめ』p.256より

※私は、自分の名前を呼ばれて驚いたことことがある。

 昭和19年10月、海軍兵学校に入校した時である。江田島の507分隊に3号生徒として20人が配属された分隊の自習室でのことである。1号、2号生徒31人全員と初対面の自己紹介があった。

 <黒崎生徒!出身中学、姓めい申告しろ>と言われたのである。

 それを耳にした時、自分を疑うほど、なぜ私の姓がよばれたのであろうかと。

 後ほどその理由が分かった。それは入校試験に写真を提出していたのである。これが配属先の分隊に配布されていたからであった。

 翌20年4月、私は2号に進級して、新入生徒をむかえることになった。そのとき、新入生の写真をみることができた。私の対番生徒は「川田 平生徒」(旧制:大阪高津中)だった。

 兵学校ではこのように指導者としての訓練をしていたのである。

★時は流れ、平成24年1月、新人の女の子がスーパーのレジに立つようになった。当初は緊張と不慣れのためか、かたい表情で仕事をしていた。な札には「結城」とかかれていた。

 何度かその人のレジを受けているうちに、動作が早くなっていたが、表情はあまりかわらなかった。

▼最近、その人に私から「結城さん! 仕事に慣れて、テキパキしてきましたネ」とはなした。

 驚いたことには、顔がほぐれて笑顔になり「おかげさまで慣れてきました、ありがとうございます」との返事で、買い物を袋にいれてくれた。

▼何度か顔を合わせている人から自分の姓を呼びかけられて仕事ぶりをホメテてもらうと、彼女ばかりでなくて誰でも励まされるものだと。

 自分のな前を呼ばれてその上にちょっとした仕事ぶり話しかけられると、本人のもつ自前のものが出て来るのでないかと。

 キャリバッグを引きながら気持ちよく帰りみちを、気分も気持ちも少し春めいたきた。

▼それから数日後、買い物に行く。レジはクローズされていた。近くで結城さんが仕事をしていた。「結城さんおはよう!」と声をかけると、クローズされていたレジボックスに帰ってきて処理して下さる。

 その時、「結城さんは岡山の出身ですか?」と尋ねた。

 「そうです」

 「僕には新潟出身の友人に結城君がいました」と話すと

 「ときどき、お客さんから新潟の人ですかと聞かれます。新潟には結城の姓の家がおおいようです」との返事。

▼姓を呼ぶことによって少しずつつだが話し合えるようになるのは不思議ですね。

 また、挨拶は「自分からさきにするのがよい」。さらによいのは「○○さん!おはよう」と姓を呼んでからするのがなおなおよい。

平成24年4月19日、平成29年4月25日追加。



25

笑顔を忘れない


 買い物に行っている店の若い女性は私が支払いをしてもらうとき、笑顔で計算して品物を手渡してくれる。

 また、買い物をして支払をしても、その年輩の店のおやじさんの女房である人は「ブスー」として金のやり取りをするだけである。

 どちらが気持ちが良いかは言うまでもないでしょう。

 アメリカでの話の「笑を忘れない」を紹介します D・カーネギー 山口 博 訳『人を動かす』P.68~より 

 私は、大勢の実業家に、目を覚ましているあいだは毎日一回ずつだれかに向かって笑顔を見せることを一週間つづけ、その結果を私の講習会で発表するように提案したことがある。それがどういう効き目を表したか、一つの例をあげてみよう。いま私の手もとに、ニューヨーク株式場外仲買人ウィリアム・B・スタインハートの手記があるが、これは別段珍しい例ではなく、同様の例は数えきれないほどある。

 スタインハートの手記の手記はこうだ――

▼私は結婚して十八年以上になるが、朝起きてから勤めに出かけるまでの間に、笑顔を妻に見せたこともなく、また二十語としゃべったためしもない。世間にもめずらしほどの気むずかし屋でした。

 先生が笑顔について経験を発表せよと言われたので、こころみに一週間だけやってみる気になりました。その翌朝、頭髪の手入れをしながら、私は、鏡にうつっている自分の仏頂面に言いきかせました。

▼「ビル、今日は、その渋面をよすんだず。笑顔を見せるんだ。さあ、早速やるんだ」

 朝の食卓につく時、私は、妻に「おはよう」と言いながら、にっこり笑って見せました。

▼相手はびっくりするかも知れないと先生は言われましたが、妻の反応は予想以上で、非常なショックを受けたようです。これからは毎日こうするんだからそのつもりでいるようにと、私は妻に言いましたが、事実、今では二ヵ月間それがつづいています。

 私が態度を変えてからこの二ヵ月間、かつて味わったこともないおおきな幸福が、私たちの家庭におとづれています。

▼今では、毎朝出勤する時、私はアパートのエレベーター・ボーイに笑顔で「おはよう」と言葉をかけ、門番にも笑顔で挨拶するようになりました。地下鉄の窓口でつり銭をもらう時も同様。取引所でも、これまで私の笑顔を見たこともない人たちに、笑顔を見せます。

 そのうちに、皆が私に笑顔を返すようになりました。苦情やふ満を持ち込んで来る人にも、私は明るい態度で接します。相手の言い分に耳を傾けながら笑顔をわすれないようにすると、問題の解決もずっと容易になります。笑顔のおかげで、私の収入は、うんとふえてきました。

▼私はもう一人の仲買人と共同で事務所を使用しています。彼の使っている事務員の一人に、好感のもてる青年がいます。笑顔の効き目に気をよくした私は、先日その青年に人間関係について私の新しい哲学を話しました。すると、彼は、私をはじめて見た時はひどい気むずかし屋だと思ったが、最近ではすっかり見直しているのだと、正直に話してくれました。私の笑顔には人情味があふれているのだそうです。

▼また、私は、人の悪口を言わないことにしました。悪口を言うかわりに、ほめることにしています。自分の欲することについては何もいわず、もっぱら、他人の立場に身をおいて物事を考えるように努めています。そうすると、私の生活に文字どおり革命的な変化がおこりました。私は以前とはすっかりちがった人間になり、収入もふえ、交友にもめぐまれた幸福な人間になりました。人間として、これ以上の幸福は望めないと思います。

▼この手記を書いた人物が、ニューヨークの場外株式仲買人といえば、とてもむずかし商売で、百人のうち九十九人までが失敗する。その危険な商売で世渡りをしている世知にたけた人物が、この手紙を書いたのだから、意味が深い。

▼笑顔などを見せる気にならない時は、どうすればよいか。方法は二つある。まず第一は、無理にでも笑ってみることだ。ひとりでいる時なら、口笛を吹いたり、鼻うたを歌ったりしてみる。幸福でたまらないようなふうにふるまうのである。すると、ほんとうに幸福な気持ちになるから妙だ。


 いつも買い物しているスーパー・マーケットで、笑顔を絶やさずにレジをしてくれている若い人がいた。平素、私は黙って支払を済ませていました。以上の記事を読みまして、ある日、レジが終わり商品を渡されたとき、思い切って、「春名>(首から掲げているな札の姓)さんに「春名さん! 貴女の笑顔は美しいネ」と思い切って言ってみた。「ありがとうございます」の笑顔での挨拶が返ってきました。

 知人の一人に「おはよう」のあいさつは人より先にを実行されています。笑顔でされているかは聞いていませんが家庭円満の秘訣なのではないでしょうか。 

平成24年4月28日



26

逆ギレ時代の対話術


 私服で登校してきた中学生を見かけた先生が注意したら、殴り・蹴るの暴行をしたので警察に電話して取り押さえてもらった。また、街で服装が乱れているのを通学している中学校の先生に注意された生徒が先生暴行を働き、通報された警察官が逮捕した。生徒の言うには「腹が立ってカッとなりやりました」とのこと。

▼東京では電車の駅のエスカレーターに乗っていた人の間でイザコザがあり、後ろの人が前の人をナイフで刺して負傷させ逃走。その通路に取り付けられている防犯カメラに寫されてていた写真が公開され、その後逮捕された事件があった。

▼この3例とも、私が若いときには聞いたこともなく、考えられないような事件である。ナイフを持つて街にでかけているような人もいなかったと思う。日本は最も安全な国と言われていたが昔話となったのか……。

▼新聞から切り抜きしていたものに、こんな事件に関連したものとして、平成11年(13年以前)の記事を見つけ出した。

 注意したら、「ブチッ!」 "逆ギレ"時代のの対話術 の見出しで

▼マナー違反やミスを犯した人が、それを指摘した人に怒りをぶちまける――。こうした゛逆ギレ゛現象が広がっている。ストレス過多の昨今、だれもが胸の内に漠然としたふ満やふ安を抱えている。それが何かのきっかけで爆発し、理ふ尽な怒りになってしまうようだ。そんな社会を生き抜くには、逆ギレを起こさせないコムニケーション術を身につける必要がある。

▼「逆ギレ」は十代の若者たちが数年前から仲間内で使っていた言葉だ。頭にくることを彼らは「キレる」と表現するが、中でも怒られる立場の人が怒りだすことを「逆ギレ」と言っていた。広く知れわたったのは九八年(16年以前)一月に栃木県内の中学校で、注意されたのに腹を立てた男子生徒が教師を刺殺した事件がきっかけだ。ここまで大きな事件になるケースは珍しいが、ちょっとしたきっかけで怒りを爆発させる日常的な逆ギレは社会に広まっている。

▼話し方研究所(東京文京区)の福田健氏は「相手の性格に問題があり手の打ちようがない場合もあるが、注意の仕方次第では防げる逆ギレもある」と主張する。

 「現代人は他人に注意されるのに慣れていない」と。現代人は日頃から感情をぶつけ合う濃密な人付き合いに慣れていないので、表現能力が乏しく、何かを注意するときに一方的に相手を非難するような言い方になりがち。それが逆ギレを誘発する原因にもなっているというのだ。

 福田氏は上手に注意するコツとして
①最初の問いかけにユーモアを織り交ぜ心理的距離を縮める
②言い返されても感情的にならない
③相手に非があっても居丈高にならない――などを挙げる。

▼いざこざにに巻き込まれたくないからと、ふ快な場面に直面しても、黙って我慢してしまう傾向が最近は強い。精神科医香山リカ(インターネットに記載されている)さんは「何も言わないでいると、社会や人間の変化や成長のきっかけを失う」と言う。

▼正義感の強い人がふ快な場面に出合い注意すると、身体的被害を受けたりする例が多いので我慢しているか、残念ながらその場から離れるのが普通になっているのではないかと思う。

参考:インターネットによれば、(株)話し方研究所が掲載されている。

平成24年6月06日



27

後ろ姿を見て学ぶ


 人の顔は背中に描かれているといわれる。考えれば考えるほど"後ろ姿を見て学ぶ"はよいことばである。

あるときは、会社の上司から、また友人から、先生から、両親から、知人からの後ろ姿で学び育まれてきた。

▼たとえば、こういう話をよんだことがある。評論家の唐島基智三のばあいである。

 唐島さんところは一人娘である。きれいなお嬢さんであり、唐島さんご自慢の娘さんである。年ごろになって恋人ができた。聞いてみると文章書きだ。作家志望というけれども、そのな前は聞いたこともない。世間にザラにある文学青年ということだったでしょう。なにしろ、唐島さんといえば、高めいな評論家である。美人の娘さんだ。その気になればどんなオムコさんでも、よりどりみどりである。ある日、父親が聞いた。

 「どうして、その青年が好きになったんだい」

 すると彼女は、こう答えた。

 「子供の時分から、私は、お父さんのモノを書く姿を見て暮らしてきました。お父さんの机に向かって、原稿を書いているうしろ姿が、いつも素敵と思ってきました。彼もお父さんと同じ物書きなんです。有めい、無めいの違いはあるかも知れませんが、私は、かれの後ろ姿にひかれたのです」

 唐島さん、これには、まいったといっていましたね。扇谷正造『吉川英治氏におそわったこと』(六興出版)P.90より。

 もう一つ、同じような話があります。前一橋大学長の増田四朗教授の場合です。

▼岡山の曹源寺の原田老師が、ご自身のお寺の用事で京都のお寺に使いにやられました。その時、偶然に山田無門老師の後ろ姿を見られて、なんとも言えないものが感じられて、その後、後について行き着いたところは妙心寺であった。その後、お弟子さんになられたと、老師からお話をききました。

▼私は小学校4年生のとき、転勤してこられた亀田先生の出会が私のクラスの担任となりました。この出会いが子供でありながら、「転機」となったのであります。先生は「いま いま を本気に」と墨書された色紙を黒板の上に掲げられました。そして子供を差別されることなく、また貧乏で制ふくがボロボロの生徒に新しふくを買って贈るといった先生でした。「ヤッテミセル」ことが「後ろ姿を見せる」手立てだと思います。先生はわずか1年間で転勤されていまは知る由がありませんが当時の教室の先生と私どもの風景は深く深く刻み込まれています。

参考:唐島基智三は1906年1月1日 - 1976年7月30日)は、政治評論家・ジャーナリスト。

 広島県竹原市出身。旧制忠海中学(現広島県立忠海高等学校)、第六高等学校、東京帝國大学法学部政治学科卒業(1928年)。

 東京帝國大学卒業後、国民新聞社入社。編集局長などを経て1940年退社。1943年東京新聞社(現中日新聞東京本社)に移り理事、論説委員長。

平成24年8月13日



28

回り道すれば何かがある


 私は脚が少し弱っているので、できるだけ、朝の散歩をこころがけている。我が家から百川(参考)まで往復30分である。この土手に立つと、展望が360度もある。

 東は岡山市西大寺のまちと周辺の田畑が広がっている。西側北側は操山(みさおやま)更に遠望の山並みが続いている。南側は児島半島が東に延びて美しい景観となている。

 以上の百間川に至るには大きな通路が一つだけである。その大きな通路には横道が沢山ある。

▼私は時折横道を廻り道することがある。そうすると思いかけない様子に出会う。

 たとえば、手入れされた庭、また庭に季節の花を咲かせているお庭に出会う。そんな場面に出会うとカメラを向ける。ときにはその家のご夫人が手入れされていて、お話をすることがある。

 回り道をしたおかげである。

▼散歩から一転して私の過去をふりかえってみると、私も回り道をしている。

 旧制中学の五年生で海軍に入る。終戦後二年間、就職したのち、旧制専門学校に入る。中学の同級生は、旧制高校・旧制専門学校の三年生。

 完全に回り道をしていたのである。その間、就職先の国鉄(JR)で私が担当していた仕事の内容をしることが出来て、いまだにJRには関心を持っている。

 また学校では、中学同級生だった友人が、たとえば物理化学・有機化学などの授業中に書き込んだノートを貸してくれる。それを読んでいると全く同じ内容の授業をしている教授がいることも分かる。

 この一見、回り道は、二年遅れしたクラスの同級生が友達になる。また当時の就職難も体験していたから、勉強にも熱がこもる。

▼卒業は昭和25年であったが、40人のクラスで、なのある企業に就職できたのは約10人であった。回り道した私は卒業と同時に就職できた。

参考:内田 百間(うちだ ひゃっけん、1889年(明治22年)5月29日 - 1971年(昭和46年)4月20日)は、夏目漱石門下の日本の小説家、随筆家。本めいは内田 榮造。

 戦後は筆めいを内田 百間と改めた。別号は百鬼園(ひゃっきえん)。

「百間」は、故郷岡山にある旭川の緊急放水路である百間川から取ったもの。別号の「百鬼園」を「借金」の語呂合わせとする説もあるが、本人は一応のところ否定している。

 迫り来る得体の知れない恐怖感を表現した小説や、独特なユーモアに富んだ随筆などを得意とした。後輩の芥川龍之介に慕われたほか、師である夏目漱石の縁故から夏目伸六と親交が深かったことでも有めい。

平成24年8月24日



29

「道はちかきににあり 遠きにもとむ」


 尊敬している方と、日曜日、ときおり昼食会をしている。その時に読書についてが話題となり、特に蔵書に話が及んだ時、「道はちかきにあり とおきにもとむ」ことをしていますね!と。自分がもとめあつめた本棚の本を開くと、かなり勉強になると話していたときにでたことばであった。

 私の場合、その理由は、手もとにある本の内容を忘れてしまっていること(しばしば、まるで新刊書のようである)、その次には年月が経て自分も、本の読み方も変わってきていることだろうと。

 次に話題になったのは、岡山県立図書館(岡山県庁のすぐ前にある)は日本一の利用率である。そして、そこで働いている人が親切である。自分が読みたい本が貸し出されているのはしかたないとしても、所蔵されていない場合は、調べて、例えば国立図書館にあれば取り寄せてくださる。多くの図書館とのネットの素晴らしい。本をよみ、研究する人にとってこんな親切はこの上ないありがたいことである。

「孟子曰く、道は爾(ちか)きに在り。而るに諸(これ)を遠きに求む。事は易きに在り。>而るに諸を難きに求む。人人その親を親として、その長を長とせば、天下平らかなり、と」

明治書院『新釈漢文大系 4』(離婁章句上)(P.258)
 人が行うべき道は、ごく手近な所にある。だのに、それをわざわざ困難な中に求めようとしている。まことに考え違いの甚だしいことである。(後略)

 こんな話を読んだ事がある。神戸の中学校の田中校長先生が、荒れた学校に赴任。そこで、先生は校舎外のゴミを拾いはじめました。所が一向に減らない。しかし先生は拾い続けいますと、何カ月かたったある日、先生が紙屑を拾い続けていると、少し前方の二人の子供がいて先生に石を投げはじめた。先生には当たらないように投げつけていることにきづきました。先生は子供を呼び止めてしかることをしませんでした。逆に「子供たちはかわいものだと、自分に近づこうとしているのだと」とおもいました。他の教員も掃除をしていると、一緒に紙屑を拾い出す子供もでてきて、教室の雰囲気も自然に変わってきたと言う。参考:石川 洋『逃げ場なし』P.152~

 まさに、孟子の言葉どおりではないでしょうか。

平成二十三年三月十九日、平成二十三年八月九日再読。



30

貴女はリーダーですね!


 貴女はリーダーですね!

 食料品の買い物に大手のスーパーマーケットへ毎週3度は通っている。

 レジで支払をするとき、一人の女性レジスターがいつの間にか目にとまった。自分の仕事を几帳面にこなし、新らしい方々の相談をうけたりして、丁寧に説明をされていた。


 ある日、その方に

 「長い間、おつとめですか?」

 「長く勤めています」

 「貴女はレジのリーダーですか」となずねました。

 返事はありませんでした。私には店長に信任されているように思えた。

 数日後、その人と店内のレジの近くで見かけますと、そのかたも私に気づかれて笑顔の会釈をされました。

 うえのような、なんでもないと思われる会話のやり取りから、彼女は「自分が人様からどんな受け取られ方をされているか知ることができた」のではないでしょうか。

▼「リーダーシップとは何ぞや」と大上段にふりかざすつもりはありませんが、

 職場の上司は細かいところまで<こころくばり>して、いい点をみつけたら、それを本人に知らせることで、その言葉が力になるとおもいますと。

 以前読んだことをおもいだした。

▼アメリカの<ジョンソン・エンド・ジョンソン>の会社の社長さんは、職場をまわっているとき、「○○君、家族のみなさんはかわりないですか」「○○さん、子供さんはどうなっていますか」と、一人ひとり声をかけられたと。

 Wikipediaでこの会社調べると、

▼ロバートウイき・ウッド、ジェームス・ウッド、エドワード・ミードのジョンソン三兄弟が創業。滅菌の概念を世界で初めて製品に導入。50年以上10%成長を続けている。家庭用のバンドエイドや綿棒、ベビーオイルから医療機関で使用する医療機器、薬剤、薬、コンタクトレンズのアキュビューなどを製造販売している。一般企業の社訓にあたるOur Credo(我が信条)が有名。

 ジョンソン・エンド・ジョンソン (Johnson & Johnson、NYSE:JNJ) は、アメリカ合衆国ニュージャージー州ニューブランズウィックに本社を置く製薬、医療機器その他のヘルスケア関連製品を取り扱う多国籍企業。米経済誌フォーブスの世界企業ランキングでは製薬ヘルスケア部門で世界第2位(第1位はファイザー)。

 日本にも「ジョンソン・エンド・ジョンソン」という会社があります。

 今では個人情報の保護が盛んに主張されて、この会社の社長さんの発言は問題視されるかもしれません。しかし、社員のことを常に考えてくれていると感じれば当然会社の繁栄は想像に難くない。

平成25年8月20日