★自 分 史 | |||||
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からだを傷める | 生きる 前田達治自伝 |
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其の一 一号が下級生を「締める」とき、いちばんよくつかった文句が三つあった。 一つが「娑婆気満々」、二つが「いいわけをするな」、三つが「心に恥ずる」である。 入校当時よくいわれたのが「娑婆気満々」、二つが「いいわけをするな」であった。 では、「娑婆気満々」とは何なのか、 これは、昔の気位の高い武士が、町人は利己的で、打算的で、狡くて、卑しくて、柔弱で、軽薄で、生意気で、だらしがない下賤なヤカラである、それを「町人根性」というなどと、偉そうにいっていたのに似ていた。だから、 「貴様らの態度は娑婆気満々、兵学校七十余年の光栄ある伝統は傷つき、兵学校の名誉は地に堕ちた。ただいまから……」などとどなられ、ぶん殴られるのであった。 しかし三ヵ月、四ヵ月たつと、娑婆気たっぷりの三号たちも、見た目には「娑婆気」が抜けて、すっきりした兵学校生徒らしくなってくる。 しかし、中身まですっかり「娑婆気」が抜けて、神様みたいな「海軍サムライ」ができるわけではなかったし、また、ほとんどの生徒が、最後まで、そうはならなかったという気持ちがする。またそれが自然で当たりまえであろう。 だから、「娑婆気」も理念が空想的で、合理的ではないから、形式的ワンパターンという欠点があった。 戦争では、敵にたいしては利己的で、打算的で、狡くなければならないだろうし、場合によれば、卑しくて、柔弱で、軽薄そうな要素も必要かもしれない。 七十四期の梶吉秀典は、期会誌『江鷹(こうよう)』昭和五十七年十月号に、つぎのようなことを書いている。 ━━入校してたしか一週間目と記憶するが、ある一号に『自習止め後、○○分隊自習室にこい』といわれた。理由は、体操訓練開始五分前に遅れたということだった。 しかし、これは、やむをえないものであつた。体操訓練前の課業が長びき、終わったときはすでに五分前を過ぎていて、間に合うわけがなかったのである。 だから、理由を説明すれば誤解も当然とけると思い、悠々と○○分隊に出頭した。そこには一号が全員で私を待ちうけており、異様な雰囲気であった。 例によって姓名申告をさせられたあと、五分前に遅れた理由をただされた。そこで、堂々と(?)物理的に間に合わなかったと、その正当性を主張した。ところが、 『それが娑婆気というものだ』『いまから貴様の娑婆気を抜いてやる。脚開け』と、口々にいわれた。 理由に合わないので、昂然となって、いささか反抗的姿勢を示したとたん、一号生徒全員の嵐のごとき連続鉄拳制裁をうけるハメとなった。 その夜、巡検が終わり、便所に行く道すがら、寝室を出て、対岸の呉方面を望みながら、とんでもない学校に入校したものだと、望郷の涙を流したことを記憶している。 やがて、軍隊の命令にいちいち理由の解説までつけていては、歯車がまわらない組織の原則を理解できるように肌で覚え、有難く鉄拳を頂戴することにも抵抗を感じなくなり、鉄拳制裁で一挙に全てのミステークが清算される男らしい晴れ晴れした気分にまでなった。━━ ここで梶吉が「娑婆気」といわれたいちばんの原因は、おそらく、「自分が正しい、あなた方に叱られる理由はない」という生意気な態度と見られたことであろう。 一号たちは、自分たちの非はいっさい認めない。非はつねに下級生だけにあるというように育っていたのである。だから、堂々といわれると、自分たちの威信が傷つけられたと感じ、カットとなったのであろう。 こういうところは、兵学校の一号の欠陥の一つであった。しかし、たとえ梶吉が低姿勢に出たとしても、一号たちが、ただで帰すことはなかったにちがいない。なにか難癖をつけて、程度の差はあっても、梶吉はたぶん殴られたであろう。 その後の梶吉は、兵学校、あるいは軍隊はそういう不条理なところだと達観したのか、道理に合わない殴られ方をしても、腹を立てなくなったらしい。 これが私だったら、「いくら一号だからといって、こんな不条理なことをやっていいのか」と、あとあとまで怨みに思ったにちがいない。 ※写真の本から引用。 平成二十八年十一月十七日
其の二 「いいわけをするな」ということも、「娑婆気」とおなじように、入校のときからさかんにいわれた、またそのたびにおなじように殴られた。 しかし、こちらの方は、現実的で合理的だった。いいわけは、どこの社会でも嫌がられるし、いう方にも聞く方にもプラスにならないからだ。 「サイレント・ネービー(沈黙の海軍)」というのは、「いいわけをするな」から発生したのではないかとさえ思われる。 しかし、これもゆき過ぎて短所になっていた点があるので、それを指摘しておきたい。 梶吉の場合は、正当な理由を説明して、「いいわけをするな」とはいわれなかったようだが、そういうばあいでも、かならず「いいわけをするな」という一号がいた。 梶吉は、そのことがあってから、おそらく一号にトガメられたとき、たとえ正当な理由があっても、それをいわず、せいぜい、 「ボヤボヤしていました」といって、一号の自尊心に触れることを避け、軽く殴られる道をえらんだのではなかろうか。私もそうした。 しかし、これは一見、男らしいようで、じつはウソをついて一号をだますことだから、「いいわけをするな」といって、ウソつき人間をつくることにもなったのである。ウソつき人間をつくるほどでなかったとしても、正当なことをいう習慣をなくすようにしたといえる。 だから、一号がたとえ明らかにまちがっていても、それに反論するなど、とんでもないことだった。そんなことをすれば、一号たちの袋だたきにあい、バケ猫みたいな顔になるのが、関の山だった。 一号は下級生にとって、「神聖にして侵すべからず」の存在であった。それだけに、一号になれば天上天下唯我独尊で、「こんないい身分はない」と、わが世の春を謳うのであろう。 極端にいえば、一号は権力の座にあぐらをかき、固定観念と権威主義で下級生たちを抑圧していたのである。 下級生にもいいたいことをいわせ、それを感情ぬきで検討するような習慣があったら、兵学校も、もっといい学校になっていただろう。 兵学校出身士官が他科の士官や下士官・兵の間で、「気位ばかり高くて、人の意見や気持ちを尊重しない」といわれることがときどきあった。 それには、兵学校時代の教育・習慣が、かなり影響していたにちがいない。 「サイレント・ネービー」は、美徳といわれている。しかし、いうべきことをいわずに、結果を悪くしたという点も多々あった。これも、権力や権威にたいしてさからわない、という兵学校での習慣が影響していたようだ。 七十二期の沢本倫生さんは、戦後、東大工学部を出て、有名会社の技術部門で長年働いたが、こういっている。 いいのがれは悪いが、事実を述べるのはいいことだ。ところが私は、兵学校でのクセが抜けないので、誰かによって上司にザン言されたことがわかっていても、いいわけするようで、釈明する気になれなかった。 また、他人の機嫌をとるように物をいうのはいやらしい気がして、ほんとうだと思うことばかりいって疎んぜられたと思う。兵学校出身者は、世間の常識を知らず、ずいぶん損をしていたのではなかろうか」
其の三 三つめの「心に恥ずる」について、もう一つの逸話を紹介する。 七十七期の乾尚史さんは、『海軍兵学校の最後』(至誠堂)で、それをくわしく書いているが、要点だけをお伝えする。 ある日、週番生徒より、本日、三〇三講堂を使用した教班の者は、全員、自習中休みに週番生徒室に集まれと命ぜられた。 乾生徒たちは、その講堂をつかっていなかったので、練兵場へ出て号令演習をしようとした。ところが、一号のM生徒が、三号たちをよびとめ、 「今日一日の課業時間中の言動で、心に恥ずるところのなかろはずがない。三号は全員、週番生徒室にいって、そいつを直してもらってこい」と命じたので、三号たちはそこへいった。 いってみると、三〇三講堂をつかっていない他分隊の三号たちも多数来ていて、腑に落ちない顔をしている。前方には、数名の週番生徒が肩を怒らせて立っている。まもなく、中央の週番生徒がお達示をはじめた(この後は原文から引用)。 ━━本日、貴様たちの使った普通学講堂を点検してみたところ、三〇三講堂に、なんと鉛筆の削りかすが落ちておった。 「何たる事か!」 「全く以て、言語道断」 「まさに、海軍兵学校開校以来、初めての不祥事件だ」 「一号は、呆れて、ものもいえ━ん」 「開校以来、塵一つ落ちていたことのなかった、兵学校七十余年の伝統は、貴様たちによって無惨にも破られた」 「一号生徒は泣くに泣けん」 「その通り」 「講堂の床は、軍艦の甲板に通ずる。甲板に塵埃を放置したら、一体どういうことになるか?」 (中略) 遂に鉄拳の雨となる。 現実に削りかすを捨てたる者は鉄拳を受けて然るべし。かかる者を出したる教班員も是非なからん。されど何ゆえ我らまで鉄拳を受くる要ありや。連帯責任となすも、心に恥ずるところありとなするも、あまりに拡大解釈というべきなり。━━ 兵学校には、このような光景が、七十四期の三号時代にも、あるいはもっと以前からも、ときどきあったのである。 平成二十八年十一月十九日 |
いいか、よく聞いておれ。二度と言わんぞ!
四号(海兵では最下級生徒)のとき、こういうセリフを一号(最上級生徒)からよく聞かされた。 今から考えてみると、これは大切な心がけである。風浪の激しい海上で作業するのに、何度も繰り返さないとわからないようでは心もとない。戦闘は、一瞬の間に勝機をつかむ必要がある。上官の命令は緊張して聞かなければならない。 これは現代にも通用する大切な心がけであろう。自由教育がヘンにゆきわたったため、先生や親の言うことをロクに聞いていない若者が多いようだが、肝心のところは、よく聞いておくべきである。彼らが物を言う立場になればわかる。二度も三度も同じことを言わなければわかってくれないようでは、腹立たしさを通りこして、情けなくなってくるであろう。 それと同時に、物を命ずる方も、要点を簡潔に伝えるべきである。わけのわからんことをだらだらと続けるのでは、相手も当惑する。(以下略)
豊田穣『江田島教育』(新人物往来者)昭和四十八年七月発行
著者略歴:海兵68期(私より8期先輩)、昭和17年、飛行機を操縦して攻撃中、撃墜されてアメリカ軍の捕虜となる。昭和21年帰国。
伝統は受け継がれ私が生徒の時代にも同じことを聞かされた。 さらに付け加えると、「待て!」という言葉である。校内で歩いているとき、後ろからこの言葉が飛んでくる。するとその場で、振り返りもしないで、直立不動している、声をかけた上級生が、目の前に来て、声をかけた生徒に注意すべきことを伝える。それが終わると「掛かれ!」と解放される。上級生も下級生にもなにもわだかまりはのこらない。 ▼その場で直接みたことを注意した方が良いのは当然だと思う。注意されても紊得できる。後で注意されても忘れていたりする。その場で実地教育になるのは確かである。現在はどうだろう。マナーに欠けた人に注意する人を見ることもすくない。時に逆恨みして、危害を加えたりしている。なぜ「すみませんの一言」がいえないのだろう。 平成二十三年五月三十一日、再読。 |
貴様と俺
「貴 様」は、日常会話で耳にしたことはありません。「俺」は聞くことがある。 「貴 様」に似た言葉は書き物でどれだけ使われているだろうか。手紙などで「貴方様に……。」と、かかれているくらいではないでしょうか。 私が海軍の学校の生徒であったとき、 1:同期の生徒同士の間では「貴 様と俺(おれ)」は日常語であった。今で言えば「○○君と私」と言ったものであった。「俺」は同期の間でしか使われなかった。「僕」という言葉は同級生はもちろん上級生・下級生にも使われなかった。 2:また、上級生が下級生に「貴様たちの態度は云々」と、指導されたものであった。 ▼最近、大野 晋著『日本語の年輪』(新潮文庫)を拾い読みしていると、大体、日本語の尊敬の表現は、一番初めに尊敬あるいは謙遜の意味に使われるけれど、次には遠慮、親愛、親しみに使われるようになり、それから上品、丁寧というように広く一般化して行き、さらに進んでは、ばか丁寧になって行き、ばか丁寧から、軽んじて侮る、あるいは、尊大にかまえるという意味にに移って行くのが少なくない。
「おまえ」という言葉も初めは「お前さま」であって、自分の前にいる人をたいへん尊んで言った言葉であったわけだが、それが「おまえさん」になり、さらに「おまえ」になっていくと、親しみから、相手を次第に軽んずるような意味に移っていく。 ▼同期の間でのものは、大野さんによると、「親愛」に相当するものだとおもう。上級姓の使い方は、「侮る、あるいは尊大にかまえる意味」はなくて、下級生を指導するために「おい!君」と言った意味であったと思っている。 ▼最近のコトバでは 1:電子技術関係の専門用語、医療の用語などには理解もできないと同時についていけない。 2:英語を日本語化したカタカナが多用されている。それも英語の本当の意味をつかっているのでなくて、日本人だけに通用する。 3:カタカナ新語を作り、それがマスメディアでも使われている。 4:その上、変化が急速であり、何時の間にか消えてしまっているのが特徴ではないでしょうか。 「貴 様と俺」から、次々と連想させられる。 |
明日は明日の風が吹く
海軍兵学校三号生徒(一年生、十六歳)のときに訓練が辛くて落ち込んだときに指導先輩から「明日は明日の風が吹く。今日の事は忘れて明日に向かって頑張れ」と激励された。行動・気持ちのスマートな転換も訓えられた。一日の日課が終わり就寝前の一刻、上級生徒と親しく話し合えるが、翌日、平常の課業となれば先輩として毅然たる態度で後輩の指導に「けじめ」を示された。船が一度海に出れば、気象の変化に即応した最適判断と操船能力が要求される船乗りの心構えを日常生活の中でしつけられた。 ▼私共の悩みは現在の問題についての悩みもあるが、過去の事柄をくよくよ後悔したり、或いは将来のことを取り越し苦労している。過去・未来の縦系列の事項を現時点に横一列に並べて悩んでいるのが実状である。悩みごとの大部分は自分ではどうしようもないことが多い。対策を立てて行動しているのであれば解決されるだろうが実際は目前のことをおろそかにしてさきの事を考えている。今日のことは今日だけで十分だ。 ▼「アフター・マンテン・フィールド(注:海軍内の用語で「あとは野となれ山となれをユーモアをまじえて使われていた言葉)」。これもまた海軍で教えていた言葉だそうだ。 参考:Tomorrow is another day. Everyday is a brand new day. Tomorrow is another day.- This means that do not worry about tomorrow for it is another day and it has new things to bring.You do not need to worry because you cannot change a day that hasn't happened/occurred yet. For example: Do not worry. Tomorrow is another day. |
娑婆━貴様たちは娑婆気満々━
日常生活で娑婆という言葉を耳にすることはありません。 ある本で「娑婆」の言葉を読んでいて、海軍の学校に入校した当日のことを思い出しました。 ▼入校した当日、上級生から指示されて、着用していた中学校の帽子・制服・下着類・靴下にいたるすべてを小包にしまして、家に送らされました。 そして、支給された作業朊・シャツ・ズボン下・越中ふんどし・靴下・作業帽子を分隊の寝室のベッドの横で着かえて、軍服・制帽・短剣などは割り当てられた個人用のチェストにしまった。 ▼「ああ!これで、それまでの生活から変わった生活に入るのだ」と、感じました。同時に「自分はこれから兵学校の教育・訓練に落伍しないで、ついていけるのだろうか」との不安が胸に広がった。 ▼学校では、私どもがいままで生活していた社会の事を「娑婆」と呼ぶことを上級生から教えられた。 たとえば、機敏でない動作、だらしない歩き方などして、上級生に見られると、「待て!」と声をかけられると、その場で不動の姿勢で立つています。その前に来られて、「貴様の動作は何か、それで海軍兵学校の生徒になれるか」と指導されたものでした。 また、私の配属されていた分隊では、毎週・木曜日の夕刻、新入生一同は分隊の自習室に集められて、「今週の貴様たちを見ていると、娑婆気満々、見ておれない。いまから気合を入れる」と鉄拳を加えられたものでした。 ▼インタネットによると、今でも大本山や僧堂への修行に上山しますと、「早く娑婆っけを抜きなさい」と、怒鳴り付けられたりします。」とありました。 これらを比較しますと、当時の兵学校は禅寺とその生活・規律は似たところが多いと、何かの本で読んだことがあります。 ▼鉄拳制裁などは今では思いもよらないでしょう。学校で部活などで体罰を加ると、批判され、懲戒を受ける時代ですので。
▼「娑婆」という言葉の意味はどうなのか調べますと 《(梵)sahāの音写。忍土・堪忍土などと訳す》 1 仏語。釈迦が衆生(しゅじょう)を救い教化する、この世界。煩悩(ぼんのう)や苦しみの多いこの世。現世。娑婆世界。 2 刑務所・兵営などにいる人たちが、外の自由な世界をさしていう語。「―の空気」「―に出る」 3、【娑婆気】:現世に執着する心。世俗的な名誉や利益を求める心。しゃばき。しゃばっけ。「―を起こす」「―が抜けない」 ご参考までに。
2014.03.20
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